みなさんの想像は、空を飛んだり消えたりとスーパーマンのような忍者が、忍者刀を振り回して敵陣に乗り込み、大将を暗殺する・・・。 これは映画や漫画で間違って紹介されたイメージの忍者像です。
忍者の仕事は、諜報活動と謀略活動に大別できます。この諜報活動と謀略活動を行うための方法論が忍術です。諜報活動は、現在のスパイのような仕事で、敵の情報をきめ細かく収集してその兵力を分析します。謀略活動は敵の兵力を低下させる術です。忍者は自分より強い相手とは戦いません。自分より相手の兵力を低下させてから戦います。平和時に行う忍術を「遠入り」の術といい、戦中に行う忍術を「近入り」の術といって、忍者は常日頃から敵の情報をつかみ、戦わずして敵に勝つ方法を考えていました。合理的に物事を考える忍者は、知力による戦術を宗とし、兵力(武力)による戦術は愚としました。ですから、忍者刀を振り回している忍者は、最低の忍者といえます。
伊賀流と甲賀流の忍術は、その起源が同じで、もっとも優れた忍術といわれています。
陰の世界で活躍していた忍者は、いつから存在していたのでしょうか?そのルーツをたどると、紀元前4000年頃に古代インド文化が中国大陸に伝えられ、そして西暦6世紀頃に、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「兵法」に求められます。
その時代、聖徳太子が用いていた人物大伴細人(おおとものほそひと)こそが忍者のルーツといわれています。
こんな話を聴いたことありませんか? 「聖徳太子は一度に10人の話を聞ける」と。
実は、忍者を用いて事前に情報を入手していたとの説もあります。でも、それをすべて覚えている聖徳太子もすごいと思いますが‥。
中国から伝えられた大陸的な兵法は、高低差のある猫の額のような日本の地形に合わせて修験道と関わり日本独自の兵法に発達し、その中から忍術が分化していきました。伊賀地方と甲賀地方には修験の道場がありました。また、伊賀地方は、東大寺や興福寺の荘園地が国土の大半を占め、荘園地を管理していた土豪同士がゲリラ的な戦術を身につけて、互いにけん制しながら平和を維持してきたことが、忍術を発展させたといわれています。
荘園制時代の伊賀は、国司や国主(守護職)が長く続きませんでした。伊賀の国人は、荘園ごとに同族単位で生活圏を設け、所領の農民を組織して一党をなし、中央政権の支配に服従しなかったので、守護職は50とも60ともいわれる伊賀の国中の一党の中から有力な12人の評定衆(代議員)を選び、協議により伊賀の治安を維持していました。これを伊賀惣国一揆と言います。
天正6年(1578)伊勢の国司北畠信雄(織田信長の二男 織田信雄が北畠の養子になり家督を継承)は丸山城を基点に伊賀攻略を企てますが、伊賀衆の攻撃にあって撤退します。天正7年(1579)仕切りなおして北畠信雄が伊賀に攻め込みますが、伊賀衆の抵抗にあって敗退します。(第一次天正伊賀の乱)これを聞いた織田信長は激怒し、自ら出馬を決意し、天正9年(1581)5万の大軍を率いて伊賀に進軍、伊賀全土を焼き払い大人子どもに関わらず殺戮を繰り返しました。伊賀衆は最後まで抵抗を続けましたが、和議が成立し、降伏しました。伊賀地域が歴史上唯一壊滅的な打撃を受けた乱で、800年の歴史を持つ伊賀地域の荘園制度が終焉し、忍者は諸国に離散しました。(第二次天正伊賀の乱)
伊賀で最も有名な忍者の党は服部氏、百地氏、藤林氏です。服部半蔵・百地丹波守・藤林長門守は伊賀の三大上忍とされています。
服部氏は伊賀西部を支配していました。有名な人物に徳川家康に仕えた服部半蔵正成がいます。半蔵の名前は世襲制でした。
百地氏は伊賀南部を支配していました。もともと南部は大江党が栄えており、百地氏はその一支族になりますが、服部氏と手を組み勢力を伸ばし、江戸時代まで有力土豪として地位を保ちました。
藤林氏は伊賀北東部を支配していました。忍術伝書「萬川集海」の著者藤林保武はその一党です。
現存する忍術伝書の中で、「萬川集海」「正忍記」「忍秘伝」を三大忍書と言います。
多くの伝書は江戸時代に書かれていますが、それ以前は口伝でした。伝承・備忘のために活字化されたと推測されます。「口伝あり」の文字が目立つ伝書ですが、口伝で伝えられる事の方が重要だったのかもしれません。
今は「忍者(NINJA)」の呼び方で統一されていますが、昔は忍者と呼ばなかったのをご存じですか?
時代によっても、地域によっても違う呼び方がたくさんありました。
その一部を紹介しましょう。
他にも地域によって様々な呼び名がありますが、代表的なものを紹介しました。
当て字ですが「しのび(忍)」に関係するもの、仕事に関係する呼び方(聞者役など)、見たままの呼び方(早道の者など)色々ありますね。