懐疑派ブログは引っ越ししました。
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香田証生・殺害映像
- Posted at 2004-11-03 Wed 09:46:33
- Category: ニュース
イラクで香田証生さん(24)がイスラム過激派に拉致・殺害された事件で2日、ザルカウィ容疑者率いる「イラクの聖戦アルカイダ組織」がウェブサイトで殺害の模様を撮影した映像を流し、「日本政府から身代金支払いの提示があったが断った」と主張した。殺害動画…見るべきか、見ざるべきか、それが問題だ。
映像では、床に座らされた香田さんの背後で覆面姿の3人が声明を読み上げ、その後、星条旗(米国旗)の上で香田さんを殺害している。
声明で犯人グループは、日本政府から香田さんを解放する見返りとして「数百万ドルの身代金支払いの提示があった。しかし、アルカイダは神の意思に従いジハード(イスラムの聖戦)を実行した」と言及し、身代金を拒否したと主張。「こうした事態を避けたいなら、自衛隊を撤退させればいい。さもなくば十字軍とともに地獄に落ちる」と指摘し、自衛隊が撤退しない限り今後も日本を標的にすると脅している。
■日本人の青年が星条旗の上で斬首される映像を、直視すべきなのだろうか。それとも、見るという行為自体がテロリストの思惑にのっかることになるのだろうか。う〜ん。ま、夢に出てきても困るし、見たくないんですけどね。(で、結局のところ、どうなのか?→参照)
■人々がどんな感想を持ったかを2ch見に行く。「これを読んでから見るかどうか決めれ」…だそうです。
00:00 アラビア文字の白い字幕。背後は黒BGMはオヤジのコーラン。
00:10 アラビア半島を中心とした地球儀に突撃銃が意匠された奴らのマークが浮かび上がる。
00:20 アラビア風の音楽が始まり、アラビア語の字幕が浮かんでは消える。
00:34 小学校みたいな閉鎖された部屋。コンクリ壁には例の黒い旗。一人香田君が正座させられてる。
00:42 3人の執行人が画像処理で現れる。 何か紙に書かれたものを読み出す
02:05 真中の人間が読み終える。即執行開始
02:10 入刀。うごぉ・・・とうめき声
02:12 アラーアクバルを続ける男たち。首が切られつづける。
02:14 血が噴出す。ピストン運動のように、首にナイフを入れ出しする男。
02:26 最後の「むご」という音とともに、音が消え再びアラビア風BGM始まる。
02:28 視点が変わって、米国旗の上で首を切りつづける。
02:30 切断完了 胴体の上に首
02:33 シーンが変わり、男たちが首を掲げる。背後は例の旗。顔がupになる
02:41 米国旗の上の胴体に首が置かれるjpgと同じ構図になる
02:45 最後に幸田君ドアップ。
02:48 彼らの旗が写る。
■身代金支払いの提示…これって、どうなんだろう。もちろん日本政府はこれを否定している。そもそも、日本政府がコンタクトとれてなかったんじゃないか。
■仮に身代金を支払おうとしていたとしたら、その行為は正当化できるのだろうか。確かに、日本人の生命にかかわる問題なので軽視はできないが、「テロリストの脅しには屈しない」と小泉首相は言い続けてきた。また、数億円もの資金を入手できれば、新たな武器や人材の調達も可能となり、テロリストを勢いづかせることとなる。う〜ん。
やはり、あちらの方の日本人青年の話題が気になって見ていました。けれども、どうにもしっくりこないし、伝わってこない。
で、一つ余計なことを書いたのですが、暴れ馬の如く、いや若き論客達に判りやすく言えば、あの「もののけ姫」の猪の大暴走が如きその前に、見事なほど跨ぎ飛びされてしまいました。
「まぁ、大したことは書いてないからね」と拗ねてみたりして。
にしても、宮藤さんのおっしぉるとおりの無秩序言いたい放題状態で、何だか「言葉の墓場かここは」とは思ってしまいましたね。「何かを言いたいのだろう」けれど、しかし「何を言いたいの」か皆さん。きわめて善良で良識がある、のだろうとは思うのですが、ズ〜ンと内に籠もっているのだろうという感が強かった。
さて、青年の死に際についての映像が流されているようですね。あちらの方でもそうした記述があり、「えっー、可哀想」と言いつつ、そうした映像を見たという記述があって、その神経に少々当惑というのが正直な感想。
その二つの感覚が平然と同居していることに違和感を覚える私は、やっぱり「真正のオヤジ」なのでしょう。
このエントリで紹介されているその場面の記述だけで、私はもう十分です。私は見ない。少なくとも、言葉で伝えられたら、それの意味を想像する能力はまだ少しは残っている。
「星条旗に包まれた骸」というのが、何だか象徴的に思われます。
「ブッシュ負けろ」には、私もささやかな一票を!
オォー 神よ! もしあなたが実在で、そしてあなたが全能ならば、いまこそ「義」を現す時だ、この野郎!
