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2005/09/26のBlog
[ 11:46 ]
[ アルバム写真 ]
愛知万博が閉幕 2204万人が来場 万博旗、上海へ
9月25日夜で『愛・地球博(Expo 2005)』が閉幕した。開幕以来、延べ2204万人が訪れた。うち440万人が全期間入場券によるリピーターであるという。
9月25日夜で『愛・地球博(Expo 2005)』が閉幕した。開幕以来、延べ2204万人が訪れた。うち440万人が全期間入場券によるリピーターであるという。
我が家もこの24日に入場し、丸1日だけだったが楽しい1日を過ごすことができた。
私がここ30年近く観察してきたところでは、物理学者や、いわゆる科学者、という人間たちには意外に”ひねた”人が多いように見える。そのため、本来なら科学者の一員としてこうした民衆のイベントには率先して参加しなくてはならないはずだが、『人込みは嫌いだ』とか、『研究の邪魔になる』とかいう、かなり皮相的な理由で”敬遠”してしまう、というような典型的な傾向がある。
しかし、こういった万博というような世界中の国々の人々が集うイベント、しかもごくごく普通の人々が一市民として参加するというイベントでは、
人々が何をどう感じるか、
どのようなものを本当に欲しているか、
現在の人はどういった人々なのか、
などを本当に知るにはまたとない機会(たぶん自分の一生でそう何回も訪れることない機会)となるのである。
科学世界のコンファレンスや学会、国際会議、公式訪問などでは、人々の立ち居振る舞いも表向きのもので、本当のところはオブラートに包まれて良く分からない。しかし、こういう民間レベルのイベントでは、日頃の人々の雰囲気や立ち居振る舞いというものが良く分かるのである。忍耐強い国民かどうか、礼儀作法のできた国民かどうか、気さくな国民かどうか、どの国の食べ物が自分に合っているとか、非常にいろんなことが分かるのである。さらには、子供への最高の教育の機会となる。
私がここ30年近く観察してきたところでは、物理学者や、いわゆる科学者、という人間たちには意外に”ひねた”人が多いように見える。そのため、本来なら科学者の一員としてこうした民衆のイベントには率先して参加しなくてはならないはずだが、『人込みは嫌いだ』とか、『研究の邪魔になる』とかいう、かなり皮相的な理由で”敬遠”してしまう、というような典型的な傾向がある。
しかし、こういった万博というような世界中の国々の人々が集うイベント、しかもごくごく普通の人々が一市民として参加するというイベントでは、
人々が何をどう感じるか、
どのようなものを本当に欲しているか、
現在の人はどういった人々なのか、
などを本当に知るにはまたとない機会(たぶん自分の一生でそう何回も訪れることない機会)となるのである。
科学世界のコンファレンスや学会、国際会議、公式訪問などでは、人々の立ち居振る舞いも表向きのもので、本当のところはオブラートに包まれて良く分からない。しかし、こういう民間レベルのイベントでは、日頃の人々の雰囲気や立ち居振る舞いというものが良く分かるのである。忍耐強い国民かどうか、礼儀作法のできた国民かどうか、気さくな国民かどうか、どの国の食べ物が自分に合っているとか、非常にいろんなことが分かるのである。さらには、子供への最高の教育の機会となる。
我が家では、ちょうど35年前の1970年に開催された大阪万博に私も妻も子供時代に共に参加していた。その時の記憶はすでに遠い記憶となり、細かいところは何一つ思い出せない。が、しかし、万博に行ったという記憶、とても暑かったという記憶、何時間も待って月の石を見たという記憶、ドイツ館で生まれて初めて食べたハンバーグの固さの記憶、アフリカ人の青くすら見えるような肌の黒さや白い歯の記憶、こうしたさまざまな”印象”が記憶の断片として残り、それが子供時代の良き思い出の1つとなっている。自分の家庭の1コマとなり、家族というイメージがそういったものの積み重ねで構築されているのである。
私も妻もこうしたことを良く理解しているので、今回は大変かも知れないが、何とか閉幕までに子供達にこの体験をさせようと考えて参加したのである。
我々の予想通り、夜行バスで名古屋入りし、会場まで電車やリニモを乗り継いでの往復は、確かに大変な強行軍であった。後20年もすれば、こういった強行軍は体力的に無理な年齢となるのかも知れないが、今現在では私も妻も十分な体力があり、特に問題なかった。
ブラジル人の食べる素朴で塩味のジューシーなビーフのくし焼きの味、アメリカ人の食べる超ロングなホットドックの外見、ドミニカ人の食べる冷凍マンゴの味、などなど、あらゆるもの、我々科学者の立場から見れば、”たわい無いもの”が子供達にとっては「人生の宝物」となるのである。 大人である”自分の観点”、”科学者の観点”からみれば、万博なんてたいしたことない、ということかも知れないが、”子供の観点”や”普通の人の観点”に立てばそうではないかも知れないのである。
私も妻もこうしたことを良く理解しているので、今回は大変かも知れないが、何とか閉幕までに子供達にこの体験をさせようと考えて参加したのである。
我々の予想通り、夜行バスで名古屋入りし、会場まで電車やリニモを乗り継いでの往復は、確かに大変な強行軍であった。後20年もすれば、こういった強行軍は体力的に無理な年齢となるのかも知れないが、今現在では私も妻も十分な体力があり、特に問題なかった。
ブラジル人の食べる素朴で塩味のジューシーなビーフのくし焼きの味、アメリカ人の食べる超ロングなホットドックの外見、ドミニカ人の食べる冷凍マンゴの味、などなど、あらゆるもの、我々科学者の立場から見れば、”たわい無いもの”が子供達にとっては「人生の宝物」となるのである。 大人である”自分の観点”、”科学者の観点”からみれば、万博なんてたいしたことない、ということかも知れないが、”子供の観点”や”普通の人の観点”に立てばそうではないかも知れないのである。
山岡鉄舟先生はこのことを自分自身の戒律に『幼者を侮るな。』(ベンジャミンフランクリンの戒律と鉄舟の自己規律 2003/01/07)と書いて禁めている。要するに、子供(や他人)を見くびってはいけない、ということである。
自分が思う自分の観点以外の見え方もあるかもしれないということをいつも心掛けていることが大事であると私は考えている。そのためには、科学者であろうがなかろうが、有名人であろうがなかろうが、多少ごく普通の人とも自分が普通の人となって時空を共有することである。すると今までとは違った見え方があるということに気付くはずである。
カナダ館の前でブラジルビーフくし焼きを家族でほうばっていると、そこを数人の連れに取り囲まれて歩いて来たテレビタレント出川さんにすれちがった。すぐに立ち去って行ったが、その後を中学生くらいの男の子たちが追い掛けて言う。
「出川ってオーラゼロだよな。」
そう言いつつも、足取りはしっかり出川氏を追い掛けている。オーラゼロに見えるタレントでもテレビの有名タレントである。タレントは近くで見たいのである。
こうした経験が、後々30年程経って、それが自分の経験の殻の1つになっているということにいつかその子供達も気付くのであろうネ。
自分が思う自分の観点以外の見え方もあるかもしれないということをいつも心掛けていることが大事であると私は考えている。そのためには、科学者であろうがなかろうが、有名人であろうがなかろうが、多少ごく普通の人とも自分が普通の人となって時空を共有することである。すると今までとは違った見え方があるということに気付くはずである。
カナダ館の前でブラジルビーフくし焼きを家族でほうばっていると、そこを数人の連れに取り囲まれて歩いて来たテレビタレント出川さんにすれちがった。すぐに立ち去って行ったが、その後を中学生くらいの男の子たちが追い掛けて言う。
「出川ってオーラゼロだよな。」
そう言いつつも、足取りはしっかり出川氏を追い掛けている。オーラゼロに見えるタレントでもテレビの有名タレントである。タレントは近くで見たいのである。
こうした経験が、後々30年程経って、それが自分の経験の殻の1つになっているということにいつかその子供達も気付くのであろうネ。
2005/09/23のBlog
[ 15:45 ]
[ 社会 ]
昨日(05年9月22日木曜日)の徳島新聞朝刊に『後藤田正晴語録』として掲載された後藤田語録、他県の方々はお読みできないとのこと。ゆえに、御参考までにその文章をここに再録することにした。
(1974年7月参院選落選を振り返って)
”高い授業料だが、長い人生にとってはプラスだったと思う”
(86年8月、終戦記念日の靖国神社参拝について閣僚に自粛を要請)
”周辺諸国からいろいろ言われて問題あるし、A級戦犯も合祀されている。昨年は終戦40年の節目だった。今後、この問題は党側とも十分協議したい”
(87年6月、自民党竹下政権旗揚げの動きを受けて)
”私が声を掛ければ(行動を共にするのが)5人や10人はいる。しかし、私は(派閥争いから)卒業している”
(87年9月、ぺルシャ湾への掃海艇は券に同意を求める中曽根康弘首相に対して)
”海上自衛隊あるいは海上保安庁の船の派遣は閣議で決めるんでしょうな。重大な政策の変更ですから、当然閣議決定すべきでしょう。しかし、私は閣僚として署名はしません”
(89年6月、自民党政治改革推進胞んブの本部長就任を伊東正義氏に要請した際)
”あんたはピエロになるかもしれないな。(政治改革を)やる気になっているのは多くないんだから。しかし、無駄ではないと思う。あんたがやるなら、おれは(本部長)代理をやる”
(92年12月、政治改革推進本部がまとめた答申を宮沢喜一首相に提出して)
”これをやらなければ、自民党は地獄に落ちるんだよ。何とか目鼻をつけてほしいものだ”
(93年1月、閣僚資産公開で実勢価格約10億5000万円の資産を取得したことが明らかとなって)
”半世紀以上働いてきて、この程度であれば常識的ではないか”
(93年1月、与野党で提出されている憲法改正論議を批判して)
”まだ政治課題として取り上げるのは時期が早すぎるのではないか。(日本が)国際貢献、国際的責任を果たすという道はいくらでもある。それがために日本の過去40数年間、今日まで過去の戦いの反省の上に立ち、新しい国家理念で今の日本というものを築いてきた。大変な成果だったと思う”
(93年3月、3年4ヶ月ぶりに死刑執行された問題をめぐる参院法務委員会での法相としての答弁)
”一般論として(三権分立の中で)裁判官に重い役割を担わせているのに、行政側の法相が執行しないということでは国の秩序が保たれるか。法秩序、国家の基本がゆるがせになる”
(93年7月、自民党総裁選への出馬の可能性を問われて)
”100%のうち1もない。99%ありません。残りの1%もない。ゼロだ。それは時代感覚がおかしい”
(96年9月、徳島市での引退会見)
”現在、閉息状態にある政治を変えていく必要がある時期に引退することになったのは残念。10年出るのが遅かった。”
(96年10月、最後の衆院本会議終了後)
”政治の世界は厳しいが、充実した幸せな20年間だった”
(98年6月、回顧録『情と理』出版に当たって)
”墓場まで持っていく情報は別にして、うそは書かれていない。あくまで私の視点から見た内容だが、可能な限りさらけ出した。立場が違えば、私と違った見方や異論もあろう。それはお許し願いたい”
(99年9月、ガイドライン関連法や通信傍受法の成立を受けて)
”運用いかんでは『もろ刃の剣』になる可能性も否定できない。マイナス面を抑制しながらプラス面にどう運用しておくかが、これからの課題です”
(01年8月、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題について)
”やれば必ず外交課題となる。首相が国際協調を旨とし孤立化を避けて平和を維持すると述べた所信表明演説との関係はどうなるのか。ひとえに首相の判断だ”
(04年2月、イラクへの自衛隊派遣が国会で承認されて)
”政府は派遣の決定よりも引き揚げの決定が難しいことを知るべきだ。戦いは始めるときには『何とかなる』と思って安易に踏み切るが、いつになれば引き揚げられるか、その判断は難しい”
(04年7月、小泉首相が民営化への協力を入閣条件とする考え表明したことについて)
”郵政民営化は枝葉の問題だ。雇用、財政再建、税制など本当に解決しなくてはならない課題がある”
(05年1月、小泉首相の靖国神社参拝で日中関係悪化を懸念して)
”日中関係を中長期的にみた場合、若者に対する教育が最も大切だ。敵視教育ではなく、青少年交流を深め、互いの教育の中身を話し合うことも重要だ。中国のことわざに『10年先を思うものは木を植える、100年先を思うものは人を植える』というのがある。日中友好には人を育てることが一番の近道ではないか”
(1974年7月参院選落選を振り返って)
”高い授業料だが、長い人生にとってはプラスだったと思う”
(86年8月、終戦記念日の靖国神社参拝について閣僚に自粛を要請)
”周辺諸国からいろいろ言われて問題あるし、A級戦犯も合祀されている。昨年は終戦40年の節目だった。今後、この問題は党側とも十分協議したい”
(87年6月、自民党竹下政権旗揚げの動きを受けて)
”私が声を掛ければ(行動を共にするのが)5人や10人はいる。しかし、私は(派閥争いから)卒業している”
(87年9月、ぺルシャ湾への掃海艇は券に同意を求める中曽根康弘首相に対して)
”海上自衛隊あるいは海上保安庁の船の派遣は閣議で決めるんでしょうな。重大な政策の変更ですから、当然閣議決定すべきでしょう。しかし、私は閣僚として署名はしません”
(89年6月、自民党政治改革推進胞んブの本部長就任を伊東正義氏に要請した際)
”あんたはピエロになるかもしれないな。(政治改革を)やる気になっているのは多くないんだから。しかし、無駄ではないと思う。あんたがやるなら、おれは(本部長)代理をやる”
(92年12月、政治改革推進本部がまとめた答申を宮沢喜一首相に提出して)
”これをやらなければ、自民党は地獄に落ちるんだよ。何とか目鼻をつけてほしいものだ”
(93年1月、閣僚資産公開で実勢価格約10億5000万円の資産を取得したことが明らかとなって)
”半世紀以上働いてきて、この程度であれば常識的ではないか”
(93年1月、与野党で提出されている憲法改正論議を批判して)
”まだ政治課題として取り上げるのは時期が早すぎるのではないか。(日本が)国際貢献、国際的責任を果たすという道はいくらでもある。それがために日本の過去40数年間、今日まで過去の戦いの反省の上に立ち、新しい国家理念で今の日本というものを築いてきた。大変な成果だったと思う”
(93年3月、3年4ヶ月ぶりに死刑執行された問題をめぐる参院法務委員会での法相としての答弁)
”一般論として(三権分立の中で)裁判官に重い役割を担わせているのに、行政側の法相が執行しないということでは国の秩序が保たれるか。法秩序、国家の基本がゆるがせになる”
(93年7月、自民党総裁選への出馬の可能性を問われて)
”100%のうち1もない。99%ありません。残りの1%もない。ゼロだ。それは時代感覚がおかしい”
(96年9月、徳島市での引退会見)
”現在、閉息状態にある政治を変えていく必要がある時期に引退することになったのは残念。10年出るのが遅かった。”
(96年10月、最後の衆院本会議終了後)
”政治の世界は厳しいが、充実した幸せな20年間だった”
(98年6月、回顧録『情と理』出版に当たって)
”墓場まで持っていく情報は別にして、うそは書かれていない。あくまで私の視点から見た内容だが、可能な限りさらけ出した。立場が違えば、私と違った見方や異論もあろう。それはお許し願いたい”
(99年9月、ガイドライン関連法や通信傍受法の成立を受けて)
”運用いかんでは『もろ刃の剣』になる可能性も否定できない。マイナス面を抑制しながらプラス面にどう運用しておくかが、これからの課題です”
(01年8月、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題について)
”やれば必ず外交課題となる。首相が国際協調を旨とし孤立化を避けて平和を維持すると述べた所信表明演説との関係はどうなるのか。ひとえに首相の判断だ”
(04年2月、イラクへの自衛隊派遣が国会で承認されて)
”政府は派遣の決定よりも引き揚げの決定が難しいことを知るべきだ。戦いは始めるときには『何とかなる』と思って安易に踏み切るが、いつになれば引き揚げられるか、その判断は難しい”
(04年7月、小泉首相が民営化への協力を入閣条件とする考え表明したことについて)
”郵政民営化は枝葉の問題だ。雇用、財政再建、税制など本当に解決しなくてはならない課題がある”
(05年1月、小泉首相の靖国神社参拝で日中関係悪化を懸念して)
”日中関係を中長期的にみた場合、若者に対する教育が最も大切だ。敵視教育ではなく、青少年交流を深め、互いの教育の中身を話し合うことも重要だ。中国のことわざに『10年先を思うものは木を植える、100年先を思うものは人を植える』というのがある。日中友好には人を育てることが一番の近道ではないか”
2005/09/22のBlog
[ 12:42 ]
[ 訃報・追悼 ]
後藤田正晴氏が死去 91歳、元副総理「カミソリ」の異名
人柄愛された「カミソリ」 後藤田氏、挫折から“王国”築く
徳島が誇る”保守本流”の政治家、後藤田正晴さんが、東京の病院で死去。享年91歳。
”保守本流”とは、戦前の東京帝国大学出身の政治家のことである。
近代国家”日本”が明治維新に誕生して以来、国体(国の体制)を維持して来たのが、東京帝国大学出身の官僚達であった。戦前の内務省官僚の1人がこの後藤田正晴さんであった。中曽根康弘さんも内務省出身者である。外務省出身者には、吉田茂や重光葵(まもる)などがいた。さらに商工務省出身者には岸信介。大蔵省出身者には、池田勇人、宮澤喜一、福田赳夫(たけお)などがいた。
戦前の官僚たちの多くは、戦後の国政に舞台を変えて戻ってきた。自由民主党(自民党)を作ったのがこういった官僚政治家たちであった。自民党には民間人の政治家や東大出でない大学出身者たちもたくさんいて、雑多なごった煮的な政治団体が「戦後55年体制」と呼ばれた時の自民党であった。この複雑な集団の中で、こうした東京帝国大学出身の官僚であった政治家たちを”保守本流”の政治家と呼んでいたというわけである。
この”保守本流”とその他の民間人政治家たちとの主従逆転現象が起こったのが、田中角栄と福田赳夫の間のいわゆる「角福戦争」であった。ここで田中角栄が首相となり、いわゆる”田中派”というものができ、戦前の官僚政治家たちは次第に自民党の中で脇役に押しやられていった、というわけである。
田中角栄の政治基盤(派閥)を遺産相続したのが、金丸信や竹下登であった。これが、竹下派(「経世会」)を作り、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎政権へと至る道を作った。要するに、早稲田大・慶応大などの有名私立大学出身者の派閥に移った、ということである。
この中で現小泉純一郎首相の派閥(小泉さんは派閥は作らないというが、実際には新しい派閥が出来ている)が、”新保守派”というものである。英語では”neo-conservative=ネオコンサーバティブ(ネオコン)”というものに対応する。ネオコンの代表者がアメリカのブッシュ政権であり、このブッシュさんと小泉さんが非常に仲が良いというのもうなずけるだろう。
この”新保守派”と”保守本流”の対決が現在まで続いて来たということである。
今朝の徳島新聞によれば、この新保守派の小泉純一郎首相に向かって、保守本流の後藤田さんはこういったという。
(今年5月)
”競争原理を強化して活力を再生させる新保守主義だ。小泉改革は『強者の論理だ』”
”構造改革の先にどのような社会が来るのか、将来像を示していない”
(財政赤字や社会不安に対して)
”今は郵政民営化どころではないはずだ”
(国鉄分割民営化の経験から)
”あの時は旧運輸省を改革賛成派でまとめるなど用意周到に行った。郵政民営化は順序が逆だ”
”『官』から『民』へという主張は分かるが、官と民の境界線がはっきりしない”
(抵抗勢力糾弾排除の手法に対して)
”政府、与党一体という議院内閣制を脅かす。幅広く国民に理解を求め、説明責任を果たすことだ”
(小泉流サプライズ外交手法に対して)
”外交とは、計算の上にも計算し尽くされた戦略外交でなければならない。小泉外交は行き当たりばったりのその都度外交だ。首相には中長期的な戦略を構築する人も組織もない”
”国民の保守化、ナショナリズムへの高まりを背景に強硬姿勢に転換し、近隣外交を忘れている”
”自衛隊の派遣と同時に、撤退の要件を決めておかないと、シベリア出兵の二の舞いになるよ”
(昨年10月、清華大学の講演で)
”これが最後の旅行だよ”
”10年先を思う者は木を植える、100年先を思う者は人を植える”
(昨今の小泉劇場に対して)
”健全な野党がなければ議会制民主主義は危機に瀕する”
まだたくさんあるが省略。
後藤田正晴さんは、何か武田信玄公に通じるものを私は感じる。天下を取るだけの十分の実力がありながらそれをなし得なかった、というところである。出るのが遅かった、ということであろう。
晩年、氏はこういっていたという。
(96年の徳島市での引退会見)
”現在、閉息状態にある政治を変えていく必要がある時期に引退することになったのは残念。10年出るのが遅かった。”
人柄愛された「カミソリ」 後藤田氏、挫折から“王国”築く
徳島が誇る”保守本流”の政治家、後藤田正晴さんが、東京の病院で死去。享年91歳。
”保守本流”とは、戦前の東京帝国大学出身の政治家のことである。
近代国家”日本”が明治維新に誕生して以来、国体(国の体制)を維持して来たのが、東京帝国大学出身の官僚達であった。戦前の内務省官僚の1人がこの後藤田正晴さんであった。中曽根康弘さんも内務省出身者である。外務省出身者には、吉田茂や重光葵(まもる)などがいた。さらに商工務省出身者には岸信介。大蔵省出身者には、池田勇人、宮澤喜一、福田赳夫(たけお)などがいた。
戦前の官僚たちの多くは、戦後の国政に舞台を変えて戻ってきた。自由民主党(自民党)を作ったのがこういった官僚政治家たちであった。自民党には民間人の政治家や東大出でない大学出身者たちもたくさんいて、雑多なごった煮的な政治団体が「戦後55年体制」と呼ばれた時の自民党であった。この複雑な集団の中で、こうした東京帝国大学出身の官僚であった政治家たちを”保守本流”の政治家と呼んでいたというわけである。
この”保守本流”とその他の民間人政治家たちとの主従逆転現象が起こったのが、田中角栄と福田赳夫の間のいわゆる「角福戦争」であった。ここで田中角栄が首相となり、いわゆる”田中派”というものができ、戦前の官僚政治家たちは次第に自民党の中で脇役に押しやられていった、というわけである。
田中角栄の政治基盤(派閥)を遺産相続したのが、金丸信や竹下登であった。これが、竹下派(「経世会」)を作り、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎政権へと至る道を作った。要するに、早稲田大・慶応大などの有名私立大学出身者の派閥に移った、ということである。
この中で現小泉純一郎首相の派閥(小泉さんは派閥は作らないというが、実際には新しい派閥が出来ている)が、”新保守派”というものである。英語では”neo-conservative=ネオコンサーバティブ(ネオコン)”というものに対応する。ネオコンの代表者がアメリカのブッシュ政権であり、このブッシュさんと小泉さんが非常に仲が良いというのもうなずけるだろう。
この”新保守派”と”保守本流”の対決が現在まで続いて来たということである。
今朝の徳島新聞によれば、この新保守派の小泉純一郎首相に向かって、保守本流の後藤田さんはこういったという。
(今年5月)
”競争原理を強化して活力を再生させる新保守主義だ。小泉改革は『強者の論理だ』”
”構造改革の先にどのような社会が来るのか、将来像を示していない”
(財政赤字や社会不安に対して)
”今は郵政民営化どころではないはずだ”
(国鉄分割民営化の経験から)
”あの時は旧運輸省を改革賛成派でまとめるなど用意周到に行った。郵政民営化は順序が逆だ”
”『官』から『民』へという主張は分かるが、官と民の境界線がはっきりしない”
(抵抗勢力糾弾排除の手法に対して)
”政府、与党一体という議院内閣制を脅かす。幅広く国民に理解を求め、説明責任を果たすことだ”
(小泉流サプライズ外交手法に対して)
”外交とは、計算の上にも計算し尽くされた戦略外交でなければならない。小泉外交は行き当たりばったりのその都度外交だ。首相には中長期的な戦略を構築する人も組織もない”
”国民の保守化、ナショナリズムへの高まりを背景に強硬姿勢に転換し、近隣外交を忘れている”
”自衛隊の派遣と同時に、撤退の要件を決めておかないと、シベリア出兵の二の舞いになるよ”
(昨年10月、清華大学の講演で)
”これが最後の旅行だよ”
”10年先を思う者は木を植える、100年先を思う者は人を植える”
(昨今の小泉劇場に対して)
”健全な野党がなければ議会制民主主義は危機に瀕する”
まだたくさんあるが省略。
後藤田正晴さんは、何か武田信玄公に通じるものを私は感じる。天下を取るだけの十分の実力がありながらそれをなし得なかった、というところである。出るのが遅かった、ということであろう。
晩年、氏はこういっていたという。
(96年の徳島市での引退会見)
”現在、閉息状態にある政治を変えていく必要がある時期に引退することになったのは残念。10年出るのが遅かった。”
2005/09/21のBlog
[ 11:18 ]
[ 科学 ]
チャッキー氏が以下のようなコメントをつけてくれた。
『いつも楽しく拝見させていただいております。
私もサッカーが好きで、このブログでもサッカー関連の話題を楽しみにしております。ところで、最近ライフサイエンスの分野では捏造問題が世間を騒がせております(といっても、騒いでいるのはアカデミアの人間だけ?)。一般のマスコミはこの問題をあまり大きく取りあげていないように感じます。世間は(アカデミアの人間も含めて)アカデミアの人間の不正行為に対して非常に甘いような気がします。どうしたら、このような状況が改善されるでしょうか?』
これは重要な指摘なので、コメント欄には書ききれないので、こっちで応答することにした。
チャッキーさん
私のブログを楽しんでおられるとはありがたい。そういう人はかなり珍しいのでは?
