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「中国化」する日本?

先日、CSの番組に出演したとき、キャスターの葉千栄氏がしきりに「日本はどうなってるんですか」と心配していた。上海総合指数は今年に入って4割以上も上がり、「リーマン前」の水準に戻ったのに、日本は政治も経済もグダグダの状態がいつまで続くのか・・・ときかれても、こっちがききたいよ。

なぜ中国がこんなに元気で日本がだめなのか考えてみると、たぶん中国のほうがグローバル化に慣れているからだと思う。中国には昔も今も主権国家がなく、(主観的には)世界全体に広がった<帝国>が続いてきたので、狭いコミュニティに支えられないと動けない日本人よりグローバル化しやすいのではないか・・・と思っていたら、與那覇潤氏から「中国化論序説」(愛知県立大学文学部論集57号)という論文を送っていただいた。

與那覇氏によれば、こうした中国の<帝国>的構造は宋代からのもので、中国のほうが西欧よりはるかに早くから農村共同体を超えて人々が行き来する流動的な産業社会になっていた。しかし魯迅の小説に痛切に描かれているように、国家と個人の間に中間集団のない社会では、政治が個人の生活につねに介入し、財産も権力によって恣意的に略奪される。このため個人は擬似親族による「関係」のネットワークで身を守るしかなく、安定した財産権や法の支配が成立しなかった。

これに対して江戸時代の日本は、自給自足的な農耕共同体の自律性が強かったため、こうしたタテ社会を横断するヨコのつながりがほとんどなかった。江戸時代後期から商品経済が農村に入ってきて、市場によるヨコのつながりが生まれ、それが明治以降の近代化に適応する要因になった。この意味で明治以降の近代化は、タコツボ的な農村に分断された日本を、天皇という中国的支配者をモデルにして中国化する過程だった。

しかし天皇制による<帝国>化が敗戦によって挫折したあと、戦後おこなわれたのは再江戸化だった。職工や商人などのノマドはムラ的な「会社」や系列構造に組み込まれ、「終身雇用」の正社員だけが中間集団の正式メンバーで、それ以外を周縁的な労働者として位置づける階層秩序ができた。こうした無数の中間集団の集合体として国家が構成され、政治家はその利害調整を行なうだけだった。この構造は偶然、工程の補完性の高い知識集約型の製造業と親和性が高かったため、自動車・電機・精密機械において突出した優位性を発揮した。

しかしこうした「すり合わせ」の優位はピークを過ぎ、特に情報産業では要素技術のモジュール化によって「江戸型」システムの優位性は失われつつある。成長市場である新興国向けの工業製品は圧倒的に「組み合わせ」型であり、こうした分野では自給自足的な会社のコミュニティに制約されず、グローバルに分業できる中国型ネットワークのほうが強い。

だから日本的コミュニティが瓦解した先にあるのは、アメリカ的な個人主義社会ではなく、中国のようにアドホックなネットワークがつながるポストモダンな<帝国>かもしれない。それは「グローバリズム」を罵倒する人々が恐れるほど未知の世界ではなく、中世に日本人が儒学を学び、明治期には儒教的な官僚システムをつくったように、意外に日本人の「もう一つのDNA」かもしれない。
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コメント
 
 
 
Unknown (pk-uzawanian)
2009-05-22 00:14:22
数百年隔てても、日本人の同一性が確保されている理由は、やはり、言語のためだと思います。
日本語は膠着語ですから、素のところでは朝鮮やモンゴルやミャンマーやインドの人々に近い。だから中国化はしないと思います。但し、中国から漢字が入り、意味をカプセル化して時空間を隔てても伝達することができるようになった点で異なっています。
ありえるとしたらアングロサクソン化ですね。日本語を捨てさせられるということです。米国は日本を地政学的構図のフィルターを掛けて見ています。だから長期的に英語民族化させたいと思う。小学校への英語の導入は背景には米国の意思があると思っています。
しかし、私は、将来世界が平和な時代を迎えるとしたなら、その時、日本語は非常に重要な言語になっているだろうと推測しています。
 
 
 
