アイドルのエッチと、ラーメンのうま味

「うちは味の素なんか使ってへんで。うちはな、ハイミーや」

 と、自慢げに話したラーメン屋のオヤジがいたとか。
 ハイミーは味の素の2倍以上するので、「高級品を使っている」という素朴な自慢なわけだ。

 化学調味料の有害性云々の問題については私はあえて踏み込もうと思わないし、自分が自分で家で食べる分には使うことに抵抗はない。
 ラーメン屋でも、使われて気持ちのいいものではないが、たいていの場合は使用していてもわからない(世の中にはすぐわかる人もいて、凄いと思う)し、最終的にうまくなるのなら許容してもいいと思っている。
 ただ、それは客の立場からの話であって、作る側にそれを言われるのはイヤだと思う。その分の手間をかけないと宣言しているようなものだから、他の部分でもそういう姿勢でやってるんじゃないかと思ってしまう。だからあえて「化学調味料不使用」と謳っているところはがんばってほしいと思う。

 で、普通は冒頭のような無邪気な店主はそれほどおらず、たいていは化学調味料の使用は隠す、客も疑問を持ちながらもあえては問わないというのが、ラーメン屋と客との不文律になっている。

 安い店やチェーン店なら「ああ、そりゃ使ってるでしょ」と織り込み済みで行くわけだし、そうでなくても調理台の上にある白い粉の入った入れ物を見かけたら、「ああ」と思いつつ、声を呑み込む。そんなもの。大人だもん。

 アイドルだってエッチはしてるだろうけど、あえて「やってます」とか、「あなたはやってますか?」と聞く人はいないでしょ、という感じかな。やってそうだと思っていても、1%の可能性を残してそこにはあえて触れないというか。違うか。違いそうだがわかってくれ。

 繰り返して恐縮だが、私は店側が化学調味料を使ってもいいじゃん、と言うのはイヤだ。それは「有害性」云々だからではなく、味にかける手間を省きますと宣言しているようなもので、その姿勢はそれ以外の別の部分にも出てくると思うから。
 少なくとも露わにしない、というのがたしなみではないのかと。

 で、私は今回、あるスジから(^O^)なかなかショッキングな資料を入手した。

 「味の素」「ハイミー」でおなじみの味の素KKが制作した、対象をラーメン屋に絞った業務用商品の販促小冊子。

 おそらく全国のラーメン屋にDMで送っていると思われるので、かなりの量が出回っているはず。ググってみると、全国には38000軒くらいのラーメン屋があるそうだ。(^O^)

 この小冊子、題名は

「明日のラーメン界を担う精鋭に贈る、独立企業支援ブック
 ラーメン界のリーダーたちに聞く独立奮闘秘話
 オレの味を探せ!」

という。「ラーメン界のリーダーたち」とは、

東池袋大勝軒 山岸一雄
ちばき屋 千葉憲二
くじら軒 田村満儀
なんつッ亭 古屋一郎

の4人。

 東池袋大勝軒の山岸一雄氏といえばラーメン好きでなくとも知っている、ラーメン界の伝説的人物だ。去年の7月に東池袋大勝軒が閉店した時には報道ステーションなどでニュースとして報じられたくらいで、私も一度は食べてみたかったと思っている。

 ちばき屋の千葉憲二氏は、最近名前を知った。どうして知ったかというと、この人、今年の4月に正式発足した日本ラーメン協会会長(訂正:理事長)なのだ。この協会自体、何がやりたいのかイマイチはっきりわからないんだけども、まあとにかく、初めての全国的ラーメン屋組織のトップに君臨する男、ということになる。(^O^)

 くじら軒はなんばパークスにあったラーメンコンプレックス「浪花麺だらけ」に店を出していた。食べたこともある。あまりうまいとは思わなかったけど、有名店らしい。

 なんつッ亭は名前と店主の顔しか知らない。店主の顔は昔、テレビで見たのだと思う。

 というわけで、全部関東の店ながら、大阪の私でもそれぞれなんらかの形で知っているほどの店だ。「ラーメン界のリーダー」なのかどうかはわからないけれど、ひとかどの「成功者」であることは間違いないだろう。

 さて、その「成功者」たる彼らがここで語るのは、実にショッキングな事実であった!(大げさ (^O^) )


そこにはいつも、うま味調味料があった。

 彼らが語るのは、彼らの「うま調」の使い方。
 「うま調」とは競走馬調教師のことではなく、うま味調味料=化学調味料のこと。味の素KKの販促冊子だからして。



オレと、『うま調』
 
大勝軒山岸:
グルタミン酸、イノシン酸...『うま調』はうま味の固まりだよね。一年を通じて四季があるように、素材の状態も毎日移り変わる。大事なのは、その変化を感じて自分の味に調整していく力なんだ。その過程で味をまとめてくれるのが『うま調』。オレにとっては、ずっと親しんできた安心できる味。これ無しでは『大勝軒』の味は出せないよね。

 山岸氏にそう言われてしまうと、そうですかと言うしかないよねえ。そうですか、「これ無しでは『大勝軒』の味は出せない」ですか。......うーん。

ちばき屋千葉:
今手に入る素材は、絶対的にはうま味が足りないんだよね。だから『うま調』を使う。もちろん『うま調』に頼りすぎるのは論外だよ。味のバランスが取れたスープに、更に『うま調』で味を足してやるんだ。料理の味を引き立たせるのが『うま調』。オレの感覚では、『うま調』の入ってないうまいラーメンってのは、ちょっと考えられないんだよなぁ。

 えええええ。
 「『うま調』の入ってないうまいラーメンってのは、ちょっと考えられない」って......。まままままま(仁井原調)まじですか?
 日本ラーメン協会会長......。_| ̄|○

くじら軒田村:
 自分は『うま調』の味が好きなんですよ。だから自信持って入れてます。同じ味を自然の材料で出したら、びっくりする位のコストになってしまうしね。昆布なら、3倍は入れないとこの味は出ないですよ。『うま調』を上手に使えば、びっくりする位味の良いスープができる。もちろん使い方によるけれど、ラーメンに入れるにはとてもいいものだと思いますよ。


なんつッ亭古屋:
修業先の店で『うま調』を入れてるのを見た瞬間は、正直「あ~、やっちゃってる」って思ったね(芙)。それだけでうま味を出してるっていう思い込みがあったから。今ではとんこつラーメンに『うま調』は欠かせないと、胸を張って言ってます。素材から引き出した様々なうま味を、『うま調』がまろやかにまとめてくれる感じだね。個人的には『うま調』がある程度しっかり入った味が好きなんですよ。

 「『うま調』の味が好き」って言われちゃうと、それ以上何も言えないよなあ。

 
総論:うま調って、結局なんなんだ?
   客から見るとショッキングな画像。(^O^)

 
大勝軒山岸:
「素材の状態も厨房の状況も、全く同じ日っていうのは無いからね。スープの機嫌を見ながら最後にバランス良く『うま調』を加えれば、味をうまくまとめてくれる。決して『うま調』を入れれぱいいと思っちゃいけない。『うま調』を使いこなしてやろうっていう気持ちが大事だね。ラーメン屋は毎日が勉強の連続。満足したらそこでおしまいなんだ」

 山岸氏が言うと何でも「まあこの人が言うなら」と思ってしまいそうになるのがどうにもなあ。(^^;

ちばき屋千葉:
「結局素材も調味料も、本当にいいもんの味を知らないやつには、いい味は作り出せないのさぁ。それだけ飲んでも十分うまいスープに『うま調』を足すと、味のレベルがグッと引き上がる。このバランスが腕の見せどころさあ。スープ、麺、具材...それぞれ食べてもおいしいもんを、一つの丼に合わせたのがうちのラーメン。基本の味をきっちり作れないと、いくら『うま調』を使ってもいい味のものはできないんだよな」

 「それだけ飲んでも十分うまいスープに『うま調』を足す」必要がどこにあるのか、わからんのだよなあ。

くじら軒田村:
「うちでは、『味の素』とい『ハイミー』を50:50でブレンドして使ってるんですよ。『ハイミー』には昆布とかしいたけとか、いろんなだしの素も入ってるから。『うま調』を使えば、スープに使う昆布の量が1/3程度で済む。コスト的にも本当に助かってますよ」

 このあたりが本音だろうなあ。
 その意味ではやはり経営者の味方だわな。
 化学調味料は、「時間」。そして「時間」=「お金」なのだ。

 しかしそうか、ブレンドの割合にもこだわりがある。(^O^)
 これはこれで極めると凄いのかも。

なんつッ亭古谷:
「自信を持ってお客さんにお出しするために、自分でも色々調べたんですよ。『うま調』は、言ってみれば『アミノ系調味料』だな、と言うのがオレの結論。もちろん摂りすぎは良くないけど、それはしょうゆでも味噌でもスポーツ飲料でも同じこと。店のホームページにも『うま調』使ってます、と胸を張って書いてますよ」

 店のホームページ(http://www.nantsu.com/index.htm)では、そういう記述は見つけられなかった。探し方が悪いんだと思う。

 
 実際にうま調を使ってみる
 01 スープに使う
 

まあ買う側に「悪くないんですよ」とプロパガンダする冊子だからして......。
 (^^;  
大勝軒山岸: 「長時間煮込んで、スープがほぼ出来上がったところでバーーーツと『味の素』をでっかい鍋に振り入れるんだ。スープの味を見て、量は感覚で調整する。『味の素』の缶を両手に持って入れてたから『二刀流』なんて言われたりしてたね」

ちばき屋千葉:
「色んな素材から、精魂込めてだしを取る。しょうゆ、塩、砂糖で味付けして、それだけで十分『うまいっ!』と思えたスープに、最後に『味の素』を入れるのさぁ。適量入れると、びっくりするような深い味わいになる。その分量の見極めが『職人の腕』だね(笑)」

くじら軒田村:
『ハイミー』と『味の素』を50:50の割合で穴の空いた缶に入れ、丼にパッパッバッと3振り入れてます。入れるのと入れないのとじゃ、味が全然違うんだよね。塩かどが取れてまろやかになる。お客さんに『入れないでくれ』って言われれば抜くけど、『入れたほうが美味しいのになあ』って内心思ってます(笑)」

なんつッ亭古谷:
『味の素』は大体スプーン1杯、丼に直接入れてますよ。お客さんの顔を見ながら、さじ加減を微妙に調整したりね。女性はスープを飲まない方も多いんで、ラーメンの味を印象付けるために少し多めに入れたりもします。とんこつに限って言えば、『味の素』を入れたほうが格段にうまくなる。スープのゴツゴツ感を丸くしてくれるんですよ」

 あまりにあっけらかんとしている。
 しかしちばき屋、ほんと、十分うまいならそれで満足してくれ。

 何というか、上の3人はまだ、世代的にアリだとは思うのよ。高度成長期世代というか。
 でもなんつッ亭古谷氏まで同じことをやって、ほんとにそれでいいんだろうか。

 
実際にうま調を使ってみる
02 元ダレに使う
 
大勝軒山岸: 「元ダレに『ハイミー』は、入れたり入れなかったりだね。というのは、その日のスープの出来次第で決めてたから。スープのうま味に納得できないときは、元ダレに『ハイミー』を入れて助けてもらってた。かつおなんかの風味調味料を入れるのもテクニックの一つだね。食べたときにおいしく感じることが重要だからね」

くじら軒田村:
「元ダレの材料は、しょうゆ、塩、酒、味醂、砂糖等の基本調味料に、しょうが、長ねぎ、にんにくなんかの香味野菜を加えるのがうちの味。他にも色んなだしとか、ほたてパウダー、チャーシューを焼いた時の肉汁も入れてます。もちろん『ハイミー』も入ってますよ。タレの味をまとめてくれますからね」

 「かつおなんかの風味調味料」ってのは、ほんだしとかのことなんだろうな。
 くじら軒、そこまでやってるんなら、無理に入れなくてもいいんじゃないのか。

実際にうま調を使ってみる
03 具材に使う
 
ちばき屋千葉: 「うちの半熟煮玉子の秘訣は、塩分濃度。ちょうどいい塩加減の漬け汁に一晩漬けて中まで味をしっかり入れると、プリプリした良い味の半熟煮玉子が仕上がるのさぁ。漬け汁に『ハイミー』入ってるかって? もちろん入ってるよ。しょうゆ、みりん、酒なんかの調味料と一緒にね」

なんつッ亭古谷:
「市販のメンマには、たいてい『うま調』が入ってますよ。やっぱり味付けに欠かせないもんなんですよね。チャーシューの漬けだれも同じこと。うちのチャーシューは、必ずお客さんに出す直前に切るんです。前もって切っておくより絶対おいしいからね。そんな小さなことからでも、作り手の熱意は必ず伝わるから」

 伝わるだろうか、その熱意......。

 いやその、ほんと、ねえ。
 いや、いいんだけど......。

 うーん。

 あああ、アイドルがラブホテルから出てきたところの写真を公表したような気分だな。
 大人気ないというか。

 いやでも、うーん、やっぱりショッキングな冊子だった。

 18歳未満は真似してはいけませんよ、やっぱり。


青少年には不適切な表現


 こんな感じ。
 詰まるところは味向上ではなく、コストダウンという文脈の話だからして。

 そして、その後ろめたさに対して、

「こんな凄い人たちも使ってるんだ。いいんだな」

と背中を押すための冊子なんだよね。

 いやはやびっくらこいた。

突然食いたくなったものリスト:

  • マカロニグラタン

本日のBGM:
Joint /RIP SLYME



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 以前、「アイドルのエッチと、ラーメンのうま味」というエントリを上げたことがある... 続きを読む

コメント(35)

管理人 :

 化学調味料の話は結構ナイーブでね。

 過剰反応になるか、「そんなもん入ってるのが当たり前じゃないか。今さら何言ってんの?」のどちらかに収束することが多いね。

 化調使用が時間の節約になることは事実だし、でも使わずにちゃんと味を出している店もたくさんある。

 どっちかに偏ってわかったような口を叩いても、ダメなんだろうなあ。

 悩ましい。

その辺の問題については、「美味しんぼ」の三八巻でも語られていますね。日本人が化調の味を極端に偏愛することは事実だと思います。旨味という味覚の存在を発見したのは日本人だそうですが、それだけ旨味の味わいは東洋の食文化の根幹を成しているということなんでしょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%BE%E5%91%B3

そういう意味では、ラーメンという料理の大衆性を考えると、「それだけで十分『うまいっ!』と思えたスープに、最後に『味の素』を入れる」というのも、大衆食の商売の論理としては(コスト以外の観点においても)わからないではないです。

料理人の優れた味覚ではうまいと感じられても、日頃何にでもマヨネーズをかけたりソースをドバドバ使ったり煙草をバカバカ吸うような一般人には、何か一つ物足りなく感じるのかもしれない。そこでパンチを出す為に化調を加えることで広く大衆一般にとって「美味い」と感じる最大公約数の味に纏める。それはそれで否定すべき事柄でもないような気がしますね。

以前オレは炒飯作りに凝ったことがあるんですが、当時は化調は卑しむべきものという先入観があったので、料理本のレシピで「うまみ調味料少々」とか書いてあっても無視していて、精々「中華あじ」を使うくらいだったんですが、どうも今ひとつで、味を付けた飯という以外のものにはならない。

で、hietaroさんもご存じだと思いますが、と或る芸能人が「味の素がなかったらヤキメシが出来ない」とキレて番組スタッフを殴った事件があったと聞きまして、「そんなに味の素が大事なのか」と思って試しに使ってみたら、たしかに「炒飯の味」になるんですね。

これは逆に謂うと、オレらが普通に中華料理屋で喰う料理にどれだけ化調がふんだんに使われているかということでもあるんですが、旨味成分の大量投入による過剰性というのも、一種下世話に感じる「美味さ」ではあるんじゃないかと思うんですよ。

勿論、その一方で無化調を謳って、化調が果たしていた旨味成分の過剰性という役割を食品から自然に抽出するという方向性もあるでしょう。まあ、ここは仰る通り商売のコスト面の問題ですね。記事中にもある通り、旨味成分を食品のみから得るとしたら、単純に数倍の食品が必要になります。品質ということを考えると、出汁系の食品というのは安いものではないですから、物凄いコスト負荷がかかるわけですね。

そこを敢えて無化調に拘ってコストダウンの努力を払うか、それとも一握りのグルメにしかわからない化調の厭味を許容するか、そういう思想の違いではないかなと思います。

ちなみに、オレは化調を使われてもわからない程度の味覚でしかないので、化調使用を批判する資格はないと思います(笑)。喰ってみてもわからないのに「化調使用」という「何となく不味そうな」言葉の響きだけで批判するのは、やっぱり品のない行為ではありますよね。

管理人 :

あ、そのへん、私も気をつけて書いたつもりではあるんですが、私は化学調味料を否定していませんし、批判もしてないんですよ。

昔「生冷し中華@オオタメン」というのを書いたんですが(最後のパラグラフ)、この時のように、「化学調味料」→「過剰に否定」とか、そういうありがちな流れになることは私もおかしいと思っていますし、そういうスタンスは採っていません。

本文に書いたとおり、私は自分では化学調味料使いますし、店で使われても「露わにしないたしなみ」を守ってくれるのであれば、そしてうまいならそれで文句はありません。

特に中華料理は「チャイニーズフードシンドローム」という言葉があるくらいで(^^;、入っているものだと思っていますし、『料理の鉄人』のレシピ本で、陳建一の料理にはいつも「うま味調味料」とありましたし(^O^)、はい、私は全然否定しませんし、

