トップページに戻る
ニュースのページに戻る


010420 黒田和夫氏逝去
天然原子炉の存在を予告した黒田和夫氏が84歳でなくなられたとのニュース。波乱に満ちた生涯を終えられたと感慨深いものを感じます。氏の予告は真に独創的なもの、またその後も長年にわたり創造的な研究活動を継続されていたのですから、非常に希有の存在と思います。氏の予告は真に独創的なもの、仮説発表当時は、原子炉は精緻な設計で初めて臨界に達するものと酷評されたとか、ところがガボンのオクロで20億年前に天然原子炉が存在した痕跡が発見、100万年ほど稼動、プルトニウムは4トンも生産されたとかです。
天然原子炉の予言者の黒田和夫氏の英文の訃報を識者より受け取りました。新聞社の科学記者は氏の名前を知らなかったとか。この訃報では、太陽系の創生期には244Pu(半減期8200万年)が存在したことを予言し、隕石から244Puの分裂でキセノン含有量が多いことから証明したとあります。これも独創的な発想であり、氏は根源的なものを追求していたことを表しています。1955年には米国籍を取得とあり、38歳のとき、はやく帰化されたと思います。
黒田氏といえば木村健二郎氏の名前が思い浮かびますが、<遠き峰峰>のレジメをあらためて見て立派な人であられた思うばかりです。

朝日04/19 19:45 ◇天然原子炉予想した地球化学者、黒田和夫氏死去◇
 黒田 和夫氏(くろだ・かずお=米アーカンソー大名誉教授・地球化学)は16日、肺がんで米ラスベガスの自宅で死去、84歳。 東大助教授をへて49年に渡米。56年、約20億年前にはウラン鉱床で自然に核分裂が起きる「天然原子炉」があったと予想。後にアフリカの鉱山で裏付けられ、91年に日本地球化学会の「柴田賞」を受けた。[2001-04-19-19:45]

読売04/19 14:09 黒田和夫氏(米アーカンソー大名誉教授)が死去
 黒田和夫氏(くろだ・かずお=米アーカンソー大名誉教授)16日、米ネバダ州ラスベガスの自宅で死去。84歳。東大理学部助教授を経て1949年に渡米。61年から87年までアーカンソー大教授。56年、ウラン鉱床で自然に核分裂連鎖反応が起こる「天然原子炉」存在の可能性を指摘。72年、西アフリカのガボンで天然原子炉の跡が見つかり、仮説が裏付けられた。[2001-04-19-14:09]

Paul Kazuo Kuroda 1917-2001
Dr.Paul K.Kuroda died at his home in Las Vegas, Nevada on 16 April 2001. He was born Kazuo Kuroda on 1 April 1917 in Fukuoka Prefecture Japan. He received bachelors and doctoral degrees from Imperial University of Tokyo and in 1944 became the youngest faculty member there. In 1949 he received the Pure Chemistry Prize of the Chemical Society of Japan, and in that same year came to the United States. After postdoctoral studies at the University of Minesota, he became an Assistant Professor of Chemistry at the University of Arkansas in 1952.
He became a United States Citizen in 1955. In 1979 he became the first Edgar Werheim Distinguished Professor of Chemistry. While at the University of Arkansas he trained 64 PhD students and was the author or coauthor of almost 400 publications. Among his many achievements, he is perhaps best known for having predicted, in 1956, the existence of pre-Fermi (i.e.,naturally occuring) nuclear reactors (confirmed in 1972) and for having predicted in 1960 that the (almost) extincted isotope 244Pu with a half-life of 82 million years had been present in the early solar system and evidence for its existence could be secured by searching for the presence of excess heavy xenon isotopes in meteorites. The presence of excess 244Pu fission xenon was first detected in his laboratory at the University of Arkansas in 1965.
In addition to the Pure Chemistry Prize, Professor Kuroda received the University of Arkansas Distinguished Faculty Achievement Award (1963), the American Chemical Society Southwest Regional Award(1970), the American Chemical Society Southern Chemist Award (1973), the American Chemical Society Midwest Regional Award (1977), the American Chemical Society Nuclear Applications in Chemistry Award (1978), and the Shibata Prize of the Geochemical Society of Japan (1991).
He was the Honor Initiate of Alpha Chi Sigma Fraternity at its Forty third Biennial Conclave in 1996. He retired from the University of Arkansas in 1987. He is survived by his wife Louise, one son Dr.Paul K.Kuroda.Jr. of Las Vegas, two daughters, Dr.Mitzi Kuroda Elledge of the Baylor Institute of Medicine, and Mrs. Annette Kuroda Russell of Potomac, Maryland, and six grandchildren.

