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2006/06/01のBlog
和田氏の盗作疑惑、スギ氏「完全に私の作品の盗作だ」

によると、洋画家の和田義彦氏(66)の数多くの有名作品は、まだ日本人には”馴染みのなかった”イタリア人画家のアルベルト・スギ氏(77)の作品群のコピーであったという。

昨今では、科学者の「捏造論文」問題に始まり、今度は洋画家の「盗作」問題が新たに出て来た。しかし、もっと手の込んだ、それでいて、実に分かりにくいのが、「著作物」の盗作問題なのである。

ところで、ここで言う、”盗作”とは、「だれか他人が書いた絵を何らかの方法によって奪い、それを自分が書いたと言う」というような”盗み”の意味ではない。

今回の和田義彦氏の問題のように、”だれか他人が書いた絵のアイデアや構図や色彩などをその人に無断で真似て自分が書いて自分のオリジナル作品のように言う」というような意味である。だから、その絵自体は和田氏が書いたわけだ。しかし、その作品の主題や構図や色彩などすべての基本概念はスギ氏が最初に作ったものであるというような意味においてである。

こういうものを『芸術作品のプレイジャリズム』と言う。プレイジャリズムに関しては以下を参照して欲しい。
プレイジャリズムとは?
【323】 『アットホーム・ダッド』にみるプレイジャリズム 2004/06/26(Sat)
『小説家を見つけたら』もプレイジャリズムがテーマ
”科学者の捏造論文”vs”文芸人の無断盗用”
理研の”不正行為防止策”

さて、最初の問題、つまり、『「著作物」の盗作問題』に戻ると、私は今日非常に不愉快な例を発見して非常に驚きを隠せないでいる。

私は茂木健一郎氏の「脳とクオリア」(1997、日経サイエンス)という本を10年程前に買って持っているが、今日まで『クオリア』という概念は、茂木氏が世界最初にこの問題を”詳細に”論じはじめた第一人者であると思っていたのである。

なぜなら、茂木氏の著者のカバーにはこうある。

『クオリア:
qualia(qualeの複数形)
[哲学用語]
1・特質:事物とは独立して存在する普遍的な本質
2・(明確な特質を持つ)感覚データ
一ランダムハウス英和大辞典第2版(小学館)より』

そして、氏の本の最初の部分でこうあった。

『以下では、私たちが世界を感覚する時に媒体となる様々な質感のことを、「クオリア」(qualia)と呼ぶことにしよう。クオリアという言葉は、まだ一般的なものではないかもしれない。だが、「クオリア」は、哲学者をはじめとする人々が質感の問題を議論する際に伝統的に用いた概念である。この言葉を使うことは、最初は耳慣れないかもしれないが、私が提示する議論を、今まで存在する議論と比べたり、あるいは将来出現するであろう議論と比較する上で便利である。』

だから、私は太古の昔からソクラテスとか、プラトンとか、アリストテレスとか、そして近代のデカルトとかショーペンハウエルとかも使って来た、哲学者の間では非常に”常識的”な概念を表わす言葉であると理解して来た。今日までは。

ところが、今日たまたま"qualia"でgoogle検索して見ると、次のような英語のページ:「qualia」、がwikipediaで引っ掛かった。googleの翻訳マシーンを使えば、日本語でも読める。

まあ、主要な部分だけまとめれば、こんな感じである。

「クオリア」という概念は最近の哲学における関心事の1つで、その定義にはたくさんある。現在使われているような意味で最初に「クオリア」という言葉を使ったのは、C. I. Lewisであり、1929年のことである。後に1982年にFrank Jacksonがその意味をより現代的な意味に変えた。しかし、まだ意味があまりに広すぎて曖昧なために1988年にそれをもっと厳密に定義し直したのが、Daniel Dennettであった。

まあ、詳しいことを知りたい人は、そのページを自分で読んでもらうとして、ここでは、この解説の著者の説明と、茂木氏の説明には大きな食い違い見られるということを指摘できれば十分である。要するに、茂木氏が「脳とクオリア」という本を1997年に出版する以前に欧米では、実に長い間の哲学上の論争があり、すでに多くの著作(本や論文)が出ていた、ということなのである。

確かに、上に私がまとめた部分を指して『「クオリア」は、哲学者をはじめとする人々が質感の問題を議論する際に伝統的に用いた概念である。』と言うのであれば、あながち間違いとも言えなくはないが、その場合にはすでに本のタイトルとして"qualia"を使っているものがある以上文献には”絶対に”加えなくてはならないはずであろう。つまり、少なくとも、以下の本は加えるべきであった。

Lewis, C.I. (1929) "Mind and the world order", (New York: C. Scribner's Sons).
Jackson, F. (1982) "Epiphenomenal Qualia", Reprinted in Chalmers, David ed.
Dennett, D.C. (1988) "Quining qualia". In (A. Marcel & E. Bisiach, eds) Consciousness in Contemporary Science. (Oxford University Press).
Dennett, D.C. (1991) "Consciousness Explained", (Little, Brown, and Company).
Churchland, Paul (1997) "Knowing Qualia: A Reply to Jackson" in The Nature of Consciousness, edited by Ned Block, Owen Flanagan, and Guven Guzeldere.

まあ、こうして見ると、詳しいことは私は分からないが、茂木氏の本の内容の骨格となるアイデアの多くは、これらの書物のどこかで”最初に”議論されたような印象を受けるのである。自分のやったこと、発見したことと、他の人がやったことを混在して論じるのは我々科学者の常習癖の1つであるが、そしてこれは必ずしも悪い事ではないのだが、もし他人のやった(考えた)部分をあたかも自分が独自にやった(考えた)ようにしたとすれば、これは立派なプレイジャリズムに当るのである。(これについては、すでに『”科学者の捏造論文”vs”文芸人の無断盗用”』で論じた。)

苦労してせっかく描いた立派な絵も他人のアイデアの模倣であったとすれば、それはその労も価値も無に帰す。同様に、せっかく作った立派な本も他人のアイデアの模倣であったとすれば、その労も価値も無に帰す。

やはり、こういったことはやるべきではない。

しかし、絵画なら一目瞭然のこととだれにも分かるが、本のことになるとだれにも分からなくなるから、問題は深刻である。確かに他人の立派なアイデアや構築物を自分も真似すれば手っ取り早く自分の作品も立派になる。だから気持ちは分からないでもないが、他人を真似た格好良い物より、やはりへたくそでも構わないから独自の物を尊ぶ姿勢が肝心である。だれしもいきなり最初からうまく行くとは限らない。だからこそ、自分なりにやって練習を積んで経験を重ねて行くほかはない。

俺はそう思うヨ。
地球の内部で何が起こっているのか? (新書)

つい最近、私はこの本を読み終えたばかりだが、これは日本の地球物理学者たちが提唱し、世界研究協力機関として誕生した「統合国際深海掘削計画(IODP)」の目標に対する紹介本であった。一言で言えば、地表ないしは海底表面から掘削開始してマントル部まで到達し、地球の地核のその材料を掘削パイプごと抜き取ってしまおう、というアイデアである。そして、それを世界中の海底で行い、どのプレートにはどんな地層や生物が潜んでいるか解明してやろうという野心的なプロジェクトである。


これは、その昔、岐阜県神岡鉱山に作った「カミオカンデ物語」に何か似ている。巨大な貯水槽に光電子倍増管と格子状に張り巡らせた装置を作って、宇宙や太陽からのニュートリノを観測しようという壮大なプロジェクトであった。1987年頃スーパーノバ(超新星)からのニュートリノを観測して一躍世界を驚かせた。もちろん、これを指揮したのが東大の小柴昌俊博士で2002年ノーベル物理学賞を受賞した。


今朝の朝日新聞の記事:「5500万年前 北極の海面は23度「亜熱帯」によれば、この「統合国際深海掘削計画(IODP)」が早速素晴らしい成果をあげたようである。

結論から言えば、「北極の海面温度は、約5500万年前は23度で、亜熱帯レベルの暖かさだったが、約4500万年前から氷におおわれ始めた」ということである。

(あ)まず、04年夏、北極海のロモノソフ海嶺(かいれい)と呼ばれる海底山脈を掘削、地下430メートルまでの堆積(たいせき)物を採取した。

(い)約5500万年前大気中の二酸化炭素濃度が上がり温暖であったことが知られていたが、グループは、微生物がつくる有機物が温度変化することに注目し、堆積物を詳細に解析した結果、海面温度は23度だったと推定した。

(う)約4900万年前には淡水で生きる浮草が北極海をおおっていた。

(え)亜熱帯の暖かさから気温が下がり現在の氷の時代が始まった時期は、約4500万年前と推定された。氷が運んだと思われる石が見つかりこれを解析して分かった。


さて、問題は、こうした最新結果が得られた場合の解釈の仕方である。通常、こうした場合、2種類の考え方が生まれる。1つは、「地球の大きさも向きも現在のまま、この気候変化が生じた」と仮定するもの。2つめは、「何らかの原因によって地球の大きさや向きなどに変化が起り、この気候変化が生じた」と仮定するもの。

今回の調査チームは、前者を基本にとって、「氷がない時代の様子を知ることは、地球温暖化の将来予測にも役立つ」と考えている。が、これはどちらかと言えば、”定常地球観”(=今の地球のような状態が長い事保たれて来たという見方)に立ち、今後も今の地球がずっと続いていくという、比較的平和な観点である。

しかし、後者の仮定は、もっとダイナミックなもので、いわゆる”衝突する宇宙”などの言葉にあるような、”ダイナミック地球観”(=今の地球は隕石衝突など幾多の天災に遭遇しながら現在に至ったという見方)である。この見方に立てば、太古の4500万年前頃に何か劇的なイベントが地球に起こり、その結果として地軸が傾いて、急激に温暖な北極海が氷に被われるようになった、というような物騒なシナリオが頭に浮かぶ。巨大彗星が地球に衝突して地球の向きが変化したり、あるいは、マントルの対流の変化によって地軸が変化したり、あるいは、磁極が変化したり、というような劇的変化にその原因を求めるというような考え方である。

現段階ではどちらが正しいとは言えないが、あらゆる観点から解釈して、少しずつ事実を積み重ねながら1つずつ仮説を消去していく、という消去法的方法を行っていくのがベストなのだろう。今後の研究を期待したい。
2006/05/31のBlog
今朝の日本一ドイツ戦、日本は惜しくも勝利を逃し、2一2(0一0、2一2)で終わった。

この試合で明暗を分けたのは、フォワードの高原と大黒。高原は2得点と結果を残したが、大黒は決定的チャンスをミスした。大黒が冷静に決めていれば、試合に勝ち、日本は対ドイツ戦でこれまで一度も勝ったことがないという歴史を塗り替えることが出来たに違いない。

この違いはどこから来るかと言えば、これは大黒選手の心掛けの問題。最近大黒はアイススケーターの荒川静香さんとの交際が噂され、今大会遠征前にも荒川静香さんから花束贈呈してもらうなど公私に渡る付き合いがあるそうだ。

別にだれと交際しようがそんなことはどうでも良いが、男にはそれを大事な場面に持ってくる者とそうではない者の2種類がいる。大黒選手は前者のようで、大事なワールドカップを自分の色恋の道具に使ってしまったということである。つまり、ワールドカップ出場を個人的な”恋の切り札”にしたということである。かつて似たようなことをした選手に柳沢選手たちがいたが、こういった選手はサッカーと他のスポーツを”混同”しているのである。


