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東京の地名の由来
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平成17年2月11日発信 リンクフリー 地名の由来東京23区辞典 引用自由 |
| 練馬区の地名の由来 現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心 ご意見とご教示→メール |
| 9・11(アメリカ同時多発テロ)自作自演疑惑 港 区 |
| 申し訳ございません。「江戸屋全国的名品案内」は多くのユーザーの方の ご要望により、 ページを起こして移してあります。 こちら |
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| ★各区夫々の主な記事 |
| Home | 【巻末特集】 江戸・東京名数一覧 | 江戸東京 | 東京は首都ではない 皇室典範・女系天皇 |
| 足 立 区 | ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園 下山事件 西新井大師 大鷲神社 伊興寺町 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋 女子高生コンクリート詰め殺人事件 |
荒 川 区 | あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故 開成中学校・高等学校 尾久の原公園 大関横丁 素盞雄神社 天王祭 大橋谷中延命院一件 【巻末特集】 江戸しぐさ 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女 |
| 板 橋 区 | 自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷 |
江戸川区 | 葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動 |
| 大 田 区 | 池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷 洗足池 |
北 区 | 静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋) |
| 江 東 区 | 外郎売 永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺 |
品 川 区 | 品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん |
| 渋 谷 区 | 明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑 忠犬ハチ公 ライフル乱射事件 渋谷川 夫バラバラ殺人事件 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院 |
新 宿 区 | 浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件 八幡様 陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム 731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市 |
| 杉 並 区 | 青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺 不美人=ブスとは? 大宮八幡 ガンダム 妙法寺 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 天保新水堀用水 |
墨 田 区 | 東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺 |
| 世田谷区 | バンク・約束手形 花形敬 ウルトラマン 民家園 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川 |
台 東 区 | 浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん |
| 中 央 区 | 「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス |
千代田区 | 靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流 |
| 豊 島 区 | 池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園 【巻末特集】 東京の暴力団 |
中 野 区 | 新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園 【巻末特集】 江戸城 城門と橋 |
| 練 馬 区 | いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院 |
文 京 区 | 狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議 |
| 港 区 | 増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点 9・11(アメリカ同時多発テロ)自作自演疑惑 |
目 黒 区 | 滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま |
練馬区の地形 練馬区は、ほぼ全域が武蔵野台地の中央部北側に位置している。これら台地には、石神井川・ 白子川などの小河川や水路などによって削られて形成された大小の谷が複雑に分布している。平 坦であるがため水量がなく、水田には向かず、江戸の近郊農村として、野菜の供給地となった。 その最たるものが練馬大根で、漬物業が発達した。ただ台地の中央に位置するため運搬に苦労し た。北の荒川に下りて水運を利用するか、川越街道→中山道、清戸道の長い道程を牛車・馬車で 直接運ぶかするしかなかった。 |
| ■地形・地質と住宅地盤 |
| ●台地面 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われてい る。関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積し たローム土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地 盤として良好な場合が多い。区の大部分。 |
| ●台地と低地の境 台地の側面が低地側へと下っている傾斜面で、台地面と同様に安定した地盤となっている場所 もあるが、後背地から浸透してくる雨水や地下水の影響で地盤が軟弱化したり、雨洗によって台 地側から運ばれて再堆積した軟弱土が分布する。また人為的に造成されていることも多く、場所 によっては盛土の厚さが異なるように地盤のバランスが悪くなっていることがある。従って不同 沈下を防止するような基礎補強策が必要となることも多い。 |
| ●谷底低地 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布して いる。台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常 に軟弱な地盤となっている。したがって、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強 策が必要となることが多い。石神井川・白子川の各流域、小河川の流域。 |
練馬区の変遷 現在の練馬区の区域に入る江戸時代の中新井村・中村・上練馬村・下練馬村・上土支田村・下 土支田村・上石神井村・下石神井村・田中村・田中新田・谷原村(やわらむら)・関村・竹下新田 ・江古田新田・小榑村・橋戸村の16ヶ村は次のような経過を辿った。 |
● 明治2年1月13日豊島郡の江古田新田を除く13ヶ村は小菅県、2月9日品川県に編入。 同4年7月14日廃藩置県により品川県が廃され東京府に編入、戸籍法、地租改正角など一連の 中央集権化の過程で、大区小区制を強化、それにより当区は第八大区に配され自治権喪失した。 この大久保利通の専制強圧政治に国民は猛反発、不平武士の義挙が各地に起こり、やがて全国的 な住民権運動に発展していった。これ対して大久保が弾圧と暗殺で応じたため国民の怒りは頂点 に達し、同11年5月14日大久保が天誅を恐れて仮皇居への通勤路を変えた麹町清水谷の沢道 で正義の刃の下に斬殺され権力の座から引き摺り下ろされた。親玉を取られた内務官僚は周章狼 狽、てんやわんやの大騒ぎの上2ヶ月後の7月22日大慌てに大区小区制を廃して「郡区町村編 制令」を施行、それにより北豊島郡に復し、同22年4月25日新政府として初めて自治権を認 めた「市制町村制」を公布、5月1日下練馬村・上練馬村・石神井村・中新井村となる。 |
● 明治2年1月13日豊島郡江古田新田は小菅県、15日後の1月28日に大宮県(9月29 日浦和県と改称)編入。しかし大区小区制では第八大区に編入、同11年「郡区町村編制令」に より東京府北豊島郡上板橋村所属。 |
● 明治3年10月新座郡(にいくらぐん)の小榑村・橋戸村は浦和県から品川県に編入、同6年 入間県に編入、同8年熊谷県編入(※角川日本地名大辞典によると6年6月15日入間県は熊谷 県に改まっている。8年編入は解らない)。同9年旧入間県は埼玉県に編入して、同11年「郡 区町村編制令」により埼玉県新座郡に復す。同24年「市制町村制」により2村は合併して「榑 橋村」となる。同年9月新座郡新倉村長久保とともに東京府に編成替えとなり石神井村の上土支 田とあわさって北豊島郡大泉村となる。 昭和3年下練馬村が町制に移行、同7年東京市周辺郡部の都市化により東京市と合併して20 区を増設することになり北豊島郡練馬町・上練馬村・石神井村・大泉村・中新井村の1町4ヶ村 は板橋区内の48町となる。同22年東京都35区の再編統合により板橋区から独立、同52年 45町となって今日に至っている。新住居表示は西大泉町1179番地のみが飛地のまま未実施 で残っている。 区役所は豊玉北6丁目にあり、友好・姉妹都市は北京市海淀区・イプスウィッチ市(オースト ラリア)・長野県武石村。 ●小学校71(国立1、私立1) 南町・開進第一・開進第二・開進第三・開進第四・小竹・旭丘・豊玉・豊玉第二・豊玉東・豊 玉南・練馬・練馬第二・練馬第三・練馬東・向山・中村・中村西・泉新・谷原・北原・富士見 台・南が丘・石神井東・南田中・光和・石神井・石神井西・上石神井・上石神井北・下石神井 ・石神井台・関町・関町北・東京三育・立野・大泉・大泉東・大泉西・大泉南・大泉北・大泉 第二・大泉第三・大泉第四・大泉第六・大泉学園・大泉学園緑・大泉学園桜・橋戸・旭町・光 が丘第一・光が丘第二・光が丘第四・光が丘第五・光が丘第六・光が丘第七・光が丘第八・田 柄・田柄第二・田柄第三・春日・高松・豊渓・八坂・北町・北町西・仲町・早宮 東京学芸大学附属 ●中学校38(国立1、私立3) ●高等学校15(国立1、私立4) ●大学4 上智大学神学部・日本大学芸術学部・武蔵大学・武蔵音楽大学 ●図書館12、中央図書館はない ●文化施設 郷土資料館・光が丘公園・城北公園・美術館ぐらいで練馬らしく文化行政は発展途上。マ イナー区からメジャー区へ1日も早い精進が望まれる。江戸川が先か練馬が先かというとこ ろ・・・ |
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練馬の由来 @、むかし野武士があちこちの牧場から馬を盗んでは調練して売っていた「練馬」説。 A、豊島氏の家臣志野(篠)某が馬術に長(た)け、家来に盛んに乗馬させた「乗馬」説。 B、土器を作るため赤土を練った「練り場」説。 C、古代の官道の「乗潴(のりぬま)」説。 D、石神井川流域の低地は広大な湖沼地帯で下流の水田地帯から見て奥の沼「根沼」説。 などがこじつけられているがどれもスカッとこない。しかし三宝寺池・氷川神社・厳島神 社・石神井神社・水神碑などなどからして、この地に住んだ人々は水を大切に思うこと一入 (ひとしお)だったとすると根沼説がぴったしかな?・・・練馬という馬はいないし、乗潴駅 も今ひとつハッキリしないが場所は練馬4丁目の白山神社だといわれている。野武士が練馬 した牧場が金乗院の付近とすれば錦2丁目、根沼とすれば奥の沼のあったところは豊島園の 石神井川狭隘部ということになる。太田道灌の記録や『小田原衆所領役帳』には「練間」と あり、新田義貞が鎌倉攻めの時豊島氏の献じた馬が活躍した戦功説もある。 練馬野は住み憂かりける杉名かな(村山古郷) 風呂吹きや曾て練馬の雪の不二(水原秋桜子) |
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練馬のいろはかるた い 一番昔の大欅(けやき) ろ 良弁(ろうべん)僧都の経塚 は 花の名所の高稲荷 に 二月初午おびしゃの日 ほ 法華の万灯妙福寺 へ 塀をめぐらす鑑別所 と 豊島氏滅ぶ石神井城 ち ちゃが馬飾る七夕まつり り 猟は御鷹場尾洲侯 ぬ ぬりかえられるグラントハイツ る 類ない沼沢植物群 を 青梅街道 石灰街道 わ 若い芽はえる都民農園 か 川越街道練馬宿 よ 嫁が怖がるお松様 た 田柄用水記念の碑 れ 歴史が眠る十一ヶ寺 そ そば喰い地蔵は九品院 つ 月待講の六地蔵 ね 練馬の母なる石神井川 な 名主屋敷の長谷川家 ら 落城の悲話照姫塚 む 武蔵野残す清戸道 う 馬の護りの子ノ観音 ゐ 遺跡が語る練馬の古代 の 農民泣かせ 宿場の助郷 お 大山詣も富士街道 く 区の花つつじ 区の木は辛夷(こぶし) や 薬師如来の石の像 ま 牧野博士の植物庭園 け 剣聖柳生は広徳寺 ふ 不動尊の道しるべ こ 庚申塔は百三十基 え 江古田富士たつ浅間神社 て 鉄道開通火車站之碑 あ 愛染院の大根碑 さ 三百余年の高野槙 き 清長画く芝居の板絵 ゆ 夕日に映える三重塔 め めの字の絵馬は南蔵院 み みんなで普請宮田橋 し 守護使不入の三宝寺 ゑ 絵馬にかかれた お浜井戸 ひ 東の高野山長命寺 も 森に静まる土支田八幡 せ 千川上水多摩の水 す 水車を回す白子川 ん 運命の城練間城 |
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこへて あさきゆめみし ゑひもせすん 色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず ん |
平安時代末期に流行し、『涅槃経(ねはんきょう)』の「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を表すと言われる。香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってし まう(諸行無常)。この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。 (是生滅法)。この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて(生滅滅己)。悟りの世 界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安ら かな心境だ(寂滅為楽)。 「今様」という形式(七五を四回繰り返す)を守り、その上、全ての仮名を1回ずつ使う という制約のもとで、これだけの意味のある歌が作られたことは、奇跡と呼んでも過言では ないだろうか。えっ、どうだい? いろはうたの他にも、同じ条件で書かれた詩がある。 |
あめつちうた(平安時代初期) あめつちほしそら(天地星空) やまかはみねたに(山川峰谷) くもきりむろこけ(雲霧室苔) ひといぬうへすゑ(人犬上末) ゆわさるおふせよ(硫黄猿生ふせよ) えのえをなれゐて(榎の枝を馴れ居て) あめつちのうた(本居宣長作) あめふれは ゐせきをこゆる(雨降れば 井堰を越ゆる) みつわけて やすくもろひと(水分けて安く諸人) おりたちうゑし むらなへ (下り立ち植ゑし 群苗) そのいねよ まほにさかえぬ(その稲よ 真穂に栄えぬ) ひふみうた(うたとして、祝詞として、祓詞として読む場合、それぞれに、区切る箇所が違 う。以下は祝詞の場合の三五七区切り) ひふみ よいむなや こともち(一二三四五六七八九十百千) ろらねしきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおえ にさりへて のますあせゑほれーけー このほかにも十ほどありそうだ。 |
○名木百選 1土支田八幡宮の杉樹群 2加藤家の欅 3妙延寺の公孫樹 4北野神社の報路地無患子 5本間家の桜並木 6学芸大付属大泉小の月桂樹 7学芸大付属大泉中のヒマラヤ杉並木 8牧野博士の仙台屋桜 、9牧野博士の篦の木、 10都営アパート第二公園の枝垂れ柳 11大泉井頭公園の丸葉柳 12大泉井頭公園の丸葉柳 13諏訪神社の檜 14高橋家の欅 15高橋家の柿ノ木 、16高橋家の欅 17八坂神社の榧 18八坂神社の公孫樹 19加藤家の欅 20伏見稲荷の榧 、21金乗院の公孫樹 23西本村稲荷の欅 24開進第一中のスダ椎 25開進第一小の楠 26堰婆さんの黒松 27内田家の欅 28練馬東小の藤 29春日神社の犬四手 、30春日神社の榎 31寿福寺の楠 32愛染院の白侘助 33氷川神社の楠 34愛宕神社の白樫 35愛宕神社の柊 36八幡神社の犬四手 37八幡神社の椋ノ木 38佐久間家の糯ノ木 39御岳神社の榊 40増田家の椋ノ木 41光が丘公園のアメリカ鈴懸 42光が丘公園の銀杏並木 43光が丘公園の楠 44光が丘公園の染井吉野 45光が丘公園のマテバ椎 、46四季の香公園の小楢 47妙安寺の黒松 48妙安寺の欅 49谷治家の欅 50氷川神社の藪椿 51長命寺の公孫樹 52長命寺の白樫(1) 53長命寺の白樫(2) 54長命寺の菩提樹 55田中山憩いの森の山桜 56和田稲荷の白樫 57禅定院の比翼桧葉 58石神井公園の水木 59石神井公園の辛夷 60石神井公園の山桜 61石神井公園の落羽松 62石神井公園の染井吉野並木 、 63石神井公園の檪 64石神井公園の白雲木 65石神井公園の白樫 66石神井公園の唐楓 68石神井公園の百合ノ樹 69石神井公園の椋ノ木、 70石神井公園のメタセコイア、71石神井公園の椋ノ木 72石神井公園の椨ノ木 73権藤家の白木蓮 74権藤家のスダ椎 74道場寺の黒松 75三宝寺の赤松 77三宝寺の公孫樹 78三宝寺の猿巣滑 79けやき憩いの森の蔓梅擬 80石神井川河川敷の黒山ナラシ 、81尾崎家の粗樫 82イエズス会神学院の桜並木、 83関町北小の大王松 84天祖若宮八幡宮の赤松 85武蔵関公園の赤松 86武蔵関公園の椋ノ木 87武蔵関公園の栃ノ木 88武蔵関公園の桂 89浅間神社の欅 90武蔵大学のトネリコ 91武蔵大学の欅 92武蔵大学犬桜 93武蔵大学の枝垂れ桜 94武蔵大学のいろは紅葉 、95豊玉小のヒマラヤ杉 96氷川神社の榧 97富士稲荷の楠 98豊玉東小の真弓 99練馬公民館の染井吉野 100神田家の赤樫 101白山神社の大欅(1) 102白山神社の大欅(2) 103円光院の公孫樹 105浅見家の大盞木 106光伝寺の高野槇 107氷川神社の椋ノ木 |
○じゃあよ、練馬区の地名の由来を始めっからな! |
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■大守稲荷神社 1丁目20番にある小社。 |
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■千川子育稲荷神社 1丁目37番と46番の境の路地にある。この稲荷も元は千川堤にあったものを暗渠化の 際に、偶々信仰の篤い人の加護でここに移設された。今も初午の祭りが行われている。 |
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■神社 1丁目58番にある小社。 |
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■江古田ストアハウス 1丁目76番の第五東京ビル4・5階にある STORE HOUSEは、劇場、ロビー、 稽古場を備えた空間だ。演劇、舞踏、ダンス、ジャンルを超えて様々なアートの発信地にな ろうと考えている。 |
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■江古田駅 1丁目78番にある西武池袋線の停車場。 |
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■夏雪山広原院能満寺 2丁目15番にある真言宗の寺。この寺は元和の頃(1615〜23)夏に雪が降って、 広い原っぱが美しいと聞いて訪れた源心僧都が、ここに堂宇を造り、夏雪山広原院能満寺と したという。のち火災に遭ったりして、天明六年(1786)十一世住職克龍が再建した。 このとき造営したという大日堂が現在も残っている。境内参道に「千川延命地蔵」がある。 地蔵と並んで御詠歌の碑もあって、その碑文に、大正14年10月21日上水浚えをしたと きに見つけたことが書かれている。この2つとも千川上水の暗渠工事のためここに移された ものだ。千川はコンクリートの道に変わってしまった。 |
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■旭丘小学校 2丁目21番にある区立校。町名の由来となった学校だ。昭和7年9月東京府東京市上板 橋第二小学校分教場として設立。同13年1月東京府東京市上板橋第三小学校として独立。 同14年2月校歌「昇る朝日に」制定(作詞:稲葉幹一、作曲:福井直秋)。 昇る朝日に 森はむらさき 丘はみどりよ これぞわれらが 心のまなびや 同22年10月練馬区の分離独立により、練馬区に所属したため、旭ヶ丘小学校に校名を 変更。同35年小竹小学校を分校。同38年「旭ヶ丘」から「旭丘」に変更。同62年10 月創立50周年記念。平成20年創立70周年を迎える。 |
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■旭丘中学校 2丁目40番にある区立校。 |
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■練馬総合病院 2丁目41番にある。 ●本間千代子 昭和40年代のアイドル。本間は東映の女優で、日活の吉永小百合と人気を二分した。そ の彼女がこの病院に入院した。盲腸だということだったが、堕胎だとの噂が飛んで、マスコ ミが病院前に押し寄せた。大騒ぎだった。現在は引退してプロデューサーひのきしんじの夫 人、2人の息子も無事育て上げて結婚させた。子育てを完了して第二の人生に入る。 |
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■日本大学芸術学部芸術資料館 2丁目42番にある。芸術学部は大正10年法文学部の中に「美学科」が誕生したときに 始まる。それから戦争という芸術教育にとって最も過酷な時代を経て、芸術総合学部として 今日に至る。この間に研究・教育のための資料として写真・映画・美術・音楽・文芸・演劇 ・放送・デザインに関する多くのものを蒐集蓄積した。芸術資料館は、このような芸術に関 する資料のさらなる収集と保管、展示ならびに調査・研究を行い、あわせて教職員、学生、 および一般の利用に供することを目的として設立された。 |
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■称念山仲台寺 1丁目20番にある浄土宗の寺。天文元年(1532)称念上人により北区田端に創建。 昭和20年アメリカ軍の空爆により焼失、昭和36年本覚寺の南に移転してきた。本尊は阿 弥陀如来。広々としたなかなかの境内だが、樹木がないのが寂しい。本堂はご多分に漏れず 鉄筋コンクリート造り。本堂左が庫裏、墓地は奥。 |
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■法光山本覚寺 1丁目26番にある日蓮宗の寺。江戸中期に江戸から移転してきたという。不受不施派の 騒動で逃げてきたのではないか? このため信者は江戸市中の者が多かったらしく、山門の ところに京橋題目講中の日蓮上人五百遠忌の碑がある。北野神社の境内を借りているような 格好で寺域は広くない。道沿いに庫裏、右と奥は墓所がある。 |
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■北野神社 1丁目26番にある。『新編武蔵風土記稿』に記載がないので古い創建ではなさそうだ。 土支田村の名主だった1丁目29番の小島家が所蔵している『土支田村明細帳』に「本覚寺 持ち 天神社」と記録が残る。ということは、本覚寺が移転してきてから天神社はできたも のと思われるし、鳥居には北野天満宮の篆額が懸かる。額絵馬数点が゜綺麗に保存されてい る。 |
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■光丘高等学校 2丁目1番にある普通科の都立高校。 |
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■科学技術振興機構情報資料館 2丁目8番にある旧日本科学技術情報センター資料室。科学技術振興機構(JST)は、 平成8年10月1日、昭和57年設立の日本科学技術情報センター(JICST)と同61 年設立の新技術事業団とが統合して、科学技術振興のための基盤整備と先端的・独創的な研 究開発の推進、並びに科学技術理解増進事業の推進を目的として設立された。それにより資 料室は情報資料館に改称した。資料館では、JSTが収集した科学技術文献資料を所蔵して おり、誰でも所蔵資料の閲覧と複写が可能だ。資料館は国内外の平成4年から最新の資料ま でを扱っており、それ以前については筑波センターで公開している。所蔵資料の館外への貸 し出しは行っていない。 |
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■丸彫聖観音立像廻国供養塔 2丁目9番の西南角地にある。ゼンリン住宅地図には「地蔵尊」と記してある。地図屋に は地蔵も観音も区別はつかねえわなぁ。石像はみんなお地蔵さんだ。日本は現在47都道府 県の行政区分だが、昔は66の国に分かれていたから、これを総て廻って各国の寺に納経す ることを「六十六ヶ国廻国」といい、坊さんの一つの修行の形だった。この供養塔はそれが 無事終わったことを記念して建てたもの。台座からの高さが、86cm、台石に「土支田八 丁堀」や享保十三年(1728)の制作年、造立者名が陰刻されている。昭和18年陸軍の 飛行場が設置されるまで高松にあった。今となってはどの辺りか見当もつかない。 |
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■稲荷神社 2丁目9番、廻国供養塔の並びにある。 |
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■旭町小学校 2丁目29番にある区立校。 |
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■兎月園跡 光が丘の北、埼玉県和光市の東、川越街道の南という微妙な位置にあり、3丁目の豊渓中 学校から妙安寺一帯に、東武東上線沿線の開発を目指して豊島園に対抗して作った遊園地が あった。動物園・グランド・フラワーガーデン・映画館・大型浴場・料亭・茶屋・レストラ ン・ボート池・桜並木と何でもありで、驚くことに入園無料だった。休日には多くの来園者 で賑わったが、日米戦争で訪れる人がなくなり閉園せざるを得なくなった。 現在も兎月園 商店街として名前が残っている。なお園にあった勝海舟邸長屋門は昭和35年石神井台の三 宝寺に移築された。3丁目の西武バスの停留所に何ともドジなことに「戸月院通り」という のがあった。一見ありそうな名前だが、そんな寺はなし、聞くと兎月園通りの聞き間違いら しい。地元が猛反発により「旭町」に改称したようだ。東武の兎月園を名乗りたくなかった のかな? どっちにしろみっともない話だ。 |
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■豊渓中学校 3丁目5番にある区立校。 |
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■長久山妙安寺 3丁目10番にある日蓮宗の寺。入口の左に「ねりまの名木クロマツ」とある。開山は日 雄上人、開基は江戸時代初期の京都所司代板倉伊賀守勝重という古刹だ。参道50mで山門 だ。境内は広い。明治33年本堂再建、山門は昭和13年の建立。左に墓所、右は催場だ。 |
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■出世稲荷神社 3丁目17番にある。鳥居を潜り、石段を登った小高い丘に社殿がある。かつてはここか ら白子川が見下ろせたという。昔は小さな祠で、石段はなく山道で、登りは大変に険しかっ たそうだ。今は上を削平にし、元の祠を後に下げ、現在の社殿は何処からか移築したものだ とか。出世稲荷の「出世」は、川越街道も近かったので、川越城主が江戸への往来の途次、 この稲荷社によって出世を祈願したということから、この名がつけられたと伝えている。そ のためか、出世を望む武士の参詣者が多かったした。出世祈願をした武士らしき名前の記載 された額絵馬が保存されている。 |
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■大根本舗栄泉 1丁目12番にある和菓子屋。練馬大根をコンセプトに、商品をコーディネート。すずし ろ(黄味餡をホワイトチョコでくるんだもの)、練馬大根饅頭、練馬大根最中が揃う。練馬 土産にはよかろう。 |
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■大泉村役場跡 2丁目2番地の中島公園がそうだ。大正11年に建てられたものだが、つい最近まであっ たのに取り壊して公園にしてしまった。愚かなことだ。何でも新しくすれば良いというもの ではない。何でも西洋人のするようにすれば良いのではない。たとえ西洋で良いことでも日 本には合わないということもある。阿呆にならぬことだ。公園の西北角に「大泉村役場建築 記念碑」と「平和記念之碑」が並んで建っている。役場の建物は大正11年に木造二階建て で建てられ、昭和7年板橋区になった後も、公の建物としていろいろなものに使われたが、 老朽化が激しくなったたため取り壊され、跡地は公園とした。 荒野拓夢遥 粒粒皆辛苦 流転甍竝多 白水尚東流 ●平和記念之碑 大泉地区から出征して戦死した289名もの名前が刻まれている。 |
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■加藤山法性院 2丁目18番にある日蓮宗の寺。ここも鉄筋コンクリート造りだ。もともとこの寺はこの 地に多い加藤一族の氏寺として建立されたもので、天正二年(1574)の草創と伝えられ ている。本堂には「安政五代戊午歳如月清正公尊像」が安置されている。これは千葉県日本 寺の住職だった日成上人から、加藤氏に因んで、安政五年(1853)に贈られたものだ。 特に未年生まれの男子の武運長久に恵みが多いとして、戦時中出征兵士やその家族の無事帰 還を祈願するものが多かった。 ●慈母観音像 本堂の左前にある露仏。生々しい授乳姿は珍しい。北村西望を彷彿とさせる塑像だ。しか もコンクリート製だ。 |
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■大泉図書館 2丁目21番にある。 |
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■大泉第三小学校 2丁目22番にある。 |
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■西本村憩いの森 2丁目23番にある小美濃家の里山を解放したもの。 |
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■法光山善行院 2丁目27番にある日蓮宗の寺。鉄筋コンクリート3階建ての近代建築で、昭和45年の 建立だ。1階は車庫、2階が書院、3階が本堂となっている。明治初期に無住だったため、 これといった資料はないが、大正時代に檀家7軒によって復興が計られ今日に至っている。 墓地から天正十一年と文明十九年の2枚の板碑が発掘された。 |
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■惣兵衛の力石 2丁目27番にある。中島公園の西側の路地を北に上がって突き当たった加藤家の壁際に 丸石の馬頭観音がある。これが力持ち惣兵衛の伝説の石だ。 力自慢の惣兵衛は、ある時江 戸の武家屋敷で、主人から乞われて大きな庭石を持ち上げた 訳さ。褒美として石と賞金を貰い、石は馬の背につけて意気揚々と帰ってきたが、村の外れ まで来ると、石の重さに耐えかねて、老馬はとうとう息絶えてしまった。長年大切にしてい た馬が死んで初めて、力自慢をしていたことの愚かさをしみじみと悟るのだった。馬の亡骸 を家の側に葬るとその上に丸石を置いて供養した。石には「天保十一年(1840)庚子年 九月加藤惣兵衛建之」とある。 |
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■学園町柿の木果樹の森 3丁目5番にある |
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■こぐれの森緑地 4丁目2番にある。「雑木林」をそのまま残して整備したもの。南側広場には木製遊具が あり、新鮮な空気の中で、伸び伸び汗をかきながら遊ぶことができる。北側の雑木林には、 園路沿いに山野草や実のなる植物を植え、小鳥や虫たちがこの森に集まりやすいように工夫 してある。 |
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■大泉学園小学校 4丁目7番にある区立校。 |
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■影山の森緑地 4丁目15番影山の森緑地は、かつて武蔵野の「雑木林」で、ムクノキ、シラカシ、タケ などいろいろな樹木があり、小鳥たちも沢山集まってくる区内でも貴重な森の1つ。散策の 途中、自然の小窓を除いてみませんか(区広報)。 |
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■大泉学園中学校 4丁目17番にある区立校。 |
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■大泉郵便 4丁目20番にある普通局。 |
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■大泉学園緑小学校 5丁目11番にある区立校。 |
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■大泉学園町体育館・屋内プール 5丁目14番にある区の施設。 |
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■大泉公園 6丁目25・26番にある。区の西北、新座市との境近くの静かな住宅街に位置し、古く は「広沢の原」、明治の頃は「長久保山」と呼ばれていた。この公園には、大正13年学園 都市の計画を機に地元の人たちが妙福寺より土地を借り受け、野遊場および農園として整備 し、住民に開放した歴史がある。区立公園となった現在も、四季おりおりの花が咲き、区民 の憩いの場として親しまれている。 |
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■銘菓 爾比久良(にいくら)の「大吾」 6丁目28番にある和菓子屋。野火の里・三味最中・ほのか・上生菓子・杏餅・水ようか ん・黒豆団子・どらやき・栗饅頭・スウィートぽてと・らく酪など多彩なラインナップ。 ●爾比久良 武蔵野の面影を今に残すこの辺り、古の呼称「新倉」から名付けたもので、自信をもって 薦めることが出来る名産品だ。昭和天皇御訪米の折に御調製献上、また新聞・テレビ・うま いものガイドブック等にも、ふるさと自慢の銘菓として評判がいい。 周りは卵黄と白餡を程よく調和させた黄味羽二重時雨餡。中に上質の小豆餡と一粒栗を使 用している。口の中でサラリと溶ける風雅な甘さと歯ごたえは、抹茶・緑茶にしっくりと合 い、和菓子ならではの独特な味が広がる。お茶受けにはもちろん、様の接待や進物として、 いいんじゃないか。夏は冷して食うとこれがまた美味いんだ。 |
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■名代惣兵衛最中 7丁目2番、大泉学園郵便局交差点を東に入ったところにある「あわ家惣兵衛」の名物。 歯ごたえのある求肥(ぎゅうひ)入り最中。粒あんたっぷり、食べ応えあり! 求肥は、こ ねた白玉粉を蒸し、砂糖・水飴を加え、火にかけて練りかためた飴菓子。柔らかく弾力があ る。名前は練馬区史の力持ち「惣兵衛物語」より採用。力持ちと力餅をかけて餅入りだ。練 馬土産に最適。「惣兵衛の力石」そのものは2丁目7番にある。 |
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■大泉風致地区公園 7丁目7番にある。この公園は、風致地区の閑静な住宅街の屋敷跡につくられ、屋敷の樹 木や庭石を利用し、周辺の環境との調和を図ってい。直径80cm、高さ20mのイチョウ は、区の保護樹木に指定され、晩秋の頃、周りの木々とのコントラストが美しく、訪れる人 に安らぎを与えている。 |
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■小社 8丁目25番の民間の駐車場の中にある。赤く塗ってあるので屋敷稲荷だろう。 |
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■長久保氷川神社 8丁目27番の長久保造園の端にある。平成12年改築の現代的住宅風の社殿がほとんど 境内一杯に建っている。昭和4年合祀の稲荷の小社もある。 |
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■大泉学園高等学校 9丁目1番にあった都立校。平成17年閉校。都立大泉北高等学校と統合して、北高校の 跡地にできた「都立大泉桜高等学校」にバトンタッチした。 |
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■大泉学園桜中学校 9丁目2番にある区立校。 |
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■大泉学園桜小学校 9丁目2番にある区立校。 |
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■大泉養護学校(小学部・中学部・高等部) 9丁目3番にある区立校。 |
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■大泉中央公園 9丁目4番にある。キャンプ朝霞跡地の利用計画により、平成3年6月に全面開園した。 水の広場は大泉の名に相応しく、大きな噴水やモニュメントが爽やかで、心地よいせせらぎ の音が心を和ませてくれる。陽だまりの広場では、子どもたちが喜々として飛び回り、森で は、小鳥たちの囀りが絶えまない。都会の喧騒を忘れ、親子で楽しいひと時過ごしてみたい もの。とは区の宣伝文句。道路を挟んで北側に埼玉県立和光樹林公園が広がるがこれがまた 倍ほども広い。 |
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○練馬一家5人殺人事件 6丁目15番11号で起きた猟奇事件。昭和58年2月2日不動産鑑定士朝倉幸治郎(4 8歳)は東京地裁で競売に掛けられた前記番地の三角地の物件(木造2階建て、624u) を競売で落札して購入した。代金の1億600万円は、資産の殆どを担保に入れて銀行から 1億数千万円を借り入れた。その利子は月100万近くにもなる。朝倉は所有権移転登記を 済ませると直ぐに転売すべく走り回り、漸く4月13日渋谷の不動産屋と売買契約を成立さ せた。値段は1億2950円。明け渡し期限は6月30日、朝倉は不動産屋から内金150 0万円を受け取った。 この物件には、新宿区西早稲田にある日本洋書販売配給会社の商品管理課長の白井明(4 5歳)一家6人が住んでいた。だから立退料(500万円)は必要だが、それを支払っても なお1000万円程度の儲けになると見込んでいた。朝倉は落札した翌日から立退き交渉を 始めたが、白井が期限までに立ち退いてくれなければ、転売先に内金の倍額の3000万円 を払わなければならないことになる。1日も早く立ち退いて貰いたい朝倉は、3日に1回は 交渉のために白井の家を訪問した。しかし白井は根性のひね曲がった男で、なんだかんだと いい逃れをして、のらりくらりはぐらかし、一向に立ち退く素振りを見せなかった。朝倉の 不幸はここに始まった。だが白井も悲劇の地獄へ自ら踏み込んでいた。 業を煮やした朝倉は強制明け渡しの裁判に打ってでたが、白井は悪魔に囁かれるまま引き 伸ばし作戦に入った。朝倉は「裁判を取り下げれば直ぐにでも出て行く」と言明した白井を 信用して取り下げてみたが、それはあくどい白井の罠に嵌ったに過ぎなかった。人間の真の 恐ろしさを知らぬ白井は北叟笑む。その後朝倉が訪れても引越しの準備はおろか、白井夫婦 の態度は白々しいものだった。もしこの時に白井夫妻が人間の真心を持ち合わせていたら地 獄の坩堝がすぐそこに口を開けていることに気づいたろう。常識的に考えても、何の権利も ない白井がそのまま居座れば、殺人といわずとも何らかの悲劇の起こるだろうことは想像で きたはずだ。頭の良くない人間というのはどうしようもないものがある。 |
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| ●和知利夫 実はこの物件は白井の妻幸子(41歳)の父親、町田市中町1丁目11番21号の多摩建 設社長和知利夫(65歳)が、昭和33年に地元の地主から購入して所有していたものだっ た。和知はこれを担保に、豊玉北6丁目15番の共栄信用金庫から次々と融資を受け、その 根抵当権は同41年〜55年までに7回嵩上げされ、最終的には2億円に達していた。この 間土地建物を担保に6000万円を第一勧銀(現みずほ銀行)から2年間借りてたこともあ る。同56年港区の知人からも1000円の抵当を設定され、2億1000万円のキズ が付いていた。和知は悪知恵を働かせて、そこに住まわせている娘夫婦との間に「土地を3 0000円、家屋を70000円で貸す」という借地権を設定、この設定によって借地権を 確保し競売を逃れようとの悪意を旗印としたのだ。しかし共栄信金は最早返済はなされない ものと判断し、同57年3月土地建物を競売にかけ、それを朝倉が落札したという訳だ。和 知は最早人の道を外れ、強欲の鬼と化した。経緯を知らぬ白井に立ち退かぬように指示した のだ。つまり悪魔は義父和知だったのだ。もし白井が、この極悪非道の和知の指示に従わな ければ悲劇は起きなかったろう。和知は立退料の釣り上げを画策していた。500万円のと ころを3000万円要求したといわれる。和知という男は不動産をいじくることに長けてい た。裁判好きでテクニックを承知していた。当時会社を倒産させており、立退料で再起を期 していた節がある。だが悪党といえども素人の悲しさ、引き際を知らなかった。「バクチは 2割5分増し」という諺がある。プロの賭博師は目立つような大勝はしないものなのだ。無 論貸元もぼろ儲けはしない。和知は悪欲にかまける余り「窮鼠猫を噛む」ということも知ら なかった。知らん振りをしてれば未来永劫居座り続けることが出来るとでも思ったのか? 白井夫妻は和知にいわれるまま朝倉を小馬鹿にし続けた。坩堝の剣が峰に立っているとも知 らずにだ。もし業突く張りの和知さえいなかったら事件は起きなかったろう。 |
