ホームページ入口は、BGMに、J.S.バッハ作曲『平均律第1巻24番ロ短調フーガ』の私の最近のライブ収録を添付し、背景は、
J.S.バッハがフーガに初めてソナタ形式を導入した、この傑作作品スコアの第二主題の再現部にしています。
ですから、この譜面のこの図柄をこのような形で画像としてちょっと眺めただけで、「ああ、この譜面は、J.S.バッハの平均律第1巻24番のロ短調フーガだ。」と気づかないような
クラシックピアニストは、下界における現在の肩書きがどうあれ、全員、素人ピアニストである、と私は断言いたします。
J.S.バッハの平均律、1巻、2巻合わせて48曲の譜面なんて、いやしくもクラシックピアニストを名乗るのであれば、一般教養以前の常識で、頭の中に全て入っていないといけないことなどは、
はるか昔から決まっていますから、この程度の初歩的な勉強もされていない人達は、全員素人です。
まあ、クラシックピアニストは、それぞれ、幼少のみぎりからピアノのレッスンをされていたのでしょうけど、この程度のことも察知出来ない人達は、何十年もかけて、いったい、何をお勉強
していたのでしょうね(笑)。
ところで、私が、この作品に初めて感動したのは、東京にいた当時の20歳になったばかりの、早稲田大学政治経済学部在学中のこと、某クラシック喫茶で、エドウィン・フィッシャーの演奏の
レコードで聴いた時でした。
以来、何回も解析を重ね、東京、大阪のいろんなコンサートで、何十回も演奏しました。
また、母の介護のため、東京から四国高松にUターンした1994年以降の最近では、
2000年9月13日の、「岡山後楽園築庭300年祭」に、
石井岡山県知事に招聘されて、朗読家の江守徹さんなどと共演した時
にも、2500人の聴衆の前で演奏したので、
客席にいた、当時まだ元気だった、母も喜んでくれましたので、J.S.バッハの作品を聴くことが大好きだった母への最後の親孝行が出来ました。
さらに、肝硬変の母がその末期症状で寝たきりになる少し前の、
2001年1月31日の、岡山、倉敷のファンの皆様の依頼で開催した、
「倉敷御園旅館『岡田克彦の世界』」
でも、『私の演奏する、J.S.バッハのフーガを是非に』というリクエストにお応えして演奏しました。
その後、1994年に、東京から四国高松に転職してUターンしてまで介護していた、たった一人の大切な母・岡田直子が、2006年9月19日に、私がずっと付き添っていた、香川県立中央病院の
集中治療室で、脳幹部脳内出血のために、静かに呼吸が止まり他界するという一大事がありましたので、母の一周忌までは、演奏も作曲もする気が起こらず、ただ、五色台の大崎の鼻展望台に
座って、瀬戸内海の静かな波の音を聴いているような、茫然自失の状態でした。
が、旧知の懇意にしていた、香川県庁に勤務している、高松高校の先輩のお力添えで、母の一周忌が近づいた頃、香川県立栗林公園庭園コンサートへの出演依頼をいただき、
栗林公園のお茶室『掬月亭(きくげつてい)』が大好きだった、江戸千家不白流の茶道が趣味だった母と一緒に栗林公園へ行った思い出で、
ピアノ組曲「記憶の底の栗林公園 OP.111」(全18曲)
を2007年4月23日に作曲して、
2007年10月14日の、香川県立栗林公園庭園コンサート
で初演したことで、私の中で何かがふっきれて、やっと平常心に戻ることが出来ました。
目の前で、介護していた最愛の母が息を引き取ったご経験をなさっても、拝金主義に毒されたM&Aのお好きな六本木ヒルズ族の皆様や、匿名で言いたい放題の罵詈雑言を吐き散らしている
2ちゃんねるに関わっている人間のクズは、親族の死後にかかる経費のことしか考えられないようですから、私が母を失ってから一周忌までの期間の気持ちは、生涯理解出来ないような、
非人間的な人格で一生を終えることは間違いありませんね。
しかし、栗林公園での、私の作曲した作品のピアノ組曲「記憶の底の栗林公園 OP.111」(全18曲)を聴いて感動なさった人達の中の、香川県まんのう町在住の若者は、とても感受性豊かな
優しい青年でした。
ご実家の香川県まんのう町のログハウス『ママハウス』での、岡山からいらっしゃるパンフルート奏者とのジョイントで2007年年末のクリスマスコンサートに出演していただきたい由の依頼を
下さり、
2007年12月23日の香川県まんのう町『ママハウス』クリスマス
ジョイントサロンコンサート
に出演させていただきました。
聴衆に若い人達が多かったので、この曲の存在を知って欲しいと思って、母の没後、久しぶりに、J.S.バッハのロ短調フーガを演奏したのは、この時でした。