メディアが自主規制しても、ウェブで流れてしまうなぁ…と思っている時に、このエントリーで、大事なことが抜け落ちていることに気づきました。自主規制は、家族への配慮ってのもあるんでしょうけど、何よりも香田さんの尊厳を守るためなんですね。
新潟中越地震の救出作業の際、ビニールシートがかけられたのはなぜか?ジュネーブ条約で戦死者を映さないように決めたのはなぜか? …などを想起すれば、すぐに思い当たるのですが、そのことを忘れてました。
マスコミが自主規制するものが、ネットに流れてしまう…でも、そういったものに、あえて目を閉じることこそ、我々に求められる良識なのでしょう。
ましてや、好奇心という軽いノリで見るなんてもってのほか。そんな卑しい人間にはなりたくないものです。
十字軍の旗の下、日本の若者が処刑された。このこととどう向き合うのかを我々は考えなければなりません。(たまたま香田さんの家がキリスト教ってのは、なんとも皮肉なことではありますが)
どうやら、ケリーが敗北宣言をしたそうですね。中絶反対が支持されたことによって、他国で血が流れる。こんな悲劇はありません。
そうですね。
被害者の尊厳を守ると言うのは無視できない利益です。
ただ、戦争による被害者など人災の場合にはそれによって事件の生の温度というものを隠蔽してしまう弊害もあります。
その意味で天災たる新潟中越地震の救出作業とは異なります。
特に「テロには屈しない」と公言した人物には見る義務があると言えるでしょう。
生の温度を感じた上で、本当に自分の行動が「最善」であったといえるのか確認するべきです。(見ても「最善」っていっちゃうんだろうな)
見ても「ざまぁみろ」などと笑っていられる人物は2chあたりに引きこもるのがお似合いです。
もっとも、今回の殺害映像はテロリストの声明という側面があります。
見ないことが我々にとっての「テロとの戦い」と言えなくも無い。
その意味で「人災の場合」の中でも特殊な存在と言えると思います。
そこで見ることによる利益と見ないことによる利益をはかりにかけると私の場合見ないことの利益が上まるのです。理由はさておきテロリストと結論において意見が共通する以上「最善」とは全然思ってませんし。
しかし少なくとも首相には映像の前で手でも合わせていただきたい。葬儀参列は遺族の負担でしょうから。(手を合わせてテロとの戦いへの決意を固められても困りますが。)
下卑た好奇心に屈しない「良識」は極めて重要ですが、これ以上被害者を生み出さないためには、社会が事件の生の温度を自主規制というシートで見失わないことが必要だとも思うのです。
今回のアメリカ選挙、もし一人一人が投票するその瞬間に戦争の現実(ほとばしる血液、皮膚を割って出る臓器や脳髄、悲鳴など)を認識していたら結論は変わったかもしれないと思うと悔やまれてなりません。
私は知人から何の説明もなく画像を送られ、以前TVで流れた映像のオリジナル画像かと思って見ていところ悲惨な画像を見る羽目に成って仕舞いました。暫くその知人と話す気が無くなりました。
人は色々な感情を持って生きています。その感情は色々な刺激で覚醒され、人格に影響を及ぼして行きます。良い感情に封じ込められて姿をけすべき悪い感情も、いたずらに刺激を受けて覚醒すれば、良い感情を打ち負かす力を得てしまうかも知れません。
私たちの殆どは殺人者には成りませんし、戦争に関わらない限り、人の殺害される場面に居合わせることは有りません。そんな場面は見ないに越した事は無いのです。それをバーチャルな世界で、自らに危機を感じることなく、被害者の苦痛も身近に感じる事もなく、人の殺害される場面を見ると言う事は、良心の育っていない精神にどんな後遺症を残すか予想が付きません。
どうか、インターネット上の情報を良心でコントロールして下さい。悪意を育てる情報は、皆さんが排除して下さい。香田さんが望んでいた事を今は知る事が出来ませんが、彼は彼の意志で死の危険を選んだ事は間違いなさそうです。しかし、彼の死がおぞましい感情を駆り立てる引き金にでも成れば、彼はどんなに悲しむ事でしょう。
どうか、映像を見る見ないなどという次元ではなく、幼い心を傷つけない為に、そのような物が出回らないように心を砕いて下さい。宜しくお願いします。
本件映像により幼い心が傷つくのは避けねばなりませんね。
また、見たくも無い映像を見る羽目となったShigezyさんには同情します。
が、本当に排除すべきなんでしょうか。
彼の無謀さを論じる気はありませんが、それを除けば彼の死亡の原因は戦争でありその戦争を引き起こした者の片棒を担いでいるのは我々日本人です。
もしかしたら我々には涙しながらも見る義務があるかも知れませんよ。
日本の意思決定をする我々が、現実を知らないままと言うのは危険です。
それこそバーチャルな世界での意思決定により現実の世界で10万人が死ぬなんてことになりかねない。
バーチャルな世界での意思決定権者はその情報自体は知っていても「それはやむを得ないこと」などと簡単に言ってみたり、中絶や同性愛者の婚姻など他の問題と同列に扱ってしまったり。
現実を知らないからではないでしょうか。
ただ、本件映像の場合他の対立利益(11-4の私のコメ参照)があるので一概には「排除すべきではない」とも言い切れないのですが。
少なくともこの問題が社会が現実を知ると言う公的な利益と被害者の尊厳と遺族の感情と言う私的な利益の衝突の場面であって、どちらも極めて重要な利益であることをわかっていただきたい。
青少年の健全な発育と言う要請も大切ではありますがそれはそれで個別に対処すべき問題であって「排除」すべき理由とはなりえないと思うのです。
さて、公権力である「法務省は4日、イラクで人質となり殺害された香田証生さんの遺体の写真が、インターネットの掲示板に掲載されたため、東京法務局を通じて掲示板の管理者に削除を求めた。」(時事通信)らしいです。
皆さんはどう思われますか?
