2009年05月12日
「マンモスとの戦い」
ブログ再開後の初回は自分のエントリーでいこうと思っていましたが、朝礼での社員のスピーチを掲載します。
僕としては、この原稿から、1行も、加えることも、削ることもできません。原稿をそそのまま読んでみてください。
◇◇◇
ゴールデンウィークの営業は峠を越えた。今日からは別の成果を取りに行く。
この数日間、全社の受注はいくらあったか皆さんは把握していますか?
たった数日間で単月の受注にほぼ匹敵する売上がありました。大きな仕事の成果があったという意味で、まさに巨大なマンモスに勝つことができました。
この成果にへたくそでも、少しだけでも、参画し、そして「楽しい」と思えた人、この人たちは優秀な仕事人になる可能性がある、と思います。
次回はぜひ、自分で成果を見つけ、率先して参加していってもらいたいと思います。
ただ、こうした仕事に参加するにも、中に一人でも「自分だけは楽しよう」「なるべくだったら避けたい」と思っている人がいるとこの集団は餌が取れないどころか、全員を危険にさらすことになる。大げさではなく。
私は、この大きな波が来た際、自分のグループに次のようなメールを出しました。
『GW中、休みたい/遊びたいという気持ちは誰も同じ。家族や恋人からGWに遊びたい、とお願いされるのも皆同じ。
でも、今、目の前にマンモスがいる。このマンモスと誰が戦う?
家族や自分の時間を犠牲にしている人だけが、危険を冒してマンモスと戦い、家族や自分の時間を優先にした人は、ちゃっかり食料にありつくのか?!
そういうのを君達は許せるか?
そもそも「家族や自分の時間を犠牲」という発想もおかしなこと。自分や自分の家族の為に、マンモスと戦っている。
それを天秤にかける発想自体間違っていると思わないか?
「情けは人の為ならず」という言葉がある。
この言葉は、「情け」は、めぐりめぐって自分の為になる。人の為ではなく、自分の為、という意味。
「働くこと」と「情け」は、もちろん全く異なることだが、めぐりめぐって自分の為になるという構造は、どちらも同じ。
会社の為に働いているのではない、自分/自分の家族の為に働いている。
会社は自分や家族を豊かにする場所。この場所でマンモスと戦い、君達や君達の家族に分配されている。
本当に「家族を」「自分を」豊かにしたいと思ったら、マンモスが目の前にいる。今、何をすべきか。
そして、こうして「生きるか死ぬか」を真剣に毎日戦っていることを、そうやって自分達の生活が成り立っていることを、自分も家族も自覚すべきではないか。』
メールは以上です。
皆さんはどうでしょうか?
自分は自覚はできている、けれど、自分の身近な人には理解してもらっているだろうか?
本物の仕事人だったらどうするだろうか。
家族への説得も含め、普段の休息も含め、大きな戦いが終わった今だからこそ、平時のときに「次の戦いの為の準備」をすべきではないでしょうか。
僕としては、この原稿から、1行も、加えることも、削ることもできません。原稿をそそのまま読んでみてください。
◇◇◇
ゴールデンウィークの営業は峠を越えた。今日からは別の成果を取りに行く。
この数日間、全社の受注はいくらあったか皆さんは把握していますか?
たった数日間で単月の受注にほぼ匹敵する売上がありました。大きな仕事の成果があったという意味で、まさに巨大なマンモスに勝つことができました。
この成果にへたくそでも、少しだけでも、参画し、そして「楽しい」と思えた人、この人たちは優秀な仕事人になる可能性がある、と思います。
次回はぜひ、自分で成果を見つけ、率先して参加していってもらいたいと思います。
ただ、こうした仕事に参加するにも、中に一人でも「自分だけは楽しよう」「なるべくだったら避けたい」と思っている人がいるとこの集団は餌が取れないどころか、全員を危険にさらすことになる。大げさではなく。
私は、この大きな波が来た際、自分のグループに次のようなメールを出しました。
『GW中、休みたい/遊びたいという気持ちは誰も同じ。家族や恋人からGWに遊びたい、とお願いされるのも皆同じ。
でも、今、目の前にマンモスがいる。このマンモスと誰が戦う?
家族や自分の時間を犠牲にしている人だけが、危険を冒してマンモスと戦い、家族や自分の時間を優先にした人は、ちゃっかり食料にありつくのか?!
そういうのを君達は許せるか?
そもそも「家族や自分の時間を犠牲」という発想もおかしなこと。自分や自分の家族の為に、マンモスと戦っている。
それを天秤にかける発想自体間違っていると思わないか?
「情けは人の為ならず」という言葉がある。
この言葉は、「情け」は、めぐりめぐって自分の為になる。人の為ではなく、自分の為、という意味。
「働くこと」と「情け」は、もちろん全く異なることだが、めぐりめぐって自分の為になるという構造は、どちらも同じ。
会社の為に働いているのではない、自分/自分の家族の為に働いている。
会社は自分や家族を豊かにする場所。この場所でマンモスと戦い、君達や君達の家族に分配されている。
本当に「家族を」「自分を」豊かにしたいと思ったら、マンモスが目の前にいる。今、何をすべきか。
そして、こうして「生きるか死ぬか」を真剣に毎日戦っていることを、そうやって自分達の生活が成り立っていることを、自分も家族も自覚すべきではないか。』
メールは以上です。
皆さんはどうでしょうか?
自分は自覚はできている、けれど、自分の身近な人には理解してもらっているだろうか?
本物の仕事人だったらどうするだろうか。
家族への説得も含め、普段の休息も含め、大きな戦いが終わった今だからこそ、平時のときに「次の戦いの為の準備」をすべきではないでしょうか。
2009年05月11日
2009年04月13日
「文化形成と機能維持」
朝のミーティングから。
「会社の文化は会社の機能の上位階層であり、幹関数だと思う。従って、文化形成と機能維持はトレードオフ関係ではない。
『ビジョナリーカンパニー』にもあるように、世代を超えて存続する会社は会社の利益、売上、人数などの規模ではなくて、それらを生み出す基本的な構造作りをまずやっている。
文化は組織を生み出す構造となり、組織は業務を生み出す構造となり、そして、業務は売上、利益を生み出す構造となる。
この構造がしっかりと作動し、それが意識しなくても生み出される体制が十分に整った時。つまり、マネージャーである君たちがこの構造を理解し、自分で生産できるようになったときに、会社のは一気に成長する。
だから、機能維持を文化形成と同じ階層で語ることはできない。これらを混同するのは、「金の卵」と、「金の卵を生む鶏」を混同するのと同じだ。」
「会社の文化は会社の機能の上位階層であり、幹関数だと思う。従って、文化形成と機能維持はトレードオフ関係ではない。
『ビジョナリーカンパニー』にもあるように、世代を超えて存続する会社は会社の利益、売上、人数などの規模ではなくて、それらを生み出す基本的な構造作りをまずやっている。
文化は組織を生み出す構造となり、組織は業務を生み出す構造となり、そして、業務は売上、利益を生み出す構造となる。
この構造がしっかりと作動し、それが意識しなくても生み出される体制が十分に整った時。つまり、マネージャーである君たちがこの構造を理解し、自分で生産できるようになったときに、会社のは一気に成長する。
だから、機能維持を文化形成と同じ階層で語ることはできない。これらを混同するのは、「金の卵」と、「金の卵を生む鶏」を混同するのと同じだ。」
2009年04月08日
「挨拶」という仕事の作法
リアルでは、朝礼で社員ひとりひとりがスピーチをします。リアルがとても大切にしている「挨拶」について社員が話したスピーチを紹介します。
◇◇◇(以下、社員のスピーチ内容)
今、わが社でも力を入れている挨拶について、あるサッカーのコーチが小学生に対して、呼びかけているブログを見つけました。
「君達、少し考えて見ませんか?
