月刊アニメージュ 2009年3月号
第118回この人に話を聞きたい  聞き手 小黒祐一郎

今月の「この人」――山本寛
ここ数年で、もっとも話題になった監督ではないだろうか。
「フルメタル・パニック?ふもっふ」等でのパワフルな仕事で頭角を現した彼は、
ヒット作『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』に参加。
彼が演出したOPやEDのダンスは、多くのファンの拍手喝采を浴びた。
エッジが効いた作品づくりが印象的な彼だが
「自分を出したいとは思っていない」と語る。
最新作『かんなぎ』も、そういったつもりで作ったという。その真意は?

――今日は『作り手としての自意識』をキーワードにして話を聞ければ、と思います。
最新作の『かんなぎ』は、自身では、どういうスタンスで作られたんでしょうか。

山本:かなり自意識を押し殺した作り方でした。
元々作品の中で、自意識を出してるつもりはないんですよ。
5話で僕が出演して、ちょっと騒ぎになりましたけど、
あんなのが出張った行為だとは思ってないんです。
原作者である武梨えりさんの、あのごっつい裸のキャラクターがあるじゃないですか。
原作にああいう内輪受けの要素があるんだから、
『ああ、だったら自分もネタにせねばなるまい』と思って、
倉田(英之)さんと一緒にやってみたわけですよ。
僕にとってあれは……。(注1)

――仕事でやってる(笑)。
山本:はい。自分を出す行為ではなく、作品のネタ作りとして、身を削ってやったんです。
僕の喋り方を聞いてもらったらわかるとおり、あまり滑舌もよくないんですよ。
声にも顔にもコンプレックスがあるんですよね。ぶっちゃけね、インタビューを受けたり、
イベントに出たりするのもあまり好きじゃないんですよ(笑)
でも、敢えて5話でそれをやってみたら、こっぴどくやられましてね(苦笑)。
倉田さんと武梨さんがいじられる事なく、僕だけがいじられて(笑)。
ファンには、『私物化しやがって』と散々言われました。
それを成功だとはいわないけれど、ネタにしてもらったのなら、
まあひとつの成果にはなったと思います。

――旧『妄想ノォト』というのは、ネット上にあったやつですね。
山本:そうです。アレを始めたのは、二つの理由があって。ひとつは、捌け口ですよ。
『このままだったら俺、自分を表現する手段がない』と思ったんです。
本当は作品を作る事で何かを伝えたいんですけど、その場がないとしたらどうすればいいんだ。
『何かをしないと俺は壊れてしまう』と思ってやったというのはあります。
大学時代からずっと機関誌と言えばいいのかな、まあ同人誌ですね。
それで連載を持っていたんですけど、それを書ききれなかったという後ろめたさもあったんですね。
いろんなところで言っている事ですけど、卒論もアニメについて書いて、
『さっぱり意味がわからない』と総スカンを喰らったんです。
確かに自分で読んでもよく分からないものでしたが(笑)
それに関しても『散々頑張って、この程度かよ』という忸怩たる思いがあったんで、
その2つが織り交ざって『妄想ノォト』を書き始めたというのがあったんですけど。

――学生時代に自主制作映画を作られるじゃないですか。
『怨念戦隊ルサンチマン』というタイトルがありますよね。(注3)
ルサンチマンのようなものをモチーフにするのは、ご自身の持ち味なんですか。

山本:『怨念こそパワーだ』というのは半分ネタですけど、半分本気ですね。
僕らの世代って、オタクとしてのコンプレックスが、一番強い世代だと思ってるんですね。
宮崎勤事件から『(新世紀)エヴァンゲリオン』に至るまでの5〜6年に思春期を過ごした連中と言うのは、
自分がアニメ好きである事、オタクである事を誇れない。そういう世代なのかなと思うんですよ。
後になって『萌え』というキーワードが出てきてから、徐々に変わっていったという気はするんですけども。

――『萌え』という言葉を使うことによって、オタクの人が開き直れるようになった?
山本:そう思います。自分のバリアを作るようになったというか。
バリアというか、自分の城を築けるようになった。それは閉鎖的なものかもしれないですけれど、
そこにいれば安穏としていられる。僕らの時代はそれすら作れなかったから、
本当にノーガード状態でやられていたんです。特に、僕が中学生の時に宮崎勤事件があったから、
その時にボコボコやられたんですよ。