ワールドカップサッカーはオリンピックとは違う。オリンピックならオリンピック出場を巡って個人の恋愛の道具にしても良いかも知れないが、ワールドカップサッカーは世界でもっとも裾野の広いスポーツであり、無数の子供達の夢を叶えるという特別なものである。だれでもが最後の23人に選ばれるわけではない。高原選手も中村選手も前回落選した。かつては三浦カズ選手や北沢選手も煮湯を飲まされた。すべてのサッカー選手が少年時代からワールドカップ出場を夢見て練習して来て最後にこういった厳しい選択がかせられるというプロの中のプロの祭典なのである。

そんな大会の前夜に女性と電話交換したり、プレゼントの交換をしたりして集中を妨げられては困る。ましてやそれが試合中のプレーに出てくるようでは論外であろう。

今日の試合の高原と大黒のプレーの違いはまさにそこにあった。4年間の不遇を体験し、今大会に人生をかけている高原。シンデレラボーイとしてたいした困難なく選ばれ余裕がある大黒。大黒のどこかに厳しさやひたむきさが欠けている。それが結果となって現れているということなのだ。厳しい状況の中でわずか2回のチャンスに高原は2得点をあげた。しかし、ゴール前の絶好期に大黒はミスした。

下手をすれば、日本は色気付き、浮き足立った大黒とともに予選敗退ということになりかねない。チームの戦術的な事や技術的なことはこの際もうあまり重要ではない。できることはすでにやってきているからだ。しかし、それを本番で全部効果的に行うか、全部帳消しにするかは、最後は選手1人1人の精神状態なのである。

”浮ついた男はピッチを去れ”

それがサッカーの神様の前の謙虚さというものだろう。大黒選手はこの点を心して参加して欲しいものだ。恋愛ならワールドカップの後でもいつでもできる。


田中が故障、帰国へ 茂庭を招集 サッカー日本代表
日本、ドイツと2一2 高原2得点も終盤に失点
サッカー日本代表、ドイツと2一2の引き分け
2006/05/30のBlog
2日ほど前の晩、「魔術師ロナウジーニョ」というサッカー番組をNHKでやっていた。その中で”ロナウジーニョの唄”として知られているサムバ、ポルトガル語で「Goledor」というタイトルの歌が本邦初公開であった。「Goledor」とは英語で"Goal getter(ゴールゲッター)"、日本語で「ゴールを決めるもの」のこと。
その唄の歌詞をここに紹介しておこう。

ちなみにサムバに関しては次を参照のこと。
人生を楽しもう!
日本のひな祭りとブラジルのひな祭り
マツケンサンバとブラジルサムバ
ブラジルの諺(ことわざ)


【Goledor(ゴールを決める者)】

”たかがサッカー選手とみんな言う
芸術的なサッカーは博士になるより難しいと知らないんだ
人生をドリブルして突破口を見つけよう
後悔しないように

最前線で苦しみながらもゴールを決めよう
みんな言うことは同じ
学校に行け 勉強こそ報われると
でも僕だって力の限りプレーしている

サンバを踊ろう サッカーを楽しもう
僕はサンバが大好き
サンバもサッカーもリズムはいっしょさ
これこそサンバ 軽快な足さばき”



いやーなんて素晴らしい歌なんだ
”芸術的なサッカーは博士になるより難しい”
その通りさ
昔サッカー選手で今は博士になった僕は知っている

だから僕は10年前に
物理学界はJリーグに学べ!」を書いたのさ
ロナウジーニョ、この頃君はまだいなかったね
あれから10年、君は僕の意見が正しいと証明してくれた
心から感謝しているよ

阿波踊りを踊ろう サッカーを楽しもう
僕は阿波踊りが大好き
阿波踊りもサッカーもリズムはいっしょさ
これこそ阿波踊り 軽快な足さばき
2006/05/29のBlog
百の美辞麗句よりたった1つの結果、これが今の日本の医学・医療に求められている。

最近のテレビドラマの多くはマンガが原作らしいが、「N’s あおい」、「ブラックジャック21」、「医龍」など多くの医学番組は同じテーマを描いている。

それは、”法律の遵守と人命尊重のどちらを最優先課題とすべきか”、というジレンマである。

「N’s あおい」にはこんな場面が頻繁に登場する。看護士が患者のケアをしているが、患者が急変し、医師行為が必要となる状況に変わる。しかし、医師の処置を待てば、患者は脳死状態に陥る。

”医師法遵守して医師の到着を待って処置せずに留まるべきか、それとも医師法を無視して応急処置して延命を計るべきか。”

ナースあおいは、こんな場合は自身の看護士人生を犠牲にしても患者の命を守る。これが、病院内で問題となり、ドラマとなる。

手塚治虫の名作「ブラックジャック21」では、天才医師ブラックジャックは無資格医である。無資格であるがゆえに、だれも医療処置できない緊急の場合のみを処置する。だから保険が効かず莫大なる料金を取る。現代の義賊、「ねずみ小僧」的な医者である。この場合にも、しばしば同じテーマに遭遇する。

”人命を助けるのか、それとも医者の面子にこだわり法律を優先するのか”、

という問題である。

同様に、今やっているドラマ「医龍」でも同じ問題が登場する。手術中に患者が急変する。しかし、医師スタッフが足りない。看護士は医療行為できない。しかし、患者の命を助けるためには緊急を要する。医師法を破って看護士が処置すれば患者は助かる。果たして、

”人命を助けるのか、それとも医者の面子や出世にこだわり法律を優先すべきかどうか。”

幸運にも、この3つのドラマやマンガの作者たちはみな揃って人命を助けるべきだという結論にしたがってストーリーを描いている。これは素晴らしいことだと私は考える。しかし、現実は全く逆なのである。だからこそ、ドラマとしての価値が出るというこれまた別のジレンマが存在する。

これを知るために以下のニュースを分析してみよう。

脳死肺移植の女性死亡 岡山大病院
金沢大の50歳台の脳死患者から移植を受けた40代の女性患者が死亡。今年3月実施の脳死移植44例目までで肺移植を受けた患者は27人、うち19人が生存(5月8日現在)。

受精卵診断、届けずに11例実施 根津医師が公表
諏訪マタニティークリニック(長野県下諏訪町)の根津八紘(やひろ)院長は28日、日本産科婦人科学会(日産婦)に届け出ないまま11例の受精卵診断を実施し、2人が昨年末と今年の初めに出産、3人が妊娠中。

最初の例では、脳死移植法に乗っ取って法的には適切に脳死移植を行ったが、結果としては脳死患者と移植患者の両方を死なせてしまったというものである。実際には、同じ脳死患者から別の臓器移植が失敗して死んでいる患者もいるので、もっと多くの死人が出ている。これでは、俗に、日本の仏教徒が言うところの”友引き”というものである。1人の脳死移植者が出たおかげで、”まだ”死なずにすんだ患者まで死ぬことになってしまったからである。こういった医療は、いわゆる人体実験、あるいは手術練習の類いと見なせるだろう。医学や医療行為においては結果がすべてなのである。いくら法的には正しくても結果が出なければそれは正しくなかったということになる。出来もしないことは見栄を張らずにアメリカの病院(や米軍の病院)などできる病院に任せるべきである。

一方、後者の「受精卵診断」は、悪名高き「日本産科婦人科学会(日産婦)」が認めず、まさにブラックジャック医師のように、法的には違法行為とされる方法である。しかし、その結果は非常に素晴らしく、妊娠が困難で普通では一生子供に恵まれない人々への朗報となっている。アメリカではすでに無数の実績があり、安全な医療である。少子高齢化のこの時代、早急に認められるべき医療であるが、面子にこだわる「日本産科婦人科学会」は患者より以前に根津院長いびりをくり返すばかりなのだ。

根津院長は言う。

「患者の年齢を考えると待っていられない」
「日産婦は患者のために活動せず、待っていられない」

法律にびくついて患者を見殺しにするのか、あるいは泣き寝入りさせるのか。あるいは、法律を拡大解釈して結果を残し患者を助けるのか。どちらが人の道にかなっているかは明らかだろう。

ドラマにもあるように、医師が”法律、法律”と法律遵守を求めるわけは、自分の身可愛さあまりの越権行為なのである。要するに、自分が首になりたくない、あるいはトラブルに巻き込まれたくない、ということなのだ。小心者がトップに居座っているという本末転倒で哀れな状況に陥っているということを意味しているのである。

残念ながらこれが日本の現実である。しかし、少なからず「医龍」の朝田龍太郎やブラックジャックのような医師も日本にもいるのである。根津医師の活躍を心から期待したい。
2006/05/28のBlog
[ 22:35 ] [ 地震・災害 ]
パプア、トンガで強い地震 死傷者はなし

28日、パプアニューギニア沖とトンガ沖でそれぞれマグニチュード(M)6・2と6・7の強い地震が相次いで発生した。

死者3731人、負傷者は1万人以上に ジャワ島地震

インドネシア・ジャワ島中部で27日発生したマグニチュード(M)6.3の地震による死者は、AP通信によると少なくとも3731人にのぼった。

はてさていよいよプレートがアクティブになってきたのだろうか。

日本でも要注意が必要だろう。
経歴いろいろ、個性派ぞろい W杯出場32監督

朝日新聞のこの調査は結構面白い。今回ドイツ大会に参加する32人の監督の出身と経歴を調べたというものだ。

ブラジル代表監督のパレイラ監督は、ドゥンガ主将とロマーリオとベベトで1994年のアメリカ大会に優勝したチームの監督。ペレ時代以後ずっと優勝から遠ざかっていたブラジルを何とか優勝させたいということでてこ入れしたのがこのパレイラ監督であった。当時ブラジルもかつてのアルゼンチンのようにヨーロッパに多くの優秀選手たちを取られ、自国選手間との摩擦や練習不足のために才能だけでは優勝できないというジレンマに陥っていたわけだ。そこでパレイラ監督がすべてをワールドカップ最優先方式に変えて代表に根性を入れ替えさせることに成功したのだ。この任務を任されたのが闘将ドゥンガ主将だった。選手のわがままは決して認めない。ロマーリオとて例外ではない。こうして出場する時に必ず選手達が”手と手を取り合って入場する”という新たなる伝統が生まれたのである。”団結”したブラジルは4度目の優勝を果たした。いまでこそ、手をつないで入場するのはずっと前からあったと思っているが、それはこのアメリカ大会から始まったのだ。


ポルトガル代表監督のフェリペ監督は、ハンス・オフト監督(あの三浦カズやラモスや武田の”カタールの悪魔”、”ドーハの悲劇”の時の日本代表監督で1994年一1996年ジュビロ磐田の監督)の後を受けて1997年ジュビロ磐田の監督になった。セカンドステージ優勝して、ジーコの前に日本代表の監督になるはずの最有力者であった。しかしこの話は実らず、結局ブラジル代表監督となり、前回2002年の日韓大会でブラジル優勝監督となった。このフェリペ監督をジュビロ磐田に先に来ていたドゥンガは非常に歓迎した。この時代にフェリペ監督やドゥンガの”熱血指導”によってその潜在能力を大きく花開かせたのが今の代表の福西選手である。福西選手の生みの親がドゥンガでありフェリペ監督なのだ。

