「読者よ、悟れ。」光と闇を切り分け、時代に警鐘を鳴らす。
今、ニッポンキリスト教界が屋台ごと炎上している。ビュン牧師の事件が大々的に報道されたことにより、キリスト教界全体がこうむる打撃は計り知れないほど大きいだろうと感じる。
昨年11月以来、このブログでは、ニッポンキリスト教界全体が近いうちにカルト化し、崩壊するだろうとの予測に立って記事を書いてきた。個人的な感情も入っており、いささか抗議の調子が強すぎるかも知れないと思うこともあった。

だが、どんな組織も、人間を嘲り、痛めつけるような反社会的活動に走れば、いずれ崩壊する。カルト被害者救済組織がなくては、まともな運営さえできず、いかなる不祥事をも解決する力がないようなニッポンキリスト教界組織に、明るい未来がないことは、誰の目にも明らかだ。今まで大量の信徒を躓かせて知らぬ顔を決め込み、自らの組織拡大だけを念頭に置いて、傲慢な教会運営を行ってきた教界には、破滅から救われる道はもうどこにも残されていないだろうと思う。

いずれ必ず場所を改めて論じるつもりだが、昨今、教界において流行している教会成長論というものは、結論から言えば、信仰とは全く無縁の、教会組織の繁栄だけを目的とした儲け主義、言い換えるなら、キリスト教界における戦略的なマーケティング理論である。それは、一部の狂った聖職者たちの野望を、信仰という名でカモフラージュしているに過ぎない。

信仰の成長は極めて個人的かつ内面的なものであって、誰かが外から見ておしはかることはできない。確かに、行いの伴わない信仰は無意味だと聖書は教えているが、かといって、信徒の行いを、教会組織の繁栄のためにどれほど活動したかという点から見て評価しようとすることは誤っているし、危険すぎる。教会という組織の繁栄のために身を粉にして、すすんでただ働きできる人材となることが、クリスチャンの実践的な信仰生活であるかのように教えられてはならない。

そもそも、活動本位の視点から、クリスチャンの信仰をおしはかろうとすること自体が問題なのだが、たとえ信仰による行いを重要視するにしても、教会組織に利益をもたらす活動だけを重要視するようなことがあってはならない。つきつめるならば、今日、あなたが隣に住んでいる老婦人と一言会話しただけでも、それは信仰生活の重要な一コマになるのだ。平和な心で庭の草木を手入れし、夫や子供のために朝食を作り、職場でハードな仕事に耐え、つつましい日々の穏やかな生活を維持するだけでも、それは信仰の実践なのだ。

十字架の救いをまさに必要としている人に語りかけることこそが、伝道なのであって、教会組織の人員増加のために伝道するのでは本末転倒である。個別の魂の救いが伝道の目的なのであって、人数を獲得することや、地域を征服することが目的ではない。まるでうるさい街宣車のスピーカーのように、人々の平安をいたずらにかき乱し、不興を買ってまで、自己満足的に福音をがなり立てることが伝道の目的ではないだろう。

誰か未信者をつかまえては、判で押したようにつまらない話を繰り返し、その人を何か魅力的な餌で釣り上げて、義理人情でがんじがらめにした上で、説得して教会に引きずって行き、回心させて、組織の一員として登録させることが、信仰上の「手柄」のようにみなされるべきではない。私達に与えられたのは、そんなに安っぽい福音ではなかったはずだ。とにかく、信徒数さえ増えれば良いのだという、薄っぺらい教会成長がクリスチャンの信仰的成長をはかるバロメータになってはならない。

一部の聖職者からは、教会のカルト化現象は、教会成長論を導入した教会が、教会成長を遂げる際に、牧師が不足し、牧会が手薄になることによって生じるとする意見が出されているが、筆者はその考えに全く同意できない。
セル・チャーチ、弟子訓練、その他の教会成長論を導入して、確実に教会が成長したという成功例を筆者はほとんど聞いたことがない。むしろそのようなプログラムを導入したところでは、成長の勢いと同じく、破壊の力が働いて、成長も遂げないうちに組織が崩壊状態に陥った教会の方が多いのではないだろうか。

