本稿で取上げる関嘉彦・都立大学名誉教授は、著名な社会思想史家だが、狭い専門を越えて、国際政治や安全保障問題にも強い関心を払ってきた。そして、かつて有力だった「戦後民主主義」や「戦後平和主義」からの国際政治論を批判し続けた。それは、欧米の正統な政治思想に通じた関氏だからこそ書きうる、貴重な国際政治論であった。
だが、そのような主張も戦後日本の特殊な知的風潮の下では、長い間、主流となりえないでいた。しかし、この十年ほどの間に着実に変化が進み、主流を形成しつつある。関氏が二〇〇〇年二月にフジサンケイグループから「正論大賞特別賞」を授賞されたのは、その表れである。
だが、依然として一部のメディアには、「戦後平和主義」を水で薄めたような主張が根強く残っている。私は「ラクダの背骨を折る最後のワラ」になればと思い、このほど関嘉彦著『戦後日本の国際政治論』(一藝社)を編んだ。現在あらためて熟読し、今後の指針とするのに役立つ諸論稿を収めたが、ここでそのエッセンスを浮き上がらせてみたい。
一、「戦後民主主義」と「反・反共主義」
戦後も四、五年すると「空気」は一変するのだが、しばらくの間は国際常識に近い国際政治論、安全保障論が展開されていた。憲法案の審議では共産党や社会党の議員までも、第九条で自衛戦争まで放棄したら、日本はどう安全を保障していくのかと、問い質している。また、メディアは、書物も含め占領軍の厳しい検閲の下にあったが、戦前派の気骨ある言論人は、厳しい制約の中で国際常識に近い主張をしていた。例えば美濃部達吉氏だが、憲法第九条は「他日完全な独立を回復し得た後に考慮されるべき問題」だと書いている。占領下の今は甘受するが、講和の後にきちんと改正しよう、との立場である。
こういう状況が変化してくるのは、一九五〇年頃からのことである。丸山真男氏に代表される「戦後民主主義」論者が登場し、その独特の平和論が論壇を席捲していくのだが、当時からその問題点をついていたのが、関氏である。「戦後民主主義」は、その巧みな呼称のために、単純に〈戦後の民主主義〉のことと思い込まれているが、そこには独特の意味が込められていた。
国際社会の冷戦では自由民主主義・対・共産主義が思想的対立基軸だったが、日本の保守・革新の対立はそれとは微妙にズレていた。共産主義とは対立しない形で、「戦後民主主義」の担い手たる「革新」が措定されたのである。保・革対立は「国内冷戦」とも呼ばれたが、そこでは「戦後民主主義」からの国際政治論が両者を分かつ最大争点となった。
この点に関する関氏の最初の論稿は、一九五〇年の『中央公論』での二本の論文である。当時はまだ漠然と、民主的社会主義と共産主義が近い関係にあると考える人が多かったが、思想内容を検討すれば、両者では「自由」や「民主主義」などの言葉も、意味がまるで違っており、民主的社会主義は、共産主義よりは自由主義に近いことが説かれている。また民主的社会主義は、東西対立では西欧的民主主義、つまり自由民主主義の側にあるとされた。「資本主義に反対することは西欧的な民主主義に反対することではない」のである。
このような関氏に対し、本来なら近い立場にあってよかったはずの丸山氏は、なぜか「戦後民主主義」と「戦後平和主義」に肩入れし、関氏とは遠い位置に立った。「戦後民主主義」と「戦後平和主義」を、認める側と認めない側の対立となり、知識人の世界を二分する境界線が、関氏と丸山氏の間に引かれることになった。
関氏は、丸山氏の微妙な立場を、「ある自由主義者への手紙」(一九五〇年)という論文に見出す。丸山氏は名指しこそしていないが、例えば関氏のように、「英米的民主主義対ソ連的共産主義」の図式を日本社会に持ち込むのに反対した。前者に与して後者に対抗するのは、日本の状況からして正しくないというのだ。「日本社会のどこに『防衛』するに足るほど生長した民主主義が存在するのか」と問い、こう結論している。日本社会の「近代化を実質的に押しすすめていく力は諸階級、諸勢力、諸社会集団のなかのどこに相対的に最も多く見出されるかという事をリアルに認識し」、近代化を強める勢力を支援し、それと反対の勢力には対抗すべきだ、と。
ここから丸山氏は、共産主義に反対するのではなく、下からの運動と手を組むべきだとした。この立場は、後に本間長世氏が『現代文明の条件』で巧みに命名した「反・反共主義」である。そこには坂本多加雄氏のいうように、「講座派」に近い歴史認識があり、丸山氏は民主化、近代化が何より重要で、「ファシズム」への逆転を警戒すべきだとした。「『共産主義』を『民主主義』の側に位置づけた」上で、「『民主主義』対『ファシズム』という枠組みを優先」させたのである。「日本の民主化のためには、反共主義に立つよりは、むしろ共産党を『プラグマティック』な観点から支持すべきだ」としたのである。