試合というのは、お互いが練習したことを一生懸命にぶつけ合うものではありませんか?
相手をしてくれる人やチームに対して、感謝の気持ちが必要ではありませんか?
試合を判定してくれる審判員の方、試合会場を作ってくれる人、応援してくれる人、全てが揃わないと、試合は出来ません。
感謝の気持ちが必要ではありませんか?
公園で、自分達が好きな遊びをしているのとは、訳が違います。
負けて悔しいのはわかりますが、終了の時の挨拶も満足に出来ない様では、試合をするフィールドに入る資格はありません。
(中略)
僕の思い違いなら良いのですが、君達は、勝った時には大きな挨拶が出来て、負けた時はいい加減に頭も下げないで、小さい声の挨拶が多い様に感じます。
ユニフォームには、チームの名前が入っています。チームを代表して試合に臨んでいる事を忘れないで下さい。
礼儀が出来ていない人は、練習することも、試合でピッチに入る資格も無いということを厳しい様ですが、改めて覚えて下さい。」
みなさん、このコーチの言葉をどのように受け止めましたか?
小学生が教わっていることを、どのように感じましたか?
私は学生時代に剣道をしていました。県内でも有数の指導者だった師範から特に厳しく指導されたのもやはり「挨拶」でした。
師範は、道場に入るとき、たとえ人がいなくても、足を止め、深く頭をさげて、大きな声で、「よろしくお願いします」と挨拶をするように、生徒に指導していました。
師範は、道場とは「たとえ稽古であっても、真剣な勝負をする神聖な場所であること、その場所に足を踏み入れるためには、自分自身に対する相当の覚悟が必要なこと」を教えてくれました。そのための挨拶なのです。
皆さんにとって、仕事場は大切な場所、神聖な場所でしょうか?
それとも、単にお金をもらうために仕方がなくいる場所でしょうか?
私にとっては、今、このオフィスが、何よりも大切な場所、神聖な場所だと感じ
ています。
もし、そう感じていない社員がこの場にいるとしたら、私は心から悲しく思います。
30人の社員とその家族の生活をかけてまさに「真剣勝負をしている」大切な場所だと思うからです。
私がみなさんにお願いしたいのは、もし、覚悟も、敬意も持てないならば、この場を立ち去って欲しいとまで思っています。
「挨拶ができない者は去れ」
これは、剣道の師範が、そして、サッカーのコーチが、生徒たちに求めたことと同じです。
ましてや、私たちは部活をしている学生ではなく、一人前の社会人として給料をもらっている大人です。
みなさんは、朝、どのような敬意を持って、そして、どのような覚悟を持って、オフィスに足を踏み入れていますか?
私は、中途な挨拶をする者は、自分は中途半端な仕事しかできません。そして、中途半端な人生しか送れません、と自ら言っているように思えるのです。
そんな人たちと、一緒に仕事をしたいと思いますか?
人生をかけて一緒に戦いたいと思いますか?
ブログのサッカーのコーチは、そして、私が教わった剣道の師範は「どんな技を覚えるかよりも、どのように相手に勝つかよりも、まず敬意と覚悟を持って試合に臨む姿勢が大切だ」と教えてくれました。
中途半端はやめて、力いっぱいの挨拶をする会社を私たちで作っていきませんか?
◇◇◇
◇◇◇(以下、社員のスピーチ内容)
今、わが社でも力を入れている挨拶について、あるサッカーのコーチが小学生に対して、呼びかけているブログを見つけました。
「君達、少し考えて見ませんか?
試合というのは、お互いが練習したことを一生懸命にぶつけ合うものではありませんか?
相手をしてくれる人やチームに対して、感謝の気持ちが必要ではありませんか?
試合を判定してくれる審判員の方、試合会場を作ってくれる人、応援してくれる人、全てが揃わないと、試合は出来ません。
感謝の気持ちが必要ではありませんか?
公園で、自分達が好きな遊びをしているのとは、訳が違います。
負けて悔しいのはわかりますが、終了の時の挨拶も満足に出来ない様では、試合をするフィールドに入る資格はありません。
(中略)
僕の思い違いなら良いのですが、君達は、勝った時には大きな挨拶が出来て、負けた時はいい加減に頭も下げないで、小さい声の挨拶が多い様に感じます。
ユニフォームには、チームの名前が入っています。チームを代表して試合に臨んでいる事を忘れないで下さい。
礼儀が出来ていない人は、練習することも、試合でピッチに入る資格も無いということを厳しい様ですが、改めて覚えて下さい。」
みなさん、このコーチの言葉をどのように受け止めましたか?
小学生が教わっていることを、どのように感じましたか?
私は学生時代に剣道をしていました。県内でも有数の指導者だった師範から特に厳しく指導されたのもやはり「挨拶」でした。
師範は、道場に入るとき、たとえ人がいなくても、足を止め、深く頭をさげて、大きな声で、「よろしくお願いします」と挨拶をするように、生徒に指導していました。
師範は、道場とは「たとえ稽古であっても、真剣な勝負をする神聖な場所であること、その場所に足を踏み入れるためには、自分自身に対する相当の覚悟が必要なこと」を教えてくれました。そのための挨拶なのです。
皆さんにとって、仕事場は大切な場所、神聖な場所でしょうか?
それとも、単にお金をもらうために仕方がなくいる場所でしょうか?
私にとっては、今、このオフィスが、何よりも大切な場所、神聖な場所だと感じ
ています。
もし、そう感じていない社員がこの場にいるとしたら、私は心から悲しく思います。
30人の社員とその家族の生活をかけてまさに「真剣勝負をしている」大切な場所だと思うからです。
私がみなさんにお願いしたいのは、もし、覚悟も、敬意も持てないならば、この場を立ち去って欲しいとまで思っています。
「挨拶ができない者は去れ」
これは、剣道の師範が、そして、サッカーのコーチが、生徒たちに求めたことと同じです。
ましてや、私たちは部活をしている学生ではなく、一人前の社会人として給料をもらっている大人です。
みなさんは、朝、どのような敬意を持って、そして、どのような覚悟を持って、オフィスに足を踏み入れていますか?