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●殺意 朝倉は白井夫妻のおちょくりに感情が激し次第に殺意を抱くようになる。朝倉も知らず知 らず悪魔の糸に手繰り寄せられていった。朝倉は一般に大人しい腰の低い人という評判だっ た。秋田県の出身で、秋田県高校の夜間部を卒業した。朝倉は昼間働いていた訳ではない。 とにかく漢字が書けなかった。書く文章は殆どが仮名で、非常に読みづらかったそうだ。昭 和29年日大法学部法律学科にコネ入学する。最初の試験で、カンニングペーパーを弁当の 米粒で答案用紙に貼って提出し、1ヶ月の停学を食らった剛の者だ。教授に「学校で勉強し ても尾いていけないから、下宿で一人で勉強しろ」と見放された。しかし同33年字も書け ない朝倉だったが落第もせず無事卒業した。翌年下宿の娘と出来たので結婚して秋田に帰っ た。秋田では暴力団のように顔の利く父の三次の経営する「朝倉市場」を手伝った。市場は 事実上は姉夫婦が切り盛りしていた。この年長女が生まれた。同35年父三次が死んでその 遺産相続の席で、弟が義兄に「乗っ取った」と罵ったことで弟を刺した。正義感が強く何事 にも筋を通さなければ気がすまない性格だった。翌36年9月10日やはり遺産相続のこと で揉め、弟が闇雲に家族に暴力を振るったということを聞いて、説教をしにいったが、弟が 聞き入れないので包丁で左目を刺し、頭も数回刺した。弟はほ這う這うの体で逃れたが失明 した。長男が誕生した年、つまり昭和37年8月7日秋田地裁で殺人未遂と傷害の罪で3年 の判決を受け、翌38年5月から2年間、習志野刑務所に服役している。同40年5月出所 すると杉並区の成田東に住み、新宿区の不動産鑑定所に鑑定士のアシスタントとして勤めな がら鑑定士の勉強を始めた。この不動産鑑定所は学校も経営しており、日曜日に講義があっ た。朝倉は真面目に勉強に勤しんだ。同46年10月不動産鑑定士の二次試験に合格、不動 産鑑定士補になり、同50年鑑定士の登録をした。同51年8月15日自宅に「株式会社東 洋不動産鑑定所」を設立して不動産鑑定業を開始した。同54年四谷4丁目のマンションの 一室を購入し事務所を移した。同57年7月社号を「朝倉不動産鑑定所」に改め都知事から 宅地建物取引業の免許を受け不動産取引も開始した。 朝倉は不動産鑑定士としての目は厳しく詳細で信用は絶大だった。2人いる子供の教育も 厳格で立派な父親だと近所でも好評だった。その立派な父親で、信用ある不動産鑑定士の朝 倉が何故不動産屋紛いのことをやったのか? 朝倉に親の遺産が2000万円転がり込んで いた。人生も仕事も順風満帆だった朝倉は、調子に乗ってそれを大きくしようと考えた。今 回の取引が初めてで、不動産鑑定士としては一流でも、商売は素人だ。キズ物件にはプロの 不動産屋は手を出さない。だからこそ朝倉の手に落ちたのだ。手練手管の悪党和知、その手 先の白井夫妻に弄ばれた朝倉の怒りは自然だ。 「殺すしかない。一家皆殺しにしてやる」 終に怒髪天を突いた。5月下旬から綿密な計画を立て始めた。完全犯罪でなければならな い。死体は富士山麓の樹海に棄てることにした。その運搬には車が必要なので車を購入、ペ ーパードライバーなので教習所で再教育も受けた。天候が悪かった場合の死体の一時保管場 所として1DKのアパートも借り、万全の態勢を整えた。後は犯行を決意するだけだ。 このとき限度を知らぬ和知と白井夫妻は、愚かにも勝ち誇っていた。 |
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| ●凶行 6月27日午後2時45分朝倉は白井宅の直ぐ近くに停めた乗用車から降りると、手提げ バッグ一つを持って白井宅に向った。バッグには金槌2本と着替え用のトレーニングウェア が入っていった。金槌の1本は直ぐ取り出せるように外側に付いているポケットだ。 朝倉は勝手口に回って中へ聞こえ入れた。妻幸子が出てきた。 「立退きのことでお伺いました」 いつもの言葉を繰り返した。 幸子も馬鹿だった。ここで異常に気づくべきだった。 「主人がいないので判りません」 幸子もいつもの言葉を繰り返した。 朝倉は凄みを利かしていい放った「ここは私の土地だ。何時になったら出て行くんだ」 幸子はそれを聞いても、いつもの小馬鹿にした目線を送って奥の居間に引っ込んだ。後ろ めたいものがあるからだ。いつもなら朝倉はここで踵を返す。しかしこの日は台所に上りこ み、幸子の後を追った。12畳の洋間には、食事用のテーブルの脇に幸子、小学校に上った ばかりの昌子(6歳)、次男の正利(1歳)が立っていた。 「もう話し合う余地はねえんだよ!」 この時幸子は朝倉の殺気を感じて戦慄、初めて己の愚かさに後悔した。朝倉はバッグのポ ケットから金槌を取り出すと、幸子の正面から頭に一撃を加えた。幸子は狂気を察してダイ ニングルームに逃げたが。朝倉は追いかけて流しの前で幸子の襟首を捕まえた。 「すいません。出ます。直ぐに立ち退きます」 遅きに失した。朝倉はもう聞く耳を持たなかった。幸子に正義を知らしめるべきだとのみ 考えて攻撃を加えた。幸子は崩れ落ちた。この日は奇しくも幸子の41歳の誕生日だった。 前日は次女明子の誕生日で2日続けて誕生パーティが開かれることになっていた。幸子が死 んだと確認すると、鬼と化した朝倉にもう容赦はなかった。幼児の泣き声が外に漏れてはま ずいと考え、正利も一撃で仕留めた。台所の包丁で喉を切ったという新聞記事もある。朝倉 は居間に引き返すと、目の前の惨劇に魂を奪われて逃げることも出来ない昌子をとっ掴まえ ると首を絞めた。朝倉は死んだと判断して手を離したが、彼女の死因は溺死で、後に風呂桶 に放り込まれたためだった。 朝倉は3人の遺体を風呂場に運び込むと、ダイニングルームの幸子の血をふき取り、風呂 場に戻って幸子と正利の着衣を包丁で切って剥ぎ取り、正利は浴槽に放り込んだ。昌子の着 衣をとらなかったのは不憫に思ったからだと後から語っている。朝倉は結果としてまだ生き ていた昌子を抱えると頭から湯船に沈めた。それから剥ぎ取った衣類を、そこにあった洗濯 機で水洗いし、脱水すると、それを持って2階に上り、そこにあったビニール袋に詰めた。 午後3時過ぎ次女の明子(9歳)が「ただいま」と声を掛けて帰ってきた。勝手口からダ イニングルームを通って居間に入っ来ると、朝倉に気がついたが、黙って2階に上ろうとし た。朝倉はすかさず「お姉ちゃんは何時帰ってくるの?」と優しく声を掛けた。 「学校の遠足で29日の夜帰ってくる」 朝倉は明子の前に立ちはだかり、明子を持ち上げるように首を絞め、脱力するまでそうし 続けた。明子の死亡を確認すると衣服を脱がせて浴槽に放り込んだ。その衣類も水洗いして 2階のビニール袋に詰め込んだ。 後は眼目の白井のみだ。朝倉はこの家の主人である明の殺害準備に取り掛かった。血で汚 れたトレーニングウェアを新しいトレーニングウェアに着替えると、外に出て車のトランク から、マサカリ、タオル、軍手など用意した殺人道具を詰め込んだナップサックを持つと、 居間に戻り、再び汚れたウェアに着替えると、白井の帰宅を待った。 白井は会社を午後6時半に出ると、同僚と高田馬場駅前の寿司屋で酒を飲み、同9時ごろ 帰宅、勝手口からダイニングルームを通って居間に入ってきた。 朝倉は立ち上がって「立退きのお話できました」といった。トレーニングウェアの下には 白井はマサカリを忍ばせている。白井は妻子の不在を訝しく思いつつも、「まあ座りましょ うや」と声を掛けて食事用のテーブルの椅子に座った。朝倉も座った。白井は蝙蝠傘を脇で はなく机の上に置き、眼鏡と時計を外して机に置いた。朝倉はいつもの気弱な不動産鑑定士 ではない。白井は気づいていた。ここで初めて大変なことをしでかしたと後悔した。もっと 早く立ち退くべきだったと、真人間になるべきだったと。白井の実家は寺だった。 朝倉は白井に注意を払いながら、「私の方は事態が切迫しているんだ!」といって立ち上 がった。白井もつられて立ち上がった。運が悪かった。朝倉はすかさず右手の拳を白井の鳩 尾(みぞおち)に捻じ込んだ。高校のときにボクシング部に所属していた朝倉のパンチは凄 かった。白井はウッと声を発して前屈みになった。朝倉はその左首にマサカリを叩き込んだ 鮮血が吹き飛び朝倉は返り血を浴びた。白井は「殺される」と思い、「朝倉は本気だ」と後 悔した。和知の悪相が目に浮かんだ。白井は身体を起こそうとしたが、そこへ第2撃が加え られた。それで白井は息の根を止められた。後悔先に立たず。 なお長男は享利といい、事件前年の11月に幸子の不注意で死なせて仕舞っていたので、 事件当日はそんざいしなかった。 |
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| ●バラバラ ここからが地獄絵図だ。和知という守銭奴がいなかったら、白井一家6人は幸せな人生を 送ったことだろう。朝倉は、白井の襟首を掴むと引きずって風呂場に運び込むと衣服を切っ て剥ぎ取り、遺体は湯船に押し込んだ。直ぐに解体しなかったのは、物音が漏れては危険だ と考えたからだ。衣類はやはり水洗いしてから2階に持っていき別の部屋の紙袋に入れた。 翌28日午前4時半また着替えた朝倉は、車を朝倉の家の前に移動させると、電動肉挽き 機、骨剥き包丁、のこぎり、ビニール袋を取り出すと白井宅に運び込み、車を元の位置に戻 した。詳細は省くが、パンツ一丁になり、まず白井を解体し18個に分けると、ビニール袋 に詰め、運び出しやすいように玄関に置いた。内臓は肉挽き機に掛けてミンチにしてトイレ に流した。白井の解体が終わったのは朝の6時半だった。続いて幸子の解体に取り掛かり、 首と両腕、膝を切断したところで、人の気配がしたので浴槽に戻した。気配がなくなったの で正利の頭を落とそうとしたが、包丁の先が折れ、うまくいかないので止め休憩することに した。午前7時を回っていた。 |
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| 逮捕 朝倉はパンツを洗って2階に干し、トレーニングウェアを着て居間のソファで休んでいる と、隣家の主婦が、幸子の母親に頼まれて様子を伺いに来た。朝倉は「ここの人たちは引っ 越しました」と説明し、「イチノセ」と名乗った。主婦はその旨を母親に伝えた。母親は不 思議に思い、息子たちにその話をした。兄弟は姉一家の立退きトラブルを知っていた。姉一 家が監禁されているのかも知れないと判断して、午前11頃頃兄弟で石神井署を訪れた。午 後1時前警察と兄弟は白井宅に到着した。警察官が勝手口から入ろうとしたが、ノブが中で 縛ってあって開かない。警察官は無理やり引っ張って10cmばかりの隙間を作ると「誰か いますか? 石神井署の者です」と聞こえ入れた。朝倉は「はい今行きます」と答えて、慌 てて玄関から逃げると、車に乗り込もうとした。そこへ気を利かせて表に回ってきた警察官 に見つかり、「何で入ったんだ?」と問い詰められて、一家殺人を自供、緊急逮捕された。 朝倉は至って正常だった。取り調べには至って素直に応じ、何をも隠さず、スラスラという か、ベラベラというか、自供した。刑事の手を煩わさない容疑者だった。態度は紳士的で、 あの残虐非道の行為をした人間とはとても思えなかったとは担当刑事の弁。 朝倉の白井に対する憎悪は相当なものだったのだろう。「すっきりしました」。溜飲が降 りたのか・・・留置第一日から高いびきをかいて眠り、魘されることはなかったという。 |
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* 守銭奴の和知は、己の強欲から娘夫婦一家を残虐な事件に巻き込んだことを反省した風は ない。その後も被害者面をして生きた。この男さえいなかったら・・・ ●その後 長女の厚子は事件の当日、区立大泉学園緑小学校の林間学校で長野県にいた。事件は校長 に伝えられたが、校長はそのむごたらしさが与える影響の大きさに鑑み、厚子に知らせるこ とはできなかった。帰京した厚子を迎えたのは明の兄正雄夫婦で、親族会議の決定により、 「全員交通事故で死んだ」と告げられた。一家の葬儀は正雄が住職を務める春日町の愛染院 で行われた。厚子は葬儀には参列させて貰えなかった。厚子に本当のことが知らされるのは ずっと後のことだ。厚子の身の振り方については親族会議で衆議の結果、伯父正雄の第七子 として養子縁組して正雄の次女となり、練馬小学校に転校した。 平成20年彼女は35歳になる。 残虐が行われた物件は、渋谷の不動産業者が登録し、建物を解体、整地して駐車場になっ たが、平成15年ごろ分譲地となり、現在5軒の分譲住宅が建っている。多分住んでる人た ちはおどろおどろしい惨劇の場だったとは知らされていまい。遠い昔の出来事だ。 朝倉のその後は、 昭和60年12月20日 東京地裁「死刑」判決。 平成02年01月23日 東京高裁 控訴棄却 平成08年11月14日 最高裁 上告棄却 死刑確定 平成13年12月27日 死刑執行 行年66歳だった。 |
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●沖雅也自殺事件 朝倉が白井の首をのこぎりで挽いている丁度そのころ、俳優沖雅也が、何を苦にしたか、 新宿京王プラザホテルの最上階(47階)からダイビングして自殺した。その日の夕刊に掲 載されたが、練馬の事件は午後1時に判明しているのに夕刊には載ってない。 |
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■渡辺早生ごぼう 渡辺正好が滝野川牛蒡を改良して育成し、昭和25年に種苗名称登録を受けた品種。秋播 き、春播き両用種なので各地で栽培されている。 |
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■稲荷山図書館 1丁目3番にある |
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■清水山憩いの森・カタクリの花 1丁目6番、稲荷山憩いの森の続きにある。武蔵野の面影を留める樹林を残そうとの趣旨 のもとに制定された「憩いの森」第1号に選ばれ、昭和50年に整備された。ここは練馬区 の北西部を流れる白子川に沿った湿り気のある北斜面の雑木林で、その名が示す通り尽きる ことなく清水が湧き、多くのカタクリが群生している。30年ほど前までは、白子川沿いの 斜面一帯に樹林が広がり、カタクリの花もあちこちに見られたが、急激な都市化が進むにつ れ、樹林が失われるとともにカタクリも清水山憩いの森と稲荷山憩いの森のごく一部に残る だけとなってしまった。毎年サクラの咲く頃になるとこの林は、愛らしい薄紫のカタクリの 花で覆われる。景観のすばらしさ。湧出口から流入する河川まで自然の状態。水量が多く、 水に触れる憩いの場として親しまれていることから、「東京都名水57選」に区内では唯一 選ばれている。公園前の橋が不動橋で北に突き当たるところに中里の不動尊がある。南の坂 を登ると稲荷山憩いの森だ。 |
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| ●カタクリ と聞いて思い浮かべるのはまず片栗粉だろう。カタクリはユリ科に属し、根は球根となり 良質のでんぷんが採れる。現在の片栗粉はジャガイモのデンプンで作られているのだが、昔 はその名の通り、このカタクリの根が使われていた。カタクリは本来日本にあった野草のよ うで、万葉集に次のような大伴家持の歌がある。 もののふの八十をとめらがくみまがふ 寺井の上の堅香子の花 清水を汲みに集まる乙女たちの笑い声とその乙女たちを象徴するように咲いているカタク リ、こんな華やいだ情景が浮かんでくるようだ。 堅香子は万葉仮名で、正しく漢字で表すと「片鹿子」ではないかと、ナチュラリストの足 田輝一はいう。これはカタクリの葉が、花をつけるもの以外は1枚(片葉)で、しかもその 葉には鹿の背のような斑点模様がついているからだろう。各地の方言でもカタコ、カタコユ リ、カタバナなどカタ=片という字がつくことが多くなっている。一方中国ではその根の形 から、カタクリのことを「猪牙花」といい、ヨーロッパでもこの花と同じ仲間の花をDog's toothviolet(犬の歯スミレ)という風に命名している。 このようにカタクリの名は、日本 では葉から、中国やヨーロッパでは球根から名付けられている。このことは古くから日本で は葉が、中国やヨーロッパでは球根が利用されていたことによるのだろう。カタクリの花の 美しさを観賞するだけでなく、植物と私たち人間とのつきあいの歴史に目を向けた時、別の 面から自然の美しさや偉大さにふれることができるのではないのかな! |
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■越後山の森緑地 1丁目2番にある区立公園。 |
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■中里不動尊 1丁目28番にある。白子川に不動橋が架かっているので、八坂神社への道標だったのか な? 小祠の中に不動尊ともう一体の石像が祀られている。 |
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■八坂神社 1丁目44番の高台にある。参道は長く、かつては鬱蒼たる森林の中にあったという。ま だ数本残っているので、昔日の面影は僅かばかり残ってはいる。高い石段を息せき切って登 ると、正面に拝殿があり、斜め向かいには額殿がある。内部には明治から大正にかけての額 絵馬が保存されている。祭神は須佐之男命、京都八坂神社の分霊。祇園精舎の守護神は牛頭 天王で、この辺りを中里と行ったので「中里の天王様」と親しまれた。境内末社は稲荷、御 嶽、浅間(冨士塚)の3社。 |
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| ●中里富士 八坂神社の境内にある富士塚。南側基部から12mの高さがあり、区内で最大級の規模を 誇っている。明治初期に丸吉講により築かれたと推定され、現在も地元の富士講により毎年 行事が行われている。明治初期の築造といわれているが、文政五年(1822)の石碑があ ることから、江戸時代にはすでにその原型があったと思われる。またここにある36の石造 物のうち「道祖神の碑」は区内で唯一のものだそうだ。登山口からは一合目、二合目の標識 も見られ、小御岳もある。又麓には風穴もあるという念の入れようで、全くのミニ富士山と いってよい。今は周辺に住宅が立て込んだため、昭和30年代の見晴らしというか景観とい うか、山頂からの眺めを見せてやれないのが残念だ。白子川を挟んだ、田んぼや畑が一望で き、長閑な、今となっては夢のような農村のたたずまいがあった。今も新宿なんかに比べた らそれなりに田舎で、上を見ればキリがない。近くに幾つも自然を残した公園があるので、 今の子は今なりに楽しい田舎の時間を過ごしてるだろう。 |
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■精進場稲荷神社 2丁目6番、大泉インターチェンジの東側にある。比丘尼稲荷とも。 |
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■天祖稲荷神社 2丁目9番にあるという。住宅地図には記載がない。 |
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■橋戸小学校 2丁目11番にある区立校。 |
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■西信寺別院・大泉霊園 2丁目57番にある。ここは動物専門の墓地で、結構広い。吉田茂の犬とか、名士のペッ トが多い。日本一のペット墓所と自慢してた。なお本家の西信寺は文京区大塚5丁目2番、 護国寺の隣にある浄土宗の寺。人の墓所はこちらだ。 |
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■引又道 ひきまたみち 引又は埼玉県志木の旧称。土支田通り交差点から西北に別荘坂を下り、別 荘橋を渡り、らんどう坂を登る道。土支田や橋戸では東京に農産物を出すのに荷車や馬車で は遠過ぎるので、引又に荷を送り、舟で荒川を下る方が手っ取り早かった。勿論この道を東 に行けば高松で清戸道に通じており、江戸へは一本道だった。 別荘の名は、誰ぞ有名人の別荘でもあったかと思われがちだが、橋戸を開いたのが荘とい う人で、この辺りには荘姓の人が今も何軒もある。で、この別荘は、本家の荘家とは「別の 荘家」の意だ。私の記憶では別の荘家が橋を架け、橋の名となり、その橋に下りる坂なので 坂の名がついたように記憶している。 |
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■大泉北高等学校 閉校 3丁目5番にあった都立校。平成16年閉校。都立大泉学園高等学校と統合して「都立大 泉桜高等学校」になった。 |
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■大泉桜高等学校(新設) 3丁目5番、大泉北高等学校跡に、平成17年に新設された総合学科単位制の都立校。 |
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■大泉第一小学校 3丁目16番にある区立校。 |
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■尾張殿鷹場碑 3丁目16番、大泉第一小学校の校門の右脇にある。石の角柱で、高さ約1.2m。 江戸 時代に建てられたものだが、造立年代は不明。正面に「従是南北尾張殿鷹場」と刻まれてい る。もとは大泉学園町の北端にあったという。道路整備か、陸軍の朝霞基地設置のときに移 されたのだろう。西大泉1丁目17番1号地先にあったものは、郷土資料室にある。 寛永十年(1633)3代将軍家光は、江戸府内の周辺地域を徳川御三家の鷹場に指定し た。鷹狩りは、飼い馴らした鷹を放ち、小鳥や小動物を捕らえる狩猟法だ。それは軍事訓練 や農村の視察に加えて、農民に大名の威信を示すことを目的に、寛永八年(1631)から 慶応三年(1867)まで行われていた。1回の鷹狩りで300名あまりの尾張藩士が参加 し、10日間ほど行われた。大名にとって鷹狩りは華やかな行事だったが、鷹場に住む農民 たちは人足として徴発されたほかに「犬猫は放し飼いにしない」「手をたたかない」「案山 子(かかし)を勝手に建てない」など細かい規定が設けられ、破ると罰せられた。尾張徳川 家の鷹狩場は入間、新座、多摩の地域に亘っており、その管理は厳しく、常に鳥見役が区域 内を見回っていた。小鳥を取ることは禁じられ、濫りに竹木を伐採することも一切許されな かった。いざ鷹狩の際は道路や橋の修理、役人の送迎接待、荷物の運搬や当日の人足など村 人たちへの負担が義務づけられていた。鷹狩場というのは、狩をするためとの口実で乱開発 を防ぎ、自然環境保護のために設けられた。明治以後の政治は拝金と自然破壊だが、江戸時 代は精神も含めて人間に優しい自然保護の政治だった。これは東洋哲学の方がキリスト教的 西洋哲学より精神性が高く、未来的だといえるのだ。西洋哲学はアメリカの政策に見られる ように破滅的で、将来は必然的に破綻する。日本教(日本的宗教観)に頼らざるを得なくな るだろう。 |
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■もみじ山憩いの森 3丁目23番にある。白子川左岸の南向きの高台にあり、明るく見晴らしのよいところに 位置し、サクラ・アカマツ・イチョウ・ヤマモミジなど様々な樹木が植えられている。中で も60本以上も植えられたヤマモミジは、秋になると区内随一の鮮やかな紅葉を見せてくれ るよ。また森の中を散歩できるように作られた通路には、ムラサキシキブなどが鮮やかな彩 りを添え、訪れる人の心を和ませる。小高い丘の上には四阿(あずまや)が建っており、こ こから眺める近代的な光が丘のビル群の景色は素晴らしいものだ。 |
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■サッカー少年バスから転落轢死事故 4丁目9番 平成19年12月24日午後6時40分ごろ、大泉の外環自動車道大泉ジャ ンクション関越自動車道分岐車線で、走行中のマイクロバスのドアが開き、埼玉県ふじみ野 市の小学5年吉崎健君(11)が路上に転落、後続のトラックにひかれ死亡した。埼玉県警 高速隊が事故原因を調べている。同隊によると、マイクロバスは29人乗り。川越市、ふじ み野市などの小学生で構成されたサッカーチーム「川越福原SC」のメンバー24人と運転 手、川越市今福の会社員の引地功一(よしかず 33)コーチの計25人が乗っていた。茨 城県かすみがうら市内での練習試合後、川越市方面に帰る途中だった。引地と、吉崎少年を 轢いたトラックの運転手中村光雄(25 毛呂山町南台)の二人が逮捕された。引地は横ド アの自動・手動切替レバーを自動に切り替えることを忘れて走行していた。中村は制限速度 を40Km以上オーバーし事故を未然に防げなかった。 吉崎少年の遺族は事故後、彼の遺体が運ばれた同隊三郷分駐隊(三郷市)に駆け付け、事 故の状況について隊員から説明を受けた。父親の俊昭(42)は「クリスマスイブに、なん でこういうふうになっちゃったんだ」とつぶやくように話していたという。遺族は25日未 明にふじみ野市の自宅マンションに帰宅。「気持ちの整理が全く付かない。今は話ができな い」とうなだれたという。 川越福原SCの引地晃康監督(52)は25日、「子供たちが楽しみにしていた遠征でこ のようなことが起こり、申し訳なく思っている」と頭を下げた。事故当時、運転手以外に引 率者がいなかったことについて、「通常、サブコーチをつけて遠征しているが、24日は複 数の遠征が重なったため、スタッフが足りなかった。引率者が2人いれば事故を防げたかも しれない」と唇をかみしめた。健君は幼稚園児だった約6年前、同SCに加入。明るい性格 で、ムードメーカーとして存在感もあったという。引地監督は「レギュラーに近づいている さなかの事故で、残念でならない」と肩を落とした。 吉崎少年が通っていたふじみ野市立東原小学校では、25日朝から教員らが対応に追われ た。武宮俊夫校長(57)は「事故のことは昨夜、教育委員会からの連絡で知った。残念で ならない」と沈痛な表情で話した。同級生の女児(11)は「5年生の中でも一番サッカー が上手で、体育の授業でも健君がいるチームは絶対負けなかった。人気者の健君が亡くなる なんて・・・」と絶句していた。(読売新聞等の記事から抜粋) |
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■大泉北小学校 4丁目28番にある区立校。 |
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■大泉インターチェンジ(IC) 5丁目1番にある関東自動車道と東京外環状自動車道の出入口と連絡路。ここから南へ外 環線を延ばして中央・東名自動車道に繋ぐんだそうだよ。この予定路線上には都の職員が多 く住んでいて、その反対運動が強くて測量もままならない。一体全体いつになることやら。 ICは、単に連絡の立体交差の場合、ジャンクションという場合がある(宮野木ジャンク ション)。そして首都高の出入口をランプというのは、一般道と首都高の連絡道が大概の場 合「坂道」だからだ。ランプの意味は「坂道・傾斜路」。 |
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■大泉北中学校 5丁目4番にある区立校。 |
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■氷川神社 5丁目15番にある。派手な神社だ。一の鳥居・社号柱は平成16年の新調。かつて何も なかった参道に平成5年製のピカピカの灯籠が18基も並んでいる。二の鳥居の後にも平成 5年の大灯籠が左右に2基、まるで新興宗教だ。鎮守の森は見る影もない。これは何故なの だ? そもそもこの神社は、この土地の草分け荘一族が橋戸にやってきたとき、己の番神と して鬼門の方角に作った社だ。創建年代は不明。祭神は素戔嗚尊・大己貴命・奇稲田姫命、 相殿は愛宕社(香具槌命・火産霊命)。明治7年村社、同13年社殿改築、昭和50年鉄筋 コンクリート造りに改築した。愛宕神社(愛宕下350番地)を合祀した後、その跡地は払 い下げられて、29名の共有となった。それで恙無く半世紀が過ぎたころ、関越自動車道の 建設が決まり、跡地がその予定地に入ったため、神社は急遽所有者と相談、昭和53年に1 9名から跡地の寄進を受け、同63年4億円で道路公団に売却、その資金を以て大造改修に 臨んだ。平成元年社務所新築、同2年石垣・階段の改修、同3年境内敷石と周辺の石積み改 修、一の鳥居・社号標柱・水盤舎新設、昭和5年駐車場・神楽殿・その他の整備で平成の大 造改修を落成した。かつてのロケーションは鎮守の森に囲まれ、南は白子川で、社は高台に なっているので、川の流れや田園の佇まいがよく見えたが、拝金主義なのか、けばけばしく なっちゃって、馴染む、溶け込むのに50年はかかるだろう。境内に稲荷神社・御嶽神社・ 弁天社ともう一社、琴平神社の石碑が弁天社の前に据えてある。 |
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| ●伊賀衆奉納の水盤・鳥居 「忍者」で有名な伊賀衆が奉納した水盤と鳥居が氷川神社の境内社稲荷神社の社殿前に置 かれている。稲荷社は元は愛宕神社の脇にあったという。鳥居は壊れているものの、嘉永二 年(1849)の銘がある。水盤は、石造で正面上段に家紋(源氏車に宝珠)、下段に相給 年番・伊賀者組頭・地方掛の9人の氏名が陰刻されている。右側面には、伊賀衆が橋戸村・ 土支田村を領し、稲荷社を建てた経緯などが陰刻されている。 鳥居は石造、横木は折れている。左右円柱に99人の奉納者の氏名が陰刻され、その中に 伊賀者の氏名が見える。背面に嘉永二年の名がある。 |
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■西円山教学院 6丁目24番にある真言宗の寺。本尊は十一面観世音菩薩。文永五年(1268)長全法 印が開山。寺号は永福寺といった。その後衰亡したが、永禄三年(1560)良賢法印によ り再興。江戸時代になって教学院と呼ぶようになったとか。大正時代は貧乏寺で、昭和8年 に入った住職が一念発起し、30年がかりで本堂・庫裏を完成させた。院号の通りに教育熱 心で、早くから幼稚園を設立して、地域社会に奉仕するなど努力家だった。本堂は石段20 段上がったところにあり、見晴らしが良い。参道の左は墓所、右は寺務所と庫裏になってい る。 閻魔・十王像と檀拏幢 檀拏幢は、閻魔大王が人間の生前の善悪を審判するためのものと されている。十王像の背および檀拏幢の蓮台前面に元禄三年(1690)橋戸村庄氏浄信の 銘がある。檀拏幢まで備わった閻魔・十王像は少なく貴重な石塔だ。 |
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■中の宮牛蒡 上練馬村字中の宮で生まれた品種。滝野川牛蒡から早生種を選び出し、鹿島安太郎が改良 して、秋播き夏穫りの安定した品種として栽培された。 |
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■としまえん 1丁目1番にある豊島園。この遊園地の立地は、川南が矢野山と呼ばれた雑木林、川北は 練馬城址の城山で板橋の「なべや」の所有だった。それが増田氏手に移り、大正末期樺太工 業専務藤田好三郎が遊園地とした。その後安田信託が所有し、やがてピストル堤≠フ悪名 で世を渡った西武鉄道の堤康二郎が手に収めて今日に至っている。平成17年息子の義明が 経済的汚職により追放され、豊島園も堤の手を離れ、西武は西武として自立の道を歩いてい る。出来た当座は、大人の、反れも大人の遊び場で、子供の遊園地になったのは戦後だ。 豊島城の名は豊島氏の城≠ニして豊島園のイメージから馴染んではいるが、「練馬城」 が正しかろう。高橋源一郎は「矢野山城」だとしている。 |
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■練馬東小学校 1丁目30番にある区立小学校。昭和35年練馬小学校分校として開校。翌年独立して練 馬東小学校創立。同40年校歌制定。同45年田柄第二小学校を分校。平成13年創立40 周年を迎えた。 ●藤ノ木 校庭の西南隅にある。根元近くの径1mという大木だ。5月の花の季節に長い花房をつけ る。江戸時代北町の「藤棚」という染料店の店先にあり、川越街道の名物だった。その後成 増の並木家に移り、昭和初期に成増にできた遊園地「兎月園」へ売渡された。その後戦争で 兎月園が閉鎖され、戦後跡地は宅地化されることになり、藤の木は再び売り出されたが枯死 寸前だった。昭和35年に練馬小学校の分校が設立され、翌36年練馬東小学校として独立 開校した時、創立の記念樹として地元の有志から寄贈されたものだ。大事な木を枯らさない ようにと、毎日石神井川より水を運んで管理してきたそうだ。 |
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■一里塚子育地蔵 2丁目9番の環状8号線(富士街道)に面した南の角地に立つ。一里塚といわれているけ れども、塚山がある訳でもなく、里程を示すものは何もない。川越街道から入って1里ぐら いのところにあるのでそう呼んだのだろう。地蔵も、供養塔も、石造祠も造りは別々のもの だ。多分あちこちにあったものを個々に集めたのだろう。どれか一つは元からあったかも知 れない。環八道路敷設前はこの地蔵の付近だけ道がやや細くなっており、しかも地蔵の前側 は、茅葺きの家や竹薮もあって旧街道のイメージを強く残していたが、今は全く失われてし まった。地蔵の背後は篠田家とその畑地だが、一等地となってしまっては、畑地をいつまで 維持できるか・・・ビルやマンションで埋め尽くされるのは時間の問題だ。 |
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■神社 2丁目13番にある小祠。 |
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■練馬東中学校 2丁目14番にある区立校。 |
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■春日神社 3丁目2番、豊島園の北側にある。日本三大仇討で有名な、曾我五郎・十郎に討たれた工 藤左衛門尉祐経の孫の祐家(祐宗とも)が頼朝の奥州征伐に参加し、この地に至ったとき藤 原氏の氏神である春日明神を勧請して戦勝祈願したことで創建された。工藤氏は木工頭藤原 を略したもので藤原一門。ちなみに藤の付く苗字(斎藤・安藤・武藤・須藤など)は押しな べて藤原系だ。後年豊島氏が守護神として崇め、豊島氏没落後は海老名左近の館になったと 伝わり、字海老ヶ谷戸(えびがいと)はその名残りという。江戸時代は十羅刹女社(じゅう らせつにょしゃ)と呼ばれて隣の寿福寺の管理下にあった。明治の神仏分離令で十羅刹女を 寺に移して独立し、春日神社と称するようになり、村の鎮守となった。本殿は春日造りで、 右手には昭和32年に新築した神楽殿があり、南面には本殿と相対して春日鳥居が建ってい る。境内には天保七年(1836)の手水場、文久元年(1861)の狛犬をはじめ、南側 の道路脇には、文化元年(1804)の馬頭観音石塔、享保九年(1724)の庚申塔など の貴重な石像物が保存されている。境内一段下のまばらな林の中に大きな、「太平洋戦碑」 と「表忠碑」が建っている。 |
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■春日明神について 春日大社は和銅三年(710)藤原不比等が先祖中臣氏の氏神である茨城県鹿島神宮の鹿 島大神(武甕槌神=たけみかづちのかみ)を奈良阿部山に勧請し、藤原北家の永手が神護景 雲二年(768)和邇一族の小野氏の氏神である春日は御蓋山(三笠山)の地主神である榎 本明神の地を耳が聞こえないのをよいことに騙し取って社を造営したのが始まりで祭神は鹿 島大神(武甕槌神)だったが、この時に香取大神(経津主神)・枚岡神(天児屋根神・比売 神)を合祀して4座となり四所明神、春日の地にあるので春日明神と称えた。平安時代藤原 氏の隆盛とともに拡充し、一族の春日詣でにより崇敬を集め、地方に散った藤原氏が勧請し て全国的に広まり、伊勢(神明/天祖)・石清水と並んで日本の三社と崇められている。た だし神社の数では稲荷明神が圧倒的に多い。阿部山は陰陽師阿部晴明の先祖の地、すなわち 藤原(中臣家」は神道家だし阿部家との繋がりは古いということだ。春日そのものの由来は 「幽処(かすが)」でひっそりとした原始林のあるところの意。余談だが江戸川区鹿骨は鹿島 大神が春日に向かう途次乗鹿が死んだ場所と伝えられている。 |
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■大林山景勝院寿福寺 3丁目2番にある真言宗豊山派の寺。春日神社の別当寺。と号す。本尊は薬師如来 豊島 88ヶ所の19番。創建は万治二年(1659)以前という。本堂は明治25年焼失、同4 3年再建、現在の本堂は昭和4年の改築、比較的新しいが、寺院としての荘厳さを十分保っ ている。過去帳などの調査により、愛染院の隠居寺ではなかろうかと考えられている。境内 に庚申塔や筆塚のほか、区指定の保護樹である楠の巨木が立つ。本堂左は墓所、右の寿福寺 幼稚園は鉄筋コンクリート4階建ての立派なもので、園児の黄色い声が賑やかだ。しかしう るさいと思うこの声を聞かないと人間は心が安定しないのだ。人間は自分に子であろうがな かろうが、世の中に子供がいることを感じていないと生きていられないのだ。その子供を殺 してしまう奴の神経が判らない。病気かなぁ! ●河野鎮平筆子碑 幕末ごろ寿福寺の近くで家塾を開いていた河野を偲んで、明治時代に筆子たち(教え子) が建てた角柱型台石付で、墓石と見紛うよ。 高さ1.6m、正面に「賢堂学翁信士」、左面 に「江府小川町産 河野鎮平筆塚 天保六年三月三日逝」、裏面に「上田柄、神明谷戸、八 丁堀、中之宮、海老谷戸」など近在の16名の発起人の氏名が、台石には筆子95人の氏名 が陰刻されている。 |
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■名主役宅長谷川家住宅 3丁目29番にあった。建物は文化・文政(1809〜29)ごろのもので、江戸時代の 名主の権威と格式を示す堂々たる建築だった。玄関の式台も当時の姿そのままに保存されて いたし、それに合わせた門も立派だ。昔はこの門と玄関を通れるのは代官と名主だけで、家 族や家人、村人、供の者は出入りが憚られた。通用の門と入口が別にあって、このことは厳 格に守られた。この建物ほどよく保存されていたものは東京全体を見てもほとんど数は少な かった。練馬区の文化財として第一級のものだとあったのでチェックに行くと、外からしか 判らないが、どうやら瓦葺きの屋根なので当代が建て替えてしまったようだ。どこかに移築 しなかったのかなぁ。30年代まではあちこちにあった農家だが、昭和40年代からのマン ションブームに乗っかって、拝金主義に陥った当代たちが先祖伝来の文化財を易々と金に替 えていった。浅ましいことよのう! |
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■練馬春日駅 3丁目29番にある都営地下鉄大江戸線の停車場。 |
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■練馬大根碑 4丁目16番の愛染院の参道にある。大根といえば練馬、練馬といえば大根といわれるほ ど「練馬大根」は有名だが、その昔、上練馬村の鹿島又六が作り始めたといわれている。ま た一説には将軍綱吉公が下練馬村に栽培を命じ、旧家大木金兵衛に年々献上させたとも伝え られている。元禄年間(1688〜1704)には、練馬の特産物となった。江戸の発展、 さらに東京となって庶民の需要に応えるため大量の大根が栽培され、全国的にその名を謳わ れるほどになった。しかし昭和7年練馬が板橋区として東京市に組み込ま、都市計画が進む に連れて、生産力は落ち、次第に衰退を続け、西郊の地に移っていった。このため沢庵漬の 生産に集中することを余儀なくされたが、それでも年産額80000樽に達した。碑はこれ を記念して昭和15年11月に、鹿島安太郎が委員長となって建立した。 |
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■鹿島安太郎翁顕彰碑 4丁目16番の愛染院の参道にある。又六を先祖に持つ安太郎は、練馬大根の品種改良に 献身的な努力を重ねた1人だ。しかしひとたび環境が悪化し、バイラス病によって練馬大根 の作柄が不振となるに及んで、逸早く転換作物として甘藍(キャベツ)や洋菜類を導入。機 を見るに敏なるを以て農業経済の振興を図ったことは、練馬大根とともに、忘れることので きない人物であると顕彰したのがこの碑という訳だ。 |
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■練月山観音寺愛染院 4丁目17番にある真言宗豊山派の寺。豊島88ヶ所の26番。開山・開基は能円房尊岳 で、永享五年(1433)または同九年(1437)と古く、最初は尾崎の地(春日小学校 付近)に創建され、寛永年間(1924〜44)に中興尊智によって現在地に移されたとい う。『新編武蔵国風土記稿』に、 愛染院 新義真言宗。京都御室仁和寺末。練月山観音寺ト号ス。本尊愛染ヲ安ス。 中興尊智。正保三年三月二十日寂ス。寺領十二石一斗ノ御朱印ハ、慶安二年十一 月十七日賜レリ と記してある。この朱印状は3代将軍家光の時のもので、以後歴代の朱印状が寺宝として 保存されている。朱印状は明治になって薩長政府に没収されて焼却処分されたのが普通で、 良くぞ残っていたと思う。大概の寺ではないはハズなのだ。 本尊は愛染明王。昭和55年に本堂、大師堂、表書院、鐘楼、稲荷社、山門を完成したと あるが、古いものもあるので改修したものもありそう。広い境内で、本堂の周囲はすべて墓 所だ。墓地の真中に大師堂があり、歴史を思わせるようなお堂だ。入口には大きな石柱があ り、表示板によると、寺の前の道路は「ふじ大山道」といい、川越街道を北町1丁目まで来 ると、そこで分岐して石神井田無を経て伊勢原に向かう大山道へとつながる歴史的な道だっ た。本尊は珍しく単独の愛染明王。これは秘仏で開帳もない。寛永年間(1624〜43) には大伽藍を建造し、その威容を誇っていたという。寛政年間(1789〜1801)火災 により、現存の山門を残して建物は全て焼失してしまったとか。その後は衰微し、明治の廃 仏毀釈では末寺の成就院(向山)・高松寺(高松)・養福寺(上田柄)・泉蔵院(中田柄) を併合した。昭和3年に本堂などが再建された。境内に西山稲荷祠、元文四年(1739) 銘の六地蔵や、天保八年(1837)銘の弘法大師一千年供養塔、高松寺合併について記す 明治25年の宝篋印塔などの石像物がある。なお練馬区「ねりまの散歩道」では、弘法大師 銘を天保二年(1831)としている。しかし弘法大師の入定は承和二年(835)三月二 十一日なので一千年忌は天保六年に当たる。墓地には名主長谷川家の五輪塔の墓石もある。 |
