カテゴリー「皇室典範問題」の32件の記事

2008/05/18

感想 根本猛「女性天皇と法の下の平等に関する小論」

 根本猛という憲法学者の最大の業績は鉛の被曝を避けるための胎児保護ポリシー(間接的母性保護)を性差別と断定し違法としたジョンソンコントロールズ判決の論評を書いた数少ない学者だということだと思います。当ブログでも引用させていいだいてます。「反女性・女性敵視主義宣言(2)」http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_f099.html我が国でも女性差別問題は関心が高いのに、ニューヨークタイムズが賞賛する重要判決が全くといっていいほど無視されている。母性保護の否定がフェミニストの意向にそわない判決だからですが。
 ただ私はこの人の思想傾向には反対します。労働基本権が人権だなどとばかなことを言ってますから。これです。http://jinken.pref.shizuoka.jp/meeting/nemoto2.htm大学の労働組合の書記長を務め、20年間で100万円の組合費を払ってますとか書かれています。
 それでも比較的まともな学者であるということは「<論説>女性天皇と法の下の平等に関する小論」 『静岡大学法政研究』3巻3・4号1999年http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/handle/10297/1344(フルテキスト)の結論が「男系主義を違憲とする根拠として憲法14条の法の下の平等は不適切」としていることである。
 論旨は、違憲論者はことさら男系主義を問題視するが、長系主義も生まれつきの属性による差別であり、平等な相続権を認める新民法の原則にも反している。
男系主義が違憲なら長系優先も違憲だ。長幼の序はそれ自体差別思想だから。皇位継承を平等原則と合致させるとすると、皇位継承の法定自体が不可能というもの。
 ここから私の意見だが、選定相続なら平等なのだろうか。これは政治的に決定されることから、平等とはいえないだろう。有資格者のなかから国民投票で選出するか、もっとも平等なのはくじ引きによる選出だろう。
 平等原則にこだわるなら、くじ引きで、男女長幼直系傍系の差別をいっさいなくすべきであるということになる。むろん私はこういう考え方にも反対する。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/09/23

コメントについて

「乙武さんのページに書き込だら」

 いま敵地に乗り込む度胸も元気もない。カッとなって口が滑って怪我しそう。

「貴族制度(后供給集団)や側室制度なき王制はいずれ消滅」
 
 貴族制度の復活 
  
 中川八洋教授の『皇統断絶』ビジネス社2005年161頁以下で、旧皇族だけでなく、皇后を輩出しうる五摂家、清華家九家などを早急に復活させるべきだ。さらに大臣家、羽林家、名家も復活させて公家の公的制度により皇室の藩屏を形成すべき。日本文化の再生のためにも必要と述べておられるが、私も賛成です。中川教授によると憲法14条を改正しなくても可能なことだということです。
 
 
 側室制度の復活

 椿葉記の趣意から伏見宮系旧皇族の復活のほうが最優先と考えますが、側室制度も賛成ですよ。キリスト教を公定イデオロギーにしていない以上、重婚を否定する西洋文明への迎合という以外に単婚制にこだわる理由はない。いろいろなバリエーションが考えられますが、後宮女官が側妾となるケースは古くからあリ、特に室町・戦国時代は天皇に正配なく皇后や女御が立てられなくなったから、それで皇位継承者を確保した。それも伝統だし悪くない。皇后不冊立でもかまわないと思ってます。もっとも公的公家制度が復活すれば、令制の夫人、嬪、平安時代の女御、更衣の制、御息所などの称号による配偶者としてのキサキを復活させやすくよろしいのではないかと。
 帝王が多くのキサキを持つ理由はたんに内寵を好むというだけでなく、複数の有力貴族と姻戚関係をもって政権基盤を安定させる。突出した外戚勢力が形成されないよう政治的バランスをとる時代もあったわけです。今日的な意味では元高級官僚のような政治力を有する外戚の策動を封じ、皇室の伝統継承への悪影響を回避するために複数の妃でバランスをとってもよいのではないかとも思います。后妃の父が隠退しているか政治的なポジションにないケースは問題ないですが、現実に報道を読む限り外戚の影響が排除されてないから。
 ただ、側室制度がないと「いずれ消滅」とは思ってない。フランス王権が単婚男系主義でけっこう永く続いた。宮家を5~6家復活させればそう簡単に皇位継承者は枯渇しないと思う。

川西正彦

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/09/17

くどいぞ愛子内親王擁立派(2)

 乙武洋匡ブログにコメント

 炎上騒ぎになっている乙武洋匡ブログ9月7日から引用します。乙武洋匡氏は女系派というわけではありませんが、本題に入る前にとりあげたいと思います。

「世間は昨日から「めでたい、めでたい」と騒いでるけど…… ひとつの命が誕生したことがめでたいの?それとも誕生した命が「男児だったから」めでたいの? 」

「‥‥少なからず「男の子でよかった」という風潮が感じられました。そのことに、僕は抵抗を感じてしまったのです。男であろうが、女であろうが、皇室であろうが、民間人であろうが、命の重さは等しく、尊ばれるもの。そう思っていた僕には、内親王がご誕生した時よりもはるかに舞い上がった今回の慶事ムードに違和感を覚えてしまったのです。‥‥‥」

 せっかく著名人からの問いかけですからコメントしておきたいです。一般論としていえば、男でも女でも出産はめでたく、仮に女児であってもないがしろにされることはありえない。しかし、性別に強い関心をもたれるのは当然のことでこの出産は皇位継承という国家最重大事にかかわりますから、男子が誕生された以上よりめでたい慶事である。普通の人は女子だったらがっかりとか残念とか内心では思います。しかし皇室の慶事だから抑制が働いて表向きにはめでたいと言って本心は口に出さない。敬宮愛子さま誕生のときがそうでした。内親王誕生なら冷淡な反応になり親王誕生なら舞い上がった慶事ムードになってあたりまえじゃないですか。乙武氏に訊きますが「男の子でよかった」と言っちゃいけないの。それが常識だとでも思ってるの。
 このブログの記事ではそこまで言ってないが、「男の子でよかった」は偏向思想で性差別表現でよくない。時代の進歩でポリティカル・コレクトネスとして「男の子でよかった」を禁句にしたい。さらにすすんで人間は生まれながらにして平等とか、憲法14条のような価値観に反するので、こういう思想を抹殺したいという含意があるとすればかなり問題です。もしそうだとすると強硬に反対します。私はポリティカル・コレクトネスによる差別的表現・集団誹謗的表現規制には明確に反対です。ウィキペディア「呂后」では注意深く「呂后は戚氏の両手両足を切り落とし目玉をくりぬき薬で声をつぶし、その後便所に置き人彘(人豚)と呼ばせたと史書には書かれる」と書かれてますが、歴史的事件の記述で特定個人を嘲っているわけでもないのに「唖にして盲にして聾にして」と書くと障害者差別と勝手にラベリングして刺しちゃうぞなんていう社会になったらむしろ怖いですね。同じく「女でも男でも喜ばしい」と言わないとジェンダーハラスメントで刺しちゃうぞという社会がよっぽど怖いです。そこまで女性に卑屈になる必要もないし、女が男性と等価値などというのが許せない思想です。男性優位でいいんですよ。

 昔から皇女誕生では冷淡、がっかりするのが普通

川西正彦

 そこで、皇女誕生時の宮廷の反応がどうだったを検証します。ここからが本題ですが、結論を先を言います。皇女誕生では、心苦しくもあり周囲もがっかりするか冷淡なのが普通です。昔からそうだった。それでいいんですよ。くだらない女性尊重フェミニズムのために、男子出産のプレッシャーから解放するために女系推進などという、高橋紘その他の女系論者の主張に与する必要など全くないです。
 
 摂政藤原道長女で天皇もしくは東宮の后妃となった四方所生の皇子女は次のようになってます。 

 彰子(一条后)
 後一条天皇、後朱雀天皇

 妍子(三条后)
 禎子内親王(後朱雀后、後三条生母)
 

 盛子(三条妃)委細不詳

 威子(後一条后)
 章子内親王(後冷泉后)、馨子内親王(斎院・後三条后)
 
 嬉子(敦良親王のち後朱雀天皇の東宮御息所、贈皇太后)
 後冷泉天皇

1 禎子内親王の誕生

 三条天皇の中宮藤原妍子の出産について『小右記』長和二年七月七日条によると「小選資平帰云フ、相府(道長)已ニ卿相・宮殿ノ人等ニ見エ給ハズ、不悦ノ気色甚ダ露ナリト。女ヲ産マシメ給フニ依リテカ」とあり、左大臣道長はひどく機嫌が悪かったようだ。もしここで皇子誕生となれば、一帝二妻后といっても正后といえるのは中宮藤原妍子だから皇后藤原娍子(大納言済時女)所生の敦明親王以下四人の親王を押さえて次の皇太子候補の筆頭となることができたはずだ。それゆえに機嫌が悪いのである。
 一方『栄華物語』は「‥‥世になくめでたき事なるに、ただ「みこ何か」という事といふ事聞え給はぬは、女におはしますにやと見えたり。殿(道長)の御前いと口惜しくおぼしめせど、「さはれ、これをはじめたる御事ならばこそあらめ、又もおのづから」とおぼしめすに、これも悪からずおぼしめされて‥‥」と記されている。
 世にたぐいなくめでたいことなのに「御子はどちらか」ということが人の口にのぼらないのは、皇女であると思われた。道長は大層残念にお思いであるが、「ままよ。これが一家にとってはじめての御産というならともかく、またそのうち皇子の生まれることもあるだろう」と思われるとこれも悪いことではない‥‥。
『栄華物語』は摂関家寄りの記述で、道長を礼賛しても悪口はいわないので、すでに長女の皇太后藤原彰子が皇太子敦成親王と敦良親王の母であることもあり、またそのうちという穏やかな表現になっている。
 なお中宮藤原妍子は寛弘元年十一月尚侍、寛弘七年正月、従二位、同年二月東宮に入侍17歳、同八年八月女御、同九年二月十四日立后(中宮)、寛仁二年皇太后、万寿四年九月崩御34歳。所生の皇子女は禎子内親王のみ。立后の背景については(註1)のとおり

2 親仁親王(後冷泉天皇)の誕生
 
 万寿二年八月敦良親王の東宮御息所藤原嬉子の出産について『栄華物語』は「‥‥まづ「なにぞ」と、内にも外にもゆかしうおぼす程に、男みこにぞおはしましける。その程、殿(道長)御けしきよりはじめ、そこらの内の人思ひたる有様、ただ我身一つの喜びに思ひたる。御かげにもかくれ奉るべきその殿のうちの人、ともかくもおぼし思はん、ことわりいみじ。これは何のものの数にもあらぬあやしの賤の男さへ、笑みまけ嬉しげに思ひたるさま、いへばおろかに。‥‥」
 皇子誕生当日、大殿道長以下喜びを爆発させているが、藤原嬉子は産後の肥立ちが悪く出産の二日後に容態が急変し薨逝された。19歳であった。道長は涙が枯れて前後不覚の体になったという。一昨日は世間をあげて大騒ぎをしてめでたいことだと帝までお聞きになって羨しそうにお思いだったのに、今日は予想もしないような夢のような出来事と『栄華物語』は記している。

3 章子内親王の誕生

 万寿三年十月後一条天皇の中宮藤原威子の出産について『栄華物語』は「‥‥殿(道長)の御前、「平かにおはしますよりほかの事なし。物のみ恐ろしかりつるに、命延びぬる心地こそすれ」とて、いと嬉しげにおぼしめしたり。内にも聞しめして、「同じうは」とはいかでかおぼしめさざらん。されど平におはしますを、返す返すも聞えさせ給て御剣もて参りたり。さきざきは女宮には、御剣は持て参らざりけれど、三条院の御時、一品宮の生まれさらせ給へりしよぞかかめる。内の女房などの「あな口惜し」など申すを聞しめして「こは何事ぞ。平かに給へるこそ限なき事あれ。女といふも烏滸の事なりや。昔かしこき帝帝、皆女帝立て給はずはこそあらめ」と宣はするに、かしこまりて候ふべし‥‥」
 道長は皇女にもかかわらず安産でこれ以上の喜びはないとしている。帝にもお聞きになられて「同じことなら皇子であってほしかった」とはどうして思し召されぬことがあろうか。しかし御無事でいらっしゃることを、繰り返し仰せなさって、御剣ををお届けになられた。(中略)内の女房たちが「ああ残念」などと申すのをお聞きになられて、帝は「何という事を言うか。無事にお産をなさったことでもこの上ないことだ。女で残念というのも笑うに堪えたことだ。昔の聖帝方が、皆女帝をお立てなさらなかったならばともかくだが」とおっしゃるにつけて、恐れつつしんでひかえているだろう。

 すでに弟の東宮敦良親王に王子が誕生していることもあって、内裏女房たちは「あな口惜し」女でああ残念などと申していた。後一条天皇は九歳も年長の后や外祖父に気を遣っておられたのか、安産というだけでこのうえない。女で残念だなどというものではないと女房たちをたしなめている。

4 馨子内親王の誕生

 『小右記』長元二年二月一日に「只今中宮御産成リ畢ンヌ。其ノ後資房来タリ云フ、御産遂に畢ヌ、女子テヘリ、宮人ノ気色太(はなは)ダ以テ冷淡ト」とある。
 中宮藤原威子の第二子も皇女だった。宮廷でははなはだ冷淡な反応だったと記されている。『栄華物語』には馨子内親王誕生時の記事はなく、姉の章子内親王の着袴の記事に「中宮(威子)には、女宮が二人おはしまして、男宮のおはましまさぬことを口惜しう、内(後一条)も宮(威子)にも殿ばらもおぼしめす」とあり、天皇も中宮も女宮二人で残念、心苦しく思われていたことが記されている。藤原威子は皇子出生をみることなく長元九年九月崩御38歳。天然痘の流行による。

5  祐子内親王の誕生
 

 長暦二年四月廿一日、後朱雀天皇の中宮藤原嫄子(関白頼通養女、実は敦康親王女嫄子女王)の第一子出産について『栄華物語』は「‥‥女宮ぞ生れさせ給へる。口惜しとおぼせしめせど、御乳母さるべき人人数多参る。程なく入らせ給ひぬ。姫宮も入らせ給ひぬれば、内(後朱雀)には、さきざきの宮達のよそおはしますに、珍しくうつくしと見奉らせ給ふ」とあり、やはり残念とお思いなさるが、帝におかれては、すでに親仁親王、尊仁親王の出生をみている余裕からか姫宮を見て可愛いがったとのことである。
 中宮嫄子は寵愛され長暦三年八月にも第二子女子を出産されたが、九日後に崩御になられ、養父関白頼通が期待していた皇子出生をみることはできなかった。

 以上、数例をみてきたが、昔から皇女誕生では冷淡な反応、がっかりしていたんですよ。昔から后妃にとって皇子出生がないことは心苦いことではあった。それでいいんじゃないですか。むしろ無理に女系容認にして男子が出生しても素直に喜べない。女性尊重フェミニズムの公定イデオロギー化のほうがよっぽど怖い社会になりますよ。そういうと女系派はスウェーデンはオランダはベルギーはとか言うんだろ。なんで大国の日本が格下の外国の制度を模倣しなきゃいけないのさ。

(註1)藤原妍子立后の背景

 三条天皇(居貞親王)の東宮時代の最初のキサキは外祖父兼家の三女尚侍藤原綏子で永延元年東宮に入侍し(太子12歳、綏子15歳)寵幸渥かったが、後に源頼定との密通事件により東宮を去った。
 第二のキサキが藤原娍子である。正暦二年、太子は宮中に出入していた夜居の僧から世間の話を聞かれていたが、談たまたま箏のことに及んで、村上天皇がかつて箏を藤原済時に伝えられ、済時の女娍子が父よりこれを伝授して、秘曲を究めているとのことを聞かれた太子の意は動き、志を通じせしめた。栄達の道が閉ざされていた如くのようだった大納言済時は東宮の旨を受けて大いに喜び、命を奉じて娍子を東宮に納れた。これは全く皇太子の発意による結婚で、皇太子が勝手に結婚した政治色が希薄な結婚ともいえる。時に太子16歳、娍子19歳。娍子は宣耀殿に住し寵を得てときめいた。
 娍子の父大納言済時は関白忠平の孫だが、摂関を狙える立場ではなかった。娍子の祖父が安和の変の首謀者とみなされる師尹である。師尹は源高明を追い落として左大臣に昇進するものの摂関を継承することがなく、摂関継承は小野宮流か九条流になったためである。娍子の結婚の四年後、長徳元年済時は流行の疱瘡により薨去され娍子は後ろ楯を失う一方、同年関白道隆は二女原子(中姫君)を太子の宮に入れた。時に太子20歳、原子15歳。娍子は関白娘の威光に押され気味であったが、原子は後に頓死する。娍子にとっては運が良かったといえる。
 しかし寛弘七年、伊周が薨じて道長が権勢を独占したため、道長二女妍子が東宮に入った。太子36歳、妍子17歳。寛弘八年三条天皇が即位して、天皇は既に敦明親王以下6人の皇子女をもうけていた娍子立后を左大臣道長に打診したが、露骨に妨害されたうえ、妍子を中宮に冊立した。それでは収拾がつかなくなったので、一条朝の例に倣い一帝二妻后として娍子も皇后に立てることとなった。しかしそれでも道長はいやがらせを行った。立后宣命から「しりへの政」等の皇后の政治的権能にかかわる文句を削除させただけでなく、娍子立后儀当日に、中宮妍子の立后後初の入内の儀式をぶつけ、ほとんどの公卿は天皇の召しにもかかわらず娍子立后儀に参入しなかった。道長の東三条殿に候じていた公卿は、内裏からの立后儀への参入を促す使に対し「手を打ち同音に咲ひ」嘲笑して憚らなかったという。
 しかし、中込律子によると娍子立后は従来いわれていた天皇の同情によるものではないという。父済時の不在や生前の官位から当時の通念では娍子は立后できる立場になかった。にもかかわらず立后というのは天皇の権力意思によるものであり、娍子は皇太子時代に御自らの発意で結婚した妃だったしこだわったのだろう。娍子の最大の後ろ楯が天皇であったことを示している。結局天皇の皇后決定を道長は直接制止できなかったので、間接的な妨害で現実の力関係を示威したにすぎないという。また従来のイメージでは道長主導で受領等の人事がなされていたようにみられていたが、決してそうではなく、娍子の兄弟の為任が大国の伊予守になっているほか5人は天皇の意向による人事であり、その他の人事でも天皇と左大臣内覧道長とで鍔迫り合いがなされていた。そうすると三条朝の政治はある意味で律令国家の天皇と太政官の二極構造が浮き彫りになったともいえるだろう。
 藤原妍子の第一子が皇女であったことに、道長はひどく機嫌を悪くした。もっとも皇女でもそれなりの意味があったという見方もある。道長の父摂政兼家は三条天皇に多くの所領を献上していて、天皇は経済的には恵まれていた。道長はいやらしくもこれを摂関家に取り返そうとしたらしい。出所を明示できないが読んだ記憶がある。実際これらの所領群は、三条天皇-藤原妍子-禎子内親王と伝領され、実際には道長の管領となった。そういう意味では皇女であってもこの出生は摂関家にとって有益だったといえるのである。
 以上縷々述べてはきたが、私がいいたいことは藤原娍子のようにたとえ四人の親王があって、所生の敦明親王が立太子したにもかわらず、摂関家の圧力で皇太子を辞退せざるをえなくなるケースもあった。皇子が誕生せず心苦しい方も多くあった。御産のため早世された后妃もある。藤原娍子のようにいやがらせを受けたり、政治的な後ろ楯の弱さに悩むこともある。まさに小泉首相がいうように人生いろいろなのである。だから、特定の后妃に感情移入して同情するのもどうかと思う。ましてや、男子出産のプレッシャーから解放するために女系推進などもってのほかだということ。

主要引用参考文献
松村博司『栄花物語全注釈三』角川書店1972 191頁
松村博司『栄花物語全注釈五』角川書店1975 193頁以下、413頁以下
松村博司『栄花物語全注釈六』角川書店1976 201頁以下、427頁以下
但し口語訳は正確に引用していない。
龍粛『平安時代-爛熟期の文化の様相と治世の動向 』春秋社1962
223頁以下「皇太子成婚の歴史」
中込律子「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』清文堂出版(大阪)2005

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006/09/10

くどいぞ愛子内親王擁立派(1)

高橋紘は親王誕生でも愛子さま

 産経(9月7日-インターネットでは6日)の記事です。
女系賛成を主張してきた高橋紘静岡福祉大教授の話 「男の子がお生まれになったが、皇位継承が安定的でない実態は変わらない。有識者会議があれだけエネルギーをかけて結論を出した以上、皇室典範を改正して、皇位継承は男女を問わず第1子優先とし、女系も皇統と認めるべきだ。つまり愛子さまを皇位継承者にすべきだ。そうでないと、将来、今回のお子さまのお妃も雅子さまのように『男の子を産まなければいけない』というプレッシャーに悩まされることになる」
 そんなことをやっていいとでも思っているのか。新宮さまが誕生したその日から、事実上、皇位継承権剥奪せよというのはひどすぎる。高橋紘はあっちこっちのテレビ番組に出て女系を力説していたらしいが、新宮さまの順位を3位から6位におとすというのは、部長を課長に降格させるのとわけがちがう。
 新宮さまは、今後、東宮家に親王が誕生されないかぎり、確実に皇位継承者となる立場にあります。しかし愛子内親王の即位だと限りなく可能性はなくなる。おまけに秋篠宮の継承者ですらなくなり、姉宮二方の下風に立つことになる。ふんだりけったりです。大きな怨を残す結果になるというか、そういうことがあって絶対にならないです。
 結論を先に述べます。前例からみて新宮さまの皇位継承の正統性が100だとすると、愛子内親王はゼロ。皇位を継承する論理性は全くありません。
 
川西正彦(9月10日)

 前例がないからいくらわめいてももうダメです。容認できないはずです。そもそも朝廷の運営というのは局務家・官務家など実務的官人の前例勘申が政策審議の前提になっていたわけです。前例を重視しましょう。
 親王が誕生する前の段階でいえば、嫡嫡継承ないし直系継承で皇子がなく血統的袋小路になって非婚女帝が即位した前例として、奈良時代に聖武天皇が陸奥産金の報せに狂喜して衝動的に出家され国政を投げ出した状況で、孝謙女帝が即位した前例がありました。
 愛子内親王のポジションを孝謙女帝のケースに比擬できたんです。この前例から女帝即位の可能性を模索する考え方はありえたのです。だから私は2005年9月19日前後のブログで孝謙女帝即位の変則性・特異性とか、史上唯一の阿倍内親王の立太子はきわめて異例、「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識とか、草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど縷々述べて、孝謙女帝の前例は適切でないことを強調しました。そしてなによりも生涯非婚内親王でなければ前例に反すると述べてきた。切羽詰まった1月25日になると、愛子内親王の将来に比擬される日本の称徳女帝は皇親の殺戮と追放に関してローマ帝国のネロ帝、大唐帝国の則天武后と並び称される存在で、崩御の日まで強大な権力をもった手のつけられぬ女帝であったこと。つまり孝謙=称徳女帝の治世において天武系皇親は廃太子道祖王、黄文王が奈良麻呂の変で杖死(拷問で殴り殺し)。塩焼王(臣籍降下して中納言氷上真人塩焼)は仲麻呂の乱で今帝に偽立されたため斬殺。淡路廃帝の兄弟である船親王隠岐配流、池田親王土佐配流、淡路廃帝の後背勢力である舎人親王系皇親で健在だった30名中29名が道鏡政府の下に配流、臣籍降下等の処断で失脚。仲麻呂謀反を密告し淳仁天皇の在所を包囲するなどの功績により、功田五十町を賜った参議和気王も「男女」(女帝と道鏡)の死を祈願した謀反が発覚して死を賜った(伊豆配流途中絞め殺される)。塩焼王の妻で聖武皇女不破内親王(称徳女帝の異母妹)が巫蠱によって厨真人厨女という姓名に貶められ京外追放。その一味の忍坂女王、石田女王、河内女王も追放されたことを述べ、とにかくイメージを悪くしようと躍起になっていましたが、その状況は変わりました。
 皇孫殿下が誕生したので皇統は血統的袋小路ではなくなった。従って、愛子内親王を孝謙女帝に比擬することができなくなりました。
 
毎日記事「血筋重んじ愛子さま」という三段抜きの見出し-そんなばかなことはない

 親王誕生により現在の愛子内親王のポジションに類似した前例といえるのは、

朱雀皇女昌子内親王(冷泉后)、

後一条皇女章子内親王(後冷泉后・院号宣下により二条院)、

後一条皇女馨子内親王(後三条后)、

後光明皇女孝子内親王(礼成門院)

ということになりました。
 下記のように 弟宮に皇統が移ったケース、兄弟で皇位継承があり、弟の皇子に皇位が継承された事例はかなり多数ありますが、そのなかでも、兄に皇子がなく皇女だけだったケースです。いずれのケースも内親王は厚遇されており、昌子内親王、章子内親王、馨子内親王は中宮(后位)に立てられていますが、皇位継承候補者では全くありません。ですから、前例から愛子内親王が皇后に立てられる可能性がありますが、皇位継承候補とする論理性など全くありません。
 
毎日新聞9月6日夕刊に街の声として、名古屋市の29歳の女性の声「血筋重んじ愛子さま」というのが三段抜きの見出しで踊っていて、ばかなこというなよと怒り心頭にきましたが、皇太子も秋篠宮も后腹で血筋は同じ、もしも皇太子が秋篠宮より長命だった場合は、新宮さまが即位した時点で秋篠宮は追尊天皇か追尊太上天皇になるでしょうし、紀子さまが皇后にのぼせられる前に薨じたというケースでも新宮さまが即位した時点で、紀子さまは贈皇太后となるでしょうから、血筋、后腹という点でも同じになりますよ。小和田家と川島家の家格を云々することは憚れるほどのことではないが私はよくわからない、同格とみてよいでしょう。従って正確には血筋ではなく家筋、嫡流という意味ではないかと思いますが大きな間違いです。
 例えば後光明皇女孝子内親王は、唯御一方の皇女で一品に叙せられ、准三宮より女院宣下され厚遇されましたが、後光明天皇(後水尾天皇の第4皇子)に皇子がないため、後水尾天皇の第19皇子の識仁を養子に定め、その皇嗣に定められました。霊元天皇ですが、次の世代で皇統は霊元皇子の東山天皇ですから、弟宮に皇統が移ったケースです。
 このケースでは皇太子を後光明天皇、秋篠宮を霊元天皇、新宮さまを東山天皇に類比することができます。
 
 ですから毎日新聞が名古屋市の女性の「血筋重んじ愛子さま」という声を三段抜きにして共感するというならと、霊元天皇や東山天皇でなく孝子内親王が皇位を継承すべきだった。冷泉天皇でなく昌子内親王が、後冷泉天皇ではなく章子内親王が、後三条天皇でなく馨子内親王が即位すべきだったという理屈を示してください。そんなばかなことはないわけです。絶対にありえません。ですから毎日の見出しにある「血筋重んじ愛子さま」は全く論理性はありません。

弟宮に皇統が移った前例(10世紀以後)

第1例 A朱雀-B村上-C冷泉
第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉
第3例 A後冷泉-B後三条-C白河
第4例 A崇徳-近衛-B後白河-C二条
第5例 A安徳-B後鳥羽-C土御門
第6例 A土御門-B順徳-C仲恭
第7例 A後深草-B亀山-C後宇多
第8例 A後二条-B後醍醐-C後村上
第9例 A崇光-B後光厳-C後円融
第10例 A後光明-後西-B霊元-C東山
(参考)A花山-B三条-C敦明親王(小一条)

*Aが兄、Bが弟、Cが弟の皇子です

  兄弟で皇位が継承され、兄には皇子がなかった、もしくは皇子があっても弟の皇子が皇位を継承したケースは多くの例がありますが、ここでは検討を10世紀以後にしぼりたいと思います。というのは壬申の乱や薬子の変に言及するとかえって誤解を招く。兄に皇子があるにもかかわらず皇統が弟の皇子にいったケースは、皇位継承問題で紛糾しています。しかし兄に皇子がなく、皇女だけだった場合は、紛糾の要因にはなっていません。
Aを皇太子、Bを秋篠宮、Cを新宮さまに類比することができます。もちろん今後、東宮家に親王誕生の可能性は残っています。また皇太子が秋篠宮より長命だった場合は秋篠宮は不即位で追尊天皇もしくは追尊太上天皇になるという可能性もありますが、ここでは順当に皇太子-秋篠宮-新宮さまを想定したいと思います。

  第1例 A朱雀-B村上-C冷泉

  醍醐天皇の皇太子には関白基経女、女御藤原穏子所生の保明親王(文献彦太子)が立ったが、21歳で薨去、この時点で女御藤原穏子は39歳で妊娠していたけれども性別は不明である。そこで保明親王の王子で、左大臣時平女藤原仁善子所生の慶頼王2歳の立皇太孫となった。七人の醍醐皇子をさしおいての立皇太孫である。次妻格の女御源和子(光孝皇女-醍醐の伯母)には三人も皇子があった。このため、皇太孫の祖母であり母方でも叔母でもある藤原穏子を皇后に立てて正当化が図られたが、藤原氏の権勢から順当なものだったといえる。
寛明親王(朱雀天皇)は母皇后藤原穏子、醍醐天皇の第11皇子で、慶頼王立皇太孫の年に誕生されたが、 慶頼王が5歳で薨去されたため、三歳で皇太子になった。相次ぐ皇太子、皇太孫の死は菅原道真の祟りとの風評により、寛明親王は怨霊を恐れて過保護に育てられたこともあり病弱だった。さらに藤原穏子は42歳で成明親王(村上天皇)を出産する。
朱雀天皇には皇子がなく、皇太子には弟の成明親王を立てた、承平天慶の乱が出来し、治安が乱れ、天慶六年に早々と譲位されたが、譲位後天暦四年八月十日に女御凞子女王が昌子内親王を出産した。凞子女王の父が保明親王で、母は藤原仁善子、朱雀天皇の姪だった。そうしたことから昌子内親王は厚遇され、成女式に相当する裳着が応和元年十二月十七日(10歳)、三品に叙せられ、応和三年二月廿八日村上天皇の第2皇子の皇太子憲平親王(のち冷泉天皇)は元服加冠の儀当日に昌子内親王を納れて妃とされた。ときに太子14歳、東宮妃昌子内親王13歳(満11歳)であった。康保四年立后(中宮職附置)、但し、天皇と殆ど同殿せず里第の三条院に籠居されていた。天禄四年皇太后、寛和二年太皇太后、長保元年十二月崩御50歳。
栄華物語によれば、昌子内親王は朱雀上皇のただ一人の皇女であったので、上皇は望みを皇女に嘱されていた。村上天皇は兄朱雀上皇の意を知って、特に東宮の妃とされたという。
愛子内親王のポジションが昌子内親王に類比できることから、新宮さまの妃となることも一つの選択肢である。

第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉

 後一条天皇は一条天皇の第2皇子で、母は摂政藤原道長長女彰子(上東門院)。いわゆる摂関極盛期の天皇である。冷泉系と円融系の両統迭立で、三条天皇の皇太子から即位。天皇は当初三条皇子の敦明親王を皇太子としていた。それは三条天皇に譲位を迫った左大臣道長が交換条件として応諾したものだったが、三条上皇崩後に工作を講じ圧力をかけて自発的に辞退させた。但し、廃太子のような手荒な措置はとられず、寛仁元年院号(小一条院)を授け、上皇に準ずる待遇を与えた。後一条天皇は10歳にすぎず皇子がなかったので、同母弟の敦良親王(のち後朱雀天皇)を皇太弟(歴代天皇年号事典では皇太子)とした。
 道長は摂政を頼通に譲って、太政大臣も辞退したが、実権を維持し、寛仁二年には11歳の後一条天皇に九歳も年長で天皇の母方叔母にあたる三女威子を納れ中宮に立てることを企て、威子は里内裏の一条院に入内した。『栄華物語』が20歳(19歳は誤り)の威子が、11歳の天皇の夜の大殿に入ったいたたまれない恥ずかしさを委しく描いている。大納言藤原実資は、『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と記している。その威子立后の日に、道長の邸宅で酒宴が開かれ、道長は実資に向かって、即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだエピソードはよく知られていることである。
 しかし中宮藤原威子は二方の内親王(章子内親王と馨子内親王)を出産したが皇子をもうけることができなかった。のみならず、中宮威子は嫉妬心が深く他の后妃を納れることを肯ぜず、このために天皇は一夫一妻を忠実に守られたのである。もっとも角田文衛によると、『中納言』という女房名で上東門院に仕えていた女性が後一条天皇の落胤で、命婦ないし、女蔵人級の内裏女房に手をかけられたものと推定されているが、いずれにせよ後一条天皇は皇子出生をみることなく、長元九年29歳で崩御になられ、後朱雀天皇が28歳で受禅した。
 後朱雀天皇は、資質英明、先帝より厳格で天皇の責を果たすのに努めた天皇として知られている。外叔父の関白頼通とは即位当初から確執があり、とりわけ長久の荘園整理令の発布の議では政策をめぐって頼通と厳しく対立した。もちろん最終政務決裁者は天皇である。しかし政治家としての実力において頼通が勝っていて結果的に妥協せざるをえなくなった。天皇の心労と苦悩は切実なものがあって、政治改革の成果がみられないことに悩んだし絶望したとも伝えられる。しかし50年に及ぶ頼通政権は今日の歴史家の評価では令制の人頭税的収取を改革し、段別米三斗を基本額とする公田官物率法の成立など関白頼通は合理主義的な改革者と評価されており、天皇が絶望するほど悪い政治だったとはとても思えない。
 後朱雀天皇の后妃としてはまず、東宮時代に藤原道長四女嬉子が太子妃となり東宮御息所と称された。ときに敦良親王13歳、御息所19歳、嬉子は親仁親王(のち後冷泉天皇)の御産に際して薨逝された。親仁親王は後朱雀
即位後の長暦元年に元服、皇太子となる。
 次に東宮妃として太皇太后藤原彰子が養育されていた三条皇女禎子内親王(母は道長二女中宮藤原きよ子)が冊立された。敦良親王19歳、東宮妃15歳。禎子内親王は尊仁親王(のち後三条天皇)の誕生をみることになり、内親王は後朱雀天皇即位により中宮に冊立された。
 ところが関白頼通は養女のもと子を入内させ后位(中宮)に立てたため、中宮より皇后に転上した禎子内親王はもと子の入内について頼通や上東門院を怨み、天皇に召されても参内せず枇杷殿に籠居されたのである。中宮藤原もと子は寵愛されたが早世され、頼通が期待する皇子をもうけることができなかった。
 後朱雀天皇の皇太子は親仁親王(後冷泉天皇)で長暦元年立太子ときに13歳であったが、同年の十二月に一品章子内親王(後一条皇女)12歳が裳着の儀を行って、太子の宮に入った。龍粛によると後一条天皇は皇太弟に譲位して内親王を配されんとし、側近に命じて裳着の用意をさせられたのだが、図らずも崩御によって実現されず、ここに至って太子妃となられたということである。
 東宮妃章子内親王は永承元年(1048)後冷泉天皇即位により中宮に冊立されたが皇子女をもうけることができなかった。しかし聡明で温順な性格で祖母の上東門院藤原彰子に愛されとても恵まれていたと思います。長元三年十一月僅か5歳で一品、准三宮です。京極院(上東門院)という邸宅も女院より譲られました。治暦四年皇太后 延久元年落飾、太皇太后、同六年院号宣下(二条院)〈非帝母女院の初例〉。長治二年崩御、享年80歳。
 愛子内親王のポジションに章子内親王が類比できる。従って内親王は新宮さまの妃となるのも前例に従った一つの選択肢といえるのである。

馨子内親王の立后については第3例でとりあげることとします。

つづく

主要引用参考文献

角田文衛『日本の後宮』学燈社1973 限定版
    附録の歴代后妃表からも引用してます。
龍粛『平安時代-爛熟期の文化の様相と治世の動向 』春秋社1962
223頁以下「皇太子成婚の歴史」
河村政久「昌子内親王の入内と立后をめぐって」『史叢』17 1973
古代学協会・古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店1994
米田雄介編『歴代天皇年号事典』吉川弘文館2003
これ以外の参考文献、槇道雄「藤原頼通政権論」などもありますが、かなり前に読んだ記憶だけなので正確な引用ができませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/09/03

事実上の異姓簒奪・易姓革命なら日本国号を捨て去るのは当然という私の主張を「電波」とみなす見解への反論(1)

 名指しこそしないが、私のブログを批判していると思われるものに皇位継承問題にまつわるエトセトラ(5)というサイトがある。キャラクターの問答形式の長文のサイトだが、終盤のほうで次の文章がある。

「最後に聞きたいのですが、『女系天皇が誕生して王朝交代が発生したら、“日本”という国号を捨てなければならない』という主張がありますけど……これはどうなんですか?」
「どうなんですか~?」
「電波。……以上で説明終わりでいいか?」
「先生、いきなり終わらせないで下さいよ~」
「作者がこの主張を電波呼ばわりする根拠は2つある。第1に、その由来が何であろうと、『日本』──厳密には『日本国』という国号は『現行の』憲法で規定されていることを指摘する必要がある。中国の易姓革命が日本に入ってきているかどうかは、はっきり言ってしまうと全く意味が無い。現在の日本における最高法規である日本国憲法で『日本国』という呼称が国号として使われている以上、男系男子天皇の断絶が発生しようが、その事実のみを以って自動的に『日本国』という国号が変わるわけではない。作者としては、『国号を変えたいのであれば憲法を変えろ』としか言えないのだ」

 女系容認の皇室典範改定で易姓革命合法化、異姓簒奪によって日本国は終焉する。異姓簒奪でも日本国を継続するなら、それは偽日本朝、偽日本国というほかない。女系容認は究極の反日政策と言って憚らないのが、当ブログであるから、これはたぶん私の主張に対する批判だろう。先方のサイトは感心するほど歴史に詳しい。私は電波呼ばわりされるくらいでは全然怒らないが、批判がある以上、丁寧に反論していくのが礼儀だと思うので、反論を載せておきたい。

川西正彦

 日本帝国は中国王朝の国家概念と基本的には同質
 
 私は、第一回ブログ 2005年8月21日において
次のように書きました。
 日本国号の由来からみても、中国の国家概念を継受していることは確実である。‥‥
 吉田孝(『日本の誕生』岩波新書510 1997、16頁)が「倭」を「日本」と改めても、やまと言葉では「倭」「日本」はいずれも「やまと」と訓まれ、日本の内実は「やまと」だったと述べているが、これは通説である。網野善彦(『日本論の視座-列島の社会と国家』小学館2004、11頁)も「日本」を「ひのもと」と訓む可能性を否定ないが、「にほん」「にっぽん」という音読は平安朝になってからだとしている。諸説がかなり異なっているのが、日本国号の成立時期と由来と意味である。なぜ、「やまと」が「日本」という国号になるのかということです。たんなる当て字かそれともなんらかの意味が備わっているのかといったことです。
 

 そこで、ここでは日本国号の成立時期と由来についても考察しておきたい。

  王朝名・国号の意味

 夏・殷・周などの中国歴代の王朝名、国号の意味について、後漢初期の『白虎通徳論』では、普通名詞である天下を、固有名詞化するための美称で、各王朝の徳、基本理念を体現するという説であるが、これに真っ向から反対する同時代人の王充『論衡』正説篇第八一は、各王朝が興起、発祥した土地の名前とする説であり、両説は対立していますが、渡辺信一郎は後世の説は王充説に立つものが多い(例えば『春秋公羊伝』何休序に附す唐の徐彦の疏、西晋の司馬孚『晋書』巻三七宗室列伝安平献孚王伝など)としながらも、両説とも受容され次のように云っている。
「中国歴代の王朝名は、単なる国号ではなく、天下を領有することを前代の王朝と区別するためにつけられた称号であり、天下の普遍性に対して、それを固有名詞化し、特殊化するものである。その固有名詞化にあたっては、王朝の徳を表す美称、もしくは歴代王朝発祥の地のいずれかが採用された。実際から言えば、秦漢以降、宋遼に至るまで主として王朝発祥の地が採用され、金元以降は美称が採用された」(渡辺信一郎『中国古代の王権と天下秩序』校倉書房2003年17頁)。
 しかし金・元・明・清は論外である。日本はこれらの王朝よりはるかに古い王朝であるから問題にしない。従って王充説を採用してさしつかえないと考える。
 1世紀、後漢の思想家王充(AD27~97)によれば唐・虞・夏・殷・周は土地の名前だという。

「堯は唐侯の身分から天子の位に就き、舜は虞の地から栄達することができ、禹は夏の地から起こり、湯は殷の地に起こり、武王は周の地から上進して手柄を立てた‥‥みな本来興起し、栄えるようになった土地であり、根本を重んじ始めを忘れないということから、その土地を称号としたのであって、人に姓があるのと同様である。‥‥‥秦は秦地より起こり、漢は漢中から興ったので、秦・漢と称したまでである。王莽が新都侯から起ったので、新と称したのも同様である」(渡辺信一郎前掲書15頁)という
 付け加えると 魏王朝は、曹操が、漢王朝最後の皇帝献帝を奉戴するが、皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し帝位を事実上簒奪する過程で、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で禅譲形式の易姓革命となった。曹操は、213年魏公に封ずる詔が下され、漢王朝は事実上、冀州の魏郡など十郡を割譲し魏公国の領土としたのであり、魏国に社稷・宗廟が建てられる。さらに四県の封邑、増封三万戸、魏王となる。魏国が王業成立の地であるから、220年曹丕が献帝から帝位を譲られた後、国号を魏とした。
 唐の場合は、高祖李淵の祖父李虎(太祖)が北周の時に唐国公に封じられたことが国号の由来になっている。
 (なお朱元璋は乞食坊主から成り上がったので、発祥地の名称を国号とすることが困難であり、国号は明という美称になったが、それは伝統的な在り方とはいえないだろう。)

 日本〔やまと〕国号も神武天皇が大和国で王業を成就したから。王朝の興起した土地が国号となるという王充の示す事例と全く同じパターンなのである。
 倭も日本もやまと言葉で〔やまと〕と訓み、内実は〔やまと〕であることは既に述べた。本居宣長は『国号考』で「倭」「和」「日本」は〔やまと〕であり、〔やまと〕の意味について賀茂真淵の「山門」説のほか「山処」説、「山つほ」説「山内」説を並列的にあげており、大和盆地の地形、ロケーションに由来するとみなしているようだ。なぜ、〔やまと〕に日本という文字が当てられるにようになったかは重要な問題なので後日論究するが、岩橋小弥太(『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)59頁以下註37)は、大和一国の別名が全国の総(惣)名となったことは間違いないとする。この説は基本的に正しいと思う。その論拠として『釈日本紀』の開題にある次の問答である〔『釈日本紀』は鎌倉時代の卜部兼方の日本書紀研究書であるが、引用されているのは10世紀初期藤原春海の見解。「延喜開第記」延喜四年(904年)八月に開講された日本紀講書の説である。〕

問ふ、本国の号何ぞ大和国に取りて国号と為すや、説に云はく、磐余彦天皇天下を定めて、大和国に至りて王業始めて成る、仍りて王業を為す地をもって国号と為す。譬へば猶ほ周の成王成周に於いて王業を定む、仍りて国を周と号す。

問ふ、和国の始祖筑紫に天降る、何に因りて偏に倭国に取りて国号と為すや、説に云はく、周の后稷はタイに封じられ、公劉ヒンに居り、王業萌すと雖ども、武王に至りて周に居り、始めて王業を定む、仍りて周を取り号と為す、本朝の事も亦た其れ此くの如し
 

 他ならぬ大和国を取って国の名ととしたのは、何故かというと、神武天皇が大和国で王業を成就したからである。天皇の始祖は筑紫に降ったのに、その地の名をとらず、「倭国」を取って国号としたのは、周の王朝に関して、その祖先たちの拠った地でなく、武王が王業が定めた地である周をもって国号としたのと同じである。
  
 この説は、忌部正通、一条兼良、日本書記の注疏家に多く継承され、近世の学者も追随しており、有力な説とみてよい。「本朝の事も亦た其れ此くの如し」とあるから、周王朝との類比で国号が成立したわが国も国家を以て一姓の業とする中国の国家観念を継受しているのは確実で、要するに日本も中国王権の国号が、王朝が発祥した、あるいは興起した土地を、王朝名、国号とするのと同じパターンということになる。
 従って、易姓革命なら日本国はおしまい。当然のことですね。それが筋目というものです。
 

日本国号の成立時期とその背景

日本国号の成立時期については7世紀から8世紀初期、推古朝から元明朝の幅で諸説あるが、 官撰の書物で「日本」の初見は大宝令(大宝元年701年)の公式令詔書式(大宝令は残ってないが、『令集解』の公式令注釈で大宝令の注釈書である古記が引かれ「御宇日本天皇詔旨」がみえる)とされるのが、ほぼ通説になっている。吉田孝は飛鳥浄御原令(持統三年689年施行)、神野志隆光が大宝令成立説だが、大宝の遣唐使粟田朝臣真人が「日本国」を名乗り、則天武后がそれを承認したことは両者とも是認される。中国の史料「史記正義」から裏付けることができるのである。則天武后は李氏の唐王朝を簒奪し周を建国し聖神皇帝と称していたので、正確に云えば大唐帝国ではなく大周帝国に承認された。ということで八世紀初期までには日本国号は国際的にも承認された。従来、和銅五年(712年)に撰上された『古事記』に「日本」がみえないことから日本国号成立を元明・元正朝とする論者もあったが、この説は棄却できる。
 しかし日本国号の成立時期については歴史家の多くは石母田正(『日本古代国家論』全二冊第一部 岩波書店 1973 352頁)のいう諸蕃と夷狄に君臨する小帝国=「日本国」とする説を基本として律令国家揺籃期より成立期、斉明朝~天武・持統朝には日本国号は成立したとする説が多い。また天皇という君主号も日本国号成立とほぼ同時期とみる歴史家が多い。結局確定的なことはいえないのだが、諸説を検討しておこう。
 本居宣長は孝徳朝説で、その論拠は大化元年七月の蕃国使への宣詔である。大化元年(645年)七月紀によれば、高句麗・百済・新羅が遣使進調し、朝廷では病で難波津に留まった新羅使をおいて高句麗・百済に詔を下している。
 高句麗使には「明神御宇日本天皇詔旨、天皇遣之使、与高麗神子奉遣之使、既往短而将来長、是故、可依穏和之心、相継往来而巳」と宣詔し、百済使には「明神御宇日本天皇詔旨、始我遠皇祖之世、以百済国為内官家云々」と宣詔し、さらに、大化二年二月十五日条でも臣・連・国造・伴造および諸々の百姓に詔して、明神御宇日本倭根子天皇と仰せられたとある。 しかし「明神御宇日本天皇詔旨」は養老公式令(養老二年撰上、718年)の詔書式で撰定されている文句と全く同じで、多くの歴史家は日本書記(養老四年撰上、720年)編纂者が原資料を粉飾したものとみなし孝徳朝説を否定している。

 養老公式令の五つの詔書式は以下のとおりである。
 1 明神御宇日本天皇詔旨。云々。咸聞。
 2 明神御宇天皇詔旨。云々。咸聞。
 3 明神御大八洲天皇詔旨。云々。咸聞。
 4 天皇詔旨。云々。咸聞。
 5 詔旨。云々。咸聞。
 
 義解では最初の二つが対蕃国使用とされ、外蕃に対し日本天皇と称するのである。3~5は国内向けである。

 孝徳朝棄却説の論拠のもうひとつは古代天皇の呼称方法として、某宮御宇(治天下・馭宇)天皇があるが、「御宇」「治天下」「馭宇」の三様の表記について時代的変遷があり、孝徳朝に「御宇」という表現はありえないとするものである。
 また天皇の即神表現であるが、宣命では続日本紀巻一の巻頭(697年)文武天皇即位後の詔詞の始めに「現御神大八嶋国所知天皇」とあり、本文に「現御神大八嶋国所知倭根子天皇」とある。慶雲四年七月(707年)の元明女帝即位詔では「現神八洲御宇倭根子天皇」とあり、天皇のことを言い出すのに現御神、現神と冠することが定型化している。
 しかし大宝令(大宝元年、701年)を注釈する古記が公式令の詔書式について「御宇日本天皇詔旨」は隣国(大唐)、蕃国(新羅)に対しての詔、「御宇」「御大八嶋」は大事を宣する辞としており、明神の表現がみられないことから、大宝令は残っていないが大宝公式令の詔書式に明神はなかったとみなされている。大宝令成立説の神野志隆光などによると明神御宇という表現は養老令以後なのである。(神野志隆光『「日本」とは何か 国号の意味と歴史』講談社現代新書1776 2005年 20頁) この見解に従うと、養老公式令詔書式が孝徳朝に遡ることはない。
    
 しかしながら、対外関係からすれば、孝徳朝に日本国号、天皇号が成立していたとしても不可解ではないと考える。従来から臣従国として扱ってきた百済・新羅とは別に、かつて敵対し強国であった高句麗の貢献をうけた意義が大きいように思う。
 高句麗は6世紀末から隋と武力抗争になり、612年に煬帝親征二百万の大軍で攻撃したが失敗、618年隋は疲弊し亡びてしまう。624年に唐は高句麗、百済、新羅を冊封するが、642年に高句麗でクーデターが起き、百済と高句麗が結んで新羅の四十城を攻略、唐は新羅の提訴により高句麗を告諭したが、拒絶したため644年に高句麗征伐が決定され、645年に太宗による高句麗遠征が開始されている。そうしたことが高句麗が我が国へしきりに遣使・朝貢するようになった背景である。白雉二年是歳条(651年)に巨勢大臣の奏請「今、新羅を征伐しなければ、後で必ず後悔することがある」との反新羅政策の動きがあり、我が国は斉明朝から天智朝は反唐・反新羅政策をとったため、天智初年には高句麗救援の軍派遣に応じている。
  しかも天平勝宝五年(753年)に来日した渤海使に托した渤海国王に賜う天皇璽書によれば、日本と高句麗の関係は兄弟にして君臣の間柄であったとされている。
 森田悌(「日本・渤海の兄弟・舅甥関係」『律令国家の政務と儀礼』吉川弘文館1995、『日本古代の政治と宗教』雄山閣出版1997所収)が、推古朝から天智朝にかけて外蕃を付庸するに至っていたと考えられるとし、高句麗を弟国として君臣関係に置くようになったと推測され、かつて敵対した強国を付庸した時期が、天子・天皇号の採用時に相応しいとされたうえ、鳥羽天皇の元永元年(1118年)に宋からの書状が旧例に適っているか、式部大輔菅原在良に調査させているが、その前例勘申にある「天智天皇十年唐客郭務ソウ等来聘書曰、大唐皇帝敬問日本国天皇云々」を重視されている。
 しかし大唐帝国が公的に、皇帝号と対等な世界的支配者の含意のある天皇号を承認することはありえない。天平六年(734年)に帰着した遣唐大使多治比広成に托された玄宗皇帝の勅書は「勅日本国王主明楽美御徳」である。
にもかかわらず、森田悌は菅原在良の前例勘申を重く見て、天智十年(671年)の書例を肯定する。その理由は当時、唐は高句麗を滅ぼしたものの、かつての同盟国新羅と対決する事態となっていた。新羅を牽制するために日本の助勢を期待したとする。百済駐屯軍が日本にしきりに使節を遣わしたのはそのためで、朝廷の歓心を誘うために私的使節を遣わし、公的には用いることのない天皇称号を使用したと推測され、天皇号は推古朝から慣用されていた可能性を否定せず天智朝には成立していたという説である。森田悌説は天皇号の成立時期に関する見解だが筋は通っていると思う。この説に従えば、日本国号も少なくとも天智朝には成立していたことになる。
  次に筧敏夫説(「百済王姓の成立と日本古代帝国」『日本史研究』317号1989-1『古代王権と律令国家』校倉書房2002年所収)は中大兄皇子による百済王豊璋の冊立を重視する説である。七世紀前半百済は我が国に人質を出し、調を貢納していたが、百済王位に正統性を付与するのは中国王朝だった。斉明天皇六年(660年)百済は「滅亡」するが、反新羅の抗戦勢力が残っていた。百済遺臣の要請により、我が国は請をうけて、三十年間人質だった百済王子豊璋を送還し、斉明女帝は百済復興のために朝鮮半島への大規模派兵を決断、筑紫に遷られたが崩御になられた後、中大兄皇子は、豊璋に最高位の織冠位を与え、勅を宣して王位に即けた。しかし我が国は百済救援の役(白村江)で大唐・新羅連合軍に惨敗し、百済王豊璋は高句麗に亡命。復興軍の拠点も陥落して百済は滅亡する。我が国に残留を余儀なくされた百済王族の処遇が、「百済王」を姓とする内臣に配することであったことは、対外関係の再構築を「帝国」とする方向で行わせたとされ「豊璋を百済王として冊封したことが、倭王の日本天皇への転化の画期となったことはまちがいあるまい」とする。冊封にこだわった見解のように思えるが、国制を帝国とする方向により、倭王より日本天皇への転化となったという見方は基本的に正しいと思う。  
以上概括していえばこういうことである。5世紀の倭の五王が南朝に通交し、官爵を懇願して授与された目的は、朝鮮半島の軍事権を中国王朝に承認させることであり、高句麗と同等の地位を獲得することであったが、6世紀に冊封体制から離脱する。7世紀になると推古天皇十五年(607年)遣隋使小野妹子を派遣して、隋の煬帝に送った国書に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや云々」という対等外交を要求している。臣下であれば「表」という形式の文書でなければならない。国書は対等である。煬帝は国書の無礼を詰問しながらも、使者を派遣して慰労詔書を与えたが、明白に臣下の礼をとることはなかったとみられている。
 隋の煬帝と論理的に対等でなければならない理由は、倭の五王の時代から、朝鮮半島から調の貢納があり、我が国は隋の藩臣となっていた高句麗・百済・新羅を藩国視し上位国であるという姿勢をとっていたためである。598年、高句麗が国境紛争を起こしたため隋の文帝が官爵を奪い、水陸軍三十万で高句麗を攻撃したが、我が国もこの機会に新羅に出兵して五城を奪い、その後奪回されたともいわれているが、この対抗関係は煬帝に国書を送付する時期まで続いている。もし我が国が隋に臣従してしまうと、朝鮮三国に対する姿勢の根拠を失い 、国内的にも治天下大王の権威を毀損してしまうため、論理的に隋皇帝とは対等でなければならなかった。
また 推古朝から天智朝にかけて、かつて敵対し強国だった高句麗を外蕃として付庸し、弟国にして君臣関係と置くとなると、高句麗「太王」と同格の倭「大王」号は適切ではない。諸蕃(朝鮮半島諸国)に君臨するに相応しいスケールの大きな君主号を称するべきだろう。「王」称号は原則的に中国皇帝が付与する爵位である以上、中国王朝と対等の君主号となれば、自称「大王」も適切なものでない。君主号のレベルアップ(天下を統御する最高君主として)「倭」国号も〔対外的には〕改めたほうがわかりやすい。それが日本天皇だったという見方をとっても大筋では間違いないだろう。
 つづく
参考文献
西嶋定生『邪馬台国と倭国』吉川弘文館1994
西嶋定生『倭国の出現』東京大学出版会1999 
その他引用文献は本文中 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/03/19

河田景与(佐久馬)・伊丹重賢・佐々木高行と伊地知正治-女系は我が伝統に反すると明確に否認した人物

(旧)皇室典範〔明治22年2月11日〕
第一条 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統二シテ男系ノ男子之ヲ繼承ス

(新)皇室典範〔昭和22年1月16日・同年5月3日施行〕
第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

  皇室典範が女帝否認となったのは、明治憲法・明治皇室典範の実質的起草者である井上毅が、伊藤博文宮内大臣に「謹具意見」(註1)という文書で唱えた「女帝廃止論」が決定的な役割を果たしたと、小林宏「井上毅の女帝廃止論-皇室典範第一条の成立に関して-」(梧陰文庫研究会編『明治国家形成と井上毅』木鐸社1992)により指摘されている。
    但し、「謹具意見」が抄出している女帝否定論者で民権派の島田三郎(註2)、沼間守一の意見以外にも、女系による継承は易姓を伴ない、わが伝統を破るとした見解が存在し、小林宏上記論文の註(5)において引用されており、井上毅は当然以下の意見・見解も参考にしていると考えられている。
   これは、やむをえざる場合の女統(女系)による継承を認める規定のある明治13年の元老院国憲草按に対する批判として元老院議官河田景与の意見がひとつ。
  またもうひとつは元老院国憲草按とは別個に、右大臣岩倉具視の意向で帝室制規の調査が行われたが、この脈絡において「諸規取調所」で調査にあたった宮内省一等出仕伊地知正治の見解である。
 
「国憲草按各議官意見書」(明治十三年)

末條ニ所謂女統ナル者、皇女他人ニ配シテ擧グル所ノ子若クハ孫ナルトキハ、則現然異姓ナリ。〔譬ヘバ仁孝天皇ノ皇女故将軍家茂ニ降嫁スルガ如キ若シ其所在アレバ即徳川氏ニシテ王氏ニアラズ王族ニアラザルナリ〕果シテ然ラバ大ニ第一章第一條ニ牴觸ス。如何トナレバ異姓ノ子ニシテ帝位繼承スルコトヲ得バ之ヲ萬世一系ノ皇統ト云可ラズ。故ニ其入嗣ノ文、男統全ク盡キ千萬止ムヲ得ザルノ際ニ備フル者ト雖ドモ、恐ル後來言フ可ラザルノ弊害ヲ生ゼン。因テ朱書ノ如ク修正アランコトヲ希望      議官河田景与意見

若シ以下ヲ刪除スベシ 議官伊丹重賢意見

若シ以下ヲ二十一字ヲ刪除スベシ   議官佐々木高行意見(註3)

 痛烈な批判であるが、小林宏は河田景与単独の意見と解釈しているようだが、藤田大誠(註4)の解釈のように河田景与意見は伊丹重賢・佐々木高行連名の意見とみてよさそうである。いずれにせよ、伊丹、佐々木も女系は否認している。下記に引用する第三次国憲草按は明治13年12月28日上奏されたものの、岩倉具視、伊藤博文の反対で不採択とされた。

 第一章皇帝
第一條 萬世一系ノ寶祚ヲ践タル皇帝ハ神聖ニシテ犯ス可カラズ。
 第二章
第一條 今上皇帝ノ子孫ヲ帝位繼承ノ正統トス。
第二條 帝位ヲ繼承スル者ハ嫡長ヲ以テ正トス。如シ太子在ラザルトキハ太子男統ノ裔嗣グ。太子男統ノ裔在ラザルトキハ太子ノ弟若クハ其男統ノ裔嗣グ。太子男統ノ裔渾テ在ラザルトキハ庶出ノ子及ビ其男統ノ裔親疎ノ序ニ由リ入リテ嗣グ。
第三條 上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ繼承スル者ヲ得ザルトキハ、皇族親疎ノ序ニ由リ、入ラ大位ヲ嗣グ、若シ止ムヲ得ザルトキハ女統入テ嗣グコトヲ得。
上ノ定ムル所ニ依リ而シテ猶未ダ帝位ヲ繼承スル者ヲ得ザルトキハ、皇族親疎ノ序ニ由リ
入テ大位ヲ嗣グ。(註5)

 河田景与意見を重視したいのは、女系容認は「萬世一系ノ寶祚ヲ践タル皇帝ハ神聖ニシテ犯ス可カラズ」とする第一章第一条に抵触するというもので、自明の事柄ではあるが万世一系とは男系継承とする見解であるわけです。

次に参議・左院議長を歴任した伊地知正治の「諸規取調覚書」である。

「伊地知一等出仕口演筆記」(明治十五年十二月一日)

女帝 男院女院
皇國帝系ハ男統一系ナル故ニ、萬世無窮 皇統連綿セリ、若シ女統ヲ立ツ、皇統直チニ他系ニ移ル、此二是ヲ皇統ヲ滅絶スルト云フ。(註6)

短い文章だが皇国帝系ハ男統一系と明確に述べ、女統なら皇統ヲ滅絶スルとしている。

なお上記、意見・覚書は皇位の正統な継承の堅持を求める会のサイトにも掲載されている。
http://hw001.gate01.com/abc123xyz/jinjya.html
参考資料「皇位継承について考える」
出典 : 『神社新報』
第二七九六号・平成十七年七月十一日付~第二八〇七号・平成十七年十月十日付
全11回連載 神社新報編輯部 著
男統・女統の観念をめぐる関係資料【抜粋】

 今回の記事の趣旨はこういうことです。参議・左院議長伊地知正治は薩英戦争や戊辰戦争で大きな功績のある軍略家で、鳥羽・伏見の戦、白河攻防戦、母成峠の戦といった重要な戦を指揮して全て勝っている。明治天皇の侍講の一人でもあった。元老院議官河田景与は尊王攘夷の志士で剣術の達人、戊辰戦争などで活躍してますが、宇都宮城攻防戦では河田自身が突撃する白兵戦になり旧幕府軍を撃破したという。相当に気魄のある人物だと思います。命懸けで戦ってこれだけの修羅場を経験することは過保護に育った現代人では無理かもしれない。しかも彼等は皇位継承のような国制の根幹にかかわる問題でも正しい意見を出しているのだから立派なものだ。
 これだけの輝かしい軍歴のある維新の功労者が「女系はダメ」だと言っているんだから間違いないですよ。彼等に比べたら、男系潰しをやっている今の古川貞二郎とか柴田雅人とか厚生省官僚なんかつまらない小人物というほかない。国会議員に問いたい。どちらを信用しますか。

 川西正彦 (平成18年3月19日)