1986年現代日本科学技術者大事典 黒田和夫 T6.4.1(1917年)福岡生れ
Dept.of Chemistry, Univ.of Arkansas
s14.東大理学部化学科卒、副手、16年同助手、19年同助教授、27年アーカンソー大学助教授 別名P.K.Kuroda
日本化学会賞・純正化学賞第一回s23年度
米国化学会賞s45、48、52、53年
The origin of the Chemical Elements and the Oklo Phenomenon(共著) Springer-Verlag, Berlin, Heidelberg,New York '82.12
専門;核地球化学、宇宙化学

<遠き峰峰>
遠き峰々、木村健二郎その時代 510ページ゙ 70有余名
平成2年10月12日、編集・発行、木村健二郎先生記念誌
編集委員会・代表・伊藤春三
目次
序 編集委員長  伊藤春三
序に代えて   木村芳子 平成2.5.12(本の題名)
<随筆・対談・講演>
放射線と私 s51.1-s52.1 放射線と産業
ハフニウムの発見とX線分光分析の創始 1977.6 化学史研究第六号
仁科さんとの出会い 1989.6 仁科記念財団案内
ビキニの灰の分析をめぐって s29.8 分析化学三巻四号
放射化学昔話 1980 放射化学討論会弘前大学
ももとせもきのふのごとし 1988 一高同窓会誌、向陵30巻
回想の山上会議所 1986.12 東大出版会UP170号
<学士院・学会>
木村健二郎先生を憶う   和達清夫
日本学士院での木村先生  森野米三
新潟県瀬波温泉からセシウムを抽出した話 野口喜三雄
木村先生の教え賜いしこと  横山すみ
<東大及び理研、1920〜1956年>
木村研究室の卒論リスト
若き日の木村先生   三宅泰雄
わが国の放射能泉 中井敏夫
本郷と駒込 斎藤信房
有馬とセシウム 山寺秀雄
広島原子爆弾の解明 村上悠紀雄
運命の糸 原礼之助
核分裂生成物と木村ファミリー 池田長生
木村先生と死の灰などの思い出 猿橋勝子
<原研、1956年〜1964年>
大いなる人、木村先生 内藤けい爾
北欧再訪にお供して 夏目晴夫
地方巡業と木村先生 坂上正信
<東京女子大、1964〜68年>
木村健二郎先生をおくる 京極純一
<俳句・連句>
形型子,葉山,木村健二郎先生 有馬朗人
芭蕉七部集歌仙の獣 木村健二郎
歌仙「祝婚歌」 木村葉山捌
<教会>
昔のクリスマス 木村健二郎
隠居生活を楽しむ平和科学者
<思い出>
思い出すまま 木村芳子
感謝 木村幹

年譜
1896年明治29.5.12 宇都宮に生まれる(始祖、弘前)
1913年大正2.5 日本メソジスト戸部教会にて受洗
1920年大正9.7 一高二部乙卒業後、東大理学部化学科卒
1925年大正14.1〜昭和2.4 デンマーク等へ留学(仁科と出会い)
1933年昭和8.3 東大理学部分析化学講座担任教授
(柴田雄次教授(南雄尊父)の後任、門下生98名)
1940年昭和15.7〜33.6.30まで理化学研究所主任研究員
1945年昭和20学士院賞希元素の地球化学的及び分析化学的研究
1951年昭和26.5〜41.5 日本アイソトープ協会理事
1956年昭和31.7、東大教授辞職、原研理事〜昭和39.7まで
1959年昭和39.9〜43.12 東京女子大学長
1970年昭和45.5〜47.8 日本分析化学研究所副理事長
1972年昭和47.8〜49.2 日本分析化学研究所理事長
1973年昭和48.4 勲一等瑞宝章
1988年昭和63.10.12 逝去、92歳

