黄河決壊を命じたのは蒋介石だ。蒋介石は自伝で、黄河堤防を「有史以来、中国の為政者にとって最大の事業の一つ」であると賞賛した上で、それを自ら決壊させるのは「まさに断腸の思い」とし、しかし日本軍の侵攻を食い止めるために必要な策だったと言っている。確かに黄河の決壊によって日本軍は進撃を一時阻まれた。しかし損害はほとんどなかった。水に囲まれて孤立した日本軍第十四師団でも、洪水による死者はたった三名だった。それに対して民衆の被害は甚大だった。濁流に多くの人と家畜が呑み込まれ、家屋や田畑は水没し、水が引いた後には伝染病が蔓延した。
一面、水浸しとなった農村地帯(1938年)
黄河決壊を伝える新聞紙面
(東京朝日新聞,1938年6月16日朝刊)
黄河決壊は、当初中国側が日本側の仕業として宣伝したこともあり、世界中で騒がれたが、意外なことにその被害の実態についてはあまり知られていない。特に人的被害については、蒋介石のように被害がほとんどなかったとする主張に対して、中共などの罹災者一千万人を超えるとするものまで諸説入り乱れている。
蒋介石は自伝のなかで「冠水地帯の水深は、最大でも一メートルに及ばず農民は歩いて往来できた」として、住民に被害はなかったとする(秘録146頁)。確かに北支那方面軍の試算でも、6月9日から15日までの流量を冠水面積で単純に割った計算では、水深をおおよそ平均1メートルとしている(方軍地秘第39号)。水の流れもそれほど強くなく、中牟城に孤立した日本軍も深さ1メートル程度の水の中を徒歩や騎乗で脱出している。ただ、中牟で最も水位が上がった16日には城壁頂上の1メートル下まで水が迫ったというから(第十四師団史250頁)、状況や場所によっては危険だった。乳幼児や老人、病人など弱者が悲惨だったことは想像に難くない。
被害状況についての第一報は、6月21日に日本軍の占領下にある開封の治安維持会と商務会が発表している。それによると、罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、被害面積約200平方キロという(大阪朝日6月21日報道)。一方で、1943年(昭和18年)の国府軍第十五集団軍による調査では、被害面積約660平方キロ、被害家屋(部屋数)は約59万房、被害総額は約30億法幣元に達するとしている(梁264頁)。国府軍の調査結果では被害面積が開封治安維持会発表の数値より3倍以上と開きがある。7月以降の夏季に水量が増えた時期と、安徽省における冠水面積も含めたからなのだろうが、それにしても大きな差だ。過大に見積もった可能性もある。
そして、問題は行方不明者=死者だ。少なからぬ住民が戦火から逃れるために決壊前に避難していたとも考えられ、決壊後は冠水のために帰郷できないから事後の戸籍把握も困難、そして遺体は濁流に流されたか、水が引いた後に黄河が運んできた大量の土砂に埋まってしまうなどして、実数を把握することが難しいからだ。
河舟で家畜の死骸やゴミの放流作業を行う日本軍(1938年)
死者数については、終戦後の1945年(昭和20年)12月に国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」がある。それによると、1944年(昭和19年)末の段階で、洪水による死者約32万人、離郷者数約63万人という数値を提示している。当事者による調査で、しかも戦時中のしがらみもない。最も信頼に足るデータと言って良い。そして台湾の研究者が、この調査報告をはじめとした関係史料を基に、戦争勃発前の1936年(昭和11年)の人口統計と比較して人的被害の把握を試みている。それによると、河南省における死者は約32万人で死亡率平均4.8%、離郷者数約117万人、離郷率平均17.3%という(韓・南「黄泛区的損害与善後救済」,梁262頁所収)。