自然は自分の思ったようには作られていない、というのがこの世の現実。功を焦るから捏造する。上司のプレッシャーも原因の1つかもしれない。
私は学生時代の昔から学会前になると決まって良い結果が出てうまいこと学会に間に合う、というタイプの研究はあまり信じない。なぜなら、研究の進展とは学会の期日とは無関係に起こるものだからだ。研究というのは、作家業や授業などとちがって〆きりや何かの時間設定に合わせてできるというものではない。にもかかわらず、そういった期限にうまく合うというのは、何か不自然な気がするからである。そこには何がしかの”作為”のようなものの匂いがするからである。しかし、日本ではこういったものが多い。
「捏造」は、日本では、小説家の”小説の捏造”から始まり(例えば、「電車男」)、医者の”カルテの捏造”、マスコミの”事件の捏造”、NHKの”ドキュメンタリー捏造”、そして大学研究者の”論文の捏造”と来た。サッカーでも審判の”ファールの捏造”がある。
だから、”捏造”は、現代人の時代精神の一つを象徴しているのではないだろうか? ”妄想”と”捏造”には何か似たところがある。
どうやったら改善できるかって?
やった本人たちにまずは聞いてみるべきだろうネ。どうして捏造なんかしたの?ってネ。そうしていくうちにその原因が分かるようになり、何がしかの方策も分かってくるようになるだろう。
しかし、研究というのは面白い。これは、研究道を志したものでないと理解不可能だろう。
真面目に研究したからといって、あるいは、捏造ではないからといって、その論文が”良い論文”になるかと言えば、そうでもない。ほとんどの論文は真面目でまともな研究である。がそれ故に読者も少なく、引用もされない、というものである。つまり、”読まれないために書く論文”である。
論文としては正しくても結果が間違っている、というものもほとんどである。論文としては完璧でも、採用した仮説や仮定がそもそも間違っている、というものもある。出発点にした前提が後で間違いだと分かれば、大半の論文は没となる。つまり、”前提間違い論文”である。
論文引用が多ければ良い論文で、引用が少なければ悪い論文かと言えば、そうでもない。それは駄目だ、間違っている、という引用が多くて有名になっている論文もある。つまり、”反面教師論文”というものである。
一方、だれもその論文を引用しないのに、その内容はすでに万人の知恵として定着しているという論文もある。あまりに単純で自然な結論なので、だれもが周知のことと考えてしまうのである。つまり、”周知の常識論文”である。
間違い論文なのに、それが引き金となって多くの論文が現れ、いずれその問題が解決されるというタイプの論文もある。”創造的誤り論文”というものである。
論文投稿の仕方でも、フェアに正規のルートで出すものもあれば、エディターに電話で出してくれと頼むという方法もある。フェアだから良い論文というわけでもないし、フェアでないから悪い論文であるということでもない。何ごとも一長一短。ケースバイケースである。
サッカーでもファールの捏造はしばしばある。それもワールドカップなどプレッシャーのかかる試合ほどその確率は高くなる。審判の捏造ファールにより試合が決まってしまうという場合もある。しかし、あまり結果に悪影響がない、という場合もある。また、審判のファール捏造の連発が2重に作用して、2度の間違いが双方に公正に働き、白熱の試合になるという場合もある。加えて、ファールの捏造ではないが、単なるボーンヘッドのミスジャッジという場合もある。
いずれにせよ、大事なことは、サッカーであれば、ゲームを見ている人々が良い意味で楽しむことができること。科学研究であれば、人類が良い意味で豊かになっていくこと、賢くなっていくことであろう。
科学研究の世界とサッカーのようなスポーツの世界とのアナロジーは役に立つ。結構物事をうまく理解することができるのではないだろうか。私はそう思うヨ。
『いつも楽しく拝見させていただいております。
私もサッカーが好きで、このブログでもサッカー関連の話題を楽しみにしております。ところで、最近ライフサイエンスの分野では捏造問題が世間を騒がせております(といっても、騒いでいるのはアカデミアの人間だけ?)。一般のマスコミはこの問題をあまり大きく取りあげていないように感じます。世間は(アカデミアの人間も含めて)アカデミアの人間の不正行為に対して非常に甘いような気がします。どうしたら、このような状況が改善されるでしょうか?』
これは重要な指摘なので、コメント欄には書ききれないので、こっちで応答することにした。
チャッキーさん
私のブログを楽しんでおられるとはありがたい。そういう人はかなり珍しいのでは?
自然は自分の思ったようには作られていない、というのがこの世の現実。功を焦るから捏造する。上司のプレッシャーも原因の1つかもしれない。
私は学生時代の昔から学会前になると決まって良い結果が出てうまいこと学会に間に合う、というタイプの研究はあまり信じない。なぜなら、研究の進展とは学会の期日とは無関係に起こるものだからだ。研究というのは、作家業や授業などとちがって〆きりや何かの時間設定に合わせてできるというものではない。にもかかわらず、そういった期限にうまく合うというのは、何か不自然な気がするからである。そこには何がしかの”作為”のようなものの匂いがするからである。しかし、日本ではこういったものが多い。
「捏造」は、日本では、小説家の”小説の捏造”から始まり(例えば、「電車男」)、医者の”カルテの捏造”、マスコミの”事件の捏造”、NHKの”ドキュメンタリー捏造”、そして大学研究者の”論文の捏造”と来た。サッカーでも審判の”ファールの捏造”がある。
だから、”捏造”は、現代人の時代精神の一つを象徴しているのではないだろうか? ”妄想”と”捏造”には何か似たところがある。
どうやったら改善できるかって?
やった本人たちにまずは聞いてみるべきだろうネ。どうして捏造なんかしたの?ってネ。そうしていくうちにその原因が分かるようになり、何がしかの方策も分かってくるようになるだろう。
しかし、研究というのは面白い。これは、研究道を志したものでないと理解不可能だろう。
真面目に研究したからといって、あるいは、捏造ではないからといって、その論文が”良い論文”になるかと言えば、そうでもない。ほとんどの論文は真面目でまともな研究である。がそれ故に読者も少なく、引用もされない、というものである。つまり、”読まれないために書く論文”である。
論文としては正しくても結果が間違っている、というものもほとんどである。論文としては完璧でも、採用した仮説や仮定がそもそも間違っている、というものもある。出発点にした前提が後で間違いだと分かれば、大半の論文は没となる。つまり、”前提間違い論文”である。
論文引用が多ければ良い論文で、引用が少なければ悪い論文かと言えば、そうでもない。それは駄目だ、間違っている、という引用が多くて有名になっている論文もある。つまり、”反面教師論文”というものである。
一方、だれもその論文を引用しないのに、その内容はすでに万人の知恵として定着しているという論文もある。あまりに単純で自然な結論なので、だれもが周知のことと考えてしまうのである。つまり、”周知の常識論文”である。
間違い論文なのに、それが引き金となって多くの論文が現れ、いずれその問題が解決されるというタイプの論文もある。”創造的誤り論文”というものである。
論文投稿の仕方でも、フェアに正規のルートで出すものもあれば、エディターに電話で出してくれと頼むという方法もある。フェアだから良い論文というわけでもないし、フェアでないから悪い論文であるということでもない。何ごとも一長一短。ケースバイケースである。
サッカーでもファールの捏造はしばしばある。それもワールドカップなどプレッシャーのかかる試合ほどその確率は高くなる。審判の捏造ファールにより試合が決まってしまうという場合もある。しかし、あまり結果に悪影響がない、という場合もある。また、審判のファール捏造の連発が2重に作用して、2度の間違いが双方に公正に働き、白熱の試合になるという場合もある。加えて、ファールの捏造ではないが、単なるボーンヘッドのミスジャッジという場合もある。
いずれにせよ、大事なことは、サッカーであれば、ゲームを見ている人々が良い意味で楽しむことができること。科学研究であれば、人類が良い意味で豊かになっていくこと、賢くなっていくことであろう。
科学研究の世界とサッカーのようなスポーツの世界とのアナロジーは役に立つ。結構物事をうまく理解することができるのではないだろうか。私はそう思うヨ。
2005/09/20のBlog
[ 18:14 ]
[ サッカー ]
プロサッカー選手が選ぶ昨季MVPにロナウジーニョ
世界40ヶ国の3万8千人のプロサッカー選手が投票する昨期(04一05年度)の最優秀プロサッカー選手にバルセロナのブラジル代表ロナウジーニョ選手が選ばれ、初代”プロの中のプロ”の称号を手にいれた。
これにはだれも異論はないだろう。”軽業師”のような足技は目を見張るばかり。その妙技は王様ペレをも凌ぐ。ペレが”20世紀の天才”だとすれば、ロナウジーニョは”21世紀の天才”であることは間違いないだろう。
ちなみに、同時選出された最強チーム”ベスト11”のメンバーは以下の通り。
FWーーーーーーーーエトー シェフチェンコ
ーーーーーーーー(バルセロナ)(ACミラン)
MFーーランパード マケレレ ジダン ロナウジーニョ
ーーー(チェルシー)(チェルシー)(レアル・マドリード)(バルセロナ)
DFーーーカフー ネスタ マルディーニ テリー
ーー(ACミラン)(ACミラン)(ACミラン)(チェルシー)
GKーーーーーーーーーーーーージダ
ーーーーーーーーーーーーー(ACミラン)
世界40ヶ国の3万8千人のプロサッカー選手が投票する昨期(04一05年度)の最優秀プロサッカー選手にバルセロナのブラジル代表ロナウジーニョ選手が選ばれ、初代”プロの中のプロ”の称号を手にいれた。
これにはだれも異論はないだろう。”軽業師”のような足技は目を見張るばかり。その妙技は王様ペレをも凌ぐ。ペレが”20世紀の天才”だとすれば、ロナウジーニョは”21世紀の天才”であることは間違いないだろう。
ちなみに、同時選出された最強チーム”ベスト11”のメンバーは以下の通り。
FWーーーーーーーーエトー シェフチェンコ
ーーーーーーーー(バルセロナ)(ACミラン)
MFーーランパード マケレレ ジダン ロナウジーニョ
ーーー(チェルシー)(チェルシー)(レアル・マドリード)(バルセロナ)
DFーーーカフー ネスタ マルディーニ テリー
ーー(ACミラン)(ACミラン)(ACミラン)(チェルシー)
GKーーーーーーーーーーーーージダ
ーーーーーーーーーーーーー(ACミラン)
2005/09/16のBlog
[ 10:43 ]
[ 教育 ]
昨日偶然病院の待ち合いで読んだ「ヨミウリウィークリー」の次の記事が結構面白かった。
本誌・学研の共同調査第2弾一一親102人に聞いた「学力低下」の真犯人:悪いのはダメ教師か、ゆとり教育か、猫の目文科省か
これは、学研の「科学」や「学習」を定期購読している親たち(小学4一6年生の子を持つ)に小学校の先生や小学校の制度などに関してアンケート調査した結果を短くまとめたレポートである。
結構多くのデータが図表にされているので、関心のある人は本文を読んでみてほしいが、このデータの中で”意外な”結果が紹介されている。これをちょっとここで紹介しておこう。
アンケートの総体を言えば、特に目新しいものはなく、いわゆる「学力低下」問題は何が原因だと思うか、という主題のアンケートである。したがって、学校の制度に責任を感じる親、学校の先生に責任を感じる親、家庭に原因を感じる親、文部省に原因を感じる親、などさまざまな印象を持つ親がいる。
例えば、
学校の先生の質の低下が問題である、
文部省の指導要領がころころ変わることが問題である、
ゆとり教育が問題である、
離婚などによる家庭環境の悪化が原因である、
こういう類いのアンケートである。それぞれに何%の親が賛成したかというようなデータが図表にされているのである。
しかし、これを「家庭を中心とした視点」に据えるか、「学校を中心とした視点」に据えるかを判別するために、
(あ)子供の勉強にとって学校(先生が行うものと見ている)か塾(家庭で行うものと見ている)のいずれに重きを置くか、
(い)子供の”しつけ”に対して学校か家庭のいずれに重きを置くか、
の2軸をおいて、アンケート結果を並べてみると、見事にある傾向が浮かび上がるというのである。
つまり、次のようなグラフに並べるのである。
ーーーーーーー教育
ーーーーーーー|塾中心
ーーーーーーー|
ーーーーーーー| 家庭依存型
ーーーーーーー|
ーーーーーーー|
一一一一一一一一一一一一一一一しつけ
学校中心ーーー|ーーー家庭中心
ーーーーーーー|
学校依存型ーー|
ーーーーーーー|
ーーーーーーー|学校中心
簡単に言えば(私の記憶の範囲であるが)、教育もしつけも学校を信じず家庭でやると答えた”家庭依存型”の親と、教育もしつけも学校で行ってほしいという”学校依存型”の親の2種類に大半が分かれた、というのである。
まあ、この結果自体はある程度予想できる。しかし、次の結果は”意外”で結構面白い。
アンケートでは、上で紹介したようなたくさんの意見が寄せられている。
”では、どういう親がどのような意見を言っているのか?”
を調べるために、このアンケートの新しい点は、親の「価値観」をもついでに聞いたことである。
これによれば、親には現在大まかに2種類ある。
1つは、我々(昭和30年代生)の親たちが受けた高度成長期時代の教育のように、義務教育はどの地方のどの学校でも似たような教育が受けられるべきである、と考えている親たちである。この親達は、日本では貧富の差のない社会や教育の機会均等を保証する社会を望んでいる。
もう1つは、昨今のマスコミで流布させた、いわゆる社会の「勝ち組」、「負け組」という意識で物を見る親達である。この親達は、能力や努力の差によって貧富の差がつくのは当たり前、そして教育も親の経済状態で差がつくのが当たり前と考えている。
さて、ではこの2タイプの親達がどう答えたか?これが、このアンケートの新発見といえるだろう。
結果は、こうであった。
教師、学校、文部省などに”手厳しい意見”や”過激な要求”を突き付ける親たちというのは、そもそも教師も学校も文部省も信じていない親たちであった。つまり、後者のタイプの親たちであった、ということである。こういう親たちは現状にはまったく満足していない。
それに反して、比較的従来の日本の価値観を持っている親たちは、教師、学校、文部省などに対しても比較的”寛容”であった、ということである。こういう親たちは、まあ、こんなものだろう、というような感じで見ていて、そこそこ現状に満足しているのである。
要するに、社会の「勝ち負け」や「貧富の差」や「実力主義」を容認する親たちというのは、上昇志向が強い。そのため、自分の子供達への熱心な教育や有効な教育を嗜好する、ということである。現在では、だいたい半数の親がこのタイプであり、こうした親たちが「学力低下」を嘆くということであるらしい。
とまあ、こんな感じのアンケートであった。関心のある人はぜひ一読してみてくださいヨ。
さて、ここからが私の個人的意見。
まずこのアンケートのまとめ方の問題は、どうも日本の教育(というより「東京国の教育」と言った方が適切だが)では、「家庭における教育=塾」と見ているようだが、これはあまりに”日本的”であると私は見る。私に言わせれば、「塾≒学校」であろう。つまり、塾も学校も家庭(自分)以外の他人の手を借りるという意味でほぼ同じことであろう。しかし、塾は自分の身銭を切る教育、学校は国が税金で見る教育、という皮相的な面で捕えている、と私は考えるのである。
したがって、本来ならアンケートのグラフはこうなるべきである。
ーーーーーーー教育
ーーーーーーー|家庭中心
ーーーーーーー|
ーーーーーーー|ー家庭依存型
ーーーーーーー|(ユダヤ人型)
ーーーーーーー|
一一一一一一一一一一一一一一一しつけ
学校中心ーーー|ーーー家庭中心
ーーーーーーー|
学校・塾依存型|(日本人型)
(日本人型)ー|
ーーーーーーー|学校・塾中心
すると、日本人の場合、左下か右下に並ぶはずである。ところが、世界的な視点で見れば、世界の教育民俗であるユダヤ人やユダヤ系の人々は、右上に入って来るはずである。
それもそのはずで、ユダヤ人のインテリ家庭では、親は科学者やノーベル賞学者、あるいは音楽家や芸術家、それも超一流というわけだから、学校や塾で教えられるより自分が家庭で教えた方がいい、というような家庭がたくさんあるからである。
同じ家庭依存型であっても、ここまで徹底した家庭依存型はまだ日本ではめずらしい、と言えるだろう。塾も学校も所詮はどこぞの先生が教えるにすぎない、その辺の先生が教えるよりは自分が教えた方がましだ、という観点は今の日本人にはない。このあたりの違いが今の日本人家庭の”忙しさ”や”あわただしさ”の原因であろう、と私は疑っているのである。
親達は自分の子供が社会の「勝ち組」に入って金持ちになってほしい。そのために、親たちは必死で働く。お金を儲ければ儲けただけ自分の子供の教育に使う。英語スクール、学習塾、スポーツクラブ、お稽古ごとなどに使おうとする。しかし、これら全部自分達親が関わることはない。せいぜい送迎程度である。母親が子供の面倒を見るとなれば、父親はお金もうけに奔走しなくてはならない。これでは、子供とのんびり過ごす時間がないではないか。
とまあ、こんな問題が今の日本人(東京国の植民地化した日本人)の最大の問題であると私は考えるのである。
こうしてみると、勉強でもサッカーでも何でも「お父さんに聞け」という我が家はかなり珍しい異端的な家庭だということになるネ。
本誌・学研の共同調査第2弾一一親102人に聞いた「学力低下」の真犯人:悪いのはダメ教師か、ゆとり教育か、猫の目文科省か
これは、学研の「科学」や「学習」を定期購読している親たち(小学4一6年生の子を持つ)に小学校の先生や小学校の制度などに関してアンケート調査した結果を短くまとめたレポートである。
結構多くのデータが図表にされているので、関心のある人は本文を読んでみてほしいが、このデータの中で”意外な”結果が紹介されている。これをちょっとここで紹介しておこう。
アンケートの総体を言えば、特に目新しいものはなく、いわゆる「学力低下」問題は何が原因だと思うか、という主題のアンケートである。したがって、学校の制度に責任を感じる親、学校の先生に責任を感じる親、家庭に原因を感じる親、文部省に原因を感じる親、などさまざまな印象を持つ親がいる。
例えば、
学校の先生の質の低下が問題である、
文部省の指導要領がころころ変わることが問題である、
ゆとり教育が問題である、
離婚などによる家庭環境の悪化が原因である、
こういう類いのアンケートである。それぞれに何%の親が賛成したかというようなデータが図表にされているのである。
しかし、これを「家庭を中心とした視点」に据えるか、「学校を中心とした視点」に据えるかを判別するために、
(あ)子供の勉強にとって学校(先生が行うものと見ている)か塾(家庭で行うものと見ている)のいずれに重きを置くか、
(い)子供の”しつけ”に対して学校か家庭のいずれに重きを置くか、
の2軸をおいて、アンケート結果を並べてみると、見事にある傾向が浮かび上がるというのである。
つまり、次のようなグラフに並べるのである。
ーーーーーーー教育
ーーーーーーー|塾中心
ーーーーーーー|
ーーーーーーー| 家庭依存型
ーーーーーーー|
ーーーーーーー|
一一一一一一一一一一一一一一一しつけ
学校中心ーーー|ーーー家庭中心
ーーーーーーー|
学校依存型ーー|
ーーーーーーー|
ーーーーーーー|学校中心
簡単に言えば(私の記憶の範囲であるが)、教育もしつけも学校を信じず家庭でやると答えた”家庭依存型”の親と、教育もしつけも学校で行ってほしいという”学校依存型”の親の2種類に大半が分かれた、というのである。
まあ、この結果自体はある程度予想できる。しかし、次の結果は”意外”で結構面白い。
アンケートでは、上で紹介したようなたくさんの意見が寄せられている。
”では、どういう親がどのような意見を言っているのか?”
