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2006/08/10のBlog
[ 22:26 ]
[ 訃報・追悼 ]
地球の放射線帯発見、米物理学者バン・アレン氏死去
米物理学者、アイオワ大教授のジェームズ・バン・アレン博士が、9日、心不全で死去。享年91歳。バン・アレン博士は、いわゆる”バン・アレン帯(Van Allen belt)”の発見者である。
米物理学者、アイオワ大教授のジェームズ・バン・アレン博士が、9日、心不全で死去。享年91歳。バン・アレン博士は、いわゆる”バン・アレン帯(Van Allen belt)”の発見者である。
”バン・アレン帯”とは、地球の外側を取り巻く放射線帯のこと。太陽から放射された放射線粒子が、地球磁場にトラップされて出来たと考えられている。もしこれがなければ、直接地球上の生命に放射線が降り注ぎ、”被爆”してしまい、生命は生存不可能となってしまう。こういう事実を発見したのが、バン・アレン博士であった。
御冥福を心から祈りたい。
宇宙環境
「つばさ」がとらえた地球周辺の宇宙環境
オーロラ研究の先駆者たち
御冥福を心から祈りたい。
宇宙環境
「つばさ」がとらえた地球周辺の宇宙環境
オーロラ研究の先駆者たち
ところで、最近、日本語で”バンアレン帯”と検索すると、次のようなものがヒットする。
バンアレン帯
これは、どうやら、日本の東京近隣に住む人々が作った、「聖バレンタインデー」のことを意味する”スラング(隠語)”らしい。英語”St. Valentine's day”をわざわざ”V Alentine”と分け、さらに”Vをかっこつけて”バン”と発音。これと、残りの”Alentine”を「アレン帯」と読み、両方をくっつけて”バンアレン帯”と発音する事で、”バレンタイン”を意味しようという意図らしい。
しかし、これは、昔、赤線地帯(=売春宿)を「トルコ」と呼んで、トルコ人からひんしゅくを買い、ついには別名に変えざるを得なくなったように、あまり善い使い方ではない。だれが作ったのか知らないが、こういう人名や知名に結びつくような軽薄な”改変”は止めた方がよろしい。”罰あたり”にもほどがあるからだ。きっと天罰が下るだろう。
バンアレン帯
これは、どうやら、日本の東京近隣に住む人々が作った、「聖バレンタインデー」のことを意味する”スラング(隠語)”らしい。英語”St. Valentine's day”をわざわざ”V Alentine”と分け、さらに”Vをかっこつけて”バン”と発音。これと、残りの”Alentine”を「アレン帯」と読み、両方をくっつけて”バンアレン帯”と発音する事で、”バレンタイン”を意味しようという意図らしい。
しかし、これは、昔、赤線地帯(=売春宿)を「トルコ」と呼んで、トルコ人からひんしゅくを買い、ついには別名に変えざるを得なくなったように、あまり善い使い方ではない。だれが作ったのか知らないが、こういう人名や知名に結びつくような軽薄な”改変”は止めた方がよろしい。”罰あたり”にもほどがあるからだ。きっと天罰が下るだろう。
[ 12:06 ]
[ オシムの言葉 ]
オシムジャパン、初陣飾る 三都主が2ゴール
昨夜オシム代表監督になって初の試合トリニダードトバゴ戦が行われたが、2一0で快勝した。反町ジャパンの中国戦と同じく2一0だったが、こちらの方は、文字どおりの”快勝”だったと言える。サントス(アレックス)のフリーキックとループシュートの2発でゲームを決めた。
さて、この試合の試合運びそのものは、ドイツ大会のジーコジャパンの動きとは違い、やはり非常に”若さ”があり、”元気はつらつ”プレーが随所に出ていた。このことからも”オシムの狙い”が解る。
ハーフタイムでオシム監督が「前半の2点目のようなプレーをしろ」と言ったというが、左サイドバックの駒野から”走り込む”サントスへのパスは非常に良かった。我が家では、
「駒野、どうしてドイツでそれを見せてくれなかったんだーー。」
「サントス、なんでドイツでそれをしなかったんだヨー。」
と叫んでいた。
ドイツ大会では、駒野は右サイドバック、サントスは左サイドバックにジーコが”固定”していたために、この両者がいっしょに得点チャンスを作ることはほとんどなかった。しかし、オシム監督は、これを”修正”し、サントスの”個人能力の高さ”や”決定力の高さ”を買い、サントスを真ん中でプレーさせることによって、攻撃とディフェンスの両方をさせることを選んだようだ。