(註1)小林宏・島善高『日本立法資料全集16・17明治皇室典範(明治22年)』上、347頁以下
(註2)自由民権結社嚶鳴社・島田三郎の「皇婿」論(『嚶鳴社討論筆記』抄)
http://hw001.gate01.com/abc123xyz/jinjya.html
(註3)伊藤博文編 『秘書類纂 第13巻』 憲法資料 下巻   明治百年史叢書 原書房 1970  秘書類纂刊行会昭和10年刊の複製  404頁
(註4)藤田 大誠「近代皇位継承法の形成過程と国学者--明治皇室典範第一章成立の前提」『神社本庁教学研究所紀要』 10号2004.3 
(註5)註3前掲書 397頁 402~403頁
(註6)註3前掲書 499頁

元老院議官河田景与(河田佐久馬)の経歴
明 治 維 新 人 物 名 鑑
http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/kawadasakuma/kawadasakuma.htm
鳥取県立博物館デジタルミュージアムhttp://www.z-tic.or.jp/p/museum/digital/tayori/20040624/
鳥取(因幡)藩士尊王攘夷過激派。河田家は京都伏見鳥取藩邸の御留守居を代々世襲した家系で、彼の名を一躍有名にしたのは、文久三年(1863)八月本圀寺事件(尊皇攘夷派のテロ)、河田ら鳥取藩士22名が、藩の佐幕派重臣4人を暗殺、一躍鳥取藩を尊皇藩とする。文久4(1864)年の禁門の変の際は、藩の京都留守居役として、御所の裏手にある鳥取藩京屋敷から長州勢を御所に招き入れる旨、桂小五郎と密約を交わすものの、長州軍が御所に大砲を撃ったため「長州は賊軍である」と激怒、約束を反故にして長州敗北の一因になったといわれる。
慶応四年、鳥羽伏見の戦いに加わる。東山道総督府内参謀、大総督府参謀(新政府軍は薩摩の伊地知正治と土佐の板垣退助の両参謀が率いる東山道先鋒総督府が信州に進軍したが、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が甲府城を目指し行軍してくるという報告があり、板垣が本隊とは分離して、土佐や鳥取を主力にした別働隊を率いて甲府城奪取、さらに東山道総督府内参謀の河田左久馬と軍監の谷干城(土佐)の部隊は甲州街道を進軍し、勝沼・柏尾で甲陽鎮撫隊を撃破した。宇都宮城攻防戦などでも活躍)。
 明治二年戊辰の役の功により賞典450石を賜る。兵部大丞・京都府大参事兼留守判官・弾正大忠、明治三年民部大丞の河田景与は福岡藩大参事(家老格)に任命された。福岡藩は財政難から太政官札を偽造する贋札事件があり廃藩置県に先んじて、福岡藩をつぶすことになった。有栖川宮熾仁親王という超大物を知事にすえたのも、他に威圧できる者がいなかったため。河田景与は岩倉具視から「福島正則を改易したとき以来の大事件だ。受けてくれるか」と念を押されたのだという。明治四年鳥取県権令。明治十一年元老院議官。明治二十年特旨により子爵。明治三十年勲一等。

参考にしたウェブサイト

鳥取県広報課メルマガ 第303号(2003.09.02)
http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/bnumber.cgi?p=303
山陰をゆく『狂気乱舞』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~fdj/ryoko/sanin.html
続・はかた学 第6回イシタキ・ファイル 
http://monokatari.jp/isitaki/file002.php?itemid=2899
甲州柏尾戦争
http://haruna.on.arena.ne.jp/military/travelogue/kasio/main.htm
宇都宮城争奪戦
http://haruna.on.arena.ne.jp/military/travelogue/utunomiya/index.html

元老院議官伊丹重賢の経歴
(社)部落解放・人権研究所 書評 明治維新と京都―公家社会の解体―
http://blhrri.org/info/book_review/book_r_0117.htm

元老院議官佐々木高行の経歴

明 治 維 新 人 物 名 鑑
http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/sasakitakayuki/sasakitakayuki.htm

参議・左院議長伊地知正治の経歴 

明 治 維 新 人 物 名 鑑

http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/itijimasaharu/itijimasaharu.htm

戊辰戦争白河攻防の全容
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/bakumatu/sirakawa.htm

慶応四年 鳥羽伏見の戦で薩摩軍参謀、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられ、宇都宮・白河口に転戦し、板垣退助と協力して会津若松城を落城させる。
明治三年 薩摩藩権大参事
明治五年 左院副議長
明治六年 制度取調御用兼務となり、参議兼議長
明治八年 一等侍講・修史局副総裁、宮内省御用掛
明治十七年 華族に列し伯爵
明治十九年 宮中顧問官

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/03/12

称徳女帝の「皇后」表記問題について

『日本霊異記』における称徳女帝(孝謙上皇)をさす「皇后」表記に関する解釈についての訂正


 私は1月25日ブログで成清弘和説に飛びつくかたちで次のように述べました。

成清氏の『日本霊異記』下巻第三八話の皇后の用法の引用を読んで、妊娠出産という次世代の再生産は皇后の役割であって、妊娠出産する天皇というのは論理矛盾でありえないという認識を示していることを知った。
「帝姫阿倍天皇御世之天平神護元年歳次乙巳年始、弓削氏僧道鏡法師、與皇后同枕交通 天下政相摂、治天下 彼咏歌者 是道鏡法師之與皇后同枕交通 天下政摂表答也」
 称徳女帝を天皇と記さずに皇后と記していることに着目したい。成清氏によると「弓削氏の道鏡と「交通」り、共に天下を治めているのは「皇后」である‥‥つまり「皇后」とは「交通」り、次代の継承者を再生産するものであり、ともに天下を治めるものである、という認識の存在の指摘が可能」(註7)とされるのであるが、裏返していうと天皇に次代の再生産を求めることはできない。その役割は皇后だということです。昔からそういうことに決まっているわけです。だから、配偶者が現存する状況での女帝即位は論理的にありえない。それはもはや女帝ではなく皇后というほかない。称徳女帝は独身だから天皇であって皇后ではありえないわけですが、道鏡と「交通」の局面においては理屈のうえで皇后になってしまうわけです。
(註7)成清弘和『日本古代の王位継承と親族』岩田書院1999「大后についての史料的再検討」101頁

川西正彦(平成18年3月12日)
 
 ところが、『歴史評論』の2005年12月号の佐藤長門の論文を読んだところ、「皇后」表記については成清弘和氏とは違った解釈が幾つもあること。『霊異記』下巻三八話における「皇后」表現は道鏡法師との対だけでなく「又宝字八年十月、大炊天皇〔淳仁〕、為皇后所賊、輟天皇位」という記述もあり淳仁天皇との対でも「皇后」と表現されていることを知りました。淡路廃帝と孝謙上皇は険悪な関係にあり、性的関係は想定できないので、成清氏の解釈は鋭いが、この解釈にこだわるのは得策でないと判断し、この解釈からさらに進んだ私独自の見解「称徳天皇は独身‥‥道鏡と「交通」の局面においては理屈のうえで皇后になってしまうわけです」をカットして無難な表現に訂正したいと思います。

 『霊異記』「皇后」表記に関する諸説

 『霊異記』とは正式名称を『日本国現報善悪霊異記』といい延暦より弘仁年間に薬師寺僧景戒が編纂した我が国最初の仏教説話集で、古代生活史、女性史でよく使われるが、1990年代以降の研究で長屋王家木簡などの出土資料や遺跡と『霊異記』の記述が一致し、史料性について従来よりも高く評価される傾向にあり、それゆえ無視できないのである。
 

1 義江明子説「古代女帝論の過去と現在」『天皇と王権を考える七』岩波書店2002所収

「下三八話は孝謙と道鏡の話で、「諾楽宮に廿五年天下を治す勝宝応真聖武太上天皇」が「阿倍内親王」と「道祖(ふなど)親王」の二人に天下を治めよと遺詔したが、「帝姫阿倍天皇並大后〔光明〕御世」に「道祖親王」は殺され、大炊天皇〔淳仁〕も「皇后」に討たれ、道鏡法師が「皇后」と「同じ枕に交通」して天下の政治を握る、という流れになっている。その中で、のちの道鏡巨根伝説につながる歌が予言と記され‥‥下一話から一四話までは孝謙(称徳)治世をを扱うが、「帝姫阿倍天皇御代〔世〕」で一貫している‥‥あくまでも「聖武太上天皇」の「帝姫」としての即位であり、母大后〔光明〕と並んでの統治である。しかも‥‥『霊異記』は「皇后」と表記する。これはたんなる間違いや伝承の混乱などではない。女性の国政統治を“キサキ”の行為としてのみ描こうとしているのである」
 要するに義江明子氏は「性差なき女帝論」の立場から『霊異記』著者景戒の記述を批判し、『霊異記』の「帝姫阿倍天皇」像はあくまでも『霊異記』成立の時代の新しい女帝観なのだという。しかし、野村育代氏(「『日本霊異記』の女と男」『歴史評論』668号2005-12)によると、『霊異記』には「穢」の観念が存在しない。また「五障」(女性は梵天・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏になれない)「三従」(女性は父・夫・息子に従う)といった文言「変成男子」「龍女成仏」「女人成仏」の言及もない。仏教的女性差別文言がないだけでなく、女は愛欲深く、嫉妬深く、愚かで知恵がなく、男の往生や修行の妨げになるというような女性嫌悪の文言も全くなく、女性史家からみても性差別的でない説話集と評価されていることからみて、義江明子氏の論評は的外れのように思える。

2 仁藤敦史説 「皇位継承と宣命」平川・沖森・栄原・山中編『文字と古代日本1』吉川弘文館2004所収

 「淳仁の位置づけであるが「吾子為弖皇太子止定弖」光明→淳仁 第二十五詔「前聖武天皇乃皇太子定」聖武→淳仁 第二十五詔という宣命の呼びかけによれば、‥‥淳仁は光明子と聖武の子(皇太子)に擬制されている。『霊異記』下巻三十八話の「大炊天皇、皇后に賊たれ、天皇位をやめ」という表現とあわせ考えるならば、孝謙の皇太子ではなく聖武の皇太子としているのは皇統譜上の擬制として聖武の娘孝謙を「大炊天皇」(淳仁)の「皇后」格として位置づけていることになる‥‥『霊異記』には「朕が子阿倍内親王と道祖親王と二人を以ちて天下を治めしめむと欲ふ」「是れ道鏡法師の皇后と枕を同じくして交通ぐ」との表現もあり、孝謙と道祖王や道鏡ともそうした擬制関係を想定することが可能と思われる。」
 
 不婚の女帝は男帝・男性と擬制的婚姻関係を結ぶ存在だったというきわめて特徴的な見解。佐藤長門は仁藤説を批判し、「「朕が子阿倍内親王と道祖親王‥‥」は天皇と皇太子(あるいは太上天皇と天皇)として共同統治させるという意味」であって擬制的婚姻関係を抽出するのは強引な解釈とされ、又、「天皇ではない道鏡と「交通」したところで、称徳が「皇后」と称されるいわれはない」とされ、これは同時に成清説にも適用できる批判である。

3 佐藤長門説 「『日本霊異記』における天皇像」『歴史評論』668号2005-12

「正確には太上天皇(宝字八年)や天皇(神護元年)と記載すべき称徳(孝謙)をともに「皇后」と表現する『霊異記』の姿勢は、義江ならずとも不審に思うのは当然であろう。しかし聖武中心に編纂されている『霊異記』にとって、おそらく至高の存在としての「太上天皇」は聖武以外には考えられなかった(『霊異記』において「太上天皇」と表記されているのは‥‥聖武のみである)のであり、それと同程度の女性皇族を表現する言葉としては「皇后」以外みつけることができなかったのではあるまいか。ともかくその頻出回数からいって『霊異記』における称徳はあくまで「帝姫天皇」なのであって「皇后」は例外にすぎないことを銘記すべきであろう」

 『霊異記』の全116話のうち43話(三分の一強)が聖武天皇代に時期が設定されているらしい。聖武天皇がメインの存在だということはわかる。しかし、孝謙上皇が「太上天皇」と称されることがないのは、淳仁が「前聖武天皇乃皇太子定」とされていることもあり本当の意味での上皇権を有していない存在だからともいえるのではないか。いずれにせよ、孝謙が「帝姫阿倍天皇」あるいは「皇后」とされ、「太上天皇」と称されるのはあくまでも聖武ということは『霊異記』著者の男帝の皇位継承を基本とする考え方を示している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/02/11

ふざけるな毎日新聞「修正案」

 女帝実現のための皇室典範改正で一気に動き出す寸前の際どいタイミングだったが、秋篠宮妃懐妊という、首相にとっては想定外の事態から今通常国会での強硬突破を断念したと報道されております。辛うじて日本国は救われた格好になった。このうえは国家の危機を救う男子皇孫誕生を期待したい。今秋、万歳三唱ができるように祈りたいと思います。
、秋篠宮両殿下が通常国会開幕直前にコウノトリの歌を詠んだ意味については、皇太子妃に対する当てつけになり雅子妃が気の毒という見方もあったが、拙速な皇室典範改正を望んでないとするシグナルであったかもしれず、秋篠宮妃懐妊はそれだけでも同点タイムリーぐらいの価値がある。
 もちろん今国会提出いかんにかかわらず自民党内での議論集約を首相が指示しており、油断できない。緊張感を持続して女系容認の田中卓反駁の続編は次回掲載しますし、男系支持といいながら女性天皇を容認する篠沢秀夫や桜井よしこ批判もやる予定です。
 
川西正彦(平成18年2月11日)

 私は女帝それ自体反対なので、皇室典範第一条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」の改変には絶対反対である。従って、女帝も認めるが男子優先という修正案も絶対容認しないという意見です。久間章生総務会長が修正案の検討を示唆しているという10日の朝日新聞の報道もあるが、とにかく有識者会議報告書を基礎とした改正案には一切容認しないことを重ねて表明します。
 ところが、それだけではないのである。2月9日毎日朝刊3面クローズアップ2006竹中拓実、犬養直幸、谷川貴史の署名記事を読んで怒り心頭にきた。「『折衷案』」浮上も」という見出しがあり、「他の継承案に修正する場合」という記事がありますが、たとえ男子皇孫誕生でも有識者会議の方針どおり皇位継承順位を3位から6位に貶めて、愛子女帝を実現する。ただし次の世代は男子皇孫の男系を優先して、男系派に配慮すると全くふざけた修正案が提示されています。
 皇室典範の改正がなければ、今秋、男子皇孫誕生なら皇太子-秋篠宮に次いで第三位の皇位継承権となり、皇太子の次の世代の皇位継承者となる(今後東宮家に男子皇孫誕生なら順位が下がるが)。それで万歳三唱できると思ったらそうはさせないという案である。

 つまり男系にこだわるが、皇位継承権は男女平等とするというのだ。せっかく男子皇孫が誕生したとしても、皇位継承権第三位を剥ぎ取って第六位に貶め、男系を維持するための子作り皇族にしてしまおうというのが、毎日記者の修正案です。そんな歪な制度をつくってまで愛子女帝を実現したいか。毎日記者ふざけるな。
 男子皇孫誕生なら文句なしに皇位継承順第三位ですよ。愛子内親王の女帝案は消えます。ただし、可能性としては皇孫殿下の妃となり皇后となることは考えられます。イトコどうしの皇親内婚例としては冷泉天皇(村上皇子)-皇后昌子内親王(朱雀皇女-三条太皇太后、観音院太后)、後冷泉天皇(後朱雀皇子)-中宮章子内親王(後一条皇女-二条院)、後三条天皇(後朱雀皇子)-中宮馨子内親王(後一条皇女)がそうです。
 朱雀天皇が兄で村上天皇が弟、後一条天皇が兄、後朱雀天皇が弟ですから、男子皇孫と愛子内親王の結婚が実現すれば同じパターンになります。なお、朱雀天皇に皇子なく、昌子内親王御一方だけです。また後一条天皇も皇子なく、章子内親王と馨子内親王の二方だけです(以上の婚姻では皇子女をもうけられなかった)。
 また弘文天皇(大友皇子)-十市皇女、高市皇子-御名部皇女、草壁皇子-阿閇皇女、大津皇子-山辺皇女、忍壁皇子-明日香皇女といった婚姻例も父方イトコ婚です。私は愛子女帝には絶対反対しますが、これらのイトコ婚のように妃から皇后となることには反対しません。これだけ多数の前例がありますから。
 しかし毎日記者のように男女平等のシンボルにするために男子皇孫から皇位継承権を剥ぎ取りたい人もうようよいるわけだ。狂気の沙汰というほかないが、大衆世論は皇位継承権剥ぎ取りに狂奔して支持する可能性も高い。民をもって国を簒うことは、民意をもって天命とみなす孟子の革命説ですが、有識者会議が国体変革、易姓革命合法化、フェミニズムに迎合しお墨付きを与えたため、世論は革命に誘導されているわけです。私は懐妊を知って狂喜しましたが、思いの外、大衆世論は紀子さまに好意的でないのかもしれない。巷では雅子妃が気の毒と感想を持つ人も少なくないようだ。小泉の強権で女帝の実現を期待していたフェミニストは懐妊でがっかり紀子さまは悪者扱いなのでは。しかし、そもそも世論・民意を基準にして帝位継承を決めるという発想が革命説ですよ。皇位は大衆世論で決定する問題では断じてない。世論がどう転ぼうと男子皇孫殿下を貶めることがあっては絶対ならないことを強調しておきたいと思います。
 女権拡張主義者の本音はたぶんこうだろう。秋篠宮夫妻が女帝容認の国民世論に逆らい通常国会を控えて禁欲しなかったのは男女共同参画の政府の方針に反し有識者に盾突き、反政府行為であるから、首相の面目を潰した秋篠宮とその親王の皇位継承権を辞譲(返上)させて、愛子内親王に譲るようなかたちがベターだと。もしそれをやったら恐怖政治になります。

| | コメント (0) | トラックバック (7)

2006/01/28

女性天皇に全面的に反対の理由(2)

2.皇親内婚の男帝優先も皇室の伝統であり規範である

川西正彦(平成18年1月28日)

(1)皇親皇后(令制では皇后は内親王)の原則

 天平元年(729)八月二十四日の光明子(右大臣藤原不比等女安宿媛)立后ですが、当日は五位、諸司を内裏を喚し入れ、特別な立后の宣命がありましたが、この立后宣命には「我が王祖母天皇(元明か元正かで議論のある問題だがたぶん元明をさす)の、此の皇后を朕に賜へる日に勅りたまひつらく、其の父と侍る大臣の皇が朝をあななひ奉り輔け奉りて、其の父は夜半暁時休息ふこと無く,浄き明き心を持ちて……我が児、我が主、過ち无く罪なくあらば、捨てますなと負せ賜ひ宣り賜ひし大命によりて‥‥」とあるが、元明上皇が「捨てますな」と皇太子に命じたことは、元明と光明子の母県犬養橘三千代が親しかったことから事実だろう。

  このように立后の理由をくどくど述べ、弁解がましくも、はるか昔の仁徳皇后葛城襲津彦の女磐之媛命の立后の先例を挙げて、臣下の女子の立后はこれが新例ではないとして立后の正当化が図られてます。これは皇后の資格が皇親に限るという、原則・慣例があって、藤原氏皇后はこの慣例に反するものだからです。立后の意義に関する研究の基本的な文献として岸俊男の「光明立后の史的意義」(『日本古代史研究』所収塙書房1966)という論文がありますが、まずこの皇親皇后原則に関してまず引用したいと思います(註1)。
 

  岸氏は日本書紀では皇后の称が画一的に使用されているが、これは編纂時における統一だろうから、皇后の称については天智末年から天武初年を推定されてます。つまり莵野皇女(持統)からということです。それ以前は大后と称されていた身位が皇后とみなしてよいと思います。これはほぼ通説ですが、ここでは日本書紀どおり令制前大后も皇后とします。
 後宮職員令に「妃二員右四品以上、夫人三員右三位以上、嬪四員以上右五位以上」と規定されており、岸俊男は「妃以上は品位を有する内親王に限られる」(217頁)と解釈されています。皇后の資格規定はないことからこの見解には批判もあるが。岸説が通説です。又実態面からみても、日本書記天武二年二月条、皇后に天智皇女莵野皇女、妃に同じく天智皇女の大田皇女、新田部皇女、夫人に藤原鎌足女の二名と、蘇我赤兄女という事例が、後宮職員令に即したものであることを指摘されている。又「帝紀のうち信憑性のが高いとされる応神以後では、仁徳皇后の葛城襲津彦の女磐之媛命と仁賢皇后〔筆者註正しくは武烈皇后-原著者の誤り〕の出自未詳の春日娘子以外、皇后はすべて天皇の皇女または皇族たる王の女に限られている」とされ天皇の正妃が皇族から納れられた、允恭・雄略ころ、五世紀後半に大后の制が始められたとするのが岸俊男説である。
 日本書紀は皇親女子を姫、臣下の女子を媛と区別しており、この趣旨から磐之媛命を例外とみなすことになるが、磐之媛命も皇族とみなす説もあります。崇神天皇以後はそっくり皇親皇后と解釈することもできるわけで、皇親皇后原則というのは明確であると私は思います。令制においては皇后は内親王たるべしというのが原則であるとみなしてよいと思います。
 なお、岸俊男の通説に真っ向から批判するものとして成清弘和説(註2)がありますが、皇族皇后は日本律令の建前にすぎず、大后の成立を蘇我堅塩媛なのだというきわめて特徴的な説です。しかし蘇我堅塩媛は書紀では皇太夫人とされるのであって、后位ではない。この説には強い批判もあり到底賛同できない。
 一方、山本一也のように皇后は内親王たるべしというのは平安中期以後においても基本原則だったとしてその意義を評価する見解も出てきている(註3)。仁明天皇から宇多天皇まで皇后が立てられなかった問題について先行説を批判され、それは皇女をキサキとしなかったためであるとされる。又、冷泉天皇-皇后昌子内親王、円融天皇-女御尊子内親王、後朱雀天皇-皇后禎子内親王、後冷泉天皇-中宮章子内親王、後三条天皇-中宮馨子内親王という具合に平安後期においても内親王の入内は少なくないのであるが、山本は反面内親王を娶らなかった花山天皇、一条天皇、三条天皇について逐一検討され、系譜的に入内候補となりうる内親王が存在しなかったという。従って平安後期においても、「内親王を娶れる天皇は早期(東宮時代)に内親王を娶り、しかも最初に皇后としていると言える。これは当時でも、天皇の女は皇后たるべし、さらに言えば皇后は本来天皇の女であるという意識が存在したということではないだろうか」とされる、あくまでも皇后は内親王が基本原則だったという説である。
 しかし、ここで山本説に着目した趣旨は、日本では皇后という身位が古くは皇親、令制では原則内親王のための身位であったとみてよいと思ったからです。聖武生母藤原宮子は文武天皇の夫人であって、聖武朝では皇太夫人である。光明立后で慣例が破られたが、本来の制度では、諸王臣下の女子は夫人-皇太夫人で、内親王だけ本来后妃だったのではないか。院政期から鎌倉時代にかけて生涯非婚内親王の立后11例(9月27日ブログ参照)がみられますが、天子の嫡妻でない皇后という意味で令意に反しますが、日本では皇后がもともと内親王のための身位であるするならば原則に反するものではないと考えられるからであります。
 山本一也は令制前の皇親皇后の意義に次のようにいう。「かつては皇位継承争いを伴う非直系継承が支配的で、王権は絶えず動揺していた。そのような中では天皇の女との婚姻は皇位継承の前提として大きな意味を持ち、ゆえに王権周辺で指向されたのであった」とされる。この観点から5~6世紀から見ていきたいと思います。

(2)皇親内婚における男帝絶対優先の規則性

 継嗣令王娶親王条は「凡王娶〔内〕親王、臣娶五世〔女〕王者聴。唯五世王。不得娶親王」(〔〕はわかりやくするための挿入)と規定しますが、諸王は内親王以下、五世王は諸王以下、諸臣は五世王以下を娶ることができるとする規定である。言い換えれば皇親女子の内婚規定であり、諸臣との結婚を禁止するものである。つまり、男皇親(親王以下四世王まで)は臣下の子女を娶り得れども、女皇親(内親王以下四世女王まで)は臣下に降嫁するを得ずとし、且つ五世王は二世女王以下を娶り得れども内親王と婚することを禁じ、臣下の男はただ五世女王のみを娶り得ると定めている(註4)。
 つまり内親王は天皇、親王、二世~四世王のみ結婚相手として適法である。この皇親女子の内婚規定は延暦十二年詔(9月22日ブログ参照)でかなり緩められ、平安中期以後では内親王降嫁という違法婚が目立つようになりますが、今日においても皇室典範第12条が皇族女子(内親王・女王)は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したとき、皇族の身分を離れると定めているように、内親王位を保持するためには皇族との結婚が前提になっており、歴史的に一貫した規範的意義を有する。基本理念は一貫している。
 
  9月10日ブログにもある程度書きましたが、男系論者は125代皇位継承が男系だということを強調しますが、私はそれだけでは足りないと思う。皇親内婚の天皇-后妃・女御には多くの事例がありますが、全て男帝優先であって、たとえ直系卑属の皇女であっても傍系皇親男子をさしおいて即位するということは絶対ないのです。皇親内婚における男帝優先規則というものも堅持されなければならないのです。というよりも、有力な皇親女子で皇親の配偶者が現存していればそれは后妃(平安時代には女御ということもありますが)なのであって、配偶者が現存する限り天皇となりえない。天皇は天下を知ろしめす最高君主なのだから、世界を統御支配する最高君主が性的な意味での女になってしまうことは論理矛盾である。天下を知ろしめす最高君主が性的な主体であっても対象にされるなどということは論理的にありえない。皇婿、皇配という日本語はないわけで、皇親内婚なら、直系、傍系いかんにかかわらず、男性が天皇、女性は后妃になります。そういう基本的な原理原則をフェミニズムへの迎合ゆえ否定するというのが耐え難く不愉快です。

   歴史的事例をみていきましょう。まず重視したいのが、仁賢天皇-皇后春日大娘皇女(雄略皇女)です。この結婚の意義は傍系の履中系の仁賢が允恭-雄略系の皇女を妻にしていたため、有力な皇位継承候補となったとみられること。清寧天皇の皇妹である春日大娘皇女が即位するのではなく、傍系の仁賢が皇位を継承して、允恭-雄略系の直系卑属である春日大娘皇女はあくまでも皇后ということです。私のいう皇親内婚の男帝優先原則とはこういうことをいってます。あくまでも皇親内婚では傍系男子皇族が即位して直系卑属の皇女はあくまでも皇后、このケースは入婿型とみる見解もありますが、あくまでも皇位を継承するのは男子です。女帝というのは、配偶者となる男帝の崩後、緊急避難的あるいは権力抗争の緩衝剤として即位するものであって、直系卑属の皇女の即位が優先するというような論理性は歴史上全くないということ。
 
   次に仁賢皇女の手白香皇女、春日山田皇女、橘仲皇女がそれぞれ応神五世孫継体天皇、継体皇子の安閑天皇、宣化天皇の皇后であります。継体天皇は手白香皇女との結婚、立后を前提とした即位なので入り婿的ともいえますが、あくまでも直系卑属の皇女は皇后で、傍系でも皇親男子が即位するのです。手白香皇女を母とする欽明天皇が嫡系となり宣化皇女の石姫を皇后に立ててます。
 
  敏達天皇と御食炊屋姫尊(推古女帝)は異母兄弟婚ですが、井山温子(註5)が女帝誕生の経緯について、皇后の政治的権能から説明しているので引用する。「皇后(大后)が国政に関与するのは、天皇(大王)権が不在か不安定な場合である。まず御食炊屋姫尊が穴穂部皇子、宅部皇子を謀殺する詔を出すこと(崇峻即位前紀六月)や御炊食屋姫尊と群臣の推挙によって崇峻が即位していることから、新大王が即位するまでの間の前大后の中継ぎ的な統治権と皇位継承者の決定権が認められる」さらに崇峻天皇が殺害されるという王権の危機に際して、蘇我馬子によって御食炊屋姫尊が擁立された。推古女帝であります。このケースも御配偶の敏達天皇が崩御、同父母兄の用明天皇が崩御、さらに異母弟の崇峻殺害の後の女帝即位ですから、男帝優先であることはいうまでもありません。
 
   阿閇皇女(のち元明女帝)は天武五年~八年頃16~19歳で結婚した。御配偶の草壁皇子(父天武・母持統)は持統三年(689年)薨去されたので結婚生活は実質10~12年である。草壁皇子は即位できなかったが、父草壁、母阿閇皇女の軽が持統天皇の譲位により即位した文武天皇であります。しかし慶雲四年(707年)文武天皇の早世により緊急避難的に文武生母皇太妃阿閇皇女が即位した。元明女帝であります。このケースも草壁皇子や文武天皇がもっと長命であったならば、阿閇皇女が即位することもなかったわけであります。
 
  孝謙女帝のケースですが、あくまでも非婚内親王なんです。船王とか池田王といったような年齢的に釣り合う結婚相手となりうる皇親は存在したのですが、結婚はしていない。もし船王と結婚したなら、船王が即位して、阿倍内親王は皇后です。その選択肢もありえたわけですが、紫微中台政権を正当化するためには非婚女帝の即位のほうが望ましかったのだと思います。

 次に称徳女帝とは異母姉妹となる井上内親王ですが、 養老五年斎宮に卜定、神亀四年群行、天平十八年退下(離任)、天平十九年二品直叙、宝亀元年立后、宝亀三年廃后、宝亀六年没(変死)、延暦十九年詔して皇后の称を追復し墓を山陵と称する、伊勢斎宮二十年以上の在任から帰京されたのは天平十八年。同十九年正月内親王が無品から二品に特叙されたのは、斎宮の任務をとげたことによる。この前後に天智の孫の白壁王とみられている。今回の有識者会議の男女いかんにかかわらず直系卑属年長順とするルールを称徳女帝の後継者にあてはめると、称徳女帝の異母姉妹である井上内親王が皇位を継承しなければなりません。しかし井上内親王が女帝になって白壁王が皇婿殿下ということにはならないんです。あくまでも傍系皇親男子白壁王が即位して光仁天皇、直系卑属の皇女井上内親王は皇后です。
 
   また桓武天皇-前斉王妃酒人内親王(母は井上内親王)、平城天皇-前斉王妃朝原内親王(母は酒人内親王)という異母兄妹婚の連続はきわめて特徴的な結婚ですが、これも女系で聖武と繋がる妃を持ったことに意義を認めてもよいです。『水鏡』によると他戸親王廃太子後の皇太子に、藤原百川が山部親王、藤原浜成が稗田親王、光仁天皇は酒人内親王を推したと伝えられています。『水鏡』は信憑性に乏しいともいわれますが、孝謙女帝の例もあるから、内親王が女帝候補に浮上した可能性は否定できない。

 酒人内親王は宝亀元年三品直叙、宝亀三年斎宮に卜定、宝亀五年群行、宝亀六年退下、後に二品、天長六年薨76歳、伊勢斎宮から帰京してまもなく宝亀七~八年頃、桓武の東宮時代22~24歳に結婚。容貌艶麗であった。非婚女帝だから問題の先送りとなりますが、内親王が独身のままだと女帝候補に再浮上する可能性があったのため妃とするのが得策とする皇太子の政治的判断があったのかもしれない。酒人内親王はもともと后腹で三品、父方で天智、母方で天武と繋がっている。一方、母が和史新笠で帰化系氏族の山部親王は四品で、酒人内親王の方が皇親の序列で上位だったわけです。しかしあくまでも山部親王が即位して、酒人内親王は妃である。その逆はありえないんです。
 結果論としていえば平城天皇についてはいまさら聖武に繋がる朝原内親王を妃に持ったところでメリットはなかった。朝原内親王は母も内親王なので外戚の支援がなく、内親王は寵愛されることもなかったため薬子の変で平城上皇が出家されたため妃を辞職している。
 
   次に冷泉天皇(村上皇子)-皇后昌子内親王(朱雀皇女)ですが、昌子内親王は朱雀天皇の唯御一方の皇子女であり、冷泉天皇は従兄弟になります。昌子内親王は村上天皇の方針で東宮憲平親王の元服加冠の儀当日に結婚し、冷泉践祚後、即位前に立后されていますから、内親王=皇后原則の回帰とみることができる。臣下の女子だと、例えば光明皇后は聖武践祚の6年後、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては醍醐践祚の26年後ですから、本質的に政治行為なのである。これは冷泉天皇の皇統を正統とする意義があるという見方があります。しかし冷泉天皇は御悩あり、指導力を発揮しうる統治者とはいえない。また昌子内親王は冷泉天皇と同殿されることもほとんどなかったのです。それだったら昌子内親王が女帝でもよかったんじゃないかというかもしれませんが、御配偶の男帝をさしおいて女帝となることは絶対ありません。
 
   次に二条天皇の中宮ヨシ子内親王(高松院)ですが、近衛生母美福門院藤原得子が母です。美福門院は守仁親王(二条)を猶子にしていた。その妃に実娘のヨシ子内親王を結婚させたのです。この場合もあくまでも守仁が即位して、近衛天皇同母妹のヨシ子内親王は中宮(后位)であるわけです。鳥羽法皇崩後は美福門院が宮廷で求心力を有していた。後白河に譲位させて、二条を即位させたのも美福門院の指図です。それだったら猶子で血縁関係のない二条でなく実子の内親王を即位させてもよさそうだと思うのは間違いで、この場合もあくまでも男帝優先ということです。
 
 時代は近世に飛びますが、桃園天皇に後嗣なく閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳が後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定められた。光格天皇でありますが、後桃園天皇とは七親等離れた傍系親族です後桃園天皇の唯一の皇女欣子内親王は中宮(后位)です。皇女が皇后で七親等離れた傍系皇親が即位する。皇親内婚とはそういうもの。
 
  天下を知ろしめす最高君主たる天皇が、性的対象になることはありえません。あってはいけないんです。論理矛盾です。私は中原誠永世十段・永世棋聖・永世王位・名誉王座を尊敬します。それはやっぱり「突撃」発言です。やはり王者たるもの男というものは突撃しなければいけないんですね。世界の最高君主が突撃される側になるというのは論理矛盾でありまして、皇位とからむ皇親内婚では必ず、男子が天皇、女子は后妃、女御です。125代男系継承ということだけでなく、数多くの皇親内婚で例外はない。皇親内婚の男帝優先も決定的規範であることを強調したいと思います。
  日本的家制度(ここでは法的枠組みではなく我が国の家族慣行についての言及)では傍系親より直系継承を指向し、女系継承も、非血縁継承もありうるということで皇室と違いますが、あくまでも入婿は家長継承予定者として迎えられます。実子であろうと入婿、養子であろうと夫が家督相続し、家長を継承する。入婿が肩身が狭いというは心理学的側面を言っているだけで、あくまでも婿は家長予定者として迎えられるのであって、このアナロジーでもやはり男性が天皇でなければならない。それを否定するなら、婚姻家族の規範が崩壊します。日本においてはたんに労働力や子づくりのための当主となりえない入夫というのは伝統的な慣例に反しておりとても容認できない。一方、嫁であれ実娘であれ、女性が主婦です。主婦というのは慣例として、例えば家人、使用人の給与の配分とか、かなり大きな役割をもっているのではないかとも思ってますが、あくまでも婚姻家族の規範は夫が家長(家督継承者)、妻が主婦です。このアナロジーでいっても皇親内婚では直系卑属の皇族女子は、あくまでも后妃という身位でなければならればならないのは当然であります。
  この論点の反論として、華道「池坊」池坊由紀氏が次期家元で、元大蔵官僚の池坊雅史氏を婿に迎えている。これを女性当主の入夫の事例とみてよいかもしれない。こういうケースが伝統に沿ったものなのか、私は芸能家元の世界を全く知りませんので論評できませんが、皇室もこの例に倣ってもらっていいんじゃないかみたいな意見があるかも知れない。しかし、国家最重大事たる皇位継承と華道家元を同列の次元として論じるのが間違いであって、皇位継承とはそのように直系にこだわるものではないんです。「皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、〔傍系親も含む〕帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと、それがすなわち「万世一系」の史実です」この点については、1月9日ブログの後段にある村尾次郎『よみがえる日本の心-維新の靴音』日本教文社 昭和43年 1968 「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」の要所の引用をみてください。わかりやすい説明です。
  11月18日のなかのZEROホールの皇室典範改悪阻止集会で、外交評論家の加瀬英明氏が皇婿、皇配という日本語にない新奇な制度をつくりだそうとしていること非難され、とくに皇婿のように女扁のつく肩書きは馴染みませんと述べておられます(註6)。同感ですが、皇婿という身位は論理矛盾、要するに、男性配偶者を有する最高君主は論理矛盾なんです。ありえないことをやろうとしている。

(註1)なお皇后あるいは中宮に関する基本的文献としては橋本義彦「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館1976 141頁 (初出『書陵部紀要』22号1970)、関連して橋本義彦「女院の意義と沿革」『平安貴族』1986平凡社、龍粛『平安時代』「中宮」1962
(註2)成清弘和 『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令1)皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999「大后についての史料的再検討」
(註3)山本一也「日本古代の皇后とキサキの序列--皇位継承に関連して」『日本史研究』470号 2001年10月
(註4)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」259頁
(註5)井山温子「『しりへの政』その権能の所在と展開 」『古代史研究』13 1995
(註6)加瀬英明「どうしても伝えたい寛仁親王の真意」WiLL2006年1月号も同趣旨

| | コメント (0)

2006/01/25

女性天皇に全面的に反対の理由(1)

 わたくしは、現東宮家の内親王の立太子・即位それ自体に反対でありますから、たんに女系継承反対論ではない。桜井よしこのような女系天皇に反対するが女性天皇容認という論者にも強く反対します。女帝、女性立太子、女性当主そのものに反対。第一子か男子優先かという議論は女帝を容認する前提であるから問題外になります。このブログ、だらだら長すぎ読むのに疲れるので、あらためて簡潔に述べることにしたいと思います。

1 生涯非婚内親王であることが前提となっていない以上前例に反するのみならず、たとえ生涯独身でも血統的に袋小路の状況での即位に正当性はない

川西正彦(平成18年1月25日)
  
歴代女帝十代八方を類別すると
第一 先帝皇后(前代以往の天皇の妻后を含む)が即位のケース‥‥推古(欽明皇女、御配偶の敏達とは異母兄妹)、皇極=斉明(敏達曾孫、孝徳皇姉)、持統(天智皇女)

第二 皇太妃(先帝生母)が即位のケース‥‥元明(天智皇女)

第三 生涯非婚独身の内親王が即位のケース‥‥元正(天武孫、文武皇姉)、孝謙=称徳(聖武皇女)、明正(後水尾皇女、後光明・後西・霊元皇姉)、後桜町(桜町皇女、桃園皇姉)
 
 第一のタイプ皇親皇后の即位は、御配偶の天皇崩後であり(推古女帝のケースは、敏達崩後、用明、崇峻の兄弟継承を経たうえでの即位であるが)、女帝即位は不婚独身であることが大前提である。中国の漢代など太后臨朝といって先帝皇后が権力を掌握することがあり、特に後漢はこのケースが多いのですが、中国の伝統では正統的な統治体制です(宋代であれば太后垂簾聴政)。
 我が国の場合は中国と違って、皇后が皇親であるというのが令制前の時代からの伝統で皇親内婚であるため(奈良時代の藤原安宿媛立后は慣例を破ったもの)、称制からさらにすすんで先帝皇后が即位することができるということです。

 第二のタイプ、元明女帝(諱阿閇皇女、天智皇女、母蘇我倉山田石川麻呂女姪娘)のケースは、文武天皇の早世により子から母への緊急避難的な継承でありきわめて異例であるため文武天皇の「遺詔」と、天智天皇の「不改常典」によって正当化が図られた。文武朝における阿閇皇女の身位は皇太妃であって厳密には后位ではないが、皇太后に准じた身位とみなしてもよい。御配偶の皇太子草壁皇子薨後18年後の即位であるが、草壁皇子は皇位継承予定者であったが、岡宮御宇天皇と追号されたのは薨後約70年後の天平宝字二年であり、阿閇皇女が后位にのぼされてない以上、第一の先帝皇后の範疇とは厳密な意味で区別した。いずれにせよ、即位後は不婚独身である。
 
 つまり第一、第二のケースは中国漢代の太后臨朝に類したケースから即位もしくは緊急避難的な即位です。権力抗争の緩衝剤という見方もあるが、いずれにせよ現今の女帝論議では、先帝皇后等の即位は想定されていません。そもそも皇后陛下も皇太子妃殿下も民間出身なので人臣の女子が即位することはありえませんから。そうした想定はなされていないわけです。
 そうすると、女帝の先例としては第三のタイプ、生涯非婚内親王だけです。聖武天皇の伯母にあたる元正女帝は聖武実母の藤原宮子が夫人位で后位ではなく重い鬱病で政治力がなかったため、聖武の准母のような立場での即位とみることもでき、第二のケースの変態とみなしてもよいが、とにかく非婚女帝の先例があるということで、生涯非婚を貫くことと中継ぎを絶対条件として女帝容認という考え方はありうるかもしれないが、結論としてこれから述べる理由から、現今の状況、血統的に袋小路の場合は正当性はないと私は判断するので、女性天皇絶対反対との結論です。
 非婚内親王即位の事例の性格についていえば中継ぎです。まず元正女帝は甥の皇太子首皇子15歳が幼稚であるため太子が成長するまで中継ぎとして即位した。
 後桜町女帝も甥の儲君英仁親王5歳が成長するまでの中継ぎとしての性格が明白である。あえて女帝即位はそれなりの事情があった。中御門上皇が32歳、桜町上皇が31歳、桃園天皇が22歳と若くして崩御になられたため、上皇不在の状況で幼帝即位が連続することは朝廷運営において望ましくなかったことなどがある。
 明正女帝のケースは践祚の時点で後水尾上皇に皇子がなく異例だが、小槻孝亮の日記に後水尾天皇譲位の覚書が記載されているが、数年来の疾病が悪化し腫れ物もできており治療に専念したいので譲位したいこと「女一宮に御位あづけられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」(註1)とあり、実際弟の後光明天皇に譲位されているので、このケースも中継ぎである。(9月10日ブログに詳論)

 現今の状況に比較的類似している例が、聖武天皇が陸奥産金の報せに狂喜するあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し薬師寺宮に遷られたため皇子誕生の見込みがなくなり、直系継承が不可能になってしまって傍系皇親の皇位継承が必然化した状況にもかかわらず孝謙女帝が即位したケースである。
 但し現今のように女帝の次の男系男子皇族が不在であるのとは状況が異なる。傍系皇親が多数実在していた。有力なのは律令国家成立以降功績がある天武系の舎人親王系と新田部親王系であり、舎人親王王子では船王・池田王・守部王・大炊王、舎人親王孫の和気王、新田部親王王子では塩焼王・道祖王、このほか高市皇子系では長屋王王子、安宿王・黄文王・山背王、長親王王子で智努王、大市王、奈良王がいた。孝謙女帝の治世で皇親から臣籍に降下した例が、敏達裔、舒明裔、天智裔、天武裔、出自不明を含めて72例あることからみても(註2)、皇位継承資格を有する諸王は多数実在していた。
 聖武上皇の遺詔で道祖王立太子-廃位、大炊王が前聖武天皇の皇太子から即位したが廃位、淡路配流、孝謙上皇の権勢の執着に発した重祚により女帝健在のうちは皇太子が立てられず、結局天智系の大納言白壁王(光仁天皇)への皇位継承となったわけだが、非婚女帝であるから結果論として中継ぎなのである。
 歴史家(古代史)の角田文衛は「皇親の殺戮、追放に関しては、ローマ帝国のネロ帝、唐帝国では則天武后、日本では孝謙=称徳女帝が最も著名である‥‥称徳女帝に至っては、崩御の日まで強大な権力をもった手のつけられぬ女帝であった」と述べておられる(註3)。ネロ帝・則天武后と称徳女帝が並べられれております。
 なるほど、孝謙=称徳女帝の治世において天武系皇親は廃太子道祖王、黄文王が奈良麻呂の変で杖死。つまり拷問で殴り殺し。塩焼王(臣籍に降下して中納言文部(式部)卿氷上真人塩焼)は仲麻呂の乱で今帝に偽立され斬殺。淡路廃帝の兄弟である船親王隠岐配流、池田親王土佐配流、淡路廃帝の後背勢力である舎人親王系皇親で健在だった30名中29名が道鏡政府の下に配流、臣籍降下等の処断がなされている。淳仁天皇の甥でありながら孝謙上皇に積極的に協力し、仲麻呂謀反を密告し淳仁天皇の在所を包囲するなどの功績により、功田五十町を賜った参議兵部卿和気王も「男女」(女帝と道鏡)の死を祈願したことが発覚して死を賜っている(伊豆配流途中絞殺)。塩焼王の妻で聖武皇女不破内親王(称徳女帝の異母妹)が巫蠱によって厨真人厨女という姓名に貶められ京外追放。その一味の忍坂女王、石田女王、河内女王も追放された。この事件は氷上真人志計志麻呂(天武曾孫)を皇位に就けようとして女帝の髪を盗んで佐保川で拾ってきた髑髏に髪を入れて宮中で呪詛するというおどろおどろしい事件であった(ところがこの事件は光仁朝の宝亀年間に誣告だったということになり厨真人厨女は属籍を復し、忍坂女王なども復権している)。塩焼王の子氷上真人志計志麻呂は土佐配流(註4)。
 むろん、天皇には即決処分権がある。裁判を経る必要などないのであって、有力な皇親を殺戮したり追放するの古典帝国の皇帝の宿命であったわけだから、殺戮を非難するものでは全くないし、殴り殺そうが、絞め殺そうがどうということはない。問題は女帝の次の皇位継承の混迷である。
 歴史上唯一の女性立太子例は天平十年(738年)正月の聖武皇女阿倍内親王(孝謙)だけだが(9月11日ブログ阿倍内親王の立太子-天平十年史上唯一の女性立太子の特異性参照)天平宝字元年七月に橘奈良麻呂の変により喚問を受けた陸奥国守佐伯全成の自白に、「去る天平十七年先帝陛下(聖武)は難波行幸中に重病になられた。このとき橘奈良麻呂は自分に語って『陛下枕席安からずして、殆んど大漸に至らんとす。然れども猶皇嗣を立つること無し、恐らくは変有らん乎。願はくは多治比国人・多治比犢養・小野東人を率い、黄文を立てて君となし、以て百姓の望に答へよ‥‥』と誘った‥」という。「猶皇嗣立つることなし」とは、瀧浪貞子が論じているように当時の貴族の一般的な考え方であった。立太子後七年も経っていながら、阿倍内親王が結局は皇嗣=嫡子とは認められていないことを示している(註5)。皇嗣すなわち皇統の継承者は男子である。女性立太子の論理性はかなり弱いものと断じてよいと思う。ヒツギノミコという言葉はあるがヒツギノヒメミコという言葉はありえない。どう考えても女性立太子はヘンだと云わなければならない。当時においても女性立太子は特異と認識されていたし、孝謙女帝の即位それ自体が変則的なのである(9月19日ブログ以下参照)。
 それゆえ女帝が真に権力者となり権力基盤を固めるためには新田部親王系、舎人親王系といった天武系有力皇親を壊滅させる必要があった。結局、称徳女帝が不予に陥った状況の皇嗣策定会議で皇位継承候補たりえたのは、天武系では臣籍に降下した前御史大夫(大納言)文室真人浄三(もと智努王)と弟の文室真人大市(ともに出家していた)だけだった。右大臣吉備真備によって推薦されたと伝えられているが、女帝が権力に執着したためにほとんど天武系は壊滅状態になってしまったのである。
 ということで、血統的に袋小路の状況ではたとえ非婚内親王でも皇位継承で混迷した前例がありやはり問題なのだ。天皇と上皇の共治体制は近親でないとうまくいかない。孝謙と淳仁は六親等離れており、光明皇太后の決裁で淳仁は前聖武天皇の皇太子として即位しているから、孝謙上皇は淳仁に親権を行使できる立場でなかったにもかかわらず、権勢に執着する上皇は、国政の大事、賞罰は上皇が掌握すると宣言して奪権闘争に突入していった。
 この教訓を生かすならば、たとえ非婚内親王を絶対条件としても現今の状況で女帝の中継ぎという選択肢は適切でない。
 もっとも私はこれまで書いたブログで光明皇太后の紫微中台政権、皇太后が天皇大権を掌握したことも、称徳朝の意義についても女帝についても実はかなり肯定的に評価もしている。それは律令国家成立期からこの時期まで天皇・上皇・皇后さらに皇太子も含めた共治体制が基本で、当初は聖武上皇も健在だったし、当時の政治力学では光明皇太后が主軸にならないと現実政治で政権の安定は難しかった。皇太后朝は聖武朝との政策の継続性もあり無難な政権だったのである。しかも光明皇太后は大炊王を前聖武天皇の皇太子として直系継承の擬制も行ったし、孝謙上皇の反対にもかかわらず、淳仁天皇の先考舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号で舎人親王系皇統を創成させて確実な男系継承のため尽力されたのである。その後の政治的経緯、孝謙上皇の重祚は皇太后にとっては想定外のことであってこのことを別として、政権の安定的継承により傍系につなぐという意味で、皇太后との共治体制として孝謙女帝の意義を認めてよい。しかし現今の状況はそれとは全く違う。皇太后朝という安定政権によって律令国家を成熟させるという国家的課題があるわけでないので、たとえ非婚であっても女帝即位の正当性は孝謙のケースよりさらに弱いのである。
 政府-有識者会議の結論は旧皇族の属籍復帰を全面的に否定しているので、つなぎの女帝や歴史的に前例である生涯非婚を前提としていないのである。政府(有識者会議)案の女帝-女性宮家当主は当主となりえない入夫という非常に醜い婚姻を前提としているため前例のないものである。こんなものは到底容認できるものではない。結論として女性天皇は絶対反対ということになる。
 なお、同様の理由で宮家の女性当主にしても反対である。宮家の女性当主としては桂宮淑子内親王の例がある。仁孝第三皇女で、天保十一年閑院宮愛仁親王と婚約したが、天保十三年に親王が薨ぜられた。文久二年異母弟・節仁親王の薨後空主となっていた桂宮家を継承いで慶応二年准三后、一品に叙されている。これは婚約者を失った内親王を遇するためのものなのだろうが、淑子内親王は独身を貫いており、明治14年内親王薨去により継嗣がないため桂宮家は断絶した。この先例からみて女性当主を認めるには不婚でなければならないというのが絶対のルールである。
 女帝がなぜ非婚かという論点については、諸説ありますが、ここでは成清弘和説を二点だけ引用しておきます。成清氏は女帝が非婚でなければならない理由について妊娠出産という女性生理が宮中祭祀に抵触すると観念されていたと推定されている。その根拠として神祇令散斎条の「不預穢悪之事」に対する古記の「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」を例示している。「つまり、仮に、女帝が妊娠し出産することとなれば、この禁忌に触れ、宮中祭祀に支障が生じることにより重大な問題となる」(註6)。
 それも重要な点だが、成清氏の『日本霊異記』下巻第三八話の皇后の用法の引用を読んで、妊娠出産という次世代の再生産は皇后の役割であって、妊娠出産する天皇というのは論理矛盾でありえないという認識を示していることを知った。
「帝姫阿倍天皇御世之天平神護元年歳次乙巳年始、弓削氏僧道鏡法師、與皇后同枕交通 天下政相摂、治天下 彼咏歌者 是道鏡法師之與皇后同枕交通 天下政摂表答也」
 称徳女帝を天皇と記さずに皇后と記していることに着目したい。成清氏によると「弓削氏の道鏡と「交通」り、共に天下を治めているのは「皇后」である‥‥つまり「皇后」とは「交通」り、次代の継承者を再生産するものであり、ともに天下を治めるものである、という認識の存在の指摘が可能」(註7)とされるのであるが、裏返していうと天皇に次代の再生産を求めることはできない。その役割は皇后だということです。昔からそういうことに決まっているわけです。だから、配偶者が現存する状況での女帝即位は論理的にありえない。それはもはや女帝ではなく皇后というほかない。称徳女帝は独身だから天皇であって皇后ではありえないわけですが、道鏡と「交通」の局面においては理屈のうえで皇后になってしまうわけです。
 要するに次代の継承者の再生産は后妃の役割、天下を知ろしめす天皇にはそういう役割はない。伝統的にそういう理屈になっているわけです。象徴天皇だから妊娠出産する天皇でもいいじゃないか。男女役割分担の定型概念打破のため、天皇や皇太子にも妊娠出産していただこうというのは皇位を侮辱するもの。

 
(註1)荒木敏夫『可能性としての女帝』青木書店 1999 271頁
(註2)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991但し初出は1970 219頁
(註3)角田文衛『律令国家の展開』塙書房1965「天皇権力と皇親権力」26~27頁
(註4)倉本一宏『奈良朝の政変劇 皇親たちの悲劇』吉川弘文館歴史文化ライブラリー
(註5)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」75頁
(註6)成清弘和『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999 141頁 
(註7)成清弘和 前掲書「大后についての史料的再検討」101頁

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006/01/14

女帝絶対反対論-当ブログ総目次(平成17年8月~18年1月9日)

   このブログは5ヶ月近くたちますが、ほとんどのテーマが女帝反対論で、反フェミニズム的論題が3~4回程度。反労働組合のテーマがないのは不備ですが、公務員の労働基本権付与絶対反対論など(16日の政労協議はきわめて不愉快)労働政策批判もやらなければならないのでそのうち出します。
 1月20日の通常国会召集で緊迫した情勢になりました。通常国会前には所功女系容認論駁・有識者会議報告書論駁をまとめるべきでしたが、仕事が遅くてまだ途中なので女帝反対論は延延と続くことになります。
 とはいえ所功、高森明勅、高橋紘、園部逸夫といった女系容認論者批判も不十分ながら一応取り上げており、素人作文ながら有識者会議のカウンターレポートとしてそれなりの内容・分量を既に備えています。又、自己ブログを引用するにも手間取ってしまっており、せっかく貴重な時間をさいて読んでくださる方にも不便だと悪いので、これまでの内容を総目次にしました。

8月21日
女帝即位絶対反対論 (皇室典範見直し問題)第1回
第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由
Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する
1.はじめに *冒頭『国体の本義』を引用 
2.政府案は事実上の易姓禅譲革命是認案で日本国はおしまいだ
(1)政府案ではプリンスコンソートが非皇親・非王姓者なら易姓禅譲革命になり日本国は終焉する
(2)「吾朝は皇胤一統なり」
(3)日本的家制度との類比問題
(4)易姓革命なら国号を改める必然性
(我が国は中国の国家概念を継受している)
(中国王権と同じパターンの王朝名の由来)
(日本は王朝名)
(5)内親王に禅譲革命を演出する最悪の役回りを強要してよいのか
(6)非皇親(非王姓)帝嗣に剣璽等承継の資格はない
(7)非皇親(非王姓)帝嗣に高御座での即位、大嘗祭挙行の資格はない
                 
8月26日
3. 世論重視=孟子の革命説の採用は危険思想だ

8月27日
4.万世一系の皇位とは反易姓革命イデオロギーでもある

8月27日-その②
5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
(1)継嗣令王娶親王条の意義
(2)天武と持統の婚姻政策の違い
(3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
(4)宗法制度との根本的な違い

8月27日-その③
(5)律令国家は双系主義という高森明勅氏の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
 〔1〕令義解及び明法家の注釈
 〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
 〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ

9月1日
 今日の朝刊(9月1日)を読んで
*内容は有識者会議座長の発言を批判

9月3日
 〔4〕諸説の検討
 〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
*8月27日-その③と9月3日が高森明勅批判さらに女系が皇統でありえない理由を9月10日以下で詳述する構成。

9月7日
合衆国最高裁レーンキスト主席判事葬儀に思う
*内容は同判事がセクハラ判決で司法積極主義だったことが男性としてえらい迷惑だったから哀悼を表するほどのことはないとの論旨

9月10日

〔6〕皇親内婚の男帝優先
〔7〕女帝は皇統を形成できない
イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
     明正女帝
   後桜町女帝

9月11日
二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)
*9月11日~19日-その2が孝謙女帝論 

9月19日

ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
①譲位より出家が先行の変則性
②政務を託されたのは光明皇后
③光明皇后の指示による孝謙即位
*孝謙女帝論だが、現今の状況で女帝に反対する理由も述べている。

9月19日-その2
ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
ホ-4 草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
*孝謙女帝論の続き

9月22日
(6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
(7)平安中期以後の違法婚
*継嗣令王娶親王条の意義の続編-8月27日-その②からここまで飛んで読める構成

9月25日
補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義
はじめに-近代の皇族概念との違い
(1) 皇親の員数
(2) 皇親の待遇
(3)皇親賜姓と皇位継承問題
文室真人浄三・文室真人大市
氷上真人志計志麻呂と川継
属籍を復すこともありうる
源融の自薦
(4)親王宣下制度
(5)未定名号の皇子の即位
未定名号から践祚当日元服命名の例1 後嵯峨天皇
未定名号から践祚当日元服命名の例2 後光厳天皇
*世襲宮家の意義は表題だけ。ここで取り上げないで、10月3日~16日、11月19~23日の高橋紘批判シリーズの表題で伏見宮を中心に論じることとした。中世常磐井宮と木寺宮については10月16日ブログ参照。

9月27日
(6)中世~近世の非婚皇女
*非婚内親王の准母立后制や比丘尼御所に言及

10月3日
皇室典範に関する有識者会議の論点整理について反対意見-高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか
(伏見宮家成立の歴史的意義と後花園天皇即位の歴史的意義)
*伏見宮が持明院統嫡流であり皇位継承の正統性を有するのであって、分派とみなす見解や、父系で遠縁という理由による切り捨て論を批判するシリーズ。

10月10日
同(第2回)補遺 伏見宮の成立過程
1 光厳法皇の所領処分と崇光院流の正統性
2 栄仁親王と緒仁親王の皇位継承争いと後小松天皇による崇光院流所領の没収

10月12日
同(第3回)石清水八幡宮の託宣の意義を否定してよいのか
*後嵯峨天皇が未定名号の皇子だった時代の八幡宮の託宣が後崇光院伏見宮貞成親王の『椿葉記』の由来になったことにちなんだエピソード

10月16日
同(第4回)
1 補遺 後花園天皇即位の意義
2 後花園天皇の叡慮(貞常親王の永世伏見殿御所称号)の決定的意義
3 世襲親王家(定親王家)の意義
*亀山系の世襲親王家常磐井宮と後二条流の木寺宮についても言及

10月17日
旧皇族の属籍を復す方向で男系継承を堅持すべきである

10月23日
高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第5回)
*高橋紘の発言「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった。つまり伝統といっても皇族間と幕府だけの狭い世界で続いてきたもの」の批判

10月30日
最悪だ!皇室典範に関する有識者会議は直ちに解散すべきだ
重大な問題について思考停止してしまう有識者会議に答申の資格はない
そもそも園部逸夫座長代理の持論は伝統否定容認論なので偏った人選だった

10月31日
本日発売の週刊誌について

11月1日
首相官邸へのメール

11月5日
三笠宮寛仁さま「エッセー」報道についての所感

11月6日
女系天皇容認の皇室典範改正は憲法第二条に反し違憲である
-有識者会議メンバー憲法二条の見解に対する反対意見-第1回
要旨
有識者会議のメンバーの見解についての疑問
園部逸夫の非論理性
小嶋和司説(世襲=男系継承説)
フランス王権の王朝形成原理との類比
*このあと女王が存在する英国の王権形成原理との違いや、ベルギーなど女子差別撤廃条約との絡みで王位継承に関する憲法改正を行った国の政策を批判する予定でいたが続編がない状態

11月17日
女帝反対論批判の反論(その1)
*女帝反対論に批判的なブログの反論というかたちをとった、女帝反対論

11月19日
女帝反対論批判の反論(その2)
後桃園天皇の継嗣問題と伏見宮
*前回の続編だが高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのかシリーズ
10月16日の続編にもなる構成になっている

11月20日
女帝反対論批判の反論(その3)
伏見宮の実系相続維持の意義と他の世襲親王家との違い
(八条宮相続の例)
(高松宮-有栖川宮相続の例)

補説 近い遠いは関係ないひとつの理由、近代皇室典範の長系・嫡系・近親優先主義と歴史的経過は異なることを理解すべきだ
(補説は少し粗っぽい立論になっているが、要するに中世~近世は僧籍に入って一生を終える皇子が多く、伏見宮家のように宮家の実系相続が続くと、皇位継承候補たる宮家が僧籍に入っている皇親よりも遠縁になるシステムなのだということ。鎌倉時代以前のように在俗皇親を支える経済的基盤に欠いているのだから、宮家も限定せざるをえないし、それも合理的なシステムだったと考えるものである)

11月23日
女帝反対論批判の反論(その3)
宮門跡還俗による伏見宮系宮家の創設の意義
持明院統文庫の伏見宮家相続の意義
結 論

12月4日
神の宣告(創世記3章16節)は決定的だ-反男女平等-文化戦争突入宣言
男性優位主義が文明社会の鉄則だ
女子差別撤廃条約の締約国の義務はCEDAWへの報告制度だけ
特定社会階層の利益のための女性政策
「人間の尊厳」を否定するが、男性の尊厳の回復を求める
 合意主義婚姻理論は形式的には対等にみえるが
 夫は領主(lord)、バロン(balon)と尊称されて当然
 妻は奴隷のように夫に服従すべきだ
*反フェミニズムの趣旨の概略、有識者会議がフェミニズムに迎合した見解を述べているので、まず自己の思想的立場を述べることとした。

12月18日
敵は本能寺!法案を叩き潰すために文化戦争に突入する
厚生省官僚-こちらこそ本物の悪のトライアングル
*古川-羽毛田-柴田のことです。先輩-後輩関係で繋がっている
最悪のシナリオ
性差別撤廃で婦人道徳完全崩壊の懸念
節婦表旌
女御藤原貞子出家の女性史上の意義
女御藤原多美子出家の意義と婦人道徳
七出・三不去の制

12月26日
出生数試算のインチキ-皇室典範に関する有識者会議報告書反駁-
1.要旨
(有識者会議の試算は結婚後5~6年ぐらいでの離別・離婚を前提としたもの)
2.完結出生児数による試算のほうが合理的