この「反・反共主義」は、日本の政界を分断する境界線を形成することとなった。共産主義を批判する側としない側の対立である。この境界線は、芳賀綏氏のいうように、旧社会党の党内を縦断していた。つまり、社会党右派には関氏に近い認識の人もいたが、中間派の辺から丸山氏に近くなるのである。例えば、中間派の勝間田派(後の石橋派)だが、〈レーニン主義ではないが、レーニンを批判しないことにしている勝間田派〉などと言われた。マルクス・レーニン主義を自認していた左派が、独特の共産主義思想に立脚していたのはいうまでもない。
学界や言論界での「保・革」の境界も、類似の構造の下にあり、共産主義を批判すると「保守」「反動」「右翼」のレッテルを貼られた。それが嫌なら、ふれないですますというのが、学者・言論人の処世術となった。ここから「戦後民主主義」は、自由民主主義を否定しはしないものの、反共主義を許さないという、「反・反共主義」となった。そして、その国際政治版が「戦後平和主義」である。この点は、正統な政治思想論を踏まえて初めて、明確に指摘しうることであり、関氏はこれを詳細に論じてきた。
二、丸山真男VS関嘉彦
丸山氏の主張につき、当時、問われなければならなかったのは、次の二点である。第一は、日本の民主主義の評価として、その認識が妥当だったかどうかである。第二は、仮に妥当だったとしても、共産主義勢力と手を組むことに問題がなかったかどうか、である。さらに後の時期にも広げると、第三の問いが浮上してくる。仮に当時の丸山氏の認識が妥当だったとしても、その後の民主主義の発展をどう評価するかである。
第一点は、大正デモクラシーをどう評価するか、戦前の日本政治につき、昭和戦前期の「軍国主義」の十数年を逸脱と見るのか、戦前の典型と見るのか、という問題とも関連する。この問題をめぐっては、アメリカの占領軍にも二つの見解があり、戦前日本の民主主義の発展をある程度、評価する立場も存在した。ポツダム宣言の第一〇項に、「日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化」が唱えられているように、「復活」に値する民主主義の伝統があったとの判断が、一部に存在していたのである。
第二の、共産主義と手を組むことの是非の問題は、一九五〇年当時すでに答えが出ていてよかったはずの問題である。戦後も数年を経た当時なら、欧州の動向さえ正確に把握していれば、関氏の立場こそが正統なものだったのが分かるのである。わが国でそういう事情に通じていた、別の例外的人物の一人は林達夫氏だが、彼は「共産主義的人間」(一九五一年)で、チェコの一九四八年の共産クーデターなどにふれ、こう書いている。
「ブルジョア社会の観察や批判にかけては実に鋭利な切れ味を示す共産主義者」も、「事、己れの陣営のこととなると子供のような大甘な評価能力しか発揮できず、敵めあての見え透いた宣伝でさえそれを額面通りに受取って少しも怪しまない人々を案外多く見かけるが、このメンタリティは私にいわせると現代七不思議の一つなのである」。
それから五、六年後にハンガリー動乱が起き、丸山氏などは動揺を見せるのだが、そうなるまで共産勢力の動きが分からなかったとしたら、きわめて「大甘」だったのである。
第三点は、日本の民主主義がその後、丸山氏のいう「生長」をみたかどうかである。「防衛するにたる生長」を見たとするなら、政治的発言が変わらなければならなかったはずだが、彼はこの問いに答えないで通した。これは大きな問題であり、「戦後民主主義」の勢力が化石のように硬直化した一因はここにあると私は考える。
関・政治思想論を日本政治の評論に適用してきたのは芳賀綏氏だが、同氏は次のような枠組で、丸山氏につき言及している。まず、政治勢力を三勢力に分ける。真中の「リベラル」(自由民主主義勢力)を挟んで、右には自由民主主義を認めない「復古」派があり、左には自由民主主義に反対する「左翼」が存在する。戦前は復古とリベラルの間の線が「決定的な重みを持ち、リベラルと左翼はともに被圧迫者であった」。「その経験などにもとづき、戦後にいたるも、日本の特殊な状況下では、リベラルと左翼は連合して」、復古派に対抗すべしとする論が、「丸山真男教授によって説かれ、人々に影響を与えた」。「しかし、戦後、時とともに事態は変わった。自由民主主義憲法のもとで、リベラルの思想的・社会的地盤が正統化されるのと並んで、左翼勢力がいちじるしく伸長し、特に思想的支配力を増大した」。「その間に、右翼復古傾向は次第に衰退して、思想体系としても社会勢力としても散漫化」した。