を調べるために、このアンケートの新しい点は、親の「価値観」をもついでに聞いたことである。
これによれば、親には現在大まかに2種類ある。
1つは、我々(昭和30年代生)の親たちが受けた高度成長期時代の教育のように、義務教育はどの地方のどの学校でも似たような教育が受けられるべきである、と考えている親たちである。この親達は、日本では貧富の差のない社会や教育の機会均等を保証する社会を望んでいる。
もう1つは、昨今のマスコミで流布させた、いわゆる社会の「勝ち組」、「負け組」という意識で物を見る親達である。この親達は、能力や努力の差によって貧富の差がつくのは当たり前、そして教育も親の経済状態で差がつくのが当たり前と考えている。
さて、ではこの2タイプの親達がどう答えたか?これが、このアンケートの新発見といえるだろう。
結果は、こうであった。
教師、学校、文部省などに”手厳しい意見”や”過激な要求”を突き付ける親たちというのは、そもそも教師も学校も文部省も信じていない親たちであった。つまり、後者のタイプの親たちであった、ということである。こういう親たちは現状にはまったく満足していない。
それに反して、比較的従来の日本の価値観を持っている親たちは、教師、学校、文部省などに対しても比較的”寛容”であった、ということである。こういう親たちは、まあ、こんなものだろう、というような感じで見ていて、そこそこ現状に満足しているのである。
要するに、社会の「勝ち負け」や「貧富の差」や「実力主義」を容認する親たちというのは、上昇志向が強い。そのため、自分の子供達への熱心な教育や有効な教育を嗜好する、ということである。現在では、だいたい半数の親がこのタイプであり、こうした親たちが「学力低下」を嘆くということであるらしい。
とまあ、こんな感じのアンケートであった。関心のある人はぜひ一読してみてくださいヨ。
さて、ここからが私の個人的意見。
まずこのアンケートのまとめ方の問題は、どうも日本の教育(というより「東京国の教育」と言った方が適切だが)では、「家庭における教育=塾」と見ているようだが、これはあまりに”日本的”であると私は見る。私に言わせれば、「塾≒学校」であろう。つまり、塾も学校も家庭(自分)以外の他人の手を借りるという意味でほぼ同じことであろう。しかし、塾は自分の身銭を切る教育、学校は国が税金で見る教育、という皮相的な面で捕えている、と私は考えるのである。
したがって、本来ならアンケートのグラフはこうなるべきである。
ーーーーーーー教育
ーーーーーーー|家庭中心
ーーーーーーー|
ーーーーーーー|ー家庭依存型
ーーーーーーー|(ユダヤ人型)
ーーーーーーー|
一一一一一一一一一一一一一一一しつけ
学校中心ーーー|ーーー家庭中心
ーーーーーーー|
学校・塾依存型|(日本人型)
(日本人型)ー|
ーーーーーーー|学校・塾中心
すると、日本人の場合、左下か右下に並ぶはずである。ところが、世界的な視点で見れば、世界の教育民俗であるユダヤ人やユダヤ系の人々は、右上に入って来るはずである。
それもそのはずで、ユダヤ人のインテリ家庭では、親は科学者やノーベル賞学者、あるいは音楽家や芸術家、それも超一流というわけだから、学校や塾で教えられるより自分が家庭で教えた方がいい、というような家庭がたくさんあるからである。
同じ家庭依存型であっても、ここまで徹底した家庭依存型はまだ日本ではめずらしい、と言えるだろう。塾も学校も所詮はどこぞの先生が教えるにすぎない、その辺の先生が教えるよりは自分が教えた方がましだ、という観点は今の日本人にはない。このあたりの違いが今の日本人家庭の”忙しさ”や”あわただしさ”の原因であろう、と私は疑っているのである。
親達は自分の子供が社会の「勝ち組」に入って金持ちになってほしい。そのために、親たちは必死で働く。お金を儲ければ儲けただけ自分の子供の教育に使う。英語スクール、学習塾、スポーツクラブ、お稽古ごとなどに使おうとする。しかし、これら全部自分達親が関わることはない。せいぜい送迎程度である。母親が子供の面倒を見るとなれば、父親はお金もうけに奔走しなくてはならない。これでは、子供とのんびり過ごす時間がないではないか。
とまあ、こんな問題が今の日本人(東京国の植民地化した日本人)の最大の問題であると私は考えるのである。
こうしてみると、勉強でもサッカーでも何でも「お父さんに聞け」という我が家はかなり珍しい異端的な家庭だということになるネ。
2005/09/15のBlog
[ 09:29 ]
[ 科学ニュース ]
勉強したら脳細胞増える マウスですが大人にも希望?
記憶力向上に「難問」が良薬?東大がマウスで解明
このニュースはかなり面白い。
人の脳は、胎児の時期、生誕後から思春期まで成長し、そしてだいたい25才くらいで完成する。それ以後は脳細胞は死に絶えるだけで決して脳細胞の数は増えないのだ、と長らく信じられてきた。しかし、それは間違っている。少なくとも脳の海馬という領域では、”勉強する”と脳細胞が増える。これは、脳波のθ(シータ)波が起因となりGABAという物質が出て、記憶の海馬の脳細胞を増やす。勉強によって新しい脳細胞が創出できるのだ、という発見である。
実は、この発見に先立つこと5年程前、私はかつて「高等教育フォーラム」という場所でこんな意見を書いていた。
【114】高等教育における「神話」3
『え)大学も全く同様です.私立大学で,早稲田大学,慶應大学は,授業料が高いのに今も廃れることなく存続しています.それは,すでにそのリッチ度がリッチな友だちが出来たり,社長の息子や娘達と知り合いに慣れたり,広末涼子さんのような有名女優をお友達になれるかもしれないというブランド的な利点があるからです.同様に,高い授業料であるということは,家族が無理して入っている家庭の子供には,「一銭たりとも金も時間も無駄にしないぞ」という経済的感覚に基ずいた高いモティベーションを生むのです.こういう学生は勉強します.私もそういう一人でした(理科大時代).私は人生でもっとも勉強したのがこの時代でした.サッカーマンから学者になるべく平均睡眠時間5時間くらいで,「独学」していました.この時期の勉学が私の脳の容量を相当大きくしたのはまちがいありません.サッカーをしていたころは,せいぜい56cmの頭囲でしたが,気が付くと58cmになっていましたから.現在は59cm程度です.』
俗に「二十歳の知恵熱」という言葉があるが、思春期を過ぎ20歳から25歳くらいの時期に、非常に勉強すると、3歳児の「知恵熱」のように、特に病気ではないのだが何か頭が熱を持つ時期、というものが訪れるのである。この時期の勉強は脳の最後の完成を迎えるという意味では非常に重要で、ここで一気に脳が大きくなるのである。
私は大学1年の春休みから3年間、平均睡眠時間5時間くらいで、文字どおり”四六時中”本を読み、勉強した時期があった。この時期に近眼になってしまったが、明らかに膨大な知識を頭に入れ、毎日考える習慣というものを身につけた時期であった。その結果、気がつくと頭囲がかなり大きくなっていた、というわけである。この個人的経験を書いたものが、上の部分であった。
この直接の原因の1つを脳生理学の立場から証明したのが最初の発見なのである。記憶は勉強すればするほど良くなる、ということである。
しかし、私の個人的印象では、記憶の領域の海馬だけでなく、精神活動の領域、運動の領域など、他のほとんどの脳の領域でも、似たようなことが起こっているのではないか、と思うのである。
その理由は、こうである。
私は20歳代までずっと現役のサッカー選手であったが、アメリカ留学した20歳代後半からほとんど運動する機会を持たなかった。それは留学時代にぜんそくのようなアレルギー症状が出て、まともに運動できなくなってしまったからである。帰国後30歳前半で就職したが、その間もろくに運動せず、ましてサッカーの練習はまったくしなかった。だから、富士通にいた頃は、最高で88kgまで太ってしまったのである。
これでは困るので、理研に映った頃からアレルギー性の咳きとサッカー時代からある腰痛を何とかしようと思い、週に数回水泳に通うようになった。それから82kgまで体重が落ちた。
この水泳の習慣をここ阿南に来てからも続け、さらにジムで筋トレをするようになり、体重は76kg前後に落ち着くようになった。すると、ある時奇跡が起こり、カキーンという大音響と共に30年来の腰痛の大本が解消してしまったのである(腰が”カッキーーン”と鳴った!腰痛消滅の謎)。もちろん、私には3ケ所に椎間板ヘルニアがあるので、その内の1つが改善しただけでまだ2ケ所に残っているが、普段の違和感も痛みもなく、現在ではサッカーを現役高校生といっしょにプレーできるほどに改善したのである。
この阿南に来て以来10年間ずっと、私は、私の息子たちが幼稚園に通う期間、その迎えにいった際に、サッカーのリフティングをやるようになったのである。幼稚園の3年間、そして息子たちが小学生になった後もずっと子供達とサッカーを遊びでするようになったのである。すると、最初はサッカーの技量も錆び付いていたが、それが徐々に磨かれ、しまいには高校生や大学生だった現役のサッカー選手の頃の記録よりもはるかに上回る4001回というリフティング記録を出すまでに至ったのである。(2章 小中高時代:私がスポーツから学んだ事)
要するに、人間の技術や技量というものは、年に関係なく努力次第ではさらに伸びる、ということである。体力ですら若い頃より伸びる可能性すらあるのである。
人間は確かに年とともに老いていく。しかし、継続は力なり。継続したり、新たに努力することによってまだまだ伸びていく部分があるのである。こういうことを私は実体験として発見したのである。
この実体験を脳科学の立場で言えば、どうなるのだろうか?
恐らく、脳のある部分は、まだまだ新生細胞が生まれるということであろう。私は、”脳細胞が増えるのは記憶だけではない”、と心底思うヨ。いずれは科学的に証明されるだろうが、”予想”として私はこれを信じるヨ(【83】 帰納法的発想と演繹法的発想の違い:予想の効用 2003/11/28(Fri)、【84】 予想、期待、予報の違いとは? 2003/11/28(Fri))。
記憶力向上に「難問」が良薬?東大がマウスで解明
このニュースはかなり面白い。
人の脳は、胎児の時期、生誕後から思春期まで成長し、そしてだいたい25才くらいで完成する。それ以後は脳細胞は死に絶えるだけで決して脳細胞の数は増えないのだ、と長らく信じられてきた。しかし、それは間違っている。少なくとも脳の海馬という領域では、”勉強する”と脳細胞が増える。これは、脳波のθ(シータ)波が起因となりGABAという物質が出て、記憶の海馬の脳細胞を増やす。勉強によって新しい脳細胞が創出できるのだ、という発見である。
実は、この発見に先立つこと5年程前、私はかつて「高等教育フォーラム」という場所でこんな意見を書いていた。
【114】高等教育における「神話」3
『え)大学も全く同様です.私立大学で,早稲田大学,慶應大学は,授業料が高いのに今も廃れることなく存続しています.それは,すでにそのリッチ度がリッチな友だちが出来たり,社長の息子や娘達と知り合いに慣れたり,広末涼子さんのような有名女優をお友達になれるかもしれないというブランド的な利点があるからです.同様に,高い授業料であるということは,家族が無理して入っている家庭の子供には,「一銭たりとも金も時間も無駄にしないぞ」という経済的感覚に基ずいた高いモティベーションを生むのです.こういう学生は勉強します.私もそういう一人でした(理科大時代).私は人生でもっとも勉強したのがこの時代でした.サッカーマンから学者になるべく平均睡眠時間5時間くらいで,「独学」していました.この時期の勉学が私の脳の容量を相当大きくしたのはまちがいありません.サッカーをしていたころは,せいぜい56cmの頭囲でしたが,気が付くと58cmになっていましたから.現在は59cm程度です.』
俗に「二十歳の知恵熱」という言葉があるが、思春期を過ぎ20歳から25歳くらいの時期に、非常に勉強すると、3歳児の「知恵熱」のように、特に病気ではないのだが何か頭が熱を持つ時期、というものが訪れるのである。この時期の勉強は脳の最後の完成を迎えるという意味では非常に重要で、ここで一気に脳が大きくなるのである。
私は大学1年の春休みから3年間、平均睡眠時間5時間くらいで、文字どおり”四六時中”本を読み、勉強した時期があった。この時期に近眼になってしまったが、明らかに膨大な知識を頭に入れ、毎日考える習慣というものを身につけた時期であった。その結果、気がつくと頭囲がかなり大きくなっていた、というわけである。この個人的経験を書いたものが、上の部分であった。
この直接の原因の1つを脳生理学の立場から証明したのが最初の発見なのである。記憶は勉強すればするほど良くなる、ということである。
しかし、私の個人的印象では、記憶の領域の海馬だけでなく、精神活動の領域、運動の領域など、他のほとんどの脳の領域でも、似たようなことが起こっているのではないか、と思うのである。
その理由は、こうである。
私は20歳代までずっと現役のサッカー選手であったが、アメリカ留学した20歳代後半からほとんど運動する機会を持たなかった。それは留学時代にぜんそくのようなアレルギー症状が出て、まともに運動できなくなってしまったからである。帰国後30歳前半で就職したが、その間もろくに運動せず、ましてサッカーの練習はまったくしなかった。だから、富士通にいた頃は、最高で88kgまで太ってしまったのである。
これでは困るので、理研に映った頃からアレルギー性の咳きとサッカー時代からある腰痛を何とかしようと思い、週に数回水泳に通うようになった。それから82kgまで体重が落ちた。
この水泳の習慣をここ阿南に来てからも続け、さらにジムで筋トレをするようになり、体重は76kg前後に落ち着くようになった。すると、ある時奇跡が起こり、カキーンという大音響と共に30年来の腰痛の大本が解消してしまったのである(腰が”カッキーーン”と鳴った!腰痛消滅の謎)。もちろん、私には3ケ所に椎間板ヘルニアがあるので、その内の1つが改善しただけでまだ2ケ所に残っているが、普段の違和感も痛みもなく、現在ではサッカーを現役高校生といっしょにプレーできるほどに改善したのである。
この阿南に来て以来10年間ずっと、私は、私の息子たちが幼稚園に通う期間、その迎えにいった際に、サッカーのリフティングをやるようになったのである。幼稚園の3年間、そして息子たちが小学生になった後もずっと子供達とサッカーを遊びでするようになったのである。すると、最初はサッカーの技量も錆び付いていたが、それが徐々に磨かれ、しまいには高校生や大学生だった現役のサッカー選手の頃の記録よりもはるかに上回る4001回というリフティング記録を出すまでに至ったのである。(2章 小中高時代:私がスポーツから学んだ事)
要するに、人間の技術や技量というものは、年に関係なく努力次第ではさらに伸びる、ということである。体力ですら若い頃より伸びる可能性すらあるのである。
人間は確かに年とともに老いていく。しかし、継続は力なり。継続したり、新たに努力することによってまだまだ伸びていく部分があるのである。こういうことを私は実体験として発見したのである。
この実体験を脳科学の立場で言えば、どうなるのだろうか?
