司馬天祥作品集  

フランス侍ブリュネ

1898年、ブリュネは、戊辰戦争で一緒に活動したシャノワンヌがフランス国防衛大臣になった時、彼の下で参謀総長となった。彼の名が新聞に載るようになってから彼の所にはその評判を聞いて、時々旧友がひょっこり訪ねて来るようになった。そして1901年、まず時の日本国外務大臣林薫が訪ねてきた。それから1ケ月後実に思いがけない日本人が彼を訪ねてやってきた。
「閣下、ムッシュウ、ツカハラと名乗る日本人が面会を求めています。日本国外務大臣林薫閣下の紹介状をもっています。」

と、秘書官が彼に用件を告げにやってきた。
「ムッシュウ、ツカハラ!」
懐かしい名前であった。きっとあの人だろう。ブリュネはすぐに見当がついた。彼は林薫の紹介状をみて呟いた。「やはりあの塚原さんだ。懐かしい名だ。すぐに通しなさい。」 ブリュネを訪ねて来たのは、案の条、あの塚原但馬守昌義であった。すっかり老人の風体となっていたが、昔の面影は十分に偲ばれた。「あっー、塚原さん、あなたは生きていたのですか!なんと懐かしい。あなたは今どこで何をしているのですか?」
ブリュネは、日本滞在時代のことが急に思い出されて、懐かしさで胸が踊った。
 塚原但馬守は、幕末において外国奉行、神奈川奉行等外国との交渉を専らとした幕府きっての外交通であった。英仏2ケ国語に堪能でロッシュ、シャノワンヌ、ブリュネとも親交のあった人物である。 幕府の機構改革にも積極的で、対薩長への主戦派でもあった。鳥羽伏見の戦いにおいて、幕府方の副将を勤めた。しかしそれだけに、小栗上野介と同様、薩長からはえらく憎まれていた男でもあった。鳥羽伏見の戦いが幕府方の惨敗に終わった後、彼は官軍からの報復を恐れたのか、杳として行方不明となってしまった。その後彼の消息はわかっていない。
 彼は徳川慶喜が大阪城を脱出しアメリカの軍艦にいったん乗船した時、後で開陽丸に乗り換えず、そのままアメリカに向かい、日本最初の政治亡命者となった。

塚原昌義は、老いたりとはいえ日焼した元気な口調で答えた。昔懐かしい流暢なフランス語で答えた。
「私は今、サンフランシスコで清国相手の貿易商をやっています。アメリカの商船に乗って、沖縄、上海、香港と出かけることはありますが、ついぞ日本に立ち寄ることはありません。薩長主体の国等見たくないのです。」
「して今回はフランスに又どうしていらしたのですか?」

「ロンドンに行った帰りです。香港貿易をうまく行うにはイギリス政府の協力を取り付けねばなりません。実は先日、林君とロンドンで会う機会があり、彼からブリュネ先生がフランスで健在だと聞きました。それどころか陸軍参謀部長にまで出世したと聞きました。それで矢も楯もたまらずに、パリに飛んできました。」
「いやー、よくぞたずねてくれました、塚原さん!」
ブリュネは、その日は公務もそこそこに、塚原昌義をセーヌ河畔に面した彼の自宅へと招待した。2人がその夜、夜を徹して日本時代の懐かしい思い出話に花を咲かせたのは言うまでもないことであった。今となっては、幕府の瓦解の苦々しい思いやそれに伴う苦難の時代など、もはやどうでもよいことのように思えた。
「想えば、日本時代は私にとってなにもかも抒情詩です。」
ブリュネはそう塚原に静かに語った。

 嘉永6年(1853年)、アメリカのペリー提督の率いる3隻の黒船が、突如浦賀沖に現れ、日本との通商を強硬に申し入れた。日本人にとって、長く続いた大平の世を突き破る激しい衝撃であった。長い大平の眠りを突然覚まされた幕府は、右往左往するばかりで、開国通商、条約締結と否応もなく国際舞台に引きずり出されていくことになる。 これに対する国内の反発は凄まじく、幕府の弱腰をなじる勢力の中から、尊王攘夷の声があがるようになる。幕府にはもはや国内の反発、動揺を鎮める力はなく、内憂外患に苦しむばかりであった。 幕府は、開国政策に反対する長州藩の動きを抑えることができず、これを鎮圧しようとしてかえって手痛い打撃を蒙る。
 慶応2年の第2次長州征伐がそれである。やる気のない諸藩の寄せ集めの軍隊にすぎない幕府軍は、近代式装備をもつ長州軍に芸州口、石州口、小倉口と至る所で敗北を喫した。この成り行きに心を痛めた14代将軍徳川家茂は大坂城で突然の死を迎える。幕府は勝海舟をして和睦の交渉に当たらせ、辛うじて面子を保つ体たらくである。これにより幕府は否応もなく軍政改革を迫られることになった。しかし、幕府には金がなかった。

「上様、お金のことは心配要りません。私が何とか工面する方法を考えます。」
勘定奉行であった小栗は、こう言って渋る徳川慶喜を説得した。小栗上野介を中心とした幕府改革派は、幕府再興のためフランスへの接近策をとるようになり、これが実を結ぶようになる。インドや中国においてイギリスとの抗争に敗れたフランスは、是が非でも極東におけるフランスの拠点を確保する事を望んでいた。極東進出をもくろむフランスからの700万ドルの借款、火器購入、造船所の建設援助、そして軍事顧問団の招聘等がその内容であった。

 4月初旬、リュイス外相は、駐日フランス公使ロッシュの215日付けの意見具申書を受け取った。日本と友好関係を深めるための具体的内容、条件について記されてあった。そして1866410日、リュイス外相は、ニエル陸軍大臣及び日本総領事エラールと相談をして、日本の大君政府に軍事顧問団を派遣する事を決めた。 極東に野心を持つ皇帝ナポレオン3世はこの案の上奏に対して、賛意を示した。 11日、ブリュネは突然陸軍省から呼び出しを受けた。ブリュネはこの時メキシコ遠征から帰ってきたばかりで、パリで静養中であった。
「ブリュネ君、今度、君に日本に行って貰うことになった。極東の大君が君をお呼びなのだ。わがフランスを代表して、君は大君をお助け申し上げるのだ。そのことは我がフランスの国益にも叶うはずだ。」と、ニエル陸軍大臣はブリュネ大尉に告げた。

「大君の家来に近代式の軍事訓練を行って近代戦を戦えるようにしろということですか?」
「そうだ、ブリュネ君。日本人はトルコ以東の民族の中でもっとも有能にして勇敢な民族と聞いている。やり甲斐のある仕事だ。」
「わかりました。喜んで、日本に参ります・」
ブリュネはその壮大な計画を聞かされ、まだ見ぬ東洋の異国への憧れとその使命の重大さに、夜も眠れぬ程の興奮を覚えた。

「マリアンヌ、しばらく淋しくなるが、これは国家が私に与えた名誉ある任務なのだ…」
「わかっています。この仕事はあなたにとって、チャンスではないですか?後の事は心配しないで!私がきちんとやります。」

妻のマリアンヌは、夫に与えられたその機会をまっとうさせることこそ自分の任務と考えていた。

 シャノワンヌ団長を始め一行15名のフランス軍事顧問団は、18661119日、マルセイユの港を出発し、1227日香港に到着。ここから18日アルフェ号で、1867113日横浜に入港した。約2ケ月の船旅である。