つまり、丸山氏のような認識では日本の現状を捉えられなくなった、というのである。とすれば、この問いを繰り返し検証せず、いつまでも「ファシズム」の危険ばかりを説いていたのは、政治学者としては問題にされねばならない。分かってはいたが、政治的理由から出来なかったというのなら、現実政治優先の知的不誠実と言わなければならない。
丸山氏の議論のもう一つ重大な問題は次の点である。先の論文で彼は、この図式が「国内の政治的=社会的問題」についてのもので、必ずしも国際政治には適用できないと、書いている。だが、務台理作氏や大内兵衛氏など周囲の「政治屋」的知識人は、それにはお構いなしに、そのまま国際政治に適用し、「ファシズムに対抗する勢力」を結集してこそ平和が実現されるとして、「資本主義陣営」対「社会主義陣営」の図式で運動を進めた。そして、これに異論を唱える者は、すべて「平和の敵」だとするような、図式的認識が「戦後平和主義」に持ち込まれ、幅をきかすこととなった(粕谷一希『中央公論社と私』)。
こういう政治主義に丸山氏はどういう態度をとったか。それは自分の考えと違う、と語ったか。――答えは「否」で、これは見逃し難い知的不誠実と言わなければならない。丸山氏は、時に現実政治に関する発言で、この種の政治的戦術・戦略を優先させる姿勢を見せた。だが、その場合でも、著作には必ず慎重な留保を書き込んでいた。そして、それが「政治的仲間」に裏切られた時、彼は沈黙したのである。
三、関嘉彦・森嶋通夫論争
一般の人々の間で関氏の国際政治論が注目されたのは、『文藝春秋』での森嶋通夫氏との論争によってである。関・森嶋論争は読者の反響が大きく、翌年の文藝春秋読者賞を受けた。世間の注目を集めたのは、森嶋氏が、日本は文化交流、経済協力など「ソフトウェア」で国を守る途を探るべきだとし、「不幸にして最悪の事態が起これば、白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を迎えるより他にない」としたことにあった。
論争がなされたのは、ソ連のアフガニスタン侵攻の数ケ月前だが、一九七六年のミグ事件、一九七八年の栗栖弘臣・統合幕僚会議議長の「超法規」発言の後で、有事や防衛への関心が高まってきていた時期であった。
関氏の主張は、「共産主義の国はその思想に基づく支配を拡大するため、機会があれば武力侵略をしないとは限らない、それで日本も自ら国を守るための武力を整え、足りない所は……アメリカとの同盟により補うべし」というにあった。これに対して森嶋氏は、核兵器の時代に通常兵器で武装しても、核兵器で攻撃されればひとたまりもなく、「玉砕が無意味というなら降参ということになるが、降参するなら軍備はゼロで充分」とした。
「万が一にもソ連が攻めて来た時には自衛隊は毅然として、秩序整然と降伏するより他ない。徹底抗戦して玉砕して、その後に猛り狂ったソ連軍が殺到して惨憺たる戦後を迎えるより、秩序ある威厳に満ちた降伏をして、その代り政治的自決権を獲得した方が、ずっと賢明だ」とした。「白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を迎える」というのだ。
この主張は、社会党の非武装中立論の゛隠された意図″を国民に知らせるためのもので、「対ソ無条件降伏」ということを暴いたものだなどと、謎解きもなされた。
森嶋氏は「人間の行動は状況に非常に影響される」ので、ソ連兵も、日本が毅然たる降伏さえすれば、かつて満州で見られたような掠奪暴行の限りをつくすようなことはない、とした。それに対して関氏は、「現在ソ連に占領されて政治的自決権を獲得している国が存在するであろうか」と反論した。また、日本を「何らの犠牲なしに占領できるだろうと知ったなら」、すぐ占領に出てくる国があるだろうし、そうなれば「他の国も対抗上」、占領に出てくるだろう。そして「占領国同士の間で、日本国内での戦争がおこる可能性も多い」とした。この点は数年後、岡崎久彦氏が『戦略的思考とは何か』で、巧みに説明したことである。「戦略的に重要な場所は、敵が取る前に取ってしまうのが常道で」、「まして、戦略的に重要で、しかも、中立国で、強力な同盟国もなく、独りで守るに足る防衛力もないところなどは取られないはずがないといって過言」でないのである。