ところで、この記事では、「ジーコは監督経験がない」と言われているが、実は1998年のフランス大会の時の名将ザガロ監督の横で監督補佐を行っていたのが神様ジーコであった。この時はブラジルは連破ならず準優勝となった。ただブラジル人の間では、「ジーコは監督経験がない」というよりは「ジーコにはツキがない」と見なされているらしい。「優勝に縁がない」と。神様に良い事がないというのは不可思議な話だが、ジーコにはどこかに人の良さというものがあって、勝負師になれない、非情にはなれない、というところがあるのかも知れない。この点では、ジーコよりは小泉純一郎首相の方が”非情”の勝負師魂があると言えるだろう。というのも先祖(祖父)は「入れ墨大臣」の異名を取った仁侠道出身者だったわけだから。とにかく、ジーコ監督には頑張ってこの点を払拭してもらいたいものだ。


全監督リスト
2006/05/27のBlog
第1回科学ジャーナリスト大賞に毎日新聞の元村記者

理系白書ブログで有名な毎日新聞の美人記者、元村有希子さんが、「科学ジャーナリスト賞」の第1回受賞者に選ばれたようである。おめでとうございます。さらなる御活躍を心から願っています。

氏の略歴は、第1回ベストブロガーコンテストに『1989年、九州大学教育学部心理学専攻卒業。毎日新聞に入社し、西部本社報道部、東京本社編成総センターなどを経て 2001年から現職。』とある。


話は変わるが、20世紀の終わる頃のおよそ6年前、私は朝日新聞社の「大学ランキング2001」に「科学者が啓蒙する時代」から「共に啓蒙し合う時代」へという一文を載せてもらったことがある(ここでリンクしているものと主張はほぼ同じだが文章はかなり違う)。これは、当時その企画の推進者であった小林哲夫さんの努力の賜物であった。

偶然にも、6年前に私が書いたこの内容「今の時代は、これまでのように”天下り式”の知識伝達ではできない何か別の方法が必要な時代となってきているのである。」と元村有希子さんのさまざまな場での発言が似たようなことを言っているので、実にうれしいかぎりである。元村有希子さんも文系出身者であはあるが、理系のそういった変化に素早く気付き、いろんな場面で意見を述べて来たというわけである。


そんなわけで、私の個人的側面から言えば、朝日の小林哲夫さんにも「科学ジャーナリスト大賞」をあげたい気分である。氏の貢献は元村有希子さんに負けないくらい価値があると私は考えているからである。まあ、いずれは小林さんにも素晴らしい時が来ることだろう。ちなみに、小林哲夫さんは「飛び入学」(日本経済新聞社)の著者。

氏の略歴は、本学の就職活動の取組みが紹介されました!小林哲夫氏著「理系 就職・転職白書」に『1960年神奈川県生まれ。フリーライター、編集者。大学問題を中心に執筆。現在、朝日新聞社「大学ランキング」「アエムラック・学問がわかるシリーズ」の編集を担当。成蹊大学国際教育センター非常勤講師、広島大学高等教育研究開発センター客員研究員。著書に「飛び入学日本の教育は変われるか」(日本経済新聞社1999年)など。』とある。

写真:九州の空で起こった珍しい自然現象
2006/05/26のBlog
日本の戦後の教育をサッカーで例えれば恐らくこんな感じだろう。

ある小学校のサッカーチームにものすごくサッカーのうまいロナウジーニョという少年がいた。チームメートのフットはいつもロナウジーニョを尊敬し、ロナウジーニョのようになりたいと思っていた。

ある晩の夕食の時、フットは母とこんな会話をした。

フット「母さん、僕のサッカーチームにとてつもなくうまいやつがいるんだ。その子の名前はロナウジーニョ。彼は1人で全員をドリブルでかわして得点してしまうんだよ。本当に凄いやつさ。」

母「へー、そんなに凄い子がいるのかい。」

フット「彼のリフティングなんて最高さ。何千回もやってしまうんだ。頭も肩もどこでもできるんだよ。」

母「その子はお金持ちの子かい?」

フット「いやちがう。家は貧乏なんだ。お母さんと妹しかいない可哀想な家庭なんだ。」

母「それは可哀想だね。じゃ、サッカーの上級校には入れないね。サッカーの進学校にはお金がかかるから。」

フット「そうなんだよ。ロナウジーニョはそのことでいつも寂しそうなんだ。彼は、妹と母さんを食べさせるためにどこかで働かなくちゃいけないんだ。」

母「そうかい。お前みたいにサッカー塾に通える子は幸せ者だよ。そこで練習して、サッカー進学校の試験勉強ができるんだからね。いくらサッカーがうまくても自己流ではダメ。試験に合格できないと進学はできないのだから。それが今の現実なんだよ。」

フット「本当は僕のような下手くそな人間より彼のような人間がサッカーの上級校へ進学すべきなんだよ。」

母「でもお前。それが世間っていうものだよ。まずはサッカー塾に通って勉強し、次は進学校に通って、行く行くはサッカー専門学校に入らなくてはね。」

フット「でも、ロナウジーニョはお金さえあればきっと僕より出世できるはずさ。」

母「お金がなくちゃだめさ。サッカー選手にはなれないんだからさ。ただサッカーがうまいっていうだけじゃなんにもならないのさ。お前もそこんところを良く分からないと行けないよ。世の中、サッカー大学に入れない子はサッカー選手にもなれないし出世もできないんだからさ。」

10年後、フットは母の言う通りにサッカー大学へ進み、卒業してサッカー選手となった。一方、ロナウジーニョはサッカーとは別の道に進み、パン職人となった。



果たしてこんな感じの国のサッカーは強いと言えるのだろうか?もちろん、これはこの国の教育や科学のことだけどね。

写真:東京に落ちた雷さま
2006/05/25のBlog
御手洗経団連、「イノベート日本」掲げ船出

経団連は、会長の任期はきっちり4年。不思議なことに、会長交代はワールドカップサッカーの年の5月頃に行われる。

最近、向こう4年の新規体制が決まり、奥田碩氏(トヨタ自動車会長)に代わる第2代の会長にキヤノン会長の御手洗冨士夫氏(70)が選出されたという。新会長のキャッチフレーズは「イノベート日本」。

一方、今回のワールドカップ日本代表は、「ジーコ日本」。この4年の総集編が6月に始まるというわけだ。

これに対して、日本の総理大臣は、1986年中曽根首相以来12人が政健交代。短かったり長かったりで一定しない。やはりアメリカの大統領交代のようにきっちり4年の任期を勤め上げて政権交代すべきだろう。

しかし、こうやって図にして眺めれば、アメリカの大統領と同じようにやっているのは経団連の方だ。したがって、ひょっとすれば、政財界の中の”真の大統領”とは経団連会長だという考え方もできるかもしれない。

実際、日本政府がやって来たことと言えば、一般市民、一般国民のためというよりは、財界や企業のためという感じだからそれもうなずける。簡単に一言で言えば、”財界の言うなり”だったということ。それゆえ、経団連会長のことを俗に”財界総理”と呼ぶ。

ところで、この図にワールドカップも加えてみると、トヨタ自動車会長時代とブラジル優勝が”偶然”重なっているのが見えて面白い。

いずれにせよ、この図はこの20年の流れが一目瞭然で分かりやすい。この図の流れでは、戦前の重厚長大企業鉄企業から戦後の自動車産業へと代わり、やっとハイテク電気機器産業へと代わった。今後はハイテクからソフト・IT企業へと代わっていくのかも知れない。あるいは娯楽・エンターテイメント産業かも知れない。

きっとホリエモンもこの中に入りたかったということだろうと思う。
2006/05/24のBlog
[ 22:18 ] [ サッカー ]
2006年ワールドカップでは、果たしてどこが上位入賞するか全く分からないが、これまでの過去の成績をまとめておこう。これを見れば分かるように、上位はいつも同じような顔ぶれである。

【1930年 ウルグアイ大会】
優勝ウルグアイ、準優勝アルゼンチン、3位アメリカ、4位ユーゴスラビア
【1934年 イタリア大会】
優勝イタリア、準優勝チェコスロバキア、3位西ドイツ、4位オーストリア
【1938年 フランス大会】
優勝イタリア、準優勝ハンガリー、3位ブラジル、4位スウェーデン
【1950年 ブラジル大会】
優勝ウルグアイ、準優勝ブラジル、3位スウェーデン、4位スペイン
【1954年 スイス大会】
優勝西ドイツ、準優勝ハンガリー、3位オーストリア、4位ウルグアイ
【1958年 スウェーデン大会】
優勝ブラジル、準優勝スウェーデン、3位フランス、4位西ドイツ
【1962年 チリ大会】
優勝ブラジル、準優勝チェコスロバキア、3位チリ、4位ユーゴスラビア
【1966年 イングランド大会】
優勝イングランド、準優勝西ドイツ、3位ポルトガル、4位ソ連
【1970年 メキシコ大会】
優勝ブラジル、準優勝イタリア、3位西ドイツ、4位ウルグアイ
【1974年 西ドイツ大会】
優勝西ドイツ、準優勝オランダ、3位ポーランド、4位ブラジル
【1978年 アルゼンチン大会】
優勝アルゼンチン、準優勝オランダ、3位ブラジル、4位イタリア
【1982年 スペイン大会】
優勝イタリア、準優勝西ドイツ、3位ポーランド、4位フランス
【1986年 メキシコ大会】
優勝アルゼンチン、準優勝西ドイツ、3位フランス、4位ベルギー
【1990年 イタリア大会】
優勝ドイツ、準優勝アルゼンチン、3位イタリア、4位イングランド
【1994年 アメリカ大会】
優勝ブラジル、準優勝イタリア、3位西スウェーデン、4位ブルガリア
【1998年 フランス大会】
優勝フランス、準優勝ブラジル、3位クロアチア、4位オランダ
【2002年 日韓大会】
優勝ブラジル、準優勝ドイツ、3位トルコ、4位韓国
【2006年ドイツ大会】
優勝???、準優勝???、3位???、4位???


参考:
ワールドカップ成績一覧
ワールドカップの歴史
ワールドカップ2006
リッピ監督、W杯も指揮へ 疑惑「やましいことない」

ワールドカップサッカーを見れば、ヨーロッパ人、いわゆる白人種のやり方が見える、と私は考えている。この意味で、非常に勉強になる。知恵の回るヨーロッパ人は、あの手この手で相手をかく乱し、テイク・イニシアティヴをつかむのだ。

”予想、予想、予想”で私はイタリア優勝を予想した。それは、前評判が高くなっても良さそうなほどに今年のイタリアリーグはレベルが高く絶好調なのに、至って”静か”な空気が漂っているからである。

最近のイタリア代表のサッカーは矢のように素早いボール回しと的確なシュートで一昔前のイタリアとは思えないほどの美しいサッカーに変貌を遂げた。トップスピードで走りながらまるでバスケットボールのようにパス交換できるという私好みのサッカーに代わった。

それゆえ、前評判高いブラジルやアルゼンチン、フランスやイングランドの影で密かにとてつもないことをやらかそうと計画を練っているのではないか、と私は直感しているのである。ギリシャ神話の「トロイの木馬」のような作戦を練って、ローマ兵は戦いの場を決戦ドイツ、ゲルマニカのドイツへと心馳せているのだろうと推察するからである。

しかし、上の記事を見れば、私の”予想”もすぐに外れてしまうかも知れない。そう思える程に、イタリアサッカー界の不正疑惑は深刻な様子。果たしてどうなってしまうのか。

しかし、これこそ、強豪イタリア、影の大本命、ダークホースのイタリアに警戒した近隣諸国が行った罠のようなものではないか、と私には見えるのである。サッカーは、本大会が始まりではない。各国の”いくさ”はもうすでに始まっているのである。