実際には、教会成長論こそが、伝道の本質からかけ離れた偽りのプログラムであり、教会のカルト化の原因となっていると筆者は感じる。なぜならば、教会成長論は、個々のクリスチャンを記号化し、数値化することによって、一人ひとりの信徒がどれほどその教会にとってかけがえのない人間であるかということを皆に忘れさせてしまう効果を持っているからだ。

もしも教会がマクドナルドやモスバーガーのようなところなら、とにかく一人でも多くのお客様にお越しいただき、メニューから沢山注文していただき、店で楽しんでもらい、売上げを伸ばしさえすれば、目的達成したことになるだろう。お客様が誰であろうと、店員はそんなことに構わず、とにかく一人でも多くの人間を呼び込み、均質のサービスを提供することだけに注意を払えばそれで良い。

だが、キリスト教会はファーストフード店やレストランではないのだ。
教会にとって一人ひとりの信徒は、数でおしはかることができ、とりかえの効く「お客様」ではない。
教会に足を運ぶ信徒一人ひとりは、他の誰とも交換できない、かけがえのない人間であり、その人を失っては、キリストの肢体は機能しないのだ。

なのに、現在、教会成長論を導入している教会は、例外なく、個人のかけがえのなさを認めていない。その教会に躓いて去って行く信徒がいても、引き止めることも、和解することもない。まるでファーストフード店が、その店を嫌いになった客をあえて引きとめようともせず、新たな顧客獲得だけに邁進しているように、教会は誰彼構わず、不特定多数に向けて、大衆向けに平均化された「お手軽な」福音をばら撒いているだけなのだ…。

立派な礼拝堂の建設、メガチャーチへの成長などの野心的プロジェクトの実現の手段として、免罪符を売買しなくとも、その代わりに、「救い」や「礼拝」、「カウンセリング」、「コンサート」などの魅力的な宣伝文句を盛んに用いて、それらのアイテムをお札のように信徒に売りつけるのではまるで同じことではないだろうか。
免罪符どころか、神への礼拝そのものが、自由献金という隠れ蓑の下で、売買の対象となってしまっているのが、今日のニッポンキリスト教界の現状ではないだろうか。

教会成長論を掲げている教会は、礼拝に足しげく通ってくれて、様々なイベントに協力してくれ、売上げ(=献金)増加に素直に貢献してくれるような信徒のみを大切にする。そこでは、教会の打ち出したプロジェクトへの貢献度に応じて、信徒の扱いに暗黙のうちに差がある。
できるだけ多くの信徒を組織に登録させて、できるだけ多く奉仕させ、可能な限り多額の献金を集めるために、教会成長論がある。教会成長が第一義的課題となっているような教会では、その計画に対してイエスマンにならない信徒や、ごちゃごちゃとうるさく批判して、協力しない信徒は、まず間違いなく、有形無形の圧力によって、教会から放り出される。
(あなたの教会では、そういう風にして「空気読めない」がゆえに煙たがられて、いつの間にか、いなくなってしまった信徒が多数、いないだろうか。そういう教会は、空気そのものが異常で、信徒が中毒に陥っている可能性があるので注意が必要だ。)

教会成長論の究極的な目的は、まるでネズミ講のように、末端の信徒を教育して、新たな信徒を積極的に教会に呼び込むための有益な宣伝員、活動要員へと変貌させて、一人ひとりの信徒を組織拡大のための有力な駒としていくことである。この理論においては、信徒は教会成長のための道具でしかなく、かけがえのない成員ではない。信徒がプロジェクトの達成のために努力することに力つきて、教会から姿を消しても、この理論が信徒をとりかえの効く人材として扱っている以上、かけがえのない個人を呼び戻そうという動きが教会内で起きないのは当然のことだ。こうして、教会成長に目を奪われた教会は、どれほど大量に信徒が離脱しようとも、失った人々に注意も払わず、新たな顧客獲得に乗り出していく。

キリストの肢体をバラバラに切り刻んで、切断した部位をゴミ箱に捨てておきながら、その手足を他のもので補おうと別の組織でつぎはぎし、傷跡と縫い目と癒着と膿だらけになって、なお、自分達がやっていることは正しいと確信している。これは狂気に近い。