「これが日本か!何と言う美しい国なんだ!横浜がこんなに活気のある街とは知らなかった。極東の一角にまるでヨーロッパのような街があるとは……」
おりしも天候に恵まれ、はるかかなたに富士山を望む事ができた。
「あれが有名な富士山という山か?なるほど実に優雅な姿をしている。」
一行は口々に、初めて見る神秘の国日本の印象を語った。 一行は上陸してフランス公使館に入り、ここでメルメ・カシオンをはじめ館員の出迎えを受け、大いに晩餐会で歓迎された。
「ブリュネ大尉ご苦労様。大君は首を長くして君たちをお待ちだ。」
「カション殿、日本人とはどのような民族なのであろうか?」
 カションはカトリックの宣教師ながら政治に野心をもつ怪僧であった。フランスの極東へ対する野望達成のための先兵であった。まず、キリスト教布教や文明開化の名目で宣教師を派遣するというやり方は、ヨーロッパの帝国主義国家が行う対外政策の定石である。

 カションは答えた。
10年ほど前、つまり1842年にイギリスは清国から香港を奪い取り、極東経営の拠点を築きました。フランスはインドでイギリスとの戦いに破れ、今又、フランスは極東においても遅れをとりつつあります。」
 カションはフランス政府の本音をブリュネ達に話した。
「今、日本のそして極東の情勢はどうなっているのです?この街にはアメリカ人が多いが彼等が介入する可能性はありますか?」
「サツマやチョーシューの後押しをイギリスはする恐れはありますか?」
  ブリュネ達は、あまり詳しくはない極東情勢についてしきりと質問をした。
 カションはみずからの情報分析をこう伝えた。
「日本人は賢い民族です。彼等はアヘン戦争の教訓を十分汲み取っています。植民地化した清国の轍を踏まないようにと自覚しています。この点で日本人を侮ってはなりません。日本が欧米の植民地になることはないでしょう。それに、大君の役人はとても有能でしかも公私のけじめをしっかりつけています。我等はこの国への野心をもつより、大君政府を応援して我等が通商のためによい条件を獲得することを考えた方が得策でしょう。しかし、ロシアの近くの蝦夷という土地には興味があります。この豊かな島はとても魅力的です。ロシアを極東から牽制する上でも、フランスの通商上の極東拠点を築く上でも…」

 カションの最後の下りは、ブリュネにはとても印象的であった。後に榎本武揚とともに函館まで行って戦うきっかけは、このカションの熱っぽい言葉にあったと言えるだろう。 
 フランス軍事顧問団は、今日、「港が見える丘公園」として市民に親しまれている丘陵地帯、通称「フランス山」にとりあえず居留した。これがこの辺りを「フランス山」と呼ぶようになった由来である。この辺りは風光明媚な所で、今日横浜を代表するデートコースとなっている。外人墓地と港が一望に見渡せる光景は、異国情緒たっぷりのロマンティックな場所として、若者に人気のある場所である。
 彼等はここに陣取り、現在の京浜急行、日の出町辺りにあった大田陣屋に設営された訓練所に幕府兵士を集めた。訓練は厳しいものだったが、幕府の兵士はよく堪えた。彼等は必ずしも門閥、学問に恵まれたもの達ではなかった。しかし、直参旗本はこの当時戦力としては使い物にならなかった。旗本八万旗などと褒め賞されたのははるか昔のことで、今は大半が文弱の輩に堕している。そんな中使える戦力は、雑草の中で育った庶民階級の出身者であった。

 教練は歩兵、騎兵、砲兵のいわゆる散兵伝習が中心で、六時起床、六時二十分点呼、六時半朝食、以後夜十二時まで演習という分刻みのハードスケジュールであった。特に、鉄砲中心の歩兵訓練は、幕府兵士には珍しいものであったらしく、彼等は大いに興味を注いだらしい。

 散兵式訓練と言えば、往年の名女優オードリヘップバーン出演の「戦争と平和」のあるシーンを想い出す。 この映画の中に、世に言う「アウステルリッツの3帝会戦」のシーンが出てくる。戦場シーンとはいえ、実に華麗な光景だった。 フランス、オーストリア、ロシアの3人の皇帝が直接向き合う戦争だけのことはある。 まず砲兵が敵陣に大砲を撃ち込む。何人かの兵が倒れた後、今度は勇壮な騎兵が馬にのり敵陣めがけて急襲をかける。そして次は歩兵同士が撃ち合いを始める。最後は白兵戦を行う。ナポレオン以来の近代戦の戦い方だ。目にも鮮やかにこの映画シーンが印象に残っている。 フランス軍事顧問団は、こうした訓練を日夜行った。 訓練は通訳を交えて、もちろんフランス語である。
「アタンシオン!」「アン、デュウ、トロア」「ウイ、ムッシュウ」
辺りには、耳慣れぬフランス語が響きわたった。この時通訳を務めたのは、砲兵術を学んだ経験をもつ田島応親という直参である。

 江戸幕府の生き残りをかけたこの幕府歩兵部隊は、「伝習隊」と呼ばれる。伝習隊の指揮官は由緒ある旗本の中から選ばれたが、将兵は前述したように一般庶民の中から募集された。 それも、江戸市中の博徒、ならず者、剣術使い、それに江戸近郊の農民等から主に兵の応募があった。 当初兵士も下級旗本から徴募するつもりであった。しかしながら、当時、将軍膝下の旗本はすっかり軟弱化して兵士としては役にたたなかった。そこで苦肉の策としてやむなく屈強な百姓町人出身兵に切り替えざるをえなかったのである。

 彼等は腕っ節は強くても、まったくの無教養であった。それに応募動機も飽くまで金目当てであるから、当初みんなてんでんばらばらでモラルも低かった。
「おいらは江戸浅草でテキヤをやっていたがお前は何をしていたんだ?」
「俺は、武州川越で機織りをやっていたが、開国以来すっかり絹の値がさがっちっまって食い詰めてここに来ただ。」
「ところで、あの隊長の言っている言葉はわかるか?」
「一言もわからねえ。だけどなんとなくきれいな響きがするべー。」
「それにしても厳しい訓練だのう。しかし、直参の奴等だらしねえ!真っ先にぶっ倒れるのは、決まって奴等だ。」
「ちげえねえなあ」
一般庶民からの応募兵は、日夜訓練後、こうした雑談をしては、気を紛らしていた。
「こんな連中を訓練できますか?」
と、幕府の高官連中は吐き捨てるように言った。自らは無能の癖に、門閥の為だけに高位高官についている連中である。こんな百姓町人上がりの下郎に何ができるという意識がどこかにあった。
「そんなことはありません。彼等は実に熱心に我々の教えを吸収します。」
と、ブリュネは苦々しく答えた。
「こうした、身分に対する偏見をなくさなくては、強力な国民軍は作れません。」
と、ブリュネは、小栗上野介に進言したこがある。

 確かに始めは統率をとるのに苦労したようである。ブリュネ達は、しばらく困難な訓練を続けた。しかし、訓練を続ける内に、彼等は日本人が身分の上下を問わず、知的好奇心の旺盛なことに驚いた。
農民出身者でも字の読めぬ者などいなかった。江戸時代の百姓町人が文盲であったなどとんでもない迷信である。江戸時代を事実以上に悪し様にいう歴史の迷信はけっこう多い。そんな意見は徳川を悪し様にけなす勝者の歴史、即ち明治薩長政府のプロパガンダに過ぎない。明治以降の急速な近代化の実現は、実にこうした江戸時代からの一般庶民の高い知的水準に支えられているのである。