恐らく、脳のある部分は、まだまだ新生細胞が生まれるということであろう。私は、”脳細胞が増えるのは記憶だけではない”、と心底思うヨ。いずれは科学的に証明されるだろうが、”予想”として私はこれを信じるヨ(【83】 帰納法的発想と演繹法的発想の違い:予想の効用 2003/11/28(Fri)、【84】 予想、期待、予報の違いとは? 2003/11/28(Fri))。
2005/09/14のBlog
[ 08:01 ]
[ サッカー練習日誌 ]
2005年9月13日(火)
4:30PM練習開始。3年生以下参加。
随時給水可。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
(4)センタリング&シュート練習1。右サイドのみ行う。
(5)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
(6)パス練習1。6対6パス回し練習。
6対6=敵味方各々6人でパスを回す。マンツーマンディフェンス。
5分、休憩1分、5分、休憩1分、5分。
(7)ミニゲーム。10分。
(8)整理体操、ストレッチ。6:30PM終了。
4:30PM練習開始。3年生以下参加。
随時給水可。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
(4)センタリング&シュート練習1。右サイドのみ行う。
(5)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
(6)パス練習1。6対6パス回し練習。
6対6=敵味方各々6人でパスを回す。マンツーマンディフェンス。
5分、休憩1分、5分、休憩1分、5分。
(7)ミニゲーム。10分。
(8)整理体操、ストレッチ。6:30PM終了。
[ 07:59 ]
[ サッカー練習日誌 ]
2005年9月12日(月)
4:30PM練習開始。3年生以下参加。
随時給水可。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
(4)センタリング&シュート練習1。右サイドのみ行う。
(5)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
(6)3体シュート。3人のコンビネーションパスからシュート。
3人のコンビネーションパス。
クロスパス=真ん中からパスを出し受けての背後を通ってパスを受ける。
ーー一一一\ーーーーーーーー一一一\
②/→②※2①一一一一一一/→①※4③一一一一一一/→
/ー・ー\・ーーーーーー/ーー・\・
①※ーーー\ー・ーーー/ー・ーーー\ー・
ー1ーーーー\ーー・/・ーーーーーー\ーー・
③一一一一一一\→③※3②一一一一一一\→②※5①→
ーーーーーーーー一一一/ーーーーーーーー一一一/
(7)ミニゲーム。10分。
(8)整理体操、ストレッチ。6:30PM終了。
4:30PM練習開始。3年生以下参加。
随時給水可。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
(4)センタリング&シュート練習1。右サイドのみ行う。
(5)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
(6)3体シュート。3人のコンビネーションパスからシュート。
3人のコンビネーションパス。
クロスパス=真ん中からパスを出し受けての背後を通ってパスを受ける。
ーー一一一\ーーーーーーーー一一一\
②/→②※2①一一一一一一/→①※4③一一一一一一/→
/ー・ー\・ーーーーーー/ーー・\・
①※ーーー\ー・ーーー/ー・ーーー\ー・
ー1ーーーー\ーー・/・ーーーーーー\ーー・
③一一一一一一\→③※3②一一一一一一\→②※5①→
ーーーーーーーー一一一/ーーーーーーーー一一一/
(7)ミニゲーム。10分。
(8)整理体操、ストレッチ。6:30PM終了。
[ 07:58 ]
[ サッカー練習日誌 ]
2005年9月2日(金)
4:30PM練習開始。3年生以下参加。
随時給水可。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
(4)リフティング練習。
(5)センタリング&シュート練習1。右サイドのみ行う。
(6)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
(7)パス練習1。6対6パス回し練習。
6対6=敵味方各々6人でパスを回す。マンツーマンディフェンス。
5分、休憩1分、5分、休憩1分、5分。
(8)ミニゲーム。10分。
(9)整理体操、ストレッチ。6:30PM終了。
4:30PM練習開始。3年生以下参加。
随時給水可。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
(4)リフティング練習。
(5)センタリング&シュート練習1。右サイドのみ行う。
(6)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
(7)パス練習1。6対6パス回し練習。
6対6=敵味方各々6人でパスを回す。マンツーマンディフェンス。
5分、休憩1分、5分、休憩1分、5分。
(8)ミニゲーム。10分。
(9)整理体操、ストレッチ。6:30PM終了。
[ 07:57 ]
[ サッカー練習日誌 ]
2005年9月1日(木)
4:30PM練習開始。4年生以下参加。
随時給水可。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
(4)リフティング練習。足、膝、頭の3種類。
(5)センタリング&シュート練習1。右サイドのみ行う。
(6)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
(7)ミニゲーム。10分×2。
(8)整理体操、ストレッチ。6:30PM終了。
4:30PM練習開始。4年生以下参加。
随時給水可。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
(4)リフティング練習。足、膝、頭の3種類。
(5)センタリング&シュート練習1。右サイドのみ行う。
(6)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
(7)ミニゲーム。10分×2。
(8)整理体操、ストレッチ。6:30PM終了。
2005/09/12のBlog
[ 11:34 ]
[ 社会 ]
アメリカではハリケーン”カトリーナ”がアメリカ南部を襲ったが、日本ではハリケーン”ミンエイカ”が襲来し、日本全土を水浸しにしてしまったようである。衆院の2/3まで洪水に浸かってしまった。
現在アメリカには誰にも分かるように、東海岸と西海岸を中心とする民主党国家とそれ以外の中西部から南部に至る広大な土地を持つ共和党国家の2つがある。国土面積では圧倒的な差があるが、人口比ではほぼ互角。選挙をすればほぼアメリカを50%ずつに分離する。こういう状況下で共和党政権は国を支配してきた。
こんな状況下で最大級のハリケーン”カトリーナ”がブッシュ政権のお膝元アメリカ南部に襲来した。すると、中産階級は避難し、貧民層はその場に留まり被災した。
ハリケーンが去った後被害を受けた人々を見れば、そのほとんどは黒人たちであった。そしてその黒人達を救済に入ったアメリカ軍人のほとんどが白人であった。身動き取れない黒人被災者たちに俊敏に援助物資を運ぶ白人青年たち、これが映像として世界に広がったシーンであった。
ある番組で特集していたが、アメリカ軍の州兵に志願する若者のほとんどは貧乏白人である。家庭の離婚などで教育の道を閉ざされた若者たち、白人青年たちが一縷の望みをかけて軍に志願するのだという。そして軍より奨学金をもらい、学校に通う。そして除隊後にステップアップして社会復帰する、というわけである。
しかし、そういった一種の職業斡旋組織としての米軍(州兵)の職も黒人たちにとっては高き門、第二次世界大戦時のように、せいぜい炊飯係や雑役夫程度の職しかない。ところが、一方、9・11ニューヨーク同時多発テロで被災した都市の警官や州兵には白人も黒人もかなり均等の混じっていたのである。トゥインタワーから逃げ延びたアメリカ人ビジネスマン/ビジネスウーマンには黒人も白人もたくさんいたのである。
ここに、ニューヨークなどの東海岸、あるいはカリフォルニアなどの西海岸の大都市近郊のアメリカ人とアメリカ南部の都市のアメリカ人の違いが見て取れるのである。要するに、21世紀現在のアメリカといえども、未だに「風とともに去りぬ」の南北戦争時代の名残りが健在であるということである。言い換えれば、SF映画にあるような超近代的近未来的な価値観を持つ進歩的民主党国家とカウボーイや騎兵隊の映画にあるような古きアメリカを望む復古的な価値観を持つ保守的共和党国家がアメリカという1つの国の中に同時に存在して対立しているということである。
ハリケーン”カトリーナ”の最大の功績とは、アメリカという一軒家の持つ”建て前”という屋根を吹っ飛ばし、その家の内部に潜んでいたこの2重構造を見事に暴き出したことであろう。
さて、もう一つのハリケーン”ミンエイカ”に話を戻そう。
ハリケーン”ミンエイカ”は小泉首相が起点となってハリケーンの中心となって引き起こしたものであるが、この結果は小泉自民党政権の歴史的大勝となったわけである。
このハリケーンが暴き出したものは、おそらく日本もアメリカと同様に1国という建て前の下に実は2つの日本が存在する、という現実であろう。要するに、東京都という超進歩的かつ強大な経済的政治的力を持つ国とそれを取り巻く「地方」という”第3世界”の国である。
また、いわゆるメディア(テレビ・新聞などのマスコミ)というものが権力に抗するものであった時代から、今やメディアそのものが表向きの建て前とは180度異なり権力そのものであるという時代に変わっていた、ということである。要するに、表向きには権力を批評しているようで、その実は権力に加担しているということである。メディアは”権力嗜好”が極めて強いということである。
この問題は「ニート」は投票に行くか?:選挙とマスゴミに紹介した通りである。選挙投票前に”予想”と称して立派に権力維持を誘導しているからである。NHKも含めてすべてのテレビ局がこれを行っているのであるから現職政権が強いのは当たり前のことであろう。
加えて、こうしたメディアの本社はすべて東京にあるわけだから、今や地方の声は日本に届かない。永田町という政治街の周辺の声はあっという間に全国に広がる。”情報の非対称化”というものである。東京のメディアの関心を引かないものは、だれも目にすることはない。
最近の台風14号ナービーが西日本に襲来した時、大暴風雨の中で私がじかに感じたことだが、自分が今暴風雨に被災しつつある時、あるいは大洪水の災害に今まさに合うかも知れないと恐れおののいている時、何かの情報を得ようとしてテレビをつけるのだが、そのテレビは自分の場所がまったく映らないのである。はるか遠い東京の話や大阪の吉本番組しか映らない。あるいはひどい災害にすでにあってしまった別の県のニュースしか入らないのである。
こういう状況で、どこぞの県のどこぞの土地では大洪水でたいへんだな、とテレビを見ているうちに今度は自分の家の裏山が土砂崩れを起こし、自分が被災してしまう、ということとなる。
要するに、東京や大都市にあるテレビ局が地方を取材に来るのは良いが、それにはおのずと限界がある。地方の”微視的”な面は見ることができない。にもかかわらず、地方に住む人は自分の身の回りや自分の足下を見ることができず、はるかかなたの都内の状況だけを一日中テレビで見させられる、ということなのである。そして自分の身の回りの情報はどこからも得ることが出来ずに見事に被災してしまうという状況が生まれるのである。
その理由は単純である。地方に独立したメディアが存在しないからである。地方には発信源がない。あったとしても中央の東京に本社のあるメディアの地方支社でしかないからである。
この台風14号の被災と同じことが今回の選挙のハリケーン”ミンエイカ”でも生じたというわけである。
地方の人々も毎日東京に本社のあるメディアの作り出す”映像”を毎日毎日見続けたわけである。だれも地方の現実を”映像”で映し出すものはない。地方発の情報源は皆無である。あくまで地方支社の東京寄りの観点でしか見ない。東京人の興味や関心でしか選挙報道は行われないのである。
こうしてハリケーン”ミンエイカ”は、日本全土に広がり大洪水となった、というわけである。
さて、こうして日米のハリケーンの被災現場を見てみると、その教訓とは、実に単純なことであるということができる。それは、やはり”自分の身は自分で守る”ということである。自己防衛、これである。地方は自分で自分を守る必要があるということである。東京の人間が地方の被災者に救いをもたらすことは現実問題としてあり得ない。
アメリカには共和党国と民主党国という二種類がある。同様に日本にも東京国と地方国という二種類が存在する。面白いことは、アメリカの超保守的な共和党国と日本の超進歩的な東京国が手を結んでいるということであろう。日本は何ごとにおいても「日本の常識は世界の非常識」という本末転倒国家なのであるから、実は日本人が超進歩的と呼んでいる意味が欧米人の呼ぶ超保守的という意味である可能性が高い。要するに、現実は、超保守的な東京国とやはり超保守的な共和党国が手を結んでいるということなのであろうネ。
まあ、いずれにせよ、東京国という先進国とその奴隷にすぎない地方国という構造的問題を見事に暴き出したことが、今回のハリケーン”ミンエイカ”の最大の功績であろうヨ。
現在アメリカには誰にも分かるように、東海岸と西海岸を中心とする民主党国家とそれ以外の中西部から南部に至る広大な土地を持つ共和党国家の2つがある。国土面積では圧倒的な差があるが、人口比ではほぼ互角。選挙をすればほぼアメリカを50%ずつに分離する。こういう状況下で共和党政権は国を支配してきた。
こんな状況下で最大級のハリケーン”カトリーナ”がブッシュ政権のお膝元アメリカ南部に襲来した。すると、中産階級は避難し、貧民層はその場に留まり被災した。
ハリケーンが去った後被害を受けた人々を見れば、そのほとんどは黒人たちであった。そしてその黒人達を救済に入ったアメリカ軍人のほとんどが白人であった。身動き取れない黒人被災者たちに俊敏に援助物資を運ぶ白人青年たち、これが映像として世界に広がったシーンであった。
ある番組で特集していたが、アメリカ軍の州兵に志願する若者のほとんどは貧乏白人である。家庭の離婚などで教育の道を閉ざされた若者たち、白人青年たちが一縷の望みをかけて軍に志願するのだという。そして軍より奨学金をもらい、学校に通う。そして除隊後にステップアップして社会復帰する、というわけである。
しかし、そういった一種の職業斡旋組織としての米軍(州兵)の職も黒人たちにとっては高き門、第二次世界大戦時のように、せいぜい炊飯係や雑役夫程度の職しかない。ところが、一方、9・11ニューヨーク同時多発テロで被災した都市の警官や州兵には白人も黒人もかなり均等の混じっていたのである。トゥインタワーから逃げ延びたアメリカ人ビジネスマン/ビジネスウーマンには黒人も白人もたくさんいたのである。
ここに、ニューヨークなどの東海岸、あるいはカリフォルニアなどの西海岸の大都市近郊のアメリカ人とアメリカ南部の都市のアメリカ人の違いが見て取れるのである。要するに、21世紀現在のアメリカといえども、未だに「風とともに去りぬ」の南北戦争時代の名残りが健在であるということである。言い換えれば、SF映画にあるような超近代的近未来的な価値観を持つ進歩的民主党国家とカウボーイや騎兵隊の映画にあるような古きアメリカを望む復古的な価値観を持つ保守的共和党国家がアメリカという1つの国の中に同時に存在して対立しているということである。
ハリケーン”カトリーナ”の最大の功績とは、アメリカという一軒家の持つ”建て前”という屋根を吹っ飛ばし、その家の内部に潜んでいたこの2重構造を見事に暴き出したことであろう。
さて、もう一つのハリケーン”ミンエイカ”に話を戻そう。
ハリケーン”ミンエイカ”は小泉首相が起点となってハリケーンの中心となって引き起こしたものであるが、この結果は小泉自民党政権の歴史的大勝となったわけである。
このハリケーンが暴き出したものは、おそらく日本もアメリカと同様に1国という建て前の下に実は2つの日本が存在する、という現実であろう。要するに、東京都という超進歩的かつ強大な経済的政治的力を持つ国とそれを取り巻く「地方」という”第3世界”の国である。
また、いわゆるメディア(テレビ・新聞などのマスコミ)というものが権力に抗するものであった時代から、今やメディアそのものが表向きの建て前とは180度異なり権力そのものであるという時代に変わっていた、ということである。要するに、表向きには権力を批評しているようで、その実は権力に加担しているということである。メディアは”権力嗜好”が極めて強いということである。
この問題は「ニート」は投票に行くか?:選挙とマスゴミに紹介した通りである。選挙投票前に”予想”と称して立派に権力維持を誘導しているからである。NHKも含めてすべてのテレビ局がこれを行っているのであるから現職政権が強いのは当たり前のことであろう。
加えて、こうしたメディアの本社はすべて東京にあるわけだから、今や地方の声は日本に届かない。永田町という政治街の周辺の声はあっという間に全国に広がる。”情報の非対称化”というものである。東京のメディアの関心を引かないものは、だれも目にすることはない。
最近の台風14号ナービーが西日本に襲来した時、大暴風雨の中で私がじかに感じたことだが、自分が今暴風雨に被災しつつある時、あるいは大洪水の災害に今まさに合うかも知れないと恐れおののいている時、何かの情報を得ようとしてテレビをつけるのだが、そのテレビは自分の場所がまったく映らないのである。はるか遠い東京の話や大阪の吉本番組しか映らない。あるいはひどい災害にすでにあってしまった別の県のニュースしか入らないのである。
こういう状況で、どこぞの県のどこぞの土地では大洪水でたいへんだな、とテレビを見ているうちに今度は自分の家の裏山が土砂崩れを起こし、自分が被災してしまう、ということとなる。
要するに、東京や大都市にあるテレビ局が地方を取材に来るのは良いが、それにはおのずと限界がある。地方の”微視的”な面は見ることができない。にもかかわらず、地方に住む人は自分の身の回りや自分の足下を見ることができず、はるかかなたの都内の状況だけを一日中テレビで見させられる、ということなのである。そして自分の身の回りの情報はどこからも得ることが出来ずに見事に被災してしまうという状況が生まれるのである。
その理由は単純である。地方に独立したメディアが存在しないからである。地方には発信源がない。あったとしても中央の東京に本社のあるメディアの地方支社でしかないからである。
この台風14号の被災と同じことが今回の選挙のハリケーン”ミンエイカ”でも生じたというわけである。
地方の人々も毎日東京に本社のあるメディアの作り出す”映像”を毎日毎日見続けたわけである。だれも地方の現実を”映像”で映し出すものはない。地方発の情報源は皆無である。あくまで地方支社の東京寄りの観点でしか見ない。東京人の興味や関心でしか選挙報道は行われないのである。
こうしてハリケーン”ミンエイカ”は、日本全土に広がり大洪水となった、というわけである。
さて、こうして日米のハリケーンの被災現場を見てみると、その教訓とは、実に単純なことであるということができる。それは、やはり”自分の身は自分で守る”ということである。自己防衛、これである。地方は自分で自分を守る必要があるということである。東京の人間が地方の被災者に救いをもたらすことは現実問題としてあり得ない。
アメリカには共和党国と民主党国という二種類がある。同様に日本にも東京国と地方国という二種類が存在する。面白いことは、アメリカの超保守的な共和党国と日本の超進歩的な東京国が手を結んでいるということであろう。日本は何ごとにおいても「日本の常識は世界の非常識」という本末転倒国家なのであるから、実は日本人が超進歩的と呼んでいる意味が欧米人の呼ぶ超保守的という意味である可能性が高い。要するに、現実は、超保守的な東京国とやはり超保守的な共和党国が手を結んでいるということなのであろうネ。
まあ、いずれにせよ、東京国という先進国とその奴隷にすぎない地方国という構造的問題を見事に暴き出したことが、今回のハリケーン”ミンエイカ”の最大の功績であろうヨ。
2005/09/11のBlog
[ 14:15 ]
[ 社会 ]
使用済み核燃料中間貯蔵施設、米ユタ州に建設を承認
このニュースには、憤慨する。
米原子力規制委員会(NRC)が、”馬鹿”ブッシュ政権の言うがままに、米ユタ州の先住民居住区に建設するという民間企業の計画を承認した、というニュースである。
ここでいう「米ユタ州の先住民居住区」というのは、アメリカ・インディアンのナバホの居住区のことである。
私がユタ大学に留学したのは1986年から1990年の4年間だったが、当時の日本人留学生仲間の友人にナバホ・インディアンの酋長の孫という女学生がいて、みんなで仲良く遊んだものである。
ナバホ族というのは、”ナバホ”という音の響きから「縄穂」という日本語の響きにも似て、古代縄文時代に日本から移り住んだアジア系の民族ではないか、というような説もあるが、実際、アメリカ・インディアンの中でも”おとなしい”部族に属する。
こんなおとなしい性格が災いするのか、ナバホは”居住区”というもっとも不毛な土地にいつも追いやられてきたようである。アメリカの独立時にはロッキー山脈に追いやられ、そこに東からモルモン教徒が住み着けば、ユタの不毛の地に追いやられた、というわけである。
それしても、アメリカの白人は西部劇の時代から少しも進歩していない、ということがこのニュースでも明らかとなったわけである。
インディアンの住む土地に”金”が出るとなれば、インディアンを動物のように追い払い、”ゴールドラッシュ”となった。マーク・トゥウェインのおよそ100数十年前のことである。そして、インディアンの土地(アメリカ南部テキサス)に”石油”が出るとなれば、今度はそこから追いだす。それも、インディアンに理想的な居住区を用意する、というような適当な理由をつけて、追い出すのである。
ところが、一方、白人が出す”ゴミ”の類いや”核廃棄物”のようなやっかいな代物は、逆に今度はインディアンの居住区にその処理施設を作るというわけである。これを見れば、インディアンの”居住区”というものがどれほど不毛の地であるか分かるというものであろう。
この”アメリカ白人”感覚で世界政治を行うものだから、世界は”乱れに乱れる”のであろう。アメリカ白人の典型であるブッシュ政権(ネオナチよろしくネオコンという)は、アフリカの黒人であろうが、エジプト人であろうが、イラク人であろうが、イラン人であろうが、日本人であろうが、インド人であろうが、中国人であろうが、韓国人であろうが、無関係。連中にとっては、アメリカ・インディアンのような部族としてしか映らないのである。
イラク人の土地に石油が出れば、イラク人を追い出す(あるいは殺害する)。黒人の国に金やダイヤモンドが出れば、その国から追い出す。こういう”感覚”で世界経済や世界政治を牛耳ろうとする、わけである。
この観点からすれば、日本人にとって幸いだったことは、日本にはこれという資源・物資がまったくなかったことではないか、とすら思えるのである。もし日本に金が出たらどうなっただろうか。もし日本に石油が出たらどうなっただろうか。とうにアメリカ白人に国を乗っ取られていたのではないか?日本には地理上の優位さがあるだけで、それが米軍にとって地政学的な利便に映っているだけであろう。だから米軍駐留程度ですんだというわけであろう。
最近私は、地球人類の平和にとって最大の問題は、ヴァイキングに先祖を持つアングロサクソン人ではないか、という気にすらなってくる。事実、古代北欧ヴァイキングの残した著作といわれる「サガ」という書物には、いかに北欧バイキングが残酷な人種であったかということが如実に記されているようである。
それほどまでにポルトガル・スペイン継承戦争後に世界に散った蘭英米の子孫のとった圧制に世界が振り回されてきたように見えるのである。アングロサクソン人がやってきた事と比べれば、まだナチスドイツのやったことははるかにましにすら見えるのである。もちろん、アウシュビッツなどユダヤ人虐殺など非道・外道の行為もありそうしたものは認めることはできないが、原爆を日本に落としたこと、いつも他国を武器・兵器の実験場にしてきたことなど、”平和の名の下に”ナチス並あるいはそれ以上のことはずっと行ってきたわけである。
まあ、戦争の類いはワールドカップ・サッカーのフィールドの上だけの話にして欲しいものである。
ところで、こうしてワールドカップ・サッカーの国々を見ると、ポルトガル・スペインを子孫に持つ国々、つまり、アルゼンチン、ブラジル、メキシコなど中南米の国々、あるいはドイツ、ロシア、フランスなどの国々が、オランダ、イギリス、アメリカ、オーストラリア、カナダ、などの英連邦のアングロサクソンの国々より強いというのが面白い。
このように、サッカーに関してみても、アングロサクソン人は自分たちが何か世界の中では別格であるという錯覚をしている感じが出ていて面白い。
いずれにせよ、ナバホ・インディアン居住区に4万4千トンの使用済み燃料の中間貯蔵施設を作るというのは間違っていると私は思うネ。テキサスにあるというジョージ・ブッシュの牧場内に作ったらよかろうヨ。
また、そういうことをする”民間企業”というのが、いわゆる軍産複合体というものに属するファミリー企業のようなものであろう。国の金を使ってこういう企業を作り、そこで貧しい白人を働かせ、自分たちはもっと別の場所にあるアメリカで一番いいところで優雅に暮らす、というシナリオであろうネ。
このニュースには、憤慨する。
米原子力規制委員会(NRC)が、”馬鹿”ブッシュ政権の言うがままに、米ユタ州の先住民居住区に建設するという民間企業の計画を承認した、というニュースである。
ここでいう「米ユタ州の先住民居住区」というのは、アメリカ・インディアンのナバホの居住区のことである。
私がユタ大学に留学したのは1986年から1990年の4年間だったが、当時の日本人留学生仲間の友人にナバホ・インディアンの酋長の孫という女学生がいて、みんなで仲良く遊んだものである。
ナバホ族というのは、”ナバホ”という音の響きから「縄穂」という日本語の響きにも似て、古代縄文時代に日本から移り住んだアジア系の民族ではないか、というような説もあるが、実際、アメリカ・インディアンの中でも”おとなしい”部族に属する。
こんなおとなしい性格が災いするのか、ナバホは”居住区”というもっとも不毛な土地にいつも追いやられてきたようである。アメリカの独立時にはロッキー山脈に追いやられ、そこに東からモルモン教徒が住み着けば、ユタの不毛の地に追いやられた、というわけである。
それしても、アメリカの白人は西部劇の時代から少しも進歩していない、ということがこのニュースでも明らかとなったわけである。
インディアンの住む土地に”金”が出るとなれば、インディアンを動物のように追い払い、”ゴールドラッシュ”となった。マーク・トゥウェインのおよそ100数十年前のことである。そして、インディアンの土地(アメリカ南部テキサス)に”石油”が出るとなれば、今度はそこから追いだす。それも、インディアンに理想的な居住区を用意する、というような適当な理由をつけて、追い出すのである。
ところが、一方、白人が出す”ゴミ”の類いや”核廃棄物”のようなやっかいな代物は、逆に今度はインディアンの居住区にその処理施設を作るというわけである。これを見れば、インディアンの”居住区”というものがどれほど不毛の地であるか分かるというものであろう。
この”アメリカ白人”感覚で世界政治を行うものだから、世界は”乱れに乱れる”のであろう。アメリカ白人の典型であるブッシュ政権(ネオナチよろしくネオコンという)は、アフリカの黒人であろうが、エジプト人であろうが、イラク人であろうが、イラン人であろうが、日本人であろうが、インド人であろうが、中国人であろうが、韓国人であろうが、無関係。連中にとっては、アメリカ・インディアンのような部族としてしか映らないのである。
イラク人の土地に石油が出れば、イラク人を追い出す(あるいは殺害する)。黒人の国に金やダイヤモンドが出れば、その国から追い出す。こういう”感覚”で世界経済や世界政治を牛耳ろうとする、わけである。
この観点からすれば、日本人にとって幸いだったことは、日本にはこれという資源・物資がまったくなかったことではないか、とすら思えるのである。もし日本に金が出たらどうなっただろうか。もし日本に石油が出たらどうなっただろうか。とうにアメリカ白人に国を乗っ取られていたのではないか?日本には地理上の優位さがあるだけで、それが米軍にとって地政学的な利便に映っているだけであろう。だから米軍駐留程度ですんだというわけであろう。
最近私は、地球人類の平和にとって最大の問題は、ヴァイキングに先祖を持つアングロサクソン人ではないか、という気にすらなってくる。事実、古代北欧ヴァイキングの残した著作といわれる「サガ」という書物には、いかに北欧バイキングが残酷な人種であったかということが如実に記されているようである。
それほどまでにポルトガル・スペイン継承戦争後に世界に散った蘭英米の子孫のとった圧制に世界が振り回されてきたように見えるのである。アングロサクソン人がやってきた事と比べれば、まだナチスドイツのやったことははるかにましにすら見えるのである。もちろん、アウシュビッツなどユダヤ人虐殺など非道・外道の行為もありそうしたものは認めることはできないが、原爆を日本に落としたこと、いつも他国を武器・兵器の実験場にしてきたことなど、”平和の名の下に”ナチス並あるいはそれ以上のことはずっと行ってきたわけである。
まあ、戦争の類いはワールドカップ・サッカーのフィールドの上だけの話にして欲しいものである。
ところで、こうしてワールドカップ・サッカーの国々を見ると、ポルトガル・スペインを子孫に持つ国々、つまり、アルゼンチン、ブラジル、メキシコなど中南米の国々、あるいはドイツ、ロシア、フランスなどの国々が、オランダ、イギリス、アメリカ、オーストラリア、カナダ、などの英連邦のアングロサクソンの国々より強いというのが面白い。
このように、サッカーに関してみても、アングロサクソン人は自分たちが何か世界の中では別格であるという錯覚をしている感じが出ていて面白い。
いずれにせよ、ナバホ・インディアン居住区に4万4千トンの使用済み燃料の中間貯蔵施設を作るというのは間違っていると私は思うネ。テキサスにあるというジョージ・ブッシュの牧場内に作ったらよかろうヨ。
また、そういうことをする”民間企業”というのが、いわゆる軍産複合体というものに属するファミリー企業のようなものであろう。国の金を使ってこういう企業を作り、そこで貧しい白人を働かせ、自分たちはもっと別の場所にあるアメリカで一番いいところで優雅に暮らす、というシナリオであろうネ。
2005/09/06のBlog
[ 17:54 ]
[ 台風 ]
ハリケーン”カトリーナ”がアメリカ南部で甚大なる被害を出したばかりである。それを”対岸の火事”のように、昨日まで考えていた人も多かろう。
が、この台風14号のアジア名は”ナービー”といい、その規模は”カトリーナ”をはるかに上回る。いざ上陸すれば、ニューオーリンズよろしく、九州から四国まで全部水浸し状態にしてしまった。
21世紀の今日、映画「ウォーターワールド」のように、我々地球人類は、台風や大雨の度に、命を奪われかねないという危機に瀕している。
我々地球人類は「水生動物」にでも進化して、水の中でも生き抜いていけるというタイプの”新人類”に生まれ変わらない限り、将来の生存は難しいのかも知れないネ。
ひょっとすれば、地球人類は、乾燥地適応した人類(水なしにも生きていけるタイプ)、水生人類(水の中で生きていけるタイプ)、従来タイプ(どちらでもない)の3タイプに分化していく運命なのだろうか?