マスコミの自主規制と同列に扱ってよい問題なのでしょうか。
ややアプローチを変えてみましょうか…
ある人はこう言うかもしれない…このビデオはいかにテロリストが残虐かを物語っており、「テロとの戦い」の重要性を教えてくれる。ぜひ見るべきだ…と。
「公的な利益」をどのように見出すかは各人違うだろう。「見るべき」には、推薦者のイデオロギーが色濃く含まれている。
動画を見ても山本さんの思惑どおりになるとは限らない。映像を見た人は、イラクで死んだ10万人の死に想像力を働かせるどころか(そんな離れ業が可能なのは、もともとリベラルな人だろう…だって、それもまた香田さんの死からはなれた「バーチャルな世界」だもの)、むしろ、そのインパクトの強烈さゆえに、「イスラムの残虐性」に憤り、偏見を助長させるリスクの方が大きい。あるいは、「日本人が殺された」ことによって、愛国心が強められる作用も持っているかもしれない。
こんなことを書いていると、つくづく香田さんに同情する。なぜなら、ここで問題にしたのは、香田さんの斬首映像はどちらの「プロパガンダ教材」になりうるか、である。どちらに転ぼうとも、香田さんの首は、政治的に利用される運命にある。
なるほど。
ちょっと「離れ業」に過ぎたかもしれませんね。
でも私の言う「公的な利益」は「現実を知る」ことであって、そこに「「テロとの戦い」の重要性」を見出すかどうかはご指摘のように各人違うわけです。
まあ現実を知ることを公益とすることがイデオロギーによって変わらないことが前提ですが。
リスクは認めますが宮藤さんはリスクゆえに情報(データでなく)を制限すべきと?
あと「教材」と言う言葉はちょっとキツイですが「情報」を制限するか否かの基準は死者の尊厳と言うことでしょうか?
いや、私は今回の映像以外でも残虐性だけで自主規制されている気がして(またはそれが正当とされている気がして)そこに「弊害」を指摘したかっただけで、今回の映像の自主規制に限っては結論は同じなんですけどね。
私も見てませんし。
法務省の件は別ですが。
>どちらに転ぼうとも、香田さんの首は、政治的に利用される運命にある。
そう思います。
政治的に利用しないことも政治的ですしね。
実際に映像を見ることだけが「現実を知る」手段ではないはずです。
スーフリの蛮行を示す映像がここにあったと仮定しましょう。我々は映像を見なくとも、何がなされたかを想像する能力を有しています。
また、世の中には知らなくてもよい情報もあります。今回の事件で言えば、どういった武器でどれくらいの角度で首を切り取られたかなどは知らなくてもよい情報です。あるいは、一般的な例を出すならば、犯罪の被害者や未成年犯罪者の実名は知る必要のない情報です。
>リスクゆえに情報(データでなく)を制限すべきと?
「リスク」というのは、あくまでも山本さんに提起しただけです。私はプロパガンダの質に関係なく、「公的な利益」(=現実を知る)は得られないと判断しました。
したがって、法務省人権擁護局が香田さんの人権を守るために削除要請をしたのならば、それを非難する理由は見当たりません。少年犯罪の加害者の実名を削除要請する法務省に対し、私は文句を言ってきませんでしたから。
もちろん、いくら法務省が取り締まっても、殺害動画をこの世から抹消することは技術的に不可能でしょうけども。
実際に映像を見ることだけが「現実を知る」手段ではないのは確かにそうです。
ただ、私は「映像を見なくとも、何がなされたかを想像する能力」については懐疑的です。(対象となっている事件、与えられたデータの量にもよりますが)
本当にそんな能力が信用に値するならニュース番組は活字を流せばよいことになります。(極論です。失礼。)
今回の事件に関してはその懐疑的であるべき能力であっても、実際に見て有益な情報は得られないと思うに過ぎません。(私の判断にはプロパガンダの質が関係あります。)
しかし有益な情報か否かの判断は(その基準が私と宮藤さんで違うように)個々人で違うだろうし個々人に任せられるべきです。
マスコミが自主規制するのは勝手ですが法務省が判断すべきではありません。
法務省の言い分は「興味本位で遺族の感情を傷つけ、人権侵害にあたる」ですが、それならば遺族の申し出を待つこともできたのではないかとも思うのです。擁護すべき客体は未成年ではないですから。
山本さんが「からむ人」だったことを思い出しつつ、私も反論するのが馬鹿馬鹿しくなるような極論で煙にまいてみましょうかね…
死体の映像が出てきても、個々人が有益な情報か否かの判断をすべきでしょう。
ジュネーブ条約無視の映像が出てきたとしても、個々人が有益な情報か否かの判断をすべきでしょう。
少年加害者の実名・顔写真が出ていても、個々人が有益な情報か否かの判断をすべきでしょう。
女性がレイプされている映像が出てきても、個々人が有益な情報か否かの判断をすべきでしょう。
私が山本さんの個人情報や中傷を流しても、個々人が有益な情報か否かの判断をすべきでしょう。
遺族の申し出を待ちますか…いかに息子さんが残虐に首を切られるかを確認した後、「自己責任」論の嵐の中を通りぬけ、助けを求める勇気があるのならば、行政が対応をとってやるってわけですね。で、うるさい人権屋に「対応が遅い」って批判されたら、誰が苦情処理係になってくれますか?