江戸時代のノマド (生物系研究者)
2009-05-22 01:57:15
時代劇の定石みたいになっている江戸時代の商人や職人を「町人身分」と呼ぶのは本当は間違っているそうですね。

「町人身分」というのは江戸のような城下町に土地と屋敷双方の所有権(現実には売買証である「沽券」)を持っている階層だけで、彼らが同時代の村における「百姓身分」に相当する「町共同体」の参政権を持つ支配階層。この町人身分の者たちが土地や屋敷をノマディックな商人や職人に貸して、貸し賃をとる権利や便所の屎尿・糞便を郊外農地に肥料として販売する権利を持つ。

町人身分の支配層から土地や屋敷を借りるノマドには、土地だけ借りて屋敷は自前の所有権を持つものを建てている裕福な上層階層から、屋敷も借りていて所有権を持っていない中間階層、裏の長屋を借りている下層までいて(町人から雇用されて長屋の管理をしているのが大家さん)、町人と商人は異なる身分階層としてあくまでも区別されていたとか。

また、「村」においても網野善彦が奥能登の研究で明らかにしたように、商業、手工業を主産業とする都市的な村では石高を持たず参政権のある「百姓身分」に加えてもらえない階層に、水運業などで活躍して(つまりノマディックな層)かなりの経済力を持った層が少なからずいたようです。

実際、私がフィールド研究や仕事で深く関わった地方でみても、「自律性が強い農耕共同体」の村の伝統を強く持つ地域と、村でありながらも共同体からの個々の「家」の独立性が高く、商業的な嗅覚が発達した地域が近接した地域でもモザイク状に隣接しているという実例を知っています。

日本の伝統というのは江戸時代からすでにタコツボ的、自給自足的に分断化された要素とノマディックなネットワーク性をもった要素のモザイクとして成熟していたのではないでしょうか。

戦中体制〜復興期〜高度経済成長期は前者の色合いが強いシステムが卓越しましたが、後者の伝統を卓越させたシステムに再編していくことは必ずしも非現実的ではないのではないかと思います。
 
 
 
月足 (恵笛楠)
2009-05-22 03:36:24
確かに直近の上海総合指数の戻りは急ですが、月足を見ていただければ、さほど戻していないのは明白です。
http://chart.miller.co.jp/chart.cgi?0305I
07年高値から08年安値までの下落幅が4460、今年高値までの戻り幅が1024、下落幅に対する戻り幅22.9%。対して日経平均は、07年高値から09年安値までの下落幅11207円、今年高値までの戻り幅が2397円、下落幅に対する戻り幅は21.3%。

ボールか何か、低いところから落とすよりも、高いところから落とした方が、バウンドが大きいということだと思います。

 
 
 
和の哲学の勧め (Retired Scientist)
2009-05-22 03:53:13
池田さんのブログに限らず、他のブログでも日本人の知識人が得意になって議論するのは欧米の著名哲学者達の価値観ばかりです。欧米の哲学はギリシャ哲学の流れを汲んでいるとは云え、たかだかこの数百年に発生した彼らの価値観の集成にしか過ぎません。人生の殆どを海外で暮らした私の目から見て、日本人は明治維新以来欧米の精神的植民地となる事を自ら選択し欧米より遙かに長い日本文明を支えてきた日本独自の価値観、哲学を放棄してしまった様に思われます。日本人にとって欧米哲学がどうしてそんなに有り難くて価値があるのか、私には理解できません。所詮、哲学とは特定個人の価値観を論理的に述べたものに過ぎず、価値観とは人間の数と同じ数だけあり、価値観そのものに優劣など無いのです。違いは論理体系の組み立て方だけです。日本人に落ち度があったのはこの論理体系を築くのに遅れたという事でしょう。

総体的にみて、欧米人は日本人よりも論理に強く、日本人は情緒に強い傾向があると思います。しかし、これも理科系日本人は欧米人に遜色なく論理に強い事は私自身の経験から確かな事なので、日本人の論理力不足は社会的習慣に依るもので人種的なものではありません。従って、日本人の論理力は学校教育を情緒強調から論理強調に変えるだけで一世代で欧米並みになる筈です。

