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2008年01月21日

伊丹市中村区の住居名が消えていく(3):鄭容順

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日本植民地時代の歴史が1つ消えていくことになる。しかし人々は生き続けている。その人その人の生き様がありその子孫がいる。歴史はそこにあったということは伝えていかなければならない。

その歴史の語り継ぎは住民が地域の行政とともに何かの形で活動していくことで日本植民地支配の歴史は受け継がれていくと筆者は見ている。初めて現場取材で中村区に入った。在日コリアンはたくましい。どこにいても強く生きていくエネルギーを持ち合わせていると実感した。そしてそのエネルギーはハンデイキャップというものと融合して在日コリアンの感性の成立ちになったとまた認識した。今後どんな活動していかれるのかまわりは期待している。

文章は昨日の続きとなる。報告集会の様子を伝えていく。
続いて朱昭一さんの報告である。
立退きで1番のネックになったのは1970年の万博の開催で大阪国際伊丹空港のB滑走路が中村区に食い込んでいた。手がつけられなくて150㍍の滑走路は120㍍しか作れなかった。環境問題として国土交通省と解決したいという申し入れから始まった。3分1の50世帯は補償金受けて他に移転した。そして移転問題でアンケート調査を実施、8割の賛成に最初は驚いたが長く住んだ住民は不法占拠ということを認識していた。移転補償金が出ればということで8割の賛成になった。そして問題解決で困難だったのが54社の事業経営者との話し合いで生活基盤に対する交渉、3万4千坪は3万2千坪という土地の中に事業者の土地を確保した。事業者の土地、前は1万8千坪だったが今回は1万5千坪で解決した。
朱昭一副会長は「しかし国はこれで戦後補償になると考えているが記憶の歴史を残さなければならない。何かの分析を残して自分たちの暮らしの記憶、市営住宅に移り住んだ後、4・5年もすると歴史の形跡はなくなっていく。中村地区を文献的に重みを持って残していくことにしていきます。これが私たちの戦後資料になっていくことになります。立退きが終わっても私たちの暮らしの歴史は緑地化されたとしても私たちの歴史の第1歩を進めていきます」と話した。
中村地区は飛行場建設のために朝鮮人が労働者として住みついた。国家総動員法で慶尚南道を中心にして1000人の朝鮮人が強制連行された。解放後、飯場は朝鮮人労働者居住し日本人は炭鉱閉山でここに多くが移り住んできた。バラックを建ててすんでいた。1957年の火事で何戸が焼失、その後の何度も大火事を出した。伊丹市との立ち退き問題も何度も浮上したが住みついた。後に自治会を作り自主的に消防活動を行ってきた。インフラ整備は30年前の2007年の電話加入工事、電話がないと仕事ができないということからだった。上水道は隣接する池田市の汚水処理工事のために中村地区のポンプ飲料水が渇水したことから伊丹市と共同で4・5件に1本ということで共同水道を設置された。電気は米軍占領下になっていたので電気はすでについていた。
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今回の立退きによって大阪空港は整備されて滑走路の拡張、レーダサイトもさらに拡張していく。掘り下げて工事されていく。滑走路以外の部分は公園になり「伊丹市中村区」の形跡はなくなっていく。
参加者の間から「歴史事実が消滅されることで時間の経過とともに強制連行などの史実がなかったことにつながっていくと考えている」と話しウトロ町内会の厳明夫副会長は「ウトロと似ているところは飛行場建設に従事した朝鮮人である。5年前に中村区を見学した時ウトロ問題は解決策が見えなかった。しかし今回の訪問は違う形になりました。ようやく韓国政府の支援で光りが見えてきました。中村地区は行政と200回を越える協議をしたということですがウトロも今後こうした協議をしていかなければならない」と話した。
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報告集会の後、朱昭一副会長の案内で中村区内を見学、第1期工事でできた市営住宅の5階に上がり中村区を一望した。町の中に入って滑走路が120㍍しかないところも見学、万博の立退きで更地になった土地、飛行機の排気ガスで真っ黒になった家屋の壁、立退きがすむと空港の用水炉になるところも見学、以前堤防があったところは現在道路になっているが猪名川に隣接した中村区は何度も洪水に見舞われたが道路工事と猪名川堤防の整備で洪水問題は解消されたことの説明も聞いた。見学者は猪名川の堤防の土手に上がり洪水の状況と当時の住民の話を聞いた。
見学している間も頭上に届くほどの近距離で飛行機が離着陸する轟音を聞くことになった。市営住宅は防音対策もされているということで集会所に入ると飛行機の轟音は一切聞こえなかった。
この書き込みはこれで最終回です。
【写真説明】①中村区のフイルドワークで説明をする朱昭一さん。②町の中を見学、空港の用水路になるところも見学。③猪名川の土手に上がり中村区を一望した。

2008年01月21日 09:06

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