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| ●梵鐘 高さ134cm、口径77cm。上部の周囲に庇状の突起、下部には唐草文様、蓮華座と 光明真言などの月輪が鋳出されている。江戸時代の元禄十四年(1701)に木村将監安継 により造られたことが記されており、区内では古い梵鐘の一つだ。 ●花の寺 境内にはハナモクレン・ツバキ・サクラ・ボタン・フジなどが植えられており、手入れの 行き届いた庭園となっている。本堂前には、赤とピンクの花をつけるツバキが寄り添って植 えられていて、3月から4月ににかけて艶(あで)やかに咲くのが目を引く。 その傍には 「名木100選」に選ばれている白ワビスケがある。樹高が6mもあって、緑の葉の中に沢 山の愛らしい花をつける姿が印象的だ。この周辺にはハナモクレンもあって3月下旬には純 白の花が咲く光景はまぶしい。境内は静寂に包まれ、実に雰囲気のよい花の寺だ。 |
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■臥龍山南松寺 4丁目25番にある浄土真宗高田派の寺。境内にはいろいろな石碑があり、まるで古刹の ようだ。参道は左にカーブして東に進み北に折れる。正面に左客殿、右本堂と並ぶ。墓地は 参道の右手にある。 |
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■練馬高等学校 4丁目28番にある都立校。 |
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■春日小学校 5丁目12番にある区立小学校。昭和57年の創立。同63年緑化整備「春日の流れ」、 平成15年第二(南)校庭は区内で初めての「自然芝」の校庭になった。広さは約900u ある。その芝生の校庭はまさに緑の絨毯。子供たちは裸足で跳び回ったり、寝ころんだりと 大喜だ。同19年創立25年を迎える。 |
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| ●尾崎遺跡(春日小学校内) 小学校建設のための調査で、旧石器〜中近世の複合遺跡があることが判り、昭和54〜5 5年にかけて本格的発掘調査で、練馬を知るための貴重な資料が得られ、翌年「尾崎遺跡」 として東京都の史跡に指定された。出土品は「春日小学校尾崎遺跡資料展示室」に納められ 無料で見学することができる。小学校だけに子供の目線で設定されており、解りやすさを追 求している。珍品は平安時代の「火きり臼」だ。無料。 |
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■相原家住宅 5丁目24番にある。幕末期の商家住宅。農村における商家住宅のあり方を示すもの。東 の道路側は三和土(たたき=土間)で「みせ」を配し、西側は床上部となっている。茅葺屋 根だったが、もう建て直しちゃったかなぁ。写真撮るなら急いだがいいよ。 |
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■春日町図書館 5丁目31番にある。 |
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■耳塚(圓淨法師塚) 5丁目35番の、今はマンションにしてしまった旧家鹿島家の南にある起伏のない土地に 築かれた、径約10m、高さ約1.5mの円墳状を呈する塚。 所在地はかつて上練馬村中の 宮と高松の境であり、辻だった。西側の道路により裾の一部が削平されてしまった。頂上に 小祠があり、内には板石の碑が建っている。正面に「圓淨法師位」、裏面に8人の建碑の発 起人氏名と「明治四十四年(1911)四月建之」の陰刻があります。道路に面した西側には大谷 石を配した階段が造られている。 耳塚は、むかしこの辺りに信仰心の篤い老婆がいた。老婆は生きているのが嫌になり、村 人に頼んで棺桶に入れて埋めて貰い、鉦を叩きながら往生した入定塚だという。それから少 くして不思議なことに竹筒に耳を当てたり、花立に溜まった水で耳を洗うと耳の病気がよく なった。このことが近在に知れ渡り、多くの人がお参りするようになったとか。塚の上に祠 が祀ってあり、花が飾られていた。 比較的大きな近世、近代の埋葬遺構としての高塚であり、形式がほぼ完全に残っているも のでは区内唯一のものだ。 |
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■練馬小学校 6丁目11番にある区立校。 |
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■中ノ宮竹林憩いの森 6丁目13番にある。 |
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■上石神井駅 1丁目2番にある西武新宿線の停車場。 |
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■井草高等学校 2丁目2番にある都立校。 |
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■早稲田大学高等学院 3丁目31番にある私立校。 |
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■上石神井小学校 4丁目10番にある区立校。 |
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■上石神井中学校 4丁目15番にある区立校。 |
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■上石神井体育館 1丁目32番にある。上石神井体育館は地域のスポーツ活動の一層の振興を目指し、区内 で3番目の区立体育館として平成3年1月にオープンした地上1階地下2階の建物だ。温水 プールを併設した体育館で、1年中を通して水泳が楽しめます。またトレーニング室には、 エアロバイク、コンビネーションマシンなど最新のトレーニング機器が充実しており、健康 ・体力作りに多くの人たちが利用している。 |
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■イエズス会神学院イエズス修道院 4丁目32番にある。HPもできないようだし詳細不明。上智大学神学部の図書館が残っ ている。上智大学神学部は道路向かい関町東2‐7にあって、現在は東京カトリック神学院 になっている。 |
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■ノートルダム・ド・ヴィいのちの聖母修道院 4丁目32番にある。 |
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■川越街道 国道254号線の元になった街道は400年前にできた。日本橋を起点として中山道を進 み、板橋宿平尾で分かれて川越に至る道。その間に「上板橋(板橋区)」→「下練馬(練馬 区)」→「白子(和光市)」→「膝折(朝霞市)」→「大和田(新座市)」→、「大井(大 井町)」の順で6か村に宿場が設置されていた。 川越藩主の参勤交代のほか、仙波東照宮への参詣や鷹狩りのため、江戸から将軍を始め幕 府要人たちの通る重要な街道だった。現在はバイパスの敷設で道筋は変わったが、新道は国 道254号線となり、車の絶えることがない大動脈だ。 川越街道は、江戸幕府3代将軍家光が仙波東照宮への参詣の折に作られた。江戸時代には 「川越往還」や単に「脇往還」などとも呼ばれていた。脇往還とは本街道に対しての裏街道 で、2級国道的な意味合いがある。遠回りだが急坂が少なく女性に優しい街道であることか ら「姫街道」「女道」などとも呼ばれた。板橋から川越、熊谷、高崎で、また内山峠を越え て佐久、上田でそれぞれ中山道に合流した。 |
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■棚橋 田柄川(緑道)に架かっていた。現在緑道に親柱が2本記念碑として残されている。片方 が欠けているのが本物らしい。環八通りを跨ぐ緑道の歩道橋だけは完成しており、川越街道 を越える陸橋を北に下ると、旧川越街道は地下をトンネルで潜る設計だ。平成18年には開 通するのかな? |
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■棚橋の子育地蔵 1丁目11番の角地、棚橋のすぐ南にある。天明四年(1784)内田久右衛門が願主と なって建立した。練馬村には内田姓の旧家は多いので、どこの久右衛門なんだろうか? 直 ぐ近くにも数軒ある。この辺りは環状8号線が通って激変した。 |
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■ふじ大山道(富士街道) 大山街道は下練馬宿で川越街道と分岐して、練馬のほぼ中央を東から南西に走り、田無、 府中を経て相模国(神奈川)に達している。大山は、富士山や筑波山とともに関東の霊場と して信仰の対象となっていた。この大山詣の人々の中には、さらに足を延ばして富士詣を兼 ねるものも多いため、別名富士街道ともいわれ、現在は正式名称となっている。 |
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■北町小学校 1丁目14番にある区立校。 |
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■大山道道標 1丁目25番にあった。旧川越街道と大山街道の追分に宝暦三年(1753)8月下練馬 村の名主内田久右衛門と並木庄右衛門が天下泰平・国土安全を祈って建てたものだ。角柱に 「従是大山道」と記し、上部に不動明王坐像がある。大山(丹沢)は神奈川県の中央にあっ て阿夫利山(雨降山)ともいい、かつて広く関東地方の人々から富士山とともに信仰され、 登山・参詣する道者の群れで賑わっていた。なおこの道標と並んで、東高野といわれ庶民信 仰の厚かった長命寺(高野台3丁目)への道標もある。環八通りの敷設で、1丁目38番の 北町児童遊園に移された。 高さ約1.5mの石造物。 旧川越街道と大山道の追分にあったものを移説した。宝暦三年 (1753)に下練馬村講中によって建てられた。正面に「従是大山道」と願主名が記され ており、向かって右面に講名、左面には年記と「ふじ山道 田なしへ三里 府中へ五里」と 刻んである。 |
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■徳川綱吉御殿跡之碑 1丁目14番の北町小学校の北西角にある。徳川幕府開幕400年を記念して平成15年 11月16日区によって建てられた。銭型で真ん中の四角い部分に碑文が書かれている。 この付近一帯はかつて『御殿』と呼ばれた土地であった。 後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(十七世紀後半)にこの地を 『鷹場』とし、宿泊所と『鷹場御殿』を建てたことに由来する。 なお、綱吉は将軍就任後に鷹狩り制度と御殿を廃止した 5代将軍徳川綱吉がまだ右馬頭(うまのかみ)だった頃、脚気衝心を患った。その療養の ため、陰陽師に占わせたところ、「馬」の字の付く土地で治養するとよいという結果。それ で調べると豊嶋郡の練馬が方角もよいということで、御殿を下練馬村(北町)に建て療養し た。この時大根は脚気(かっけ)に効果があるとのことで、尾張から種を取り寄せ、近在の 百姓、大木金兵衛に作らせたところすばらしい大根ができ、病気もよくなった。将軍となっ た後も村民に大根を栽培させ、献上させたという伝説がこの土地にある。 将軍綱吉が狩にきた時に泊まっていたたという建物跡が北町に残っている。北町小学校に は記念碑も建てられた。右馬頭(綱吉)と練馬の地とは鷹狩を通して接点があったことは確 認されている。次に下練馬村に綱吉御殿があったことの関連資料を調べた人がいるので紹介 しよう。 川越街道下練馬宿(北町)の本陣を営んでた木下家に伝わった「木下家文書」の「寛延三 年(1750)の替地証文」に「御殿」の地名が出てくる。この古文書は下練馬村の茂左衛 門と名主の作右衛門の間で取り交わされたもので、御殿の畑を町屋敷などの代替地にすると いう証文だ。下練馬村にこの当時「御殿」の小名があったことが判る。今のところ最も古い 記録で、綱吉の将軍在位「延宝八年〜宝永六年(1680〜1709)」から約半世紀後の 記録だ。 さらに関連資料として下練馬村の出来事などを記した『御府内位村方旧記』(区指定文化 財)には、元禄十年(1697)に護国寺(文京区)を建てる際に、下練馬村の館林様(綱 吉)御殿を引き移したとの記載がある。また金乗院の朱印地にあったと記されている。この 『御府内位村方旧記』の成立年代は明らかではないが、江戸時代後期には既に、綱吉御殿の ことが伝承されていたといえる。護国寺観音堂造替の元禄十年は『御府内位村方旧記』の記 載と一致するが、護国寺側史料では新材で金乗院堂宇を改築したとの記載もあり、護国寺と の関連性は確認できない。江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、下練馬村屋敷 の項に、 村ノ南ニアリ右馬頭ト称セルモノ住ストイフ其姓氏及何人タル事ヲ伝ヘス 今陸 田トナリ御殿表門裏門等ノ小名アリ礎ナト掘出ス事ママアリト云 と記されている。一方、大正7年に発行された『北豊島群誌』御殿跡の項には、字御殿に あり、延宝五年(1677)綱吉が脚気治療のため御殿を建て同8年まで療養した。その殿 舎は後に金乗院住職が賜ったと記されている。この記述はその後の『武蔵野歴史地理』に記 される伝説と一部が合致している。というこっちゃ。 綱吉御殿は将軍就任前の延宝五年前後に練馬での鷹狩のため、下練馬村に建てられたよう だ。そして将軍就任後は鷹場制度の解体に向けた政策を推進したことから、自ら練馬の鷹狩 御殿を廃止したことは理に叶っている。その場所は畑となり、下練馬村の地名として伝わっ た。近代の(明治9年?)記録では、「武蔵国下練馬村全図」に「御殿跡」と位置が記載さ れている。現在の北町1丁目(自衛隊)辺りに当たるが、この界隈に御殿が建てられていた のだろう。綱吉の脚気治療説は史料では確認されず、『北豊島群誌』に記されている練馬御 殿で療養したとされる延宝五年は、側室のお伝が鶴姫を出産、その後同7年には男子の徳松 も生まれており、病気療養中とは裏腹に祝事が続いている。 練馬大根発祥に関しては、様々な伝承、伝説が伝わっているが、綱吉と関連づけるものは 現在のところ近代以降の記録に限られている。余談ではあるが、綱吉の母、家光側室のお玉 の方の兄は、『元正間記』では京都の大根売りの太郎兵衛とされている。唯一綱吉と大根と 結びつきを考えさせる記載だ。 |
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■北町児童遊園 1丁目38番にある区立公園。大山道道標と長命寺道標が移設されている。 |
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■北町弁天宮ちがや馬飾り 1丁目39番にある扶桑教の神社。ちがや馬飾りは、戦前まで区内の農家でよく行われて いた七夕の風習だ。短冊などを飾った2本の笹竹の間に荒縄を渡し、それに馬の形に作った 「ちがや馬」を雌雄一対にして向かい合わせに吊るす。雄は頭をもたげた勇壮な姿、雌はう つむきかげんで控えめな姿をしている。昔、カヤの一種であるチガヤで作ったことからこの 名で呼ばれている。最近では藁に似た真菰(マコモ=イネ科の多年草)や藺草(イグサ)が 使われている。ちがや馬飾りは、平成4年に区の無形民俗文化財に登録され、今では、この 飾りを作れる人も少なくなり、区内では3人が、ちがや馬飾りの製作技術保持者として認定 されているという。しかし後進の指導もしてるし、小学校でも教えるので途絶えることはな さそう。 |
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■阿弥陀堂 2丁目18番にある。寺っぽくないが、墓地があるので寺かなぁ・・・という雰囲気。こ この墓地に千川用水を開鑿した千川家代々の墓がある。 ●千川家墓所 一番奥にあり、寛文二年(1662)の初代徳兵衛から、2代長左衛門→3代源蔵→4代 善蔵→5代仙之助(仙輔)→6代民蔵→7代祐保(右保)→8代菊次郎→9代善造→10代 惣平の名が墓誌に並ぶ。墓誌は訪れる一般の人向けに親切な記述だ。十代惣平は昭和19年 の死亡ということは戦死だろうか、その妻は同59年に没している。記録はこれが最後だ。 ということは、現当主は60年以上家を持ち堪えているということだな。 千川上水は、本郷、下谷、浅草方面の飲料水として元禄九年(1696)に玉川上水から分 水された上水道だ(現在は暗渠)。設計者は河村瑞軒と伝えられ、仙川村出身と伝えられる 徳兵衛、太兵衛の2人が工事を請け負った。 分水口から巣鴨までの費用は、1千340両余りを要し、幕府が支出したのはこのうち8 60両余りに過ぎなかった。そのため2人は私費を投じて工事を成し遂げたのだ。しかし徳 兵衛、太兵衛両人は、その功によって千川の姓と帯刀を許され、その子孫は代々千川上水の 取締役を務め、幕府からその役両を得た。 徳兵衛の千川家は、3代源蔵の時に下練馬村(現在の北町2丁目)に移り住んだ。太兵衛の 千川家は文京区か北区かに健在のようだ。 |
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■北町観音堂 2丁目38番、旧川越街道に面する三角地にある。脇の道を入ると東武練馬駅だ。仁王、 聖観音、馬頭観音がそれぞれ門と堂に納まっている。江戸周辺を紀行した小石川の僧が著し た『遊歴雑記』に文化十二年に訪れた記述があり、往来の人々の信仰や、赤塚村への分岐の 目印だったことが判る。敷地に太平洋戦争の慰霊碑と堂宇建立記念碑が建つ。 ●聖観音坐像 総高270cm、区内に残る最大の石仏で小さな口元が愛苦しい。天和二年(1682) 銘があり、台座には街道沿線の29もの地名が刻まれている。観音堂は昭和53年建てた。 ●仁王像 天和三年(1683)造。向かって右が阿像、左が吽像だ。1mほどの像で、したがって 門も2mばかり、大きなものではない、これも昭和53年の建立。 |
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■浅間神社 2丁目41番、旧川越街道に面してある。創建は明らかでないが、5代将軍綱吉の時代に 町を上げて祭礼が行われたと伝えられている。とにかくここは川越街道の宿場町であったこ とと、富士大山道の道筋であるため、富士信仰の神社として立地条件はいい。このため人々 の信仰の中心となったことはいうまでもない。富士嶽神社のある明神鳥居と二の鳥居があっ て、社殿は珍しい石造りだ。境内に傾斜面を利用した冨士塚があり、その脇に富士講の記念 碑が沢山建てられている。その中に昭和2年6月1日止宿中とあるものに、「氏子総数出場 六百人、諸職人百五拾人」と刻まれているのを見ると、大変な動員力を持った富士講があっ たことに驚かされる。富士大山道の分岐から近いので、富士山へ向かう道者は必ずお参りし ただろう。 ●冨士塚 鳥居・石段の左側のにある。下練馬上宿、中宿の丸吉講によって、江戸時代に築かれたも のという。高さ5m、径15mで、現在も町会の有志により、7月1日に山開きが行われて いる。明治5年と昭和2年に修復された。 |
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■清性寺跡 2丁目41番、浅間神社の裏手に本堂や庫裏はないが、小堂と墓地だけが残り、侘しさを 漂わせている。寺は江戸時代初期からあり、明治までは相当な堂宇伽藍で『新編武蔵風土記 稿』にこう記録されている。 金乗院末、下三ヶ寺並に同じ、神明山観音院と号す。本尊不動は弘法大師の作。 長さ一尺二寸立像、法流開山快遍宝暦十一年二月二十七日化す。 とある。突き当たりにある歴代住職の墓石の戒名を見ると、かなりの高僧だったことが判 り、寺の権威の高さが伺える。境内には明治初期まで鐘楼があったといわれ、寺域はかなり 広大だった。墓地入口にある「招魂碑」には、千川上水の開鑿者千川家の名前をはじめ、多 くの阿弥陀堂有力者名前が刻まれている。このことから阿弥陀堂との関係の深さを物語る。 また阿弥陀堂の凡鐘には「清性寺持ち」と刻まれており、歴史的な流れからも寺と阿弥陀堂 は一体だったものと判断できる。このことを捉え、双方の墓石などの年代を追うと、寺には 寛文二年(1662)の住職の墓、同十一年(1671)尼僧の墓があり、江戸初期の寺の 存在が実証されるものだ。また阿弥陀堂の墓地では寛文二年の千川家のものが最も古く、創 世記の双方の重みが感じられる。また現存する「下練馬村絵図」を見ると寺の規模を知るこ とができる。本尊不動は弘法大師作ということだが年代不明。火災で全体が焦げ、腕はなく なったものの現存しており、ほかに弘法大師像、木魚などがあり、同年代と思われる。この ような古い仏像は北町には存在せず、町としての宝物だ。 |
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| ●白狐稲荷 清性寺小堂の隣にある。説明板に「白い狐像が浮き出て見える霊石で、板橋区徳丸の斎藤 家から祀りこみを依頼された。斎藤家によれば、これは太閤秀吉の守り神だったが関が原の 戦いの折、秀頼が石田三成に託した。戦に敗れた三成は越後に逃れ、宿の主人に預けたため 捕らわれて死罪になったといわれており、もしこの霊石を手放さなかったら難に遭わなかっ たといわれ、その後はこの宿の災難避けの稲荷となっていたものだそうで、斎藤家はその子 孫に当たる」とある。しかし三成は伊吹山中で田中吉政に捕らえられており、越後というの はどういうこっちゃ? また斎藤家は誰に依頼したのかが判らない。 |
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■北町中学校 3丁目1番にある区立校。 |
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■いま坂どら焼「神馬屋松原」 3丁目20番にあるどら焼きの専門店。神馬屋と書いて「じんめや」と読む。明治8年に 和菓子屋として創業、以来「いま坂どら焼」として知られている。それは伝統の「いま坂餅 入」、「小倉あん」をベースに現在では特製のブルーベリー餡、苺餡、コーヒ−餡など14 種類、季節限定を含めると17種類のどら焼を取り揃えている。時代によって変化する味覚 にマッチするよう、基本を守りつつ、時代の流れにチャレンジする創作どら焼だ。 |
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■最勝寺 6丁目16番にある浄土真宗本願寺派の寺。近代的はインド風の鉄筋コンクリート造り建 築で、本堂は2階。外階段で上がる。隣に寺経営の鉄筋コンクリート造り3階建ての「みの り保育園」があり、賑やかな黄色い声が聞こえるのは、何とも心地よい。 |
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■北町西中学校 7丁目3番にある区立校。 |
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■どんぐり山憩いの森 7丁目12番にある。区内で3番目の憩いの森として、昭和52年に開設した。クヌギ、 コナラ、ケヤキなどが茂る林は、子供達から「ドングリ拾い」の恰好の場として親しまれて いるよ。 |
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■氷川神社 8丁目22番にある。一般道になった部分を含めて参道は長い。詳細不明。 ●冨士塚 江戸時代中頃から昭和初め頃にかけて、江戸八百八講と言われるように、富士山や神奈川 の大山、長野の御嶽に登拝しに行く富士講や大山講、御嶽講などの山岳信仰者の集まりが練 馬区内にも沢山あった。富士講は、霊峰富士に登り浅間神社に参拝することを目的に結成さ れたもの。年ごとに講の代表者として参拝するものを選び、必要な経費を講員全員で負担し ていた。江戸時代末期ごろから、代表者に選ばれなかった講員でも信仰欲を満たせるように と、富士山に似せた富士塚が各地に築かれた。富士塚に登拝すると、実際に富士山に出かけ たのと同じ利益があるとされていた。氷川神社の富士塚は、丸吉講の講中によって鳥居脇に 築かれ、北側基部からの高さが約3.7m、径が約15m あります。富士塚に建てられてい る石造物から、江戸時代に築造された可能性もある。現在講は消滅し、行事は行われていな い。 |
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■としまえん 豊島園遊園地。大正15年先行開園、翌年全面開園した大人の遊園地。昭和33年株式会 社。同42年から花火大会開催。園内の「としまえんのもり昆虫館」は約40種類の外国原 産の昆虫や、それに関わる生物を展示。特に世界最大のカブトムシ「ヘラクレスオオカブト ムシ」など大型の甲虫やハナカマキリ・ナナフシなど珍しい昆虫を生きたまま見れるほか昆 虫関連グッズも販売してる。また平成16年温泉「豊島園庭の湯」を開湯。ただし入口は別 だぞ。また子供は駄目だよ。これは馬鹿当たりして、東京ドームの「スパ・ラクーア」・お 台場の「大江戸温泉物語」と並んで、東京三大人気温泉だそうな。 |
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■向山庭園 自然の木立や地形、湧水を利用した庭園は、ひっそりとした佇まいで、茶室や四阿(あず まや)、井筒などが、いっそう日本的な風情を醸し出している。昭和53年12月区の「み どりの保全モデル地区」第1号に指定された城南住宅地区にあり、豊かな周辺の緑と調和し ている。この付近から北側の豊島園にかけての一帯は、中世豊島氏の一拠点であった練馬城 址で、昔は「矢の山」と呼んでいた。庭園の池付近は古くから湧水池であったとかで、ここ から北の石神井川に向かって堀の役割を果たしていたようだ。 ※平成18年11月26日「紅白饅頭」さんからご指摘がありました。これは向山公園で はなく「向山庭園」の誤りだというので、調査し下記のように訂正いたします。 * 3丁目1番、豊島園駅から少し西、窪地に這うように、緩やかな長い坂がある。また豊島 園は、本来近くを流れる石神井川の流れに沿って勢力を広げた、豊島氏9代目泰景の弟、影 村が居城していたとされる豊島城のあったところだ。この窪地は、その城の空堀の部分では ないかといわれており、この窪地の傾斜部分にあるのが「向山庭園」だ。またこの場所は、 浜口内閣の頃、江木鉄道大臣の邸宅跡でもあり、昭和55年に開園した。敷地は2613u 余あり、純和風の建物と茶室、池を有する日本庭園となっている。建物から茶室にかけては 勾配があり、土留めの石垣は、城の石垣を彷彿とさせる。石垣の有る園路の脇には、石橋を 渡したひょうたん池と茶室があり、清涼感のする空間だ。庭園周辺は、昭和53年に練馬区 で、初めて「みどりの保全モデル地区」第1号に指定された閑静な住宅街で、すぐ傍に遊園 地があるとは思えない程、静かな場所でもある。そのためか、しばしば、茶会や連珠(五目 並べ)の試合なども行われている。純日本風の建物の施設を利用する際には、前もって予約 が必要だが、庭園内を散策するのは、受付に、声をかけると無料で入園できる。 |
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■向山公園 3丁目13番、閑静な住宅街の中にある区立公園。公園地は、緩やかに北側に傾斜してお り、南北に長い形状をしている。公園が住宅街の中にある割には、意外と広く、傾斜に合わ せて段段畑のように広がる園地には、藤棚の付いた砂場や、かなり背の高い運悌(くもばし ご)の遊具が置かれている。中央部から、北側の奥には、大きなけやきが、何本もあり、夏 場は、子供の遊ぶ砂場に涼やかに日陰を落としてくれる。 |
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■向山小学校 2丁目14番にある区立校。 |
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■茅原浅間神社 1丁目59番にある。かつてこの辺りは茅原だったことにより、その名がある。江戸時代 は「富士浅間社」と呼ばれ、富士講の上板橋、中新井、下練馬村の富士道者に崇敬された。 以前は清戸道から真っ直ぐに参道があったが、大正4年に武蔵野鉄道が開通ししかもここに 江古田駅ができたため参道は断ち切られ、現在のような形となった。平成13年神社西側の 浅間通りの拡張工事にともない、門の部分が改築された。拝殿の裏は江古田富士で人口に膾 炙している人工富士だ。 |
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| ●江古田富士 「駅からこんなに近いの?」の代表格がこの富士塚だ。黒御影石の石碑が立派だ。門や柵 も新しく建て直されさっぱりとしている。冨士塚は本殿の右奥に大きく聳え立つ。。国と区 指定重要有形文化財とのことで柵の中にあり、普段は登れない。頂上には天保十年(183 9)造立の石祠が祀ってある。冨士塚は高さ8m、径30mで、天保九年(1838)の築 造、関東大震災の時に崩壊、大正13年修築された。後方の斜面は途中からコンクリートで 補強され、前方のみを観賞する富士だが歴史を感じさせる。登山道に各種の石造物が立つ。 国と区の有形民俗文化財に指定されている。 ●富士講関係資料 国の指定文化財「江古田の富士塚」に関係する富士山信仰の団体の「小竹祓講(はらいこ う)」が用いた祭りの道具箱類。お炊きあげ道具、旗、御身貫(おみぬき)が伝わってい。 お炊きあげ道具の一つである火打箱に明治15年と読める墨書がある。江戸時代から昭和の 戦前まで盛んだった富士山信仰の様子を伝えるものだ。 ●千川桜楓碑 駅寄りの境内に建っている。これは大正天皇御大典を祝して千川沿い7Kmに亘って桜・ 楓1200本を植えた記念のもので、大正4年に千川沿いに建てられたが、道路拡張のため ここに移されたものだ。 |
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■小竹向原駅 2丁目6番にある西武鉄道と東京メトロ有楽町線の停車場。 |
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■小竹小学校 2丁目6番にある区立校。 |
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■八雲神社 2丁目42番 |
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■小竹図書館 2丁目43番にある。 |
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■武蔵野稲荷神社 10番にある。当社は古くから多くの善男善女の篤い信仰に支えられて今日に至ったが、 特に商売繁昌、無病息災、禍転じて福となす“つなぎの神様”江古田のお稲荷さんとして知 られ、境内には開運幟が翻って、植裁された深い緑の中で鮮やかに映えている。一の鳥居か ら三の鳥居まであり、これを潜ればすぐ拝殿がある。境内の奥、小高い塚には奥の院があっ たが、昭和51年古い拝殿を取り壊して新しい拝殿の建てた。この塚は円墳の遺跡ではない かと見られているが、改まって調査はされていない。大正初期ごろまで、この塚に狐が住み 着いていて清戸道を通る人たちに悪さをした。このため夜遊びして、夜遅くこの道を通るな と教訓めいた話も残されている。そうはいっても子狐が死んだとき、近所の人はこれを哀れ に思って埋葬し、子供たちがよく育つようにと祈って「子守塚」を建てた。それがいつしか 子育稲荷として信仰を集めるようになったものだと。表口と裏口に、武蔵大の学生の通り抜 けを断る旨の建て看板が立ててある。朝晩素通りの学生が大挙してぞろぞろ通り抜けされた ら、神様もおちおち眠ってられないはなぁ・・・・ |
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■浅間湯 38番にある。公衆浴場を身近なコミュニティー施設として活用しようという趣旨のもと に東京都が昭和58年に指定したコミュニティー・セントウ第1号の銭湯だ。2階には、舞 台のついた和室を備えたコミュニティーホールがあり、地域の人々の集会場として音楽の練 習やヨガ教室等、さまざまな目的に使われている。また正面に置かれた瀬戸物の狸がユーモ ラスな姿を見せており、この銭湯の名物となっている。 |
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■桜台駅 1丁目4番にある西武池袋線の停車場。 |
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■開進第三小学校 2丁目18番にある区立校。 |
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■林稲荷神社 3丁目16番にあるらしい。 |
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■開進第三中学校 3丁目28番にある区立校。 |
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■桜台体育館 3丁目28番にある区の施設。 |
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■開進第二小学校 5丁目10番にある区立校。 |
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■小林家住宅 5丁目11番にある民家。昭和27年に建てられた丸太小屋風の瀟洒な木造2階建ての洋 式住宅。屋根は石板を鱗状に葺いている。外観は半割丸太を用いた外壁化粧、急傾斜と緩傾 斜を巧みに組み合わせた屋根、筋交いを化粧に見せるなどして山小屋風な建物を特徴付けて おり、内部も贅を尽くした山小屋風、田舎風の造りとなっている。メルヘンチックで女性好 みの住宅だ。まぁーステキ! |
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■円満山広徳寺 6丁目20番にある臨済宗大徳寺派の寺院。20000坪の敷地は、東京の寺では最大級 だ。現在の規模では浅草寺が約30000坪でトップだ。それに次ぐ。その次が芝増上寺の 16000坪だからその大きさが判ろうというものだ。元は元亀・天正の頃(1570〜9 1)箱根湯本早雲寺の末寺として小田原に創建されたが、天正十九年(1591)希叟和尚 の時、家康に招かれて江戸神田に移り、寛永十二年(1635)下谷(台東区役所の一帯) に大伽藍を建立した。当時は増上寺・吉祥寺・本願寺とともに江戸の大寺として朱印100 石の格式を誇った。大正12年関東大震災後、最初塔頭の円照院と墓地が移り別院とした。 昭和27年桂徳院が移り、同46年意を決して別院の円照院を秩父両神村に移した上、広徳 寺も移って、旧前田侯爵邸の書院や茶室が移設された。同50年代初めに本堂を修復、平成 2年開山明叟和尚400年忌を記念して庫裏・位牌堂を建て替え、現在の佇まいとなった。 堂塔伽藍悉く改まり、名にし負う総門も変わったが、 広徳寺日本一の大旦那(川柳) と謳われた広大な20000uもの卵塔場はそっくりそのまま移された。墓地には加賀前 田家、会津松平家、剣法柳生真陰流宗矩父子の柳生家、筑後柳川城主立花宗茂の立花家、そ のほか日向秋月家、小笠原家、小出家、小堀家、織田家、横山家など近世大名20余家と近 衛家の墓がある。一般に江戸時代の墓の多くは指定文化財だ。ところがこの寺の墓にはそれ が無い。入口に「拝観お断り」の冷たい文字。寺では、文化財指定の話はあるが一般公開し なければならなくなり、墓所や寺が荒れるので断っているとのこと。一つの卓見だ。さすが 坊主! しかし公開している寺で墓所が荒れている寺はない。管理不行き届きで、新しい墓 を隙間があれば詰め込んでいるという大雑把な大寺院はある。1人で行って丁重に依願し、 拓本など採らないという礼儀を弁えれば、坊主とて人の子、優しい心にならぬでもないぞ。 格式の高い大名寺。そんじょそこいらの寺院と一緒くたにしちゃあいけねえよ。ここの坊主 は実は鼻の高い天狗なんだ。 境内の庭はとても美しく5月にはボタンの花が咲く。また一般の方を対象とした精神的修 業の暁天(早朝)坐禅会を毎週行っている。 |
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| ●短脚の総門 江戸時代、「びっくり下谷の広徳寺」「如何した門だよ広徳寺」と軽口を叩かれたのは、 その寺門にある。この寺の総門は見てくれが立派でも大きい訳でもない。屋根構えが大きく 柱が短い、何とも頭でっかちな違和感の強い門構えだったのだ。しかし火事と喧嘩が花のお 江戸にあって300年近く、一度も火災に遭わなかったという奇跡を持つ。伝説によれば、 加賀の前田家が総門を寄進するに当たり、浅草諏訪町の大工政五郎に普請方を依頼した。こ の時政五郎は内職(うちしょく)の左甚五郎に設計を命じたが、折悪しく「父危篤」の報が 入ったため、急遽帰国してしまった。その留守中弟分の職人が柱寸を1尺短く設計図に描い たので、見栄えの悪い門が出来上がったという次第だ。面目を失った政五郎は責任を取って 自殺したという。話はまだこれからだ。 その後元禄のころ(1688〜1704)上野寛永寺の輪王寺宮が浅草観音に赴く途中、 この門を見て「何とも不思議な門よ」と訝り供の者に謂れを尋ねた。供が伝聞を答えると、 「何も死ぬことはなかった」といい、次のような話をされたという。 「昔、平安京を造営している時、都の正門である羅生門を検分された柏原院(桓武天皇) が『高すぎるから一尺切り詰めよ』と命じた。その後再び巡った時、院は『以前一尺つめよ と命じたが足りなかった。一尺五寸というべきだった』と後悔された。この時杢工頭(もく のかみ)は、申し訳なさそうに下を向き、『実はあの時、一尺つめよと伺いましたが、それ では余りに低くなりすぎると思い、独断で五寸しか詰めませんでした」と吐露した。すると 院は「この都の地勢では風当たりが強かろうから、できるだけ低目に抑える方がよいと思う のだ」と呟かれたが、時遅し既に落成してしまっていた。果たせるかな門はその後強風に煽 られて三回も倒壊した。思うに江戸も南は海、北は山が遠く四辺風が強い、人家が多いので 定めし火事の憂いが起こるだろう。その点このように屋根を低く作ったのは、むしろ風避け 火除けの名作とというべきなのだ」 羅生門が三回倒れたかどうかは判らないが、延暦十四年(795)完成間近の平安京が大 風を受けてほとんど倒壊したことは記録にあり、桓武天皇が長大息しことが土台にあっての 話ではあろう。広徳寺の門が燃えなかったことについては、火事の度に屋根の隅の亀瓦が水 を噴いて火を移さなかったとか、前田家の消防隊「加賀鳶」が守ったとか、それなりの防火 の配慮があって燃えなかった。運だけではないのである。残念ながら関東大震災では持たず 焼失してしまった。現在の総門はコンクリートの柱が2本だけ。再建してくれぇー! |
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■桂徳寺 広徳寺と同じ敷地内にあり、慶長7年(1602)滝川壱岐守正利が滝川下総守雄親の菩 提所として建立した広徳寺塔頭の一つ。禅の修行場で墓地はない。ふりかえ地蔵の石碑があ る。こじんまりした寺だ。 |
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■高稲荷神社 6丁目25番にある。昔神社の下の公園のところは薄暗い大沼で、そこに大蛇が棲んでい た。秋になると紅葉が美しく、遠方から人々が紅葉狩りにくるほどだった。この近くの旧家 篠家の若者も、釣竿を担いで毎日のように魚獲りにやってきた。実はそれは口実で、紅葉狩 りに来る美しい娘に会うためだった。ある日その娘がいないので、心落ち着かなくなってう ろうろ徘徊していると、沼の奥の方に佇んでいる娘を発見、我を忘れて駆け寄ると慌てたた めか足を取られて沼に落ち溺死してしまった。村人たちは若者が大蛇に見込まれて沼に引き ずり込まれて命を落としたと考え。その霊を慰めるために祀ったのがこの高稲荷だと『練馬 区史』はいう。そのため土地の人は、高稲荷の周辺だけは動・植物の保護をしてきたという ことだ。昔の人は頭がいいね。こうして自然保護をやったんだ! |
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■お浜の井戸 6丁目31番にある。現在の氷川台氷川神社のご神体が石神井川を流れてきたのを拾って 祭った最初の地であるとされている。その後ご神体は氷川神社の地に移され、このため、春 の祭りにはお里帰りの神事が行われている。 |
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■和田堀稲荷神社 1丁目21番にある。 |
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■石神井南中学校 2丁目7番にある区立校。 |
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■下石神井小学校 2丁目20番にある区立校。 |
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■法音寺東京支院 2丁目36番にある日蓮宗の寺。鉄筋コンクリート造りの建物はまるで体育館のようだ。 入り辛い雰囲気がある。境内に子育鬼子母神堂がある。 |
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■大鷲神社 3丁目25番にある。 |
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■ちひろ美術館東京 4丁目7番にある区立校。 |
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■石神井神社 4丁目14番にある。 |
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■丸彫青面金剛庚申塔 5丁目7番の東北角にある。石造で高さ約1.5m、方形の台石に、 「享保十二丁未天武 州豊嶋郡下石神井村 奉庚申 願主小川八兵衛講中三十四人 六月吉日」 と陰刻してある。 丸彫像の台座には邪鬼と三猿が陽刻されており、像と一体の一ツ石だ。しかしお腹の辺りで 折れ、補修した痕がある。 |
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■加藤稲荷 5丁目6番にある。この付近に加藤姓の旧家はなく、詳細不明。 |
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■天祖神社 6丁目1番にある。 ●二十三夜待供養塔 境内の鳥居脇に建っている。文化十三年(1816)に下石神井村の二十三夜講が建立し た。石造で、高さ117cm×角柱の幅35cm×奥行20cm、台石の上に乗っかってい る。正面上部に勢至菩薩坐像が円の中に浮き彫りされ、正面に「二十三夜待供養 文化十三 年丙子年」、右面に「武州豊嶋郡下石神井村」、台石には願主、世話人をはじめ講中23人 の名が刻まれている。 |
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■練馬甘藍 キャベツ 練馬といえば大根で、現在でも練馬と大根は付き物だ。それほど定着した大根 だが実はもう70年も前の戦前には作れなくなったのだ。多年の連作障害に加えて、昭和8 年の異常旱魃が追い討ちとなり、ウィルス病が大発生したため栽培が続けられなくなってし まった。その代替作物に選ばれたのがキャベツだ。早い畑では、同14年ごろには試作に入 った。当時品種は種苗屋任せで、あれこれ試みた末、同19年にサクセッション種に絞られ て、戦後急速に広まった。同26年には作付け面積が500ヘクタールにも及び、練馬区は 都内最大のキャベツ供給地に転換した。今、井草通り沿いのJA石神井ファーマーズセンタ ー隣に「甘藍の碑」が建っている。碑文の上のオブジェは練馬キャベツ「錦秋」だよ。 |