私は、中途な挨拶をする者は、自分は中途半端な仕事しかできません。そして、中途半端な人生しか送れません、と自ら言っているように思えるのです。
そんな人たちと、一緒に仕事をしたいと思いますか?
人生をかけて一緒に戦いたいと思いますか?
ブログのサッカーのコーチは、そして、私が教わった剣道の師範は「どんな技を覚えるかよりも、どのように相手に勝つかよりも、まず敬意と覚悟を持って試合に臨む姿勢が大切だ」と教えてくれました。
中途半端はやめて、力いっぱいの挨拶をする会社を私たちで作っていきませんか?
◇◇◇
2009年04月03日
「類人猿の遺構」
人間の脳は、生物としての進化過程をほぼすべて含む形で進化している。爬虫類の脳の外側に哺乳類の脳がかぶさり、類人猿の脳から前頭葉が肥大して人類になったと言われる。
つまり、人類には「古い脳」を「新しい脳」が包み込むような構造になっている。
人類は言語の脳、論理の脳と呼ばれる大脳新皮質の「メモリ」を大きくし、そして、意思の脳、工夫の脳と呼ばれる前頭連合野の「CPU」を発達させた。
しかし、脳の決断は古い脳と新しい脳の重層決定によってなされる。つまり、新しい脳の論理、言語、意識の層だけで決断を作っているように思えて、実は、古い脳の影響を大きく受けている。
古い脳は、呼吸や循環などの身体の生命維持に関わる部位から好悪、快不快など感情に関わる部位を含んでいる。脳はこの部位の利害関係を不可避に受けて決断を下すから、虚偽意識(イデオロギー)が必然的に成立することになる。
しかも、古い脳の処理結果は、論理、言語によって明示的に意識できない。まさに、無意識の領域なのだ。
そこで、類人猿は「群れ」を単位として、社会を形成することを特徴とした動物だ。その群れに対する行動パターンが古い脳にあらかじめインストールされている。だから、人間は生まれながらに群れの論理にコントロールされる。
しかし、人間固有の脳の部位である前頭連合野は、意思の力でこの古い脳が産出した「類人猿の遺構」=イデオロギーと戦う。つまり、論理、言語の灯りで古い脳が算出した無意識に光を当てて、イデオロギーを暴くことができる。
人間はこれら「類人猿の遺構」とせめぎあいながら、人間として成長し、新しい社会を次の世代に受け継いでいる。自分のイデオロギーを認めないこと、それを克服しようとしないことは、「私は類人猿から進化するつもりはありません」と言っているようなものなのだ。
つまり、人類には「古い脳」を「新しい脳」が包み込むような構造になっている。
人類は言語の脳、論理の脳と呼ばれる大脳新皮質の「メモリ」を大きくし、そして、意思の脳、工夫の脳と呼ばれる前頭連合野の「CPU」を発達させた。
しかし、脳の決断は古い脳と新しい脳の重層決定によってなされる。つまり、新しい脳の論理、言語、意識の層だけで決断を作っているように思えて、実は、古い脳の影響を大きく受けている。
古い脳は、呼吸や循環などの身体の生命維持に関わる部位から好悪、快不快など感情に関わる部位を含んでいる。脳はこの部位の利害関係を不可避に受けて決断を下すから、虚偽意識(イデオロギー)が必然的に成立することになる。
しかも、古い脳の処理結果は、論理、言語によって明示的に意識できない。まさに、無意識の領域なのだ。
そこで、類人猿は「群れ」を単位として、社会を形成することを特徴とした動物だ。その群れに対する行動パターンが古い脳にあらかじめインストールされている。だから、人間は生まれながらに群れの論理にコントロールされる。
しかし、人間固有の脳の部位である前頭連合野は、意思の力でこの古い脳が産出した「類人猿の遺構」=イデオロギーと戦う。つまり、論理、言語の灯りで古い脳が算出した無意識に光を当てて、イデオロギーを暴くことができる。
人間はこれら「類人猿の遺構」とせめぎあいながら、人間として成長し、新しい社会を次の世代に受け継いでいる。自分のイデオロギーを認めないこと、それを克服しようとしないことは、「私は類人猿から進化するつもりはありません」と言っているようなものなのだ。
2009年03月30日
ブログ更新
ただ今、開発設計中で、ブログ更新をお休みしています。まもなく「峠」を越えて、再開できる予定です。
2009年02月26日
「メークドラマ」
「仕事で感動できないなら、仕事で感動させられないなら、人生の大半を会社でいるより、家でTVを見ていたほうが良くない?」
「会社に作業をしにくるのでも、労働をしにくるのでもなくて、会社に『物語』を作りにこようよ」、と呼びかけて。
「会社に作業をしにくるのでも、労働をしにくるのでもなくて、会社に『物語』を作りにこようよ」、と呼びかけて。
2009年02月25日
「虫歯とモチベーション」
「人間は『モチベーション』という言葉を使うようになったことで、『モチベーションが上がらない』と言う人が増えた」
言語学(ソシュール学)の丸山圭三郎は「人間は歯を磨くようになったことで、虫歯になるようになった」と著書で。
言語学(ソシュール学)の丸山圭三郎は「人間は歯を磨くようになったことで、虫歯になるようになった」と著書で。
2009年02月20日
「物語を紡(つむ)ぐ」
2月初旬。新しいドロップシッピングサービスの開発を終えたばかりの技術者が言った。
「明日から少し仕事に余裕ができます。だから、毎朝、他の部署の机や玄関の床を拭かせてもらえませんか?」
半年間続いたハードな開発が終わったばかり。リリース直前は徹夜続きの日もあった。
体力だけではない。大規模なシステムのリリース。多額の開発費がかかるという責任感がある。多くのプログラムをミスなく連動して動かすというプレッシャーもある。システムは80%の完成度では稼動しないのだ。稼動しないシステムの価値はゼロだ。
僕だけはなく、朝の会議で聞いていたマネージャー全員がしばらく言葉がでなかった。
大きな負担から解放された彼らからの要求は「2週間の休みをください」ではなく、「早朝に出社して会社の掃除をさせてください」だったからだ。
「今回の成果は私たちだけのものじゃない。業務のみなさんが年末年始も返上で私たちのシステムのテストをしてくれた。私たちの開発の資金を稼ぐために営業のみなさんががんばってくれた。キレイごとを言うつもりはないんですけど、そう思えるんです」
そして、最後に付け加えた。
「自分たちが難しい仕事を終えた今だからら『こそ』、感謝の気持ちを行動で表したいんです」
◇◇◇
彼らは翌日から早朝の掃除を始めた。会社の玄関の床に腰をかがめて。汗をびっしょりかきながら。何度も何度も汚れをこすり落としていった。
掃除を始めた初日から、彼らと一緒に掃除をする社員の輪が少しずつ広がっていった。
だが、僕はマネージャーたちに、「自主的な参加じゃなくて、全員で参加しないか?」と切り出した。