<放射線と私>
1896年パリのポリテクニクの教授ベックレルが放射線を発見した年に
生まれる。1907年、今日の小学高5年に相当する小学校高等科
1年で理科を学ぶ。化学・物理学を旧制中学4,5年、今日の高等
学校1,2年に相当、で学ぶ。中学5年、高等学校3年、大学3年の
学制。高校二部甲類(工科進学コース、60名)、乙類(理科、10名)
丙類(農科、20名)、合計90名が化学を聴講、飯盛理安・理研
主任研究員が先生。第一部は、英法、独法、仏法と文科、第
三部は医者で30名。
<ハフニウムの発見とX線分光分析の創始>
1925.3〜1927.4までコペンハーゲンのボーア研究所でヘベェシー先生の
所でハフニウム(72番元素)やX線分光分析の研究従事
<仁科さんとの出会い>
コペンハーゲンで希土類元素のX線のL吸収の研究をした。
仁科は語学が達者でデンマーク語をマスター、非常に器用で実験上手,
1927年には実験をやめ、理論をやるといい、そけからKlein-
仁科の式。

<ビキニの灰の分析をめぐって>
事件の要約;54年3.1第五福竜丸(99トン、23名)は米国の立入禁止
区域の東方19マイルで漁業中、午前4時すぎ、ビキニの方向に強い
光を求め、しばらくして爆音を聞く、熱あるいは熱風は受けな
いが、帰航の決心、ハエナワを引き上げ始めるが、午前7時過ぎから
白い灰、正午過ぎ降灰の区域から脱出。この灰は午前7時におい
ては1.4Ci/g灰の放射能を有しており、その日の夕 方から全
乗務員は身体に異常を覚える。皮膚はβによるやけどと脱毛
骨髄その他は、γ線や体内沈着の放射線で、急性放射能症。
灰の物質としての本体は、珊瑚礁を形成していた炭酸カルシウムが
変化して生じたと思われる水酸化カルシウム。放射能の根源は、
プルトニウム239の核分裂生成物。
広島長崎の原爆は、爆風、熱線、中性子・γ線せの3つの作用
であるが、ビキニのように核分裂生成物を直接浴びた傷害はほと
んどなかったと思われる。
核分裂生成物は爆発の際に直径1μ程度の微粒となり高く飛び散
り、その僅かの部分が雨とともに特殊な地区に落下したに過ぎ
ないが、ビキニでは爆発により飛散した珊瑚礁の小破片(直径
0.1mm程度)に核分裂生成物が付着して、これが長く空中に浮遊
していることが出来なくて相当、広範囲に落下したと推定。

<木村先生の教え賜いしこと>  横山すみ
アイソトープ協会の私の部屋で、あるとき突然木村先生が
「貴女はせっかちだね。話をすればわかりますよ。これからは
だんだん年をとって行くのだから、せっかちに動き廻るのは
気をつけた方がいいな、特に階段の昇り降りの時には、"私は
いま階段を昇っております。今、降りていますと声を出して
自分に言い聞かせて昇り下りすること、お財布の中のことを
考えたり、明日でかけるお芝居のことは階段をすましてから
かんがえりゃすむことだから」、先生の御注意を守って、私は
決して階段では失敗しないつもりです。

<木村研究室の卒論リスト>
分析化学講座は1921年創立1927年以降は木村が助教授のまま
担当、1942年からは無機化学担当。(以下抜粋)
s6.3三宅泰雄;苗木石の鉛比について
s11.3 中井敏夫 本邦産鉱物及び岩石のラジウム含量
s12.3 浜口博 大島火山熔岩のラジウム含量
s15.3 斎藤信房 第93番元素の生成に就いて
s18.9 村上悠紀雄 V,Cr,Moに関する分析化学的地球化学的研究
s20.9 石森冨太郎 満州国海城産ユークセナイトのラジウム同位体の抽出
s22.9 深井鱗之助 バナジンの生物地球化学
s23.3 池田長生 希土類元素の塩基性 酸塩によるヨードの吸着
s24.3 諸橋又蔵・中島篤之助 鉱物における希土類元素の分布
s25.3 夏目晴夫・八島舜一 La,Ce.Pd,Smの化合物に関する研究

<若き日の木村先生>   三宅泰雄
1931年に東大化学科を卒業、就職難の時代、柴田・木村先生の
おかげで北大化学化の助手、4年後に中央気象台(気象庁)に
転任。ビキニの灰は木村研と南英一研究室で分析。ウラン237は
仁科・木村が発見、ビキニでも発見。