――実際に学校などで『お前もオタクだろ』とか言われたんですか。
山本:中学2〜3年かな?なんか話がどんどん逸れてますけど、まあいいや(笑)。
僕は幸か不幸か、通っていた中学でかなり成績はよかったんですよ。
そのおかげで、徹底したいじめには遭わなかったんですけど、
やっぱり風当たりはきつかったですね。僕だけでなく、周りの連中も、アニメ好きである事をひた隠しにするようになっていきました。
その頃から、ルサンチマンを溜め始めたんです。それで大学に入ってアニメーションサークルに入ってみたら、
やっぱりみんな同じような経験をしてたのを確認したんですね。だったらそんな事で真剣に悩んでもしかたないな、と思うようになって、
半ばそれを自虐ネタにして、売りだそうとしてみたんです。僕は関西人なんですが、関西圏ってウケるためなら何でもやって、
みんながウケ手くれたら、それはひとつのステータスになるんですよ。
オタクである事の引け目もあったし、僕達が所属していた京大アニメーション同好会というのは、
大して活動していなかったんですよ。今度はそれで他の大学のサークルに引け目を感じ始めた。
機関誌は作っていたんですけど、まぁそのくらいで。
俺達は一体何やってるんだと。それで『ルサンチマン』の脚本を書いた人間とか、
プロデューサーをやってくれた人間と話をして、『オタクってこんな事ができるんだよ、
京大アニ同でもこんな事ができるんだよっていうのを示したいね』という事になって。
いや、もっと有り体に言えば、モテたかったんですよね(笑)。
何か立派な活動をして、その勢いで女の子が寄って来ればと。

――そのサークルには女の子はいたんですか?
山本:それが、たった1人だったんですよ(笑)。

山本:それも、僕らのコンプレックスとルサンチマンを倍増させる原因となったんです。
かなり勧誘活動もしたんですよ。でも、寄り付かないし、居付かない。
その頃、雪だるまプロという映画サークルが、僕らに興味を持ってくれて、
ちょっと交流するようになったんですね。雪だるまプロというのは厳然たる映画サークルで、
実写映画を撮ってるんですけど、そこの上映会には女の子もいっぱい来るわけですよ。
その上映会に僕達も招待されて行ったんですけど、非常に肩身の狭い思いをしたんです。
僕らは、僕らで上映会やってたんですけど、客が内輪だけなんですよ。
実写のサークルは、オシャレな女の子も呼べるような上映会をしていた。
『なんだこの差は!』というのを痛感したんですね。それが直接的なきっかけだったかな。

――それが『ルサンチマン』に繋がるんですね。
山本:そうですね、それが直接的なトリガーでした。「アニメをやっているのと、
アニメ以外をやっているのではこんなに違うのか」という極端な考え方を持ってしまった。
だけど、それを認めたくない。何か一矢報いたい。じゃあ、俺たちもオシャレな実写映画を撮るのか。
いや、それはオタクのプライドが許さない。そんなことをしてウケたとしても、それは俺達のアイデンティティに関わると。
じゃあ、やっぱりガチにオタク的な映画を撮ろう。結果。アニメーションじゃなく特撮映画になったんですけどね。
僕らは『この世に忘れられて』というアニメーションとしてちょっとまとまった作品をすでに作っていて、
お世辞にもいい出来ではなかったけれど、第1回強と映画祭の学生映画部門のコンペに出して、審査に通ってるんです。
まあ、それはおいといて、アニメーション映画は1本撮っていて、そのあとに、簡単な特撮技術、つまり、ぴょんとジャンプしたら次の瞬間消えてるとか、
逆回しして飛び降りているのを飛び上るようにしてみおたりとか、
そういったよくあるバカ映画の方向に楽しさを見出していたんですね。
それはDAICON FILMの影響がもの凄く大きいと思うんですけど(注4)。それで、本格的な特撮をやりたいという気持ちと、
『そうしてアニメと実写でこんだけウケが違うんだ!』という想いがドッキングして……、
数十人規模のスタッフ・キャストを動員して、『怨念戦隊ルサンチマン』という1本の映画を撮る事になったんですね。
で、これがウケたんですよ。ここまでウケるとは思わなかったくらいウケた。
まあ、同じ事を『ハルヒ(涼宮ハルヒの憂鬱)』で感じるんですけどね。
『怨念戦隊ルサンチマン』は完全に狙って作ったんです。本当にウケたいと思った時は、
僕はマーケティングをするんです。どんなものがウケるのか?どこまでの範囲ならウケるのか?を調べるんです。
『ルサンチマン』に関しても、DAICON FILMの『愛国戦隊大日本』をはじめとしたアマチュア特撮作品を、
オタクっ気のない友人に見せたんですよ。そしたら、バカウケするんですよ。