 厳しい訓練が終わると彼等は、鉄砲の操作、隊列の組み方、砲兵・工兵との連携の仕方等々について、通訳を連れて来ては、フランス士官に対して、実に細かく熱心に質問をした。そして、翌日の訓練ではその士官の教えを忠実に守った。 当然のことながら彼等はフランス語のふの字も知らなかったが、2~3ケ月も経つと、基本的な会話を理解するようになった。
 ブリュネは、彼等の優れた学習能力に感心した。伝習生の中には、沼守一、荒井郁之助、大鳥啓介等、後に日本を背負って立った人物も多い。ブリュネは好奇心の旺盛で律義な日本人が、段々好きになってきた。 単なる武士と百姓町人の寄せ集めに過ぎなかった伝習隊はようやく近代的軍隊へとすこしずつ歩み始めた。

「うん、これなら大君の直属にふさわしい軍隊が作れそうだ。必ずサッチョウに勝てるようにしてみせる。」
 シャノワンヌやブリュネはもちろんのこと、メッスロー、フォルタン等の士官もそのことを確信するようになった。 ブリュネや伝習隊にとって不幸だったことは、彼等の訓練成果が上がるよりも、世の中の動きの方が早かったことであろう。

 慶応3年(1867年)322日、フランス外交団は、大坂にてイギリス外交団の後を受けて、新将軍徳川慶喜の謁見を受けた。ロッシュ公使以下、馬を連ねての入城であった。
 大君慶喜は、一目でそれとわかる貴公子であった。居並ぶ幕閣の中で一際光る気品と威厳を感じさせた。
 慶喜はロッシュと外交儀礼にかなった形式的な会見を行った。会見後慶喜はブリュネやシャノワンヌに直接声をかけた。
「シャノワンヌ殿、ブリュネ殿、我が幕府軍は近代化で薩長の遅れをとった。今これを挽回しようと余は努力している最中である。貴君等には陸軍近代化のため是非尽力願いたいのだ。250年の泰平の世を経て、直参旗本は最早使い物にならぬ。貴君等の国のように身分等越えた国民軍を、是非とも我が徳川の手で作りたいのだ。」
慶喜の声は、凛として力強かった。ブリュネはその声に、賢さと頼もしさを感じた。この新しい大君は、ヨーロッパの政治形態や思想を知っているらしい。それを自らの手で、日本にも根づかせようとしているようだ。ブリュネは意気に感じるものがあった。
「上様、我等力一杯にご尽力申し上げます。何なりとお申しつけください。」
慶喜は深く肯いた。
 それにしても、大阪城は堅固な城だ。ブリュネはそう思った。この城に立て篭もれば敵は容易にこの城を抜けないだろう。ここは、徳川の強力な西への守りだ。フランス軍事顧問団の面々は口々にそう語った。

 この会見を機にロッシュは慶喜に、内政・外交にわたるさなざまな建言を行った。この日は、慶応3年2月6日(1867年)に当たる。  通訳官はフランス留学帰りの栗本鍬雲である。フランスにとって、直接幕閣の要人と話しができるのは強みであった。当時、国際社会で通用する第一の外交用語は、何と言ってもフランス語であった。

 ロッシュはまずこう言って慶喜を持ち上げた。
「上様、今回の条約勅許問題と兵庫開港問題では見事に朝廷を説伏せ、薩長の先手を打ちましたな。さすがは上様です。」
「今度ばかりは予も必死であった。あなたの国も含めて大阪湾に諸外国の連合艦隊が乗り込んでいますからね。」、慶喜は半ば皮肉を込めて答えた。
「ですが上様、これからが勝負所です。今こそ薩長に一泡吹かせるべき時だと思います。兵庫の港を開くだけでなく、下関も鹿児島も開くと言ってやりなさい。琉球も直轄地にすしなさい。琉球は薩摩にとって大事な貿易港です。これを薩摩から取り上げ、幕府の直轄地にすると宣言すべきです。」

 そこには明らかにフランスの露骨な国益優先策読み取れた。もし鹿児島を開港するなどと言えば、薩摩の後押しをしているイギリスを明らかに刺激する。琉球にフランスの拠点が作れたら、フランスの極東外交は明らかに優位に立つ。アメリカが日本海国以来虎視耽々と狙っていたのはまさに沖縄である。沖縄が東アジアにおける重要な軍事拠点であることは、今も昔も変わりがない。

「そのようなことをすれば、徒らに薩長を刺激することになるではないか。今の状況では、軍備では明らかに我等が遅れている。何よりも我が幕府にはそれを行うだけの金がないのだ。」
「上様、ご心配いりません。我がフランスはあなたの味方です。伝習隊の訓練は進んでおります。資金のことも大丈夫です。今、小栗上野介殿が計画しているフランスからの援助交渉がまとまれば、直ぐにでも強力な軍艦をお渡しします。又、その資金で造船所を建て、強力な海軍を育成するのです。」
「小栗か、あの小男は頼りになる男だが、あまりに敵を作りすぎる。」
「いいえ、上様。小栗殿こそ、幕府きっての俊才に御座います。彼に任せて間違いは御座いません。」
そばにいたブリュネも大きく肯いた。彼はこう付け加えた。
「上様がお望みなら、琉球でも蝦夷島でも何処にでも行って戦います。私の教え子の伝習隊の兵員は逞しく成長しています。」
 ブリュネは力強くきっぱりと言い切った。
 ロッシュの建言は更に続いた。後に坂本竜馬が「船中八策」として提唱した日本の近代化プログラムの原案は、この時の建言策がもとになっていることを誰が知ろうか。
「上様、財政上の問題は一つには貿易が盛んでないことによります。これだけ国内交易が盛んな国であるのに、海外貿易は殆ど進んでおりません。商業上の知識も殆どありません。
身分制度と関係なくそういう人材を育てどしどし登用することです。」
これには慶喜も大いに肯いた。

 こうしたロッシュの建言を実際に実行できる人物がまだ幕府にはいた。ロッシュが高く買っていた男の名は、勘定奉行小栗上野介忠順のことである。 慶応元年(1865年)、幕府は強力な海軍をつくるためフランスから240万ドルを借款した。それによって横須賀にドックを造り、製鉄所、武器工場の建設費用にあてた。その交渉や運営の中心人物になったのが勘定奉行小栗上野介である。
 小栗上野介は幕府きってのエリート官僚である。にも拘わらず彼の名は明治維新後殆ど歴史に名を止めていない。読者の中でも小栗の名を知っている人は少ないと思われる。

 何故か?その才能と主戦派の立場故にである。才能溢れる人間は味方になれば信頼されるが、敵に回れば憎悪の対象になる。その溢れる才能ゆえに明治薩長政府から最も恐れられ嫌われたために歴史から完全に抹殺されてしまった男である。明治維新に際して、幕閣の中で殺されたのは彼位のものである。将軍徳川慶喜ですら助命されたというのに、小栗は冤罪を着せられて殺されてしまった。もし生きていればどんなにか日本の近代化のために役に立ったかしれないのに真に惜しい限りである。

 彼は今、知行地のあった上州権田村(現群馬県倉淵村 の東善寺に静かに眠っている。
 この寺の近くの河原に「罪なくしてここに斬られる」と書かれた大きな碑が刻まれている。彼の非業の死を悼み憤った人が建てたものである。日本で最初に兵庫にて商社を作った人、諸藩を廃し群県制を敷いて強力な中央集権国家を作ろうとした人、横須賀の海軍工廠を建設した人と言えばその功績は直ぐにわかるであろう。小栗の墓碑の前に建つと、彼の無念さを思わずにはいられない。