かつて、ワールドカップ・アメリカ大会の時、1次リーグで大活躍したマラドーナは薬物使用の汚名を着せられて大会から去った。だれかがマラドーナが風邪ぎみだと知れば、エンドルフィン系の薬物使用が検知できる。ならば、ドーピング検査に引っ掛かる。アルゼンチンに優勝をさらわれないように強豪国は、世紀の天才マラドーナにお引き取り願ったというわけである。

ワールドカップ・フランス大会の決勝時、その前の晩まで絶好調であったロナウドは、夜中に突然全身痙攣に見舞われた。そして不調を押して決勝に出たがあえなくフランスに3一0で敗退した。ロナウドは安全を取って一軒家を借りていたにもかかわらずである。当時フランス人のメイドがいたというが、まるでだれかが毒をもったかのような大変化であった。フランスはナポレオンに毒をもったというお国柄なのである。

ワールドカップ・サッカーでアウェーの戦いとは、こういったことを意味するのである。選手の周り中が敵になる。白人種は勝利のためには全く手段を選ばず徹底的かつ組織的に対処してくるのである。そういうお国柄、民族性なのである。

ブラジルのペレもかつて両足骨折で退場するほどに痛めつけられた。オランダのクライフもサッカーではなく、身体への攻撃に恐怖を感じて2度目の出場を辞退した。この白人種の”勝利への執念”に勝たなくては優勝を勝ち取ることは無理なのである。この厳しさを日本人は理解しなくてはならないのだ。シドニーオリンピックの柔道の篠原一ドゥイエ戦を思い出せ。審判まで味方につける。これが世界戦の難しさなのである。クロアチア一オーストリア戦も、クロアチア強しを印象づける、すでに情報戦の一種なのである。

ワールドカップ・ドイツ大会の”いくさ”は、すでに始まっているのだ。
2006/05/23のBlog
中田英、連係に努力 「話するしかない」 日本代表合宿

この記事に出ている選手間の”やり取り”が本当なら非常に素晴らしい。

22日福島Jヴィレッジで日本代表は地元の湯本高と練習試合をした。結果は12一0で勝ったという。この湯本高というのは、昨年優勝した滋賀の野洲高校と同じような高校の強豪チームである。そこと12一0というのだから、まったくレベルの違いが明らかだったということである。

この試合はチームにとってウォーミングアップのようなものだが、この試合の中で中田ヒデと宮本や中沢たちとのやり取りが実に面白く、このチームが確かに成長して来たことを物語っている。

8年前のフランス大会の時は、だれもが新人で各人各様であった。中田のリーダーシップと言っても中田はまだ一番若い方であり、年長の選手は半信半疑という感じだった。若くから世界を経験して育ち自信溢れる中田と自国育ちで自信喪失している年長者との間には温度差があった。中田の孤軍奮闘振りが目に焼き付いた。

4年前の日韓大会の時は、中田は名実ともにアジア最高のプロサッカー選手に成長した。その中田の前にトルシエ・チルドレンの小野、宮本、稲本、小笠原、遠藤世代はまだ若すぎた。中田のスピードに周りはついて行けず、中田の言わんとする意味を理解するもままならなかった。中田世代とトルシエ世代の間には確かなる差があった。

それが、今回のドイツ大会では、トルシエ・チルドレンも名実共に日本のトップレベルの選手へと変貌を遂げ、海外経験者も増えた。みなぎる自信に溢れる。中田も年長者の1人となり、かつては縦横無尽に走りまわれたが、今では後方から適時のバックアップに代わりつつある。若い世代もすべてを中田だけに任せるわけには行かない。

そんな中での1こまが最初の練習試合であったと私は見ている。

中田は「連係作りは話をしていくしかない」という。一方、宮本や中沢などのDF陣は合宿中、「何でも1人でやろうとしすぎるな」と中田にいう。

守備練習での一こま。

宮本「ヒデさん、前に出過ぎるな」
中沢「ヒデさん、DFラインに吸収されるな」
中田「具体的に指示を出してくれ」

こんなやり取りが出て来たという。実に良い光景である。

かつて私が山梨県の甲府南高校で試合をしていた時のこと。3年になって一度引退を決めたが、サッカー部の監督にまだ後輩を手伝ってやってくれと要請を受けて練習再開してまもなくの試合だった。まだ自身の体力が戻っていなくて思うように行かないという時があった。その試合の最中にこちらの反則をとられて頭に来てフリーキックのボールについ手を出して止めてしまった。すると、後輩の選手が後ろから「それは井口さんのプレーではないよ」と私をたしなめてくれた。こんな時、一抹の恥ずかしさと同時に後輩の頼もしさを感じ、後輩のためにも二度とこんなプレーをしてはいけないな、と思ったものである。

今の中田ヒデ選手はたぶんそんな感じの日々を送っているのだろう、と私は推察する。これまでのように、何でも自分に頼るのではなく、お互いがチームメートとして叱咤激励して欲しい、という意味であろう。そう私はヒデの言葉ににじみ出ていると思う。

”後ろの声は神の声”

これはサッカーの鉄則の1つである。後方からの指示にはだれもが従わなくてはならない、という意味である。

日本代表もやっとサッカーの鉄則が通じる”普通”のチームになったのである。これは、大きな成長であると私は思う。
2006/05/22のBlog
[ 12:35 ] [ サッカー ]
【Aグループ】ーー【Bグループ】ーー【Cグループ】ーー【Dグループ】
ドイツーーーーーーイングランドーーーアルゼンチンーーーメキシコ
コスタリカーーーーパラグアイーーーーコートジボワーーーイラン
ポーランドーーーートリニダードTーーセルビアーーーーーアンゴラ
エクアドルーーーースウェーデンーーーオランダーーーーーポルトガル

【Eグループ】ーー【Fグループ】ーー【Gグループ】ーー【Hグループ】
イタリアーーーーーブラジルーーーーーフランスーーーーースペイン
ガーナーーーーーークロアチアーーーースイスーーーーーーウクライナ
アメリカーーーーーオーストラリアーー韓国ーーーーーーーチュニジア
チェコーーーーーー日本ーーーーーーートーゴーーーーーーサウジアラビア

さて、ワールドカップもあと少しに近付いた。そこで、予想屋ならぬ予想をしてみよう。予想や占いの類いは当るも八卦当らぬも八卦。信じないことが肝心。

【1次リーグ】
まずは、1次リーグ予選突破。

【Aグループ】1位ドイツ、2位ポーランド
【Bグループ】1位イングランド、2位スウェーデン
【Cグループ】1位アルゼンチン、2位オランダ
【Dグループ】1位メキシコ、2位ポルトガル
【Eグループ】1位イタリア、2位チェコ
【Fグループ】1位ブラジル、2位クロアチア
【Gグループ】1位フランス、2位スイス
【Hグループ】1位スペイン、2位ウクライナ

残念ながら私の予想ではアジア勢は1次リーグ敗退である。ひょっとすればスイス、トーゴはそれほどでもないので、韓国が予選突破するかも知れないとは思う。というのも、ワールドカップの歴史に基づいて予想しているからである。

ワールドカップの歴史では、ヨーロッパ開催はヨーロッパ勢が優勝、南米開催は南米が優勝。たった唯一の例外がスウェーデン大会でペレが鮮烈にデビューしたブラジルが優勝というものである。サッカーというスポーツは圧倒的にホーム有利なのである。かつて最強と唱われた神様ジーコのチームですら予選敗退したのである。だから今回の最強ブラジルですら優勝はかなり難しいのである。なぜならたった1つのレッドカードやPKで試合が決まってしまうということもあるからだ。PK戦で敗退という場面もあり得る。審判がいくらフェアにやるといってもやはりヨーロッパ寄りになるだろう。前回の日韓大会はアジア開催でアジア有利にしてくれたのである。2050年までにもう一度日本でワールドカップ開催でもない限り、Jリーグの川淵さんがいうような日本が優勝ということはあり得ないと私は感じる。プロサッカーは相手チームと戦う以上に審判とも戦う必要があるのである。ほとんどの人(選手もファンも)はこれを忘れる。

【決勝トーナメント1回戦】
(1)A1位ドイツ一B2位スウェーデン
(2)C1位アルゼンチン一D2位ポルトガル
(3)B1位イングランド一A2位ポーランド
(4)D1位メキシコ一C2位オランダ
(5)E1位イタリア一F2位クロアチア
(6)G1位フランス一H2位ウクライナ
(7)F1位ブラジル一E2位チェコ
(8)H1位スペイン一G2位スイス

勝者は、
(1)ドイツ、(2)アルゼンチン、(3)イングランド、(4)オランダ、
(5)イタリア、(6)フランス、(7)ブラジル、(8)スペイン

【準々決勝】
(A)ドイツ一アルゼンチン
(B)イタリア一フランス
(C)イングランド一オランダ
(D)ブラジル一スペイン

勝者は、
(A)ドイツ、(B)イタリア、(C)オランダ、(D)ブラジル

【準決勝】
ドイツ一イタリア
オランダ一ブラジル

勝者は、イタリア、ブラジル

【決勝】
イタリア一ブラジル

優勝は、イタリア。

以上が今大会の私のグランド予想だが、はずれにはずれて欲しいものである。日本はクロアチアと代わって欲しいし、韓国はスイスと代わって欲しい。サウジはウクライナと代わってもらいたいものだ。もちろん、イランとアメリカが勝ち上がって、第3次世界大戦核戦争の代わりにサッカーの決勝で決着をつけるなんていうのも面白すぎるストーリーである。

再び、サッカーの暑い夏が来る。
2006/05/19のBlog
マニラ市議会、「ダ・ヴィンチ・コード」を上映禁止

「ダ・ヴィンチ・コード」は、盗作疑惑もつき、ごく最近英国で裁判も戦ったようだが、今度は全世界のカソリック教徒まで敵に回さなくてはならなくなったようだ。

1985年作の「バック・ツー・ザ・フューチャー」ではアラブの過激派、すなわちイスラム教徒を敵に回すような映画の作られ方がされていた。ハリウッド映画は世界が平和であってこそ、こういった過激な映画を作ることができたわけだが、ここ最近のブッシュ政権以来、そして9・11同時多発テロ事件以来、徐々に世界は緊張感を増し、ハリウッド映画の”脳天気”な作り方も時代錯誤の感が増して来た今日この頃である。

日本のソニーはハリウッドに映像コンテンツ獲得のために進出して久しいが(確か「バック・ツー・ザ・フューチャー」でソニー製品が出てくるようになったので、この時代、つまり今から20年前のことだろうが)、この「ダ・ヴィンチ・コード」は、ソニーにとってひょっとすれば致命的な十字架を背負うことになるかも知れない。というのは、「ダ・ヴィンチ・コード」ボイコットに対する報復の矛先は、今度はソニーに向かいそうだからである。

「ソニー製品」を一切買わないと宣言している人物は日本人ではそう多くない。私の知る限りでは、青色発光ダイオードを発明したカリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授だけである。その理由は、日亜裁判の時にソニーが裏で画策したという事実を彼が知ったからであるという。中村さんは、それを「ごめん!」で告発したというわけである(青の”勇み足”参照)。

ところが、今回は世界のカソリック教徒がソニー製品不買運動を起こすというのである。世界のカソリック教徒の数は物凄いものがある。これが、全部ソニー製品をボイコットするとすればいったいどうなることか。末恐ろしいものを感じるのは私だけか。