全員が納得して参加してくれる保障はない。反発が出るかもしれない。反応が白けたものになってしまうかもしれない。自主的な参加であれば、誰も傷つかずに済むのに。
掃除を始めた技術者たちも最後まで反対した。周りが「余計なことをしないでくれ」という反応になってしまうことを彼らは恐れた。だけど、僕は腹を括った。
無駄にはできない。経営者としてこの「物語」を単なるデキゴトに終わらせるわけにはいかない。会社全体で共有できる「物語」にしなければならない。今回のような「物語」は今後30年間、もう二度とないかもしれない。
憎まれ役になってもいい。彼らの「物語」をつぶしてしまうようならば、僕に経営者の資格はない。そして、この「物語」に共鳴しないような会社ならば、すぐに解散してもいい、とまで覚悟した。
そして、今日まで、1週間以上、通勤が1時間以上かかる社員も前日終電までがんばった社員も、全員が参加してくれた。
ある社員は、「開発のメンバーだけにイイカッコはさせられないですから」。別の社員は、「確かに朝は眠いんですけど、明日も来ますよ」と話してくれた。笑顔に曇りはなかった。
会社の玄関の床は、洗い立てのバスタオルのようになった。
◇◇◇
会社を会社たるものにしているのは「物語」の共有だ、と僕は思う。決して利益や業績だけを追うだけが会社なのではない。
企業理念も中期計画も、ある意味、概念や数値で記述された会社の「物語」だ。
しかし、社員が感じる最も身近な物語は、ひとりひとりがどんな思いで働いているかという姿勢そのものだ。その姿で感動させることができるか。そして、その姿で感動することできるか。僕らはその姿勢を問われている。
「僕は、僕」。「仕事とプライベートは別」。会社と、また、別の社員と「物語」を共有できない、したくないのならば、企業で働く必要はないのかもしれない。
自分のひとりの責任ではなく、会社丸ごとの責任を負うことで、地面に足がめり込むほど荷物は重い。だけれど、そうして初めて人は成長していく。
個人の利益、経験、技術だけを追う会社では、「物語」が問われることはない。問われないばかりか、むしろ、笑い飛ばされてしまうだろう。
もし、会社での「物語」が帰宅後に見るテレビ番組や休日に観る映画、通勤電車の漫画よりつまらないものだったら、その会社で人生をかけて働く価値はあるだろうか。
「物語」を紡(つむ)ぐ。
「物語」は語り手だけのものではない。語り手と聞き手が糸をよりあわせるように一緒につくりだすものだ。大切なのは語り手が意味を送り出すこと、聞き手がそれを受け止めること。
リアルでは、最も困難な仕事を成し遂げた社員たちが、その成果を誇ることも、対価を求めることもなく、まず自分の成果を支えてくれた人たちに感謝した、という「物語」が生まれた。
このような「物語」が縦糸、そして、横糸となり、リアルという会社の物語がこれから編まれ続けていく。編み続けていく。
「明日から少し仕事に余裕ができます。だから、毎朝、他の部署の机や玄関の床を拭かせてもらえませんか?」
半年間続いたハードな開発が終わったばかり。リリース直前は徹夜続きの日もあった。
体力だけではない。大規模なシステムのリリース。多額の開発費がかかるという責任感がある。多くのプログラムをミスなく連動して動かすというプレッシャーもある。システムは80%の完成度では稼動しないのだ。稼動しないシステムの価値はゼロだ。
僕だけはなく、朝の会議で聞いていたマネージャー全員がしばらく言葉がでなかった。
大きな負担から解放された彼らからの要求は「2週間の休みをください」ではなく、「早朝に出社して会社の掃除をさせてください」だったからだ。
「今回の成果は私たちだけのものじゃない。業務のみなさんが年末年始も返上で私たちのシステムのテストをしてくれた。私たちの開発の資金を稼ぐために営業のみなさんががんばってくれた。キレイごとを言うつもりはないんですけど、そう思えるんです」
そして、最後に付け加えた。
「自分たちが難しい仕事を終えた今だからら『こそ』、感謝の気持ちを行動で表したいんです」
◇◇◇
彼らは翌日から早朝の掃除を始めた。会社の玄関の床に腰をかがめて。汗をびっしょりかきながら。何度も何度も汚れをこすり落としていった。
掃除を始めた初日から、彼らと一緒に掃除をする社員の輪が少しずつ広がっていった。
だが、僕はマネージャーたちに、「自主的な参加じゃなくて、全員で参加しないか?」と切り出した。
全員が納得して参加してくれる保障はない。反発が出るかもしれない。反応が白けたものになってしまうかもしれない。自主的な参加であれば、誰も傷つかずに済むのに。
掃除を始めた技術者たちも最後まで反対した。周りが「余計なことをしないでくれ」という反応になってしまうことを彼らは恐れた。だけど、僕は腹を括った。
無駄にはできない。経営者としてこの「物語」を単なるデキゴトに終わらせるわけにはいかない。会社全体で共有できる「物語」にしなければならない。今回のような「物語」は今後30年間、もう二度とないかもしれない。
憎まれ役になってもいい。彼らの「物語」をつぶしてしまうようならば、僕に経営者の資格はない。そして、この「物語」に共鳴しないような会社ならば、すぐに解散してもいい、とまで覚悟した。
そして、今日まで、1週間以上、通勤が1時間以上かかる社員も前日終電までがんばった社員も、全員が参加してくれた。
ある社員は、「開発のメンバーだけにイイカッコはさせられないですから」。別の社員は、「確かに朝は眠いんですけど、明日も来ますよ」と話してくれた。笑顔に曇りはなかった。
会社の玄関の床は、洗い立てのバスタオルのようになった。
◇◇◇
会社を会社たるものにしているのは「物語」の共有だ、と僕は思う。決して利益や業績だけを追うだけが会社なのではない。
企業理念も中期計画も、ある意味、概念や数値で記述された会社の「物語」だ。
しかし、社員が感じる最も身近な物語は、ひとりひとりがどんな思いで働いているかという姿勢そのものだ。その姿で感動させることができるか。そして、その姿で感動することできるか。僕らはその姿勢を問われている。
「僕は、僕」。「仕事とプライベートは別」。会社と、また、別の社員と「物語」を共有できない、したくないのならば、企業で働く必要はないのかもしれない。
自分のひとりの責任ではなく、会社丸ごとの責任を負うことで、地面に足がめり込むほど荷物は重い。だけれど、そうして初めて人は成長していく。
個人の利益、経験、技術だけを追う会社では、「物語」が問われることはない。問われないばかりか、むしろ、笑い飛ばされてしまうだろう。
もし、会社での「物語」が帰宅後に見るテレビ番組や休日に観る映画、通勤電車の漫画よりつまらないものだったら、その会社で人生をかけて働く価値はあるだろうか。
「物語」を紡(つむ)ぐ。
「物語」は語り手だけのものではない。語り手と聞き手が糸をよりあわせるように一緒につくりだすものだ。大切なのは語り手が意味を送り出すこと、聞き手がそれを受け止めること。
