鉄郎が十歳の時、母親が死んだ。
父親は離婚もせずに目の前から消え、鉄郎が自分たち親子の状況を把握する頃には、状況は貧困を極めた状態だった。生活費と学費だけで生活は困窮する状態。自分たちは正しく生きたいだけなのに、生活がそれを許してはくれなかった。気付けば鉄郎の母は、水商売で家を空けるようになっていた。

だからといって、鉄郎は母を責めることなどしなかった。むしろ母にそんな仕事をさせる状況を作った父を憎んだ。美しい母の人気は高いのか、生活は少しだけ普通の水準を保てるようになったが、そのかわり客商売の気疲れからか、母は見る間に痩せ細っていく。鉄郎の少年期は、母を心配する気遣いから始まった。
そんなある晩、鉄郎は激しい物音に驚いて目を覚ました。
冬の寒さが激しい日で、風の音は雨戸を閉めてなおガタガタと騒いで五月蝿かったが、聞こえてくる音は更に大きい。響きのない太鼓に似て、最後はシンバルのように夜気を震わせる音は心臓を鷲掴む。鉄郎は玄関のほうから響く音に身構えて母を捜した。

「母さん?」

いつも着ているジャンパーを羽織って玄関まで歩くと、玄関先でドアを背で押さえて座り込む母親を見つけた。

「……鉄郎!」

玄関からの明かりに照らされた母の顔が、いつもより青白かったのは気のせいではないだろう。泣きそうな瞳で鉄郎を抱きしめると、震える唇で「大丈夫よ、大丈夫だから安心して」と囁き、玄関と反対側にある居間の窓へと走った。背後ではドアを叩く音が響いている。古く安造りのアパートは、それだけで壊れそうに思えて鉄郎は怯えた。

「鉄郎、おいで」

ドアを叩く音に合わせて窓と雨戸を少しずつ開けた母が、外に出てこちらに手を伸ばす。鉄郎はいつのまにか窓に置かれていた靴を履きながら、母に手を伸ばした。

何かに怯えるように暗い夜道をひた走る。
靴下を履いていない靴は冷たく、慣れていない夜気は恐ろしい。
手を引く母の足は何も履いておらず寒々しかったが、それでも止まることなく走り続けていた。
鉄郎は、何も母に問うことができなかった。
時々、背後を遠く見つめる母の表情に、恐ろしい者が追いかけて来ると感じて、ただただ転ばないように気をつけていた。先に、大通りが見えていた。国道沿いの道は、夜中でもひっきりなしに自動車が走っている。その通りを越えた向こうに深夜でもやっているコンビニエンスストアがあり、そこまでいけば安心できる気がした。

「なぜ、私から逃げるんですか!!」

遠くから叫び声が聞こえて、思わず振り返る。遠くに、スーツの男が立っていた。
アスファルトに灰色の町並み。同色の灰色のスーツは目立つものではないはずなのに男だけが際立って見える。身体の全てが、この人物は危険だと告げていた。

「貴方は! 帰ってもこない旦那を思い続けることが愛だと思っているのか!!」

叫びながら近づく男の表情は険しく、愛を囁く人間のものではないことは子供の鉄郎にも分かった。酔っているわけでもなく、それでいて正常とも思えない。逃げ場所を探して先の道を見るが、遠くに見えるコンビニエンスストア以外、助けを求められる場所はない。行き着く前に男に捕まるであろうことも容易く予想できた。

――捕まってどうなるのだろう?

考えるが子供の鉄郎には分からない。
殴られるのだろうか? 怒られるのだろうか? 自分たちは何もしていないのに。
鉄郎は何もしなければ誰も自分たちに特別な意思を持たない……そう信じたかった。

「来ないで!」

頭上で母の叫び声が聞こえた。
珍しく声を荒げる母顔に驚いて見上げると、凛として美しい横顔が男を見据えていた。
手を広げて鉄郎を自分の後ろに隠す。広げた細く白い指が、闇の中で際立っていた。