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■区内最古の学校・石神井小学校 1丁目1番にある同校は、明治7年5月18日禅定院内に第3中学区第5番小学公立豊島 小学校の名で開校した練馬区で一等最初に設置された小学校だ。同9年境内に校舎を建築。 34年後の同43年下石神井2丁目1050番地(在石神井図書館・郷土資料館)のところ に校舎を新築して移った。昭和7年東京府東京市石神井尋常高等小学校と改名。同16年東 京府東京市石神井国民学校と改名。同18年東京都石神井国民学校と改名。同22年4月板 橋区立石神井小学校と改名、同8月練馬区が成立して区立石神井小学校と改名。同26年開 校77周年記念に校歌制定。同29年上石神井小学校を分校。同30年光和小学校分校。同 34年上石神井北小学校分校。同38年現在地に移り、同45年旧校地を区に返還、所在地 を現在地に変更した。ために校地連絡橋はなくなり随分雰囲気が変わった。同46年下石神 井小学校分校。同49年開校100周年。平成16年創立130周年。 校歌「朝は浅黄の靄に明け」 草野心平作曲 宅孝二作曲 朝は浅黄の靄に明け 夕べは金の陽が沈む 水と緑の田園に 我が学び舎は聳え立つ あーあ石神井 ああ石神井 歴史は古き 我が石神井 |
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■亀頂山密乗院三宝寺 1丁目15番にある真言宗智山派の寺。寺の縁起では応永元年(1349)鎌倉大楽寺の 権大僧都幸尊法印が、石神井郷小仲原(現在の禅定院の辺)に勅願寺として建立されたのを 創始とする。文明九年(1477)石神井城の落城後、大田道灌により城跡の一角である現 在地に移され、このときに勅願寺の格を外されたと思われる。天文十六年(1547)再び 勅願寺になった。その後北条氏より寺田・制札などを受け、天正十九年(1591)には徳 川家康から朱印10石を賜った。境内に山門・長屋門・鐘楼・大黒堂・根本大塔・大師堂・ 平和観音がある。 |
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| ●山門 四脚門(よつあしもん)で、屋根は、書物を開いて「へ」の字なりにしたような切妻造で、 銅板葺きだ。天井は、木を組んで格子形に仕上げた「格天井」となっている。家光が鷹狩の 途次3度立ち寄ったことから「御成門」とされ、江戸期は一般の通行は禁じられていた。現 在の門は文政十年(1827)に改築されたが、寺では一番古い建物で、昭和28年に修復 された。門以外の建物は、文久三年(1863)と明治7年に焼失、その後に再建されたも のだ。全体的に重厚な門で、ゾウやバクなどの彫刻と細部絵様は江戸時代後期の特徴を示し ている。 |
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●長屋門 御成門の東の門は、赤坂の勝海舟邸にあった門で、旭町にあった兎月園に移築されていた ものを、昭和35年に引き取ったものだ。 ●梵鐘 本来僧に集合を知らせる合図として鳴らす仏具の一つだった。後に時刻を知らせたり、大 晦日に煩悩を払う除夜の鐘として使用されるようになった。三宝寺の梵鐘は、銅製で総高1 64.4cm、口径85.8cm、縁厚9cm。銘文によれば、作者は江戸時代に多くの鐘を 造った鋳物師(いもじ)として知られた椎名伊予守藤原吉寛だ。皇居の平川門の橋の擬宝珠に この名が刻んである。鐘は延宝3年(1675年)に制作され、鐘楼に掛けられた。 ●馬とうかんぜおん塔 馬頭観世音菩薩。かな文字で仏の姿を画いた珍しい塔が無縁墓の中に一つ、異彩を放って 建っている。安政元年(1858)に建てたものを、明治7年に再建した。 ●花木 ウメ・ボケ・サルスベリ・フジ・シダレウメ・シダレザクラなどがあるが、客殿前の枝振 りのいいシダレウメは秀逸だ。 |
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■豊島山無量院道場寺 1丁目16番にある曹洞宗の寺。石神井城主豊島兵部大輔輝時が、応安五年(1372) に大岳禅師を招いて、豊島家の菩提寺として建立したという。山門と鐘楼を、昭和45年に 新装、同49年には三重塔も建てた。いずれも総檜木デ造りの豪華さだ。永禄五年(156 2)北条氏康より頂戴した寅朱印状(土地などの無税証明書)は寺を再興隆させた中世文書 で、区内では数少ない貴重なものだ。ほかに本堂に区内最古という板碑(青石塔婆)、卵塔 場には大田道灌に滅ぼされた豊島泰経等の墓と伝わる石塔3基がある。現在の堂宇は昭和1 2年に改築されたが、その後さらに唐招提寺金堂を模して改築。同45〜50年にかけて表 門、鐘楼、三重塔(鎌倉様式)が建てられた。落ち着いた静かな寺だ。市街地化の浸透が遅 れ、現在でも田舎的な練馬区ならではの結果だろう。墓域には勝手に入れないからご注意。 |
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■区立石神井図書館郷土資料室 1丁目16番、図書館の地下にある。入口は別だよ。考古資料や農具・民具,また練馬大 根に関する資料を展示しており、図書等の閲覧もできる。しかし肩肘張った箱物ではなく、 地味な、素人っぽい、逆をいえばそれほど大したものではない。江戸川区の展示と同程度、 僻地にあっては仕方ないだろう。明治まで殆ど人の住んでなかったところだから、歴史資料 の絶対数が少ないのは当然のことだ。 所蔵文化財は、縄文式竹かご、金銅製飾具、小島家文書、千川家文書、荘家文書、比丘尼 橋遺跡出土の旧石器、丸山東遺跡出土の木製品、武蔵関遺跡出土の大型槍先形石器、高稲荷 遺跡出土の旧石器、中ノ宮遺跡出土の小形壺型土器、八ヶ谷戸遺跡出土の大型把手付縄文土 器、石神井城出土小刀、富士講巡拝装束、棒屋資料、井戸替え用具、醤油製造用具 |
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| ●東早淵遺跡出土の局部磨製石器 平成2年の東早淵遺跡第4地点(早宮1−24)発掘調査出土品。24000年以上前の 旧石器時代の土層より出土した石斧3点で、2点が完全な形で出土し、大きいものは長さが 約9cmある。1点は刃の部分の破片。周りを細かく加工し、刃を中心に丁寧に磨かれたも の。区内では最も古い部類の石器だ。 |
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| ●小竹遺跡出土の翡翠製大珠 平成3年の小竹遺跡第2地点の発掘調査で、11号土坑から出土した縄文時代中期のもの だ。長さ50mm、幅20mm、厚さ7mm、重さ11g。大珠は垂れ飾りのひとつと考え られており、本例は2か所に孔が穿たれている。形態は、定角式磨製石斧のように側面に面 取り加工がみられ、端部がやや薄く角張ったつくりになっている。また当該期における翡翠 の産地は糸魚川流域を中心とする地域に限られており、本遺跡で製作された痕跡もみられな いことから製品として遺跡にもたらされたものと考えられる。大珠が出土した土坑の大きさ は1.3m×1.75m×深さ0.3mで楕円形。 翡翠製の大珠は、区内の遺跡で唯一の出土品であり、土坑から出土した点についても、大 珠が墓の副葬品として埋設されたことを示す貴重な資料だ。 |
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| ●春日町出土壺型土器 弥生時代後期のもので高さが31.5cm ある。つぼの口のへりに棒状の浮文、首の部分 に円形の浮文、胴には平行に羽状縄文(うじょうじょうもん)が施されており、文様帯(も んようたい)を除いて赤く彩色されている。昭和8年前後に、春日町の尾崎遺跡近辺で道路 工事の際に発見された。 |
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| ●丸山東遺跡方形周溝墓出土品 外環道路建設に先立ち、平成3〜4年に発掘調査した丸山東遺跡(大泉町3丁目)方形周溝 墓7基の一括出土品。「方形周溝墓4号」を中心として、弥生式土器12点、ガラス玉71 点、管玉5点、鉄剣1口が出土した。調査では方形周溝墓の一群が明らかとなり、白子川流 域の弥生時代後期の墓制を知る貴重な発見となった。弥生式土器は壺形土器で、ほとんどが 底部が破砕され、1点は口縁部破砕だ。相模地域からの搬入品や在地製の土器が混在してお り、当該期の壷形土器の様相が判る。玉類も当該期の典型的なものが揃っている。鉄剣は区 内唯一の出土であると共に、関東地方での稀少例でもある。 武蔵野台地における弥生時代後期後半の方形周溝墓一括出土品として秀逸であり、副葬や 祭祀の形態を窺うことができる資料だ。 |
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| ●尾張殿鷹場碑 江戸時代、旧小榑(こぐれ)村(現在の西大泉・南大泉・大泉学園町一帯)と旧橋戸村(現在 の大泉町一帯)には、尾張徳川家の鷹場(専用狩猟地)があった。碑はその境界に建てられ た石柱だ。 鷹狩りは、飼い馴らした鷹を放ち、小鳥や小動物を捕らえる狩猟法。尾張徳川家の鷹狩り は、軍事訓練や農村の視察に加えて、農民に大名の威信を示すことを目的に、寛永八年(1 631年)から慶応3年(1867年)まで行われていました。1回の鷹狩りで、300名あ まりの尾張藩士が参加し、10日間ほど行われた。大名にとって鷹狩りは華やかな行事だっ たが、鷹場内に住む農民は人足として徴発されたほか、「犬猫は放し飼いにするな」「手を 叩くな」「物音を立てるな」「騒ぐな」「かかしを勝手に建てるな」など細かい規定が設け られ、破ったのが見つかると罰せられた。 同鷹場碑は、高さ78cm、縦横15cmの石造角柱で、下部が欠損し3個体に折損してい る。造立年は不明。正面には、「従是西北尾張殿鷹場」の文字が彫られている。大正2年頃 までは南大泉1−17−1地先、冨士街道と南から来る清戸道の交点に建てられていた。 |
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| ●長享二年の申待板碑 板碑は、板状の石を用いて卒塔婆の一種として発生した供養塔だが後には墓石の意味を持 つようになった。浄土宗、密教、禅、日蓮宗関係のものと、様々な種類がある。春日町で出 土したといわれるこの申待板碑は、関東・四国地方で多用された緑泥片岩(りょくでいへん がん)製で、室町時代に造られたものだ。高さ97.4cm、幅31cm、厚さ2.8cmの大 きさで、天地の一部を欠損しています。天蓋(てんがい)、種子、蓮座の下に「奉申待供養結 衆 長享二年戊申(1488)十月廿九日融秀阿闍梨道弥門」の文字が彫られている。続け て12人の名が彫られていることから、中世の民間信仰が窺える。長享二年の銘がある申待 板碑は、現在のところ国内で3番目に古い。 |
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| ●木下家文書 江戸時代に下練馬宿で本陣を経営し、名主を勤めていた木下家の文書類。寛永十九年(1 642)〜明治期の53点が現存している。寛延三年(1750)の替地証文には「御殿」 の地名が記されており、第5代将軍徳川綱吉が、将軍就任前に鷹狩りに訪れた際の宿泊施設 「御殿」との関連が伺われる。江戸時代の下練馬村の様子を知ることができる資料だ。 |
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| ●栗原家文書 上石神井村の名主、石神井村の村長などを勤めた栗原家に伝わっていた文書類。天保二年 (1831)の「議定一札之事(板橋宿代助郷御免除相願度ニ付)」から昭和8年の「石神井 案内」まで52点が現存している。江戸時代の文書は、天保期(1830〜44)の助郷や 慶応四年(1868)の「信忠隊三宝寺江止宿諸入用覚帳」など旧幕府諸隊に関わるものが 残っている。近代の文書では、明治41年の「御願(豊島氏貴重品池中探索ニ付)」、昭和 6年の「東京府立公園設置願」など石神井村に関するものが伝わっている。また江戸時代の 上石神井村絵図面や地租改正事業に伴い作成されたと考えられる、明治初期の上石神井村地 引絵図などの絵図、地図も多く残されている。 江戸後期以降の上石神井村・石神井村の様相を伝える文書類が残り、地域の歴史を知るこ とのできる資料だ。 |
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| ●中野商店文書 土支田4丁目で肥料や雑貨などを販売していた中野屋商店(加藤家)の営業関係文書類。 明治7年から昭和6年までの100点余りがあり、決算帳や仕入れ帳、販売簿などから、当 時の商店営業の様子を知ることができる。 |
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| ●大八車 全長279cmで、車輪の径は126cmある。御所車(ごしょくるま)型で、車軸も含め、 全てが木製で、江戸時代後期の製作と考えられる。車台の左側には、税金を納めたことを証 明する明治4〜6年の検査印「免許入間県」の焼印がある。当時江戸の町へ野菜や練馬大根 の沢庵漬けを運ぶのに使われ、最近まで大泉町4丁目の農家で使用されていた。 |
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| ●石神井西尋常小学校のリードオルガン 石神井西小学校で使用されていた昭和初期製造の足踏みオルガン。明治19年に始まった 尋常小学校・高等小学校での唱歌教育のため、リードオルガンが各学校に配備されるように なった。このオルガンは、石神井西尋常小学校時代の昭和初期に配備された。国産オルガン 初期の普及型リードオルガンであり、唱歌や音楽教育の様子を伝えるものだ。 |
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| ●沢庵漬製造用具 練馬大根の漬物製造に使われていた諸道具。郷土資料室では、大根を洗うのに使用した籐 束子(とうたわし 約31cm×8cm)、大根の皮を剥がすのに使用した鮫の皮(約8〜 9cm)、長い大根を洗うのに使用した長径132cm、短径102cm、高さ38cmの 小判型洗い桶や、口縁172cm、底面の径151cm、高さ182cmの大樽・口縁97 cm、底面の径89cm、高さ93cmの中樽・口縁54cm、底面の径45cm、高さ5 4cmの小樽、重石を積み上げるのに使用した金づめなどがある。 江戸時代、練馬の地域は人口100万人を超える江戸への野菜の供給地で、練馬大根も江 戸へ送られていた。明治の中頃には、練馬大根の生産は一層増え、沢庵漬けとして出荷され るようになった。日清戦争の時には、沢庵漬けは軍隊に納める貴重な食料として大量生産さ れた。この頃鉄道や船舶などの交通網が発達したこともあって、漬物の販路は拡大し、練馬 大根の名は瞬く間に全国に知れ渡った。その後、昭和8年の大旱魃や昭和25年までの数回 にわたるモザイク病の発生、食生活の洋風化、農地の減少などにより、昭和30年頃から栽 培が衰退した。それからというもの練馬大根は出回らなくなった。 最近になって「あのポリポリとした、歯切れのよいたくあん漬けを味わいたい」との区民 の声の高まりとともに、区では、練馬大根を名産品として残していこうと、平成元年度から 練馬大根の保存・育成事業を始めている。これは、区内の農家に合計約6000本の練馬大 根の栽培を委託し、区民の収穫体験事業を行っている。また区内の漬物業者に委託して沢庵 漬けにしている。沢庵漬けにした練馬大根は、毎年1月に西武百貨店池袋店食品館地下1階 で開催する「ねりま漬物物産展」で販売し、残りを区内で販売している。 たくあん漬け販売の問い合わせ先 経済課 03−3993−1111(代表) |
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●千川上水記録フィルム 千川上水を流れに沿い、取水口から六義園までが、カラーリバーサルフィルムを使用して 60コマで構成されている記録フィルム。タイトル画面に「千川上水製作練馬区教育委員会 1952」とあることから、昭和27年に練馬区教育委員会が製作したものであることが判 る。当時練馬区内においても場所により暗渠化工事が進められている中、時期を失すること なく工事の初期段階に於いて撮影され、またカラーフィルムを使用しているなど、暗渠とな る前により良い記録を後世に残そうという意図が明らかです。 このフィルムには、千川上 水とともに周辺の風景が写され、広がる畑、交通量のほとんどない道、木造平屋の建物が軒 を並べる商店街、橋や千川上水からの分水口、また千川上水と関わる水車や各種の工場など 今では見ることができない千川上水とその流域の場景が記録されている。 なお使用されたフィルムは、外型反転、感度ASA10、ライカ判、20枚撮り、昭和2 4年10月に発売されたもの。千川上水の記録は、このフィルムの発売から約3年後であり まだまだ高価なカラーフィルムを使用したことで、記録内容とともに一層貴重な資料となっ ている。 |
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| ●内国勧業博覧会褒状 明治10年明治政府が殖産興業政策の一環として開催した内国勧業博覧会に、上練馬村の 相原房次が沢庵漬を出品した折に受けた褒状。発行は内務卿従三位大久保利通だ。第一回の 博覧会では、練馬区域からは沢庵漬の他に大根・麦・牛蒡・茶などの農産物や桶・靴・木綿 ・絹糸など50点が出品され、賞牌や褒状7点を受けた記録が残っている。この資料はその 内の1枚で、練馬大根沢庵漬が公に表彰されたことを示す資料だ。 |
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■栗原家長屋門 1丁目18番にある。道場寺の西側の路地の突き当たりに見える。 |
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■氷川神社 1丁目18番にある。応永年間(1394〜1428)豊島氏が、武蔵一の宮氷川神社の 分霊を石神井城中に祀ったことに始まる。豊島氏没落後は谷原・田中・上石神井・下石神井 ・関5ヶ村よりなる石神井郷の創鎮守として崇敬され今日に至っている。私が参詣した折は 芽の輪潜りの梅雨時のことで、本殿前にある数段の階に足をかけようとした刹那、石が動い たので腰を抜かしそうになった。ひょいと見ると亀だぁ! 甲羅が30cmほどの亀が歩って る。なんと奇瑞なことよ。三宝寺池の亀だろうが、まさかのところで出会うとはこれ吉兆、 吉兆。拝殿左手前の石灯籠は豊島氏の子孫の泰盈・泰音父子によって、元禄十二年(169 9)に奉納されたもの。その奥の水盤は享保十二年(1727)に据えられたもので区内で は最古のだという。境内末社は北野・須賀・稲荷・御嶽・八幡・三島・榛名・浅間・三峰・ 阿夫利の各社がある。 |
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■石神井公園 1丁目にある。昭和5年「石神井風致地区」に指定され、同10年には三宝寺池の浮島植 物群が「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定された。同34年三宝寺池、 石神井池、石神井城址などを含む一帯18万u(5万5千坪)を都立公園として整備して公 開した。 |
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| ●三宝寺池 鎌倉期に創建された三宝寺の北面に広がる湧泉で、水量は抜群、旱魃でも渇水しなかった んだよ。現在でも湧水量は豊富だ。しかし近ごろでは井の頭池のようにポンプで吸い上げて 養水しているという噂を聞いた。三宝寺のほか道場寺・氷川神社・厳島神社・穴弁天・水神 社・殿塚・姫塚・柘植の木稲荷跡・栗原水車跡・野外ステージ・稲荷諏訪合神社・池淵史跡 公園などがある。 |
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●石神井池 井草通りを挟んで東側に続くが昭和8年に水抜きのために湿地を掘って作った人工のボー ト池だ。 強東風(つよごち)の磨き上げたる榛(はん)の空(広瀬一朗) 五月闇より石神井の流れかな(川端茅舎) 目高捕り三宝寺池も遠からず(村山古郷) |
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| ●姫塚・殿塚 三宝寺池の北方の林の中にある。石神井城落城のとき豊島泰経は家宝の黄金の鞍を置いた 白馬に跨って池に飛び込んで死んだといわれ、娘照姫も悲嘆のあまり後を追って入水したと いう豊島氏伝説が、姫塚・殿塚として残っている。姫塚は塚をなし白柏(しらかし)の巨木 に押されて倒れそうな小祠を戴いている。殿塚は平地に墓石があるのみだ。 |
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| ●石神井城址 中世前期の方形城館で、小高い丘に立てた居館の周りを土塁や空濠で防備を固めた城で、 戦国時代の城郭からすれば鶏小屋みたいなものだが、この時代の喧嘩ではこの程度のもので 足りたのだ。前は石神井川、後ろは三宝寺池で天然の要害だもの、この辺りにはこれ以上の 立地はない。 |
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■厳島神社 1丁目26番、にある。 |
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■水神社 1丁目26番、三宝池の南面にある。 |
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■石神井中学校 1丁目32番にある区立校。 |
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■石神井体育館 1丁目32番にある。 |
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■閣名山釈尊本寺 2丁目8にある日蓮宗の寺。表札に「唱題行根本道場」とある。2階建ての洋式建物で、 外観からはとても寺とは思えない。 |
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■神社 4丁目7番にある小祠。 |
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■上石神井小学校 5丁目1番にある区立校。 |
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■稲荷諏訪合神社 5丁目23番にある。 |
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■庚申堂 7丁目10番にある。中国の道教には、人体に宿る三尸虫(さんしちゅう)が、庚申(6 0日に1回)の夜、睡眠中に脱出して天帝に罪禍を告げ、生命を奪い、人を早死させるとい う考えがある。これは仏教ではなく中国の土俗信仰だ。三尸の虫の脱出を防ぐため、寝ない で徹夜する習俗が庚申待または申待だ。近世に入ると庚申信仰は最盛期を迎える。この結衆 を記念して造立したのが庚申塔で、板碑や、青面金剛像、石像、文字庚申塔などいろいろな 種類がある。ここにある庚申塔は、元禄四年(1691)小関村同行25人が寄進した青面 金剛像だ。6畳ほどの敷地の中の小社に納まっており、大事にされている。 |
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■妙王稲荷大明神 7丁目12番にある。かつては山の中に祀られたのだろうが、周りが開発されて、住宅街 の真っ只中になってしまった。 |
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■小関稲荷神社 7丁目18番にある。境内は児童遊園 |
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■松原閻魔堂 7丁目18番の墓地の中にある。 |
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■富士街道ケヤキ並木 8丁目にある。「けやき憩いの森」を起点として西方へ欅(ケヤキ)の並木が続く。この 道は昔「富士大山道」といわれ、「富士講」が盛んな頃、多くの道者が通った道だ。ケヤキ の中で最も古いものは、樹齢約200年以上といわれ、歴史の重みを今に伝えている。 |
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■石神井台小学校 8丁目6番にある区立校。 |
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■石神井養護学校 8丁目20番にある都立校。 |
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■石神井川 かつては小平の鈴木新田、鈴木町1丁目の窪地に水源を発したが、現在では花小金井南町 の小金井ゴルフ場のところが起点となっている。川は東流して西東京市を過ぎ、練馬区の富 士見池、三宝寺池、田柄川の水を合わせて板橋区を流れ、北区に入って「滝野川」と呼ばれ 王子で「音無川」を分かち、更に東流して隅田川に流れ出る全長26kmの川。 元は北区に入った辺りで真っ直ぐ谷田川(藍染川)の流路を流れて不忍池に入り、そのま ま南下して千葉周作で゜有名なお玉ヶ池を経て、堀留川を川口として直接江戸湾に流れてい た。王子から東へ現在の流路になった理由はまだ判ってないが、この川を中心として栄えた 「豪族豊島氏か矢島氏かが掘り割ったのではないか」(鈴木理生)と想像されている。王子 で「三ヶ村用水」「二十六ヶ村用水(音無川→思川・山谷堀)」を分ける。 この国の大地に咲く花桜木の花にぞ埋まる石神井の川 石神井村を通るので川の名はあるが、全川統一の名称は明治20年代以後のことで、この 川も関では「大川」、三宝寺池からは「三宝寺川」、豊島園付近では「石川」、王子付近で は「滝野川」「王子川」「音無川」「飛鳥川」などいろいろに呼ばれていた。長い川ほど沢 山の名前を持っている。因みに信濃千曲川が越後信濃川の上流だと知っている人は意外と少 ない。 |
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■さざれ石 (細石) 漢字の如く細かい礫(小石)の固まった石をいう。 君が世は千代に八千代に細石の巌となりて苔の生すまで(日本国歌) わが国歌の意味は、単純には「長い時間・悠久の時・永遠」を歌っている。つまり泰平の 世、平和国家を念願するの心だ。「君が代は」は「天皇を戴いた世は」の意、つまり日本の 社会。西洋思想家やヨーロッパ至上主義者は、これを西洋の王制を持ち出して「天皇の所有 する国」と吹聴して「封建制の権化」だと非難する」。そんな難しく考えて「君が代は」と 持ってきたのではない。色素抜けの白人を信奉するあまり、研究もしないで騒いでら。そも そも「封建」とは、「封」は地方、「建」は法律・制度である。平たくいえば「地方分権」 だ。古代の中国には地方地方に集落があった。夏だ殷だの頃である。それがそれぞれ大きく なり連合して曲がりなりにも統一された中国国家となったのが「周」である。つまり連合国 家だからそれぞれの小国家の力が強い。この中国国家体制を「封建制」といったのだ。江戸 時代は徳川幕府という統一政権はあったが、地方領国制だから封建制なのだ。それで封建的 という言葉が生まれたが、これを西洋かぶれした連中が、西洋のフューダリズムの訳語に適 用したものだから、その非人間的な面のみを言葉の意味に捉え、バカ娘がおのれの我儘が通 らぬときに「もうお父さんったら封建的なんだから」と用いて誤解させてしまった訳だ。 地方分権地方分権と騒ぐが、地方分権にするということは江戸時代に戻すこと、難しくい うと「廃県復藩」だ。ということは地方格差を認めなけりゃならんし、東京に出稼ぎに来て 代々住み着いている東京都民の大半が己が母国(故郷)に税金を払うようになる。と、東京 は壊滅してしまう。しかも民主主義は全国平等で成り立ち、ために必然的に中央集権である が、これが崩壊する訳だから平等と民主主義も無くなるということ。よーく考えてみよう。 次に「千代に八千代に」は次の、細石(さざれいし)に懸かって「千年も八千年も掛かっ てできた」の意、「細石の巌となりて」は「小石がくっ付き合ってできる細石が長ーい時間 に重なり合って大岩となり」の意、「苔の生すまで」は、岩に苔が生えるにはこれまた悠久 の時を経なければならないので「長い時間」の意だ。結局日本国歌「君が代」は諸外国の国 歌のように国のあり方をいってる訳でもないし、国防意識を歌ってる訳でも、主義主張や思 想を唱えてる訳でもない。ひたすら永遠の時間をのみ歌っている珍しい国歌なのだ。 で、「細石」だが各地にある。東京の近辺で、私の知る限りでは千鳥が淵「戦没者墓苑」 と千葉県下総中山の「法華経寺」サンシャインの側の公園にある。それほど珍しい石ではな いので、もっとあるだろ。 |
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■照姫まつり 石神井の町興し。練馬に伝わる中世の悲劇のヒロイン照姫を偲ぶ祭り。秋の練馬まつりと 並ぶ練馬の二大まつりとしてすっかり定着した。華やかな時代衣装を身にまとった行列が、 石神井公園の野外ステージを出発し、約 2.5kmのコースを練り歩く。野外ステージと石神 井公園駅前では、照姫・奥方等の舞、武者による勇壮なパフォーマンスを予定している。行 列の中心は照姫だが、豊島泰経とその奥方を合わせた三役を乗せた輿が通るときには、沿道 から「照姫様〜」「泰経公〜」と声のかかる人気ぶり。一方、野外ステージで繰り広げられ るお囃子、太鼓、キャラクターショーなどのパフォーマンスも見逃すことができない楽しさ とは実行委員会のPR。 |
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■平成みあい橋 1丁目1番と南田中5丁目25番を結ぶ歩行者専用橋。「練馬の橋・デザイン・コンテス ト」で最優秀賞を受賞したデザインを元にして設計された三方橋だ。 「みあい」とは「三 会」「見合」「美愛」などを表し、自然との出会い、人々との語らい、そんな素晴らしい出 会いがこの橋にあってほしいという区の願いが込められている。 |
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■光和小学校 2丁目16番にある区立校。 |
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■大鷲神社・大国天社 3丁目25番、石神井公園駅のすぐ西にある。何もない境内に社殿だけが建っている。 |
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■順正寺 3丁目17番にある浄土真宗大谷派の寺。山号はない。本尊は阿弥陀如来。定例法話が毎 月第2日曜日2時から、聞法会が毎月2日夜7時からある。宗旨に関係なく、心迷える者は 「どなたでも気軽に」とは親切な案内。参道は幅1m余ほどの狭い道で、角に看板がなかっ たら全く気づかない。そこを20mほど入った奥に、普通の民家の寺がある。道は整備され ており、真ん中が排水溝でコンクリートの蓋がしてある。朝晩の清掃もも行き届いていて実 に素晴らしい。親鸞の道場に適っているが、入るには少々勇気が要る。 |
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■石神井公園駅 3丁目23番にある西武池袋線の停車場。大正4年4月15日武藏野鉄道開通と同時に開 設され、その時は「石神井駅」だった。昭和5年三宝寺池周辺が風致地区に指定され、同7 年には石神井風致地区協会が設立され、翌年3月1日から「石神井公園駅」に改称した。石 神井池(ボート池)が造成されるなどし公園化が進められた。公園として開園するのは開通 当時池袋〜飯能間全線12駅では最低運賃は1区間5銭、池袋まで13銭、全線52銭だっ た。動力車はドイツ・ヘンシェル社製Cタンク蒸気機関車(SL)。 |
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| ●石神井火車站の碑 石神井公園駅々前にある。総高3m50cm、碑の高さ2m87cm、10cm、幅11 cm。「火車」は中国語で「汽車」の意。「站」は同じく「駅」だ。碑は大正9年に造立さ れた。碑の表面には、鉄道開通の喜び、駅の敷地5000坪を提供したこと、石神井城の豊 島氏の歴史を述べ、三宝寺池の散策や長命寺の参詣が大変便利になったことを、「今や鉄路 一串、履物を泥にせずして遊ぶを得、これ皆鉄路の賜物なり」と刻んである。裏面には敷地 寄付者23人、主唱者5人の名前が刻んである。碑の側に建つ大イチョウは、記念碑造立と 同じ時に植えられたもので、当時は高さ4m、径10cmほどのもので、当時の駅舎の真正 面に当たっていたそうだ。 |
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■石神井神社 4丁目14番にある。祭神は少彦名命。神体は古俗「石神さま」と呼ばれた霊石だ。これ には「昔、村の人が井戸を掘ったところ、石の棒が現れた。この辺りにはあるはずのない不 思議な石だった。そこで村人はこれを神と崇めて祀り、小祠を建て「石神さま」と呼んだ。 これが今の石神井神社で、村の名が起こったという。つまり石神井とは石神の出た井戸の意 で、『新編武蔵風土記稿』には、 石神井社 是村名の由て起こりし社なり。神体は則上石神井村三宝寺より 出現せし石剣なり と記されている。『武藏野話』には長さ60cm×太さ30cmと寸法を記している。本 来ならこっちが石神井郷の総鎮守たるべきを、その地位を氷川神社に奪われてしまった。大 きくもなくさりとて小さくもない極ありふれた神社だ。またこの名の神社は川口・越谷・春 日部などにも見られ、この町特有の神社でもない。 |
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■石神井町役場跡 5丁目13番の白百合福祉作業所の建っているところだ。 |
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■江戸筆・亀井 5丁目14番にある筆工房。元まで崩して使える「さばき筆」。極小筆から太筆まで80 0種以上をすべて手作りで作っています。明治初期から始まり、現在4代目。 ●江戸筆(さばき筆) 江戸時代も中期には、商人の台頭と共に「寺子屋」が急増し、庶民の間にも筆が普及、大量 に需要される時代となり、江戸の筆職人の技術もさらに進歩し、多くの江戸名筆を生んだ。 現在主流の製造法「練りまぜ法」は、元禄時代に細井広沢により確立された手法で、明治5 年の学制発布と共に急速に広まった。京筆との違いは、京筆がは筆先を利用して書くのに対 して、江戸筆は柔らかく、筆全体に墨をくくませて書く。結果、何がどうなるかというと、 筆画の「捺」つまり「右の払い」、同「鉤」つまり「縦画からの左はね」が美しく納まる。 つまり字の書き映えが美しく書ける。楷書向き。 |
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■池淵史跡公園 5丁目13番にある。池淵とは「石神井池の淵」という意味で、近年遺跡が出土したとこ ろだ。昭和31年から4回にわたり発掘調査され、遺跡保存のため、昭和52年公園として 整備されたが造られた。遺跡からは先土器時代、鎌倉時代、さらに室町時代の遺物まで出て いる。石器・土器・竪穴式住居や中世の陶器片などの遺物の紹介は園内の説明板で解りやす く説明されている。また小・中学校の教科書に出てくる植物を集めた教材園や万葉コーナー などもあり、散策しながら学習できるようになっている。公園内は、地中に残る遺跡を保存 するために低木が多く、整然と植えられ、とても明るい感じだ。花の盛りにここを訪れる虫 たちをみるのも楽しみの一つだろう。とは区の説明。 |
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■照光山禅定院無量寺 5丁目19番にある真言宗智山派の寺。明応三年(1494)願行上人が開いたといわれ、 この寺は文政年間(1818〜1830)に祝融の災に遭い、本堂、庫裡などを総て焼かれ てしまったが、境内の応安〜至徳(南北朝時代)年号の板碑によっても創建の古さを伺うこ とができる。安政四年(1857)に建てられた鐘楼前の石塔や、門前の堂宇に安置された 六地蔵は石神井村の光明真言講中によって造立されたものだ。本堂前の「寛文十三年十月朔 日」と刻まれた織部灯籠はその像容から別名キリシタン灯籠といわれ、区内でも珍しい石像 物の1つだ。弘法大師像は腰掛姿でこれは珍しい。山門の右に大悲観音立像、その隣に鐘楼 があるが、柱は修復されて美しくなり、屋根は茅葺きという珍しさだ。鉄筋コンクリート造 り本堂は正面。右は墓所、左は庫裏と催場になっている。名木ヒヨクヒバがある。なお現在 の石神井小学校の全身である豊島小学校が、明治7年5月にこの寺を借りて開設されその記 念碑が境内に残されている。 |
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| ●石幢六面六地蔵 総高80cmで笠が付いている。六角柱のそれぞれの面には、数珠・宝珠・幢・傘・錫杖 を持ち合掌している6体の地蔵が彫られています。これらは六地蔵といい、地獄・餓鬼・畜 生・修羅・人間・天上のどこにいても救いの手をさしのべる六道救済の地蔵だ。台石には、 正面に「武豊嶋郡下石神井村 奉造立地蔵菩薩 講中二世安楽処 享保元丙申歳(171 6)十月廿四日」、側面に願主36人の名が刻まれている。 ●織部燈籠 石造で総高126cm。笠と火袋を失い、台石はその後に備えられた。竿は上 部にくびれを持ち、裏面に長い衣を身につけた立像が彫られている。正面には「(種子)奉祈 供養石燈籠為惣檀那逆修菩提也」「導師法蓮社 常誉上人」「願主 西誉真念 富誉唯真 念誉道順」「寛文十三年癸丑天(1673年)十月朔日」の文字が彫られている。 石燈籠は本来昼に法会を行ったときに神に清めた火を奉納することを意味しており、照明 用具ではない。構成は、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇からなる。 |
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■石神井警察署 6丁目17番にある。 |
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■権藤家のスダジイ・ハクモクレン 6丁目32番3号にある。このスダジイはテッポウムシに幹を食われても、なおいくつか の枝を成長させている元気ものだ。スダジイとしては変わった姿をしているが、害虫に負け なかったたくましい生命力を感じる。ハクモクレンも区の名木百選に選ばれている。 |
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■石神井稲荷神社 8丁目1番の都営石神井町8丁目アパートの中の草むらにある小祠。 ●東京商科大学予科石神井校舎記念碑 8丁目1番の小っちゃな石神井稲荷神社の祠の脇にある。大正12年神田一ツ橋にあった 校舎が大震災で倒壊したためこの地にあった同校のグランドに仮校舎が建てられ、大正13 年から昭和8年まで予科の学生はここで学んだ。この碑はここで学んだ560名の人たちに よって、昭和53年に建てられたものだ。 |
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■石神井西小学校 1丁目1番にある。明治7年東京府豊島郡第三中学区五番小学豊島学校設立の際、関町北 4丁目の本立寺を仮校舎として同校三番分校を開設。同9年関村最勝寺を校舎として第三中 学区第二二番公立小学関小学校として独立。同13年最勝寺から関村甲82番地の現在地へ 移転、新校舎を建築、敷地105坪、建物20.5坪。同34年豊関小学校は廃止され、北豊 島郡石神井村立石神井西小学校となる。昭和8年東京市に編入、東京市石神井西尋常小学校 と改称。同22年板橋区石神井西小学校と校名改称。同年練馬区が成立して区立石神井西小 学校に変更。同31年関町小学校分離独立。昭和32年3月まで2部授業。同34年関町北 小学校分離独立。同37年立野小学校分離独立。同42年特殊学級開設。同46年現校舎竣 工。同51年開校100周年記念式典挙行。同記念歌「羽ばたけ西小」 みどりに染まる武蔵野の 面影残す 町に今 朝日を浴びて 光る窓 日本で初めて 開かれた 小学校のその一つ わたしたちの西小 わたしたちの西小 石神井西小 |
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■共同墓地 1丁目25番にある。昔は畑中にあったのだろうが、今は住宅の只中だ。入口のところに 達筆で判読できない句碑、大灯籠、一千ヶ寺供養塔などがある。 |
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■武蔵関駅 2丁目29番にある西武新宿線の停車場。 |
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■井口稲荷 2丁目32番にある。中世三浦半島に勢力を張っていた三浦一族の支族の井口氏がやって きて代々祀ってきた。永禄十三年(1570)伊豆半島伊東において、井口但馬守義久が願 主となり、同氏の氏祖三浦平太夫(たいらのだいぶ)為通から18代までの先祖を尊んで、 「井口稲荷大明神」として祀り稲荷社を建立した。慶安二年(1649)伊東より豊島郡関 村に移住したとき矢倉台というところに社を移し開堂供養をした。この矢倉台は、どこか判 らないが現在地だろうという。狭い山の一部に据えたのだろうが、周囲が開発されて現代化 したために、何か奇異な感じがする。現在の社殿は石油ショックの昭和48年に改築したも の。寄進された鳥居が8基ある。毎年2月の初午には、関町付近の井口諸家、その縁故、地 元商店街各店、一般参詣者で賑わう。井口一族の菩提寺本立寺の住職が読経の後、参列者が 参拝する。4、5mの参道だが、狭いのでその入れ替わりは苦労するだろう。病気の時は参 拝してから医者に行くと治るといわれ、現代でも絵馬が奉納され、信仰の深さが窺われる。 |
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■井口文書 2丁目、4丁目の井口正利、井口敏、井口栄一が所蔵している。 |
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■関町小学校 3丁目23番にある区立校。 |
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■天祖若宮神社 3丁目34番にある。台地上にあるが、この台地は石器時代の遺跡で、石器類の出土が多 かったという。ここも三十番神だったが、明治の神仏分離で寺(本立寺?)に返し、天照大 神を祀って天祖神社と改め、明治4年村社に列し、村の氏神として現在に至っている。社殿 は天保14年(1843)の造立と伝えられている。明治になって茅葺き屋根に、当時は最 新のトタン板を被せたが、昭和48年に大造改修した。参道は長く、広い境内には安政四年 丁巳年(1857)銘の石灯籠などもある。練馬の名木のアカマツが社殿右にある。 |