 日本海海戦が日本の大勝利で終わった後、東郷平八郎は小栗に残された一人娘を自邸に招き、こう感謝の念を述べたと言う。
「あなたのお父様は実に立派な仕事をなさった。今日の日本の海軍があるのはあなたのお父様のお陰です。」

 ロッシュは貿易問題に触れた後、1867 4月に皇帝ナポレオン3世が主宰するパリ万国博覧会への参加に話しが及んだ。
 「予はパリでの借款交渉の成否を気にしている。ロッシュ殿成算はあるのか」
そう慶喜は口火を切った。実はこの時、薩摩藩は既に独自に参加を決め幕府に先んじて人を派遣していた。幕府はロッシュの勧めで遅れ馳せながらが参加を決定した。薩摩だけが参加するとなるとヨーロッパでの外交戦は、薩摩ひいてはイギリスに有利に展開するとロッシュは読んでいた。このことに危機感を抱いたロッシュは巻き返しをはかるべく慶喜に対して幕府の参加を申し入れたのだ。
「上様、勿論我等はフランス政財界に強力に働きかけます。パリ万国博覧会こそフランス政府との交渉の正念場になりますぞ。」

「この件に関してはよろしく頼む。貴国との合弁会社設立に関しては小栗に任せている。」
と、慶喜は滅多に下げない頭を下げた。ロシュは満足げに肯いた。

 日本が輸出する上質な生糸をフランスに独占的に取扱わせることによってフランスの銀行から600万ドルを借款する計画だった。これは勿論、前述の小栗上野介の献策である。 聡明な慶喜は、このパリにおける外交戦の重要さをよくわかっていた。わかっているからこそ逼迫した財政事情の仲から、弟の徳川昭武を名代として、25名の使節団をパリに派遣したばかりであった。この時、渋沢栄一も昭武に随行している。万博に参加することで、日本の実質的支配者が朝廷ではなく幕府にあることをヨーロッパ列強に認めさせること、ひいては武器や財政援助を幕府に優位なものにすることに目的があった。 しかし薩摩藩の一行は、幕府に先立つ事2ケ月早くパリに着いている。この2ケ月の差が、双方の外交戦に決定的な差をつけてしまうことになる。  

 19世紀の世紀末のパリ。当時のパリは豪華絢爛たる文明とあでやかな貴婦人達の退廃と溜息の混じる、花の都であった。 日本人一行は幕府側、薩摩側を問わず、この時、文明の都に圧倒される。一種のカルチャーショックである。ナポレオン1世の栄光を称える凱旋門、そこに施された堂々たる彫刻、セーヌ河畔に立ち並ぶオルセー、ルーブルの美術館、その横を走るシャンゼリゼ通りの華やかさ。そこはレストランやカフェが立ち並ぶパリの中心街である。夜になると鮮やかなガス灯がともりパリの街をあでやかに彩る。どれもこれも文明の象徴であった。

「西洋列強の国とはこういう所なのか!わしは知らなかった。いままで本当に世界を知らなかった。攘夷攘夷等と言うことが如何に愚かなことかよくわかった。」
「ドーバー海峡の向こうにあるイギリスという国はフランスよりまだ強大な国力を誇るというではないか。そんな国を相手にとても戦さなどできん。」
「こういう文明をどうやって築いたか俺はそれが知りたい。何もかも驚き感心することばかりだ。」
「それにしても、パリジェンヌというのは美しいのう!江戸や上方の女などまったくの田舎者だ。」随行団の一行は口々にそう語り合った。

 万国博覧会は1851年のロンドンから始まる。日本は1867年のパリ万博において初参加した。この時、日本は陶器、漆器、金細工、浮世絵、和紙等を出品している。中でも浮世絵は大変な評判を呼び、当時世界の最先端を行っていたフランス画壇に大きな影響を与えた。ルノワール、モネ、ゴッホ等いたく感激している。この後のフランス印象派の画風は大きく変化をする。いわゆるジャポニスムス運動である。日本が海外に文化輸出をした数少ない例であろう。

 しかし、一方で、万博は諸外国の外交の裏舞台でもあった。この時の幕府の借款交渉は不調に終わってしまう。この時の交渉相手のソシエテ・ジェネラルに対して、イギリスは猛烈な妨害工作を仕掛けたためである。そのためにソシエテ・ジェネラルは幕府への借款に応じなかった。薩摩とイギリスは手を組んで、銀行側に幕府の不利な情報を流していたのだ。何よりも当時のフランスは、急激に胎頭し始めた隣国、プロイセンの動きに神経質になり始めていた。極東にまで干渉する余裕がそろそろなくなってきたのである。

 「日本の生糸が上質なことは認めます。フランスがそれを輸入すれば、ヨーロッパ市場でおきな利益をあげられることは間違いないでしょう。けれど、それを保障する日本の代表政府は大君政府なのですか朝廷政府なのですか。そこが不安です。」
と、ソシエテ・ジェネラルの融資担当者は幕府の交渉相手、外国奉行栗本安芸守に言った。安芸守は一言もなかった。幕府はこの時点で、薩摩との外交線に負けたのである。

 一方日本では慶喜の手によって、幕府の政治行政改革が進んでいた。慶喜は勢いに乗った時は非常に実行力のある人物である。実際、将軍慶喜の幕政改革は目をみはらせるものがあった。政治機構、軍制改革、財政改革等これまでの身分制度に囚われことなく広く人材を登用した。長州の尊王攘夷派のリーダー木戸孝允をして「神君家康公の再来」とまで言わしめた。

 討幕派は焦せった。おそらく幕府の改革がもう3年程早く実行に移されていたら、日本の近代史は変ったものになっていたかもしれない。 オランダ留学帰りの西周の提唱した近代化プログラムに則り、大阪に公府をおいて議会を開き、慶喜がその議長を勤め、従来にも増して徳川権力を強化した形の大君絶対主義の近代日本を実現していたかもしれないのだ。

 だが慶喜は肝心の所で粘りを欠いた。側近にも頼りとする者があまりにも少なかった。 時局不利と見るとすぐに態度を変節し責任逃れをする様は、まさに身勝手な殿様の常であった。幕閣の中で慶喜を嫌う者は、この変節漢を「二心殿」と呼んで蔑んだ。 ロッシュの熱心な勧めにも拘わらず、慶喜は時局不利と見ると、大政奉還という虚を衝く行動に出た。幕府側の人間は、この行動に唖然とした。

 ブリュネとともに函館で最後まで戦った同士に新選組副長の土方歳三がいる。彼のような叩き上げの男は、慶喜の日和見が生来気に食わなかった。 土方は慶喜が大政奉還の宣言をした時、たまたま江戸に滞在していた。新選組の新たな隊士を募集するためである。隊士募集の仕事を終えた時、土方は大田陣屋を訪れ伝習隊の洋式訓練の様子を見てえらく感心した。 ブリュネを始め、フォルタン、マルタン、メッスロー、カズヌーブ等の指揮官は、土方が訪れたと知ると大いに歓迎の意を表した。

 フォルタンは勢い込んで言った。
「土方さん、ようこそ!あなたの勇名は我々の間でも鳴り響いていますよ!鬼のように恐ろしい男か思っていましたが、どうしてどうしてあなたはなかなかのハンサムボーイだ。何時の日かともに薩長をやっつけましょう。」
 いきなりそう言われて土方は思わず苦笑した。なるほど、写真などで見る土方の容貌は、やさ男の印象がする。「噂に違わぬ頼もしい人達だ。旗本どもにもあなたがたのような気概がほしいものだぜ。」
と、土方は言った。土方はその時大いにフランス士官と語り意を強くした。彼はその時生まれて始めてブランディ―を飲み、洋式タバコを喫した。射撃の仕方も教わった。大砲の威力も学んだ。
「成る程。彼等はこんな文明をもっているのか」と、土方は改めて西洋列強の怖さを実感として味わった。