さて、私に理解できないことは、どうして日本の自動車メーカーは、相変わらず従来タイプのガソリンエンジン搭載の自動車を作り続けているのだろうか、ということである。
台風や大雨の度に車が水没すればその車は廃棄処分となってしまう。その度にその人物は新車を買ってくれると自動車会社だけは大喜びしているのだろうか。その一方では保険会社は困っているかも知れないが、これまでのところ、日本の自動車会社が、”水陸両用車”や”水没しても大丈夫という車”、”モーターボートに変身できる車”などの開発を行っているという話は聞いたことがない。
同様に、大雨で堤防が欠壊して洪水になれば、従来タイプの住宅はお手上げであり、水の流れにまかせるままであるが、どうして日本の建築会社は洪水対応型の建築を研究開発しないのだろうか、ということである。
かつて私は「空飛ぶ家&空飛ぶ自動車」というエッセイで書いたことだが、家そのものが空を飛ぶ(もちろんそういう飛行機は存在する)というような家、洪水などの災害を避けるために家が移動できるような家、などの開発は今後の地球温暖化下の地球人には必須の家である。にもかかわらず、相変わらず、中世型のお城のような家を金持ちの住むべき理想の家と人々を洗脳している始末である。
私の個人的予想では、今後は、これまでの支柱(バルク)を中心とした建築(つまり、重力に抗して屋根を維持するために重量感のある柱を使うという建物)ではなく、むしろヒモ(ストリング)を中心とした建築(つまり、大型の橋のように、太い金属製のヒモの引っ張りを基本とした大きさの割には軽量で済むという建築)に変わっていくべきではないか、と考えるのである。言い換えれば、蟻塚のような建築スタイルから、蜘蛛の巣のような建築スタイルに変わっていくべきであると私は考えるのである。
例えば、明石大橋のような建築物があると考えよう。橋はケーブルの引っ張りと何点かの支柱で出来ている。これが骨格を作りその中に建物を張る。こういう建物であれば、風雨や地震に耐えるだけの”しなやかさ”を保つことができる。しかし、従来の高層ビルのような建物では、風雨や地震に耐えるほどの柔軟性はもちえない。ましてや水の攻撃にはきわめて弱い。
フラーは、風雨に強い建物のモデルとして、海の帆船をモチーフにした、といわれている。帆船は人が住めるにたる立派な建物であるが、水に強く、風にも強い。波にもまれながらも目的地まで進むことのできる船のシステムは、洪水や暴風雨の中でも立派に住むことのできる家のイメージにかなり近いと私は考えるのである。
水陸両用車、洪水や暴風雨に耐える建築物や家
こういったものを今後の自動車会社や建築会社は開発していくべき時代に入ったと私は思うのである。
が、この台風14号のアジア名は”ナービー”といい、その規模は”カトリーナ”をはるかに上回る。いざ上陸すれば、ニューオーリンズよろしく、九州から四国まで全部水浸し状態にしてしまった。
21世紀の今日、映画「ウォーターワールド」のように、我々地球人類は、台風や大雨の度に、命を奪われかねないという危機に瀕している。
我々地球人類は「水生動物」にでも進化して、水の中でも生き抜いていけるというタイプの”新人類”に生まれ変わらない限り、将来の生存は難しいのかも知れないネ。
ひょっとすれば、地球人類は、乾燥地適応した人類(水なしにも生きていけるタイプ)、水生人類(水の中で生きていけるタイプ)、従来タイプ(どちらでもない)の3タイプに分化していく運命なのだろうか?
さて、私に理解できないことは、どうして日本の自動車メーカーは、相変わらず従来タイプのガソリンエンジン搭載の自動車を作り続けているのだろうか、ということである。
台風や大雨の度に車が水没すればその車は廃棄処分となってしまう。その度にその人物は新車を買ってくれると自動車会社だけは大喜びしているのだろうか。その一方では保険会社は困っているかも知れないが、これまでのところ、日本の自動車会社が、”水陸両用車”や”水没しても大丈夫という車”、”モーターボートに変身できる車”などの開発を行っているという話は聞いたことがない。
同様に、大雨で堤防が欠壊して洪水になれば、従来タイプの住宅はお手上げであり、水の流れにまかせるままであるが、どうして日本の建築会社は洪水対応型の建築を研究開発しないのだろうか、ということである。
かつて私は「空飛ぶ家&空飛ぶ自動車」というエッセイで書いたことだが、家そのものが空を飛ぶ(もちろんそういう飛行機は存在する)というような家、洪水などの災害を避けるために家が移動できるような家、などの開発は今後の地球温暖化下の地球人には必須の家である。にもかかわらず、相変わらず、中世型のお城のような家を金持ちの住むべき理想の家と人々を洗脳している始末である。
私の個人的予想では、今後は、これまでの支柱(バルク)を中心とした建築(つまり、重力に抗して屋根を維持するために重量感のある柱を使うという建物)ではなく、むしろヒモ(ストリング)を中心とした建築(つまり、大型の橋のように、太い金属製のヒモの引っ張りを基本とした大きさの割には軽量で済むという建築)に変わっていくべきではないか、と考えるのである。言い換えれば、蟻塚のような建築スタイルから、蜘蛛の巣のような建築スタイルに変わっていくべきであると私は考えるのである。
例えば、明石大橋のような建築物があると考えよう。橋はケーブルの引っ張りと何点かの支柱で出来ている。これが骨格を作りその中に建物を張る。こういう建物であれば、風雨や地震に耐えるだけの”しなやかさ”を保つことができる。しかし、従来の高層ビルのような建物では、風雨や地震に耐えるほどの柔軟性はもちえない。ましてや水の攻撃にはきわめて弱い。
フラーは、風雨に強い建物のモデルとして、海の帆船をモチーフにした、といわれている。帆船は人が住めるにたる立派な建物であるが、水に強く、風にも強い。波にもまれながらも目的地まで進むことのできる船のシステムは、洪水や暴風雨の中でも立派に住むことのできる家のイメージにかなり近いと私は考えるのである。
水陸両用車、洪水や暴風雨に耐える建築物や家
こういったものを今後の自動車会社や建築会社は開発していくべき時代に入ったと私は思うのである。
2005/09/05のBlog
[ 15:08 ]
[ 政治・経済 ]
今度の選挙は面白い、とマスコミは言うが、私は生来の”へそ曲がり”の性格のせいかちっとも面白みを感じない。
新聞・テレビのマスコミが面白がれば面白がる程、マスコミは巨大政党の蒔いた情報操作に巻き込まれて、知らず知らずのうちに己もその中に加担することとなる。
ここ連日出る以下のような新聞記事はその典型である。
自民は引き締め、民主は巻き返し 「自民優勢」情勢調査
この中にあるように、選挙の投票情勢を新聞各社が”身勝手流”に選択した人物から得られたデータを基に統計を出す。そして、こんなことをいうのである。
『自民優勢、民主不振。報道各社がそろって総選挙序盤の情勢を伝えたことを受け、自公両党は郵政民営化に争点を絞り、選挙協力で足場を固める戦術を強化する。自民党執行部はさらに、公明党の比例票上積みにも力を割く考えだ。』
あるいは、次のようなデータを出す。
「必ず投票に行く」78% 自民支持33%、民主16%
こうやって、”あの手この手”で自分勝手に統計を出した成果に基づいて、”自民優勢、自民優勢”と何度も唱え、結局自ら自民党”だけ”を有利に誘っているのである。実にアンフェアーなやり方である。これは、”選挙の公平”を唱って、正確な統計調査だと主張すればする程、その予想結果の根拠が強まり、その結果としてより予想が不公平を生じてしまう、という矛盾である。が、しかし、マスゴミ(バカマスコミの意味)は、それにたぶん意識的に気付かない振りをしているのである。選挙が終わるまでマスゴミは”シャラップ(黙れ)”でいればよろしいのである。
なぜなら、郵政3事業を民営化すれば、この間のフジテレビのホリエモンによる買収劇にもあったように、自社株価を操作するための余剰資金が郵便貯金・簡易保険から流れ込んで来るからである。つまり、日本のマスコミも立派な”営利企業”の一つに過ぎないからである。お金に弱い。
もし彼等のキリストがいたとすれば、こういうキリストだろう。
”札束で右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す。”
この点については、すでにホリエモン参戦に”インサイダーの匂い”で紹介した。
さて、この選挙で私がいささか興味ある問題とは、次のようなものである。
「ニート」と呼ばれる若者、あるいは「引きこもり」と呼ばれる若者達が今の日本には数百万人もいるのではないか、と予想されている。この若者達は果たして選挙に行けるのだろうか?つまり、「ニート」は選挙するか?成人したニートの若者達は、部屋を出て選挙場まで通って無事選挙行動を完了できるのだろうか?というのが、私の疑問である。
選挙当日に旅行や外出で”投票場に行けない人”たちには、「不在者投票」というシステムがある。しかし、引きこもりや「ニート」であるために、投票場に行けない人達はどうやって投票できるのだろうか?
おそらく、現行の法律では、ニートは家でインターネットなどを通じて投票できないわけであるから、実際には投票に行かないだろう、と私は考えている。いわゆる、”死に票”になるのである。しかし、都市部の激戦区などで、わずかな差が勝敗を決めるようなところでは、ニートのために投票をしやすくする政党の方が有利に働くのではないか、と私は想像する。
にもかかわらず、各政党はニート対策までは頭が回っていないように見える。果たして、この”死に票”がどっちに行くかは面白いところである。
もう一つは、マスゴミさんは、指摘しないで、自民党有利有利とだけ言っているが、私にはちょっと理解できないことがある。
それは、これまで1つの選挙区で自民党と公明党、民主党、共産党でそれぞれ1人ずつ、だいたい3人の有力者を選挙に出してきた。そして、自公連立の代表と民主党の代表がだいたい1位、2位を取り、共産党が3位を取って来たわけである。この場合、自公連立の代表と民主党の代表の差は肉迫していてかなりの僅差であった。
こんな状況下にあったものが、今回の選挙では自民が割れて、元自民から2人の代表が出たわけである。つまり、郵政民営化反対の元自民党議員と郵政民営化賛成の”刺客”の自民党員が対決し、なおかつ民主党と共産党と対決する、ということになる。
したがって、私の疑問とは、いくら郵政民営化賛成の”刺客”の自民党員が”優勢”であるとは言ってみたものの、票数の分配から言って、固定票のある共産党や民主党の票数は前回と大差はないはずであり、もしこれまで僅差で勝っていた自公連立の票数を刺客と反逆者で食うとすれば、どちらも僅差で民主党に負ける、という可能性はないのか、ということである。
もしこれが事実とすれば、刺客を送った選挙区では、ことごとく”僅差”で民主党に負けるというドミノ倒しのようなことが起こらないとも限らない、と私は個人的には見ているのである。反逆議員が有力であればあるほど、それまでの自民の票を2人で奪い合うはずである。もちろん、このドミノ倒しが起これば、民主党は僅差ずつながら勝利を重ね、圧勝に終わる。
こういう可能性はないのか?というのが私の素朴な疑問なのである。マスゴミさんたちが主張しているような自民圧勝という気配はいったいどこから出て来るのか、私には理解できない。
マスコミは、選挙が終わるままでだまっていれば良いのである。
新聞・テレビのマスコミが面白がれば面白がる程、マスコミは巨大政党の蒔いた情報操作に巻き込まれて、知らず知らずのうちに己もその中に加担することとなる。
ここ連日出る以下のような新聞記事はその典型である。
自民は引き締め、民主は巻き返し 「自民優勢」情勢調査
この中にあるように、選挙の投票情勢を新聞各社が”身勝手流”に選択した人物から得られたデータを基に統計を出す。そして、こんなことをいうのである。
『自民優勢、民主不振。報道各社がそろって総選挙序盤の情勢を伝えたことを受け、自公両党は郵政民営化に争点を絞り、選挙協力で足場を固める戦術を強化する。自民党執行部はさらに、公明党の比例票上積みにも力を割く考えだ。』
あるいは、次のようなデータを出す。
「必ず投票に行く」78% 自民支持33%、民主16%
こうやって、”あの手この手”で自分勝手に統計を出した成果に基づいて、”自民優勢、自民優勢”と何度も唱え、結局自ら自民党”だけ”を有利に誘っているのである。実にアンフェアーなやり方である。これは、”選挙の公平”を唱って、正確な統計調査だと主張すればする程、その予想結果の根拠が強まり、その結果としてより予想が不公平を生じてしまう、という矛盾である。が、しかし、マスゴミ(バカマスコミの意味)は、それにたぶん意識的に気付かない振りをしているのである。選挙が終わるまでマスゴミは”シャラップ(黙れ)”でいればよろしいのである。
なぜなら、郵政3事業を民営化すれば、この間のフジテレビのホリエモンによる買収劇にもあったように、自社株価を操作するための余剰資金が郵便貯金・簡易保険から流れ込んで来るからである。つまり、日本のマスコミも立派な”営利企業”の一つに過ぎないからである。お金に弱い。
もし彼等のキリストがいたとすれば、こういうキリストだろう。
”札束で右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す。”
この点については、すでにホリエモン参戦に”インサイダーの匂い”で紹介した。
さて、この選挙で私がいささか興味ある問題とは、次のようなものである。
「ニート」と呼ばれる若者、あるいは「引きこもり」と呼ばれる若者達が今の日本には数百万人もいるのではないか、と予想されている。この若者達は果たして選挙に行けるのだろうか?つまり、「ニート」は選挙するか?成人したニートの若者達は、部屋を出て選挙場まで通って無事選挙行動を完了できるのだろうか?というのが、私の疑問である。
選挙当日に旅行や外出で”投票場に行けない人”たちには、「不在者投票」というシステムがある。しかし、引きこもりや「ニート」であるために、投票場に行けない人達はどうやって投票できるのだろうか?