個人のかけがえのなさに注目せず、人間を記号化し、いくらでも採れる魚のようにみなし、人間社会という大海原に、ひたすら組織拡大と献金増加をはかる目的で、魚を釣り上げるために漕ぎ出して行き、小さな収穫では決して満足せず、貪欲にさらなる大漁を目指して、ますます大きな網を張り巡らす。そうやって、人間社会を己が欲求をかなえるための闘技場とみなし、既存の信徒を教会の野心的プロジェクト推進のための資材とし、可能な限り、労働力として使おうとする。
…このような非人間的な考えに立った教会で、カルト化が起きないわけがない。

信徒を記号化し、道具化することは、キリストによって自由にされたはずの兄弟姉妹を再び奴隷の鎖につなぐことだ。教会を、信仰によって結び合わされた兄弟姉妹のかけがえのない交わりの場としてとらえず、教会成長のための戦略的マーケティングのための場に変えてしまうことは、教会を強制労働の場に変えることであるから、教会を強盗の巣にするよりももっと悪いことではないだろうか。

このような非人間的な要素がふんだんに盛り込まれた教会成長論を推進する教会は、神の名を用いながら、その実、一部の権力者の野心をかなえるために、信徒を道具化し、徹底的に搾取しようとしているだけである。弟子訓練、セル・チャーチ、トランスフォーメーションなど、あらゆる教会成長論が全てこの系統に属する。

もしも、教会成長論は信徒の搾取とは何の関係ないと反論する聖職者がいるならば、その人たちはまず、聖職者に支払われるのと等分の謝礼を、信徒の奉仕にもきちんと支払ってからそう言えばよい。いかなる美名がついていようと、信徒に無賃労働を強制しているような教会には、クリスチャンは絶対に近づかない方が良い。

もしも、自分の所属している教会に何かおかしな雰囲気や兆候を感じたら、教会への忠誠心など無用だ、とにかく早く逃げ出すことが肝要だ。強いマインドコントロールの力が働いている場所にいながら、自分一人だけ、集団の雰囲気に逆らって、冷静な判断を保つことは至難の業だ。うるさい音楽が大音量でかかっている店で、静かな心を保つことがどれほど難しいかを考えてほしい。

たとえ所属している教会がたくさんの問題を抱えていても、それをあなたが解決してやらなければならない義務はない。周りの人を変えようと思わない方が良い。もしも教会の中にいる人たちに警告を発したいなら、とにかく、安全な場所へ逃げ出した上で、集団の影響の及ばない場所から、訴えるべきである。

さて、これまで、キリスト教界のカルト化の問題について書いてきたが、筆者自身は教界に対してすでに部外者の立場にあるので、教界の危険性について警告を発するためだけに記事を書くのはもう終わりにしたいと思っている。今後、キリスト教の様々なプログラムについての分析は続けたいが、このブログは一旦、ここで終了とさせていただきたい。

筆者の知人が幾人もまだ教界に残っているため、これまで、何とか教界に立ち直りの道はないだろうかとの願いが心をかすめることが多々あった。だが、教界の未来に1%でも希望が残っていると思わせるような、手ぬるい表現をすべきではなかったかも知れない。ニッポンキリスト教界には破滅以外の未来がないという確信は、時と共にさらに強まるばかりだ。

教界に関わったがゆえに、人生を狂わされ、生活の安全を脅かされ、場合によっては、巨額の借金を負わされたり、性被害にあったり、命を落とす危険まで味わった信徒がいることを私達は忘れてはならない。すでに亡くなった人たちがいることを忘れてはならない。こうなってしまって、一体、何のための福音だろうか。何のための救いだろうか。
このような恐ろしい現状がある教界にとどまり続けることは、個人にとって、あまりにも危険が大きすぎる。疑わしいと思ったら、その集団をすぐに離れることを勧める。証拠を探すまでもない。何かあってからでは遅すぎるのだから。

これまで、何人かの方にお便りをいただいたことで、教界内に残っている信徒もまた、教会の不祥事、カルト化の問題に対して並々ならぬ関心を持っていることを感じた。できるだけ多くのクリスチャンに問題を考えてもらうために、今後、移転後のブログも、原則、公開を続けることにしようと思っている。

ご愛読どうもありがとうございました。
(移転先が決まりました。→ 「東洋からの風の便り」
Name
Title
Text Color
URL
Comment
Password
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字