 彼がブリュネ等と親しく歓談している時、フランス領事館から大政奉還の話しが伝えられた。フランス士官も土方もその話しを聞くと、深く溜息をついた。
「何と言う愚かなことを、戦いはこれからではないか?」
と、メッスローは言った。
 ブリュネは、ロッシュから大君が近代化に向けて行政改革をする計画があると聞かされたのでさほど驚かなかった。上方の情勢がはかばかしくないということも知っていた。それにしてもこんな形でしかも何で今頃という感は否めなかった。大政奉還だけで薩長の矛先をかわせるとは到底思えなかった。

 憤激の甚だしいのは土方であった。
「あの二心殿はなにを考えていなさるのか。あの豚一殿は戦さというものがまるでわかっていない。薩長を甘く見過ぎている。大政奉還等という姑息な手段で相手が黙っているものか。どうやったって一戦さは免れない。ならばこちらから打ってでるまでだ。戦いには勝機というものが大事なのだ。」と人前で公然と慶喜のことを罵倒する有り様だった。
「土方さん、大君閣下は、聡明なあの方は、きっと何か深謀遠慮がおありなのだ。」
と、ブリュネは土方をしきりにとりなした。
「深謀遠慮だと。この期に及んであの二心殿はまだ肝がお据わりなさらない。俺達は一体誰のために戦っているんだ!徳川家のためではないか?こうしてはるばるフランスからあなたがたが助っ人に来ていると言うのに何を考えていやがる。」
と、土方は心底怒っていた。
「土方殿、その二心殿とか豚一殿とか言うのはおやめなさい!」
と、ブリュネは秩序を重んじる軍人らしくに土方を諭した。

豚一殿とは、慶喜が好んで豚肉を食したことから来ている。それにしても、歴代将軍の中で、陪臣の身分の者から、こうまで罵倒された将軍は、慶喜位のものであろう。そういう人物をトップに仰がねばならぬ程、幕府には人材がいなかった。それだけ屋台骨が腐っていたという事だろう。
「ロッシュ閣下は大君閣下にいろいろな進言をなさっている。今度の大政奉還も薩長の機先を削ぐ作戦だと思う。」と、ブリュネはその慶喜への建言策の一部始終を土方に説明した。
「ただ、大君閣下がどこまで腰を据えてとりかkりなさるかが問題だ。」
と、ブリュネは付け加えた。
土方は得たりばかりに「そう思うだろう。」と相槌を打った。

「それにしても、これからは刀や槍の時代じゃないことがあなたがたの訓練をみてよくわかった。これからは鉄砲と船の時代だ。私は歩兵部隊の訓練を見て感激した。整然として見事なものだ。幕府も薩長もこれからはこういう軍隊が主力になるに違いない。」
『あの百姓ごろつきあがりの連中になにができる。』と我々が新選組を結成した時よく陰口を叩かれたものだ。しかし今や時代は百姓町人が討幕派佐幕派を問わず世の中を変えるんだ。本当に戦闘力になるのはそんな身分なんかじゃなくて、やる気と武器の優劣が勝負を決めるんだ。」
 土方は戦さの天才だった。あれほどの剣の達人でありながら、鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れた後、いち早く新選組を洋式武装の集団に切り替えている。
 ブリュネは、こうした一本気と戦さおいては天才的な能力をもつが土方が好きであった。「彼こそ本当の侍だ」、とブリュネは土方を内心そう思っていた。
「土方さん、事がこれで収まるとは到底考えられません。薩長は必ず巻き返しにでます。その時は一緒に戦いましょう。」
「勿論だとも、ブリュネ大尉殿。近藤さんに良く言っておく。これからは洋式軍隊の時代だと。それにしても旗本の奴等は達はだらしがねえ。」
 土方は行き場のない怒りをもって京都に戻って行った。
 後に、2人は榎本武揚等とともに、函館にて君側の奸薩長と最後の戦いを挑む仲となる。

 ブリュネは、封建社会から近代化へと胎動しるそんな複雑な極東の舞台の中に、否応なく身を投じる立場に置かれてしまったことを感じた。ブリュネが宿舎に戻ると、妻のマリーから手紙が来ていた。ブリュネは食い入るように手紙を読んだ。
「愛するジュール、あなたはメキシコ戦争から帰ってきたと思ったらすぐに遠いジャポンに行ってしまいました。今パリでは万国博を開いています。昔、士官の練兵場があったシャン・ドゥ・マルスで万博は行われています。あなたは、ここで厳しい訓練を受けた覚えがおありでしょう。今度の万博では日本からも出品しています。なかなか美しい品々を出品しています。それらの品々を見ると、私はあなたのことを思わずずはいられません。日本で今何をしておいでですか?日本滞在は長引きそうですか?私は軍人の妻、泣き言は申しません。でも、日本での滞在が長引くと、あなたはきっと人の情が恋しくなりましょう。日本の婦人は、あの浮世絵の様に、やさしく美しいと聞いております。私はそれがとても気になります。」
せつせつと手紙に書かれていた。ブリュネはそれを読むとさすがに胸にこみあげるものがあった。
 ブリュネは、熱い思いを込めてすぐに返事を書いた。
「愛しの我が妻マリーよ。日本滞在が長引くことをどうか許して欲しい。私は一日とてお前のことを思わぬ日はない。今私はこの国の争いの渦中に巻き込まれ、無責任な行動はとれない立場にある。日本の士官将兵は実によく学び私を信頼してくれている。彼等を今見捨てることはできない。でも心配しないで欲しい。私が日本の婦人に心動かされる事など誓ってない。」

と、ブリュネは最後に手紙に結んだ。

  日本は変革の激動期に入っていた。慶喜には慶喜なりの目算があった。大政を奉還すれば、最早討幕派には戦う大義名分がなくなる。 大政奉還した所で、朝廷には執政を行う力などない、そうすれば結局は自分の所に政権が戻ってくると慶喜は読んだのである。事実一時は慶喜の読み通りになりそうであった。 だが討幕派の動きは慶喜の読みよりはるかにしたたかであった。何とか戦いに持ち込もうと、さまざまな策謀を巡らした。 今上野の山で浴衣がけで犬を連れている銅像を見ると、西郷という人物は実に愛らしく見える。だが西郷隆盛という男は、実は稀代の策謀家である。後世、「敬天愛人」をモットーとした剛腹の人情家等というのは、西郷贔屓のでっち上げのイメージに過ぎない。この時期の西郷は明らかに策謀家である。

 小御所会議で慶喜に辞官納地の要求が出された時も慶喜は必死に堪え 薩長や岩倉の挑発に乗らなかった。 さまざまの策謀に幕府が乗らないと見た、岩倉、大久保、西郷等は岩倉邸で密会をもった。
「慶喜は挑発に乗らへんな。さすが水戸の子倅や。何か新しい手を打たんとなあかな。どないする気や?」と、岩倉は2人に尋ねた。
「せごどん、なんばよか知恵ばなかっとか?関東を背後から撹乱するとかいう例の計画はどげんした?」
大久保もたたみかけるように西郷に尋ねた。
「それではかねてよりの計画に従って、関東撹乱の手を打とう。幕府を挑発するにはそれしか手はごわさん。」西郷はそう言った。
「関東に薩摩に協力する勢力があると申すか?」
岩倉はいぶかしげに言った。
「あり申す。今の幕府の政治に不満をもっている輩は江戸府内でもかなり多いと見ており申す。彼等を金と甘言で買収して、協力させもんそ。」
「おんしは、相良総三のことを言っちょるのか?彼は信用ばできっと男か?」