現在の世界は、9・11以後確実に変わり、かつてのJ・F・ケネディー時代以前にアメリカもすっかり様変わりしてしまった感がある。この1960年代に青春期を過した人々が現在のアメリカ政権に復帰しているわけだ。ニール・ダイヤモンドが礼讃した”自由の国アメリカ”も今や風前の灯火という空気がある。一番当惑しているのは現在アメリカに住んでいてこれまでのアメリカを知っている人々であろう。しかし、着実にかつ確実にアメリカは第3次(第4次)世界大戦を準備しているように見える。

こうした空気が少しずつハリウッドにも飛び火し、時代錯誤、あるいは現実誤認の映画作りを今だに行っているのかも知れない。少なくともアジアでは今やハリウッド映画よりは韓国映画の人気が高まっているのではないか。

人というものは、現実が平和で平凡であればあるほどSFやサスペンスなどの仮想世界を欲する。しかし逆に現実が緊張し危機が増せば増すほど伝統文化や現実世界を求める。日本国内でもそうで、1970年代、1980年代の年に1、2人の殺人事件しかおきなかった時代背景であれば、殺人サスペンスも番組になるが、今日のように日に何人、何十人もの殺人事件が出る時代背景では、殺人サスペンスや過激なSFは拒絶される。日本のマスコミもそうだが、こういった時代変化にハリウッドも追い付いていないのではないか、と私は感じるのだ。

果たしてソニーに何が起こるか。今後が見物である。

一方、同業他社は最高のビジネスチャンス到来である。世界中のカソリック教徒たちに自社製品を売り込めるからだ。こういう国には、パナソニックという名前の方がソニーより良い響きに聞こえるはずだ。ソニーもカソニックとか、名前変えしなくてはならないのかも知れない。不振に喘ぐサンヨーなども、絶好のチャンス到来である。
2006/05/18のBlog
数学研究ピンチ 論文、米の5分の1 博士号は6分の1

私はこういうタイプの”脳天気”な記事を読むと非常に腹が立つ。もっともそれは新聞社に責任があるというより、脳天気なことをやっている「文部科学省科学技術政策研究所」の責任と言うべきだろうが。

ちなみにそこは研究者社会は”少数精鋭”に限る!で紹介した”謎の組織”である。

私は元名古屋大学数学科(多元数理)教授の青本和彦博士と現代物理と現代数学に関係する”準超幾何関数”という”新手”の関数を発見し、2人で10編あたりの数学関連論文を公表した。この関数は、まだロシア生まれで現在世界最高の呼び声の高いアメリカの数学者ゲルファント博士やごく一部の研究者しか引用しないものである。

こういった数学研究の現場から今回は一言言わせてもらうが、この記事やその元を作った科学技術政策研究所のメンバーはあまり数学研究というものを良く分かっていないようだ。この辺を指摘しておこう。

いずれにせよ、自分で実際に新しい数学をクリエイト(創造)したことがない分際で数学うんぬんするというのは、多くの間違いを犯す可能性が高い。それゆえ、黙っていれば、無知な人はすぐにその意見を丸飲みしてしまうので、ここで指摘することにしたのである。

(あ)まず「数学研究は質がすべてであり量ではない」ということ。
数学という学問は、証明がすべて。一度証明されたらその問題はそれで終わりという科学である。だから、だれかが1つの問題をたった1本の論文でも証明してしまえば、幾多の関連論文を書いて証明できなかったものより上位に来る。この意味で数学世界を論じる際には、論文の量的な問題は無視しなくてはならない。フェルマーの大定理の証明も最後にワイルス博士が証明したらそれで終わりなのだ。しかも、この場合には、たった1通の論文と言っても本のような数百ページに及ぶのが数学研究には良くある。だから、論文数という意味で数学研究を論じるのは2重の意味で誤りなのだ。

(い)次に、「アメリカが数学研究に強いのにはそれなりの理由がある」ということ。
この問題は、すでに10年ほど前に私は自分の論文や本で指摘済み。一言で言えば、アメリカの大学システムが日本と違うからだ。(日本における大学院物理教育の問題点参照。)

つまり、アメリカの大学では、日本のように理学部、工学部、建築学部、医学部などというような形式で学部が分かれているのではなく、物理学部、数学部、化学部、分子生物学部などという形式で分かれている。そして、そのために、数学以外の分野の学生のための”初等”数学教育を一手に数学部が受け持つという構成になっている。その結果として、小学校、中学、高校レベルの数学から物理などの自然科学者のための応用数学から純数学に至るまでのすべてを数学部に所属する数理科学者たちが面倒を見るというシステムなのだ。

一方、日本国内の大学は、物理学者には物理学者が必要な数学を教えるというようなシステムである。そのために、数学者の職はかなり少なくなる。ここが日米でまったく異なっているところなのだ。

こういったシステム上の違いから、アメリカの大学の数学部では、大学院生の数は通常他の物理学や化学部の学生よりも多いというのが普通で、数学部は大学の中でももっともリッチな学部となっている。そのため、大学の大学院生の奨学金も物理などの他学部のものよりもずっと高額の奨学金を提供したり、博士号取得者に対してもポスドクを超えていきなり助教授の給料をくれるほどなのである。アメリカでは数学者はこれほどまでに優遇されているのだ。

(う)さらに、アメリカの場合には、応用数学という分野が確立されていて、日本のように純数学をやっているものが偉く、それ以外はたいしたことないというような変な偏見はない。そのため、大学には必ず数理科学研究所があり、多くの応用数学者を雇い入れているのである。その数、おおよそ日本の10倍である。

これが、数学研究者人口比が、”日本の研究者の人数は大学を中心に約3千人で、米国(1万一4万人)や仏(6000人)より少ない”となる理由なのだ。

だから私に言わせれば、”当たり前”のことに過ぎない。特に、今頃驚いてどうする。いかに文部科学省科学技術政策研究所の官僚がバカかお分かりだろう。

(え)一方、”世界の数学論文における日本の論文数は03年現在約6%で6位。トップの米国(約30%)に遠く及ばず、00年には中国にも抜かれた。”というように、日本が中国にも抜かれた、とお嘆きのようだが、この理由ももう良く知られたことだ。

そう、今の中国では、論文1通公表する度にボーナスが出るのだ。つまり、自分の所得が増える。そう、国が数学論文を出した人物にお金を支給するということだ(もちろん、数学だけではない!)。オリンピックで金メダルとれば賞金がもらえるように、著明な数学研究雑誌に数学論文を出せば、報奨金がもらえるのである。これと似たことはすでに韓国でもやっているので、もうすぐ韓国にも抜かれるはずだ。

一方、日本では数学者に対して報奨金はおろか、特別な金銭的優遇もない。私の場合でも、私は一銭も、びた一文ももらっていない。現在世界最高の数学者ゲルファントがさかんに引用している論文を書いたのに、である。いかに日本がおバカな国かお分かりだろうヨ。

文部科学省科学技術政策研究所の官僚よ、俺の爪の垢でも煎じて飲め!

そうすれば、多少は頭が良くなるだろうヨ。

さて、最後に、物事には有効期限というものがある。その期限を過ぎれば、どんな策もむなしく効果なしとなってしまう時期というものがあるのだ。こうしたことも数学を多少知っていれば理解できるはずだ。が、10年前、いや20年前ならともかく、今では”遅すぎ”たということである。今さらいろんなことをやったとしても、すでに時期を逸してしまった、ということなのだ。生理の止まった老婆とセックスしても子供は生めまい。現在では、数学をやりたければ、アメリカに留学する他はない。

その昔、「キャロライン陽子」の名で有名な子役のハーフの女の子がいたのを知っているかい。今のベッキーさんのような人気者だった。その彼女は日本の芸能界を引退し、その後アメリカに留学した。一から大学で勉強していく内に自分の中にある数学の才能に気付いた。そして現在はカリフォルニア(だったか?)の大学で数学の教授として働いているという話だ。これが、アメリカの大学システムだ。

きっと、トップの米国(約30%)の数学論文の中には彼女の研究論文も入っているはずである。
[ 11:12 ] [ サッカー ]
ワールドカップ日本代表が決まった。遅ればせながら掲載しておこう。いずれにせよ、この布陣では、平均得点力は1点程度なので、どことやっても失点”0”に押さえることが当面の目標となるだろう。

日本代表
GK 川口能活(30)磐田
 楢崎正剛(30)名古屋
 土肥洋一(32)FC東京
DF 田中誠(30)磐田
 宮本恒靖(29)ガ大阪
 加地亮(26)ガ大阪
 三都主アレサンドロ(28)浦和
 坪井慶介(26)浦和
 中沢佑二(28)横浜
 駒野友一(24)広島
 中田浩二(26)バーゼル
MF 福西崇史(29)磐田
 小笠原満男(27)鹿島
 中田英寿(29)ボルトン
 中村俊輔(27)セルティック
 稲本潤一(26)ウェストブロミッジ
 小野伸二(26)浦和
 遠藤保仁(26)ガ大阪
FW 柳沢敦(28)鹿島
 高原直泰(26)ハンブルガーSV
 大黒将志(26)グルノーブル
 玉田圭司(26)名古屋
 巻誠一郎(25)千葉

ところで、他国の代表も決まったようなので、以下に代表的なチームのいくつかだけ紹介しておこう。(詳しいものは、こちらワールドカップのデータベースで見てほしい。)いずれにせよ、AグループからHグループのどこにおいても楽そうなグループはない。それにしても、日本とブラジル、アルゼンチンとオランダは良く当るナー。

ところで、Jリーグ、いやFIFAは、”世界トト”、"world cup toto"を作って欲しいものだ。ワールドカップの全試合の勝敗をくじにして、全世界でトトカルチョを行う。当てたものには賞金がでる。ワールドカップチャンピオン誕生と同時に、世界大富豪も誕生なんてどうだろうかネ。"World cup toto"で世界が一つになる。これぞ究極のサッカー外交ってやつですナ。

イタリア代表
GK ブフォン、ペルッツィ、アメリア
DF ザンブロッタ、オッド、カンナバロ、ネスタ、
 マテラッツィ、グロッソ、バルザーリ、ザッカルド
MF カモラネージ、ガットゥーゾ、ピルロ、ペロッタ、デロッシ、バローネ
FW トッティ、トニ、デルピエロ、ジラルディノ、インザギ、イアクインタ

アルゼンチン代表
GK アボンダンシエリ、フランコ、ウスタリ
DF コロチニ、アジャラ、エインセ、ソリン、
 スカロニ、G・ミリト、ブルディソ、クフレ
MF カンビアッソ、マスケラーノ、L・ゴンサレス、アイマール、
 リケルメ、M・ロドリゲス
FW テベス、クレスポ、メッシ、パラシオ、サビオラ、クルス

ブラジル代表
GK ジダ、ジュリオセザール、ロジェリオセニ
DF カフー、シシーニョ、クリス、ジウベルト、
 フアン、ルシオ、ルイゾン、ロベルトカルロス
MF エジミウソン、エメルソン、ジウベルトシウバ、ジュニーニョペルナンブカノ、
 カカ、リカルジーニョ、ロナウジーニョ、ゼロベルト
FW アドリアーノ、フレジ、ロビーニョ、ロナウド

フランス代表
GK バルテズ、クペ、ランドロー
DF アビダル、ブームソング、シンボンダ、ガラス、
 ジベ、サニョル、シルベストル、チュラム
MF ドラソー、ディアラ、マケレレ、マルダ、ビエラ、ジダン
FW シセ、アンリ、リベリ、サア、トレゼゲ、ビルトルド
イランへの核使用に「反対」、米物理学者ら

