君が代
見わたせば

小学唱歌集初編の第二十三は「君が代」である。

君が代
作詞:古歌(源三位頼政)並びに稲垣ちかいの改作
作曲:英国古代の大家ウェブの古歌
文部省唱歌

一 君が代は。ちよにやちよに。さゞれ
  いしの。巌となりて。こけのむす
  まで。うごきなく。常磐かきはに。
  かぎりもあらじ。
二 きみがよは。千尋の底の。さゞれ
  いしの。鵜のゐる磯と。あらはるゝ
  まで。かぎりなき。みよの栄を。
  ほぎたてまつる。

1881年(明治14年)11月24日
小学唱歌集初編
第二十三

日本国歌の「君が代」とは違っていて、歌詞も長いし、2番まであるし、曲が違う。どういうことか。

そもそも君が代は5つある。

最初の君が代(第一の君が代)
1869年(明治2年)日本に国歌がないと知った薩摩藩軍楽隊の教師フェントンは薩摩藩砲隊長大山弥助(後の陸軍大臣・元帥大山巌)に国歌の作成を提案し、歌詞ができれば自分が作曲すると申し出た。

ジョン・ウィリアム・フェントンはアイルランド人で、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊軍楽隊隊長である。1869年(明治2年)10月、横浜の英国歩兵駐屯地、妙香寺で青年薩摩藩士30余名に軍楽伝習の教習を行ったという。翌1870年(明治3年)6月には英国ベッソン楽器会社から到着した吹奏楽器を使用して実技練習を行い、同年9月、山手公園音楽堂で英国軍楽隊と共に演奏したという。

歌詞の選定は大山巌に一任され、「新作ではなく古歌から選ぶべきである」という助言もあり、薩摩琵琶の曲「蓬莱山」からの一節が使用されることになった。

     君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて、苔のむすまで

この一節、初見は古今和歌集巻七/賀歌の部にある最初の歌で

     我が君は 千世にやちよに さゝれ石の いはほと成て 苔のむすまて(題知らす/読人知らず)

だという。(古今和歌集は、905年(延喜5年)醍醐天皇の勅令を受けた紀貫之や紀友則などによって編まれた和歌集である。)
読人知らずには、本当に作者が分からないものと、作者の身分が卑しいためにあえて読人知らずとしたものがあるという。
「わが君」が「君が代」となったものは、慈円の「拾玉集」に最初に現れ、鎌倉時代には祝賀の神事や仏事にこの歌が唱えられた。また、謡曲や狂言にもこの歌の変型が使われ、江戸時代には、近松の浄瑠璃にも現れている。「蓬莱山」もその浸透先である。

大山はこれをローマ字にしてフェントンに渡したといい、フェントンは通訳の薩摩藩士原田宗助に得意とする武士の歌を歌わせて、メロディーを五線紙に写し取って参考にしたという。

1870年(明治3年)9月8日国歌として「君が代」が発表され、東京越中島での軍事大訓練において明治天皇の前で西謙蔵の指揮により薩摩藩軍楽隊による初演奏が行われた。
賛美歌のような感じの曲できれいな響きだと思うが、歌詞との調和がとれておらず、大変に不評であり、軍楽隊隊員たちの評判は最悪だったという。にもかかわらず、1876年(明治9年)までは公式行事で歌われていたらしい。 ちなみに軍楽隊員は「ザンギリ頭、羽織に股引き、素足に草鞋」であった。

君が代
作詞:不詳 作曲:フェントン

君が代は千代に八千代に
さざれ石の巌となりて
苔のむすまで

1870年(明治3年)9月8日
軍事大訓練において初演奏
歌詞との調和がとれておらず、大変に不評であったが、 1876年(明治9年)までは公式行事で歌われていたらしい。