この点、基となるデータは、1944年(昭和19年)末までの人口増減で計算しているようだ。すると、決壊時だけでなく、その後の新黄河の氾濫、旱魃、疫病などによる死者、反対に出生や移住者による人口増も全て含まれた数値となるから、このままでは純粋に1938年の決壊による死者数は分からないことになる。しかし、決壊に関する人的被害を扱ったもので、具体的な数値を各県毎で網羅しているのはこのデータぐらいだ。他に手がかりになるようなものもないので、これを元に当時の状況を推測してみるしかない。
*死者・離郷者の数値は梁262-263頁、冠水地域は北支那方面軍史料より作図
まず、現代まで残っている河道が三つあり、ひとまずこれらを西方の上流側から第一新黄河、第二新黄河、第三新黄河と名付けよう。これらの河道上は、もっとも水が流れやすい地形のはずだから、決壊による被害は、これらの河道上の近辺で集中したと考えられる。そして、河道上に位置する県の被害について言えば、単純に考えて、決壊地点に近ければ近いほど、決壊口が上流に近くなるにつれて被害の度合いは大きくなったと言える。ゆえに、(1)最も上流の第一新黄河から順に第二、第三と被害が大きく、(2)決壊地点に近ければ近いほど被害が大きい、と推測できる。
ここで先ほどのデータを見ると、死者数では(1)は当てはまるが、(2)については当てはまらない。例えば、第一新黄河の場合、最も決壊地点に近い中牟では、死者は約1万人(死亡率4.5%)だが、決壊地点から下流約50キロの尉氏と同90キロの扶溝では、死者が共に約7.8万人(死亡率26.8%、25.5%)と、中流域で死者が多い結果となっている。これは、決壊地点に近い住民が高台へ避難するなどして洪水から逃れ得た事実と符合している。
中国軍による決壊作業は6月4日から行われており、大量の水が流れ出したのは11日夜半で時間的に余裕があった。花園口の住民は中国軍から決壊のアナウンスがあったと証言しており、実際に住民の死者はゼロだったという(梁P151)。当時方面軍参謀だった杉本壽も決壊地点の三劉砦の住民の話として「党軍たちは時間を与えてくれたし、その間に種子や家具什器類は高い所へ運んだし見舞金もくれた」と回想している(杉本回想)。中牟城で孤立した日本兵も、水死体は獄舎に取り残された囚人の遺体くらいしか書き残していない(森山回想)。ようするに決壊地点近くの住民は避難できたが、中流域の住民は洪水が迫ってくることを知らず、避難する間もなく洪水に呑み込まれたと考えられる。ちなみに、決壊時間と流速を概算してみると、尉氏と扶溝に水が押し寄せたのは11日夜半から翌早朝と推測される。
この点、河道上に位置しない県について見れば、通許と淮陽で被害が大きくなっている。通許では約3万人、淮陽では約5万人弱と死者が多い。地図を見ても分かるように、両県は河道に囲まれおり、水による被害よりも、交通途絶による餓死などが多かったのかもしれない。日本軍も孤立した部隊に膨大な量の糧秣を空輸投下したほど事態は緊迫していた。
そして、データでは死者数だけでなく、離郷者数と離郷率もカウントしている。第一新黄河と第二新黄河で離郷率が高く、河道上に位置する県で離郷率が高い傾向がある。土地が水没したままで離郷を余儀なくされたりしたからだ。そこで離郷が決壊をきっかけにしたとすると、離郷率が高い県について言えば、決壊以降の人口増減が母数に与える影響は小さくなるから、データ上の死者数は決壊時に生じた死者数に比較的近いと言える。離郷率が高いのは、第一新黄河の尉氏の55.2%、扶溝の55.1%、西華の67.7%で、これら三県の死者だけで17万人を数える。決壊による人的被害を確定させるのは不可能だが、やはり数十万人の規模の犠牲者は出たとみてよいだろう。
決壊によって黄河本流は水量が激減した。晴天が続く日などは水無川となり、砂漠のような風景と化したという
(河南省北部長垣東方の黄河渡河路,1940年)