の記事によると、”イラク空爆”の次は”イランに先制核攻撃”と着々と計画中のアメリカ南部出身のネオ・ナチじゃなかったネオ・コンのブッシュ政権に対して、全米を代表するノーベル賞学者やフィールズ賞学者たちを柱にブッシュ政権への抗議行動に打って出たようだ。これは、長がーい”アメリカ物理学史上初めて”のことである。このメンバーには、日本人にも多くのファンを持つ、フィリップ・アンダーソン博士やエドワード・ウィッテン博士らが入っているという。

日本国内では、日本政府の政治家たちや文部科学省などの官僚たちに対して、表立って”名前入り”で批判意見や論文等をインターネットで公開している物理学者は私くらいのものだ(2チャンネルなどの匿名掲示板等で陰湿にうじうじするが好きなものが遺伝的にマジョリティーのようだがネ)。が、しかし、アメリカでもそういった武勇に長けた人物はまれなのだ。

現職を持った人というのは、とかく”守り”に入る。つまり、保守的になるのだ。したがって、自分の職場から追放されることを恐れる余り、政権に対する批判や意見はしたくないと思うのが人情だからである。妻子供もいる。目をつぶっていれば、自分は国内の高額所得者として十二分に生きていける。余計な行為をしなければ、老後まで安泰な人生を送られる。ならば、なぜに現職を危機に落としいれてまで現政権を批判しなくてはならないのか。目先の損得にこだわって一生の損をするわけにはいかない、と考えるのだ。

こういった保守的な人物にとっては、他国の戦争行為や自国の経済政策なども自分にとっては、自分の専門分野以外の世界の「目先の損得」ということになる。だから、余計な口出しをして、変に目をつけられても困るし、色眼鏡で見られても困る。だから、お上の言う通りにしていればまず間違いは起こらない。だからそうしておくのが得策だと考えるのである。

確かに一理ある。たとえそれが正しい行いであったにせよ、批判がために自分が路頭に迷うなら家族も困る。正義という絵に書いた餅では腹は膨らまない。他人のための正義よりは、自分の明日の胃袋が大事なのだ。これは明日を生きていくという前提の下では一理ある。しかし、そうしている内に、時代が進展し時に危機に陥ることもある。

かつての米ソ冷戦状態、もっと前の世界大戦の時代がそうだ。これらを単に実体のない昔話の一つと見なすことは容易い。今という現実と直接結び付ける必要はないようにも見える。果たしてそうか。

もしイラン人が核兵器を持ったとして、彼等はそれをすぐに使うか。
あるいは、イラン人が核技術を持ったからといってそれをすぐに核爆弾に転用するか。
イラン人が核を持つ前ならすでに無数の核を持つアメリカがイラン人を核攻撃して滅ぼして良いのか。
それで世界は平和になるのか。
イランを核攻撃すれば、偏西風に乗って核の死の灰は周辺国に災いを起こすのではないか。
第2、第3のチェルノブイリになるのではないか。
日本に来る黄砂が死の灰だったらどうする。
イランの次はどこか。北朝鮮か。中国か。日本か。
最終的には、”猿の惑星”のような運命になるのではないか。

さまざまな疑問が浮かぶ。

しかし、これはアメリカ政府の話、アメリカ人の問題だ。日本人がとやかくいうのは治外法権だ。アメリカの物理学者がせっかく意見したのだから彼等にお任せしておけば好い。所詮、我々日本の物理学者にノーベル賞学者はちょっとしかいないのだから。

確かにこういって日々の生活に埋没し、学校で学生の間抜けな質問に適当に返答しておくこともできる。世間知らずの未成年ややっと陰部に毛が生え揃ったばかりの少年少女に説教しそれらしいことをいっておれば、時間はつぶせる。ど素人相手に科学の真似事を見せておくのも一興というものだ。しかし、たった一つの行動、それが世界を破滅に陥らせるということもある。それは事実だ。

実際、個々人の小さな人生でも、たった一度薬に手を出したばかりに破滅に陥る。サラ金に手を出したばかりに人生を失った人も多い。哲学者ニーチェのように、人生で最初のたった一度のセックスのために梅毒になって人生を失ったものもいる。

世の中には、「人生は、やり直せる」という人もいる。

これは私に言わせれば嘘だ。人生がやり直せる?子供地味たたわごとだ。人生とは二度とやり直しはできないものである。過ぎた日々は二度と戻らない。その間に自分は変化する。回りの世界も変化する。良くも悪くもだ。心がけ次第でどっちへも転ぶ。「人生がやり直せる」というふうに見えるのは、ある範囲内での話にすぎない。

ならば、日々刷新。明日へ向かって進む他はない。後ろを振り返るのも、また前を向いて進むためのものに過ぎない。今日が昨日と、明日が今日と同じではいけないのだ。明日は明日でなくてはならない。

もしその明日がないとすればどうする。もしその明日が昨日のようではなくなるとすればどうする。自分がいつもしている計画や計算は通じない。

システムというものはもろいものだ。それは環境の激変で壊れる。原子核であれ、原子であれ、細胞であれ、人であれ、社会であれ、国であれ、地球であれ、宇宙であれそうだ。

バックミンスター・フラーはかつてこう言った。「人間とは環境を変えるものだ。」この意味は深い。人間は環境を良くも悪くも変え得る。ある人物が環境を悪く変えようとしているのなら、果たして人はどうすべきか。そうだ。意見を言う他はない。

こうして、アメリカの物理学者たちは、ジョージ・ブッシュ大統領に

「核兵器を現実世界にもたらした専門家集団の一員として、米国と世界を破滅に追い込む行動を慎むよう、強く求める」
「非核保有国に対し、核による先制攻撃があり得るという事態を、深く懸念する」

などの声明を郵送したのだろうと、私は個人的に考えている。
2006/05/14のBlog
シュート15本、ゴールは遠く スコットランド戦

恐らく、今現在の日本組ではベストメンバーに近い陣営でキリンカップ優勝を目指したのだろう。しかし、残念ながら、勝利には結びつかなかった。試合自体は決して悪くはなかったが、これは最初から引き分け狙いのスコットランドの術中にはまったとみて良いだろう。

いずれにせよ、ゴール前の決定力の問題だが、日本選手はどうやら英語でいう「フォビア」、日本人がいう「トラウマ」に陥っているように見える。かつてドゥンガが「セレソン」で言った

「失敗を恐れて失敗をする」

という症状に侵されているように見える。

つまり、得点力のなさから、シュートミスを極端に恐れてシュートするために、かえって入れるべきシュートも入らない、という状態である。というのは、こういう精神状態の時は、シュート体勢に入ると力が入り過ぎたり、足がすくんだりして、うまく蹴れなくなるのである。

事実、トルシエ・ジャパンの時の小野は、コーナーキックからの直接ボレーはかなりうまく蹴っていたが、昨夜はまったくボールをヒットできなかった。おまけにゴール前の2mシュートもはずす始末だった。こういうのは、自信のなさの現れなのである。

こういう時は、自信を持ち”何も考えずに瞬間的に反応する”という感じでシュートするのが良いだろうと思う。初心に帰り、昔子供の頃サッカーが楽しくて楽しくてしかたがなかったという時代のことを思い起こすのである。そうすると、自然に身体がボールに反応するようになる。

いずれにせよ、こういう精神状態は最近の日本人特有のものである。

さて、一方のスコットランドは私が好きなタイプのチームであった。決してはでな個人技を持つ選手はいないために、最近はワールドカップ出場はないようだが、サッカーの基本技術・基本戦術などさすがにサッカーの母国の1つである伝統がひしひしと感じられた。アイルランド、イングランドとも共通する何かがあるように見えた。

特に、私が感心したのは、攻撃時と守備時のフォーメーションの素早い変化である。攻撃時にはサイド攻撃になれば、あっという間に3一4一3や3一5一2のシステムになって数人が敵ゴール前に集まる。そして、守備時になれば、あっという間に5一4一1のシステムに変わり、自陣ゴール前に5人一9人が集まる。ボールがディフェンダーから前線に送られると、そのボールに合わせてディフェンダーもいっしょに押し上げる。決してフォーワードだけで攻めるということがない。

もちろん、こういったことはサッカーの教科書や教程の類いのものにすべて書いてある中学・高校レベルの事柄である。しかし、それがすべての選手に基本として”行き渡っている”。だれもがより若い選手の教科書になれる。実は、これがなかなかできないことなのである。

選手というものは、疲れてくれば、自分を偽り、基本を忘れるものなのだ。そうした方が楽だからだが、そうしている内に、チームとしての約束事ができなくなり、チームがバラバラになって機能しなくなる。そして試合に勝てないということになるのである。

サッカーというスポーツでは個人技術を教えるのは非常に簡単だ。だれもがロナウジーニョのようになりたい。一方、サッカーではチーム戦術の基本や約束事を教えるのは非常に難しい。バスケットやバレーボールとちがってサッカーコートがあまりに広く、選手もコーチも疲れるからだ。しかし、これがないと、強豪にはなれない。

ここがサッカーを監督する者、コーチする者の共通の悩みなのだが、ジーコ監督もお悩みのことなのだろうと思う。
東海地震想定域付近「ゆっくり滑り」でM7級エネルギー

「ゆっくり滑り(スロースリップ)」とは、”地表で揺れが感じられないほどの遅いスピードで地下の岩がずれ動く現象”とのこと。

この「ゆっくり滑り」の領域は、東海地震の想定震源域に近いプレート境界(東海地震の想定震源域の西側、浜名湖付近)に位置し、01年はじめごろから発生しこの5年間続き、南東方向に6センチ程度の地殻変動を起こしたため、東海地震との関係が注目されていた。それが、今年初めにほぼ終わり、全体でマグニチュード(M)7.1の地震にあたるエネルギーを解放したという。

こうしたことが、国土地理院の解析でわかり、14日から、千葉市である日本地球惑星科学連合大会で発表する、というニュース。

これまでは、「ゆっくり滑り」は東海地震の直接の原因になると考えられていたが、最近ではそうではないという説が勢いを増して来ているという話。

いずれにせよ、備えあれば憂いなし。要注意が肝心。
2006/05/10のBlog
[ 18:10 ] [ サッカー ]
日本、12でブルガリアに敗れる キリンカップ

私もこの試合は見たが、開始直後とロスタイムに失点するという”ど素人ゲーム”。

試合開始直後というのは、”挨拶代わり”に怒濤の攻めをしてくるもので、最初の10分はもっとも注意しなくてはならない時間帯。一方、ロスタイムの失点も同様で、終盤には相手も必ず攻めてくる(あるいは攻める振りをしてくる)時間帯である。昨日の試合のように同点でこのロスタイムに入った場合には、絶対に”引き分け”なくてはならない試合だった。

”ドーハの悲劇”から10年以上経っているはずだが、日本男児には未だに同じメンタリティーが生き続けているようである。つまり、引き分けられる、あるいは勝てると思うと油断し集中が切れるという欠点である。(サムライサッカーをめざせ、参照。)


【フォワード】
それにしても、攻撃では、玉田と巻はダメだった。再三再四のチャンスもボールがゴールの枠に飛ばない。基本練習を怠っている証拠である。

特に玉田は大方の意見と違って私は今回が”ファイナル・アンサー”となってしまったように感じる。何が一番悪かったか、と言えば、物理で言う「自由粒子」になってしまっていたというところである。つまり、回りの選手との意志の疎通(相互作用)がなく、勝手気ままに動き回り、勝手気ままにシュート、パスをしていたということである。良いシュートでもそのリバウンドが味方に転がる可能性を考えたタイミング打たなければ、味方のフォローはない。そうしたシュートを打つべきであったが、玉田は何か勘違いをしていて好き勝手にシュートを打っていた。これでは、周りが玉田に振り回されてしまう。