おそらく、現行の法律では、ニートは家でインターネットなどを通じて投票できないわけであるから、実際には投票に行かないだろう、と私は考えている。いわゆる、”死に票”になるのである。しかし、都市部の激戦区などで、わずかな差が勝敗を決めるようなところでは、ニートのために投票をしやすくする政党の方が有利に働くのではないか、と私は想像する。
にもかかわらず、各政党はニート対策までは頭が回っていないように見える。果たして、この”死に票”がどっちに行くかは面白いところである。
もう一つは、マスゴミさんは、指摘しないで、自民党有利有利とだけ言っているが、私にはちょっと理解できないことがある。
それは、これまで1つの選挙区で自民党と公明党、民主党、共産党でそれぞれ1人ずつ、だいたい3人の有力者を選挙に出してきた。そして、自公連立の代表と民主党の代表がだいたい1位、2位を取り、共産党が3位を取って来たわけである。この場合、自公連立の代表と民主党の代表の差は肉迫していてかなりの僅差であった。
こんな状況下にあったものが、今回の選挙では自民が割れて、元自民から2人の代表が出たわけである。つまり、郵政民営化反対の元自民党議員と郵政民営化賛成の”刺客”の自民党員が対決し、なおかつ民主党と共産党と対決する、ということになる。
したがって、私の疑問とは、いくら郵政民営化賛成の”刺客”の自民党員が”優勢”であるとは言ってみたものの、票数の分配から言って、固定票のある共産党や民主党の票数は前回と大差はないはずであり、もしこれまで僅差で勝っていた自公連立の票数を刺客と反逆者で食うとすれば、どちらも僅差で民主党に負ける、という可能性はないのか、ということである。
もしこれが事実とすれば、刺客を送った選挙区では、ことごとく”僅差”で民主党に負けるというドミノ倒しのようなことが起こらないとも限らない、と私は個人的には見ているのである。反逆議員が有力であればあるほど、それまでの自民の票を2人で奪い合うはずである。もちろん、このドミノ倒しが起これば、民主党は僅差ずつながら勝利を重ね、圧勝に終わる。
こういう可能性はないのか?というのが私の素朴な疑問なのである。マスゴミさんたちが主張しているような自民圧勝という気配はいったいどこから出て来るのか、私には理解できない。
マスコミは、選挙が終わるままでだまっていれば良いのである。
[ 12:14 ]
[ アルバム写真 ]
2005/09/02のBlog
[ 21:19 ]
[ 科学ニュース ]
朝日新聞:マウスゲノムの70%に重要な機能 理研など解析
読売新聞:生命に役立つ機能、ゲノムの7割も定説は2%
昨日のチンパンジー遺伝子の全解読のニュースもすごい話だったが、今日のほ乳類ゲノムの70%に”意味がある”という話もすごい。これは、文字どおり世界の歴史を変えるノーベル賞級の研究である。
この元解説は理化学研究所のHPで公開されている
『哺乳動物のトランスクリプトームの総合的解析による「RNA新大陸」の発見 』
である。
結論から言えば、ワトソン一クリックのDNAの2重螺旋構造解明以来、クリック博士が提唱した、いわゆる”セントラル・ドグマ”が間違いだった、ということである。
”セントラル・ドグマ”というのは、
DNA→RNA→タンパク質
という図式で描かれるシナリオで、DNAからRNAに転写されて最後には必ずタンパク質に翻訳される、という筋書きのことである。
それゆえ、いつしか生物学者たちは、タンパク質を”表現型”(Phenotype)、DNAを”遺伝子型”(Genotype)と区別するようになり、タンパク質をコードしている遺伝子部分の中の直接タンパク質のパーツを作る部分をエクソン(Exon)、タンパク質をコードしていない部分をイントロン(Intron)と呼ぶようになったのである。そしてタンパク質をコードする遺伝子はDNAの中に島状に点在し、ほとんどはタンパク質をコードしていない部分であり、これらを総称してジャンク(がらくた)遺伝子と呼ぶようになったのである。
ところが、一方で、我々理論物理学者もDNAのコード配列には興味があり、さまざまな遺伝子のコード部分を統計的解析する研究者が現れたのである。特に著名な研究者は統計理論物理学出身のスタンレー博士である。この博士のグループではタンパク質をコードしていない部分やタンパク質をコードする部分など遺伝子のさまざまなコードのA、G、C、Tの配列のフラクタル解析を行ったのである。
すると、生物学者の研究ではタンパク質をコードしないジャンク遺伝子は意味がないはずであるから、タンパク質をコードする部分と優位な差が現れるはずであると考えて始めたものが、どういうわけか、タンパク質をコードする部分もジャンク遺伝子部分も統計的に差があまりはっきりしなかったのである。どちらも似たようなフラクタルな分布(べキ乗分布)を発見したのである。
R. N. Mantegna et. al., Phys. Rev. Lett. 73, 3169 (1994).
このことから我々理論物理学者は、理由は良く分からないが、ジャンク遺伝子部分もタンパク質をコードする部分と同じ程度に”複雑”なコードを持っている、というふうに理解しているのである。
こんなわけで、私は理論物理学の立場からすれば、遺伝子ではジャンク遺伝子部分もタンパク質をコードする部分も同じ程度の複雑さを持っているが、生物学者たちはタンパク質をコードしない部分をジャンクと呼び何ら意味がないというわけだから、理論物理学者か生物学者のいずれかが誤っているのだろう、と考えてきたのである。
今回の発見は、この矛盾を見事に生物学者が解いてくれたということであろう。ともかく、非常にすっきりしたように私は感じる。
この発見から、遺伝子には単に生物のハード的な面、物質的な面をつかさどるタンパク質製造だけでなく、生物の制御を目的とするRNAをコードする遺伝子もタンパク質をコードする遺伝子並みに多数存在し得るということを示したといえるのである。この意味で、以下のような新しいドグマが誕生する可能性が出てきたといえるだろう。
DNA(遺伝子型)→RNA→タンパク質(表現型)
ー└一一一一一一一→RNA(制御型)
この”制御型”という言葉をギリシャ語的に何というのか知らないが、何か良い名前を考えるべきだろう。
以上から考えて、生物学の新しい段階に入ったということはまず間違いないだろう。
生命誕生のシナリオには、初期に”RNAワールド”が存在したという「始めにRNAありき」という考え方があるが、「DNAが先かタンパク質が先か」という「ニワトリが先か卵が先か」のような問題の答えとして、RNAがどのような役割を果たしているのか、ということに対する本当の答えが見つかるのかも知れない。
この研究は真にエキサイティングな研究である。すばらしい。今後の研究を見守りたいところである。
読売新聞:生命に役立つ機能、ゲノムの7割も定説は2%
昨日のチンパンジー遺伝子の全解読のニュースもすごい話だったが、今日のほ乳類ゲノムの70%に”意味がある”という話もすごい。これは、文字どおり世界の歴史を変えるノーベル賞級の研究である。
この元解説は理化学研究所のHPで公開されている
『哺乳動物のトランスクリプトームの総合的解析による「RNA新大陸」の発見 』
である。
結論から言えば、ワトソン一クリックのDNAの2重螺旋構造解明以来、クリック博士が提唱した、いわゆる”セントラル・ドグマ”が間違いだった、ということである。
”セントラル・ドグマ”というのは、
DNA→RNA→タンパク質
という図式で描かれるシナリオで、DNAからRNAに転写されて最後には必ずタンパク質に翻訳される、という筋書きのことである。
それゆえ、いつしか生物学者たちは、タンパク質を”表現型”(Phenotype)、DNAを”遺伝子型”(Genotype)と区別するようになり、タンパク質をコードしている遺伝子部分の中の直接タンパク質のパーツを作る部分をエクソン(Exon)、タンパク質をコードしていない部分をイントロン(Intron)と呼ぶようになったのである。そしてタンパク質をコードする遺伝子はDNAの中に島状に点在し、ほとんどはタンパク質をコードしていない部分であり、これらを総称してジャンク(がらくた)遺伝子と呼ぶようになったのである。
ところが、一方で、我々理論物理学者もDNAのコード配列には興味があり、さまざまな遺伝子のコード部分を統計的解析する研究者が現れたのである。特に著名な研究者は統計理論物理学出身のスタンレー博士である。この博士のグループではタンパク質をコードしていない部分やタンパク質をコードする部分など遺伝子のさまざまなコードのA、G、C、Tの配列のフラクタル解析を行ったのである。
すると、生物学者の研究ではタンパク質をコードしないジャンク遺伝子は意味がないはずであるから、タンパク質をコードする部分と優位な差が現れるはずであると考えて始めたものが、どういうわけか、タンパク質をコードする部分もジャンク遺伝子部分も統計的に差があまりはっきりしなかったのである。どちらも似たようなフラクタルな分布(べキ乗分布)を発見したのである。
R. N. Mantegna et. al., Phys. Rev. Lett. 73, 3169 (1994).
このことから我々理論物理学者は、理由は良く分からないが、ジャンク遺伝子部分もタンパク質をコードする部分と同じ程度に”複雑”なコードを持っている、というふうに理解しているのである。
こんなわけで、私は理論物理学の立場からすれば、遺伝子ではジャンク遺伝子部分もタンパク質をコードする部分も同じ程度の複雑さを持っているが、生物学者たちはタンパク質をコードしない部分をジャンクと呼び何ら意味がないというわけだから、理論物理学者か生物学者のいずれかが誤っているのだろう、と考えてきたのである。
今回の発見は、この矛盾を見事に生物学者が解いてくれたということであろう。ともかく、非常にすっきりしたように私は感じる。
この発見から、遺伝子には単に生物のハード的な面、物質的な面をつかさどるタンパク質製造だけでなく、生物の制御を目的とするRNAをコードする遺伝子もタンパク質をコードする遺伝子並みに多数存在し得るということを示したといえるのである。この意味で、以下のような新しいドグマが誕生する可能性が出てきたといえるだろう。
DNA(遺伝子型)→RNA→タンパク質(表現型)
ー└一一一一一一一→RNA(制御型)
この”制御型”という言葉をギリシャ語的に何というのか知らないが、何か良い名前を考えるべきだろう。
以上から考えて、生物学の新しい段階に入ったということはまず間違いないだろう。
生命誕生のシナリオには、初期に”RNAワールド”が存在したという「始めにRNAありき」という考え方があるが、「DNAが先かタンパク質が先か」という「ニワトリが先か卵が先か」のような問題の答えとして、RNAがどのような役割を果たしているのか、ということに対する本当の答えが見つかるのかも知れない。
この研究は真にエキサイティングな研究である。すばらしい。今後の研究を見守りたいところである。
2005/09/01のBlog
[ 16:04 ]
[ 科学ニュース ]
今日9月1日付ネーチャーにチンパンジーの全遺伝子解読論文が掲載されたようである。
徳島新聞:チンパンジーのゲノム解読 「人間らしさ」解明の鍵に
朝日新聞:チンパンジーのゲノム概要解読 ヒトの能力解明手がかり
これらの元解説は、
Cover Story : チンパンジーゲノムの解読
チンパンジーとヒトのゲノムには際立ったちがいがある
である。
この記念号はこちらで無料版がもらえるようである。
さて、今回のチンパンジー遺伝子全解読も以前ここで紹介したショットガン読書法:DNA解読の極意にあるように、ショットガン法による。
これによれば、ヒトとチンパンジーのゲノム配列を比較すると、
ヒトゲノム → 強い自然選択を受けた形跡がある。
チンパンジーの対応する配列 → それがない領域が複数ある。
これらの配列
→ 言語などヒトに特異的な形質を見きわめるのに大いに役立ちそう。
→ しかし、ヒトとチンパンジーの違いは考えられていたよりも大きい。
→ 両者のゲノム配列は遺伝子中の単一塩基の置換について見ると1.2 %しか違わない。
→ もっと長いDNA区間の重複や並び替えを考慮すると違いはさらに2.7 %増える。
→ ヒトゲノムの「分節重複」は染色体末端近くのサブテロメアと呼ばれる領域に高頻度で生じている。
→ チンパンジーの「性的な習性」がY染色体にとって不都合に働いている可能性がある。(これは、メンデルの法則に従わない遺伝子、性染色体の戦略などで紹介した問題である。)
という。
果たしてこの研究から人がチンパンジーから進化した歴史が解明されるだろうか?期待したいところである。
徳島新聞:チンパンジーのゲノム解読 「人間らしさ」解明の鍵に
朝日新聞:チンパンジーのゲノム概要解読 ヒトの能力解明手がかり
これらの元解説は、
Cover Story : チンパンジーゲノムの解読
チンパンジーとヒトのゲノムには際立ったちがいがある
である。
この記念号はこちらで無料版がもらえるようである。
さて、今回のチンパンジー遺伝子全解読も以前ここで紹介したショットガン読書法:DNA解読の極意にあるように、ショットガン法による。
これによれば、ヒトとチンパンジーのゲノム配列を比較すると、
ヒトゲノム → 強い自然選択を受けた形跡がある。
チンパンジーの対応する配列 → それがない領域が複数ある。
これらの配列
→ 言語などヒトに特異的な形質を見きわめるのに大いに役立ちそう。
→ しかし、ヒトとチンパンジーの違いは考えられていたよりも大きい。
→ 両者のゲノム配列は遺伝子中の単一塩基の置換について見ると1.2 %しか違わない。
→ もっと長いDNA区間の重複や並び替えを考慮すると違いはさらに2.7 %増える。
→ ヒトゲノムの「分節重複」は染色体末端近くのサブテロメアと呼ばれる領域に高頻度で生じている。
→ チンパンジーの「性的な習性」がY染色体にとって不都合に働いている可能性がある。(これは、メンデルの法則に従わない遺伝子、性染色体の戦略などで紹介した問題である。)
という。
果たしてこの研究から人がチンパンジーから進化した歴史が解明されるだろうか?期待したいところである。
[ 14:21 ]
[ 地震・災害 ]
「宇宙戦争」の火星人は地球の細菌やウイルスで滅ぶが、この越前クラゲは何で滅ぶのであろうか。あるいは、天敵の類いはいるのだろうか。
越前クラゲから「燃料電池」が作れるとか、越前クラゲから石油が取れるとか、何か奇想天外な名案でもない限り、越前クラゲ襲来は災い以外の何物でもないだろう。
越前クラゲから「燃料電池」が作れるとか、越前クラゲから石油が取れるとか、何か奇想天外な名案でもない限り、越前クラゲ襲来は災い以外の何物でもないだろう。
御盆を過ぎると、ここ阿南近海もクラゲが出て海水浴シーズンは終わりを迎える。それは、クラゲに刺されることを恐れるからだ。しかし、泳いでいて足に触ったクラゲを見たら、それが”1・5m重量70一80kg”の巨大な越前クラゲであったとしたら、泳いでいる人間は心臓が止まるほど驚くことは必至であろうネ。
2005/08/31のBlog
[ 09:20 ]
[ 好きな言葉や詩 ]
ポテンシャルの詩(うた)
かつてこんなことを考えたものがいた。
”ポテンシャルとは何か?”
確かブリリュアンだったと思う。
ポテンシャルは科学で重要な考えだ。
さまざまな分野で使われている。
しかしだれも本当の意味は良く知らない。
例えば、地上の重力がそうである。
地球は我々を万有引力で地表に引き付ける。
この位置エネルギーは重力ポテンシャルだ。
雨水が山から谷へ流れる。
集まった水は川を作り海へ流れ込む。
地形というポテンシャルがそうさせる。
水素原子の中の電子は陽子を回る。
陽子のプラスが電子のマイナスを引き付ける。
この位置エネルギーはクーロンポテンシャルだ。
何かが何かに作用する時
ここには何か暗黙の仮定が潜む。
それは、質量、地形、電荷など、
何か作用するものの同期である。
地球が太陽を回る時
もし太陽がじっとしていなかったら
どうなるだろう?
電子が陽子を回る時
もし陽子が中性子に変わったとしたら
どうなるだろう?
雨水が川に流れる時
もし天変地異が起こったとしたら
どうなるだろう?
ポテンシャル下の粒子軌道は
ポテンシャルがその間
じっとしていてくれることを願っている。
登山家は山に登る間
山がじっとしていてくれることをひたすら願う。
なだれや崩落だけは御免こうむりたいからだ。
我々地球人は毎年願う。
太陽が何億年もずっとそのままでいて欲しい。
いつまでもいつまでも輝いて欲しいと。
人は自分が生きる時
自分を取り巻く環境が
ずっと安定していることを願う。
ポテンシャルとは何か?
それは、環境の一致団結のようなものではないか?
これは物理でいう”平均場”のようなものかも知れない。
何か流れが作られる時
流れを生み出す源がある。
そこには何かのポテンシャルが潜む。
ばらばらなものたちの中では流れはできない。
流れを生み出すためは
縁の下の力持ちの一致団結が必要だ。
ヒーローは多くのファンに支えられて誕生する。
首相や大統領は国民に支えられて誕生する。
ブランドも多くの消費者に支持されて誕生する。
これがブームという流れであろう。
ポテンシャルとは何か?
この問いに答えられる時
人は永遠の真実にまた一歩近づく。
かつてこんなことを考えたものがいた。
”ポテンシャルとは何か?”
確かブリリュアンだったと思う。
ポテンシャルは科学で重要な考えだ。
さまざまな分野で使われている。
しかしだれも本当の意味は良く知らない。
例えば、地上の重力がそうである。
地球は我々を万有引力で地表に引き付ける。
この位置エネルギーは重力ポテンシャルだ。
雨水が山から谷へ流れる。
集まった水は川を作り海へ流れ込む。
地形というポテンシャルがそうさせる。
水素原子の中の電子は陽子を回る。
陽子のプラスが電子のマイナスを引き付ける。
この位置エネルギーはクーロンポテンシャルだ。
何かが何かに作用する時
ここには何か暗黙の仮定が潜む。
それは、質量、地形、電荷など、
何か作用するものの同期である。
地球が太陽を回る時
もし太陽がじっとしていなかったら
どうなるだろう?
電子が陽子を回る時
もし陽子が中性子に変わったとしたら
どうなるだろう?
雨水が川に流れる時
もし天変地異が起こったとしたら
どうなるだろう?
ポテンシャル下の粒子軌道は
ポテンシャルがその間
じっとしていてくれることを願っている。
登山家は山に登る間
山がじっとしていてくれることをひたすら願う。
なだれや崩落だけは御免こうむりたいからだ。
我々地球人は毎年願う。
太陽が何億年もずっとそのままでいて欲しい。
いつまでもいつまでも輝いて欲しいと。
人は自分が生きる時
自分を取り巻く環境が
ずっと安定していることを願う。
ポテンシャルとは何か?
それは、環境の一致団結のようなものではないか?
これは物理でいう”平均場”のようなものかも知れない。
何か流れが作られる時
流れを生み出す源がある。
そこには何かのポテンシャルが潜む。
ばらばらなものたちの中では流れはできない。
流れを生み出すためは
縁の下の力持ちの一致団結が必要だ。
ヒーローは多くのファンに支えられて誕生する。
首相や大統領は国民に支えられて誕生する。
ブランドも多くの消費者に支持されて誕生する。
これがブームという流れであろう。
ポテンシャルとは何か?
この問いに答えられる時
人は永遠の真実にまた一歩近づく。
[ 07:51 ]
[ 社会 ]
朝日新聞記事:当たりやすいtoto5、発売へ 対象試合が13から5
これによれば、totoの売り上げは年々”激減”。もはやこれまで、一銭のスポーツ助成もできないレベルにまで落ち込んだという。
そのために、選択がたった5つしかない、当りやすいくじ、”toto5”なるものを作るという。これはどうかんがえても”ロト6”の真似であろう。音の響きもそっくりである。こういうのを”安易な考え休むに似たり”というのであろう。
この記事の最後にこうある。
『totoは来年から委託方式を廃止し、実施主体の日本スポーツ振興センターの直営方式として運営をスリム化する。toto、toto5、totoゴール3の3本立てで、くじの当日販売、払い戻し場所のコンビニエンスストアへの拡充なども予定。購入者により便利にしていく。 』
いやはや、これを読む限り、このごに及んでも未だに物事の本質をこの「日本スポーツ振興センター」という”バカ集団”は気付かないようである。
私は、この問題についてしばらく前に以下で紹介した。
totoは”天下りお役人”の”バカ殿様商売”だ!
totoがバカ殿様商売から脱却?
この中で私はこう書いていた。
『要するに、『文部科学省』がtoto販売を依託している会社は『アダルトビデオ屋』や『エッチビデオ屋』やあるいはtoto販売を高利貸に利用しようとするコンビニの類いであるということになるのである。これでは、若者(もちろん20歳以上の大人)や女性や主婦などが気軽にtotoを街で買うことは”あり得ない”はずである。
事実、私自身、毎回totoを買いに行くと、テーブルの上でマークシートに書く時に、すぐ隣でエッチビデオのラベル張りをしているアルバイターと”毎週新作がでるの?大変だねー。”などと会話しながら、新作エッチビデオのケースを横目に眺めながら書き入れざるを得ない、というような有り様なのである。こんな場所に若い女性がtotoを買いに来るということはまず”あり得ない”だろうと思うのである。
したがって、解決策はいたって簡単。誰でも買いやすくすればすむ、ということである。このためには、新しい施設は必要無い。つまり、『ロトシックス』や『宝くじ』などを売っている、既存の宝くじ販売所でtotoも売れば良い。ただそれだけのことなのである。要するに、エッチビデオ店やローソンなどで販売するのは”即刻”止めて、”宝くじ販売”の一貫としてtotoも売り出せば良いのである。』
このように、東京などの都会はともかく、日本の地方の田舎では、totoを買うには極めて”勇気がいる”という状況が存在するのである。”怪しい”敷き居が高いのである。
そして、コンビニへの拡充しても、ローソンでは”カード払い”しか許さず、”現金払い”でtotoを買うことができないのである。要するに、コンビニはそこと提携しているカードローン会社を儲けさせるための手段としてtoto販売を行っているのである。
とまあ、こんな案配である。
かつて勝海舟が海臨丸によるアメリカ渡航から帰国して当時の家老に
”亜米利加は上に行くほど伶俐(れいり)である。”
(アメリカでは社会の上につくものほど頭が良い)
といったという。しかし、上のような状況では、日本の道路公団問題や今度の小泉解散などを見ても良く分かることだが、日本の場合には、
”日の本は上に行くほど鈍馬(とんま)である。”
(日本では社会の上につくものほど頭が悪い)
ということですナ。
これによれば、totoの売り上げは年々”激減”。もはやこれまで、一銭のスポーツ助成もできないレベルにまで落ち込んだという。
そのために、選択がたった5つしかない、当りやすいくじ、”toto5”なるものを作るという。これはどうかんがえても”ロト6”の真似であろう。音の響きもそっくりである。こういうのを”安易な考え休むに似たり”というのであろう。
この記事の最後にこうある。
『totoは来年から委託方式を廃止し、実施主体の日本スポーツ振興センターの直営方式として運営をスリム化する。toto、toto5、totoゴール3の3本立てで、くじの当日販売、払い戻し場所のコンビニエンスストアへの拡充なども予定。購入者により便利にしていく。 』
いやはや、これを読む限り、このごに及んでも未だに物事の本質をこの「日本スポーツ振興センター」という”バカ集団”は気付かないようである。
私は、この問題についてしばらく前に以下で紹介した。
totoは”天下りお役人”の”バカ殿様商売”だ!
totoがバカ殿様商売から脱却?