現状を見る限り、からむのは宮藤さんも同じ。
人様のBlogで議論をふっかけた私も悪いですが。
(おい山本、掲示板と違うぞっていうことですか?)
私も自分のHPやBlogを持とうかと思ってはいます。
ただまだ時間がかかりそうなので、もう少し寄生させて下さいな。
あと、あんまり怒んないで下さい。おっかないから。
人権と言う言葉が出ましたがまさにこの問題は人権同士のぶつかり合いなんですよ。
個々人が有益だと判断した情報(知る権利や表現の自由)でも他者の人権(プライバシー権等)との関係で制約される場合がある。
そこで問題となるのはその判断基準とその背後にある価値判断(どれだけ表現が大切かとか)で私が議論したかったのはまさにそこです。
…ってもう誰も聞いてないか。
私は、遠いところから、少しだけ意見を。
邦人青年の殺害映像は殺害した者らによって撮られたモノであるだろう(実は、それさえも100%信じられない私がいる)。その映像を流布するのは、その行為(殺害)に一つの意味が込められているからであり、それは「日本軍の撤退」でありイラクに関与することへの「警告・威嚇」であると一般的には受け取られるものと想像する。
しかしそう考えると、結果としての「殺害」が、私の腑にすんなりと落ちてこない。
まず「48時間」という執行猶予規定は実質的に考えると妙である。よほど犯人はせっかちか切迫していたか。
本家ポチがヒューマンな価値の持ち主で「救命」を優先していたら。できることは例えば「あっー、ちょっと待ってくれ、撤退の方向で今から善処するから」と声明を出し、猶予の延長が図れたかもしれない? 理屈の上でだが。しかし時間は要する。
「48時間」とは考えることや何かを画策する時間を与えない時間(まして愚政府には)であり、「猶予の時間を与えた」という形式のための部品ではなかったか。
また「本家ポチは人命を尊重する対応はしない」と想像しないような者らを犯人像に重ねるのは間違いだろう。決して彼らは木偶ではない。事実、本家ポチは「人命」ではなく「友好関係」を選択した。
となると、犯行を性格づける「日本軍の撤退」そのものが擬装であり、元々、殺害をすることを前提にしていたのではないかという疑念が私の中で膨らむ。
本当に「日本軍撤退」が目的であるならば、人質は長く抱えた方が効果的ではないか。「発見される」というリスクがあるものの、人質を辱め、いたぶる映像を流し続けた方が「効果的」であり「効率的」ではないか。殺害すれば、また新たに人質を取ってくるリスクや手間もある。
ますます私の中で「殺害こそが目的だった」という感が強くなる。
そして青年は、人間としての尊厳を辱められ、いたぶられ、殺され、残ったのは「殺害映像」である。犯人らは、それこそが欲しかったのかもしれない。そしてそれを流布することが、一連の犯行の経過的目的(→最終目的は何か?)だったのではないか。
力の誇示と併せてショッキングな結末を広範に流す犯人の側は、より多くの世界の人にそれを見て欲しいと考えた。だからこそ映像に残しメディアに載せた。
どうであろうと殺害映像を見ることは、(是非ではなく)そうした犯人の狙いに応えることになる。映像は、犯人らの思惑や意図、それはブロパというものかもしれないが、そうしたことが見やすい一つのモノとなったものではなかろうか。
最終目的やら、映像を見る利益と見ない不利益、というところまで行きたかったが、長すぎるのでここで一度、ピリオドを打ちます。機会があればまた。
とても宮藤氏、山本氏の真剣な意見交換には遠く及ばない。
なお一文中、邦人青年のことに関し、いささか大胆な言葉があることを承知しております。ご不快を覚えた方にはお詫びします。青年の命を辱める気持ちはまったくありません。偏に私の表現能力の問題です。
>どうであろうと殺害映像を見ることは、(是非ではなく)そうした犯人の狙いに応えることになる。
異議なし。です。
彼らの目的を論ずることに実益があるのかは別にして。
もし、見ないことが我々なりの「テロとの戦い」と言えるなら、政治的に利用しないことも政治的である以上ハナから勝ち目の無い戦いなのかも知れません。
重いテーマで書くことがためらわれた。
しかし...自分も興味本位におぞましい映像を受け入れる要素がある。
突き付けられているのは大義の殺人なのか。
庶民は、大義とはおおよそ無縁だ。
今、仮想(ヴァーチャル)と等価の死が氾濫しすぎて、個別の死と重ならない。
唯一、家族の死こそ現実だ。
それがなければ、案外簡単に自分の死も仮想化するだろうな。
私は香田さんがイラクへ行ってしまった、殺されても自業自得だとやはり私も思っていました。
でも殺されたあと、私は偶然にも香田さんの殺害映像を見てしまいました。何故か香田さんのことが気になり、インターネットで香田さんのことを調べていたのです。最後の声明文を読み上げる映像を探し求めてる時に、私はそれが殺害映像とは知らずに見てしまい、首にナイフが入れられたところで見ることが出来ず消してしまいました。
同じ人間なのに・・・。同じ痛みがわかるはずなのに・・・。そう思えてならないのです。彼らは人間ではないとさえ思えます。
ただ、ただその映像を見た後は怒り、悲しみ悔しさがこみ上げてきました。
人を殺害する現場など見る機会なんてありません。見る必要もないでしょう。
ですが、私は香田さんが殺されてしまったことを当然だとか思ってる人がこの映像を見たらそれでも「当然、しかたがない」なんて思わないと思う。