一方、巻は玉田とは違ったタイプなのだから、常に表と裏、影と日なたの関係でお互いに補完し合うような動きをすべきであった。しかし、何度も2人が重なり、お互いに邪魔し合っていた。さらには、第2列目のハーフの選手達のシュートコースも巻と玉田は邪魔していた。

ところで、昨日の試合では、新聞にあるように、

”これに対して、日本は後半31分、三都主のシュートをゴール前にいた巻が右足で押し込み、同点ゴールを決め、1一1に追いついた。 ”

と大方は見たようだが、テレビで

”巻のシュートが入った”

と言えば、みんな自分の目で見たものも見えなくなりそれを信じ切ってしまう。しかし、これは明らかに

”巻が空振りしたボールが相手ディフェンダーのスネに当って入ったラッキーなオウンゴール”

だった。巻の足に当っていたら、恐らく枠をはずしただろう。それほどまでに昨日の巻はついていなかった。蹴るボールは枠をはずし、ヘディングも枠に飛ばない。最悪のプレーだったと思う。

【中盤】
この2人の尻拭いをずっとやっていたのが、遠藤だったが、さすがにトップ下のスピードにはついて行けなかった。やっとのことでシュートチャンスに絡んだが、最後の一歩が出なかった。ボランチとトップ下はここが違うのである。むしろ、遠藤はボランチにして、トップ下は安部あるいは小野あたりが良かったのでないかと思う。

【ディフェンス】
昨日の試合では、左サイドに中沢がいたが、その前の村井との連係が全くなく、右サイドががらがらだった。そのおかげで何度も何度もチャンスを作られてしまった。昔、イラン戦で中沢を前に誘き寄せてその裏をつくという戦法で何度かやられたが、今回も全く同じ戦法で見事に失した。結局、村井はかつての小倉ような大怪我をしてしまったので、今度のワールドカップはこれが”ファイナル・アンサー”となってしまった。

【キーパー】
最後のフリーキックのゴールは、明らかにキーパーの川口のミス。あまりに反応が悪かった。味方がヘディングでクリアーすると予想して出足が遅くなったようだ。

それにしても、中田ヒデがいうように、日本選手は中盤でもっと1対1で厳しいプレーをしなくては絶対に予選突破できないが、こういった厳しいが正統的なチャージがほとんどなく、ただただ美しくボール回し、パス回しばかりに凝る傾向に拍車がかかったようだ。

”ゲームには勝ったが勝負には負けた”

では困るのだ。 98一99年に柏でプレーしたストイチコフ監督の言葉にそれが良く出ている。

「日本代表の印象はとてもよかった。ただ、どうやったら勝てるかはちゃんと分かっていた。移動の疲れと湿気が選手のプレーに影響したが、日本にはそんなに多くのゴールチャンスを与えなかった。」
[ 17:02 ] [ スポーツ ]
こっちは真の世界記録。

世界最深記録達成、素潜り140メートル!

ベネズエラ人男性カルロス・コステさん(30)が素潜りで水深140mに到達。重りを使って潜水後自力浮上の「バリアブル」部門世界最深記録を達成。

この競技は、日本では女優の高木沙耶さんが80m(だったか?)の日本記録を持っているという有名な競技。

秒速2mで潜れば、行きはおよそ70秒。帰りも2分程度で上昇すれば、トータルでおよそ3分一4分。したがって、デービッド・ブレインさんの7分8秒の無呼吸記録があれば、十分世界記録が狙えるかも知れないネ。
2006/05/09のBlog
デービッド・ブレインさん、水中遊泳生活に挑戦中

で紹介したデービッド・ブレインさん、1週間の水中遊泳生活は完結したが、その最後に無呼吸世界記録に挑戦したが、残念ながら世界記録達成とはならなかったようだ。
潜水記録2分及ばず失敗 デービッド・ブレーンさん
米の手品師、水中生活1週間達成 息止め世界記録ならず


世界記録は8分58秒。ブレインさんは7分8秒。

しかし、7分も息を止めているのは至難の技と言える。
まあともかく、無事生還おめでとうというところだネ。
[ 14:00 ] [ 健康・医学 ]
黄砂、花粉症悪化の原因にも? 大分の大学が調査

この大分県立看護科学大の市瀬孝道教授(生体反応学)らの調査は面白い。あるアレルギー患者で「黄砂で花粉症がひどくなる」という人がいたのがきっかけだったという。

実は、私もスギ花粉症他多数のアレルギーを持っている。そのおかげで毎年1、2月から4、5月までがもっとも咳がひどくなる時期で、文字どおり”閉口”している。
花粉症の原因物
スギとイチゴ

ところが、今年はスギは少なくかなり咳は治まっていたのだが、中国からの黄砂で空気が濁っている時には不思議と咳き込む。それで、ひょっとしたら黄砂が喘息の原因の1つという可能性もあるかも知れないと思っていたところ、今回のこの調査の記事が目に止まった。私自身の経験からもまずこれは正しいだろうと思っている。

やはり、

”アレルギー抗原として、卵のたんぱく質0.1ミリグラムと、その抗原に中国の黄砂発生地などで集めた砂ぼこり50一100マイクログラムを混ぜたものを、モルモットの鼻に垂らした。1週間ごとに約1カ月、この実験を続けると、砂を混ぜた方が鼻づまりや鼻汁が増え、炎症を起こす好酸球が鼻の組織で増えていた。 ”

”アレルギー悪化の仕組みは完全には判明していないが、黄砂に含まれる二酸化ケイ素が炎症を起こすほか、黄砂にくっついた細菌やカビなどの毒素が影響する可能性もあるという。韓国の研究では、黄砂の時期に目や呼吸器の疾患が増えることも確認されている。”

という、この調査にあるように、砂やホコリを肺に吸い込んで溜め込むのは良くない。アスベストが原因と言われる中皮腫という癌になる原因の一つかも知れないし、少なくとも”塵肺(じんぱい)”の原因にもなるかも知れないからである。

この時期は花粉の有る無しに関わらずマスク着用しておくのが無難なように思える。今後の研究を期待したい。
2006/05/07のBlog
ちょうど今から4年前、私は昔のBBSでこんな人を紹介しておいた。

1796 ストリートマジシャンDavid Blaine 2002/06/20

たぶん当時、日本でこの人物を紹介したのは、私が最初だったと思うが、今やこの人物のファンは日本国内でもうなぎ上り。

今回は、このデービッド・ブレインさんが水中遊泳生活に挑戦中とか。

米国人手品師、NYで水中生活1週間に挑戦

このデービッド・ブレインさんは、”ずっと電柱の上に立ち続けたり”(空中生活44日)とか、”ずっと氷付けになって雪の中で過したり”とか、”土の中に埋められて過したり”(生き埋め1週間)とか、およそ常人では考えられない生活を続けることをこれまで行って来たと言う、イエス・キリスト様や仏陀様のような人物。

今回は水中生活一週間に挑戦しているさなかである。

”直径約2.5メートルのアクリル製の球体に温水を満たし、呼吸用のチューブをつないで1週間入ったままになる。トイレは別のチューブを通じてするらしい。”

かつて、私は

”カードマジックから読心術、挙げ句の果ては何にもない街頭で
いきなり空中に浮いて見せる。その素生はあまり知ら得れていない
謎の人物。一説にはロズウェルで生まれたエイリアンだとか?
とにかく、どこからともなく道を歩いて来て、いきなり人に
マジックを見せる。日本にも行ったようだ。カードの手さばきは
神がかり。そして「不思議なもの見たいか?」って言って、
いきなり路上で20cmほど宙に浮いて見せる。これにはだれもが
目を疑って、恐くなって逃げ回るほど。顔も声も日本の若手俳優
のGTOに出ていた問題高校生役にそっくり。”

と書いていたが、あながち、”ロズウェルで生まれたエイリアン説”もうなづけるほどの実績の持ち主である。

果たして無事に球体から出てこられるのだろうか? こう御期待、というところ。
昨日、偶然面白いものを見つけた。

[rika2:01448] 怪しい言説を振りまく「物理学者」

というもので、私を”怪しい言説を振りまく「物理学者」”と評して誹謗中傷してくれているようだ。立派な大学に職を持ちたくさんの児童たちに理科教育を行っている人物たちがこういうことを(裏で)行って生徒達の”見本”になるのだから驚きである。

私が理解できないことは、理科教育(小中高までの理科)の先生たちには、この左巻健男氏(同志社女子大学)のようなタイプ(つまり、自分達の小さな世界の内と外に区分して、自分達のサークルだけが正しいとすぐに白黒を付けたがるタイプの人種のこと)が非常に多い、ということだ。実に嘆かわしいことだ。ちなみに左巻健男氏(同志社女子大学)は、私の昔の掲示板(Kazumoto's scientific BBS)で”左巻きのだんな”というニックネームで出ている人物である。ここは当時数多くの大学人や一般人で賑わった。

科学というのは、いつの時代でも権威や定説から見れば、”怪しい言説”の中から(あるいは”怪しい言説”をも真摯に理解しようとして)新しい時代の真実が生まれて来たというユニークな歴史を持っている。だから、一見”怪しいもの”であっても、本当の真偽が判明していない場合には、すぐにその時代の権威的、あるいは常識的なことに捕われないで、もっと自由に研究すべきことなのである。

例えば、ガリレオは当時の権威からは異端児として迫害され続けたというのは歴史の歴然たる事実である。最近でも、今や常識のように言われている超ヒモ理論なども1970年代までは存在せず、最初は”怪しい言説”以外の何ものでもなかった。しかし、こうした”怪しい言説”でも真面目に正否やその可能性などを探っていく内に次第に取捨選択されてより真実に近いものが生き残るのである。今常識となっているほとんどの事実は誕生直後では”物笑いの種”に過ぎなかったものである。プリオンしかり、イオンチャンネルしかり。

私が地震研究でいわゆる”地震雲”などの「宏観現象(こうかんげんしょう)」に関心を持つのも、上の意味においてである。科学者というものは、決して一つのサイドだけから盲目的に見るのは間違いである。できれば、”あらゆる立場”から物を見ることが肝心である。そして”あらゆる言説”をきちんと研究していくのが好ましい健全な科学のやり方なのである。そう私は思うからである。

しかし、彼等のようにいわゆる「理科教育」の専門家はどうしてそのように思わないのか。

というと、彼等の独特の立場があり、それが我々とは違うからである。なぜなら、教科書という書物をひとかどの”権威”にしようというバイアスのかかった人々であるから、その本質において各界の”権威”に弱い。多くは俗に言う「権威主義者」であろう。また、教科書というものの制約上、首尾一貫した本にまとめようと思うとどうしても幾多の言説を取り上げるというよりは、その中の一番の権威的なもの、常識的なもの、定説的なものを取り上げざるを得なくなるという弱点を持つ。

これは、NHKが番組制作上どうしても1つの仮説だけを取り上げて番組を作らなくてはならないというのと非常に似ているかも知れない。

例えば、「人類誕生」や「生命誕生」などの番組を作る際にも番組の時間の制限があるので、あらゆる考え方や取り上げられないこととなる。したがって、一番今”有力とされる言説”を定説と仮定せざるを得ない。しかし、一度これが放映されると、この特別な言説が定説であるかのように一人歩きすることとなる。恐竜が滅んだという理由をつけるにしても、今もさまざまな説がある。隕石衝突説を取るか、花粉発病説を取るか、氷河期説を取るか。しかし、その中のどれを取るかによって、番組構成はまったく違ったものになる。