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■武蔵関公園 3丁目45番にある。区の南西部に位置し武蔵野の面影を残すこの公園は、区立公園の中 では最も広く、昭和13年に開園した歴史のある公園なのだ。コナラ・クヌギなどの自然樹 林と水に恵まれた環境は、渡り鳥も飛来する野鳥の楽園となっている。中央には「ひょうた ん」を東西に置いたような池がある。古くから「関の溜井」または「富士見池」として親し まれてきた。池には松の島と葦の島という2つの島があり、松の島には松や紫陽花が、葦の 島には葦やメタセコイアが生い茂っており、夏には涼味ある風情を醸し出している。 |
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■コンベンツァル聖フランシスコ会関町修道院 4丁目12番にある私立校。 |
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■法燿山本立寺 4丁目16番にある日蓮宗の寺。慶安二年(1649)開山は日誉上人、開基井口忠兵衛 によって建てられた。井口家は代々関村の名主を務めた家柄だ。この寺は、開山以来長い間 法華経の宣布道場としての役割を果たしてきた。本尊は特に「旭日蓮大菩薩」と呼ばれ、出 世開運のお祖師さまとして人々の信仰を今も集めている。お会式は大泉の妙福寺(11月9 日)と重ならないように1ヶ月ずらしてある。万燈行列など互いに応援に出る都合もあるか らで、妙福寺とはいかに交流が深かったかということが判ると同時に古地図にある清戸道が 両方に通じていたということでもある。 立ちわたる身のうき雲も晴れぬべし たえぬ御法(みのり)の鷲の山風 入口は整備された石段を上がり、昭和57年築造の山門を潜って境内に入ると、左は全部 墓、右は寺務所、正面の20段の石段を上がると本堂。本堂は昭和43年に鉄筋コンクリー ト造りとして完成したもの。本堂左にキリスト教のような7、8mの三角錐の建屋がある。 名前がないので何の目的なのか判らないが供養塔らしい。何だか変? ある人は「近代建築 の良さを取り入れた様式は、これからの寺院建築のあり方を示唆している」と迎合するが、 私はインド式もタイ式も、西洋式もどうもしっくりこない。お寺は茅葺よ。次が瓦葺きだ。 アメリカ軍の無差別空爆で燃やされて、火事が怖いのだろうが、鉄筋コンクリート造りの建 築にはがっかりする。国のほうで木造建築の基準を緩和してから、木造が増えている。寺や 神社は日本の風土に合わせなきゃ。何でもアメリカ、アメリカじゃ、国が滅んでまうで。 台地の鼻にあるので見晴らしが良いうえに、眼下に千川上水・西武新宿線が通る。かつて はよほどの田舎があってそれはそれは目の保養になったろう。それが今や向かいの台地は住 宅だらけ、情けないロケーションになってしまった。本堂左の鐘楼はまだ新しいので昭和5 0年頃の建立だろう。 ●ボロ市 12月9日、10日にはお会式と共に「関のボロ市」が立つ。世田谷のポロ市ほどではな いか、多くの人が集まって大変にぎやかだ。かつてこの市は「本立寺の市」「暮の市」とも 呼ばれ、江戸時代から続いている。時代は移り変わっても「関のボロ市」は地域の師走の風 物詩となっているのだ。 |
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■東京女子学院中学校・高等学校 4丁目16番にある私立校。 |
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■石神井高等学校 4丁目32番にある都立校。 |
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■関中学校 4丁目34番にある区立校。 |
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■関町北小学校 5丁目13番にある私立校。 |
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■神願山法融寺 1丁目4番にある浄土宗大谷派の寺。と号す。開基釈玄正が正保二年(1645)江戸本 町に創建。明暦三年(1657)振袖火事で焼失、浅草本願寺境内に移る。昭和20年のア メリカ軍の無差別空爆で焼失、そのためこの地の信願寺と合併、山号を信願山と改めて移転 してきた。本堂の掲額に「信願道場」とある。八一の筆だ。 ●会津八一の歌碑と墓 八一は新潟市に生まれ、早稲田大学を卒業後、同校で教鞭をとる傍ら、歌人・書家として 活躍した。独特の歌風には熱烈なファンが多く、戦前に発表した奈良の古寺、古仏を詠んだ 歌集「鹿鳴集」は、当時の学生・若者の間で大人気を博し、歌集を懐に古都を旅することが 流行となった時期もあった。法融寺本堂前に立つ歌碑には、武蔵野のもの寂しい風景を詠ん だ歌、 武蔵野の草にとばしる村雨の卑しくしくに暮るる秋かな が刻まれている。八一は、出身地の新潟市で死去し埋葬されたが、交通事情がよくなかった 昭和32年、彼を慕う知人や門下生が、新潟までお参りに行くのは大変だからと八一ゆかり の法融寺に分骨して墓を建てた。「秋艸道人」(八一筆)と刻まれただけの自然石の墓は、 そのシンプルさゆえに彼の人柄を物語っているようだ。 |
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■かんかん地蔵 1丁目18番、青梅街道に面してある。造立は茅御用役の木下権左衛門で寛永から正保の 頃(1624〜47)のことだという。『新編武蔵風土記稿』に、 座像長さ六尺、青梅道の北側に立てり、関の地蔵という、祈願をなすもの石に打 てば、かねの音あるをもって、かんかん地蔵とも云う、傍に囲い三尺ばかりなる 柳一株たてり と記されており、古くから人々の振興の対象になっていたようだ。長い年月の間、願い事 が叶うように足元を石で叩かれ続けたためか、いまでは足元が欠けてしまい、今ではセメン トで補強されている。近年では願掛けする人はないようで、足元を打った形跡はない。地蔵 は土地の井口敏によると、元からこの場所に建てられたのではなく、ずっと西の関町庚申通 り(清戸道?)の入口角(北1丁目5番)に東向きに建てられていたのでないかという。道 標の役割を果たしていたのだろう。またこの地蔵は日本3大関の地蔵尊≠セという伝承も あるとか。美濃の関・鳥取の関・武蔵関の地蔵だ。向かって右に享保十四年(1729)銘 の胎蔵大日如来像、左に勢至菩薩も祀られている。 |
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■三宝寺別院最勝寺 東2丁目10番にある真言宗智山派、。大きな寺ではない。本堂の掲額には「不動尊」と ある。単純な5間幅のお堂。左は墓所、その手前の道路端に寺務所と庫裏が並んでいる。明 治9年〜13年まで豊関小学校が置かれた。 |
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■竹下稲荷神社 2丁目3番にある。 |
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■舘野茂松先生顕徳碑 2丁目7番の伊勢橋の直ぐ南西にある。舘野は、明治33年〜大正9年まで石神井村豊関 小学校(→石神井西小学校)の校長を務めた。碑は、舘野に薫陶を受けた卒業生たちが師を 慕って昭和45年に建てた。 我々に父にあらざる父ありき 恩師その名は舘野茂松 |
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■東京三育中学校 2丁目8番にある私立校。三育教育では、小学校から高等学校までの長期の流れの中で、 高潔な人格を育み高度に能力を開花させる12年一貫教育を実践している。人生の指針とな る確かな価値観や様々な人間力、語学力、本質的知力など三育の特色である教育を身につけ ていくためには、12年の期間と成長に則した啓発、継続した指導が必要だからだ。従って 本校卒業生の進学には継続である三育中学・高等学校を第一に奨めている。中学からの全寮 制教育は日本ではまだあまり多くないが、欧米では古い伝統を有する教育システムとして上 流階層を中心に広い認知と高い評価を得ているよ。 進学先は北浦、広島、沖縄の三育中学校・高等学校のほか、都内の各中学校に進学する。 |
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■小社 3丁目1番の青梅街道沿いに立派な小社があるが、名前を示すものは何もない。供養塔な どの石仏が並んで建てられている。小社の隣の社のような建物は倉庫だった。 |
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■石神井西中学校 3丁目10番にある区立校。 |
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■関町図書館 3丁目11番にある。 |
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■千川上水 2丁目〜4丁目、関町1丁目の信号のところから西は明渠になっている。最近は。元禄九 年(1696)本郷、浅草方面への飲料水供給の目的で、玉川上水から分水された江戸上水 の1つだ。江戸市中への引き水廃止後も、灌漑用水として昭和27年ごろまで使われた。そ の後、降雨時の氾濫から順次暗渠化されたが、都市化の中で失われる自然を取り戻そうとい う地域の声の高まりから、平成元年に上流開渠部で清流が復活した。川沿いの静かな道は散 歩を楽しむには最適だよ。 |
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■練馬高野台駅 1丁目5番にある西武池袋線の停車場。 |
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■氷川神社 1丁目16番、笹目通りに面してある。鳥居は今も木造だろうか・・・社殿も古いものだ そうで、昭和29年に大改修している。神社が名所だったためか、境内にはいろいろな石造 物が据えられている。拝殿内には、江戸時代からの額絵馬が綺麗に保存されている。境内に は稲荷社のほか、明治の神仏分離令で長命寺から移された春日・八幡・天祖の3社が遷座し ている。 |
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■和田稲荷神社 1丁目21番にある。昭和7年に建てられた社号標柱に「当社は三百年餘年の昔、京都伏 見乃里より傳五郎翁の遷し祀りし・・・」と刻まれている。入口に台輪鳥居が建っている。 柱の最上部に輪の形をした台がつけられ、その上に横木が載せられている形の鳥居だ。この 形は数が少なく、区内では3基しか見られない。境内に樫の老木があり、神木として祀られ ている。社殿左側に塚があり稲荷が祀られている。この社が元からのものだ。 |
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■高野台運動場 3丁目8番にある。 |
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■笠松墓地 3丁目9番にある。和田稲荷の南西にある。渡辺一族の墓所。渡辺家は豊島氏の家臣で石 神井城落城後、帰農したと伝えられる。土地の名家であり、文政十年(1827)以後幕末 まで、下石神井村の名主として「渡辺弥市」の名が残っている。境内に庚申塔が2基あり、 元禄7年(1694)造立の願主には渡辺勇吉の名が刻まれている。 |
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■東高野山妙楽院長命寺 3丁目10番の笹目通りに面してある。以前の山号は谷原山。慶長十八年(1613)北 条早雲の曾孫で韮山城主北条氏規の臣増島勘解由重明が出家して慶算阿闍利となって開基し た寺で増島姓は谷原に多い。その後大和長谷寺小池坊の秀算が本山の十一面観音を模した像 を金堂に祀り「谷原山妙楽院長命密寺」と命名した。慶安元年(1648)幕府から観音堂 領9石5斗の御朱印地を賜った。弘法大師府内88ヶ所の17番霊場。江戸町奉行が支配下 の品川大木戸・四谷大木戸・板橋・千住・本所・深川から多くの人が参拝したという区内屈 指の古刹だ。江戸期には芝居関係者の信仰も篤かった。堂宇は万治元年(1658)に焼失 したが、寛文から元禄にかけて再建。しかし明治30年本堂焼失、同37年再建、さらに昭 和45〜47年修復、同54年観音堂再建、同56年南大門が完成し今日に至っている。笹 目通り沿いにある寺としては奇跡に近い環境だ。練馬区という後進の田舎区であったればこ そ残せたのだ。必見の要ありだ。 |
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| ●仁王門 現在の仁王門の脇にある。かつては一対の阿形と吽形の金剛力士(仁王)を安置していた。 屋根は、母屋を切妻造とし、その四方に庇を葺き下ろして一つの屋根とした入母屋造りで、 銅板葺きだ。建築当初は、土台が無く地面の上に土台石を置き、そこに柱を建て、屋根は茅 葺きた。17世紀後半の建築様式を伝えており、区内現存の建造物では古い部類に入る。特 に虹梁受肘木(こうりょううけひじき)、平三ツ斗(ひらみつど)の組物、蟇股(かえるま た)の装飾が優れている。 |
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| ●梵鐘 銅製で、総高115cm、口径63.2cm、縁厚6.3cmと形状は細く、江戸時代初期 のころに造られた鐘の特徴を示している。銘文によれば、作者は江戸時代に多くの鐘を造っ た鋳物師(いもじ)として知られる矢沢次郎右衛門吉重で、慶安三年(1650)に制作され た。区内では古い部類に入る。本来梵鐘は僧に集合を知らせる合図として鳴らしていた。後 に時刻を知らせたり、大晦日に除夜の鐘として使用したりするようになった。 |
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| ●奥之院 江戸初期、慶算の後を受けた甥の増島重俊が志を継いで、紀州高野山を模倣して造成し東 国衆生結縁の霊場としたことから「東高野山」また「新高野」と呼ばれ多くの人々の信仰を 集めた。霊場域への入口には御廟橋(みみょうのはし)が架けられいる。奥の院に通じる参 道の両側には、供養塔・御廟橋・燈籠・地蔵尊・宝篋印塔・水盤・姿見井などが配されてお り、奥之院大師堂には生御影石の大師像が安置され、堂裏には十王・十三仏・身代わり閻魔 石像・家光の供養塔・六地蔵尊等がある。奥之院といっても昔は知らず今は住宅地のこと深 山幽谷という訳にはいかない。後にグラウンドなどがあって騒々しいので、深遠清浄な雰囲 気はない。 長命寺裏の日盛り梅酒飲む(石田波郷) 亡師邸出て十王の冬の暮れ(草間時彦) |
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| ●花嫁市 毎年4月21日に奥の院で弘法大師御開帳会が行われる。昔はこの日に前年に嫁いだ嫁が 花嫁衣裳でお参りしたので「花嫁市」と呼ばれていに賑わったが、今は稚児行列が行われる だけだ。 |
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| ●菩提樹 開山記念に植樹したと伝えられている。この木に成った実で数珠を作り、先祖を礼拝する とご利益があるといわれている。では、他にもボダイジュに向かって左横にあるイチョウ、 そのイチョウの西側にあるシラカシや本堂の西側で奥の院への参道脇に高く聳え立つシラカ シが区の名木に指定されている。 |
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■大鷲神社 3丁目25番にある。祭神日本武尊・大鳥連祖命。昭和の初め当地の人が石神井町3丁目 18番付近に社殿を建て、甲府方面で射止めた大鷲を剥製にして祀ったことに始まる。当社 には大黒天が゜合祀されているが、その由来は境内にある「大国主命御由来の碑」に記され ている。その碑によれば、境内狭隘のために昭和7年に社殿を現在地に移転し、石神井駅前 通り在住の人たちにより協和会が作られ、地域発展・家業繁栄・子孫長久の守護神としたと いう。現在の社殿は昭和11年に新築したもので、その記念に建てられた社号碑には「大鷲 神社」と記している。 |
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■一里塚改築記念碑・庚申塔 7丁目1番の富士街道に面して建つ。大正14年に建立されたものだ。裏面に賛同者、和 田地区52名、北原地区35名、池淵地区5名と主唱者10名名前が刻まれている。ここか ら北東へ4k行った春日町2‐9に、安永年間(1772〜81)造立と推定される一里塚 子育地蔵が建っている。また西へ4k行くと、保谷市内に一里塚の地名が残っている。記念 碑の手前に、延享三年(1746)下石神井村の講中43人によって建てられた庚申塔があ り「願主本橋惣右衛門」とある。 |
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■田柄川緑道 田柄川を暗渠にした上を遊歩道にしてある。都立城北公園から川越街道を二度跨ぎ、光が 丘の秋の陽公園までを結ぶ。コナラ、クヌギなどを中心に、様々な草木がまるで植物園のよ うに 全長4.7kmに亘り植えられていて、四季折々に人々の目を楽しませてくれる。第二 土木出張所前にある3体の怪獣は、田柄第三小学校の児童の作品を題材としたもので、練馬 百景にも選ばれた逸物だ。 |
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■田柄第二小学校 1丁目5番にある区立校。 |
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■阿弥陀堂 2丁目7番の墓地にある。 |
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■愛宕神社 2丁目17番にある。慶長年間に山城の愛宕大明神を勧請したとされ、古くからこの地の 信仰の中心だったと思われる。毎年7月24日の大祭には「金魚市」が開かれる。 ●金魚市 祭神が火防及び農作であり、「金魚」「水」はこれに深い関係があることから、明治10 年頃から始まり、農家の人たちは大祭までに農作物の2番作の区切りをつけ、お祭りの際厄 除け、家の火防として金魚を持ち帰った。市の始まった当初は、2里四方の善男善女で大い に賑わったと伝わっている。 |
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■田柄小学校 2丁目19番にある区立校。 |
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■地下鉄赤塚駅 2丁目50番にある東京メトロ有楽町線の停車場。 |
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■田柄中学校 3丁目3番にある区立校。 |
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■田柄不動尊 3丁目13番にある。本堂の裏に墓地がある。入口には標識や表札、看板らしいものはな い。境内には立派な大木もあって、歴史のあることを匂わせる。 |
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■天祖神社 4丁目27番にある。昔は神明宮と称していたが、明治政府により天祖神社と改めさせら れた。慶長三年(1598)に上野伝右衛門が伊勢神宮へ参詣し、分霊を受け邸内に奉安し 社殿を造ったことに始まるといわれている。 ●上練馬村玉川上水分水碑 境内に水神宮を祀る碑がある。明治26年に建てられた玉川上水分水記念碑。碑の正面下 部に分水工事の経緯が記され、台座には水路総代、発起世話人などの名前が羅列陰刻されて いる。元は分水路に沿った天祖神社の東に建てたらしい。 かつて上練馬村の田柄地区は水利が悪いため、水田は天水に頼っていた。このため日照り が続くとたちまち収穫に影響が出るという状態だった。明治4年玉川上水から水を受けてい た村々に増水を願う機運が高まり、田無村から下練馬村にいたる周辺9か村で用水を開発し た。用水の水は、初めこの地域には満足に届かなかったが、その後下流の工場や村々から増 水運動が起こり、なって漸く豊かな水が流れる川となった。分水碑はこれを記念して建てら れたものだ。 羽村よりめぐりてきたる田無口 石川ながれ田柄水神 と碑にあるが、数百年の悲願が達成されて町が発展、地方から新住民が押し寄せると、川 にゴミを捨てるなどの無作法で溢水期に川が氾濫し、それがために田柄川は暗渠にするしか なく地表面から消滅した。だから田柄は田柄緑地だ! |
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■田柄梅林公園 5丁目5番、光ヶ丘団地の東側に位置しているこの公園は、かつて白加賀という品種の梅 の木が栽培されていた畑を、区が買収し整備した公園だ。早春の頃、一斉に白梅の可憐な花 が咲く。同じ時期にマンサク、サンシュユ、フクジュソウも満開となり、この公園から春が 広がっていく感がある。 |
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■光丘山正眼院大増寺 5丁目7番にある曹洞宗の寺。「お縋り地蔵」とあるが、詳細不明。 |
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■相原家薬医門 5丁目8番にある。代々この付近一帯の組頭を務めた豪農で、門は区内に現存する数少な い「薬医門」の一つ。今では珍しい萱葺きで、切妻破風造り、木部全体に紅殻(当初渋柿) が塗られている。最近、万延元年(1860)に再建された際の棟札(棟上げの時建築の年 月・建築者などを記入した札)が発見され、相原家当主の源左衛門とともに、南部藩御用人 並びに目付の目時隆之進の名が記されていた。江戸時代土支田付近は南部藩の所領地であり 相原家は南部藩と関わりがあったことから、通称「南部の赤門」と呼ばれていた。薬医門は 屋根の棟から真下に本柱がつながるのでなく、中心からずれており、控え柱を有するもの。 控柱に小屋根を付けたものを高麗門という。 ●相原家文書 この家絵は江戸時代には上練馬村の組頭を勤める他、村内にあった盛岡藩南部家抱地の管 理をしていたと伝えられている。宝暦八年(1758)「武州豊嶋郡上練馬村丑御名寄書抜 帳」をはじめとする江戸時代の文書、記録類10点が現存している。 文化三年(1806) 「板橋伝馬助郷高(47ケ村分)」、年代不詳の「儀定下書(定助郷勤方儀定書)」の2点は 中山道板橋宿の助郷に関わる文書で、広範囲にわたる助郷の村高や助郷の負担割合が記され ており、江戸時代後期の助郷の様相を伝える貴重なものだ。 |
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■田柄不動尊 5丁目13番にある。本堂の裏に墓地がある。入口には標識や表札らしいものはない。し かし無住ではなく、管理人は居る様子。僧侶ではないのかもしれない。境内には立派な大木 もあって、田舎の墓地が発展した寺なのだろうが、それなりに歴史を積んでいるようだ。 |
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■光が丘美術館 5丁目27番にある私立美術館。都内最大のニュータウン光が丘に隣接し、光が丘駅から 徒歩3分という至便の地にありながらも、鳥海家の屋敷森に囲まれた静かな佇まいの一角に 位置している。所蔵美術品は、日本画、陶芸、版画を軸として、日本画壇に若き息吹を送り 込む気鋭溢れる作家達による意欲作、陶芸においては田村耕一作品、その愛弟子による作品 収集を特徴としている。特に井上員男作「版画平家物語」は6曲12双半、実に全長76m にも及ぶ、屏風仕立ての壮大な絵物語だ。今も尚武蔵野の面影を残した環境の中で、ゆっく りと観賞すると良い。 ●1000年祭グランドピアノ 昭和44年ベーゼンドルファーが、「オーストリア1000年祭」を機会に特別な企画を 打ち出して制作した、世界で12台しかないピアノだ。 |
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■農文協図書館 15番にある農業専門図書館だ。昭和56年7月24日社団法人農山漁村文化協会(農文 協)の寄付(土地・建物・基金)によって財団法人として設立された。農文協は昭和15年 の創立以来、農山漁村の文化向上を目指し、農村の民主化、農民の自立のための各種の文化 活動を続けてきた。その一環として設立された農文協図書館には農文協の出版映像制作の過 程で収集された図書・諸資料や、設立以来新たに購入した古書・現代発行されている農林水 産関係専門書をほとんど所蔵し公開している。また農林水産関係の研究者から依託された蔵 書(個人文庫)は開架式書庫に保管し、研究者に限って閲覧して貰っている。現在農文協は 農業の分野だけでなく、食べ物、健康、教育、思想の分野に亘る総合出版社となり、年間百 数十点を刊行している。 農文協図書館ではその出版物、映像作品のほとんどを寄贈して貰っている。 利用は登録制だ。研究者、学生、一般、農文協職員と区分して図書館利用カードを発行。 それによって貸出しをする(登録料は100円)。 研究者とは閉架書架内閲覧希望者または閉架書籍・資料利用希望者を指します。研究者登 録された方は閉架式の個人文庫も閲覧できる。研究者登録はいつでも可能。ただし個人文庫 は館内閲覧・コピーのみ可能だけだよ。 |
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■稲荷社 15番の北、千川上水のすぐ南、吉祥寺通りに面する畑の角地にある。田中さん家の屋敷 稲荷かもしれない。 |
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■立野小学校 17番にある区立校。 |
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■立野公園 32番にある原っぱの公園。中央部は「凧揚げ広場」と命名して広大な草原だ。冬は凧揚 げとしても、夏は天から干しでた堪まんないだろうなぁ。憩いは周辺にある。 |
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■中井川家の曲り家 2丁目(未確認)。母屋の形式に「角屋(つのや)」ともいわれる曲り家がある。これは 主に武蔵野東部に見られる形式で、座敷部分を北側(裏)に突き出したものだ。この家も北 側に座敷を突き出している。間仕切りは壁で、部屋側は床の間で、座敷側は戸棚となってい る。ここには農繁期などに手伝いに来た人を泊めたそうだ。座敷の天井は養蚕農家の特徴で ある丈夫な「ふみ天井」で四隅に板を取り外すことができる部分がある。ここは養蚕の時に 炉の暖かい空気を2階の蚕室に導くためだ。だから座敷の畳の下には今も蚕室用の炉が切っ てある。この家屋は明治初年の建築だ(練馬区の歴史)。 |
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■豊渓小学校 2丁目26番にある区立校。 |
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■関口家文書 3丁目の関口家(数軒ある)の所蔵。非公開。江戸時代に土支田村下組の村役人を勤めた 関口家に伝わる文書で、江戸時代の享保十七年(1732)から昭和戦前期までの133点 がある。江戸時代は村政などに関わる文書、明治以降は豊渓小学校などに関する文書、土支 田地域の地図などが残されている。 |
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■かたくりの花手描き煎餅 3丁目47番の源氏やの醤油煎餅。片栗の花を手描きしてあるだけのシンプルな煎餅。3 月〜4月の季節限定商品。 |
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■稲荷山憩いの森 4丁目10・11・14・19番にある。白子川近くの斜面地にあり、区内の憩いの森と しては最も広く、区の全ての憩いの森を合わせた4分の1もの面積がある。また山裾中央に は湧き水があり、その昔は農業用水源として貴重な役割を果たしていた。武蔵野の面影を残 すこの雑木林は、かつて「豊楽園」と呼ばれ、行楽地になっていた。その石碑が湧き水の近 くにある。そこに稲荷社があって山の名がある。森の西側はアカマツを中心とした雑木林で 一方東側はスギ、イチョウ、カシなどの森林となっている。春にはコブシやサクラの花が咲 き、秋になるとイチョウの黄葉がきれいだよ。 稲荷社は八坂神社に合祀されたが、分社の意か、小祠はあり、祀ってもある。 |
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■華岳山法音寺 4丁目23番にある曹洞宗の寺。詳細不明。参道の左は墓所、右は本堂。向かい合ってい るのも珍しい。墓地は整備されて美しい。 |
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■土支田八幡宮 4丁目28番にある。この神社、古くは単に天神社と呼ばれていたが、明治になってから 北野神社と改めた、天神つまり菅原道真を祀る社は、北野か、菅原に改称させられている。 誉田別命を祭神とし、八幡宮となったのは昭和10年以降のことだという。本殿・額殿とも にかなりふるいものらしい。境内には樹木も多く、建物の古色蒼然たるのと調和しているの で深山の社を髣髴とさせる。 境内に大きな石碑が建っている。昭和7年「官有林払下社殿改築記念碑」、同7年「表忠 碑」、同37年「土支田土地改良白子川改修記念碑」、同43年「太平洋戦争」記念碑だ。 参道の脇にある旧参道の鳥居前に、地元の五十嵐源太郎が病気が快癒して敷石50枚を寄 進したという碑がある。またこの辺りを領していた伊賀忍者が奉納植樹したクロマツ「伊賀 の松」があったが、枯れたため伐採し切り株が残されていたが、今はない。末社は稲荷神社 ・御嶽神社・八雲社・祓戸社とあるが、八雲社と祓戸社の社殿は、社殿右奥の稲荷神社の横 の小さな小屋に詰め込んである。御嶽神社は社殿左の林の中に石祀としてあり、前に社号碑 を据えている。 ●社叢 土支田八幡宮の周囲に植栽された、スギやヒノキを中心にイチョウ・アオキ・ヒサカキな どからなる社叢。区内では比較的広く、樹齢の若い200株以上のスギやヒノキがあること が特色だ。区の天然記念物指定。 |
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■加藤家の水車 4丁目45番にある。といっても水車小屋があるというのではなく。水車を保存してある ということだ。昔この地で線香やうどん粉を製造して江戸の町に売るのを業としていた。水 車は直径7m、10馬力は出るそうで、大正初期、この辺はまだ電灯がなかったので、水車 で発電機を回したということだ。白子川の流れによって、電灯の明かりが明るかったり暗く なったりしたそうだ。昭和40年代まで活動していたが、白子川の汚れが酷くなり、やむを 得ず廃止してしまった。その後川の改修が行われたので、復活は不可能になってしまった。 |
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■八坂中学校 4丁目47番にある区立校。 |
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■八坂小学校 4丁目48番にある区立校。 ●桜並木 八坂小学校付近の白子川沿いには、美しい桜並木がほぼ200mに亘って続いており、花 の季節に沿道を彩る優雅な姿は、他では見られない趣がある。 |
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■金子ゴールデン 練馬は大根を始めとして、キャベツ、ゴボウの特産品があったが、大麦、小麦も重要な農 産物だった。明治33年中新井村の金子丑五郎によってわが国初のビール麦品種が育成され た。「六条大麦四国」と「ゴールデンメロウ」の自然交配によって出現した雑種中から新品 種を導き出したのが「金子ゴールデン」だ。早生で丈が短く倒れにくいという特長があり関 東一円で栽培された。この品種が親となって、「エビス1号・ニューゴールデン・アズマゴ ールデン・あまぎ二条・ふじ二条」などの優良品を派出した。ビール麦の生産が最も高かっ たのは昭和25年で、全国の生産者1044戸、面積130haの内、練馬区は440戸、 面積70haだった。 |
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■荘厳山華王寺 1丁目24番にある日蓮正宗の寺。3階建て鉄筋コンクリートの建物で、入口は立派な門 構え、庭や墓地などは一切ない。入口の奥は駐車場ようだ。入口直ぐ左にドアがあり、2階 へ上がるようになっている。本堂は2階だろう。この宗派特有と思われるが、道場風の建て 方。素人には取っ付き難い。 |
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■武蔵学園/武蔵中学校・武蔵高等学校・武蔵大学 1丁目26番にある私立校。東武鉄道の根津嘉一郎が創設した旧制7年制の武蔵高等学校 を前身とする。旧制高校から受け継がれた自由闊達な学風を旨とする伝統ある大学だ。教育 理念は、自ら調べ自ら考えることのできる、国際センス溢れる人材を育成すること。少人数 制のゼミナールや演習に全学生が参画する「ゼミ・演習制度」やユニークな海外研修・海外 留学制度などは、この教育理念をまさに具現化したものだと誇る。 沿革は、大正11年武蔵高校として創立、昭和24年学制改革により武蔵高校4〜7年を 武蔵大学(経済学部のみの単科大学)とし、1〜3年を新制高校の1〜3年とした。中学校 は新設した。同44年大学は人文学部・大学院を設置して総合大学となり、現在平成10年 からの社会学部を加えて3学部・大学院2学科で今日に至っており、同17年創立85年を 越えた。学習院・成蹊・成城の3大学と組んで「4大学」を構成する。 讃歌「朝霧深き武蔵野の」 斉藤忠三・柴田丈夫共詩 守住佐一郎作曲 朝霧深き武蔵野の かすむ木立ちの翠くして におう大地にせせらぎの 清新の音をかなずとき われらもとめん その希望 武蔵 武蔵 おーお武蔵 |
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| ●武蔵学園記念室 学園創立70周年の記念事業として『武蔵七十年史ー写真でつづる学園のあゆみー』『武 蔵70年のあゆみ』の刊行と「武蔵学園記念室」の設置とが企画され、大学・高校同窓生、 在学・在校生父母、教職員の多数から、総額9千万円を超える寄付金が寄せられた。本記念 室はこの温かい後援の結実だ。記念室は、武蔵学園に関わる資料を収集整理・保存し、広く 学内外に公開展示していくとともに、将来に予定される学園正史刊行への準備・研究等の中 心的役割を果している。 |
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| ●千川上水アルバム 武蔵学園記念室にある。昭和13〜16年に武蔵高等学校交友会文化部が調査した千川上 水の写真などの記録。4冊のアルバムに、武蔵野市境橋付近の玉川上水分水口から豊島区の 千川上水公園までの本流や落合分水流域など200カットあまりの白黒写真が収められてい る。千川上水は、元禄九年(1696)将軍綱吉治世の時に玉川上水から分水して白山御殿 や六義園に飲み水を供給した江戸6上水の一つで、上水沿いでは農業用水や水車にも使われ た。現在は一部を除き暗渠となっており、暗渠となる前の様子を伝える貴重な記録。このア ルバムに収められた成果は、『千川上水』(石山乾二 昭和16年武蔵高等学校報国団文化 部民族文化部門)として刊行されている。 |
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■豊玉第二小学校 2丁目16番にある区立校。 |
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| ●鐘の鳴る丘 昭和19年8月、練馬区域の国民学校(小学校)からも最初の集団疎開に向かう姿があっ た。その中に豊玉第二国民学校の生徒たちもいた。付添教師は佐藤克彦だ。佐藤は、疎開先 (群馬県磯辺)で親元を離れた子供たちが日に日に沈み込んで行くのを、慰め、励ますため に、昔話をしたり、童話を読んで聞かせる内、子供たちと劇遊びをすることを思い立った。 戦後佐藤は、生徒全員が自主的に参加したこの劇遊びを教訓に、豊島第二師範の米津千之 を顧問として同志を募り、小学校を単位とした子ども会の連合グループを作らせ、自らは豊 二小の子どもを集めて「シロバト子供会」を結成した。児童文化活動を通じ、戦争で荒んだ 子供たちの心に光明を灯そうとの意気込みがあった。この頃児童劇は活発になり、各地で発 表会も行われていた。こうした中で、都主催の発表会で、シロバト子供会は最優秀賞を受賞 した。当時アメリカ軍の空爆で身寄りを失った子どもたちが巷に溢れ、日本を占領したアメ リカ軍も苦慮し、米本土からフラナガン神父を招いた。フラナガンはアメリカの孤児たちの 自主独立を指導して「少年の町」を作り一応の成功を見ていた。神父は日本の孤児救済を広 く訴えた。CIE(アメリカ軍の民間情報教育局)は神父の心を取り入れたラジオドラマ作 りを計画し、NHKに指示した。偶々シロバト子供会はフラナガン神父の歓迎会の折に、都 から最優秀賞を受けた演技を披露することになり、この経緯もあって、NHKから出演の要 請が来た。この時佐藤は子どもの教育上の問題から再三断ったが、NHKもアメリカ軍に突 つかれて必死。主旨の重大さを説き、佐藤は結局最終的に学校やPTA(父母と教師の会) の協力の下、承知させられた。アメリカ軍は都合の悪いことは「民主・自主」を建前に責任 を逃れた。イラクでも同じ様なことを行っている。国債を買わせ、思いやり予算で軍費用を 賄い、軍の改編費用を3兆円だと抜かして巻き上げる。盗人猛々しいならず者国家だ。 とにかくこうしてスタートしたのがNHK連続ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』だった。脚本 は菊田一夫、音楽は古関裕而で、主題歌は文京区の音羽ゆりかご会。出演は他に巌金四郎を はじめとするNHK放送劇団で、第一回は昭和22年7月5日。当初は週二回土・日の生放 送だったが、一年後に大変な人気になり、月〜金の夕方5時5分から15分間の日本初の録 音放送となった。最終回の同25年12月29日まで、実に790回を数えた。 緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台 鐘が鳴ります キンコンカン メイメイ仔山羊(こやぎ)も 鳴いてます 風がそよそよ 丘の家 黄色いお窓は おいらの家よ |
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■練馬合同庁舎 2丁目22番にある。 |
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■林稲荷稲荷神社 1丁目7番地にある小祠。本社の創建は「縁起」によると、 この地は江戸時代から将軍家の直轄地であり、御林と呼ばれる地だった。ある年 旱魃が続いて、村人が御林の樹木を売って生活の資としてしまった。その管理を していた百姓仁左衛門が困っていたところ、夢枕に祭神が現れ、湧き水の場所を 知らせた。村人7人で掘ると清水が湧き出て生活が安定した。そこで当社を創建 したという。創建は寛文年間(1661〜73)の頃と考えられる とある。昭和14年区画整理により社地を拡げ、石段などを整備。現在の社殿、鳥居 などは平成11年に改築した。 ●庚申塔 境内にある。幅32cm、奥行き28cm、台石を除く高さ97cmの石造角柱型庚申塔 だ。正面中央に「奉造立庚申供養諸願成就処」、向かって右上に「寛文三癸卯天」、左上に 「十月廿四日」の陰刻がある。下段には「本願」の文字と6〜7名の造立者名が陰刻されて いたと考えられるが、風化が著しく判読不明。下部には手の指なども丁寧に彫られた三猿と 両側面には鶏が一羽ずつ浮き彫りされている。もとの場所は不明だが、この地域の区画整理 により、昭和14年以前に付近から当所に移動したものだ。区内所在の庚申塔では古い部類 のものであり、江戸時代初期に造立された角柱型庚申塔の典型を示すものだ。 鳥居脇の祠に納まる中央の角柱型石造物は、寛文三年(一六六三)に建てられた 庚申塔です。三猿や鶏の浮き彫りは精巧に表現されています。区内では古いもの で、江戸初期の庚申塔の典型を示しています。 平成17年(2005)3月 練馬区教育委員会 |
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■聖書キリスト教会東京教会 1丁目12番にある |
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■豊玉東小学校 1丁目16番にある区立校。 |
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■市杵島神社 1丁目17番の都道環状7号線豊玉陸橋の下目白通り側にある。農作物の神様として、今 でも地元農協が中心になって行事をこなしている。むかし境内には池があって雨乞いの神事 も行われたというが、環七の完成で水源を断たれ池はすっかり干上がり、僅かにその跡を留 めている。池にあった石橋は、今参道の敷石となっている。 |
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■練馬区公園発祥の地 2丁目18番、豊玉第二小学校裏手の中新井公園≠フ南寄りに。6枚のタイルを石に貼 り付けた発祥碑がある。 この公園は「練馬区における最初の公園」だが、日本の公園の歴史は明治初年に遡る。明 治6年の「太政官布達」により、 人口の多い都市の、古来からの景勝地・旧跡など人が多く集まる場所を「永く万 人偕楽の地」として「公園」とするので、各府県は適地を選び、大蔵省に提出す ること ということに相なった。 これが「公園」という言葉が使用された最初であり、日本におけ る公園制度の発祥だ。この通達によって、この年に造られた公園は 全国で25ヶ所あった。 東京では上野公園(寛永寺)、芝公園(増上寺)、浅草公園(浅草寺)、深川公園(富岡八 幡宮)、飛鳥山の5ヶ所。その他水戸の偕楽園、大阪の住吉公園、広島県の厳島公園などが ある。しかし太政官布達の出る前、明治3年に横浜市に既に山手公園が出来ていた。横浜に 居留していた外国人の手によって造られた、わが国最初の洋式公園だ。ここ外国人専用の公 園で最初日本人は入れなかったが、関東大震災の後、昭和4年になって公園の一部が日本人 に開放された。 練馬区の公園発祥の地 中新井公園は、昭和12年4月に練馬区で最初の都市公園として誕生しました。 当寺中新井村は、農村から住宅地へと大きく変化する途上にあり、快適な住宅地 をつくるため村を挙げて土地区画整理事業を行うことにしました。 この付近は 「中新井第一区画整理組合」が、昭和8年から事業を開始しました。その事業の 中で公園が整備されたものです。当時植栽されたスズカケノキなどの樹木は、今 では大きく育ち公園のシンボルとなっています。 |
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■豊玉第二中学校 2丁目24番にある。 |