12月29日
補説「少子化」問題の分析と対策についての疑問
(歴史人口学の理論)
(社会経済的要因とその問題点)
(文化的状況と問題点)
*26日のブログの補説

1月3日
基本的用語の説明からインチキ(1)-皇室典範に関する有識者会議報告書反駁-
1.皇統の概念規定からインチキ
2."なんとなく男系"が続いただけなんてそんなばかなことあるか
(1)直系卑属優先なら、光仁天皇でなく井上内親王が即位したはず
(2)律令の父系帰属原則
(3)中国の国家概念の継受-王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義-
(4)中国王権と同じパターンの国号の由来
(5)日本国号は王朝名だから易姓革命なら日本はおしまい

1月4日 訂正記事

1月9日
所功の女系継承容認論駁・皇室典範に関する有識者会議報告書論駁(その1)
1.旧皇族の皇籍復帰を否定する理由に論理性がない。
また所功は歴史学者の村尾次郎の万世一系の定義などをもちだしているが、この論旨から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。
(1)臣籍に降下した者が属籍を復した例は歴史上多く、所功と有識者会議は例外性を強調しすぎている
(2)明治四十年の皇室典範増補で属籍復帰を否定していても当時とは状況が異なる
(3)臣籍に降ったケースでも皇位継承候補者たりうる歴史上の事例
(4)所功のいう村尾次郎の万世一系の定義から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006/01/04

正月ぼけでつまらないミスを

紅白歌合戦でゴマキとかアヤヤをみて興奮したためか、つまらないミスをしてすみません。前回のブログで光孝天皇の姪が人康親王女(二世女王)でその子どもが藤原時平です。それなのに「光孝の甥」とか書いてしまって迂闊でした。訂正します。つまり宇多天皇と時平の母がイトコ、醍醐天皇と時平はマタイトコ。

  ところで今日の毎日新聞を駅で買って読みましたが、寛仁親王殿下が単独インタビューで再度、皇室典範問題に言及されています。再度発言されたのは通常国会を意識され強い危機感によるものでしょうが、ここまで切羽詰まった状況にしてしまったこと。自分も国民の一人として大変申し訳なく思ってます。自民党内閣部会の段階で国会に提出することなく潰してもらわないと情勢は厳しくなる。従って今月は死力を尽くすしかないように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/03

基本的用語の説明からインチキ(1)-皇室典範に関する有識者会議報告書反駁-

 通常国会が開かれてから、自民党の内閣部会が天王山となるようだ。正月から決戦モードで気合いを入れていきたい。今回は従来述べてきたことの繰り返しが多く新味がありませんが、次回は所功の女系容認論反駁をやる予定です。

川西正彦(平成18年1月3日)

 目次 1.皇統の概念規定からインチキ
     2."なんとなく男系"が続いただけなんてそんなばかなことあるか
      (1)直系卑属優先なら、光仁天皇でなく井上内親王が即位したはず
      (2)律令の父系帰属原則
      (3)中国の国家概念の継受-王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義-
      (4)中国王権と同じパターンの国号の由来
      (5)日本国号は王朝名だから易姓革命なら日本はおしまい

1.皇統の概念規定からインチキ

 皇室典範に関する有識者会議報告書がいかに汚い内容か。議論の前提となる最初の「基本的用語の説明」からインチキなのである。人を騙そうとする悪意に満ちている。

冒頭の「皇統」の説明から間違ってる。有識者会議報告書の引用は赤字とします。 
 
基本的な用語の説明
〔皇 統〕
・ 「皇統」とは歴代の天皇からつながる血統のこと。


 この概念規定はあまりにもルーズでいい加減、たんに、歴代の天皇と繋がる血統という文言だと、女系も含むものと解釈されうるわけで報告書は一行目からインチキです。
 
 女系で歴代天皇に繋がっていれば皇統ということなら、平安時代の摂関継承家や閑院流藤原氏も皇統 ということになってします。そんなばかなことがあってたまるか。
 例えばこういうことです。関白藤原基経の正妻が人康親王女(二世女王)、基経と人康親王は母方で従兄弟でもありますが、左大臣藤原時平、左大臣藤原仲平、醍醐后朱雀・村上生母藤原穏子(天暦大后)の生母は人康親王女です。なお関白藤原忠平の生母については歴史家によって見解が異なるのでここでは不確定としておきます。
 つまり延喜新制期の左大臣藤原時平(本院大臣と称される-註1)ですが、母方で承和聖帝=仁明天皇に繋がっております。母方を遡っていくと人康親王女-人康親王-仁明天皇です。光孝天皇と人康親王の母が女御藤原沢子(贈皇太后)である。時平の母方大叔父が光孝天皇であり、醍醐天皇とはマタイトコになります。
 仁和二年正月二日、内裏仁寿殿において時平は元服の盛儀を挙げた。光孝天皇が手ずから冠を加え即日親筆の位記をたまわって正五位下に叙された(註2)。功臣の嫡子としての殊遇であったが、天皇手ずからの加冠は時平と仲平の例しかなく、空前絶後の殊遇は基経の権力の大きさを物語るが、それは時平が光孝天皇と近親という意味も含むと思う。時平と仲平が女系で天皇と繋がっていることは、それなりの意味があるとみてもよい。
 しかし、時平・仲平は北家藤原氏嫡流、藤原氏長者であるが皇統の男子ではもちろんない。仁明天皇と母方で繋がるが皇統ではないです。たんにこの例をもってしても「「皇統」とは歴代の天皇からつながる血統のこと。」という非常にルーズな有識者会議の定義は誤りであることは明白。時平が皇統男子だったら君臣の区別がつかなくなってしまう。
 くどいようだが、9月22日ブログと同じことを述べます。右大臣藤原師輔が醍醐皇女の三方、勤子内親王・雅子内親王(以上母は更衣源周子)・康子内親王(母は太皇太后藤原穏子)と結婚した。違法であるが勅許による。さすがに康子内親王は后 腹の一品親王なので村上天皇や世間は許さなかったとも伝えられているが、雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光、康子内親王の御子が閑院流藤原氏の祖である太政大臣藤原公季である。
 為光や公季は醍醐天皇の外孫、朱雀天皇・村上天皇の甥にあたり、母方で天皇に繋がってるが、あくまでも藤原氏の一員であり、当然のことながら皇胤でないから太政大臣に任ぜられても皇位継承者には絶対になりえない。母方祖母が朱雀・村上生母太皇太后藤原穏子である藤原公季の尊貴性は当然のこととして、藤原為光も母方祖母が更衣源周子(嵯峨源氏-近江更衣・中将更衣と称される。左大臣源高明の母)、父方祖母も文徳皇子源能有女だから、皇室や王氏との血縁関係はかなり濃いといえるが、皇位継承者には絶対になりえない。
 それでも女系継承策動の厚生省出身官僚・悪のトライアングル 古川-羽毛田-柴田 (私が命名しました)は女系も皇統といいはるんだろう、日本史専攻の学生にでも聞いてみてください、10人中10人が、内親王の御子の藤原為光や公季は醍醐の外孫、村上の甥であっても皇胤でないから皇位継承資格は絶対的にないと断言するはずだ。もし為光や公季のような外孫が登極すればそれは王権簒奪であり、王朝交替により国号もあらためなければならないんです。有識者会議報告書のルーズな皇統の定義では藤原為光や藤原公季は皇統男子になってしまう、そんな非常識なことがまかりとおってたまるか。
  また、関白忠平の生母が人康親王女でないとしても、忠平は宇多皇女源順子を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けている。要するに摂関家は小野宮流(実頼流)にせよ、九条流(師輔流)にせよ母方で天皇に繋がっている。
 要するに報告書の非常にルーズな皇統の概念規定では平安時代の摂関家、清華家の閑院流藤原氏・村上源氏という上流貴族が皇統という概念でくくれてしまう。そんなばかな理屈があるか。
 有識者会議の笹山晴生は日本古代史の専門家でありながら、こんないいかげんでルーズな概念規定に賛同してお墨付きを与えてしまったので重大な責任がある。学者として良心のひとかけらもない。根性が腐ってますね。もしあなたの弟子がこのようにいいかげんな概念規定をしてその論文を推薦できますか。あなたが学界実力者なら、藤原時平も藤原公季も藤原道長も藤原実資も女系で天皇に繋がってるからみんな皇統男子だと教科書を書き換えてくださいよ。そういう歴史を歪める無茶苦茶なことでいいんですかと言ってやりたい。
 花園上皇の『誡太子書』(註3)によると「吾朝は皇胤一統なり」として易姓革命の懼れはないという観念に安住することなく君徳涵養の必要を甥の皇太子量仁親王(のち光厳天皇)に書き与えたものだが、これはPDF資料有識者会議第三回の資料2「皇位継承の考え方が記録されている例」にも記載されていることです。
 男系でも女系でも天皇に繋がれば皇統だみたいな有識者会議のルーズな概念規定と『誡太子書』の「皇胤一統」という明白な男系継承概念は論理矛盾です。明天子と誉れ高い花園上皇の見解が誤っているのですか。そんなばかな。笹山晴生があくまでルーズな概念が正しいというなら、花園上皇を反駁してくださいよ。
 
 皇室典範の「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」は、明治皇室典範を継承するものであるが、その皇室典範義解(註4)によれば「皇統ハ男系二限リ女系ノ所出二及バザルハ皇家ノ成法ナリ‥‥祖宗ノ皇統トハ一系ノ正統ヲ承クル皇胤ヲ謂フ‥‥祖宗以来皇祚継承ノ大義炳焉トシテ日星ノ如く萬世二亙リテ易フルベカラニズ者蓋シ左ノ三大則トス
第一 皇祚ヲ践ムハ皇胤ニ限ル
第二 皇祚ヲ践ムハ男系ニ限ル。
第三 皇祚ハ一系ニシテ分裂スベカラズ」

 「皇統ハ男系二限リ女系ノ所出二及バザルハ皇家ノ成法」なのである。この決定的な法規範、皇統概念について明確な根拠もなく非常にルーズな概念規定に変えてしまっている。有識者会議報告書は基本的用語の説明-議論の前提からインチキをやっている、これほど人を騙し汚い報告書はない。この一点だけでもこの報告書は棄却されるべきである。
 
 ところで有識者会議でもヒアリングで呼ばれた高森明勅は、『養老令』は双系主義を採用していた。女系も皇統などという虚構の奇説(「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号78頁)を説いているが、高森説について私は8月27日その③で反駁してます。しかし、それ以前に同じ女系論者の所功が6月8日の有識者会議ヒアリングで名指ししないものの高森説を明確に否定している。にもかかわらず高森明勅は11月22日のテレビ朝日スーパーモーニングに皇室典範問題の解説者として出演し、当日の録画を採ってますが、8時52分に「皇統のなかには女系も含まれうる云々」と相変わらず大嘘を言い、司会の渡辺宣嗣が肯いていたが、高森の持説は完全に破綻しているのです。
 
2."なんとなく男系"が続いただけなんてそんなばかなことあるか

 にもかかわらず、女系も皇統みたいな奇説に類似した見解がみられるのは不可解です。『週刊文春』の2005年12月8日号(47巻47号)「女帝問題ご意見を『封印』された天皇・皇后両陛下のご真意」という記事は有識者会議のメンバ-を取材した記事ですが、ある委員は同誌の取材に対して
皇室の歴史は"なんとなく男系"で繋がってきただけだと思いますよ。明治以前は典範もなく男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません。側室が山ほどいて、たくさんの男子がいれば、当時の男性優位の社会では男の子が継ぐと考えられるのが当然ですから」と答えたという(154頁)。
 男の子がいっぱいいたから男が継いだだと、歴史を歪めた非常に偏った見解です。"なんとなく男系"だとそんなばかなことがあるか。こんな無茶苦茶な理屈で皇室典範が歪められてたまるか。
 またある委員は旧皇族の復帰について
男系維持派は勝手に言ってろという感じです。男系男子にこだわれば皇太子で終わりです。どこから男系男子を呼んでくるといっても、六百年前に分家した旧宮家しかないんですよ。そんな無理を通そうとするのは、よっぽど頭の悪い奴か男性優位主義者。とにかく人間蔑視の思想ですよ」(154頁)と言ってる。
 何回も言ってるが伏見殿は分家じゃないです。持明院統正嫡ですよ。
 この人は男系主義への敵意を持ってますね。この人は男性でしょうが男性優位主義はけしからんとか言ってますからフェミニストです。私からみてこの有識者はイデオロギー上の敵ですね。この人の主張では女帝反対の私はよっぽど頭の悪い奴で、人間蔑視ということになります。ある意味で当たってます。私は「人間の尊厳」なんて神学的フィクション、君主・王権を別として人間の尊厳なんて安易に認めないと公言してます。人間蔑視が正しいという考え方ですから。男性優位主義が文明社会の鉄則だ。フェミニズムが諸悪の元凶と言ってますから。この人が誰かだいたい見当はついてますが、イデオロギー的に衝突せざるをえません。
 私の主張は原理原則・規範が第一義である。大義を重んじる。「祖宗以来皇祚継承ノ大義炳焉トシテ日星ノ如く萬世二亙リテ易フルベカラニズ」皇位国体護持こそ第一義である。国民大衆の敬宮や雅子妃への勝手な思い入れなんていうのはバッサリ切り捨てろという立場ですから、それが人間蔑視というならそれでもかまわないです。

(1)直系卑属優先なら、光仁天皇でなく井上内親王が即位したはず

 文武天皇は皇后を立てず、知られている配偶者は夫人藤原宮子以下三人だけ、聖武天皇も光明皇后のほか4人の夫人が知られているだけ、キサキの数は少ないといえる。当時夫人位の藤原安宿媛(光明子)所生の皇太子基王は夭折し、夫人県犬養広刀自所生皇子安積親王も早世、草壁皇統は血統的袋小路になりましたが、后腹の阿倍内親王が立太子のうえ非婚で即位(孝謙女帝)しました。舎人親王の王子で池田王、船王といった年齢的にみて結婚相手となりうる皇親はいたのですが、結婚はしてません。女系は否定されているからこそ孝謙女帝は非婚を強いられてたのであって(もし池田王か船王と結婚していたら皇親内婚の男帝優先規則で皇位継承者は池田王か船王となるが、光明皇太后が国政を掌握する体制としては非婚の孝謙女帝が望ましかったと考える)、聖武上皇の遺詔で傍系の新田部親王の王子道祖王が皇太子に立てられましたが廃位、さらに舎人親王の王子大炊王が前聖武天皇の皇太子として即位(淳仁天皇)したが廃位、結局、天智孫の白壁王(光仁天皇)が皇位を継承しましたが、前斉王聖武皇女(夫人県犬養広刀自所生)井上内親王を妻としていました。
 今回の有識者会議の男女いかんにかかわらず直系卑属年長順とするルールを称徳女帝の後継者にあてはめると、称徳女帝の異母姉妹である井上内親王が皇位を継承しなければなりません。しかし井上内親王が女帝になって白壁王が皇婿殿下ということにはならないんです。井上内親王は既婚者だから、配偶者の白壁王をさしおいて即位することはできない。井上皇后が即位する可能性としては光仁崩後ですが、井上内親王はそれ以前に后位を廃されたうえ死亡したのでそれもなかった。皇親内婚の男帝優先規則があり、女帝即位は非婚であることが大前提なので男系継承のルールは明白です。だから"なんとなく男系"なんてそんなばかなことがあるわけない。

(2)律令の父系帰属原則
 
 また「男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません」などと言ってますが、大化の男女の法で良民の父系帰属原則、律令の父系帰属原則といった法規範を無視してます。令制における皇親(天皇の親族)の規定、継嗣令皇兄弟子条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」は、天皇(女帝をふくむ)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とした。そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)(註5)とするものですが、令制の二世王とか三世王というは、子を一世、孫を二世、曾孫を三世と数えます。これはいうまでもなく父系帰属主義なんです。
 ひとつの例を示します。霊亀元年(和銅八年)二月二十五日条「勅して三品吉備内親王の男女を皆皇孫の例に入れたまふ」という記事がありますが、天武曾孫にあたる式部卿長屋王王子で吉備内親王所生の諸王(膳夫王、葛木王、鉤取王)が皇孫の例に入れられた。これは三世王を蔭位等の面で二世王の扱いにして厚遇することを意味するが、女系では吉備内親王所生の諸王は元明女帝の孫ですから二世王になるが、そういう数え方は絶対しない。あくまでも男系主義で三世王だが二世王の特別待遇とするものです。なお父の長屋王はもともと慶雲元年に選任令の二世王の蔭階を三階上回る正四位上に初叙されるなど「別勅処分」による親王扱いを受けている(註6)こともあり特別待遇ということです。
 ただし父系帰属主義の例外も若干あります。敏達六世孫の葛城王は臣籍降下で橘宿禰諸兄(のち朝臣賜姓)となりますが、橘氏は母の県犬養橘宿禰三千代からとってます。同様の例もほかにもありますが、皇親諸王の二世王、三世王、四世王、五世王としての待遇の違いは男系主義です。 
 
 また継嗣令皇兄弟子条の本註〔女帝子亦同〕も例外的規定ですが既に高森明勅の反駁でも述べたとおり
  義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」
 
 「女帝子」とは四世王以上との婚姻の結果、生んだ子である。その根拠は下条つまり継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」である。これは諸王は(内)親王を娶ることができる。臣下は五世(女)王を娶ることを許すが、ただ五世女王のみ。(内)親王を娶ることはあってはならないという皇親女子の皇親内婚規定です。皇極・斉明女帝(宝皇女)は舒明天皇(田村王)との結婚以前に既婚歴があり、高向王とのあいだに漢皇子をもうけてます。漢皇子は令制の規定では三世王ですが、こういうケースで親王格上げを想定しているという説もありますが、女帝即位は不婚でなければならないから、未亡人の即位つまり太后臨朝から即位するケース、元明女帝のようにもと皇太子妃が緊急避難的に即位するようなケースでの「女帝の子」であり、義解によれば王娶親王条の皇親女子内婚規定により「女帝の子」の父は天皇・親王・二世~四世王に限られることになってますから、男系主義から逸脱することはない。男系主義は貫徹しているんです。
 なお、大宝令以後、継嗣令皇兄弟子条の本註〔女帝子亦同〕が適用された実例はありません。高森明勅は6月8日の有識者会議のヒアリングで元正女帝(氷高内親王)は天武孫だが元明女帝の所生「女帝の子」であるから内親王になったというインチキを言ってますが、氷高内親王は文武皇姉という資格で内親王です。〔女帝子亦同〕の適用ではない。同じく元明を母とする吉備内親王も同じ。この点は8月27日その③で明確に反駁してますので御覧ください。
 
 もっと基本的なことをいえば我が律令国家は大唐の律令を継受し、中国の法文化を忠実にとはとてもいえないが基本的には継受しているんです。王権の父系出自原則の継受は当然のことです。東洋法制史研究者の滋賀秀三(註7)によると、中国では共通祖先から分かれ出た男系血統の枝々のすべて総括して一つの宗という。つまり女系を排除した親族概念を宗という。ローマ法のアグナチオに類比さるべき概念としているが、伝統中国の法文化=宗法制度は父系主義であることはいうまでもないことです。したがって皇祖皇宗ということばも男系を意識しているのは当然だと思います。
 もっとも同姓不娶とか昭穆制とか実質的に宗族制度は受容されていないという面も多分にありますので、我が国の同族が中国の宗族とは構造がかなり異なる決定的なものとして異姓養子を受容したことがいわれる。
 異姓養子を非とする観念が、父系出自原則を徹底することとなりますが、その最大の理由について江森五夫(註8)によれば春秋左氏伝「神不歆非類、民不祀非族」とあるごとく、神霊は自己の血族以外の者の祀を享けないとする祭祀観念にあるとする。祖先の祭祀は父系的血族によってのみ執行わるべきであり、その祭祀の絶えざるが為に養子が取り立てられるがゆえに、養子は祖先と血縁者(同姓)であらねばならないとするものである。
 近世朝鮮が朱子学を国策とし東方礼儀国を称した歴史的経過から、韓国は儒教ノルム、父系出自原則が徹底している社会といえるが、門中が単位となって一年に一度おこなう儀礼として時享祭(四大祖以上の祖先に対する共同祭祀)があるが、これは儒教的性格が強く表れ男性成員のみの参加である(註9)。儒教における祭り祀られる関係において父系で生理学的に繋がる子孫によって祀られるという規範が徹底しているのだ。であるから儒教的ノルムが徹底した場合異姓養子はない。しかし我が国は儒教による祖先祭祀ではなく、仏教による祖先供養が普及したこともあり、春秋左氏伝の思想は貫徹しないのである。朱子学を官学とした徳川時代においても異姓養子厳禁という政策も観念は徹底しなかった(但し筋目尊重という趣旨で武家社会にはそれなりに浸透した-註4江守五夫の著書参照)。皇室においても中国の天子七廟制のような制度は継受しているわけではない。
 
(3)中国の国家概念の継受-王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義-

 しかしながら中国の国家概念が東アジア世界のスタンダードであり、我が国も中国の国家概念を継受しているということは、8月21日の第1回ブログ(4)易姓革命なら国号を改める必然性(我が国は中国の国家概念を継受している)で言及していることですが、要点のみ繰り替えし述べます。日本国号の由来や歴史的経過からみて、我が国も中国における国家をもって一姓の業とする概念を継受しているのは確実である。これは決定的です。従って易姓革命(王者は姓を易へて命を受く-史記巻二六歴書-)となれば国号を改めなければならない。女系継承のありえない中国の王権と同じく、王権が父系規則で徹底しているのは当然のことなのである。父系出自規則が破られれば、いかなるケースでも易姓革命になり王朝交替といえます。したがって日本の一般社会、皇室以外の家系において女系継承や非血縁継承が容認され、日本の同族が父系出自集団と概念規定できない在り方であるが、皇室はそれと同列に論じることができない。皇室は国家そのものだから。
 
 滋賀秀三(註10)によると「通志氏族序に「天子諸侯建国、故以国為氏、虞・夏・商・周・魯・衛・斉・宋之類是也」というように、上代の王朝や国の名は、実は王や諸侯の氏の名にほかならない。氏とは別に国号が生じたのは、劉邦が天下をとって国号を漢と称したことに始まる。」と述べている。

 しかし、漢代以後も国号は氏(姓)概念そのものであるという見解がある。尾形勇(註11)は斉から梁への易姓禅譲革命において王朝交替後の武帝の告天文(梁書巻二武帝記天監元年四月丙寅条)「斉氏、暦運既に既き、否終すれば亨なるを以て、天応を欽若して以て(蕭)衍に命ず。‥‥天命は常にはあらず。帝王は一族のみには非ず。唐は謝し虞は受け、漢は替り魏は升り、ここに晋・宋に及び、憲章は昔に在り」を引いて、この条文においては「易姓」は「斉氏」から「梁氏」の形式にて述べられているとされ、又、漢魏易姓禅譲革命について論じ、「魏」という王朝名ないしは国号もひとつの「姓」であったのであり、漢から魏への交替は「劉氏」から「曹氏」への「易姓」であるのと同時に、「漢氏」から「魏氏」への「易姓」でもあったのされるのである。
 また「禅代衆事」の十月乙卯条に見える尚書令垣階等の奏言の中に「漢氏、天子の位を以て之を陛下に禅り、陛下、聖明の徳、暦数の序を以て漢の禅を承く。まさに天心たるべし」と見えることを論拠として、漢魏易姓禅譲革命の構造は、まず「皇帝位」が「劉氏」の献帝から「曹氏」の曹丕へと「冊」を媒介して禅位され、次に「天子位」が「天命」の移行を前提として「漢氏(漢家)」から「魏氏(魏家)」へと譲位するものだとされる。
漢魏革命を前例として、中国では宋代まで少なくとも14回の、禅譲革命の繰り返しになるが、国家概念は基本的にそういうものであったし、この国家概念は我が国にも継受されているのは当然のことだろう。

 また井上順理(註12)によると「中国では古来国家をもって一姓の業とし、王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義であったから、王姓の変更はそのまま王朝の交代を意味した。」これがもっとも簡潔でわかりやすい説明である。

 厳密にいうと姓と氏では概念は異なること、先秦時代に存在した晋・魏・宋・唐などと後代の王朝はどう違うかという細かい問題に深入りしないが、要するに、漢は劉氏(姓)、魏は曹氏、晋は司馬氏、隋は楊氏、唐は李氏、宋は趙氏、明は朱氏、清は愛新覚羅氏の王朝である。日本も女系継承-異姓簒奪なら日本国は終焉して、事実上の易姓禅譲革命で国号を改めざるをえなくなります。従って論理的に女系継承はありえないのである。要するに男系継承にこだわらないと国を滅ぼすということです。このことに有識者会議は気づいていないはずはないのですが、意図的に無視している。要するに有識者会議や厚生省出身官僚悪のトライアングル(古川-羽毛田-柴田)は国を滅ぼそうがどうでもよいという、愛国心のひとかけらもない最低の輩なのである。
  
 もっとも天皇は姓をもたない。日本は中国王権に冊封されていないので君主が姓を冠称する必要が全くないからだと思う。姓を賜与・認定する主体であり、改賜姓は天皇大権であった。しかし官文娜によると(註13)中国の「姓」概念は、もともと内在的で観察できない血縁関係を外在化し、ある父系血縁親族集団と他の父系血縁親族集団を区別するものである。我が国の姓概念も歴史的過程で変質しているとはいえ、中国の姓概念を基本的には継受しているのだから、父系出自系譜の集団成員、令制の皇親という概念も「姓」とほぼ同義ともみなしてよいと思う。実際、「王姓」という語が日本書紀天武八年正月詔「非王姓」母の拝礼禁止に見えますし(註14)、九世紀から始まったと考えられる「王氏爵」もあります(註15)。十世紀だと、親王のなかでも序列筆頭とみなされる式部卿に任用されている親王が推薦者となってます。天皇に姓はなくても、天皇の親族である皇親に「王姓」概念をあてはめて理解してよいのである。
 なお、『宋史』四九一にある十世紀末に入宋した奝然の記録であるが、奝然は職員令と「王年代記」持参し、日本の国柄を「東の奥州、黄金を産し、西の別島、白銀を出し、もって貢賦をなす。国王、王をもって姓となし、伝襲して今の国王に至ること六四世」として「記」を提示した。奝然を召見した宋の太宗は「其の国王、一姓伝継、臣下みな世官」と聞いて嘆息したというが、「国王、王をもって姓となし」「一姓伝継」という国制意識をみてとることができる(註16)。
 
(4)中国王権と同じパターンの国号の由来

 さらに、日本国号の由来からみても、中国の国家概念を継受していることは確実である。 吉田孝(註17)が「倭」を「日本」を改めても、やまと言葉では「倭」「日本」はいずれも「やまと」と訓まれ、日本の内実は「やまと」だったと述べているが、これは通説である。網野善彦も「日本」を「ひのもと」と訓む可能性を否定ないが、「にほん」「にっぽん」という音読は平安朝からと述べている(註18)。諸説がかなり異なっているのが、日本国号の成立時期(7世紀から8世紀初期まで)と由来と意味である。なぜ、「やまと」が「日本」という国号になるのかということです。たんなる当て字かそれともなんらかの意味が備わっているのかといったことです。なぜ「やまと」「日本」そのものの意味については、一段落したら掲載する予定の補説「日本国号の由来からみても易姓革命なら日本国は終焉する」をみていただくこととして、次の説は基本的に正しいと思う。

 岩崎小弥太は、大和一国の別名が全国の総(惣)名となったことは間違いないとする。この説は基本的に正しいと思う。その論拠として『釈日本紀』の開題にある次の問答である(註19)。

 問ふ、本国の号何ぞ大和国に取りて国号と為すや、説に云はく、磐余彦天皇天下を定めて、大和国に至りて王業始めて成る、仍りて王業を為す地をもって国号と為す。譬へば猶ほ周の成王成周に於いて王業を定む、仍りて国を周と号す。
 問ふ、和国の始祖筑紫に天降る、何に因りて偏に倭国に取りて国号と為すや、説に云はく、周の后稷はタイに封じられ、公劉ヒンに居り、王業萌すと雖ども、武王に至りて周に居り、始めて王業を定む、仍りて周を取り号と為す、本朝の事も亦た其れ此くの如し
 
 他ならぬ大和国を取って国の名ととしたのは、何故かというと、神武天皇が大和国で王業を成就したからである。天皇の始祖は筑紫に降ったのに、その地の名をとらず、「倭国」を取って国号としたのは、周の王朝に関して、その祖先たちの拠った地でなく、武王が王業が定めた地である周をもって国号としたのと同じである。
 
 平安時代に朝廷の主催する日本書紀の購読が行われていたが、上記は『釈日本紀』に引く「延喜開第記」つまり延喜四年(904年)八月に開講された日本紀講書の説である(註20)。『釈日本紀』は鎌倉時代の卜部兼方の日本書紀研究書であるが、引用されているのは10世紀初期の見解、博士は藤原春海。
 
 この説は、忌部正通、一条兼良、日本書記の注疏家に多く継承され、近世の学者も追随しており、有力な説とみてよい。「本朝の事も亦た其れ此くの如し」とあるから、周王朝との類比で国号が成立したわが国も国家を以て一姓の業とする中国の国家観念を継受し、ているのは確実で、要するに中国王権の国号の由来とするパターンと同じということになる。
 従って、易姓革命なら日本国はおしまい。当然のことですね。それが筋目というものです。わが国では古くから讖緯説による革命理論(辛酉革命、甲子革令、戊午革運)が知られていた(註21)。神武東征の開始が甲寅年から始まるのは、甲寅始起説に基づく(註22)。中国思想の影響はいうまでもないことですね。
 
 周王朝との類比はわかりやすいと思います。古墳時代は大和(やまと)に大国があり、各地に小国があって、大和政権は小国に威令を及ぼしていた。これは春秋時代において、新石器時代以来の文化地域ごとに大国が存在し、地域内の小国に威令を及ぼしていたのに似ている(註23)。
 令制前の国家は、朝廷が畿内(ウチツクニ)を直轄統治し、地方の統治は国造を服属させる間接統治で、この構造は周王朝とも似ている。周は中原地区の西部・東部を掌握し威令を及ぼしていた。西周時代の場合、鎬京とラク邑の周囲が畿内に相当する。

 ちなみに漢王朝は、秦滅亡後、項羽が天下を処置して、討秦軍の諸将、六国の旧王族及び秦の降将など十八人を全国各地に封じて王としたが、このとき、劉邦が漢王として漢水上流域の漢中の地に封ぜられ、漢の社稷を立て、人民に爵位を与え漢王朝が成立した。漢王劉邦は項羽を滅ぼして天下を統一し皇帝位に即いたが、国号は天下統一後も王朝成立の地である漢王朝なのである。
 王莽が漢室劉氏から簒奪して新を建国したが、国号の新の由来は、もともと王莽が南陽新野の都郷千五百戸の新都侯であったからである。
 
 魏王朝は、曹操が、漢王朝献帝を奉戴し、皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し帝位を事実上簒奪する過程で、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で禅譲形式の易姓革命となった。曹操は、213年魏公に封ずる詔が下され、漢王朝は事実上、冀州の魏郡など十郡を割譲し魏公国の領土となり、魏国に社稷・宗廟が建てられる。さらに四県の封邑、増封三万戸、魏王となる。魏国が王業成立の地であるから、220年曹丕が献帝から帝位を譲られた後も国号は魏である。
 
 唐の場合は、初代皇帝高祖李淵の祖父李虎が北周の時に唐国公に封じられたことが国号の由来になっている。

 我が国も周や漢などの中国王権も王業成立の地(魏晋南北朝時代以降は前王朝から与えられた爵位が通例ともいわれるが、王号は漢代以降は皇帝によって与えられる爵位であるから理屈のうえでは同じこと)を国号とする全く同じパターンである。
 つまり天孫は日向に天降られたけれども、神武天皇は大和で王業を成就せられたから、その大和をもって全国の総名(惣名)とし、やまとという詞に日本という文字を当てたのが、日本国号の由来というのが岩崎小弥太説であるが、こうした国号の由来からみても中国における国家概念を継受しているのは確実であるから、女系継承-易姓革命なら国号を改めなければならない。

(5)日本国号は王朝名だから易姓革命なら日本はおしまい

  吉田孝によれば「日本」の名称は中国の「隋」「唐」、朝鮮の「高句麗」「百済」「新羅」同じように本来は王朝名(ある王統の支配体制の名称)として成立した」(註24)「王朝(dynasty)の名、すなわちヤマトの天皇の王朝の名」(註25)とされている。
 官撰の書物で「日本」の初見は大宝令(大宝元年701年)の公式令詔書式(大宝令は残ってないが、『令集解』の公式令注釈で大宝令の注釈書である古記が引かれ「御宇日本天皇詔旨」がみえる)であるが、神野志隆光は吉田孝と日本国号の由来について対立した見解を述べているが、日本は国土の呼称ではなく、吉田孝の言うように王朝名だとしている点には賛同している。その論拠は、大宝公式令詔書式の意義である(註26)。

 御宇日本天皇詔旨
 御宇天皇詔旨
 御大八州天皇詔旨

 「御宇」と「御大八州」が等価なのであって「日本」と「大八洲」と同じ次元で並ぶ国の呼び方ではなく、「日本」は「日本天皇」というかたちで意味をもつので、これは王朝名であるとされている。また『日本書紀』は中国の正史である『漢書』『後漢書』『晋書』にならったもので、王朝の名を冠しているとされている。なるほど、『日本三代実録』とは『日本(王朝)三代実録』で意味が通ります。この説は決定的なので全面的に従いたい。
 実際に日本朝という語が起請文で用いられるし、決定的な意味では「我日本朝はいわゆる神明の国なり」という清和天皇の貞観十二年の願文があります。明らかに日本は王朝名ですね。
  まさにいま政府-有識者会議の易姓革命合法化というたくらみにより我日本朝が滅ぼされるか最大の危機ということになります。
  素人ながら私が言い換えればこういうことです。古記によれば対蕃国、隣国使用とされる御宇日本天皇詔旨(あめのしたしろしめすやまとのすめらみことのみことらま)は天下を統御し支配する日本天皇という意味です。(但し、対隣国使用は疑問であるが、この点に深入りしない)
 蕃国使(新羅)に「天下を統御し支配する日本天皇」と称し、咸くに聞きたまえと命令を下すのであって、天皇は天下を知ろしめす(統治の総括的表現)のであって、日本を統治するのではない。天皇が王朝名である日本を統治するというのは論理矛盾になる。仮に日本の原意が東夷の極なら、西方の藩国に対して天皇が東夷を知ろしめすということでは全く意味が通じない。
 国内向けのは大事を宣する辞としている御大八州天皇詔旨(おおやしまぐにしろしめすすめらみことのみことらま)は国土(もしくは地上世界)を統治する天皇という意味になります。
 国土呼称は大八洲なのであって日本ではない。大八洲の意味については、岩橋小弥太(註27)によると神道家には葦原の中つ国と同じく、大地を悉く指す、八島は多数の意とされる見解があるという。この解釈では広く地上世界である。しかし本居宣長は古事記に依拠して八つの島であるという。『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会1889)においても「我カ帝国ノ版図古二大八島ト謂ヘルハ、淡路島 即今ノ淡路 秋津島 即本島 伊予ノ二名島 即四国 筑紫島 即九州 壱岐島津島 津島即対馬 隠岐島佐渡島ヲイヘルコト、古典ニ載セタリ」とある(註28)。しかしながら、どことどこで八つの島なのか異説がある。しかし八つの島とはおおよそ国郡制の施行地域の枠内であるから、国土呼称とみなしてもよい(なお七世紀末より八世紀にはいわゆる日本内地を「華夏」「華土」「中国」と称していた。西嶋定雄〔註29〕は日本にとって華夷とは国郡制施行地域とその周辺外の蝦夷、隼人、西南諸島の範囲にとどまり、唐王朝はもちろん新羅は華夷の枠外であるとされている)。
 公式令詔書式によればあくまでも国土呼称は大八州であって、日本ではない。日本は王朝名(王統の支配体制)であり、天皇という君主号とむすびついて、日本天皇として意味をもつ。われわれが日本内地と慣用している国土指称は、日本王朝(朝廷)の直轄統治地域つまり五畿七道諸国、国郡制施行地域、律令施行域であった歴史的由来に依拠しているのであって、王朝交替、易姓革命により、日本王朝でなくなれば、もはや日本内地ではなくなるという性質のものである
 であるから、女系継承の容認は王朝交替、易姓革命を合法化するもので絶対あってはならないこと。孟子の思想は古くから受容されているから、革命思想は古くから意識されていたし反易姓革命イデオロギーとして万世一系思想が古代からある(8月27日ブログ参照)。  ゆえに「男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません。」そんなばかなことはありません。
 要するに有識者会議は、現皇室典範、旧皇室典範の規範的意義を根拠もなく否定するのみならず、古くからの我が国の国制の歴史的脈絡を全く無視し、全く自分勝手にです。これほど悪質なものはないです。

  なお、先に引用した有識者は「側室が山ほどいた」とか言ってますがこれについても若干コメントします。、歴代天皇に常に配偶者としての側室が山ほどいたとはいえない。いわゆる天皇制の特徴をひとつあげれば、天皇に正配がなくても存続することにある。要するに令制立后制度というのはどちらかといえば政治行為であり、令制立后制度は中国の制度とは違って婚姻家族モデルではないということです。内侍所の尚侍(ないしのかみ)の職掌は常侍、奏請、宣伝に供奉せむことと、下級女官の統率である。しかし尚侍は鎌倉時代初期には既に置かれなくなった。室町時代には典侍(ないしのすけ)、掌侍(ないしのじょう)と、これらの下に置かれる命婦と女蔵人のみが置かれた(註30)。南北朝から立后は近世初期まで、女御の制は秀吉時代まで中絶したため、天皇に正配がなかった。なお後宮女官でとくに実務的なのは掌侍筆頭の匂当内侍で奥向き経済を掌握し、女房奉書を書き出し、大名からの進物などの取り次ぎを行った。後宮女官は社寺代参や、天皇の日常生活の奉仕、ありとあらゆる仕事をこなしたが、正式の配偶者がいないので内侍所の典侍・掌侍がなんとなく側妾の役割をも果たすことになったということである。
 桑山浩然(註30)によれば後花園天皇の治世の『永享九年十月二十一日行幸記』では典侍3名、掌侍4名、その他2名を挙げるから、室町時代にはこの程度の人数であったとする。当時の後宮の規模がこぢんまりしていたことがわかる。
 中世以後、とくに室町時代以後后腹でない実務的中級貴族の女性を母とする天皇が多くなるが、そもそも皇后が立てられてない。正式の配偶者が無い時代もけっこう長かったということもあります。 

(註1)藤原時平-今昔物語により時平が伯父の大納言藤原国経の美人妻を寝取ったことが知られているが、国経は「お人良し」にすぎないのであって、政治家としての実力は時平が断然上で全く問題になりません。時平が美人妻を寝取って当然ですね。菅原道真は忠臣とされていますが、道真は少なくとも醍醐退位・斉世親王擁立の企てに誘われていたともいわれている。その前年に三善清行に辞職勧告されてますがこの時点で道真は右大臣をやめるべきだった。醍醐天皇にとっては前代の重臣は鬱陶しい存在であり、天皇が指導力を発揮しやすいように道真を排除した時平の政治判断は常識的なものである。時平は昌泰の変により悪玉にされてますが、それは偏った見方。
(註2)橋本義彦「学者と公達-菅原道真と藤原時平-」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館1996 129頁
(註3)岩崎小弥太『花園天皇』吉川弘文館人物叢書、1962 52頁
橋本義彦「誡太子書の皇統観」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館、1996 21頁
井上順理『本邦中世までにおける孟子受容史の研究』風間書房、1972 310頁
(註4)島善高『近代皇室制度の形成』成文堂1994の附録より引用
参考「皇統断絶問題TBセンター」http://japan.arrow.jp/blog/2005/12/post_19.htmll 
(註5)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991 209頁、但し初出は1970  なおまた、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れないとされた。しかし慶雲三年の格制で皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとした。但し延暦十七年に令制に復帰している
(註6)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53 1998 51頁
(註7)滋賀秀三『中国家族法原理』創文社1967 19頁
(註8)江守五夫『家族の歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990 「異姓養子にたいする禁忌と許容」108頁
(註9)岡田浩樹『両班-変容する韓国社会の文化人類学的研究』風響社2001 172頁
(註10)滋賀秀三 『中国家族法原理』創文社1967 44頁 註(29) 
(註11)尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店 1979 302頁
(註12)井上順理「易姓革命」日野原利国『中国思想辞典』研文出版1984
(註13)官文娜「氏族系譜における非出自系譜の性格」『日中親族構造の比較研究』思文閣出版(京都)2005 128頁 、大山喬平教授退官記念会編『日本社会の史的構造 古代・中世』思文閣出版1997所収
(註14)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1998、35頁
(註15)宇根俊範「氏爵と氏長者」坂本賞三編『王朝国家国政史の研究』吉川弘文館
(註16)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004、367頁以下 
(註17)吉田孝『日本の誕生』岩波新書510 1997、16頁 
(註18)網野善彦『日本論の視座-列島の社会と国家』小学館2004、11頁
(註19)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)59頁以下
(註20)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、121頁以下。
(註21)川崎晃「倭王権と五世紀の東アジア-倭王武・百済王上表文と金石文」黛弘道編『古代国家の政治と外交』吉川弘文館2001所収
(註22)岡田正之『近江奈良朝の漢文学』川崎晃前掲論文から孫引き。
(註23)平勢隆郎 中国の歴史02『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』講談社2005 353頁
(註24)吉田孝 日本の歴史2『飛鳥・奈良時代』岩波ジュニア新書332 1999、187頁
(註25)吉田孝 同じく90頁
(註26)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、25頁以下
(註27)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)54頁
(註28)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、195頁
(註29)西嶋定生「遣唐使と国書」『倭国の出現』東京大学出版会1999、234頁以下、初出『遣唐使研究と資料』東海大学出版会1987 
(註30)桑山浩然「室町時代における公家女房の呼称」『女性史学』6号1996

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/12/26

出生数試算のインチキ-皇室典範に関する有識者会議報告書反駁-

目次 1.要旨
   (有識者会議の試算は結婚後5~6年ぐらいでの離別・離婚を前提としたもの)
     2.完結出生児数による試算のほうが合理的
     以上今回掲載
(次回予定)補説「少子化」問題の分析と対策についての疑問

川西正彦(平成17年12月26日)

 1.要旨

 皇室典範に関する有識者会議報告書はきわめて悪質なものである。人を騙そうとするインチキな論述がやたらと多い。順序にこだわらずその例を列挙し、一つずつ叩き潰していきたい。
 有識者会議は「少子化」(註1)問題を強引に結びつけて、男系継承では皇位が安定的に継承されていくことは極めて困難と断定しているが、その際出生数の試算に用いられているのが合計特殊出生率 1.29-2004年というデータである(註2)。報告書は「一般社会から配偶者を迎えるとするならば、社会の出生動向は皇室とも無関係ではあり得ない」として合計特殊出生率による確率論を展開するがこれは全くインチキだ。そもそも一般社会の出生動向と関連させて論じる前提についても疑問がないわけではないが、仮に有識者会議の発想を肯定して人口統計学上の指標を参考にするとしても、それは完結出生児数(結婚持続期間15~19年の夫婦の平均出生子ども数2.23-2002年)や、合計結婚出生率(夫婦の平均出生児数1.9水準といわれている)ではないのか。皇位継承資格者に限らず、ある社会階層に属するある家系(同族)の出生数試算としては、1.29という数値はあまりにも低すぎて合理的なものではない。
 合計特殊出生率は夫婦の出生力を示す指標ではない。非婚・既婚・離別者いかんにかかわらず女性の年齢別出生率を15~49歳にわたって合計した数値で、女性がその年齢別出生率にしたがって子どもを生んだ場合、生涯に生む平均の子ども数に相当するとされているが、結婚の動向により左右される。合計特殊出生率が低下している重要な要因は20代~30代の有配偶率の低下、独身者の割合が高くなっていることである。
 大江守之(註3)の分析では、「かつてクリスマスケーキに例えられ、『25を過ぎると売れない』などと言われた女性の結婚行動は近年大きく様変わりした。20代後半女性の未婚率は1975年までは20%前後で推移してきたが、1985年には31%、1990年には40%、そして1995年には48%まで上昇し、結婚適齢期概念は消滅したと言える。これに対応して男性の未婚率も、1975年から1995年にかけて20代後半では48%から67%へ、30代前半では14%から37%へと上昇している。なお、この晩婚化を牽引しているのが、1960年代以降に生まれた世代であることは重要なポイントである。」
 荻田竜史(註4)の分析によると、「1970年に初めて結婚した女性の65%は20歳代前半であったが、2000年には約半数が20歳代後半、28%が20歳代前半、15%が30歳代前半であった。この間に女性平均初婚年齢は24.2歳から27.0歳へ2.8歳上昇しているが、全体的に晩婚化が進んだだけでなく初婚年齢の分散が大きくなった。」つまり結婚適齢期信仰の崩壊があり、皆婚型の社会から、西欧型の未婚率の高い社会に変質してきたことである。地域的には東京都が1.0と低く、沖縄県は1.72(2003年)というように地域差もある。
 (どうして未婚化が進んだのかここでは論旨が錯綜するので、今回は立ち入らないが、社会経済的要因、とくに女子と労働市場の関連、見合い結婚の衰退などの文化的要因については次回以降分析しますのでみてください。)

 従って合計特殊出生率は人口予測に必要なデータであるが、たとえば皇位継承資格者の、あるいはこれこれの家系(同族)の、出生数を試算するためにこのデータを用いることに論理性は全くないと考える。

有識者会議に対抗して私も試算してみました。
有識者会議は男子の産まれる確率を2分の1で計算しているが、人口統計では正確にいうと男子の産まれる割合は女子の105~106%であるから、私の試算では0.513を掛けることとする。有識者会議〔参考15〕 PDFの試算と比較してください。
 
現世代を5人(男性)と仮定した場合に誕生する男系男子の子孫の数

有識者会議の試算-インチキ!
(合計特殊出生率1.29-2004年)
有識者会議報告書参考資料〔参考15〕PDF
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/sankou.pdf
1世(子) 3.23 (5×1.29×1/2)
2世(孫)  2.08 (3.23×1.29×1/2)
3世(曾孫)1.34 (2.08×1.29×1/2)

私の試算
(完結出生児数2.23-2002年)

1世(子)  5.72(5×2.23×0.513)
2世(孫)   6.54 (5.72×2.23×0.513)
3世(曾孫) 7.48 (6.54×2.23×0.513)
(なぜ完結出生児数-国立社会保障・人口問題研究所第12回出生動向調査2002年の数値2.23かは次章で論述する)

有識者会議の試算は曾孫の世代で男系男子は1.34人 男系継承では皇位が安定的に継承されていくことは極めて困難と断定するが、私の試算では、確率論でいうと男系男子の皇位継承資格者は増加します。曾孫の世代で7.48人になります。
 巷で髪型が話題になっている姉歯秀次氏の証人喚問をニュースでみました。偽装の手口としてこういうことを言ってました。構造計算ソフトに通常1.0を入力するところを0.5とか0.6とか具体的な数字は失念しましたが、そういう数値を入力して偽装するのだと。
有識者会議の偽装の手口もそれと似てます。本来なら2.2ぐらいの数値を入力すべきところ、1.29というどう考えても小さな値を入力して偽装した。

 
 (有識者会議の試算は結婚後5~6年ぐらいでの離別・離婚を前提としたもの)

 1.29が小さすぎる理由をひとつ述べます。こういうことです。国立社会保障・人口問題研究所第12回出生動向調査2002年のⅢ夫婦の出生力「表Ⅲ-2-1結婚持続期間別にみた平均出生子ども数」をみてください。有識者会議の数値1.29は、結婚持続期間5~9年の夫婦の平均出生児数の1.71より小さく、結婚持続期間0~4年の夫婦の出生児数より0.75より大きい数値です。ということは有識者会議の試算はだいたい結婚後5~6年ぐらいで離婚又は離別することを前提とした出生数の計算になります。これはどう考えても合理的なものではありません。

結婚持続期間別にみた平均出生子ども数

出所-国立社会保障・人口問題研究所第12回出生動向調査Ⅲ夫婦の出生力表Ⅲ-2-1http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou12/chapter3.html#31

結婚持続期間 1982  1992 2002
 0~4年      0.80 0.80 0.75
 5~9年      1.95 1.84 1.71
10~14年     2.16 2.19 2.04
15~19年     2.23 2.21 2.23
20~24年     2.29 2.23 2.30

 このように皇室典範に関する有識者会議(座長吉川弘之元東大学長)は御皇室を、国会議員や国民をこのような見え透いたインチキで騙そうとしているのです。非常に悪質だと思います。

(註1)「少子化」の定義については大江守之「いま、なぜ少子化を考えるのか」参照。http://www.gpc.pref.gifu.jp/infomag/gifu/99/oe.html

(註1)有識者会議報告書http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.htmlはこうです。(私がインチキもしくは疑問視している部分が、赤色の部分とくに晩婚化に関する認識の問題など逐一反駁する予定だが、論点が錯綜するので今回は出生数試算のインチキに限定してとりあげる)。

「近年、我が国社会では急速に少子化が進んでおり、現行典範が制定された昭和20年代前半には4を超えていた合計特殊出生率(一人の女性が、一生の間に産む子供の数)が、平成16年には1.29まで低下している。皇室における出生動向については、必ずしも、社会の動向がそのまま当てはまるわけではない。しかし、社会の少子化の大きな要因の一つとされている晩婚化は、女性の高学歴化、就業率の上昇や結婚観の変化等を背景とするものであり、一般社会から配偶者を迎えるとするならば、社会の出生動向は皇室とも無関係ではあり得ない〔参考14〕。戦前、皇太子当時の大正天皇が結婚された時のご年齢が20歳、その時点で妃殿下が15歳、昭和天皇のご成婚時(同じく皇太子当時)には、それぞれ22歳と20歳であったことを考えると、状況の変化は明らかである。現に、明治天皇以降の天皇及び天皇直系の皇族男子のうち、大正時代までにお生まれになった方については、お子様(成人に達した方に限る。)の数は非嫡出子を含め平均3.3方であるのに対し、昭和に入ってお生まれになった方については、お子様の数は現時点で平均1.6方となっている。
 男子・女子の出生比率を半分とすると、平均的には、一組の夫婦からの出生数が2人を下回れば、男系男子の数は世代を追うごとに減少し続けることとなる(注)。実際には、平均的な姿以上に早く男系男子が不在となる可能性もあれば、逆に男子がより多く誕生する可能性もあるが、このような
偶然性に左右される制度は、安定的なものということはできない。
 このような状況を直視するならば、今後、男系男子の皇位継承資格者が各世代において存在し、皇位が安定的に継承されていくことは極めて困難になっていると判断せざるを得ない。これは、
歴史的に男系継承を支えてきた条件が、国民の倫理意識や出産をめぐる社会動向の変化などにより失われてきていることを示すものであり、こうした社会の変化を見据えて、皇位継承の在り方はいかにあるべきかを考察する必要がある。
(注)試みに、仮に現世代に5人の男系男子が存在するとして、現在の社会の平均的な出生率(平成16年合計特殊出生率1.29)を前提に、将来世代の男系男子の数を確率的に計算してみると、男子・女子の出生の確率をそれぞれ2分の1とすれば、子の世代では3.23人、孫の世代では2.08人、曾孫の世代では1.34人と、急速な減少が見込まれる(出生率を1.5としても、曾孫の世代では2.11人となる。)。〔参考15〕

(註3) 大江守之「いま、なぜ少子化を考えるのか」

http://www.gpc.pref.gifu.jp/infomag/gifu/99/oe.html
(註4) 荻田竜史 「コラム少子化対策において直視すべき不可避な未来」
http://www.mizuho-ir.co.jp/column/shakai040824.html

2.完結出生児数による試算のほうが合理的

 一般社会の人口動態、統計の指標、「少子化」問題を安易に皇位継承資格者問題にむすびつけるのは適切でない。
先に引用した国立社会保障・人口問題研究所の第12回出生動向基本調査(2002年)http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou12/chapter3.html#33aでは「1960 年代生まれの世代が20 歳代の終わりに達した頃から夫婦の出生力が低下していること」を指摘する(このことが合計結婚出生率の低下の要因となっている)一方、20 歳代の若い層では低下に歯止めがかかっていることも指摘されている。
 出産ペースが落ちているのは経済的理由であるとして、子育て支援が少子化対策とされることが多いが、一般社会の文化的・社会経済的状況と皇位継承資格者の出生数の予測とは基本的は無関係である。また一般社会では避妊や人口妊娠中絶により出生を抑制する傾向があるが、これも同列に論じられない。それでも、有識者会議は一般社会の出生の動向と結びつけたいというから、ここではその図式に乗って内容の是非を検討したいと思う。
 
 国立社会保障・人口問題研究所の少子化情報ホームページの「こちら」をクリックすると合計特殊出生率の説明があるのでみてください。http://www.ipss.go.jp/syoushika/
「女性の年齢別出生率を15~49歳にわたって合計した数値で、代表的な出生力の指標です。その値は、女性がその年齢別出生率にしたがって子どもを生んだ場合、生涯に生む平均の子ども数に相当します。(中略)、子どもを生む年齢に変化が生ずると、仮の生涯と実際の生涯の数値に違いが生じます。とりわけ最近の日本のように、女性の出産年齢が世代ごと遅くなっている場合には、仮の生涯の子ども数すなわち合計特出生率は、実際の生涯の子ども数より少ない値となることが知られています。それではなぜ、実際の生涯の子ども数を指標としないのでしょうか。それは、今子どもを生んでいる人たちの実際の生涯の子ども数は、最短でも15~20年待たなければわからないからです。昨年の出生指標が20年後に発表されても、統計としてあまり役に立ちません。合計特殊出生率がその年の子どもの生み方を示しているのは確かですから、上手に使えば年次比較や地域比較にとても役立ちます。ただし、「生涯に生む平均子ども数」という解釈をうのみにすると、実情に対する誤解の元となります。」
 「生涯に生む平均子ども数」という解釈をうのみにしないでとわざわざ書かれています。つまり誤解されやすいんです。たぶん報告書の原案をつくった官僚は誤解されやすいところを利用して人を騙す、官僚の悪知恵ですね。いかにも統計学的に合理性があるようにみせかけているが、実はこれほど非論理的な説明はないと思います。

 古川貞二郎有識者会議メンバーや柴田雅人皇室典範改正準備室長といった厚生省官僚はこのへんのことをよく知っているはずだ。もし古川や柴田が合計特殊出生率による試算が論理的とあくまでも強弁するなら、皇居は千代田区、赤坂御用地は港区、常陸宮邸は渋谷区東、桂宮邸は千代田区三番町だから東京です。皇后、皇太子妃をはじめ貞明皇后や香淳皇后も御実家は東京ですから、東京都の合計特殊出生率1.0で試算するのがより論理的ともいえます。5人の男系男子が現存したとしても、子の世代で2.5、孫の世代で1.25、曾孫の世代で0.625と言う試算になり、男系は駄目だというならこちらのほうが明確ですねという皮肉のひとつも言いたくなります。
 
 ちなみに国立社会保障・人口問題研究所の第12回出生動向基本調査(2002)のⅢ夫婦の出生力http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou12/chapter3.html#31aをみてください。平成16年の少子化白書http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g1130050.htmlでもこう述べています「ほぼ子どもを生み終えた結婚持続期間15~19年の夫婦の平均出生子ども数(完結出生児数)は、戦後大きく低下した後、1972(昭和47)年調査(1950年代半ばに結婚した世代)において2.2人となり、以後30年間ほぼこの水準で安定して推移している。最新の第12回調査(2002(平成14)年)でも、結婚持続期間が15~19年(1980年代半ばに結婚した世代)の夫婦の完結出生児数は2.23人と、同様の水準を維持している。したがって、この間の合計特殊出生率の低下は、もっぱら初婚年齢の上昇や未婚化の進展によるものであり、すでに結婚した夫婦が一生の間に生む子どもの数には変化がなかったことがわかる」
 
 国立社会保障・人口問題研究所の第12回出生動向基本調査(2002)の完結出生力http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou12/chapter3.html#31a

 表Ⅲ-1-2の完結出生児数と図Ⅲ-2-1の結婚持続期間別にみた出生子ども数別子ども割合(2002年)をみてください。

 結婚持続期間と子ども数(2002年)
  年   0人 1人 2人 3人以上
 5~9 10   24  51   14  %
10~14  5   16   52   26  %
15~19 3.4  8.9 53.2   34.4  %

 夫婦の最終的な子ども数は2人または3人が8割以上を占めてます。一人っ子が増える傾向は指摘されていますが、合計特殊出生率が1.29とか東京の場合は1.0をきっているわけですが、一人っ子が普通になったということではないです。東京は未婚化が進んでいるから低い数値になる。私自身も人口統計学は素人ですから錯覚しやすい。錯覚しやすいのを承知で有識者会議は利用しているんです。この情報操作というかインチキによって出生数を試算し男系では安定性を欠くという結論を引き出している。日本の歴史人口学などは世界でも最高水準といわれてますので、できればそうした専門家に反駁してもらいたいのですが、しかし素人でも容易に見破ることのできる見え透いた実にいいかげんなものです。有識者も恥じることもなく、よくもこんないいかげな計算を出してきたなと思うわけです。
 
 そこで A 完結出生児数(註5) B 合計結婚出生率(註6) C 合計特殊出生率(註7)の数値を示します
       
         A        B        C

1940  4.27              4.12

1952  3.50              2.98

1957  3.60              2.04

1962  2.83              1.98

1967  2.65             2.23

1972  2.20              2.14

1977  2.19    2.17    1.80

1978            2.13    1.79

1981            2.16    1.74

1982  2.23    2.14    1.77

1983            2.16    1.80

1984            2.13    1.81

1985            2.24    1.76

1986            2.16    1.72

1987  2.19    2.08    1.69

1988            2.06    1.66

1989            2.05    1.57

1990            2.02    1.54

1991            1.95    1.53

1992 2.21     1.91    1.50

1993            1.91    1.46

1994            1.89    1.50

1995            1.93    1.42

1996                      1.43

1997  2.21              1.39

1998                      1.38

1999                      1.34

2000                      1.36

2001                      1.33

2002  2.23              1.32

2003                      1.29

     (27日に数値の誤植訂正)

   

   私は人口統計学は素人だから、統計学的に皇位継承者の出生数試算にどの数値をあてればよいかはわからない。たんに勘にすぎませんが、しかし常識的に考えて、あえて一般社会の出生動向と関連させるとすれば30年間2.2水準で安定した数値である完結出生児数による試算が合理的に思える。その理由を簡単に述べます。
  問題は合計結婚出生率が1.9水準に低下していることである。合計結婚出生率はある期間(通常は1年)に観察された夫婦の結婚持続期間別出生数を分子に、当該夫婦数を分母にして計算される結婚持続期間別出生数を合計したもので、その期間の夫婦の出生率を前提とした夫婦一組から生まれる平均出生児数にあたる。1.9水準に低下したというのは未だ完結出生力に達していない夫婦の出生ペースが落ちていることを示す。出産ペースが落ちているのは社会経済的文化的要因がありそれを分析しなければならないし、晩婚化による高齢出産忌避もあるかもしれませんが、一般社会の経済的文化的状況と皇室を同一視できないのでこの傾向を格別重視しなくてもよいのではないか。
 但し雅子妃が29歳半という高齢での結婚であることが問題になる。下記のデータのとおり1997年の調査で初婚年齢29~30歳の完結出生児数は1.78であり、置換水準を下回っている。歴史上、鳥羽后藤原泰子、堀河后篤子内親王といった高齢で初婚-立后のケースもあるがいずれも政治色の濃い立后例で、満29歳半は歴代后妃のなかでも晩婚といえる。

国立社会保障・人口問題研究所 『調査研究報告資料第13号(1997年人口問題基本調査)第11回出生動向基本調査-第Ⅰ報告書-日本人の結婚と出産』1998 18頁
第11回出生動向基本調査. 結婚と出産に関する全国調査PDF 9頁
http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou11/doukou11.pdf

妻の初婚年齢別完結出生児数
初婚年齢 1982 1987  1992  1997
19歳未満 2.50 2.46
19~20歳 2.34 2.38 2.51 2.35
21~22歳 2.27 2.28 2.25 2.34
23~24歳 2.25 2.15 2.27 2.21
25~26歳 2.22 2.15 2.15 2.24
27~28歳 2.09 2.03 2.20 2.15
29~30歳 1.89 1.85 1.81 1.78

妻の最終学歴別
         1982  1987 1992  1997
中学校   2. 24 2.22 2.22  2.19
(%)      39.5 27.2 13.8   5.8
高校     2.23 2.15 2.22 2.20
(%)      50.1   60. 6   64. 6  61. 5
短大高専 2. 26  2. 16   2. 20    2. 25
(%)          6. 3    7. 3   12. 2    21. 4
大学以上 1. 93  2. 32   2. 12    2. 19
(%)          2. 9   3. 8     6. 8    10. 3

夫の現在職業別完結出生児数
            1987  1992  1997
農林漁業      2.41  2.73   2.64
(%)            4.3  2.2  1.6
非農自営    2.46 2.27 2.27
(%)         19.1 15.8 16.3
ブルーカラー  2.18 2.25 2.26
 (%)        21.8 16.2 14.2
ホワイトカラー 2.08 2.18 2.17
 (%)        49.7 63.9 63.2