人の死を、簡単に思ってる人間がこの日本にも多くいるのではないだろうか。
とてもとても大切な命をわかっていないのは今、子どもたちに命の大切さを教えなければならない大人たちなのかも知れません。
私は香田さんがイラクへ行った理由が今ならわかるような気がします。
本当は生きて帰って来て欲しかった。
そして香田さんに出会いたかった。
私も香田さんと同じキリスト教です。
神様は香田さんの死を悲しんでるはずです。
泣いているはずです。
香田さんの死は世界を平和へと導いてくれるものと信じています。
世界中の人々が一つになれる日が来ると願っています。私に出来ることは私なりにやっていこうと思っています。
世界が一つになるまで・・・・。
どこに書こうと考えたが、ちょっと考えがあり、こちらにしました。読まれる方の面倒と不幸をお詫びします。
『エビジョンイル』の項目に関連して
Japanのメディアで「御用」を掲げたのは明治期の新聞が初めてだったかと思います。それ以前の瓦版にあったもしれないが。
当時、政府のお達しやらを臣民に幅広く伝える道具は他になく、だから、むしろ「御用新聞」は必要なものだった。後々、大正期などには首相が替わると「我が社こそ御用新聞」と、メディアの側から名乗りをあげたことも。一時、反政府的新聞だった例えば「万朝報(よろずちょうほう)」が「御用新聞」になったこともあった。当時の「御用」と今の「御用」とは内容的に違っている。
今ではメディアがたんとあり、随分様変わりした。第一、政府のお達しを伝えるだけでは商売として成り立たなくなっている。そしてメディアはマスコミになった。商売に必要なのは商品を売り得る利益であり、その点で、現在のマスコミは本家ポチと同様に「大衆迎合」的になったと私は捉えています。言い換えれば「利益優先」である。引き換えに霞んだのが「無冠の帝王」という意識ではなかろうか。
本Blogでも旧サイトの10月15日、宮藤さんが「新聞週間」の記事を掲げているが、その中で新聞はとくとくと、我が方の有利を語ってやまない。
しかし、例えば本日(11月09日、TBS)のラジオで、中東研究会の大野氏がイラクから自衛隊が撤退する時期という視点で話をしていた際、結局、「自衛隊が現地で実際何をやっているのか、どのように現地の人たちに思われているのか、本当のところは判らない」と、パーソナリティーの荒川強啓が言っていた。伝えていない主体はこの場合、新聞のみならずテレビやラジオという他のメディアを含めてマスコミ総体を対象と考えるのが妥当だと思う。新聞だけが除外される理由はどこにもない。そして指摘は、その通りだと思う。
暫定政権とアメリカの力関係はどうなっているか、テロリストとは何か、ファルージャとは何か、ラマダンとは何か、部族国家とは何か、などなど判っているのかと自問するが、答えられない自分がいる。
私たちが知り得ているように思っているイラクの情勢は、限りなく「実情」ではないもののように思える。悉く方手落ちであり、一方的で、断片的なマスコミの垂れ流す「情報モドキ」が溢れているばかりだ。
故・橋田信介氏は日本軍の給水活動のいかに非効率かを伝えたが、どうしてそのようなことをマスコミはそれまで伝えなかったのか、伝えられなかったのか、「無冠の帝王」の「む」の字でも残っているのなら、マスコミは答えるべき責務があるのではないか。
旧Blogで、命を奪われた邦人青年の話題が続いたが、何か違和感を覚えたのは、その前提となる「情報」を信じていない私がいることだった。私はきっとイラクのことを判ってないだろうと自嘲する。
若いと思われる熱心な「論客」たちの意見が、異様なほど内向するのは、もしやすると「判ったように思わされている」ことで、事象を立体的に捉えられていなのじゃないかとさえ、穿ってしまう。
命を落とした青年の内心など、どこに書いてあったか、勝手に想像するな! 彼は英雄ではないし、無知識、無定見でもない、ただ一人の青年だ! 勝手に自分の想像で青年像を作ることは、許されないと一人ごち、多くの意見は容易に腑に落ちない。
表面だけを触るような「情報モドキ」を鵜呑みするのは個々の勝手だが、だからこそ、それはどこまでいっても、個々の見方やら感想以外の何者でもない。「本当」ではない。
そうした「モドキ」を垂れ流すメディアの中で「吾こそは公共放送」と言い張ってきたのが、エビジョンイルの統率する協会だ。協会の特に「ニュース」に関する姿勢には、かねがね強い疑念を抱いていた。
確かにオチャラ気と、学芸会レベルの創作モノしかない民放も、自分の歳ともなればどうかと思うが、しかし、しかめっ面ばかりの番組を並べることが「上等」だと微塵も思わない。
悪質なのは「上等」やら「良質」などを装い「モドキ」を流すことであり、その最たる存在が「日本放送協会」だ。
どなたかは視たことがあるでしょうが、「協会」は各県で視聴者の意見を聞く「儀式」を行っている。そしてそのことを番組で伝えるが、そのわざとらしさは、本家のカネジョンイルのそれにも匹敵する。そして締め括りは「今後の番組制作に活かしていく」だ。
意見を聞く対象をどのように選んでいるのかさえ私には疑わしい。決して本質的な事に触れない、悪口も言わない「良識」と「常識」の持ち主に聞いたところで、救われるのはエビジョンイルとその取り巻き君たちだけだ。
kuroさんの指摘と期を一にして、いろいろ前後事情やら個別の要素があるが、私も払わず、序でに一カ月分を払い戻させた。それしかできない私は「チォー小物」だと思いつつ。
追記
宮藤さん、長くてごめんなさい!
