なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか
低学歴で低所得の人ほど外国人移民に対して排他的になるということが実証されている。なぜこうした下層民は、右翼となって、戦争を熱望するのか。従来、知識人たちの間で支配的だった権威主義的パーソナリティー論とは違う視点からこの問題を考えてみたい。
1. ナショナル・アイデンティティと学歴/所得の相関
田辺俊介の『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』が、ISSP(International Social Survey Program)の1995年の調査結果から、右翼には低所得と低学歴が多いという結論を出したことが、かつて話題になったことがあった。ISSPの調査結果は、この論文を読まなくても、1995年版のみならず、2003年の最新版までもがISSPのサイト上で無料で閲覧できるので、それを直接紹介することにしよう。
調査項目は、多岐にわたるが、ここでは、右翼にとって最も重大な問題の一つである「自国内への移民の数を増やすべきか」という質問に対する回答を見よう。「強く同意する」と答えた割合に+2、「同意する」と答えた割合に+1、「現状でよい」と答えた割合には0、「反対する」と答えた割合に-1、「強く反対する」と答えた割合に-2を乗じた値の合計で、移民の増加への賛成の度合いをグラフにしてみた。以下のグラフに見られるように、日本では、学歴が低くなるほど、移民の増加に対する拒絶度が大きくなっている。
少し古いが、アドルノ他『権威主義的パーソナリティ』(1950年)に掲載されている調査でも、自民族中心主義的で排他的な人ほど(E-Scale の値が大きい人ほど)、IQが低いという結果が出ている。
E-Scale Quartiles | Low Quartile (下位1/4) |
Low Middle Quartile (下中位1/4) |
High Middle Quartile (上中位1/4) |
High Quartile (上位1/4) |
---|---|---|---|---|
Mean IQ | 125.3 | 117.8 | 113.9 | 107.3 |
次に収入との関係を見てみよう。学歴の場合ほど相関性は明確ではないが、年収が少ない層のほうが、移民増加に対する拒絶度が大きい。一般的に言って、低学歴ほど低所得なので、これは当然であろう。
年収が低いほど外国人に対して排他的になるということは、日本の主要新聞の中で最も左翼的であると言われている『朝日新聞』の購読者の平均世帯年収が、最も右翼的であると言われている『産経新聞』の購読者の平均世帯年収よりも高いことによって傍証される[N]。
[N]『産経新聞』の購読者の平均世帯年収は、かつてすべての全国主要紙の中で最も低かった。もっとも、『産経新聞』の宣伝によると、最近では、購読者の平均世帯年収が、他紙とは異なって上昇しているとのことである[産経新聞媒体資料インターネット版]。これは、国内世論の右傾化を反映しているのだろうが、現在、新聞の購読率自体が大幅に下がってきているので、新聞購読者の平均世帯年収は、統計資料としての価値を失いつつある。
では、右翼的な価値観の持ち主には、なぜ低学歴・低所得の階層が多いのか。田辺の博士論文の審査を行った宮台真司によると、「昔からフランクフルト学派の人たちが言ってきた通りで、権威主義者には弱者が多い」のであり、そして、低所得ないし低学歴層が排外的愛国主義にコミットする背景には、「丸山眞男問題」がある。
■丸山眞男によれば、亜インテリこそが諸悪の根源です。日本的近代の齟齬は、すべて亜インテリに起因すると言うのです。亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者、ということになります。この者たちは、東大法学部教授を頂点とするアカデミック・ハイラーキーの中で、絶えず「煮え湯を飲まされる」存在です。
■竹内氏による記述の洗練を踏まえていえば、文化資本を独占する知的階層の頂点は、どこの国でもリベラルです。なぜなら、反リベラルの立場をとると自動的に、政治資本や経済資本を持つ者への権力シフトを来すからです。だから、知的階層の頂点は、リベラルであることで自らの権力源泉を増やそうとします。だからこそ、ウダツの上がらぬ知的階層の底辺は、横にズレて政治権力や経済権力と手を結ぼうとするというわけです。
■これが、大正・昭和のモダニズムを凋落させた、国士館大学教授・蓑田胸喜的なルサンチマンだというのが丸山の分析です。竹内氏は露骨に言いませんが、読めば分かるように同じ図式を丸山自身に適用する。即ち、丸山の影響力を台無しにさせたのは、『諸君』『正論』や「新しい歴史教科書をつくる会」に集うような三流学者どものルサンチマンだと言うのです。アカデミズムで三流以下の扱いの藤岡信勝とか八木秀次などです。