リアルでは、最も困難な仕事を成し遂げた社員たちが、その成果を誇ることも、対価を求めることもなく、まず自分の成果を支えてくれた人たちに感謝した、という「物語」が生まれた。
このような「物語」が縦糸、そして、横糸となり、リアルという会社の物語がこれから編まれ続けていく。編み続けていく。
2009年02月19日
「男のブラ」
「男が着けるブラが売れ始めているらしい。」
今日、リーマンショックよりも大きな衝撃を受けました。
今日、リーマンショックよりも大きな衝撃を受けました。
2009年02月18日
「労働と仕事」
「自分の時間を切り売りして働くのが『労働』。自分の時間を投資して会社作りをするのが『仕事』。君たちはどっちだ?」
労働と仕事の違いは社会学者の今村仁司が著書『仕事』で述べているように、ギリシャ時代から問い続けられている古くて、新しい問題だ。著書では、ギリシャでは芸術作品を作る「制作」の意味が仕事に込められていた、という。現代では、作品=会社だと思う。
労働と仕事の違いは社会学者の今村仁司が著書『仕事』で述べているように、ギリシャ時代から問い続けられている古くて、新しい問題だ。著書では、ギリシャでは芸術作品を作る「制作」の意味が仕事に込められていた、という。現代では、作品=会社だと思う。
2009年02月17日
「感情か、論理か」
「感情でモノを考える人は出来事を自分が分かる範囲で単純化して、二極化しようとする。しかし、世界はもっと複雑だ。複雑なままに機能している。だから、それを知るための論理が必要なのだ。」
「まず、感情で考えてしまうと、善悪がはっきりした表面的な理解で思考が停止してしまう。そうしちゃえばラクだから。」と話して。
「まず、感情で考えてしまうと、善悪がはっきりした表面的な理解で思考が停止してしまう。そうしちゃえばラクだから。」と話して。
2009年02月13日
「後半の部分は賛成だ」
「ヘミングウェイはこう言った。『人生は素晴らしい。 戦い抜く価値がある。』後半の部分は賛成だ。」
映画「セブン」のラスト。サマセット刑事(モーガン・フリーマン)のセリフ。
映画「セブン」のラスト。サマセット刑事(モーガン・フリーマン)のセリフ。
2009年02月12日
「男気(おとこぎ)」を科学する
リアルのリーダーシップ論のキャッチフレーズは「男気」だ。
しかし、ただ、こんな古くさい言葉では本当の狙いが分からないと思う。そこで、「男気」を科学してみた。
前提となる「男気」の定義として、「リーダーが必ず持つべきメンタリティーである」、とリアルは置く。
では、その「男気」とは何なのか?
まず、「男気」は群れの防衛に責任を負うために必要なメンタリティーだと考えられる。そして、群れを防衛するリーダーに最も必要なのは「勇気」だ。リーダーが勇気を発揮することができなければ、群れを守ることはできない。
それでは、群れを守る際に勇気を発揮するというのはどのような行動なのか? また、それを企業の現場に当てはめるとどうなるのか?
具体的に4つの行動に当てはめて考えてみる。
(1)「逃げない」
群れを守るにはリーダーは外敵から逃げずに立ち向かわなければならない。しかし、企業の現場では、外敵に立ち向かうよりも難しいのは「内敵」。つまり、自分自身と部下についての関係で逃げてはならないということだ。人間関係に弱いリーダーが増えてしまっている現代で、正しいことのためなら孤立する勇気を持ったリーダーが求められている。
(2)「ブレない」
外敵から群れを守るにも、食糧を確保するためにも、リーダーは明確な方針を持たなければならない。それがなければ、群れを危険にさらしてしまう。企業でも、リーダーは基本的な方針にブレがあってはいけない。そして、「なんとかなるさ」という甘い思い込みと、外部からの批判されて方針をすぐに変えてしまうという安易さを克服しなければならない。
(3)「カッコつけない」
形式にこだわるリーダーは弱い。リーダーは自分の立場や損得を超えて実質的な「中身」に意識を集中すべきだ。企業でも、カッコつけたり、表面を取りつくろうリーダーは信頼されない。大切なのは形式よりも中身、ウソはつかず、すべてをさらけ出す勇気が必要だ。
(4)「ケチケチしない」
大切な時に群れのために何が貢献できるのかがリーダーには問われている。企業でも、部下におごったりするような表面的な気前の良さが大切なのではない。リーダーが自分自身の時間、体力、メンタルをケチケチせずに思い切って仕事に投げ込んでいる姿勢が評価されるのだと思う。「何の得になるのですか?」ではなく、「何が自分にできますか?」と先に問うべきだ。
この4つの行動を示すことができるリーダーを「あの人は男気がある」と言うのではないか、と考える。
しかし、残念ながら、このような文化はリーダーから部下へ直接継承されるもので、簡単にマニュアル化できるものではない。だから、本当の意味で「男気」のあるリーダーを育成するのは難しい。
部下と首っ引きで対峙し、そして、自分の意識まで部下を引き上げることだ。時間もかかるし、エネルギーも必要だ。
「自分のために」という個人主義の組織や「みんな一緒に」という仲良し組織では文化は継承されることはない。継承されずに劣化するだけだから。
ただ、マニュアル化は無理でも、リーダーの気質を継続的に継承させていくという仕組みづくりをしてくのが経営者としての責任だと思う。
幸いリアルは「男気」のあるリーダーに恵まれている、と思う。それも、男性リーダーだけではく、腹のすわった女性リーダーが多い。
「逃げない、ブレない、カッコつけない、ケチケチしない」
(1)自ら進んで重い責任を引き受けながら、仕事のためには自分にも部下にも厳しく、(2)相手によって基準を変えるのではなく厳しい完成品質を自分にも課し、(3)役職や立場など忘れて不器用なほどに率直で、正直で、(4)「それが自分のために何の得になるんですか?」と聞くことすらせずに、仕事に自分のすべてを投げ込んでいる。
経営者としての僕自身がそうとうヘボでなければ、こういう会社が失敗するはずがない、と僕は心から思う。
しかし、ただ、こんな古くさい言葉では本当の狙いが分からないと思う。そこで、「男気」を科学してみた。
前提となる「男気」の定義として、「リーダーが必ず持つべきメンタリティーである」、とリアルは置く。
では、その「男気」とは何なのか?
まず、「男気」は群れの防衛に責任を負うために必要なメンタリティーだと考えられる。そして、群れを防衛するリーダーに最も必要なのは「勇気」だ。リーダーが勇気を発揮することができなければ、群れを守ることはできない。
それでは、群れを守る際に勇気を発揮するというのはどのような行動なのか? また、それを企業の現場に当てはめるとどうなるのか?