<春の闇>  伊藤春三
s11年に木村教室を卒業し、大牟田の三井化学三池染料工業
所に奉職。
それから10数年後、私は真相を詳らかにしないが、先生の息の
かかった分析研究所でごたごたがあった。このため先生は
学士院会員以外の公職を辞せられたが、いささかも当事者
達を責められることがなかったと聞く。
ユトリロの家ひそませて春の闇、という俳句を葉書で貰う。

<わが国の放射能泉 中井敏夫>
マッヘは温泉、鉱泉のラドンRn濃度を表す単位で
1*10-10 CiRn/li=3.7ベクレル/li=0.275マッヘ
泉水1立中のラジウムRa含量10-12Ra/liをラジウム単位と呼ぶ
大正13年の秋、柴田研究室の木村健二郎、井上敏、南英一の
3名が山梨増冨鉱泉で強放射能泉ときき、昭和10年過ぎから
10余年にわたり木村研究室で放射能泉の研究。
温泉国日本の放射能泉のラドン含量については、当時、放射能が
医療上に効果が多いという点で重視され、その測定は明治44
年頃から始められ、大正2ー4年に内務省衛生試験所が全国
600余の温泉、鉱泉を測定、増富鉱泉の838マッヘが最高。
昭和18年に増冨鉱泉で最高12、000マッヘを記録。
有馬本温泉でも年間に放出のラジウム量は僅か3mg。
外国では独国のOberschlema鉱泉の13,500マッヘ、常時は3000マッヘ
トロン(半減期54.5秒)の測定も進める。トロン含有の最大は
三朝温泉大橋の湯で550マッヘ。

<昭和18年代の木村先生の思い出>上野精一
先生は周期表の左から右に順に講義。助教授黒田和夫。

<運命の糸> 原礼之助
製薬を家業とする家に育ったので大学は薬学部、将来は
薬学にもX線や放射線の知識が必要とのことで、卒業後
木村教室で、分光分析とX線回折。20年前、服部一郎の招き
で原子力から民間会社、その後、科学機器事業部で原子吸光
分析器をつくり、浜口博教授にかってもらう。
<木村先生との出会い> 古川路明
s29年の春、理学部長として話を始めて伺った。その後で
理学部自治会を代表して挨拶したのが、今から4年前の冬に
なくなった水戸巌だった。

<木村先生と原研>中井敏夫
s31.6特殊法人原研が発足、翌7月に理事に就任2期8年間在任
s31.8.10,JRRI起工式、s32.6, JRR1建屋完成、7月末炉の組立て
工事完了、マリンクロット社で作られた硫酸ウラニル結晶(20%EU)が5/28
到着、内藤けい爾、木村幹、梅 沢弘一らが溶解作業、不溶解性
残さが発見で、ガラスフィルターでろ過、8/27に臨界。
核燃料の米国でのサンプリングに立ち会ったのは、向坊隆科学アタッシェ
s34.6原研労組は始めてストライキ、その後も労使紛争が続く。
s38.10.26JPDRは原子力発電に成功、3日後にGE社は原研内の
労働事情に不安を持ち、3日後に炉の運転中止を通告。
11月19日から労使間の協定が結ばれ、運転再開。事態は好転の
萌しが見えたが、菊池正士理事長は辞意、s39.6/1、丹羽周夫に
交代。木村理事は任期を全うしs39.7.27退任。

<猫のなき方>木村先生が研修所のコースにきた外国人から聞く
How does a cat talk?
Burma; Naung
Ceylon;Nyaw
China; Ngiau(Taiwan), Myau(Continent)
India;Miaow
Indonesia;Ngiong
Iran;Myou
Japan;Nya,Nyan,Nyao
Korea;Yaong, Yao,yao
Malaya; Meow, meow
Norway;Mjau
Pakistan;Miaow
Philippines; Ngiaw
Sweden;Miau
Thailand; Miew
USA;Miaow,Miaou
Viet-nam;Miao

