芥川龍之介 1892[明治25]年3月1日〜1927[昭和2]年7月24日

青字は未完、緑字は遺稿。

1892年(明治25年)
 3月1日、東京に生まれる。辰年辰月辰日辰の刻に生まれたので「龍之介」と命名されたそうです。すごい命名センスです。辰だったからよかったようなものの、巳や子だったら「蛇之介」や「鼠之介」になっていたところでした。よかったですね、辰で。
生後まもなく母が精神に異常をきたしたため、伯母に育てられる。

1913年(明治45年/大正元年) 20歳

 作品: 「大川の水」

1913年(大正2年) 21歳
 東京帝国大学英文科に入学。学生時代のエピソードは「あの頃の自分の事」に書かれています。

1914年(大正3年) 22歳
 第3次「新思潮」を久米正雄・菊池寛・山本雄三らと発刊(2月)。
 級友の紹介で夏目漱石の門人となる(12月)。

 作品: 「老年」 「青年と死」 「ひょっとこ」、William Butler Yeatsの「春の心臓」を翻訳

 内外の情勢: 第一次世界大戦開戦

1915年(大正4年) 23歳

 作品: 「仙人」 「羅生門」

1916年(大正5年) 24歳
 第4次「新思潮」を久米・菊池らと発刊。初号に掲載された「鼻」が夏目漱石の激賞を受ける。  大学を卒業。横浜の海軍機関学校の英語教師となり、鎌倉に転居。
 ちょっと待って私も芥川から英吉利語教わりたい!芥川に関係代名詞説明してほしい!板書する時たまにスペル間違っててほしい!それ指摘したい!!芥川はやる気なさげだといい!何か質問されても聞いてないといい!!
 落ち着け、自分。
 横浜での英語教師時代の彼自身を主人公(堀川保吉)とした小品が「堀川保吉シリーズ(勝手に命名)」で、大正11年[1922年]から13年にかけていくつか書かれています。

 この年の12月9日、師である夏目漱石が死去。

 作品: 「鼻」 「孤独地獄」 「虱」 「芋粥」 「猿」 「手巾」 「出帆」 「煙管」 「煙草と悪魔」 「MENSURA ZOILI」 「運」 「道祖問答」 「葬儀記」

1917年(大正6年) 25歳

 作品: 「貉」 「偸盗」 「二つの手紙」 「或日の大石内蔵助」 「片恋」 「戯作三昧」 「首が落ちた話」 「西郷隆盛」

 内外の情勢: ロシア革命

 
 大正6年、田端の家で。和服に下駄の涼しげなスタイル。

1918年(大正7年) 26歳
 塚本文と結婚。

 作品: 「袈裟と盛遠」 「地獄変」 「開化の殺人」 「奉教人の死」 「枯野抄」 「あの頃の自分の事」 アナトール・フランス著、ミセス・ジョン・レーン英訳「バルタザアル」を翻訳

 内外の情勢: 米騒動

1919年(大正8年) 27歳
 海軍機関学校を辞職、大阪毎日新聞社社員に。

 作品: 「開化の良人」 「きりしとほろ上人伝」 「蜜柑」 「沼地」 「疑惑」 「路上」  「後世」 「芸術その他」 「鼠小僧次郎吉」 「葱」

 内外の情勢: コミンテルン設立、パリ講和会議

1920年(大正9年) 28歳

 「老いたる素戔鳴尊」 「東洋の秋」 「女」 「杜子春」 「南京の基督」 「捨児」 「女」 「影」 「女体」 「妙な話」 「山鴫」 「奇怪な再会」 「アグニの神」

 内外の情勢: 国際連盟発足

1921年(大正10年) 29歳
 中国を旅行。

 作品: 「奇遇」 「母」 「上海遊記」 「好色」 「LOS CAPRICHOS」 「藪の中」 「神々の微笑」 「将軍」

 
 大正10年撮影。爽やか好青年。

1922年(大正11年) 30歳

 作品: 「トロツコ」 「仙人」 「一夕話」 「庭」 「六の宮の姫君」 「魚河岸」 「お富の貞操」 「百合」 「三つの宝」 「わが散文詩」 「漱石山房の冬」

 日本共産党結成、ムッソリーニ政権発足

1923年(大正12年) 31歳
 「文藝春秋」創刊号において「侏儒の言葉」連載開始。

 作品: 「猿蟹合戦」 「猿蟹合戦」 「或恋愛小説」 「保吉の手帳から」 「白」 「子供の病気」 「お時儀」 「あばばばば」 「一塊の土」 「糸女覚え書」 「不思議な島」

 内外の情勢: 関東大震災(9月1日)

1924年(大正13年) 32歳

 作品: 「文章」 「第四の夫から」 「寒さ」 「文放古」 「十円札」 「大導寺信輔の半生」

 
 大正13年、自宅の書斎で。いやいやそんな上目遣いされたらドキドキするから!(落ち着け)

1925年(大正14年) 33歳

 作品: 「軽井沢から」 「馬の脚」 「」 「温泉だより」 「雪」 「詩集」 「ピアノ」 「海のほとり」 「死後」  「年末の一日」 「虎の話」 「湖南の扇」

 内外の情勢: 男子普通選挙制、治安維持法施行  

1926年(大正15年/昭和元年) 34歳
 神経衰弱と不眠に悩まされ、神奈川県の鵠沼で妻子とともに静養。

 作品: 「追憶」 「カルメン」 「」 「鵠沼雑記」 「春の夜」 「点鬼簿」 「彼」 「彼 第二」 「貝殻」 「僕は」  「或社会主義者」

1927年(昭和2年) 35歳
 致死量の睡眠薬を服用し自殺。命日の7月24日は「河童忌」と呼ばれ、夏の季語にもなっています。

 作品: 「夢」 「玄鶴山房」 「春の夜は」 「河童」 「たね子の憂鬱」 「古千屋」 「闇中問答」 「歯車」 「文芸的な、あまりに文芸的な」 「続文芸的な、あまりに文芸的な」 「蜃気楼」 「西方の人」 「続西方の人」 「都会で ―或は千九百十六年の東京―」 「耳目記」 「しるこ」 「本所両国」 「素描三題」 「或阿呆の一生」 「手紙」 「機関車を見ながら」 「或旧友への手記

 
 昭和2年5月撮影。芥川の写真の中ではおそらく最もよく知られているもの。

 
 芥川最後の写真。

 
 本人の遺言により、かねてから親交のあった小穴隆一が描いたデスマスク。

 
 芥川の自殺を報じる新聞記事(昭和2年7月25日の東京朝日新聞)。


 表紙