 八幡和郎氏は「皇室は親戚がほとんど東京大学出身といった、秀才のDNAを入れることにこだわりすぎているのではないか。」(註8)との婚姻政策に関する疑問が呈されているがが、よくぞ言ってくれたと思う。雅子妃以外で当時マスメディアでお妃候補として取りざたされていた、旧皇族の息女に関していえば年齢的にはかなり若かったように記憶している。どうして皇室は若い女性を選択しないのか不思議に思っていた。しかし、婚期が遅れたとも解釈できるし、いずれにせよお妃候補が29~30歳でなければならないという理由はなく、雅子妃のケースゆえ1.78まで下げる必要はないと判断した。
 家系維持の婚姻戦略としては20代前半の女性がより望ましい。しかし上記の初婚年齢別完結出生児数からすると27~28歳までの結婚なら2.1以上、25~26歳までの結婚なら、2.2以上の出生を想定できるのである。27~28歳の初婚年齢でも置換水準を上回っており、婚姻戦略としては29歳以上にならない、置換水準を上回る出生数を想定できる年齢の女性をお妃候補とすればよいということなので難しくはない。
 また雅子妃はハーバード卒、東大中退の超エリートですが、ダイアナ妃が保母だったように婚姻戦略として大卒にこだわる理由はないと私は考えるが、仮に大卒としても統計によれば 2. 19という置換水準以上の出生を想定できるのである。
 桂宮のように独身のケースもありうるし、不慮の事故により男系男子が確実に15年以上持続する結婚の保障はないという見方もできるが、一般社会の結婚というのは心理的充足が第一義の場合が多く、子づくり、家系維持の跡継ぎにこだわる結婚でないケースが少なくないこと、一般社会のように経済的理由による出生数調整、避妊や中絶による出生数のコントロールはあまり必要ないと考えられるから、平均値を採用することにより、そうした不確定要因を相殺できると判断した。もし皇室の出生力をホワイトカラーより非農自営に準拠できるとするならば2.27という数値でもよいわけである。いずれにせよ、有識者会議の1.29という数値に論理性はなく、出生数試算としては低すぎて説得力のある試算とは到底いえない。

(註5)国立社会保障・人口問題研究所第12回出生動向調査http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou12/chapter3.html#31b
(註6)国立社会保障・人口問題研究所 『調査研究報告資料第13号(1997年人口問題基本調査)第11回出生動向基本調査-第Ⅰ報告書-日本人の結婚と出産』1998 20頁
(註7)国立社会保障・人口問題研究所 一般人口統計 表4-3 女子の出生力及び再生産力に関する主要指標:1925~2003年
http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Popular/P_Detail2005.asp?fname=04-03.htm&title1=%87W%81D%8Fo%90%B6%81E%89%C6%91%B0%8Cv%89%E6&title2=%95%5C%82S%81%7C%82R%81%40%8F%97%8Eq%82%CC%8Fo%90%B6%97%CD%8By%82%D1%90l%8C%FB%8D%C4%90%B6%8EY%97%CD%82%C9%8A%D6%82%B7%82%E9%8E%E5%97v%8Ew%95W%81F1925%81%602003%94N
(註8)八幡和郎『お世継ぎ◆世界の王室・日本の皇室◆』平凡社2005 235頁

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/12/18

敵は本能寺!法案を叩き潰すために文化戦争に突入する

時間的猶予もないので、思いついたことから順不同になりますが軽い記事を書いていこうと思います。今回は報告書の中味については論じない。前置きになります。そのうえで正月休みまでに有識者会議反駁をまとめたいと思う。

川西正彦(平成17年12月18日)

11月25日のNHKニュース(正午)「皇室典範の見直しを話し合う政府の有識者会議は24日、女性とその子どもの女系にも皇位の継承を広げ、継承の順位は男女の区別なく、直系の第1子を優先させるとする最終報告をまとめ、小泉総理大臣に提出しました。これについて、小泉総理大臣は25日の閣議のあとの閣僚懇談会で、「妥当で意義深い内容だと思う。この最終報告に基づいて、来年の通常国会に皇室典範の改正案を提出したい」と述べました。そのうえで、小泉総理大臣は「いろいろな意見があるかもしれないが、国会で議論してもらい、国民の理解を得ることができるように審議の中で答えていきたい」と述べました。これについて、安倍官房長官は閣議後の記者会見で、「この報告を受け、政府部内でよく検討して法案化していきたい。法案の提出時期などのスケジュールはこれから検討する。与党側にも議論してもらうことになると思う」と述べました。」(当日のNHKニュースサイトから転載)。
 
 小泉首相は致命的に誤った政治判断を下しました。事実上易姓禅譲革命、異姓の帝位簒奪を是認し、日本国を終焉させることを合法化する、醜悪きわまりない、国を滅ぼすための政策について、「妥当で意義深い内容」とし、通常国会で成立をもくろむ意思を明確に示しました。

 また12月1日、内閣官房に「皇室典範改正準備室」が設置され、来年の通常国会に提出する皇室典範改正案の3月までに国会に提出するため法案作成作業に入っている。準備室は、内閣官房や宮内庁審議官ら15人で構成。室長には柴田雅人内閣総務官、副室長には内閣審議官2人が就任したと報道されている。

 敵は本能寺!。独裁者小泉による国体変更の恐ろしい野望を阻止すべく、文化戦争に突入します。皇族と姻戚の麻生外相や保守層に人気のある安倍官房長官も、独裁者のいいなりなら国体変更をたくらむ一味とみなすほかあるまい。
 このブログは寛仁親王殿下の「令旨」を奉じて、独裁者小泉とその一味(政府官僚-有識者ら女系推進主義者を含む)と対決する。しかし、それとともに女帝容認論の底意にある男女同権論・フェミニズムとも対決します(有識者会議の結論は要するに皇室典範の性差別撤廃である)。これは国制の根幹・文明理念・社会秩序観の争いだから憎しみあい、罵りあいのすさまじいものとなる。仕方ないですね。独裁者が皇朝・日本国を潰す、大義を棄て去る致命的に誤った決断をしたのだから。
 大義を重んじない女々しい腐った根性の小泉は史上最低の男です。フェミニズム迎合、大衆迎合政治で最低の政治家としか思えない。むろん内心は窺い知れないがこれだけ女系継承容認の皇室典範の改定を急ぐということは、例えば息子を眞子内親王あたりと結婚させ、まず女系秋篠宮家を乗っ取る。愛子内親王は政治力で婚期を遅らせるなどして、小泉の孫が帝位継承者とするように仕組んで、いずれは、小泉家が帝位簒奪、新王朝新国家をひらくという恐るべき野望でもあるのだろうか。いずれにせよそのような底意があろうとなかろうと、国を滅ぼす(易姓革命合法化)政治判断をとった首相は史上最悪です。
 
厚生省官僚-こちらこそ本物の悪のトライアングル

 一連の報道からみて小泉は本気とみなす。ブログでは書きませんでしたが、私は11月19日(土)に国士舘大学日本政教研究所の秋期シンポジウム「皇位継承をめぐって」を聞きに行きました(バネリストは嵐義人・高橋紘・所功・百地章で、コーディネーターが藤森馨)。主たる目的は女系継承を理論的に支えている所功の女系容認論を直にきいておくことでしたが、高橋紘がこういうことを言ってました。
 有識者会議の古川貞二郎前内閣官房副長官と羽毛田信吾宮内庁長官は共に厚生省出身で先輩-後輩の間柄ですが、内閣官房にも厚生省の後輩が実務を行っている。このため有識者会議-内閣官房-宮内庁の連繋はうまくいっているという趣旨のことを言ってました。要するに要所を厚生省官僚で固めており政府は本気である。羽毛田は古川に近い厚生官僚であるから、女性天皇を実現するために宮内庁次長より長官に起用されたと推測できる。高橋紘もその仲間なのだろう。羽毛田が神社本庁の批判や寛仁親王殿下のエッセーに不快感をみせるの古川の子分だからと推測できる。
 そこで経歴(要点のみ)を調べてみました。橙色は小泉の厚相在任時の厚生省での役職。

小泉純一郎首相 昭和17年生(横須賀)慶大経済学部卒
竹下内閣-厚生大臣 昭和63年12月~平成元年8月(平成元年6月再任)
橋本内閣-厚生大臣 平成8年11月~10年7月

古川貞二郎前内閣官房副長官 昭和9年生(佐賀県)九大法学部卒
 昭和9年生(佐賀県)九大法学部卒
(皇室典範に関する有識者会議メンバー)
昭和57年8月厚生省医務局総務課長
昭和59年7月厚生省大臣官房総務課長
昭和60年8月厚生省大臣官房審議官
昭和61年6月内閣官房主席内閣参事官・総理府大臣官房総務課長
平成元年6月厚生省児童家庭局長
平成2年6月厚生省大臣官房長
平成4年7月厚生省保険局長
平成5年6月厚生事務次官
平成6年9月厚生省顧問
平成7年2月内閣官房副長官

羽毛田信吾宮内庁長官 昭和17年生(山口県)京大法学部卒
昭和58年8月厚生省医務局管理課長
昭和59年7月厚生省保険医療局管理課長
昭和60年8月厚生省老人保健部計画課長
昭和61年6月厚生省保険医療局企画課長
昭和62年9月厚生省保険局企画課長
昭和63年6月厚生省大臣官房総務課長・官報報告主任
平成2年6月厚生省大臣官房審議官・内閣審議官(内閣官房内閣内政審議質併任)
平成4年1月内閣官房内閣参事官室主席内閣参事官・総理府大臣官房総務課長(併任)
平成7年7月厚生省老人保健福祉局長
平成10年7月厚生省保険局長
平成11年8月厚生事務次官
平成13年4月宮内庁次長
平成17年4月宮内庁長官

柴田雅人内閣官房内閣総務官・皇室典範改正準備室長
昭和23年生(東京都)一橋大法学部卒
昭和58年厚生省児童家庭局障害福祉課
昭和58年三重県福祉部児童老人課長
昭和61年厚生省保険局企画課長補佐
昭和63年厚生省大臣官房政策課長補佐
平成元年6月人事課秘書官事務取扱
平成2年1月政策課企画官
平成2年2月内閣官房内閣参事官
平成5年6月厚生省児童家庭局母子福祉課長
平成6年7月保育課長
平成7年6月社会・援護局施設人材課長
平成8年7月厚生省保険局国民健康保険課長
平成10年7月厚生省保険局企画課長
平成13年1月内閣官房内閣審議官
平成15年7月内閣官房内閣総務官

(引用-『全国官公界名鑑』同盟通信社2005)

 以上の経歴からみて、厚生省出身官僚三者がたんに先輩-後輩の関係で結びついているだけでなく、小泉ともたんに面識があるというより旧知の間柄だろう。従って、古川人脈を要所に配置して皇室典範改悪を進めているわけですが、小泉主導で旧知の厚生官僚を使って野望実現に狂奔しているという見方もできるのだ。有識者会議報告書が男系継承では皇位継承者が確保できないという勝手な理由として合計特殊出生率や一般社会の晩婚化を強調する奇妙な見解を述べている(この論点には明確に反駁する予定)のも厚生省官僚の着想を看取することができるだろう。
 もっとも八幡和郎『お世継ぎ』平凡社2005の259頁は、次のような少し別の見方を示している。「『皇室典範に関する有識者会議」の実質的とりまとめ役〔古川-筆者註〕は、妃殿下の父親とほぼ同じ時期の事務次官会議のメンバーで、妃殿下の母堂と同じ県出身者である〔佐賀-筆者註〕‥‥霞ヶ関高官たちの麗しい友情を出発点とした傲りにみえてしまう」。これは古川-小和田主導説なのだろうかいまいちはっきりしないが、いずれにせよ、有識者会議の結論を妥当とした独裁者の政治判断が致命的である。

最悪のシナリオ

 最悪のシナリオとしては、次のようなことが考えられる。有識者会議は女子差別撤廃条約との関連を皇室典範改正の理由としてあげていないが、条約とのからみで、男系継承から男女いかんにかかわらず第一子継承として憲法を改正したベルギーのような例を明らかに意識している。第一子優先にこだわったのも、国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW)報告の実績づくりにするためだと思う。女子差別撤廃条約が人権条約の実施措置としてはもっとも緩い報告制度をとっていること。条文の解釈は締約国に委ねられており、条約が特定の女性政策を強要するものではないから、条約のために皇室典範を改正する必要はないということを前回のブログで示唆しておきましたが、小泉は担当大臣に猪口氏を起用するなど男女共同参画には熱心であるから、いずれ政府答弁で女子差別撤廃条約も皇室典範を改正の理由にされるのだと思う。
 それは最悪の事です。たいした権威もなく強制力もない女子差別撤廃委員会(CEDAW)の報告の実績づくりのために、国体を変更して易姓革命を是認し国を滅ぼす。腐った役人根性丸出しで、つまらない委員会のためにノルマとされているわけでもないのに大義を捨て去る。もし皇位国体護持よりフェミニストを喜ばす実績づくりが重要だという判断を小泉が持っているとしたら腐った最低の男ですね。
 ところがそれをやりかねないのが小泉だ。『週刊現代』2005年12月17日号(47巻48号)46頁以下、旧皇族子孫竹田恒泰vs.田原総一朗核心対談「愛子女帝を認めるのか」にこういうやりとりがあります。田原というのはかなり悪質な女系容認論者です。
 竹田 女系の天皇に対し、もはや尊敬できないという人が出てくるのが心配です。
 田原 それが女性蔑視なんですよ。女性天皇を尊敬できなくなるというのは、女性蔑視です。(中略)
 竹田 田原さんは、小泉首相と何度も会ってお話しされていますが、皇室観についてどうお考えですか。
 田原 僕と大して違わないと思う。民主主義のルールでは、女系天皇容認で第1子優先だと‥‥

 旧皇族の子息の面前で女性蔑視と一喝して偉そうにしている田原総一朗の発想と小泉はたいして違いないということは、小泉は万世一系男系論者は女性蔑視でけしからんから叩き斬るということなのか。

 田原みたいな攻撃的姿勢で野望実現に狂奔するかもしれない。例えば男系論者を時流に反する守旧派、大衆世論の敵、雅子妃を悩ます敵、愛子さまの敵、女性蔑視だとラベリングする手法で絶叫(私自身はラベリングされてもいっこうにかまわない。明確に自分は性差別主義と発言しているし、敬宮は本来、紀宮と同じような存在であるべきて、それ以上に特別視する必要もないことはこれまでのブログでも示唆ないし発言しております)、あるいは有識者会議報告書をくり返し引用する形式的な答弁でさっさと成立させるかもしれない。そのために報告書は旧皇族が属籍を復すことを明確に棄却する内容になっているのだと思う。旧皇族復帰は有識者会議でさんざん議論して明確に否定しているから駄目なものは駄目で押し切ってくると思います。であるから現状はきわめて深刻だ。
 
性差別撤廃で婦人道徳完全崩壊の懸念

 私は、たんに国体変更、易姓革命是認・異姓者の帝位簒奪に反対、保守主義の立場で女性天皇に反対なのではない。それはよその人も主張していることで、このブログでは特色を出すため、国を滅ぼしてもよいから性差別撤廃政策が優先するというのは無茶苦茶な政策で、フェミニズムの害毒の蔓延により、社会秩序・規範の崩壊とりわけ家族倫理の崩壊をおそれるゆえ反対ということも強調したい。夫が家長で妻が主婦という決定的な価値観を否定する。後家が子どもが成人するまで家長代行として家業を指揮するのはよくありうることだからそれはいいですよ。王権でいえば太后臨朝称制です。正統的な政治形態です。
 しかし女性当主で夫が添え物、たんに子づくりのための入夫というのは耐え難い男性を侮辱するものであります。そんないびつな婚姻家族を容認するわけにいかないです。この脈絡において私は女性天皇を尊敬できません。
 神聖不可侵の万世一系の皇位ですら性差別撤廃政策で崩壊させたとなると、フェミニストの歴史的大勝利となるので我慢ならないものがある。そうなると男性がますます卑屈な立場に追い込まれる。文明の崩壊です。

 私は歴史的な婦人道徳の意義を重んじます。それゆえに性差別撤廃に強い嫌悪観を持っている。
 
 節婦表旌

 律令国家の家族倫理に関する公定イデオロギーは孝子・順孫・義夫・節婦という儒教倫理です。総じて孝義という。節婦とは「願守其(夫)墳墓以終天年」「其守節而有義」「謂、夫亡後葬舅姑負土、営墓、慕思不止也」とされる。「賦役令」孝子条で課役免除や優賞の規定があるが、とりわけ節婦表旌は六国史(とくに九世紀)に多くの記事があり、婦人道徳の確立が律令国家の重要政策であったことがわかる。
 例えば三代実録、清和天皇、貞観七年三月廿八日巳酉条 近江国に言えらく、伊香郡の人石作部廣継女、生まれて年十五にして、初めて出でて嫁ぎ、卅七にして、夫を失ふ。常に墳墓を守り、哭きて声を断たず、専ら同穴を期ひて再び嫁ぐに心無し。其の意操を量るに節婦と謂ふべし』と。勅あり『宜しく二階を叙して戸内の租を免じ。即ち門閭に表すべし』
 節婦表旌は明治天皇の地方巡幸でもなされており、我が国の歴史に一貫する価値である。律令国家の公定イデオロギーがそういうものですから、律令国家においては女帝が出現することによってフェミニストが増長するとか社会規範の崩壊のおそれはないです。今回進められている皇室典範の改悪、女性天皇容認は歴史上の女帝とは全く意味が違う。国を滅ぼすうえに文明規範を崩壊させる最悪のものであります。
 
 我が国の婦人道徳の形成において特徴的なのは節婦にみられる儒教的倫理と仏教が混淆して、貴人の女性の出家がみられる(この慣例は九世紀に成立したとみてよい)。ここでは婦徳が讃えられている二人のキサキ、仁明女御藤原朝臣貞子と清和女御藤原朝臣多美子のエピソードを引用したいと思います。
 
 女御藤原貞子出家の女性史上の意義

 藤原貞子(仁明女御、父右大臣藤原朝臣三守、母不詳、成康親王・親子内親王・平子内親王の生母、天長十年十一月従四位下、承和六年正月、従三位、嘉祥三年七月、正三位、貞観六年八月薨。贈従一位、仁明天皇の深草山陵兆域内に葬られる)薨伝に「風容甚だ美しく、婉順なりき。仁明天皇、儲弐と為りたまふや、選を以て震宮に入り、寵愛日に隆し」と見え、仁明の東宮時代に結婚、年齢は不明。文徳実録仁寿元年二月丁卯条に「正三位藤原朝臣貞子、出家して尼となる。貞子は先皇の女御なり、風姿魁麗にして、言必ず典礼なり。宮掖の内、その徳行を仰ぎ、先皇これを重んず。寵数は殊に絶える。内に愛あるといえども、必ず外に敬を加う。先皇崩じて後,哀慕追恋し、飲食肯わず。形容毀削し、臥頭の下、毎旦、涕泣の処あり。左右これを見、悲感に堪えず、ついに先皇のために、誓いて大乗道に入る。戒行薫修し、遺類あることなし。道俗これを称す」とあり(註1)、天皇のキサキで崩後出家し尼となった先例として桓武女御橘朝臣常子の例があるが、貞子は序列筆頭の女御なので(仁明天皇は皇后を立てていないので貞子が序列最上位のキサキ。文徳生母つまり東宮生母の藤原順子より位階上位)貞子の出家は女性史的にみて決定的な意義がある。父藤原三守は崇文の治の大立者であり、仁明生母の太皇太后橘嘉智子の姉橘安万子を妻としていることもあり、仁明天皇とはミウチ同然であるが、三守がもう少し長命で(承和七年薨-不審説もある)、承和の変さえなければ恒貞親王の次の候補として成康親王の可能性もあったと私は考える。また歴史家のなかには仁明天皇の崩御について不審説(註2)もあり、藤原貞子の悲しみようから深い意味があったのかもしれない。それゆえに同情するものである。
 
 女御藤原多美子出家の意義と婦人道徳

 藤原多美子(清和女御、父右大臣藤原朝臣良相)薨伝は概ね次のとおり「性安祥にして、容色妍華、婦徳を以て称さらる。貞観五年十月従四位下、貞観六年正月清和天皇元服の夕選を以て後宮に入り、専房の寵有り、少頃して女御、同年八月従三位、同九年三月正三位、元慶元年十一月従二位、同七年正月正二位、仁和二年十月薨。徳行甚だ高くして中表の依懐する所と為る。天皇重んじ給ひ、増寵他姫に異なり。天皇入道の日(清和上皇の出家-元慶三年五月)、出家して尼と為り、持斎勤修す。晏駕の後、平生賜りし御筆の手書を収拾して紙を作り、以て法華経を書写し、大斎会を設けて恭敬供養しき。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉りしなり。即日大乗会を受く。聞きて聴者感嘆せざる莫し。熱発して奄ち薨じき」
 多美子は清和天皇の元服加冠の儀の当日に後宮に入って、そのまま入内、女御となった。帝最愛の寵姫であったが皇子女をもうけることができなかった。しかしそれは結果論だと思う。多美子は貞観八年の応天門の変の政治的敗者といえるだろう。応天門の変の背景に太政大臣藤原朝臣下良房の養女格であった高子の入内問題があったというのが角田文衛説である。『伊勢物語』の二条后と在原朝臣業平の恋愛事件について、多くの学者は消極的な姿勢で史実性を認めているが、角田文衛(註3)は物語文学を精査したうえ、高子は文徳生母皇太后藤原順子の東五条第に預けられていたが、貞観元年十二月~二年正月皇太后宮東五条第西の対に業平が忍び通いをしたと断定している。この時期藤原順子は弟の藤原良相邸を仮御所とされていたため、警備が手薄になっていたらしい。
 この事件は隠蔽されたがいかにひた隠しにしても業平は人気者だから、極限された貴族社会では忽ち電波のように噂が広まったに違いないとする。当時の太政官符の類を見れば明白なように、左大臣源朝臣信は名のみで、実際の政治は主として右大臣良相が施行していた。政権の主軸である良相が難色を示せば、いかに太政大臣良房と雖も持駒の高子入内を強行できなかった。あるいは清和祖母藤原順子が帝より八年も年長で派手な性格の高子を嫌って、行儀正しい多美子を推薦したとみられている。
 さて、貞観八年応天門の変直前の状況について武野ゆかり(註4)は太皇太后藤原順子-右大臣左近衛大将藤原朝臣良相-大納言民部卿太皇太后大夫伴宿禰善男の三者がむすびついていたとしているが、良相と伴善男は仁明の寵臣で同時期に参議に列し、民政重視で相通じる仲だった。しかも良相の嫡子常行は有能で、応天門焼失の直前に基経より上席で参議に列していた。むろん大納言平朝臣高棟や権大納言藤原朝臣氏宗は良房派で、両派閥は拮抗していたとみてもよいが、なんといっても良相女多美子は帝の寵姫で皇子誕生となれば、北家藤原氏嫡流は良房-基経ではなく良相-常行に移行する可能性があった。しかし角田文衛によると藤原良房は貞観八年閏三月の応天門炎上〈真相は不確定〉を奇貨として巧妙な陰謀を企て一気に巻き返しを図ったというのである。伴善男を斃すとみせかけて、弟良相の失勢(右大臣左近衛大将辞任)を図り、その嫡子で多美子の兄常行を挫折させ、無能だが嵯峨源氏長者たる左大臣源信を庇うとみせかけて賜姓源氏の信頼感を繋ぎ留め、良房は人臣初の摂政となった。
 清和天皇は九歳で即位して十六歳まで生母藤原明子(良房女)と東宮雅院で同居状態だったが貞観七年に内裏に遷御され、明子は東宮に止まり母と離れているのだが、応天門の変の後、皇太后藤原明子が後宮正殿常寧殿に移御されている。常寧殿は本来皇后の居所であって、天皇生母が後宮に入る必然性はないのである。これは良房が内裏をミウチで固めて帝を取り込み(当時後宮を差配していたのが尚侍源全姫で、良房の義妹、皇太后のおば)序列筆頭の女御の多美子を牽制する意図があったとみてよい。尚侍源全姫が藤原高子をはじめとしてやたらと多くの女御更衣を後宮に送り込んだのも多美子に里第へ退下を余儀なくするようしむけたものだろう。それゆえ藤原多美子に同情するものである。
 貞観18年清和天皇は二十七歳で上皇権を放棄するかたちで退位された。退位は藤原基経の策略とみなす説(註5)があるわけです。上皇の封戸は財政難のためか半減とされたのでり、出家せざるをえないようにしむけられたのかもしれないが、いずれにせよ清和上皇の出家に従って、女御藤原多美子は出家して尼となった。夫唱婦随これほど美しい婦人道徳はないと思います。出家されてほどなく元慶四年上皇は崩御になられたが、その後、多美子は平生天皇から賜った手紙を集めて漉き返し、その紙に法華経を写経して供養している。この時代には脱墨技術はないので、漉き返しを行う紙の色は薄い黒色となった。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉り、それを聞いた人々は感嘆したが、多美子は熱発して亡くなってしまったというのである。ここに貴人の女性の婦人道徳とはこうあるべきだということが示されている。しかし、皇室典範が性差別撤廃してしまうんじゃ、こういう婦人道徳を讃えたり、宮廷文化のおくゆかしいところもみな否定されてしまうのではないかと危惧します。
 
 七出・三不去の制
 
 関連して「戸令」二十八の七出・三不去の制も律令国家の公定イデオロギーであるから言及しておくと凡そ妻棄てむことは七出の状有るべしとされるのである。子無き。間夫したる妻。舅姑に事へず。心強き妻。ものねたみする妻。盗みする妻。悪疾。であるけれども子無きはさしたる咎にあらずともされている。
 このなかで最も重視したいのが「舅姑に事へず」この趣旨からいって現代のフェミニストの主張は公定イデオロギーに逆らっており容認しがたい叛逆である。つまり夫にも服従しない対等を要求。のみならず舅姑に仕えるのはまっぴらごめん。舅姑と同じ墓にはいりたくない。それでいて夫婦別姓導入で法定相続で夫家の家産は分捕りたい。欲の深い女どもだ。こういう我が儘で欲の深い主張がまかりとおっていることが間違いだと思います。
 神聖不可侵の万世一系の皇位、神聖不可侵の日本朝を性差別撤廃政策で終焉させたいと考えている、小泉とその一味、フェミニストとは妥協の余地などないのである。皇室典範の性差別撤廃は、たんに皇室の問題にとどまらず一般社会の影響も大きい。欲の深いフェミニストは増長する。その悪影響は甚大であり、強く反対する。

(註1)大江篤「淳和太后正子内親王と淳和院」大隅和雄・西口順子編『シリーズ女性と仏教1尼と尼寺』平凡社1989
(註2)谷下喬一「仁明天皇崩御事情に関する一考察(上)(下)-続日本後紀編纂に於けるおける藤原良房の政治的意図をめぐって-」『政治経済史学』58・59号
(註3)角田文衛「藤原高子の生涯」「良房と伴善男」『王朝の映像』東京堂出版 1970
(註4)武野ゆかり「中宮職補任-藤原順子・明子・高子の場合」『神道史研究』29-3 1981
(註5)太田英比古「清和太上天皇の出家事情と水尾山寺隠棲(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)」『政治経済史学』107、108、109

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/11/23

女帝反対論批判の反論(その4)

 宮門跡還俗による伏見宮系宮家の創設の意義
 
 幕末維新期から伏見宮系宮家の創設が相次ぐが、その経過について『神社新報』の「皇室典範改正問題と神道人の課題(第七回)」(平成17年9月5日)に詳しいので適宜引用・要約して記す。
 幕末動乱期、徳川慶喜・島津久光などの「公武合体派」の要請で文久三年(1862)二月青蓮院宮尊融親王が還俗し中川宮朝彦親王となる(後に賀陽宮、久邇宮に改称)。同年十二月には、徳川慶喜・松平慶永・松平容保・伊達宗城・島津久光が連署して書を朝廷に上り勧修寺宮済範親王の還俗を請ふた。文久四年(1863)正月に山階宮晃親王となり両親王は国事に参与された。晃親王は宮門跡制度の廃止を主張し、慶応になると岩倉具視などの公家からも続々と宮門跡還俗論が出て明治初年以降、続々と宮門跡還俗による宮家が創設されたが、それらは伏見宮系である。これは維新政府の「神仏分離政策」に先行するもので、「皇室の神仏分離」を促す結果になった。明治四年五月に諸門跡比丘尼御所号が廃止されている。
 また継嗣のいなくなった閑院宮家も明治五年に伏見宮家の易宮(後の載仁親王)によって継承された。明治以後桂宮・有栖川宮両家は断絶したため、終戦の時点で十一宮家はすべて伏見宮系である。戦前は宮家が多すぎたという人もいるが、現実に「皇位継承資格者」が枯渇状況になってしまっている以上、宮家は多すぎたなどといえない。
 以上の歴史的経過をみると、宮門跡還俗による宮家創設政策の原点が文久三年の徳川慶喜の正月十日の奏請にあることがわかる。「是迄皇胤之御方々夫々御法体被為成来候御事何共恐入候事二付此後之処ハ御法体無之親王二被為立候様有之度事」「青蓮院宮御儀方今皇国之御為厚御憂慮被為在候趣殊二乍憚御英敏之御事共兼々承リ候事二御座候間何卒御還俗有之万機御相談ヲモ被下ハ、至極之御事ニテ於関東モ怡悦可被到存候」と奏請。
 幕末維新期に宮門跡の還俗や、制度それ自体の廃止がぶちあげられたのは革新的なことである。これは政治的理由によるものであって、新井白石の献策のように皇位継承候補の確保という意味ではないようだが、結果論として伏見宮系の宮家がこれだけ多く創設されたということで、ある意味では徳川慶喜を評価してよいのかもしれない。
 

 持明院統文庫の伏見宮家相続の意義

 私は、10月3日ブログで、持明院統文庫の相続について松薗斉の『日記の家』吉川弘文館1997に依って、「文安三年の貞成親王による宮家を継承した子息貞常親王への譲状によると、御記(代々天皇の日記)だけが、禁裏(後花園)に進められたが、その他の記録文書は貞常親王に相伝することを指示している」(一部字句訂正)と書きました。10月16日ブログでも、「松薗斉は家記の継承を軸にした家継承を論じ、同氏の見解では持明院統の家記を失った(後花園天皇が継承されたため)貞常親王が継承した家、つまり伏見宮家とは貞成の「看聞御記」を「支證」とする「日記の家」だから、太上天皇後崇光院を「曩祖」とするという見解である」と書きました。松薗斉の見解では、持明院統文庫は、御記が禁裏に、その他の文書は伏見宮家で分割相続されたということになってますが、少し松薗斉の見解に引きづられたことを後悔してます。不勉強で恐縮しますが、それとニュアンスがかなり異なる見解があるの最近知りました。
 飯倉晴武(奥羽大学教授・元宮内庁書陵部主席研究官)の『日本中世の政治と史料』吉川弘文館2003、「中・近世公家文庫の内容と伝来」の243頁以下です。
「崇光天皇の曾孫後花園天皇が皇位を継承しました‥‥ところが持明院統に伝わる皇室文庫は伏見宮の方に残されたままでした。これは後花園が称光の父後小松天皇の猶子として即位したのが原因かもしれません。後小松はあくまでも後光厳院流が皇位を継承するのだといって、崇光院流と対立姿勢をしめしたので、後花園の父貞成親王が第二皇子に文庫を譲って伏見宮を存続させ」と述べておられます。持明院統文庫、つまり文和三・四年の「仙洞御文書目録」(仙洞とは光厳上皇をさす)と、応永年間の「即成院預置伏見宮所蔵目録」「大光明寺預置目録」(後崇光院貞成親王が伏見の寺に預け置いていたものを点検した時の目録)はあくまでも貞成親王の第二皇子に譲られ、伏見宮家の所蔵として代々伝えられた。明治五年(1872)に伏見宮家より『看聞御記』が太政官文庫に献納され(のちに御物となる)、同時にそれより同七年にかけて、宮家の命によって家従の浦野直輝が宮家蔵の古記録・古文書を書写し、目録を含めて八十八冊とし、『伏見宮記録文書』と題した。現在、宮内庁書陵部の所蔵となっている(『国史大辞典』-伏見宮記録文書)。さらに昭和二十五年頃、宮家の臣籍降下により、経済的理由で蔵書を全て手離さざるを得ず、伏見宮家にあった原本・写本の一切を国費で宮内庁書陵部が買い上げ国のものになっている。788部1666点ともいわれる。
 飯倉氏は伏見宮旧蔵本の価値の高いことを述べてます。質・量とも最高のものです。「書陵部に伏見宮家旧蔵本というのがたくさんございます。伏見宮旧蔵の記録類はですね。たとえば『水左記』の平安時代の原本が含まれていたり、あるいは鎌倉時代の写しになります『小右記』『中右記』『平戸記』という著名な現在伝えられている古記録のもっとも古いといわれている写本がほとんど伏見宮旧蔵の本でございます。‥‥」。「で、この伏見宮家の文書のなかには伏見天皇の日記や『花園天皇日記』『花園天皇宸記』として有名ですが、そういう持明院統の天皇の日記も入っております〔この点は松薗斉と見解が異なるように思う〕。この時の目録にはみえないけれども、持明院統の正統はこちらだということを暗に主張していたと思うわけです。その後、天皇家が記録を取り戻すのはいつかというと‥‥(江戸時代には四親王家となり)伏見宮家という宮家の存在が薄くなったかにみえます。でも実際には皇位の正統を伝えるべくこういう皇室の記録文書は伏見宮家にある。天皇家としてはそういう記録文書を備えていなければ、他の公家がそれぞれの記録文書を持っているのと同じように、天皇家として成り立たなかった状況があったと思うんですね。‥‥そこで江戸時代朝儀が復活されるころにあわせて‥‥後西天皇が記録類の筆写をはじめます。もちろん自分でやるのではなく、公家たちを動員してやるのですけれども、それが東山御文庫といわれるものですね。‥‥記録類をもつというのはその家の、とくに近世にはいってから非常に大事なことされ、後西天皇、霊元天皇、東山天皇、その後も引き続き文庫の維持、作成に力を尽くすのですけれども、たくさん写本を作り出してます。どういう写本かといいますと、やはりですね近世の公家が写したように『小右記』『中右記』『権記』『平戸記』等伏見宮家で持っているものと同じものの写本を作り出していきます。‥‥内容について、秘密にするものだとか、大変なものが書かれているとか、そういうものはないんですね。ありきたりの各公家が持っている古記録のの写本と同じです。」(飯倉前掲書「古記録について」223~228頁)
 飯倉氏の説明で、伏見宮旧蔵本と東山御文庫で、『小右記』など同じものを備えているとしてもはどちらの価値が高いかは明白です。伏見宮旧蔵本は、原本が伝えられてない史料は最も古い鎌倉時代の写本が伝えられているし、『水左記』のように原本もある。東山御文庫は江戸時代中頃の収書・写本にすぎないんです。
 要するに公家であれば嫡流の家に伝えられるべき重要な記録類が、皇室でなく伏見宮家に伝えられていた。伏見宮家が終戦後までそれを手離してないというのは、持明院統文庫、その蔵書がステータスシンボルであり、正統の王統であることの証明でもあるからですが、皇室のほうは朝幕関係が安定した時期に独自に東山御文庫を作り出すしかなかったわけです。
 このことからも伏見宮家が家系と家格にたいする矜持が極めて高いことが理解できるし、いわゆる分家じゃないんです。むしろこっちが正嫡系という主張すらできる可能性がある。というのは、飯倉氏も若干説明されているように、彦仁王(後花園天皇)は後小松上皇の猶子として、あくまでも後光厳院流を継承したことになっている(註1)。後花園は血筋としては崇光院流ですが、あくまでも後光厳院流の猶子、したがって持明院統正嫡たる崇光院流が皇位を回復したと、実態としてはそういえるかもしれないが、形式にこだわれば系譜上はそうではないといえる。
 人類学では、社会学的父と生物学的父を分けて理論化するわけですが、この趣旨からすると後花園の生物学的父は後崇光院伏見宮貞成親王だが、社会学的父はあくまでも後小松上皇。現在の皇室の皇統は、あくまでも、持明院統傍系(庶流)の後光厳院流である見方もできるのだ。後小松上皇の遺詔により、ねじれは今日でも解消していないという解釈もできる。後光厳天皇即位の事情については9月25日ブログ女帝即位絶対反対論第12回の終わりのほうで説明してますのでみてください。また、光厳上皇はあくまでも正嫡は崇光系として、後光厳は傍系としか認めていないことについては10月10日ブログで飯倉晴武を引用(飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』吉川弘文館歴史ライブラリー2002 202頁)している部分でふれているのでみてください。
 後花園の実父、後崇光院伏見宮貞成親王は太上天皇尊号をうけてますが、辞退していて、足利義教が後小松上皇の仙洞御所を解体して建設した京都の伏見殿が仙洞御所になったわけではない。そういう事情から貞常親王が貞成親王から相続した伏見殿は持明院統正嫡たる崇光院流の分派とはいえず、崇光院流の少なくとも正統的系統とはいえる。極論かもしれないが、もう一度伏見宮系に皇位が継承されて、今度は実父が太上天皇尊号を辞退しないということで、真に持明院統正嫡が皇位を回復するという解釈も可能なのである。このへんの歴史的脈絡は伏見宮に有利にいかようにでも解釈できるわけで、少なくとも皇室の系統と双璧をなす王統であるといってよい。
 要するに、私は伏見宮系に皇位継承の正統性があることを述べたいわけです。皇室が内親王だけで後嗣に恵まれないとすれば、規範性、歴史的脈絡からみて、伏見宮系が大統を継がせしめられて全く当然であると考えます。こういう事情は皇太子殿下が中世史の専門家ですから、私のような素人がとやかくいうまでもなく、よく御存知のはずです。

 結 論

 まだまだ反論は続きますが、あす11月24日皇室典範に関する有識者会議の答申が出されるということで結論的なことを述べておきたいと思います。
 私は、女性天皇は認めるが女系天皇(易姓革命)に反対という見解にも反対します。現今の女帝論議は、生涯非婚独身ということが前提になってないし、仮に生涯独身を前提としても女性天皇に反対であることは9月19日ブログ(女帝絶対反対第9回の孝謙女帝論で有る程度言及しているのでみてください。それから中川八洋氏『皇統断絶』(ビジネス社2005)のいうように「愛子皇后陛下」のみ皇統を救うという立論にも全面的には賛同しないことにします。私も以前は、継体天皇、光仁天皇、光格天皇の先例からそういう考えももっていましたが、根性の腐ったエスタブリッシュメント(ここでは政府官僚や有識者をさす)があまりにも敬宮びいきのため不愉快なので考えを改めざるをえなくなった。
 元東大学長や東大名誉教授、元最高裁判事、元国連高官、元官僚など、あなたのような下世話な人間とは比べものにならない高名な超一流の方々が議論を尽くしたのだから、これはエスタブリッシュメントの結論ですから、おとなしく従うのが義務とかいって、国会議員も国民も敬宮びいきになれと言ってくるかもしれませんが、易姓革命容認-日本国号を改めなければならないという無茶苦茶な結論なのに議論は紛糾もしないし、抗議のため辞任するような硬骨漢もいないんです。そういうことならますます反発します。
 ということで、敬宮は紀宮と同じように天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。皇族にとどまるなら伝統に従って非婚内親王を貫くべき。皇位継承は皇太子-秋篠宮-伏見宮系の順が望ましいと思います(むろん皇孫男子誕生なら話は別ですが)。伏見宮系に21-22世紀の日本の未来を托しましょう。秋篠宮立皇太弟なら宮様の面目を潰すこともないし、時間的にも余裕がある。それまでに旧皇族は属籍を復され、皇族としての活動を通じ、広く国民に認知されていただくようにすればよいと思います。
 ところで、『神社新報』の平成17年8月29日号「皇室典範改正問題と神道人の課題第六回」十一宮家皇籍離脱の経緯について解説を読みましたが、適宜引用・要約すると、昭和二十年十一月十一日東久邇宮稔彦王は、敗戦の責任から皇族の殊遇を拝辞する旨を表明したが、皇族全体としては閑院宮春仁王が「皇族の使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と反対が大勢を占めた。しかし、十二月九日梨本宮守正王が戦犯に指名され、戦争責任追及の手は、皇族でも免れ得ないこととなり、加藤進宮内次官(のち宮内府次長)が先手を打ち三直宮以外の皇族方が、自ら皇籍を離れることを陛下にお許し戴くべく奔走したというのである。(それは、天皇とお直宮を守るために必要と認識されたということらしい)
 この問題に関して重臣会議の席上では鈴木貫太郎元首相等から、皇后の御実家の久邇宮や、明治天皇の皇女が嫁がれている宮家は残してはどうかといふ意見や皇位継承者確保の不安が示されたが加藤は「非常にその点は心配です。しかし皇太子殿下もいずれご結婚あそばせるでしょうし、三笠宮殿下にも御子息がいらっしゃるのでなんとかなるとは思います」と説いて了承を得たのだという。加藤は「離脱なさる宮様方につきましても、これまでの皇位典範からいって皇位継承権を持っておられるのでございますから‥‥「『万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい』とも申し上げました」とも述懐してゐる(「戦後日本の出発-元宮内次官の証言『祖国と青年』第71号昭和59年)とのことです。
 要するに皇室への戦争責任の防止策としてやむを得ざる状況下の皇籍離脱だったということですが、当事者の間では万が一の皇位継承の可能性は否定されていなかった。皇位継承権を持っていると宮内次官が述べているのです。

川西正彦(平成17年11月23日)

つづく

(註1))『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1984 
「後小松天皇の御遺詔」
横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 319頁以下。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2005/11/20

女帝反対論批判の反論(その3)

伏見宮の実系相続維持の意義と他の世襲親王家との違い

川西正彦(平成17年11月20日)
  
 宝暦九年(1759)五月伏見殿第十六代邦忠親王(桜町天皇猶子)は継嗣となる王子なく薨去された。武部敏夫(「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960)に大幅に依存するが重要な事柄なので引用すると、「伏見宮では同年五月発喪に先立ち一書を朝廷に上って、同宮相続のことを願い出られた‥‥大納言広橋兼胤の日記に
 「邦忠親王無息男、相続之事去月廿五日附書於勾当内侍請天裁、其趣崇光院巳来実子連続之間、不断絶系統相続之事被冀申云々、家系無比類之由含後崇光院道欽之述椿葉記之趣意於心底被望申云々」(八塊記 宝暦九・六・二条)
とあり、その趣旨は伏見宮は崇光天皇の嫡流で、皇統にとって格別由緒ある家柄であるから、実系の断絶することのないよう血脈に当る者を以て相続せしめられたいと云うにあった(椿葉記の趣旨に言及されていることが印象的だ-武部論文43頁)。
 この情願に対して桃園天皇は即日関白近衛内前始め、摂家の大臣以上を召してその措置を勅問したが、廟議は一決せず、伏見宮相続のことは幕府の奉答に委ねられることとなった。
 問題は、邦忠親王の弟宮である勧修寺門跡寛宝親王・青蓮院門跡尊真親王が現存されていたが、既に得度して僧籍にあり、親王家には還俗相続の先例がなかったこと。
 伏見宮家は後花園天皇皇位継承の由緒と十六代も実系を維持し、家系と家格にたいする矜持が極めて高いことから(なぜそれほどまでに矜持が高いのかについては今回と次回で述べる)情願を無視できない。しかし八条宮(のち桂宮)と高松宮(のち有栖川宮)は後嗣に恵まれない場合、しばしば天皇や上皇の皇子が宮家を継承していたことである。廟議が一決しないのは、伏見宮家の由緒から情願を無視できないが、下記のとおり八条宮-常磐井宮-京極宮や高松宮-有栖川宮のように後嗣のない場合は、皇子が遺跡をついでいる先例があり、宮家を実系でも近親とする政策を支持する意見が朝廷内にあったことを示すものとみられている。

(八条宮相続の例)
 八条宮(のち常磐井宮-京極宮-桂宮)は正親町天皇の皇孫で誠仁親王(陽光院贈太上天皇-さねひと)の皇子智仁(としひと)親王を初代とする。親王ははじめ関白豊臣秀吉の猶子となり、秀吉の後継者に擬せられたが、天正十七年(1589)秀吉が宮家創立を奏請し、所領を献じ、八条殿を造進した。後陽成天皇は智仁親王に譲位せられんとしたが、徳川家康が干渉し断念せられ、親王の践祚をみることはなかった。第二代の智忠親王に後嗣がなかったため後水尾皇子の穏仁親王が相続したが、穏仁親王にも後嗣なく、その後は、後西天皇の皇子、長仁親王、尚仁親王、霊元皇子の作宮(常磐井宮と号す)、文仁親王(改号京極宮)に宮家が継承され、光格皇子盛仁親王が第十代を継承して桂宮と称している。

(高松宮-有栖川宮相続の例)
 高松宮は、寛永二年(1625年)後陽成皇子の好仁親王が高松宮の号を賜い、一戸創設を聴されたのに始まる。しかし親王に嗣子がなかったため、後水尾上皇皇子の良仁親王が遺跡を継承されたが、後光明天皇が崩御されると、上皇は良仁親王を践祚させた。後西天皇である。このため宮家は中断したが、後西皇子の幸仁親王を家督に迎え宮家を再興し有栖川宮と号した。その嗣子正仁親王は後嗣に恵まれなかったため、霊元皇子の職仁親王を第五代として宮家を継承した。

 幕府は桃園天皇第二皇子による伏見宮相続を適当とする旨奉答したので、宝暦十年貞行親王の御誕生により、伏見宮家を相続したが、十三年後の明和九年(1772)に貞行親王が薨去されるに及び、朝廷は後桃園天皇の第三皇子に伏見宮を相続せしめると定めた。第一皇子が皇儲、第二皇子が京極宮を相続し、第三皇子が伏見宮相続ということであったが、しかし、当時後桃園天皇は十四歳で第一皇子も誕生していないのである。そこで伏見宮一門は一旦中絶した実系相続の復活を切望し、幕府への工作を行ったことにより、幕府がこの問題に介入し、青蓮院門跡尊真親王か勧修寺門跡寛宝親王の還俗による伏見宮相続を申し入れた。朝廷では尊真親王は天台三門跡の枢要にあるので還俗を認められないとして、勧修寺門跡寛宝親王の還俗により実系相続が復活したのである。
 嘆願・内願工作については、武部敏夫が兼胤公記により明らかにしている(武部論文の55頁註(6))。第十六代邦忠親王・勧修寺門跡寛宝親王の妹の貞子女王(権中納言源重好卿室)は田安宗武の後室法蓮院(近衛内前の姉)を介して、摂政近衛内前に内願し、貞子女王と親密だった幕府大奥年寄松島も法蓮院を介して内願を行っている。しかし決定打は幕府の方針であり、当時は将軍家治、田沼意次の権勢期であるが、伏見宮実系相続に尽力したことで大奥年寄松島の政治力を高く評価しなければならないと思う。伏見宮切り捨て論に与して、女性天皇を企てる、首相以下の政治家や政府官僚、有識者なんかよりはるかにましだ。大奥年寄は正しい政治判断をとっていたのである。
 この政治判断は妥当である。桃園皇弟貞行親王の場合は、もしもの場合、間違いなく第一候補となりうるので伏見宮としてもメリットはある。しかし、誕生の可能性すらはっきりしない三宮の相続に反発するのは当然のことで、豊臣秀吉との関係で創設された八条宮の系統である京極宮が既に第二皇子が相続することになっていて、これでは伏見宮一門ののプライドを傷つけるものであり、先々代の弟宮の還俗相続は当然と考える。伏見宮家は、家系と家格にたいする矜持が極めて高い。康正二年(1456)十月に後花園天皇の叡慮により皇弟貞常親王に永世伏見殿御所と称すべしとした(『皇室制度史料 皇族四』の64頁)。これはその後の伏見殿の遇され方でも明らかなように、貞常親王の子孫に永久に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家としての地位を明確にされたのである。それゆえの実系相続のこだわりであり、その権利も有すると解釈できる。というのも、こうした由緒が、豊臣秀吉との関係で創設された八条宮、あるいは有栖川宮や幕府の協力により創設された閑院宮とは違う。

  武部敏夫が野宮定基卿記を引用して(武部論文53頁)、そもそも世襲親王家(定親王)なる家格も伏見宮にのみに与えられた格別の待遇であったとの見解があったことを述べているので引用する。
「有栖川正仁親王の親王宣下〔後西天皇孫、宝永五年1708〕に関連して『夫親王者天子之子也(中略)往昔正中(マゝ)皇統将絶 、仍大通院(マゝ)親王御子有登極之事、称之後花園院、依此賞伏見殿一流為親王、仍代々主上有養子之儀、然近世智忠親王三世而為親王、不知其故、其無謂事也、今又有栖川一流如此、然則伏見宮別儀無其詮歟』(宝永五・九・廿五条)とあり、後花園天皇の皇統継承の由緒によって伏見宮の家格を別格と考えているのである」

この見解は、令制では諸王の班位である八条宮第二代の智忠親王、有栖川正仁親王の親王宣下、それ自体、必然性はないということをいっているようで、しかし伏見宮は格別の待遇とされ、伏見殿一流は代々主上の養子として親王宣下される家格であるということである。

 しかし他の親王家にそれほどの由緒はなく、実系の連続性がなくてもさほど問題にならないから、八条宮は、常磐井宮、京極宮、桂宮と改号してます。高松宮も有栖川宮と改号しています。
 
 室町時代より、皇室も日本的家制度にある程度類似した在り方、公家社会も同様ですが、原則的に限嗣相続になってます。皇室領が縮小していますから、分割相続も不可能、皇儲の一皇子だけが原則として在俗で親王宣下、宮家が創設されるのは特別の場合だけで、それ以外の皇子は原則として仏門に入っている。宮家に後嗣がなければ皇子が、仏門に入らないで、宮家を継承しているわけです。これは令制の皇親制度や近代の皇室典範の在り方とは違いますから、世襲宮家というのは必ずしも天皇の近親ということにはならないシステムです。宮家が固定化すると、仏門に入った皇子のほうが天皇の近親ということになる。それでも、もしもの場合、還俗して皇位継承というのはあまり考えられない。血縁関係では入道親王より遠くても、やはり宮家の在俗親王が皇位を継承するものと理解してよいのだから、近い、遠いは関係ない。
 そもそも、鎌倉時代に後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)に分裂した一つの要因として、前者が長講堂領・法金剛院領を基幹所領とし、後者が旧八条院領を基幹所領として、皇室領をおよそ折半するかたちで分割相続している点についても着目しておきたい。鳥羽院政期以後、院や女院の御願寺に荘園が集積したなかで、巨大所領群としては鳥羽上皇-美福門院(鳥羽妻后・近衛生母)-八条院(鳥羽皇女・近衛実母姉・二条准母)-仙華門院(後鳥羽皇女)-後鳥羽上皇-安嘉門院(後高倉皇女・後堀河皇姉准母)と伝領された旧八条院領と、待賢門院(鳥羽妻后・崇徳・後白河生母)-上西門院(鳥羽皇女・後白河実母姉)-後白河上皇に伝わった待賢門院領なかんずく中核所領である法金剛院領と後白河の長講堂院領を相続した宣陽門院(後白河皇女)領という、異なる系列の巨大所領群が形成されていた。だから、皇統が分裂する素地は、既に鳥羽院の嫡妻同時に三方並び立つ近衛朝からあったと私は考える。
 しかし南北朝動乱と応仁の乱で巨大な皇室所領群は解体過程を辿ったのであり、室町時代以後は経済的基盤が乏しく分割相続は不可能、少なくとも後花園天皇以後、皇統が分裂することも争うこともほとんどなくなったのであり、その代わり、世襲親王家というかたちで、皇親を形成した。それが令制の皇親概念と近代の皇室典範の皇族概念と違うから理解できないというのは、中世・近世史を軽くみすぎている。古代史研究者で令制の皇親概念にこだわる人がいますが、それは近視眼的だと思う。ある意味で世襲親王家は限嗣相続を前提としたすぐれたシステムである。経済的基盤が乏しくても王権を維持できるすぐれたシステムであると思う。両統迭立だと皇位継承問題で紛糾するが、そういうこともない。後鳥羽上皇が土御門天皇を疎んじて、皇弟の順徳天皇を即位させたり、亀山法皇が末子の恒明親王鍾愛のあまり正嫡に定め、後宇多-後二条の子孫に皇位継承をあきらめさせるみたいな、紛争要因になりかねないようなことはなくなったわけです。だからわかりやすいシステムです。伏見宮は皇室の系統と双璧をなすのに、両統迭立みたいなことをいっさい要求することもなく皇室の藩屏として皇族の崇班を継承してきた。後花園以後皇位を継承しておらず、実系相続を維持したがために、軽くみられるという性質のものではないと思います。
 伏見宮は格別の待遇であるから、世襲親王家として改号することもなく、少なくとも明治二十二年(一八八九)の皇室典範制定まで一貫している(皇室典範の制定により親王宣下はなくなったが、幕末維新期に宮門跡の還俗政策が推進され、皇室の神仏分離が促されたこともあり、幕末維新期以後、宮門跡の還俗などで多くの伏見宮系宮家が創設されているから、実質的には、皇統の備えとしての意義は拡張されているわけである)。
  のみならず「明治天皇は光格天皇の時のような危機から皇室存続を守るため 皇女4人を遠縁の宮家に嫁がせ昭和天皇もそうなされた。 不幸にも伏見宮系はGHQの命令で皇籍離脱させられたが 現皇統と双璧をなす皇統だった 」(2ちゃんねるニュース速報+【皇室】「女性天皇容認」で、全会一致…皇室典範有識者会議★8 の573の匿名の投稿)という意見があるように、明治天皇や昭和天皇の婚姻政策もあり、この点については有識者会議の5月31日のヒアリングで大原康男(國學院大教授)が「これらの宮家は500 年ほども前の伏見宮家から分かれた遠い血統の方々であるという説明です。しかし、そのうち、竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮の4宮家は明治天皇の4人の内親王様が嫁がれておられます。つまり、明治天皇のお血筋を引いておられるわけで」と述べておられるとおりです。もっとも私は、女系で現皇室と近親であることは決定的な意味はなく、端的にその由緒と歴史から伏見宮系が現皇室の皇統と双璧をなす正統的王統であり、令制の諸王の班位とは明確に違うということを重視したいと思います。

  つづく

  引用参考文献
橋本義彦『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館「皇統の歴史」18頁以下
宮内庁書陵部編纂 『皇室制度史料. 皇族 4』吉川弘文館1986 44頁以下「四親王家の成立と展開」
 
 
補説
 近い遠いは関係ないひとつの理由、近代皇室典範の長系・嫡系・近親優先主義と歴史的経過は異なることを理解すべきだ。

 

 基本的に令制の公的家というのは個人的処遇であり、すなわち三位以上(のちに五位以上に拡大)の官人は公的家政機関である「家」の設置が認められ、家令以下の職員が官から任命されるとともに位禄などの給与物が家政機関によって運営され、家政機関それ自体は世襲ではない。

 親王の家政機関は令制本来の在り方では、所属の職員には親王には特に、文学・家令・扶・従などがあり文学は経書を教授する教育係が附く(内親王には附かない)。このほか帳内という近侍して雑用に当たる者が、一品親王なら百六十人、品位によって差等がある。平安中期以後になると、家令・扶の号は廃れて、摂関家のように別当・家司が附属し、政所で事務を執った。親王の家政機関は本来、個人的処遇であって世襲ではない。
 しかし令制の収取体系、禄制、国家的給与は崩壊し、所領を相続できる皇親、王氏以外、諸王の班位では王統を維持することは不可能になった。管領所領を相続できなければ、在俗の立親王というのは原則的にはありえなくなったともいえます。とりわけ室町時代以降は、親王宣下(在俗)がきわめて限定されるわけです。 室町時代以降において皇儲及び宮家を創立、若しくは継承した親王、或いは婚嫁のあった皇女・王女のほかは出家することが常例となっており、経済的基盤の制約もあり親王家の新立は容易に認められない。10月16日ブログでも述べたとおり、武部敏夫(本文冒頭記載の論文)によれば、世襲親王家は元来、皇子その他皇親に対する個人的な待遇として行われた親王宣下とは性格が異なり、家系に対する優遇に転用せられ、一種の家格として慣習的に形成されたとされる見解で、江戸時代に於いては明らかに皇位の継承という観点に立って理解されていた、いかに出家する皇子が多かったか。
 近世初頭の正親町天皇より桜町天皇の御歴代皇子の中、皇儲以外の方の処遇を見ると、親王家を創始された方は後陽成天皇皇子・東山天皇皇子各一方、親王家を継承された方は後水尾天皇皇子一方、後西天皇皇子三方、霊元天皇皇子三方であり、これに対して出家された皇子は後陽成天皇皇子・後水尾天皇皇子各九方、後西天皇皇子七方、霊元天皇皇子十方、東山天皇皇子一方、中御門天皇皇子四方の多数を数えるのである(武部本文冒頭記載論文48頁)。
   近い・遠いは関係ない。明治以後皇族の出家が禁止される前と後では皇親の在り方が基本的に違うんです。明治皇室典範以後皇位継承の長系・嫡系・近親の優先原則は中世・近世には必ずしもあてはまらない。自明ではないです。中世-近世の皇位継承候補の在り方は近代のそれとはがかなり違うということ。室町時代以降、皇室も限嗣相続が原則となり、それは皇室領が南北朝動乱と応仁の乱で解体過程を辿り僅かな禁裏御領と伏見宮家の所領だけに限定してしまったこととがあるのでしょうが、豊臣秀吉が所領を献じて八条宮が創設されるまで、あらたに親王宣下の前提となる経済的基盤はなかったので、戦国時代は皇子御一方だけが在俗親王なのです。江戸時代になっても皇儲以外の皇子は宮家の後嗣がなくて継承する以外出家されるのがほとんどですから、長系・嫡系の皇位継承が無理な場合は世襲親王家となる。出家された皇子が還俗することは考えにくいので、皇位継承候補の控えは世襲親王家であった。令制の親王家は、親王個人に家政機関が附属するし、王朝時代の親王宣下も同じことですが、室町時代以降は、皇儲以外は所領や財産を継承する宮家の継承者に親王宣下されるシステムに変わったということです。だから宮家が固定化すれば、皇室とは遠系になりますが、それでも皇位継承資格者です。そのために歴代天皇・上皇の猶子とされているわけです。この意義を認めないで、遠いから駄目だとか、いうのは大きな勘違いです。
 中世-近世は出家される皇子が多かったことについて、私も独自に調べました。データは次のとおりです。『系図纂要』名著出版1996、新版第1冊下から、後花園天皇から仁孝天皇まで(後陽成の父で贈太上天皇の誠仁親王を含む)の御子を男女別にみていきたいと思います。ここでは簡略化して示し、天皇、親王、内親王、入道親王、比丘尼御所などの諱、名号等はほとんど省略する。法親王でも入道親王でもないが僧籍のケースはその他とする。皇女は内親王宣下がないケースはたんに皇女とする。基本的に皇位継承候補者となるのは在俗の親王で次のデータ、後花園皇子から仁孝皇子までで30%です。入道親王とは、入寺得度に先立ち親王宣下をうける例、法親王は僧籍に入った後親王宣下の例で僧侶たることは同じである。
 
後花園天皇  男1-親王1(後土御門天皇)、 女3-皇女3

後土御門天皇 男4-親王1(後柏原天皇)、入道親王1、法親王1、皇子1、 女6-皇女6

後柏原天皇  男6-親王1(後奈良天皇)、入道親王2、法親王1、皇子1、その他1
        
後奈良天皇  男2-親王1(正親町天皇)、その他1、女5-皇女5

正親町天皇  男1-親王1(陽光院贈太上天皇一品式部卿誠仁親王)、 女3-皇女3

誠仁親王   男6-親王2(後陽成天皇、智仁親王(八条殿-後の桂宮家の初代))、入道親王2、法親王、皇子、女7-皇女7

後陽成天皇  男13-親王2(後水尾天皇、好仁親王(高松殿-後の有栖川宮家の初代))入道親王7(覚深入道親王は在俗時の良仁親王、秀吉意中で五奉行派が推した有力な親王であったが、徳川家康は親王を仁和寺に入室させて皇位の望みを絶ち切った)、法親王2、近衛信尋、一条昭良、女12-内親王2、皇女10

後水尾天皇  男15-親王5(高仁親王(夭折)、後光明天皇、後西院天皇(良仁親王、高松殿を相続するが後光明天皇崩御により、大統を継ぐ)、穏仁親王(八条宮相続-後の桂宮家)、霊元天皇)入道親王9、皇子1、女17-内親王6(明正天皇ほか)、皇女11

明正天皇   非婚独身

後光明天皇  女(内親王)1

後西院天皇  男11-親王3(長仁親王(八条宮相続-後の桂宮)、幸仁親王(高松宮相続、号有栖川宮)、尚仁親王(八条宮相続-後の桂宮)、入道親王7、皇子1、女17-内親王2、皇女15

霊元天皇   男17-親王3(東山天皇、文仁親王(常磐井宮相続改号京極宮-後の桂宮)、職仁親王(有栖川宮相続)、入道親王7、皇子7(第八皇子の作宮は八条宮を相続し、号常磐井宮)、女15-内親王5、皇女10

東山天皇 男6-親王2(中御門天皇、直仁親王(閑院宮初代))入道親王1、皇子3、女4-内親王1、皇女3

中御門天皇  男6-親王1、入道親王4、女8-内親王1、皇女7

桜町天皇   男1-親王1(桃園天皇)、女2-内親王2(盛子内親王、後桜町天皇)

桃園天皇   男(親王)2-後桃園天皇、貞行(さだもち)親王(伏見殿相続、但し早世、伏見殿は入道寛宝親王が還俗邦頼親王に相続され実系に戻る)

後桜町天皇  非婚独身

後桃園天皇  女(内親王)1-欣子内親王(光格妻后)

光格天皇(閑院宮典仁親王王子、親王宣下なし) 男7-5(礼仁親王、温仁親王、仁孝天皇、盛仁親王(桂宮相続)、悦仁親王)、皇子2、 女10-内親王1、皇女1

仁孝天皇   男7-親王3(安仁親王、孝明天皇、節仁親王)、皇子4、女8-内親王1、皇女7  

 
 

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2005/11/19

女帝反対論批判の反論(その2)