具体的に4つの行動に当てはめて考えてみる。
(1)「逃げない」
群れを守るにはリーダーは外敵から逃げずに立ち向かわなければならない。しかし、企業の現場では、外敵に立ち向かうよりも難しいのは「内敵」。つまり、自分自身と部下についての関係で逃げてはならないということだ。人間関係に弱いリーダーが増えてしまっている現代で、正しいことのためなら孤立する勇気を持ったリーダーが求められている。
(2)「ブレない」
外敵から群れを守るにも、食糧を確保するためにも、リーダーは明確な方針を持たなければならない。それがなければ、群れを危険にさらしてしまう。企業でも、リーダーは基本的な方針にブレがあってはいけない。そして、「なんとかなるさ」という甘い思い込みと、外部からの批判されて方針をすぐに変えてしまうという安易さを克服しなければならない。
(3)「カッコつけない」
形式にこだわるリーダーは弱い。リーダーは自分の立場や損得を超えて実質的な「中身」に意識を集中すべきだ。企業でも、カッコつけたり、表面を取りつくろうリーダーは信頼されない。大切なのは形式よりも中身、ウソはつかず、すべてをさらけ出す勇気が必要だ。
(4)「ケチケチしない」
大切な時に群れのために何が貢献できるのかがリーダーには問われている。企業でも、部下におごったりするような表面的な気前の良さが大切なのではない。リーダーが自分自身の時間、体力、メンタルをケチケチせずに思い切って仕事に投げ込んでいる姿勢が評価されるのだと思う。「何の得になるのですか?」ではなく、「何が自分にできますか?」と先に問うべきだ。
この4つの行動を示すことができるリーダーを「あの人は男気がある」と言うのではないか、と考える。
しかし、残念ながら、このような文化はリーダーから部下へ直接継承されるもので、簡単にマニュアル化できるものではない。だから、本当の意味で「男気」のあるリーダーを育成するのは難しい。
部下と首っ引きで対峙し、そして、自分の意識まで部下を引き上げることだ。時間もかかるし、エネルギーも必要だ。
「自分のために」という個人主義の組織や「みんな一緒に」という仲良し組織では文化は継承されることはない。継承されずに劣化するだけだから。
ただ、マニュアル化は無理でも、リーダーの気質を継続的に継承させていくという仕組みづくりをしてくのが経営者としての責任だと思う。
幸いリアルは「男気」のあるリーダーに恵まれている、と思う。それも、男性リーダーだけではく、腹のすわった女性リーダーが多い。
「逃げない、ブレない、カッコつけない、ケチケチしない」
(1)自ら進んで重い責任を引き受けながら、仕事のためには自分にも部下にも厳しく、(2)相手によって基準を変えるのではなく厳しい完成品質を自分にも課し、(3)役職や立場など忘れて不器用なほどに率直で、正直で、(4)「それが自分のために何の得になるんですか?」と聞くことすらせずに、仕事に自分のすべてを投げ込んでいる。
経営者としての僕自身がそうとうヘボでなければ、こういう会社が失敗するはずがない、と僕は心から思う。
2009年02月10日
「永井くんの手紙」
詳しい経過は省くが、小学校5年生の冬、病気になって40日あまり入院した。それまで39度の熱があっても学校を休もうとしなかった僕は、腹に刺すような痛みがあり、白いろうそくのような顔色になっていたのに、病院に行こうとしなかった。
それで、学校で倒れた。
病気は十二指腸潰瘍。診察した医師がびっくりして即入院となった。潰瘍からの出血で体中の血液が20%失われていたという。大人のサラリーマンが患うようなストレス病だ。
別に人間関係で悩んだのではない。「勉強をしすぎた」のが原因だった。
そのときは、小学生なのに、連日徹夜続きで勉強をしていた。新潟の田舎、まさか「お受験」があるわけではない。
大学ラグビー主将だった新任教師に乗せられて、「良くできました」シール欲しさに毎日徹夜をした。僕と二人で一等賞を争っていたヤツもその後、倒れたらしい。俺らはバカだ。
病院では、小学生では珍しい病気だというので、症例を見ようとあちこちの病院から医師たちがたくさんかけつけた。苦しい検査も多かったが、泣かずに耐えた。
モルモット。実験台。まな板の上の鯉。さすがの悪ガキもこれにはこたえた。自分が小さくしぼんで思えてしょぼくれていた。おまけに、食べ盛りが流動食が中心の病院食だけになった。
◇◇◇
病院は地域で一番大きい病院。小児科病棟には「学校」もあった。長期の入院で学校に通えない10人ほどがいた。
肝臓、腎臓の病気、ぜんそく、結核・・・、みな治療が長くかかる。彼らは病院内にある教室に通い、病室に学習机を置いて勉強をしていた。
入院直後、何度か子どもたちを見かけたが、当然だけど、みんな、なんだか暗い顔をしていた。
向こうは新入りに興味があったらしい。入院して1週間ぐらいで、同い年ぐらいの男の子が何かとちょっかいを出してきた。
病室の壁にドッジボールのボールをぶつけて逃げる「ピンポンダッシュ」やトイレのスリッパを隠されるなどの被害にあった。
しかし、病室でゴミ箱のゴミをまこうとしている「犯人」を見つけて、軽く取っ組み合いのケンカをした。その後、15分で仲良くなった。
少し黒ずんだおかしな色をした顔が不自然に腫れていた。聞くと、肝臓の病気で2年以上入院しているという。彼は永井くんといった。
悪そうな顔をしている割にはいいヤツで、病院内では「違法」なブツをくれた。病院食では食えないポテチやポッキーだ。
「いいな、お前。夏はプールで泳げるんだろ」
「オレは、水泳なんか嫌いだ」
事実、僕はプールが嫌いだった。簡単に熱血教師に乗せられた僕は、勉強以外でもがんばった。そして、不本意ながら、クロール200メートルの学校に選ばれてしまった。泳ぎが上手だったわけでなない。まっすぐ泳げなかった。
でも、熱血教師は「お前、ガッツあるから、200メートルな」と実力以外の要素で代表に選ばれてしまった。25メートルプール4往復。150メートルを超えると、苦しくなり、口からも、鼻からも、水を飲んでしまうほどなのに。
そして、僕は5年生の夏休み。学校から逃亡した。選手だけに課せられた特訓に出ずに、理由をつけて東京の叔父のところへ遊びに行ってしまった。200メートルの選手はほかの不幸なヤツが選ばれた。
しかし、水泳には興味なさそうな僕を尻目に永井くんはプールの話を止めない。肝臓に病気があった永井くんはプールに入ることができなかったのだ。
◇◇◇
同じ学年の僕と永井くんはさっそくコンビを組んだ。
小児科の廊下で本気モードのドッジボール大会。看護婦さんの目を盗んで注射器を盗み出して、注射器水鉄砲バトル(当然、針は外した。が、廊下中、水浸し)。
そして、屋上ラグビー。
入るのが禁止されたいた病院の屋上。なぜか、人工芝のテニスコートになっていた。このテニスコートで小学生どうし(女子も参加)でラグビーをした。