『面白い面白い、ビデオ貸して』という反応があったんですね。
それで『あ、この系統ならウケるんだ』という確信はあったんです。で、リサーチした結果を基にして、
できるだけ一般にウケる要素を取り入れて『ルサンチマン』を作ったら、やっぱりウケた。
京大の学際で4日間かけたんです。最初のうちはそんなに入らなかったんだけど、
最終日の最終上映回には立ち見が出るほどになったんです。それが僕の原体験にはなっていますね。

――その成功が、後の創作の動機になっている?
山本:まぁなっていますね、いちばん大きいのは、『ルサンチマン』って大事だなという事で(笑)。
これは僕の勝手な解釈ですけれども、『エヴァンゲリオン』という作品を、僕らは同時期に熱狂して観たんですけど、
あれもいわば庵野(秀明)さんのルサンチマンなんじゃないかと。僕らが同じレベルで語るのは不謹慎だと思うんですが、
やっぱり根は一緒かなと。当てたいであるとか、モテたいであるとか、アニメを世界に認めさせたいとか、
そういう動機がパワーを生み出すんだというのを、僕達も実践して経験したんですね。
プロになってからでも、それは忘れてないです。何かしら社会や世間に対して、物申すというのかな、
抗っていくのはエネルギーになっていると思っています。

――プロになってからの話に戻りますね。京都アニメに入って、演出を始めて、さっき話題になったように、
演出家として仕事がない時期があった。それでは『俺、デキるぜ』と思ったのはいつぐらいなんですか?
山本:『俺、デキるぜ』ですか……。その前に、もう一段階あるんですよ。
演出をやらせてもらえなかった半年間に何をやったかっていうと、勉強したんです。
それまで勉強してないわけではなかったんですが、映画も、映画関係の本も、拾い読みした程度だったんですよ。
ちゃんと系統立てた勉強をしているかといえば、そうでもなかった。
で、演出をなかなかさせてもらえない半年間というものが、またひとつのルサンチマンになるんですね。
『俺はデキるはずだ』と。でもまあ、バックボーンになるような知識があるかというと、あるとは言えない。
だったら、もう一回勉強し直そうと思ったんです。だから、『妄想ノォト』を始めるのには、もうひとつの意味がありましたね。
勉強の場です。自分の捌け口にするためにも、ネタになるものが必要じゃないですか。
それが映画であったり、アニメであったりしたわけですね。映画、アニメ批評のサイトにしようと思っていたんで、
否応なしに映画を観たわけです。

――『妄想ノォト』は読んでいましたよ。相当観てますよね。
山本:大量に観ました(笑)。そこで初めて小津安二郎を観たくらいなんですよ。そこまで観てなかったんです。
いや、あえて避けてたというのはあるんですよ。小津の技法がどんなものかは、勿論、前から知っていたんです。
観たら、モロに影響受けるんだろうなという予感をしてたんです。で、実際に観て、モロに影響を受けちゃった(笑)。
それ以前は黒澤明であるとか、アニメでいうと宮崎(駿)さんとか、僕のスタイルと違う作風の監督の作品を観ていたんです。
なぜかというと、やっぱり、自分に似合うだろうと思えるスタイルの人の作品を観てしまうと、それと全く同じものになってしまう。
亜流にはなりたくなかったんですね。できるだけそれは避けたかった。亜流といわれるのは、やっぱり悔しい。
いや、詳しいというよりは、『亜流だ』と思われたら、もう仕事が来ないんじゃないかなと思ったんです。
今は、実写の亜流といわれるくらいはいいかと思っているんですが、
当時はそれもヤバいんじゃないかと思っていた。ただ、干されていた半年間は、亜流であろうがなんだろうが、
演出として最低限のことができるんだという証明をしなきゃいけなかったので……。で、パンドラの匣を開けたんですね。
結果として、僕はフィックス主義になっちゃったんですよ(笑)。(注5)