「えぇ、えぇ。私は今もあの人のことを愛してます。だから待ち続けるの。貴方はお客様で他の感情は何もない……だから」

言葉は最後まで続かなかった。
男の手に、光るものが見えたからだ。
母が、鉄郎の手を握り、コンビニエンスストアに向けて走り出す。捕まる、捕まらないの問題ではなく、一刻も早くこの場所から逃げなければ取り返しがつかなくなる、という意識からだろう。目の前の大通りは信号待ちで止まっているのか、なぜか自動車が一台も走っていなかった。

奇跡だ、と思った。
道路の中央にある植込みまでいけば助かると母も思ったのだろう、少しだけ左右を確認して、そのまま道に走り出る。


  グイッ

もうすぐ植込みだというところで、鉄郎の腕が誰かに掴まれた。
わけも分からないまま、母の手を離して尻もちをつく。

「いやぁ!!」
 
叫ぶ母の顔は見えなかった。反射的に見上げた視界にうつった男の顔があまりに怖くて、視線を外せずにいたからだ。
思考は、完全に停止していた。
男は、尻もちをついたままの鉄郎を放って、母に歩みよる。

「……母、さんに近づくな!」

鉄郎は混乱したまま叫び、どうしたらいいのだろうと何度も頭の中で繰り返す。
震える口はなんとか言葉を出せるのに、そのくせ身体は動かなかった。

「鉄郎!!」

突然、母親が名を呼び、鉄郎の身体に覆い被さるように抱きしめる。
次の瞬間、激しい音と衝撃が鉄郎を襲った。





























あの時、どうして少しでも身体が動かなかったのだろう、と鉄郎は今も思う。
気付いたら自分は病院のベッドの上にいた。
信号待ちをしていた自動車は、道路でもみ合っていた自分達のことを、事故の直前まで気付かなかった。
後から知ったことだが、飲酒運転だったそうだ。

母は、尻もちをついていた自分を守るために死んだ。

――だから、母は死んだのだ。




男は、何の罪かは忘れたが、ごく軽い刑に処され、それさえも金持ちだったために免除されたようだった。
警察の話から男は刃物などは持ってはおらず、あの時取り出したのは携帯電話だということを知った。嘘か本当か甚だ怪しいものだが、鉄郎にとっては事実がどうであれ、関係が無かった。何を知ったところで、あの男の行動で、母が死んだという事実は変わらないのだから。

母と自分を撥ねた運転手は、逮捕されて鉄郎の前には現れなかった。
謝罪の手紙が届いたが、鉄郎はそれを読まずに破り捨てた。
子供の鉄郎には、空虚感より怒りの方が勝っていた。封筒ごと千切り破った手紙を投げ捨て、意味も分からず病室を飛び出す。足には擦り傷しかなかったが、四日程度休んだだけなのに足は走ることを忘れたのか、時々ガクリと膝から折れた。
自分の思うようにいかない身体も、人生も憎かった。
だがそれをぶつける相手も解消する術も知らない鉄郎は走りつづけるしかない。
笑い声に気付いて足を止めると、お昼を過ぎた病院の待合室のテレビで、自分が母とよく見ていた番組が放送されていた。点滴をつけた患者たちがそれを見ながら笑いあっている。鉄郎はその光景が無性に腹立たしくて近くにあったゴミ箱を蹴ると、その場から逃げるように再び走り出した。
病院中を走っている途中、何度か看護婦に注意された。
その言葉は患者への一般的な注意で、自分だけにむけて言われている言葉ではない気がして、鉄郎は走ることを止めなかった。
医者は明日には退院できると言っていた。
頭にも身体にも、大きな異常はみられなかったそうで、医者は「幸運なことだよ」と言っていた。
 
立ち止まり、廊下から窓の外を見る。
薄い雲がうかぶ空に鳥が数羽、あそぶように旋回していた。
視線を廊下に戻すと目の前には誰もいない。振りかえってみても自分のことなど誰も見ていないことに気付く。

――?

