GM:100年の興亡…破綻秒読み

2009年5月30日 22時7分 更新:5月30日 22時16分

米デトロイトにあるGM本社=AP
米デトロイトにあるGM本社=AP

 6月1日にも米連邦破産法11条を申請することが濃厚になっている米自動車最大手、ゼネラル・モーターズ(GM)は、かつては強く豊かな米経済の象徴だった。だが、当時の成功体験を引きずり、時代の変化に対応しなかったGMは80年代以降、日本車メーカーなどライバルとの競争に敗れて凋落(ちょうらく)。創業から100年余りで破綻(はたん)に追い込まれることになった。【坂井隆之】

 ◇M&Aで帝国の基礎

 世界最大の自動車メーカー、GMは、一人の天才的営業マンの野心から生まれた。1861年にボストンで生まれた創業者ウィリアム・デュラントは馬車工場経営で成功。当時は「金持ちの遊び道具」とも言われた自動車の将来性に注目。ミシガン州フリントの町工場だったビュイック社総支配人になり、ニューヨークで1080台の受注を取り付けるなど事業を急拡大させた。

 「全米の自動車会社を全部いただく」--。デュラントは1908年にGMを設立すると、翌年にかけて高級車ブランド「キャデラック」や「オールズモビル」(2004年に消滅)など次々とM&A(企業の合併・買収)を重ねた。18年には「シボレー」も吸収し、巨大GM帝国の基礎を作った。さらに、自動車ローン専門の金融会社「GMAC」まで作り、車の大衆化を進めた。31年にはフォードを抜いて、米国と世界で販売台数トップに浮上。30年代には鉄道、航空機にも参入するなど、米国を代表する企業に成長した。

 ◇「成功のシンボル」に

 「GMに良いことは米国にも良いこと」。53年、第二次大戦での米軍への貢献を認められ、GM社長からアイゼンハワー政権の国防長官に転じたウィルソン氏は、議会でこう豪語した。終戦後の消費ブームはGMの拡大を後押し。54年には米新車市場でのGMのシェアは50%に達し、55年には米国企業では初めて売上高10億ドルを突破した。

 キャデラックは米社会の「成功者のシンボル」とされ、50~60年代のGMは、米国民があこがれる豊かさや強さの象徴になった。

 しかし、繁栄の裏で現在の経営危機につながる矛盾が拡大していた。37年の大規模ストに懲りたGMはUAW(全米自動車労組)が労務交渉の窓口となることを容認。これを境に、従業員への福利厚生は膨らみ続け、30年勤めれば、いつやめても高額年金が満額支給される制度や、退職者も含めた医療費の全額補助など、GMはまるで福祉国家のようになった。一方、技術開発はおろそかになっていった。

 ◇日本車台頭の末に転落

 「日本車をたたき出せ」。81年、GMの工場労働者がトヨタ車などをハンマーでたたき壊す映像が世界に衝撃を与えた。燃費の悪いGM車は石油危機の直撃を受け、80年、GMは草創期を除き初の最終赤字に転落した。一方、小型・低価格で燃費に優れる日本車が台頭し、70年代に輸出台数を急増させた。

 GMなどビッグ3は対抗策として、売れ筋車の地道な開発ではなく、米政府の圧力に頼った。81年にはトヨタなどが一斉に輸出自主規制を開始。息をついたGMは、小型車ブランド「サターン」の創設やトヨタ自動車との合弁会社「NUMMI」設立など、改革に乗り出した。

 しかし、90年代に入ると、ピックアップトラックなど大型車を低金利やゼロ金利ローン付きで販売する手法を始めた。ガソリン安や超低金利も背景に、GMは00年には株価が最高水準の90ドル台に上昇。だが、05年ごろからガソリン価格が上昇に転じると、「ハマー」など頼みの大型車の販売が失速。08年秋の金融危機で資金繰りさえつかなくなり、破綻のふちに追いやられた。

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