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■唐沢博物館 3丁目5番にある。東京教育大学名誉教授で教育史研究家の唐沢富太郎が収集した江戸か ら昭和までの教育史資料・玩具・文具・民具卯など7000点を展示する。 土・日・月燿日の11時〜17時のみ開館 電話は03‐3991‐3065。予約すれ ば休館日も開けてくれる。 ●鉄アレイ 展示品の中で面白いのは「木アレイ」だ。ダンベルを「鉄アレイ」というわなぁ。あの腕 の筋肉を鍛える鉄の塊だよ。あれ何でアレイちうのかと思ったら、「dumb‐bell」 →「聾唖・鈴」、つまりアレイは「唖鈴」という漢字だったのだ。だからダンベルは英語、 アレイはダンベルを訳した日本語という訳だ。鉄アレイ、何故わざわざ「鉄」を付けている のか、それは明治時代にダンベル(アレイ)が輸入された時、木製ダンベルもあったのだ。 女学校か小学校で使用されたのんだろうね。その実物がこの博物館にある。現在では小さい バーベルも「ダンベル」と呼ぶが、正しくは独古(どっこ)型のものが、本来のダンベルな のだ! |
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■日本キリスト合同教会・桜台教会 3丁目7番にある。 |
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■練馬消防署 4丁目1番にある。 |
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■練馬警察署 4丁目2番にある。 |
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■巴建設 5丁目3にある区内生え抜きの宮大工系の建設会社。区内の社寺の建築・古建築物の改修 に携わっている。無論一般建築も取り扱う普通の建設会社でもある。 大正14年宮大工榎本武吉が独立し「榎本工務店」を起こし社寺建築(宮大工)を主とし て木造建築を営む。戦後の昭和25年宮大工から脱却して会社組織とし、共栄(ともえ)建 設株式会社を設立。同35年社号を「巴」に変更。同43年2代目として清が跡を継ぐ。同 51年現在地に本社ビル建設。同60年埼玉支店開設。 平成元年練馬駅周辺再開発で駅前南口ピル建設を担当し、落成する。同2年創立65周年 記念式典。同10年長野県に松本支店開設。同12年練馬駅北口ビル第一期竣工。同14年 練馬駅北口ビル第二期竣工。同16年創立80周年記念式典。 ●主な寺社建築 豊玉碑川神社本殿、同境内社北野神社・三峰神社社殿/練馬正覚院多宝塔・庫裏・客殿/ 練馬大鳥神社神楽殿/豊玉北市杵島神社/法身寺など |
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■ねりうまの江戸菓寮「月之江」 5丁目15番、練馬警察署の斜向かいにある和菓子屋。「ねりうま」は、ふんわりカステ ラのような生地でこしあんと白あんを包む。文字の「馬」は「ひだり馬」「客を呼び込む」 という意味があり、馬の文字が裏になっている。「馬を練り名馬に育て上げる」練馬の発祥 由来のひとつ。100年の歴史を誇る、昔から親しまれている御菓子だ。練馬土産に最適最 高だよ。 |
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■練馬駅 5丁目17番にある都営地下鉄大江戸線の停車場。 |
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■東神社 5丁目18番にある。 ●天照大神八大龍神 境内にある。 |
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■大鳥神社 5丁目18番、練馬駅前の千川通り薬屋の横町にある。正保二年(1645)鶴3羽が飛 来したというのが事の起こり。これに因んで和泉国一宮の大鳥大社から勧請したという。 例年11月の酉の市は、自動車の交通規制をするほど、参詣者で賑わっている。また境内の 石薬師如来は、千川通りから移したもので、安永五年(1776)の造立だ。 同じ千川通りにあった安永三年(1774)造立の橋供養正観音は隣の東神社に移されて いる。橋供養といったものは各地で見られるが、土木工事などは、昔は規模が小さくても大 工事だった。このため完成したとき庶民の素朴な願いや思い入れ、また感謝の意を籠めて造 立したといわれている。 |
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■練馬郵便局 6丁目4番にある。 |
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■練馬公民館・練馬図書館 6丁目8番にある。昭和60年5月に装いを一新してオープンした。公共の建物としては 珍しい青紫色の外観で、モダンな様式は地域のランドマークになっている。練馬公民館は区 民の自主的学習、発表、交流の場として利用され、併設の練馬図書館とともに生涯学習の施 設としてその機能を発揮している。両施設の主催事業には、最新の設備を活用した多方面に わたる講座等があり、いつも沢山の区民が参加しているよ。 |
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■練馬区役所 6丁目12番にある。 |
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■森田医院 6丁目15番にある。この界隈における医者の草分けで、明治初年頃は、練馬村と石神井 村に一軒づつしかなかったというから、当時は患者で門前市をなしたろう。この家の藁葺き 屋根の棟門はどうなったろう・・・母屋はマンションになったようだし・・・ 平成18年2月14日バレンタインデーに確認した。案の定むかしの面影は全くない。門 は裏のほうに移築保存されているが、本当に保存しているだけという状態。勿体無い。また 藁葺きではなく、瓦に葺き替えられていた。ここも拝金主義か! |
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■三の橋庚申 3丁目16番にある。庚申通りのところを流れていた用水の3番目の橋のところに建てら れたのでその名で呼ばれるようになった。庚申通りと呼ばれる道筋は、この庚申塔に因む。 現在のは2代目で、初代は壊れたので正覚院に納めてあるという。 |
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■豊玉小学校 4丁目2番にある区立校。 |
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■豊玉中学校 2丁目1番にある区立校。 |
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■豊玉南小学校 2丁目14番にある区立校。 |
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■豊玉氷川神社 2丁目15番にある。創建は不詳だが、武蔵国の一の宮氷川神社(さきたま市)の分霊の 社と伝える。初めは現在境内社の北野神社が最も古くて菅原道真を主神とし、次いで須賀神 社(素戔嗚尊)が主神となり、その後、時期は明らからでないが氷川神を勧請して主神とし た。この辺りは本来湿地帯であり、水田として開発した時ではあろう。太田道灌が北野神社 の別当寺として隣の正覚院を開創しているので、戦国時代から江戸初期と思われる。境内摂 社として稲荷と三峰の2社があり、5つの神社が同居している。参道左に「ビール麦金子ゴ ールデン発祥地」碑、その続きに御嶽神社に関する碑と敷石紀念碑がある。中央の巨大な碑 は、昭和3年の須賀神社社殿改築紀念碑だ。右手稲荷神社横の碑は「日露戦争従軍紀念碑」 で、その奥の榧(かや)の巨木は、高さ18m、目通り2.6mで、区指定の「ねりまの名 木」の一つ。左手奥に社務所。南西角に神楽殿と額殿が並ぶ。境内は広々としていて気持ち がいいが、後背は環七で鎮守の森はない。 ●暴れ神輿 古い人は須賀神社を「天王さま」と呼び、その祭礼は昔は旧暦の六月十五日だったが、現 在は9月6〜7日で、文化十年(1813)江戸時代の終わりに作られた神輿が残ってる。 明治大正の頃までの祭礼は、担ぎ手が激高して神輿が田んぼの中を暴れまわり手が付けられ ず、中新井天王さまの暴れ神輿≠ニして近郷近在で有名だったという。まぁ祭は一年の憂 さ晴らし、時を先途と羽目を外すな。こんな勇み肌も、町場化するに連れて廃れ、戦争で絶 えてしまった。神輿渡御は昭和40年代になって復活、漸く神輿が出るようになった。 ●額殿 現在の須賀神社の社殿がかつての氷川神社の本殿で、拝殿は入母屋造りで鉄板葺きの建物 だったが、曳き屋して神楽殿の裏にの現在地に移設した。この建物は、釘を一本も使わない 珍しい建築法で、文化八年(1811)に建てた記しの棟札がある。現在は絵馬堂として使 われ「額殿」と呼ばれてる。 ●ビール麦金子ゴールデン発祥の地 参道を入るとすぐ左側に2枚の板を開いたような形の黒い御影石製の石碑が建っている。 日本におけるビール麦の栽培は、明治初めに国産ビールの原料として、外国から導入され た品種によって北海道で栽培されたのが最初とされる。本格的に栽培されるようになったの は 明治中期以降で、政府の奨励もあって盛んに行われた。 そもそも「ビール麦」という名称は通称で、正確には(ビール醸造用の)大麦だ。古くから 日本で栽培されていた大麦は、小粒の「六条大麦」で、麦飯・醤油・味噌などに使われてき た。それに対して ビール麦として輸入されたのが「二条大麦」で、 粒が大きくばらつきが 少ないのが特徴だ。「金子ゴールデン」は、六条大麦の1品種である「四国」と輸入品種の 「ゴールデンメロン」の交雑種だ。 なおこの碑は、正面からは2枚の平板を並べたように見えるが、裏に回って見るとビール 樽を半分に割って開いた形になっているのが判る。大変ユニークで面白い造型だ。碑文は、 ビール麦「金子ゴールデン」は、明治三十三年(1900)篤農家金子丑五郎に よって、東京市北豊島郡中新井村の当地で育成されました。翁は、江戸末期の文 久元年(1861)十月二十日に生れ、優れた先見性と旺盛な研究心, 地道な努 力を積み重ね、米麦をはじめ野菜の品種改良にも情熱を傾け、近郊農家の経営安 定に大きく貢献しました。特に国産ビールの需要拡大を予見し、輸入品種と国産 種の自然交配から「金子ゴールデン」を選抜・育成しました。つくりやすい性質 から当地では「矢羽」の愛称で, 昭和二十五年(1950)頃まで盛んに生産さ れていました。翁が改良した種子は、貴重な遺伝資源として「独立行政法人 農 業生物資源研究所ジーンバンク」に永久保存されています。練馬区豊玉が生んだ 翁の功績を地域文化として伝承し、都市農業の振興のため、平成十五年翁を慕う 農民等が相集い、栽培の復活に取り組みました。努力の甲斐あって、多くの人々 が喜びを共有して国産ビール黎明期の味を楽しんだことを、翁の功績と共に後世 に伝えるため碑を建立します。 平成十八年十月吉日 金子ゴールデン記念碑建立実行委員会 と彫られている。碑の隣には、平成9年にJAが建てた「江戸・東京の農業」を顕彰する 説明板が建ててあって、次のように書かれている。 江戸・東京の農業 ビール麦の金子ゴールデン わが国のビール麦栽培は外国から導入された品種によって始められました。最 初に導入されたのは江戸時代末期といわれていますが、本格的に導入されたのは 明治に入ってからで, 政府が勧業の一策として諸外国から穀類の種子を導入し、 試作を進めました。当時、輸入された中には大麦も多く、明治20年にはゴール デンメロン(米国)の名が記録されています。北豊島郡中新井村(現在の練馬区 豊玉)の金子丑五郎が、明治33年、六条大麦の四国とゴールデンメロンの自然 交雑によって生じた雑種の中から「金子ゴールデン」を育成しました。 早生で草丈が低いため成熟しても倒れにくく、一時、関東一円に栽培が広がり ました。この品種を親にエビス1号、ニューヨークゴールデン、アズマゴールデ ン、ふじ二条等の優良品種が育成され, 初期のわが国ビール醸造に大きく貢献し ました。 平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行50周年記念事業 東京あおば農業協同組合 |
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■天満山正覚院 2丁目15番の氷川神社の東隣にある真言宗豊山派の寺。「しょうがくいん」と読む。寛 永五年(1628)の江戸城築城の時、外濠予定地に住んでいた一農家を立ち退かせること にした。その条件として、かつて太田道灌が信仰していた天満宮の別当にこの農民を当て、 正覚院を創建させたという。しかし山門前にある区の説明板には違うことが書いてある。 大田道灌が、江戸築城の際、ここ中荒井(ママ)の陣屋にあった道灌崇敬の天満 宮を守るため別当寺として創建したのが当寺で、市ヶ谷から立ち退かせた一農家 を開基檀徒としたといわれている。 と書いてある。どっちが本当じゃ。 明治の廃仏毀釈や火災で寺の什器など殆どの物が烏有に帰したが、寛永年間(1624〜 43)の過去帳と涅槃像画が残っている。 本堂は昭和52年頃の再建だが、明治10年頃、前の建物を建てる時、成田不動尊を境内 に祀ってから不動講ができ、信仰を集めるようになった。境内には六地蔵もあるが、三の橋 庚申の三つに折れた古い塔が個々に納められていることはあまり知られてない。 幕末から明治にかけて、筆道稽古所という寺子屋が開かれ、地域子弟の教育に携わってい たことがある。境内には観音堂と多宝塔が本堂左手前に並び、庫裏も立派なものだし、山門 もあり、山門前右手には信徒会館というべきビルもある。境内の庭園も見事で、何もかも行 き届いた寺様だ。区の説明板にある観音前の「八子地蔵尊」は見当たらない。墓地入口にあ る11基の地蔵尊の8基がそれに当たるのか。大きな石灯籠が3基ある。 |
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■岩崎家の屋敷林 3丁目19番にある。農家らしい屋敷林だ。 |
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■学田公園野球場 1丁目32番にある。 |
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■瑠璃光山医王寺南蔵院 1丁目15番にある真言宗豊山派の寺。良弁僧都(ろうべんそうず)が、延文二年(13 57)この地に経塚を築いて供養し民衆を教化したというのが、この寺の沿革だ。開山・開 基は不明。『新編武蔵国風土記稿』には、 南蔵院 新義真言宗。上練馬村愛染院末。瑠璃光山医王寺ト称ス。慶安二年薬師 堂領十二石八斗ノ御朱印ヲ賜へリ。縁起を閲スルニ、永正年中僧良弁(良弁僧正 トハ異ナリ)諸国ノ霊場ヘ法華妙典ヲ納メ・・・ とあるので、愛染院の末寺であったことが判る。文禄年間(1592〜96)に火災に遭 い、堂塔伽藍と記録の総てを焼失したが、薬師堂は、宝永四年(1707)に再建したとい う。また本堂・庫裏・鐘楼門などは、宝暦三年(1753)の建築でなかなかのものだ。こ のほかに長屋門もあり。この寺院は見るべきものが多い。特に閻魔堂には、病気平癒祈願が 成就したといって奉納された15cmぐらいの木彫の神像尊が沢山並べてある。もう一つの 薬師堂内部の鴨居の上部には、約200枚ほどの小絵馬が納められている。これを見ただけ でも、古くから信仰が盛んだったことが判る。 ●鐘楼門 三間一戸、入母屋造り、桟瓦葺きの楼門形式で赤彩されている。上階は吹き抜けで鐘楼に なっており、正徳5年(1715)銘の梵鐘が吊るされている。江戸中期の建築様式を伝え るものとしても貴重なもの。 ●花浄土 南蔵院は区内57ヶ寺の内で最も花の寺と呼ばれるのが相応しい寺だ。ウメ・ボケ・サク ラ・シダレザクラ・コブシ・ドウダンツツジ・ツバキ・モモ・ハナズオウ・ツツジ ・ボタン・フジ・アジサイなど数多い花木が植栽されているから、春はまさに花浄土の味わ いだ。中でも目を楽しませてくれるのはシダレザクラと、ボタンが艶(あで)やかに咲き競 う季節だ。 |
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■中村小学校 2丁目8番にある区立校。 |
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■小社群 3丁目1番に赤彩小社が3つほどある。どこかにあったものをここに集めたのか、昔から あったものかどうかは判らない。かつては用水の辺(ほとり)だった。 |
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■御嶽神社 3丁目8番にある。幕末期に谷原村の増島大傳によって創建されたと伝えられている。大 傳は行者一山の門人としてすでに谷原村に一山講社を結び、富士見台3丁目稲荷神社境内に 御嶽神社を興し、近隣への布教に励んでいた。中村では、字中内を中心に御嶽山一山信衍講 が結ばれ、大傳を開山として初代小沢林蔵、2代先達内田清心、3代先達神田明照と続き、 現在に至っている。現在の社殿は昭和52年の新築。本殿西側には稲荷社があり大傳はこの 祠で祈祷を行っていたそうだ。明治33年に建てた「小沢林蔵君之碑」がある。 御嶽一山講中の設立に貢献したらしい。初代と冠してある。橋山と号した。 ●探湯式 毎年1月18日、9月18日の祭礼に身体健全を祈願し、神事として行われ、氏子の住民 の参加もあり、民俗行事として定着している。これは直径60cmの大釜で沸かした熱湯の 中へ笹をつけ、身体に振り掛けるという行事だ。「探湯式」の由来は『日本書紀』に記され ている『盟神探湯(くがたち)』からきていると思われる。盟神探湯とは、古代における神 判法で、事の正邪を決するために神に誓った後、熱湯の中に手を入れ、誠実な者は何事もな く、よこしまな者の手はただれるといわれ、それで判定を下した。心に疚しいところのない 者は進んで探湯したが、後ろめたい者は恐れ戦いて進まないので、正邪がすぐに判明したの だろう。 |
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■良弁塚 3丁目11番の旧鎌倉道沿いにある。この塚は、良弁(ろうべん)が経典を埋めたところ だという。元文五年(1740)ここから経筒を発掘、今南蔵院の寺宝として納められてい る。経筒を埋めた上に建てられた「良弁廻国供養塔」のほか、数10m東にあったという石 幢七面六観音勢至道標や庚申塔6基が納められている。敷地は全体が金網で囲われており、 傍に寄れないようにしている。仏像泥棒、寺荒らし、墓荒らしの横行する世の中、仕方ない ね。哀れな世の中に成ったものだ。どうして公徳心がなくなったのかねぇ。国会で国民をお ちょくったようないい加減な答弁に終始する割には、荒川静香に電話するなどして目立って 善人ぶるパーフォーマンスの総理大臣のだらしなさが悪を誘うのか? ●石幢七面六観音勢至道標 元文五年(1740)銘のある高さ2m50cmの七面石幢の石幢。真言系の准堤・千手 ・十一面・馬頭・聖・如意輪の6観音と勢至菩薩が彫られ、区内では唯一の七面塔。台石は 東西南北の道標になっている。もとは現在地より数十m東方にあったとか。 七面に彫られているもの 准堤 光明真言 拾五萬偏妙隆 為二世安樂 十一面 元文五庚申歳 十月吉日 馬頭 本願主 治良左衛門 勢至菩薩 講中 拾六人 千手 願主 西貝三良左衛門 聖 講中 三拾六人 如意輪 村中寄進 台座に彫られているもの 東 此方なかのミち 目ぐろみち 西 此方た可いど 大山ミち 南 武州豊嶋郡 中村里 北 此方ねりま 川口ミち |
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■中村橋駅 4丁目2番にある西武池袋線の停車場。 |
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■山崎学園/富士見中学校・高等学校 4丁目8番にある区立校。 |
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■中村西小学校 4丁目17番にある区立校。 |
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■区立体育館予定地 1丁目2番にある。 |
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■中村中学校 1丁目32番にある区立校。 |
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■田中稲荷神社 2丁目7番にある。家1軒が十分に建つ敷地に小さな社がポツンと建っている。 |
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■向竜山唯心堂福泉寺 2丁目19番にある曹洞宗の寺。看板に東松山墓地分譲中とあるので墓所は東松山にある のだろう。道路際の塀もない現代住宅のような寺。 |
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■八幡神社 3丁目2番にある。中村の産土神、江戸時代からの総鎮守。明治7年村社に指定され、村 の中心的な神社だった。境内に卍を刻した水盥がある。これは当時の神仏混交の名残りだ。 社殿は江戸時代のものというが年代は判っていない。額絵馬数枚が残る。 ●本殿 覆屋に納まっている小祠。一間社流造りの柿葺(こけらぶき)、八角柱で土台建て。向拝 (ごはい)や虹梁の彫刻は素朴で、外面全体が赤く塗られていた痕跡がある。 |
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■首つぎ地蔵 南3丁目2番、八幡神社のあるブロックの西北角にある。ここは南蔵院末で廃寺になった 西光寺の跡地だ。堂前に残る石仏にその名残を留める。 では、不思議な物語を『練馬区史』から紹介しよう。 昭和7年のことだ。護国寺地蔵講の熱心な信者守屋という人と、美術院長正木不 如丘とが同時に、地蔵の首がころりと落ちるという変な夢を続けて見たというの だ。そこでどこかに首の落ちた地蔵がなかろうかと話し合ったところ、守屋が、 札所順拝の折、中村の道端に首の欠けた地蔵があったことを思い出した。早速2 人でそこを訪ねると、何と、2人が夢に見た地蔵尊とそっくり同じ地蔵の石像が 立っているではないか! この時ふと正木が脳裏に過ぎったことは、以前家に出 入りしていた画家が、酒代を借りにきて置いていった包みの中に、地蔵尊の首が あったことだ。「もしやあの首が!」と合点して大急ぎで取って返し、地蔵の首 を持ってきて胴の上に乗せると、これがぴったりと合ったって訳だ。2人は驚き かつ喜んで、石屋に頼んでこれを継がせ、手厚くこれを祀ったという。折しも昭 和の大恐慌、この話を聞いた人が「首が繋がる」と訪れるようになり、以来誰い うとなく「首継ぎ地蔵」と呼んで信心する人が多くなった。 というお話。 |
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■大泉第四小学校 1丁目24番にある区立校。 |
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■了光山本照寺 3丁目11番にある日蓮宗の寺。開山の時期は明確ではないが、本堂を改築したとき、主 柱の下から天正十年(1582)の題目板碑が発見されたことから、これが創建の年だろう ということになった。明治24年橋榑村と上土支田・長久保が合併して大泉村になった時最 初の役場が置かれたところでもある。当時公共の建物は寺しかなかったから、大抵の村役場 と小学校は寺に設けられた。入口は石柱、駐車場を経て山門、境内の正面に本堂。右は寺務 所、左は墓所。住職は絵馬について大変に造詣が深く、自らも絵筆を執る。寺内の絵馬の幾 つかを描いて掲額してある。 |
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| ●加藤幸太郎之碑 門前に建っている。騎兵一等軍曹勲八等と刻んであるが勲功など一切の記事はない。戦場 での手柄なので自慢も称賛もできない環境なのだろう。総理大臣が中国・韓国に喧嘩を売っ てまで国粋主義に徹し軍国国家に戻そうとしているのにだ。自民党が軍国主義者によって満 たされ、憲法を改めて自衛隊が国軍として認められれば、様子は変わるかもね。小泉の腹は それで固まっている。東条英機が国家軍神になる日も近い? そういえば東条は国民にまだ 謝罪してないばかりか、子孫も遠慮しないよな。600万人も死に至らしめといて「ごめん なさい」もないなんてどういう血筋なんだろうね。先祖がよっぽと酷い奴で、一族挙げて日 本人に恨みでもあるのかなぁ。しかしまぁよく日本で生きていられるよ。 |
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■諏訪稲荷神社 3丁目13番にある。もとは別当寺本照寺の北側にあった三十番神堂で、明治政府の強制 により諏訪神を勧請して諏訪神社となった。明治末年現在地に移転。社殿のとなりある稲荷 神社を合祀した。境内に広島の厳島神社の鳥居と同じ形の鳥居があるのだが、後ろに社殿が ない不思議なスペースがある。御嶽神社もあり、何か変? 社域は広大で神域というにふさ わしい樹林の中にある。最初からここになかったのが不思議なくらいだ。神楽殿の外に「太 鼓庫」がある。祭に使うのか大きな和太鼓がしまってある。額絵馬が20枚保存されていて その中の「狐の大根取り入れ」は狐を擬人化して農作業を描いたものだが当時の風俗をよく 表している。 |
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■大泉西中学校 3丁目19番にある区立校。 |
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■大泉西小学校 4丁目28番にある区立校。 |
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■四面塔稲荷神社 5丁目1番にある。四面塔題目碑があったことでその名がある。明治の神仏分離令で明治 政府は諏訪神社に纏めようとしたが、氏子30軒が一致結束して反対、愚かな明治政府の役 人を悟らしめて帰らせた。明治維新とは薩長政府が国民を完全支配しようという目論見だ。 版籍奉還、廃藩置県、地租改正、官僚専制、国民皆兵などなど全てがその施策の一環で、神 社の統合は国民の精神世界をも明治の独裁政府の下に組み込んで行こうとする悪意に基づく もので、地方自治破壊がその目的だった。そういった意味でこの神社を残した先祖は偉い。 本殿は覆屋の中にあり、平成9年区の文化財に指定された。 元治二年(慶応元年=186 5)銘の棟札があり、一間社流造り、銅板葺きの小社。彫刻が随所に施されている。 ●四面塔題目碑 大乗院の提唱で建てられたもので。神社裏の追分に建てられたということは道標の意味も あったのだろう。というのはこの分れ道はともに清戸道で、右に道を取れば下清戸に至り、 左に行けば上清戸・中清戸に至るからだ。四面塔はここに特別なものではなく、妙福寺など にある。 |
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■親殺し事件 5丁目16番の「ニュー建築設計事務所」経営杉村亨(72)方で、平成20年8月16 日午後5時15分頃、杉村が血まみれの状態で死亡しているのを帰宅した華族が発見し11 0番した。首にはさみが刺さっており、警視庁捜査1課と石神井署は殺人事件と断定。同居 している杉村の40代の長男との連絡が取れなくなっており、事情を知っているとみて行方 を捜している。調べでは、杉村さんは長男と長女夫婦、長女夫婦の息子の5人暮らし。長女 夫婦と孫の3人は数日前から親類宅を訪ねていた。この日先に帰宅した孫が遺体を発見。玄 関は施錠され、亨は2階和室でうつぶせに倒れていた。 警視庁は17日、事件後行方がわからなくなっていた同居の長男の無職大(まさる)容疑 者(42)を石神井公園駅前で発見し、殺人容疑で逮捕した。捜査1課などによると、大容 疑者は15日正午頃から16日午後5時頃までの間に、亨の顔を十数回殴った上、はさみを 首に突き刺して殺害した疑いがある。大容疑者は「私がやったことに間違いない」と供述を しており動機を調べている。近所の人によると長男は都内ですし店を経営していたという。 |
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■新井山大乗院円福寺 5丁目17番にある日蓮宗の寺。山号の新井は、この辺りを荒井ということによる。永徳 二年(1382)の開創で600年余の古刹。13世大乗院日進上人から大乗院を名乗るよ うになった。檀家は小榑村ばかりでなく下保谷まであったし、久世大和守家の祈願所だった というから格式の高い寺だった訳だ。四面塔はここの住職の唱導で建てた。山門は宝暦二年 (1752)の建立。明治40年の火災で唯一残ったものだ。現在の本堂は昭和53年建立 の鉄筋コンクリート造り、綺麗なベージュ色。境内の左側には柴又帝釈天(題経寺)から分 身の帝釈天立像を祀る帝釈堂。右は墓所で広い。 |
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■練馬大根 といえばチョー有名なダイコンだが、2000年も前、縄文時代には地中海沿岸からシル クロード通って種の形でもたらされたろうという。その頃は「おおね」と読んでいたようで 仁徳天皇の歌に詠まれている。漢字が入ってきて「大根」の字を充て「ダイコン」とも呼ぶ ようになった。江戸に大根がもたらされたのは、日本最古の戸籍『庚午年籍』に柴又に「大 根」という姓の家族があるというから、千数百年前のことだろう。神奈川県秦野地方には野 生の野良大根が生えていたことが判っている。 小田急の「東海大学前」駅は、その以前は 「大根」駅だった。「だいこん」と誤読されるので、それを嫌がって現駅名に替えたという 次第。練馬には、綱吉が病気治療のため尾張から種を取り寄せて栽培させ、練馬大根として この地域に根付かせたということが、明治ころから語られるようになった。しかし練馬大根 は尾張大根と性質も外見も似ておらず、単に尾張大根を改良したものではない。恐らく元々 あった地大根と尾張大根が自然交配を続けて練馬大根は完成したしたのだろう。練馬尻丸・ 早太り練馬・美濃早生・都大根・秋つまり・練馬大長(練馬尻細)など数多くの派生種を生 み出している。武蔵野台地が関東ローム層といっても総てが同じ地質ではない。成増台と豊 島台・淀橋台では同じローム層でも大根の育ち方が違ってくるのだ。練馬では根が長く伸び る「練馬大長」が生まれたのに対し、世田谷・大田区では「つまり大根」が生まれた。練馬 大根は、大蔵大根、志村美濃早生大根と並んで白ダイコンで、全国の漬物は練馬大根のグル ープのダイコンを使うんだよ。『続江戸砂子』に、 練馬大根 ねりまは豊嶋郡也。江戸より三里戌亥、此地の大根名産也。青み少な く苦辛の味ひなし、大きなるは尺二三寸周、八九周は常也。味よろしく尾州宮重 に同じ。 とあり、著名な宮重大根に匹敵するものと述べている。 鎌倉の時代練馬の鞭を出し(川柳) 踊り子のあとへ練馬のせなあ乗り(川柳) 川一は練馬の客が乗り納め(川柳) 練馬の国の住人と名乗て出(川柳) 冬ごもり味方と頼む練馬武者(川柳) 「鎌倉の」は、曽我五郎時致が、大磯の兄十郎祐成の身を案じて裸馬に跨って駆けつける 時、大根を鞭代わりにしただろうの揶揄(からかい)。「踊り子のあとへ」は、夏の納涼船 も冬場は練馬大根を運ぶので、練馬の兄いが乗り込む。「川一」は「川1番」だろうという 意味でつけた屋形船の型。2句目と同じ意。残りは、『徒然草』の筑紫の押領使が敵に襲わ れた時、平素好んで食った大根の化身の武者に救われたという話を踏まえたもの。5句とも 練馬が大根の代名詞になったことを物語っている。 |
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■沢庵漬 米糠を利用して大根を塩漬けにし、口当たりよく甘みのある漬物。綱吉が品川の東海寺開 山の沢庵禅師に命じて作らせた。ということに練馬の伝承ではなっている。別の説では、禅 宗の寺には貯え漬けという漬物があり、沢庵がこれに米糠を使い、甘みのある漬物を普及さ せた。この貯え漬が転訛したというものだ。沢庵は宮本武蔵を姫路城天守閣の開かずの間に 閉じ込めて反省させ、精神的に成長させた坊さんだ。区内には約40軒の漬物屋がある。こ れほどの漬物屋の集団は全国的にも珍しい。 |
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■慧日(えにち)山円明院西光寺 1丁目19番にある真言宗豊山派の寺。豊島88ヶ所の27番札所。本尊は不動明王。文 亀元年(1501)賢栄阿闍梨の開基。これは大正4年に発見した板碑に刻まれていたこと による。またこれと一緒に発見された板碑に八臂弁財天図像もあって、これを穴守弁財天と して祀った。この信仰も盛んだったようだ。本堂および山門は文化七年(1810)建立の もので、落ち着いた雰囲気の漂う寺ではある。参道に血の道地蔵尊(いぼ地蔵)がある。山 門右が円明殿と庫裏、正面本堂左は広い墓所となっている。 |
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| ●穴守弁天 本堂の真裏にある。大正2年村道改修のため裏山から採土したところ、高さ2m、幅1m 半、奥行20mの横穴がボッカリと開いた。両側壁面に蓮華片模様が刻まれ、奥上段に文亀 元年(1501)の年号と弁財天を彫りこんだ板碑ほか数種の板碑が奉安されていた。板碑 は毛線刻で極めて珍しく、美術的価値も高い。人々は「穴守弁天」と称え、同4年に盛大な 供養をした。戦時中はアメリカ軍の空爆を避けるため防空壕に用い、本尊を安置したりもし たが、戦後崩落の兆しを見せたため穴を塞ぎ護壁工事をして、穴の部分に祭壇を設けた。現 在この前に七福神の石像が石台の上に置かれている。 |
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| ●四国八十八ヶ所 裏山に霊山寺に始まる四国88ヶ寺が、1ヶ寺ごとに石碑にして順番に並べてある。一通 りお参りしたので私もお遍路んさだ。江戸時代から盛んに四国巡礼が行われるようになり、 これを模して各地に八十八ヶ所の巡礼地が作られた。この巡礼を特に遍路と呼び、巡礼者を お遍路さんと呼ぶ。昔は寺に参詣すると、その証しに本堂の柱などに木札を打ち付けていた が、現在ではお寺の損傷などを避けるために、紙のお札を「納札入れ」という箱に入れる形 となっている。この昔の風習から八十八ヶ所の各寺に参拝することを現在でも「札を打つ」 という。遍路は順番どおり打たなければならない訳ではなく、巡礼者の都合により、移動手 段や日程など様々だ。順番通り打つのを「順打ち」、逆に打つのを「逆打ち」といい、閏年 には逆打ちをする人が平年に較べ多いようだ。巡礼者は一般に本堂と大師堂に参り、その後 参った印として納経所で納経を行う。八十八ヶ所全てを廻りきると「結願(結願成就)」と なり、巡礼の後、高野山金剛峰寺に詣でて「満願成就」とする。 |
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■伏見稲荷のカヤの木 1丁目19番、円明院の東裏にある。3本の株立ちのようには見えるこの木だが、実は元 の幹は枯れてしまい、脇の枝が成長して現在のような傾いた独特な樹形になっている。50 年程前には畑仕事にきた人がよくこのカヤに牛を繋いで休んでいたりしたそうだ。今神橋を 渡って急坂を挙がってくると休みたくもなるわな。 |
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■如意山金乗院(こんじょういん)万徳寺 2丁目4番にある真言宗豊山派の寺。本尊は愛染明王。文禄年間(1592〜1596)下練馬 宿の名主を務めた木下大炊介の開基、僧行栄の開山と伝えられている。慶安二年(1649)3代 将軍家光が、鷹狩の際、俄雨に遭い、この寺に休んだことから18石9斗(12石1斗とも)の御 朱印を賜った歴史のある寺で、周辺の清性寺・阿弥陀堂・荘厳寺・光伝寺などの寺を末寺とし、中 本山格の寺として格式は高くなった。徳川綱吉の無聊をなぐさめた当時の住職の願いによって下練 馬村の全寺が真言宗に改宗されたとも言われている。 文久元年(1861)火災に遭い、本尊の愛染明王を除く本堂・庫裏の総てが焼いた。現在の本 堂は、昭和32年に鉄筋コンクリート造りにしたが、木造、瓦葺きの朱塗りの山門は、家光の専用 門といわれ、本堂前には家光のお手植えと伝えられる区保存指定の大イチョウがある。 練馬の名の謂れの一つである、馬の調練はこの寺の前で行われたという。 |
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| ●朱印状 徳川将軍家が寺領として18石9斗の年貢などの免除を保証した文書。慶安二年(1649)3 代将軍家光発行のものから、万延元年(1860)14代家茂のものまで9点が漆塗りの御朱印箱 に納められている。11代家斉のものを除き、大高檀紙が使われており、格式が窺われる。区内で は纏まって伝わる数少ない貴重なもの。但し現物は非公開。 ●一石六地蔵 境内にある舟形後背の六地蔵立像は、2mもの大きな石に可愛らしい錫杖・薬壺・合掌・数珠・ 傘蓋・幡を持つ6体の地蔵が陽刻されたものだ。上部に、 下練馬村本村御月待衆 種子(カ)奉新造立六地蔵大菩薩二世安楽所 干時明暦二年(1656)丙申九月十五日 とあり、下部に月待講16人の名前が印刻されており、彼らが供養のために建てたことが判る。 全体に調和のとれた素晴らしい石彫だ。1度御覧なれ、嬉しくなっちゃうよ。 |
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■小社 1丁目6番の東南の角地にある。 |
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■ニャンビーせんべい 1丁目7番にある「坂本せん餅」の名物。ニャンピーは、地元で親しまれている中村橋駅 前通り商店街のマスコットキャラクター。シンプルなしょうゆ味。 |
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■神社 1丁目22番にある。 |
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■練馬第三小学校 1丁目36番にある区立校。 |
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■貫井図書館 1丁目36番にある。 |
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■区立美術館 1丁目36番。貫井図書館と一緒にある。開館10:00〜18:00 常設展は無料、 企画展は有料。休館日は原則月曜日。特別なものはない区民ギャラリー。 |
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■木槌焼き 2丁目2番の「練馬風月堂」の名物。黒糖の皮に大納言の餡をはさんだどら焼き風の和菓 子。すこぶる評判がいい。練馬土産に最適。03‐3999‐6050 |
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■貫井中学校 2丁目14番にある区立校。 |
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■練馬第二小学校 2丁目31番にある区立校。 |
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■第四商業高等学校 3丁目45番にある都立校。 |
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■南池山円光院貫井寺 5丁目7番にある真言宗の寺。と号す。山号は寺の南に池があったことによる。山門の右 脇には、七地蔵と三体六地蔵(二つの石に3体づつ彫刻)が並び、左脇は、庚申塔、馬頭観 音と並んで、文化七年(1810)「子ノ聖観音」の文字塔が、一際目立って、この寺の象 徴ともなっている。開山の由来は『円光院小史』に詳しく載っている。 円長法師が腰と足の通風になった。いろんな治療を試みたが一向に治らないので、武州大 麟山の聖権現に祈願した。満願の日に権現からお告げがあった。それは「森の中に自分の探 した石があるから、それで痛むところをさすればよろしい」ということだった。早速、森に 入っていくと。栗ねずみが現れ、葉を落として意思のありかを教えてくれた。法師がその石 を持ち帰り、痛むところを恐る恐るさすると忽ちにして通風の針で刺すような痛みが消えて 治ったのだ。感極まった法師は、永禄七年(1564)甲子の歳に子ノ聖大権現と、その霊 石を祀って寺を開創した。こういう由来なので、足腰に病気のあるものにはご利益がある。 そのため信者は足腰を使う仕事に従事している人たちが多かった。ここ子ノ権現への道標も 各地にあったというから参詣に来る人たちの範囲はかなり広いものだったことが判る。 子ノ権現は、12年に1度、子の年・子の月・子の日に御開帳。馬の守本尊で、かつては 馬かけの行事も行われた。なお本堂・客殿・庫裏は、昭和20年のアメリカ軍の無差別空爆 により燃やされしまったが、昭和38年に再建、昭和55年観音堂と境外仏堂(地蔵堂)を 建立した。 |
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■富士見台駅 3丁目9番にある西武池袋線の停車場。 |
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■入定塚 5丁目20番の旧家関口邸門内の左側に建つ石碑。これは或る旅僧が関口家に止宿して自 ら石を刻んだ。そしてそれが完成すると、これで全ては終わったと、村人に頼んで自分の体 を土中に埋めてもらった。それから7日目、それまで聞こえていた鉦の音がパッタリ止まっ た。大往生をとげたのだ。ちょうどその日は、旅僧が石碑に刻んだ延享五年(1748)四 月三日だったという。門の脇にあるのはそのときの石碑だそうだ。個人の敷地にあるので遠 慮がちにそおーっと覗かせてもらうんだよ。失礼のないようにね。 |
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■武蔵野鉄道(現西武池袋線) この鉄道の必要は農業事情にあった。北多摩地区の肥料不足と東京市の糞尿処理の問題を 一気に解決する手立てだった。この糞尿処理電車は昭和になって一時期なくなるが太平洋戦 争が始まると再びお目見えした。それが仇になって戦後買収先の西武鉄道に名前を変えても 「肥桶鉄道」「芋電車」とからかわれることに変わりはなかった。今の西武線からは想像も つかないだろうが、汚名を払拭しようと堤康次郎・義明親子が払った努力は、並大抵のもの じゃない。結局ああいうことになっちまったけど、所沢に西武ライオンズのフランチャイズ を置いたのも、沿線分譲地松ヶ丘に高級感を持たせるために有名女優に土地を提供したのも 鉄道の汚れたイメージを拭い去り不動産事業を円滑にするためだった。東京の私鉄で沿線に 高級住宅地を持たない鉄道は西武鉄道だけなのだ。だから堤家の焦りが今日の悲劇を招いた といえる。走っているところが豊島・練馬・多摩・埼玉だから高級感を持たせようとするこ と自体土台無理な話なんだがね。 「私鉄沿線」 山上路夫作詞 佐藤寛(野口五郎の兄)作曲 野口五郎歌唱 改札口で君のこと いつも待ったものでした 電車の中から降りてくる 君を探すのが好きでした。 悲しみに心とざしていたら 花屋の花もかわりました 僕の街でもう一度だけ 熱いコーヒー飲みませんか あの店で聞かれました 君はどうしてるのかと |
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■練馬駅 1丁目4番にある西武池袋線の停車場。 |