>旨味成分の大量投入による過剰性というのも、一種下世話に感じる「美味さ」ではあるんじゃないかと思うんですよ。

というのもよくわかります。(^O^)

「使ってる!」と胸を張って言うのはやってほしくないなあ、という部分にこそ引っかかっているわけです。

そして実は、この部分は、私は結構その個人個人の生きてきた時代とかが影響するんではないかなあと思っています。
(ですから「高度成長期世代」はアリだと思う、という書き方をしてるんですね)


ただ、

>そこを敢えて無化調に拘ってコストダウンの努力を払うか、それとも一握りのグルメにしかわからない化調の厭味を許容するか、そういう思想の違いではないかなと思います。

という部分は、まあ何というか、私が考えている論点とはちょっと違うんです。
本文でも、私は化調の「味」について問題にしていないんですよ。むしろ、「いやほんとはコストをかけてやらなきゃいけないんだけど」と思いながらやっちゃうか、「悪い?」とやるか、みたいな部分で引っかかりを感じているというところで。
化学調味料が入ってるとすぐにわかって、絶対にイヤ!という人も何人も会ったことがありますが、私にはよっぽど凄くないとわかりませんし、わからないならそれでいい。
ですから、もし「思想の違い」とするなら、「味」に対するものではなく、「手間」に対する思想なんですよねえ。

ですから、

>ちなみに、オレは化調を使われてもわからない程度の味覚でしかないので、化調使用を批判する資格はないと思います(笑)。喰ってみてもわからないのに「化調使用」という「何となく不味そうな」言葉の響きだけで批判するのは、やっぱり品のない行為ではありますよね。

という論調に落ち着かないように書いたつもりだったんですが、そうはならなかったのかなあ。

あ、今、時間がないので後で続きを書くかもしれません。

続きを書かれるかも、ということでそれを待ったほうがいいのかもしれませんが、誤解のないように確認しておいたほうが無駄がないと思いまして。

いや、勿論hietaroさんの仰っていることは理解しておりますし、そういう誤解を与えるような書き方にはなっていないと思います。それを踏まえた上で何故味の問題に還元したのかと申しますと、「手間を惜しむ」ということと商売の合理性のバランス、そして、

>>「使ってる!」と胸を張って言うのはやってほしくないなあ

という部分について、違うふうに認識する考え方もあるのではないか、それもまた肯定さるべきではないか、ということが言いたいんですね。

つまり、無化調で料理を仕立てるなら、そもそも「化調をガッと加えたパンチ」みたいな不自然な味を目指すというのは本末転倒なんですね。化調というのはグル曹やイノシン酸の塊ですから、日本人が「美味い!」と嗜癖を覚えるような味覚成分の過剰性であるわけです。

で、自然の食材だけを使って美味さを目指すのであれば、そんな過剰な味が出るのはおかしいという考え方もあると思うわけですね。同じような味を、手間とコストをかけて出汁系食材の大量使用で再現するというのは、一口で言って「化調をガッと加えたパンチ」のシミュレーションというかエミュレーションなんじゃないかと思うわけです。

そういう意味で、純粋に味だけの観点で謂うなら、「化調をガッと加えたパンチ」が欲しければ、化調をガッと加えるのが正しいわけで、手間惜しみでも何でもなく、それが最もシンプルな正解だという考え方もあると思うんです。むしろ、そんな不自然な味を食材のみを用いて再現する為に加える手間こそ、不合理で転倒したスノビズムだ、という考え方もあるわけじゃないですか。

で、化調で実現出来る味を敢えて自然の食品で再現しようとするなら、その正当性というのは、「化調は良くない」という根拠を持つ必要があると思うんですね。ですから、化調は良くないと思っている料理人が自然の食品で同じような旨味成分の過剰性を再現しようとするのは、それはそれで間違っていないと思います。

その一方、化調は悪いものではないし、化調を加えて実現される不自然な過剰性こそが大衆食としてのラーメンの魅力である、という考え方があるのであれば、化調使用を隠さないとか「何が悪いのか」という言い方にも、その考え方なりの筋道があるんではないか、と思うわけですね。

だから、一概に化調使用を「手間惜しみ」とするのも、絶対の真理というよりは考え方次第の部分だよな、というのが言いたかったわけですね。ですから、化調使用を正面切って謳うことの是非を論じるなら、「偏見だろうが正論だろうが化調の使用を客が嫌がるから」というのであれば、それこそ商売の嗜みとして納得出来るわけです。客の嫌がることをわざわざ言わなくてもいいじゃないか、という考え方はあるわけで、その一方で化調使用を明言することが客に対する誠意だという考え方もあるでしょう。

で、客に対するもてなしの心に悖る手間惜しみであるという前提が成立しないと仮定した場合、客の側で化調の使用を忌避するのは先入観だったり尖鋭な味覚の故であったりするわけで、それは大衆食という位置附けのラーメンにおいて、それだけが許容される唯一の考え方なのか、という疑問があるわけです。

勿論、ラヲタのような通人が認める「本物の味」という方向性もあって構わない、というより、あるべき方向性の一つではあるわけです。無化調と一口に言っても、「化調をガッと加えた味」そのものを否定して、本来あるべき味わいのバランスに特化した、言ってみれば尖鋭な味覚にマッチした高踏な味わいを目指す方向性もあるべきですよね。

ですから、ラーメンと一口に謂い、化調と一口に謂っても、思想次第の部分はあるのではないか、「ウチのラーメンは大衆食だ、一人でも多くの人が美味いと言ってくれる味を目指すんだ」という思想において、多くの日本人が化調の過剰性に一種民族的な味覚のルーツを震撼されるのであれば、化調を使用することが一概に間違いだとは言えないし、それを公言することも一概に否定出来ることではない。それはそれで食に対する思想として間違っていないのではないか、そういうことなんです。

化調使用を否定する思想もまた、その一方であっていいのだし、化調の過剰による下世話な味わいとは対極の味を目指すという思想もあっていい。hietaroさんの仰る意見もわかるのですが、ただ、ラーメン屋一般に無条件に適用出来る論でもないんじゃないか、と思うわけですね。

ぴっけ :

アジア各地の食堂で、味の素は必須アイテムですよね。
人の舌(感覚)は、より刺激求める(麻痺する?)ようですから、化学調味料を否定するのはナンセンスですね。
知り合いの調理人達も、「ウチオリジナル・魔法の白い粉」と呼んでちょっぴり自慢げでした。 (秘密の調合比率だったり?)
でも、知り合いに女の子は、少量でも入ってると、必ず頭が痛くなるそうです。
味の素、ハイミー以外にも、業務用で、数種類出てますよね。

管理人 :

>黒猫亭さん

本文でも

「「『うま調』の味が好き」って言われちゃうと、それ以上何も言えない」

と書いたとおり、それを目指しているのであれば、確かにそれ以上言うことはないですし、「使わない方がいいけども、使わないといろいろ……」ではなく、「入ってる味を目指す」「化調のガツンという味を出す」というスタンスもあり得るだろうし、あるのだったらそれはそれで否定すべきでないだろうなあと思います。ですから化調を、
「使わない方がいいけども、使わないといろいろ……」
という位置付けにした見解については一般化しない方がいいのだろうというお話は100%同意いたします。

で、これ以下は枝葉末節のお話だとは思いますが。

私が「手間を惜しむ」と書いたのは、確かに「使わない方がいいけども、使わないといろいろ……」というスタンスだという前提でのことですが、まあその前提を受け入れてもらったとして(^^;、私がイヤだと思うのは、「その姿勢はそれ以外の別の部分にも出てくると思うから」(本文)なんですね。

>ですから、ラーメンと一口に謂い、化調と一口に謂っても、思想次第の部分はあるのではないか、「ウチのラーメンは大衆食だ、一人でも多くの人が美味いと言ってくれる味を目指すんだ」という思想において、多くの日本人が化調の過剰性に一種民族的な味覚のルーツを震撼されるのであれば、化調を使用することが一概に間違いだとは言えないし、

そういう考え方があってもいいのだと思います。「使用」については否定してはいないのです私は。

>それを公言することも一概に否定出来ることではない。それはそれで食に対する思想として間違っていないのではないか、そういうことなんです。

こちらの方も「間違っている」とは思っていません。イヤだなあとは思いますが。
ただ、結構な違和感を感じる→びっくりした ということです。

普通、ラーメン業界(だけじゃないと思いますが)化調の存在は「暗黙の了解」というか、公言されない部類の話になっています(アイドル云々の例えのように)。
こういうスタンス(あえて「化調をガッと加えたパンチ」を目指すとか)が常々色んな店で客に対して「公言」されているのであれば、そもそもこういう「暗黙の了解」という空気はないはずで、どちらかといえばやはりタブーの部類に入っている。

で、そういう業界の空気の中での店からの(しかもそこそこ影響力のありそうな店からの)「公言」というのは、やっぱり「びっくり」なわけですよ。正直、このような公言は「化調の販促ツール」という特殊な土俵だからなされたのであって、他の媒体や営業店舗という通常の空間ではなされない(というか、避けられる)だろうなあと思いますが、いかがでしょう。

結局このエントリの眼目は、この、「見ないふりをする」部分をあえて公言していることへの「びっくり」の表明だったのですが、このエントリへのリンク元などを見ると、そうは受け取っていただけてないようで(「そんなもん入ってるの当たり前じゃん」といった反応とか……そんなのはもちろん知ってるよ(^O^))。これは私がその「びっくり」に、やっぱりそれを胸張って言われるとイヤだなぁという見解をくっつけたからですが……うーん、なかなか書き方って難しいなあと改めて思った次第です。

>化調使用を否定する思想もまた、その一方であっていいのだし、化調の過剰による下世話な味わいとは対極の味を目指すという思想もあっていい。hietaroさんの仰る意見もわかるのですが、ただ、ラーメン屋一般に無条件に適用出来る論でもないんじゃないか、と思うわけですね。

化調使用自体は否定していませんって。(^O^)
あと、ラーメンみたいな巨大市場の中で、「ラーメン屋一般に無条件に適用出来る論」というのがあるとはさすがに私も思っておりません。

ただ、私の今回の「びっくり」の源泉は、「化調の是非の思想」なのではなく、業界の表面の顔(化調については「ない」ものとなっている。むしろ「素材を生かす」など強調されることがあったりすることも)と現実(化調を使っているところもあるし、ないところもある)のギャップの部分にこそあります。

あ、あと、

>ラヲタのような通人が認める「本物の味」という方向性

ほとんどの「ラヲタ」は、「本物の味」を求めてないと思います。これは「化調なし」のことを指しているのだとは思うのですが、よく指摘されているように化調を使っていないラーメン屋は少数派です。ですから「ラヲタ」であろうとすれば、これを認めるのがほとんどだろうと思います。もちろんやや否定から積極肯定までその幅は広いでしょうが、何というか、「『本物の味』を求めるなら、ラーメンじゃなく別の食品を好きになってるよ」というのはあるので。(^O^)

管理人 :

>ぴっけさん

お久しぶりです。

>人の舌(感覚)は、より刺激求める(麻痺する?)ようですから、化学調味料を否定するのはナンセンスですね。

仰るとおり、「化学調味料を否定するのはナンセンス」だとは思います。
しかし、「人の舌は、より刺激求める」からだとは思いません。(^O^)

>味の素、ハイミー以外にも、業務用で、数種類出てますよね。

「味の素」「ハイミー」は化調の中でも結構な高級品ではなかったでしたっけ。

>hietaroさん

大体ご理解戴けたようで安心しています。勿論、オレはTAKESAN さんのところで書いたように、転居以前はラーメン自体そんなに頻繁に食するほうではなかったんですから、何にでも半可通で口出しして好いとも思っていないのですが、何というか、世の中一般の化調忌避には、農薬忌避とか西洋医学忌避とか動物実験忌避と共通するような不合理を感じるので、ついつい批判的な言い方になります。

で、hietaroさんが化調を否定していないことは十分理解していますので、

>>化調使用を否定する思想もまた、その一方であっていいのだし、化調の過剰による下世話な味わいとは対極の味を目指すという思想もあっていい。 hietaroさんの仰る意見もわかるのですが、ただ、ラーメン屋一般に無条件に適用出来る論でもないんじゃないか、と思うわけですね。

という部分は、前のコメントの、

>>で、化調で実現出来る味を敢えて自然の食品で再現しようとするなら、その正当性というのは、「化調は良くない」という根拠を持つ必要があると思うんですね。

>>ですから、化調使用を正面切って謳うことの是非を論じるなら、「偏見だろうが正論だろうが化調の使用を客が嫌がるから」というのであれば、それこそ商売の嗜みとして納得出来るわけです。客の嫌がることをわざわざ言わなくてもいいじゃないか、という考え方はあるわけで、その一方で化調使用を明言することが客に対する誠意だという考え方もあるでしょう。

という二つの論点を踏まえた発言です。ですから、hietaroさんが仰る、

>>正直、このような公言は「化調の販促ツール」という特殊な土俵だからなされたのであって、他の媒体や営業店舗という通常の空間ではなされない(というか、避けられる)だろうなあと思いますが、いかがでしょう。

というご意見に対しても、これを踏まえたお答えになります。実際のラーメン屋の感覚としては、化調を使って何が悪い、化調のパンチの効いた味が万人に好まれることは事実なんだ、という憤懣にも似た気持ちがあるから、本当は「言いたい」んだと思いますが、多分それを表立って公言すると「客が嫌がる」から、もっと下世話に言うと「客が減るから」言わないわけですね。

でも、研究熱心なラーメン屋の視点から視れば、化調を加えることで間違いなく一般人好みの味になることは事実なのだから、普通の日本人の大部分が化調の味を好むことは事実なのに、「化調を使用している」と言われると途端に忌避するというのは、非常に身勝手に感じるのではないかと思うんですね。身勝手だとは思っても、客だからそう言わないだけの話だと思うんです。

で、前掲の「美味しんぼ」のエピソードでもその辺の解法は非常に苦しいものになっておりまして、強引な手法で既存店を潰しにかかる大手チェーン店の標的になった美味くない店を盛り立てる為に、山岡たちが西欧料理の方向性で無化調で上品なスープを開発するわけですが、これがサッパリ売れない。大手チェーン店のほうは、経営手法は強引だけど、社長は味の求道者的な厳しさを持った人間で、そのラーメンはたしかに美味くて人気がある、そういう設定になっています。

困った栗田さんが雄山に助けを求めると、雄山はヒントとしていろいろな和食の出汁と共に空き瓶に「化学調味料」と書いた紙切れを入れたものを手渡すわけですが、美食倶楽部には化学調味料がないから紙切れを入れたということになっています。そのヒントを読み説いた山岡が、日本人が嗜癖を感じるような化調の旨味を自然な食材で出す為に通常の倍の時間熟成された醤油を使用する、こういう解法になっています。

ただ、これはつまり逆説的に言えば、化調を使って好いなら化調を使うのが正しいという話でもあるわけで、雁屋哲の思想としては化調全否定だから化調を使わずに珍しい食材でそれをエミュレーションしているわけですね。これをもっと突き詰めると、化調を否定するならラーメンに対して一般人が感じる旨味成分への渇望みたいなものも本当は不自然な嗜癖として否定しなければならないけれど、ここまで食習慣に根附いた料理全体を否定することは出来ないから苦しい解法を考えているわけです。

ですから、ラーメンと化調の関係を考える時に、大きな圧力として働いているのは、大した根拠もなく「化調は良くない」と思い込むという、一般人に根付いた偏見だと思うんです。hietaro さんが挙げられた「チャイニーズフードシンドローム」というのも、多分ご承知の上で仰っているのだと思いますが、どうやら集団ヒステリーの一種らしいという説がありますし、それを過去に紹介した美味しんぼ自体が後のエピソードでそれを巷間に流布した俗説として否定したという批判もあります。オレの識る限りでは「化調は良くない」という認識には、たしかな根拠があるわけではないと思うのですね。

勿論、すべての食品には何らかの毒性があるわけですから、過剰摂取によって健康被害があるということはあると思いますが、それは他の食品と比べて有意に大きいリスクだとは思えないわけです。それを言うなら、たとえばラーメンのような栄養学的に偏った料理を過剰に好むという、つまり偏食の問題になってくるわけです。

また、旨味成分のグルタミン酸やイノシン酸に対する肉体の感受性にも個人差があるでしょうから、万人向けに味付けされた料理で何らかの成分が過剰であれば、それらの成分に対して過敏な体質の人には厭味として感じられるということもあるでしょう。ただそれはやはり個々人の体質差の範疇の事柄であって、化調一般の健康被害の問題ではないのではないか、とも思うわけです。

hietaro さんが仰っているようなラーメン業界の問題性というのは、マジョリティとしての一般人が、実態において化調の味が大好きなくせに、化調という言葉の響きだけは嫌うというダブルスタンダードがあるからだ、ということではないかと思うんですね。ラーメン屋のほうでも、化調使用が何か後ろめたい行為であるかのように言われている状況に対して、本心では何か一言言いたいというのはあると思うんですね。

つまり、日本人の化調好きと化調忌避というダブルスタンダードの責任を、一方的に店の側が負わされているというのが、ラーメン業界における化調問題の本質ではないかと思うんですよ。ラーメン屋のほうでは、使えば一般人気の高い味に出来るのだから商売として使うのが当然ですが、化調が悪者にされている実態においては、その責任は店の側が負わざるを得ないわけです。

ですから、業界誌向けのリップサービスという部分も勿論あるのでしょうが、名だたる名店の店主が化調を肯定するのは、実は本音の部分でもあるのではないかと思います。

hietaro さんの問い掛けられたことというのは、つまり「本当は化調の味が大好きでそれを求めてラーメンを喰いにくるくせに、化調は悪いものだと無根拠に思い込んでいる客の身勝手」に対して、商売人はどう対処するのが正しいのか、という問題に収斂すると思うのですね。

オレとしては、野暮を言わずに悪者になって口を噤むのが正しいのか、正直に言うのが正しいのか、それとも化調否定を自身の信念として共有し使わない味を目指すのか、それは個々の商売人の考え方次第だよなぁ、と思ってしまうんですよ。その意味で、「ラーメン屋一般に無条件に適用出来る論でもない」と申しあげた次第です。

Y :

ちょっと横槍を。荒れそうなら削除してくださいw

美味しんぼを読んで感銘を受けて美味しんぼ信者wになった私ですが、
作品の根底に流れている作者のメッセージは「自然」ということに他なりません。

農薬を使った野菜、養殖で育てられるブロイラーや魚、化学調味料。
これらは、全て人間が「自然」な方法で食事をとることができなくなっていることの証明です。
人口が増え、文明が発達し、我々の生活は豊かになったけれども、その一方で
人間が本当に大事にしないといけない健康、自然環境、それに付随する人間の心が失われている、
という警鐘を鳴らしているのです。

そして、このマンガが他の料理マンガとは違って大きな人気を得ているのも、
根底に流れる”人として大切なもの”を感じ取れるから、という理由があるからだと思います。


そして、”化学調味料を使っていると公言すれば客が減る”というのはやはり人間の心の自然な流れであり。


とは言うものの、私も現代っ子なので化学調味料をふんだんに使った食品やお菓子や
ラーメンも非常に大好きなのでありますが…あるのですが………


今回の件の問題点は、人気ラーメン店がどういう理由であれ、化学調味料(うま味だかなんだかしらんが)
を使っていますよ、と活字で発表したことにあると思うのです。

これが、全く名も知らない新店舗やもともとマクドナルド扱いされているようなチェーン店なら問題ないのです。

しかし、全国にも名前の知れた有名店がそれを言うということは、一般の客層にも多大な影響を与えるわけです。
これからラーメン屋を始めようという人間が「あぁ、ここも使っているからいいんだ」という気持ちを持ち、
一般のお客様も「ラーメンに化調は当たり前」という認識を持つさらなる追い風になる。


そんなことをされては、全国の無化調のラーメン屋さん達に非常に失礼です。


↑これが私の言いたいことですが、それはまぁおいといて。


まあ仮に化学調味料を使うことに賛成の立場を取ったとしても!