もう欧米哲学崇拝は止めませんか。日本人は日本独特の価値観に基づいた哲学を築き上げるべきです。日本人の和の概念を哲学化し和の哲学として論理体系を作る運動を始めようではありませんか。これまでの欧米哲学がもたらした破壊と殺戮を止めるには一神教の悪魔と天使の対立から出発した欧米哲学を否定する事が第一歩です。それには欧米哲学に勝るとも劣らない論理体系をもった日本哲学の確立を急がねばなりません。何も21世紀は日本哲学で世界をリードしよう等と気張る必要はありませんが、欧米哲学はもう過去の物ですし、欧米経済学もそうです。欠陥学問を何とか改善しようなどと考えず、この際きっぱりと縁を切り、違った発想で代わりの物を開発すれば良いのです。欧米を美化する癖を止めれば自ずから日本人独自のアイデアが出てきます。

科学者は常に現存の理論を疑い、実験結果が理論と異なれば直ぐに間違った理論を破棄する事に慣れていますが、人文系の人たちには一度信じ込んだ事柄を破棄するのに多大な困難を感じるようです。その理由は自然科学は理論の間違いを客観的に証明できる場合が多いのに対し、人文科学では理論の間違いを証明するのが難しいからでしょう。一番の問題点は理論を提唱した人が政治的に有力者となり、反対派を弾圧しょうとする事です。欧米文化がこの数百年間主流だったのは暴力による支配に成功したからに過ぎません。欧米文化が真理だからでは無いのです。現在の混沌とした時代は過去の権力者達が没落し、新しい勢力が発生する絶好の機会です。この好機を捕らえ、欧米人には無かった価値観とアイデアで日本独自の哲学と科学を再構築すべきです。世界の他国がそれに対しいろいろと干渉しあざ笑うでしょう。それは妬みに過ぎないと割り切り、黙々と我が道を行くべきです。

大多数の人たちは今までにあった物に改良を積み重ねる事で満足しています。皆さんは今までの哲学や科学は実は間違った基礎の上に作られているのではないか、と考えたことはありませんか。自分の頭で納得しないものは一切信じないで、全ての基礎を疑うべきです。欧米文化は一神教の基礎の上に築かれた砂上の楼閣です。幸い、日本には自分の頭で考える能力のある人がまだ沢山居ります。新製品が現れる割合は日本が世界一高い事がそれを証明しています。創造は改善能力の次の段階ですから、日本には創造予備軍が沢山居るのです。
 
 
 
To: pk-uzawanianさん、 (zaizeno)
2009-05-22 05:35:21
>日本語は膠着語ですから、素のところでは朝鮮やモンゴルやミャンマーやインドの人々に近い。だから中国化はしないと思います。

それは無茶な話ですよ。言語の形態論的類型によって社会の構造が決定されるなんて、ほとんど荒唐無稽。
それじゃフィンランドやハンガリーは西欧化しないとか、イギリスはローマやギリシャのように民主化も帝国化もしないとか、そんな話になっちゃう。(サピアもウォーフも真っ青)

一方、英語圏とより緊密な関係になるという可能性は、もっと現実的な話だとは思いますよ。しかし、この記事の「中国化」というのは、そういう文化圏や勢力圏などの話ではなくて、あくまでも社会構造の類型の話ですよ。

ただ、次に来る世界が「ポストモダンな<帝国>」だというのは、私には想像し難い。やはりアメリカ西部開拓時代のような、中心が無くて統制のゆるい「フロンティア」「Wild West」的な世界の方が、アドホックなネットワークには相性が良さそうに思えてなりません。(まあ、これは単に、私の目がアメリカの方ばかり向きがちなせいなのかも知れませんが。)
 
 
 
Re: 江戸時代のノマド (池田信夫)
2009-05-22 07:22:45
>日本の伝統というのは江戸時代からすでにタコツボ的、自給自足的に分断化された要素とノマディックなネットワーク性をもった要素のモザイクとして成熟していたのではないでしょうか。

これは網野が一貫して主張していたことですね。江戸時代というより、古代からずっとこういう2つの要素があり、「江戸化」と「中国化」の交替もこの2つのシステムのどっちが表に出たかの違いでしょう。さらにいえば、遺伝子レベルではヒトは明らかにノマドであり、農民的な行動様式は獲得形質ですね。ただノマドも単独行動ではなく、小集団で行動していたはずだから、もともと遺伝的に両方の行動様式が埋め込まれているのだと思います。