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■練馬文化センター 1丁目17番にある区の文化施設。 ●大ホール(こぶしホール) 1486席(1階:864席・車椅子スペース12席、2階610席) 主催者控室・楽 屋5室・楽屋管理室1、浴室1。 ●小ホール(つつじホール) 592席(588席・車椅子スペース4席)主催者控室、楽屋4室 浴室1。 ●リハーサル・集会室 6室 ●集会室 和・洋各1室 ●保育室 1室 ●ギャラリー 1室。 |
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■平成つつじ公園 1丁目17番、文化センターの西側の区立公園。 |
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■栄照山了見寺 1丁目18番にある浄土真宗大谷派の寺。 |
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■慈光山阿弥陀寺 1丁目44番にある珍しい時宗の寺。白山神社の直ぐ前にあり、と号す。 境内一杯に本堂が建てられているので、道路からいきなり寺になる感じだが、綺麗なお寺で はある。縁起によると、正平十年(1355)には既に時宗の集団が生まれたとある。この 寺は江戸時代より品川長福寺の説教所として人を集めていた。本尊は阿弥陀如来木造。本堂 の前に享保十四年(1729)造の「ひぎり地蔵」がある。墓所は100mほど北に離れて いるが2丁目10番にある。 |
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■南町小学校 2丁目7番にある区立校。 |
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■龍王山信行寺 2丁目12番にある浄土真宗本願寺派の寺。和田堀の築地本願寺別院廟所と非常に良く似 た外観。内部も大変充実している。入口の左は庫裏、右は広々とした駐車場、本堂の奥は墓 地。それから別に、練馬2丁目10番に第二本堂があり、「ねりま浄苑」という。こっちも 広い。 |
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■イチョウ並木 2丁目26番の区の総合運動場(旧中央大学グラウンド)にある。石神井川糀谷橋付近か ら望む練馬総合運動場のイチョウの整然と立ち並ぶ姿は、芽吹く新緑、晩秋の落葉など四季 折々の表情を醸し出し、季節の変化を感じさせてくれる。また橋のすぐ近くには「堰ばあさ んの松の木」と呼ばれる松ノ木がある。これは堰を守ったおばあさんの化身(蛇)を奉る祠 のあった所で、百日咳を治してくれるという伝えもあり、お参りする人も多かったという。 |
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■開進第二中学校 2丁目27番にある区立校。 |
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■練馬総合運動場 2丁目29番にある。 |
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■白山神社 4丁目2番にある。もと村社。創建は平安時代の頃と伝えられている。 ●大ケヤキ 僅か2株だけになったが拝殿前にあり、林学博士本多静六により、いずれも樹齢約900 年と推定される全国でも有数の巨木。永保三年(1083)源義家が「後三年の役」で奥州へ 向かう際、戦勝を祈願してこの社に奉納したものと伝えられている。階段上にある大ケヤキ は、樹高14m、幹周り7.2m の大きさで、昭和15年に、階段下の大ケヤキは、樹高1 9m、幹周り8mの大きさで、平成8年3月に国の天然記念物に指定された。最近では、失 火、都市廃棄物の周囲への埋め立て、腐朽の進行による樹幹の空洞化などが原因で、2本の 巨木は衰弱していた。これに対して樹木医の資格を持つ公園緑地課職員が平成3年から9年 にかけて数回に亘り治療を施した。これらの治療により徐々に樹勢を回復している。なおこ の付近から弘安四年(1281)の板碑が出土していることから、鎌倉時代にはこの神社の周 辺に集落が発達していたと考えられる。境内に三社稲荷神社が祀られ、東向かいに成田不動 尊と社務所がある。 |
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■豊島園駅 4丁目15番にある都営メトロ大江戸線の停車場。 |
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■豊島園駅 4丁目16番にある西武豊島線の停車場。 |
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■練馬寺町(田島山11ヶ寺) 4丁目25番にある浄土宗の寺院群。奥に共同の広い墓地がある。入口右手に快楽院(け らくいん)・宗周院・仮宿院(けしゅくいん)・受用院・称名院・林宗院、左側は仁寿院・迎 接院(こうじょういん)・本性院・得生院・九品院(くほんいん)の順に並んでいる。 みな浅草田島町の誓願寺の塔頭だったが、大正12年の震災後に移転してきた。いい雰囲 気だが、世田谷の烏山寺町のようには観光客がいない。江戸時代は朱印地300石を与えら れ、各大名や徳川家十人衆(御用商人)が、塔頭を宿坊として外護の任に当たった。このた め檀家に豪商が多く、有名な人のある。東京都の旧跡である書道家池永道雲(受用院)、本 草学者小野蘭山(迎接院)、札差青地善春一族、役者沢村宗十郎一族などの墓がある。 「11ヶ寺」は、もともと本坊誓願寺の開山東誉上人が、徳川家康より神田豊島町に1万 余坪の地を与えられ、相州小田原より寺院を移して塔頭六院を創開したことに始ます。その 後変遷を経て「11ヶ寺」となった。 |
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| ●小野蘭山の墓 江戸時代中期の本草学者。享保十四年(1729)京都に生まれ、延享元年(1744)松 岡怒庵について本草学を学び、寛政十一年(1799)71歳のとき江戸に下り、幕府の医 学館で本草学を講じた。その弟子の一人に杉田玄白もいた。また幕府の命を受けて享和元年 (1801)から文化二年(1805)にかけて採薬のため諸国を巡り、その結果を「採薬 記」に留めている。とくに享和三年(1803)に出版された『本草綱目啓蒙』は、日本に おける最大の本草文献であり、後の博物学の発達にも大きな影響を与えた。これらの文献は 各地の方言を知る資料としても貴重なものなんだぞ。 この蘭山の墓は、もとは浅草の誓願寺塔頭(たっちゅう)の迎接(こうじょう)院にあっ たが、関東大震災に遭い、昭和2年から堂宇とともに、俗称「11ヶ寺」が順次移転した。 墓石には考証学者・屋代弘賢(やしろひろかた)が纏めた蘭山の事績などが刻まれている。 ●【本草学】 薬用に重点を置いて植物やその他の自然物を研究した中国古来の学問。 ●池永道雲の墓 江戸中期の書家。延宝二年(1674)江戸の商家に生まれた。書において一家をなし、 『篆海』『篆髄』『間窓楽事』など、著した書物の数は18種50余巻に及ぶ。また木・石 などに印を彫る篆刻を黄道謙に学び、いろいろな印影を集めた「一刀萬象三巻」を著して、 印譜においてわが国で先駆をなした。道雲の墓は、元は浅草の誓願寺塔頭の受用院にあった が、震災後の区画整理により、昭和2年受用院とともに移転した。 ●そばくい地蔵 九品院にある。『練馬区史』によると、江戸時代尾張屋という蕎麦屋へ、毎晩のように、 ソバを乞いにくる僧が会った。主人は仏心があったので無償で供養した。それから毎晩くる ようになった。それも1ヶ月続くと、少々怪しく感じてきた。そこである晩その僧の後を尾 けていくと、西慶院の地蔵堂の前で忽然と消えてしまった。驚いて駆け戻ったその夜、その 夢枕に、気高い僧が現れた。「われは、西慶寺地蔵なり。日ごろ汝からそばの供養を受けた 報いに、一家の諸難を退散せしめよう」いうと、その姿は消えた。それ以来蕎麦屋の主は毎 日西慶院の地蔵にそはを供えて祈願した。ある年のこと、江戸に悪疫が流行したが、蕎麦屋 の一家は無事息災だった。これを聞いた人々は早速参詣し、大願成就した人はそばを奉納し たので、いつしか「そばくい地蔵」と呼ばれるようになった。なお西慶院は明治維新後、同 じ誓願寺塔頭の九品院に吸収された。九品院はこっちを売り物にしているらしく、整備が行 き届いている。 |
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■広川松五郎関係資料 4丁目35番の広川家にある。大正から昭和期に活躍した工芸家だ。特に大正末期には、 工芸改革の中心的役割を担った。昭和10年から練馬区に居住し、染色、図案を中心に幅広 い芸術活動を行っていた。広川松五郎の作品や下図、スケッチ、原稿など近代工芸の誕生、 確立に関わった工芸家の資料としてまとまっている。 |
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■青柳家住宅 1丁目6番の住宅地にある。設計金沢清、施工吉本新吉。昭和3年建築、寄棟造り、木造 平屋建、スペイン瓦茸きの住宅。金沢は、伝わるところではフランク・ロイド・ライト(帝 国ホテルなどを設計した米国の建築家)の弟子といわれているが、明確な記録は見つかって いない。 平面は107u、3.3uの玄関、左側に応接間、右側に丸窓のある部屋と3畳間 が間仕切を境にして並び、奥には和室がある。洋風なのは応接間だが、床の間がある。内部 の大部分は純和風の座敷で、当時のモダンな生活に憧れた中産階級の建物といえる。外観は 屋根と軒廻り、壁面の意匠により水平線を強調するとともに、玄関回りの装飾などにライト 風デザインの特徴が見られる。スぺイン瓦は当時のものではない。西武池袋線江古田駅周辺 の昭和初期の宅地開発地に建てられた住宅であり、私鉄沿線住宅の建築事例を示している。 国登録の有形文化財。 |
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■武蔵音楽大学 1丁目13番にある私立の単科大学(カレッジ)。昭和4年1月福井直秋が東京府代々幡 町幡ヶ谷に仮校舎を借りて武蔵野音楽学校創立事務所を設け授業を始める。同年3月江古田 キャンパスに校舎竣工。同7年財団法人および専門学校令による武蔵野音楽学校設立認可。 同24年武蔵野音楽大学設置。福井直秋学長に就任。同39年大学院音楽研究科設置。同4 2年楽器博物館開設。同46年入間キャンパス開設。同52年武蔵野音楽大学管弦楽団、第 1回ヨーロッパ演奏旅行。以後継続。平成5年パルナソス多摩♀J設。平成9年パルナソ ス多摩女声合唱団開設。 ●楽器博物館 学内に併設してある。大学が誇る東洋最大の楽器コレクション。その収集は洋の東西を問 わず、他では見ることのできない貴重な楽器も数多くある。そのコレクションの中から選り すぐりの逸品を紹介すと、アイリッシュハープ、ヴィオラ・ボンボーサ、ツィター、テーブ ルピアノ、馬頭琴、胡弓、ビュサン、クララ・シューマン愛用のグランドピアノ、バセット ホルン、楽琵琶、狩猟ホルン、アップライト・ピアノ、サクソフォーン・カルテット、三の 鼓、ジングリング・ジョニー、クイントン、クラヴィコード、楽箏、シュドロフォーン、バ グパイプ、グランドピアノ(フォルテピアノ)、鞨鼓、オクタヴィン、ヤンコピアノ、ツィ ン・バロン etcetc |
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■新桜台駅 2丁目2番にある西武有楽町の停車場。 |
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■羽根沢稲荷神社 2丁目22番19号にある。と、いろんなものに書いてあるが、当該地は住宅が建ってお り、そのスペースはない。住宅地図にも記載がない。 |
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■開進第四小学校 2丁目33番にある区立校。 |
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■榎本家 3丁目2番にある江戸時代からの家(らしい)。茅葺き屋根の田の字形の間取りは昔その まま。欅・榎・樫などの屋敷琳は、「羽根木憩いの森」として解放している。落ち葉は今で も堆肥として使っているとか。 |
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■開進第四中学校 3丁目24番にある区立校。 |
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■開進第一中学校 1丁目16番にある区立校。 |
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■開進第一小学校 2丁目1番にある名門小学校。明治15年現在の開一中の辺りに開進小学校として開校。 校長室には今でも、同44年小松原英太郎文部大臣揮毫の「開智以進徳」の立派な書が樫の 板に彫られて掲げられている。同27年校舎新築。大正7年校歌制定。同大正12年関東大 震災に被災。昭和3年開進第二小学校を分校。同4年開進第一尋常小学校に改称。同7年開 校50周年、記念式典を挙行。この年開進第三小学校を分校。同16年東京市開進第一国民 学校となる。同22年練馬区立開進第一小学校に改称。同27年北町小学校を分校。同28 年開校70周年。同33年仲町小学校を分校。同44年プール完成。同45年鉄筋校舎完成 同47年開校90周年。記念式典に於いて新校歌制定。 「新校歌おおきな」 柳沢弘作詞 西沢昭男作曲 大きな いちょうの木 いまは わかば だから みどりの風がふく こずえがなる 遠いれきしを歌います そうです みんなの開一小 同52年早宮小学校を分校。同57年開校100周年。記念式典に於いて記念碑完成除幕 同63年 新体育館完成。平成2年 新図書室PC導入。同12年パソコン室完成。同19 年創立125周年を迎える。 ●大楠木 正門脇にある。区内で3番目に大きい楠木で、練馬名木100選の1。大正4年大正天皇 御大礼を奉祝して校舎玄関前に記念植樹された。しかし昭和12年の校舎改築の際に現在地 移されてしまった。植樹されたときの樹齢が不明だが、概ね90〜100年になると考えら れる。樹高20.7m、目通り2.95mになる。主幹は地表2mくらいのところで切断され た痕があり、そこから二股になっている。しかし先端はよく分枝し、大木で典型的な楠木の 樹冠をしている。また区内で歴史のある小学校に、古くに植樹された楠木は、地域の人々に 大切にされている。校歌にイチョウは歌い込まれているのに、楠は歌い込まれていないと、 OBがメールで嘆いている。 |
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■練馬工業高等学校 2丁目9番にある都立校。 |
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■平和台駅 2丁目17番にある東京メトロ有楽町線の停車場。 |
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■久遠山本寿院 2丁目26番にある日蓮宗の寺。本尊は久遠実成の本師釈迦牟尼。開山日宜が諸国巡教の 途次、中山道板橋宿で多くの信者を得、その懇望により一宇を建て布教伝道したのが寺の起 こり。2世の日秀は開山の法諱(戒名)に因んで、院号を本寿院と称えた。3世日意の代に 身延山延暦寺から久遠山の山号が与えられた。以来20代300年の星霜を板橋の仲宿で過 ごしたが、昭和12年中山道の改修のため邪魔にされ移転してきた。昭和47年宗祖降誕7 50年に本堂を新築した。 ●僧形馬頭観音 この馬頭観音は、馬が僧侶の衣を着た文政六年(1823)の供養塔だ。「駄善孩子」と 戒名が彫ってあるところをみると、日頃可愛がっていた飼い馬の仔の菩提を弔うため建立さ れたものだろうという。建立者は三河屋安次郎、八百屋かな! |
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■石神井川の一本松 3丁目26番にある。区立総合運動場(旧中央大学グラウンド)の側の糀谷橋の北詰だ。 この松ノ木の根元に、昭和30年の台風による洪水で流されるまで「堰のばあさん」という 小祠があった。その謂れを紹介する。 ●堰の婆さん むかし石神井川に大きな堰があった。ここに親切な老婆が住んでいて、何でも相談に乗っ てくれた。ところがある日突然その姿が見えなくなった。村人たちは総出で探したが見つか らない。すると今まで見たこともない蛇が堰の側にいて、近づいても逃げず、優しい目つき をしている。その優しい目が老婆に似ているので、蛇になってしまったと驚き悲しんだ。そ れ以来大雨があっても堰は壊れないので、きっとこの蛇が守ってくれているのだと気づいた 村人たちは、そこに小さな祠を作って供養した。その内この祠にお詣りすると百日咳が治る という噂が立った。堰と咳を引っ掛けた暗示だが、それからは参詣者が引きも切らなかった とか。では流された後、何で再建しなかったのかなぁ・・・! |
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■内田家の屋敷琳・大ケヤキ 3丁目41番にある。日当たりや風通しのよい標高25m前後の高台にあり、良好な土壌 環境のもと樹林が保たれてきた。屋敷林には、ケヤキ、シラカシ、ムクノキ、エノキなど、 高さ2m以上の樹木が309本生育している。これは屋敷林と呼ばれ、落葉による堆肥生産 や防風などのために人工的に作られたものだ。立木が直線状に並んでいるのは、垣根の代わ りとして植えたためだ。樹齢は300〜400年と推定される。 内田家は古くから「けやきだいじん」と呼ばれるほど、屋敷林には沢山のケヤキの大木を 擁している。とりわけ門の前にある大ケヤキは高さ30m、直径1.5m、幹周り4.5mと 大きく立派だ。枝葉は住宅の遥か上方で四方に広がっている。早宮で代々農業を営んできた 内田家では、屋敷の周りを囲むようにして樹高25m前後のケヤキの大木が21本立ち並ん でおり、関東南部の屋敷林を特徴づけている。 |
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■地蔵・庚申塔 3丁目42番、早宮中央通りからちょっと入ったところにある。コンクリートでできたお 堂の中に納まっている。 |
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■早宮中学校 4丁目10番にある区立校。 |
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■庚申塔 4丁目19番、早宮中央通りの本寿院入口の三叉路のちょい北に、小さな祠の中に鎮座し ている。三叉路から早四仲通を600mほど北上すると本寿院(春日町)に至る。 |
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■大泉東小学校 1丁目22番にある区立校。 |
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■天祖稲荷神社 2丁目9番、OZの西側にある。昭和48年に再建されたものらしく、参道に笠間稲荷神 社の碑と大正8年銘の久保上稲荷神社遺跡碑が建っている。社殿らしきものはなく、民家風 の建物が社殿のつもりらしい。道路際に鳥居がなかったら誰も気づかない。 |
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■びくに公園多目的広場 2丁目29番にある。 |
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■東映東京撮影所 2丁目34番にある。新興キネマ大泉撮影所→太泉映画を経て、東京映画配給に東急映画 とともに吸収される。東京映画配給が東映に改称して、東映東京大泉撮影所となる。映画の 不振でオープンセット部分(リヴィンOZ大泉)を売却して縮小した。名優高倉健はここで 育った。 |
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■倍光山妙延寺 3丁目16番にある日蓮宗の寺。草創は永禄十一年(1568)加藤作右衛門となってお り、この辺りの日蓮宗寺院として一番遅い創立だ。加藤はこの辺りの旧家に多い姓だ。本堂 は、昭和40年の鉄筋コンクリート建築ながら和風重層唐破風造り、天井の塔は八角という 変わった建物だ。安土城の天守閣もかくやと思わせる。檀家は土支田村上組・下組、石神井 村、小榑村の各村に亘っている。明治初年頃の「妙延寺境内図」によると、スギ・ケヤキ・ ヒノキなどの鬱蒼たる樹木に覆われていたが、現在は本堂の前に樹齢400年の大公孫樹が あるきりだ。草創時代の樹木と伝えられている。境内には朱塗りの山門、題目供養塔、万霊 塔、稲荷小祠などがある。 |
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| ●大イチョウ 山門の後ろで門番をしているかのような巨木。目通り2m余、樹齢400有余年以上とい われている。秋には沢山の銀杏(ぎんなん)を実らせる。 ●題目供養塔 全国的にも珍しいもので、土支田村の加藤利左衛門の母敬心院妙浄日性禅尼が、元文三年 (1738)に、全国10000ヶ寺参詣を成就した際、その記念に建立したとされてる。 ●法蓮華経馬頭観音 文化六年(1809)の建立で、そのすぐ脇に同じ銘文の昭和40年の塔が建っている。 古いほうが傷んだので子孫が同じものを建てたのだ。古い塔に道標で、「北志らこ道左堀之 内道」とあるが、新しい塔は「小志らこ屋左堀之内屋」となっている。崩し字は、「北」は 小」に、「道」が「屋」に見えるので、読み違えたまま石屋が刻字してしまったのだろう。 |
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■八の釜憩いの森(やのかま いこいのもり) 2丁目27・28番にある。昔は、湧水池のことを「釜」と呼んでいた。世田谷を流れる 仙川は水源地の「千釜」が由来だ。この森の付近には八つの湧水池があり、それぞれ「一の 釜」「二の釜」と呼んでいた。現在残っているのが8番目の釜に当たることから「八の釜」 と書き、またこの辺りの字を「谷」といい「谷の釜」から「やのかま」と、公園名はつけら れた。白子川へと湧き出る水は、とても冷たく水質も優れ、流れにはコイ・フナ・金魚など 沢山の魚が元気に泳いでいる。四季折々に変化を見せる森の美しさとともにここを通る人々 の目を楽しませている。かつては富士講などの精進場にもなっていた。 |
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■びくに公園 八の釜憩いの森の対岸にある「びくに公園」は、中央が大きな窪地になっており、近くを 流れる白子川が増水した時には、意外なこと調節池となって付近の住民を水害から守る役割 を果たすことになっている。その時は、隣接のテニス場や多目的広場も水没し一面が池にな る。しかし地元の人々にとっては心強い公園だ。「びくに」については比丘尼を参照せよ。 |
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■ネリマアニメッ子クッキー 3丁目2番の焼菓子工房「ホームメイドマーム」の逸品。アニメ発祥の地大泉で開催され る「練馬アニメフェスティバルin大泉」のキャラクターをイメージ。ひとつひとつ手作り のクッキーだ。ネリマ土産に最高。 |
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■榎本常三郎君之頌徳碑 3丁目4番、大泉通りに面した第3大新ビルの角に建っている。何をした人なのか、刻字 も説明板もなく判らない。大船街道に小泉純一郎の祖父又次郎の碑が建っているが、同じほ どの大きさだし、国会議員経験者の自慢か? |
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■豊西小学校→大泉小学校 4丁目25番、北野神社の東にある。明治7年5月31日加藤儀平宅(東大泉4−16) に豊島小学校第二分校として豊島小学校(現石神井小学校)に遅れること13日後に開校、 同9年豊島郡の西方の小学校の意で豊西小学校とした。同25年新校舎が現在地に完成した ので榑橋小学校と合併して泉小学校と改称して移転した。大泉になったのは大正4年の尋常 小学校から、現在名の大泉小学校になったのは昭和22年からで、大泉第二・大泉第三・大 泉第一・大泉東・大泉南の5校を分校した。 ●加藤隆太郎胸像 校門左前に昭和32年に建てられた。あの長崎の「平和の像」を造った北村西望の制作と いうから凄い。さらに壁に平成16年のプレートが貼ってある。それによると、昭和22年 の練馬区の板橋区からの独立に活躍。昭和36年〜平成12年財団法人加藤教育振興会を運 営し、区内各小学校へ物質的援助を続け、郷土の発展のためまた後進の育成に尽力した。 |
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■北野神社 4丁目25番にある。江戸時代土支田村の「番神さま」と呼ばれ、村民から親しまれてい た。「番神」とは法華宗(今の日蓮宗)独特の三十番信仰(神仏混淆時代に、1か月30日 を神々が毎日交代で守護する)のことだ。明治政府は神仏習合の思想を禁止した際、三十番 神を別当寺妙福寺に名称を返上した。村人は「後の神様を何にすんべい」と鳩首集めて相談 の結果、「明治維新も終わり、新時代の心のよりどころと理想を求め、教育に力を尽くし、 平和に生きよう」という念願から、菅原道真を祭神に勧請、以来「北野神社」となり、最近 では「大泉天神」と呼ばれて親しまれている。これは正に先見の明で、道真は学問の神様。 毎年初詣から春の受験期にかけて、合格祈願の人々が奉納する絵馬で、絵馬掛けが一杯にな る賑わいだ。 |
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■大泉中学校 4丁目27番にある国立校。 |
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■大泉高等学校 平成22年中高一貫教育校に転換 5丁目3番にある都立校。昭和16年「東京府立第20中学校」として中野区鷺宮5丁 目の仮校舎に開校。同17年板橋区東大泉330番地(現在地)に校地を取得、「東京府立 大泉中学校」と改称。西校舎完成し移転。同18年都制施行により「東京都立大泉中学校」 と改称。同19年5年制→4年制になる。同20年第1回卒業式。 同22年5年制に復帰。同23年アメリカの強制による「学校教育法」施行により新制高 校となり「東京都立大泉新制高等学校」となる。同24年男女共学モデルスクールに指定さ れ2学級共学、男子学級5。今は当たり前だが、男と女が一緒に勉強するなんて考えられな い時代のことだから、それはそれは大変だった。男はむやみやたらと興奮したもんだ。今の ように普通の娘や嫁が平気でアダルトビデオに出演する世間じゃなかったからね。 同26年創立10周年記念式典。同27年定時制過程清瀬分校設置。同29年校歌制定。 校歌「千歳の昔」 作詞・日夏耿之介 作曲・小松清 1.千歳の昔 行末は 空も一つの武蔵野に 月を仰ぎて勤しめる 御親の民の姿哉 2.楢 栗 櫟 柏木や 雑木林に身をおきて 心の里の雨を聴く 明治の民の思い哉 3.今この土に学び舎の 高きを建てて石神井の 清き泉に影映す 現世の民の生命哉 4.ああ大泉 若き子が 嶮しき時に坑がひて 静かに祈り能く思ふ 我等の道は平和のみ 同34年群馬県榛名湖畔に「榛名寮」を建設。同36年創立20周年記念式典・円形校舎 落成。同38年第1回臨海学校(千葉県興津)。不参加を対象に榛名寮で林間学校実施。同 39年第2回臨海学校を富津で実施。以後富津に固定。同41年清瀬分校廃止、都立久留米 高等学校定時制として発足。同55年新住居表示により現在の所番地となる。同56年榛名 寮解体。土地は群馬県に返還。同60年パソコン教室開設。 平成3年創立50周年記念式典。同5年度臨海学校を以て終了。同13年創立60周年記 念式典・校舎耐震化。同14年機械警備システム開始。平成22年度より中高一貫校に改編 されることが決定。 ●校歌について 第一節、新古今和歌集の歌によって遠い昔の武蔵野のみおやの民の姿を想い、 第二節、近く国木田独歩の「武蔵野」の中の「明治の民のおもひ」を我々も思いや るのである。 第三節、そして今、かっての武蔵野の一郭にある本校に学ぶ若人の「いのち」を見 つめ 第四節、険しい今の世の流れに抗し、平和を求めて止まない我らの悲願を歌ってい る。 第一節は、新古今集の摂政太政大臣 藤原良経 の歌 行末は空もひとつのむさし野に 草のはらより出づる月影 に拠っている。武蔵野に立って我が歩み行く道の果てを望むと、空も野も一つになって見 える広々とした武蔵野に、今草の原から出る月よ、ということで、山や海辺の月に比べて、 草原の月は当時としては珍しい歌いぶりであるといわれる。 遠い昔から明治へ、そして現代の我らへ、さらに平和な未来への願い、と四節のぬきさし ならぬ密接な続け方は見事である・・・・・・・・・・・・・創立40周年記念誌より抜粋 |
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■東京学芸大学教育学部付属大泉小学校 5丁目22番にある国立校。附属大泉中学校と附属高等学校大泉校舎とを統合・再編して 6ヶ年に渡る中高一貫教育を行う。それに連動して附属大泉小学校も改革を行うことになっ た。 |
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■東京学芸大学教育学部付属大泉中学校 中高一貫教育校に転換 5丁目22番にある国立校。昭和22年「東京第三師範学校附属中学校」として開校。同 24年「東京学芸大学東京第三師範学校大泉附属中学校」と改称。同26年「東京学芸大学 附属大泉中学校と改称。同43年現校舎新築。同49年附属高校大泉校舎発足。同51年校 歌「緑深き」制定。平成10年創立50周年。同19年附属高校大泉校と一体となって「東 京学芸大学附属国際中等教育学校」となったる。 |
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■東京学芸大学付属高等学大泉校舎 中高一貫教育校に転換 5丁目22番にある国立校。昭和49年大泉キャンパスに開校。同50年制服制定。同5 9年校歌制定。平成6年制服廃止。同11年創立30周年。同19年附属中学校と統合して 「東京学芸大学附属国際中等教育学校」となった。 |
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■東京学芸大学付属国際中等教育校(新設) 5丁目22番にある。昭和40年以来、全国に先駆けて帰国児童生徒教育・国際理解教育 の実践と研究を推進してきたが、平成19年4月その実績と経験を生かし、附属大泉中学校 と附属高等学校大泉校舎とを統合・再編して6ヶ年に渡る中高一貫教育を行う「国際中等教 育学校(仮称)」を設立した。 |
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■本間家のサクラ 5丁目35番にある。道路際に残る並木で、春にサクラが咲いた時すばらしい街並みを見 せてくれる。この木はちょうど道路との境にあり、塀を曲げて作るという苦労をしながら残 している。 |
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■大泉学園駅 5丁目41番にある西武池袋線の停車場。 |
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■大泉第二中学校 6丁目21番にある区立校。 |
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■大泉南小学校 6丁目28番にある区立校。 |
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■牧野記念庭園 6丁目34番地にある。ここは、日本が生んだ世界的な植物学者、故牧野富太郎博士が、 大正15年から亡くなる昭和32年まで住み、植物の研究に没頭し「我が植物園」としてこ よなく愛した自宅を保存し整備した公園だ。園内には、博士が自ら集めた340種あまりの 植物が植えられている。夫人の名をとったスエコザサ、郷里の高知県佐川町で発見したサカ ワサイシン、ヘラノキ、センダイヤザクラ、チチブフジなど珍しい種類のものが数多く見ら れる。記念館では、博士が20歳の時、博覧会見物を兼ねて初めて上京した際に購入したド イツ製の顕微鏡、自分の研究成果をとりまとめた『植物学雑誌』『日本植物志図篇』、植物 の実物大の図を載せた大判(縦47cm、横36cm)の『大日本植物志』など、貴重な資 料を見ることができるよ。書斎は覆屋内に保存、公開されている。 |
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○主婦手首切り落とし殺人事件 牧野庭園の西の都営住宅で起きた隣人殺人事件。昭和51年1月28日午後1時頃東大泉 町176番地小堺義光(47歳)宅においてパート先から帰宅した妻愛子(40歳)が、隣 家の主婦望月節子(47歳)に文化包丁で襲われ、メッタ刺しにされたうえ、両手首が切り 落とされるという残虐さで殺された。発見したのは学校から帰ってきた小学5年の長女で、 母親が死んでるのを見て110番した。警察の捜査により花模様のバッグと、女物の眼鏡、 小振りな足跡から、犯人は恨みを持つ顔見知りの女性と見て、聞き込みをしたところ、隣家 の主婦節子と諍いが絶えないことが判明、節子に同行を求めて取り調べたところ、初めは否 認していたが、遺留品を突きつけられると観念し、犯行の総てを自供した。 当日1時頃節子が家の前の道路に立っていると、パート先の酒屋から愛子が自転車で帰っ てきて、目の前でベルを鳴らして通り過ぎた。節子はそれを自転車に乗れない自分への当て 擦りと理解、馬鹿にされたと思ってカッとなり、咄嗟に「殺そう」と決断、取って返と文化 包丁をバッグに忍ばせて小堺宅に向った。玄関に駆け込むと、応対に出てきた愛子にいきな り襲い掛かり、手にした包丁で、頭となく顔となく、手当たり次第に刺し、逃げる愛子を追 い回して、突き、刺し、叩き斬り、そうする内奥の四畳半で愛子がぐったりしたので怖くな り、慌てて自宅に逃げ帰り、返り血を浴びた衣服を着替え、手足を洗ってから、布団の中に 潜り込んで、寝ていた風を装った。気持ちが落ち着いてから自殺しようかと考えたが、度胸 がなく死に切れなかった。 遺体は、両手首が殆ど切断されていたが、それは惨殺の結果であって、節子が特に意図し て切断したものではない。闇雲に包丁を振り回す内そうなったのだ。刺傷などは60ヶ所も あった。検視の結果、死因は左首動脈切断による失血死だった。 都営住宅は、昭和32年7月に完成した。木造平屋庭付き一戸建て、6畳・4畳半・台所 の42u、所謂2Kだ。子供が成長し手狭になるとどの家も庭にプレハブの子供部屋を増築 するところが多かった。節子の家でも21歳を頭に9歳まで4人の娘がいて、10uを増築 していた。それが小堺家に圧迫感を与えたことから近隣トラブルは始まった。それからは些 細なことが諍いの原因になった。人間だけにある愚かさだ。小堺家でも小六の長男と小五の 長女のために家の南側の庭に4畳半・3畳のプレハブを勉強部屋として増築した。 節子は大妻女子大を出た才媛で、千葉の私立女子中学校の教諭や通産省電子技術研究所に 籍を置いたことがあるインテリなのだ。研究所で知り合った夫(事件当時課長)と結婚後、 完成したばかりの都営住宅に、小堺家などと一緒に入居した。初めは仲良かったという。数 年後夫婦仲が悪くなり、最近は別居状態が続いていた。そのため閉じ籠りがちで、近所づき あいも殆ど断っていた。普段は言葉遣いも丁寧で、時折三味線を爪弾くなど育ちのよい物静 かな奥さんという寛治を与えていたが、興奮すると逆上する性格で、人前で夫を殴ったこと もあった。高血圧とノイローゼで通院したこともある。 この犯行はトラブルから生じた憎悪によってなされたと思われがちだが、これは痞(つか え)という病気だ。発作が起きた時たまたま近くに愛子がいただけのことだ。浅野内匠頭が 松の廊下の端っこで吉良上野介に襲いかかったのと同じだ。この病気は激した後に極めて冷 静になる。そして激したことが恥ずかしくなり、激したことの説明をあれやこれやこじつけ るのだ。自転車のベルを鳴らされただけでは、幾ら憎悪があったとしても、殺しにまでは行 かない。痞が起こると頭が痛くなり自然に激する、そうなると本人はその状態を解消しよう 鎮静化しようと試みる。つまり暴れるのだ。この病気は不思議なこと暫らく暴れると潮が引 くように鎮静する。それから当分は大人しいままでいられるのだ。死んだ母がそうだった。 愛子は不運だったとしかいいようはない。 |
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■旭出学園・旭出学園教育研究所・旭出養護学校 7丁目12番にある。 |
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■練馬サブレ 7丁目31番の「竹紫堂」の洋菓子。練馬区の地形を象り大根の葉の練りこまれたサブレ は栄養満点。外袋には区の地図が印刷されていて、町名と河川を表示されているので、食べ ながら勉強ができるよ。 |
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■大泉井頭公園 7丁目34番にある。湧き水が溢れ出る川と緑の美しさが特徴的な、細長い公園だ。コブ シ、ソメイヨシノ、ケヤキ、トウカエデなど、豊かな樹木に囲まれており、中でも、園内の 川岸に自生している2株のマルバヤナギの老大木は、白山神社の大ケヤキとともに、区の文 化財に指定されている。 ●井頭の柳の木 このヤナギは「焼け弁天様」の伝説に出てくるいわれのある柳で、根元から湧水がこんこ んと流れていたとか。上流側にあるものは、高さが約8.8m、幹の太さが約1.5mで、 下 流側にあるマルバヤナギは、高さが約6.2m、幹の太さが約1.7mある。 マルバヤナギは低地の川岸や池沼岸、放棄水田などの多湿地に多く成育する。この2株は 白子川上流域に湧き出た湧水である井頭池の水辺に成育しているもので、水辺植物として特 徴的だ。公園は、四季を通じて、付近の人たちの憩いの場となっている。しかし昔は背の丈 を葭に覆われた湿地帯で寄る人などなかった。太平洋戦争末期、女子学校の農地として開発 されて、人跡の地となった。 |
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■白子川 昔は、白子川の上流を保谷市から田無市まで遡ることができた。かなり蛇行した川で、川 沿いには井頭池をはじめ、多くの湧水池が見られた。川は区の西北部を北に流れて板橋区和 光市の境を経て荒川に流れ出る。昭和31年の耕地整理に伴い川筋が直線化され、水害が社 会問題とされた昭和43年以降、コンクリート護岸に改修された。流域の下水道が普及する につれ、徐々に清流が蘇りつつある。井頭公園内では、川底から豊富な湧き水が出たため、 魚巣をつくり、ショウブやカキツバタを植えた。今では錦鯉やカルガモの姿を見ることがで きる。 |
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■成増飛行場 光が丘の区域は元々東京市の大緑地計画の一つであったものを、戦雲限りなく重くなった 昭和18年、首都防空のため陸軍によって航空基地(成増飛行場)が設置され、自前の飛行 場がなく松戸・柏・調布の各飛行場を転々としていた独立飛行第47中隊を、同年10月3 日飛行第47戦隊に格上げして2個中隊を3個中隊に増強し、式単座戦闘機「鐘馗」54機 が配備され、基地管理を担当する第43飛行場大隊と合わせて「陸軍第十飛行師団第四十七 航空戦隊」が編制された。戦前日本に空軍はなく航空戦力は陸軍と海軍がそれぞれ独自に保 有していた。昭和19年11月24日、この日この飛行場からアメリカの重爆撃機B29へ 体当たり攻撃する「震天制空隊」の特攻機が飛び立った。お国のための大義名分であたら若 き命を大空に散らしたという。その日は雲一つない青天だったそうだ。これをテーマに特攻 兵と地元少年の心温まる交流を描いた映画(テレビドラマだったっけ?)があった。当時の 掩体壕が高松にまだ残っているとか、写真では見たことがある。 |
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■グラントハイツ 現在の練馬区の地図を見ると光が丘の形が長大なクランク形をしていて飛行場を彷彿とさ せる。敗戦後飛行場跡地は農民に変換されることもなく、アメリカ軍の宿舎に当てられた。 彼らはその占領米軍成増住宅を、市民戦争(南北戦争)の英雄で、第18代大統領でもある グラント(Grant)将軍を偲んで「グラント・ハイツ」と称えたが、土地の人は、Gro und(地面)もしくはGrand(でかい)と聞き間違えて「グランドハイツ」と認識し ていた。ワシントンハイツは、ニューヨークにあって独立戦争当時のワシントンの司令部が 置かれた高台なので、グラントハイツも南北戦争当時の北軍グラント将軍の司令部に因むの かも知れない。 |
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■光ケ丘団地 昭和48年に全面返還され、跡地は東京に蟻集する日本人お上りさんのための住宅団地と なった。昭和56年に着工して2年後の昭和58年から入居開始、平成4年に完成した。し かし最初に作られたのは旭町に住所変更となった光丘高等学校で、次が日比谷公園の4倍は あるという光が丘公園だ。丘はこの辺り一帯が高台だということ。そのとき役人たちにもま だ少し意気地があったものと見えてグラント団地などとほざかなかったのは感心に値する。 光が丘は、平成4年3月住宅12000戸の建設がすべて完了し、23区では最大規模の団 地として完成した。この街では、緑豊かな新しい生活環境を目指した街づくりが進められて きた。公園・緑地の面積は、光が丘地区全体の44%を占めている。街は景観に配慮してデ ザイン化され、電柱のない街となっている。また、住棟の色彩、案内板などには初めてこの 街を訪れた人にも分かりやすいよう工夫した。同12年地下鉄大江戸線が全線開通し新宿と 直結した。 |
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■光が丘第八小学校 1丁目4番にある区立校。 |
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■田柄第三小学校 2丁目1番にある区立校。 |
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■田柄高等学校 2丁目3番にある都立校。 |
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■光が丘第四小学校 2丁目5番にある区立校。 |
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■光が丘第七小学校 2丁目6番にある区立校。 |
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■光が丘警察署 2丁目9番にある。 |
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■光が丘郵便局 2丁目9番にある。 |
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■光が丘消防署 2丁目9番にある。 |