戦後日本では外国の占領を軽く見る風潮が消えないが、森嶋氏の発言はそれを象徴していた。占領体験が一度しかなく、しかもそれがアメリカによる寛大な占領だったため、わが国では外国による占領の何たるかがよく認識されないでいるのである。
また、文民統制の問題で森嶋氏は、「増強した軍が暴走して昔の軍人統制の時代に復帰してしまう」危険を説いた。これに対して関氏は、「私の考える文民統制の基盤というのは、現憲法の規定するような議会制民主主義の徹底と、社会的公正の拡大」であり、その点、日本は「民主主義の歴史が短い割には、かなり成功してきたと思う」とした。
この点は形を変えて何度も議論されてきているが、自衛力増強反対論者には、日本の民主主義に対する不信が潜んでいる。そして、どのような状態に達したら他の国と同じように認めてもらえるのか、基準が示されないまま、《禁治産者扱い》だけが続いているのである。
四、中立主義批判
わが国では、長らく中立主義が根強い人気を保ってきた。国際法を少しでも知る者なら、中立は容易には達成できないのが分かるが、そう深くは考えずに口にした人が多いのだろうし、それを咎めるべき専門家もそれを放置したということなのだろう。その例外の一人が関氏である。一九五〇年の論文では、中立主義をいろいろな角度から批判し、こう書いている。「日本の中立か否かが世界平和の条件ではなく、世界戦争がはじまれば、日本がいかに中立を主張するも国際信義を無視する独裁主義国の侵略をまぬかれないことは、第二次大戦のベルギーの実例が覆轍の戒めとなるであろう」。
この点は、「都留重人・小泉信三・講和論争」で、小泉氏の主張にも出て来る。彼の有名な平和主義批判の論文(一九五二年)にはこうある。――宣言だけで「中立が尊重されるなら、世にこれほど容易いことはないが、問題は中立の願望、その宣言だけでは、交戦国のいずれもが、それを顧慮する必要を感じない」ところにある。従って「中立を守るには、中立の侵害を排除するだけの実力を持たなければならぬ」。
実は、わが国の中立主義にはやっかいな問題が潜んでいた。一部の中立論者がその真意を隠して議論していたことである。分かりやすい方から紹介すると、社会党左派の協会派に代表されるタイプのそれで、一部の中立論が「親ソ・反米の下心をもって唱えられて」(小泉)きた。その代表は向坂逸郎氏であり、『諸君!』一九七七年七月号で田原総一朗氏の巧い誘導尋問にはまり、ホンネをもらしている。それは「社会主義政権でない間」だけの非武装論で、日米安保条約を廃棄する方便としての中立論である。
こういうことでは、中立論者が具体的につめて議論する気がないのも当然である。唯一それらしき提案として言及されるのは、坂本義和氏の「中立日本の防衛構想」(一九五九年)だが、それは「中立諸国からなる国連警察軍の日本駐留」というもので、提案の名に値しないものであった。関氏は、「日本人自身は自国を守ろうとしないのに、外国人が……日本人のために血を流すほど善意であるのか。おそらくその提案を聞いた外国人は、日本人の身勝手な考えに憤慨し、日本人を軽蔑するのではないか」と書いている。
ホンネが別の中立論にはもう一つのタイプがあり、こちらは類似の主張が現在もなお消えてはいない。かつての中立論の検討が意味をもつのはそのためだが、その種の議論を早くから批判してきたのが関氏であり、「中立主義者の国際政治観」(一九六三年)に代表される。「日米安保体制に反対しなければならぬが、かといってソ連陣営を支持することを正面から言えば多くの人は反対するであろう。とすればせめて中立主義を主張することにより、自由陣営に深入りを防がねばならない」という中立論である。
簡単に言えば、ソ連陣営につくのが理想だが、それを言える状況にないので中立を唱える、という立場である。すべては自由陣営への関与を弱めるためであり、こういえば、この種の主張の諸変種が、今もなお『朝日新聞』などで展開されているのが分かろう。自由陣営への関与を弱めるために、いろいろ形を変えて主張するのがそれである。