西洋と日本の違いは、大塚史学流にいうと、西洋では工業が農村の中から出てきて共同体を解体したのに対して、日本では市場が共同体の間に発生し、タコツボ構造を壊さなかったことではないでしょうか。このため西洋では、職能集団や産業別労組のようなヨコのつながりが優位になったのに対して、日本では明治・大正期にもこうしたヨコのつながりはそれほど強くならず、「家族的経営」のようなタテの論理が強くなった。

戦後は、こうしたタコツボに依存して個人を守り、ヨコの関係を分断することによって個人の組織への帰属意識を強める制度ができた。もともとタコツボ構造が強固なのに、それを解雇規制などによって法的に補強したためタテ構造が圧倒的優位になり、硬直的な労働市場ができてしまった。このために、タコツボから排除されたロスジェネ世代が「すべり台」でホームレスになってしまうわけです。

だから労働市場を改革するときは、企業を超えたヨコのつながりを構築することが重要です。ただそれは、欧州のような産業別労組ではありえないし、アメリカのようなキリスト教会でもありえない。逆にいうと、そういう受け皿ができないかぎり、労働者がノマド化することは不可能でしょう。その受け皿が何であるかは、非常にむずかしい問題です。
 
 
 
Re:和の哲学の勧め (Retired Scientist)  (絵描き)
2009-05-22 08:20:05
>理科系日本人は欧米人に遜色なく論理に強い事は私自身の経験から確かな事なので、日本人の論理力不足は社会的習慣に依るもので人種的なものではありません。従って、日本人の論理力は学校教育を情緒強調から論理強調に変えるだけで一世代で欧米並みになる筈です。

人間の論理的思考能力とはいったい何でしょうか?
Retired Scientist氏は「論理性」イコール「理科系センス」と考えておられるようで気になります。オウム真理教の出家信者の中には一流大の理科系学部卒業者が大勢いました。いくら理科系の高度な思考に耐えられる頭があってもサティアンに入るようでは、論理的思考能力は皆無であると判断せざるをえません。一連のオウムの事件が象徴するのは「理科系センスの多少と、まともな思考力には関連がない」ということです。

日本はこの数百年「学者とサムライの国」でやってきて、戦後は「英語・数学が出来る人がIQの高い人」という誤解に基づいた教育を続けてきたのです。それは支配階層にとって非常に都合がよかった。もうここらへんで「学者とサムライの国」を止めて「詩人と絵描きの国」に変えてしまいませんか?どうせこの先、日本は「中級文化国家」としてしか国際競争力を維持できないので、芸術信仰に転向する時期ではないか。英語と数学が得意な「エリート」がデカい顔をしているのでなく、アーティストが一番尊敬される国に変えてしまえばいいのです。ヒトの精神機能の最上位が理科系センスであろうはずがありません。

>日本人は日本独特の価値観に基づいた哲学を築き上げるべきです。日本人の和の概念を哲学化し和の哲学として論理体系を作る運動を始めようではありませんか。これまでの欧米哲学がもたらした破壊と殺戮を止めるには欧米哲学を否定する事が第一歩です。それには欧米哲学に勝るとも劣らない論理体系をもった日本哲学の確立を急がねばなりません。

Retired Scientist氏のおっしゃる「和の哲学」がイメージできませんが、「破壊と殺戮を止める」とあるから老荘みたいな思想のことですか?一般にどのような哲学を打ち立てるにしても、「言語は哲学を盛る器」で、その哲学を書きしるす「用語」を検証するだけで大変だから、急いで作った哲学は無価値なんですが・・・。

>今までの哲学や科学は実は間違った基礎の上に作られているのではないか、と考えたことはありませんか。自分の頭で納得しないものは一切信じないで、全ての基礎を疑うべきです。幸い、日本には自分の頭で考える能力のある人がまだ沢山居ります。新製品が現れる割合は日本が世界一高い事がそれを証明しています。