この中で私はこう書いていた。
『要するに、『文部科学省』がtoto販売を依託している会社は『アダルトビデオ屋』や『エッチビデオ屋』やあるいはtoto販売を高利貸に利用しようとするコンビニの類いであるということになるのである。これでは、若者(もちろん20歳以上の大人)や女性や主婦などが気軽にtotoを街で買うことは”あり得ない”はずである。
事実、私自身、毎回totoを買いに行くと、テーブルの上でマークシートに書く時に、すぐ隣でエッチビデオのラベル張りをしているアルバイターと”毎週新作がでるの?大変だねー。”などと会話しながら、新作エッチビデオのケースを横目に眺めながら書き入れざるを得ない、というような有り様なのである。こんな場所に若い女性がtotoを買いに来るということはまず”あり得ない”だろうと思うのである。
したがって、解決策はいたって簡単。誰でも買いやすくすればすむ、ということである。このためには、新しい施設は必要無い。つまり、『ロトシックス』や『宝くじ』などを売っている、既存の宝くじ販売所でtotoも売れば良い。ただそれだけのことなのである。要するに、エッチビデオ店やローソンなどで販売するのは”即刻”止めて、”宝くじ販売”の一貫としてtotoも売り出せば良いのである。』
このように、東京などの都会はともかく、日本の地方の田舎では、totoを買うには極めて”勇気がいる”という状況が存在するのである。”怪しい”敷き居が高いのである。
そして、コンビニへの拡充しても、ローソンでは”カード払い”しか許さず、”現金払い”でtotoを買うことができないのである。要するに、コンビニはそこと提携しているカードローン会社を儲けさせるための手段としてtoto販売を行っているのである。
とまあ、こんな案配である。
かつて勝海舟が海臨丸によるアメリカ渡航から帰国して当時の家老に
”亜米利加は上に行くほど伶俐(れいり)である。”
(アメリカでは社会の上につくものほど頭が良い)
といったという。しかし、上のような状況では、日本の道路公団問題や今度の小泉解散などを見ても良く分かることだが、日本の場合には、
”日の本は上に行くほど鈍馬(とんま)である。”
(日本では社会の上につくものほど頭が悪い)
ということですナ。
2005/08/30のBlog
[ 17:21 ]
[ 著作&本の紹介 ]
2005/08/29のBlog
[ 20:03 ]
[ 科学 ]
宇宙からの火星人襲来、地球の台風襲来やハリケーン襲来にも困ったものであるが、地球温暖化のせいで他にも猛烈に襲来してきたものがある。それが、”越前クラゲ襲来”である。
この巨大軟体生物の越前クラゲの日本近海襲来は、日本の漁業を脅かす、海の”火星人襲来”である。こんなことが起こるとは、H・G・ウェルズすら思いも及ばなかったであろう。
果たしてこの薄気味悪い生物をどうやって撃退すれば良いのだろうか?
【追記】
エチゼンクラゲが紀伊水道で大量発生、漁業被害も
とうとう太平洋側にも”襲来”が始まったようである。
この巨大軟体生物の越前クラゲの日本近海襲来は、日本の漁業を脅かす、海の”火星人襲来”である。こんなことが起こるとは、H・G・ウェルズすら思いも及ばなかったであろう。
果たしてこの薄気味悪い生物をどうやって撃退すれば良いのだろうか?
【追記】
エチゼンクラゲが紀伊水道で大量発生、漁業被害も
とうとう太平洋側にも”襲来”が始まったようである。
[ 19:45 ]
[ 台風 ]
スピルバーグ監督の「宇宙戦争」は今年のSF映画の目玉の1つであった。上空に突然雷鳴と強風が吹き荒れる。そして何物かが現れ突然地上の建物をことごとく木っ端みじんに破壊していく。この”理不尽”な恐怖を描いたものである。宇宙戦争ではその根源は火星人襲来にあった。
これに非常に似た状況が、今回アメリカの南部を直撃しつつあるハリケーンの”カトリーナ”である。
過去最大級のハリケーン再上陸も 米で48万人避難命令
台風の赤外線写真は、まるで”赤く巨大な火星人”がいくつもの巨大な手足を振りまいてすべてを破壊しようとしているように見える。これら2つを比べると、あたかもスピルバーグ監督の宇宙戦争は、これからの”気象戦争”を予言していたようにすら見えるのである。
「地球温暖化」の進んだ現代では、”火星人襲来”の前にまずこの地球に起こる”台風”や”ハリケーン”襲来と我々地球人は戦わなくてはならないのである。火星人襲来は他の惑星の住人による理不尽なものであるが、ハリケーン襲来は地球人自らが招いた理不尽なものである。
過去最大級のハリケーン再上陸も 米で48万人避難命令
台風の赤外線写真は、まるで”赤く巨大な火星人”がいくつもの巨大な手足を振りまいてすべてを破壊しようとしているように見える。これら2つを比べると、あたかもスピルバーグ監督の宇宙戦争は、これからの”気象戦争”を予言していたようにすら見えるのである。
「地球温暖化」の進んだ現代では、”火星人襲来”の前にまずこの地球に起こる”台風”や”ハリケーン”襲来と我々地球人は戦わなくてはならないのである。火星人襲来は他の惑星の住人による理不尽なものであるが、ハリケーン襲来は地球人自らが招いた理不尽なものである。
[ 14:05 ]
[ スポーツ ]
今年の高校野球はまれに見る程”面白かった”。
これは、別に高校野球そのものが面白かった、という意味ではない。もちろん高校の野球選手の熱戦はそれなりに面白かったが、エラー続きの”草野球”レベルで、高校野球の質の低下は明らかであった。
また、どうも野球ボールが以前と比べて”飛び過ぎる”というように私は感じた。かつて清原選手が甲子園でホームランを打った時も、ほとんどは今はないラッキーゾーンに入ったものである。しかし、今は非力な選手のボールもスタンドに入ってしまう。ここには何か我々の知らない”理由”が見隠れする。
さて、では何が面白かったか、といえば、”不祥事”を起こしたとされる学校に対する高野連の対応であった。これこそ、”支離滅裂”という四文字熟語がぴったりあてはまったからである。
実は、この高野連問題も私はすでに3年前に論じたものである。
1838 高野連はつぶそう! 2002/07/11
この中では、特に”プロ指導”の問題を論じた。高野連は、驚くべきことであるが、これまでプロ野球経験者が高校生に野球指導することを全面的に”否定”、”禁止”してきたのである。それは、一部の有名校がプロ野球の下部組織となり、癒着することを恐れてきたからである。
しかし、Jリーグがサッカー界に誕生し、プロ指導のまったく異なる方法論(FIFAスタイル)が日本社会を席巻し、また野茂、イチロー選手などアメリカ大リーグに進むものが出る時代となり、高野連も時代の波に飲み込まれることとなった。そして、ついに昨年から高野連は”プロ指導”を解禁した。
【155】 高野連、プロ指導解禁へ! 2004/01/29(Thu)
ところがまだ高野連の時代錯誤的一面が存続していたのである。それが、今回も話題となったように、高校野球部員やその指導者による”暴力事件”や”不祥事”に対する対応の仕方なのである。
これは、高野連という組織は第二次世界大戦前から存続してきたために、戦前の”軍事教練”の一種として高校野球が利用されてきたという歴史があったことがその直接の原因である。そのために、”お上に対する絶対服従”を要求するという社会教育システムであったのである。そのために、君が代斉唱、丸坊主、白いユニフォーム、軍隊行進による開会式、審判への絶対服従、などをその教育理念に盛り込んだのであった。そして、ここに今回の不祥事などに対する応対も始まったわけである。つまり、もし不祥事を起こせば、1年間の出場停止処分という、いわゆる”連帯責任”方式の処罰である。
このいわゆる”連帯責任”による処罰方法はもちろん戦前の陸軍などの軍隊で取られていたものであり、誰が問題を起こしたかどうかを追求する手間暇を一切かけることなく、そして責任の所在を一切無視して、ともかく懲罰として他の学校への”見せしめ”のために行われてきたものである。言い換えれば、高野連は”微分評価”せず、一切合切を味噌糞にする”積分評価”でお茶を濁してきたというわけである。
【311】 高野連はつぶそう!2:『微分評価』を知らない高野連 2004/06/17(Thu)
ところが、今回の甲子園の開始直前に、高知の名門明徳義塾野球部の一部の選手が喫煙と暴力行為を起こしたことが発覚したのであった。甲子園大会直前で困った高野連は、明徳義塾に従来通りの連帯責任論をぶった。そして、出場辞退に追い込み、その名門高校の監督など一切合切を追放してしまったのである。
そして、何ごともないかのように、甲子園大会は進み、駒大苫小牧が昨年に続き2連破を達成し、すべては問題なく無事に終わったかに見えた。
ところが、優勝の直後に、駒大苫小牧野球部のコーチが1人の選手に暴力行為を行ったということが、その親の近辺から発覚し、高野連の耳に届くこととなった。
はて、どうしたものか?
と高野連はにっちもさっちも行かなくなってしまったのである。つまり、これまで通りの”連帯責任論”(積分評価)で行けば、”優勝”の撤回、1年間の出場停止処分ということになり、今回の甲子園は”丸つぶれ”になってしまう。
そこで、高野連は、1つの解決策を”弄した”。それは、当事者のコーチだけを処分し、選手も高野連も”被害者”であるというお話で済ますことにしたのである。
この姿勢に対して、概して日本のマスコミは”好意的”である。それは、これがこれまでの”連帯責任論”から一歩踏み出して一見”微分評価”を行ったように見えるからである。たとえば、徳島新聞の社説にはこうある。『連帯責任ではなく、個人の責任を問う方向を明確にした点でも評価できるのではないか。 』(駒大苫小牧 処分決定:暴力否定の精神を培え)
しかし、待ってもらいたい。それは、まったく間違っている、と私は考える。なぜなら、それはコーチ1人にすべてを押し付けただけで、その実、やはり何ごとも分析していない”積分評価”の”連帯責任論”の一種に過ぎないからである。
その理由とはこうである。
私自身サッカー部のコーチをしているが、最近の若い選手の”心掛けの悪さ”というのは目を覆いたくなるばかりである。(例えば、サッカー日本代表凱旋記者会見参照。)
そこで、私はこんなことを書いていた。
『いやー、さすがに”神様”ジーコ、あなたは、なぜか”運”がついている。ここぞ、という時に何かが起こる。ピンチの際にはボールがポストやバーで救われる。チャンスの際には敵のオウンゴールを誘う。
ブラジルにはこんなふうな諺があるという。「努力を惜しまなければ必ず神が見ていて助けてくれる。」
これは、日本人が言う意味の”心掛け”が良ければ、神様が微笑む、というような意味である。私もサッカー指導している高専生にいつも「普段の心掛けが大事だ」と言っているが、これとまったく同じことをあなたも日本代表の選手たちに言っているわけである。
まあ、日本人のサッカー選手に会ってみれば分かるが、今の日本人の”心掛けの悪さ”は驚くばかりで、並み大抵のレベルではないのである。あなたも私が感じたのと同じことを感じたはずである。普通の人はもちろんこういうことを知らないだろう。
現代の若者は、気が向かなければ練習に来ない。1日置きにしか練習しない。試合前にしかボールを触らない。簡単なことよりかっこいいプレーしか練習しない。いつもだべっている。サッカーより携帯電話のほうに気が行っている。好き勝手にプレーする。コーチや監督の声を聞かない。
とまあ、こんな調子である。”親の顔が見たい”と思うようなサッカー選手ばかりなのである。シンスケのキスイヤという番組があるがそれに出て来るような男がそのままサッカー選手になっているというような感じである(ちなみに、吉本のシンスケ、こんなバカ顔の男にスポンサー企業が1億円も出すのなら、その企業の社員全員にハワイ旅行でもプレゼントしてやる方がよほど国のためになる、と私は思うがね。早いとこ吉本関係者にはマスコミから出ていって欲しいものである。)。このレベルから真のプロ魂を持つ男に変えていかねばサッカーは上達しないのである。その困難さはやった人でなくてはまず理解不能であろう。この点、ほんとあなたは良くやったと私は思う。』
こういう最近の若者がサッカー選手になり野球選手になっているのである。監督やコーチの”心情”というものがどれほどたいへんで複雑なものであるか分かるだろう。黙っていれば、練習中にも携帯電話で話始めかねないのが今の青少年少女たちなのである。これは、ひとえに、現在の親達がきちんとした”しつけ”を自分の子供に行ってこなかったということの”つけ”である。
では、ある選手がそういう”バカなこと”、一昔前の若者ならあまりに馬鹿げてやらなかったであろうようなこと、を行ったとしたら、監督やコーチはどうやってその選手を指導したらいいだろうか?
口で優しく話せば分かってくれるだろうか?あるいは、殴る”振り”をすれば分かるだろうか?あるいは、怒りを示して怒れば分かるだろうか?それとも、実際に”ぶん殴らない”と分からないだろうか?
私の経験でも、ぶっ飛ばさくては分からないだろうな、という場面が何度もあった。それほどまでに、出来の悪い人物もいるのである。ぶんなぐっても分からないだろうという輩も多々いるのである。これが現代の若者達である。
どうも高野連のお偉方はこういった現代若者気質というもののリアリティーを全く御存じないように私には見えるのである。私は30一40発も生徒を殴ったコーチの肩を持つわけではないが、このコーチの心情は実に良く理解できるのである。実際にそれほどまでに質の悪い選手もいるということを私は良く理解しているからである。
それをどのように指導していくか、本当にそんな選手を指導できるのか、という問題はおよそ何がしかのスポーツのコーチをしているものはみな感じているはずである。
それゆえ、私が知りたいのは、そのコーチが”なぜその選手を殴らなくてはならなかったか?”という理由である。その選手に本当に”原因”や”落ち度”がなかったのか?ということである。
考えてほしいことは、そのコーチがだれかを殴ればその責任が自分に及ぶことくらいもちろん十二分に分かっていたはずである。もう何年もの間、野球部の生徒達の指導を日夜や大変な思いをして指導してきたはずである。多くはほとんど自分の時間が持てず、あらゆることを犠牲にしてまで選手たちの面倒を見てきたはずである。
ついでに言えば、もしかしたら、ここでこのコーチが30一40発ぶん殴った結果、他の選手達が奮起して、駒沢苫小牧の2連破達成につながったのかもしれない、という可能性もあるということである。もし何ごともなければ、途中敗退ということもあったかもしれないのである。これは、ドラマ「スクールウォーズ」のモデルとして有名になった、かつての伏見高ラグビー部の物語を思い起こせば分かるはずである。きれいごとではすまない部分というものも世の中には存在するのである。
高野連はそのコーチがこれまで行ってきたであろう、こういった”正しい”指導行為やその貢献をたった一度の”過った”指導行為で無にしてしまって良いのか?ということである。私はこれは間違いであると信じる。
”微分評価”とは、その事件の経緯からすべてを洗いざらいにして、責任の所在を明確にすることである。コーチの非はコーチの責任、選手の非は選手の責任、そして選手の親の非はその親の責任である。こうしたすべての責任の在り処がしっかり決まり、お互いに了解が出来上がらなければ、いっぱしの指導というものはできないものであろう。
『もし選手がコーチの言うことを聞かなかったら、ぶん殴ることもあるかも知れないが、それでもよろしいか?』
と選手の両親に判子を押させるということも必要な時代に入ったことは確かである。
いずれにせよ、私は、今回このコーチが行ったことの事情を良く聞いてみるべきであると思うヨ。さもなくば、だれもコーチなんてできるはずがない。まあ、”平和ぼけ”した高野連の時代錯誤の物語であったネ。
これは、別に高校野球そのものが面白かった、という意味ではない。もちろん高校の野球選手の熱戦はそれなりに面白かったが、エラー続きの”草野球”レベルで、高校野球の質の低下は明らかであった。
また、どうも野球ボールが以前と比べて”飛び過ぎる”というように私は感じた。かつて清原選手が甲子園でホームランを打った時も、ほとんどは今はないラッキーゾーンに入ったものである。しかし、今は非力な選手のボールもスタンドに入ってしまう。ここには何か我々の知らない”理由”が見隠れする。
さて、では何が面白かったか、といえば、”不祥事”を起こしたとされる学校に対する高野連の対応であった。これこそ、”支離滅裂”という四文字熟語がぴったりあてはまったからである。
実は、この高野連問題も私はすでに3年前に論じたものである。
1838 高野連はつぶそう! 2002/07/11
この中では、特に”プロ指導”の問題を論じた。高野連は、驚くべきことであるが、これまでプロ野球経験者が高校生に野球指導することを全面的に”否定”、”禁止”してきたのである。それは、一部の有名校がプロ野球の下部組織となり、癒着することを恐れてきたからである。
しかし、Jリーグがサッカー界に誕生し、プロ指導のまったく異なる方法論(FIFAスタイル)が日本社会を席巻し、また野茂、イチロー選手などアメリカ大リーグに進むものが出る時代となり、高野連も時代の波に飲み込まれることとなった。そして、ついに昨年から高野連は”プロ指導”を解禁した。
【155】 高野連、プロ指導解禁へ! 2004/01/29(Thu)
ところがまだ高野連の時代錯誤的一面が存続していたのである。それが、今回も話題となったように、高校野球部員やその指導者による”暴力事件”や”不祥事”に対する対応の仕方なのである。
これは、高野連という組織は第二次世界大戦前から存続してきたために、戦前の”軍事教練”の一種として高校野球が利用されてきたという歴史があったことがその直接の原因である。そのために、”お上に対する絶対服従”を要求するという社会教育システムであったのである。そのために、君が代斉唱、丸坊主、白いユニフォーム、軍隊行進による開会式、審判への絶対服従、などをその教育理念に盛り込んだのであった。そして、ここに今回の不祥事などに対する応対も始まったわけである。つまり、もし不祥事を起こせば、1年間の出場停止処分という、いわゆる”連帯責任”方式の処罰である。
このいわゆる”連帯責任”による処罰方法はもちろん戦前の陸軍などの軍隊で取られていたものであり、誰が問題を起こしたかどうかを追求する手間暇を一切かけることなく、そして責任の所在を一切無視して、ともかく懲罰として他の学校への”見せしめ”のために行われてきたものである。言い換えれば、高野連は”微分評価”せず、一切合切を味噌糞にする”積分評価”でお茶を濁してきたというわけである。
【311】 高野連はつぶそう!2:『微分評価』を知らない高野連 2004/06/17(Thu)
ところが、今回の甲子園の開始直前に、高知の名門明徳義塾野球部の一部の選手が喫煙と暴力行為を起こしたことが発覚したのであった。甲子園大会直前で困った高野連は、明徳義塾に従来通りの連帯責任論をぶった。そして、出場辞退に追い込み、その名門高校の監督など一切合切を追放してしまったのである。
そして、何ごともないかのように、甲子園大会は進み、駒大苫小牧が昨年に続き2連破を達成し、すべては問題なく無事に終わったかに見えた。
ところが、優勝の直後に、駒大苫小牧野球部のコーチが1人の選手に暴力行為を行ったということが、その親の近辺から発覚し、高野連の耳に届くこととなった。
はて、どうしたものか?