  Sapporo Lifeの「女帝容認問題」によると「そもそも旧宮家の復活を前提にしている女性天皇反対論は支持の拡がりは難しい。皇室の知識のない人だと、戦後に皇籍離脱した宮家は昭和天皇の再従兄弟ぐらいの関係ぐらいな感覚の人もいるが、旧宮家の存在が注目され、旧宮家が南北朝時代の崇光天皇を祖とした分家という縁戚だと知られるようになり、かえって旧宮家復活の期待はトーンダウンしたように思える」という。旧宮家と現在の皇室が系図のうえで、南北朝時代(正確にいえば後崇光院貞成親王が共通の父祖であるから室町時代である)にまで遡ることから、支持を得にくいとの見解を示し、伏見宮系を軽くみていますが、このブログへ反論するとともに、10月3日10月23日ブログ「高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第5回) 」の続編として以下述べたいと思います。
 もっともSapporo Lifeは東久邇宮家の復帰案なども示し、私の見解には批判的だが、理解できる部分もあると女帝反対論批判の反論への意見で言っておられるので、女性・女系天皇容認-第一子優先を推奨した高橋紘のような悪質な論者とは明確に違いますから、一緒くたにしては無礼かと思いますが、21日(月)に有識者会議が女性・女系天皇容認・初生子優先皇位継承順という結論でなんらかの発表があるらしい。緊迫した情勢のおり、もう体裁にかまってられませんので、こまぎれになりますが、反論を次々と出していくようにします。

川西正彦(平成17年11月19日)
  
 伏見宮初代の栄仁親王は持明院統正嫡で分家ではないということは10月3日10日16日のブログで既に論じているとおりである。後崇光院より伏見殿を相続した後花園皇弟貞常親王については、後花園天皇が後光厳系の後小松上皇の猶子として、大統を継がせられる一方、貞常親王が後崇光院伏見宮貞成親王から持明院統文庫なども相続したことから、御分かれというよりも正統の王統ととみなしてよいのである。
したがって冒頭の見解は 、旧宮家の由緒を軽くみていて誤った認識である。
 貞常親王は後花園天皇の叡慮で永世伏見殿御所号を許されており、貞常親王の子孫に永久に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家が本来の在り方である。明治の皇室典範が、長系・嫡系・近親の優先原則としてため親王号を称さなくなったが、もともと伏見殿は特別の待遇であり、その由緒からみて、現皇室の皇統と双璧ともいえる王統なのであるから、近い遠いは全く関係ないことなので、こういう見解には誤解であることを逐次述べていきたいと思います。

  既に中世の世襲宮家(常磐井宮、木寺宮、伏見宮等)については10月23日ブログで、言及したが、近世四親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮-なお、明治維新以前の宮家としては幕末期に国事多難のおり国政に参画して天皇を輔佐するため伏見宮邦家親王の第一王子晃親王が勅旨により山階宮号を、第四皇子朝彦親王が中川宮号を賜っている)について言及していなかったので、今回と次回で概略を述べることとするが、伏見宮は桂宮・有栖川宮等とは性格が基本的に異なるのであって、永世伏見殿御所というように、世襲親王(定親王)家という家格も本来は伏見宮家だけに与えられた格別の待遇であることを述べ、これは令制の皇親概念諸王の班位とは明確に異なるのであるから、高橋紘や有識者会議のように伏見宮系を貶めるような見解に断乎反対することを重ねて述べることとする。 
 
 
  後桃園天皇の継嗣問題と伏見宮
 
 
  安永八年(1779)十月二十九日後桃園天皇(22歳)が崩御になられたとき、皇子はなく、一皇女(一歳の女一宮-のちの中宮欣子内親王)のみだった。また皇弟の貞行親王は伏見宮邦忠親王薨去により後嗣のなかった伏見宮を継承されたが明和九年(1772)に13歳で薨去されている(伏見宮は邦忠親王の弟の勧修寺門跡寛宝親王が還俗して邦頼親王となり実系相続が復活)。
 このため、閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳を急遽、後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定め、十一月二十五日践祚、光格天皇である(閑院宮初代は中御門皇弟直仁親王、宝永七年(1710)幕府が新井白石の献策に基づき、中御門皇弟秀宮に所領として千石を献じたので、中御門天皇が秀宮に新宮家創設を勅許した)。
  不勉強で申し訳ないが、祐宮に決定されるまでの経緯について、私はほとんど調べていないので不明な点が多いのですが、阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページの伏見宮總説によると、「邦頼親王の一男 嘉禰宮(のちの貞敬親王)は、安永八年(一七七九)十月、後桃園院の崩御後、後櫻町院と藤原朝臣内前[近衛]によって皇位繼承者として立てられようとしたが、關白藤原朝臣尚實[九條]の議により、典仁親王の六男にして聖護院門跡附弟の祐宮が皇位を嗣ぐこととなった(光格天皇)といわれる」とされ、嘉禰宮(のちの伏見宮貞敬親王)当時四歳が皇位継承候補に浮上したことを述べている。しかも後桜町上皇(女帝)と前太政大臣近衛内前が伏見宮の第一王子を皇嗣に立てようとしていたということだから有力な候補者だったわけである。当時においても、後桃園天皇から十四世代遡って共通の父祖後崇光院伏見宮貞成親王であるからかなりの遠系となるが、伏見宮の別格ともいえる由緒から当然のことながら、候補に浮上したというものとみてよい。

   ここで、よく知られている男系継承論者の八木秀次の立論については若干不満があることを述べる。 八木は 「女性天皇容認論を排す 男系継承を守るため旧宮家から養子を迎えればよい」『Voice』2004年9月号で、傍系継承の先例として光格天皇(在位安永八年1779~文化十四年1817)の事例を強調するのである。「 傍系から皇位を継承された方に第百十九代・光格天皇がいらっしゃる。この天皇は傍系の宮家(閑院宮家)の、しかも第六皇子のご出身であった」要するに現在の皇室はもともと傍系だった東山天皇曾孫の祐宮が入って大統を継がせられたのであるから、閑院宮系皇統といってもよい。これは直系に皇女しかなく、後嗣に恵まれなかった場合は傍系皇親が皇位を継承するものだということを言っており、それ自体全く正論である。
また光格天皇の朝儀の復古・復興、御所の復古的造営や天皇号の再興など朝廷の権威回復強化策が高く評価されている。それはそのとおりだ。
 しかし、光格天皇と閑院宮家、宮家創立を献策した新井白石の功績を強調するあまり、後花園天皇の皇統継承の由緒という江戸時代の四親王家のなかでも別格ともいえる世襲親王家伏見宮家というものを相対化してしまう誤った心証を与えていないかということである。そのあたりのフォローが必要だと思うので、以下述べることとする。。

 祐宮の決定については当時の四親王家のなかで創設の新しい閑院宮の王子で、後桃園天皇からみて他の宮家より近親であるということが指摘されている。この点については武部敏夫(註1)が寛延三年(1750)に桜町上皇が桃園天皇以後の皇統に憂慮され、万一の場合の皇嗣として閑院宮直仁親王を定めていたこととも符合するものであるが、しかしながら一方で、伏見宮の第一王子も有力だったのである。
 当時の宮家の状況は、次のとおりである。
○伏見宮 当主 邦頼親王 47歳
       嘉禰宮 4歳(のち貞敬親王)
       佳宮 3歳(のち公澄入道親王)
○京極宮  当主不在(後桃園第二皇子が相続する予定だった)
○有栖川宮 当主 織仁親王 26歳
○閑院宮 当主 典仁親王 47歳
       美仁(はるひと)親王 23歳
       深仁入道親王 21歳  
       公延入道親王 18歳
       寛宮 ?
       真仁入道親王 12歳
       祐宮 9歳 

 久保貴子(註2)によると、上記のうち候補になりえたのは、嘉禰宮(貞敬親王)、美仁親王、 祐宮の3人で、残る5人は仏門に入っていたため候補から外れたという。摂家衆は皇嗣に女一宮をめあわせる考えをもっていたため、既に近衛内前女を妃としていた美仁親王が候補から外され、伏見宮を相続する予定だった嘉禰宮と、閑院宮の王子祐宮に候補者が絞られたが結果的に祐宮と内定したらしい。内定が天皇崩御の前々日の十月二十七日、翌日後桃園天皇の聖慮の趣を聞いて皇嗣が決定したとされるが、実質的には前太政大臣近衛内前と関白九条尚実を中心に議され、後桜町上皇と後桃園生母恭礼門院(皇太后藤原富子-一条兼香女)の了承により内定したものなのだろう。
 嘉禰宮ではなぜよくなかったのか、次回述べる貞行親王薨後、伏見宮を、将来の後桃園第三皇子が相続する方針をとった朝廷と、邦忠親王の弟宮である勧修寺門跡寛宝親王か青蓮院門跡尊真親王の還俗による実系相続復活を強く望む伏見宮一門と確執があったとされる。この問題は伏見宮一門が大奥年寄松島のルートなどによる対幕府工作により、幕府の介入によって実系復活となったのであるが、久保貴子は確執が尾を引いていたのではないだろうかとしている。また、伏見宮邦頼親王が呪詛したという奇っ怪な浮説が流れた。後桃園天皇の発病は「如物怪悩給」と尋常な苦しみ方でなかったことが浮説が流れた要因のようだが、意図的に流されたものかよくわからないが、光格践祚の前日にこの浮説について後桜町上皇が糾明を命じ、近衛内前が邦頼親王を御所に招いて尋問し、親王は返答書を提出されたので、後桜町上皇は収拾を図ろうとされたが、後桃園生母恭礼門院が納得せず、邦頼親王も疑惑を晴らすため、幕府による真偽の糾明を求めた。所司代、京都町奉行の調査では呪詛調伏の事実はないとされ嫌疑は解かれたのである。憶測にすぎないが後桃園生母恭礼門院と伏見宮邦頼親王は感情的に対立していたのかもしれない。
 逆説的にいえば、そういう確執や呪詛調伏の嫌疑のような奇っ怪なことがなければ、理屈からいって伏見宮の第一王子の可能性も高かったという見方をとってよいわけである。

(註1)武部敏夫「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960
(註2)久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院1998「後桃園天皇の皇位継承とその死」223頁

つづく

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/11/17

女帝反対論批判の反論(その1)

   女帝反対論に批判的なブログのトラックバックがありますので、反論します。ただ今回は反論までいきません。意見を述べるにとどめます。
 
  川西正彦(平成17年11月17日)
 
  まずSapporo Lifeの「女帝容認問題」

「そもそも旧宮家の復活を前提にしている女性天皇反対論は支持の拡がりは難しい。皇室の知識のない人だと、戦後に皇籍離脱した宮家は昭和天皇の再従兄弟ぐらいの関係ぐらいな感覚の人もいるが、旧宮家の存在が注目され、旧宮家が南北朝時代の崇光天皇を祖とした分家という縁戚だと知られるようになり、かえって旧宮家復活の期待はトーンダウンしたように思える」、さらに後段で「できるだけ対立を煽らずに落としどころを見つけるべきであろう。 私は基本的には女性天皇容認であるが、あえて男系維持派にアドバイスするならば、以下の3点の条件闘争に変更する以外は支持を得られないであろう。(1)女性天皇を認め、その上で女性天皇の配偶者は皇族(旧宮家を皇籍復帰させる)から選ぶことを不文律とする。(2) 旧皇族のうち内親王、女王と婚姻したもののみ養子として皇籍復帰を認め、皇位継承権を与える。(3)旧皇族のうち昭和天皇の血を引く東久邇宮家のみ復帰を認める。」と述べています。

前段の部分については次回反論することとして、今回は後段の部分について私の意見を述べます。
  (2)と(3)はともかく(1)は事実上、伝統的な皇親内婚の男帝優先規則(9月10日女帝絶対反対論第7回をみてください)に反し、旧皇族を皇配族に貶めようとするプランであり、旧皇族の家系・家格に対する矜持、プライドをかなぐり捨てよと言っているのと同じ。大変失礼なことだと思う。女性当主の入夫という前例のない醜く男性の尊厳を否定する結婚の在り方なので、私が最も嫌悪する考え方で絶対容認できません。
男性の尊厳を毀損する女性当主に絶対反対である。
 
  (1)とほぼ同じことを、女性・女系天皇論者の所功(京都産業大教授)が11月7日の「たかじんのそこまで言って委員会」という関西ローカルの討論番組で発言しています。

「……愛子さまのお相手は、旧皇族や旧華族の方が優先的に対象にされる可能性が多いと思います。皇室に入るにふさわしい、条件に合った人が……」

ブログぼやきくっくりの「たかじん委員会」是か非か“女性・女系”の天皇」でこれを知りました。
   有識者会議座長の吉川弘之の見解は「男性皇族が配偶者を迎えるの本質的には変わらない」夫君選びの困難やその重圧についても、「その問題は(検討)の外」(日経2005年11月8日朝刊38面)とされ、異姓簒奪・易姓革命なんでも有りというスタンスであり、異姓簒奪・易姓革命を合法化、日本国終焉を容認する方針です。所功の考え方は女系天皇容認であるが、男系男子に配偶者を限定して、血筋としての男系を維持し異姓簒奪の懼れという非難をかわそうというものですが、むしろ私は悪質だと思います。

 
 もし、そういう企てがあるなら、旧皇族には安易に所功プランに乗るような間違ったことにはならないようにしていただきたいというのが私の切なる願いです。男系男子は女性天皇につまらない協力などいっさい拒絶すべきだ。所功プランなら、易姓革命でいったん日本国が終焉したほうがまし。
 要するに私は女帝絶対反対論であって、旧皇族男系男子が皇胤一統、万世一系という歴史的皇位継承ルールに則ったものであり、伏見宮系が由緒正しい崇光院流の正統的王統であるという論理から皇位継承資格がある。それが自明という考え方である。皇位継承資格のある者が、我が国の伝統に全く反する皇配殿下に貶められる必要はないし、プライドをかなぐり捨てる必要など全くない。
 皇位継承の正統性で旧皇族が100とすると敬宮愛子内親王はゼロとしか思ってない。現在の状況は皇室に後嗣がない状況と客観的に認識すべきなのであって、なんで政府や国民大衆はそんなに敬宮に肩入れしなければならないの。敬宮に肩入れして国体変更なんていうのはそれこそ、恣意的、政治的といわなければならない。外戚の小和田氏が国家のために輝かしい軍歴なり功績でもあれば話は別だが、私は元国連大使ということしか知りませんが、いったいどういう外交官としての業績があるのか。明正女帝や後桜町女帝のように外戚が徳川将軍家や摂家なら話は別ですが小和田氏の家格では問題にならないと思います。
 首相は通常国会提出の準備をすすめるとしているのだから、独裁者の勘違いの功名心から通常国会提出、強硬突破で国を滅ぼす道を進むことが想定できる。最悪そういう事態になったら、つまらない弥縫策で男系維持みたいなくだらない妥協策には強く反対、最悪、易姓禅譲革命で日本国が終焉しても、正統男性天皇奉戴で真正日本朝再建を目指すべきだと思います。
 いずれにせよ、有識者会議の結論は、女性皇族配偶者の家系、血筋を限定すると言う考え方はとっていない。易姓革命を合法化するというだけで最悪なものです。いかに配偶者選びで男系維持といったって、世間には野望をもっている人はうようよいますよ。息子を皇配殿下にして異姓簒奪、易姓禅譲革命をたくらむ権力者があらわれないとはいえない。
 『週刊女性』2005年11月22日号(49巻45号)に三笠宮寛仁親王殿下の女性天皇容認反対論を批判する「雅子とさま゛困惑"!どーする愛子さまのお婿さん選び」44~45頁という記事がある。寛仁親王殿下のエッセーの要旨を読む限り、女性天皇は初めから選択肢にない。内親王に旧皇族の配偶ということも言っていない。それは女系天皇容認でできるだけ男系維持をという所功の間違いではないか思うのですが、女系反対論の趣旨から旧皇族と結婚という圧力が強くなるという官邸担当記者の見方を載せたうえで、「幼い愛子さまの結婚相手の範囲を今から限定してしまうことがはたして許されるのか?『‥‥結婚相手を選ぶ可能性すらまったくないというのでは、愛子さまがあまりにも可哀想。この種の論議が加熱すれば、雅子妃の回復の妨げにならないかと心配です』」という東宮関係者の話を伝えている。要するに『週刊女性』記事は、女系反対論も、女系容認だが配偶者で男系維持論も雅子妃を悩ませる敵というスタンスである。男系男子にこだわるより自由な配偶者選びが現代的という論旨であるから、易姓革命容認-日本国終焉容認論なんです。だから所功がいかに「旧皇族や旧華族の方が優先的に対象にされる」と言い張っても保証されているとも思えない。いやそうなるといっても、私は保証してもらいたくない。たんに生理学的男系維持論じゃないんだ。女性天皇自体強く反対なのだ。私は旧皇族をたんなる入夫、前例のないプリンスコンソートに貶める事自体大変失礼なことで、けしからんことだから、それだったら易姓革命のほうがまし。絶対反対である。

つづく

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/11/06

女系天皇容認の皇室典範改正は憲法第二条に反し違憲である

-有識者会議メンバー憲法二条の見解に対する反対意見-第1回-

目次 要旨
   有識者会議のメンバーの見解についての疑問
   園部逸夫の非論理性
   小嶋和司説(世襲=男系継承説)
   フランス王権の王朝形成原理との類比

川西正彦(平成17年11月6日)

要旨   
 
私はこれまで立法政策として女性・女系天皇容認の政府-有識者会議を批判してきたが、憲法問題としても実はかなり疑問である。憲法違反の疑いが濃いということをこの際、言っておこうと思います。
有識者会議の議事要旨をみると、憲法第二条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」は女系を容認しているという勝手な解釈から、憲法に戻って考えるなら女性・女系天皇を容認できるとする見解のメンバーがいますが、世襲の在り方はどのようにでも国会の議決によって改変できるという性格のものでなく、憲法制定時の趣旨からみて、皇室典範を改変とするとしてもそれは王朝に相応しいルールによる継承、前例によるなんらかの根拠のある方法論に限定されるべきものであり、易姓革命、異姓簒奪を合法化するようなかたちの女系継承はもちろん、歴史上前例のある生涯非婚内親王のような例を別として女性継嗣は、憲法二条に違反すると考える。むしろ、憲法制定時の趣旨からみて、世襲規定に合致するのは旧皇族の属籍を復す方法での皇位継承であるということを述べます。
 つまり私は「世襲=男系継承」とする小嶋和司説(註1)に基本的に従うものであります。こういうとそれは多数説ではないとの批判があるかもしれないが、そもそも有識者会議の結論は皇室の歴史・伝統を否定し、事実上易姓禅譲革命を是認するもので、国を滅ぼす第一歩となり、立法政策として最悪の政策なのである。だから反対。それに付け加えて、少なくとも制定史上の事実として、「世襲」の公定英語がdynasticなのである。皇位の継承はdynastic、王朝形成原理を維持するものでなければならないはずである。憲法制定時の趣旨(それはマッカーサーや民政局の意向であった)を尊重するという観点から、それは万世一系の皇位でなければならないので、したがって世襲規定の意味するところは、昭和二十一年七月二五日宮内省が臨時法制調査会小委員会が提出した文書「皇統を男系に限ることは憲法違反となるか」にみられる世襲規定の定義(註2)
「抑も世襲という観念は、伝統的歴史的観念であって、世襲が行なはれる各具体的場合によって内容を異にするものであらうと思はれる。場合によっては血統上の継続すら要件としない世襲の例も存しうるのである。皇位の世襲と云ふ場合の世襲はどんな内容をもつか。典範義解はこれを(一)皇祚を践むは皇胤に限る(二)皇祚を践むは男系に限る(三)皇統は一系にして分裂すべからずことの三点に要約してゐる。さうしてこれは歴史上の一の例外もなくつづいて来た客観的事実にもとづく原則である。世襲といふ観念の内容について他によるべき基準がない以上これによらなければならぬ。さうすれば少なくとも女系といふことは、皇位の世襲の観念に含まれてゐないと云へるであらう」
  が基本的に正しいのであって、ここから女性・女系への皇位継承の拡大という結論は導き出すことはできない。
   
有識者会議のメンバーの見解についての疑問

10月25日の皇室典範の有識者会議の議事要旨に次のような見解がある。

○ 憲法は象徴制と世襲制しか規定していない。「世襲だから当然に男系男子」との議論は、理論的には難しい。現実に125代男系で継承されてきたという事実はあるが、今回、こういう事態に立ち至って、憲法の角度から改めて考えてみると、国民が世襲制の天皇についてどう考えるかというと、男系に固執するよりも、親から子へと、直系で受け継がれることではないか。

  ○ いろいろな思想や確信を持った国民があり、中には、女性や女系に皇位継承資格を拡大することに違和感を持つ方もおられるだろう。しかし、現行の憲法制定時に、象徴と世襲に絞ったことは大きな歴史の変化で、それはそれで国民は受け入れている。憲法との関係では、皇室典範に男系男子と規定する必要はなかったが、それまでの伝統に配慮して男系男子としたもの。それが、今は維持できなくなっているので、憲法に戻って考えるもの。

○ 女系の皇族に皇位継承資格を拡大した場合には、女系天皇の正統性に疑問が生じるとの議論をする方があるが、世襲で皇位が継承され、国民の積極的な支持が得られる限り、正統性に疑義が生じる余地はない。

8月31日の議事要旨にも次のような見解がある
  
○現在の皇室典範では皇位の安定的な継承は難しいということになると、憲法に戻ることになるが、憲法では世襲と規定しているのみであり、男系ということは規定していない。憲法の世襲は血統という意味であり、男系も女系も入る。

筆者は不勉強でメンバーの著書や思想傾向について逐一みているわけでないので、上記の発言がどなたのものか推定できないのですが、全面的に反対です。考え方が根本的に間違ってます。憲法に戻って考えれば、女系容認になるとさかんに言っているメンバーが、そういうことなら、ここで憲法二条の解釈について言及しておきたい。
ところで、チャンネル桜の「闘論!倒論!討論!2005日本よ、今...どうなる皇室典範どうなる女系天皇」いう番組をみましたが、八木秀次が有識者会議は3人(実名をあげないので不明)が議論をリードしていると発言していた。3人が事実上仕切っているというニュアンスだった。なるほど有識者会議の10月25日にもこういう意見があった

○ 皇族女子や女系皇族に皇位継承資格を拡大した場合、例えば、我が国で続いている旧習や伝承、また、日本の伝統的な家族の在り方は家父長制と考えて自らの家庭を維持しているような人々に、影響を与えるのかどうか。この点は、国民の支持という点とどのような関係があるのか。公的な決断が個人に何らかの影響を与えるとしても、決して強制的なものであってはならない。

この見解は良心的なものであり、慎重な意見を述べるメンバーもおられるのである。にもかかわらず、女性天皇・女系天皇で暴走する結論になっている。
3人が誰なのか知りませんが、座長が理工系であること、8人の識者からのヒアリングでの質問者が座長代理園部逸夫の独壇場になっていて、他のメンバーの質問がないこと。園部が皇室法に関する著書があり制度に詳しいことから、会議をリードしている3人のうち1人が園部と推定できる。
 
園部逸夫の非論理性
 
 10月30日でふれていることだが、園部の『皇室法概論』(第一法規2002年)を引いてもう一度批判しておきたい。
「第二条は、歴史的に皇位が世襲によって継承されたことを背景に、天皇の地位は世襲により継承するものを確認的に定めた‥‥憲法第二条「世襲」をこのように確認規定と解すると、「世襲制」から導きかれる規範としては、世襲、世襲制の具体化にあたっては、皇位の世襲の歴史・伝統を尊重すべきということになる。〔ここまではさほど問題はない-ところが〕ただ、この歴史・伝統の尊重が規範内容の一つとなることは否定できないとしても、歴史・伝統によって世襲制の在り方を決定すべきと考えるべきでなく、最終的には国民が世襲制の内容はどのようにあるべきと考えるかにより決定されるべきものであることはいうまでもない。なお、このように皇位の世襲につき歴史・伝統を尊重する立場に立った場合、憲法第二条の世襲が、女系による継承を含むか否かについてどう考えるべきかが問題になる‥‥結論を先に言えば女系を含むと解する」(39~41頁)。
 歴史・伝統を尊重する立場で女系を含むというのである。これは論理矛盾というほかない。肇国以来の万世一系という歴史を重んじる立場をとりながら女系を含むなどということはありえないからである。
 また「第二条は『皇位は世襲のもの』と定めるのみであり、皇位継承資格を男子に限るか否かについては憲法で定めず、法律である皇室典範に委ねたというのが多数説」(317頁)と述べているが、引用されているのは佐藤功説と清宮四郎説だけである。要するに
これは憲法問題でなく立法政策の問題だという解釈である。
 続いて「本書も多数説と同様に解するが‥‥皇位の世襲制を定めた同第二条は皇位継承の伝統を背景としたものであり、そこで定める『世襲』概念は女系を含まず、憲法が皇位継承資格者を男系男子に限っているという説もみられる(例えば小嶋和司「女帝」論議『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』四五頁)。この世襲=男系継承説のように、憲法が皇位を世襲と定めている背景に我が国の歴史及び伝統があることは本書も認めるし‥‥歴史上、皇位が男系で継承されてきたことを否定するものではない。ただそのことをもって同第二条の「世襲」の意味内容をも、男女両方の血統を含むと考えられる一般的な世襲概念を離れ、男系による継承と解さなければならないということではない」(317~318頁)とする。
 ということで憲法第二条の世襲規定には一般的な世襲概念があてはまるとされ、園部が引用しているのが、『広辞苑第五版』の「その家の地位・財産・職業などの嫡系の子孫が代々うけつぐこと」(324頁)なのです。この広辞苑の定義に皇位継承も無理矢理あてはめていいんだというのは不遜な考え方だなと私は思います。皇室の歴史的伝統的脈絡より広辞苑の一般的定義を重んじるなど本末転倒も甚だしい。
 仮に百歩譲って、広辞苑の一般的定義を世襲概念とみなすとしても、日本的家制度(社会慣行としての家族)には女性当主というのはありえないのです。実子であり婿養子であれ、夫が家長継承者・家督相続者で、妻は嫁であれ実娘であれ主婦継承者である。婿養子というのは家長継承者として迎えられるのであって、女性当主というのは家族制度の慣例に反するものです。
 中国では実は、事実上の女系継承として、祖父-孫で父系継承の擬制とする慣行がみられることは戦中の調査などで人類学者にはよく知られていることです。純粋に父系で貫徹している社会ではない。この点では韓国が父系で徹底している社会といえます。だから厳密にいうと中国の社会構造は準父系とみなす学者もいる。これは宗法制度に反するので、事実上の入夫となる男性の社会的立場はありません。
 日本ではそういう慣行はないのです。娘が家産を相続しても当主になるわけではない。婿はあくまでも家長継承者として迎えられる。家督相続者とならない男性の入夫というのは、男性の尊厳を貶めるばかりか、日本の婚姻家族の慣行に反するものです。家長継承者として迎えられるからこそ、婿養子の制度が存続するのであって、たんに労働力、子づくりのための入夫というのはありえないのです。女性当主(入夫)-女系継承が実現すれば男を貶めてフェミニストは喜ぶかもしれないが、家族制度としてはこれほど、男子の尊厳を貶め、いびつで醜い制度はないと私は思う。
 もっとも、私は芸能家元の世界は何も知らないのですが、池坊由紀氏が華道家元池坊の次期家元ということで、女性当主による世襲もありうるのかもしれませんが、それについては部外者である私は意見はありません。いずれにせよ華道家元の世界と皇位継承とは全く次元の異なる事柄で、類比するのは適切ではないでしょう。
 だから一般的な世襲概念からただちに女性当主(入夫)-女系継承といういびつな醜い制度が引き出せるというわけではないです。
 それなら、憲法問題としてとらえている小嶋和司説のほうが、よほど説得力があると考える。
 
小嶋和司説(世襲=男系継承説)

『小嶋和司憲法論集二憲法と統治機構』木鐸社の64頁以下を引用します。
「総司令官マカーサーが、日本国政府に提示すべき憲法草案(いわゆるマカーサー草案)の起草を民政局に命じたとき、草案に盛るべき内容を指示した、いわゆる「マカーサーノート」は次の内容をもっている。
「The Empererは、国の元首の地位にある。His Successionはdynasticである。」
皇位就任者を男性名詞・男性代名詞で指示するほか、その継承をdynasticであるべきものとしていることが注目される。それは、立憲君主制を王朝支配的にとらえ、現王朝(dynasty)を前提として、王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことを要求するものだからである。それは王朝形成原理の維持を要求するとは解せても、その変更を要求するとは解しえない。(中略)草案が次の規定をもったのはこれらの当然の結果である。
「The Empererは、国と国民統合の象徴であって、his position は国民の主権的意思に由来し、他の如何なる源泉に由来するものでもない。」「皇位の継承はdynasticであり‥‥」この草案の起草者は、その「説明書」を用意している。それは過去の天皇制に対する批判を多面的に指示しているが、そこでは男帝制を前提として、それへの批判はなかった。しかし、王朝(dynasty)交替の歴史をもたず、現王朝所属の継承を当然とするに日本の政府当局者は、右のdynasticを、たんに「世襲」と訳して、現行憲法第二条にいたらしめた。皇室典範も現王朝を無言の前提として、その第一章を「皇位継承」とし「王朝」観念がその後の憲法論に登場することもなかった。
 もちろん、制定史上の事実は、憲法解釈において、参考的素材以上の意味をもちえない。第二条の「世襲」の公定英語がdynasticとされていることも、決定的な法源的価値をもちうるものではない。
 けれども比較法的および歴史的にも充分な知識を思考座標として「世襲」制の要求をみるとき、それはたんに世々襲位することではなく、継承資格者の範囲には外縁があるとしなければならない。(中略)ここに思いいたるとき、憲法第二条は「王朝」形成原理を無言の前提として内包しているとみなすか、それとも「国会の議決した皇室典範」はそれをも否認しうるとみなすかは憲法論上の問題とすべきである。」

 私は基本的に小嶋説に従いたいと思う。憲法制定時の憲法二条の趣旨はマッカーサーの指示His Successionはdynasticである。継承は王朝にふさわしいルールというものであった。憲法制定時の価値選択というものを尊重しなければならない思う。皇朝にはそれにふさわしいルールがある。万世一系の皇位、皇胤一統である。だから政府は遠慮せずに大日本帝国憲法のように皇男子孫之ヲ継承スとしてもよかったのである。世襲規定というのは王朝に相応しいルールという原意であることから女系継承は明白に反する。女系継承は憲法二条の世襲規定に反し違憲と私は考える。
 王朝に相応しいルールによる継承とは比較法的にいえばこういうことである。サリカ法(註3)の伝統の王位継承ルールが男系継承で、フランス帝政憲法が女帝制を否認している。1831年ベルギー憲法は王位継承は男系・男子限定の原則で、女子及びその子孫による継承は常に排除されると規定していた。(但しベルギーは1991年に憲法を改正しサリカ法の伝統を放棄し、男女いかんにかかわらず長子相続となった-この問題女子差別撤廃条約との関連による憲法改正のばかばかはしさについては次の機会にでも述べます。)(註4)、現在サリカ法の原則が存続しているのはリヒテンシュタイン侯爵家だけであるが、ここでは比較法として理解しやすいフランス王権(系図-註5)をとりあげたいと思います。
 
フランス王権の王朝形成原理との類比

 フランス王権では男系継承が王朝の形成原理であり、帝政憲法で女帝を否定していたわけです。それと類比すれば万世一系男系継承の皇朝がたんに言葉では世襲としているだけだが、女系継承を排除するという含意があるという憲法解釈でよいと思います。
 フランス王権はサリカ法典の伝統により女王はありえない。フランスよりずっと古い国家である日本は女系天皇はありえない。むろん、神聖不可侵の我日本朝の万世一系と、フランス王権やサリカ法の男系主義は法源も性格もかなり異なるもので、類比するのは適切でないと思うが、男系という点で類似しているので、私はフランス史は全く素人で、具体的な系譜をよく知らないのですが、ここで一応みておきたいと思います。
 10世紀のユーグ・カペーにはじまるカペー朝は、規則正しく男子が産まれていて、シャルル4世(位1322-28)まで17代(兄弟継承含み)も続いている。カぺー朝がはじめて直系男子不在という事態が発生したのはルイ10世が歿した1316年のことである。この経緯については次の2つのサイトハピネス~AMUのトイ・ボックス~系図の迷宮~西洋王族家系図の世界が説明しているでみてください。つまり簡略していうとルイ10世の遺児ジャンヌ王女とルイ10世の弟のフィリップ5世(位1316-22)と王位継承争いとなった。カぺー王家が規則正しく男子で継承され、慣習としては男子であったが、フィリップ5世は王位継承の正当化のために、学者に根拠を求めた結果、ゲルマン民族のサリ族の領地相続法において女子が排除されていることが「法発見」され女子への王位継承否定という王位継承法が成立したということらしい。
 傍系継承の例としてここではヴァロア系のアンリ3世(位1574-1589)からブルボン家のアンリ4世(位1589-1610)の王位継承をみてみたいと思います。アンリ3世の末弟アランソン公が亡くなると,王には子どもがなく、ヴァロア系の男子が枯渇したため、傍系で遠縁だが、サリカ法により筆頭親王家ともいえるブルボン家のアンリが王位継承人となった。私が系図をなぞって数えたところ、アンリ3世とアンリ4世は男系では22親等の遠縁である。
 ブルボン家というのはカぺー朝の聖王ルイ9世(位1226-70)の王子でフィリップ3世(位1270-85)の弟、クレルモン伯ロベールからはじまって、ルイ9世の10世孫がアンリ4世である。父子の直系だけを系図的に示すとルイ9世-クレルモン伯-ブルボン公-ラマルシュ伯-〇-〇-〇-〇-〇-〇-アンリ4世(位1589-1610)-ルイ13世(位1610-43)-ルイ14世(位1643-1715)-〇-〇-ルイ15世(位1715-74)-〇-ルイ16世(位1771-92)。
 次にルイ9世からアンリ3世まで父子関係を示すと、ルイ9世-フィリップ3世-ヴァロア伯-フィリップ6世-ジャン2世-シャルル5世-オルレアン公-アングレーム伯-アングレーム伯-フランソワ1世-アンリ2世-アンリ3世であるから、ルイ9世の12世孫がアンリ3世である。12世代を皇室に類比すると、近世初期の後陽成天皇と今上陛下が12世代ということになります。アンリ3世と4世は22親等の遠縁になります。いかに遠縁でもフランス王権の王位継承はそのようになっているわけです。それが王朝形成原理であり、王位継承のルールということです。
 もっともアンリ4世の母がフランソワ1世の姪にあたるので女系でヴァロア系と近縁なのですが、フランス王権の王朝形成原理はあくまで王位継承人は男系主義で機械的なルールである。
 そういう在り方というのが王朝に相応しいルールによる継承、マッカーサーの指示His Successionはdynasticである。憲法二条の世襲規定がそういう趣旨だということで、我が国でいえば万世一系の皇位、皇胤一統であるわけですから、むしろこの趣旨の世襲原理から旧皇族が王朝に相応しいルールによる継承として、憲法第二条の趣旨にかなっている。伏見宮系の旧皇族と、ブルボン王家を類比するのは適切でなく、大変失敬なことになるかもしれないが、あえて比較法的な類比もできるのではないかと私は考えました。
 憲法学者の解釈を逐一調べていませんが、田上穣治は憲法第二条について「世襲とは、皇統に属する者のみが継承権を有し、かつ前の天皇の在位期間が、後の天皇のそれと時間的に連続して空位の期間がないことをいう」(註6)とする。女帝は皇統を形成できない。女系は皇統ではないということはこれまで、女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第7回~10回などで述べてきたとおりであり、田上説からも女系容認は憲法第二条の趣旨に反する疑いがあるといえるだろう。
 だから、有識者会議のメンバーの発言のように、憲法二条に戻って女系継承容認なんていう理屈はなりたたない。また園部逸夫座長代理の持論である憲法二条女系容認説は誤りである。首相の独裁的強力な権力からすれば憲法二条なんてどうってことないのかもしれない、そんなことにかまってられるかとのお考えかもしれませんが、私は憲法違反であると考えます。

つづく

(註1)小嶋和司『小嶋和司憲法論集二憲法と政治機構』木鐸社1988「「『女帝』論議」45頁以下
(註2)芦辺信喜・高見勝利編『日本立法資料全集1 皇室典範〔昭和22年〕』信山社出版1990 79頁
(註3)ハピネス~AMUのトイ・ボックス~「サリカ法」
http://www1.ncv.ne.jp/~amu/page030.html
系図の迷宮~西洋王族家系図の世界「サリカ法~英仏百年戦争の原因となった法典~」
http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/keisyo1.htm
(註4)山田邦夫「諸外国の王位継承制度-各国の憲法規定を中心に-」『レファランス』656号2005年9月
(註5)
鷹の城~西洋王朝系図 フランス
http://www5d.biglobe.ne.jp/~dynasty/catsle/france/franj.htm
系図の迷宮~西洋王族家系図の世界~フランス
http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/France/F_index.htm
(註6)田上穣治『日本国憲法言論』青林書院新社1980 58頁

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2005/11/05

三笠宮寛仁さま「エッセー」報道についての所感

  はじめに、自分は女性天皇に明確に反対で、皇位継承者の男子限定を堅持すべきであるとの意見です。

 そもそも内親王を継嗣というのは大衆の自分勝手な思いこみであり感情移入にすぎないのであって、そのようなムードを醸成するメディアの報道についても、フェミニストや大衆世論に迎合する政治家、首相官邸-有識者会議の女性天皇容認論にしても、それは皇室にとってえらい迷惑な話ではなかったかというように思います。

 というのも三笠宮寛仁さまの福祉団体機関誌における「プライベートなひとり言」が11月3日読売新聞三笠宮寛仁さま、女性天皇容認に疑問…会報にエッセー」のスクープがあり、4日は各紙で報道されていますが、軽率に論評できないほど、非常に深刻にうけとめなれけばならない重い内容ですが(最大の切り札が切られてしまったのですから、これからは宮様の面目を潰すことがないよう良識的な国民によって、反転攻勢、国体変更の誤った政策を論破していくということでなければならない) しかしここで若干コメントしておきたいと思います。
11月3日読売新聞、4日朝日新聞朝刊に要旨が掲載されていて、それを読みますと、男系維持の四つの方法論が提案されていますが、ここには女性継嗣という発想ははじめからありません。皇嗣は男子に限定されています。だから読売新聞の見出しのとおりでよいのであって、4日朝日新聞の見出し「女系天皇に異論」とありますが、女性の継嗣は排除されているわけですから、「女性天皇に異論」でよいはずです。
 内親王が継嗣というのは、あくまでも大衆の勝手な思いこみにすぎないのであって、皇族方は皇室の伝統からそのように安直には考えておられないということが、スクープによりはっきりしたと私は思います。
 短い文ですが、四つの方法論はまず「歴史的現実にあった方法論」とされ、前例を重視する堅実な論理で貫かれて、よく練られていて考え抜かれている。含意とするところも深い。従来男系継承論者でも提言していなかった内容も含まれており、なるほどと思いました。
 それぞれの方法論の解釈については慎重を要し軽々しく論評できない。私の解釈が間違っていたら知力の弱さからごめんなさいというほかないのですが、一部で誤った解釈をされている向きもありますので、読売新聞11月3日の34面「エッセー要旨」と朝日新聞4日朝刊30面の「随筆要旨」で内容は把握しているので読売から引用し、若干コメントします。なお双方を比較しますと読売は「日本国という「国体」の変更に向かうことになります」の重要な文言が落とされている。また朝日は側室制度の提案を落としているのを疑問に思います。

「‥‥現在のままでは、確かに"男子"が居なくなりますが、皇室典範改正をして、歴史上現実にあった幾つかの方法論をまず取り上げてみるべき事だと思います。順不同ですが
①臣籍降下された元皇族の皇籍復帰
②現在の女性皇族(内親王)に養子を元皇族(男系)から取る事が出来る様に定め、その方に皇位継承権を与える。(差し当たり内廷皇族と直宮のみに留める)
③元皇族に、廃絶となった宮家(例=秩父宮・高松宮)の祭祀を継承して戴き再興する。(将来の常陸宮・三笠宮家もこの範疇に入る)
以上の様々な方法論を駆使してみる事が先決だと思います。
④として、嘗ての様に「側室」を置くという手もあります。国内外共に今の世相では少々難しいか思います。
余談ですが、明治・大正両天皇共に、「御側室」との間のお子様です。‥‥」

 ②の解釈が問題になりますが、女性皇族(内親王)の養子に皇位継承権を与えるということですが、皇位継承権が与えられるのは内親王の養子ですから、女性天皇は排除されています。元皇族が内親王の配偶者となるプランでもないです。その場合、内親王は非婚であることが前提と思います。前例のない女性当主に入夫のようないびつな制度か想定されているわけでは全くないわけです。現宮家の当主ではなく、内親王の養子とされているため、時間的余裕をもたせる含意もかなりあると解釈できます。ただこの提案では実際に大統を継がれるの宮様のポジションはどこなのか、継承順の問題など具体的なことまでは判然としていません。
 なお、これは本筋の問題ではありませんが、有識者会議の結論では、皇太子-敬宮愛子内親王の継承順で、秋篠宮の立太子(立皇太弟というべきか)の可能性は実質的になくなります。実質的に継承権を剥ぎ取られるといっても過言ではないですが、私は30代と若く立派な男性皇族なのに失敬だと思うんですね。だから旧皇族が属籍を復した場合でも秋篠宮の面目を潰さないような配慮があってしかるべきとも思いますが、宮様の提案では時間的余裕をもたせているようにも思え配慮がゆきとどいているようにも思えます。
   宮様の提案については有識者会議から反発も予想されます。権力を有しているのは首相官邸の側であって、たぶん元東大学長、元最高裁判事クラスは皇族方を畏れることもないでしょう。議事要旨を読む限り永世皇族制か世数限定制か結論は出ていないようですが、有識者会議は皇族方からの反発をかわすために永世皇族制の線が高いと思います。それで女系宮家容認の線でいくと、三笠宮家は女王が身位を失うことなく結婚して宮家が継承されていきます。常陸宮家のように継承者がないわけではないから、将来祭祀を継承するため旧皇族が入る必要などないわけです。「有識者」の感覚からすればなんでそんなややこしいことするんだ。女系継承で存続を保証しましょうということだから三笠宮家に損はさせないし、場合によっては直宮で継嗣が枯渇すれば将来女系三笠宮家から皇位継承という可能性だってあるのに、男系にこだわって支配階級に盾突くのはけしからんという感覚なのかもしれない。しかし、宮様の論理はそういう下世話な損得勘定の問題ではない。ずっと高尚な立場からの提案であるから、結局「有識者」とは真っ向から対立する見解といえます。「③元皇族に、廃絶となった宮家(例=秩父宮・高松宮)の祭祀を継承して戴き再興する。(将来の常陸宮・三笠宮家もこの範疇に入る)」という文言に、女系宮家なんてありえないという強い意思を感じるものであります。
 
  川西正彦(平成17年11月5日)
 
  次回掲載予告
  女系天皇容認の皇室典範改正は憲法二条に反し違憲無効になる
(有識者会議メンバーの見解に対する反対意見)

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2005/11/01

首相官邸へのメール11月1日

最悪だ!皇室典範に関する有識者会議は直ちに解散すべきだ
(本日、首相官邸のホームページ意見募集に下記の内容を送信しました。内容はほぼ10月30日の記事を短くしただけのものです。)                          

 川西正彦
 
 去る10月25日に「皇室典範に関する有識者会議」が開催されて、意見集約がなされ、皇位継承資格の女子や女系の拡大で全員が一致した。11月末にも最終報告をまとめ、来年通常国会で皇室典範の改正という政治日程が報道されている。
 わたくしは、そもそも女性当主それ自体に反対なのですが、この方向では、非王姓継嗣による帝位の継承により事実上の易姓禅譲革命を是認する法制度となるため、日本国の終焉をもたらしかねない最悪の結論になった。本朝の安否にかかわる重大問題についてこうもあっさりと易姓革命容認、異姓簒奪容認という結論が示されたことに、大きなショックを受けている。これでは日本人としてのアイデンティティを失うことになる。
 天皇・皇室は二千数百年の伝統、ナショナルアイデンティティの中核であり、その伝統を崩壊させることがいかにリスクのあることか。
 女帝の次、非王姓継嗣の帝位継承になれば日本は王朝名であるから当然、国号を改めなければならないこと。異姓簒奪者を君主として戴く国家はもはや日本ではないから、それでも日本国号を継続する場合は、偽日本朝、偽皇朝である。異姓簒奪者に祖宗の神器を承継する資格はないこと。高御座での即位、大嘗祭の資格もないこと。結局は「魏武輔漢の故事」つまり魏晋南北朝時代等の易姓革命の禅譲形式を研究して、従来と違ったタイプの儀式体系を創出する必要が出てくることになります。要するに日本は中国のような民をもって国を簒うような国になります。
吉川座長は10月25日の記者会見で「女性の配偶者だと得られるのに、男性の配偶者だとどうして難しいのかわたしには分からない。女性天皇を日本として認めようと考えた際に当然、男性の配偶者が得られる日本になったという前提がある」(東京新聞26日2面)と述べていますが、この発言から読み取れることは、皇位継承の正統性にかかわる本質的な問題に踏み込んだ議論がなされていないということである。
10月5日の会議の議事要旨によれば。ある人から女帝の配偶者に問題提議がされているものの、配偶者を迎えることについて、男性と女性を比較すること自体が議論すべき事柄でないみたいなラディカルフェミニストのような意見が突然出てきて、議論を深めようとしないのである。あるいは意図的に議論の深化を妨げているのかもしれない。もっとも深刻な問題について思考停止状態に陥っているといえます。易姓革命、異姓簒奪の危機という問題意識すらなく、国体の大変革という大それたことに断行してよいはずがない。このようにつまらない有識者では答申の資格はない。直ちに解散すべきである。

 花園上皇の『誡太子書』の「吾朝は皇胤一統なり」を引き、易姓革命の懼れはないという観念に安住することなく君徳涵養の必要を皇太子の量仁親王(のち光厳天皇)に書き与えていたことは、PDF資料有識者会議第三回の資料2「皇位継承の考え方が記録されている例」で説明されていることで、皇位継承の正統性における血統原理、万世一系の皇位とは皇胤一統、男系継承であるということは、共通認識を持っているはずですが、女系継承が、皇位の正統性を揺るがす深刻な問題であるということに何の精査も行っていないどころか、有識者のなかには、東大名誉教授で二人、歴史の専門家が含まれており、当然こういうことはよく知っているはずなのに、議論を深めていない。こんなつまらない有識者では答申の資格はないと断定します。だから解散すべきです。

 本物の有識者なら、たとえ小泉首相が女性天皇実現の方針であるとしても、それが易姓革命-異姓簒奪を容認することに繋がるので、こういう大それたことは諫止する。敗戦によって現人神であることが否定されてしまったが皇位国体を護持できた。戦争に負けたわけでもないのにみすみす神聖不可侵の皇朝を滅ぼすようなことは無謀なやめてくださいと、つまりこれは敗戦責任に等しい結果をもたらす無謀なことである。フェミニズム迎合や安直な大衆世論迎合政治を誡めるということがあって良いと思いますが、ただ、既定方針どおり手続きをこなしているとしかみることができない有識者は最低です。
 詳論は「川西正彦の公共政策研究」http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_27da.html、グーグルなどの検索エンジンで私の名を入れれば上位で出てきます。素人作文ですがご笑覧いただければ幸甚と存じます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/31

本日発売の週刊誌について

 まず『週刊朝日』11月11日号(110巻53号)の「有識者会議「女系天皇」容認への疑問符」は「紀宮さま婚約特報」で新聞協会賞を受賞した朝日新聞編集委員岩井克己の正面きった有識者会議批判。事務方が出していない資料も引用され新味もあり、内容的にもわかりやすくほとんど不満はない。
 週刊朝日の高橋淳子の「雅子さま「帝王教育」の負担」という記事も有識者会議の論点に言及していないが、批判的なニュアンスがある。
 『アエラ』11月7日号(18巻59号)柏木友紀の「女帝容認でもすぐれぬ雅子さまの深刻」も有識者会議の結論は拙速とする意見を載せており、この記事も批判的なニュアンスがある。
 『週刊現代』11月12日号(47巻43号)の「皇室典範会議の決定に“守旧派”はどう動くか「愛子天皇誕生」を阻む次のハードル」は女性天皇支持の立場であるが守旧派の巻き返しの可能性を示唆している記事である。
 そういうことで、切羽詰まった状態になったが、希望を失ってはならないと思う。最後まで頑張りたいと思います。今日は早めに寝たいのでここまで。

(川西正彦平成17年10月31日) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/30

最悪だ!皇室典範に関する有識者会議は直ちに解散すべきだ

 去る10月25日に「皇室典範に関する有識者会議」が開催されて、意見集約がなされ、皇位継承資格の女子や女系の拡大で全員が一致した。来月末にも最終報告をまとめ、来年通常国会で皇室典範の改正という政治日程が報道されている。
 わたくしは、そもそも女性当主それ自体に反対なのですが、この方向では、非王姓継嗣による帝位の継承により事実上の易姓禅譲革命を是認する法制度となるため、日本国の終焉をもたらしかねない最悪の結論になった。このことは8月末以降の有識者会議の流れから予測していたこととはいえ、本朝の安否にかかわる重大問題についてこうもあっさりと易姓革命容認、異姓簒奪容認という結論が示されたことに、大きなショックを受けている。
 しかし、わたしは女帝即位絶対反対論(第1回)で、この問題は最後まで頑張ると宣言していることである。女帝の次、非王姓継嗣の帝位継承になれば日本は王朝名であるから当然、国号を改めなければならないこと。異姓簒奪者を君主として戴く国家はもはや日本ではないから、それでも日本国号を継続する場合は、偽日本朝、偽皇朝である。異姓簒奪者に祖宗の神器を承継する資格はないこと。高御座での即位、大嘗祭の資格もないこと。結局は「魏武輔漢の故事」つまり魏晋南北朝時代等の易姓革命の禅譲形式を研究して、従来と違ったタイプの儀式体系を創出する必要が出てくるということを主張し筋を通すことになります。徹底的に反対なので暴徒にやられるか、簒奪王朝新政府に監獄にぶちこまれても、正論で貫徹する所存であることをあらためて宣言します。

 重大な問題について思考停止してしまう有識者会議に答申の資格はない

 東京新聞10月26日朝刊二面に「皇室典範に関する有識者会議」の吉川弘之座長の25日の記者会見要旨が載っていますが、「一部に女性の皇位継承者、女性天皇では結婚は、結婚問題を心配する声もあるが」との記者の質問について、
「女性の配偶者だと得られるのに、男性の配偶者だとどうして難しいのかわたしには分からない。女性天皇を日本として認めようと考えた際に当然、男性の配偶者が得られる日本になったという前提がある」と答えてますが、この発言から読み取れることは、皇位継承の正統性にかかわる本質的な問題に踏み込んだ議論がなされていないということである。
 男性の配偶者についての深刻な問題。非王姓者が女性天皇の配偶者になると、継嗣は異姓であるから易姓革命(帝位の異姓簒奪)になります。我が皇朝、我が日本国は終焉することとなります。日本国を終焉させることとなりかねない重大な問題、男性配偶者の問題について、吉川座長は意図的に隠しているのか、もしくは言葉どおり問題意識をもっていないのか。

 10月5日の有識者会議議事要旨に次の発言があります。

・ 皇位継承資格を女性・女系に拡大した場合、男性の配偶者を得るという非常に現実的な問題があるのではないか。
・ 一般論としては、男性の配偶者を迎えるということは経験のないことであり、難しい問題が生じる可能性がある。ただ、皇室に配偶者を迎えることについては、男性の方でも女性の方でも、いろいろな難しさがあるのではないか。男性の配偶者を迎えることと女性の配偶者を迎えることと、どちらが難しいかなどということは言えないのではないか。
・ 男性の配偶者を迎えることと女性の配偶者を迎えることと、どちらが難しいかなどということは、論じることのできないことのような気がする。
・ 一般の人々でも出会いのチャンスがなくて晩婚化しているのが現実であり、男性、女性にかかわらず、そのような面での工夫や配慮がなされることは必要なのではないか。
 
 ある人から問題提議がされているものの、配偶者を迎えることについて、男性と女性を比較すること自体が議論すべき事柄でないみたいなラディカルフェミニストのような意見が突然出てきて、議論を深めようとしないのである。あるいは意図的に議論の深化を妨げているのかもしれない。もっとも深刻な問題について思考停止状態に陥っているといえます。ということで有識者会議では皇位の正統性にかかわる問題については思考停止してしまっており、出会いのチャンスを与えようみたいな薄っぺらな議論に終始し、易姓革命、異姓簒奪の危機という問題意識すらなく、国体の大変革という大それたことに断行してよいはずがない。このようにつまらない有識者では答申の資格はない。直ちに解散すべきである。

 花園上皇の『誡太子書』の「吾朝は皇胤一統なり」を引き、易姓革命の懼れはないという観念に安住することなく君徳涵養の必要を皇太子の量仁親王(のち光厳天皇)に書き与えていたことは、PDF資料有識者会議第三回の資料2「皇位継承の考え方が記録されている例」で説明されていることで、皇位継承の正統性における血統原理、万世一系の皇位とは皇胤一統、男系継承であるということは、共通認識を持っているはずですが、女系継承が、皇位の正統性を揺るがす深刻な問題であるということに何の精査も行っていないどころか、有識者のなかには、東大名誉教授で二人、歴史の専門家が含まれており、当然こういうことはよく知っているはずなのに、議論を深めていない。こんなつまらない有識者では答申の資格はないと断定します。だから解散すべきです。
 私はお妃選びは難しいとは全然思いません。そもそも皇后は皇親に限定されていたもので、奈良時代の光明立后(藤原不比等女安宿媛)で臣下の女子の立后という新例がひらかれたとはいえ、例えば近衛生母藤原得子のような中級貴族の出身のケースは例外的であって、后位にのぼせられるのはほぼ皇族か摂関・清華といった上流貴族に限定されていた慣例があった。しかし現代では、開かれた皇室ということで家格でお妃選びを限定していない。なにしろ学習院常磐会が何の影響力も行使できない有様ですから、障碍になるものは基本的にはないわけです。実際、秋篠宮ご夫妻は学生時代から交際があり恋愛結婚に等しいものであること。諒闇にもかかわらず婚約を発表したことは国民のほとんどが知っている。
 しかし十代八方の歴史上の女帝というのは不婚独身(先帝皇后、先帝生母か生涯非婚内親王)で即位していますから、女帝が妊娠・出産したり、配偶者を得るということは、全く想定されてなかったことです。絶対的にありえないと考えられていた新例をひらくにあたっては宮中祭祀の在り方も含め相当な問題がありますが、そうしたことが精査されていないんです。いったん易姓禅譲革命を法制的に認めてしまうと、常に政権実力者が子孫をプリンスコンソートにして王権簒奪を可能にし不安定な国家になるだけでなく、場合によっては外国統治者の子孫をプリンスコンソートに迎えて国を売るということだって可能になります。世間には野望を懐いている人は沢山いるんです。プリンスコンソートを狙ってくる実力者は必ず出てくる。そういう危険性について何も議論していない。
 
 本物の有識者なら、たとえ小泉首相が女性天皇実現の方針であるとしても、それが易姓革命-異姓簒奪を容認することに繋がるので、こういう大それたことは諫止する。敗戦によって現人神であることが否定されてしまったが皇位国体を護持できた。戦争に負けたわけでもないのにみすみす神聖不可侵の皇朝を滅ぼすようなことは無謀なやめてくださいと、つまりこれは敗戦責任に等しい結果をもたらす無謀なことである。フェミニズム迎合や安直な大衆世論迎合政治を誡めるということがあって良いと思いますが、ただ、既定方針どおり手続きをこなしているとしかみることができない。何のための有識者なのかわからない。
 
 本物の有識者なら、大衆世論に対しても、内親王が継嗣であるべきだ。天皇に即位しなければならないみたいな勝手な思いこみが間違いだといことを国民に対して説輸すべきなのである。敬宮愛子内親王に勝手に感情移入している大衆世論を批判すべきなのである。このままでいくと異姓簒奪の合法化によって内親王が易姓禅譲革命を演出する役割を強要するということにもなりかねない。聡明な方なら耐え難い辛い役回りを強要することになります。後漢の献帝や、魏の元帝じゃないが、簒奪される側の皇帝というのは惨めなものですよ。そういう立場に内親王を追込む無謀な女帝待望論というもまのはまさに民をもって国を簒うことになるから誡めるべきなのに、ただ大衆世論に迎合する結論で満足するのは最低の有識者というほかない。事実上、民をもって国を簒う結論を出すに等しい有識者会議は有害であるから直ちに解散すべきである。

そもそも園部逸夫座長代理の持論は伝統否定容認論なので偏った人選だった

 有識者会議の人選については発足当初から指摘されていたことだが、やはり偏っていると思います。例えば行政法の専門家で元最高裁判事の園部逸夫が座長代理として会議をリードしている。園部の『皇室法概論』(第一法規2002年)を読むと以下に引用するとおり憲法第二条の世襲規定には女系を含むとされ、もともと歴史・伝統的脈絡にこだわらない人であるということがわかる。
「歴史・伝統によって世襲制の在り方を決定すべきと考えるべきでなく、最終的には国民が世襲制の内容はどのようにあるべきと考えるかによって、決定されるべきもの」(40頁)と言い、また「第二条は『皇位は世襲のもの』と定めるのみであり、皇位継承資格を男子に限るか否かについては憲法で定めず、法律である皇室典範に委ねたというのが多数説」(317頁)と述べているが、引用されているのは佐藤功説と清宮四郎説だけである。
 続いて「本書も多数説と同様に解するが‥‥皇位の世襲制を定めた同第二条は皇位継承の伝統を背景としたものであり、そこで定める『世襲』概念は女系を含まず、憲法が皇位継承資格者を男系男子に限っているという説もみられる(例えば小嶋和司「女帝」論議『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』四五頁)。‥‥憲法が皇位を世襲と定めている背景に我が国の歴史及び伝統があることは本書も認めるし‥‥歴史上、皇位が男系で継承されてきたことを否定するものではない。ただそのことをもって同第二条の「世襲」の意味内容をも、男女両方の血統を含むと考えられる一般的な世襲概念を離れ、男系による継承と解さなければならないということではない」(317~318頁)とする。
 ということで憲法第二条の世襲規定には一般的な世襲概念があてはまるとされ、園部が引用しているのが、『広辞苑第五版』の「その家の地位・財産・職業などの嫡系の子孫が代々うけつぐこと」(324頁)なのです。この広辞苑の定義に皇位継承も無理矢理あてはめていいんだというのは不遜な考え方だなと私は思います。皇室の歴史的伝統的脈絡より広辞苑の一般的定義を重んじるなど本末転倒も甚だしい。
 私は基本的に、園部も引用している以下に引用する「皇統を男系に限ることは憲法違反になるか」という昭和二十一年七月二十五日に高尾亮一(宮内省文書課長で皇室典範改正に携わった)が臨時法制調査会小委員会が提出した」文書で述べられている皇位における世襲概念を踏襲することでよいと思うんです。
「皇位の世襲と云ふ場合の世襲はどんな内容をもつか。典範義解はこれを(一)皇祚を践むは皇胤に限る(二)皇祚を践むは男系に限る(三)皇統は一系にして分裂すべからずことの三点に要約してゐる。さうしてこれは歴史上の一の例外もなくつづいて来た客観的事実にもとづく原則である。世襲といふ観念の内容について他によるべき基準がない以上これによらなければならぬ。さうすれば少なくとも女系といふことは、皇位の世襲の観念に含まれてゐないと云へるであらう‥‥」(園部前掲書370頁)
 ところが園部逸夫はそうした歴史・伝統的脈絡による世襲概念にこだわらず、一般社会の慣行に基づく世襲概念にあたるならば改変していいんだと原理・原則にこだわらない考え方をとっております。園部説の大きな誤りは、皇位継承という国体・国柄の根幹にかかわる事柄を、一般的な世襲概念・家制度的な家業・家職・家産・爵位・特権の継承・相続に類比して改変させてかまわないという発想になっていることである。華道の家元で慣例を破って女性当主の例もあるということは知ってますが、そういう家職や名跡の継承と皇位国体とは全く次元が異なりますから、園部説というのはいいかげんなものであると私は考えます。つまり皇室の伝統を否定して、庶民の家職家業の継承(但し庶民の家制度においても女性当主はありえない)、華道の家元の女性当主みたいみたいなレベルに貶めて皇位継承を変えてしまうことを是認することになる。これは皇室の二千年以上の伝統と尊厳を貶めることにほかならないのであります。
 出所が明示できず正確な記述とはいえないが、高群逸枝が皇室とは家でも族でもなく系であるというようなことを言っているとのを読んだ記憶があります。私がいいたいことは皇位継承を一般の家継承概念にあてはめることは大きな間違いだということです。
 公家社会が限嗣単独相続といういわゆる日本的家制度に移行したのは、室町時代以降のことですが、そもそも、「家」の起源とは何かということを考えてみます。笠谷和比古は「在地領主起源説」「律令官人制起源説」「公家権門起源説」という先行学説を挙げています(註1)。
 正確に引用するものではないが、各説の概要は大略次のようなことではないか。
 「在地領主起源説」とは、11世紀に地方豪族が開発領主として開発地及び周辺の公領を囲い込むことによって自己所領を形成し、一族の者を統率して経営にあたり、父子のあいだで嫡々相承していく相続の形態を確立するとともに家が成立したという説である。
 「律令官人制起源説」は家概念の起源が令制で規定された公的家であるという説です。すなわち三位以上(のちに五位以上に拡大)の官人は公的家政機関である「家」の設置が認められ、家令以下の職員が官から任命されるとともに位禄などの給与物が家政機関によって運営されたとするもので、家政機関それ自体は世襲ではない。
 「公家権門起源説」は王朝国家における家格の固定、官職請負化の進展と家業の形成によるものですが、例えば弁官に任用される名家流の実務的中級貴族として、高藤(勧修寺)流藤原氏、内麻呂(日野)流藤原氏、高棟流平氏がありますが、内麻呂流藤原氏ですと、藤原広業・資業以来、紀伝道の家として文章博士などを歴任したとか、官務家小槻氏の先例勘申、局務家中原氏、清原氏といった明経道の博士家とか。
 いずれにしても天皇は官位を授与する主体であり、皇室や天皇の内廷というのは貴族の家政機関や武家の所領経営と同列に論じることはできないのであって「家」という概念を安易にあてはめるのは間違いである。だからわたくしは天皇家ということばはできるだけ用いないことにしてます。とりわけ皇位継承を安易に家継承の概念と類比するのは間違いです。
 日本的「家」制度の特徴は、その直系的性格といわれている。つまり中国の宗族や韓国の門中が傍系親を含む広がりをもつのに対し、日本の家継承は傍系の同姓養子を迎えるという宗法的な価値観念にこだわらず、むしろ相続が事実上傍系に流れていくことを好まず、入り婿による女系継承や、非血縁継承によって直系指向が強いことが特徴である。つまり傍系から養子を迎えるより、婿養子を人柄で選ぶ、商家であれば経営能力で選ぶとかそういう傾向が強いのが庶民の家制度である。庶民の家は、傍系親族の養取より婿養子が優先されるわけです。一般大衆は、日本的家制度の直系親族が系譜的連続を排他的に担うという、固定観念をもっているから、それを類比して、本来継嗣がない状況にもかかわらず、愛子さまを家連続者というアナロジーをもって感情移入をしてしまっている。それが女帝容認世論の要因のひとつだと私は思いますが、本物の有識者なら、それは皇室を庶民レベルの価値観、尺度に貶めるもので間違いなんだということを国民に説明すべきです。そういう最低限の仕事も行っていない有識者会議は有害なので解散すべきである。