もし、誰一人として無駄に生まれてきたのではないなら、殺されて無意味だと指摘され人、殺されてお前が悪いと罵倒された人、あんたに言いたいことがある。少なくとも、自分もあんたの家族同様悲しくて仕方ない。あんたの家族以上じゃないがまだ苦しくて眠れない。
理不尽じゃないか。
いいとか悪いとかそんなことじゃない。
他人とは思っていないんだ。
思えないんだ。
ここに住み着いた小物(自分のことだから誤解のないように)は感傷的過ぎるかァ?
はじめまして。お礼を言いたくてアカウントとりました。
検索ワード「香田証生」…斬首画像を見るためです。勿論興味本位です。「殺害映像」との文字を見て、こちらのリンクをクリック。
ありがとう。よかった、ここに辿り着いて。私はヒトでなくなってしまうところでした。
香田さんの「死」の現場を(ひどく間接的ではあっても)目の当たりにすることは、必ずそこから何かを感じ取り、これから何を考え、どう行動していくかを決定せよ、そう強制される程の衝撃を覚悟せねばならない行為に思えました。また逆に、体に響いてこない「戦争」を見ることが、私のこれからの生き方に影響を与えるとは思えないという考えも浮かびました。どちらにしても、もう見る気は失せました。
私はネット初心者なんですが…試されますね、人間性を。こういう事例でようやく実感できました。私はいつヒトナラザルモノに堕ちてもおかしくない人間だということ、そしてこのネット世界を飛び交う言葉は、無数のヒトナラザルモノノユビが打ち出したものだということが、少しだけ判った気がします。
もし、僕たちの思ってる神様がいたら、細木カズコのまじめな占いもレイプされた女の子の遺体も、香田さんも、それについて話し合う僕たちもとてつもなくちっぽけだなと思ってるのかもしれません。僕の視点から見たミジンコの事件に過ぎないと思います。ただ僕は、泣き喚いて悲しんで、心の中が切羽詰っているということが地球の中にいる動物として自然だと思いました。ジョンレノンは叫びを歌に込め、ボブディランは悲しみを歌に込め、PPMは愁いを歌に残していきました。僕たちが子供の頃に両親に囲まれ眺めていた花はどこへいったのでしょうか?僕は今、すごく悲しいです。
今日は納豆を400回かき混ぜて寝ます。
suketoshiさんと似ているかもしれない。私は、香田さんの映像を見ることにより、悪の心が興味本位で見たかったのか、善の心で現実を受け止めたかったのかは、未だにわかりません。でも、世の中が映像を見ることによって、ほんとに、どれだけの残虐なことが世の中で起こっているのかを知り、こんな世の中ではいけないと思い、自分に自制心というものを抱くのか。もしくは、その残虐さをおもしろく思うのはかは、人それぞれではあると思います。ただ、人は残酷だというけれど、そういう大人にするのも、大人の責任や環境であるとも思います。誰も、子供の頃から人を殺そうなんて思ってはいません。日本人として、また香田さんの周りの人は香田さんを殺されたのは、憤慨と悲しみでいっぱいでしょう。でも、イラクの人も家族を失って泣いていることを忘れてはいけないと思うのです。憎しみを憎しみで返すから、戦争は終わらないのです。より、残虐さを増すのです。私は、戦うというのは、相手を憎むことや痛めつけることではなくて、その相手を許せるように、自己と戦うということではないのかと思います。キレイ事だとは思います。私だって、家族が殺されたら相手を心底憎むし、復讐も考えるでしょう。けれど、私がもし殺されたら、その憎しみに染まった家族をうれしくは思いません。そして、神様は誰も人を殺すようになんて、言わないと思います。世の中が平和であるために、自分や周りを愛し、希望になるための存在のはずです。どの神様が偉いなんて神様同士は比べるほど器の小さな方たちではないんでしょうか。また、その解釈を間違え、人を憎んだり、殺人を行ったりしていたら、一番悲しむのは、崇拝しているはずの神様ではないのでしょうか。 本気で、戦争とは何なのかを考える機会なのでしょう。暴力だけで事が解決するのはおかしいというのはわかるでしょう。一人日常で人を殺せば殺人犯と言い、罪が問われるのに、なぜ戦争になると相手の群を何十人と殺したら誉められるのですか?みんなその矛盾に気づきながらも見過ごしている気がします。敵や味方としてみるのではなく、同じ家族としてみれば、殺した家族、殺された家族はどちらの国にも存在して、大きな悲しみに追われていることを忘れてはいけないと思います。
長くなりましが、全世界が平和になるのは一番ですが、責めて、これ以上歴史上名前が付くような大きな戦争が起こりませんように・・・・
はじめまして。友人にきき、参りました。