「大丈夫でごわんど」
と、西郷はきっぱりと言った。 西郷のいう作戦とは江戸市中撹乱のこよである。西郷隆盛は、益満や相良総三等を使い、江戸市中の押込み強盗をはたらくという手に出た。ここでブリュネ砲兵大尉の活躍の場が訪ずれるのである。

 当時の江戸の情勢は騒然としていた。盗賊押込みの横行がそれである。その活動拠点が三田の薩摩屋敷でこの頃の薩摩屋敷はずばり言って、火付強盗を専らとするならず者の巣窟となっていた。 西郷隆盛が幕府との開戦を見込んで、後方撹乱のために江戸に送り込んだ無頼漢どもである。彼等のやることは悪質極まりなく、火付け、強盗、辻斬り、強姦等江戸市中の治安を乱していた。そのリーダーが益満休之助、伊牟田尚平、相良総三等であった。 江戸市中の直接の実行隊長は相良総三である。彼は本名を小島四郎といい、江戸赤坂生まれた。父は下総国相馬郡出身の郷士である。彼は学問、武芸に優れ熱心に兵学、国学を学ぶ内、尊王思想をもつ平田国学に心酔していったらしくいつしか勤皇の志士となった。

 相良は関東に顔がきく所から、東国志士を組織化し薩摩ごろつき屋敷に仲間として招き入れていた。 もっとも相良総三自身の江戸市中撹乱作戦には、行動基準があった。「一に幕府を佐する者、二に浪士を妨害する者、三に唐物商法をする者」に限定して天誅を加えるというものであった。主な対象者は、庄内藩、新懲組み、横浜貿易商人等である。 しかしこの基準は守られなかった。市中の混乱をよいことにして、薩摩浪士を騙り、押込強盗、強姦殺人をする輩が横行したのである。

 この頃政治の表舞台は京都に移っていた。混迷する京都の政局に対応すべく、板倉伊賀守勝静、以下主要な幕閣人物はみな上方へと出かけて行ったからである。この頃江戸いた幕閣の主要人物は淀藩主老中稲葉正邦、唐津藩老格小笠原壱岐守長行、勘定奉行小栗上野介、位のものであった。そのため十分な取り締まりもできない状況に置かれた。

 かねがね市中狼藉の輩が、薩摩藩邸に出入りをしていることは、江戸市中取締りを引き受けている庄内藩の探索でわかっていた。 薩摩屋敷のならず者集団の悪行は遂にその頂点に達した。慶応3年(1867年)1223日突然火の手が江戸城二の丸より上がった。

「二の丸が火事で御座います。薩摩浪士の仕業かと思われます。」
と、小笠原長行の所に、探索方から報告があった。
「許せぬ。報復あるのみだ。このままでは幕府はなめられるだけだ。」
と、小笠原は叫んだ。 更に同じ夜、庄内藩邸にも砲弾が撃ち込まれた。 幕府は遂に堪忍袋の緒が切れた。老中稲葉正邦の名で対策会議が、翌24日夜招集されたのである。

 幕閣は会議では勝が慎重論を唱えた。
「今の幕府に薩摩を討つ実力はない。ここは堪えるしかない。」
と、勝は言った。相変わらずのふて腐れた態度であった。
「お主はそれでも幕臣か?恥を知れ!」
小笠原は激怒し、いまにも勝に斬りかからんばかりの勢いであった。
「せっかく上様が大阪で辛抱していなさるんだ。もう少し状況をみようじゃないか!今の我々には戦さをしても勝ち目はない。それよりも帝という玉を握ることだ。現に岩倉あたりさえ態度が変ってきたと聞くぜ。」
勝はこう反論した。 事実、この頃岩倉具美は慶喜を参議に加えてもよいとまで言うようになった。

 桓武天皇の平安京遷都以来、公家という人種は、常に強い者は誰かを嗅ぎつけそこにすすりよることにより生き延びてきた無節操な集団である。自らは決して汚いことには手を染めず日和見集団である。そういう彼等が逞しくも生き延びた秘訣は、天皇という玉を常に手持ちの切り札にしていたからであった。天皇という名の玉は、それ程に我が国にとって権威あるものであった。勝はそこを強調し、幕府が戦略のとりかたを間違えぬ様主張したのである。

 これに対して、小栗は猛然と反発した。
「安房守殿、腰を据えてかかれば我等が薩摩に負けるなどという事はない。昔から堂上人など勝ったほうにすすり寄る。そんなことは問題にならない。それよりもゆゆしきことは、上様や安房守殿のような日和見主義者や裏切り者を幕閣内部に抱えていることでござる。」
「旗本、御家人どもは現にまったくやる気がないではないか?京でも新選組などという輩に頼らねば成らぬほど我等の力は弱っているんだぜ。」
勝はべらんめえ口調でこう言った。
「腰抜けの直参など我等は当てにしていない。だからこそ近代的軍隊の建設を急いでいるのだ。」
「そのための金をどう作る?それができる人材がいるのかえ?」
「金も人材も私がが何とかする。」小栗と勝はこうして激しくやり合った。

 実は小栗は、このことのあることを予測して、1ケ月ほど前から、シャノアンやブリュネと密かに薩摩藩邸焼き討ちの話しを進めていた。 小栗は彼等を駿河台の自邸に招いて話しを切り出した。
「私は近い内に、狼藉者の拠点となっている薩摩屋敷を焼き討ちするつもりだ。協力してもらえまいか。」 それを聞いたシャノアンやブリュネは、驚いた様子もなく直ちにこう答えた。
「勿論協力します。彼等の狼藉を大君政府は見逃すべきではない。しかし、小栗殿、江戸の治安維持のための行動と京にいる薩摩長州に対する行動とは区別した方がいい。我等の準備はまだできていないのです。」
「わかっている。我等はここで感情を激発させてはいけないと思っている。ただ、私はあの上様の悪い癖が又出はしないかとそれが心配でならぬ。あのお方はその時の雰囲気ですぐに態度を変える肝の据わらぬお方故…」「土方殿も同じようことを言っていました。」
「そうか。場合によっては、お国の言葉で言うクーデターもやむをえぬかもしれぬ。誰か徳川一門の肝の据わった方で…」
  と言って、小栗は深い溜息をついた。三河以来の直参たる小栗にとっては、徳川家への忠誠心と幕府の再建のジレンマに立たされているようであった。

 ブリュネは小栗の苦悩に満ちた表情を見て同情を禁じえなかった。この方は幕府再建に命をかけている、と思った。騎士道精神に富むブリュネはこういう一徹な思い弱いのである。
「新しい大君を立てる気がおありなら、力をかしましょう。」
「わかりました。ところで、今日は話はそのことではない。薩摩藩邸焼き討ちの具体的手だてを庄内藩士に教えて欲しいのだ。彼等は大砲の使い方に慣れていない。これを機会に近代戦に慣れさせたい。」
「わかりました。私が作戦を教えます。」
と、ブリュネはすかさず言った。
「それから君達にすぐ上方に言って欲しい。