――フィックス主義の下になったのは、主に小津なんですか。
山本:小津だと思いますね。今までのインタビューではなるべく言わないようにしてたんですけど、やっぱり小津の影響は受けてます。
小津を観て『やっぱり俺、このスタイルで行った方がいい』と思ったんですよ。僕は木上益治という人に弟子入りして、
助手というかたちで、勉強させてもらったんです。木上のコンテって、かなりカメラワークが多いんですよ。
いわゆるアニメ的な作り方をするんですね。そういうものかと思って、デビュー作の『POWER STONE』の演出では、
そのまま真似したんですけど、どうも違和感があったんですね。なんか無駄に動かしてるなあと。
で、小津を観た瞬間に『あ、これだ』と思った。小津と、それから北野武です。この2人ですね。
北野武も意外とフィックスで、しかも、人物すら止めちゃうんですよね。あれが生理的に合ったんです。
それで、半年経って『お前も、いろいろ勉強しただろうから、もう一回チャンスやるよ』といわれ、
『週刊ストーリーランド』で演出に復帰したんですね。ただ、いきなりオールフィックスでいくのは危険だと思ったんです。
常識的にやるならある程度はPANショットを入れるべきというのも大体分かってましたし、
こうやれば上の人間も納得してくれるだろうというラインも分かっていました。
それで、徐々にカメラワークを自分がやりたい方向に持っていった。
完全にフィックスにしたのは『AIR』あたりかな。作品がカメラワークを要求してないなと思って、
だったら、自分のスタイルを100パーセント出してみようかなと、オールフィックスにしてみたんですね。

――僕が、山本さんの名前を覚えたのが『あたしンち』なんですよ。作品から『僕の仕事を見ろ』というオーラが出てましたよ。
印象に残っているのが、やっぱり『べア研の文化祭』。(注6)
山本:(笑)
――それから、人に言われて、観直したんですけど『さくら、サクラ……』。(注7)
山本:『さくら、サクラ…』は完全に小津です。

――『さくら、サクラ…』は脚本段階からああいう話なんですか。
山本:原作からしてああいうノリですよ。作品を飛び越えて、自分をだすというのは決してやらないようにしています。
『かんなぎ』に至るまで一度もやった事はない。それをやったら、僕はお終いだと思ってるんです。
勿論、自分を売り込まないと仕事がもらえないというのはあったんですけど、作品のテイストに合わせて、調整しています。
『さくら、サクラ…』という話は静謐さを求められる話だった。どこかの監督に似ている宮嶋先生が、
桜を見てウンチクをたれるだけの話なんですよ。
『こういう話に必要なのは、小津だな。じゃあ、一度『小津のまんま』をやってみよう』と思ったんです。
作品に合わせる格好で、自分を出す。『あたしンち』は、そういう作り方をしました。
『ベア研の文化祭』は、ちょっとやりすぎたかもしれません。これは、ちょっとごめんなさい。
……自分の、嗜好がちょっと出過ぎちゃったかなっていうのが……。

――それはどういった部分ですか。
山本:まあ、あれは新海(誠)さんのまんまですよね。
――光の表現とか?
山本:そうです。新海さん的な事をやってみたかったという事ですね。
――当時のTVアニメで、あれだけ撮影で頑張っている作品ってあまり無かったですよね。
山本:それは自信を持って言えます。でも、結局は『ほしのこえ』の真似なんですよ。デジタルアニメに完全に移行して2,3年かな。
これは『妄想ノォト』に書いた通り、GONZOだんにしても、ガイナックスさんにしても、デジタルで光をどう表現するかを考えあぐねていた。。
それは京都アニメもそうだったんです。どうやればいいのか分からないところに、『ほしのこえ』が見事な光の使い方を見せてくれた。
あのやり方が絶対ではないと思うんですけど、ひとつの例を示してくれた。それが衝撃的だったんですね。
それで『新海さんのまんまやってみたら、どんな効果が上げられるのかな?あの光の表現に近づくためには、何をやればいいんだ?』
と考えてやってみた。当時、僕は撮影から離れていたんですけど(注8)、多分、あの話のエフェクト関係は全部自分でいじったと思う。