 (川西正彦 平成17年10月30日)つづく
 
(註1)笠谷和比古「序論「家」の概念とその比較史的考察」笠谷和比古編『公家と武家Ⅱ-「家」の比較文明史的考察』思文閣(京都)1999

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/09/27

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第13回

補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義
川西正彦(掲載 平成17年9月27日)
  はじめに-近代の皇族概念との違い
 (1) 皇親の員数
 (2) 皇親の待遇
 (3)皇親賜姓と皇位継承問題
    文室真人浄三・文室真人大市
    氷上真人志計志麻呂と川継
     属籍を復すこともありうる
    源融の自薦
 (4)親王宣下制度
  (5)未定名号の皇子の即位
   未定名号から践祚当日元服命名の例1 後嵯峨天皇
   未定名号から践祚当日元服命名の例2 後光厳天皇
            
(以上第12回掲載)
 (6)中世~近世の非婚皇女
             (今回掲載)
  中世世襲宮家成立の意義
    常磐井宮(中世)-亀山法皇が正嫡と定めた皇統
    木寺宮-大覚寺統嫡流の後二条御流
    伏見宮-正統長嫡・持明院統嫡流の皇統

            (掲載未定)

 
  (6)中世~近世の非婚皇女

原稿を間違えました9月28日に差し替えてます

  一方、皇女であるが、院政期から鎌倉時代にかけて、生涯非婚内親王の立后、准三宮宣下、女院宣下の例が多く、経済的にも厚遇された時代である。非婚内親王が厚遇されるひとつの画期としては白河上皇の第一皇女で堀河皇姉(母は中宮藤原賢子)前斎王ヤス子内親王が准三宮・年官年爵、千戸封から堀河准母として立后、二年後に后位を退いて女院(郁芳門院)になったことである(堀河妻后篤子内親王立后のため后位を退く必要があったため)。
   これは院政期から鎌倉時代末まで11例ある非婚内親王の立后の初例である(ヤス子内親王のみ中宮、あとの10例は皇后宮)。 成立期の女院は一条生母藤原詮子(東三条院)、後一条・後朱雀生母藤原彰子(上東門院)、後三条生母禎子内親王(陽明門院)というように天皇生母に限られ、太上天皇に准じ后位に勝るとも劣らない顕位であったが、院政期に性格が変質していく。
  郁芳門院にいたって落飾しないで女院となり(なお三后の落飾、出家と后位の停廃、院号宣下とは基本的には無関係)、非婚内親王から后位さらに女院というルートがひらかれた。
  「皇后 謂、天子之嫡妻也」という令意に反するが、非婚皇后が歴史上存在した。そういう制度もありうるということです。橋本義彦は「白河上皇はヤス子内親王を鍾愛のあまり、強いて必要のない准母を立てて皇后とした」(註21)とされ、醍醐養母藤原温子を皇太夫人となし中宮職が附置された前例は弁解がましいとされるが、それなりの論拠といえるのではないか。郁芳門院は「進退美麗風容甚ださかん、性本寛仁、心に接し施しを好む」(中右記)」白河上皇の特殊な寵愛が指摘されている。実に白河上皇の「第一最愛の女」(中右記)であった(註22)。立后時堀河天皇11歳、ヤス子内親王16歳と考えられるが、准母というには不自然とはいえない。ヤス子内親王は六条邸に白河上皇と同殿し、朝覲行幸では堀河天皇より父母として拝されている。
 これについても、先例を検討するならば仁明天皇が淳和上皇・皇太后正子内親王御所の淳和院への朝覲行幸の例があり、正子内親王は仁明の実母妹(二卵性異性双生児であった可能性が高い)であるから、皇姉妹が母儀たる立場になっても不可解ではないのである。もっともこれは淳和と正子が太上天皇、皇太后の尊号を固辞し続けたため承和元年に停止されているが、白河天皇の中宮藤原賢子(実は源顕房女)は早く崩ぜられ、女御藤原道子は善子内親王出産の後、参内せず、賢子の妹源師子は藤原忠実の正妻(白河上皇の古女戴き)となったので(註23)、次妻格の女性もいなかったから、賢子を母とする ヤス子内親王が堀河の母儀となっても不可解なものではないと考える。
   次の非婚内親王の立后例である白河皇女令子内親王(前斎院、堀河の同母妹、鳥羽の伯母)は准母としての性格が明確である。鳥羽天皇は五歳の幼弱であり、生母藤原苡子は産後まもなく薨じ、行幸以下の諸儀式には天皇を扶持する准母が必要であったため、天皇の即位の宣命に立后の趣旨を載せて、令子内親王を皇后となしたのである。
 野村育代(註24)は、非婚内親王立后の意義を上皇の院政構想による政治的意義のあるものと評価した。なるほど陽明門院(後三条生母禎子内親王)崩御により三宮輔仁親王を担ごうとする勢力は衰退していたとはいえ、幼帝鳥羽の即位は貴族の全面的合意を得たものではない。先帝堀河の妹である令子が皇后に立つことにより直系継承正当化の意義もあったと考えられる。
  長承三年、鳥羽上皇の宮に入侍していた藤原泰子が皇后に立ち、令子内親王は皇后より皇太后を飛び越して太皇太后に上った。これは系譜上、崇徳天皇の祖母(実は異母姉だろうが)にあたるためである。(非婚内親王の皇后は太皇太后にのぼった令子内親王をのぞきすべて女院になっている)。
  令子内親王は太皇太后にまでのぼせられ、政争に巻きこまれることもなく、67年の生涯を平穏裡に終え、最吉の佳例となった。 以後、後宇多皇女後醍醐皇姉奨子内親王にいたるまで、非婚内親王の立后が慣例となる(註25)。

第三の非婚内親王の立后は、保元三年の鳥羽皇女統子内親王である。この立后は、東宮守仁親王(二条)妃よし内親王の准母とも後白河の准母とも伝えられる、後白河より一歳年長の同母姉であり、 准母は名目的といえる(註26)。 わずか一年後に后位を退き女院(上西門院)となった。鳥羽院政が荘園整理を放棄し、院庁下文で積極的に荘園を認可し、女院御願寺などには荘園が寄進されてふくれあがった。待賢門院(藤原璋子-鳥羽后、崇徳・後白河生母)領は、法金剛院領を中心に、娘の統子内親王に伝領され、上西門院領は後白河院領となった。もし統子内親王が東宮妃の准母だとするなら、美福門院は待賢門院領も分捕って二条とよし子の子孫に伝えようとしたのだろうか。
  統子内親王といえば、政治史的に問題となるのは鳥羽法皇崩後の崇徳上皇の行動である。崇徳上皇は保元元年七月二日に法皇御所(鳥羽東殿安楽寿院)に駆けつけながら対面を拒絶され鳥羽田中殿に引き籠もっていたが、九日の夜半過ぎに隠密行動で洛東白河の前斎院統子内親王の御所に行幸された。『兵範記』によれば「上下奇をなす。親疎知らずと云々」と人々の驚きを伝えている。その後、上皇は白河北殿に入ったが、河内祥輔(註27)は、保元の乱の通説を批判したうえ、上皇が権威を復活させるために白河殿を占拠したのであって挙兵ではないとする。 上皇は後白河天皇が攻撃を仕掛るはずがないと過信していたとみなしている。私はこの見解に従いたい。
  しかしこの行動は後白河が容認できるものではなかった。内親王は不在だったようだが、崇徳上皇が統子内親王の御所に行幸されたこともかなり問題である。統子内親王と後白河(雅仁親王)姉弟は待賢門院の手許で一緒に育てられ絆が強かった。崇徳にとっても統子内親王は同母妹ではあるけれども。
  そんなことで、後白河上皇は上西門院統子内親王と親しく、上西門院女房の小弁局(平滋子)が殊寵を蒙り、応保元年に上皇皇子が誕生した。高倉天皇である。
   一方、鳥羽院領や美福門院(近衛生母二条養母藤原得子)領は鳥羽皇女近衛皇姉、母は美福門院である八条院(暲子内親王)に伝領された。暲子内親王は10歳で准三宮の宣下を受け、25歳で二条准母の名目で女院となった。非婚内親王が后位を経ずに女院となった初例で、このケースは24例ある。この時代から女院制度の最盛期になる。しかしなぜか八条院暲子内親王は、大富豪中の大富豪であるはずなのに、蔵は空っぽで、埃っぽい御所でもかまわずのんびりと暮らしていたのだという。

 八条院は二条天皇の准母としての院号宣下であるから本来遺領は二条天皇の子孫に伝えられるべきものだろうが、二条の皇統は途絶する一方、八条院は以仁王やその王女を猶子としていた。龍野加代子(註28)によると八条院はまず以仁王女が相続し、王女没後に後鳥羽皇女昇子内親王と九条良輔が相続するという奏請をしていたが、朝廷の公認を得られなった。そもそも以仁王女は謀反人の娘で内親王ではないから家政機関を組織することができず、内親王宣下されない限り以仁王女に相続する資格はなかった。八条院崩後その遺領の大方は猶子になっていた後鳥羽皇女春華門院昇子内親王に伝領されたが、春華門院もほぼ同時期に崩御になられたので、後鳥羽上皇の管領下におかれた。結局のところ女院の一存では膨大な所領群を処分できなかったのである。
 承久の乱で没収された旧八条院領は、幕府によって事実上擁立された後高倉院の皇女邦子内親王に返還され、邦子内親王は後堀河准母として皇后となりさらに安嘉門院となった。後堀河皇女の利子内親王は四条准母として立后され式乾門院、さらに後深草天皇の准母として後嵯峨皇姉の曦子内親王(のち仙華門院)も皇后に立った。邦子内親王、利子内親王、曦子内親王が天皇生母が在世されているにもかかわらず准母となっている例であるが、栗山圭子(註29)によれば、幼帝即位では、天皇生母が后位にのぼせられていないケースと、母后が院号宣下により女院である場合は、「帝王・皇后・斉王」だけが乗輿を認められるしきたりから、准母立后が必要になるという。
 天子の御配偶にあらざる皇后、非婚内親王が天皇准母として后位にのぼせられるというのは、非婚内親王の女院宣下もそうだが、わが国の独自性溢れる制度といえるだろう

このように院政期から鎌倉時代は内親王は厚遇された時代だったが、南北朝動乱期から状況が著しく変化した。 女院制度は天皇生母を遇する地位として存続したが、 内親王の女院宣下はなくなった。 准三宮宣下もなくなり、というよりも、室町時代になると内親王宣下がなくなったので、内親王も消滅した。
  室町時代以降において皇儲及び宮家を創立、若しくは継承した親王、或いは婚嫁のあった皇女・王女のほかは出家することが常例となった。 尼五山の住持は殆どが皇室・将軍家出自の尼であり、足利幕府に経済的に丸抱えの存在だった。南北朝動乱期に皇室領が解体過程を辿ったため、内親王のための経済的基盤がなくなったためと考えられる。皇女は出家により身を処す時代となった。
 
 江戸時代になると、出家する皇親の数が多くなり、元和元年(1615)の公家諸法度で皇子・王子等男僧の入室する門跡寺院の寺格を定めた。皇女・皇女等尼僧の入室する寺院は比丘尼御所というが、門跡寺院に准じ一定の寺格が定められるようになった。つまり皇女のみが入室する比丘尼御所を御宮室といい、大聖寺・宝鏡寺・曇華院・中宮寺・光照院・霊鑑寺・円照寺・林丘寺の八箇寺である。江戸時代後期になると御宮室のなかのいくつかの寺院に御所号が勅賜された。これは比丘尼皇女の待遇が高められた意義を有するが、次第に御宮室に入室する皇女がなくなって、明治維新後皇族の出家が禁止されたので、御宮室各寺は華族の子女によって承けつがれ今日に至っている(註30)。
 以上、中世より近世の非婚皇女についておおまかなところを述べたが、その意義は継嗣令王娶親王条の皇親女子の皇親内婚規定の趣旨に沿うものである。安易に臣下に婚嫁するということはほとんどなくなっている。明治維新以後は出家が禁止されたので事情は変化したにせよ、今日の皇室典範12条から、皇族内婚以外、皇族の身位を保持できないので皇親内婚の規範性は歴史的に一貫しており、それゆえ12条の改変は絶対反対ということを重ねて強調しておきたい。

(註21)橋本義彦「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館1976 141頁 (初出『書陵部紀要』22号1970)、関連して橋本義彦「女院の意義と沿革」『平安貴族』1986平凡社、龍粛『平安時代』「中宮」1962、なお非婚内親王の皇后の説明は主として橋本氏の著作に依存している。
(註22)河野房雄『平安末期政治史研究』東京堂出版1979「白河天皇の御性向」247頁
(註23)角田文衛『待賢門院璋子の生涯』朝日選書281 1985

(註24)野村育代「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 1992
(註25・26)橋本義彦前掲「中宮の意義と沿革」

(註27)河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館2002 65頁以下

(註28)龍野加代子「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号
(註29)栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 2001
(註30)荒川玲子「比丘尼御所に於ける御所号勅賜の意義」『書陵部紀要』38号 1986

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/25

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第12回

補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義
川西正彦(掲載 平成17年9月25日)
  はじめに-近代の皇族概念との違い
 (1) 皇親の員数
 (2) 皇親の待遇
 (3)皇親賜姓と皇位継承問題
    文室真人浄三・文室真人大市
    氷上真人志計志麻呂と川継
     属籍を復すこともありうる
    源融の自薦
 (4)親王宣下制度
  (5)未定名号の皇子の即位
   未定名号から践祚当日元服命名の例1 後嵯峨天皇
   未定名号から践祚当日元服命名の例2 後光厳天皇
            (以上今回掲載)
    中世~近世の非婚皇女と内親王位の消滅
    中世世襲宮家成立の意義
     常磐井宮(中世)-亀山法皇が正嫡と定めた皇統
     木寺宮-大覚寺統嫡流の後二条御流
     伏見宮-正統長嫡・持明院統嫡流の皇統

            (掲載未定)

はじめに-近代の皇族概念との違い

 テーマが大きすぎるが一応掲載する。
 天皇の親族である皇親概念は歴史的に変化しているが、基本的には、継嗣令皇兄弟子条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」で、天皇(女帝をふくむ)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とした。そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)とした(註1)。また、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れないとされた。しかし慶雲三年の格制で皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとした。但し延暦十七年に令制に復帰している。
 明治の皇室典範における皇族は皇玄孫の四世孫まで親王・内親王であるので令制の概念と異なる。また太皇太后・皇太后・皇后のほか皇胤の男女子及びその正配は悉く皇族であるから皇親の概念と異なる。昭憲皇太后(一条忠香女)や貞明皇后(九条道孝女)も皇族という範疇になる。
 今日の皇室典範ではもとは民間人である、皇后や、皇太子妃、親王妃といった婚入配偶者も含めて皇族なのである。要するに現今の皇族概念は、皇后、親王妃という身位ゆえに皇族ということになっているが、令制の皇親とは非皇親のキサキを含まない概念である。つまり婚姻家族概念とは明確に違って、自然血統主義的な父系出自系譜の親族概念である。
 
(1) 皇親の員数
 

  竹島寛によると、『日本三代実録』清和天皇の貞観十二年(870年)二月二十日条に、従四位上豊前王は、当時王禄に預かる諸王の数五六百に及ぶを以て、賜禄の王の御員数に制限を加えんことを奏請し、勅して四百二十九方を定員とせられたが、この員数は在京諸王であり、京外の諸王を加えるともっと多数であるとされている。一条天皇の長保 の頃(11世紀初頭)でもなお二百方が女王禄に預かっていたという。しかし平安末期より皇子出家の風が盛んに行われ、多く法親王とならせらるる時代になると、何時となく諸王と申し上げる方がなくなったとされる(註2)。
 十世紀以降の律令国家収取体系の変質(これを構造改革として肯定的な見方もあるが)により、 禄制は崩壊過程をたどり(註3)、11世紀末までには崩壊したとみられる。つまり受領功過定の監察体制が機能としていたのは堀河天皇の関白師通期までで(註4)、康和-天仁期以後、12世紀には形骸化し、限定的に支給されていた位禄ですら支給されなくった。国家財政の変質により、12世紀以降、諸王の経済的基盤は喪失したのではないだろうか。
 いずれにせよ、すでに位禄王禄時服月料などの財源不足になった九世紀末期において少なくとも430人の皇親の員数である。世界第二の経済大国たる我が国における皇族の数は少なすぎるといわなければならない。


(2)皇親の待遇
 
 皇親の待遇についてまず藤木邦彦(註5)の説明がわかりやすいので引用する。君主制国家において、君主と血縁でつながりをもつ者が、その尊貴の故をもって国家・社会から特別の待遇をうけることは君主を重んずるゆえをもって所以であって、当然の現象であるが、位階は親王は一品から四品の品位が与えられ、諸王は一位から五位の区別が立てられた。大宝律令から親王と諸王・諸臣の区別になったのことは親王の地位を高めた。皇親には不課の特典があるが、皇親でない五世・六世王にも蔭または蔭に准じて不課とされ、皇親には蔭の特典があり親王は有品・無品にかかわらず二一歳になると従四位下が与えられ、諸王の子は従五位下が与えられるが、諸臣一位の嫡子の待遇と同じである。皇親には多額の田地や禄が支給され、親王の品田は一品に八〇町、二品六〇町、三品五〇町、四品四〇町、食封は親王一品に八〇〇戸、二品六〇〇戸、四品三〇〇戸で内親王は半減である。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、皇親が官職につくと官職に応じて職田、食封、季禄などがつく。なお、親王の封禄や皇室経済の時代的変遷については研究蓄積のある分野であるが、それらについて今言及する余裕がない。
 家政機関については竹島寛(註6)より引用する。所属の職員には親王には特に、文学・家令・扶・従などがあり文学は経書を教授する教育係で内親王には附かない。このほか帳内という近侍して雑用に当たる者が、一品親王なら百六十人、品位によって差等がある。平安中期以後になると、家令・扶の号は廃れて、摂関家のように別当・家司が附属し、政所で事務を執った。諸王の待遇は親王とは違って所属の職員もなく、礼遇でも劣っていた。
   また親王の礼遇は、太政大臣より下、左右大臣より上、薨去葬喪の際は、天皇は朝を廃し、治部大輔をして喪事を監護せしめ、装束司・山作司を任命する。極めて優渥な御待遇であったが、江戸時代には親王は公家法度第二条により左右大臣より下に置申すこと定めた。つまり近世の朝廷は厳しい序列社会だが五摂家-親王という序列になってしまった。しかしこれは令制本来の姿ではないだろう。
   
(3)皇親賜姓と皇位継承問題
 
 皇親賜姓については先行研究(註7)をいちいち検討する余裕がなく省略するが、臣籍に降下した者が皇位継承候補たりうることを述べる。
 安田政彦の専論がある(註8)ので検討する。まず、安田は「奈良時代後半における皇位継承には出家や皇親賜姓された者が有力候補として名を挙げられており出家や皇親賜姓が皇位継承資格の喪失とはみられていない」とし「当時の貴族層が何よりも血統を重視していた」にならないとしている。
 具体的に臣籍に降下したにもかかわらず皇位継承候補に浮上したケースをみておこう。

 文室真人浄三・文室真人大市

 『続日本紀』宝亀元年八月四日条では、称徳女帝が不予に陥り厳戒態勢のなか左大臣藤原朝臣永手、右大臣吉備朝臣真備、参議兵部卿藤原朝臣宿奈麻呂(良継)、参議民部卿藤原朝臣縄麻呂、参議式部卿石上宅嗣、近衛大将藤原蔵下麻呂による皇嗣策定会議で、大納言白壁王(光仁)を皇嗣に定め奏上、称徳女帝も承諾したとされている。ところが、『日本紀略』宝亀元年八月癸巳条は「百川伝」を引いて皇嗣策定会議は激論紛糾したことが伝えられている。右大臣吉備真備が、天武孫で長親王の子、文室真人浄三(前御史大夫〔大納言〕もと智努王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓、智努はのちに浄三と改名)を推薦したが、「有子十三人」を理由に排除されると、今度は浄三の弟の参議文室真人大市(もと大市王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓)を擁立したが固辞された。一方左大臣藤原永手と宿奈麻呂、百川が白壁王を擁立するため立太子の当日宣命を偽作する非常手段をとった。藤原氏に出し抜かれた吉備真備は恥をかいて到仕を願い出たというものである。 
 瀧浪貞子は(註9)、従来『続日本紀』に疑義がもたれ「百川伝」や『水鏡』を重視してきた解釈は誤りとされ、称徳朝を支えてきた藤原永手の政治力で白壁王に一本化し、それは称徳女帝の意向でもあり承諾されたのだという。百川は光仁擁立に関与していないという見解である。
 なるほど永手は道祖王廃太子後の皇嗣策定会議でも聖武皇女不破内親王を妻とする塩焼王を推薦していて、白壁王が聖武皇女井上内親王を妻としていることから、理屈のうえでは一貫している。しかも白壁王は仲麻呂の乱の戦功で永手、真備や追討将軍蔵下麻呂らとともに勲二等を授けられ、孝謙上皇派なのであった。また女帝の紀伊行幸では白壁王が御前次第司長官をつとめ、女帝の信任もあり、白壁王擁立は自然の流れと思える。素人目にみても百川は当時、左中弁・右兵衛督・内匠頭・河内守で皇嗣策定会議に呼ばれるほどの政権首脳部であったかは疑問である。しかし「百川伝」に疑義を呈する瀧浪氏でも、議論が白熱したであろうこと。皇統をせめて天武の傍系に戻そうとするのはいかにも儒者の真備らしい意見とされている。
 安田政彦は、浄三と大市が出家していることから、出家が皇位継承の放棄とはみなされていないとする。いずれにせよ、天武曾孫では新田部親王系で氷上真人志計志麻呂・川継、高市皇子系で豊野真人、美和真人などもあったが、この時点で皇位継承候補となる天武孫は浄三と大市だけだった。こうした状況では臣籍に降下した者も皇位継承候補者たりうることを示している。
 
  氷上真人志計志麻呂と川継
 
 仲麻呂が近江に脱出する際、淳仁天皇の身柄を確保せず「玉」を抛擲したことは致命的とされるが、このとき新田部親王の子の中納言文部卿氷上真人塩焼(もと塩焼王、天平宝字元年八月三日氷上真人賜姓)が追いつめられた状況で、仲麻呂側の今帝に偽立されたが(天平宝字八年九月甲寅条)琵琶湖畔で斬殺された。しかし塩焼の子の志計志麻呂と川継が不破内親王の所生ゆえ赦された。志計志麻呂と川継は兄弟と考えられるが安田政彦は同一人物説である。
神護景雲三年、不破内親王と氷上真人志計志麻呂が巫蠱に坐す事件(五月壬辰条)が起きる。これは県犬養姉女が不破内親王と結合し、忍坂女王・石田女王・河内女王という宮廷女性を一味に引き込んでなされた、後宮女性によるおどろおどろしい呪詛陰謀事件で、女帝の頭髪を手に入れ佐保川で拾ってきた髑髏のなかにつめこみ宮中に持ち込んで、ひそかに厭魅呪詛の行法を行っていた。その目的は、朝廷を傾け奉り、氷上真人志計志麻呂を「天日嗣と為む」ことであった。志計志麻呂は土佐配流、不破内親王は厨真人厨女の姓名に貶められたうえ京外に追放された。ところが、宝亀二年八月辛酉条によると、この事件は丹比宿禰乙女の誣告とされ、宝亀二年に忍坂女王・県犬養姉女らは復権を果たし、厨真人厨女は宝亀三年十二月に属籍を復している(註10)。
 さらに光仁上皇崩後の諒闇期間中の延暦元年閏正月に因幡国守従五位下氷上真人川継謀反事件が起きる。川継の伊豆配流、不破内親王と川継の姉妹の淡路配流のほか、大量の連坐者を出した。川継の妻の父、大宰員外師藤原朝臣浜成は参議侍従を免官され、山上朝臣船主、三方王、参議左大弁大伴宿禰家持、右衛士督坂上大忌寸刈田麻呂、伊勢朝臣老人、大原真人美気、藤原朝臣継彦らは与同の罪で職を解かれ、京外追放、その他川継の姻戚・知友35人、さらに参議中宮大夫右衛門督宮内卿大伴伯麻呂も解官、同年の左大臣藤原朝臣魚名の左降は理由が不明で問題になる。林陸朗は参議三人に加えて武官長老の刈田麻呂の連坐を重くみて、相当な企画性をもった深刻な事件とみなしているが(註10)、阿倍猛(註11)や倉本一宏(註12)のように浜成と年内に薨じた伯麻呂と魚名を除いて短期間で赦免されていることから陰謀そのものを疑問視する見方もある。桓武天皇が光仁上皇の諒闇期間の短期間に、川継の陰謀を奇貨、もしくは口実にして、前代の重臣(魚名)と反主流派貴族(浜成)を粛清し、天皇主導の政権基盤を確立していったという見方もできるだろう。
氷上真人川継事件の真相は不明な部分が多いが、いずれにせよ氷上真人志計志麻呂と川継は、天武曾孫であり母方で聖武と繋がっており、臣籍に降下してもなお、皇位継承候補として担がれる可能性がある存在と認識されていたのである。
 
 属籍を復すこともありうる

 天武曾孫で岡真人賜姓から属籍を復した和気王について第6回で言及したが、例えば天武曾孫、舎人親王の孫、笠王についてみると天平宝字八年(764)十月九日、淳仁天皇が廃位配流となったとき、故守部王の男子笠王ら三名を、三長真人賜姓の上丹後国に配流(続紀宝亀二年七月乙未条)。宝亀二年(771)七月、故守部王の男王、故三原王の男王、船王の子孫、故三嶋王の女王らを皇籍に復す。同年九月、故守部王の男王らに山辺真人を賜姓。宝亀五年(774)十二月、山辺真人笠(もと笠王)を皇籍に復す。というように、いったん臣籍に降って属籍を復帰、再度臣籍に降下したがまた、皇籍に復すというようなケースがあり、臣籍に降ることが、属籍の復帰の可能性つまり皇位継承資格を喪失することを意味するものではないと考える。

  源融の自薦

 史料上、陽成遜位思食により皇位継承候補として浮上したのは承和の変で廃太子後出家入道淳和皇子恒貞親王、仁明皇子一品式部卿時康親王、仁明皇子二品兵部卿本康親王と自薦候補にすぎないが嵯峨皇子(仁明猶子)左大臣源融の四人である。関白太政大臣藤原基経は、左大臣源融、右大臣源多を引き連れて、恒貞親王推戴の志を陳べたが、親王は涙を流し、出家の身であることを理由に数日間食を絶ち頑強に固辞された(恒貞親王伝)。次に時康親王であるが、再三固辞され、時康親王は本康親王を推薦したが、結局、時康親王(光孝)が皇位継承者となった。たぶん恒貞が固辞するのは親王の性格から折り込み済でたんに一拶を入れただけ。皇位継承候補に急浮上した本康親王は当て馬のようでもあり、基経の素意は初めから時康親王であったのだろう。
 それはともかく、『大鏡』藤原基経の段で源融が「いかがは。近き皇胤をたずねば、融らも侍は」と皇位継承の意欲をみせたところ、基経は「皇胤なれど、姓たまはりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例ある」と一蹴し、「さもあることなれ」と貴族層が基経の見解に同意したというエピソードが伝えられている。
 安田政彦はこれが事実だとすると、源定省(宇多)の登極と矛盾することを問題視され、陽成遜位後のエピソードでなく宇多擁立時にふさわしいとされ、『大鏡』の虚構性を論じていて、源定省は臣籍に降下してから官歴を有していないが、源融は大臣にまで昇進して、太政大臣の下に立つ身であることを基経は言っているのだという。さらに賜姓源氏は生母の血筋が劣るゆえに皇位継承者たりえない。融と定省では血筋・経歴に大きな違いがあるとされている(源定省の母が班子女王であること。光孝が一代限りで擁立されたので臣籍に降下したまでで、母の血筋で劣るゆえに臣籍に降下した例ではないとされるが)が、問題を難しくし考え過ぎておりこの見解はかなり疑問に思う。
 端的にいうと、このエピソードは事実上の政務決裁者で政府を率いている藤原基経が軽口を叩いた左大臣源融を一喝したということで、基経の政治家としての実力が勝っていることを示している。もっとも、大臣は王権の安定性という観点から、皇位継承者となることは好ましくないと思う。瀧浪貞子が、吉備真備が大納言白壁王を飛び越えて右大臣に昇任していることを重くみて、それは白壁王の立太子構想があったからとしているが(註13)、やはり太政官決裁者たる大臣の立太子は好ましくないという判断が働いている。陽成遜位当時は親王が多く実在し、賜姓源氏まで皇位継承候補を拡大する必要はなかった。基経の意中は初めから時康親王だったから、源融を一喝して退けたという解釈でさしつかえないと思う。
なお、母が女御であれば親王宣下は普通であり、母が女御であれば皇位継承資格を有するとのは当然だが、源融の母、大原真人全子で更衣ですらない。門閥体制という観点で母の血筋は問題になる。例えば近衛生母藤原得子は善勝寺流藤原氏で、そもそも女御とはなれない家格である。少なくとも摂関期以後の女御は家政機関を組織できるのが前提条件で、上流貴族でなければならなかった。家格として劣っていたから、体仁親王(近衛)は崇徳后藤原聖子(関白忠通女)の猶子として親王宣下されている。しかし、中世以降母の血筋を上流貴族に限定しなくなったので、母の血筋云々は決定的に皇位継承資格を欠くということにはならないと思う。
  後述するように中世においては、後嵯峨や後光厳のように践祚当日まで諱すらなく、親王宣下もなく登極する例があることから、親王号、王号を称していることが皇位継承資格の決定的要件とは思えない。
なお、宇多天皇(源定省)の例については広く知られていることでもあり、ここでは省略して先に進める。


(4)親王宣下制度
 
  皇親概念は嵯峨天皇の弘仁期に大きく変化し、親王・内親王は宣下をうけてのち称しうることとなった。令制はもともと生得的に親王、内親王とたりえる制度であったが、そうではなく、天皇の意思により授受される性格の身位に変質した。親王宣下をうける皇子女と、賜姓によって臣籍に降下する皇子女に分割方式である。つまり嵯峨天皇は内寵を好まれ49人の皇子女がいたが、弘仁五年五月から卑母所生の皇子女は親王、内親王宣下されずに、未定名号の状態から姓を賜って臣籍に下った。源朝臣信、弘、常、明、貞姫、潔姫、全姫など32人である。
      
  親王宣下制度は九世紀を通じて慣例化した。陽成遜位後、藤原基経以下貴族首脳部の推戴により仁明皇子一品式部卿時康親王が即位した。光孝天皇は皇子女が親王時代の所生であることを理由に44人すべて臣籍に降下したが、光孝皇子源定省が幸運にも後宮女官藤原淑子や橘広相の奔走により登極した。宇多天皇即位により、であるが、光孝の皇子女は宇多と同母(皇太夫人班子女王-桓武皇子仲野親王女)兄弟姉妹(是忠親王、是貞親王、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王(陽成上皇妃)、為子内親王(醍醐妃)、桓武孫正躬王女所生の皇女8~9名が親王・内親王宣下された。(なお醍醐天皇(諱は、敦仁)ももとは二世源氏、源維城である)。もともと、継嗣令皇兄弟子条は天皇の兄弟姉妹と子女はすべて親王・内親王であるが、光孝の皇子女は母が不詳の例が多く親王位は、皇親女性所生の皇子女に限定されたといえる。
 
  平安後期になると諸王でも宣下をうければ親王・内親王になりうるとした。三条皇孫で敦明親王(小一条院)の御子である二王、二女王の親王宣下がそうした例である。 鎌倉時代には後鳥羽の皇子・皇孫が相次いで親王宣下をうけて六条宮を称し、後嵯峨の皇子・皇孫、後深草の皇子・皇孫が親王宣下をうけ鎌倉将軍宮となった(註14)。
  青山幹哉が後嵯峨孫の第七代鎌倉将軍の賜姓と親王宣下について論じ(註15)、よく引用されている。鎌倉将軍は源氏-藤原氏と推移したが、建長四年(1252)皇族将軍を迎えた。後嵯峨第一皇子第六代将軍宗尊親王である。しかし親王は文永三年(1266)京都に追放され、その息惟康王(三歳)が擁立されたが、文永七年(1270)十二月に賜姓されて源惟康となった。源氏将軍の再登場について「武家の正統君主」の出現を願望する安達泰盛の関与を青山氏が想定されているが議論があるところである。
  弘安十年(1287)年東使佐々木宗綱は関東申次と東宮践祚つまり亀山院政の中止を要求する事書が手交されたが、源惟康の親王宣下も奏請され立親王、しかし親王は正応二年(1289)に父と同じく追放されているので鎌倉殿在任期間の大半は源姓であった。弘安八年(1285)霜月騒動で泰盛派が滅亡したため、源氏将軍でなく親王将軍路線に軌道修正されたものとみられている。
  従って、将軍源惟康の親王宣下は政治色の濃いものであり、事実上、院政停止、皇位継承に干渉するほどの政治力を有した幕府首脳部の意向によるものであるが、親王宣下について私の考えでは、親王は令制本来のありかたとしては格としては一国にひとしい家政機関を組織するのであるから、親王たるにふさわしい家政機関を維持する経済的基盤を有することが、親王宣下の前提であると同時に、親王は有力な皇位継承候補となりうるので、安易に孫王以下を親王宣下されるべき性格のものでもなかったと考える。 
 
  (5)未定名号の皇子の即位
 
  一方、皇子であっても臣籍降下でもなく親王宣下もうけない場合がある。平家討滅の令旨で著名な後白河皇子以仁王はよく知られているが、中世においては親王宣下も臣籍降下もなく、たんに某宮、未定名号の状態のケースも少なくない。法親王は白河皇子覚行法親王に始まり、出家された後に親王宣下されるのである。
  歴代天皇の親王宣下の年齢についても嫡流、有力な皇位継承候補者は1歳で宣下されるが、例えば後深草、亀山、後伏見、光厳は1歳で親王宣下されているが、傍流で当初は皇位継承候補でもなかった後醍醐(尊治親王)は15歳であった。 、
  未定名号の皇族が、践祚当日まで諱もなく登極する例もある。このことは、親王宣下は皇位継承者の決定的要件ではなく血統原理が第一であるということがわかる。後堀河、後嵯峨、後光厳のケースについていえば、親王宣下をうけていない皇族が即位するというのは王権側の皇位継承候補から外れている皇族、ともいえるが、後小松のように外戚に経済的余裕がなく家政機関を組織できないケースも考えられる。
  なお、筆者は素人なので、親王宣下の有無は米田雄介編『歴代天皇・年号事典』吉川弘文館2003により判断した。次のケースである。後鳥羽天皇、土御門天皇、後堀河天皇、後嵯峨天皇、後光厳天皇、後小松天皇、後花園天皇、光格天皇である。
このうち、非常事態での即位のケース、後嵯峨と、後光厳のケースについて述べる。
   
   未定名号から践祚の例1 後嵯峨天皇
 

  仁治三年正月九日、十二歳の四条天皇が廊下を滑って顛倒する事故で夭折、皇子がいなかったため、後高倉皇統が途絶したが、朝廷の実権者前関白九条道家(将軍頼経の父でもある)や西園寺公経など貴族首脳部は順徳皇子の佐渡宮推戴の方針で固まっていた。摂政近衛兼経以下諸公卿は関東にこの意嚮を関東に伝え同意を求めることとし、ために空位十一日に及んだ。しかし佐渡配流の順徳上皇は当時在世されていて、討幕の謀議に深く関与したことから、幕府は還京運動から上皇の復権に結びつくことを警戒していたので、順徳皇子推戴はありえなかった。執権北条泰時は親幕的で討幕に一切関与せず、御自らすすんで土佐-阿波に遷御された土御門上皇の第三皇子の阿波宮を奏請する方針をとった。
  もっとも表向きは鶴岡八幡宮の神慮と称し(若宮でくじをひいたと伝えている)土御門皇子を推すこととしたのである。京に向かう東使安達義景は順徳皇子践祚と既成事実となるった事態を懸念し、泰時に対策を請うたところ「おろし参らすべし」との指示であった。東使は道家に会う前に、阿波宮の養育者である前内大臣土御門定通に会っている。関東の方針を察知した西園寺公経は道家と離反したため流れは決まった。23歳の皇子は諱すらなく、同年正月二十日俄に元服式が挙行され邦仁と命名、同日直ちに践祚した。後嵯峨天皇である。広橋経光は「帝位事、猶東夷計也、末代事、可悲者歟」と幕府の露骨な皇位介入に悲憤慷慨したがいかんともできなかった(註16)。

   未定名号から践祚の例2 後光厳天皇
 
観応二年(1351)十月二十四日足利尊氏は関東に下向して弟直義を討つため、南朝に帰順し、尊氏勅免の綸旨と、直義追討の治罰綸旨が発給され、正平の一統なる。十一月四日尊氏は関東に進発、しかしこのことは光厳上皇に知らされておらず、前太政大臣洞院公賢は「両院・主上以下可奉取之旨南方形勢之由風聞、驚動御気色云々、更不信用事也、如此狂事‥‥」と上皇らの驚愕を報じている(註17)。十一月七日崇光天皇廃位。南朝は神器を接収し北朝の官位叙任を破棄させた。しかし光厳に長講堂領を安堵、光厳・光明・崇光に太上天皇の尊号が宣下され、宥和策がとられた。正平七年(1352)二月南朝は足利義詮に後村上天皇の還京を伝え、二月二十六日大和賀名生を発ち、河内東条より摂津住吉、さらに八幡まで進んだ。一方、鎌倉では二月二十六日尊氏により直義は毒殺されるが、南朝は一転して宥和策より強硬策に転じ 閏二月六日尊氏の将軍位剥奪、在信濃の宗良親王に将軍宣下、閏二月二十日北畠顕能率いる南軍は京都に突入、足利義詮は市街戦で大敗し近江に敗走、三上皇(光厳・光明・崇光)廃太子(花園皇子直仁親王)八幡遷座(『椿葉記』は南朝の天気(後村上の思召)により八幡の軍陣に幸しましますとの表現-註18- 。事実上は南軍による拉致軟禁とみられる)、三月十五日義詮は態勢を立て直し京都を奪回したが、三上皇廃太子は三月三日河内東条、さらに六月には大和賀名生に遷幸された。
 幕府は三上皇廃太子が南朝の本拠地に送致されるという異常事態で北朝再建のために、後伏見女御で光厳・光明生母の広義門院(西園寺寧子)の令旨をもって上皇の政務を代行するプランとなった。女院は当初固辞されたが、佐々木道誉の意を受けて、勧修寺経顕の説得のよるものであった。女院は関白二条良基に「天下政務内々御計」として事実上政務は委任されたが皇嗣策定決裁者は王権女性尊長の女院という形式をとっている。
 三上皇拉致は異常であっても、天皇祖母が最終決裁者となることは異例ではない。例えば文徳急崩後、皇太子惟仁親王九歳擁護のため急遽皇太子と同殿されたのが文徳生母皇太后藤原順子であり、太政大臣藤原良房が万機を摂行する体制を継続するためには、形式的には皇太后の意思決定を受けたものとみなすべきである。朱雀譲位村上受禅は皇太后藤原穏子の示唆によるもので、また後冷泉朝において摂関任免の最終決裁権は天皇祖母上東門院藤原彰子にあった。鳥羽法皇崩後、平清盛らが忠誠を誓ったのは、後白河天皇ではなく近衛生母美福門院藤原得子であり、後白河譲位二条受禅は事実上美福門院の方針で決まったという実例がある。元徳三年光厳践祚後の 十一月八日故邦良親王の嫡子康仁親王立坊、幕府は邦良妃の崇明門院(後宇多皇女)を上皇になぞらえて、大覚寺統の家父長代行者として立坊の責任者に指名した例がある(註19)。
  北朝-幕府側は南朝と楠正儀の縁者を使者として上皇らの還京交渉も行っているが、南朝は強硬姿勢であったので、妙法院門跡に入室する予定で日野資名に養育されていた未定名号の光厳第二皇子が、観応三年(正平七年)八月十七日元服して弥仁と命名され、親王宣下もなく直ちに践祚した。後光厳天皇であるが、神器を収めた小唐櫃が探し出されて、空箱を神器に見立てるという異例の皇位継承であった(註18)。
 
このような前例がある以上、親王位という身位にあらざるとも皇位継承は全く問題はない。
 
 
 引用参考文献

(註1)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991 209頁、但し初出は1970
(註2)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936 147頁

(註3)吉川真司『律令官僚制の研究』「禄制の再編」369頁以下 初出1989
(註4)佐々木宗雄『日本王朝国家論』名著出版1994「十~十一世紀の授領と中央政府」初出1990
(註5)藤木邦彦 前掲書 205頁、210頁以下
(註6)竹島寛 前掲書 165頁
(註7)藤木邦彦 前掲書、赤木志津子「賜姓源氏考」『摂関時代の諸相』近藤出版社1988、初出1964、林陸朗「嵯峨源氏の研究」「賜姓源氏の成立事情」『上代政治社会の研究』同淳和・仁明天皇と賜姓源氏」『國學院雑誌』89号1988、同「平安初期政界における嵯峨源氏」『古代文化』460号 1997、宇根俊範「律令制下における賜姓について-朝臣賜姓-」『史学研究』147号 1980、宇根俊範「律令制下における賜姓についてー宿禰賜姓ー」『ヒストリア』99号 1983、安田政彦『平安時代皇親の研究』吉川弘文館1998第二章平安時代の皇親賜姓 
(註8)安田政彦「皇位継承と皇親賜姓-『大鏡』の記事をめぐって」『古代文化』53巻3号 (通号 506) [2001.3]
(註9)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「四章藤原永手と藤原百川」
(註10)林陸朗「県犬養家の姉妹をめぐって-奈良朝後期宮廷の暗雲-」『國學院雑誌』62-9 1961-9
(註11)阿倍猛「天応二年の氷上川継事件」『平安前期政治史研究』新生社、初出1958
(註12)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 211頁
(註13)瀧浪貞子 前掲書116頁
(註14)橋本義彦『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館「宮家の役割」15頁以下参照。
(註15)青山幹哉「鎌倉将軍の三つの姓」『年報中世史研究』13,1988
(註16)今谷明「明正践祚をめぐる公武の軋轢」『室町時代政治史論』塙書房2000、330頁
(註17)今谷明「観応三年広義門院の「政務」について」『室町時代政治史論』塙書房2000 
(註18)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版(京都)1984 123頁
(註19)森茂暁『南朝全史』講談社選書メチエ 2005 69頁
(註20)今谷明『室町の王権-足利義満の王権簒奪計画』中公新書 中央公論新社 1990

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/22

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第11回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月22日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
   
(第5~10回)
 (6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
  (7)平安中期以後の違法婚
       (今回掲載)

(6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
 

 中だるみ状態でピッチが遅すぎて、閲覧者には大変申し訳ありません。でも苦しくも悶えても最後まで頑張ります。険しい道でも皇位国体護持のため神風が吹くのを祈りたい心境だ。

(5)では、高森明勅の継嗣令の下条、王娶親王条の意義をふまえない継嗣令皇兄弟子条の本註の誤った解釈、律令国家は双系主義という虚構の奇説を批判するため、生涯非婚女帝の即位の経緯まで逐一検討して女帝は皇統を形成できないという、ごくあたりまえのことを述べた。ここで本題の皇親女性の皇親内婚規則、継嗣令王娶親王条の歴史的経緯に戻ることとし、長くなりすぎたのでこのテーマは今回で終え、次回より別の観点で女帝絶対反対論を続行する。

 継嗣令王娶親王条の皇親女子の皇親内婚規則は奈良時代において、一例を除いて違法例がなく、よく守られていたことを述べた。しかし、皇親女子の皇親内婚規則は『日本紀略』延暦十二年(793年)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」により大きく変質することになる(註99)。任大臣及び良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて有力貴族との結婚が可能としたのである。令制の皇親内婚の理念は大きく後退したように思える。これは有力貴族をミウチとして取り込む政策的意義というより、素人考えながら桓武天皇が内寵を好まれ多くの皇子女をもうけたこともあるのではないか。
 但し、二世女王降嫁の初例は、承和期に式部大輔、蔵人頭、大宰大弐などを歴任し、良吏として知られる藤原衛(右大臣内麿十男)に、淳和皇子恒世親王女が降嫁(結婚の具体的な時期は不明)した例であり(註100)、桓武天皇の治世からかなり後のことである。
 仁明皇子人康親王女の藤原基経への降嫁は二世女王だから延暦十二年詔により合法である。そもそも摂政藤原基経と一品式部卿時康親王(光孝)は母方でいとこで血縁関係があり、人康親王女は光孝の姪であり姻戚関係もあった。基経が陽成廃黜、光孝天皇擁立を断行したのもそういう事情が背景にある。人康親王女を母とする時平、仲平の元服式が天皇の加冠により挙行されたのも、基経の権力の大きさを物語るといえるが、前代未聞、仲平以後は絶後の殊遇は、時平や仲平が母方で承和聖帝(仁明天皇)と繋がっているためでもあろう。なお、人康親王女を母とするのは、時平・仲平・穏子で、忠平については歴史家により見解が異なるようだ。また時平は仁明皇子本康親王の女廉子女王を娶っているが、これも二世女王なので合法である。

 嵯峨一世源氏潔姫の藤原良房への降嫁は違法すれすれ。源潔姫は、太皇太后藤原明子(文徳女御・清和生母)の母である。同様の例として、藤原忠平が宇多皇女源順子を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けている
 それでも依然として、内親王降嫁は明確に違法である。今日の皇室典範第12条においても、皇族女子は天皇及び皇族以外の者と結婚した場合は、内親王、女王という身位を保持できないことになっており、民間人への降嫁はあっても継嗣令王娶親王条の皇親内婚の趣旨は継受されているものと私は理解している。
 
(7)平安中期以後の違法婚
 
 とはいえ平安中期以降、内親王の藤原氏や源氏への降嫁のケースが少なからずみられる。違法であるが勅許によるものだろう。甚だ令意に反する事態といわなければにならない。十世紀には昇殿制にともなう天皇との直接の関係に基づく公卿・殿上人というあらたな特権階層を作り出し、日常的に側近を殿上に候せしめる総側近官僚型政治、あるいは「内裏・太政官一体型政務」が展開されることにより、天皇と有力貴族の日常的な距離が接近したことからこのような事態もやむをえないと考える。
 
 例えば藤原師輔が醍醐皇女の三方、勤子内親王・雅子内親王(以上母は更衣源周子)・康子内親王(母は太皇太后藤原穏子)結婚した例などである(註101)。さすがに康子内親王は后腹の一品親王なので村上天皇や世間は許さなかったとも伝えられているが、雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光、康子内親王の御子が閑院流藤原氏の祖である太政大臣藤原公季である。
 師輔は天慶二年に皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同三年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(村上)の室に入れ(安子は皇后となり冷泉・円融生母である)権勢の基礎を築き(註102)。同七年四月成明親王が皇太弟に立てられ、師輔は東宮大夫に転じるが、策士的政治家師輔の裏面工作があったとみてもよいだろう。
 保立道久によれば「村上天皇の同母姉=康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上の怒りをかったというのは有名である。そのため内親王は「御前のきたなさに〔前が汚れている〕」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」などと伝えられている(『大鏡』『中外抄』)(註103)とされ、公然周知の醜聞だった。
  このほか平安時代では藤原師氏、源清平、源清蔭、藤原兼家、顕光、教通などが内親王を妻としている(註104)。
 しかし為光や公季は醍醐天皇の外孫、村上天皇の甥にあたるが、あくまでも藤原氏の一員であり、当然のことながら皇位継承者には絶対的になりえない。母方で天皇と繋がってもそれは全く意味をなさないのである。
 母方祖母が朱雀・村上生母太皇太后藤原穏子である藤原公季の尊貴性は当然のこととして、藤原為光も母方祖母が更衣源周子、父方祖母も文徳皇子源能有女だから、皇室や王氏との血縁関係はかなり濃いといえる。しかし男系で天皇と繋がっていないから、太政大臣にはなれても皇位継承資格はない。当然のことですね。
 太政大臣は慣例として天皇の元服加冠の儀の加冠役だが、その大役にふさわしい上流貴族であることはもちろんである。
しかし、父系出自系譜で天皇に繋がっていないから、皇親にはならない。あくまでも藤原氏です。あたりまえのことですね。それでも女系だといいはる人は、日本史専攻の学生にでも聞いてみてください、10人中10人が、内親王の御子の藤原為光や公季は醍醐の外孫、村上の甥であっても皇位継承資格は絶対的にないと断言するはずだ。ありえないことだが為光や公季のような外孫が登極すればそれは王権簒奪であり、王朝交替により国号もあらためなければならないんです。だから女系継承なんてありえないですね。
  正月から報道されている政府案(1月4日読売など)の女系継承は為光や公季と同じようなケースでも皇位継承を認めようとするものですが、そういう無茶苦茶なことはあっては絶対ならないです。

以上長文になりすぎた感がありますが、王娶親王条の意義についてはここで終えることとします。要するに私のいいたいことはこうです。実際には違法だが勅許により例外である内親王降嫁もあった。令制では違法婚でも内親王の身位は保持されたとされていますが、この点現代の皇室典範とは違います。しかしそれによって王権が危機に陥ったわけではないから結果オーライです。女系継承などありえなかったのです。まさしく花園上皇の仰せのとおり「吾が朝は皇胤一統なり」です。歴史上の内親王降嫁という例外は許容しますが、しかし皇親女子の皇親内婚という規則・規範を否定することは絶対にあってはなりません。
 王娶親王条の理念は現代でも 「皇室典範第12条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」。ということで。実質的に継承されています。この規範は絶対堅持していただきたい。規範性は明白なのです。これを破って棄てたら易姓革命で日本国は終焉します。それをやったらおしまいだ。皇朝は終焉して、われわれは日本人をやめることになります。全てが台無しになります。鎌倉時代から近世にかけて皇女は非婚であるケースが大半という状況になりました。むろん鎌倉時代の非婚内親王は大変厚遇された時代ですが、室町時代から近世は皇女の大半が比丘尼御所に入室し身を処す時代になりました。こんなところで、12条を改変したら、いったい中世~近世の多くの皇女がなんのために生涯非婚だったのか意味がなくなるじゃないですか。そういう伝統的脈絡を全面的に否定していいんですか。12条改変で世の中は無茶苦茶なことになりますから、それだけは絶対やめてください。
 8月31日の有識者会議で「憲法では世襲と規定しているのみであり、男系ということは規定していない。憲法の世襲は血統という意味であり、男系も女系も入る」と発言している人がいますが、そういう拡張解釈は疑問に思う。たかだか60年の憲法がなんだと言い返したい。そんな新奇な思想を容認するわけには断乎いかない。2665年の皇室の歴史があり、千数百年の重大な婚姻規範を、こんなところで捨て去らないでください。それだけはなにがなんでもやめてください、やめてくださいと絶叫します。
 
(註99)専論として、安田政彦「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』吉川弘文館1998、米田雄介「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』塙書房2004
(註100)栗原弘「藤原内麿家族について」『日本歴史』511
(註101)米田雄介前掲論文 485頁以下。
(註102)角田文衛「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』法蔵館1985、25頁 初出1966
(註103)保立道久『平安王朝』岩波新書469 1996 81頁
(註104)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」
名著普及会1982復刊、初版は1922

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/01

今日の朝刊(9月1日)を読んで

川西正彦-平成17年9月1日掲載

 8月31日「皇室典範に関する有識者会議」(座長吉川弘之元東大学長)の第11回会合に関する記事を読んだが、きわめて不愉快だ。東京新聞によれば--男系男子による皇位継承は「安定性の面で非常に懸念が残る」との認識で一致した。(中略)また旧皇族の復帰による男系継承についても吉川座長は「安定性の意味ではよくない」と慎重な姿勢を示した--とされ、次回より女性・女系天皇を認めた場合の皇位継承順や皇族の範囲の具体的検討に入ると報じている。
 吉川座長の言っていることは論理矛盾も甚だしい。女系では、再三述べているように、非皇親(非王姓)のプリンスコンソートを迎えると継嗣が即位した時点で事実上の異姓簒奪、易姓革命になり異姓間の帝位継承で日本国は終焉するのだから、国が滅びる道を選択することになる。むしろ本当の意味での異姓簒奪にならない皇位継承資格者を枯渇させる政策である。皇朝の皇位継承者を枯渇させる政策が安定性だとわめいている、全く異常なことだといわなければならない。
 どうも、有識者会議は安定性をキーワードにして(継嗣の安定的確保という意味だろうが)、万世一系の皇位国体を否定し、異姓簒奪を容認し、内親王に禅譲革命を演出する最悪の役割を強要し、日本国を終焉させたいようだ。これほどひどい政策はない。
 そんなに安定性というなら、旧皇族にかぎらず、実系で男系で天皇に繋がる家系も含め、複数程度といわず一挙に5つも6つも宮家を復帰・創設すればよいのである。政府要人は三顧の礼を尽くして頭を下げて、それこそ政治家の出番だが、粘り強く交渉していけば、それなりに成果が出るのではないですか。
 そんなに安定的確保、安定的確保と騒ぐなら、私がウェブログの第1回の「はじめに」で述べたように、後宮制度を再構築すればよい。明治15年~18年に民間の家族制度では法律上の妾制が廃止されているとはいえ、キリスト教を公定宗教としているわけではないから、単婚制にこだわる必然性はない。とりわけ皇室については。
 後宮といっても、次妻格以下のキサキは御所を居所とする必要もなく、里第で比較的自由に優雅にすごしていただければいいじゃないですか。妃殿下にとってもプレッシャーから解放され悪くないのでは。その際、円融后藤原遵子が「素腹の后」と女御にすぎなかった一条生母皇太后藤原詮子(のち東三条院と女院宣下)の女房に嘲られたように、妻后と帝母の地位が逆転することがないように、嫡妻たる妃殿下の身位が毀損されることがないように、制度設計する必要はあります。あくまでも妃殿下が后位で、もし次妻格以下が東宮生母から天皇生母となった場合でも后位の嫡妻の権限を毀損することがないように、例えば皇太后(天皇の公式の母)と皇太夫人(天皇実母)と並び立っても、嫡妻の権限と公式の母ははあくまでも実母でなくても皇太后であることを明確にするとか、そういう制度設計は専門家がいるんでしょう。
 皇位国体護持が最優先政策であるべきです。そのための後宮再構築なら費用がいくらかかってもかまわないじゃないですか。公務員住宅を潰して公費で里第となる宮殿を建設してもいいんじゃないかと思います。つまらないことでけちけちして、国を滅ぼすことはない。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/08/27

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第4回

川西正彦
(掲載 平成17年8月27日-その②)

   第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由
   (承前)
Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する
  5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
    (以上第4回掲載、以下は次回以降掲載)

 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
 (6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
  (7)平安中期以後の違法婚
       

 
5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定

(1)継嗣令王娶親王条の意義

 女系継承がありえない、一つの理由を示しておきたいと思います。継嗣令王娶親王条の皇親女子の内婚規定(父系族内婚)をあげることができる。後述するよう延暦期に内婚規定が緩められ、平安中期以後違法婚が目立つようになりますが、基本的理念は一貫していて、今日においても皇室典範第12条が皇族女子(内親王・女王)は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したとき、皇族の身分を離れると定めているように、内親王位を保持するためには皇族との結婚が前提になっており、歴史的に一貫した規範的意義を有する。その前提として皇親概念、継嗣令皇兄弟条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」の意義が問題になるが、親等の数え方が男系主義であることはいうまでもない。

〔*ただし重大なことは皇親概念は歴史的に変化している。弘仁五年以後皇親は生得的身位ではなくなった。中世以後は皇室と遠系の皇統も親王宣下をうけることができたから、皇親は親等で限定するものでもなくなった。というか、中世には即位当日まで諱すらなく親王宣下を受けていない皇子が即位するケースがあって、親王号、王号を称していることが皇位継承資格ということでもない。このことの意義は改めて論じたいが、後に掲載予定の「補説皇親概念について」を参照してください。〕
 
 王娶親王条は「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」と規定しますが、諸王は内親王以下、五世王は諸王以下、諸臣は五世王以下を娶ることができるとする規定である。言い換えれば皇親女子の内婚規定であり、諸臣との結婚を禁止するものである。つまり、男皇親(親王以下四世王まで)は臣下の子女を娶り得れども、女皇親(内親王以下四世女王まで)は臣下に降嫁するを得ずとし、且つ五世王は二世女王以下を娶り得れども内親王と婚することを禁じ、臣下の男はただ五世女王のみを娶り得ると定めている(註1)。
 つまり内親王は天皇、親王、二世~四世王のみ結婚相手として適法である。二世~四世女王は天皇、親王、二世~五世王のみ結婚相手として適法である。それ以外は違法である。
 別の言い方をすれば、皇親女子は皇親内婚だけで、非皇親・非王姓者と結婚できないので、選択肢は皇親内婚か生涯非婚かということになる。
 継嗣令王娶親王条は中国の宗法制度の鉄則である同姓不娶に反するので我が国の固有法であります。我が国においては皇親の内婚のみならず、有力貴族例えば藤原氏や大伴氏でも族内婚が一般的であった(註2)。我が国は歴史を通じて中国に支配されたことがなく、また満洲族のように中国支配のために積極的に漢民族の法文化に同化することもなかったので、同姓不娶という宗法の鉄則は継受されることはなかったのである。。
 皇親内婚の意義それ自体については軽々しく述べることができないのですが、欽明朝のころから近親婚が顕著であることはよく知られている。つまり欽明天皇-皇后石姫は伯父-姪婚、敏達天皇-皇后額田部皇女(推古女帝)、用明天皇-皇后穴穂部間人皇女、押坂彦人皇子-糠手姫皇女(皇祖母尊と称される)は異母兄妹婚、舒明天皇-皇女宝皇女(皇極・斉明女帝)、孝徳天皇-皇后間人皇女、天智天皇-皇后倭姫女王、天武天皇-皇后ウノノ皇女(持統女帝)が伯父-姪婚であるように皇族で近親婚が繰り返されており、皇后は原則として皇女、正確にいえば皇親皇后が慣例であった。
 さらに律令国家体制揺籃期の事情である。天智・天武は父母ともに天皇(舒明と斉明)である。のみならず、四人の祖父母もすべて皇親で、父方母方とも欽明天皇(天国排開広庭尊)に繋がる純血種であるが、とくに天武が内婚にこだわり姪にあたる天智皇女四人を后妃に持ったが、神田千紗によると天智・天武と、その皇子女の間で11も婚姻例がある(註3)。
 このような父系近親婚の意義について西野悠紀子は「母系を通じて他氏族への血統が流出しない閉鎖的な血縁集団を作りあげることになった。こうした集団の形成が七世紀後半の天皇中心の中央集権的国家体制の確立、とくに天皇を現人神として他から超越した権力となる天武朝の政治と深く関連する」(註4)とする。また西野悠紀子はこうも述べている「皇女たちは、神として君臨する天皇の身内として、他から隔離された神聖な血統を保つ役割をになっていた」(註5)大筋において肯定できる見解である。
 
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い

 さらに重大なことには皇親内婚の意義を強調する「卑母拝礼禁止の詔」が出されている。天武天皇八年(689)正月詔に「凡当正月之節(中略)其諸王者、雖母非王姓者莫拝。凡諸臣亦莫拝卑母。雖正月節復准比」とあり、諸王に対し「非王姓」母の拝礼の禁止を定めるものだが、同年三月に天皇は越智に行幸され斉明天皇陵を参拝されているが、これは卑母腹の大友皇子(弘文天皇)に対して皇位継承の正当性を誇示する意義があるとみなすことができ、「非王姓」母の拝礼の禁止は天智皇女を母とする草壁皇子と大津皇子が皇位継承者にふさわしいことを示唆する政治的意義があると解釈されている(註6)。要するに母方の尊貴性も重視されることにより、母や妻が皇女である皇親を有力な皇位継承者に浮上させる政治的意義を含む天武天皇の政策であろうが、神田千紗(註7)は天智皇女の婚姻時期を検討され、それによれば、天武天皇-新田部皇女、高市皇子-御名部皇女、草壁皇子-阿閇皇女、大津皇子-山辺皇女、忍壁皇子-明日香皇女の婚姻成立時期を天武朝とほぼ断定され、天武天皇の婚姻政策によるとされるのである。
 