第一声の提示に始まって、第二声、第三声、第四声、と対位が重なる度に、私は、亡き母とのいろんな思い出が重なってきて、演奏しながら、涙が流れました。
さらに、ピアノ組曲「記憶の底の栗林公園 OP.111」(全18曲)の評判を聞いた、SNSのミクシィでつながっていた、FM高松のディレクターのお力添えで、
2008年2月7日、高松市丸亀町『ヨンデンプラザ』での、
室内楽サロン『ベルサイユの昼下がり』(コントラバスとピアノのコラボ)
に出演し、FM高松にて、同時中継されました。
この時が、母の没後、J.S.バッハのロ短調フーガを演奏した2回目でした。
その後、私の自作自演のホームグラウンドの、高松市の『逸(すぐる)珈琲店』で出会い、協力と出演を依頼された、香川県地域活性委員会の若者達の主催の、2009年4月19日の、
サンポート高松での、
「おいで MY フェスタ チャリティコンサート」の第1回目
で、演奏した時のライブ収録が、このBGMです。
嬉しいことに、私の作曲とピアノ演奏の才能を高く評価してくださっている、東京のクラシック音楽事務所の社長がわざわざ高松まで、自腹で、録音機材を持ってきて、会場で収録
して下さいました。
以上のような経緯で、私の場合、この作品については、ただの暗譜ではなく、既に、私の体と指が覚えてしまっていますので、どこでも、どんな環境でも演奏出来ます。
この、2009年4月19日の「おいで MY フェスタ 2009」で演奏した際には、初めて聴く若者が多かったので、この作品の急所の、第二主題の再現部までは、かなり速いテンポで演奏しましたので、
J.S.バッハの作品、ってなかなかいいじゃない、と感じて下さった方が多かったので成功でした。
なぜなら、音楽は、聴く人に、その内実の作曲者のハートが伝わって、
初めて、意味があるからなのです。
オタクに、自宅でピアノ演奏を収録して、
ネットにアップロードしているだけの人は、絶対に成長しません。
どんな形態でもいいのです。極力、ライブ演奏の経験が必要なのです。
私のホームページにアップロードしている自作自演の室内楽曲、ピアノソロや、
フォーレ、プーランクなどのピアノの入る室内楽演奏、
ショパン、ドビュッシーなどのピアノソロ演奏は、
全て、ライブ収録のもので、聴衆のざわめきなどが入っているものです。
その理由は簡単です。
バッハやショパンが生きた時代は、電気がなかったのです。教会などの残響の豊かなスペースで、ライブで、即興演奏をしていたのです。
時代を越えて、当時と今、等しいものは、楽譜だけです。従って、楽譜から作曲者のハートを解析する能力のない人は、演奏家として、全くお話にならないのです。
私のように、本格的に作曲をやっている人間においては、これらの過去の偉大なアーティストのスコアを、和声学、対位法に基づいてきちんと解析していますので、
ただの、そんじょそこらの、ミスなく指が動くだけのピアニスト、審査員の大半がさほど作曲を勉強しているとは思われない程度の日本国内のコンクールで入賞した程度のピアニスト等の、
自己顕示欲の塊の非音楽家(笑)、とは全く違う点を、是非、わきまえて下さい。
もちろん、自己顕示欲を満たす程度の演奏は簡単に出来ますよ(笑)。
このホームページの中にも、私が22歳の頃、ショパンの「小犬のワルツ」を派手にアレンジした、『華麗なる小犬のワルツ』のようなものや、ショパンの『幻想即興曲』を好き勝手に
楽譜と違うように演奏したものもありますので、そういう、サーカスや曲芸のようなものでしか、ピアノ演奏を楽しめない皆様は、それぞれ、下記をクリックしてお聴き下さい。
まあ、いずれも、聴衆の皆様のリクエストで演奏したものです。感心する方はいるかもしれませんけど、感動とは程遠いと私は思っています。
感動と感心は、全く別の次元の出来事です。そして、音楽は、感動するために聴くべきなのです。
さて、J.S.バッハの作品をお好きでない方、よく知らないけど、食わず嫌いにならず、聴いてみようという好奇心や自己啓発意欲のない方、すなわち、私の作曲・アレンジ作品を聴く資格のない
皆様の私のホームページへのご入室は、固くお断りすることにいたしました。
また、この度、私の出身地で現在住んでいる香川県のお嫌いな方のご入室も、お控えいただくことにいたしました。
拝金主義が崇められている、東京の六本木界隈でM&Aなどにいそしまれる生涯を送りたい皆様は、リストやワグナーの作品のような無駄な音の集積体(笑)の駄作の雑音に埋没して、
くれぐれも、J.S.バッハの作品を聴かずに、香川県にも来ないで、讃岐うどんも食べないで下さい。