地震でも全く同様で、「宏観現象」が存在すると仮定して研究する人もいれば、それを否定して研究する人もいる。地球物理学でも同様で、プレートテクトニクスを正しいと仮定して研究する人も入れば、それを否定して研究する人もいる。

問題は、いろんな仮定に基づいて研究し、「真実とは何か?」ということにより一層近付けばそれで良い、という点にある。それをある仮定は邪説だから、あれは”権威”が否定するから、あれは”怪しい言説”だからといって切り捨ててはならない。

ここが、科学者と理科教育者の違いなのである。

今の理科教育関係者には神様のようにあがめ奉られている寺田寅彦は、【科学者とあたま】(昭和8年10月、鉄塔)という随筆の中でかつてこう述べていた。(寺田寅彦著「寺田寅彦随筆集」、第四巻、(岩波文庫)

【科学者とあたま】(昭和8年10月、鉄塔)

” 私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。
「科学者になるためには『あたま』がよくなくてはいけない」
 これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた
「科学者はあたまが悪くなくてはならない」
 という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に小数である。
 この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧不鮮明から生まれることはもちろんである。
 論理の連鎖のたった一つの輪も取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性と岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を持たねばならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は「あたま」がよくなくてはならないのである。
 しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人でも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪い飲み込みの悪い田舎者であり朴念仁(ぼくねんじん)でなければならない。
 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなくてはならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。科学者の歴史は。。。偉大なる迂愚者の頭の悪い能率の悪い仕事である。 
 この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事も考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。”

つまり、寺田寅彦は、我々科学者とは、

”普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人でも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪い飲み込みの悪い田舎者であり朴念仁(ぼくねんじん)でなければならない。”

のような人物であるべきだ、と言っているのだ。つまり、一言で言えば、真の科学者であろうとすれば、”バカになれ”ということである。普通の人が”怪しい”と言って馬鹿にすることでも納得の行くまで研究する、こういったバカでなくてはならないと言っているのである。

ところで、最初にあげたような人々を私はここ10年ほど観察してきているが、1つの際立った特徴があるようだ。それは、

「自説に対する反論に対しては、相手が彼等と同じ様に本を読んでいない無知から来たたわごとだと答えるのだが、彼等の返答や批判の中には、実は彼等も同じ過ちを犯しているということに気付かない」、

ということである。つまり、私への誹謗中傷の場合では、私がこれまで書いて来た書籍や膨大なエッセイ群を”まったく”読んでいないということである。私のエッセイ群のほんの少しを読んで、たまたま気に入らない部分にいちゃもんをつけるということである。まあ、こういった人々は自分は特別だと考えているということであろう。

もしこういう感覚で彼等が学校で児童たちに理科教育を行っているのだとすれば、非常に危険である。また、「理科離れ」が進むだろうことも理解できる。なぜなら、こういった人物達に教えてもらうこと程面白くないことはないからである。文科省はこの辺を真剣に考え直すべきである。

最後に、私もこう思う。

この”怪しい言説を振りまく「物理学者」”の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事も考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。
理研の基礎特研の募集が来たので、関心のある人のためにここに紹介させてもらおう。研究に自信のある”若手”は応募してみるのも良いだろう。ご幸運を祈る。

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平成19年度採用基礎科学特別研究員の募集について(依頼)

各位

拝啓
 突然のご連絡、失礼申し上げます。
 この度、理化学研究所は、平成18年4月3日(月)より平成19年度採用
基礎科学特別研究員の公募を開始いたしました。
(応募締切は、平成18年5月31日(水)です)。
 より多くの若手研究者の方に、当研究所において自発的かつ主体的に
研究できる場を提供する本制度にご応募いただきたく、当研究所に基礎
科学特別研究員、ジュニア・リサーチ・アソシエイトとして在籍されており
ました貴殿に、公募開始のご連絡をさせていただくと伴に、公募に関する
情報を指導学生の方、周囲の研究者の方等に、ご紹介いただきたくお願
い申し上げます。
 公募に関する詳細な情報は、理研ホームページ(人材募集)
(URL:http://www.riken.jp/r-world/info/recruit/index.html)に掲載して
おりますので、ご参照ください。
 また、基礎科学特別研究員制度、ジュニア・リサーチ・アソシエイト制
度等を今後ともよりよい制度とするために、添付いたしましたアンケート
にご協力いただきますようお願い申し上げます。アンケートは、下記に
FAXまたはE-mailにてご返送ください(平成17年10月に実施いたしました
アンケートにご回答いただき、ご回答内容等に変更がない方は、ご返送
は不要です)。
 最後になりましたが、貴殿の益々のご活躍をお祈り申し上げますと
伴に、今後とも理化学研究所並びに本制度へのご支援を賜りますよう、
お願い申し上げます。

 敬具

【問合せ先・返送先】
〒351-0198 埼玉県和光市広沢2-1
独立行政法人理化学研究所
基礎基盤・フロンティア研究推進部
研究業務課 研究者奨励係 (展示事務棟3階)
TEL:048-467-9268
FAX:048-463-3687
E-mail:wakate@riken.jp
2006/05/05のBlog
[ 17:44 ] [ 社会 ]
しばらく前に「職場外から接続規制も 総務省がウィニーで指針」という、こんなニュースがあった。

私は、こうしたニュースを見ると非常に腹がたつ。それは、まさしく”本末転倒”な結果そのものであるからだ。

インターネットの発明で何よりも大事な点は、”仕事がどこにいてもできる”という良さにある。それゆえ、職場まで足を運ぶことなく同じレベルの仕事ができるようになるということだ。そのため、人々は職場まで通うための時間や交通費、強いては地球エネルギー資源の節約ができるということになる。

私が”ウィニー”を開発した東大の研究者のような”ニセ秀才”にいつも憤りを感じるのは、こういった”違法配信ソフト”を作れば、いずれは規制がかかり、結果として自分達(利用者)の自由を失う結果に終わると分かっているにもかかわらず、そういった下らないものを発明した、ということである。言い換えれば、”ただで他人の作品を享受したい”という目先の損得にこだわり、結果として”規制されて自分の自由を失う”という将来の大損をこく、というタイプだということである。こういった東大の”ニセ秀才”には「自由とは責任を伴う」ということが分かっていない。

いわゆる”2ちゃんねる”のような巨大掲示板も同じで、職場や学校からこういったもので他人を誹謗中傷や”なりすまし”行為(他人に成り済まして言いたい放題やる)などを行えば、結果として職場から自由にアクセスする権利を規制されるということになろうが、大学人や学生たちはあまりこういうことを意識しない。ここにも”ニセ秀才”特有の傾向を見る。また、大学関係者がアングラ世界やダークサイドに入り浸るのは考えものである。かならずいつか何がしかのしっぺ返しが訪れるはずである。

人の作品にはやはりそれなりの評価が伴うはずで、作った人に敬意を示すためにも、最小限のお金はつきものとなる。なぜなら、そういう創造的行為にはそれなりの維持費がかかるからである。私の場合ですらこうやってインターネット利用するためにそれなりのお金がかかっているのである。だから、他人のものを勝手に無償で交換しようという発想はアカデミックユーズ(学問上の扱い)以外では厳しく制限されるべきだろう。

ちなみに、ここで言う、”アカデミックユーズ(学問上の扱い)”というのは、学問上の研究などで”どうしても”資料として必要というような特殊な場合のことで、「大学関係者(大学職員や学生)が個人の趣味嗜好のために勝手に使って良い」、という意味ではない。

どうもこの辺が、大学関係者は意味逆転化して理解しているようである。大学の研究者だから何でも研究して作って良いということにはならない。

結局、ウィニーを作った人は、このソフトの弱点をうまく悪用されるという可能性まで理解していなかったということであろう。そのため、ウィニーの利便性に乗じて使用した人たちから自分の持つ職場情報がリークする結果となった。そして、最終的には、自分のパソコンで仕事できず、職場以外では仕事できないという悪循環に陥ってしまったということになる。つまり、インターネットの利便性の追求が逆にインターネット利用を制限するという皮肉な結果を導いてしまったのである。


同様の事は、西村ヒロユキの作った(というよりアメリカの真似をした)”2ちゃんねる”の場合もそうである。掲示板の出来はじめの頃には、インターネットでいろんな交流ができる”しゃべり場”として1つのスタイルを生み出すかと思われた。が、しかし時代が進むにつれ、悪口、誹謗中傷だけの場となってしまった結果、マトモな企業が投資しなくなってしまった。現在は、インターネット掲示板というよりは、その昔の総会屋の発行する雑誌のようなもので、顛末の有り様を金で解決するというヤクザなシステムになりさがってしまった。実際、広告は全部アングラマネーや風俗業種である。いわば、マネーロンダリングの場となっている気配すらある。

問題はこういう場に大学関係者が入り浸っているという点にある。その情報が、裏でだれかに利用されないという保証はない。こうした状況で、もし何か大問題が起これば、その内、西村ヒロユキは、ホリエンモンと同じ境遇に陥るだろう。もうすこし何とかしないと、インターネット文化を健全な形で維持していくのは難しくなるだろうと私は見ている。
2006/05/02のBlog
[ 12:08 ] [ ジョーク ]
ついでにもう一丁。

【私の”途方もない”夢】

ブラジル人にサッカーを教えること。
ユダヤ人に科学を教えること。
アメリカ人に発明を教えること。
イギリス人に経済を教えること。
フランス人に芸術を教えること。
ギリシャ人に哲学を教えること。
ドイツ人に技術を教えること。
イタリア人にデザインを教えること。
ロシア人に文学を教えること。
オーストラリア人に水泳を教えること。
カナダ人にスケートを教えること。
アフリカ人に陸上を教えること。
中国人に卓球を教えること。
笑いは百薬之長。以下はジョーク。信じないでくださいヨ。

【”めったに”見たことがない人】

ゴールデンウィークでハワイを訪れた日本人の大学院生3人が、アラモアナビーチを歩きながら世界の人々について話していた。

その中の1人Aが他の2人に聞いた。

「お前ら、世界のいろんな人の中で見たことないタイプの人ってどんな奴?」

もう1人のBが答えた。

「僕はいつも思うんだけど、こんな連中は見たことないよ。
リズム感のない黒人、ダンスのできない黒人、足の遅い黒人、けんかの弱い黒人。」

すると、もう1人のCが言う。

「出っ歯の白人、嘘をつかない白人、金に興味ない白人、日本人の女に持てない白人、なんていうのもお目にかかったことがない。」

「そうだよな。白人で日本人女にもてない奴なんていないからな。」

とAも賛成する。

科学の大学院生Cはこう続けた。

「科学に興味ないユダヤ人、ブタが食えるユダヤ人、ジョークの分からないユダヤ人、なんてどう?」

「養老さんの真似をして、田舎に住むユダヤ人てのは?」

とCが言う。

「じゃー、農作業のできない日本人、寿司が食えない日本人、人まねのできない日本人、ジョークの分る日本人、なんてのもありか?」

とAが言った。会話はさらに続き、

「ヒゲのないアラブ人男、コーランを知らないアラブ人、ブタが食えるアラブ人、眉の薄いアラブ人はどうだい?」

はるばる日本からやってきた3人の若者は、アラモアナビーチで毎日こうした会話を続けて休みを終え、満足して日本へ帰って行ったという。