「和の哲学」を打ち立ててこれ以上「破壊と殺戮を止める」なら、現代社会において我々が無条件に信じ込んでいる「幸福」の概念の見直しを迫られます。我々の五感を刺激する「新製品」がたくさん出てくることはいいことでしょうか?全ての国民がそれに感謝すべしなのでしょうか?「もう新製品なんかいらない」とか「国際競争力なんかどうでもいい」、だから「人と人は譲り合って生きていくべし」というのも(哲学かどうかは知りませんが)個人の幸福の基準であるように思いますが。
 
 
 
今の中国は違うか? (迎 秀昌)
2009-05-22 08:57:03
宗ー元の次が、明ー清と続いた。
宗から中世を抜け出して近世となって、だんだん民族意識も高まった。

中国民族と北方民族の王朝交替が、上記のように2サイクル起これば、民族意識も高まろう。

その間、一般大衆は「余計なことをしない政府」が望ましく、王朝がどうあろうとどうでもよいというような具合だったのでは?

経済失政が続くと飢餓がおこり、黄巾賊とかアドホックなネットワークが活躍し、王朝が交替する。
この気風は続いているかもしれない。

しかし辛亥革命で清がなくなってからの中国はちょっと違ってるように思えます。
共産中国になり、改革開放して、むしろ「日本化」してるようにも見えます。

戦後の日本が福祉国家建設で突き進んだが、ちょっと軌道修正といったところでしょうが、およそ遊牧民的な中国などというイメージには結びつかない気がします。

 
 
 
教育の失敗か (tanakac)
2009-05-22 10:22:47
外向きでは、中国大絶賛か中国大批判。内向きでは、日本は最高か日本は最悪。マスコミ含めた言論すべてが両極端で普通の冷静なコラムや批評というものが存在しません。

また、麻生・鳩山・小沢といった面々を罵倒してもはじまらない。あの顔が今の日本国民の代表であり日本民族の象徴なのですから。明治の日本人に比して平成の日本人はあまりにも幼稚です。(人物も文化も言論もすべて)教育に失敗するとここまで人間は劣化するものなのでしょうか。今年から平和と人権のゆとり教育世代が労働市場にデビューします。日本は競争力をますます失っていき負のスパイラルに入った気がします。

 
 
 
Re: Re: 江戸時代のノマド (生物系研究者)
2009-05-22 11:17:18
池田さん、レスありがとうございます。

>> これは網野が一貫して主張していたことですね。江戸時代というより、古代からずっとこういう2つの要素があり、「江戸化」と「中国化」の交替もこの2つのシステムのどっちが表に出たかの違いでしょう。さらにいえば、遺伝子レベルではヒトは明らかにノマドであり、農民的な行動様式は獲得形質ですね。ただノマドも単独行動ではなく、小集団で行動していたはずだから、もともと遺伝的に両方の行動様式が埋め込まれているのだと思います。

そう。網野史学で前面に押し出されていた要素ですね。ただ、私の経験では稲作の生産規模の大きな農村は、伝統的には意外に自給自足的ではありません。近代まで米は商品価値が高かったので優先的に販売にまわされ、自給用には雑穀や芋を多品種生産して日常食にする。そして米の販売で得た貨幣経済収入から租税を引いた分で米の生産拡大への投資(肥料や農機具)やより豊かな生活のための消費財の獲得を志向する。ただし、稲作は水利権の問題がありますので、稲作依存が高まるほど外部との経済的パイプは太くなると同時にノマディックな要素は縮小します。

あと、中世には石高を持った百姓層はかなり層が薄くて大規模経営者が多く、百姓層に雇用された層の流動性は高かったようですね。江戸時代前半に農地開発が活発化する過程で、この被雇用者層、百姓の家来筋が土地の経営権を奪取して百姓身分をも獲得していって、流動性の低い小家族経営中心の農村が形成されてきたようです。

そういう意味で、江戸時代前半の農村の百姓身分層(惣村の参政権保持層)の拡大は、戦中〜復興期〜高度経済成長期の正職員中心主義の確立とパラレルな現象として注目してみると面白いかもしれません。