講和論争の時期には、もう一点で社会思想史家・関氏の面目躍如たる主張が展開されていた。それは、当時の社会党に根強かった「第三勢力論」からの中立主義に、イデオロギー的な偏見が潜んでいるのを指摘したものである。――社会党が、その非現実性にもかかわらず中立を唱えているのは、「社会民主主義は資本主義にも共産主義にも反対する第三の立場なるゆえ、いずれにも偏せざる立場として中立を主張する」というものだが、資本主義に反対だからといって、西欧的な民主主義に反対するのは誤っており、真の社会民主主義者なら「水で割った共産主義」のような主張をしていてはならない、とした。
非武装中立論の非現実性とは、非武装では中立国が負う義務を果たすのが困難なことである。関・森嶋論争でもこれが焦点となったが、それは憲法制定時にも議論されており、国際法学者の高柳賢三氏は議会でこう述べている。中立国は、自国の領域を交戦国に利用されないようにする防止義務を負うが、「第三国の間に戦争が勃発した場合」、「武力を全然放棄」していると、この義務が果たせない。そのため「日本が戦場化」する「危険が相当濃厚ではないか」と。国際法からすればごく正当な主張だが、その後、数年でこういう声も小さくなってしまうのであり、そういう中で関氏は主張し続けたのである。
五、憲法第九条改正問題
関氏の国際政治論を読んでいて驚くのは、その言論にぶれが見られないことである。「憲法第九条をめぐる論争に決着をつけよ」(『正論』一九九三年一月号)という論文は、表題の通り、憲法改正の勧めだが、それから溯ること四十二年前の論文にも、憲法改正への言及がある。スタンスの一貫性は際立ち、驚嘆すべきものがある。
では、今から半世紀前の主張はどうであったか。占領軍の厳しい検閲の下、自己抑制を加えながら、しかも、肺結核での入院中に療養所の「面会室の片隅で看護婦の眼を盗んで」執筆されたものである。――われわれはできるかぎり憲法の「理想に忠実でなければならぬ。しかし憲法は国民のためにあり、国民が憲法のためにあるのではないことを忘れてはならない。もしも現在の憲法が国家の安全保障のために不適当であるならば、われわれは遅滞なく憲法の改正を行わねばならぬ」。
これこそが憲法を論じる根本姿勢でなければならない。そして、それに続く文章では、憲法が国連加盟の障害となりうる可能性が、正確に指摘されていた。だが、その後の事実関係はどうだったか。日本政府は国連への加盟申請の際、憲法第九条のために軍事協力の義務を必ずしも果たせない可能性があると考えていたが、それを明示せず、「わが国の有するあらゆる手段をもってこの義務を遵守する」という文面ですませた。これで「間接的に」軍事協力の義務を留保したというのだが、こんな゛玉虫色″の日本的手法は、国内ではともかく、外国が相手では、いざという時に国際関係を混乱させる禁じ手である。
幸か不幸か、加盟の後も、国連から軍事協力を求められる事態は発生していない。だが加盟国には、国連が決めた侵略国への武力制裁措置に協力する義務がある。その点で筋を通しているのはスイスであり、そういう義務を負うと永世中立の国是に反するとして、国連に加盟しないでいる。それに対してわが国は憲法上、不可能なことがあるのを明示しないまま加盟を申請し、加盟が認められると、憲法も改正せず黙って加盟を続けている。
先の『正論』での関氏の文章はこう続く。
「さらに根本的には自己の安全即ち自国の安全は、自らも血を流す覚悟で、かかる国際的機関に協力することによってのみ守られうることを知るべきである。危険なことにはかかわり合わない利己的な生活態度こそは第一に打破しなければならないものの一つである」
関氏は、戦後日本に道徳哲学が欠けていることに警鐘を鳴らしてきたが、このくだりはそれを思い起こさせる。国連も日米安保も同じだが、相手があることだから、自分だけは特殊で、普通の協力はできない、ということを言い出せば、相互的なシステムはすべて成り立たないのである。
憲法改正論はこの十年来、急速に国民の間に支持が広まっているが、それは、今日の改憲論が、天皇制強化とか国民の義務の強調といった、旧来型の復古的改憲論ではなく、国際社会で「普通の国」として生きていくための、新しい改憲論だからである。
これは歴史観とも関わる。個々の点では賛否もあろうが、「アジア・太平洋戦争史観」(『正論』一九九四年五月号)での関氏の結論はこうである。
「いま日本は憲法第九条を改正してモラトリアム国家を脱して普通の民主国家になるか否かの岐路に立っている。憲法改正は決してかつての軍国主義に戻るためであってはならない。そのことを明らかにするためにも、過去の一時の誤りを率直に認める歴史観に立つことが必要である」
今日、関氏の文章にふれると、読者は必ずやそこに、背筋をのばし、時代を真摯に生きた知識人の姿を見出すことであろう。