最近、香田さんの情報がメディアで流れません。それこそ「利益」を追求するマスメディアだからこそでしょう。では、「利益」を生み出すためには?もちろん視聴者である私たちが求める情報を、他局よりいち早く提示し、視聴率をとることが「利益」につながるのだと思います。それなら、マスメディアだけが悪いのではなく、新しい情報を求める私たちも悪いのでしょうか。1日で、どれだけ世界では新しく、私たちの知らないことが起こっているでしょう。マスメディアだって、例えばテレビなら放送時間。雑誌、新聞なら枚数に縛られながら、視聴者及び読者の今、欲しいと思われる情報を提示しています。報道規制というものもありますし、一概にマスメディアだけが悪いとも言い切れません。しかし、それによりどこかで起きている「現実」が、バーチャルのように視聴者に受け取られているようでは「報道」の本質的な意味がありません。バーチャルはそのとき影響を与えるだけで、時間がたてば薄れていってしまうものです。では、「香田さんの死」は、そうして忘れ去られていくだけのものでいいのでしょうか。まだ覚えていて、それについて考えている人はごく少数だと思います。では、忘れないためには何をするべきか。議論を交えれば自分の考えも深まるし、他人の意見も聞けるし一石二鳥です。それがだめなら一日のうち少しでいいので香田さんだけではなく、自分の周り以外のものに目を向けて考える時間をとるのもいいでしょう。日本人は平和ぼけしていると言われますが、何がいけない!平和に越したことはないでしょう。戦争が好きな人など限られた人に決まっています。今の小泉総理もポチと言われていますが、国連の常任理事国入りを目指したからの行動であって、あの人なりの考えがあるのでしょう。確かに、悪いところも多々あるように思えますが、すべてを否定するのは悲しいと思います。何も信じずに得られるものはないと思います。信じられなくても、信じる努力をする。しかし、ただ考えずに信じ込むのではなく、悪いところもよいところも、理解してから信じる。これが大切だと思います。考えが甘いかもしれませんが、これが私の生きてきた中での信条です。しかし、政治家に「善」を求めようとするから悪いのかもしれません。政治家にはいい人などいないと思えば案外割り切って信じられるものですよ。
まだ私の中で考えがまとまってないのがよくわかる文章です。はい。確かにまとまっておりません。文中に信じるという言葉がたくさん出ているのに、私自身信じるべき存在を判断できないからです。小泉総理も、ブッシュ大統領も、私はマスメディアを通してしか知りません。マスメディアが信じ切れないのにどうしてそこに流れる人を判断できましょうか。マスメディアに踊らされるのは癪ですからね。だから国の代表はもっと国民とコミュニケーションをとるべきだと思います。国民のためとかいいつつ国民と会わないなんておかしいですよね。他人を信じるなんて難しい。なおさらマスメディア上にしか現れない人を信じるなんて無理と思われるかもしれませんが、国民が国の代表を信じないなんて・・・そんな状態が続いたら、いつか国が滅びるかもしれません。いくらだまされても信じようとがんばる。これが国民に課せられた義務だと思います。
ゆうなさんへ
ご存知でしたらご容赦下さい。この奇特なBlogの10/28に、邦人青年のエントリがあります。私の知っている範囲では、前後にスパ抜けてコメントが多かったと記憶します。奇しくも、昨日12/28のエントリが、またまた邦人青年の話題になりました。
と書いている私は、えらそうな書きようをしてますが、単なる「一閲覧者」に過ぎませんので悪しからず。
やや粗忽な書き方をしますが悪意はありませんので、この点も悪しからずご容赦下さい。
判らない点があるので、よければ意見をお聞かせて下さい。
次の箇所を読んでいると、何だか矛盾を感じてしまうのです。もう少し説明をお願いします。
「小泉総理も/常任理事国入りを目指した行動であって、あの人なりの考えがあるのでしょう。/悪いところも多々あるように思えますが、/否定するのは悲しいと思います」
「信じられなくても、信じる努力をする。/悪いところもよいところも、理解してから信じる」
「政治家に『善』を求めようとするから悪い/政治家にはいい人などいないと思えば案外割り切って信じられるものです」
「国民が国の代表を信じないなんて…そんな状態が続いたら、/国が滅びる/いくらださまされても信じようとがんばる。これが国民/(の)義務」
ご自分でも書かれているのですが、「信じる」がかなり重要なキーワードになっているように読みました。決して「善」ではないと認める政治家を「理解して」「信じる」のが「国民の義務」というのは、随分悲しく哀れな国民のように思いますが、如何ですか? そして、政治とは「信じる」という対象なのでしょうか?
「その程度の約束を反故にしたのはたいしたことではない」とか、「自衛隊のいる所が非戦闘地域だ」、「その時が来たらその時に判断する」などを「信じる」ということは、いったいどのような意味になるのでしょうか?