もうちょっと慎ましくできなかったものか?
もう少し言い方があるのではないか?
そんなことを業界の仲間内での飲み話だけでなく活字媒体にのせていいものか?

そこが今回の問題点なわけです。

あなたはアーティストが「ここ5年くらいのライブは全部口パクでした」と恥ずかしげもなく
TVで言うのを聞いたらどう思いますか?w
「あの曲は○○って曲のパクリです」って言ったら?w
好きな女優が「私は俗に言う枕営業であの仕事を取ったんです」と恥ずかしげもなく
雑誌で言っていたらどうしますか?w


そんな気恥ずかしさと、うわ~やっちゃったよ的なハラハラ感をこの記事は秘めていると思うんです。


っていうかね、もう…恥を知れ!って感じですよ、まったくもう。プンスカ!w

管理人 :

>黒猫亭さん

>世の中一般の化調忌避には、農薬忌避とか西洋医学忌避とか動物実験忌避と共通するような不合理を感じるので、ついつい批判的な言い方になります。

その部分での問題意識はよくわかります。おそらくこのあたり↓に書いた話などと共通する部分ではないかと思います。

http://members.at.infoseek.co.jp/hietaro_3/diary38.htm#20040910
の3パラグラフ


で、ちょっと後ろの方からの引用が先になりますが。

>hietaro さんの問い掛けられたことというのは、つまり「本当は化調の味が大好きでそれを求めてラーメンを喰いにくるくせに、化調は悪いものだと無根拠に思い込んでいる客の身勝手」に対して、商売人はどう対処するのが正しいのか、という問題に収斂すると思うのですね。

とありますが、化調へのイメージというのは、客と商売人で、実はさほど変わらないと思うんですよ。もし客が「化調は悪いものだと無根拠に思い込んでいる」のだとすれば、きっと商売人の方も「化調は悪いものだと無根拠に思い込んでいる」人が多数でしょう。

黒猫亭さんの論は、客には化調は悪いものだという思い込みがあり、店にはそんな思い込みはない、という「差」を前提としているかのように見えますが、私には店と客にそれほどの差があるとは思えないんです。店が客よりも経験的によく知っているとすれば、「化調は経済的で手軽で、うまい」あたりくらいではないでしょうか。
むしろ、黒猫亭さんの問題意識である、「大した根拠もなく「化調は良くない」と思い込むという、一般人に根付いた偏見」についての意見を、ラーメン屋側に仮託しているかのようにも見えます。


>実際のラーメン屋の感覚としては、化調を使って何が悪い、化調のパンチの効いた味が万人に好まれることは事実なんだ、という憤懣にも似た気持ちがあるから、本当は「言いたい」んだと思いますが、多分それを表立って公言すると「客が嫌がる」から、もっと下世話に言うと「客が減るから」言わないわけですね。

「実際のラーメン屋の感覚としては……憤懣にも似た気持ちがある」というのは、どの程度のラーメン屋がそこまで思っているかというのは、わからないと思います。私は化調を積極肯定するラーメン屋がいるだろうということは、いてもいいと思いますが、それが大多数だとは思わないんですよ。
(……あ、これはひょっとしてチェーン店をどう見るかにも関わってくるのかもしれません。私はこの話をしている時、本文に紹介した4店舗あたりの、非フランチャイズのラーメン屋をイメージしています)

どちらが多数なのかはさすがにわからないのですが、感覚としては、特にこの10年くらいに出店した若い店主の店は、消極肯定(「ない方がいいけど、そりゃちょっと無理だよ」)あたりが多数ではないかと思っています。
それは例えば、この販促冊子が作られた理由を考えてもさほど間違った感覚ではないと思うんですよ。この冊子はラーメン店にDMで送られたもので、もちろん対象はラーメン店です。もしラーメン店の多くが「化調のパンチの効いた味が万人に好まれることは事実なんだ、という憤懣にも似た気持ちがある」くらいの積極肯定であれば、こういう冊子が作られる理由はないと思うんですね。これは店と業者とのコミュニケーションであって、客への気遣いはいらないわけで。

この冊子は、「こんな成功している店でも化調を使いこなしてるんですよ。何も後ろめたいことはありません。(さあ買ってください)」というもので、それはつまり裏返せば、ラーメン店側も「後ろめたさ」を感じている、というのが前提になっているわけです。

もちろんその「後ろめたさ」の原因が何か、というのはそれぞれかとは思います。「客が嫌がるものを使っているから」「体に悪いから(←真偽は別として、そう思っている人は多い)」「本来の手間を惜しんでいるから」……いろいろあるでしょうし、そのあたりは個々の店主の考え方ですね。(これはあくまでも「後ろめたさ」を感じている店主の話です)

ですから、

>ラーメンと化調の関係を考える時に、大きな圧力として働いているのは、大した根拠もなく「化調は良くない」と思い込むという、一般人に根付いた偏見だと思うんです。

というのは確かにそれも大きな圧力ではありましょうが、でもそれは客側の要求ばかりではないと思うわけです。きっと客の多数派は「まあ、入ってるだろうな」と思っているのだと思いますし、上で書いたように、店側の多くは化調積極肯定ではない。

化調積極肯定(店) →← 化調否定の偏見(客)

という対立ではないと思うんですよね。
ですから、

>でも、研究熱心なラーメン屋の視点から視れば、化調を加えることで間違いなく一般人好みの味になることは事実なのだから、普通の日本人の大部分が化調の味を好むことは事実なのに、「化調を使用している」と言われると途端に忌避するというのは、非常に身勝手に感じるのではないかと思うんですね。身勝手だとは思っても、客だからそう言わないだけの話だと思うんです。

>hietaro さんが仰っているようなラーメン業界の問題性というのは、マジョリティとしての一般人が、実態において化調の味が大好きなくせに、化調という言葉の響きだけは嫌うというダブルスタンダードがあるからだ、ということではないかと思うんですね。ラーメン屋のほうでも、化調使用が何か後ろめたい行為であるかのように言われている状況に対して、本心では何か一言言いたいというのはあると思うんですね。

このあたりの忖度は、ちょっと行きすぎではないかと思うんです。
もちろんそういう人もいるだろうとは思うのですが、多くはそこまで思ってないと。

>オレとしては、野暮を言わずに悪者になって口を噤むのが正しいのか、正直に言うのが正しいのか、それとも化調否定を自身の信念として共有し使わない味を目指すのか、それは個々の商売人の考え方次第だよなぁ、と思ってしまうんですよ。その意味で、「ラーメン屋一般に無条件に適用出来る論でもない」と申しあげた次第です。

結論は確かにそうですね。

とはいえ、今回の冊子については、媒体の特殊性から言って、
「野暮を言わずに悪者になって口を噤む」「正直に言う」「化調否定を自身の信念として共有し使わない味を目指す」のどれにも当てはまらない、かなり変則的なものだと思うのです。


……でまあ、まとめますと、

●「(根拠は別として)化調は悪いという認識」が、かなり多くの人にあり、
●それは客/店を問わずかなり大きい部分共有されており、
●その多数(「化調が悪い」を客/店を問わず共有している集合)について考察する場合、
●現実的な話として店側はコスト/味管理の面から使用し、客は「ラーメンなんて、入ってるもんでしょ」と思っていて、どちらも「消極肯定」の立場である。
●それをドドンと積極肯定の話が出てきたら、確かにびっくりするよね
●(※もちろん積極肯定の立場を否定しませんが、一般的には完全否定同様に少数であろうと)

という話だと思います。

で、それに付随する形で黒猫亭さんの、世間の「化調を無根拠に忌避する」姿勢への問題意識が出てきたのだと思います。この問題意識については私も昔保存料について書いたように、きっと共有できていて、「そうだよねー」と思います。(^O^)

ぴっけ :

「化学調味料」話では、「済南賓館」の老夫婦を思い出します。
化学調味料、砂糖、ラードを一切使わない調理法は、中国本土でも絶滅してしまった調理レシピだそうで、弟子を持たない夫婦は、数年前までは、一般人向けに料理教室を開いてはずだけど、今は判りません。 (新幹線に乗ってでも通いたかったんですが・・・)
 

管理人 :

>Yさん

化調への評価はさておき。

>今回の件の問題点は、人気ラーメン店がどういう理由であれ、化学調味料(うま味だかなんだかしらんが)を使っていますよ、と活字で発表したことにあると思うのです。

については衝撃だなあと思います。
ただまあ、この冊子はあくまでもラーメン店用の販促ツールなので、

>これからラーメン屋を始めようという人間が「あぁ、ここも使っているからいいんだ」という気持ちを持ち、

はその通りだとは思いますが(そう思ってもらうために作られた冊子ですし)、

>一般のお客様も「ラーメンに化調は当たり前」という認識を持つさらなる追い風になる。

の部分を言ってあげるとちょっと気の毒だと思います。(あくまで業界内で流通する前提の冊子ですから)

>もうちょっと慎ましくできなかったものか?

そんな気恥ずかしさと、うわ~やっちゃったよ的なハラハラ感をこの記事は秘めていると思うんです。

という部分については、はい、そう思います。(^O^)

このハラハラ感を分かちあいたくてエントリをあげたのですよ。

「あららららららら」

と笑っていただきたかった。

管理人 :

>ぴっけさん

ほう、これは面白い情報をありがとうございます。
ググってみると、なかなか興味を引きますね。

化調だけではなく砂糖、ラードを使わないで「うまい」と思わせる中国料理というのは、かなり面白そうですね。どんな味なんだろう。

そこそこお値段がしそうでちょっと二の足を踏んでしまいますが、一度は食べてみたいです。あちらに行く時は是非行ってみたいなあ。

>hietaroさん

ラーメン屋の意識については、経験豊富なhietaro さんのほうが実態をよくご存じのことでしょうから、そこは争いません。そうすると大体争点が消滅するので、おまとめになられたような見解で合意が可能だと思います。

まあ、それを踏まえた上で、オレの個人的な感触で謂うなら、hietaro さんのご意見よりももう少し客側と店側の感じ方のギャップは大きいのではないかと思っていますが、これは論じ合って解消する問題ではないので、個々人の受け取り方の違いの範疇かな、と思います。

オレの感じ方では、多分ラーメン屋を利用する(ラヲタ以外の)普通の客は、そもそも化調が入っているとか入っていないとかに関してはまったく意識していなくて、たとえばそれこそ美味しんぼ辺りで「化調問題はラーメン業界全体の恥部」的なことを謂われて初めて「えっ、そんなに化調使っているの?」「なんかカラダに悪そう」的な感じ方なんじゃないかと思うんですね。

で、店側のほうがなんで化調を使うのかと謂えば、元記事にある「なんつッ亭」の古屋さんみたいなプロセスじゃないかと思うんですね。脱サラして自己流で味を研究した人でもない限り(そういう人はグルメブームの洗礼を受けていますから、最初から化調使用を忌避するでしょう)、修業先の有名店で化調を使っているのを見ているわけで、たしかに化調を使うことでわかりやすくラーメンらしい味になる。おそらく、そのようなわかりやすい美味さがないと、大衆食堂の商売として成功しないんじゃないかな、と思うわけです。

その意味で、普通のプロセスで修行したラーメン屋は、そんなに化調が悪いものだという意識はないと思うんですよ。ただ、世間では化調が悪いものとされているし、客のほうでも自分がラーメンに求めているのが化調のわかりやすい旨味だという意識なんてないわけですから、「化調を使っている」と言われると改めて気持ち悪くなったりするわけですね。

化調を使っているからラーメンらしい味になると言われたら、「今までそんなものを喰わせていたのか」と驚いたり憤慨したりするわけで、この辺の認識のギャップがかなり生臭い業界事情として作用しているんじゃないかな、と思うわけですね。その部分のデリカシーの問題としてなら理解出来ると申しあげた次第です。

それ故に、本当なら化調をドバッと入れているから実現される俗流の過剰性を、生存競争の熾烈なラーメン業界においては「無化調」の旗標がインセンティブとして機能するという理由で、何らかの旨味食品によってエミュレーションするという本末転倒なプロセスも要求されてくるわけで、オレの感じ方では、無化調でラーメンらしい味を実現しているラーメンというのは、かなり贅沢で高踏な料理という気がするんですね。

で、それはそれで、寿司や天ぷらや蕎麦や鰻のように本来は肉体労働者向けの下流の屋台料理や下働きのおやつ代わりの担ぎ売り総菜だったものを、知恵と工夫で高級料理の域にまで高めた日本の食文化の観点で謂えば、在り得べき方向性ではあるだろうとも思うわけです。元は誰も喰わないような下魚や安価な雑食品を何とか喰えるように工夫するだけの卑俗な料理だったものが、より美味い物を求める料理人の情熱と研鑽によって高級料理の域にまで到達する、これが近世から近代へかけての和食の方向性ではあるわけですし、それは和食に限らず近代料理全体の方向性かもしれません。

その意味で、ラーメンもまた寿司や天ぷらや蕎麦や鰻同様に高級な専門料理分野へと相転移しつつあるのだろうと思いますし、その文脈では化調使用を業界の恥部として視る見方があっても不思議ではありません。

で、化調の何が悪いのかと謂えば、これはカラダに悪いからとかじゃなくて、化調というのは、たとえばグルタミン酸なりイノシン酸なりの旨味成分を単純に合成なり抽出なりした大量生産の「工業製品」でしかないからで、自然界には純粋に分離された旨味成分なんて存在しないからですね。

たとえば昆布出汁なら、グルタミン酸以外にもヨード類とか食物繊維とかいろいろな風味や味わいの成分が必ず混在しているわけで、グルタミン酸主体の化調というのは昆布出汁の旨味それ自体では決してないわけですね。そういう、食物としての由来が存在しない(これは食品由来の成分ではないという意味ではありません)単純な旨味成分というのは、窮めて単純明快な旨味でしかないわけですね。

化調を否定するとしたら、そのような単純な旨味で満足するような痩せた味覚がよろしくないからで、食品由来の旨味出汁というのは、たとえば自然塩が塩化ナトリウム以外に混在している成分によって豊かで個性的な風味を醸し出すのと同様に、複雑で豊かな味わいを与えてくれるわけですね。

ラーメンに対して豊富な経験と知識をお持ちの方にこういうことを申しあげるのも烏滸がましいんですが、その点、ラーメンという大衆食の特異性というのは、きちんとしたマトモな組み立ての中華スープに化調を加えることによって、単離されたグルタミン酸やイノシン酸という東洋人が大好きな代表的旨味成分が過剰に強調されているところにジャンク性や大衆性があるのではないかと思います。

つまり、東洋人好みの形でわかりやすく美味いわけで、元々蕎麦饂飩の形で汁麺を喰う食文化を持つ日本人に、蕎麦や饂飩には欠けていた獣脂のコクと豚食と旨味成分の過剰性の組み合わせでアピールしたからこそ、ラーメンは日本人の国民食とも言える地位を獲得し得たのだとオレは考えています。

つまり、高級和菓子の上品な甘さも良いけれど、本当に甘い物好きな人々はもっと強烈な甘味を求める部分もあるわけで、ガツンと砂糖を増量した過剰な甘さがアピールする部分もある。ラーメンにおける化調というのは、この場合の強烈な甘さに相当するような、かなりジャンク的な部分ではないかと思うんですね。

