1998年の8月末のこと、ひょんなことからピースボートに「ボランティア通訳」で関わることが決まってしまった。「世界1周」ってコトバ、魔力だと思いません? 無報酬だが、この際世界中を見るのも悪くない。ケニア、南アフリカ、スエズ運河、クロアチア、キューバ、タヒチ、イースター島、マゼラン海峡、ブラジル、南アフリカ...なんて国や島は、自分で海外旅行を組んだとしても、なかなか行けるところではない。
ピースボートのポスターは各地で貼られていたらしいが、それすら見たことがなかったヒロさんである。そこで少しは団体に関する予備知識も必要と思い、ホームページにアクセスしてみた。当時とは文面がかわっているが、ピースボートの「原点」(始まったいきさつ)が書かれてある。
実はこのクルーズが生まれるきっかけとなったのは、その当時国際問題化した「教科書問題」。教科書検定のさい、日本のアジアへの軍事侵略が「進出」と書き換えられたことにたいして、アジアの人々が激しく抗議したというものでした。このとき今まで自分たちが学んできた歴史は本当のことなのだろうか?という疑問と、実際はどうだったのだろうかという興味をもった若者たちが、「じゃあ現地に行って自分たちの目で確かめてみよう」と考えたのが出発点でした。
「書き換えられた」と断定しているところが気になる。しかしもう行くことが決まってしまったので、仕事の閉業の段取りやら、マンション引き払いやら、旅行の準備やらでドタバタである。出航は10月19日だ。出航前の1ヵ月でいろいろな説明会や勉強会があったらしいが、私は「通訳ミーティング」に1度だけ参加することができた。
このとき顔合わせにきていた通訳は約10名で、日本人と外国人が半々くらい。ごった返した大部屋でのミーティングである。各寄港地で企画されるツアーの説明に入ったときだった。と、そのとき、スタッフの1人と思われる男性がなんの自己紹介もないまま、
「日本人には悪いやつがおったんですよ〜」
と大声で、笑いながら通り過ぎていった。
この人だ〜れ? いったい、なにもの?
もう少し前後の文脈を説明させてもらうと、このときは、南太平洋のフィジーのツアーが説明されていたとき、と記憶している。日本軍によるバナバ島虐殺の爪痕....。「なんですか、それ?」「バナナですか」と誰も知らなかったところに、「悪いやつがおったんですよ〜」のツッコミが入ったと思われる。(思われる、って、なにしろ7年前のことですよ。安倍議員や中川議員よりも大変)
万が一の確率で、バナバ人からも戦後補償裁判が起こされるときに備えて、ちょっと一緒に勉強しよう。バナバ島とは南太平洋のキリバス共和国の小島で、戦時中、この島の住民が周辺のナウルなどに強制移住させられている。私が乗船したクルーズとは別のクルーズだが、「バナバ島からきた人たちと交流」レポートがある。
1942年、第二次世界大戦の最中、英軍の後がまとしてバナバ島に上陸した日本軍は、イギリスと同じくリン鉱石に目をつけ、採掘の邪魔となるバナバ人たちをコスラエ、ナウルといった周辺の島々へと強制移住させた。移住先では重労働が課され、罪も無い人に対する虐殺行為も行われていたという。
このツアーはたまたま私の担当となった。フィジーにいるバナバ人のコミュニティを訪問して、一緒に食事をしたり、踊ったりがほとんどだったが、「過去を語ってください」というセッションがもたれた。通訳は、バナバ語→英語→日本語というリレー通訳で行われた。同行したピースボートスタッフは「当時見たこと、思い出してください」と、日本軍の悪事に関するコメントを誘導しているように思えた。
バナバ人のおばあちゃんたち数人が、突然、文部省唱歌を一緒に歌いだした。懐かしそうに歌っていた。「いったいどういう経緯でその歌を覚えたんですか」という質問を繰り返したが、「日本兵が歌っているのをまねた」という返事だった。「日本軍に母語を奪われ、日本語を強制させられた」みたいなコメントは(残念ながら...笑)得られなかった。虐殺についても質問したが「見ました」という人はいなかった。(その後のクルーズのツアーで、証人が現れたのかどうかは、知りませんがね。)
ヒロさん日記はえらく脱線する。話を教科書問題にもどそう。クルーズ中、私は「通訳スタッフ」というピースボート側の立場だったので、ひたすら雇われ人として徹してきたが、クルーズの最終局面でついに、ものを言うときがやってきたのである。
「○○さん、ピースボートの趣旨文はまずくないですか。教科書書き換えは誤報だったんですよ」
すると彼は「あれは、誤報だったんです」と。(ありゃ、えらく簡単に認めるじゃないの。)ところが彼は続けた。「しかし........(エー!、ほんとうなのか!!)」 (つづく)
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