と高野連はにっちもさっちも行かなくなってしまったのである。つまり、これまで通りの”連帯責任論”(積分評価)で行けば、”優勝”の撤回、1年間の出場停止処分ということになり、今回の甲子園は”丸つぶれ”になってしまう。
そこで、高野連は、1つの解決策を”弄した”。それは、当事者のコーチだけを処分し、選手も高野連も”被害者”であるというお話で済ますことにしたのである。
この姿勢に対して、概して日本のマスコミは”好意的”である。それは、これがこれまでの”連帯責任論”から一歩踏み出して一見”微分評価”を行ったように見えるからである。たとえば、徳島新聞の社説にはこうある。『連帯責任ではなく、個人の責任を問う方向を明確にした点でも評価できるのではないか。 』(駒大苫小牧 処分決定:暴力否定の精神を培え)
しかし、待ってもらいたい。それは、まったく間違っている、と私は考える。なぜなら、それはコーチ1人にすべてを押し付けただけで、その実、やはり何ごとも分析していない”積分評価”の”連帯責任論”の一種に過ぎないからである。
その理由とはこうである。
私自身サッカー部のコーチをしているが、最近の若い選手の”心掛けの悪さ”というのは目を覆いたくなるばかりである。(例えば、サッカー日本代表凱旋記者会見参照。)
そこで、私はこんなことを書いていた。
『いやー、さすがに”神様”ジーコ、あなたは、なぜか”運”がついている。ここぞ、という時に何かが起こる。ピンチの際にはボールがポストやバーで救われる。チャンスの際には敵のオウンゴールを誘う。
ブラジルにはこんなふうな諺があるという。「努力を惜しまなければ必ず神が見ていて助けてくれる。」
これは、日本人が言う意味の”心掛け”が良ければ、神様が微笑む、というような意味である。私もサッカー指導している高専生にいつも「普段の心掛けが大事だ」と言っているが、これとまったく同じことをあなたも日本代表の選手たちに言っているわけである。
まあ、日本人のサッカー選手に会ってみれば分かるが、今の日本人の”心掛けの悪さ”は驚くばかりで、並み大抵のレベルではないのである。あなたも私が感じたのと同じことを感じたはずである。普通の人はもちろんこういうことを知らないだろう。
現代の若者は、気が向かなければ練習に来ない。1日置きにしか練習しない。試合前にしかボールを触らない。簡単なことよりかっこいいプレーしか練習しない。いつもだべっている。サッカーより携帯電話のほうに気が行っている。好き勝手にプレーする。コーチや監督の声を聞かない。
とまあ、こんな調子である。”親の顔が見たい”と思うようなサッカー選手ばかりなのである。シンスケのキスイヤという番組があるがそれに出て来るような男がそのままサッカー選手になっているというような感じである(ちなみに、吉本のシンスケ、こんなバカ顔の男にスポンサー企業が1億円も出すのなら、その企業の社員全員にハワイ旅行でもプレゼントしてやる方がよほど国のためになる、と私は思うがね。早いとこ吉本関係者にはマスコミから出ていって欲しいものである。)。このレベルから真のプロ魂を持つ男に変えていかねばサッカーは上達しないのである。その困難さはやった人でなくてはまず理解不能であろう。この点、ほんとあなたは良くやったと私は思う。』
こういう最近の若者がサッカー選手になり野球選手になっているのである。監督やコーチの”心情”というものがどれほどたいへんで複雑なものであるか分かるだろう。黙っていれば、練習中にも携帯電話で話始めかねないのが今の青少年少女たちなのである。これは、ひとえに、現在の親達がきちんとした”しつけ”を自分の子供に行ってこなかったということの”つけ”である。
では、ある選手がそういう”バカなこと”、一昔前の若者ならあまりに馬鹿げてやらなかったであろうようなこと、を行ったとしたら、監督やコーチはどうやってその選手を指導したらいいだろうか?
口で優しく話せば分かってくれるだろうか?あるいは、殴る”振り”をすれば分かるだろうか?あるいは、怒りを示して怒れば分かるだろうか?それとも、実際に”ぶん殴らない”と分からないだろうか?
私の経験でも、ぶっ飛ばさくては分からないだろうな、という場面が何度もあった。それほどまでに、出来の悪い人物もいるのである。ぶんなぐっても分からないだろうという輩も多々いるのである。これが現代の若者達である。
どうも高野連のお偉方はこういった現代若者気質というもののリアリティーを全く御存じないように私には見えるのである。私は30一40発も生徒を殴ったコーチの肩を持つわけではないが、このコーチの心情は実に良く理解できるのである。実際にそれほどまでに質の悪い選手もいるということを私は良く理解しているからである。
それをどのように指導していくか、本当にそんな選手を指導できるのか、という問題はおよそ何がしかのスポーツのコーチをしているものはみな感じているはずである。
それゆえ、私が知りたいのは、そのコーチが”なぜその選手を殴らなくてはならなかったか?”という理由である。その選手に本当に”原因”や”落ち度”がなかったのか?ということである。
考えてほしいことは、そのコーチがだれかを殴ればその責任が自分に及ぶことくらいもちろん十二分に分かっていたはずである。もう何年もの間、野球部の生徒達の指導を日夜や大変な思いをして指導してきたはずである。多くはほとんど自分の時間が持てず、あらゆることを犠牲にしてまで選手たちの面倒を見てきたはずである。
ついでに言えば、もしかしたら、ここでこのコーチが30一40発ぶん殴った結果、他の選手達が奮起して、駒沢苫小牧の2連破達成につながったのかもしれない、という可能性もあるということである。もし何ごともなければ、途中敗退ということもあったかもしれないのである。これは、ドラマ「スクールウォーズ」のモデルとして有名になった、かつての伏見高ラグビー部の物語を思い起こせば分かるはずである。きれいごとではすまない部分というものも世の中には存在するのである。
高野連はそのコーチがこれまで行ってきたであろう、こういった”正しい”指導行為やその貢献をたった一度の”過った”指導行為で無にしてしまって良いのか?ということである。私はこれは間違いであると信じる。
”微分評価”とは、その事件の経緯からすべてを洗いざらいにして、責任の所在を明確にすることである。コーチの非はコーチの責任、選手の非は選手の責任、そして選手の親の非はその親の責任である。こうしたすべての責任の在り処がしっかり決まり、お互いに了解が出来上がらなければ、いっぱしの指導というものはできないものであろう。
『もし選手がコーチの言うことを聞かなかったら、ぶん殴ることもあるかも知れないが、それでもよろしいか?』
と選手の両親に判子を押させるということも必要な時代に入ったことは確かである。
いずれにせよ、私は、今回このコーチが行ったことの事情を良く聞いてみるべきであると思うヨ。さもなくば、だれもコーチなんてできるはずがない。まあ、”平和ぼけ”した高野連の時代錯誤の物語であったネ。
2005/08/28のBlog
[ 16:58 ]
[ サッカー練習日誌 ]
2005年8月28日(日)
T2リーグ第7戦(最終戦)。
【対戦&結果】
会場:城北高校。
対戦相手:城北高校。
9:00AM集合。
9:10AMアップ開始。
10:00AMキックオフ。
結果2一1(前半0一0、後半2一1)
2勝目。
【ポジション】
前半 3一4一3
FWーーーーーー西川2
ーーーー須賀2ーーーーー尾形2
MFーーーーーー石井3
ーーー山田1ーーーーーーーー清井3→大庭2
ーーーーーーーー杉本2
DFーーー広瀬1ーーー岡田1
ーーーーーーーー神原1→清井3
GKーーーーーー平島3
サブ 大庭2 佐藤1
後半 3一4一3
FWーーーーーー西川2
ーーーー須賀2ーーーーー尾形2→佐藤1
MFーーーーーー石井3
ーーー杉本2ーーーーーーーー大庭2
ーーーーーーーー山田2
DFーーー広瀬1ーーー岡田1
ーーーーーーーー清井3
GKーーーーーー平島3
【総評】
前半は一進一退。前半の後半リべロの神原が左股関節の負傷退場。流れが悪くなりかけたが、ほぼ互角0一0で前半終了。後半の後半相手の足が止まり集中力が落ちたところで、須賀が落ち着いて得点。その直後に中央を突破してフリーで石井が2点目。しばらく敵の猛攻を受けたが、何とかしのぐ。しかし、終了真際に中央から直接シュートを決められて失点。何とか踏み止まって2一1の勝利。
【通算成績】
7戦2勝1分4敗。勝点7。
【その他の試合結果】
池田5一0徳島東工
富岡東2一1鳴門工
T2リーグ第7戦(最終戦)。
【対戦&結果】
会場:城北高校。
対戦相手:城北高校。
9:00AM集合。
9:10AMアップ開始。
10:00AMキックオフ。
結果2一1(前半0一0、後半2一1)
2勝目。
【ポジション】
前半 3一4一3
FWーーーーーー西川2
ーーーー須賀2ーーーーー尾形2
MFーーーーーー石井3
ーーー山田1ーーーーーーーー清井3→大庭2
ーーーーーーーー杉本2
DFーーー広瀬1ーーー岡田1
ーーーーーーーー神原1→清井3
GKーーーーーー平島3
サブ 大庭2 佐藤1
後半 3一4一3
FWーーーーーー西川2
ーーーー須賀2ーーーーー尾形2→佐藤1
MFーーーーーー石井3
ーーー杉本2ーーーーーーーー大庭2
ーーーーーーーー山田2
DFーーー広瀬1ーーー岡田1
ーーーーーーーー清井3
GKーーーーーー平島3
【総評】
前半は一進一退。前半の後半リべロの神原が左股関節の負傷退場。流れが悪くなりかけたが、ほぼ互角0一0で前半終了。後半の後半相手の足が止まり集中力が落ちたところで、須賀が落ち着いて得点。その直後に中央を突破してフリーで石井が2点目。しばらく敵の猛攻を受けたが、何とかしのぐ。しかし、終了真際に中央から直接シュートを決められて失点。何とか踏み止まって2一1の勝利。
【通算成績】
7戦2勝1分4敗。勝点7。
【その他の試合結果】
池田5一0徳島東工
富岡東2一1鳴門工
2005/08/27のBlog
[ 19:52 ]
[ サッカー練習日誌 ]
2005年8月27日(土)
T2リーグ第6戦。
【対戦&結果】
会場:富岡東高校。
対戦相手:鳴門工業高校。
10:30AM集合。
10:40AMアップ開始。
11:30AMキックオフ。
結果1一5(前半1一1、後半0一4)
敗戦。
【ポジション】
前半 3一4一3
FWーーーーーー西川2
ーーーー須賀2ーーーーー尾形2
MFーーーーーー石井3
ーーー山田1ーーーーーーーー清井3
ーーーーーーーー杉本2
DFーーー広瀬1ーーー岡田1
ーーーーーーーー神原1
GKーーーーーー平島3
サブ 大庭2 佐藤1
後半 3一4一3
FWーーーーーー西川2
ーーーー須賀2ーーーーー尾形2
MFーーーーーー石井3
ーーー杉本2ーーーーーーーー清井3
ーーーーーーーー山田2
DFーーー広瀬1ーーー岡田1
ーーーーーーーー神原1
GKーーーーーー平島3
【総評】
前半そうそうから一進一退。前半の後半キーパーへのイージーなミスシュートをキーパーの平島が股間から喪失して失点。流れが悪くなりかけたが、西川のループシュートが決まり同点、1一1で前半終了。後半こちらの一方的攻撃で2点目が入ったが、敵ラインズマンのミスジャッジのオフサイドで取り消された。しばらくして敵のセンタリングミスを再び平島股間から後逸して失点。その数分後にまた同じように平島が股間から後逸して失点。その後流れが悪くなったことと足が止まったことで、左サイドからと真ん中から2失点。とにかく、平島の出来が悪すぎた。最終ラインで不安定なキャッチングでは勝負にはならない。
【その他の試合結果】
富岡東3一2城北
徳島東工4一1徳島文理
T2リーグ第6戦。
【対戦&結果】
会場:富岡東高校。
対戦相手:鳴門工業高校。
10:30AM集合。
10:40AMアップ開始。
11:30AMキックオフ。
結果1一5(前半1一1、後半0一4)
敗戦。
【ポジション】
前半 3一4一3
FWーーーーーー西川2
ーーーー須賀2ーーーーー尾形2
MFーーーーーー石井3
ーーー山田1ーーーーーーーー清井3
ーーーーーーーー杉本2
DFーーー広瀬1ーーー岡田1
ーーーーーーーー神原1
GKーーーーーー平島3
サブ 大庭2 佐藤1
後半 3一4一3
FWーーーーーー西川2
ーーーー須賀2ーーーーー尾形2
MFーーーーーー石井3
ーーー杉本2ーーーーーーーー清井3
ーーーーーーーー山田2
DFーーー広瀬1ーーー岡田1
ーーーーーーーー神原1
GKーーーーーー平島3
【総評】
前半そうそうから一進一退。前半の後半キーパーへのイージーなミスシュートをキーパーの平島が股間から喪失して失点。流れが悪くなりかけたが、西川のループシュートが決まり同点、1一1で前半終了。後半こちらの一方的攻撃で2点目が入ったが、敵ラインズマンのミスジャッジのオフサイドで取り消された。しばらくして敵のセンタリングミスを再び平島股間から後逸して失点。その数分後にまた同じように平島が股間から後逸して失点。その後流れが悪くなったことと足が止まったことで、左サイドからと真ん中から2失点。とにかく、平島の出来が悪すぎた。最終ラインで不安定なキャッチングでは勝負にはならない。
【その他の試合結果】
富岡東3一2城北
徳島東工4一1徳島文理
[ 07:42 ]
[ サッカー練習日誌 ]
【決勝】(8月26日(金)、城之内高校)
徳島商(P)2一1(0一1、2一0)川島(T1)
昨年からずっと不調だった徳島商がここに来てやっと優勝した。これまでは、1、2回戦で星の取りこぼしがあり、なかなか勝てなかったが、この夏のプリンスリーグにおける経験により古豪が完全復活したようである。冬の選手権予選では活躍することだろう。
【追記】
今回準優勝の川島高校は、特別に注目に値する。なぜなら、川島地区には川島小学校、川島中学校、川島高校とあるが、小学校レベルでも上位に進出、中学校レベルでも上位、そして高校レベルでも1年生大会で初優勝、そして今回五木杯初の準優勝。そして、驚くべきことに来年度から川島中学と川島高校は合体して1つの中高一貫高校として発足するからである。
元来、日本のスポーツ教育システムの大障害が受験制度であり、受験の度に小学校の優勝チームの優秀選手も分散、中学の優勝チームの優秀選手も分散、高校の優勝チームの優秀選手も分散をくり返す。その都度指導方針が変わり一貫した指導ができないという欠陥を持っている。
城之内高校に続き、川島高校が中高一貫教育となることにより、実質的には中学の優勝チームがそのまま高校チームに成長できる可能性があり、チームの完成度という意味では群を抜く可能性を秘めている。それゆえ、プリンスリーグの城之内に続く、ポテンシャルの高いチームに川島が大化けする可能性がある。今後の一番注目すべきチームであろうネ。
徳島商(P)2一1(0一1、2一0)川島(T1)
昨年からずっと不調だった徳島商がここに来てやっと優勝した。これまでは、1、2回戦で星の取りこぼしがあり、なかなか勝てなかったが、この夏のプリンスリーグにおける経験により古豪が完全復活したようである。冬の選手権予選では活躍することだろう。
【追記】
今回準優勝の川島高校は、特別に注目に値する。なぜなら、川島地区には川島小学校、川島中学校、川島高校とあるが、小学校レベルでも上位に進出、中学校レベルでも上位、そして高校レベルでも1年生大会で初優勝、そして今回五木杯初の準優勝。そして、驚くべきことに来年度から川島中学と川島高校は合体して1つの中高一貫高校として発足するからである。
元来、日本のスポーツ教育システムの大障害が受験制度であり、受験の度に小学校の優勝チームの優秀選手も分散、中学の優勝チームの優秀選手も分散、高校の優勝チームの優秀選手も分散をくり返す。その都度指導方針が変わり一貫した指導ができないという欠陥を持っている。
城之内高校に続き、川島高校が中高一貫教育となることにより、実質的には中学の優勝チームがそのまま高校チームに成長できる可能性があり、チームの完成度という意味では群を抜く可能性を秘めている。それゆえ、プリンスリーグの城之内に続く、ポテンシャルの高いチームに川島が大化けする可能性がある。今後の一番注目すべきチームであろうネ。
2005/08/26のBlog
[ 14:22 ]
[ サッカー練習日誌 ]
【準決勝】(8月25日(木))
*番狂わせ
徳島市立(P)0一5徳島商(P)
城之内(P)0一3川島(T1)*
下から勝ち上がってきたチームが共に勝利。やはり試合感の問題だろう。
*番狂わせ
徳島市立(P)0一5徳島商(P)
城之内(P)0一3川島(T1)*
下から勝ち上がってきたチームが共に勝利。やはり試合感の問題だろう。
[ 14:15 ]
[ サッカー練習日誌 ]
2005年8月26日(金)
10:00AM練習開始。1一3年生のみ参加。
週末に合わせて軽めの練習。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
全選手が四角の狭い領域に入り、ぶつからないようにドリブルを行う。
(あ)合図とともにボールを止めて方向転換。
(い)合図とともにフェイントをして方向転換。
(う)自分以外の選手と出会うとフェイントをして方向転換。
各1分。
(4)休憩。給水。
(5)センタリング&シュート練習1。
右サイドのみ行う。
ー┌一一一一一一一一一一一一一一一一一一一┬
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ※ボール
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ①選手1
ー|②←一一一一一②ーーーーーーーーーーー| ②選手2
ー2※・・・・・・※◯ーーーーーーーーーー| ●ゴールキーパー
ー|・ーーーーー|1ーーーーーーーーーーー| ○コーチ
ー|一・┐ーーー|ーーーーーーーーーーーー|
┌※←※②←一②|ーーーーーーーーーーーー|
||●3|ーーー|ーーーーーーーーーーーー+
└|ーー|ーーー|ーーーーーーーーーーーー|
ー|一一┘ーーー|ーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーー|ーーーーーーーーーーーー|
ー|一一一一一一┘ーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー└一一一一一一一一一一一一一一一一一一一┴
(6)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
ー┌一一一一一一一一一一一一一一一一一一一┬
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ※ボール
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ①選手1
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ②選手2
ー|一一一一一一┐ーーーーーーーーーーーー| ●ゴールキーパー
ー|ーーーーーー|ーーーーーーーーーーーー|
ー|一一┐ーーー|一ーーーーーーーーーーー|
┌|※6|ーーー|ーー①ーーーーーーーーー|
||●・|ーーー|ー/ー\ーーーーーー①ー+
└|ーー|ー・5※①ーーー\ーーーー/※1|
ー|一一┘ーー・|一ーーーー\ーー/ー・ー|
ー|ーーーー・ー|ーーーーーー①/ーー・ー|
ー|一一一・一一┘ーーーーー・※・ーー・ー|
ー|ーー・ーーーーーーー・ーー3ー・ー・ー|
ー|4・ーーーーー・ーーーーーー┌一②※2|
ー|※・ー・ーーーーーーーーーー②一一┐ー|
ー|②←一一一一一一一一一一一一一一一②ー|
ー└一一一一一一一一一一一一一一一一一一一┴
(7)休憩。給水。
(8)パス練習1。6対6パス回し練習。
6対6=敵味方各々6人でパスを回す。マンツーマンディフェンス。
5分、休憩1分、5分、休憩1分、5分。
(9)整理体操、ストレッチ。11:30PM終了。
10:00AM練習開始。1一3年生のみ参加。
週末に合わせて軽めの練習。
(1)ウォーミングアップ。
2人組ストレッチ。
(2)パス練習1。2人組の練習。
インサイドパス。アウトサイドパス。インステップパス。インステップキック。スローイン。ヘディングパス。インサイドパス。胸トラップパス。
(3)ドリブル練習。全員の練習。
全選手が四角の狭い領域に入り、ぶつからないようにドリブルを行う。
(あ)合図とともにボールを止めて方向転換。
(い)合図とともにフェイントをして方向転換。
(う)自分以外の選手と出会うとフェイントをして方向転換。
各1分。
(4)休憩。給水。
(5)センタリング&シュート練習1。
右サイドのみ行う。
ー┌一一一一一一一一一一一一一一一一一一一┬
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ※ボール
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ①選手1
ー|②←一一一一一②ーーーーーーーーーーー| ②選手2
ー2※・・・・・・※◯ーーーーーーーーーー| ●ゴールキーパー
ー|・ーーーーー|1ーーーーーーーーーーー| ○コーチ
ー|一・┐ーーー|ーーーーーーーーーーーー|
┌※←※②←一②|ーーーーーーーーーーーー|
||●3|ーーー|ーーーーーーーーーーーー+
└|ーー|ーーー|ーーーーーーーーーーーー|
ー|一一┘ーーー|ーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーー|ーーーーーーーーーーーー|
ー|一一一一一一┘ーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー└一一一一一一一一一一一一一一一一一一一┴
(6)センタリング&シュート練習2。
ディフェンダーなしでパスからセンタリングしシュート。右のみ行う。
ー┌一一一一一一一一一一一一一一一一一一一┬
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ※ボール
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ①選手1
ー|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー| ②選手2
ー|一一一一一一┐ーーーーーーーーーーーー| ●ゴールキーパー
ー|ーーーーーー|ーーーーーーーーーーーー|
ー|一一┐ーーー|一ーーーーーーーーーーー|
┌|※6|ーーー|ーー①ーーーーーーーーー|
||●・|ーーー|ー/ー\ーーーーーー①ー+
└|ーー|ー・5※①ーーー\ーーーー/※1|
ー|一一┘ーー・|一ーーーー\ーー/ー・ー|
ー|ーーーー・ー|ーーーーーー①/ーー・ー|
ー|一一一・一一┘ーーーーー・※・ーー・ー|
ー|ーー・ーーーーーーー・ーー3ー・ー・ー|
ー|4・ーーーーー・ーーーーーー┌一②※2|
ー|※・ー・ーーーーーーーーーー②一一┐ー|
ー|②←一一一一一一一一一一一一一一一②ー|
ー└一一一一一一一一一一一一一一一一一一一┴
(7)休憩。給水。
(8)パス練習1。6対6パス回し練習。
6対6=敵味方各々6人でパスを回す。マンツーマンディフェンス。
5分、休憩1分、5分、休憩1分、5分。
(9)整理体操、ストレッチ。11:30PM終了。