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■光が丘第五小学校 3丁目1番にある区立校。 |
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■光が丘第三中学校 3丁目2番にある区立校。 |
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■光が丘第六小学校 3丁目6番にある区立校。 |
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■光が丘駅 3丁目10番にある都営地下鉄大江戸線の停車場。 |
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■光が丘公園 3〜7丁目に広がる。総面積60ヘクタールと区内最大規模を有し、その広さは日比谷公 園の約4倍にもなる。グラントハイツ跡地の整備によって造られた公園で、樹木が多く、サ クラ、イチョウ、ツツジ、ケヤキが作り出す四季の景観は素晴らしいものだ。銀色に輝くモ ニュメントがある正面入口広場からまっすぐ進むと、西側は広大な芝生広場になっており、 この広場は毎年「練馬こどもまつり」の会場になっている。公園の東側部分は野球場、陸上 競技場、テニスコートなどの施設が整備されており、広々とした青空の下スポーツを楽しむ 人々で賑わっている。 ●バードサンクチュアリ 公園の中には、樹木や草花が茂り、昆虫が住み、野鳥が飛び交う自然の空間がある。自然 の生態系を回復し、自然と人間のふれあいの場になるようにとの願いを込めて作ったバード サンクチュアリだ。「保護ゾーン」では観察舎から野鳥の観察が、「ふれあいゾーン」では 野鳥と人間が、間近に接することができるようになっている。毎週日曜日のみ開園するぞ。 |
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■夏の雲公園 3、4丁目にある。太陽・水・みどりをテーマにした大きな「広場」のある公園だ。「太 陽の広場」にあるユニークな壁画は、近くの小学校の子どもたちが卒業記念に描いた力作な のだ。広場は、ローラースケートや壁打ちテニスもでき、いつも賑やかで若々しいエネルギ ーに満ちあふれ、「ジャブジャブ広場」は4ヶ所の円筒から渦巻きのように水が流れ、子ど もたちの自由な水遊びの場所になっている。また楽しみながら体力作りができるように、健 康道具を利用したフィットネスが、この公園をスタート地点として設置されてるんだ。 |
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■光が丘公園 4丁目1番にある区立公園。 |
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■光が丘体育館・温水プール 4丁目1番にある。 |
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■光が丘図書館 2丁目43番にある。 |
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■IMA 5丁目1番にある。光が丘IMA(イマ)は練馬区にある都内最大の住宅団地「光が丘パー クタウン」の中央にある多機能複合型ショッピングセンターだ。 ●ホール コンサート、バレエ、演劇等の発表をはじめレコーディング・スペースとしても利用がで きる。音響可変装置及び可動ステージで凡る利用に対応可能となっており、一般にも貸し出 ししている。客席は最大500席。また自主企画として、月1回の早朝IMA寄席を始め、 クラシックやポピュラーコンサート及びリサイタルなど一流アーティストによる公演のほか 演劇など多彩な催しものを企画公演している。 |
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■温室植物園 5丁目2番にある区の施設。 |
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■四季の香公園 6丁目2番にある。ヤマモモ通り沿いの両側に広がっているこの公園は、1年中様々な花 の香りを感じることができる。光が丘地区の歴史を長い間見つめてきた大きなクヌギとコナ ラが象徴的な巨木広場、30数種のモクレンが咲き乱れるマグノリア園、色とりどりのバラ の花が美しいバラ園、彩りの豊かなフランス式庭園、イタリア式庭園、スペイン式庭園など みどころはたくさんあります。この公園の目印ともなっている三角屋根の「花とみどりの相 談所」では、みどりに関する催し物が開催され、専門の相談員が皆さんの身近な「緑」につ いて相談に応じてい。清掃工場の余熱を利用した温室植物園ではバナナやパパイアなどの熱 帯の植物が1年中楽しめるよ。 |
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■光が丘第一中学校 6丁目5番にある区立校。 |
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■光が丘第五二中学校 7丁目1番にある区立校。 |
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■光が丘第四小学校 7丁目2番にある区立校。 |
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■春の風公園 7丁目4番にある。南北に細長い形をした公園。全体が花とせせらぎで包まれた遊歩道に なっている。40種類ものツツジが植えられた「ツツジ山」、様々な色と形のサクラが競い 合う「サクラの道」、さらには200mに亘って流れる「水のせせらぎ」など、まさに春の 香りを感じながら散策できるんだ。南側には、美しいスイレンの花の咲く水面をみせている 「かえる池」があり、また「芝生広場」には、この公園のシンボルの風車が建っていて、弁 当を広げて楽しむには最適な場所だ。 |
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■光が丘第三小学校 7丁目5番にある区立校。 |
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■ねりかん(東京練馬少年鑑別所) 2丁目11番に、泣く子も黙ると恐れられた少年鑑別所がある。少年鑑別所とは、少年法 17条1項2号の規定で送致された少年を収容するとともに、家庭裁判所の行う少年に対す る調査及び審判並びに保護処分及び懲役又は禁錮の言い渡しを受けた16歳未満の少年に対 する刑の執行に資するため、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的知識に基づいて 少年の資質の鑑別を行う施設をいう(少年院法16条)。なお少年法第17第1項2号は観護 措置として少年鑑別所に送致できる旨を規定する。 まあ不良・非行の少年少女収容所だ。血気盛んな年頃だから、跳ねっ返り者、お転婆者は 昭和30年代に子供たちの間で「ネリカン・ブルース」というのが流行ったが、「可愛い スウチャン」の替え歌だった。 1.人里離れた塀の中 1.人里離れた寒いとこ この世に地獄があろうとは こんな所があろうとは 夢にも知らない娑婆の人 夢にも思わぬ娑婆の人 知らなきゃおいらが教えようか 知らなきゃおいらが教えましょ 2.身から出ました錆びゆえに 2.身から出ました錆ゆえに 厭なポリ公にパクられて 嫌なポリコにパクられて 手錠かけられ意見され 手錠はめられ意見され 着いた所は裁判所 着いた所が裁判所 3.鬼の検事に蛇の判事 3.青いバスへと乗せられて 付いた罪名は傷害罪 ゆらりゆらりと行く先は 廊下に聞こえる足音は その名も高き練馬区の 地獄極楽分かれ道 東京少年鑑別所 4.青いバスに乗せられて 4.父さん母さん許してね 揺られ揺られて行く先は これから真面目になりますと その名も高き練馬区の 言った意見も上の空 東京少年鑑別所 可愛いあの娘の事ばかり 5.薄い青テン着せられて 5.小さな窓から空見れば 硬いベッドに寝かされて あの星あたりが女(すけ)の家(やさ) 三度の飯も麦しゃりで スケちゃん今頃何してる 食っちゃ寝、食っちゃ寝の鑑別所 写真片手に目に涙 6.格子の窓から空見れば 6.雪がちらほら降ってきて 鳥はさえずり花さえも 眉を書く手がかじかんで 二度とここへは来るなよと 思い出すのは故郷を 俺に言うように諭すように 不良と呼ばれて捨てた夜 7.新入り新入りと馬鹿にされ 7.一年三月の刑終えて 便所掃除や床掃除 やっと出ました、娑婆の空 三度の食事も二度、一度 愛しい母さん土の下 夜は涙で頬濡らす 可愛いあの娘は他人(ひと)の妻 8.余りの辛さに耐えかねて 8.北の酒場を振りだしに ぶくろ(池袋)の駅までずらかれば 転々運命のハズレクジ 張り込み看守にぱくられて 今度こそはとこの町も もとの練馬に逆戻り どうやらハンパの吹き溜まり 9.一年三月の刑終えて 9.ヒロシ、ケンぼう、のりちゃんと やっとの重いで娑婆に出りゃ さらさら恨みはできないが かわいいスケちゃん人の妻 一緒になる気もないのなら おいら一人で男泣き 何で汚した、惚れさせた 10.父さん母さん許してね 10.二度と会えない二親と これからまじめになりますと 晴れて会うのは夢の中 誓った言葉も上の空 布団被って十六の またも踏み入る馬鹿の道 初なあの日に返りたい 11.いつか来る春、来ない春 いつか来るやら、来ないやら 身から出た錆バチだけど 明日天気にしておくれ せめて天気にして 替え歌であれば、歌詞はこの他にもある。また堺市にある大阪少年鑑別所でも歌われてい るらしい。鑑別所の音楽授業で指導する正歌ではないので在籍した総ての生徒が歌えるとは 限らない。また口伝えで伝わっていくので、人によってはメロディが原曲を懸け離れている ものもある。記憶に頼る歌なので、順番や部分々々の歌詞は異なる場合がある。だからこれ が正統だという歌詞はない。最初の作詞者も不明だ。 因みに「可愛いスウチャン」は、作詞・作曲不明の兵隊のざれ歌。 1.お国の為とは言いながら 人の嫌がる軍隊に 召されて行く身の哀れさよ 可愛いスウチャンと 泣き別れ 2.朝は早よから起こされて 雑巾がけやら掃き掃除 嫌な上等兵にゃ苛めめられ 泣く泣く送る日の長さ 3.乾パンかじる暇もなく 消灯ラッパが鳴り響く 五尺の寝台 藁布団 ここが我等の夢の床 4.海山遠くへだてては 面会人とて更になく 着いた手紙の嬉しさよ 可愛いスウチャンの 筆の跡 |
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■サクラの名所 城北中央公園 1丁目にある。区の東部、板橋区に跨り、石神井川の左岸台地に広がる公園だ。昭和17 年に防空緑地として位置づけられ、昭和32年から「上板橋公園」として開園し、立教大学 グラウンド跡地などを併せて昭和45年に現在名に改められた。緑豊かな木々に囲まれた野 球場、競技場、テニスコートでは、のびのびとスポーツを、また、貸自転車を利用してサイ クリングを楽しむこともできる。 園内はサクラが300本以上植えられ、隣接する石神井川河畔には約2kmに渡ってサク ラが植樹されており、開化期には本当に鮮やかな装いを見せてくれる。このサクラは昭和9 年(1934)に平成天皇の誕生を祝して植えられたものだ。 |
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| ●栗原遺跡の古代人住居跡 1丁目7番にある。栗原遺跡は、昭和30年に立教学院総合運動場造成の際に、発掘調査 された遺跡で、この辺りの旧小字「栗原」を遺跡名としたものだ。昭和30〜31年にかけ ての調査では、赤土(関東ローム層)の中から、黒曜石製の打製石器が出土し、今から1万2 千年以上前の旧石器時代から、この地で人々が生活していることが判った。また縄文土器が 出土すると共に、弥生〜平安時代の竪穴住居跡が発見されている。この辺りは、石神井川と 田柄川に挟まれた台地で、日当たりもよく、生活に欠かせない水の得やすい土地であったた め、長い間人々が生活していたことが偲ばれる。 復元された住居跡は、8世紀初め頃のもので、昭和32年に東京大学教授藤島亥治郎博士 の設計により建てられた。発掘された住居跡は、地表から約50cmの深さに掘られ、北側 に粘土の竃(かまど)が築かれていた。柱穴は4ヶ所あり、復元の際には、径約21cmの ケヤキ丸太を主柱にし、梁・桁にスギ丸太を用い、茅を葺いて復元している。この復元住居 跡は奈良の都の華やかさに比べ、当時の地方農民の暮らしぶりがどんなものであったのかを 語りかけてくれる。住居跡はこの外に18戸も発見され、ここに集落があったことが判り、 鉄製の鎌、鋸、手斧(ちょうな)、鑿(のみ)などが出土している。しかしいっとくけど、 各地に見られる住居跡の復元家屋は、あくまで現代学者の想像であって、「たぶんこんなも のだろう」という範囲、「絶対これだ」と断定できるものじゃないからね。違うかもしれな いんだよ。 |
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■諏訪神社 2丁目3番にある。今神橋の南の高台にあり今神地区の氏神だ。社殿は大正15年に改築 されたが、昭和53年にまた改装したとある。狛犬、水屋、灯籠など一応整っているが、何 れも明治期のものだ。また右手に稲荷があり、かつては3月の月遅れ初午に「おびしゃ」の 祭りが行われた。雰囲気は地味で村の鎮守らしい佇まい。 |
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| ●おびしゃ 関東地方の新年行事で、特に千葉県の利根川沿いの東葛飾・印旛・香取郡及び九十九里沿 岸の山武郡・長生郡地方で多く行われている。これは、神社の他の種々な祭りに比べると、 行事が行われる場所は、せいぜい神社の中と社殿の前、氏子の家などで、また参加する人数 も、拝殿に入れる程度で行われる極めてファミリーでプライベートな行事といえる。奉射、 奉謝、奉社、備射、備社、鬼射、毘舎、毘沙などの漢字が当てられているが、元々は「御歩 射(おぶしゃ)」が訛ったもので、馬に乗って行われる「流鏑馬」に対し、立ってあるいは 座って弓を射て、ぞの命中度で吉凶や豊作凶作などを占う農村の神事だ。奉射や備社は神事 からきており、また毘舎、毘沙は神仏混淆からきているとされている。今では弓を射ること は少なくなり、単に豊作や安全を祈ったり、村の人たちの酒を酌み交わす場になっていると ころが増えているようで、村の賀詞交歓会、新年互礼会といったところか。 |
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■今神道記念碑 『練馬の歴史』に、田柄川(緑道)の今神橋を南へ渡った2丁目7番の丁字路の角に、享 保7年(1722)建立の庚申塔と並んで立っている、と書いてあるので確認に行ったが、 住宅地図にも乗ってないし、見当たらなかった。ここから仲町小学校脇を通っている道が今 神道だという。これが酷い悪路だったので、大正15年に土地の人たちが話し合って改修す ることにしたが、土地の人の手に負えるものではなく、そこで近衛工兵大隊や青年団の力を 借りて、3ケ月を要して漸く完成に漕ぎつけた。このためこの道を「工兵坂」と呼ぶように なったとはあるが・・・碑文の説明だが。地図で追う限りこの道は行き止まっている。どこ に行くんだろうネ。 |
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■仲町小学校 2丁目18番にある区立校。 |
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■男寺/医王寺不動院荘厳寺(しょうごんじ) 3丁目14番にある真言宗豊山派の寺。創建の歴史は古く、天正年間(1573〜159 2)以前と推定されている。最近この寺に安置されている無量寿仏(阿弥陀如来)の胎内か ら文書が発見された。寛文十年(1670)に住職雪峻叟が記したもので、文書には、この 寺に新しく無量寿仏を造立するに当たって喜んで協力した多くの信者名が書かれている。昔 この寺は男寺といい、村の男が死んだ場合は、この寺で弔う仕来りになっていた。女寺は光 伝寺。 |
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■女寺/大明山無量院光伝寺 3丁目24番にある真言宗豊山派の寺。初めは浄土宗に属していたが、江戸時代に改宗し た。第18世の教海和尚は、正久保橋(旧弥右衛門橋)が腐りやすい木橋であったので、私 財を投げ出し、江戸から2人の石工を呼び寄せて堅固な石橋に造り替えるなど、村人の徳を 集めた人物として知られている。その時の親柱は、今もこの寺の境内に保存され、和尚の功 績を伝えている。女寺と呼び、女性が死亡した時、この寺で弔った。男寺は荘厳寺。 ●十一面観音懸仏(ひこうかい) 銅造で、像高11.8cm。台座まで含めて一鋳(いっちゅう)で、厚みは03〜05cm cm。頭体部とも前面だけを表し、背面は造られていない。後頭部および蓮華座背面左右に は、鏡板を取り付けるためとみられる 長さ0.5cm の突起があり、天冠台左右両耳上部に は、垂飾(すいしょく)を付けるための穴が開けられている。鏡板および別鋳(べっちゅう) で造られていた垂飾・持物(じもつ)の蓮華は亡失している。表面には、火で焼けたと思われ る痕がある。また左膝に鍍金(ときん=メッキ)の痕が見られることから、全体に鍍金が施さ れていたと推定される。やや細身で均整がとれた姿、張りを強調した頬骨や少し角ばった顎 を持つ顔、厚みのある脚に13世紀後半頃の特徴を読み取ることができる。鎌倉時代の懸仏 の特色を備えた仏像だ。 ●地蔵菩薩立像 像高約64cmで、檜の寄木造。肌が漆箔、衣が古色塗り、玉眼が嵌入されている。胎内 墨書から神田多町壱丁目の仏師冨慶法橋の作であることが判った。また納入された木札から 正徳五年(1715)「武州下練馬湿化味邑(しっけみむら)普妙山光伝寺」の法印慧龍が住 持の時に、木下作左衛門ほか46名が施主となり造立されたものだ。 ●閻魔十王像 十王(じゅうおう)、倶生神(ぐしょうしん)の阿形・吽形、奪衣婆(だつえば)、鬼卒 (きそつ)の阿形・吽形、檀拏幢(だんだとう)・天秤(てんびん)から構成される。地蔵菩 薩立像に納められていた木札から、正徳元年(1711)春に「十王造立」を思い立ち、正 徳四年(1714)12月に十王と倶生神が造立されたことが判る。十王は寄木造りで、彩 色および漆塗りが施され、玉眼が嵌入されている。台座裏の墨書から大正3年に彩色が塗り 直され、背部の金泥書から昭和11年に修理されたという。 倶生神以下の5躯・2基は、いずれも木造で彩色が施され、そのうち倶生神・奪衣婆には 玉眼が嵌入され、鬼卒・檀拏幢は彫眼が施されている。奪衣婆・鬼卒・檀拏幢・天秤は、銘 記はないが、作風や技法構造の特色から、十王・倶生神と合わせたものとして、ほぼ同時期 に制作されたとみられる。 これらの仏像群は、かつて光伝寺で10月18日に行われていた十夜法要の際に、地域の 人々に参詣されたと伝えられ、その行事は形を変えてはいるものの、現在も継続されている よ。胎内墨書や納入木札の銘文から由緒が判り、地域の人々との関わりが深い資料だ。 ●下練馬の三十三所観音菩薩像 檜造り。33躯の内1躯は像高18.2cm、総高26.6cm、残りの32躯は像高5.6 〜9.2cm、総高9.2〜13cmだ。台座を含めてそれぞれ一材から彫り出されている。 像は彫眼が施され、表面の肉身部は金泥、衣は古色塗りが施されている。各像の台座底に は墨書で、台座背面には朱漆書で「一」から「三十三」までの数字が記されています。さら に「一」から「三十二」までの数字が記された各像の台座背面には下練馬村の2名ずつの氏 名、「三十三」の数字が記された像には昭和11年に地域の人から浄財の寄付を募って修理 をした旨が朱漆書されている。 観音三十三身に基づく三十三所観音の本尊の姿を一堂に集めて造立したもので、制作当初 の銘はないが、技法や作風などから江戸期のものと見られる。これらの仏像は、かつて観音 山といわれた地域(現羽沢3丁目付近)で信仰されてきたと伝えられ、明治7年の「寺院什 器録」から明治初期には光伝寺に所在したことが確認できる。 ●高野槇 区指定の巨木が本堂前に高く聳え立っている。寺の話によれば、創建当時に植樹したもの ではないかといい、推定樹齢300年以上の古木だ。 ●子育地蔵 初め石神井河畔に建てた。河川改修で移設された。寛政八年(1796)に下練馬村湿化 味講中16名が建立したもの。 |
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■氷川台駅 3丁目40番にある東京メトロ有楽町線の停車場。 |
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■馬頭観音 4丁目26番にある。馬頭観音は区内に数多くある。いずれも馬の菩提を弔い、馬の安全 や旅の平穏を祈願するためのものだ。この碑は文字で馬頭観世音碑と書かれ、四面に各地へ の里程が刻まれている。数多い里程や地名から現在より北後方の旧道の交通要所にあったと 推測される。 |
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■氷川神社 4丁目47番にある町名の由来となった鎮守。長禄元年(1457)渋川氏が足利氏との 戦いの途上、武運長久を祈って建てたと伝えられている。古くからの下練馬村の鎮守で、社 伝によると、もとは石神井川付近の、泉が湧きでていた「お浜井戸」のところにあり、毎年 4月9日の春祭にお浜井戸まで、神輿の渡御が行われた。これを「お里帰り」という。現在 でも「鶴の舞」などの伝統的行事と共に地域の人々から親しまれている。 |
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| ●鶴の舞 昔は毎年行われていた「お里帰り」も、昭和50年ごろから参加する氏子の減少で3年に 1度になったが、4月9日(現在は4月の第2日曜日)の春祭りの日に、神社のご神体が神 輿に乗って「お浜井戸」へお里帰りをする。当日は、約80人ほどの紋付袴や烏帽子に白装 束で正装した氏子が神輿を担いで道中をする。この神事を一目見ようと集まった地域の人た ちで沿道は埋め尽くされる。一行は「さかきばんや・・・」で始まる御供道中歌を歌いなが ら進む。この歌は、昔、神社の辺りから見えた当時の春の様子をあらわした道中歌で、全5 首からなり、道中の場所ごとに歌う歌が決まっているのだ。お浜井戸に着くと、宮元によっ て雌雄2羽の鶴の舞が行われる。この舞は、紋付羽織袴に竹で作った先の尖った冠を被った 2羽の鶴が神輿に向かって一礼し、揃って羽織の裾を両手で持ち上げて、ドコン、ドコンの 太鼓の音とともに首を大きく回し、次第に小さく振って舞うもの。鶴は祭神と水神の化身と され、子孫繁栄、家内安全、五穀豊穣をもたらすものとされている。舞が終わると再び行列 は神社へと戻っていく。このあと一同は、鶴の精に擬して、白酒を酌み交わし、無病息災、 長寿平穏を願い、こうして祭りは終わる。この民俗芸能は「氷川神社宮宿鶴の舞保存会」が 伝統を守る努力をしている。守りに入っていることが悲しい。 |
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| ●神輿渡御行列図絵馬 「お浜井戸の里帰り行列」を彩色豊かに描いた絵馬。画面の大きさは横143cm×高さ 56cm。サーベルを持った制帽制服姿の巡査の先導で、神輿を中心に石神井川沿いを行列 する50名余りの姿が克明に描かれている。明治43年に奉納されたもので、当時の祭りの 様子を伝えている。お浜井戸の里帰り行列は、現在も3年に1度行われている。 |
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| ●狛犬 向かって左側の吽形像台石背面に天明七年(1787)銘があり、区内の神社に残る最も 古い狛犬だ。像高60cmの石造物。その像容は巻毛が短く表現され、簡潔で端正な造りと なっている。 |
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●角柱型水盤 高さ61cm×幅50cm×奥行46cmの石造りで、正面に延享四年(1747)下練 馬上宿の銘がある。この型の水盤は少なく、区内の神社でも唯一のもので、境内末社の氷川 稲荷神社前にある。 |
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■比丘尼と比丘尼橋 幕末の頃やや上流の弁天池の向かいにあった真福寺に尼僧が来住し、規則により名主の莊 善兵衛が面倒を見た。尼さんてぇと男心をくすぐるらしく、相当に美しい尼僧でもあったも のか、やっかみ半分から善兵衛の恋物語に仕立てられた。やがて年去り月行って二人は老い て亡くなり、善兵衛の旧宅を買った者が重い病に罹ってなかなか治らない。そこで祈祷をよ くする者に見てもらったところ、「善兵衛と尼さんの供養をしろ」というので二人の霊を懇 ろに弔った。するとどうだ。昨日までの病が嘘のように立ちどころに癒えちゃったという噂 話。 昭和46年そんな話を聞いていた役人が新しく架けた際にふと思い出して「比丘尼橋」と 命名した。役人だって稀に粋な人はいるもんさ。橋は今前後の道路を断ち切られて一般には 利用価値のない白子川比丘尼橋地下調節池施設へ渡る専用橋となってしまった。この辺りは ほんの20年くらい前までは純農村だった。すさまじい変わりようである。少し西南の方に 東映東京撮影所があるくらいだから、どれほど自然に恵まれたところか察せられるだろう。 莊家はなお大泉4丁目に健在だ。 比丘尼橋は中央区にもあった。江戸前島掘割(外濠川)から八丁堀に抜ける京橋川に架か り内堀通りを渡した城辺橋の俗称だ。この比丘尼は尼さんではなくて尼の旅装をしたコスプ レ売春婦で夜鷹の一種。この橋の辺りに出没したことから橋がそう呼ばれた。広重の浮世絵 にもそう銘打った一枚がある。この比丘尼橋は撤去せずに埋却していたが、平成13〜4年 に掘り返して撤去した。こんもり盛り上がっていた道路は撤去後は何かえぐれたように感じ る。また防衛庁の向かいに比丘尼坂があるがこれはどうやら紀伊国坂に対する尾国坂だそう だ。現防衛庁のところは昔、尾張徳川家の上屋敷だった。 |
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■だいこん まんじゅう 2丁目18番にある御菓子司「木村家」の名物。こだわりのこし餡入りの薯蕷饅頭(じょ うよまんじゅう)。たくあんを見立てたクッキー入りの、わっぱ型のお弁当にいれた遊び心 くすぐる一品。 |
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■稲荷神社 3丁目42番にある。むかし谷原村の鎮守は氷川神社だったが、明治大正と人口が増加し たため、昭和の初めの頃氏子を2分し、稲荷神社を鎮守とした。本堂は一つだが稲荷の外、 須賀・御岳の2社が合祀されている。庇を借りた御岳神社の方が有名になってしまった。そ れは増島大傳を開祖先達とする御岳信仰の一山講が盛んだったためだという。境内には、こ の功績を記念して、「一山講先達大傳」と刻まれた記念碑がある。社殿は昭和46に火災に 遭って、その年の内に再建した。一山講社殿は左手に残っている。 ●御嶽講奉納水盤 石造で、高さ47cm×幅93cm×奥行き46cm。正面に「奉納」の文字と木曾御嶽 神社の神紋(じんもん)が刻まれている。左右側面および背面の銘から、明治7年6月に増 嶋大伝(ますじまだいでん)を先達関口藤八・篠田楢次郎を世話人として、上練馬村の一部 である三丁目(三町目)・八丁堀・俵久保・大門山(太門山)の御嶽講の一員と思われる願 主16人により奉納されたものだ。かつて盛んだった御嶽信仰の地域的な広がりがわかる資 料だ。 |
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■富士見台小学校 4丁目16番にある区立校。 |
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■御符内并村方日記 1丁目の内田義康家が所蔵する。この地区に内田家は多いよ。 |
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■平和台図書館 1丁目36番にある。 |
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■平和台体育館 2丁目12番にある。 |
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■下練馬村役場跡 3丁目22−11、開進第一小学校前にあった。昭和3年町役場→同7年板橋区役所練馬 出張所→同18年東京都になって板橋区役所練馬支所→同22年練馬区役所第二出張所と変 遷し、同50年早宮1丁目の現在地に移転した。 |
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■御嶽神社・稲荷神社 4丁目2番にある。 |
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■南大泉図書館・青少年館 1丁目44番にある。青少年の地域の学習・レクリエーションの拠点として、南大泉青少 年館の建て替えに伴い、新たに図書館を併設し、平成5年6月に斬新なデザインで生まれ変 わった。1階が図書館で、2階が青少年館となっている。図書館・ヤングコーナーでは、青 少年に人気の高い図書やコミック、CDが充実しており、また青少年館では、若者向けの音 楽練習室や誰でも楽しめるレクリエーションホール・和室などを設置している。 |
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■大泉第二小学校 4丁目29番にある区立校。 |
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■古刹 西中山妙福寺 5丁目6番にある日蓮宗の寺。本尊は一尊四士。開創は嘉祥三年(850)天台宗の慈覚 大師円仁で大覚寺と号した。鎌倉時代に日高・日祐上人の巡錫で、元亨二年(1322)日 祐上人の説法により日蓮宗のに改め、法種山妙福寺と号した。その後「西の中山」と俗称さ れたことから西中山と改号した。天正年中(1573〜92)には寺領21石を与えられ、 徳川家からは朱印状を頂戴した。現在3代家光〜14代家茂までの写しが残っている(※な ぜ写しなのかというと、明治維新で将軍家のありがたさを忘れさせるために、新政府は徳川 家の朱印状を総て没収して焼却したからだ。大久保利通という男はそういう男だったのだ) かくて寺はこの地域での日蓮宗の中心となった。そのためか大泉はほとんどの寺が日蓮宗 だ。境内には祖師堂(正面)、本堂(祖師堂右)、鬼子母神堂(仁王門を入って右)、三十 番神堂(祖師堂左)、鐘楼(中央)、庫裏(本堂左)仁王門、総門などが整い、静かな趣の ある名刹となっている。中でも旧庫裡は元禄年間(1688〜1704)の建築といわれ、 都内でも古い建築物となっている。とくにその天井の骨組みは「からかさ造り」と呼ばれる 珍しい骨組で、現在もその遺構が残されている。また日高の銘のある祖師木像や江戸時代の 古文書、「福徳元年辛亥三月廿三日」と刻んだ異年号板碑(福徳元年は私年号で、延徳2年 (1490)に当たる)などが所蔵されている。総門は巨木2本立木の幹をそのまま加工し てある。また祖師堂前の裸で「喝」を入れている日蓮像はなんと長崎市の平和像で有名な北 村西望の制作だ。だから迫力あるよ。 ついでながら「東の中山」は総武線下総中山駅北にある法華経寺。こっちは国宝で、これ がまた茅葺きのいい寺なのよ。必見、必見、一度は御参なれ。 |
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| ●梵鐘 本来修行僧に集合を知らせる合図として鳴らした。後に時刻を知らせたり、大晦日 に除夜の鐘として使用されるようになった。妙福寺の梵鐘は銅製で、総高1m30cm、口径 77cm。「寛文四年(1664年)鋳工田中大和守藤原重正」の銘があり、江戸時代初期の 梵鐘としては、その作柄が優れている。鐘の周囲には「不受不施(ふじゅふせ)」に関すると 思われる文字が刻まれている。不受不施とは「法華を信じない者の施しを受けず、また施し もしない」という日蓮宗の教義だ。 |
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■お松塚 5丁目6番、大泉橋のすぐ西、追分のところの並木石材の敷地にあった。旧住所は南大泉 町740番地。 この塚のことを、土地の古い人たちは「お松どん」と呼んでいた。妙福寺の南の保谷への 通りに面して立つ一本松の下の小さな祠だった。昔ここは土支田村と小榑村との村境で、こ こに何処から来たか判らない老婆が住み着いた。花嫁行列がそこを通った時のことだ。お松 婆さんが突然行列に襲い掛かり、折角の婚礼を滅茶苦茶にしてしまった。そのことがあって から花嫁行列はここを通らなくなってしまった。という話が伝わっている。昔は村の娘が他 村に嫁に行くことを酷く嫌い、村の若者たちによって村境でしばしば妨害行為が行われた。 娘を奪って犯してしまうということもないではなかった。それがいつの間にか、お松婆さん の所為にされたらしい。そういう嫌な話の残っている土地持ちはこれを大変気に病んで、悪 霊を供養しようとして建てたのが、この祠だという。 塚は個人の所有地にあって取り壊したため、供養塔は5丁目6番の児童遊園内の南側に移 設してある。平成18年のGWに偵察に行って供養塔にお参りして、関町図書館で旧地を、 地図とともに確認してきた。4丁目9番の白子川に松殿橋が架かっている。これは関係ない のかなぁ? |
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■大泉第六小学校 5丁目25番にある区立校。 |
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■大泉交通公園 6丁目16番、子どもたちが乗り物を使った楽しい遊びを通じて、交通道徳や交通知識を 身につけられるよう、昭和52年1月に開園した。交通標識や信号機などの他に、小川や芝 生の小山、ベンチなどがあり、休日には、家族づれで賑わう。また樹木も綺麗に配列され、 初夏にはモッコウバラのトンネルが花ざかりとなり、クスノキ、ケヤキ、フジなどが涼しい 緑陰を提供してくれる。 |
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■南が丘小学校 2丁目13番にある区立校。 |
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■石神井小学校 4丁目29番にある区立校。 |
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■南が丘中学校 3丁目9番にある区立校。 |
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■榎本家長屋門 4丁目13番、笹目通りの観蔵院交差点を西に入って、最初の道を南に下ったところにあ る。入母屋造り鉄板葺き、大正時代まで茅葺きだった。長屋門とは同時に二つ以上の目的で 使用する建物の中央部を通路・門とし、両脇に部屋を持つ門をいう。農家では部屋を納屋に 用い、武家では門番の控え所、下人などの中間部屋などに使用する。門扉は観音開きの板戸 が立て込まれ。脇間もしくは門扉に潜り戸が付く。ここの門は外壁漆喰下見板張り、軒裏は 三方せがい造りだ。江戸時代末期の建築と推定される田中村名主役宅門。大正13年の火災 により以後の屋根は、茅(かや)から鉄板にふき替えられている。 |
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■慈雲山観蔵院曼荼羅寺 4丁目15番にある真言宗智山派の寺。豊島88ヶ所の81番。本尊は不動明王。本堂の 脇に「日の出薬師堂」がある。墓には元和元年(1615)という銘もある古刹だ。入口の山 門が、住居あるいは催し場と一体構造で造られている。一見して旅館か?と見紛うばかり。 山門からまっすぐ進むと薬師堂、その右は寺務所・庫裏。左が本堂で、立派なお堂。その奥 は墓地。 ●筆子碑 石造で、総高82cm、像高54cm×幅28cm。正面に聖観音立像が浮彫りされ、正 面向かって右側に「権大僧都法印日傳(ごんのだいそうずほういんにちでん) 施主筆子中」 正面向かって左側に「宝暦十二(1762)壬午(みずのえうま)十一月十五日」と陰刻され ている。家塾を開いていた権大僧都法印日傳が没した際、師匠を偲んで筆子(教え子)たち が建立したもの。日傳については詳らかでないが、観蔵院で寺子屋(家塾)を開いていたと 伝えられている。区内で古い部類に入る筆子碑だ。 ●曼荼羅美術館 平成14年、慈雲山曼荼羅寺観蔵院の施設として、仏教の教えの発信と地域文化の発展を目 指し、多くの人々の喜捨によって開館の運びとなった |
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■南田中天祖稲荷神社 5丁目14番にある。 |
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■南田中小学校 5丁目15番にある区立校。 |
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■十善戒寺 5丁目20番にある真言宗の寺。割と広い境内に本堂・庫裏・幼稚園が一体で建つ。閉ざ された寺で入るを頑なに拒む。まるで日蓮宗の不受不施派の如くある。 ●十善戒とは 不殺生(ふせっしょう) いかなる生き物も、故意に殺傷しない。 不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていない物を、故意に我が物としない。 不邪淫(ふじゃいん) 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。 不妄語(ふもうご) 偽りの言葉を語らない。 不綺語(ふきご) 無意味な、無益な言葉を語らない。 不悪口(ふあっく) 下品な、粗暴な言葉を発しない(他者を中傷しない)。 不両舌(ふりょうぜつ) 故意に、他者を仲違いさせることを言わない。 不慳貪(ふけんどん) 物惜しみせず、飽くことなくモノを欲しがらない。 不瞋恚(ふしんに) どんな時であれ、事であれ、怒らない。 不邪見(ふじゃけん) 因果、縁起を否定するモノの見方をしない。 出家・在家を問わず説かれたもので、本来は「戒」というよりもむしろ「道」として経典 に説かれた。実際、十善戒は、殆どの経典の中では単に「十善(じゅうぜん)」や「十善道 (じゅうぜんどう)」といわれ、或いは「十善業道(じゅうぜんごうどう)」と説かれてい る。十善業道は、サンスクリット「ダシャ クシャラ カルマ パタ」の訳語。ここでは「シー ラ」つまり「戒」という言葉は使われておらず、「道路」を意味する「patha」が用いられて いる。また「クシャラ」は「健康な・完全な・巧みな・(道徳的に)正しい」、「ダシャ」 は数の「10」、「カルマ」は「行為・行ない」という意味だ。たからこれを現代語に直訳 すると「十の正しい行為の道」となり、漢語の「十善業道」が適訳であることが判る。 |
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■八幡社 1丁目7番の西南角にある小っちゃな祠。 |
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■庚申塔 1丁目28番の西南角に、清戸道の石柱とともに建っている。清戸道は現在の大泉駅前通 り。この通りに面して建つ。 |
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■三原台稲荷神社 1丁目32番にある。詳細は不明だが農村らしい神社。 |
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■三原台中学校 3丁目13番にある区立校。 |
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■泉新小学校 3丁目18番にある区立校。 |
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■ガスタンクの神社 敷地内に丁重に祀ってある。世田谷区のガスタンクにも同じような区画あるので、意図的 に祀ってあるようだ。ガス会社だけに爆発防止を祈願したものだろう。とすると秋葉神でも 祀っているのだろうか? 世田谷のガスタンクにも稲荷社が祀ってある。 |
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■真宗会館 1丁目3番にある浄土真宗大谷派東本願寺。外にはそれはそれは丁寧な掲示が沢山。日曜 礼拝は10時〜12時、ありがたい法話があるぞ。親鸞聖人の命日の集いは、毎月28日1 0時〜12時。英語法話会は10月19日。仏教聖典入門講座は、10月17日13:30 〜16:00などなど、そのほか茶道、ピアノ、書道、謡曲、バレエ教室もあるようだ。 |
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■総合体育館 1丁目7番にある。 |
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■延命地蔵 1丁目17番の追分の角地にある。総高1.8mの、蓮華座に載った立ち姿の石地蔵で、富 士大山道(冨士街道)と橋戸道(北原通り→したみち通り)が分岐する場所にある。台石に は、安永四年(1775)に谷原村の念仏講中が建てたことが記されている。台石は道標で もあり、往来の多かった道沿いの延命地蔵のあり方を示すとともに、現在も続く地蔵信仰を 伝えている。 |
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■谷原小学校 2丁目9番にある区立校。 |
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■増島家薬医門 3丁目19番にある。茅葺きの室町時代の館の門はかくやと思わせる。増島家は谷原を開 いた草分けだから、練馬区には多い姓だ。両隣とも増島なので、ここが本家かどうか判らな いが、一門の中でも中心に位置するのだろう。しかしそんなことはどうでもよく門の芸術性 が素晴らしい 調べた。増島家は長命寺を開いた増島重明を祖先とする谷原地域の豪農。門は薬医門。4 本の柱で支えられ、その真ん中には通行できる出入口が1つある。屋根は切妻造り。江戸時 代末期の建築と考えられる。懸魚(げぎょ)や笈形(おいがた)は建築当初の様相を示している が、冠木(かぶき)や垂木(たるき)などは明治期と考えられる部材が多く使われている。当然 茅は新しいので近年葺き替えたものだろう。 薬医門は屋根の棟から真下に本柱がつながるのでなく、中心からずれており、控柱を有す るものだ。屋根が前に迫り出している造りになっている。 |
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■北原小学校 4丁目9番にある区立校。 |
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■谷原中学校 4丁目10番にある区立校。 |
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■土支田北野神社 6丁目20番にある天満宮。 |
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