エッセイ

仮想世界の戦い について  −現代詩への提言−

 
1. 認知される世界とは

 数年前に、ワイア・アクションで一躍有名になった「マトリックス」という映画があっ た。ピストルから発射された弾丸がくっきりと弾道を見せながら飛んできて、主人公 たちはアクロバット的に体を反らせて弾を避けるという場面を、何かのコマーシャ ルで記憶している人も多いだろう。
 また、主人公たちは垂直の壁を走りながら、あるいは空中を飛びながら格闘をす る。現実世界ではあり得ない出来事だが、俳優の身体をワイアで吊り下げ、またコ ンピューター・グラフィックスとの合成を駆使して、そんな映像を目の前に提示してく れた。

 しかし、この映画のもっと非現実的なところは、この描かれた世界の設定自体に ある。マトリックスの世界では、実際の人間の肉体は無数に並んだ培養液のタンク の中に横たわっている。肉体は静止しており、脳細胞がプログラムでつくられた仮 想現実を感じているだけである。
  そして、これらの格闘は、脳細胞の思考と、コンピューターの作り出したプログラ ムとで行われている。そうした、形而上的な争いを、肉体を借りた具体的な映像と して具現しているのである。 

 ここには物事の認知の問題がある。
 私たちが認知するということは、すなわち脳細胞がそのように認知したということ に他ならない。肉体の各部分は自らは認知する能力を持たないので、脳細胞に情 報を伝達し、脳細胞がその情報を認知することによって初めて物事が認知され る。

 たとえば、痛覚神経麻痺の人では痛みという情報が脳細胞に伝達されないため に、痛みという感覚は存在しない。そのために肉体的な損傷はその人にとっては 自覚的には何の苦痛にもならない。ただ、自らの肉体の損傷に気づかないため に、知らない間に死を招くような失血を生じている可能性があるばかりである。
 ある人は火傷をしていても痛みを感じないために気がつかない。自分の手指が 黒こげになっているのを見て初めて自分が火傷を負ったことに気づくのだ。

 このように、脳細胞に認知されない限り肉体としての認知もない。網膜に映った 物体も、視神経を通して脳細胞が認知しない限り、見えてはいないのだ。それまで は、その人にとってその物体は存在していないに等しい。
 昔からくり返し言われているように、認知されていないものは存在していない。こ んな恐ろしいことがあるだろうか。

 逆が必ずしも真ではないが、このことを逆に言えば、認知されたものは存在す る!ということになる。これがマトリックスの世界であるだろう。培養液のタンクの中 に浮遊する脳細胞が認知している限り、電気信号によって認知された世界がその 人の現実世界となる。

 私たちが言葉によって創りあげる世界も現実には存在しない。その世界は言葉 の中にだけ存在しているのであり、たとえ現実を描写しようとしたところで、言葉の 中で表された世界はぞっとするほど現実は異なったものになる。

  たとえば、絵を描く場合、特に具象画を描く場合を考えて見る。どれほど精密に 絵を描いても、それは対象物にはなり得ない。なによりも立体的であるべきはずの 対象物は平面的なものになっている。
 したがって、絵を描くと言う行爲は、現実のものとは異なる全く新たな価値のもの をそこに見いだしていることになる。現実のものとは異なるものの構築、それが絵 画の価値であると考えることができる。

 言葉によって構築される世界もまた、現実とは異なる。
 いくら現実を写し取ろうとしてもそれはむなしい努力に終わる。現実に向けて言葉 を発しようとしても、その言葉は決して言葉から出ようとはしない。
 私が「世界にミサイルを発射した」と書いても、現実ではミサイルどころか野球ボ ールすら飛ばない。ミサイルが飛ぶのは作品の中でだけである。では、そのような 世界における価値とはなんであろうか。

2.記憶されているものは

 一方、認知という観点からは、記憶というものもまた大きな主題となる。
 記憶は過去の認知そのものであり、そもそも現在の実態をともなわないのである から、脳細胞の認識がすべてである。ある個人の記憶が正しいという保証は誰に も不可能である。

 そんな意味で、フィリップ・K・ディックが小説で描く世界も魅力的である。
 彼の作品では、記憶の持つ信憑性が大きな主題となることが多い。たとえば、植 え付けられた偽物の記憶、それによって生じる本物の過去と偽物の過去の問題な ど。

 A.シュワルツネッガー主演のSF映画「トータル・リコール」の原作となった「追憶売 ります」もそんなテーマを扱った作品である。
 平凡な会社員である主人公は、一般的な人が夢見る火星旅行に行ってきたとい う架空の記憶を植え付けてくれる旅行会社を訪れる。記憶さえ植え付けてもらえ ば、火星旅行をしてきたという思いでが自分のものになると言うわけだ。
 ところが、平凡な会社員であるはずの主人公の記憶は、実はあとから植え付け られた偽物の記憶であり、本当は火星に潜入してきた秘密工作員だったのだ、と いうことに気づかされる。
 主人公は二つの記憶の間で揺れ動く。いったい、どちらの記憶が本当なのか。