それくらい徹底してやってみました。それは技術の蓄積にもなったと思うし、まあ偉そうな事を言ってしまえば、
俗に言われる京アニ光の原点があそこにあると、思ってたりするんです。(笑)
――京アニ光?
山本:京アニ。光ですね。
――要するに、出崎光みたいなものですね。
山本:そうです。今の『CLANNAD』に至るまで使われている技術の、その原点みたいなものは作れたかなって。
――またあの話がいいのは、物語と映像処理が結びついているところですよ。単に凝った事をしているわけではない。
山本:あくまで作品を生かすためのテクニックとして使ったつもりです。
ただ、『要は新海をやりたかっただけじゃないか』と言われても仕方ないですね(苦笑)。
でも、『山本寛っていう変な事やる演出家がいますよ!』とアピールしないと、食いっぱぐれるという危機意識があったから、
そうやってがっついて色々やっていたわけです。今となっては良くも悪くも結構名前は売れたし(笑)、
まあ、選り好みしなきゃ仕事は色んなところからいただけるんで、どんどん自分を殺していこうと思うんですけど。
――『今は自分を殺すようにしている』と言われましたけど、名前を売ることを別にしたら、
例えば『フルメタル・パニック?ふもっふ』でやったような、目立つものを作るのは本意ではなかった?
山本:僕の中では、『ハルヒ』がいいバランスをとれたと思ってるんですよ。作品が目立てばいいと思ってるんです。
山本寛という名前は目立ってもしょうがない。と言いながらも、このへんが自己矛盾してるんですけど、
僕も作家主義でものを見てしまう。『宮崎(駿)さんのアニメ』『庵野(秀明)さんのアニメ』という見方をしてしまう。
そういうきらいはあったし、今でもあるんですけど、自分が作るものに関しては、自分よりも作品が前に出てくれればいい。

特に原作つきの作品ではそうですよね。原作のある作品は、自分の作品ではないと思っていますから、
原作があって、それを預かって、別の媒体に移植するだけの作業をやっているんだと思うので、
そこで『俺のフィルムだ』と言ってはいけない。『あたしンち』なら『あたしンち』、
『涼宮ハルヒ』なら『涼宮ハルヒ』という作品の名前が前に出ればいいという考え方ですね。
だから『ハルヒ』は、作っている人間が世の中を席巻したわけじゃなくて、
『ハルヒ』そのものがYoutubeなどを媒介として世界を賑わしたわけじゃないですか。
ファンはハルヒが実在するんじゃないか、SOS団が実在するんじゃないかという意識を持っていて、
作り手の方にはそんなに気持ちが行かなかったと思うんです。

――『ハルヒ』に関しては、エッジが効いたことをやっていたと思うんですが、それは作品自体がエッジが効いた表現を求めたのであり、
だからこそ、成功したという事ですね。
山本:そうですね。良く話すんですけど、『「涼宮ハルヒ」は誰の作品だ?』と問われれば、
石原(立也)作品でも、山本作品でもないんですよね。『ハルヒ』は『ハルヒ』なんですよ。
エンディングのダンスもウケたし、時系列シャッフルも話題にはなったんですけど、
それについては、僕らは『ハルヒ超監督として全部仕掛けたんだよ』という説明をしたんですよね(注9)。
それで、みんなが納得してくれた。ファンが『おー、そうだ、そうだ』『ハルヒだったらやりかねないな』と思ってくれて、
僕らスタッフはずーんと後衛の方に行った。ハルヒが超監督であり、団長であると言う事で、タイトルが一人歩きをし始めた。
それは気持ちよかったし、僕にとって一番いいかたちの作品の出方であり、騒がれ方だったと思います。

――『らき☆すた』の1話って、やる気満々だったと思ったんですよ。チョココロネをどうやって食べるみたいな話で、
1話作りきるっていうのは野心的だ。会話とテンポだけでも30分持たせられるし、
面白いもの作れるんだっていう実験をやっているんだ、と思っていたんですが、それはそうじゃないんですか。