 ところが、神田千紗(註8)によれば持統女帝は天武の政策を継承せず、皇族内部婚を忌避したという。その理由は、天武の婚姻政策では皇太子予備軍をやたらと増やす結果となっており、持統の嫡々継承路線つまり草壁皇統直系継承路線の弊害になったからだろう。朱鳥元年十月に天武崩後1ヶ月もたたないうちに大津皇子の謀反が発覚、皇子は死を賜った。妻の山辺皇女は殉死した。当時は先帝皇后ウノノ皇女(持統)の臨朝称制であるが、所生の草壁皇子の最大のライバルを迅速に処断したのである。高市皇子は卑母腹ながら天武の長男で壬申の乱の功績があり、太政大臣として処遇することにより対立を回避した。しかし忍壁皇子と磯城皇子は草壁皇子薨後、皇位を狙ったらしく、持統の政治力により忍壁皇子は政界追放、磯城皇子は官位を剥奪されたらしい。このように持統は皇太子予備軍の増加を望まなかったし、政治力学的にいえば有力貴族との婚姻同盟のほうが王権は安定的に継承されるから、そちらの方を模索していったのだろう。実際、文武天皇が皇后も立てず、皇親女性をキサキにしていない。文武天皇のキサキ(配偶者)として知られているのは夫人に藤原朝臣宮子娘(聖武生母)と、嬪として紀朝臣竃門娘と石川朝臣刀子娘だけである。聖武天皇も皇親女性をキサキとしておらず、このため異例なことに光明立后により慣例に反する非皇親皇后が立てられた。意図的に皇親もしくは王氏女性との婚姻を忌避した可能性が強い。

(3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 
 しかしこのことは皇親女性の皇親内婚規定を弱める趣旨では決してない。皇親女性の皇親内婚は継嗣令の規定により明確なのである。
 つまり、男帝、親王、諸王は皇親女性を娶ることもできるし諸臣の娘を娶ることもできる。慣例として皇女を妻とすることが皇位継承に有利と認識されていたから、たとえば田村王(舒明)が即位の準備のために皇后予定者として田眼皇女(敏達皇女で母は推古-即位以前に亡くなったらしい、このためやむをえず既婚歴のある宝皇女を妻とした)を妻としたように、天皇が皇女、皇親女子を娶るのは普通のことで、光仁以後の男帝についても基本的には同じことだが、文武と聖武の即位は、皇位継承争いで勝ち取ったものでも、大化前代のように群臣の推戴によるものでもなく、嫡々継承路線による女帝からの譲位受禅であり、不改常典を皇位継承の根拠にしているために、必ずしも皇女を妻として皇位継承の正当化を図る必要はなかったということである。というより、文武のキサキとなりうる未婚の天智皇女がかなり年長者だったし、キサキの選定権を有する持統や阿閇皇女がそれを望まなかった。聖武天皇のように直系継承が三世代以上続くと、異母兄妹婚か伯母にあたる内親王以外、皇女を皇后に立てることは事実上不可能になるから、そういう理屈も折込み済のものとして慣例を破って臣下の女子の立后がなされたものと私は理解している。
 
 継嗣令王娶親王条は少なくとも奈良時代においては違法例はほとんどない。皇親女子の皇親内婚はほぼ遵守されている。坂井潔子(註9)によると、光仁皇女までの内親王は大半が結婚しているが、その相手は天皇あるいは四世以上の王であるので、適法であった。 元明の娘の吉備内親王(長屋王の変で自経)は元明の甥にもあたる天武孫の長屋王と結婚している。
 聖武皇女の井上内親王は養老五年斎宮に卜定、神亀四年群行、天平十八年退下(離任)、天平十九年二品直叙、斉王として長期にわたって大神宮に侍していたが、帰京後、天智孫の白壁王(のち光仁天皇)と結婚した。皇后に立てられるが、廃后、変死(延暦十九年詔して皇后の称を追復し墓を山陵と称する)。
 同じく聖武皇女の不破内親王は天武孫で新田部親王の子、塩焼王(臣籍に降下して中納言文部卿氷上真人塩焼、仲麻呂の乱で今帝に偽立されるが斬殺)と結婚している。なお塩焼王は道祖王廃太子後の皇嗣策定会議で藤原豊成、藤原永手という有力貴族から推薦されたが孝謙女帝が難色を示し却下されている。不破内親王は異母姉の称徳女帝に嫌われ、宝亀年間に復権するまで京外追放。
 いずれも政治的敗者となった内親王の例だが皇親内婚規則どおりであることをここでは強調しておきたい。

 皇親女子全般をみても今江広道(註10)によると奈良時代は令意が比較的よく守られていた。明確に令条に反し皇親女子が臣家に嫁した例としては、藤原仲麻呂の息男久須麻呂と舎人親王系の三世王加須良女王の結婚である。天下の政柄を握った仲麻呂にとっては問題ではなかったのだろうが、違法婚といっても三世女王である。
 
 延暦十二年の詔以降の政策転換と、平安中期以降の違法婚については後述することとして奈良時代に内婚規則がよく守られていたことの意義は決定的である。
 
 但し、既に触れたように、奈良時代から平安前期にかけて内親王后妃や内親王所生皇子が政治的に失脚する事件が相次いでいる。井上内親王・他戸親王母子の廃后廃太子事件(註11)は謀略である蓋然性の高い事件である。薬子の変による平城妃朝原内親王の妃辞職。嵯峨妃高津内親王の廃妃事件(註12)は真相が不明な事件で、外戚の坂上大宿禰氏は有力だったから不可解だが、所生の業良親王は精神障害者だったとされている。淳和天皇の贈皇后高志内親王所生の恒世親王は皇太子に指名されながら、勝ち気な嵯峨后橘嘉智子を恐れたのか、辞退し出家されたのである。承和の変の意義については諸説あるが、いうまでもなく最大の政治的敗者は淳和后正子内親王(註13)であり、所生の廃太子恒貞親王であった。このように、たんに母方の尊貴性という血統原理は必ずしも皇位継承に有利とはいえなくなった。つまり外戚の弱い、もしくは有力貴族の支援の得られなかった内親王やその所生の親王は宮廷で求心力を得られないのである。政治力学(宮廷におけるバランスオブパワー)と血統原理の相対的優位性とは別の問題ともいえるのである。
 
 坂井潔子(註14)によると平安前期中期を通じて結婚した皇女は四分の一になったといわれる。しかしながら平安時代の中期から摂関期においても、内親王や皇親女性が多く后妃とされている事実も重くみたい。内親王の例だけでも、例えば、陽成上皇妃に光孝皇女綏子内親王(釣殿宮)、醍醐妃に宇多皇女で伯母にあたる為子内親王、冷泉后昌子内親王は応和三年二月廿八日東宮憲平親王の元服加冠の儀の当日14歳(満12歳半)で結婚しており、昌子内親王が朱雀天皇のただ御一方の皇女であるため、村上天皇の方針によるものとみなされている(註15)。円融女御に冷泉皇女尊子内親王(前斎院)、後朱雀后に三条皇女禎子内親王(後三条生母陽明門院)、後冷泉后に後一条皇女章子内親王(二条院)、後三条后に同じく後一条皇女馨子内親王、堀河后に後三条皇女篤子内親王(前斎院、但し摂関家の養女として立后)、院政期には二条妻后ヨシ子内親王(鳥羽皇女、高松院)の例がある。
 
 (4)宗法制度との根本的な違い
 
 内親王がわが国の独創による称号、身位であり、中国の長公主とや公主とどう異なるのかは後段で述べることとして、まず、簡潔に未婚女子の身分について中国の宗法制度との根本的な違いについて述べる。
 東洋法制史の滋賀秀三(註16)によると女性は父の宗との帰属関係を有さない。父を祭る資格を有さないのである。女性は婚姻によってはじめて宗への帰属関係を取得する。夫婦一体の原則にもとづき、夫の宗の宗廟に事える義務を有し、死後、夫婦同一の墳に合葬され、考妣対照の二牌つまり夫婦で一組の位牌がつくられ、妻は夫と並んで夫の子孫の祭を享けるが、女性は実家において祭られる資格を有さず、未婚の女の屍は家墳に埋葬されず他所に埋める。つまり女性は生まれながらにして他宗に帰すべく、かつそれによってのみ人生の完結を見るべく定められた存在であった。白虎通に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」。
 だから、儒教規範で徹底している社会(例えば韓国農村)において、女性にとって最大の幸福とは、死後亡夫と並んで一組の位牌がつくられ夫の子孫によって祭を享けることにあるのだ。
 つまり未婚女子は宗への帰属性が本質的に否定されている(現代中国は宗法制度を封建遺制として否定しているが)。中国や韓国の女性が結婚後も一貫して生家姓を冠称していることから誤解されている見解もあるが、それは、生家の宗の帰属性を意味するものではない。宗法制度では嫁が生家姓を冠称しても明白に婚入配偶者たる嫁は婚家の宗に帰属するのである(註17)。
 唐制では内親王に相当するのが、皇帝の姉妹である長公主と、皇帝の娘の公主であるが、成清弘和(註18)によると『春秋左氏伝』孔穎達の疏によると「秦漢以来、三公に之を主らしむ、呼びて公主と為す」とあり、三公が天子の娘の婚姻を司るので天子の娘が公主と呼ばれるようになったとされ、公主という称号は婚姻と密接不可分で、当初から臣下に降嫁する事と関連ずけられているとする。なお、異民族の蕃属国の王に降嫁する「和藩公主」は皇帝の娘でなくても「公主」なのである。
 この点、内親王は継嗣令により臣下との結婚が否定されていることから、内親王と公主は全く性格の異なる身位であることがわかる。日本の内親王は、中国の皇帝の娘とは違って 皇親として男系血族の成員と観念されているため非婚内親王が女帝として即位することもあるし、院政期から鎌倉時代において非婚内親王が天皇の准母として皇后に立てられたり、非婚内親王が女院宣下により膨大な皇室領の大土地所有者たりえたといえるのである。一方、中国の公主は、そもそも未婚女子が宗の帰属性を否定されているので、女帝として即位することは絶対にないし、同姓不婚の鉄則により皇后に立てられることも絶対にない。唐代で宮廷人事を掌握し権勢を有した、太平公主や安楽公主もあくまでも臣下に降嫁することによって公主である。
 このように全く性格が異なる身位でありながら、次の一点において日中の制度は共通している。つまり中国では宗法制度の鉄則により公主の即位も立后も論理矛盾でありえないし、そもそも宗法制度において女系継承は絶対にない。日本では未婚であっても内親王としての身位が保障されるが、皇親内婚もしくは生涯非婚独身以外の選択が公法上否定されているので(実際には平安中期以後違法婚があるが後述するようにたいした問題ではない)女系継承は絶対にない。

 
(註1)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」259頁
(註2)西野悠紀子「律令制下の氏族と近親婚」女性史総合研究所編『日本女性史-原始・古代』東京大学出版会1982 
(註3)神田千砂「白鳳の皇女たち」『女性史学』6 1996
(註4)西野悠紀子 前掲論文 116頁 
(註5)西野悠紀子「皇女が天皇になった時代」服部早苗編著『歴史のなかの皇女たち』19頁
(註6)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』第一章「「天武系」王権再考」吉川弘文館1998 35頁
(註7)(註8)神田千紗 前掲論文
(註9)(註11)坂井潔子「内親王史序説」『史艸』三 1962
(註10)今江広道「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館 1983
(註11)林陸朗「県犬養家の姉妹をめぐって」『國學院雑誌』62-9 1961-9
(註12)芦田耕一「高津内親王の歌をめぐって」『平安文学研究』61 1979
(註13)大江篤「淳和太后正子内親王と淳和院」大隅和雄・西口順子編『シリーズ女性と仏教1尼と尼寺』平凡社1989
(註14)坂井潔子 前掲論文
(註15)河村政久「昌子内親王の入内と立后をめぐって」『史叢』17 1973
(註16)滋賀秀三『中国家族法原理』創文社1967 459頁以下
(註17)江守五夫『家族の歴史民族学-東アジアと日本』弘文堂1990「両班姓族の構造と特質」211頁以下の中根千枝説批判をみてください。
(註18)成清弘和『日本古代の家族・親族-中国との比較を中心として』岩田書院200、123頁以下

| | コメント (0) | トラックバック (0)

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第3回

川西正彦
(掲載 平成17年8月27日)

  

 第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由
   
Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する

(承前)

4.万世一系の皇位とは反易姓革命イデオロギーでもある

 
 日本天皇の正統性という観点で決定的なのは、天孫降臨以来連綿と受け継がれてきた「天つ日嗣高御座の業」(天から受け継いだ国を統治する事業)、皇祖神裔統治、皇孫思想であります。つまり万世一系の皇位であります。 永久に渝ることのない国制イデオロギーですが、万世一系の皇位、それは反易姓革命イデオロギーということは既に述べました。一部第2節(2)と重複しますがご了解下さい。
 反易姓革命イデオロギーの最大の受益者は国民だと思う。我が国が伝統的に文化資本が蓄積し経済が繁栄し豊かで安定的な社会であったのは、王朝交替、異姓簒奪、革命のない安定した社会構造にある。現代において質の良い豊かなライフスタイルを国民が享受できるのは国制イデオロギー堅持してきたお陰である、だから受益者たる国民は、安易に国制イデオロギーを捨て去ってよいというものではないのであります。ところがけしからんことに、女帝ブームに乗りたいために政府は国制イデオロギーを葬り去ろうとしている。
 
 我皇朝と中国王権の相違点はそれ自体大きなテーマなのですが、逃げるわけではないが、文化相対主義的にどちらが優れた制度かということまで結論しません。しかし私は日本人であり、我が国の歴史と伝統を重んじるので少なくとも反易姓革命イデオロギーについてはこれを信奉します。
 
 儀制令1天子条において、天子(祭祀に称する所)。天皇(詔書に称する所)。皇帝(華夷に称する所)。と君主号は用途に応じて使い分けることになっていますが、「天子」は『令集解』の諸説では、古記によると祭書に将い記す字で「辞はスメミマノミコトと称するのみなり」とのべ、令釈も俗語には「皇御孫命」というあり、大嘗祭や祈年祭などの祝詞に「皇御孫の命」とあるのに対応している。祭祀では実際にはスメミマノミコトと宣られた(註1)。古くからの律令国家祭祀において天子は皇御孫命(スメミマノミコト)と称され、素人目にみてもこれは万世一系血統原理による皇孫思想そのものを意味しているようにも思える。
 
 中国皇帝は、日本や高句麗の君主にみられる天神の血統を承け、天孫として天神と系譜で繋がっているとは主張しないのである。中国において天子とは、天からの命を受けた至徳者の称号(註2)とみなされる。天神の子孫という性格では全くない。皇帝は原義的には世界を統御する唯一最高君主であるが、中国においては受命思想にもとづく正当性であって、堯・舜の故事に示される、至徳者から異姓の至徳者への禅譲形式を理想とする思想があり、易姓革命が是認されている。 中国では世襲原理に相反する受命思想や革命思想によって王朝交替が正当化されやすい思想的風土がある。というより「魏武輔漢の故事」で禅譲革命の手順がマニュアル化されているので、真の実力者が革命を起こそうと思えば、マニュアルに従って手順を踏んでいきさえすれば帝位を継承できるシステムが千八百年前からできている。少なくともこの点についてはわが国の国制と本質的に異なるのである(もちろん類似点もあることは補説で述べる)。
 
 前漢末、王莽が帝位に登ったとき「皇天上帝は隆んにら大いなる佑けを顕わし、成命(天から受けた命)により統序せしめんがため、符契の図文と金匱の策書をもって神明の詔告とし、予に天下の兆民を委嘱なされた。赤帝漢氏高皇帝(劉邦)の霊は、天が命ぜし伝国金策の書を授けられた。予はなはだ慎み畏るるも、敢えて欽受せずにいられようか」(『漢書』王莽伝)と述べ、天命が劉氏から王氏に移ったとして自らの王朝、新を建てた(西暦9年-註3)。なお帝位を奪われた孺子劉嬰は「定安公」に封じられている。
 王莽の革命は本質的には太皇太后の権能を利用した漢王朝簒奪であったが(註4)符契の図文と金匱の策書が作為的なものであろうと、このように中国の伝統では受命思想にもとづいて王朝創始者の徳をになう至徳者であることを明示することにより王権簒奪が正当化できる。
 易姓革命の禅譲形式は王莽を嚆矢として、次いで220年に魏の曹丕が後漢の献帝劉協から位を譲られて例を開いた。曹操は、献帝を奉戴するが皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で革命がなった。
 石井仁が曹操の王権簒奪の巧妙な点を述べている(註5)。表向き献帝の漢室擁護政策とみせかけつつ、213年「天下を定むるの功」にむくうるとして、魏公に封ずる詔により事実上冀州の河東・河内・魏郡など十郡が割譲されるとともに、九爵を賜り、魏公国が成立した。曹操は慎重にことを運んだ。列侯と王に割り込むかたちでの「公」という選択である。皇帝の子や兄弟は王に封じられるが、いきなり「王」ではなく、まず「公」であった。漢の爵制に公位は存在しないが、前漢末に周の末裔を「鄭公(のち衛公)」殷の末裔を「宋公」に封じ後漢においても賓客として優待された。王莽も「安漢公」の称号を承けて、宰衡から仮皇帝と身位を進めた。魏公は諸王侯の上とされ、216年魏王に身位を進め、皇帝に准じた礼遇となる。ここまでくると易姓禅譲革命は時間の問題で曹操の子、曹丕が献帝から帝位を譲られた。
 220年易姓禅譲革命の最終段階の冊は「咨爾魏王よ。昔者帝堯は位を虞舜に禅り、舜もまた以て禹に命ず。天命は常にあらず、惟れ有徳に帰す。‥‥皇霊は瑞を降し、人神は徴を告げ、誕いに惟れ亮采たり。師、朕に命を錫ひ、みな曰ぐ、爾度りて虞舜に克協し、用て我が唐典に率ひ、爾の位を敬遜すべしと。於戯、天の暦数は爾の躬に在り、允に其の中を執らば、天禄は永に終らん。君、それ大礼を祇順し、万国を饗茲し、以て天命を粛承せよ」『魏志』巻二文帝紀(註6)であった。
 次いで265年、晋の司馬炎が魏の元帝から位を譲られた。司馬氏は魏の中央軍を掌握して実権者となり、司馬昭が晋公から晋王に封じられ、魏晋革命の最終段階は魏の元帝に驃騎将軍、車騎将軍より幾度となくを暗に恫喝するような禅譲を迫る上奏「暦数(魏王朝の寿命)はすでに尽きており、天命でございます」が奉られた。宮廷には王権簒奪に表立って反対する者は一人もなく、元帝は観念し、晋王司馬炎に皇帝の璽綬と策命を奉じさせた。策命は「咨、爾晋王よ」に始まり「肆、予一人、祗みて天序を承け、以て敬みて爾に位を授く。歴数は実に爾の躬に在り、允に其の中を執らば、天禄永く終らん。於戯、王其れ欽みて天命に順え。訓典に率循し、四国(四方)を綏んずるに底り、用て天の休いを保ち、我が二皇の弘烈を替らしむること無かれ」で終わった(註7)。司馬炎は型どおり礼に従って辞退したが茶番劇にほかならない。晋王国の丞相、御史大夫の固請によりようやく受諾した。
 この魏晋革命で易姓革命の禅譲形式が定型化された。禅譲といっても実態としては陰険な権力抗争であり、政権実力者による王権簒奪を正当化させるものとなっている。禅譲形式による易姓革命はこの後、東晋から宋、宋から斉、斉から梁、梁から陳、西魏から北周、北周から隋、隋から唐、唐から梁など、宋までで14例とされている(註8)。
 
 ということで、中国では永く続いた王朝でも周が867年間、漢が426年間です。しかし我が国は2665年王朝交替がない。世界史的に類例のない永続的王朝である。
 2ちゃんねる日本史板の書き込みからの孫引きになるが--橋本義彦氏によると「『古事記』『日本書紀』の伝える古代天皇の系譜に疑いをさしはさみ様々な古代王朝説が唱えられた。いわく葛城王朝、いわく近江王朝、いわく難波王朝など、種々の憶測が提示されているが、なかには「殆どナンセンス」に近いと評されるものがありまだ確説の域に達したものはない」「一時世上に喧伝された「騎馬民族説」(征服王朝説)も現在の考古学界では否定的見解が大勢を占めている」と述べている(『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館 平成八年 3~4頁)。要するに王朝交替説は退けられているし、なかったのである。‥‥‥仮に肯定したくない説だが、もっともシビアに日本書紀に批判的な学説でも継体・欽明朝王権画期説だから、千五百年である。「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国」というように天命永固永続的な王権であることにかわりない。我が国には古くから孟子の思想は受容されているし、中国の王権の在り方を意識していた。反易姓革命イデオロギーの国家思想により、万世一系の皇位、国体の尊厳が堅持されている。--筆者も同意見である。
  
 保立道久が万世一系思想について論じられているが、「定型化された万世一系イデオロギーは、唐・新羅王朝の転覆を目前にしながら王朝の血統を維持した支配層の国際意識を反映した国制イデオロギー」とされ「その中世まで続く形態の成立は八世紀後半以降」であるされている(註10)とりわけ重要な見解とみなしているのが、奈良時代の光仁朝、宝暦十年(779年)五月の唐使と天皇の応接儀礼でに関連するものである。このとき当代一流の文人、中納言石上宅嗣の主張により「彼は大、此は小なり、すべからく藩国の儀を用うべし」とされ、天皇が御座を降りて信書を受け取る形式をとった。石上宅嗣の判断は無難で穏当だとは思うが、ある貴族は次のように批判した。中華帝国は「民をもって国を簒い、臣をもって君を弑す」という悪しき伝統を持つ国であって、師範とするに足りない。それに対して日本の国柄は「我皇朝、(中略)天地人民有りてより以来、君臣上下、一定して渝らず、子孫、承襲ね、万世絶えず、天命永固、民意君を知り、淳化惇風、久しくもって俗となる。維城盤石、揺がず、動かず、寧ぞ、彼の漢の逆乱の風を学ぶものか」いう議論が展開された(註11)。
 これは易姓禅譲革命により王朝交替を繰り返した中国に対する日本の優位性を主張するもので、決定的な国制イデオロギーとして評価したいと思う。要するに中国のような異姓簒奪否定が万世一系国制イデオロギーであることは明白であります。
 
 同様の国家思想として保立道久(註12)が取り上げている『続日本後紀』嘉祥二年(849年)三月二六日条
 仁明天皇の四十の御賀で献上された興福寺の僧の長歌。

「日の本の 野馬臺の国を かみろぎの 少那彦名が 葦管を 殖ゑ生しつゝ 国固め 造りけむより(中略)御世御世に相承襲て 皇ごとに現人神と成り給いませば 四方の国 隣の皇は百嗣に継ぐというとも、何にてか等しくあらむ(中略)帝の御世 万代に重ね飾りて、栄えさせたてまつらむ」

隣の王は百嗣であるというのは天命をうけた王朝は百代にわたって続くという東アジアの思想に対し、日本天皇は現人神であり万代も続くという。これぞまさしく万世一系国制イデオロギーであります。

関連して次の蘇我馬子の王権賛歌と『古今集』の国歌の原型は万世一系思想だと保立道久は言っている(註13)。
『日本書紀』推古紀二〇年正月条に
あらわれる大臣蘇我馬子が奉った寿歌
「やすみしし 我が大君の隠ります 天の八十陰 出で立たす 御空を見れば万代に かくしもがも 千代にもかくしもがも 畏みて 仕え奉らむ」

『古今集』賀部冒頭読み人知らず (国歌の原型)
「わが君は千世に八千世にさゞれ石の巌となりて苔のむすまで」

 
『夫木和歌集』の「雑部十三・郡・里」にある君が代和歌群。保立道久は君が代イデオロギーを濃厚に反映し、読み込まれている地名はしばしば大嘗会屏風に登場するもので、。水田労働の総体が大嘗会と王権のイデオロギーを賛嘆するために遂行されるというイデオロギーであると解説している。(註14)

「君が代はやすのこほりの御つき物 ゆにわのいなほつきそはしむる」
「万代のためしにいねをつきしより ひかみのこほり民そさかえん」
「君が代はにまの里人つくる田の いねのほ末の数にまかせん」
「名にたてるよし田の里のいねなれば つくともつきし千代の秋まで」
「としことにますたの里のいねなれば つくともつきし千代の秋まで」

 関連して 北畠親房の『紹運篇』は「大日本は神国なり。」「唯此の国のみ昔より譲りのまゝに天日嗣をうけ給つることたうとき事なるべし。さればもろこしの大宋の太宗皇帝はうらやみ給けるとぞ書伝に見えたり、日本を神国と云伝えたることはこれにてはかりしるべし。」とのべ、『神皇正統記』は「大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝給ふ。我国のみ此事あり、異朝にし其たぐひなし。此故に神国と云なり。」「唯我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓のなかにおきてもおのずと傍より伝給しから猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。是しかしながら神明の御誓あらたにして餘国にことなるべきいはれなり。」(註15)「天地も昔に代わらず、日月も光を改めず、仰て尊び奉るべきは我国の天日嗣天皇になんなします。」(註16)瓊々杵尊の条に「此の如く分明なるをもて、天下に照臨し給へ。八坂瓊のひろがれるが如く曲妙をもて、天下をしろしめせ。神剣をひきさげて順はざるものをたいらげ給へ。」といふ勅をあげて「此の国の神霊として、皇統の一種たゞしくましますことまことにこれらの勅にみえたり」(註17)「我朝は神国なる故に、殊更上を上とし、正を正として‥‥」(註18)とのべているが、「一種姓」「皇統の一種」であるから万世一系-反易姓革命思想です。

関連して 「準国歌」の原型、大伴家持の陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌一首
『万葉集』巻第十八 4094
「葦原の 瑞穂の国を 天降り 知らしめしける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ (中略)大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕えし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじと言立て ますらをの 清きその名を 古よ(後略)」

 もし易姓革命なら、国歌・「準国歌」の思想を全面的に否定することになる。まとまりのない作文になりましたが、要するに万世一系、反易姓革命が我が国の国制イデオロギーの根幹であり、これを否定してはならないということを申し上げました

(註1)大津透『古代の天皇制』岩波書店1999 8頁
(註2)小島毅「天子と皇帝」松原正毅編「『王権の位相』弘文堂1991年、大原良通『王権の確立と授受』汲古書院 2003 20頁より孫引き。 
(註3)丸山松幸「革命」溝口・丸山・池田編『中国思想文化事典』東京大学出版会 2001 160頁
(註4)谷口やすよ「漢代の皇后権」『史学雑誌』87編11号1978
(註5)石井仁『曹操 魏の武帝』新人物往来社 2000 212頁以下
(註6)尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店1979 300頁
(註7)福原啓郎『西晉の武帝司馬炎』白帝社1995 138頁
(註8)窪添慶文「補説2禅譲」松丸・池田・斯波ほか編 『世界歴史体系中国史2-三国~唐-』山川出版社1996 19頁
(註9)2ちゃんねる 日本史板 男系断絶!女帝出現後の天皇制を追究しよう!Part30  2005-6-23 609の匿名者から引用
(註10)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004 164頁
(註11)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 94頁~100頁 なお『栗里先生雑著』巻八「石上宅嗣補伝」からの出所であるが筆者は読んでいない。保立道久「現代歴史学と「国民文化」-社会史・「平安文化」・東アジア」『歴史学研究』743号 『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』「「万世一系」の王権と氏的国制」校倉書房 2004 24頁
(註12)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 156頁
保立道久「「国歌・君が代」と九世紀史 」『歴史地理教育』2004年9月号
(註13)保立道久「「国歌・君が代」と九世紀史 」『歴史地理教育』2004年9月号
(註14)保立道久『歴史学を見つめ直す-封建制概念の放棄』校倉書房2004、257頁
(註15)久保田収『北畠父子と足利兄弟』皇學館大学出版部1987 181
(註16)久保田収 前掲書 78頁
(註17)久保田収 前掲書 179~180頁
(註18)久保田収 前掲書 144頁
(註19)新編古典文学全集9『萬葉集』④〈全四冊〉小学館1996、256頁

つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/08/26

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第2回

川西正彦
(掲載 平成17年8月26日)

  

 第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由

   
Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する
 
(承前)
 
3  世論重視=孟子の革命説の採用は危険思想だ

 もちろん、私は易姓革命それ自体に反対です。しかし、民をもって国を簒うことは、民意をもって天命とみなす、人民の帰服する有徳者を王者とみなす孟子の革命説によって正当化できる。村井章介の論文(註1)から引用する。墨子の君主の悪徳が王家も滅ぼすという革命説を王朝そのものの盛衰に拡延したのが孟子の思想である
「仁義を失った暴君紂はもはや一夫にすぎず、周の武王はすなわち一夫を誅したのであり君を弑したのではないといい(梁恵王下篇一五章〉、君臣の双務的契約関係を強調し(離婁ト篇九二章)、諫めを聴かない君は位から放逐すべしとまでいう(君に大過あらば則ち諫め、これを反復して聴かれずば則ち位を易う-万章下篇一四〇章-)。では君徳の有無はなにによって量られるか。舜は堯から天下を譲られたが、これは堯があたえたものではなく、天が与えたのであり、天の意志は「民の視、民の聴」を介して示される(万章上篇一二七章)。天命に遵い有徳の政を施すもののみが帝王たりうるが、その天命は民の意志、世論によって認識可能になる」
 孟子思想は実にしぶとい。平成15年11月の小泉首相の施政方針演説でも「天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしむ‥‥」という孟子の言葉を引用しているように現代にも生きている。
 敬宮愛子内親王も孟子「人を愛し、愛され、人を敬い、敬われる」を典拠とした命名である。これは毎日新聞平成13年12月7日夕刊によれば、事実上、皇太子ご夫妻で選び内定していたとされているので(註2)、孟子の革命思想は意識されていないと思うが、勝手な理屈で、例えば、内親王は孟子の革命説、民意により禅譲革命を実現すべく日本朝のラストエンペラーとなることは、命名の時点で定められていたとか、とんでもない解釈で、いかようにも革命は正当化可能なのである。だから恐ろしいと言っている。
 
 世論調査では軒並み八割前後の国民が女帝容認のようです。現今の女帝論議は、生涯非婚独身内親王を前提としたものではない。八割の国民が血統的に袋小路の状況で皇統を形成できない女帝即位を待望する世論というものは、皇統を形成できないことがわかっていながら女帝即位を待望するのだから、実質的に内親王を日本朝のラストエンペラーにして革命を待望しているも同然と解釈できるのだ。孟子説に基づいて民意をもって天命とみなせば、皇朝は暦数、命運が尽きたとして易姓革命を正当化できる。実際問題、國體護持よりもフェミニズム迎合が民意だと世論調査の解釈ができるのだから、「世論重視」とは民意を天命とみなして孟子の革命説で皇室を廃止するぞと脅しているのも同然なわけで、このような危険思想は断固排除されなければならないのであります。
 「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という教育勅語はどうなったんだ。女帝容認八割の世論というのは、事実上の反日危険思想、皇運を扶翼するどころか、無節操にもフェミニズムに迎合するため、万世一系の皇位、皇室も日本国も棄ててかまわないと事実上表明しているのと同じ。女帝ブームから一転して王権簒奪モードになれば、一般大衆なんて容易に長いものに巻かれます。女系継承から易姓革命容認が法制化されれば政府官僚は粛々とそれを実行します。革命を美化することにありとあらゆる手段を尽くすことになる。日本朝の暦数・命運は尽きたとさかんに宣伝され、受命思想などにより新王朝が正当化されます。官製デモが仕掛けられ、大衆は女帝ブームから一転して女帝退位、革命成就のため示威行為で圧力をかける側になるでしよう。だから世論というものは恐ろしい。武官が宮廷に乗りこんで女帝を恫喝して脅し、禅譲革命が決まれば、大衆は史上初の革命万歳とかいって熱狂し大騒ぎするに違いない。不穏な動きがあれば粛清だ。私のような反対者は政府に捕まる前に暴民にやられておしまい。人を殺してもたぶん革命無罪になる。だから世論重視なんてとんでもない。
  
 いうまでもないが天皇が大八嶋国をしろしめすのは皇祖の神勅にもとづいている。神権的な性格を有するのである。王土王民思想(註3)が正しい。民意・世論によって廃立する性格のものでは絶対ないし、絶対あってはいけないことです。
 一本調子の論旨を避けるため、記紀にこだわらない解釈も示しておきたい。神祇令13践祚条は即位にあたって「凡そ践祚之日には、中臣、天神の寿詞を奏し、忌部、神璽の鏡剣を上れ」と中臣氏による天神寿詞の奏上を規定するが、大津透によれば天つ日嗣の神話を言挙げし高御座即位の意味を確認するものとみなしている(註4)、また神野志隆光によれば、「神璽」とは神権性を保障するしるしであり、天神寿詞とあいまって、天皇は神性をもって君臨するものとあらわし出すと述べている(註5)。
 『日本書紀』持統四年正月の持統天皇元日即位は「物部麻呂朝臣、大盾を樹て、神祇伯中臣大嶋朝臣、天神の寿詞を読む。畢りて忌部宿禰色夫知、神璽の鏡剣を皇后に奏上す。皇后、天皇位に即く。公卿百寮、羅列し 匝ねく拝みて手を拍つ」と伝えられているが、持統女帝即位式はそのように神性をもって君臨することを意味しており、皇位継承儀式は基本的な在り方としては現代においても同じことである。
 また、皇位継承が神権的に保障されている思想としては、即位宣命や延喜式祝詞で高天原の神ろき・神ろみによる地上統治の委任について言及されている。

『続日本紀』神亀元年二月の聖武天皇即位詔、天平勝宝元年七月の孝謙女帝即位詔、天平宝字元年七月十二日の詔、同二年八月の淳仁天皇即位詔をあげることができる。
 神ろき・神ろみが「皇親(すめらがむつ)」してみられる。天平勝宝元年詔では、
 
高天原に神積り坐す皇親神魯棄・神魯美命以て、吾が孫の命の知らしむ食国天下と言依さし奉りの随に、遠皇祖の御世を始めて天皇が御世御世聞こし看し来る食国天つ日嗣高御座の業‥‥
 
 とされ、さしあたり中村英重の解釈(註6)は、神ろき・神ろみ両神は「吾が孫の命」である天皇に地上の支配を委託し、その支配のことが「天つ日嗣高御座の業」とされている。さらに天平宝字元年詔では神ろき・神ろみが「定め賜ひける天日嗣高御座の次」とし「天日嗣高御座の次」である天皇の継承は両神により決定されたもの‥‥とされるのである。
 神ろき・神ろみは祝詞では祈念祭、月次祭、大殿祭、大祓、鎮火祭、大嘗祭、新嘗祭、鎮御魂斉戸祭、遷却崇神祭、出雲国神賀詞、中臣寿詞にあらわれるが 大祓、遷却崇神祭
の祝詞では、神ろき・神ろみは高天原にて神々を招集し、「神集」の上で地上支配を皇御孫に委託することを決めていて、両神は高天原を統合する主宰神であった(註7)。
 単純に云えば、皇位継承の血統原理は皇祖の神勅、皇祖神の事依さしという神権的な正統性を有するものであるから、易姓革命を是認することは、神権に基づく皇位継承の論理、皇祖の神勅を根本的に否定することになるので、孟子の革命説とは本質的に水と油なのである。
 もちろんわが国には古くから孟子思想は知られており、万世一系と矛盾しない限りにおいて、孟子思想も受容されている。例えば文徳系より光孝系へ、後鳥羽系より後高倉系、後高倉系より土御門系というような、王権の意思ではなく、事実上有力貴族や武家政権の推戴で決する皇位継承のありかたも正当化されてきた。さしあたり(註1)の村井章介の論文をみてください。神皇正統記とて、幕府の干渉による後堀河や後嵯峨の登極の意義を認めている。というか、南朝であれ北朝であれ歴代天皇は全て後嵯峨に繋がっている以上、表向き八幡宮の神慮、実態的にいえば北条泰時の推戴によるとしても肯定論になるのは当然のことである。

 しかし、民をもって国を簒う、民意をもって皇室の暦数、命運は尽きたとみなす、過激な革命思想は断じて容認できるものではないのであります。今の政府はそれをやろうとしている、だから絶対許せない。

承久以来、武家政権による皇位継承への干渉はあった。しかしそれは、しかし干渉はあっても鎌倉時代における全国統治、国家高権は朝廷にあった。

日本全国一斉譜課(荘園・国衙領の別なく)の臨時徴税である、役夫工米(伊勢神宮の造替)・造内裏役・大嘗会役などの一国平均役譜課免除の決定は朝廷の行事所であって幕府ではない。鎌倉幕府は知行国主として徴収にあたり、それに加えて催促に従わない地頭御家人についてその弁済を保障していた(註8)。
 少なくともその限りにおいて幕府は臨時徴税請負人のようなものであって幕府は朝廷に奉仕すべき立場にある。一国平均役があるから、全国民的に天皇と伊勢神宮の存在は理解されていた。また鎌倉時代は朝廷訴訟制度が整備され本所間争論は朝廷の管轄権であり、幕府は朝廷の管轄権を侵していない。
 なによりも「両御流皇統は断絶してはならない」(『花園天皇宸記』元享元年十月一三日条裏書-註9)いう基本方針を曲げることはなかった。
 承久の乱により後鳥羽上皇の管領下にあった旧八条院領は幕府が没収したが、後高倉皇女で後堀河准母(実は皇姉)として皇后に立った(非婚内親王)邦子内親王に返還されており、事実上は後高倉が管領した。邦子内親王は女院宣下で安嘉門院となり、安嘉門院崩後は亀山法皇に伝えられ大覚寺統の基幹所領となっている。むしろ幕府が滅亡せず動乱過程に入らなければ、皇室領が解体過程をたどることはなかったかもしれない。
 ということで、現代の政府よりも鎌倉幕府がはるかに良性の政権だと思う。少なくとも報道されている政府案をみると、女帝ブームに乗るためには、皇統を絶やしてもよい。易姓革命でかまわないというのは最悪の反日・反国体思想であるから。政府が反日・反国体政策の牙城になってしまっている。とんでもない時代になりました。

 政府の方針どおり決まれば、遂にいまだかつていかなる実力者、権勢家もなすことができなかった王権簒奪モードに突入する。政府がなにがなんでも女帝即位、女系継承で易姓革命を是認したいというなら、次の代、異姓簒奪で易姓禅譲革命になりうることは国民にきちんと説明してください。要するにフェミニズムに迎合するために皇室と日本国を終焉させる法制化を行いますとはっきり説明してください。皇室廃止により日本朝、日本国は終焉しますときちんと説明してください。そうでないと偽日本朝、偽日本国、インチキ国家として内外から嘲られることになるからです。私は簒奪新国家に忠誠を尽くす義理など全然ないから、日本国継続を強行するなら、偽日本国、偽王朝と言い続けざるをえないので、たとえ死刑でも正論を述べます。こちらが正論なのだからたとえ拷問でもひるむ理由は全くない。事実上の異姓簒奪なら魏晋南北朝時代のような禅譲革命形式の儀式で国号を改めるよう上申を繰り返します。要するに事実上の異姓簒奪でも国号を改めないようなインチキ、非論理的なことは耐え難いからやめてくださいということです。
 例えば東京で簒奪新王朝がひらかれれば旧武蔵国が王業成就の地であるか全国の総名にして日本国改め、武蔵国とか。あるいはプリンスコンソートが某大公殿下と称すれば、その爵位・称号がそのまま新国号になるのだと思う。国連安全保障理事会常任理事国もソ連からロシア連邦に継承されたように、議席は日本国から某国となり、ただし皇帝号だと中国・韓国から東アジアに新たな華夷秩序をもちこむのかと非難が当然予想されるので皇帝号はあきらめて、太王もしくは大王号などになると明らかに天皇号や皇帝号より格下の君主号になるので国家の威信は毀損されますが、それでも政府と人民は皇室と日本国を棄て去る、フェミニズムに迎合して人気をとるために国を滅ぼす決断をしてしまったのだから仕方ないですね。私は最悪の政策と断言します。それでもやりたいか。
 もちろん易姓革命の禅譲形式はそれなりに劇的な演出が可能であって、無責任な傍観者からみれば面白いイベントになるだろう。しかしそれによって、わが国独自の伝統的価値、文化も喪失するのである。

(註1)村井章介「易姓革命の思想と天皇制度」講座前近代の天皇 世界史のなかの天皇 青木書店1995 11頁以下
(註2)敬宮愛子内親王の命名と小泉首相の施政方針演説は、永井輝『よくわかる孟子-やさしい現代語訳-』明窓出版2005のカバーより孫引き
(註3)村井章介「王土王民思想と九世紀の転換」『思想』847号 1994
(註4)大津透『古代の天皇制』岩波書店1999 
(註5)神野志隆光『古事記と日本書紀』講談社現代新書1436 1999 167頁
(註6)中村英重『古代祭祀論』吉川弘文館1999 70頁
(註7)中村英重 前掲書 69頁
(註8)平山浩三「一国平均役賦課における鎌倉幕府と荘園」『日本歴史』565
(註9)森茂暁『南朝全史-大覚寺統から後南朝へ』講談社選書 2005 217頁
つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/08/21

女帝即位絶対反対論 (皇室典範見直し問題)第1回

川西正彦
(掲載 平成17年8月21日

  目次

 第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由
   

Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する
 

 1.はじめに
 

 2.政府案は事実上の易姓禅譲革命是認案で日本国はおしまいだ
  
 (1)政府案ではプリンスコンソートが非皇親・非王姓者なら易姓禅譲革命になり日本国は終焉する

 (2)「吾朝は皇胤一統なり」

 (3)日本的家制度との類比問題

 (4)易姓革命なら国号を改める必然性(我が国は中国の国家概念を継受している)

   (中国王権と同じパターンの王朝名の由来)

   (日本は王朝名)

 (5)内親王に禅譲革命を演出する最悪の役回りを強要してよいのか

 (6)非皇親(非王姓)帝嗣に剣璽等承継の資格はない
 (7)非皇親(非王姓)帝嗣に高御座での即位、大嘗祭挙行の資格はない
                   
         

  (以上第一回掲載分)

(以下、今後逐次掲載予定-状況いかんで順序内容を変更します)

 3. 世論重視=孟子の革命説の採用は危険思想だ
 

 4.万世一系の皇位とは反易姓革命イデオロギーである
 

 5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定 

 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との違い
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
 (6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
  (7) 平安中期以後の違法婚

補説1 日本国号の由来からみても易姓革命なら日本国は終焉する

補説2 令制皇親の概念について
  (1)皇親の員数
  (2)皇親の待遇
  (3)親王宣下制度
  (4)世襲宮家
  (5)中世における非婚皇女

(ここまではほぼ原稿ができており推敲している段階です)

 Ⅱ たとえ生涯非婚内親王でも女帝に反対なのは、現今の状況では正当性、論理性に欠く
 Ⅲ 女性当主は社会秩序・家族規範を崩壊させる

第二部 有識者会議の見解の批判的検討

(仕事が遅くて申し訳ないが、第二部は未着手です)

第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由

  

 Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する

 

1.はじめに
 

 文部省『国体の本義』昭和12年によれば註1
 「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いゐる。而してそれは、国家の発展と共に、彌々鞏く、天壤と共に窮るところがない。‥‥我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫瓊々杵尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂のに降臨せしめ給うたときに存する。(中略)‥‥皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、
 豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ、行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、當に天壌と窮りなかるべし。
 と仰せられてある。即ちこゝ儼然たる君臣の大義が昭示しせられて、我が国体は確立し、すべしろしめす大神たる天照大神の御子孫が、この瑞穂の国に君臨し給ひ、その御位の隆えまさんこと天壌と共に窮りないのである。(中略)‥‥皇位は、万世一系の天皇の御位であり、ただ一すぢの天ッ日嗣である。皇位は、皇祖の神裔にましまし、皇祖皇宗の肇め給うた国を承け継ぎ、これを安国と平らけくしろしめすとさせ給ふ「すめろぎ」の御位であり、皇祖と御一体となってその大御心を今に顕し、国を栄えしめ民を慈しみ給ふ天皇の御地位である。臣民は現御神にまします天皇を仰ぐことに於て同時に皇祖皇宗を拝し、その御恵の下に我が国の臣民となるのである。かくの如く皇位は尊厳極まりなき高御座であり、永遠に揺るぎなき国の大本である。高御座に即き給ふ天皇が、万世一系の皇統より出でさせ給ふことは、永久に渝ることのない大義である。(後略)」

 この度の皇室典範見直し問題で、報道されている政府案(2005年1月4日読売新聞など)なるものは、男系継嗣を否定するもので、まさに「永遠にゆるぎなき国の大本」を否定し、「永久に渝ることのない大義」を棄て去るものであるから、到底容認されるはずがない。政府案がまかりとおるなら、木の葉が沈んで石が流れる思いだ。国制の根幹、伝統的秩序規範意識を混乱させるもので到底容認しがたい。

 そもそも筆者のようなペイペイのヒラというか小身の者が、分際もわきまえず、畏れ多くも皇位継承を云々することは憚られることである。あってはならないことである。お叱りを覚悟のうえで、しかしながら、國體の精華と謳われる男系による万世一系の皇統譜を途絶させ、寶祚の無窮、万邦無比の國體の尊厳を否定する典範の改正は絶対にあってはならないことであって、最悪の政策として厳しく非難されなければならない。大義を棄ててまでフェミニズムに迎合したいというのが耐え難く不愉快だ。
 我國體の精華を永遠に亙って護持することは、畏くも皇室を本宗と仰ぎ奉る臣民に課せられた責務であります。神聖不可侵の皇位國體、皇朝、日本朝最大の危機に際して、愛国者の一人として傍観しているわけにもいかないのであります。生意気ではあるが、やむにやまれず意見を述べることをどうかお許しください。
 
(なお、私自身は素人である。とくに近世・近代と近世以降の国学についてあまり研究したことがなく、論旨としてはどちらかというと古代・中世史に比重をおいている。自分一人であらゆる論点をカバーできないことは初めに断っておく)

 もちろん現時点で男子皇孫誕生の望みが完全に絶たれたわけではない。朱雀天皇御誕生は、生母醍醐后藤原穏子が39歳であった。村上天皇御誕生時は42歳である。しかし妃殿下が高齢になられるので、後宮制度の再構築も考慮することが望ましい。皇孫誕生の可能性を模索してこれに賭けるということがあってもよいのだ。
 例えば令制後宮職員令にある夫人三員、嬪四員を復活させる。もしくは女御・御休所・御匣殿といった令外の制でもよいが、公式令35~37平出条、太皇太后以下七員の身位のうち平安中期以後途絶えた、皇太夫人という身位を復活し、東宮生母が嫡妻の后妃でなく次妻格以下の夫人もしくは女御等であった場合、所生の親王が即位した時点で皇太夫人に身位を進めることができる制度化を検討してもよいのではないかと思う。むろんこの場合は、嫡妻たる妃殿下の御身位と嫡妻たる権限を毀損することが決してないよう細心の注意をもって制度化しなければならないのは当然のことである。
 しかし、そういう努力もいっさいなく、政府は女帝即位-女系継承という危険な方向へ突っ走ろうとしている。いずれにしても非公式的にせよ女帝容認という政府の方針がさかんに報道されてしまってますから、もう建前で皇孫誕生の可能性などとは言わないで、皇統は既に血統的袋小路に入ってしまったという認識を前提として自分の意見を述べます。
 
 当初ブログの第一回は別のテーマ(セクハラ処罰反対論など)を掲載するつもりで準備していたが、逃げたわけではないが、こちらの方も相当な危機感があり、私自身インターネットに掲載するのは初めて経験で、比較的無難なテーマで精神的負担の軽い、皇室典範問題にさしかえることとした。既に有識者会議が本格的議論に入っているのにかなり出遅れてしまい、論点が錯綜していささか冗長になりすぎた記述になってしまったが、時機を逸すると取り返しがつかないので手遅れになる前に掲載に踏み切ることとした。小出しにするつもりはなかったが、長文になるので何回かに分けて掲載する。

註1)文部省編纂『国体の本義』内閣印刷局 1937
貝塚茂樹監修『戦後道徳教育文献資料集第Ⅰ期 2国体の本義/臣民の道』日本図書セン
ター 2003所収

2.政府案は事実上の易姓禅譲革命是認案で日本国はおしまいだ

 読売新聞2005年1月4日付1面によると、皇室典範改正の政府案とは次のようなものだ。
 男女を問わず皇位継承資格を認めたうえで、現行皇室典範第12条が皇族女子(内親王・女王)は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したとき、皇族の身分を離れると定めているのを廃し、内親王や女王は民間人と結婚した場合でも、当主に予定されないプリンスコンソート(婚入配偶者)を迎えて内親王・女王の身位を保持できるものとし、女性当主の皇室、世襲宮家創立を可能にしようとするもので、女性当主-女系継承を是認する内容になっている。そのうえで継承者の順位は世数限定案、初生子限定案、直宮家永世皇族案のなかから選択していこうというもので、尋常な神経とはとても思えない。異姓簒奪、易姓革命による王朝交替を必然化させる恐ろしく急進的な内容になっている。事実上の易姓禅譲革命是認(註1)であり、万邦無比の國體の尊厳を全面的に否定するもので、最悪の政策と断じる。分別をわきまえた日本人なら到底容認できるはずがない(なお新聞記事はプリンスコンソートという語を用いていないが、見出しにある婿養子は家督相続者・当主予定者として迎えられるのが庶民の家制度の慣行であるから、女性当主案とは矛盾する表現といえるので、わざわざプリンスコンソートと訳している)。
 
 また毎日新聞2005年2月22日付1面によると小泉首相に近い政府筋によれば「皇太子さまの次は愛子さまに行くことになる」という政府の方針が報道されており、女性立太子から即位の実現は既定方針のように報道されている。
 
 私はたとえ皇室の伝統的ルールに則り、元正、孝謙、明正、後桜町天皇のように生涯非婚独身を前提としても女性立太子、唯一の前例は天平十年の阿倍内親王(孝謙)立太子だが特異な例でありこれを前例として踏襲することには絶対反対(その理由は後に詳述)。つまり女帝即位はどのようなケースでも絶対反対(その理由は後に詳述)だが、まず、正月から報道されている政府案とされるものについて反対意見を述べる。

 (1)政府案ではプリンスコンソートが非皇親・非王姓者なら易姓禅譲革命になり日本国は終焉する

  
 冒頭に述べた読売新聞1月4日の伝える政府案では女系継承-非皇親(非王姓)帝嗣(継嗣)の即位の段階が事実上の易姓禅譲革命となる。状況如何では漢魏-魏晋革命以来定型化された禅譲形式の採用により女帝の退位により易姓革命が早まることも想定しうる。則天武后の武周革命は子から母への帝位継承で実現したものだが、政府案では母子帝位継承が易姓禅譲革命を想定できる恐ろしく危険な政策なのである。
 
 女系継承-非皇親(非王姓)帝嗣の即位、このケースの女帝の御子を皇嗣でなく帝嗣もしくはより客観的に継嗣と記しておきたい。皇胤一統、皇統一種、天孫降臨以来連綿と承け継がれてきた「天つ日嗣高御座の業」(「皇位」をあらわす用語として『続日本紀』の宣命などに頻用される。天から受け継いだ、天皇として国を統治する事業の意 註2)。すなわち皇位は男系で神武天皇に繋がる、皇胤・王胤でなければならないから、非皇親、非王姓者を父とする御子は天皇位を継承する正統性、論理性が全くないので、易姓革命の禅譲形式により異姓への継承がありうる中国王権と同次元で帝位継承もしくはたんに非王姓継嗣として表現したいからである。
 もちろん、史料上、学術的にも天皇位を帝位と称している例も少なくないことは知っているが、一般的に中国王権も含めた広い概念でも帝位という語を用いられているのでそう称したい。
 非皇親・非王姓を具体的にどう定義すべきかは詳しく検討しなければならない重大な問題なので後に詳述したいと思いますが、ここでは仮に、皇別氏族で歴史家の精査によっても単系(男系)出自系譜で皇裔とみなされる御血筋を王姓者とみなし、そうではない民間人男子、もしくは外国人男子が、プリンスコンソートとなり、その御子が帝位継承者となった場合を一応、非皇親(非王姓)帝嗣(継嗣)と定義しておく。

 
 女帝の係累で非皇親・非王姓帝嗣(継嗣)となると皇胤、王胤でないから、天孫降臨以来連綿と承け継がれてきた「天つ日嗣高御座の業」すなわち万世一系の皇統譜、皇胤一統、皇統一種、神孫(裔)統治は遂に途絶し、異姓間の帝位継承となり易姓革命が実現し、史上初の王朝交替となる。新帝が男系で歴代天皇に繋がっていないので、非皇親(非王姓)者へ禅譲により新王朝がひらかれるということである。つまり皇室は廃止され、最後の女帝は帝母になるから相当の尊号を称することになろうが、プリンスコンソートは上皇に准じた尊号を称することになり、易姓革命の時点が死後であった場合は、「皇考」に類比されてしかるべき尊号を称することになり。プリンスコンソート氏を帝室とする新王朝が創業されるのである。これは全く新しい王朝であり、万世一系が杜絶すれば、もはや「天つ日嗣高御座の業」とはいえないのです。

(2)「吾朝は皇胤一統なり」

 
 厳然たる男系による皇統譜で自明な事柄ですが、歴代天皇の全てが父系で天皇に繋がっている。歴代天皇の出自系譜は傍系親も含む単系(男系)出自である。皇位国体を否定する女性当主-女系継承は絶対反対である。

 鎌倉末期、明天子の誉れ高く稀に見る学道殊勝の帝であった花園上皇の『誡太子書』(註3)は元弘の変の前年、元徳二年(1330年)二月、花園上皇の猶子で甥の皇太子量仁親王(光厳)に参らせたもので雄渾華麗、堂々たる大文章とされている。

「‥‥所以に秦政強しと雖も、漢にあわされ、隋煬盛なりと雖も、唐に滅ぼさるゝなり。而るに諂諛の愚人以為へらく、吾朝は皇胤一統し、彼の外国の徳を以て鼎を遷し、勢に依りて鹿を逐ふに同じからず。故に徳微なりと雖も、隣国窺覦の危無く、政乱ると雖も、異姓簒奪の恐無し、是れ其の宗廟社稷の助け余国に卓礫する者なり。(以下略)」

 大略して要旨は日本においては外国のように禅譲放伐の例はなく、異姓簒奪はないという観念(それは諂諛の愚人にしても常識的な観念であるが)に安住することなく君徳涵養の必要を皇太子に説いたものだが、鎌倉末期、皇統が幾重にも分裂し未曾有の危機であったが、花園上皇は易姓革命の恐れなし、つまり皇位国体は安泰なること自明との仰せであります。それはなぜか余裕があれば論述したいと思いますが、とにかく「吾朝は皇胤一統なり」であります。
 
 皇胤一統が破られれば、異姓簒奪-易姓革命となります。そういうことは絶対ありえないというのが全く日本における常識的観念であるということです。もっとも南北朝動乱は王権にとってかなり危機的な時代であって、南北朝合一直前に朝廷は武家政権に世俗権を事実上接収されるところまでいくが、それでも王権が簒奪されることはなかった。易姓革命の恐れなしという観念は間違いではなかったのである。
 ところが今日において、絶対ありえないと考えられていた、万世一系の皇位、皇胤一統を崩壊させる女系継承案、つまり易姓革命を肯定する恐ろしい反国体思想が急浮上している。つまり今、本朝の安否にかかわる史上最大の危機に直面していることになる。それだけに事態は極めて深刻だと認識せざるをえない。
 
 われわれは易姓革命は絶対ありえないという国制イデオロギーのもとに日本人としてのアイデンティティ-を形成してきた。それが否定されたときの日本人をやめなければならないという衝撃ははかりしれなく大きい。というよりも万世一系国制イデオロギーは我が国の特殊性と優越性を説明するものである。それが否定されるならば我が国の終焉にほかならないのであります。神聖不可侵の皇朝を否定し終焉させようとする、女性当主・女系宮家・女帝立太子・易姓禅譲革命容認の皇室典範改正など絶対にあってはならないことであります。
 
 清和天皇が貞観十一年(869年)の新羅賊船が博多湾に侵入し豊前国年貢船を襲撃した事件などを「隣国兵革の事」の予兆と捉え、筑前国宗像大神にささげた宣命(『日本三代実録』貞観十二年二月十五日条)には
「然我日本朝は、所謂神明之国なり。神明の助護り賜ば何の兵寇か可近来き。亦我皇太神は、掛も畏き大帯日姫(神功皇后)の彼新羅人降伏賜時に、相共に加力賜て、我朝を救賜ひ守賜なり。(中略)天皇朝廷を宝位无動、常磐堅磐に夜守昼守に、護幸へ矜奉給へと、恐み恐みも申し賜はくと申。」註4
 「我日本朝はいわゆる神明の国なり」神聖不可侵の日本朝が遂に、政府の狂気に等しい、反国体・易姓革命容認政策により崩壊する。そんなばかなことは絶対あってはならないのであります。だから死んでも反対だ。
 
 国体論が登場するのは江戸期の水戸学や国学であるかもしれないが、万世一系国家思想それ自体は古いものです。七世紀の推古女帝の時代からみられる、とりわけ九世紀のナショナリズム高揚期の王権賛歌にみられることは保立道久註5がしきりに強調されていることで「定型化された万世一系イデオロギーは、唐・新羅王朝の転覆を目前にしながら王朝の血統を維持した支配層の国際意識を反映した国制イデオロギー」とされ事柄の性質上「その中世まで続く形態の成立は八世紀後半以降」でとされている(註6)。
 但し、万世一系という語それ自体は古くない。河内祥輔註7によれば明治二年(1869)の岩倉具視の国事意見書に「万世一系の天子」とあり、明治五年の詔に「万世一系の帝祚を紹ぎ」とあり、明治九年の『日本国憲按』(元老院草案)には日本帝国は万世一系の皇統を以て之を治む」とあり、また大日本国憲法の『上諭』に「朕(略)万世一系の帝位を祚み」とあり、明治以後にも用いられたとするが、しかしながら、それは江戸時代にも常識的な観念であったとされる。国体の自覚にもとづく万世一系思想は江戸時代以後という見解のようである。
 又、河内祥輔は幕末から明治初期に日本史教科書でよく読まれたものが文政九年(1826)初版の岩垣松苗の『国史略』と青山延于の『皇朝史略』であったが、『国史略』の一節に「世を歴て天皇は正統一統なり。万世に亘って革まらず」を引いたうえで(文意は「皇位継承は正しく一筋に連続してきた。日本には中国のような易姓革命はない」)、この一節が「万世一系」の原型である可能性を示唆されている。
 私は素人なので『国史略』は読んでいないが京都で出版され北朝を歴代としており、ここでいう正統というのは正閏論ではなく、単純な意味で異姓簒奪のない単系出自系譜の正統一系という意味とすれば、そうすると万世一系とは異姓簒奪のない正統性で、要するに易姓革命のない王朝という思想である。
 渡辺治註8によると、明治憲法第一条は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と規定し、天皇支配の正統性が国体論に沿って規定された。ここで規定されたのは、日本の国家は中国における王朝交替の型である「尭舜の禅譲、湯武の放伐」のいずれでもなく、またヨーロッパの国家とも異なり「一系の皇統と相依て終始し古今永遠に亙り一ありて二なく常ありて変なきこと」(伊藤博文『憲法義解』)であった。と説明されているように、まぎれもなく万世一系国制イデオロギーと反易姓革命そのものであるといってさしつかえないのであります。

 反易姓革命思想という観点では保立道久が言及している、奈良時代の光仁朝、宝暦十年(779年)五月の唐使と天皇の応接儀礼に関連する議論が重要だと思う(註9)。このとき当代一流の文人貴族でもある、中納言石上宅嗣の主張により「彼は大、此は小なり、すべからく藩国の儀を用うべし」とされ、天皇が御座を降りて信書を受け取る形式をとった。外交形式いかんによっては敵対国と受け取られる懸念がありますから、石上宅嗣の判断は穏やかで無難なものとは思うが、ある貴族は次のように批判した。

中華帝国は「民をもって国を簒い、臣をもって君を弑す」という悪しき伝統を持つ国であって、師範とするに足りない。それに対して日本の国柄は「我皇朝、(中略)天地人民有りてより以来、君臣上下、一定して渝らず、子孫、承襲ね、万世絶えず、天命永固、民意君を知り、淳化惇風、久しくもって俗となる。維城盤石、揺がず、動かず、寧ぞ、彼の漢の逆乱の風を学ぶものか」いう議論が展開された。

 これは易姓禅譲革命により王朝交替を繰り返した中国に対し儒教的論理により日本の優位性を主張するもので、決定的な国制イデオロギーとして評価したいと思う。要するに異姓簒奪否定が万世一系国制イデオロギーであることは明白であります。
 
 同様の国家思想として保立道久(註10)が取り上げている『続日本後紀』嘉祥二年(849年)三月二六日条
 仁明天皇の四十の御賀で献上された興福寺の僧の長歌。

「日の本の 野馬臺の国を かみろぎの 少那彦名が 葦管を 殖ゑ生しつゝ 国固め 造りけむより  (中略) 御世御世に相承襲て 皇ごとに現人神と成り給いませば 四方の国 隣の皇は百嗣に継ぐというとも 何にてか等しくあらむ (中略) 帝の御世 万代に重ね飾りて 栄えさせたてまつらむ  (中略)  日の本の 倭の国は 言玉の 幸ふ国とぞ 古語に流れ来たれる 神語に流れ来たれる」

 隣の王は百嗣であるというのは天命をうけた王朝は百代にわたって続くという東アジアの思想に対し、日本天皇は現人神であり万代も続くという。これも外国に対する優越性を述べている。これぞまさしく反易姓革命万世一系国制イデオロギーであります。