高級和菓子においては、甘さというのはメインの要素ではあっても、菓子全体の味わいの中では一義的に突出した美味の要素ではなく、全体のバランスがほどよい甘さを活かす方向で組み立てられている。しかし甘党の人々には「甘さ」のオーバードライブや過剰性を求める欲求があるわけで、上品な味わいのバランスを崩してでももっと砂糖を、と求める病的な欲求がある。ラーメンにおいてそれに相当するのが、グルタミン酸やイノシン酸という単離された旨味成分なのではないか、と思うんですね。

おそらく、ラーメンという料理分野において、化調使用というのはジャンク性や大衆性の尻尾のような部分だと思うんですよ。この部分を何とかしない限り、ラーメンは寿司や天ぷらとは別次元の大衆食であり続けるわけです。化調が素材主義の高級料理とはそぐわない大量生産の「工業製品」であるというイメージの問題もあるでしょう。

使えるものなら何だって偏見なしに使うという、一種割り切った合理性と柔軟性を持つ中国人は日本人ほど「工業製品」の使用に拘りを持たないから、「こんな便利なものを使わない手はない」ということで中華料理一般に化調は欠かせないものとなる。

そういう中華料理の良くも悪しくも合理的で柔軟な部分が、在日華僑が一定の影響力を持つラーメンの分野にもフィードバックされ、高級料理一般の自然志向・素材主義との軋轢が生じたのが化調問題であるという言い方も出来るわけで、ラーメン業界における化調問題というのは、そこをどう捉えるのか、という過渡的な問題でもあるんではないかと思うんですよ。

この辺の感じ方は、hietaro さんが仰る通り世代によって違う部分もあるでしょうし、戦後の食糧難の時代に化調の登場によって旨味成分への飢餓感が癒された経験を持つ世代と、バブル期の所謂第一期グルメブームを経験した世代とは、化調に対する感じ方がまったく違うということもあるでしょう。

多分、オレが語ったような「化調を使って何が悪い」という感じ方は、戦後を識る世代が滅びるに従って死滅していくでしょう。日本が最も豊かだった時代に、本物の高級料理に多くの人々が触れたグルメブームがあり、高度に洗練された料理は工業製品とは対極にある自然な食品の素材そのままの味で勝負するものだという大前提が周知されるに至ったわけで、その影響下に出てきた世代のラーメン屋は、戦後世代とは自ずから料理に対する考え方も違うはずですね。

今後は、たとえば銀座の著名な寿司店や割烹料理店で味附けに化調を使っていたらちょっとしたスキャンダルになるように、国内のフラッグシップと目されるようなラーメン屋では徐々に化調を使わなくなっていくでしょう。

多分、hietaro さんが仰っているような感覚というのは、たとえば日本有数の有名料亭が吸い物に市販の出汁パックを使っている、というような感覚の問題ではないかと思います。しかし、たとえば駄菓子屋さんの奥でやっているようなもんじゃ焼きで、近所のスーパーで売っているような大量生産の食材を使っていたとしても、それは問題にならないはずですね。むしろ、製粉会社や生産農家と直接契約して粉から厳選されたものを使っているもんじゃ焼きというのが在り得るとすれば、そのほうがどこかいびつな印象を覚えます。

或る種、化調使用の問題というのは、ラーメンという料理分野をどう視るかという問題と不可分なのではないかと思います。安い雑穀をどうにか喰えるようにするだけの代物だった蕎麦が、江戸前の粋な料理と見做され美味い蕎麦屋を識っていることが通人の証となったように、そのうちラーメンも大衆性の尻尾を切り捨てていくのでしょう。

しかし、たとえば江戸前の寿司と言えば小鰭の寿司を挙げる通人が多いけれど、元々小鰭は寿司にでもする以外には調理のしようがなく、肥料としてしか使い道のない原材料としては最も安価な下魚だったわけです。

そして、小鰭の寿司というのは鮨売りと呼ばれる鯔背な担ぎ商人が粋な売り声を挙げて町屋を売り歩いた、中産階級の奥向きの卑俗な買い食いの類だったわけです。その当時の小鰭の寿司は問屋が大量に作り置いて売り子に渡すもので、調理技術など多寡が知れていますから今ほど上品に美味いものではなく、おやつ相応のわかりやすい味附けのものでしかなかったはずで、今で謂うコンビニのおにぎりやスーパーのお総菜のようなものでしかなかったはずです。

そのような卑俗な喰い物が、今では日本を代表する和食の分野として奥深い食文化を形成しているわけですが、握り寿司一般の江戸前で鯔背なイメージというのは、そのようなおやつ程度の喰い物を粋な売り声を挙げて売り歩いた鯔背な小鰭の鮨売りのイメージを源泉に持っているわけです。

当時の江戸の担ぎ売り商売の中でも、小鰭の鮨売りというのは格好良い行商人の最右翼でもあったわけで、「鯔背」という言葉自体も、魚河岸の勇み肌な若者の風俗である鯔の背を思わせる髷の結い方を元に出来た言葉であるわけで、小鰭の鮨売りが鯔背を売りにしたのは、そういう粋な河岸の若者の風俗を売り子のコスプレとして借りているからというわけですね(http://gogen-allguide.com/i/inase.html)。

町屋の奥向きの女房衆も、鮨売りの姿の良さや売り声の渋さを目当てに呼び売りを招じ入れたということですから、今で謂う寿司職人が格好良いから寿司屋が鯔背な商売だと思われていたのではないわけで、寿司職人が江戸前な気っ風の良さを心懸けるのは、実はおやつ時代の売り子の粋なイメージを受け継いでいるからであるわけです。

つまり、寿司職人に江戸前の気っ風の良さを求めてしまう部分というのは、今では高級料理の域に達した握り寿司が元々具えていた大衆性の尻尾の痕跡器官のようなものという表現も出来るわけですね。

これがたとえば蕎麦ならば、高級な老舗蕎麦屋の発達と併行して立ち食い蕎麦屋という屋台的な部分もなくなりはしないわけで、それこそ二八の十六文で喰える廉価な大衆食の尻尾の部分が立ち食い蕎麦屋として残っているわけです(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6#.E8.95.8E.E9.BA.A6.E5.B1.8B)。これが回転寿司ということになると、一旦高級料理となった寿司をさらに安価で手軽に食えるようにするというコンセプトの商売ですから、大衆性とはまた別次元の話になると思いますが。

また、たとえば鰻の蒲焼きなんかですと、串に刺して焼くのは、元々労働者階級が精を附ける為にマトモな食通なら喰わない蛇のような気味の悪い脂っこい下魚を串物として買い食いしていた時代の名残の部分ですね。その当時の鰻の蒲焼きというのは、今でも残っているヤツメウナギの蒲焼きなんかとそうそう変わらない食べ物だったわけです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%84%BC%E3%81%8D)

かなり脱線しましたが、では、今後ラーメンという料理分野は元々の出自にあった大衆食としての性格をどのように残していくのか、それとも全否定して海原雄山に相手にしてもらえるような美食の領域として洗練されていくのか、たとえば高級蕎麦屋と立ち食い蕎麦屋のように尻尾の部分を分岐点として分化していくのか、その象徴が化調問題なのではないかと考える次第です。

ちなみに、実はオレはグルタミン酸がダメで、ラーメンのスープくらいに希釈されていると大丈夫ですが、和風パスタソースとか切り昆布とか昆布茶くらいの濃さだと舌の根本が強く引き攣れる感じがして、ひどい飢渇感を覚えます。これは化調がどうのというのではなくグルタミン酸一般に対して体質的に敏感なんじゃないかと思います。味自体は昆布出汁も大好きでふじっ子煮もよく食べるんですけどねぇ、その後が大変なんで徐々に昆布や味の素は敬遠気味になっています。

全般にオレは、味は好きでも体質的にダメで食べられないものがいくつかあるのが残念ですね、赤ワインと塩蔵チーズとか、生ハムとか、美味いとは思うんですが後で必ず気持ち悪くなるので食べられないものがあります。ハモンセラーノと赤ワインの取り合わせなんて凄く美味かったんですが、やっぱり後で気持ち悪くなったんで、勿体ない贅沢はしないことにしました(笑)。

そういう次第で、例によっての長広舌、大変失礼致しました。

管理人 :

>黒猫亭さん

文中にリンクがあるコメントのみ承認制になっておりまして、コメントの表示が遅れました。
他意はありませんので、ひとつ。(^O^)

>ラーメン屋の意識については、経験豊富なhietaro さんのほうが実態をよくご存じのことでしょうから、そこは争いません。そうすると大体争点が消滅するので、おまとめになられたような見解で合意が可能だと思います。

ということですので、以下は「各論」としてお話しさせていただきますね。

>その意味で、普通のプロセスで修行したラーメン屋は、そんなに化調が悪いものだという意識はないと思うんですよ。ただ、世間では化調が悪いものとされているし、客のほうでも自分がラーメンに求めているのが化調のわかりやすい旨味だという意識なんてないわけですから、「化調を使っている」と言われると改めて気持ち悪くなったりするわけですね。

という部分の「化調が悪い」について、多分内容は2つあると思うんですよ。
「体に悪い」「味が(不自然になるから/まずくなるから/他)悪い」と。

(私の場合は「化調を使うということは、他の部分でも手を抜いていると推察させるから悪い」という理由を本文であげたわけですが、これはメジャーではない「理由」であることはわかっていますので(^^;;)

で、ラーメン屋側は経験上から味について「悪くない」と考えるようになったとしても、「体に悪い」という認識の部分は、少なくとも経験上では解決しない話ですから、ラーメン屋の中でこの部分が「悪くない」と思えているかどうかは別だと思います。
客側は、自分の家でも化学調味料を使わないくらい気を使っているような人は外食に入ってるのは「当たり前」だと思っているでしょうし、漠然と普通に使っている人は、店で使っていてもさほど驚かないでしょう。驚くとしたら、「そんなに使ってたのか」という「量」について、あるいはそんなもの使っていないかのような「演出」とのギャップに対するものではないでしょうか。

ですから、

>化調を使っているからラーメンらしい味になると言われたら、「今までそんなものを喰わせていたのか」と驚いたり憤慨したりするわけで、この辺の認識のギャップがかなり生臭い業界事情として作用しているんじゃないかな、と思うわけですね。その部分のデリカシーの問題としてなら理解出来ると申しあげた次第です。

という部分は概ね了解できます。ただ、ラーメン屋に向かって「今までそんなものを喰わせていたのか」と(驚きはあったとしても)憤慨する、までの無邪気さは客側にそんなにないようにも思いますが……いや、それはわからないのかな。

>それ故に、本当なら化調をドバッと入れているから実現される俗流の過剰性を、生存競争の熾烈なラーメン業界においては「無化調」の旗標がインセンティブとして機能するという理由で、何らかの旨味食品によってエミュレーションするという本末転倒なプロセスも要求されてくるわけで、オレの感じ方では、無化調でラーメンらしい味を実現しているラーメンというのは、かなり贅沢で高踏な料理という気がするんですね。

このあたりは、根本的な「ラーメンの味」に持っている認識が私と黒猫亭さんでは違うのかもしれません。これは世代の問題云々の話もあるのだろうとは思いますが、きっと「ラーメンを頻繁に食べる」「ラーメンをたまに食べる」という頻度の違いもあるのだろうな、と。

「何らかの旨味食品によって(化調の味を)エミュレーションするという本末転倒なプロセスも要求されてくる」

という部分は、到達点を

「化調をドバッと入れているから実現される俗流の過剰性」

に置いているとするからこそ出てくる話だと思いますが、黒猫亭さんも後段で仰っているとおり、最近(大阪ではここ10年で顕著。東京では恐らくもっと前からでしょう)のラーメン事情においては、そこまでの露骨な味はかなり古いタイプ、むしろ「昭和ノスタルジー」あたりの文脈で語られることになります。
本文紹介の販促ツールでさえ、化調は「ちゃんとしたダシを取って、それを補う」あたりの位置付けとなっているわけです。このあたりのリアルタイム感が「頻繁に色んな店に食べに行く」かどうかで違ってくるのだろうな、とは思います(これは視点の違いであって議論の深さの違いを言っているのではないことはご理解いただけると思います)。
ですから、今は化調の味は化調の味として、そういう味も支持されるし、そうでないものも支持される、というふうになっていて、必ずしも「化調(あるいはそのエミュレーション)の味でないと支持されにくい」というわけでもないです。……私自身は化調の味を他の食材でエミュレートするのは無理だと思いますが、それはそれとして。

(そういえば数年前、面白い店がありました。「昔懐かし中華そば ほっこり」という店で、地元のうどん屋がやっていました。「昔懐かし」といいつつ、「添加物を一切含まない自然な味」(主催者発表)なんですよね。懐かしいって、どんな架空の記憶だ……ムー大陸かよ(^O^)みたいな印象を持ったものです。さらに、残念ながら、この店はおいしくなかった。+゚(ノД`)゚+。)

で、

>ラーメンという大衆食の特異性というのは、きちんとしたマトモな組み立ての中華スープに化調を加えることによって、単離されたグルタミン酸やイノシン酸という東洋人が大好きな代表的旨味成分が過剰に強調されているところにジャンク性や大衆性があるのではないかと思います。

という点については、「過去においてそういう時代があったし、これからも一勢力として残っていくだろう」と思います。ただ、例えば「マトモな組み立ての中華スープに化調を加える」という部分など、文中の「中華スープ」をもっと汎用的な「ダシ」などに置き変えれば、結局これはラーメンに限定される話ではないですよね。外食一般、あるいは現代の食一般に言えてしまうことのようにも思えます。
にもかかわらず、それを「ラーメンという大衆食の特異性」として、「ジャンク性や大衆性」の源泉として強調するのも、果たしてどうかと。

そしてもう1つ。これは案外指摘されないことですが。
ラーメンは確かに「大衆食」と言われ、今でもそうではありますが、これも時代の変遷とともに「大衆食」の中の位置付けは変わってきています。単純な話、ラーメンは、そんなに安くないのです。
ラーメンの値段は店や地域によってさまざまですが、例えば大阪であれば、だいたいその店の標準のラーメン(非チャーシューメン)で1杯650~850円、高くて900円あたりです。ハンバーガーや牛丼に比べると、「ちょっと贅沢」(^O^)なお値段となっています。
もちろんそうでない店もあります。
去年会社更生法の適法を申請し、今では吉野家傘下となった「びっくりラーメン一番」は1杯180円で、化調の味が染み渡る醤油味のスープはまさに「昔懐かしい味」でしたし、まあそこまで安くはしないにしても、500円以下で食べさせるラーメンの多くがかなりの「化調過剰」で、それなりにファンを獲得しています。(「びっくりラーメン一番」が潰れたのは味が支持されなかったからではなく、急速な大量出店が資金不足を招いたからです)

つまり、現時点でのラーメンの「大衆性」と、「昭和ノスタルジー」時代の「大衆性」とは、その意味するところがかなり変わっていると思うのです。
まあ時代が進むにつれ「ラーメン」の指すものの内容があまりに広がっていっており、全てに当てはめられるような言説はないに等しい、ということなのかもしれませんが。

>おそらく、ラーメンという料理分野において、化調使用というのはジャンク性や大衆性の尻尾のような部分だと思うんですよ。この部分を何とかしない限り、ラーメンは寿司や天ぷらとは別次元の大衆食であり続けるわけです。化調が素材主義の高級料理とはそぐわない大量生産の「工業製品」であるというイメージの問題もあるでしょう。

この「大衆性の尻尾」という指摘はなるほど、と思います。

>そういう中華料理の良くも悪しくも合理的で柔軟な部分が、在日華僑が一定の影響力を持つラーメンの分野にもフィードバックされ、高級料理一般の自然志向・素材主義との軋轢が生じたのが化調問題であるという言い方も出来るわけで、ラーメン業界における化調問題というのは、そこをどう捉えるのか、という過渡的な問題でもあるんではないかと思うんですよ。

この部分はどうでしょう。ラーメンに「在日華僑が一定の影響力を持」った時代というのはかなり昔の話ではないかと思います。少なくとも現在のラーメン界で、中国料理側の影響力というのはほぼないに等しいと思うのです。そしてその影響力があった時代には中国人どころか日本人の中でさえも化調への拒否反応はなかったのではないかと思うんですよ。

>この辺の感じ方は、hietaro さんが仰る通り世代によって違う部分もあるでしょうし、戦後の食糧難の時代に化調の登場によって旨味成分への飢餓感が癒された経験を持つ世代と、バブル期の所謂第一期グルメブームを経験した世代とは、化調に対する感じ方がまったく違うということもあるでしょう。

ということになると思うんですよね。そして、その場合の「ラーメンとはこういうもんだ」というのは往々にしてその人の食の原風景であるわけで、例えば私はコカ・コーラはサッカリンで飲むものだと思っていますが、ある作家はサッカリンになってコカ・コーラは堕落した、あれはチクロで飲むものだ、と言っています。(^O^) しかし恐らくもっと若い人であればコーラというのはアスバルテームであったり果糖や砂糖で飲むものでしょう。
化調問題と世代問題というのは同一ではないと思いますが、かなり重なる部分があるのではないかと思います。

>今後は、たとえば銀座の著名な寿司店や割烹料理店で味附けに化調を使っていたらちょっとしたスキャンダルになるように、国内のフラッグシップと目されるようなラーメン屋では徐々に化調を使わなくなっていくでしょう。

私はそうはならないとは思うんですけどね。(^O^)
私は今後も、主にコスト的な理由から、化調はラーメン界からなくならないのではないかと思っています。そしてそれはやっぱり密やかに。(^O^)

これに伴ってちょっと連想した話ですが……。
1970年代前半には、「日本語はロックに乗るか?」という議論が活発に行われましたよね。今では考えられないようなこの議論は極めて大真面目に交わされたと記憶します。ではこの論争はどちらが勝ったか。日本語派(はっぴいえんどなど)か、英語派(内田裕也など)か? 勝ったのはそのどちらでもなく、「英語混じり日本語」派であったのだと。(^O^)

いやこれは直接関係ないんですけども。(^^;
なんか、結局主流になるのは「うま調をためらいながらもちょっと入れ」のラーメン屋ではないのかなあ、と思います。

というわけで、

>では、今後ラーメンという料理分野は元々の出自にあった大衆食としての性格をどのように残していくのか、それとも全否定して海原雄山に相手にしてもらえるような美食の領域として洗練されていくのか、たとえば高級蕎麦屋と立ち食い蕎麦屋のように尻尾の部分を分岐点として分化していくのか、その象徴が化調問題なのではないかと考える次第です。

というのは、「全否定して海原雄山に相手にしてもらえるような美食の領域として洗練されていく」という道が選ばれることはないだろうと思います。いやもちろんそういう道を選ぶ人はいると思いますし、現に大阪でブイブイ言わせている(^O^)「麺哲」というラーメン屋の庄司君というこちらではかなり大きな影響力のある店主は「ラーメンを1つの料理分野として確立する」と豪語しています。
ただ、そこまで追随できる店はそこまで多くはありません。

>全般にオレは、味は好きでも体質的にダメで食べられないものがいくつかあるのが残念ですね、赤ワインと塩蔵チーズとか、生ハムとか、美味いとは思うんですが後で必ず気持ち悪くなるので食べられないものがあります。ハモンセラーノと赤ワインの取り合わせなんて凄く美味かったんですが、やっぱり後で気持ち悪くなったんで、勿体ない贅沢はしないことにしました(笑)。

それはきっと、天が与え給うた…… (+_+)\パキッ!

