長男刺傷事件の背景


 溝口敦は『月刊現代』06年1月号に署名記事『六代目山口組・司忍 武闘派知将の素顔』(発売は05年12月1日)を書いている。同号が発売された直後 の05年12月2日、編集部に「訂正せよ」と言ってきたのは同じく山健組内兼國会の「若い者」と名乗る永野一雄だった。
 
 この年7月29日、山口組では五代目山口組組長・渡辺芳則が引退し、それまでの若頭・司忍が六代目山口組組長になると臨時直系組長会で発表した。溝口の記事はこうした山口組の動きを受けたもので、文中に次の一節があった。

<若頭補佐など山口組の執行部に近い筋からは、司六代目を最終的に決めた話し合いは執行部側の一方的な攻勢で決着を見たとされる。
「渡辺前組長は執行部側に『あんたは人気が悪すぎる。即刻辞めなはれ』と、面と向かっていわれたらしい。側で聞いていた山健組系の有力組長が『親分に向 かって、なんということを言うんや』と口を挟んだところ、執行部のひとりに『直参(直系組長)でもない者が余計なこというな。引っ込んでろ』と一蹴され た。側近はこれで口を閉ざした。渡辺前組長は『引退してもええ。そのかわり一年でも二年でもわしを総裁に着けてくれんか。じゃないと殺されてまう』と土下 座せんばかりに頼んだそうです」
 
  結果的に渡辺前組長の願いは拒否され、彼は山口組の総裁にも名誉総裁にも着くことなく、単に引退、市井の人になった。
 渡辺前組長は〇四年の夏、戸籍上、夫人と離婚した形を採ったが、これは山口組直系の五菱会がヤミ金で儲けたカネや、ハンナングループの総帥・浅田満が渡 辺前組長の家族名で積み立てたカネなどを逃避・保存するための措置と警察は見ていた。本来、終身のはずの山口組組長の任期を全うすることなく、彼が辞任、引退したのは財産保全のためともされる。>

 山健組内兼國会の若い衆永野一雄はこの一節を問題視し、改めるよう要求した。永野は特に「渡辺五代目が土下座せんばかりに頼んだ」という一句が問題だという。
 
 溝口は反論した。
「五代目から六代目への交代劇はクーデター的に行われたと、兵庫県警も認めている。大阪読売新聞もクーデターと報じている。私が得た内部情報では、さらに 詳細に密室のクーデター劇が伝えられている。『月刊現代』の記事は、これでも具体的な人名を出さないなど、内容を押さえている。
 あなたが誤りだ、訂正せよというなら、その根拠は何なのか。あなたはこの交代劇の場に居合わせたのか。あるいは居合わせた誰かから話を聞いたのか。根拠 もなく訂正しては、再訂正しなければならなくなる可能性がある。だいたい私はあなたがどういう立場の人か、名がなんという人かさえ知らない」
 
 永野は、それは失礼したといった。
 溝口は結論的にいった。
「根拠があるなら訂正するが、そうでないなら、訂正できない。ただし、『現代』の記事はいずれ単行本に収録することになるから、そのときはあなたの意向に 配慮する。土下座云々が不快というなら、表現を弱めるなり、削除するなりしてもいい。いずれにしろ今回は訂正できないが、今度、東京に出てきたとき、電話 してほしい。一緒に食事でもしようじゃないか」
 永野はそうさせてもらいますといい、電話での折衝は終わった。溝口は『月刊現代』問題はこれで終わったと思っていた。
 だが、問題は終わらなかった。
 
  12月5日、前に取材したことがある山健組の関東統括委員長Aから「会えないか」と溝口に電話があった。溝口は、いいですよと答え、12月7日、新宿ヒルトンホテルでAと会った。
 当日昼1時半、溝口がT書房の役員Mと一緒にロビーで待っていると、Aが若い人と2人連れで現れ、ホテル1階奥のラウンジに案内された。双方着席する と、AはコピーしたA5の紙1枚を取り出し、「訂正してくれ」と言い出した。よく見ると、永野一雄が問題にしたのと同じ『月刊現代』の箇所をボールペンで 囲っていた。溝口は、永野に答えたのと同じ答えをここでもう一度くり返した。要は訂正できないということである。
 Aは見定めるように溝口の顔を見た後、携帯を取り上げ、どこかに電話を始めた。
「溝口に会うてます。溝口の奴、訂正は出さないいうてます。わしがこれから溝口を飲ませ、食わせ、カネ渡して丸め込みますから、カシラ、それでええでっしゃろ」
と、大声で言った。
Aがカシラというからには、山健組の若頭・妹尾英幸が電話先だろう。妹尾の許可が得られたのか、Aは電話を終え、溝口たちの方をうかがった。
「今日、予定はどうなってる。飯でも食おうやないか。わしの遊びいうたらハデやぞ。1晩100万円じゃきかない」
すったもんだのやり取りがあったが、とどのつまり溝口とT書房の役員はこの夜、Aから築地、銀座で飲食を供された。

 そして溝口の長男は05年1月に刺された。兼國会・山本國春の「若い者」だった永野一雄は事件後、山健組の直参に取り立てられ、現在は井上邦雄組長付きをしている。ことによると、昇任は刺傷事件の論功行賞だった可能性もあろう。