看護婦さんに見つかって連れ戻されるまで1時間ほど。あまりに興奮しすぎてほとんど覚えていない。病棟の薄暗さから放たれた空のまぶしさと人工芝を裸足で走り回った感触だけを覚えている。
「小学生がラグビー?、入院中の子どもたちが?」
発覚後、大変なことになるかと思いきや、なぜか、僕たちは叱られなかった。看護婦さんたちは、「学級のみんな、あんに楽しそうな顔するのを初めて見た」と感謝されたぐらいだった。あんなに豪快ないたずらをして、感謝されたのは生まれて初めてだ。
◇◇◇
そして、1ヵ月後の退院の日。僕は「これでやっとシャバに帰れる」という気分で浮かれていた。やっとまずい病院食から解放だ。カツどんが食べられる。
でも、入院も悪くなかった。永井くんたちがいたから。
退院の前日、学級の子どもたちが集まって病室でお菓子を食べながら、お別れ会。でも、永井くんは、こなかった。あれほど仲がよかったのに、退院間際はぎくしゃくしていたのだ。
別の子どもから折りたたんだびんせんを渡された。「いっぱいプールで泳げよ。そして、その様子を手紙に書いてくれ」と簡単に書いてあった。鼻の奥でコップの水のようなものがくすぐったく揺れた。
◇◇◇
その夏は、嫌だった水泳大会に出るために1日も休まずにプールに通った。
永井くんに手紙を書くために。
それで、学校で倒れた。
病気は十二指腸潰瘍。診察した医師がびっくりして即入院となった。潰瘍からの出血で体中の血液が20%失われていたという。大人のサラリーマンが患うようなストレス病だ。
別に人間関係で悩んだのではない。「勉強をしすぎた」のが原因だった。
そのときは、小学生なのに、連日徹夜続きで勉強をしていた。新潟の田舎、まさか「お受験」があるわけではない。
大学ラグビー主将だった新任教師に乗せられて、「良くできました」シール欲しさに毎日徹夜をした。僕と二人で一等賞を争っていたヤツもその後、倒れたらしい。俺らはバカだ。
病院では、小学生では珍しい病気だというので、症例を見ようとあちこちの病院から医師たちがたくさんかけつけた。苦しい検査も多かったが、泣かずに耐えた。
モルモット。実験台。まな板の上の鯉。さすがの悪ガキもこれにはこたえた。自分が小さくしぼんで思えてしょぼくれていた。おまけに、食べ盛りが流動食が中心の病院食だけになった。
◇◇◇
病院は地域で一番大きい病院。小児科病棟には「学校」もあった。長期の入院で学校に通えない10人ほどがいた。
肝臓、腎臓の病気、ぜんそく、結核・・・、みな治療が長くかかる。彼らは病院内にある教室に通い、病室に学習机を置いて勉強をしていた。
入院直後、何度か子どもたちを見かけたが、当然だけど、みんな、なんだか暗い顔をしていた。
向こうは新入りに興味があったらしい。入院して1週間ぐらいで、同い年ぐらいの男の子が何かとちょっかいを出してきた。
病室の壁にドッジボールのボールをぶつけて逃げる「ピンポンダッシュ」やトイレのスリッパを隠されるなどの被害にあった。
しかし、病室でゴミ箱のゴミをまこうとしている「犯人」を見つけて、軽く取っ組み合いのケンカをした。その後、15分で仲良くなった。
少し黒ずんだおかしな色をした顔が不自然に腫れていた。聞くと、肝臓の病気で2年以上入院しているという。彼は永井くんといった。
悪そうな顔をしている割にはいいヤツで、病院内では「違法」なブツをくれた。病院食では食えないポテチやポッキーだ。
「いいな、お前。夏はプールで泳げるんだろ」
「オレは、水泳なんか嫌いだ」
事実、僕はプールが嫌いだった。簡単に熱血教師に乗せられた僕は、勉強以外でもがんばった。そして、不本意ながら、クロール200メートルの学校に選ばれてしまった。泳ぎが上手だったわけでなない。まっすぐ泳げなかった。
でも、熱血教師は「お前、ガッツあるから、200メートルな」と実力以外の要素で代表に選ばれてしまった。25メートルプール4往復。150メートルを超えると、苦しくなり、口からも、鼻からも、水を飲んでしまうほどなのに。
そして、僕は5年生の夏休み。学校から逃亡した。選手だけに課せられた特訓に出ずに、理由をつけて東京の叔父のところへ遊びに行ってしまった。200メートルの選手はほかの不幸なヤツが選ばれた。
しかし、水泳には興味なさそうな僕を尻目に永井くんはプールの話を止めない。肝臓に病気があった永井くんはプールに入ることができなかったのだ。
◇◇◇
同じ学年の僕と永井くんはさっそくコンビを組んだ。
小児科の廊下で本気モードのドッジボール大会。看護婦さんの目を盗んで注射器を盗み出して、注射器水鉄砲バトル(当然、針は外した。が、廊下中、水浸し)。
そして、屋上ラグビー。
入るのが禁止されたいた病院の屋上。なぜか、人工芝のテニスコートになっていた。このテニスコートで小学生どうし(女子も参加)でラグビーをした。
看護婦さんに見つかって連れ戻されるまで1時間ほど。あまりに興奮しすぎてほとんど覚えていない。病棟の薄暗さから放たれた空のまぶしさと人工芝を裸足で走り回った感触だけを覚えている。
「小学生がラグビー?、入院中の子どもたちが?」
発覚後、大変なことになるかと思いきや、なぜか、僕たちは叱られなかった。看護婦さんたちは、「学級のみんな、あんに楽しそうな顔するのを初めて見た」と感謝されたぐらいだった。あんなに豪快ないたずらをして、感謝されたのは生まれて初めてだ。
◇◇◇
そして、1ヵ月後の退院の日。僕は「これでやっとシャバに帰れる」という気分で浮かれていた。やっとまずい病院食から解放だ。カツどんが食べられる。
でも、入院も悪くなかった。永井くんたちがいたから。
退院の前日、学級の子どもたちが集まって病室でお菓子を食べながら、お別れ会。でも、永井くんは、こなかった。あれほど仲がよかったのに、退院間際はぎくしゃくしていたのだ。
別の子どもから折りたたんだびんせんを渡された。「いっぱいプールで泳げよ。そして、その様子を手紙に書いてくれ」と簡単に書いてあった。鼻の奥でコップの水のようなものがくすぐったく揺れた。
◇◇◇
その夏は、嫌だった水泳大会に出るために1日も休まずにプールに通った。
永井くんに手紙を書くために。
2009年02月09日
「男気」
「俺がマネージャーに求めているのは、売上や利益だけではない。男気(おとこぎ)だ。」
「売上や利益だけを追っても強い会社はできない」と話して。
「売上や利益だけを追っても強い会社はできない」と話して。
2009年02月05日
「成功は一人ではできない」
「正解は一人でも出せるが、成功は一人ではできない。」
しかも、仕事、会社で「個人の成功」には意味はない。だから、チームプレイが必要だ、と話して。
しかも、仕事、会社で「個人の成功」には意味はない。だから、チームプレイが必要だ、と話して。
2009年02月04日
「リアル、最強モード」
新ドロップシッピングサービスをリリースした翌日、また、うれしいニュースが飛び込んできました。
1月の売上、利益が各部門で過去最高となりました。前月比、前年同月比で30%近い伸び率となり、過去どうしても破れなかった社内目標の「売上の壁」を大きく突破しました。