ハモンセラーノって何じゃろ?とググってしまいました。(^^; うまそう。勉強になります。

ぴっけ :

先日TVで見掛た、ajito@大井町だったか?
つけ麺の変形バージョン!?「ピザソバ」なるモノに、もう感心してしまいました。
「ラーメン」は、独自のジャンルとしてこの先も変化し続けるんでしょうナ。

>hietaroさん

ちょっと長くなったんですけど、もう少し続けていいですか?

管理人 :

>ぴっけさん

もうこうなると、「ラーメン」と名乗ったらそれはラーメン、というところまで来てますね。(^O^)

>黒猫亭さん

もちろん大歓迎です。

>hietaroさん

あまりに話を広げすぎてしまったので、さすがに呆れられてしまったかなと思ったのですが(笑)、ご了承が戴けたのでもう少しだけ続けさせてくださいね。ラーメン業界の現状をよくご存じのhietaro さんだけに戴いたご指摘にも説得力がありますし、まあオレの関心は化調のほうにあるわけですから、ここはhietaro さんのご見識を尊重すべきだろうと思います。

>>まあ時代が進むにつれ「ラーメン」の指すものの内容があまりに広がっていっており、全てに当てはめられるような言説はないに等しい、ということなのかもしれませんが。

結局はこういうことになるのかもしれませんね。それ故に、やっぱり問題は化調使用を忌避する妥当性の問題に投げ返されるのかな、と思います。たとえば、

>>ただ、例えば「マトモな組み立ての中華スープに化調を加える」という部分など、文中の「中華スープ」をもっと汎用的な「ダシ」などに置き変えれば、結局これはラーメンに限定される話ではないですよね。外食一般、あるいは現代の食一般に言えてしまうことのようにも思えます。

というくだりには一定の説得力を感じるのですが、では何故ラーメン業界において殊更に化調問題が取り沙汰されるのか、という疑問も出て来るわけです。で、これを考えていくと、そもそも「ラーメン業界における化調問題」というのは実態的な問題なのか、それとも問題性の切り取り方の問題なのか、そもそもそんな問題性自体実在するのか、という疑問も出て来るわけですね。

hietaro さんが語られたように、化調使用というのは「外食一般、あるいは現代の食一般に言えてしまうこと」であり、ラーメン業界においても「今は化調の味は化調の味として、そういう味も支持されるし、そうでないものも支持される」という状況であるならば、化調問題という問題性の切り取り方自体が自明のものではなく、一定の恣意性に基づいた問題設定だ、という考え方も出来るわけですね。

つまり、ラーメン業界の現状がhietaro さんがディスクライブされたようなものであるならば、化調使用を業界全体の共通認識としての問題性と視ることは出来なくなるのではないかと思うのですね。「化調の味は化調の味として、そういう味も支持されるし、そうでないものも支持される」のであれば、極端な話、それは好みの問題にすぎないという話に決着するでしょう。

化調を使わない味も支持されているのに、そういう店がまだまだ少ないという話になるのだとすれば、それは化調を使うことの是非という性格の問題ではなく、嗜好に関する需給バランスの問題に還元されるわけですよね。それは化調使用を恥じるか恥じないかという問題には結び附きようがないわけで、では何故化調を使用していると言ってはいけないのか、という問題に投げ返されるわけです。

また、それが外食一般の問題というのであれば、たとえば単価六〇〇〜九〇〇円の商売のレベルであればラーメンに限定された問題ではないという話にもなってきます。それが何故にラーメン業界に関しては一定の問題性と認識されているのか、というのもかなり不思議な話になってくるわけですね。そうすると、これは実態的な問題というより、それを問題性として切り取る認識のほうに問題があるのではないか、というふうに思えてくるわけです。

たとえば化調使用をコストの側面から視るhietaro さんのご意見は「客にお内証の話をぶっちゃけるのは如何なものか」という感覚としてはわからないでもないのですが、そのコスト意識が健全かどうかということもまた考慮しなければフェアではないと思うのですね。

hietaro さんは勿論ラーメン一杯六〇〇〜九〇〇円の価格設定が暴利だという話をされているわけではないでしょうし、化調を使用しているラーメン屋が使用しないラーメン屋に比べて不当に楽をしているというお話をされているわけでもないでしょうから、化調を使用することでコストが削減されて、その単価が維持出来て、一定のレベルの味が実現出来るなら、そのコスト意識は健全だということになると思いますし、以前のご発言から考えればこれにご同意戴けることと思います。

で、化調を使用せずに同一価格帯でそれに匹敵する味が出せるはずだ、というのは、換言すれば店側にコスト努力を要求する考え方ですよね。それを突き詰めると、「化調を使用しない為のコスト」ということになりますから、やはり何故化調を忌避するのかという問題に行き着くんだと思います。

さらに言えば、hietaro さんのお考えでは化調を使用せずに化調の味をエミュレートするのは無理だということになるわけですから、化調を使用しなければ「別の味」になるわけです。だとすれば、化調を使用したラーメンの味を店の味だと考える料理人が化調を使うことを批判するのは、やっぱり大した根拠のある話でもないだろうということにもなるわけですね。

そうすると、やはり化調は悪いものだ、少なくとも一般にそのように思われている、という根拠がなければ、もしくは高級料理一般の素材主義という考え方に基づくのでもなければ、化調使用を大っぴらに言ってはいけないという結論にはなりようがないと思うのですね。

>>現に大阪でブイブイ言わせている(^O^)「麺哲」というラーメン屋の庄司君というこちらではかなり大きな影響力のある店主は「ラーメンを1つの料理分野として確立する」と豪語しています。

こういう考え方の料理人が、化調使用は良くないと仰るのなら、それはそれで理解出来ます。それこそ寿司や天ぷらや割烹料理のような確立された一つの料理分野として素材主義を主張して、大量生産の工業製品である化調を忌避するというのなら、それは一つの料理思想として正しいですよね。

で、この方が普通のラーメンの相場よりも若干高めの価格設定で勝負して業界の二極化を仕掛けてくるなら、それもまた正しいと思いますが、資本力なり商売の足腰なりの強みを活かして通常の価格設定で勝負するなら、そして業界全体の動向が(まあ実現性の観点はさておき(笑))そのようなものとなった場合、それは業界全体に対するコスト圧力としてのし掛かってくる。

そしてそれは、ただでさえ大変なラーメン商売(こんにちの乱立状況は、一時期の喫茶店経営ブームに近いものがあるかもしれませんね)一般の貧困化と過剰労働化に繋がりかねないでしょうし、それこそ小口の商いをしている弱小ラーメン店の、資本力や経営力を基準とした選別淘汰にも繋がるでしょう。

仰る通り、六〇〇〜九〇〇円の価格設定はたしかに安いものではないですが、素材主義で成立するような高級な喰い物商売というのは、やっぱりその価格帯の単品商売ではかなり難しいわけで、ジャンルにも拠りますが、化調を使わずにキチンと美味いような料理というのはとてもそんな値段では喰えないわけです。

hietaro さんがラーメンと対置されたハンバーガーや牛丼というのは、勿論大手ファストフードチェーンの話でしょうから、そもそもそれは比較対象が妥当ではないという話になるでしょう。

ちゃんとした店でハンバーガーや牛丼を喰えば、同じくらいかそれ以上の対価をとられるのだし、むしろ吉野屋の成功は、それまで天丼レベルの高価なメニューだった牛丼を安価に手軽に提供したところにあったことは間違いありませんね。また、大手チェーンのハンバーガーというのはご存じの通り価格破壊の尖兵であったわけですが、ダイナースタイルの専門店で注文すれば、ハンバーグランチと同じくらいとられるわけです。ここは資本力や流通や経営形態の問題を料理分野の話と混同されていると思います。

その一方で、たとえば町場の昔からあるラーメン屋の大将が、食材が切れたからと謂ってちょっと店を空けて、近所のスーパーの袋を提げて帰ってきても、誰もそれをおかしなことだとは思いませんよね。そもそも麺以外は近所のスーパーや小売店で買い出しをしているのだろうし、それで商売が成り立っているわけです。だとすれば、ラーメン専門店の化調使用を問題視する考え方というのは、やっぱりラーメン専門店の料理の格について過剰な期待や要求があるという言い方も出来るわけです。

前回オレが差し上げた意見というのは、ラーメン業界において化調を忌避することに何らかの妥当性があるとすればこういうことだろう、という観点における考察ですから、それがhietaro さんのご見識に基づけばそのままでは成立しないということになるのなら、やはり化調問題というのは至極曖昧であやふやなものでしかないということになりかねない。

で、オレが化調問題の一番の問題点だと思っているのは、店の側も客の側もなんで化調を使うことが悪いのか確たる考えもないのに、何故か悪いというのが前提視されているという辺りの気持ち悪さなんですね。そして、それが本当に悪いことなのかと突き詰めて考えていくと、どうも根拠らしい根拠がサッパリ見当たらないわけです。これに関しては、おそらくhietaro さんも問題意識を共有されていると思います。

たとえばhietaro さんは主に価格帯の観点から化調使用のグラデーションをディスクライブされたわけですが、それはやはり結局のところ「高いカネをとれれば化調を使用しないラーメンが出来る」という話になってしまうわけですよね。で、それは味自体に関して謂えば化調を使用したラーメンとは「別の味」になってしまうわけですよね。それはもう、価格帯の面から謂っても味の洗練の面から謂っても「高級専門料理」と謂ってしまって好いんだと思います。

技術やセンスが同じなら、美味い食材を使えば美味い料理が出来るのは当たり前の話ですが、価格帯との兼ね合いで食材のグレードと店の味をバランスするのが、喰い物商売としては当たり前の話で、調味料に関してのみそれが通用しないというのも非常に無根拠な話ではあるわけです。

そうすると、コスト的な観点から視るなら、価格設定と内容のマッチングが妥当であれば、化調問題という問題性自体が消失してしまうわけです。そこでさらに化調を使用するなという話になるのであれば、やはり「化調を使用しないコスト」の妥当性を成立させる為に「化調は悪いものだ」というかなり強い根拠が必要になってきます。

今回戴いたご指摘をすべて肯定するとするなら、つまり、各論で具体を視ていくなら、要するにラーメン業界における化調問題というのは、合理的な根拠のある問題設定ではなく、店側に無根拠なコスト努力を要求する考え方だということになってしまうんではないかと思うんですね。そして、オレが考え附く限り、「料理に化調を使用してはいけない」という場合の合理的な根拠というのは、高級料理一般の素材主義以外には考え附かないわけです。

化調の健康被害なんていうのは、よっぽど大量(全体の数十%レベルとか)に使わない限りは、「ワラビやゼンマイには強い発ガン性がある」というのと殆ど同じ程度のリスクで、すべての食物一般が人体にとっては毒に成り得るのですから、とくに化調を目の敵にする理由とは成り得ないわけです。

人間が「物を喰う」という行為一般、人体に異物を摂り込んで栄養やエネルギーに替える作用に基づいていますから、最初から人体にとって都合好く創造された存在でもない限り必ず何らかの毒性が予想されます。バランス良く食品を摂取するというのは、そのようにして必ず存在する毒性のリスクを分散させる意味ですから、量的な関数を無視して単なるグルタミン酸やイノシン酸それ自体が人体にとって毒になるという考え方は、窮めてナンセンスですよね。

そのように考えていくと、化調を忌避する根拠としては、健康被害や毒性というのはほぼ考慮に値しないわけで、化調を多めに使う料理を好むのであれば、その分だけ他の食事で化調の摂取を控えればそれで済む話で、これはどんな食品にでも言える事柄です。それ以前に、他の料理における化調の使用をセーブしなければならないほどラーメンを偏愛する食習慣自体が不健康なわけで、たとえば毎日ラーメンを喰うような人間が化調レベルの健康被害を云々すること自体が嗤うべき矛盾ですが(笑)。

長くなったので、ここで一旦コメントを分けますね。

健康被害や毒性の問題が考慮に値しないとすれば、残るのは食に対する思想という観点ですね。たとえば本格的な高級料理においては、「グルタミン酸の味」や「イノシン酸の味」なんてものはなくて、それぞれの旨味には昆布や節、煮干し焼き干しという具体的な食材としての実体的根拠があるわけで、その食材の組み合わせ「だけ」で味を作っていくのが素材主義であるわけです。そういう意味で、食物としての本然を持たない純粋に単離された化学物質でしかない化調を忌避するというのなら、一つの料理思想として理解は可能ですよね。

しかし、これは元々コストが懸かる料理思想で、コストが懸かるから必然的に単価の高い高級料理になっているのであって、単価が高いことは一種商売として健全であるわけです。たとえば美食倶楽部では何故化調を一切使っていないかということを別の観点から謂えば、物凄く高額な会費なり寄付金なりで運営されているからですね。

作中の描き方で謂えば、おそらく「一食幾ら」という喰い物商売に一般的な料金形態ではなく、海原雄山の美食思想に共鳴する各界有数の通人が惜しみなく資金を援助して、日本における最高峰の美食を維持するという形で運営されているのでしょう。

ですから、もしもラーメンという料理分野全体がそういう思想を目指して経営形態が変革されていくのであれば、「化調を使ってはいけない」という考え方にも一定の理が立つ、そういう話を前回させて戴いたわけです。

しかし、それが業界全体の流れとは言えず、ラーメンという料理分野が現状から大きく変わることなく推移していくなら、化調を使用するもしないも料理人のラーメンの味に対する捉え方や需給バランスやコスト意識の健全性の問題に還元されるのだから、そういう諸条件を取っ払って、化調使用のみを軸にして善し悪しの観点で語るのはおかしいという話になるでしょう。

最初のコメントでhietaro さんは、

>>化調使用が時間の節約になることは事実だし、でも使わずにちゃんと味を出している店もたくさんある。
>>
>> どっちかに偏ってわかったような口を叩いても、ダメなんだろうなあ。
>>
>> 悩ましい。

と仰っていますが、今回のご意見では、化調を使用した味と使用しない味は「別物」なのであり、主客双方のラーメンの味に対する考え方や嗜好の違いが顕れていて、それぞれの味を愛好する方がおられるわけだし、それは価格帯とコストのマッチングの問題でもあるのですよね。そうすると、それらすべての条件附けを取っ払って、使用する店と使用しない店を等価で対置されたこのご意見は、使用しないことを是とする前提のご意見ということになるかと思います。

それはやっぱり、「ラーメン業界における化調問題」という問題性が実態的に存在するという前提のお話なのだろうと思いますし、果たしてそれはどうなんだろうというのがオレの感じ方だということになります。

hietaro さんのお話を伺えば伺うほど、ラーメンへの化調使用を忌避する感じ方の無根拠性を強く感じてしまうわけで、hietaro さんが以前語られた合成保存料の問題と同種の問題性こそがむしろ重要なのではないかという確信が深まっていきます。

たとえば、合成保存料を否定するなら、すべての喰い物はオンデマンドで提供するのが正しいという話になりますが、それを要求するなら食糧需給の円滑なバランスやスムーズな流通が崩壊し、すべての食品の価格が高騰します。

同様に、ラーメンの化調使用を完全否定するなら、それはラーメンという料理分野一般の高級化に伴う価格帯の高騰か、もしくは、ラーメン屋という商売の貧困化や過剰労働化、さらに資本力を基準にした選別淘汰を招来するわけです。これは同じ不合理のツケを客側が負担するか店側が負担するかの違いにすぎず、いずれにしてもラーメン屋という商売の形態が現状のままに在り続けることは出来なくなるでしょう。