で、考えたのですが、もしやすると、この場合に使われている「信じる」は、私の想定している「信じる」と違う意味なのかもしれなということでした。それで、もう少し説明をお願いしたいと考えた次第です。
私はネームにあるように、現首相を「ポチ」と揶揄する者で、そうした点では非国民である可能性が多々あります。
議論を振り出しに戻すようなコメントであることをお許しください。懺悔したくなるような衝動(私は無宗教ですが)を抑えられずコメントさせていただきます。
私は本日、香田さんの斬首映像を興味本位で見ました。あまりにも生々しく残酷な映像を最後まで見ることはできませんでした。映像を止めてからは言葉にならない程の衝撃、憤り、罪悪感が代わる代わる押し寄せ、暫くその場から動けなくなりました。
この事件に関しては新聞、テレビでの報道、世間の噂話のレベルでしか知りませんでした。当時の報道から伝わる論調では”無謀な青年像”が先行し私自身の捉え方も同様でした。そして恥ずかしながらそれ以上のことを考えたことはありません。
今回映像を見た後に本BLOGを拝見して生命の尊厳、政治的背景など自身の社会的見識の欠如を痛感しています。と同時に彼を中傷する掲示板や無関心であった私自身に憤りを感じます。映像を見たものの最低限の責任として実生活の中で平和を願う気持ちをいつかアクションに反映させなければ。そう強く考えるようになったという意味では映像を見ることを完全に否定することはできません。しかしながら香田さんとご遺族に対するこのうえない罪悪感と自己嫌悪をこれから日々持ち続けるであろう事も事実です。
技術的な問題も絡むのでしょうが、どのような形にしろ、私もこの映像が子供の目に触れないことを願います。
香田証生さんのご冥福をお祈りします。
kinさんへ
議論というか意見というか、こうした件は、いつでも生皮を剥がすような感覚であって当然だと私は考えていますので、原初に戻ることを無意味だとは考えません。邦人青年のことを忘却というところに押しやらないためには、時として発端に戻ることは必要なのではないかとも考えます。
でも私は、私が知る範囲「迂闊にも見てしまった」というのがどうした具合で生じるものなのか、想像できないのです。果たしてそうだろうかという疑問を含めてです。
もっとも、本Blogでも指摘されていることですが、「見ることの利益」と「見ないことの利益」という問題もあることを意識しつつ、きっとこうなると「見ることの利益」「見ることの不利益」と「見ないことの利益」「見ないことの不利益」というぐらいまで拡大することが必要なのかとも想像します。
そして、映像を見ていない私の感じる「邦人青年の遺族」と、映像を見たkinさんの感じている「邦人青年の遺族」の間にどの程度の違いがあるのだろうかと考えてしまいます。その差はあるのかないのか、差が存在するのならばどうした内容かと、思いが至るのです。
私の作文が上手くないのです。Kinさんの行動を主題にしているのではなく、そうした行動の意味を見定めされない私の程度の発露にすぎません。ご了承下さい。
私は興味本意で殺害映像の方を見てしまったわけですが、このみなさんのレスを見て自分なりに考えればそういう気持ちもわかなかったはず。一つ一つの行動をもう少し考えさせられる出来事だった。
しかし、私がこの映像を見なければでてこなかったという気持ちも出てくる。
私も、見る前は香田さんの自己責任だと思っていた。それに対応しない政府も政府だと思っていたが。
香田さんの死によってみんなが感じたこと。それが香田さんの死の意味ではないか。それぞれ、人間の考え方は違う。だが、考え方はいろんな出来事、人と出会うことで変わるものだ。
ここにレスしている人たちは真剣に考えている。みんなが求めること、それはほとんどが世界平和だと思う。
世界が平和になるのまでにはまだまだこれからいくつもの犠牲を要するとは思う。しかし、見て考えるだけでなく、私が動かなければいけないと改めて思った。世の中には飯も食えずに死んでいく人だってたくさんいる。その者達の方が、よっぽど苦しんだだけかもしれない。
死ぬことで感情を露にする、その事自体日本が裕福だということである。
私にはこれから社会に貢献する必要があると改めて思った。
私にしかできないこと、その為にこの世に生まれてきたのかもしれない。私が、貢献せずに死んでいくものもいるだろう。みんなが、動かず、関心を持たず、何もできずに死んでいくものもいるだろう。私は、人間としてそれを黙ってみているわけにはいかない。
ある記事から彷徨ってここにやってきたわけですが、本当に来てよかったと思います。そうしなければ私も考えなしに幸田さんとその遺族・関係者方の尊厳を傷付けるところでした。本当に、ありがとうございました。
ここに来ていらっしゃる方々はご存知だと思いますが、幸田さんの最期の映像を観衆の目の前で流したという記事がありました。信じられませんでした。何故その様なことが出来るのかと憤りました。人じゃないとまで思いました。しかし、そのようなことがきっかけとして幸田さんのことを考え直した自分がいるのも否定できません。ネットという仮想空間が恐ろしくなりました。
実物を見たわけではないので嘘になってしまうかもしれませんが、私にはこのブログの最初に書いてあるものだけで十分です。いい意味でも悪い意味でも氾濫している情報によってある程度は想像できてしまうのです。読むだけで吐気を覚えました。最初にも書きましたが、本当に、見なくてよかったと思いました。
議題にもなっている通り、映像を見るべきか見ざるべきか、そのことについての見解はまだもてません。確かに見て違った意見を持つこともあるでしょうが、そこから何も感じ取れなければ意味がありません。心無い人々によって無理矢理にその映像を見せ付けられた方も大勢いると思います。その心無い人々が幸田さんの死を何とも思っていない、もしくは面白がっているのでは、映像は何の意味ももたないどころか悪影響を及ぼすだけです。良識を持てばそう思うはずはないと思うのです。
映像を見る見ないの問題ではないのかもしれせん。前述してある通り、人が人であるならば、正しいことを考えることができるはずです。それを忘れてしまったら、人ではなく獣と同類になってしまうと思います。幸田さんの死をどのように受け取って、そしてそれをどのように生かしていくのか、それが大事だと思うのです。
文章がまとまっていなくてすみません。それと、読む方が不愉快になる表現があるかとも存じます。それでもコメントせずにはいられませんでした。今日ここに辿り着いたこと、そしてこれからどう考えていくのか、ずっと忘れないでいたいと思います。
幸田さんのご冥福を心より祈りつつ。