さらに、ドロップシッピング事業の売上増は目覚しいものがあり、今期の目標を前倒しで達成しました。卸売事業も過去最高水準まで売上を伸ばしました。
昨年から取り組んできた組織改革の成果もあり、営業、開発、管理とも、現メンバーがリアル史上「最強のメンバー」であるとは間違いないと思います。
金融危機による不況で上場企業が大きな赤字額を出す中、卸売、卸売、広告の事業が連動するという難しい事業で実績を残せたことはリアル全員が誇りに思っていい成果だと思います。
大切なのは、売上、利益の業績面だけでなく、メンバーの仕事に対する姿勢の変化だと思います。事業に対する理解、成果に対する責任感、、「フォア・ザ・チーム」の意識が大きく変わりました。まだ、完成形ではありませんが、大きく手ごたえを感じています。
ただ、短期的な成果で楽観的になることは避けたいと思います。今回の実績もまだ少数のヒット商品や企画商品に依存している部分もあり、構造的な実績の底上げを確認できるまで繰り返しチャレンジしていくことが必要です。
リアルでは2月は中期計画を見直す次期です。今回の成果はいったんカッコに入れて、今後3年間のリアルの「あるべき姿」を描き直してみたいと思います。
1月の売上、利益が各部門で過去最高となりました。前月比、前年同月比で30%近い伸び率となり、過去どうしても破れなかった社内目標の「売上の壁」を大きく突破しました。
さらに、ドロップシッピング事業の売上増は目覚しいものがあり、今期の目標を前倒しで達成しました。卸売事業も過去最高水準まで売上を伸ばしました。
昨年から取り組んできた組織改革の成果もあり、営業、開発、管理とも、現メンバーがリアル史上「最強のメンバー」であるとは間違いないと思います。
金融危機による不況で上場企業が大きな赤字額を出す中、卸売、卸売、広告の事業が連動するという難しい事業で実績を残せたことはリアル全員が誇りに思っていい成果だと思います。
大切なのは、売上、利益の業績面だけでなく、メンバーの仕事に対する姿勢の変化だと思います。事業に対する理解、成果に対する責任感、、「フォア・ザ・チーム」の意識が大きく変わりました。まだ、完成形ではありませんが、大きく手ごたえを感じています。
ただ、短期的な成果で楽観的になることは避けたいと思います。今回の実績もまだ少数のヒット商品や企画商品に依存している部分もあり、構造的な実績の底上げを確認できるまで繰り返しチャレンジしていくことが必要です。
リアルでは2月は中期計画を見直す次期です。今回の成果はいったんカッコに入れて、今後3年間のリアルの「あるべき姿」を描き直してみたいと思います。
2009年02月03日
「現時点で国内最高のEコマースサービス(当社比)」
現ユーザーのための先行リリースとなりますが、新しいリアルドロップシッピング、リアルマーケットが今日、リリースされました。
□新リアルドロップシッピング
http://ds.realcoms.co.jp/
□新リアルマーケット
http://realcoms.co.jp/
先日、日経MJで報道されたように、先進的で、野心的ないくつかのサービスを搭載したのに加え、リアル伝統の仕入、在庫、出荷、決済、店舗構築、集客などをワンストップで行えるサービスもブラッシュアップされました。サービスの土台では、基幹システムが各サイトの物流、金流、商流を一括で統合管理しています。
親バカかもしれませんが、大手ショッピングサイト、ショッピングモールも含めて現時点で国内最高レベルのEコマースサービスを今回作り上げることができたのではないか、と僕個人は思っています。
当初、サービスの有料化は「タブー視」されていましたが、同じ価格、同じ商品が並んでしまうドロップシッピングの市場の「あるべき姿」とはどのようなものか、を社内でじっくり議論して決断をしました。
販売商品のすべてを対象とするプレゼントサービスや販売数の最も多いショップがショッピングモールで商品の独占販売権を得るサービスなども、Eコマースの理想を追求する姿勢から生まれました。
また、開発には多くの困難がありました。年末からリリースまでほとんど休まずにサービスの完成に心血を注いだスタッフもいます。「夢の中まで、プログラムのロジックが出てくる」と話すスタッフもいます。
そういったリアルのスタッフの「モノづくり」に対する思いを結集してのリリースです。
多くの機能を搭載しているため、サービスリリース当初は使いにくい部分もあるかもしれません。ただ、リアルが目指したドロップシッピングの「あるべき姿」が伝わるようなサービスになっていると思います。
ぜひ、会員の皆さんに使い倒していただければと思います。ありがとうございました!
□新リアルドロップシッピング
http://ds.realcoms.co.jp/
□新リアルマーケット
http://realcoms.co.jp/
先日、日経MJで報道されたように、先進的で、野心的ないくつかのサービスを搭載したのに加え、リアル伝統の仕入、在庫、出荷、決済、店舗構築、集客などをワンストップで行えるサービスもブラッシュアップされました。サービスの土台では、基幹システムが各サイトの物流、金流、商流を一括で統合管理しています。
親バカかもしれませんが、大手ショッピングサイト、ショッピングモールも含めて現時点で国内最高レベルのEコマースサービスを今回作り上げることができたのではないか、と僕個人は思っています。
当初、サービスの有料化は「タブー視」されていましたが、同じ価格、同じ商品が並んでしまうドロップシッピングの市場の「あるべき姿」とはどのようなものか、を社内でじっくり議論して決断をしました。
販売商品のすべてを対象とするプレゼントサービスや販売数の最も多いショップがショッピングモールで商品の独占販売権を得るサービスなども、Eコマースの理想を追求する姿勢から生まれました。
また、開発には多くの困難がありました。年末からリリースまでほとんど休まずにサービスの完成に心血を注いだスタッフもいます。「夢の中まで、プログラムのロジックが出てくる」と話すスタッフもいます。
そういったリアルのスタッフの「モノづくり」に対する思いを結集してのリリースです。
多くの機能を搭載しているため、サービスリリース当初は使いにくい部分もあるかもしれません。ただ、リアルが目指したドロップシッピングの「あるべき姿」が伝わるようなサービスになっていると思います。
ぜひ、会員の皆さんに使い倒していただければと思います。ありがとうございました!
2009年02月02日
「お客さん」
「会社に入って『手取り足取り教えてもらえない』と不平を言うのは、ファミレスで『料理が来るのが遅い』と文句を言うようなものだ。しかし、問題なのは、会社では君は『客』ではない、ということだ」
「リアルに『お客さん』はもういないけどね」、と話して。
「リアルに『お客さん』はもういないけどね」、と話して。