オレはhietaro さんが紹介された誌面で語られているラーメン店主の発言は、必ずしも業界誌向けのリップサービスではなく本音も混じっていると考えていますが、コスト面の問題から謂っても、不当に暴利を貪っているとか不当に楽をしているわけでもなく、当たり前の健全なコスト意識に基づいて化調を使用しているのであれば、それを後ろめたく感じなければならないというのは、それこそ不当な話ではないかと思うわけです。

製造業一般では、コストダウンの要求と品質向上の要求という相反するダブルバインドを適切にバランスすることが求められますが、これをそのまま喰い物商売に適用出来ないとはいえ、商売の健全性の指標ではあるわけですね。喰い物商売にはもてなしの商売固有の心映えの問題がありますけれど、客の側があんまり過剰な要求をするのもフェアではないだろうと思うわけです。

勿論、客は商売人に対して我儘を言って好い立場ですから、客としてそういう要望を出す分には構わないんですが、健全な商売を営んでいる商売人に対して単なる無根拠な我儘で商売の仕方の是非を論じるのはどうなんだろう、と思うわけですね。

これはhietaro さんがそう仰っているという意味ではありません、ラーメン屋が化調を使うことを大した根拠もなく恥と決め附ける考え方は不当に苛酷だろう、という話をしているわけです。突き詰めて考えると、後ろめたく感じなければならない根拠なんてないのであって、本来料理人の心映えというのは喰い物商売としてどれだけ真面目に味に向き合っているのかで量るべきであり、それは外から視た場合にわかりやすい化調の使用不使用を指標にして量るべき事柄ではないということです。

hietaro さんならおわかりでしょうが、それはつまり、実際に喰ってみて「こいつら手抜きしてやがるな」と思ったら、その実感を信じて批判すればいいのであって、化調を使用しているとかしていないというようなわかりやすいラベリングで判断すべきではないだろうということです。

味に掛けられる手間というのは際限がありませんから、コスト意識の健全性の観点を外して手間吝みと言っちゃうと、何とでも言えるんですよね。では、その手間に対して健全な対価が支払われているのか、という問題が必ず付随します。

手間や原材料の原価というのは、本来なら価格に反映されてこそ商売として健全なわけですが、たとえばラーメンの対価が一杯一五〇〇円くらいだったら商売として成り立つのか、という話で、現実的に謂えば、幾ら美味くても一杯一五〇〇円のラーメン屋がそうそう商売として成り立つわけがありませんね。

つまり、六〇〇〜九〇〇円の価格帯というのは、これはつまり「美味しいラーメンを作るのならこのくらいとる必要がある」という意味合いにおける設定条件ではなく、一般的にラーメンを好む人々が「このくらいならラーメンに払っても好い」と考える最大公約数としての設定条件ですよね。物凄いラーメン好きなら、コスト収支が健全でさえあれば幾らでも払うという人もいるでしょうが、それは極々少数派でとても商売を支えるだけのマッスではないでしょう。

最初からラーメン屋というのはその価格帯で引き合うように料理を設定する必要があるわけで、アウトプットとしての味に自信があれば原価や労力に応じてピンキリで価格を設定出来て、一般にもそういうものだと思われて商売が成り立っている高級専門料理の分野とは別物と考える必要があるでしょう。どんなに美味くても、一五〇〇円とか二〇〇〇円のラーメンは商売として成立しないはずです。

そして、もしも一五〇〇円くらいの労力や原材料が注ぎ込まれているのにそれを六〇〇〜九〇〇円で提供しろというのなら、その分ただで働けとか損益を呑めというのと代わりがないわけで、健全な商売ではないわけです。こんにち製造業一般が陥っている構造的な問題性が食の分野にももたらされるだけの話でしょう。

オレの友人の味のわかる人は常日頃こういうことを言っています。「美味いモンが喰いたかったら、その手間や技術や原価に見合うだけのカネを払え、値を吝むくせに美味だけを要求するな」と。度々引き合いに出される美味しんぼの原作者の雁屋哲も「美味いものを喰うのにカネを吝むな」というふうに言っていますね。美味しんぼの化調否定というのはそういう前提の話で、一種貴族主義的ではあるわけです。

少なくともオレは、一食一〇〇〇円未満の料理に化調を使うななどと言うのは割合図々しい要求だと思いますし、普通に考えてラーメンのように味の濃い料理を無化調で行くならもっととらないと絶対引き合わないはずなんですよ。

多分hietaro さんの元々の趣意としては、それこそ「うわ、やっちゃったよ、業界誌の発言とはいえ度胸あるなぁ」的な滑稽味をご紹介されたのでしょうけれど、化調問題に割り切れないものを感じているオレとしては、どうも「やっちゃった」という感じ方そのものに抵抗を感じる、そういう違いということなんでしょうね。

結局オレは、特定の料理分野においては、さまざまなアスペクトにおける多様性が確保されていて、それぞれのレベルにおいて概ね健全な商売が成立していればそれでいいのであって、化調使用を軸にして商売の健全性や料理人の心映えを量る考え方にさしたる根拠などないと考えているのですね。

敢えて言うなら、「多寡が」一〇〇〇円未満の価格帯の単品商売において、化調の使用を問題視する考え方自体が不合理だろうし、店の側が後ろめたさを感じなければならないとする考え方に抵抗があるということで、それはオレが嫌いな種類の不合理性だというところなんでしょうね。

ただまあ、化調使用問題というのは、ラーメン業界一般が高級専門料理張りに「味の求道」みたいな「フィクション」を語りすぎたツケなんではないかと思うところもありますが(笑)、まあそれだってB級グルメという範疇における業界振興的な「物語性」だったはずですよね。

そういう意味では、逆にhietaro さんが紹介された「麺哲」のご主人には頑張って戴きたいと思いますし、六〇〇〜九〇〇円という相場感が撤廃されれば、それこそラーメン業界は本当の意味で何でもアリの自由度を獲得出来るはずで、無化調を食の思想として主張することにも正当性が出てくるでしょう。

たとえば、一杯二〇〇円前後の立ち食い蕎麦から、二〇〇〇円前後の老舗専門店までの振れ幅がある日本蕎麦程度の多様性が獲得されて、それで初めて無化調の要求というのは根拠を得られるのだと思います。結論としては、やはりラーメンという料理の一般から視た格の問題というか、相場観が問題だということになるんですかね。

管理人 :

>黒猫亭さん

 まず最初に確認しておきたいのですが、私は何度かいっていますとおり、「化調が悪い」(その理由はいろいろだとしても)という何となくの思い込みというのは、客だけが持っているものではないと思っています。それは店側も持っているだという前提です。たとえそれが(少なくとも「体に悪い」という文脈で)無根拠なものであっても、それを店側だけがわかっていて客側はわかってなくて、客がそれを店側に不当に要求している、とは認識していません。店側もそういう認識を「なんとなく」持っていて、それが「後ろめたさ」の一因だと考えています。

 ……という前提で、話を進めますね。

>それ故に、やっぱり問題は化調使用を忌避する妥当性の問題に投げ返されるのかな、と思います。
>で、オレが化調問題の一番の問題点だと思っているのは、店の側も客の側もなんで化調を使うことが悪いのか確たる考えもないのに、何故か悪いというのが前提視されているという辺りの気持ち悪さなんですね。そして、それが本当に悪いことなのかと突き詰めて考えていくと、どうも根拠らしい根拠がサッパリ見当たらないわけです。これに関しては、おそらくhietaro さんも問題意識を共有されていると思います。

 少なくとも「体に悪い」という俗説についてであれば、その通りだと思っています。

(前も書きましたが、当エントリについてのいくつかのコメントを見ると、「こういう問題を取り上げる=化調使用についてヒステリックに反応する自然食品至上主義者」(←私のことですよ(^^;; )だという、これまた思考停止の的外れなものが幾つもあってビックリしてしまうのですが、これはおそらく、実際にその人たちがそういう「化調使用についてヒステリックに反応する自然食品至上主義者」を何人も見てきたからなんだろうなあ、とも思います)

>それらすべての条件附けを取っ払って、使用する店と使用しない店を等価で対置されたこのご意見は、使用しないことを是とする前提のご意見ということになるかと思います。
それはやっぱり、「ラーメン業界における化調問題」という問題性が実態的に存在するという前提のお話なのだろうと思いますし、果たしてそれはどうなんだろうというのがオレの感じ方だということになります。
>hietaro さんのお話を伺えば伺うほど、ラーメンへの化調使用を忌避する感じ方の無根拠性を強く感じてしまうわけで、hietaro さんが以前語られた合成保存料の問題と同種の問題性こそがむしろ重要なのではないかという確信が深まっていきます

 私の場合は、先に書いたとおり、化学調味料を使うことを特にコスト(ここで言うコストとは金額だけを指しません)面から積極肯定する店は、他の手間を省くことも大いにあり得ると捉えたということ(私はある程度根拠があると思っていますが、ただそれは汎用的に当てはめられるものでもない、というのは一連のやり取りの中で出た結論だと思っています)、そして店側自らがコミットした形で作り上げた、(黒猫亭さんの言葉を借りれば)「フィクション」の看板を自ら降ろすことへの「あれれ」感というところです。これを、化学調味料の無害性とからめて「無根拠性」といってしまえる話ではないのではないかな、と思います。

 例えば合成保存料(まあ合成でなくてもいいんですが)の使用問題というのも、店が別のところで「いやあ、宣伝文句では保存料不使用って言ってるけど、実はあれ、ほんとは保存料表示の義務のないものを使ってるんだよね。まあ害もないし、いいでしょ」なんて言ってるのを聞いたら、私はやっぱり同じように「あれれ」と思ってしまいます。

 保存料の問題はラーメン以上に積極的に店側が「不使用」(=フィクション)を謳ったわけで、それを「忌避する感じ方の有/無根拠性」というのは、保存料自体の有害性/無害性の問題とは切り離して考えることが可能だと思います。

 私は、結局のところ、黒猫亭さんが最後にまとめる形で書かれている

>ただまあ、化調使用問題というのは、ラーメン業界一般が高級専門料理張りに「味の求道」みたいな「フィクション」を語りすぎたツケなんではないかと思うところもありますが(笑)、

 という部分が、最終的な「違和感」の原因なんだと思っています。
 そしてこの「フィクション」には「化調不使用」も含んでいた。いえ、明示はしなかったかもしれませんが、それは「消防署の方から来ました」というのと同じレベルの話であって、やはりそれを連想させていたのは事実でしょう。

 冒頭で書きましたが、「化学調味料が(その内容はそれぞれとしても)悪い」という認識は、客だけではなく店側も持っている認識であって、その「フィクション」もまた、客側と店側で共有されているものだと思います。この部分が、どうも黒猫亭さんのお話では客側だけが不当に店側に押しつけているという認識なのかな、と思うのですが、どうでしょう。

 その自分で作り上げた「フィクション」をぶっちゃけてしまうところが、違和感の大きな部分なのかな、と思っています。

 だから「忌避する感じ方」の根拠を求めるとすれば、そう誘導してきた業界にも根拠があるのだろうと思います。

>hietaro さんが語られたように、化調使用というのは「外食一般、あるいは現代の食一般に言えてしまうこと」であり、ラーメン業界においても「今は化調の味は化調の味として、そういう味も支持されるし、そうでないものも支持される」という状況であるならば、化調問題という問題性の切り取り方自体が自明のものではなく、一定の恣意性に基づいた問題設定だ、という考え方も出来るわけですね。……極端な話、それは好みの問題にすぎないという話に決着するでしょう。

 そうでしょうか。その味を「化調の味」として明確に認識されているかどうかは別だとは思うのですが。
 たいていの場合は客はその味が化調由来のものであるかどうかは区別がつかないだろうし、とすれば「使っている」ことを知った時に、「まあ外食だし、そりゃそうでしょ」となるか「やっぱり、このガツンと来るのがいいよね」となるか「ええええまじかよ~」となるかは人それぞれとして、それぞれ別々の反応があり得る、ということであれば、それは問題設定としてはさほど恣意的とも言えないのではないかと思うのですが。

>それは化調使用を恥じるか恥じないかという問題には結び附きようがないわけで、では何故化調を使用していると言ってはいけないのか、という問題に投げ返されるわけです。

 そういうことなんでしょうね。

 で、考えてみました。これと、「何故ラーメン業界において殊更に化調問題が取り沙汰されるのか」について。

 おそらくは↑の「フィクション」の問題になってくると思います。

 一昔前まで、「ラーメンについて語る」ことは、イコール「スープについて語る」ことでした。ラーメン屋は麺を外注することはあってもスープを外注することはなく(セントラルキッチンを用いるFCチェーン店であっても、チェーンのアイデンティティは麺以上にスープだった)、大きな寸胴鍋は、ある意味ラーメン屋の象徴でもあったわけです(これは今でもそうですが)。昔テレビでやっていた「ガチンコ!ラーメン道」なんかでも、修行の内容はほぼ100%スープの作り方であり、製麺技術はありませんでした。

 ラーメン屋の成功物語を語る時も、「どのようにこのスープを開発したか」といったあたりが持ち出されるのが普通でした。
 ラーメン屋自身も、自らの味を語る時、スープにどれだけ手間をかけており、そしてその手間をかけているからこそうまい、と語っていたのでした。

 そういう物語(というか、宣伝)の中で、化調不使用の話が親和性が悪いのは必然的だったのだろうな、と思います。それは例えば「手間」であったり「苦労」であったり「素材」であったり、さまざまなコストがかかっているのだ、という主張であり、そうするからこそ「うまい」のだ、という話になるわけですから。

 こういう「スープ」偏重な宣伝が商品そのものの宣伝とイコールであったという歴史と、さらに他の外食とラーメンが違う部分を考えると、またもう1つ、本質的かもしれないと思うのは、「ラーメンは自宅では作れない」という点ではないかと。もちろんインスタント・ラーメンを除いて、ですよ。(^O^)
 つまり、他の外食のように家で作るものの洗練版、ではなく、外食でしか食べられないもの、つまり調理行程がブラックボックス(というのは大袈裟ですが)である点ではないかと。

 こういう状況の中で、主に「コスト」との関連で化学調味料の使用への言及が避けられてきたという歴史があるでしょうし、それに「化調は体に悪い」といった店/客共有の「なんとなくの思い込み」が結びついた、というのが

「何故化調を使用していると言ってはいけないのか」

の答えに近いのではないかと思います。

 また、このことは

>ラーメン専門店の化調使用を問題視する考え方というのは、やっぱりラーメン専門店の料理の格について過剰な期待や要求があるという言い方も出来るわけです。

というご指摘に対する答えにもなるのかな、と思います。「格」ではなく、やはり一般家庭の台所では作られないものですから、その調理過程については基本的には「想像」するしかないのですし、しかもそれについてはラーメン屋の宣伝として使われる(そしてその時に化調については「ない」ことになっている)という現実があるわけですから、もし「ラーメン専門店の料理の格について過剰な期待や要求がある」のだとすれば、それは客が当たり前に持たされてしまった期待ではないでしょうか。

 ですから、

>多分hietaro さんの元々の趣意としては、それこそ「うわ、やっちゃったよ、業界誌の発言とはいえ度胸あるなぁ」的な滑稽味をご紹介されたのでしょうけれど、化調問題に割り切れないものを感じているオレとしては、どうも「やっちゃった」という感じ方そのものに抵抗を感じる、そういう違いということなんでしょうね。

 という感じ方は、むしろ自然だと思うのですが、どうでしょうか。

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 なお、私が「ラーメンは安くない」という話を言ったのは、コストの話を直接言いたかったわけではなく、黒猫亭さんの

>ラーメンという大衆食の特異性というのは、きちんとしたマトモな組み立ての中華スープに化調を加えることによって、単離されたグルタミン酸やイノシン酸という東洋人が大好きな代表的旨味成分が過剰に強調されているところにジャンク性や大衆性があるのではないかと思います。

 というご指摘を受けた上で、ラーメンの「大衆食」としての位置付けが昔に比べて変わっているのではないかと指摘するためです。

 ですから、

>hietaro さんがラーメンと対置されたハンバーガーや牛丼というのは、勿論大手ファストフードチェーンの話でしょうから、そもそもそれは比較対象が妥当ではないという話になるでしょう。
>ちゃんとした店でハンバーガーや牛丼を喰えば、同じくらいかそれ以上の対価をとられるのだし、……ダイナースタイルの専門店で注文すれば、ハンバーグランチと同じくらいとられるわけです。ここは資本力や流通や経営形態の問題を料理分野の話と混同されていると思います。

 については、混同していません。
 ここでは「大衆性」の話をしているのですから、言ってみれば「昼飯に何を食おう?」といった時に挙がる選択肢の話をしています。そうなるとこの日本でハンバーガーであればチェーン店になるのは自然だと思います。で、その選択をする時に、ラーメンはさほど安くない選択になる、という話です。

 ここで言いたかったことは、

「ラーメンという大衆食の特異性」について、その「ジャンク性や大衆性」の源泉を「単離されたグルタミン酸やイノシン酸という東洋人が大好きな代表的旨味成分が過剰に強調されているところ」に求めたことについての疑問だったわけです。
「昭和ノスタルジー」の時代のラーメンの「大衆食としての位置付け」が今はかなり変わっている、という事実が、必ずしも上記の黒猫亭さんの主張を否定するわけではありませんが、少なくともすぐに結びつくわけではなくなっているのではないか、ということです。

 ですから、私の意図としては

>たとえばhietaro さんは主に価格帯の観点から化調使用のグラデーションをディスクライブされたわけですが、それはやはり結局のところ「高いカネをとれれば化調を使用しないラーメンが出来る」という話になってしまうわけですよね。