>> さらにいえば、遺伝子レベルではヒトは明らかにノマドであり、農民的な行動様式は獲得形質ですね。ただノマドも単独行動ではなく、小集団で行動していたはずだから、もともと遺伝的に両方の行動様式が埋め込まれているのだと思います。

これに関して「獲得形質」というタームはあまりふさわしくないと思います。ヒトに近縁な高等類人猿はノマディックであると同時に定住的です。つまり、一定の遊動圏を群れ社会で(オランウータンの社会は少々ややこしいので横に置きます)保持し、この遊動圏の自然環境とそこから得られる資源のパターンを緻密に記憶してそれにあわせて移動しながら生活をしています。つまり、遊動圏単位で見れば定住的であり、群れや個体の経時的ポジションから見ればノマディックです。つまり、定住的かノマディックかという問題は、同じ現象を空間的、時間的スケールを変えてみることで分離して見えるものだと考えられます。

整理してみると、共同体集団形成のダイナミズムの観点からの成員の流動性と固定性、集団再編による新規遊動圏への進出、集団の遊動圏の確保という観点からの定住性と遊動圏内部での移動性というパラメータでおおざっぱな社会システムと経済構造の方向性が解析できる可能性があります。

>> 西洋と日本の違いは、大塚史学流にいうと、西洋では工業が農村の中から出てきて共同体を解体したのに対して、日本では市場が共同体の間に発生し、タコツボ構造を壊さなかったことではないでしょうか。このため西洋では、職能集団や産業別労組のようなヨコのつながりが優位になったのに対して、日本では明治・大正期にもこうしたヨコのつながりはそれほど強くならず、「家族的経営」のようなタテの論理が強くなった。

西欧では中世から職人ギルドのような地縁を超えた横断的な職能集団ネットワークが発達していましたよね。インドでもジャーティという形で職能集団の地縁を超えた横断的なネットワークが発達している。なにか中世以来の下地のようなものを感じてしまうのですが、日本でもノマディックな職人集団はあった。ただこういう職人集団が被差別身分のほうに繰り込まれてしまったことの影響があるのかもしれないですね。日本では皮革業以外でも意外な職人が被差別身分だったりしますよね。地域によってですが、藍染であるとか竹細工であるとか。つまり前近代の手工業が百姓や城下町の非被差別系の職人に担われる分野と、被差別系の職人に担われる分野に分断されていた。そして前者でタコツボ的な定住共同体への、後者でノマディックな志向があったのかもしれません。

阿部謹也史学的に言えば、西欧ではキリスト教が古い呪術的世界観を破壊する事で呪術的祭祀観に由来するケガレ観を破壊したのに対して、日本では仏教がこれを破壊するよりは温存する道を歩んだために被差別的な職人という層を厚く温存してしまった。このことに遠因があるのかもしれません。

>> 戦後は、こうしたタコツボに依存して個人を守り、ヨコの関係を分断することによって個人の組織への帰属意識を強める制度ができた。もともとタコツボ構造が強固なのに、それを解雇規制などによって法的に補強したためタテ構造が圧倒的優位になり、硬直的な労働市場ができてしまった。このために、タコツボから排除されたロスジェネ世代が「すべり台」でホームレスになってしまうわけです。

少なからず存在したノマディックな要素、江戸時代に俳諧などの「座」で発展した横断的サロン文芸のような横の連携システム、こういったものが戦後になって急速に破壊されていったというわけですね。納得がいきます。

私のよく知っている分野で言うと、大正期から1970年代ぐらいまでは地域単位、あるいは全国規模で編成された植物同好会、昆虫研究会、郷土史研究会といったサロン的学芸集団が非常に活発に活動していました。植物の牧野富太郎、蝶の白水隆など、こうしたサロン的つながりのスター的ポジションで活動した学者も少なからずいた。江戸時代の座の文芸、座の学芸の系譜を引いた集団といえるでしょう。しかし、1980年代ぐらいからこうした学芸集団が急速に衰退してくる。現在は老人と一匹狼的な個性を持った少数の人間によってかろうじて維持されているというのが現状です。横の関係の分断がある臨界点に達して、目に見える形で崩壊が水面上に浮上したのかもしれません。