<芭蕉七部集歌仙の獣> 木村健二郎
歌仙というのは連句の一形式。五七五の長句と七七の短句
それぞれ十八句を交互に並べ、計三十六句をもって一巻とする
。一巻は表六句、裏十二句、名残の表十二句、名残の裏六句
からなる。芭蕉七部集には合計三十八巻の歌仙が掲載されて
いる。
<歌仙> 「祝婚歌」 木村葉山捌(木村先生の俳名)
祝婚歌洩れ来て柊花こぼす 木村葉山
冬あたたかき夫の古里 小田よう子
(途中32句略)
散りいそぐ花にホテルの暮れなづみ 兎
おぼろに見ゆる遠き峰々(挙句) 芳(木村芳子夫人の俳名)
昭和63年1月首、昭和63年9月尾(於・神田・信交会)
柊;ひいらぎ、クリスマスの飾りや、節分の夜、魔除けとして門にさ
す。

<以下、インターネットより>
○28) 角皆静男: 天然原子炉. 魚眼図, 北海道新聞, 1988.9.24夕.
  大学院生の頃、1ヶ月ほどであったが、私は、ピーケー・クロダ(黒田和夫)教授と同じ部屋で実験し、数々の痛快な話を聞かされた。クロダ教授は、東大助教授の職を投げうって米国に渡り、アーカンソー大学で多数の輝かしい成果を上げる一方、数々の奇抜とも見える説を発表して世界を相手に一歩も退かぬ論陣を張っていた。
  かつて地球に天然原子炉が存在していたという説もその一つである。原子炉が作動するためには、ウランが高濃度で存在するばかりでなく、普通のウラン238に対して核分裂しやすいウラン235が濃縮していなければならない。今から二十億年ほど前、生物が誕生し、空気や水が酸素を含むようになると、ウランは溶け出し、酸素のないところに沈着する動きが始まった。こうして普通の岩石に比べて十万倍のウランを含むピッチブレンドなどが生じた。また、その頃のウランは、現在の約十倍のウラン235を含んでいたので、連鎖反応的に核分裂が起こる条件が整っていた。そして遂に一九七二年、アフリカ、ガボンのオクロ鉱山で天然原子炉の痕跡が見つかったのである。
  地球の状況は、外観ばかりでなく、物質の動きも、酸素があるかないかで一変する。例えば、酸素がなくなると、鉄やマンガンは溶けだし、ウランやクロムは沈着する。最近の人類活動により、空気中の酸素がなくなることはないにしても、酸素の存在しない環境が増えつつあるのが心配である。
 
○17億年前の原子炉のこと
 佐治芳彦氏といえば『謎の竹内文書』などのシリーズが有名で、トンデモ本作者とは思うが、メジャー過ぎて本コラムで扱うことはないと思っていた。しかし最近の作『日本超古代史の謎』(日本文芸社:昭和59年)でちょっと面白い説を見つけたので紹介する。西アフリカのガボンのオクローにあるウラン鉱山の同位体を調べてみると約17億年前にウラン鉱脈が自然に連鎖反応を起こして原子炉になっていたという事実があるという。オクロー現象という名前でSFファンにも広く知られている話だ。ところが、佐治芳彦氏はこれをもとに「17億年前に原子炉があった」ゆえに「17億年前に原子炉を作れる文明人がいた」と主張する。これには本当にビックリした。これも常識を破る発想ではある。先カンブリア紀とアトランティス文明を同列に扱う神経には本当に参ってしまう。
 原子炉が天然のものではないという根拠に「減速剤として不純物が一万分の2〜3%の純水でなければならない」などと言っているがこれはウソ。このあたりのことはブルーバックスからでているズバリ『17億年前の原子炉』(黒田和夫著:昭和63年)に詳しい。ところが、この本は佐治氏の本とはまた別の意味でトンデモない本なのだ。この著者はオクロー現象の発見以前から天然原子炉の可能性を指摘していた偉い方らしいが、論文を引用してくれないとか、研究費を切られたとか、学会で四面楚歌になったとか、弟子が裏切って攻撃してきたとか、切実なことでも普通は書かないようなことがバシバシ書かれていることがおもしろい。

○1999. 6.16朝日新聞記事;日・第 2次世界大戦当時の日本の原爆開発原理に基本的な誤りを発見(理研の仁科芳雄は水による減速中性子による連鎖反応を考えていた,旧陸軍内部文書の一部が焼却を免れ米アーカンソー大の黒田和夫が保管,東工大の山崎正勝が資料より確認)