 という話をしたいわけではありません。まあしかしそういうことだとは思いますが。

>で、それは味自体に関して謂えば化調を使用したラーメンとは「別の味」になってしまうわけですよね。それはもう、価格帯の面から謂っても味の洗練の面から謂っても「高級専門料理」と謂ってしまって好いんだと思います。
>技術やセンスが同じなら、美味い食材を使えば美味い料理が出来るのは当たり前の話ですが、価格帯との兼ね合いで食材のグレードと店の味をバランスするのが、喰い物商売としては当たり前の話で、調味料に関してのみそれが通用しないというのも非常に無根拠な話ではあるわけです。

 これは結局「化調を使用したラーメンこそが、ラーメンである」という認識を前提にしてしか成り立たない話だと思うのですが、どうでしょうか。

 また、(これは偶然ですが)先日私はラーメンの方のサイトを久しぶりに更新したのですが、それをまとめていて気付いたのは、この数年で化調不使用の店はどんどん増えてきていることです。それらの店はだいたい評判もよく(化調不使用だからではなく、おいしいから)、価格も標準的なところに抑えられています。

 ですから、必ずしも「価格帯の面から謂っても味の洗練の面から謂っても「高級専門料理」と謂ってしまって好いんだ」とは思わないんですよ。

---------------------

 ……で、まあ、まとめますと、

 結局、化調使用の告白への違和感というのは、化調自身の安全性の文脈ではなく、

・店/客がそれぞれ持っている化調への「何となく悪い」という意識
・「ラーメン=スープ」という、一昔前まで圧倒的主流だった認識と、それに伴うスープ偏重の宣伝
・家庭料理の延長ではなく外食でしか食べないという特殊性(客が調理行程を必ずしも知らない)

の中で「化調使用」について語ることがタブー視されてきたことによるのだと思います。そしてこれについて客側に問題があると考えるのはどうだろうとも思います。

 おそらく認識として、黒猫亭さんの見方は、化調使用問題に関して「客側が過剰な要求を店に対してしている」という認識で、だから主に店側の立場から言及されているのに対して、私は「この幻想は店と客とで共有されてきたものであり、むしろ店はその幻想を利用して市場を広げてきた」という客側の立場から話しているという違いがあるのかなあと思います。

Y :

なぜラーメンがこれほどまでに今ブームなのか。

なぜチェーン店ではないラーメン屋が取り上げられる時に店と商品と、
「店主の顔」が紹介されるのか。


ここが、他の料理とラーメンの決定的な違いです。


ラーメンは、高級料理でもなんでもない。あくまで、20代の独身の男性が一人で
手軽に食べられる料理。
だけど、ラーメン単体で食事として成立する。一杯で完全食となり得る料理。
そして、決して家で自分で材料から作れない料理。

さらに、店のおっちゃんに会いに(話しに)行く、という側面もあるわけです。


なぜなら、ここ数年ブームを生んでいる人気店というのはどれも
店の大将が脱サラして店を始めた個人店ばかり。
どうしてこんなに美味しいの?と聞かれて、秘訣をそれぞれが嬉しそうに語る。

やはり、脱サラして商売を始めようという人間には経済効率や儲け第一主義の人は少ない。

おそらくという予想だけども、そういう人なら脱サラしてラーメン屋やらないw
もしくは、拝金主義の人はすぐに自分の店をチェーン化するので個人店の枠から外れる。

やっぱり、ラーメン屋さんというのは、自分でいかに美味しいものを作れるか、と
いうことを”素人観点から”考えるわけで、そのへんが人に温かさを感じさせる部分でもあるわけで。
素材へのこだわり、ひいてはお客さんの健康にも人一倍気を使う人が多い。


カップラーメンやチェーン店が当たり前という人の”ラーメン”というワードと
個人店のラーメン屋ばかり行っている人の”ラーメン”は別物でしょう。

そして、ここで語られているのは後者であって、前者なんてのはそれこそ
駅前の立ち食いソバと同列であるべきで、存在の否定はしませんが、
駅前の立ち食いソバが味うんぬんを雑誌で語ることを消費者は求めていない。

やはりその工業製品のようなジャンクフードの枠を超えて人を魅了しているのが
「今の個人店のラーメン」であり、それをカップラーメンの延長と考えている人は
ちと古いかな、と言わざるを得ませんね。


そして、味の素擁護をする人の典型的なパターンとして、「経済効率」だの
「店の手間とコストがはぶけるから」など、店に対して過剰なおせっかいをする。
そんなの自分で店をやるときに考えればいいことであって、自分で店も開いていない
業界人でもなんでもない人が考える必要なんて全くないわけなんですよ。
なんかオレはそこに気持ち悪さを感じるのです。味の素の回し者なの?とw

食品添加物を開発した人が本を書いていたのですが、その人が開発した薬品で、
半分腐りかけたクズ肉や余って廃棄処分になる肉が新鮮な色に染まって
ミートボールに加工されるようになった。その人は社会に貢献した気分でいた。
しかし、家に帰って自分の娘がそのミートボールを食べていたときに、「やめなさい」と
止めてしまったんだとか。そしてその人は会社を退職したそうです。
(食品の裏側:安部 司 著…この本はオレのバイブルです)

やっぱり人間の温かさってそういうとこにあるんじゃないかと。
今の個人店のラーメンの半分は、店主の優しさでできてんだ、と。
いちいち人口問題や生産効率性や経済まで持ち出して化学調味料の味方すんじゃねぇ、と。
オレは思うのです。

おそらくだけど、お母さんが作ってくれた肉じゃが、味噌汁、そういったものに似た
慕情が個人店のラーメンに求められているものなのかと。


その反面、化学調味料ドッサリ、ってわかっていてもやめられない中毒性を持った
ラーメンもたまには食べたくなるわけでwww

人間というのは不思議なもんですな。

ラーメンと化調の問題というのは、割合ヒートアップしがちな話題だという気がするので意図的にゆっくりめでやりとりをさせて戴いているのですが、正直Yさんのようなご意見というのはかなり対処に困ります。

この議論の文脈で言うと、オレが挙げた論点に沿ってご意見を語られているし、オレの言い回しを意図的に真似ておられる箇所もあるので、オレのことを仰っているのかな、という気もしますが、それにしてはオレが申しあげている具体的な意見の内容とかなりズレがあるわけで、オレが直接当事者として反論したものかどうか迷います。

これはたとえばニセ科学批判批判の言説で「ニセ科学批判の論者は…」的な批判を一般論として語られて、それに対して抗議すると「あんたの言っていることには当てはまらないんだから、あんたのことを言ったんじゃない」と返される時のような居心地の悪さを感じます。

このままでは荒れるとお考えでしたら、ここで議論から降りてもまったく異存はないのですが、如何なさいますか?>hietaroさん

管理人 :

 そうですね。

 私も荒れることは望んでいませんので。
 ……こういうのはどうでしょう?

 まずYさんには誰へのコメント(私であるのか、黒猫亭さんであるのか、特定個人に向けたものではない一般論であるのか、その他)であるのかを明らかにしていただき、さらにこれ以降も(その相手との)議論を望むのかについてコメントをいただきましょう。
 そしてもしもこれ以降も議論を望まれる場合は、冷静に議論をしていただくということを明言された上で(上記の御意見は少し感情的に見えます。それを踏まえた上で)お願いします。

 Yさんのコメントがいただけるまで、この議論は一旦お休みする、というのはいかがですか? >黒猫亭さん

>hietaroさん

申し分のないご裁定だと思います。では、そのように。

Y :

あらら…荒れるかも?という危惧を抱かせたとは失礼いたしました(´・ω・`)

オレの文章はもともとこのような表現方法であり、決して黒猫亭さんの言い回しを
意図的に真似ているわけではありません…似た部分があるとお感じならば
どの部分がそう思わせたのでしょう?ご指摘いただきたい。
というか、普段のオレのコメントは「よそいき」ですが、このテーマは本音で
語った部分が多いので素の表現になっていますので、変化を感じられたのかな?^^;

オレ自身としては誰でも使うごく当たり前の表現しか使ってないつもりです。
(そのような言葉尻を捕らえて茶化すような真似をして人のブログのコメント欄を
荒らそうと考えるほど人間できておりませんので(・ω・;A)アセアセ…)

そしてコメント欄で黒猫亭さんが化学調味料を肯定的に書かれているので、
オレはあえて否定的に反論として書かせていただきました。

中身がずれている、とのことですが、全てにおいて言及しているわけではございません。

黒猫亭さんの文にある中で、特にオレにとって印象的だった

>ラーメンという料理の一般から視た格の問題というか、相場観が問題

これに対して

>カップラーメンやチェーン店が当たり前という人の”ラーメン”というワードと
>個人店のラーメン屋ばかり行っている人の”ラーメン”は別物でしょう。

と書いています。言葉足らずだったかもですが、価格面と求められる品質、
という意味でも全く同じだと思います。

また、

>ラーメン屋が化調を使うことを大した根拠もなく恥と決め附ける考え方は
>不当に苛酷だろう、という話をしているわけです。突き詰めて考えると、
>後ろめたく感じなければならない根拠なんてないのであって、本来料理人
>の心映えというのは喰い物商売としてどれだけ真面目に味に向き合ってい
>るのかで量るべきであり、それは外から視た場合にわかりやすい化調の使
>用不使用を指標にして量るべき事柄ではないということです。

という部分。おそらくここがこの議論のキモとなる重要な部分だと思うのですが、
オレはここに一番違和感を感じるわけですよ。


料理人の心映えというのは”食い物”にどれだけ真面目に向き合っているのかで量るべきであり

ならわかるのですが、なぜ”食い物商売”になるのかがわからないのです。

料理人というのは経営者(オーナー)でしょうか。サラリーをもらってる店長でしょうか。

そのへんについて色々と言いたかったのですが、できるだけ短くわかりやすく
まとめたつもりでああいう風に表現したつもりですが。

少し冗談風な表現を交えて短くまとめたつもりですが、黒猫亭さんが不愉快に感じてしまって
感情的にならざるを得ない、またはオレのことを議論するにも当たらない、と評価されれば
スルーしてくださって結構です(´-ω-`;)

管理人 :

>Yさん

「感情的」に見えたのは「誰に」「どういう発言に」書いているかわからなかったからという部分が大きかったのだと思います。

おそらく

>そのへんについて色々と言いたかったのですが、できるだけ短くわかりやすく
まとめたつもりでああいう風に表現したつもりですが。

このあたりが難しいのかなあと。

「短くすればわかりやすくなる」というのは必ずしもそうではなく、むしろ誤解を与えないためにちゃんと説明するというのがテキスト上のやり取りでは必要になってくると思います。

現に、今回明らかにされた発言意図を踏まえた上で元発言を眺めると、最初に感じたほど感情的には読めないような気もしますし。

>Yさん、黒猫亭さん

私としては、もう少し丁寧な説明をしていただくということを前提に、お話を続けていただいてかまわないと考えていますが、黒猫亭さん、いかがでしょうか?

これについて黒猫亭さん、Yさん双方が納得されましたら、冷静に議論をお続け下さい。


……ちなみに、私は前のコメントで

>当エントリについてのいくつかのコメントを見ると、「こういう問題を取り上げる=化調使用についてヒステリックに反応する自然食品至上主義者」(←私のことですよ(^^;; )だという、これまた思考停止の的外れなものが幾つもあってビックリしてしまう

と書いたのですが、この原因?と思われる記事を発見しました。

「食品と暮らしの安全」バックナンバー(●広がる『無化調』ラーメン)
http://tabemono.info/gekkan/back08.html

化学調味料で勝負する有名ラーメン店/偽食のテーブル19
http://okd-galaxy.cocolog-nifty.com/a4/2008/05/post_d1b4_1.html

この販促パンフレットは↑のようなところで既に紹介されていたのですね。

こういう採り上げられ方をされていたのを前提にすれば、「そういう反応があるのかなぁなるほどねぇ」とは思うかな。

>hietaroさん

Yさんのコメントを何度も読み返させて戴いたのですが、どうもオレは、この方が一連の議論をきちんと読まれた上で批判されているとは思えないのです。つまり、まったく話が通じていない。議論を継続するか否かは、オレやYさんの意志の問題というより、議論が「成立するか否か」の問題ではないかと思います。

個人的な基準としては「部分的に反論する」というのはアリだと思いますが、「部分的にしか読まずに反論する」というのはナシだと思います。オレもこれだけ長々とコメントを書いているわけですから、「読まれないリスク」「黙殺されるリスク」程度は受容しているつもりです。しかし、「読まずに反論されるリスク」というのは、筋から言って受け容れる必要はないと思います。

その上で、今回の議論に関しては、これだけ長くてもきちんと目を通して戴けるだろうし、同じくらい踏み込んだお返事を下さるだろうという信頼感があるからhietaro さんと直接議論を交わしているわけです。その対話上で通じない部分があれば、それは当たり前の読み手には現状の書き方で通じないことなのだから、改めて説明すべきことだろう、と考えるわけです。

しかし、どうもYさんのコメントを拝読すると、普通に読まれたのならそうは受け取られないだろうと、少なくもオレには感じられるような読解が目立ちます。当然、自分の書いたものの真意がどれだけ他人様に通じるのかは、自分自身で判断することは出来ないですからhietaro さんにお伺いしますが、Yさんによるオレのテキストの読解は納得可能なものと言えるでしょうか。それとも、オレが逐次的に真意を説明し相手の誤読を指摘する必要があるとお考えでしょうか。

また、Yさんのコメントの、

>>少し冗談風な表現を交えて短くまとめたつもりですが、黒猫亭さんが不愉快に感じてしまって感情的にならざるを得ない、またはオレのことを議論するにも当たらない、と評価されればスルーしてくださって結構です(´-ω-`;)

という箇所を読む限り、この方はhietaro さんが危惧されているのが「黒猫亭が感情的になること」だと考えておられるようにお見受けしますが、オレやおそらくhietaro さんもそうだと思いますが、この方の当該コメントそれ自体が感情的で、このまま議論が続けばYさんの感情がさらにドライブするのでは、と危惧していたわけですよね。

この方が仰るように、「黒猫亭が感情的になること」が問題なのだとすれば、前回オレがhietaro さんに「荒れるかもしれないので」と申しあげたのは、「オレがキレて暴れるかもしれない」と予告したということになります。これも、普通にhietaro さんのコメントを読めばそういう意味には取れないと思いますよ。

どうもですね、話がまったく通じていないし、現状で話が通じないのに、この上さらにくだくだしく説明を重ねればマトモに議論が成立するかと言えば、オレにはそうは思えないんですよ。

たとえば、

>>なんかオレはそこに気持ち悪さを感じるのです。味の素の回し者なの?とw

>>いちいち人口問題や生産効率性や経済まで持ち出して化学調味料の味方すんじゃねぇ、と。
>>オレは思うのです。

Yさんがお尋ねの、「オレの論調の真似をしたのでは」と思う箇所は「オレはそこに気持ち悪さを感じるのです」というくだりで、この推測はオレの2008年6月13日12:34のコメントの以下の部分を踏まえています。

>>で、オレが化調問題の一番の問題点だと思っているのは、店の側も客の側もなんで化調を使うことが悪いのか確たる考えもないのに、何故か悪いというのが前提視されているという辺りの気持ち悪さなんですね。

まあ、「真似をした」という言い方は少し強すぎるかもしれませんが、「あんたがそこに気持ち悪さを感じるならこっちはここに感じる」というアンサーとして読むことが出来るという意味です。その割りには、全体を読むとオレに対する直接反論なのかどうか判然としない、だから対処に困る、そういう文脈で申しあげたことです。アンサーという意味なのかどうなのか判然としないのであれば、精々「真似をした」としか表現出来ないですよね。

これは偶然だそうですから、それはそれでオレの誤解ということで結構です。現在のオレの見解としては、Yさんはオレがそのように言ったことを「ご存じない」のだろうと思っています。ただ、普通に議論の流れを追っておられる読み手からすれば誤解を招くタイミングと表現であることはYさんにもご理解戴きたいと思います。

また、「味の素の回し者なの?」というのは、相手に対して現実的な利害に基づいて主張を展開しているのか(つまり水商売関係者が天羽準教授を批判するような)、と仰っているという意味にとれますから、普通は「業者乙」的な罵倒表現ですよね。またさらに「○○すんじゃねぇ」というのも、「オレは思います」と付け加えられているとしても、普通は喧嘩腰で高圧的な啖呵を切ったと解釈するのが自然ではないかと思います。

これは、冗談とか砕けた口調というのではなく、普通はそのように解釈される表現だということです。ましてオレとYさんは、現時点では、冗談かそうでないかが通じるような間柄ではありませんよね。で、さすがにオレも、これまで殆ど会話を交わしたことがない方がいきなり直接罵倒や啖呵をぶつけてこられるとは思えないので、これはもしかして一般論であって、オレ個人でなくYさんが想定しておられる「化調肯定論者」一般に対して言っておられることなのか、と解釈したわけです。直接オレに向けて言われたことなのであれば随分喧嘩腰で議論を挑まれる方だな、と解釈せざるを得ないですし。

結局Yさんが仰るには、オレの意見に対する直接的な反論だそうですから、実際には罵倒され啖呵を切られたと解釈するのが正しいということになります。そして、Yさんのご説明によると、罵倒や啖呵と受け取れる部分は「冗談風な表現」だということです。

それ自体に対して当事者的な意味合いでどうこう言うつもりもありません。しかし、そのように書いてしまわれる以上は、言葉の通じ方について目測を誤っておれらる部分がある、つまりやはり冷静でない部分はおありになるのだろうし、これは「落ち着け」と言って何とかなるようなことだとは思いません。この方にとっては「化調を肯定する」という論旨そのものがお気に召さないのであって、その論旨の内容が具体的にどうであるかには剰りご関心がないように思いますので。