だんだん怒りがおさまり、かわりに周囲が絵のように見えはじめる。
突然、誰一人として、本当に自分を気にかけてくれる人間などいないのだという事実に気付いて鉄郎は怯えた。これだけ自分が騒いでも、誰一人として本気で止めようとしないし、興味を持つこともない。子供だということで気にかける人間もいるだろう。だが、他者にとってはそれだけの存在でしかないのだ。
歩いて自分の病室に帰り、ドアを開ける。カーテンの開けられた窓から明るい日差しが差しこんで、シーツの白が綺麗だった。
涙が、突然溢れる。
どうして自分は病院中を走ったのだろう。
なにか変わると心の中で考えていた?
誰かが優しくしてくれると、騒げば母が来てくれると、どこかで期待していた?

そんなこと、あるはずがないのに。
無条件で愛してくれた人は、自分のせいで死んでしまったのに。

後ろ手にドアを閉めて、その場に力無く座りこむ。
鉄郎は、事故にあってから、はじめて声を上げて泣いた。





次の日、退院の迎えを待つ鉄郎の元に、母を追いかけて殺した男の父親がやってきた。父親は見舞い金と言って金額の書いていない小切手を差出すと、金額は好きに書いてくれていい、息子が申し訳ないことをした……金で済むようなことではないが……という言葉を添えて子供の鉄郎に頭を下げた。

だが鉄郎はそれを破り捨てた。
言葉が上手く出なかった。気付けば鉄郎は男の父親を殴っていた。
後から考えれば、どうして親を殺された子供のもとに親が来て、子供を守るようなことをするのか。自分にはもう無いのに。失ってしまったのに、どうしてそれを見せつけるのか……そんな感情だったからかもしれない。だが、幼い鉄郎にはそれさえわからず、ただただ悔しくて腹立たしくて、言葉にもならず、殴ることでしか自分の意思を表現できなかった。

男の父親は鉄郎の行動に少なからず驚いているようだったが、自分を殴る鉄郎の腕を押さえる事もなく、されるがままになっていた。多分、それが息子がした罪に対する詫びのひとつだと思っていたのだろう。退院のために迎えに来た母が勤めていた店のオーナーが、ドアを開けるなり暴れている鉄郎を止めた頃には、小さな手はじんじんと熱くなっていた。オーナーに抱きしめられて脱力した鉄郎が男の父親を見ると、不憫そうな眼で立ちつくしたままこちらを見ていた。

鉄郎は、自分がどうしようもなく無力だということを今更ながら痛感させられたのだ。










それから、鉄郎はオーナーの働きでアンタレス、という星の名前がついた施設に入れられた。施設といっても民間で子供を引き取っている家らしく、家の外観は普通の民家と変わらない。家の中には鉄郎のように引き取られた子供が何人かいて鉄郎は初めて気後れしない友達付き合いというものを知った。ケンカはするがいじめというものはなく差別もない。自分が人に生かされているのだと知った。相手にとって自分が無関心な存在でないことを知り、自分もそうありたいと思った。

過ぎていく日々の中、鉄郎は確かに自分は恵まれていると思った。人から見ればどう思われるかは知らないが、確かに自分は恵まれていると確信できる。だが、それだけに鉄郎は時々抑えきれない想いと衝動に苦悩することがあった。

どうして、母親はあれほど苦労をしなければならなかったのだろう?
どうして、あんな死に方をしなければならなかった?
あんな事態になる前にどうして誰もあの男を止めなかったのだろうか。
あの時、ああしていれば助かったのかもしれない、こうしていればマシだったのかもしれない……今更どうにもならないことを無意識に何度も考えて、その度に抑えきれない感情が言葉にならない声になって叫び出る。

そうしてやっと堂々巡りをして、結局自分は母を守れなかったのだと毎回鉄郎は痛感させられるのだ。



――どうして、自分は母を守れなかった?

答は出ない。だからこそ鉄郎は叫ぶ。施設の子供たちは怯えることもなく、そんな鉄郎の様子をただ見つめていた。






END

パロディ小説の中に入れたオリジナル設定。今はこんな感じに書いてますよーくらいのノリで。
もっとマシなの、と思ったけど、他は長いか極端に短いかで、ちょっとした資料として見せられるものがない自分に落胆。