上方の情勢は風雲急を告げている。勝機を逸してはならぬ。ご存知の通り、今上様の下に伝習隊が200名ほど派遣されている。なるほど訓練の実績は上がっている。しかし、伝習隊はもともとは君達のような指揮官がいなくては力は発揮できない。竹中や大河内のようなまだ刀槍が戦の主力と勘違いしている輩では伝習隊は使いこなせない。よろしいか?薩長は必ず挑発してくる。ならば、先手を打つまでだ。」
「ほう、それは面白いことになりまたな」
ブリュネの上司、シャノワンは答えた。
「シャノワン殿、メッスロー殿は、一足先に上方に行って欲しい。ブリュネ殿は薩摩屋敷焼き討ちの作戦指導が終わったら、すぐに大坂に向かって欲しい。軍艦は用意する。全員が揃った所で、伝習隊を京都に繰り出し玉を奪うのだ。」
小栗はちから強く言った。
「なるほど、やってみましょう」

ブリュネははすぐさまこの作戦遂行のための陣頭指揮にたった。 ブリュネの指揮の下、市内警護役である庄内藩士に的確な指示が与えられた。
「大丈夫。このようにしなさい!」
ブリュネは、大砲の操作に慣れぬ庄内藩士を励まし、熱心に作戦を授けた。
「いいですか!こうすれば薩摩屋敷など難なく落とせます。私が手順を示します。」
ブリュネは以下のような実施要領を庄内藩士に与えた。

 榴弾で扉窓を破壊する。
 門、窓の破れた所に散弾を撃ち込む。
 仰射角は500ミリ以上とする。
 地図をもって距離を測り、なお一歩一m  として歩いて実測する。
 散弾は一門百発、榴弾は一門二百発を用   意する。

 ブリュネはこの時、焼き討ちの想定を書いたスケッチまで渡している。
「これは私が書いた薩摩屋敷き焼き討ちの全体図のスケッチです。これなら一目瞭然と要領が分かるでしょう。」
「ほーぅ、見事なものですな。先生がこんなにも芸達者とは知りませんでした。」
と、庄内藩士等は感心した。
「先生、薩摩の芋野郎に必ず一泡吹かせてみせます。」
「いいでしょう。かねての手筈通りぬかりなきように…」
と、ブリュネは激励した。純朴なこの東北の兵は、ブリュネの一言に感激して闘志を燃やした。

 写真の普及していないこの時代、将官は戦場の周辺を巧みにスケッチして作戦遂行に役立てる時代であった。このため、将官は大なり小なり絵の心得えがあった。 ブリュネは絵も文章も実に上手な男であった。彼が日本で描いたスケッチは実に見事に当時の人物像や風景を描き出している。将軍慶喜の肖像、富士山や函館の風景等見事なスケッチが残っている。
 更に一枚の興味深い絵が残されている。お富みさんと呼ばれる若い日本婦人の肖像である。彼女はブリュネの身の回りの世話をしていた女性らしい。美人ではないがとても庶民的で愛らしい女性である。ただ単に身の回りを世話していたのかそれ以上の仲であったのかは、今となっては知るよしもない。しかし何の情もない女性をわざわざスケッチで残す筈もない。手紙に寄せたブリュネの妻の不安は、女の直感とでも言うのだろうか?当たっている可能性が強い。

「ブリュネさんは、絵がうまいのね。何処で習ったの?」と、お富さんは、ブリュネに親しげに尋ねた。
「フランスの軍人はみなスケッチの勉強をします。敵陣の様子がつぶさにわかるようにするためです」
「ああそうなの!」
と、お富みさんは無邪気に答えた。

「わたしは近々上方に行きます。まもなく大きな戦が始まります」
「いよいよ始まるの」
お富みさんは心配げに目をしばつかせた。
「必ず、無事に帰ってきてよ。私明日、浅草に行って観音様に願ををかけてくる」
「大丈夫。心配いらない」
彼女の暖かい心遣いが伝わって来るようだった。ブリュネは、この日本で本当に自分の身を素朴に案じてくれるは、お富みさん位しかいないのではと、一瞬思った。

 小栗と勝の議論に、小笠原は小栗の立場に立ち意思決定を下した。小栗は勝海舟の慎重論を斥け25日夜焼き討ちを実行することとなった。 庄内藩士はブリュネの事前の訓練と指示に従って一糸乱れぬ行動を取った。 本来ならブリュネは先頭に立って薩摩藩邸の焼き討ちの指示をする筈であったが、直前になって急遽大坂への出張命令を受けてしまった。そのための作戦準備のために直接先頭には立てなかった。上方の情勢はそれほどに逼迫し、戦争準備に入ろうとしていたからである。

 しかし、ブリュネに指導された庄内藩、新懲組、羽後松山藩等は、首尾よく作戦を遂行することができた。 彼等はかねての手筈通り25日未明に密かに薩摩藩邸を取り囲んだ。薩摩藩邸は今の田町駅付近にあった。そこを通ると、西郷・勝の会談碑というのが建っている。
「撃て」との号令一下、大砲が一斉に火を噴いた。
 薩摩屋敷は忽ち火の海と化した。あわてた無頼漢は一斉に逃げ出した。
「出てきた奴等は一兵も逃すな。討ち取れ。」
と、彼等は口々にそう叫んだ。 無頼漢どもはある程度は、焼き討ちに遭う事を察知していたらしい。品川沖に停泊する薩摩艦船翔鳳丸に乗り込んで、ほうほうの体で京都をめざして逃げていった。しかしその人数は30人程に過ぎず、多くは捕まったり落ち延びたりしていった。 ともあれ焼き討ちの結果は、幕府にとってもブリュネにとっても満足のいくものであった。

 シャノワン、メッスロー、フォルタン、ビツッフィエ等が順動丸で大阪に向かったのは慶応4年(1868年)12日であった。ブリュネはこの時、フランス本国との武器弾薬を巡る交渉のため1週間程横浜に滞在することになった。 出発に先立ち、ブリュネは見送り赴き、シャノワンと語り合った。
「シャノワン殿、一緒に行けないのは残念だがちょっと待って欲しい。領事館と大事な交渉をする。薩摩と長州が手を組んだという情報がきている。その背後にはイギリスがいるらしい。もしそうだとしたら一大事だ。もしそうなら、彼等と戦う前に弱気の大君を廃するクーデターも画策する必要がある。とにかく1週間程後で別の軍艦に乗って大阪に行く。」
「わかっている、ブリュネ君。我等は今が肝心な時だ。我等が必要とす武器設備を一日も早く送るよう是非交渉して欲しい。これ以上イギリスの勢力を極東にのさばらしてはいけない。」
シャノワンは力を込めて力説した。
「いよいよ戦さか。しかしこの戦いはちょっとまだ早い。江戸の治安維持のためには薩摩屋敷焼き討ちはやむを得なかった。やはりここで断固たる態度を示す必要があった。しかし、それ以上の行動に出るには周到な作戦が必要だ。」
と、一緒に出張命令を受けたメッスローも同様のことを言った。
「そう思う。我等はまだ準備が整わない。将兵の訓練は進んでいるが、まだフランスから武器や装備が来ない。ここで薩摩の挑発に乗ってはいけない。我等は今後如何に行動するべきか慎重でなければならない。上方には私の教え子の伝習隊は上様の下、二百人はいる。しかし、彼等の戦闘指揮は私が執らなければまだ力は発揮できない。大鳥君の指揮ではまだこころもとない。」
 大鳥君とは、後にブリュネや榎本と共に函館までいって戦う大鳥圭介のことである。
 ブリュネは、上官であるシャノワンにこう言った。
「その通りだ、ブリュネ君。私はこの際大坂に行って、軽挙盲動を慎むよう上様を説得するつもりだ。とにかくもう半年辛抱するようにと、忠告する。半年たてば我等の戦闘準備は整う。」
と、シャノワンは答えた。
 百戦錬磨のフランス軍人は、戦機というものをよく心得ていた。又、薩摩長州がイギリスの指示の下、未だ改革の進まぬ幕府を挑発しようとしているという情報も密かに得ていたのである。
「しかし、大分出発が遅れた。我々が大坂に着く前に暴発せねばよいが…」
と、シャノワンは不安げに空を仰いだ。横浜の空は青く澄んでいたが、ブリュネはその碧さ故に却って不安をさそった。 だが、彼等の不安は適中してしまった。天は幕府の味方をしなかったのである。彼等が大阪に着く前に、幕府軍はたいした戦闘準備も覚悟もなしに暴発してしまうのである。