>> だから労働市場を改革するときは、企業を超えたヨコのつながりを構築することが重要です。ただそれは、欧州のような産業別労組ではありえないし、アメリカのようなキリスト教会でもありえない。逆にいうと、そういう受け皿ができないかぎり、労働者がノマド化することは不可能でしょう。その受け皿が何であるかは、非常にむずかしい問題です。

欧州でも北米でも、こういうヨコのつながりのネットワークに公共財を蓄積するシステムが発達していますよね。公文書館(アーカイブ)でも図書館でも博物館でも、枠組みが官営であっても根っこで支えているのがこのヨコのつながりのネットワークである側面が顕著です。私は日本の現代社会がこういう公共財蓄積機能の点で、脆弱性があまりにも著しいことからこの問題に気付かされたという経緯があります。今、政府は公文書館のあまりの立ち遅れをとりもどそうと取り組みを始めているようですが、このネットワークが崩壊した状態でうまくいくのか、不安を強く感じます。
 
 
 
おちこぼれ (hide)
2009-05-22 13:09:20
>日本的コミュニティが瓦解した先にあるのは、アメリカ的な個人主義社会ではなく、中国のようにアドホックなネットワークがつながるポストモダンな<帝国>かもしれない。

たこつぼでもノマドでもないネットワーク社会になるとしたら、英語力は必須だし、専門的知識も必要ですね。

単純労働しかできない私は、やっぱりおちこぼれるのかなぁ。
 
 
 
Unknown (pk-uzawanian)
2009-05-22 13:12:47
日本人が考え出した数少ない論理的な概念に、「文明の生態史観」というのがあって、(これはまだ日本国内で正当な批判を受けていないので、他人が引用して別の論理を組み立てる時に使い回しができる状態になっていない仮説だけれども)
地球の地理上の資源の状態に応じた人間集団の生態が存在していて、それらが相互作用をして歴史・文明史を生み出していくという仮説です。
これに追加的に、情報処理の相違する人間集団として言語集団を考えるというのが私の仮説です。
西欧と日本は、文明の生態史観では同じグループに属しますが、民族大移動を長い間経験していないと言う点で異なっています。中国は、西欧と同じように民族大移動を経験していますが、漢字による意味の伝達と、批判的思考に基づくテキストによる伝達という違いがあります。
 
 
 
Unknown (かも)
2009-05-22 13:56:49
もう随分昔、初めて中国で仕事をした頃、

 ああ、此の国には労使交渉というものがないのだと云うことを実感したものでした。
 当然のことながら、対立する、労使(資)というものがないのですから、人員整理も、配置転換も、就業規則の変更などもいとも簡単に、何事もないかのように日常としてあるのです。

 対立のない社会、対立の許されない社会というのは、さあ、それで豊かになってもどうだろうか。
 
 
 
ロストジャパン (ロストジェネレーション)
2009-05-22 17:04:19
日本が硬直化しているのは、たこつぼ集団が各々の利益追求しかしていないからではないか。

その意味でいえば、ヨコのつながりであるノマド的な雇用方式は有効なのではないか。そういう社会になれば、自分達だけの利益ではなく、全体の利益を考えられる社会になるのではないか。

一連の記事を読ませていただいてこんな風に思います。

既得権益のある人間は、他の人たちがどうなろうと、自分が良ければいい訳だから、全体で良くなろうという発想は生まれません。

これは政治家やマスコミも然りです。

しかし我々は既存マスコミだけではなくITによって様々なところから情報を得られます。そこから我々は考えや行動を起こせばいいと思います。政治家やマスコミの言うことを鵜呑みにしてはいけない。
 
 
 
ぶっとび話 (まさき)
2009-05-22 20:33:47
目から鱗的な発想で私など及びもつきませんが「万世一系」がいるので日本では無理です。
 
 
 
失礼--訂正 (まさき)
2009-05-22 20:40:58
「万世一系」がいるので→「万世一系」なので
 
 
 
>教育の失敗か (tk)
2009-05-22 21:23:59
明治時代の「知識人」に比べて平成の知識人たちは確かに幼稚な気がします。(私はゆとり世代ですが、明治時代の一般人が賢いとはどうにも思えない。)