山本:(苦笑)。あれはウケが悪いんですよね。『「らき☆すた」の中で一番つまらないのは1話だ』とよく言われて、
『んー、わかってくれないかな……』と思うんですけど、これもぶっちゃけて言いますけど、
『らき☆すた』は料理のしにくい作品だったんです。『ハルヒ』以上でした。原作が、単に会話をしてるだけじゃないですか。
アクションもないし、オチがないエピソードもあったりする。角川さんからオファーが来た時に、
『まあ!どうしよう!?』と思ったんですよね。ただ、アニメ化しにくい作品ほど僕は燃えるんですよ。
それで『じゃあ俺がやってやる!』と思ったのはあります。『それをアニメ化してヒットさせたら、それこそ俺、凄くね?』みたいな・
そのへんで自己主張はあったかな。だから、1話は、なんとか原作をアニメという媒体に乗せてやろうと四苦八苦した結果なんです。
『「らき☆すた」はこういう作品だよ』という宣言でもありました。でも、やっぱりこれだけじゃウケないだろうという事で、
2話以降はパロディ的要素や、色んなギミックを入れていった。ギミックについては、
後になって『これはちょっとやり過ぎたかな……』と後悔した部分もあるんですけど。
――なるほど。
山本:だから、1話はある程度ラジカルに作りはしましたけど、野心的だったわけじゃないんですよ。
むしろ苦肉の策です。『らき☆すた』は原作にある日常会話も拾って、パロディ的なところもいれた。
原作を反映させて、なおかつ、できるだけ多くの方が受け入れられる作りをしたつもりなんです。
ここでも、やっぱり『俺が、俺が』というのはないですね。『らき☆すた』という作品があって、
それをいかにしてアニメに移植するか。それにつきますね。『かんなぎ』もそうですけど、そこに自分と言うものは入ってこない。
入る余地がないんです。そもそも。
――それでいいんですか?
山本:いいと思ってますね。特に原作つきの作品は。

――それは山本さんが単なる演出家だったら『そういうスタンスもありですよね』と言うところなんだけど、
山本さんご自身が『アニメはもっと批評されるべきだ』とおっしゃってるじゃないですか(注10)。
そうやって作ったものが、批評の対象になり得るんですか。
山本:いやむしろなり得ないとおかしいと思います。例えば、演出、カットの割り方であるとか、画面の作り方であるとか、
そういうところを細かく論じるべきじゃないかと思います。自分を主張する監督でなくても、作家を論じられると思うんです。
演出論に限って言うならば『ハルヒ』、『らき☆すた』、『かんなぎ』と色々スタイルは変えていても、
そこに一貫している僕の演出論というのはあって、僕自身は勿論それを語れるわけですよ。
まあ、例えばフィックス主義であるとか、そういう語れる部分はどの作品にもある。
過度の主張をしている演出家じゃなくても、作家論として語る事ができるんじゃないかと思っています。
――なるほど。
山本:逆に言うと、そういった議論がまだそんなにされてないんじゃないかと。もうちょっと踏み込んで、
そういった細かいところを語ってくれないかなと願ってはいるんです。パッと見ではっきりと分かる、
要は僕の言うところのギミックですね。パロディが多いとか、派手に動かすとか、そういったところではなくて、
もうちょっと細部を観ていただけないかなと思うんですよ。アングルをどうするか、どこに引きのカットを持っていくとか。
そういうところでも、演出の色って十分に出ると思うんですよ。
――『かんなぎ』での山本監督は、『社会人として立派だったと思うんですよ。だって、独立1本目でちゃんと面白くて、
売れるものを作った。原作の事も観ている人の事も考えて作っている。『いい仕事したな。凄いな』と思うわけですよ。
山本:はい(苦笑)。

――これは僕が、主張の強い作家を求めているという事かもしれないけど、1人のクリエイターとしては、
もっと主張してほしいと思う。最終回が、あれでいいのかという事を含めてね。
山本:最終回についてはほぼ原作通りにやりましたが、あれで全然いいんじゃないかと僕は思っています。
自分としても、十全にやり尽くしたと満足しています。100点満点とは言いませんけども、あの登場人物たちを描ききれたと思います。
さっきから言っているように、原作もので自分を出したいとは思わないんです。俗に言われる原作レイプみたいな事は決してしないぞ、
というのが首尾一貫したものとしてあります。『自分のやりたい事やるんだったら、オリジナルでやるよ』というのは、
周りの人間にも言っているんです。実は、もう次の仕事が決まってまして、それがオリジナルなんですよ。
ひょっとしたらご存知かもしれませんけど。