 シャノワン達は大坂城についたのは14日であった。この時もう既に戦闘は開かれていた。シャノワン達の耳にに入ってくるのは幕府軍不利という情報ばかりであった。 シャノワン達が大阪につく前に、幕府軍と言う名の烏合の衆は、京都に向けて出発してしまう。 慶応4年元旦、慶喜は大坂城内の主戦派の勢いに呑まれ、諸藩に対して京都に向けて出兵を命じた。2日、総督大河内正質、副総督塚原昌義以下「討薩の表」を掲げて大阪を立った。幕府歩兵大隊、会津とその配下の新選組、桑名、高松、大垣、松山、津等の各藩兵約1万5千が伏見と鳥羽の二手から京都に向かった。伏見口は竹中重固、鳥羽口は滝川具知を指揮をとる予定になっていた。鳥羽伏見の戦いの開始である。

 しかし、幕府軍は会津、桑名の両藩、配下の新選組、それに伝習隊を除いてまるでやる気がなかった。「討薩の表」掲げて進めば、外様の藩などすぐにひれふすだろうという甘い考えをもっていた。そのため本格的な戦差の準備などしていなかった。 戦いはまず鳥羽口から始まった。薩摩藩のスペンサー銃は、ゲベール銃を中心とした旧式武装の幕府軍を圧倒した。しかし、伏見口では会津、新撰組は白兵戦を挑み薩軍をたじろがせた。
「芋野郎などに負ける。突進だ」
土方は、負傷して大坂城にいる近藤に代わって、新撰組の指揮をとった。

 この戦いは幕府軍の惨敗に終わったように歴史では書かれているが、実際はそうではない。イギリス公使パークスの通訳官を勤めたアーネスト・サトーはこの戦さ観戦した。そしてその様子を手記に「会津、桑名の兵は実によく戦った」書いている。
薩長側は武器の装備では勝っていたものの、兵力の数でははるかに劣っていた。西郷、大久保等は負けることも十分に
予想し、その場合は幼帝を連れて山陰へと落ち延びる予定であった。戦いはしばらく一進一退を繰り返した。
 14日、薩長側に錦旗がひらめく。これによって幕府軍は賊軍となった。これも岩倉、西郷の陰謀である。膠着状態となった戦闘状況を打開するために彼等打った汚い芝居である帝の許しなく勝手に錦旗をでっち上げた事は後になってわかってきている。岩倉の側近が一計を案じたものである。これが明治維新の汚い舞台裏である。

 シャノワンは、総崩れになって大坂城に引き上げてきた幕府軍を叱咤激励し、態勢を立て直そうと図った。「板倉殿、上様はどこにおられる。作戦会議だ。戦いはこれからですぞ。伝習隊はまだ無傷で残っています」と、慶喜に面会を求めた。しかし板倉勝静の顔は蒼ざめて冴えなかった。
「今しばらく、お待ちを」
と答えるのみであった。
 そうこうする内に、使いの者から内密ということで、とんでもない知らせを受けた。「上様は、6日の夜、こっそりと大坂城を脱して江戸へお帰りになりました」
 それを聞いてシャノワンは呆然自失となった。
「なぜ、どうして。戦いはこれからではないか。しかも将兵を置き去りにして…」

ちょうどその時ブリュネが急ぎ大坂に着いたばかりであった。
「ブリュネ君、聞いたか?この失態を。大君と言う名の臆病者、卑怯者を支えるために我等はここまできたというのか?」
シャノワンは自暴自棄に近い悲痛な叫びを挙げた。ブリュネもショックは隠せなかった。
「聞きました。幕府はこれで終わりだ。だが我等にはフランス軍人としての誇りがある。竹中殿、私に伝習隊の指揮権を今すぐお与え下さい。大坂城は必ず守ってあげます。私が手塩にかけた軍隊がどれほど強いかを今こそお目にかける。大坂平野を舞台に一戦交えましょう。我等が大阪城で踏みとどまっている内に江戸いるら伝習隊がきたら、巻き返しが可能です」
だが、慶喜に置き去りにされた幕閣達は無言のままだった。僅かに榎本武揚が憤慨の声をあげた。
「慶喜め、江戸に帰ったら斬ってやる。これだけの軍艦をもちながらなぜ敵前逃亡などするのだ」
榎本は目の前にいるブリュネやメッスローに話しかけた。
「こうなったら我等だけでやろう。あんな卑怯者は将軍から引き摺り下ろしてやる」
 ブリュネもまったく同感だった。
「榎本さん、今後に備えて大坂城にある金銀を取りあえず確保しましょう」

 この時の慶喜の行動は未だ持って歴史上の謎である。この行動ほど歴史上評価が分かれ、毀誉褒貶の激しいものはない。ある者は勤皇の志厚い水戸出身の将軍だから賊軍になりたくなかったのだと言う。又ある者は、日本が東西に別れて本格的な内戦に入れば、諸外国の干渉を招く。それを賢明なる慶喜公は避けたのだとも言う。慶喜が大正になってから死んだ時、外国のプレスは慶喜公こそは自らの政治権力にしがみつくことなく、平和裡に政権を譲った名君である、と激賞している。

 だが、答えは否である。二心殿という渾名がしめす通り、いざ鎌倉となって怖じ気づいたに過ぎない。 歴史とは皮肉なものである。慶喜の臆病さ、卑怯が故に、結果として日本が内戦に入る事を免れさせたのだ。だが飽くまでそれは」偶然の結果に過ぎない。 慶喜の気紛れのために会津藩、彰義隊を始めとして、どれほど多くの将兵の犠牲があったことか!慶喜が世間から、「貴人情なし」と言われる由縁である。

 11日、慶喜は開陽で品川沖に着いた。小笠原図書守や勝海舟等が出迎えに行った。慶喜はやつれてすっかり憔悴しきっている様子であった。
「そのざまは何だ。負けるような戦さはなさらないことだ」
勝は、とても将軍に対する言葉とは思えない口調で慶喜のていたらくを責めた。慶喜は言葉もなくうなだれた。
「板倉殿、もう少しましなやり方はなかったのでござるか」
と、小笠原は尋ねた。
「私は最後までやる気でいた。鳥羽伏見での戦いは緒戦に過ぎない。シャノワン殿、ブリュネ殿が大坂に来られたので、いよいよ伝習隊に出撃命令を出すつもりでいたのだ。だが私自身がそこにおられる方に闇討ちにあったのだ」
と、暗に側にいる慶喜を非難めいた口調で言った。

 フランス公使ロッシュも、シャノワンやブリュネからの連絡を受け取り、腰を抜かさんばかりに驚いた。彼等はさっそくこれからの対応についてカッションと相談に入った。

(続く)