 ということで古代からの万世一系思想も、近世近代の万世一系思想も反易姓革命イデオロギーであり同じことです。

 あたりまえなことですが、万世一系の皇位とは皇胤一統、皇嗣は必ず男系継承でなければならない。
 つまり歴代天皇の全てが父系で天皇に繋がっているということです。これは厳然たる男系による皇統譜で自明な事柄です。
 私は素人なので人類学的に厳密に定義することはできませんが、皇位継承の規則性は、徹底した父系規則であり、傍系親も含めた単系(父系)出自系譜、しかもその血縁関係は「皇胤一統」というように生理学的に貫徹し、双系親や姻族をイデオロギー的に擬制することは徹底的に排除され、皇位継承候補たりうるのは単系(父系)出自ということになるのではないかと思います。だたし中国の宗法制度のような外婚制や昭穆制をともなわない。宗法制度とちがって未婚女子も父系血縁親族の帰属性を有する。
 とはいえ人類学の出自理論というのはアフリカ部族社会の民族誌から分析されたもので、人類学者によって解釈が仕方がかなり異なる。我が国においても蒲生正男-中根千枝論争があったが、蒲生説、中根説いずれも批判的見解があり(註11)、私は素人なので「リネージ」のような人類学用語を用いることについては慎重にしたいが、同一祖先の分枝という脈絡で俗説的に使いたいと思う。また「系」とか「出自系譜」という語は用いたい。客観的に官文娜(註1)が語の説明をしているので引用すると、「系」とは上・下を統合して系統的な集合をなすことであり、派系、語系、水系などの使い方があり、祖先から一定の規則によって血筋を受け継ぎ子孫に伝達する人々の集合を「世系」という。「系譜」とは規則的、系統的に有形、無形のものを配列して記すことだが、「出自系譜」の「出自」とは本来論語に由来するが、日本の社会科学では人類学のdescentに相当するものとされ、中国では「継嗣」「世系」のことであるという。「出自系譜」は祖先より一定の規則によって血筋を受け継ぎ子孫に伝達する人々の集団成員権をさす。
 東洋法制史研究者の滋賀秀三(註13)によると、中国では共通祖先から分かれ出た男系血統の枝々のすべて総括して一つの宗という。つまり女系を排除した親族概念を宗という。ローマ法のアグナチオに類比さるべき概念としているが、皇祖皇宗と云う場合の皇宗は単系(父系)出自系譜であることは自明の事柄であると私は思う。
 内親王が臣下に降嫁することは継嗣令王娶親王条により明確に違法ですが平安時代後半期には勅許による違法婚の例が少なからずある。甚だ令意に反していますが、例えば、醍醐皇女康子内親王が藤原師輔に降嫁した。その御子が太政大臣藤原公季、公季を祖とする閑院流藤原氏は清華家として村上源氏とともに摂関家に次ぐ上流貴族となりますが、閑院流藤原氏は康子内親王の父醍醐天皇に繋がってもそれは女系だから、単系出自の皇統の概念には含まれず、あくまでも藤原氏です。要するに醍醐の外孫である藤原公季のようなケースは太政大臣になれても即位は絶対にない。そういう明確な規則性が単系(父系)出自系譜である。報道されている政府案は藤原公季のようなケースでも即位させて、皇胤一統を破ってしまえという無茶苦茶な政策なんですね。だから絶対許せない。

(3)日本的家制度との類比問題

 
 このように皇位継承の規則性は一貫して明白なのですが、皇位継承のルールと、一般的な姓氏や氏族の問題は明確に区別して議論すべきで混同することを避けたい。宇根俊範(註14)の指摘するように九世紀以後の「氏族」の性格は甚だ曖昧であり、奈良貴族と平安貴族はストレートに直結しない。「氏族」の特性のひとつとされる「同一の祖先から出た」ということが九世紀以後の新氏族にはあてはまらないからである。

 いうまでもなく我が国は大化元年の「男女の法」が「良民の男女に生まれた子は父に配ける」と定め父系規則であり。律令国家の族姓秩序は父系相承規則である(なお「氏」というのは厳密にいうと「氏族」という広義の概念のなかでも天武八姓の忌寸以上のカバネを有し、五位以上の官人を出す資格と、氏女を貢上する資格を有する範囲をいうのであって、臣・連・造等の卑姓氏族を含まない)。
 しかしながら、九世紀以降の改賜姓の在り方、十世紀以降、天皇の改賜姓権能が有名無実化していくと、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために「氏族」が父系出自のリネージとは言い難いケースが少なくないのである。宇根は改賜姓の具体的事例を列挙しているが、ここでは局務家についてのみ引用する。院政期以後になると史官や外記局などの実務官人は「官職請負」的な、ほぼ特定の氏によって担われることになるが、局務(太政官外記局を統括する大外記)中原朝臣・清原真人がそうである。

 宇根によると「局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる清原真人と直接系譜的につながるものではなく、その前身は海宿祢で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿祢広澄が清原真人姓に改姓したものである。」「中原朝臣も、その前身は大和国十市郡に本貫ををもつ十市氏であり、天慶年間に少外記有象が宿祢姓を賜与され、更に天禄二年(971)にウジ名を中原に改め、天延二年(974)に至って中原朝臣となったものである。これも推測を加えるならば『三代実録』にみえる助教中原朝臣月雄らの系譜にむすびつけたものかも知れない。」(註15)とされている。
 局務家清原真人と、舎人親王裔の皇別氏族(王氏)で崇文の治の大立者右大臣清原真人夏野や、夏野とは別系だが、やはり舎人親王裔である清少納言の父清原元輔の清原氏とは系譜で繋がらないということである。同姓氏であるが同一の祖先でないから父系出自集団のリネージとみなすわけにはいかない。これと同様の例は少なくないのであるから、九世紀以後の氏族の性格は曖昧なものであった。

 関連して実務官人では11世紀には諸道博士の家で非血縁養子が指摘されている。曽根良成によると史や外記などの実務官人の姓は、11世紀中葉を境とした時期に三善・中原・清原などの姓が、増加する。これらは、それらの一族が血縁者を飛躍的に拡大させた結果ではなく官司請負制のもとで請負の主体となった博士家の姓を名のった官人が増加したための現象だった。その実態は11世紀中葉までと同じく地方豪族出身の有能な官人だった。‥‥これは養子形式の門弟になることによって居姓の改姓を制限した延喜五年宣旨の空文化を図るものだった。〔違法であるが〕政府は暗黙のうちにこれを認めることにより、官司請負に必要な有能な実務官人を安定的に地方から補給できた」(註16)とする。
 
 ここで日本的家の女系継承や非血縁養子の歴史的由来と異姓養子厳禁父系規則の貫徹する宗法・儒教文化とくに韓国の門中などとの比較文化論をやると、それだけでかなり長文になってしまうので、ここでは深入りしないこととしますが、さしあたり明石一紀(註17)の論説を引用しておく。
 鎌倉幕府法は男子がいない場合、嫡子として兄弟の子をはじめ「一族並二傍輩」の男子を養子とするのが一般的であった。原則は同姓養子であるが、他人養子といって非血縁の傍輩を養子とする(異姓養子)や女人養子といって女性が養子を取って継がせることは禁止していなかった。のみならず、平安末期から女系の妹の子(甥)や女子の子(外孫)を跡取り養子とする方法が多くとられるようになったという。明石が列挙されている事例は中原広季は外孫藤原親能を、大友経家は外孫藤原能直を、宇都宮朝定は外孫三浦朝行を、得川頼有は外孫岩松政経を、大屋秀忠は外孫和田秀宗をそれぞれ養子とし跡を継がしめている。これを明石一紀は婿養子への過渡的な養子制とみなしている。
 中央の貴族社会で限嗣単独相続となったのは、室町時代以後だから、限嗣単独相続の日本的家制度の成立は室町から戦国時代以後となるが、非血縁継承や女系継承のある原型は院政期以前に遡ると私は考える。
 また、婚入配偶者たる嫁が亡者の遺跡を相続し、家連続者(後述)となり新たに婿を迎えて血筋が中切れでも家産が継承される事例の原型と思える歴史的事例として、室町幕府管領家畠山氏である。もとは桓武平氏、秩父氏の一族で武蔵国男衾郡畠山荘の荘司となって畠山氏を称し、畠山重忠は源頼朝の有力御家人となり、戦功多く鎌倉武士の鑑と称揚されたが、元久二年(1205)六月畠山重忠の子息重保が、北条時政の後妻牧の方の女婿で時政が将軍に擁立しようとした平賀朝雅(信濃源氏)と争ったため、北条時政夫妻に叛意を疑われ武蔵二俣川で追討軍に滅ぼされた後、後家(北条時政女)に遺跡を継がせて、足利義兼の長子義純を婿として子孫に畠山を名乗らせている。
 明石一紀(註18)は、秩父一門の平姓系図の畠山氏と、足利一門・管領家の源姓系図の畠山氏は全く別の存在で、義純は重忠を先祖とは認めていないので源氏畠山家を新しく興したという解釈を示している。それはそうだろうが、名字(家名といってもよい)と家産を継承しているのである。私は畠山氏は平姓から源姓に血筋が切り替わったという見方をとってさしつかえないと思う。
 要するに平姓畠山氏は婚入配偶者で後家の北条時政女が足利義純を娶ったため、平姓から源姓に切り替わる非血縁継承となったのである。家の非血縁継承の重要な先例だと思う。
 
 くだくだいわずに単純にいってしまえばこういうことです。宮地正人(註19)が近世朝廷と諸職の関係の重要性について論じている。例えば朝廷最高の医官は典薬頭の官職をもった半井家・今大路家であるが、両家を頂点として、医師たちは法印・法眼・法橋という位階を朝廷からもらうことによってピラミッド型に組織され、絵師も同様に御用絵師土佐・狩野両家を頂点とする構造があった。全国の暦道、天文道、陰陽道を職とする人間はすべて土御門家の支配下にあった。盲人の社会的存在は厳しい階層制があったが、座頭から検校にあがるのに七一九両の「官金」を用するところの久我家を本所とする官職補任システムがあった。また、全国ほとんどの鋳物師は禁裏蔵人所真継家の支配をうけていた。それだけではない。ありとあらゆる職人が受領・位階を朝廷からうけることによって社会的プレステ-ジを獲得していたのある。官職授与は武家や神職のみならず、職人などにも授与されていたのである。そういう朝廷の権能と朝廷によって社会的プレステ-ジが附与される意義というのは無視してよいほど小さなものではなかったと思う。
 
「禁裏番衆所之記」寛永十九年条には次の職人受領のことがのっている。

二・四 瓦師藤原紹真任摂津掾、同藤原真清任河内大掾

二・九 香具屋藤原芳隆任河内目

二・二六 筆結藤原方富任若狭目

三・六 大工藤原宗政任播磨大掾、同藤原友庸任越前大掾、檜大工壬生盛政任近江大掾、各叙正七位下

五・二八 油煙師藤原貞鎮任豊後掾、上卿三条大納言 奉行綏光朝臣(以下略)(註20
 
 上記の例では八名のうち七名が本姓藤原氏とされていることに着目したい。井戸田博史(註21)によると明治四年十月十二日一切公用文書に姓を除き苗字を用いるとの太政官布告により、苗字(公家の場合は近衛・九条等の称号)に一元化された。つまり藤原朝臣実美ではなく三条実実、越智宿祢博文ではなく伊藤博文と書くべきだと命じたのであるから、今日においては源平藤橘等の古代的姓氏は用いることはできないが、近世においては本姓(古代的姓氏)と苗字の二元システムだった。戦国時代から近世においても源平藤橘等の天皇の賜与認定による古代的姓氏は国家的礼的秩序に編成されており、当然現実的意味を有していた。
 大藤修(註22)によると官位を天皇から賜わるには朝臣として由緒のある特定の尊貴な姓氏を持っていることが前提条件であるが、武家領主たちは、自らの系譜を由緒づけ、京都の権門勢家に画策して官位を得んと努めた。例えば家康は、三河の一土豪にすぎない松平氏を由緒づけるために、清和源氏の嫡流である上野国新田氏の支族得川氏の系図を借り受け、「徳川」に改姓し、それを前提にして、誓願寺の慶岳、吉田兼右、近衛前久らの仲介により「従五位下三河守源家康」宣下を得た。寛永一八年『寛永諸家系図伝』は大名・旗本の系譜集だが、武家の姓氏の秩序を徳川氏中心に再編成することを意図していた。近世は姓氏の二元システムになっていて、朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土屋藩主の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」但し官職が侍従であったときのみ居城+官職「土浦侍従」になる(註23)。要するに天皇との君臣関係は公式的には苗字(名字)ではなく古代的姓氏(本姓)であった。
 武家や神職のみならず、職人にも官職が授与されていたから、職人も本姓を認定されていたのである。職人受領は藤原氏が多いのであるが、推薦者が藤原氏だから藤氏になるのだろうか。系譜関係が不明である。これは近世の事例であるが、このように「氏族」の性格はかなり曖昧なところがあると認識でき、異分子を包含する広い概念にもなりうる点で融通無碍なところがあったのである
 しかし万世一系の皇位は、そうした氏族の概念とは性格が違うんです。醍醐天皇の外孫である藤原為光や公季のようなケースで皇位を継承することは絶対ありえない。外孫養子や女系継承、非血縁継承といういうことは絶対ないし、そのようなことがあったら易姓革命で日本国終焉だ。王権と日本的家制度では全く次元が違うんです。この点の分別はきちんとしてもらいたい。

 つまり家名・家業・家職・家産の非血縁継承、女系継承のありうる我々庶民の家制度とは性格が異なりますから、全く次元の異なる事柄として明確に区別して議論したい。しかし仮に日本的家制度を類比して議論するとしても女性当主、女系継承という結論を導き出すことは次の理由でできません。
 

 日本的家制度においては、女性当主というのはありえません。入婿というのはあくまでも家督相続者、つまり家長予定者となる婚入配偶者なのであって、たんなる子づくりと労働力のための入夫ではないんです。
 もし婿が、家長(予定者)として迎えられないということは、日本の家族慣行に反するもので男子の尊厳を著しく毀損するもので、醇風美俗・社会規範が崩壊する。もちろん皇室と日本的家制度は全く別の次元ですが、明治以降の皇室は婚姻家族モデルにもなっている経緯があるため、皇室の女性当主とプリンスコンソートを認めてしまうと、まさに庶民の家族規範まで崩壊する危機になりかねない。もちろん皇室においても、女帝は先帝皇后、先帝生母、生涯非婚内親王に限られ、皇親内婚の男帝優先原則(第5章(5)〔6〕参照、後日掲載予定)は明白なことで、たとえ皇后が皇女であっても、御配偶の傍系皇親が在世されているかぎり、女帝として即位することは絶対になく、夫が当主であることは、日本的家制度と同じことである。私は万世一系、国体護持、反易姓革命だけでなく、皇室の男帝優先原理という伝統にも反するという観点から女性当主-女系継承に反対ですが、それだけでなく、そもそも女性当主が一般庶民の婚姻家族規範を崩壊させる悪しき例となることを警戒しているゆえ、女帝-女系継承に反対します。
 

 婿は家長(予定者)の地位であると人類学的に明確に定義されている。厳密な理論構成で定評のある清水昭俊(註24)が明確に、実子であれ入婿(婿養子)であれ夫が家長で、妻が主婦であるということを理論化しているので明白であります(註。入婿はあくまでも家長(予定者)として婚入する。入婿が肩身が狭いというのは心理的側面を表現しているだけであって、あくまでも婿が家督相続者。もちろん後家が長男が成人するまでの間、家長代行者として家業を指揮することはありますが、それは中継に代わる在り方です。あくまでも夫が家長でなければならない。それが否定されることは男子の尊厳を否定することになるから絶対的に容認できない。そこまで男子が卑屈になることはない、死んでも容認できません。この一線は譲れない。
 
 
 標準的な村落の日本的家制度の家成員交替過程の規則性については、清水昭俊(註25)が出雲地方の調査のうえ、現地の慣行を詳細に分析して厳密な定義を行っており、庶民の一般的な慣行を示していると思うので引用する。
 清水昭俊は家成員を実子、養子、婚入者(婿・嫁)、家成員からの排除を、婚出、養出、分家設立と定義したうえ、家の時間的連続は次代の家長(夫)と主婦(妻)を確保することによって保証されるとする。
 但し、次の二点で清水は特徴的な見解を示す。第一に「婿養子」という用語は法律用語、民俗用語としてはともかく、学的用語としては不適切とする。「嫁養子」という言葉はないから、たんに「婿」でよいのだという。なぜならば、「婿養子」はたんなる配偶者、養子ではなく、「家督相続」と学的に認識されており、婿とは家長(予定者)、嫁とは主婦(予定者)の地位である、という説明が要領をえており理屈のうえでは清水の見解に従うが、日本的家制度の歴史的成立過程については別途述べたいと思いますが、婿養子は、外孫の養取による女系継承に類比することもできるから、婿養子という言葉を用いないというわけにはいかない。
 第二に婚姻に先立って家成員である者を「家連続者」という概念を提示し、家督相続予定者の概念と区別している点。つまり通常は長男が「家連続者」であり家督相続者でもあるが、男子のないとき又は死亡したときは長女が「家連続者」になって婚入配偶者(婿)を迎える、この場合婿が家督相続者、長女が主婦となる。
 最下世代の夫が結婚後死亡し実子がなく寡婦が結婚可能な年齢である場合、生家に帰されることもあるが、家内に亡夫の弟がいれば、寡婦となった嫁が亡夫の弟に再嫁するレヴィレート婚(逆縁婚)が選択されるが、弟がいない場合には「家連続者」となってあらたに家外から婚入配偶者(婿)を迎えることもある。婚入配偶者の嫁も家成員であるから「家連続者」たりうるのである。このケースは血筋は中切れになる(先に述べた畠山氏のケースがこの原型だと思う)。清水の理論は家成員の実子、養子、婚入配偶者は全て、婚入配偶者を迎えて家連続者たりうるということで明快であり、それがまさに日本的家制度の特徴といってもよい。優れた概念提示であると思う。
 さらに出雲地方の現地調査から家連続者には優先順の規範性があることを示している。アンシャンレジーム時代のフランスのパリ-オルレアン地域が父母権が強く選定相続の慣習であったことが知られているが(註26)、日本の家は違う。慣習上の規範性がある。
1-最下世代夫婦の長男、2-同夫婦の長男に次ぐ長男子、3-同夫婦の長女子(婿が家督相続者となる)、4-同夫婦内の家連続者の弟、5-同じく妹(婿が家督相続者となる)、6-家外に求めた養子 
 この出雲地方の事例はたぶん庶民的な家の標準的な在り方を示しているとみなしてよいだろう。つまり第一の規則は父系継承、第二の規則は双系的継承、第三の規則は事実上非血縁継承。もっとも家格の上の家ほど血筋の中切れを嫌う。中切れによって家格の下降をもたらす要因と認識されているという(註27)。

*補遺なお、清水説(註11)論文の批判として、村武精一 研究展望「一系と双系」『民族学研究』50巻2号1985は、〈氏〉の継承は第二次世界大戦から現在にいたるまで、ほぼ99%の男系的継承率だといわれ、日本の家を特徴づけているものは、家の継承が父系的に維持しようとするその一系性にあるとされ、双系出自概念を疑問とされている。しかし、日本的家制度の一系性的性質を強調することは、純粋な父系規則を貫徹する韓国の門中・両班姓族との区別がしにくくなるので、私は反対である。

 

 これは血統として生理学的に貫徹する単系出自系譜の王権継承のルールと全然違うものである。人類学的にも王権の継承と日本的家制度とは明確に異なるものとして定義できる。たんに家業・家職の小さな経営体にすぎない家継承のルールとは全く次元が異なるんです。それと同列に論じるな。仮に類比して論じるとしても、日本的家制度というのは実子であれ婿養子であれ非血縁養子であれ夫が家長であることは自明ですから、プリンスコンソートというのはありえないのであって伝統にも反するし、庶民の家族慣行にも反する異常な在り方だから到底容認できるわけがない。断乎として夫が当主でなければならないです。
 繰り返し述べます。私が、女性当主-女系継承に反対するのは、皇室の伝統に反する、たんに皇位国体の安泰ということだけではありません。もちろん、万世一系の皇位国体の安泰は至上命題であり、それだけの理由でも十分ですが、加えて、我々一般庶民の家族規範を崩壊させるという意味があります。家長予定者・家督相続者として迎えられるからこそ入婿なのであって、そうでなければ婿養子も難しくなります。日本的家制度も瓦解してしまいますよ。社会秩序・規範の危機であります。それゆえに女性当主に強硬に反対なのであります。

なお、2005年1月4日の読売新聞の見出しが「女性天皇前提に皇位継承3案」「政府検討婿養子容認」となってますが、婿養子が家督相続者であるは、既に述べたとおりであるからねこの見出しには論理性がないということになる

(4)易姓革命なら国号を改める必然性(我が国は中国の国家概念を継受している)

 日本国号の由来や歴史的経過からみて、我が国も中国における国家をもって一姓の業とする概念を継受しているのこれから述べる理由から確実である。従って易姓革命(王者は姓を易へて命を受く-史記巻二六歴書-私なりに「第4章万世一系の皇位とは反易姓革命イデオロギーである」で説明するつもりだったが、前倒して大筋はここで述べておくこととする)となれば国号を改めなければならない。即ち日本国、日本朝の終焉であります。要するに事実上報道されている政府案というのは日本国号を棄て去るという恐るべき重大な決断を示したものである。
 もっとも我が国は宗法制度は継受していない。同姓不娶という鉄則が受容されていないその一点だけでも明白であり、徳川幕府は朱子学を官学としたが宗教政策は寺請制度であったから、一般的に我が国の広い社会階層において祖先祭祀は仏教の祖先供養であり、位牌のように部分的に儒教的要素が取り入れられているだけである。高麗は元を宗主国として、宗法制度が移入され、李氏朝鮮が朱子学を国策とし、儒者による仏教排撃運動(高麗末期)があり、儒教による祖先祭祀が普及した朝鮮とは文化が異なっている。(儒教規範では祭り祭られる、生理的血縁関係の規範が明確なので韓国での門中は徹底した父系規則になった)。そういう歴史的経過から日本の同族が宗法制度的に再編されることはなかったのである。もっとも明治民法制定頃まで士族は筋目尊重主義として異姓養子を忌避する考え方もあったわけだが、明治民法は起草者の梅謙次郎の主張により儒教規範に反する逆縁婚を是認するなど庶民の家族慣行を重視したものとなったため、日本的家制度においては女系継承や非血縁継承がありうるので、父系規則は徹底していない。しかしながら我が国の国家概念は中国の国家概念を継受しているので、一般庶民の親族構造とは無関係に、女系継承のありえない中国の王権と同じく、王権が父系規則で徹底しているのは当然のことなのである。父系出自規則が破られれば、いかなるケースでも易姓革命といえます。
 
 滋賀秀三(註28)によると「通志氏族序に「天子諸侯建国、故以国為氏、虞・夏・商・周・魯・衛・斉・宋之類是也」というように、上代の王朝や国の名は、実は王や諸侯の氏の名にほかならない。氏とは別に国号が生じたのは、劉邦が天下をとって国号を漢と称したことに始まる。」と述べている。

 しかし、漢代以後も国号は氏(姓)概念そのものである。尾形勇(註29)は斉から梁への易姓禅譲革命において王朝交替後の武帝の告天文(梁書巻二武帝記天監元年四月丙寅条)「斉氏、暦運既に既き、否終すれば亨なるを以て、天応を欽若して以て(蕭)衍に命ず。‥‥天命は常にはあらず。帝王は一族のみには非ず。唐は謝し虞は受け、漢は替り魏は升り、ここに晋・宋に及び、憲章は昔に在り」を引いて、この条文においては「易姓」は「斉氏」から「梁氏」の形式にて述べられているとされ、又、漢魏易姓禅譲革命について論じ、「魏」という王朝名ないしは国号もひとつの「姓」であったのであり、漢から魏への交替は「劉氏」から「曹氏」への「易姓」であるのと同時に、「漢氏」から「魏氏」への「易姓」でもあったのされるのである。
 また「禅代衆事」の十月乙卯条に見える尚書令垣階等の奏言の中に「漢氏、天子の位を以て之を陛下に禅り、陛下、聖明の徳、暦数の序を以て漢の禅を承く。まさに天心たるべし」と見えることを論拠として、漢魏易姓禅譲革命の構造は、まず「皇帝位」が「劉氏」の献帝から「曹氏」の曹丕へと「冊」を媒介して禅位され、次に「天子位」が「天命」の移行を前提として「漢氏(漢家)」から「魏氏(魏家)」へと譲位するものだとされる。
漢魏革命を前例として、中国では宋代まで少なくとも14回の、禅譲革命の繰り返しになるが、国家概念は基本的にそういうものであったし、この国家概念は我が国にも継受されているのは当然のことだろう。

 また井上順理(註30)によると「中国では古来国家をもって一姓の業とし、王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義であったから、王姓の変更はそのまま王朝の交代を意味した。」これがもっとも簡潔でわかりやすい説明である。

 厳密にいうと姓と氏では概念は異なること、先秦時代に存在した晋・魏・宋・唐などと後代の王朝はどう違うかという細かい問題に深入りしないが、要するに、漢は劉氏(姓)、魏は曹氏、晋は司馬氏、隋は楊氏、唐は李氏、宋は趙氏、明は朱氏、清は愛新覚羅氏の王朝である。日本も女系継承-異姓簒奪なら日本国は終焉して、事実上の易姓禅譲革命で国号を改めざるをえなくなります。全く必然であります。政府案は日本国号を棄て去りたい、皇位国体を潰したいという、極左暴力集団より過激な最悪の反日政策というほかないのであります。今からでも遅くない、だから政府は女性当主、女系継承案を撤回するべきである。

 高麗から李氏朝鮮も易姓革命である。李朝の太祖李成桂は咸鏡南道の土豪の出身で女真と倭寇との戦いで頭角をあらわし、首都開城を占領、軍事力をもって王の廃立を繰り返したが、1392年恭順王を廃して自ら王位に即いた(註31)。であるから異姓間の王権継承なら国号を改めるのが筋目であります。
 
 もっとも天皇は姓をもたない。日本は中国王権に冊封されていないので君主が姓を冠称する必要が全くないからだと思う。姓を賜与・認定する主体であり、改賜姓は天皇大権であった。しかし官文娜によると(註32)中国の「姓」概念は、もともと内在的で観察できない血縁関係を外在化し、ある父系血縁親族集団と他の父系血縁親族集団を区別するものである。我が国の姓概念も歴史的過程で変質しているとはいえ、中国の姓概念を基本的には継受しているのだから、父系出自系譜の皇統譜にある集団成員、皇親という概念も「姓」とほぼ同義ともみなしてよいと思う。実際、「非王姓」とする語が日本書紀天武八年正月詔「非王姓」母の拝礼禁止に見えますから(註33)、天皇に姓はなくても、天皇の親族である皇親に姓概念をあてはめて理解してよいのである。
 なお、『宋史』四九一にある十世紀末に入宋した奝然の記録であるが、奝然は職員令と「王年代記」持参し、日本の国柄を「東の奥州、黄金を産し、西の別島、白銀を出し、もって貢賦をなす。国王、王をもって姓となし、伝襲して今の国王に至ること六四世」として「記」を提示した。奝然を召見した宋の太宗は「其の国王、一姓伝継、臣下みな世官」と聞いて嘆息したというが、「国王、王をもって姓となし」「一姓伝継」という国制意識をみてとることができる(註34)。従って継嗣が男系出自にあたらない、非王姓であれば、それは易姓革命である。
 
 さらに、日本国号の由来からみても、中国の国家概念を継受していることは確実である。その理由については、補説1「日本国号の由来からみても易姓革命なら日本国は終焉する」を掲載する予定だったが、前倒しして大筋についてはここで述べておきたい。
 吉田孝(註35)が「倭」を「日本」を改めても、やまと言葉では「倭」「日本」はいずれも「やまと」と訓まれ、日本の内実は「やまと」だったと述べているが、これは通説である。網野善彦も「日本」を「ひのもと」と訓む可能性を否定ないが、「にほん」「にっぽん」という音読は平安朝になってからだとしている(36)。諸説がかなり異なっているのが、日本国号の成立時期と由来と意味である。なぜ、「やまと」が「日本」という国号になるのかということです。たんなる当て字かそれともなんらかの意味が備わっているのかといったことです。この論点については補説をみていただくこととして、次の説は基本的に正しいと思う。

(中国王権と同じパターンの王朝名の由来)

 岩橋小弥太は、大和一国の別名が全国の総(惣)名となったことは間違いないとする。この説は基本的に正しいと思う。その論拠として『釈日本紀』の開題にある次の問答である(37)。

問ふ、本国の号何ぞ大和国に取りて国号と為すや、説に云はく、磐余彦天皇天下を定めて、大和国に至りて王業始めて成る、仍りて王業を為す地をもって国号と為す。譬へば猶ほ周の成王成周に於いて王業を定む、仍りて国を周と号す。
問ふ、和国の始祖筑紫に天降る、何に因りて偏に倭国に取りて国号と為すや、説に云はく、周の后稷はタイに封じられ、公劉ヒンに居り、王業萌すと雖ども、武王に至りて周に居り、始めて王業を定む、仍りて周を取り号と為す、本朝の事も亦た其れ此くの如し
 
 他ならぬ大和国を取って国の名ととしたのは、何故かというと、神武天皇が大和国で王業を成就したからである。天皇の始祖は筑紫に降ったのに、その地の名をとらず、「倭国」を取って国号としたのは、周の王朝に関して、その祖先たちの拠った地でなく、武王が王業が定めた地である周をもって国号としたのと同じである。
 
 平安時代に朝廷の主催する日本書紀の購読が行われていたが、上記は『釈日本紀』に引く「延喜開第記」つまり延喜四年(904年)八月に開講された日本紀講書の説である(38)。『釈日本紀』は鎌倉時代の卜部兼方の日本書紀研究書であるが、引用されているのは10世紀初期の見解、博士は藤原春海。
 
 この説は、忌部正通、一条兼良、日本書記の注疏家に多く継承され、近世の学者も追随しており、有力な説とみてよい。「本朝の事も亦た其れ此くの如し」とあるから、周王朝との類比で国号が成立したわが国も国家を以て一姓の業とする中国の国家観念を継受し、ているのは確実で、要するに中国王権の国号の由来とするパターンと同じということになる。
 従って、易姓革命なら日本国はおしまい。当然のことですね。それが筋目というものです。わが国では古くから讖緯説による革命理論(辛酉革命、甲子革令、戊午革運)が知られていた(39)。神武東征の開始が甲寅年から始まるのは、甲寅始起説に基づく(40)。神武天皇即位は辛酉年である。中国思想の影響はいうまでもないことですね。
 
  周王朝との類比はわかりやすいと思います。大和に大国があり四方の小国に威令を及ぼしていたいたのが古墳時代、令制前の国家は、朝廷が畿内(ウチツクニ)を直轄統治し、地方の統治は国造を服属させる間接統治で、この構造は周王朝とも似ている。周は中原地区の西部・東部を掌握し威令を及ぼしていた。西周時代の場合、鎬京とラク邑の周囲が畿内に相当する。

 ちなみに漢王朝は、秦滅亡後、項羽が天下を処置して、討秦軍の諸将、六国の旧王族及び秦の降将など十八人を全国各地に封じて王としたが、このとき、劉邦が漢王として漢水上流域の漢中の地に封ぜられ、漢の社稷を立て、人民に爵位を与え漢王朝が成立した。漢王劉邦は項羽を滅ぼして天下を統一し皇帝位に即いたが、国号は天下統一後も王朝成立の地である漢王朝なのである。
 王莽が漢室劉氏から簒奪して新を建国したが、国号の新の由来は、もともと王莽が南陽新野の都郷千五百戸の新都侯であったからである。
 魏王朝は、曹操が、漢王朝献帝を奉戴し、皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し帝位を事実上簒奪する過程で、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で禅譲形式の易姓革命となった。曹操は、213年魏公に封ずる詔が下され、漢王朝は事実上、冀州の魏郡など十郡を割譲し魏公国の領土となり、魏国に社稷・宗廟が建てられる。さらに四県の封邑、増封三万戸、魏王となる。魏国が王業成立の地であるから、220年曹丕が献帝から帝位を譲られた後も国号は魏である。
 唐の場合は、初代皇帝高祖李淵の祖父李虎が北周の時に唐国公に封じられたことが国号の由来になっている。

 我が国も周や漢などの中国王権も王業成立の地(魏晋南北朝時代以降は前王朝から与えられた爵位が通例ともいわれるが、王号は漢代以降は皇帝によって与えられる爵位であるから理屈のうえでは同じこと)を国号とする全く同じパターンである。
 つまり天孫は日向に天降られたけれども、神武天皇は大和で王業を成就せられたから、その大和をもって全国の総名(惣名)とし、やまとという詞に日本という文字を当てたのが、日本国号の由来というのが岩崎小弥太説であるが、こうした国号の由来からみても中国における国家概念を継受しているのは確実であるから、女系継承-易姓革命なら国号を
改めなければならない。
 

 我が国は中国の国家概念を継受しているというのは次のような意味でも明らかだと思う。いわゆる皇孫思想、神裔統治の思想ですが、天孫降臨には貴族の始祖も語られており、例えば天児屋命は中臣氏の祖であるが、天神の裔は多であるから、皇統と天神系氏族は明確に区別されなければならない。この論理性は重要である。なぜならば、例えば高句麗太王も天神の裔である。渤海王も天神の裔を僭称した。たんに天神の子孫というだけでは、大八嶋国統治の正統性はないのである。たとえば今度の女系継承案でプリンスコンソートが天神の裔ということにでっちあげられるかもしれないが、天神の裔というだけでは駄目です。天神の子孫でも父系で神武天皇に繋がる特定の血筋が皇統です。
 神野志隆光は(註41)、『古事記』と『日本書紀』の論理性の違いについて説明している。
 「『古事記』では降臨したニニギははじめから葦原中国を支配することを保障されていた。しかし、『日本書紀』の場合、天と地とは基本的に対等なのだから、天の神であるということでは、地上世界の支配者であることは保障されない」とされ「地上世界の支配を実現しタカヒムスヒの発意を果たしたのは降った神とその子孫の特にカムヤマトイワレビコ〔神日本磐余彦〕=神武天皇の経営による。大和に移って天下を治めることを果たそうといい、それを実現して天皇の世界はひらかれたのである。いわゆる東征のはじまりにあたって示された神武天皇のことばのなかに
 「余謂ふに、彼の地は、必ず以て、大業(あまつひつぎ)をひらきのべて、天下に光宅るを足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心か」(即位前紀)。
 (わたしが思うに、その国はきっと、大業を弘め天下に君臨するに足る土地であろう。さだめし国の中心であろう)」そのとおり中心にある大和で天下を治めることは神武天皇の働き(経営)によってひらかれたのであり、それを決定的な意義とみなす。
 さらに、神野志隆光は(註42)。「天皇が血統としてつながっているという結果に基づいて、タカミムスヒは「皇祖」ニニギは「皇孫」とよばれるのである」。と述べる。
 結果論であってもそれが正論であるということはある。時間軸では矛盾しても事の本質において矛盾していない構設として理解すれば思います。そんなことで神話よりも地上世界の現実の統治から理屈を組み立てていく中国的論理でもわかりやすく建国が説明されているのが日本書記であると思う。
 そういうと、冒頭に述べた『国体の本義』「皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ」という神話の確信に基づく論理と違うことを言ってると批判されるかもしれないが、これは皇祖の神勅、神権統治の意義を毀損する趣旨では全くない。例えば新約聖書でも、コリント前書(真正パウロ)とエペソ書等(第二パウロ書簡)では結婚の意義づけが異なるように、異なる解釈があってもさしつかえないのであって、皇位の正統性については、ただ一つの説明ということでなく、多角的に論じてよいのではないか。
 
 中国皇帝は、日本や高句麗の君主にみられる天神の血統を承け、天孫として天神と系譜で繋がっているとは主張しない。中国において天子とは、天からの命を受けた至徳者の称号とみなされる(註43)。天神の子孫という性格では全くない。皇帝は原義的には世界を統御する唯一最高君主であるが、中国においては受命思想にもとづく正当性であって、堯・舜の故事に示される、至徳者から異姓の至徳者への禅譲形式を理想とする思想があり、易姓革命が是認されている。 中国では世襲原理に相反する受命思想や革命思想によって王朝交替が正当化されやすいと思想的風土がある。というより「魏武輔漢の故事」で禅譲革命の手順がマニュアル化されているので(註44)、真の実力者が革命を起こそうと思えば、マニュアルに従って手順を踏んでいきさえすれば帝位を継承できるシステムが千八百年前からできている。
 そういうわけで、中国では永く続いた王朝でも周が867年間、漢が426年間です(註45)。特に漢魏革命以降は短期間で王朝交替が多いです。我が国だけが皇朝2665年であります。
禅譲形式の嚆矢とされる劉氏の漢王朝を簒奪した王莽による革命だが、「皇天上帝は隆んにら大いなる佑けを顕わし、成命(天から受けた命)により統序せしめんがため、符契の図文と金匱の策書をもって神明の詔告とし、予に天下の兆民を委嘱なされた。赤帝漢氏高皇帝(劉邦)の霊は、天が命ぜし伝国金策の書を授けられた。予はなはだ慎み畏るるも、敢えて欽受せずにいられようか」(『漢書』王莽伝)と述べ、天命が劉氏から王氏に移ったとして自らの王朝、新を建てた(西暦9年-註46)。なお帝位を奪われた孺子劉嬰は「定安公」に封じられている。
 王莽の革命は本質的には太皇太后の権能を利用した漢王朝簒奪であったが(47)符契の図文と金匱の策書が作為的なものであろうと、このように中国の伝統では受命思想にもとづいて王朝創始者の徳をになう至徳者であることを明示することにより王権簒奪が正当化できる。
 中国では作為的であろうが陰険な権力抗争であろうが禅譲であれ放伐であれ、自力で王業を成就させることが事実として重要なのであって、天神の子孫とされていた高句麗が滅ぼされたように、たんに天神の裔ということでは王権の正統性にならないのである。
 従って、神武天皇が自力で大和において王業を成就せられたことが決定的なのであって、その王権が2665年永続しているという事実が重要なのであって、この点では日本書記が我が国の成立過程を中国的論理でも建国の意義が説明できるようになっている。

 (日本は王朝名)

  ところで、吉田孝によれば「日本」の名称は中国の「隋」「唐」、朝鮮の「高句麗」「百済」「新羅」同じように本来は王朝名(ある王統の支配体制の名称)として成立した」(註48)「王朝(dynasty)の名、すなわちヤマトの天皇の王朝の名」(註49)とされている
 官撰の書物で「日本」の初見は大宝令(大宝元年701年)の公式令詔書式(大宝令は残ってないが、『令集解』の公式令注釈で大宝令の注釈書である古記が引かれ「御宇日本天皇詔旨」がみえる)であるが、神野志隆光は吉田孝と日本国号の由来について対立した見解を述べているが、日本は国土の呼称ではなく、吉田孝の言うように王朝名だとしている。その論拠は、大宝公式令詔書式の意義である(50)。
 御宇日本天皇詔旨
 御宇天皇詔旨
 御大八州天皇詔旨
 「御宇」と「御大八州」が等価なのであって「日本」と「大八洲」と同じ次元で並ぶ国の呼び方ではなく、「日本」は「日本天皇」というかたちで意味をもつので、これは王朝名であるとされている。また『日本書紀』は中国の正史である『漢書』『後漢書』『晋書』にならったもので、王朝の名を冠しているとされている。なるほど、『日本三代実録』とは『日本(王朝)三代実録』で意味が通ります。この説は決定的なので全面的に従いたい。
 実際に日本朝という語が起請文で用いられるし、決定的な意味では「我日本朝はいわゆる神明の国なり」という清和天皇の貞観十二年の願文があります。明らかに日本は王朝名ですね。
 素人ながら私が言い換えればこういうことです。古記によれば対蕃国、隣国使用とされる御宇日本天皇詔旨(あめのしたしろしめすやまとのすめらみことのみことらま)は天下を統御し支配する日本天皇という意味です。(但し、対隣国使用は疑問であるが、この点に深入りしない)
 蕃国使(新羅)に「天下を統御し支配する日本天皇」と称し、咸くに聞きたまえと命令を下すのであって、天皇は天下を知ろしめす(統治の総括的表現)のであって、日本を統治するのではない。天皇が王朝名である日本を統治するというのは論理矛盾になる。仮に日本の原意が東夷の極なら、西方の藩国に対して天皇が東夷を知ろしめすということでは全く意味が通じない。
 国内向けのは大事を宣する辞としている御大八州天皇詔旨(おおやしまぐにしろしめすすめらみことのみことらま)は国土(もしくは地上世界)を統治する天皇という意味になります。
 国土呼称は大八洲なのであって日本ではない。大八洲の意味については、岩橋小弥太(51)によると神道家には葦原の中つ国と同じく、大地を悉く指す、八島は多数の意とされる見解があるという。この解釈では広く地上世界である。しかし本居宣長は古事記に依拠して八つの島であるという。『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会1889)においても「我カ帝国ノ版図古二大八島ト謂ヘルハ、淡路島 即今ノ淡路 秋津島 即本島 伊予ノ二名島 即四国 筑紫島 即九州 壱岐島津島 津島即対馬 隠岐島佐渡島ヲイヘルコト、古典ニ載セタリ」とある(註52)。しかしながら、どの島とどの島で八つの島なのか異説がある。しかし八つの島とはおおよそ国郡制の施行地域の枠内であるから、国土呼称とみなしてもよいと思う(なお七世紀末より八世紀にはいわゆる日本内地を「華夏」「華土」「中国」と称していた。西嶋定雄(53)は日本にとって華夷とは国郡制施行地域とその周辺外の蝦夷、隼人、西南諸島の範囲にとどまり、唐王朝はもちろん新羅は華夷の枠外であるとされている)。
 公式令詔書式によればあくまでも国土呼称は大八州であって、日本ではない。日本は王朝名(王統の支配体制)であり、天皇という君主号とむすびついて、日本天皇として意味をもつ。われわれが日本内地と慣用している国土指称は、日本王朝(朝廷)の直轄統治地域つまり五畿七道諸国、国郡制施行地域、律令施行域であった歴史的由来に依拠しているのであって、王朝交替、易姓革命により、日本王朝でなくなれば、もはや日本内地ではなくなるという性質のものである。
 西洋でいえば日本というのはカペー朝、プランタジネット朝と同じ王朝名、ダイナスティであって、フランスとかイングランドというような土地の呼称ではない。
従って、報道されている政府案の女系継承、易姓革命是認によって王朝交替となれば、当然のことながら日本国号は改めなければなりません。政府案の本質が恐るべき反日政策であるということを断言します。
 
 従って異姓簒奪・易姓革命による王朝交替なら日本国号は廃されなければなりません。全く当然であります。ここに神聖不可侵、神明の国なりとされた皇朝、日本朝は廃され、ああ遂に日本国は終焉し、新国家、新王朝、新国号、新君主号に改められます。全く当然です。要するに政府案と伝えられるものはプリンスコンソート氏による異姓簒奪、皇室も日本国も終焉させることを合法化させるものであります。
 われわれは遂に日本国籍を喪失するのである。大変遺憾なことであるが政府の愚策によってわれわれは日本人をやめなければならない。フェミニズムに迎合した代償はあまりにも大きかった。我々は政府の我が儘と無責任な民意にひきづられるかたちで祖国と歴史と伝統を喪失するということである。

 
(5)内親王に禅譲革命を演出する最悪の役回りを強要してよいのか


 
 もっとも、政府首脳部に王権を簒奪する野心や悪意があるとは思わない。あるいは外国統治者(どこの国とは言わない)の御子孫をプリンスコンソートに三顧の礼で迎えて、例えばかつて日本と高句麗が君臣関係を義としつつも兄弟国とされていた時代があったから、某国と兄弟国になるとか、そういうサプライズで政権浮揚という仰天プランがあれば凄いと思う。そういう天地がひっくり返るような驚きがあればむしろ感心してしまいますよ。しかしそこまで凄い策略があって女帝ブームという布石を打っているともとても思えないのである。
 表向き皇位継承資格者の枯渇の解消という名目とするが、女帝ブームに乗って政権浮揚、女性当主、女系宮家を実現してフェミニズムや女性世論に迎合して人気を取りたいということなのだろう。しかし主観的には国家を滅ぼす悪意はなくても、客観的にみて、政府案というものは、内親王に日本朝のラストエンペラーとして易姓禅譲革命の演出を強要するものである。これほど、皇族を貶めようとする政策はない。
 要するに内親王は後漢の献帝や、魏の後廃帝や元帝のような立場に追い込まれることを意味しますが、内親王が聡明な方なら耐え難く辛く憤懣やるかたない役回りである。政府の身勝手な我が儘や無責任な世論に引きづられたために、最悪の役回りをふられる内親王はたまったものじゃない。
 いったん易姓革命を是認してしまえば、中国の歴史において「魏武輔漢の故事」(54)という禅譲革命の手順がマニュアル化されてますから、革命は一気に進めることができます。報道されている政府案では最悪の事態、最悪の政策になると私は断言します。

(6)非皇親(非王姓)帝嗣に剣璽等承継の資格はない

 女帝即位女系継承論者は既成事実をつくってしまえばいいんだ、やってしまえというかもしれないが、とんでもない。事実上の異姓簒奪ということでは、神璽鏡剣(神器)は無論のこと、天孫降臨以来連綿と受け継がれた天つ日嗣高御座の即位は許されるはずがない。異姓簒奪者が神器を承継するのは絶対論理矛盾になるから絶対にあってはなりません。それは皇祖皇宗を冒涜するものであって絶対許されるはずがない。儀式の由緒も無視して強行すれば無節操も甚だしい。原理原則をわきまえない国とみなされ、内外から嘲られることになるでしょう。
 原武史(註55)によれば「三種の神器」と呼ばれるのは南北朝時代から、明治時代には「祖宗の神器」と呼ばれた。明治皇室典範第十条に「天皇崩するときは皇嗣即ち践祚し祖宗の神器を承く」とあり、「祖宗の神器」であるから、男系血統にあたらない異姓簒奪者が承継できるはずがない。それは全く論理矛盾である
 神璽とは神権性を保障するしるしであり、たんなるレガリアの授受ではない。神野志隆光(註56)によると神祇令13践祚条は即位にあたって「凡そ践祚之日には、中臣、天神の寿詞を奏し、忌部、神璽の鏡剣を上れ」と規定するが忌部氏が重要な役割を果たす意義について次に引用する『古語拾遺』を根拠としている。神器とは皇祖神が皇孫に授けた天璽(あまつしるし)なのである。政府官僚は異姓簒奪者に承継してもかまわんとでも思っているのか。そんな無茶苦茶なことは許されるはずなどない。そんなことをやったら天地がひっくりかえったも同然だ。
時に天祖天照大神・高皇産霊尊、乃ち相語りて曰はく、「夫、葦原の瑞穂国は、吾が世子孫の王たるべき地なり。皇孫就でまして治めたまへ。宝祚の隆えまさむこと、天壌と与に窮り无かるべし」とのりたまふ。即ち、八咫鏡及び草薙剣二種の神宝を以て、皇孫に授け賜ひて、永に天璽〔所謂神璽の剣・鏡是なり〕と為たまふ。矛・玉は自らに従ふ。即ち、勅曰したまはく、「吾が児此の宝の鏡を視まさむこと、吾を視るごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にして、斎の鏡し為べし」とのりたまふ。仍りて、天児屋命・太玉命・天鈿女命を以て、配へ侍すはしめたまふ。

 そして神武天皇が天璽の鏡・剣を奉じて即位したのである。天皇の正統性の証なのである。天皇の正統性とは男系による万世一系の皇位であります。それを非皇親帝嗣に承継させるなどということは全く論理性がない。

(7)非皇親(非王姓)帝嗣に高御座での即位、大嘗祭挙行の資格はない
 

 天皇位の象徴である「天つ日嗣高御座の業」とは延喜式祝詞式の祝詞などでのべられているように、皇祖神の仰せにより、皇御孫命が、天つ高御座に坐せて、天つ璽の鏡剣を授けて大八洲豊葦原瑞穂国の統治を委ね、天孫降臨が行われたという神話に由来する(57)。皇胤一系、皇統一種、厳然たる男系の万世一系の皇統譜が破られ、事実上、異姓の者が帝位を継承したとした場合は、高御座で即位する資格は全くないというべきである。ヒツギノミコでありえない異姓帝嗣、異姓簒奪者に高御座登壇を容認するなどできるはずがない。そんな無茶苦茶なことをやったら天地がひっくりかえったも同然だ。高御座で即位できないということは天皇位を継承できない。皇位の象徴が天つ日嗣高御座である。異姓簒奪なら、皇帝もしくは別の君主号でなければならず、中国の易姓禅譲革命の儀式で帝位継承がなされるべきだ。
 同様の理由で異姓簒奪では、食国天下の政、その象徴的儀礼である大嘗祭の資格もないので、全国統治の正当性は認められない。大嘗祭は食国天下の政、天皇の四方国(畿外の国郡)統治の正当性を確認する儀式と考える。畿外の国郡が悠紀・主基国に卜定され新穀を天皇に献上し「食国」(オスクニ)により服属奉仕を示す儀式であるが、大津透によれば大化前代には四方国の多くの国造が儀式に参加したと推測され、畿外の国造全体が天皇に服属することを象徴的に意味したのだという(註58)。

 柳沼千枝(註59)は伝存する近衛天皇の大嘗祭で大中臣清親により奏上された天神寿詞(次に一部引用)の意義について同時代の大嘗祭の本質を反映しているとされる。すなわち、前半部で天神が「ゆ庭の瑞穂」と「天つ水」を事依さし(委任)、後半部ではその「事依さし」に従って瑞穂・天つ水を黒酒・白酒として聞こしめすことにより、天皇の治世が栄え、天つ神・国つ神たちもそれを祝福する。天神による事依さしとはすなわち、国土支配権の委任であるから、「ゆ庭の瑞穂」と「天つ水」は、支配権を象徴する物実であり、それを飲食することにより天皇の支配権が確認されるという論理=食国儀礼の論理を読み取ることができると解説する。

天神寿詞(註60
 現つ御神と大八嶋国知ろし食す大倭根子天皇が大前に、天つ神の寿詞を称へ辞定め奉らくと申す。
高天の原に神留り坐す皇親神漏岐・神漏美の命を持ちて、八百万の神等を集へ賜ひて、皇孫の尊は高天の原に事始めて、豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけく知ろし食して、天つ日嗣の天つ高御座に御坐して、天つ御の長御膳の遠御膳と、千秋の五百秋に瑞穂を平らけく安らけくゆ庭に知ろし食せと事依そと奉りて、天降り坐しし後に、中臣の遠つ祖天児屋根命、皇御孫の尊の御前に仕え奉りて、天忍雲根神を天の二上に上せ奉りて、神漏岐・神漏美の命の前に受け給はり申して、皇御孫の尊の御膳つ水は、うつし国の水部、天つ水を立奉らむと申ししをり、事教へ給ひしに依りて、天忍雲根神天の浮雲に乗りて、天の二上に上り坐して、神漏岐・神漏美の命の前に申せば、天の玉櫛を事依さし奉りて、この玉櫛を刺し立てて、夕日より朝日の照るに至るまで、天つ詔戸の太詔刀言を以ちて告れ。(以下略)

 政府官僚は異姓継嗣でも既成事実をつくっちまえば関係ない、やってしまえとでも思っているのか。異姓簒奪者がこのように神聖な儀式を挙行してよいはずがないのである。皇祖の天壌無窮の神勅に反する、非王姓者の王権簒奪を容認するはずがなく、天つ神、国つ神も祝福するはずがない。祭祀の意義を無視して異姓簒奪の非皇親帝嗣が大嘗祭を挙行するとなれば、皇祖皇宗を冒涜するものであり、もしそれを強行するというならきわめて異常な事態と強く非難したいし、たとえ異姓簒奪新政府によって監獄にぶちこまれても、異姓簒奪の新帝に全国統治の正統性なしと断言する。
 もう断言してしまったから、簒奪革命政府から反逆罪で監獄にぶちこまれても仕方ないです。自分は皇朝、日本朝に忠誠を尽くしても、簒奪王権に忠誠義務はないと考えますから、大義のために命を惜しまず。殉教を躊躇しない。それが清く正しい生き方であるということは、文部省教学局『臣民の道』昭和16年においても「元正天皇の詔には『至にして私無きは國士の常風なり。忠を以て君に事ふるは臣子の恆道なり』と仰せられてある。北畠親房は神皇正統記「凡そ王土にはらまれて、忠をいたし命を捨つるは人民の道なり。」と教へてゐる。即ち臣民の道は、私を捨てて忠を致し、天壤無窮の皇運を扶翼し奉るにある。それが公定イデオロギーであります。
  
 ということで、皇位国体護持、大義のために命を惜しまず、私は女帝即位-女系宮家、女性当主-易姓禅譲革命の全てに反対し最後まで頑張り筋を通したいと思いますが、結局、報道されている政府案では、「魏武輔漢の故事」、魏晋南北朝時代の易姓革命の禅譲形式を研究して、従来と違ったタイプの儀式体系を創出する必要が出てくる。それを現代風にアレンジして、華やかなイベントにすることなど全く容易なことです。無責任な人間からみれば面白いかもしれない。しかし失うものが大きすぎる。
 それでもいいんだ。国が滅びようとどうでもいいんだ。なにがなんでも政府はフェミニズムに迎合したいので不退転の決意で女系継承、女系宮家から易姓禅譲革命により皇室を廃止したい意向で、おまえのような反革命分子を監獄にぶちこんでやるぞというなら、それでもいいです。皇位国体護持という大義があり、こちらが正論なのだから、たとえ恐怖政治に移行してもひるむ理由など全くないのであります。
 私は筋が通らないことが大嫌いなんです。女性当主-女系継承というフェミニズム迎合の名目でなにげなく易姓禅譲革命に突入するというのは最悪です。政府がどうしてもそれをやりたいなら、演出や作為があってもよいから、明確な論理性をもって皇室の暦数は尽きたとして魏晋南北朝時代みたいに堂々と異姓簒奪を正当化したほうが明快でよりましなのだ。新王朝がひらかれることを内外に宣言し、二千数百年の日本朝は終焉させますと正々堂々宣言すべきです。国号もきちんと改める。異姓簒奪なのに国号も改めないなどというインチキは認められない。非論理的で筋の通らない無茶苦茶なやり方に絶対的に耐え難いのであります。

(註1)易姓革命(王者は姓を易へて命を受く-史記巻二六歴書-)。中国では受命思想にもとづき、堯・舜の故事に示される、至徳者から異姓の至徳者への禅譲形式を理想とする思想があり、易姓革命が容易に正当化できる。というより「魏武輔漢の故事」で禅譲革命の手順がマニュアル化されているので、真の実力者が革命を起こそうと思えば、マニュアルに従って手順を踏んでいきさえすれば帝位を継承できるシステムが千八百年前からできている。易姓革命の禅譲形式は前漢末の王莽の王権簒奪を嚆矢として、魏晋革命で定型化された。禅譲といっても実態としては陰険な権力抗争であり、政権実力者による王権簒奪を正当化させるものであるが、禅譲形式による易姓革命はこの後、東晋から宋、宋から斉、斉から梁、梁から陳、西魏から北周、北周から隋、隋から唐、唐から梁など、宋までで14例とされている。易姓禅譲革命の意義については次を参照した。
井上順理「易姓革命」日野原利国『中国思想辞典』研文出版1984
大原良通『王権の確立と授受』汲古書院2003
尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店1979 280頁以下
谷口やすよ「漢代の皇后権」『史学雑誌』87編11号1978
丸山松幸「革命」溝口・丸山・池田編『中国思想文化事典』東京大学出版会 2001
村井章介「易姓革命の思想と天皇制度」『講座前近代の天皇 五 世界史のなかの天皇』 青木書店 1995
窪添慶文「補説2禅譲」松丸・池田・斯波ほか編 『世界歴史体系中国史2-三国~唐-』山川出版社1996 19頁
(註2)溝口睦子『王権神話の二元構造』吉川弘文館2000 177頁
(註3)岩崎小弥太『花園天皇』吉川弘文館人物叢書、1962 52頁
橋本義彦「誡太子書の皇統観」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館、1996 21頁
井上順理『本邦中世までにおける孟子受容史の研究』風間書房、1972 310頁 
(註4)村井章介「王土王民思想と九世紀の転換」『思想』847 1994
(註5)保立道久「「国歌・君が代」と九世紀史 」『歴史地理教育』2004年9月号、保立道久「現代歴史学と「国民文化」-社会史・「平安文化」・東アジア」『歴史学研究』743号『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004所収
(註6)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004 164頁
(註7)河内祥輔『中世の天皇観』山川出版社 日本史リブレット22 2003
(註8)渡辺治「国体」原武史・吉田裕編『岩波 天皇皇室辞典「』2005 」178頁
(註9)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 94頁~100頁 なお『栗里先生雑著』巻八「石上宅嗣補伝」からの出所であるが筆者は読んでいない。保立道久「現代歴史学と「国民文化」-社会史・「平安文化」・東アジア」『歴史学研究』743号 『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』「「万世一系」の王権と氏的国制」校倉書房 2004 24頁。
(註10)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 156頁
保立道久「「国歌・君が代」と九世紀史 」『歴史地理教育』2004年9月号
(註11)清水昭俊 研究展望「日本の家」『民族学研究』50巻1号 1985
(註12)官文娜「氏族系譜における非出自系譜の性格」『日中親族構造の比較研究』思文閣出版(京都)2005 104頁、 大山喬平教授退官記念会編『日本社会の史的構造 古代・中世』思文閣出版1997所収
(註13)滋賀秀三『中国家族法原理』創文社1967 19頁
(註14)宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980
(註15)宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99
(註16)曽根良成「官司請負下の実務官人と家業の継承」『古代文化』37-12、1985
(註17)明石一紀「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下
(註18)明石一紀 前掲書
(註19)宮地正人『天皇制の政治史的研究』校倉書房1981、24頁以下
(註20)宮地正人 前掲書 29頁
(註21)井戸田博史『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣出版1986、83頁以下
(註22)大藤修『近世農民と家・村・国家-生活史・社会史の視点から-』吉川弘文館1996 169頁以下
(註23)大藤修 前掲書 172頁
(註24)清水昭俊「〈家〉と親族:家成員交替過程(続)-出雲の〈家〉制度・その二」『民族学研究』38巻1号 1973(この論文に婿は家長(予定者)と明確に定義されている)関連して「〈家〉と親族:家成員交替過程-出雲の〈家〉制度・その二」『民族学研究』37巻3号 1972
(註25)清水昭俊「〈家〉と親族:家成員交替過程(続)-出雲の〈家〉制度・その二」『民族学研究』38巻1号 1973
(註26)エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリー木下賢一訳「慣習法の体系」アナール論文選2『家の歴史社会学』
(註27)清水昭俊「〈家〉の内的構造と村落共同体」『民族学研究』35巻3号 1970 212頁 
(註28)滋賀秀三 『中国家族法原理』創文社1967 44頁 註(29) 
(註29)尾形勇「中国古代の『家』と国家」岩波書店 1979 302頁
(註30)井上順理「易姓革命」日野原利国『中国思想辞典』研文出版1984
(註31)村井章介「易姓革命の思想と天皇制度」『講座前近代の天皇 五 世界史のなかの天皇』 青木書店 1995
(註32))官文娜「氏族系譜における非出自系譜の性格」『日中親族構造の比較研究』思文閣出版(京都)2005 128頁 、大山喬平教授退官記念会編『日本社会の史的構造 古代・中世』思文閣出版1997所収
(註33)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1998、35頁
(註34)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004、367頁以下 
(註35)吉田孝『日本の誕生』岩波新書510 1997、16頁 
(註36)網野善彦『日本論の視座-列島の社会と国家』小学館2004、11頁
(註37)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)59頁以下
(註38)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、121頁以下。
(註39)川崎晃「倭王権と五世紀の東アジア-倭王武・百済王上表文と金石文」黛弘道編『古代国家の政治と外交』吉川弘文館2001所収
(註40)岡田正之『近江奈良朝の漢文学』川崎晃前掲論文から孫引き。
(註41)神野志隆光『古事記と日本書紀』講談社現代新書1436 1999、133頁以下
(註42)神野志隆光 同じく132頁
(註43)小島毅「天子と皇帝」松原正毅編「『王権の位相』弘文堂1991年 大原良通の著書より孫引き。
(註44)石井仁 『曹操-魏の武帝』人物往来社 2000 217頁
(註45)尾形勇 前掲書303頁「禅代衆事」からの引用
(註46)丸山松幸「革命」溝口・丸山・池田編『中国思想文化事典』東京大学出版会 2001 160頁
(註47)谷口やすよ「漢代の皇后権」『史学雑誌』87編11号1978
(註48)吉田孝 日本の歴史2『飛鳥・奈良時代』岩波ジュニア新書332 1999、187頁
(註49)吉田孝 同じく90頁
(註50)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、25頁以下
(註51)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)54頁
(註52)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、195頁
(註53)西嶋定生「遣唐使と国書」『倭国の出現』東京大学出版会1999、234頁以下、初出『遣唐使研究と資料』東海大学出版会1987 
(註54)石井仁 『曹操-魏の武帝』人物往来社 2000 217頁
(註55)原武史・吉田裕編『岩波 天皇皇室辞典』 2005 13頁以下
(註56)神野志隆光『古事記と日本書紀』講談社現代新書1436 1999 168頁
(註57)大津透『古代の天皇制』岩波書店1999 52頁
(註58)大津透 前掲書 62頁
(註59)柳沼千絵「大嘗祭饗宴の構造と特質」黛弘道編『古代国家の政治と外交』吉川弘文館2001
(註60)訓読文 中臣寿詞 青木紀元『祝詞全評釈 延喜式祝詞 中臣寿詞』右文書院2000 379頁

  つづく               

                         

| | コメント (0) | トラックバック (2)