改訂された君が代(第二の君が代:現在の国歌)
1876年(明治9年)、海軍軍楽隊隊長永倉祐庸(すけつね)(後に中村と改姓)は、「君が代」の改訂を上申した。しかし世情安定せず翌年(1877年(明治10年))西南戦争が起こるなど、改訂作業は進展しなかった。この年フェントンは任期満了のためイギリスに帰国した。
翌1878年(明治11年)、海軍軍楽隊は様式をイギリス式からドイツ式に改めることになり、1879年(明治12)年春、ドイツから音楽教師フランツ・エッケルト(前独国海軍軍楽隊長)が来日した。当初2年契約であった彼の任期は結局21年という長期にわたるものとなった。
1880年(明治13年)1月、海軍省から宮内省に対して正式に君が代の作曲が依頼された。同6月、宮内省から海軍省に数種の楽譜が届けられたが、応募作品の数、応募者氏名などは明らかにされていない。そして7月、楽曲改訂委員に任命された
 海軍軍楽隊長中村祐庸
 陸軍軍楽隊長四元義豊
 宮内省雅楽課一等伶人林廣守
 海軍省雇教師エッケルト
の4人によって審査が行われ、その結果林廣守の君が代が選ばれたという。
これは、雅楽独自の調性で「律音階」という「レミソラシ」の五音音階で作られていて、「レ」で始まり「レ」で終わる。エッケルトがこれを吹奏楽用に編曲した。
ただし、エッケルトが編曲したときには現在のようなハ長調ではなく半音低い変ハ長調であった。
この曲の最初と最後は伴奏もユニゾンで演奏され、和声は一切つけられていない。「日本の国体を考えるならば「君が代」の発声たる「きみがよ」の部分はたとえ千万人集まって歌おうとも、いかほど多数の異なった楽器で合奏するにしても、単一の音をもってしたい。ここに複雑な音を入れることは、声は和しても日本の国体にあわぬような気がする。それゆえ「きみがよは」の発声にはわざと和声をつけぬことにした。発声につけぬから結びにもつけぬほうがよろしい。」ということらしい。
元来、日本伝統音楽に和声がなかったことを、エッケルトがうまくカモフラージュしているんだとか。

1880年(明治13年)11月3日、天長節御宴会において、宮内省雅楽部吹奏楽員による新「君が代」の初演奏が行われた。評判は上々であったという。

作曲者について、実は奥好義(おくよしひさ)が廣守の長男廣季(ひろすえ)と相談しながら作曲したものらしい。1878年(明治11年)10月下旬のことという。二人は当時若手の雅楽員で、奥は後に音楽取調掛を経て高等師範学校教授になった人である。
その奥の晩年の談話によると
「林廣守に命じられて「君が代」の歌に譜を付けただけで、それが国歌であるとは知らなかった。作譜をしたのは当直の晩で、牛込御門内稽古場で林廣季と相談しながら作曲をした。複数の者が作曲に当たった場合、その作品に上級者が代表者として記名し、個人の作品とはしない。それが楽部の慣例である。」
そうである。
この作曲は保育唱歌用のもので、第一回撰成伺(明治10年11月13日)の時に出される筈のものだったようである。(第一回撰成伺には新君が代の双生児に当るという「サザレイシ」の記載があるため。)
しかし林廣守は、既に恒例となっている天長節宴会奏楽での君が代を、フェントン作君が代ではなくこの新君が代に代えて演奏しようと考え、上司との交渉を経てフェントン作君が代を廃曲としたという。
1879年(明治12年)10月29日より3日間に渡って行われた雅楽稽古所の楽舞及び欧洲楽の公演会では初めて新「君か代」がフェントン作「君カ代」に代って演奏されたという。この時の「君が代」吹奏は全吹奏楽器の斉奏であったという。

そして1880年(明治13年)に海軍省から宮内省に対して君が代の作曲が依頼さ れることになって、この新君が代が選ばれ、エッケルトの編曲により現在の君が代となって、11月3日初演奏となる。
宮内庁に保管されているエッケルト自筆の楽譜に1880.10.25という日付が記されている。

1888年(明治21年)、海軍省は吹奏楽用の楽譜を印刷して、諸官庁および条約諸外国に対して公式に配布した。表紙には「大日本禮式」と横書きされ、その下には菊花御紋章、標題の「JAPANISCHE HYMNE」とある。 国歌に制定されたという公的機関の記録は全くないが、海軍省蔵の楽譜には「国歌 君が代」と記載されている。