言語や知識などのツール自体が大衆化したり、知識人という存在自体が軽薄になったとも考えられます。
知識人たる資質も備えてない専門家でもない人がネット含めたマスメディアで発言が出来る時代ですから、議論が余計な方向に流れるのはある程度は仕方ないかもしれません。

でも、教育はこうした時代の変化に対してまるで対応できてないですね。
教育で議論はしないので相変わらず議論下手生産装置になってます。
 
 
 
re:教育の失敗か (Unknown)
2009-05-22 22:49:26
初等教育の段階で、日本では情緒的作文を評価し、欧米(主に米国)では論理的作文を評価する、ということがあるそうです。
今日も論理的に物を考えない日本人を量産中。。。
<参考図書:『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』渡辺雅子著>

情緒的なポピュリズム政治を見るにつけ、さもありなんと思います。
 
 
 
アントニオ・ネグリの<帝国>ですか (zaizeno)
2009-05-23 01:32:11
中華帝国を「主権国家がなくて、理念的には世界全体に広がった<帝国>」と見ることで、ネグリの<帝国>との共通点を見出しておられるわけですね。

てっきり現実の「帝国」の方かと思って頭をひねっておりました。
(「天皇制による<帝国>化」あたりで躓きました)

「アドホックなネットワークがつながるポストモダンな<帝国>」が現実にどんなものになるのかわかりませんが、我々が日々直面している日本のタコツボ的コミュニティとの関わりにおいて捉えられている点が大変示唆的と受け取りました。ネグリ流の<帝国>も新たな読み方ができるというものです。

ただ、帝国というからには、どうしても何らかの権威と権力と中心(地理的ではなくとも)を想起してしまい、その点が私のような根がノマドな性分の人間の想像力には手に余るようです。

それから、私が気になっているのは、韓国でのキリスト教会の広がりです。
日本においては伝統的なコミュニティが形を変えつつも残っているため、アメリカ社会の中で教会が果たしているような、国家と個人との間にあるコミュニティとしての教会が求められず、その結果キリスト教会はあまり広がらないという見方もあるようですが、それなら韓国はどういう状況なのだろうかと気になります。韓国では伝統的なコミュニティが崩壊した故の教会の広がりなのかどうか、私の知識では判断できませんが、中国ともアメリカとも違う社会である韓国の現状が、日本の近未来に関して何らかのヒントになりはしないかとも思います。

いずれにせよ、「日本的コミュニティの瓦解」は既に目前と捉えてらっしゃるようですね。まあ既に不可避なのかも知れませんね。
 
 
 
RE:>教育の失敗か (tk) (絵描き)
2009-05-23 09:16:27
>知識人たる資質も備えてない専門家でもない人がネット含めたマスメディアで発言が出来る時代ですから、
>議論が余計な方向に流れるのはある程度は仕方ないかもしれません。

「知識人」とはどういう人のことですか?
学歴がすごい、とかたくさん本を読んでいる、とか何かの学問上の業績があるとかそういう意味ですか。

それならばそういう人しか発言できなかった時代に比較して
非・知識人や非・専門家が自由に発言できる今のネット社会のほうが素晴らしくありませんか?

学問上の業績があるから、生産的なディベートが出来るとは限らないです。
ディベートによって何か生産的な結果が欲しいのであれば
そのディベートで、どういう結果が欲しいかというイメージを持った第三者が
司会に入ることが必要であると思います。


 
 
 
>RE:教育の失敗か (絵描き) (tk)
2009-05-23 13:54:07
知識人とは深い学識・見識を持つということだと思っていますが、今ではもっと大衆化してそういう意味は薄くなったでしょう。

議論をする上で現代での必要な素質は論理的思考能力だと思います。が、学歴であるとか学問の業績だとか理系であるとか数学が出来ることとはあまり関係はないです。それはあなたのおっしゃるとおりです。

今の時代は自由に発言できるだけいいですよ。
その代わりにそうした時代に対応した制度とか教育とかにはなってませんね、というのが主張です。

 
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中国化というより、李氏朝鮮化する日本ということになるのかもなぁ・・・ (門司港に暮らしながら-ココログ別館-)
今朝読んだ池田信夫氏のblogのエントリーは"「中国化」する日本?" http: