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☆★☆★2009年05月30日付 |
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「愚痴」「ため息」「くよくよ」の三つは、健康にとって「三大毒素」といえるだろう。医学的な根拠があってのことではないが、その毒素を作る大元がストレスだから、これはストレスがたまっている結果の現象であり、健康を害すことになるというこの論理は、飛躍しすぎだろうか?▼いかにも悟りきったようで鼻白まれるだろうが、そう悟りきれないからこそのこれは自戒の弁なのである。最近嫌なことがあって、ついため息をつき、これではいけないと思い返した。それは人生の大先輩から「ため息をつくと三日寿命が縮まる」と諭されたことを思い出したからである▼なるほどため息は体調に微妙な変化をもたらし、バイオリズム(体内時計)を狂わせるはず。つまり「くよくよ」が「ため息」をつかせ、その結果として「愚痴」になって表れる。しかし誰だって他人の愚痴など聞きたくもないし、喜ばないから何の解決にもならない▼以上の因果と相関を「毒素三兄弟」の企みと考え、この兄弟はできるだけ相手にしないことにした。原因があれば結果がある。しかしその結果が好ましいことではないにしても、それを排除できない以上は仲良くするしかない。と、悟ればいいのだが、これは難しいのも事実▼だが「物は考えよう」である。対象物Aは正面からみると四角だが、横は三角になっているかもしれない。視点を変えることによって別な見方もできる。嫌なことがあれば、それは良いことの前兆かもしれない―と考えることが長寿につながる。うむ、修身の時間になった。 |
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☆★☆★2009年05月29日付 |
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落ちるところまで落ちるとあとは這い上がるだけだ。世界同時不況の嵐に巻き込まれた日本だが、嵐がいつまでも続くわけではない。その一過を待てば、やがて薄日もさす。心なしか空の向こうが明るくなってきたように見える▼不況と聞いただけで人間は警戒する。その心理が門を閉ざし、雨戸を閉めて家の中にじっと閉じこもるようにする。「不況マインド」というのがそれで、不安が先行するあまり、経済の実体そのものを見ずただ思考を停止してしまうのだ▼バブルが崩壊してその落差の大きさに驚いた日本経済は、すっかりおびえてしまい、政府が景気浮揚のためにどんな財政出動をしても財布のヒモをゆるめることはなかった。せめて金融機関だけでも安定し、企業を援護すれば活性化もしたが、肝腎のご本尊がぐらぐらし、貸し渋り、貸しはがしなどをしたものだから、結果は逆に▼親ガメがこけたから小ガメもこけ、それを見たカエルや虫たちは動転して、すっかり自信を失ってしまった。不況マインドとは足がすくんで前に進めない状況を生み出す元凶である。政治の無策も手伝って「失われた十年」という不名誉な年月が続き、それが長期不況をさらに長引かせた▼そこへもっての世界的逆風だが、しかしそろそろ人間は不況に飽きはじめた。いつまでも穴の底にうずくまってはいられない。「這い上がってみようか」という気になった。そんな動きがほの見えだしたのである。経済はすぐれて心理的なものだから、そこを見なければなるまい。年内に必ず順風が吹き出す。そんな「気」が伝わってくるのである。 |
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☆★☆★2009年05月28日付 |
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昨日の新聞二紙に同じような記事が載っていて、時代の潮目がはっきりと分かれつつあることを感じた。それはハイブリッド車(HV)に関するもので、時代がそれを求め、求めに応じて状況が変わるという歴史の必然性を現実に見る思いがした▼HVが好調ということはつとに報じられてきたことだが、メーカーにとってこれは諸刃の剣でもある。つまり他の車種が売れなくなるという不安がつきまとうからである。だがそれは売る側の論理であって、買う側にとっては何が有利かが判断基準となる。エコカーに対する優遇税制も追い風となって雑種(ハイブリッド)はいまや純血種に変わろうとしている▼ガソリン高と環境保護という時代背景が、燃費が良く二酸化炭素の排出量を相対的に減らすHVを時代の寵児に押し上げつつあるこの事実こそ、歴史の転換点とは人間の作為からではなく、自然の摂理の中から生まれることを物語るものと痛感させられた▼二紙の記事によると、トヨタは年内に四車種、来年一車種を追加投入、ホンダは来年二車種を追加、日産が来年新規参入、他のメーカーも十一年以降に追随する計画だ。やがて全車種の二割に達するだろうというHVの将来性に賭けた二社の先見性と技術力を見ると、時代の空気を読めるのと否とが運命の分岐点になることを予感させる▼HVの実用化に二社が他国より先行しているのは、まさにモノづくり日本の実力を示すものであり、ウサギにならずにカメを選んだことの回答が出た。英語で言う「タートルビジネス」(のろまな商売)の勝利である。 |
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☆★☆★2009年05月27日付 |
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理屈とは誰をも納得させるものであらねばなるまい。でなければ相手を納得も説得もさせることのできない単なる屁理屈に終わるだろう。北朝鮮の核実験に対して米中露が早速非難したが、こんな屁理屈が通用する?通用するわけがない▼核保有グループに新たな仲間が加わることになって、加入申請した。「あいつは協調性がないから入れるべきでない」という場合は確かにある。しかし会員として資格を有するのに、その会員資格までを否定し、「けしからん」と言って非難するのは屁理屈以前に論理破綻というものである▼したがって新たに会員資格を得た「金正日商事」が、「核開発協同組合」への加入却下の決定に「理屈が通らん」と憤慨し、よしそれなら一匹狼となって業界をかき回してやろうと思っても、組合はそれを阻止できない。屁理屈は結局屁に終わる▼国連の安保理は緊急会合を開いて非難決議をするようだが、そんなものは屁の突っ張りにもならないことは過去の例からも明らか。第一相手が「はいそうですか」と応じるようなタマでないことは誰もが承知だ。米国はともかく、中国もロシアも一応非難してみせるがその実、元々同じ穴のむじな。内心は「よくやった」と「舎弟」の成長を喜んでいる▼こうした虚々実々の駈け引きを見せられるのは空しいというよりうんざりだ。しかし元々組合は論理的抑止力を持たないから新しい「非組合員」は確実に増えていく。そしてそのうちどの国も核を持つようになる。「みんなが持てば恐くない」と。 |
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☆★☆★2009年05月26日付 |
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「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」と言われるが、その恥をしのべず知らずに終わることが多い。むろん自分のことである。「それはどういうことですか?」と素直に聞けばいいのに、相づちを打ってごまかしてしまうのだ▼後でこれは良くないと後悔してもすでに遅し。それだけで済むならいいが、辻褄が合わずに無知を見破られたりすることになるのだから、やはり虚心坦懐に聞き直すに如くはない。それにしても格言とは人生の素晴らしい教師ではないか▼しかし現代はネットという便利な教師が現れた。ネット上にある電子事典や辞書で、キーワードを打ち込むと説明やら回答やらが瞬時にして画面に表示される。小欄を書くにあたってこの利器を多用し、あたかも以前から知っているように書くのだから、いわば詐欺の常習みたいなものだが、それはお許しをいただきたい。誤認よりは罪が軽いだろう▼おかげで百科事典を引っ張り出すことは滅多になくなった。悪貨が良貨を駆逐する構図と同じで、かって事典を読破する作業に挑戦しようとしたことなど、まったくむなしい行為だったと思うようなものだ。だが、身に付く知識とはそれなりの苦労が伴ってなされるもので、電子事典は知識が上滑りするだけに終わる▼百科事典の読破は第一巻の途中であえなく挫折してしまったが、リタイアしてヒマを持て余すようになったら今度は日本語辞典のそれに再挑戦しよう。ただし身に付くかどうかとなると脳がノーというかも。 |
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☆★☆★2009年05月24日付 |
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「昔語り」が続いたので本日は「今語り」としよう。「昔は良かったね」というジャズの名曲があるが、過去はどうしてもいいことずくめに潤色されてしまう。その点、今は現実を直視しなければならず、昔は…となるのだ▼いま本当に情けないのは、体力の衰えである。走ったり歩いたりする運動能力が歳相応に低下するのはやむをえないが、日常の細かなことで、ああ老いたりと痛感するのが指先に力が入らなくなったことである▼たとえばワイシャツのボタンをかける時などだ。以前は簡単に収まったのに、これがなかなか思うように行かない。穴をもっと大きくすればいいのにと思うが、安シャツのためかそんな配慮に欠けている。カフスボタンが発明されたのは、こういう体験から生まれたのかと合点した▼もう一ついまいましいのは、インスタントラーメンやら弁当やらなどに付いている醤油やタレ。ソースなどの袋だ。若い頃なら簡単に引き千切れたのに、それがなかなか思うようにいかなくなった。指が濡れている時などはなおさらで、結局はハサミを用いて切り開くことになる。視力が衰えているので、切り口を見つけられないことも多く、この国は老人にちっともやさしくない国だと思うこと再三▼以上を当方一人だけの特殊なケースと思うなかれ。宴席などで悪戦苦闘したあげくに「おい、これを開けてけろや」とお隣から問題の袋を託されることが結構ある。「千切る」とは老いてもっとも苦手な作業なのである。 |
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☆★☆★2009年05月23日付 |
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久しぶりに古いアルバムをめくってみると、時が停止して昔を大切に保存していてくれた。わが「ご幼少のみぎり」は、いかにも「おらあ三太だ」といった趣きで、まさに「田舎のワラス」である▼着衣を見ると、当時の生活を正直に物語っている。大方が姉や兄の「お下がり」を着て、ところどころにツギがあたっているのが普通で、栄養不足だったせいか、少なからずが青っぱなをたらし、それを袖でぬぐうものだから、袖口はその「堆積」で鈍く光っていたものだった▼小学校の入学式ぐらいはまともな服を着ているが、そのあとは「普段着」だから、「パッチワーク」の花盛り。「ツギ」は英語で「パッチング」。だからパッチワークを「ツギはぎだらけ」と訳したら叱られるだろうか。わがつれ合いがパッチワークを好むのは昔懐かしさのあまりだろうと思ったりする▼しかしみんなが貧しく、それが当たり前だったので誰もが「ボロを着ても心は錦」状態だった。級友たちの顔はみんな明るく、童心をそのまま絵に描いたようである。少なくとも「物質文化」に毒されることなく、気ままに遊んでいたことが表情に表れている。教科書も大半が身内か知り合いの「お下がり」だから、かなり「使い込まれて」いた▼このところ小欄が「昔語り」になるのは、ただ懐かしいからではない。物質的に豊かになるということは、何かを失うことでもあるという一事を若い世代に知ってほしいからである。心が豊かであれば不正など生まれるわけがないからだ。 |
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☆★☆★2009年05月22日付 |
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くわしくは覚えていないが、子どもの頃、いや中学生時代までだったか「農繁休業」というものがあった。田植えともなれば、それこそネコの手も借りたいほどの忙しさだから、子どもも動員された▼米どころならともかく、飯米地帯の当地でそれほどの労力が必要とされたかどうかは別にして、おそらく全県的に歩調を合わせなければならなかったのだろう。「ノーハン」というのがどういう意味かわからなくても、学校が休みになるのだから、子どもたちは大喜び。むろん当方など大歓迎だった▼田んぼどころか、一坪の畑もないわが家では「漁繁休業すらないのに、なにが農繁休業だ」とこの「特別休校」に冷ややかだったが、しかし考えてみれば、田畑を持っていると、中学生はおろか小学生まで貴重な労働力とみなされたのかもしれない。苗を運ぶだけでもそれは助かる▼田植えというものを小学生の時分に一度だけしたことがある。本家の田植えに家族で手伝いに出かけたのだが、腰をかがめて苗を植えていく仕事のいかに大変かを知らされた。しかしその代償としてあぜ道でご馳走になったにぎり飯のうまさだけは忘れられない。いわゆる「こびる(小昼)」だが、「空腹にまずいものなし」とは、労働の大切さを教えたたとえなのかもしれない▼その農繁があっての「豊葦原の瑞穂の国」であり、青々とした水田を見ると安心するのは耕作民族のDNAだろう。減反などやめて増産しろとむしろ外国から言われるのだから、農政はいまだ「ノー政」の域を出ていない。 |
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☆★☆★2009年05月21日付 |
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ホッチキスというものが登場した時、これは便利と早速購入した。クリップというロングセラーの弱点を補ったこの発明は、いまだこれを凌駕する商品が見当たらない。しかしこれは商標名で、一般名詞は「ステープラー」▼油性ソフトペンの登場も画期的だった。「マジックインキ」といったが、これも商標名。しかし油性ペンの総称としていまも「健在」だ。インスタントコーヒーに供されるようになったミルクもこれまたインスタント製品が主流となり、最初に登場した「クリープ」が商標名から代名詞に格上げされた▼ラッピングフィルムという概念を持ち込んだのが「サランラップ」で、これも商標名だが、そのラップをメーカーを問わずサランラップという名残がいまも続いている。東南アジアではバイクの代名詞が「ホンダ」、「セロテープ」も、スポーツドリンクの「ポカリ」も同様だ▼このように商標が商品の一般名称になったのは、開発者利得というもので、それはまた重宝されることの証明である。化学調味料の代表格である「味の素」は、きわめつきのロングセラー、ベストセラーで、この会社が現在も元気なのはこの商品があってのこと。その勲章が海外でも「アジノモト」で通用すること▼バイクは除き、いずれも日常身近で世話になっている商品で、ヒット商品を発明をするならこうした身の回りを見渡すことだろう。残り物をラップしながら、冷蔵保存と「チン」に貢献したラップの存在を改めて見直した。 |
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☆★☆★2009年05月20日付 |
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舶来のインフルエンザなるものが感染者を増やしたものだから、この不況を尻目にマスク製造業者は大忙し。特に感染者がダントツに多い神戸市など薬局に長い行列ができ、売り切れ続出だという▼その行列に並ぶ人たちも一様にマスクを着用しているものだから、一種異様な光景に見える。転ばぬ先の杖であり、防護につとめるにこしたことはないが、香港型であれ、ロシア型であれ国内のインフルエンザには案外無神経でも、世界中に感染者が拡散している国際型ともなれば着用率が増えるのも道理▼マスクにも変遷があり、子どもの頃家にあったマスクは茶色の革製だった。これは戦前、戦中に使われた防毒マスクの名残だと思うが、そんな重々しいマスクはやがて姿を消して、四角いガーゼ製で、中に何枚もガーゼを重ねるスタイルのマスクが一般的だった▼それが花粉症の登場によって改良が重ねられ、現在のようなスマートな形となったが、個人的には以前の四角型が好きである。それは、マスクとはかくあるものという既成概念がそうさせるのだろうが、当節風は強盗が顔を隠すために用いるそれを連想させるためだ。そんな行列ができるから異様に映るのか▼政治の世界もマスクばやりだ。なに政界にインフルエンザが蔓延しているというのではなく、政治の顔が見えないという意味においてである。こちらはマスクなどはずし、本当の顔をさらして正々堂々と戦ってほしいものである。 |
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