おそらくこの方も、普段なら、全部読む気がしないコメントについてわざわざ口出ししようとまでは思われないのでしょうし、喧嘩腰であると解釈するのが自然なような冗談をほぼ初対面の相手にぶつけようとは思われないのでしょう。そう考えるのが礼儀だと思いますが、今回はそのような行為に出られたわけです。それは冷静ではないからだ、と解釈するのが一応の礼儀ではないかと考えます。

何というか、オレが最近度々hietaro さんのところにお邪魔して煩瑣くご意見を差し上げているのは、以前他の方とされた九条護憲派を巡る議論のような気持ちよい議論がオレにも出来るかな、と期待してのことなんですが(笑)、どうもやっぱりオレの言説には異論がおありの方の感情をドライブするところがあるのかもしれませんね。

経験的に言えば、とくにそれが個人の主義主張の根幹に関わるテーマを巡るものだと、全人格を否定されたような不快感を感じられる方も多いように思います。それは少し、余所様のコメント欄の議論としては穏当ではないのかな、と思うところもあります。

以前hietaro さんから戴いたご意見を受けて申しあげたいこともあるんですが、ここで議論を継続することは断念して、意見が煮詰まったら自分のところのエントリーにするのが好いのかな、とちょっと思い始めています。

>>「短くすればわかりやすくなる」というのは必ずしもそうではなく、むしろ誤解を与えないためにちゃんと説明するというのがテキスト上のやり取りでは必要になってくると思います。

手前味噌かもしれませんが、これはオレも十数年来のネット経験から痛感するところです。文章を端的に手短に纏めるというのは、本来かなり高度なスキルを要されることであり、志賀直哉のような端的で的確な省略表現や「天気晴朗ナレド」式の報告文のお手本が誰にでも表現可能なわけではありません。

さらにそれは、読み手に前提が共有されており、注意深い読解のモチベーションが期待出来るという条件附けが必須で、事実のみを的確に配列する報告文や解釈の振れ幅を余韻として残す物語叙述においては或る程度有効ですが、未知の相手との議論においては必ずしもその条件は期待出来ません。というか、未知の相手との議論は、最初から意見が対立していたり、前提を共有していないから起こるわけで、それを期待するほうが間違っていると思います。

実際には、短く書くべしという価値観の故に、背景となる文脈や考え方を共有していない相手に対して至極曖昧な言い方になり、誤解をぶつけ合ったり確認の手間が重畳したりして、逆に議論全体が無意味に長引く傾向がありかえって非効率的なのでは、と思います。少なくともオレ個人に限って言えば、分量を短くすることは断念して、丁寧な説明を心懸け、自分に可能な限り読み易く書くことに努めるしかないと思っています。

管理人 :

>黒猫亭さんへ

黒猫亭さんの仰ることは、よく理解できました。

私が推察するに、Yさんはこういう形での議論に慣れていらっしゃらないのではないかと思います。

であるので、一般論と個別の論への反論を明確に整理しないまま発することになり、そして「ではそれは誰に向けたものか?」と問われれば、それは確かに黒猫亭さんに向けてのものだ、という返事になったのかなあと理解しました。

そしてそれが明確になれば(←それはYさん自身の中でも)、論点はもう少しはっきり浮き彫りになり、そうなれば次第にやりとりも冷静にクリアにならざるを得ないだろうと判断したのですが、ちょっと楽天的に過ぎましたか。(^^;

>しかし、どうもYさんのコメントを拝読すると、普通に読まれたのならそうは受け取られないだろうと、少なくもオレには感じられるような読解が目立ちます。当然、自分の書いたものの真意がどれだけ他人様に通じるのかは、自分自身で判断することは出来ないですからhietaro さんにお伺いしますが、Yさんによるオレのテキストの読解は納得可能なものと言えるでしょうか。それとも、オレが逐次的に真意を説明し相手の誤読を指摘する必要があるとお考えでしょうか。

これに関して、私自身、少し自分の中で勝手に解釈しすぎていたことをお詫びしなくてはいけません。

というのも、私はかなりの部分、Yさんの最初のコメントの内容を「無視」した上で、2回目のコメントの内容についてだけ見ていたのです。

で2回目のコメントで書かれている論点というのは「ラーメンという料理の一般から視た格の問題」と「料理人の心映え」の2点だけだったもので、この御意見自体は、その妥当性は別として、誤読の範囲とまでは言えないのではないかと思ったのです。

ただ、1回目のコメントについて、もしもこれを全て黒猫亭さんへのコメントだと考えた上で読み直せば、「誤読」が目立つという黒猫亭さんのご指摘に異存ありません。黒猫亭さんが言っていないことに「反論」している部分もある。

また、「味の素の回し者なの?」「○○すんじゃねぇ」といった言葉が「喧嘩腰」であるというのもその通りだと思いますし、解釈についての問題点についてもご指摘の通りだと思います。

わざと1回目のコメントを「無視」したわけではないのです。
2回目のコメントは、あくまでも1回目のコメントの意図を説明するものだと考えたので、ならば言いたいことは2回目のコメントであろうと考えた(というより、勝手に私がそう読んだ)のです。
ですから、その論点であれば続行は可能なのかな、と判断したのですね。

>何というか、オレが最近度々hietaro さんのところにお邪魔して煩瑣くご意見を差し上げているのは、以前他の方とされた九条護憲派を巡る議論のような気持ちよい議論がオレにも出来るかな、と期待してのことなんですが(笑)、どうもやっぱりオレの言説には異論がおありの方の感情をドライブするところがあるのかもしれませんね。

話題が話題だから、ではないでしょうか。(^^;
少なくとも私に関して言えば、黒猫亭さんの文章が感情をドライブさせる文章だとは思いません……というか、それは私が(少なくともこの話題で)黒猫亭さんと意見が対立していると思っていないからかもしれませんが(^^;、……って、え?ひょっとして、私もドライブしちゃってるように見えました? このへんは私自身が違うと言ってもそうだといっても意味ないのでしょうしねえ……。(^^;

あと、何と言ったらいいのか、私は冷静な議論で説得される経験というのは楽しいと思うんですよ。いや、「説得」というと違うのかな。先の九条護憲派についての議論も、双方とも基本姿勢は変わっていないと思いますし。ただ、議論を通じてこれまで見えなかったものが見えたり、問題点がクリアになったりといった経験が楽しい。
黒猫亭さんとの議論も、仮に黒猫亭さんとの議論に「勝った」として、世の中の何かが別段変わるわけでもないわけで、言い負かせることよりも、「なるほど、こういう視点がありますか」的な発見があればいいと思っています。

>以前hietaro さんから戴いたご意見を受けて申しあげたいこともあるんですが、ここで議論を継続することは断念して、意見が煮詰まったら自分のところのエントリーにするのが好いのかな、とちょっと思い始めています。

私自身は場所がどこになってもかまいません。
もしもそちらに上げられればそちらにコメントさせていただきますし、こちらで続行でも全然かまいません。
こちらでの「場」が維持できなかったとすれば私の力不足で申し訳ない、としか言えないです。

管理人 :

>Yさんへ

黒猫亭さんからこのような表明があり、私もその多くにについて納得がいっています。(これは話の内容ではなく、議論の仕方について、です)

たとえば、

「味の素の回し者なの?」
「○○すんじゃねぇ」

あたりの表現まで使われている1回目のコメントについて、

「オレ自身としては誰でも使うごく当たり前の表現しか使ってないつもりです」

と書いてしまうのは、これ以上の議論について相手に危惧を感じさせるのは当然だと思います。そして失礼。
(一般論として発せられたのであれば問題なかったと思いますが、黒猫亭さんへのものであると明言されたのですから、そうならざるを得ません)

また、私の黒猫亭さんへのレスにも書きましたとおり、少なくとも1回目のコメントについては、私から見ても黒猫亭さんの議論を踏まえたものとは思えない部分もあります。

ですから、議論の意志があるのでしたら、できれば「どこがそう読める?」などという反論ではなく、まずは黒猫亭さんの文章をもう一度読まれてそれを踏まえた上で、もう一度仕切り直して反論をして下さい。

「一般にこういう人がいて、これはダメだ」という御意見であるならば、それはそれとして御意見としてあり得ますが、それを個人への反論に混ぜると話が混乱する元ですから避けていただくか、その意図を明確にして下さい。

なお、誤解されないとは思いますが、念のため申し上げますと、この時点で私も黒猫亭さんも、Yさんの御意見の内容についてどうという話はしておりません。
あくまで議論を噛み合わせるために必要な条件についてだけ語っています。ですから、その条件について守っていだだくならば、通常の議論が可能だと思っています。

Y :

なるほど、そういう風に捕らえられたのですね~
おっしゃることがいちいちもっともだったので、ウンウンと
画面の前で何度も頷いてしまいましたww

多少の冗談風味が文末の表現で出せているのかな、と自分では
思っていたわけなんですが、もう一度自分の文を見てみると、
確かにまったくのケンカ腰に見えてもしょうがないな…と反省しております。
ごめんなさい。

>この方が仰るように、「黒猫亭が感情的になること」が問題なのだとすれば、
>前回オレがhietaro さんに「荒れるかもしれないので」と申しあげたのは、
>「オレがキレて暴れるかもしれない」と予告したということになります。
>これも、普通にhietaro さんのコメントを読めばそういう意味には取れな
>いと思いますよ。

これも、黒猫亭さんがキレて…という意味ではなくてですね、
黒猫亭さんはオレのことを感情的であり、冷静でない人物とみられている状態が
今ここにあり、実際そう見えてもしょうがないところでオレがまた何か四の五の
述べても、黒猫亭さんが相手をするのが煩わしく感じられるのではないだろうか、
そしたらそれに返答するときにも感情的になってしまうのではないか、と思った
のでこういう表現になってしまいました。


真似をした~というくだりですが、う~ん、これはまったく意識もしていない
箇所であったので、そう取られてしまうこともあるのだな、と言うしかありません(´・ω・`)
アンサーでも真似でもなく、ずっと感じてきたことを述べただけなので…

とここまで書いて思ったのですが、オレはこの議論から降りさせていただきます。


一応コメントをつけた最も最大の理由としては、化学調味料肯定派の人々にコメントが見てもらえる、
つまり化学調味料反対派の中にはこういう風にラーメンと化学調味料を捕らえてい人もいるだよ、と
いう一例を示したかったからなので。


上記のコメントが感情的で冷静でない、と捕らえられてしまうのももっともだ、ということ
部分的にレスを返すということがいけなくて全部を読んでいない、と判断されてしまうということ


この2点に留意してコメントをこれ以上続けるためには、自分の分を超えた労力と時間と気遣いが
必要であり、そこまでオレが成熟もしていなければ志賀直哉を持ち出す知識もなく、
またご自分で長い文章を書いていると自覚されている黒猫亭さんの相手をするには
この先も文章全体を逐次引用レスしていくほどの根気も時間も持ち合わせておりませんで、
議論の相手としては自分はふさわしくない相手だな、と思ったわけでして。


また、最後にオレの方からももう3度黒猫亭さんのコメントを見たところ、やはり

>どうもやっぱりオレの言説には異論がおありの方の感情をドライブするところがあるのかもしれませんね。
>経験的に言えば、とくにそれが個人の主義主張の根幹に関わるテーマを巡るものだと、全人格を否定された
>ような不快感を感じられる方も多いように思います。それは少し、余所様のコメント欄の議論としては穏当
>ではないのかな、と思うところもあります

という前半の箇所においては、ご自分でもお気づきでしょうがかなり鼻につく部分が見られまして
やはりこちらとしても冷静にこれからおつきあいしてコメントしていくのはちとご勘弁…と
なってしまうストレスフリーな身勝手さを許していただきたい。
感情をドライブされたようにも全人格を否定されたようにも感じていないところで
そんなことを言われても…

また、後半のhietaro氏のブログの中でこれ以上こういった議論を続けるのは
穏当ではないのかな、と全く同意いたしますので。

オレのこの記事へのコメントはここで終了させていただきます。
hietaroさん、黒猫亭さんのお二人で議論をお続けください。

Y :

hietaroさんへ。


ああ~記事読んでからコメントするまでのタイムラグ中にhietaroさんのコメントが
ついてしまっていたのですね…しかも、なんか変なエラー出て更新クリックしまくった
ためか、コメント数も劇的に増えてしまっているような…?(・ω・;A)アセアセ


>「味の素の回し者なの?」
>「○○すんじゃねぇ」
>あたりの表現まで使われている1回目のコメントについて、
>「オレ自身としては誰でも使うごく当たり前の表現しか使ってないつもりです」
>と書いてしまうのは、これ以上の議論について相手に危惧を感じさせるのは当然だと思います。そして失礼。

「オレ自身としては誰でも使うごく当たり前の表現しか使ってないつもりです」
というのは、文章の表現を真似したものではないよ、という言い回しの箇所だけの
意味であり、


>「味の素の回し者なの?」
>「○○すんじゃねぇ」

この部分に関しては先ほどのレスにも書いたとおりですね、オレの書き方が非常にまずいものに
なってしまっていた、という部分はまったくそのとおりですので謝ります。

>ですから、議論の意志があるのでしたら、できれば「どこがそう読める?」などという反論ではなく、
>まずは黒猫亭さんの文章をもう一度読まれてそれを踏まえた上で、もう一度仕切り直して反論をして下さい。

先ほどのレスにも書いたとおり、もう議論の意志はなくなってしまいました^^;


>「一般にこういう人がいて、これはダメだ」という御意見であるならば、それはそれとして御意見として
>あり得ますが、それを個人への反論に混ぜると話が混乱する元ですから避けていただくか、その意図を明
>確にして下さい。

一般にも黒猫亭さんにも言いたかった化学調味料肯定派への意見であり、
自分の中で黒猫亭さんのレスを意識してコメントしました、という姿勢です。

「そしてコメント欄で黒猫亭さんが化学調味料を肯定的に書かれているので、
オレはあえて否定的に反論として書かせていただきました。」という
2回目のレスに書いたこの部分がコメントした理由の大半です。


>なお、誤解されないとは思いますが、念のため申し上げますと、この時点で私も黒猫亭さんも、
>Yさんの御意見の内容についてどうという話はしておりません。
>あくまで議論を噛み合わせるために必要な条件についてだけ語っています。ですから、その条件
>について守っていだだくならば、通常の議論が可能だと思っています。


とせっかくお気遣いいただいたので申し訳ないのですが、オレはやはりこれ以上
このコメント欄でお二人のおっしゃるような議論の形をとってコメントを続ける
ことはできないと思います。

また、3回目のレスにも書いたように、黒猫亭さんがご自分で長い文章を書いていることを
自覚されていること、また「オレの文章って相手の全人格を否定しちゃうっぽいところが
あるから相手の感情をドライブする可能性あるんだよね、フフン」というような姿勢が
見え隠れすることが、それこそオレの感情をドライブさせてしまいそうなのでw
やはりここでコメント欄への投稿をストップさせていただくことをお許し願いたい。


オレはおっしゃるとおり「議論に勝とう」とかも思っていなくて
あくまでよそ様のブログへのコメントによって自分の感じたことを
書きたかっただけですので。

化学調味料肯定派の人がこのエントリとコメントを見て、一人でも化学調味料を
使わないラーメン屋さんの真摯な姿勢に共感してくれることを願います。

議論の仕方うんぬんで話がストップしてしまったのですが、罵倒やら議論やらを
一切抜きにしたところで、いきなりオレのコメントの2回目をこういう場所で
見せたらどのように肯定派の人々が反応するかは自分でも見て見たいのですがw

最後に、荒れるように思われる結末になってしまったことを深くお詫び申し上げます。
以上、本当に終わりですw

管理人 :

>Yさん

了解しました。

>hietaro さん

いろいろ考えたのですが、やはりこちらで議論を継続することは相当困難ではないかと結論致しました。hietaro さんの管理能力を疑うわけではありませんが、こちらで議論を継続することは、個人としてのhietaro さんに大きな苦痛を与えると思います。

一連の経過はすべて見守らせて戴きましたから、Yさんがここで議論から降りると仰っても、議論が継続すればその保証はないと判断するに足るだけの根拠はあると思います。その場合、hietaroさんが場の維持を保証されるのであれば、かなり厳しい対処をせざるを得なくなると思うのですね。

現状でも、オレはYさんのコメンタリーにアンフェアなものを感じていますが、ここで議論を断念するならそれを問うことに意味はありませんから、敢えて問いません。しかし、継続するとなると、将来的に同様の事態が出来した場合に備えてhietaro さんに是非のご判断を戴くということになると思います。

それはhietaro さんにとって大きな苦痛を伴うものではないかと愚考致しますし、それでもこのような事情によって議論が影響を受けるべきではないというのもお考えだとは思いますが、オレとしてはオレ個人が持ち込んだ論点の故にhietaro さんがこれ以上苦痛を感じられることは望みません。

そういう意味で、もうhietaro さんにご判断を委ねることなく、自己責任でこの議論から降りさせて戴きます。将来的にこの議論を踏まえてこちらのほうで何らかの記事を書く可能性はありますから、その時はお附き合い戴ければ幸いです。

このような結末で大変残念ですが、hietaro さんは最善を尽くしてくださったと思いますので、感謝しております。

管理人 :

>黒猫亭さん

 お気遣いありがとうございます。
 了解しました。

 この話題は、いずれまたどこかで。m(_ _)m

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このページは、hietaroが2008年6月 4日 06:59に書いたブログ記事です。

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