 たとえば、自分の息子が誰であるか、わからなくなった老人性痴呆(もうじき、そ の名も認知症という疾患名に変更されるかもしれない)の八十歳の老婆について 考えてみる。
 彼女にとっては、自分の息子がいない世界が真実になっている。自分の息子が 認知できないと言うことは、息子に関する記憶が欠落しているわけだ。それでは、 子供を育てることに関わったその老婆の人生の時間はどこに消滅したというので あろうか。息子が消滅したその空白期間を埋めているものは何であろうか。

 そういった疑問も生じてくるが、それにもまして、息子がいない老婆の世界と、そ の老婆の息子の世界は、同じ現実世界でありながらずれているのは奇妙なこと だ。
 現実には母と息子でありながら、同じ事柄に対する認識が異なっているためだ。
 しかし、すでに痴呆におちいっている老婆に認識を改めさせることは誰にも不可 能であろう。息子がいないという彼女の世界を理解してやらない限り、老婆はいつ までも孤独であり、阻害されているのだ。
 それでは、息子にとって、自分の存在がない世界へ入っていくことは可能であろ うか。それは辛い、見せかけだけのことでなる。自分が息子として存在する限り、 老婆の世界は成立しないのであるから。

 このように、ある事象の存在について異なる記憶がある場合、その人の過去は どちらにあるのだろうか。
 当人は忘れているのだが事象はあったのだと周囲の人が証言する方の世界な のか、それとも、そんな事象はなかったと、当人が忘れてしまった方の世界なの か。
 過去というものが、その人にとっては記憶とともにあるのだとするならば、記憶さ れていない過去など、その人にとっては何の意味もないことになる。しかし、そう間 単に言いきってしまってよいのだろうか。忘れられた過去によって支えられている 世界もあるかもしれないのだ。

3.仮想世界では

 さて、認知されたものが存在するとして、ある事象が、あるいは、ある状況が認知 された場合に、いったいそれは現実なのだろうか、それとも仮想なのだろうか。そ のいずれであると誰が判別できるのだろうか。
 認知している本人にはそれしか存在しないのだから、フィリップ・K・ディックの小 説にみられるように、当人がそれを判断することは不可能であろう。

 それに加えて、そもそも何が現実なのか、と言う疑問も生じてくる。
 仮想とはどこが異なるのであろうか。最もわかりやすいのは、肉体を伴って存在 しているのが現実であり、肉体のないところに存在しているのが仮想であると定義 することである。しかし、本当だろうか。

 肉体というものは常に意識を裏切る。肉体の能力というものが常に持ち主を裏切 るからだ。
 それならば、肉体を伴った世界というものの価値はどれほどのものだろうか。脳 細胞が満足すれば、肉体は忘れられてもかまわないであろうか。ここで、諾、と答 える勇気が私にあるだろうか。

 しかし、詩を書くからには、少なくともこの辺りのことは考え続けなくてはならない だろう。
 だから、せめて現実世界での価値にとらわれるようなことは止めておきたい。どう せ詩を書くからには、現実世界では意味を持たないような、仮想世界でしか通用し ないような世界の構築をめざなくては何の意味があろうか。
 現実世界でミサイルを発射したいのであれば、詩を書くのではなくて、まずはミサ イルの作り方を学ばなければならない。当然のことだ。

 肉体の存在する現実世界と、肉体とはかけ離れた異所に存在し始める仮想世 界。こうして、いかに現実世界を超越した存在として仮想世界を存在させうるか、こ れが大きな命題となる。
 そして、これこそが真の意味での仮想世界の戦いである。
 それは、もはや仮想世界の中の戦いではなく、仮想世界の存在の意味を問うと いう戦いであり、もちろん、戦っている相手は現実世界である。
 
  最初にふれた「マトリックス」の世界では、プログラムと戦っている脳細胞の思考 が負けると、脳によって支配されている実際の肉体も傷ついてしまうということにな っている。いわば、仮想世界の結果が現実の肉体の状態に反映されるわけであ る。
 見方によっては、現実世界が仮想世界に隷属しているようにもとれる設定であ る。まあ、私たちの肉体が現実世界に存在しているのであるから、こんなことはあ りえないわけだが、考えようによっては究極の仮想世界のあり方でもあるだろう。 私たちの創りあげる仮想世界はそのような力を持ちえるだろうか。

 フィリップ・K・ディックの小説に「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」というタイト ルのものがあった。
 詩を書こうとしている私たちは、いつまで仮想世界の夢を見ていることができるの だろうか。
 そして、常にもう一度、現実世界へ戻ってくるのだろうか。
 それとも、いつの日にかは風が吹きすさぶ仮想都市で・・・。

                                    「詩界」246号より





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