宮台は、文化資本の「独占」者は政治資本や経済資本から疎外されていて、政治資本や経済資本の所有者は文化資本の所有に与ることができないと考えているようだ。それならば、政治資本や経済資本から疎外されている知的階層は、その限りでは弱者であり、その弱者が、アカデミズムという知的権威を振りかざして、文化資本が不足しているという意味で弱者である右翼系論客を「三流学者ども」と罵倒して攻撃するならば、それは、自分が批判していることを自分自身で行っていることにならないだろうか。
あるいは、宮台が言っている弱者とは、知的な弱者に限定されるのかもしれない。宮台が言及しているフランクフルト学派の理論とは、知的弱者は、過剰な自由に耐えられず、自由から逃走し、権威に頼ろうとするという、フロム著『自由からの逃走』(1941年)やアドルノ他著『権威主義的パーソナリティ』(1950年)に見られる考えのことであろう。
しかし、こうした心理学的説明は、ファシズムに対する説明としては不十分ではないか。ファシストが権力を掌握したドイツやイタリアや日本よりも、そうではなかった英国や米国の方が、個人により多くの自由を与えていた。ドイツでもイタリアでも日本でも、ファシズムが勃興した第二次世界大戦前の時期に、それ以外の時期と比べてより多くの自由が個人に与えられていたわけではなかった。
『権威主義的パーソナリティ』は、アメリカユダヤ人委員会(American Jewish Committee)がスポンサーとなって出版した『偏見の諸研究(Studies in Prejudice)』の一部で、ユダヤ人を擁護しようとする政治的意図に基づいている。その序論には、次のように書かれている。
The authors, in common with most social scientists, hold the view that anti-Semitism is based more largely upon factors in the subject and in his total situation than upon actural characteristics of Jews, and that one place to look for determinants of anti-Semitic opinions and attitudes is within the persons who express them.
著者は、大部分の社会科学者と同様に、反ユダヤ主義は、ユダヤ人の現実的性格よりも、主観と主観の全状況における諸要因に主として基づき、反ユダヤ主義的見解と態度の決定要因を探す一つの場所は、それらを表明する人の内側にあるという見解を持っている
慎重な言い回しで書かれているが、要するに、ユダヤ人が迫害されるのは、ユダヤ人が悪いからではなくて、迫害する側の性格に欠陥があるからだという立場を表明しているのである。ユダヤ人は悪くないという見解には同意するが、それを強調しようとするあまり、ファシズムの問題を個人の心理の問題に矮小化してしまうと、ファシズムの最大の原因である経済問題を見落としてしまうことになる。
ファシズムは、それ自体は政治的な現象であるが、その原因は、心理学ではなくて経済学によって説明されるべきである。第二次世界大戦前夜のファシズムの直接的原因は、世界大恐慌であり、失業の増加が、戦争を含めた全体主義的公共事業の必要性を高め、とりわけ、植民地が少なく、国内市場が小さい後発工業国でファシズムが支持された。要するに、個人がファシズムに走るのは、《自由からの逃走》ではなくて、《失業からの逃走》である。
なぜ低学歴で低所得の人ほど移民の増加に否定的なのかに関しても《失業からの逃走》という観点から説明ができる。日本のような先進国の場合、移民制限を緩和すると、発展途上国から安価な労働力が流入するが、それによって真っ先に仕事を奪われるのは、単純肉体労働に従事している低学歴・低所得の人たちである。彼らが、外国人労働者に対して排他的になるのは、経済的な利害関係による。
読者の中には、このような説明は、先進国には当てはまるが、発展途上国には当てはまらないのではないかと反論する人もいるだろう。その通りである。実は、田辺俊介の『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』は、ISSPが23カ国を調査したにもかかわらず、日本、ドイツ、アメリカ、オーストラリアの4カ国しか取り上げていない[学位論文審査要旨]。世界中どこでも低学歴で低所得ほど排他的というような結論は、こうした先進国の調査結果だけから導くことはできない。