――ええ、噂には聞いています。
山本:そこで否応無しに、自分を出す事になる。
実際に、その制作会社のプロデューサーさんに『お前、パンツ脱がないとダメだよ』と言われましたね。
『うわー、パンツを脱ぐ瞬間が来たか……』と思って。
――庵野秀明的な発言ですね(注11)
山本:そうですね。そのパンツの脱ぎ方を、今必死になって研究しているんです。幸か不幸か、そういう事をあえてやってこなかった。
そういう依頼もなかったし、そうする必要の無いところでぬくぬくとものを作っていたというのも事実なんですね。
ただ、ポリシーは貫いてきたし、次でいよいよ真価が問われるんだろうな、とは思います。
でも、そこまでしてもの作りをすべきなのかな、という疑問もあるんです。
パンツを脱がない作り方でも、別にいいっちゃ、いいんじゃないかと。

――パンツを脱がない作り方でも、構わないかもしれない?
山本:そうです。そういったものって『自分を出せ!』と言われて、出すもんじゃないとも思っているんです。
個性だとかオリジナリティといったものは、自然に出てくるものだと。それが出てこないんであれば、
僕はそれまでの存在だったんだろうと思う。だから、次がオリジナルだとしても『次では自分を出します!』と宣言するつもりは無い。
宣言してパンツを脱いだとしたら結局、それは脱いでいないという事ですよね(苦笑)。
気がついたらフルチンだったっていうのが、もの作りなんだろうと思っています。
だから、あまり意識を変えないでやっていこうかと思ってますけどね。無理にやっては意味がない。
わざと自分を出そうとしたら、それがフィルムに出ますよ。観ている人にも「あ、ポーズなんだな」って簡単にバレるわけでしょ。
(2009年1月13日 東京都杉並区・A-1 Picturesにて)

(注1)『かんなぎ』第五幕『発掘しょくたくまじんを愛せよ』でナギのファンの1人として、彼や倉田英之をモデルにした男性キャラクターが登場。
同キャラクターは2人が声も担当。『監督の域に……』という自虐ネタもあった。また、同話では原作者の武梨えりもアイキャッチで登場した。

(注2)ここで言う『旧妄想ノォト』とはかつて彼が映像サークル『スタジオ枯山水』のHP内で展開していた映画評論ページ『妄想ノォト』の事。
アニメ作品に関しても言及されていた。現在は「妄想ノォト 出張版」を雑誌『オトナアニメ』にて連載中。

(注3)『怨念戦隊ルサンチマン』は京都大学のアニメーション同好会が制作した自主制作実写映画。
彼は企画・監督・編集を担当。ルサンチマンとは、強者に対する憎悪などを抱えて屈折している状態を指す。

(注4)DAICON FILMは岡田斗司夫、武田康廣、庵野秀明、赤井孝美、山賀博之といったメンバーが
参加していたアマチュアフィルムメーカーであり、GAINAXの母体となった。『DAICON III OPENING ANIMATION』『愛国戦隊大日本』
『帰ってきたウルトラマン』等を発表した。

(注5)フィックス(Fix)は映像用語。カメラを固定したまま被写体を撮影する事。

(注6)『あたしンち』24話『ベア研の文化祭』(2002年10月25日放映)は、
みかんが所属するテディベア研究会の活動を描いた青春モノ的なエピソード。

(注7)『あたしンち』41羽『さくら、サクラ…』(2003年3月21日放映)は、宮嶋先生を主役にしたエピソードで、
彼が桜を見ながら、色んな人物にウンチクを語る、しっとりした印象の異色編だ。

(注8)彼は演出して活動を始めた前後に、撮影スタッフであった時期がある。

(注9)『涼宮ハルヒの憂鬱』では、キャラクターである涼宮ハルヒが『超監督』の役職でクレジットされていた。
また、シリーズ構成は『涼宮ハルヒと愉快な仲間たち』だった。

(注10)インタビュー等で、彼は度々『アニメには批評が必要』と主張している。

(注11)『パンツを脱ぐ』とは、創作するうえで、作り手が自分をさらけ出す事を指す。

 


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