1893年(明治26年)文部省もこの君が代を全ての祝日に歌うように通達を出している。
1999年(平成11年)8月13日の国旗国歌法公布、施行により、正式にこの君が代が国歌として制定された。

君が代
作詞:不詳 作曲:林廣守

君が代は千代に八千代に
さざれ石の巌となりて
苔のむすまで

1880年(明治13年)11月3日
天長節御宴会において初演奏
これが現在の国歌である。
作曲は、実は奥好義(おくよしひさ)が廣守の長男廣季(ひろすえ)と相談しながら作曲したものらしい。

サザレイシ(第三の君が代)
保育唱歌が、明治13年110曲選曲されて作られた。その中に、林廣守の「君が代」も入っていると同時に「サザレイシ」という題で君が代と全く同じ歌詞に曲を付けた、東儀頼玄(とうぎよりはる)作曲のものも入っている。

文部省の君が代(第四の君が代)
1880年(明治13年)に初演奏された第二の「君が代」は海軍省と宮内省が共同して作ったものであり、法的裏付けもなく、単なる天皇奉祝の歌にすぎない。 国歌制定はそもそも音楽専門家を擁している文部省の管轄であるというわけで、1881年(明治14年)11月24日 発行の小学唱歌集初編第二十三は「君が代」である。
この君が代は外国の曲に君が代の歌詞を当てはめたものである。曲は「英国古代の大家ウェブの古歌」ということになっており、これはサミュエル・ウェブ一世の作品であろうということである。詞はこれまでの君が代と2番に今選和歌集から源頼政の和歌を加え、曲に少し足りなかったため東京師範学校教員稲垣千頴(ちかい)が1番と2番の最後に付け足している。

明治15年1月、文部省は音楽取調掛に対して国歌の制定を発令し、下命を受けた音楽取調掛は4月「音楽取調掛議案」を上申した。しかし、国歌として選定された歌が広く国民の間で歌われなかった場合、政府の面目が失われるとした意見があり、専門学務局長浜尾新は、「普通の唱歌として学校などで充分に試してから国歌とするのが良かろう」と発言したという。
まず学校などで唱歌として充分に試してから国歌とするのが良かろうという意見ははやくから文部省内にあり、唱歌君が代にはつまりそういうねらいがあったらしい。

ラッパ譜君が代(第五の君が代)
1885年(明治18年)12月3日陸軍のラッパ譜で「君が代」という名の曲が制定された。このラッパはド・ミ・ソしか出せないので、当然この「君が代」もド・ミ・ソのみの演奏である。
どの君が代とも違うメロディーだし、歌詞はない。

君が代
作曲:不詳

歌詞はなし。

1885年(明治18年)12月3日
陸軍のラッパ譜として制定

このド・ミ・ソしかないラッパは軍隊で使用する信号ラッパというもので、日本では1866年(慶応2年)の春、徳川幕府がフランス陸軍に習ったのが始まりだという。日本で音符を印刷した最初ものは、1867年(慶応3年)フランス兵学を修めた和歌山藩士、上田良輔が編曲した「騎歩兵大隊教練之号音」というラッパ教本らしい。

信号ラッパは、陸軍はトランペット型、海軍はコルネット型を使用しており、構え方も陸軍では水平に構えるのに対し、海軍は垂直に構えるなどの違いがある。

共通の信号でないと作戦上問題があるということで、1885年(明治18年)12月に、221曲の統一譜を制定。このときの番号1が「君が代」である。
終戦時には陸軍77曲、海軍55曲となっていた。わずかに11曲だけ統一されていたが、譜面の一部が異なったり、題名・用途が違うものがあった。

終戦後、1950年(昭和25年)に警察予備隊の発足に伴い、信号ラッパも新しいラッパ譜で復活し、陸・空の自衛隊に引き継がれている。
海自では軍艦旗が自衛艦旗として復活したこともあり、戦前のラッパ譜も復活している。