では、発展途上国では、どうなのか。典型的な発展途上国として、フィリピンの事例を取り上げてみよう。1995年のISSPの調査では、フィリピンの所得に関するデータはないが、学歴に関するデータはある。以下のグラフからわかるように、フィリピンでは、学歴が低くなるほど、移民の増加に対する拒絶度が大きくなるという、日本で見られた傾向は見られない。むしろ、学歴が高い方が、拒絶度が大きくなっている。特に大学卒業者の拒絶度が最も高いことは、特筆するべきことである。この現象は、フランクフルト学派流の権威主義的パーソナリティー論では説明できない。
フィリピンの場合、国内の所得水準が十分に低いので、移民の受け入れを増やしても、低学歴の労働者のライバルが増えるという可能性は低い。むしろ、フィリピンの公用語が英語であることから、他の英語圏の高学歴労働者が、フィリピンに来て、国内の高学歴労働者から仕事を奪うという可能性の方が高い。大学卒業者の拒絶度が最も高いのはこのためだろう。
2. 右翼はなぜ戦争を渇望するのか
好戦的であることは、移民に対して排他的であることと並んで、右翼の大きな特徴であり、左翼との大きな違いであると一般に認知されている。では、なぜ右翼は戦争を好むのか。
こうした議論をするとき、そもそも右翼とは何かというところから話を始めなければならない。右翼という言葉は、フランス革命後の議会において、保守派が右側の席を占めていたことから、保守主義を指す言葉として使われるようになった。右翼は伝統的権威を重視し、好戦的であるといわれるが、それは、当時の没落貴族たちの特性であった。
フランス革命によって特権を奪われた貴族たちは、自分たちの栄光ある地位の回復を求めていたがゆえに、伝統的制度や伝統的価値観の復活に肯定的である。よって、彼らは、保守主義者の名に値する。ヨーロッパの貴族たちの伝統的な職業は戦争であるから、自分たちの活躍の場を増やすためにも、対外的戦争を支持する。だから、好戦的であるという右翼の属性を持っていた。
日本の場合、こうした右翼を形成した没落貴族に相当するのは、明治維新時の士族で、彼らは、伝統的な特権が奪われることに不満を持ち、自分たちの活躍の場を求めて、征韓論を唱え、それが新政府によって却下されると、新政府に対して反乱を起こした。
現代では、没落貴族型の右翼は少数派であり、代わって増えてきたのがプロレタリア(無産階級)型の右翼である。ISSPの調査で浮き彫りになった、移民に対して最も拒絶的な、低学歴・低所得の先進国の下層民たちには、復活するべき栄光に満ちた過去があるわけではなく、そのため、没落貴族型右翼とは異なって、伝統的権威への固執は強くない。彼らが伝統的権威の重要性を持ち出すとするならば、それは、それが移民排斥や対外戦争の手段として使える場合に限られる。彼らには、伝統的権威は、第一義的な重要性を持たない。
そういうプロレタリア型右翼の一つの事例として、赤木智弘を取り上げよう。赤木は、高校と専門学校を卒業したフリーターで、年収は150万円と報道されている[東京新聞朝刊(2008年5月3日)反発と絶望―極論生む]。日本人の大学・短大の進学率は50%を超えており、また平均年収も400万円を超えていることから、赤木を低学歴・低所得のカテゴリーに分類することができる。赤木は、「決して右傾化するつもりはない」[赤木智弘(2007)けっきょく、「自己責任」 ですか]と言いつつも、戦争を希望し、特権化された既存の「弱者」しか守らない左翼を厳しく非難しているという点で、右翼と呼んでよいだろう。
では、赤木のようなプロレタリア型右翼が戦争を希望する理由は何か。
現状のまま生き続けたとしても、老いた親が病気などによって働けなくなってしまえば、私は経済基盤を失うのだから、首を吊るしかなくなる。その時に、社会の誰も、私に対して同情などしてくれないだろう。「自己責任」「負け犬」というレッテルを張られながら、無念のままに死ぬことになる。
しかし、「お国の為に」と戦地で戦ったのならば、運悪く死んだとしても、他の兵士たちとともに靖国なり、慰霊所なりに奉られ、英霊として尊敬される。同じ「死」という結果であっても、経済弱者として惨めに死ぬよりも、お国の為に戦って死ぬほうが、よほど自尊心を満足させてくれる。
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生きていれば流動化した社会でチャンスも巡ってくる。また、軍務に就いていれば衣食住は保証され、資格もいくつかとれるだろう。今の日本で、年長フリーターが無資格で就業できて、賃金を得ながら資格をとれるような職業に就けるチャンスはどれくらいあるのだろうか?
苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
赤木には、天皇崇拝や愛国心といった日本の伝統的右翼の特徴のいくつかが欠けている。赤木にとって、戦争で日本が勝つかどうかはどうでもよいことである。戦争をして、日本が勝ったとしよう。戦場で死ねば、英霊として崇拝されるし、生き残れば、強くなった日本で立身出世できる。戦争をして、日本が負けたとしよう。戦場で死ねば、戦争の犠牲者として同情してもらえるだろうし、生き残れば、かつて偉そうにしていた特権階級が没落した、混沌とした日本で、新たに出世するチャンスがやってくる。戦争になれば、どちらに転んでも、屈辱的な身分が死ぬまで続く平和な世の中より自分にとって望ましい。
以上のような赤木の考えは、戦前の朝鮮人の考えと同じである[朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか]。大日本帝国の下層民であった朝鮮人の当時の心境を赤木風に表現するならば、「日本人をひっぱたきたい―檀紀4243年にして日本の属国。希望は、戦争。」といったところだ。前回、「彼らにとって、世界の一等国民の仲間入りをして、民族のプライドを取り戻すことは、歴史的悲願だった」と書いたが、赤木も「社会に出てから10年以上、ただ一方的に見下されてきた私のような人間にとって、尊厳の回復は悲願なのだ」[赤木智弘(2007)けっきょく、「自己責任」 ですか]と同じようなことを言っている。
フランクフルト学派流の権威主義的パーソナリティ論は、没落貴族型の右翼の説明にはある程度使える。市民革命によって、社会が流動化すると、特権を失った貴族たちは、自分たちの利権を支えてきた過去の権威を復活しようとする。しかし、この説明は、赤木のようなプロレタリア型右翼の説明には使えない。赤木は「権威主義に対するラジカルな批判」[赤木智弘(2006)『バックラッシュ!』非難の本質とは?(その2)]を行っている。「丸山眞男をひっぱたきたい」という象徴的表現が、強者や権威に対する彼の激しい憎悪を示している。赤木は、また、過剰流動性がバックラッシュ(右翼的な保守反動)の原因となっているとする宮台によるフロム流の説明を次のように言って批判している。
男性弱者が抱えている不安は「過剰流動性」とは正反対の「硬直性」です。「一度フリーターになってしまったら、正社員になることは、非常に困難である」ということです。
要するに、赤木のようなプロレタリア型右翼の場合、《弱者であるがゆえに、過剰流動性に耐えられなくなって、権威に盲目的に服従し、権威が遂行する戦争に加担しようとする》といったフランクフルト学派的説明は成り立たず、むしろ《流動性のない格差社会で負け組みとして固定されているがゆえに、戦争によって流動性を作り出して、権威を打ち倒そうとしている》というような逆の説明が成り立つのである。
読者の中には、弱者が強者を打ち倒したいのであれば、右翼的な戦争ではなくて、左翼的な革命あるいは改革によってその目的を達成するべきだという人もいることであろう。これに対して、赤木は次のように反論する。
革命は「多数派の国民が、小数派の国家権力に支配されている」というような状況を逆転させるための手法である。少数派が多数派に対して革命を行ったって、十分な社会的承認を得ることなどできないのは明白だろう。
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正社員で、もしくは非正規社員でも生活に十分な給与を確保している安定労働層という多数派に、小さな企業の正社員や、派遣労働者や、フリーターといった貧困労働層という少数派が支配されている現状において、革命などは絶対に成就しない。つまり社会への信頼もなく、少数派であるしかない私が、革命という結論に至ることはあり得ないのだ。
非正規労働者が労働者に占める割合は、2008年の平均で、34.1%で、男性に限定すると、たったの19.2%である[統計局(2009)雇用形態別雇用者数]。こういう数が少なくて、金も何もない弱者が団結して革命を起こしても、鎮圧されて失敗に終わるに決まっている。左翼政党も、労働組合に加入している正規労働者や女性といった票になる多数派の「弱者」のための政治には熱心であるが、赤木のような票にも資金源にもならない少数派の弱者には冷たい。だから、赤木は既存の左翼に対して強い不満を持っている。赤木からすれば、左翼的革命/改革よりも右翼的戦争の方が、固定化された格差社会を流動化する上で、より現実的な選択肢なのである。
ここで、もう一度「朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか」という問題を考え直してほしい。朝鮮人は、日本人よりも数が少ないし、経済力も格段に劣っていた。彼らが内地に反旗を翻しても、たちまち強大な軍事力で鎮圧されてしまう。従属的身分からの解放を熱望していた彼らにとって、左翼的革命は破滅的結果しかもたらさない非現実的手段であり、右翼的戦争こそが、自分たちのステイタスを確実に向上させてくれる現実的手段だったのである。
従来、左翼の論客(進歩的知識人)は、戦争を望んでいるのは資本家という強者であり、弱者である労働者は、強者に騙されて、戦場に駆り出された犠牲者だという説明をしてきた。進歩史観による戦争の説明は、例えば、以下のようなものである。
資本家は、自分たちの搾取によって国内で品物が売れなくなると、搾取を少なくするのではなく、今度はその品物を外国に売ってもうけようとします。それは日本だけではなく、アメリカもイギリスもフランスもドイツも、資本主義国はみんなそうです。そうなると、品物を売る場所をどちらがとるかということで争いになります。
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そこで問題は、戦争をやるとなると武器を持って戦場に行くのはだれかということです。その場合、大きな資本家が自分で武器をかついで戦争をしに行くでしょうか。そんなことはありません。資本家階級から搾取され、抑圧されて、貧乏になっている労働者や農民やその他の勤労人民を「国のため」とあざむいて、戦争へ行かせるのです。
私は、小学生の時以来、日教組の教師から、こうした類の説明を聞かされてきた。しかし、実際には、貧乏な勤労人民ほど、デフレで失業が増えると、戦争を熱望する。右翼は、低学歴で頭が悪いから、権威に盲従し、自分たちにとって不利益になる権威の発動、すなわち戦争を支持するというのが、権威主義的パーソナリティー論に影響された進歩的知識人たちの低学歴右翼に対する認識であるが、彼らが考えているほど右翼は馬鹿ではない。下層階級の右翼には、戦争になれば、自国が勝とうが負けようが、自分たちの利益になるというしたたかな計算があるのであって、戦争に負ければ、多くの既得権益を失うリスクを抱える特権階級よりも、戦争から利益を受けやすいのである。
3. 右翼と左翼の対立地平を越える
右翼と左翼は、相容れるところがない、正反対の思想の持ち主と考えられがちである。たしかに、右翼と左翼という言葉の起源となったフランス革命後の議会では、右翼は第二身分、左翼は第三身分の代表であったから、その支持基盤には、明確な階級の差があった。しかし、これは、伝統的な特権階級が特権を失い、それまで権利を持たなかった者が権利を手にするという特殊な流動的状況での話である。持つものと持たざるものの格差が固定されると、自分たちの利権を守ろうとする特権階級が保守主義的になるのに対して、特権を持たないものは右翼あるいは左翼となって、自らを解放しようとする。つまり右翼と左翼は、支持する階級が同じで、下層階級の救済という同じ使命を帯びている。
右翼の戦争とは、別の手段を用いた左翼の革命の継続である。両者の手段の違いを簡単に言うと、左翼が自虐的で内ゲバ的な手段を使うのに対して、右翼は他虐的で外ゲバ的な手段を使う。すなわち、左翼が、ゲバルト(暴力)を同じ国家内の特権階級に向け、社会を流動化させようとするのに対して、右翼は、ゲバルトを外国に向け、自国と外国を戦わせることで、社会を流動化しようとする。もちろん、ゲバルトを使わない穏健な左翼や右翼もいるから、正確には、極左と極右と呼ばなければならないのかもしれないが、以下、極左と極右という意味で左翼と右翼という言葉を使うことにしたい。
右翼と左翼は、相互に相手を激しく非難する。このため、人々は、右翼と左翼は、正反対の、全く異なる思想と考えてしまう。だが、両者の仲が悪いのは、近親憎悪によるのであって、決して、両者が異質であることを示さない。右翼も左翼も、ともに、下層階級の救済を目指しているので、譬えて言うならば、低所得層を顧客とするディスカウント店どうしのようなものである。ディスカウントショップは、同じ客を奪い合う関係にあるからこそ、激しく対立するのである。
右翼と左翼は、手段においてのみ異なるわけではなく、目標においても相違している。すなわち、左翼が平等な社会の実現を目指しているのに対して、右翼は、必ずしもそうではなくて、むしろ自分だけは特権階級に入りたいというエゴイズムによって動機付けられているという違いもある。左翼にインテリが多く、右翼に非インテリが多いのは、左翼的理想は普遍化可能な合理性を持つのに対して、右翼的理想はそうでないということも理由の一つとして付け加えることができるかもしれない。
ここで、話をまた赤木に戻そう。赤木は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望むと言っているが、そういう平等は、決して長く続くわけではない。
本当に戦争のようなカタストロフィーが起きて、もし国民全員が苦しむ平等が達成されたとしても、そのような流動は極めて一時的なもので、安定を求める人たちがこうしたシステムを額面通り流動させたままにするとは思わない。戦争によって一度流動化したシステムも、やがてまた硬直化する。その時にはまた硬直化したシステムからはじきだされた人たちが、私と同じように異議を唱えることだろう。
戦争によって、固定的だった格差社会が流動化し、赤木がたまたま特権階級の仲間入りをしたとしよう。格差が再び固定された後、赤木は、社会の流動化を要求する下層民たちの声に耳を傾け、敢えて自分が手にした特権をリスクに晒すような戦争を支持するだろうか。もしも、特権階級にいる時とそうでない時とで言うことが異なるなら、赤木の思想は普遍化可能な合理性を失う。
思想には、普遍化可能な合理性がなければならない。社会における自分のポジションがどこであっても、同じ政策を支持することができないならば、その人は偽善的なエゴイストということになる。格差の流動化が望ましいならば、自分が高資本所有者だろうが、低資本所有者だろうが、常に格差を固定しないことに同意しなければならない。但し、格差の流動化といっても、戦争は望ましくない。他者を不幸にすることを目標とする競争ではなくて、他者を幸福にすることを目標とする競争によって社会を流動化する必要がある。そのような競争とは、市場原理に基づく経済的競争であり、この競争により、社会を絶えず流動化させようとする政治的立場はリバタリアニズムと呼ばれる
右翼・左翼・リバタリアン・保守主義者の違いがわかるように、以下のフローチャートで整理してみた。
左翼は、格差を否定する。現実に存在する社会主義・共産主義国家には、格差は存在するが、彼らは、少なくとも理念としては、平等な社会の実現を主張している。左翼は、格差を肯定するすべての立場をまとめて「右翼」と呼んでいるが、そうした呼称は、大雑把過ぎる。そこで、彼らが言う「右翼」をさらに細かく分類しよう。
格差を肯定する立場のうち、現在の格差を固定的に維持しようとする立場は、言葉の本来の意味で、保守主義と呼ばれる。格差をゼロにしたり、格差を固定すると、イノベーションが起きなくなって、生産性が低下する。だから、格差社会は流動的でなければいけないが、流動化するための競争は、非合法な暴力に基づく右翼的競争ではなくて、市場原理に基づいたリバタリアンな競争でなければならない。この理由により、私は、四つの政治的立場の中で、市場原理至上主義という意味でのリバタリアニズムが最も望ましいと考える。
赤木は、特権階級が貧しくなれば、自分は豊かになると考えているようだが、こうしたゼロ・サム・ゲーム的な発想では、すべての人を納得させるような社会を設計することはできない。たとえ配分結果に格差が出ても、公平なルールに基づいて競争が行われ、社会全体の富が増大するシステムなら、(少なくとも理論的には)すべての人を納得させることができる。そうした社会は、市場原理至上主義によって実現されるというのが私の立場である。
記事内容と直接関係ないことで恐縮です。
「なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか」という本記事が、総目次に表示されないことに気付きました。
すなわち、本記事に限って
総目次 → カテゴリー「政治学・政治史学」→ 論文 という順でないと読むことができません。
私のネット環境あるいはPC環境の故でしょうか?
F5キーを押してみてください。表示されるはずです。
ご教示ありがとうございました。
F5キーを押すことで、表示されるようになりました。