昨夜オシム代表監督になって初の試合トリニダードトバゴ戦が行われたが、2一0で快勝した。反町ジャパンの中国戦と同じく2一0だったが、こちらの方は、文字どおりの”快勝”だったと言える。サントス(アレックス)のフリーキックとループシュートの2発でゲームを決めた。
さて、この試合の試合運びそのものは、ドイツ大会のジーコジャパンの動きとは違い、やはり非常に”若さ”があり、”元気はつらつ”プレーが随所に出ていた。このことからも”オシムの狙い”が解る。
ハーフタイムでオシム監督が「前半の2点目のようなプレーをしろ」と言ったというが、左サイドバックの駒野から”走り込む”サントスへのパスは非常に良かった。我が家では、
「駒野、どうしてドイツでそれを見せてくれなかったんだーー。」
「サントス、なんでドイツでそれをしなかったんだヨー。」
と叫んでいた。
ドイツ大会では、駒野は右サイドバック、サントスは左サイドバックにジーコが”固定”していたために、この両者がいっしょに得点チャンスを作ることはほとんどなかった。しかし、オシム監督は、これを”修正”し、サントスの”個人能力の高さ”や”決定力の高さ”を買い、サントスを真ん中でプレーさせることによって、攻撃とディフェンスの両方をさせることを選んだようだ。
この”達観”によって、サントスが自由に自らターゲットになって得点できたわけである。要するに、私がこの試合で見た印象では、サントスを”日本のジダン”、あるいは”日本のマケレレ”にしようという意図があると見えた。
これまで、日本の”司令塔”は、中田英寿、ないしは中村俊輔、あるいは小野だったが、この試合ではジーコジャパンの生き残りとしてのサントスにその役割を担わせた、ということのようである。
いずれにせよ、後方から走り込みそれに合わせるという戦術は、フランス代表のお家芸であり、それに匹敵する作戦がうまく決まったあたり、非常に見事なものだった。オシムジャパンの方向性はだいたい見えたという感じがする。
ディフェンスに関しても、どんどん”下がってしまう”宮本システムから、どんどん”前で奪う”トゥーリオスタイルに変わって成功したようだ。かつて中田英寿がさんざん忠告していたように、ディフェンスが下がり過ぎて失点を食らうという場面がなくなった。ディフェンスというのは後ろに戻りながら奪うよりは、前に出ていって奪う方がはるかにやりやすい。トゥーリオはこれを見事に忠実に行っていた。最少失点の浦和のカテナチオが生きた試合だった。
フォワードから中盤の選手に関しては、やはり”決定力”不足だった。シュートが枠内に飛ばない、というのは致命的だった。これは、やはり、小中高までのジュニア時代にどれほど”基本練習”、それも特にインステップキックの練習ができているかどうか、が結果として大人になって後の決定力の差になるのだ。
私が子供を指導する場合は、キック練習のほとんどがインステップキックの練習である。インサイドでもアウトサイドでもない。もちろん、インフロントは論外である。インステップでショート、ロング、フライやゴロのあらゆるパスの練習を求める。なぜなら、サッカーにとっての”インステップキック”とは、ゴルフで言えば、”ドライバーショット”、野球の投球で言えば、”直球”にあたるからだ。サッカー選手にとってインステップキックで”距離感”を計る。ゴルファーがドライバーショットで距離感をつかむのと同じなのだ。
これが「私の哲学」だが、私がこれまでサッカー部の練習を見て来たところでは、子供達はほとんどこういった指導を受けていない。それゆえ、仮に運動神経の良い子や足の早い子供がJリーガーになったとしても、その時はすでに手後れとなる。キック精度がなく、狙ってシュートしても先に行って枠から外れる。
この試合でも、鈴木、中村、長谷部、田中、坂田らのシュートは、まったく枠に行かなかった。1つ良いシュートが枠内に向かったが我那覇に当った。(我那覇がうまくコースを変える事ができたなら1点の場面だったが、我那覇にはそうしたアイデアがなかった。)
かつて西ドイツのクラマーコーチが当時の釜本や杉山たちに
「サッカーとは、このフィールドでバスケットボールをやることだ」
と言ったという。これが”ヨーロッパサッカーの神髄”である。サッカーコートでバスケットボールをするのである。”攻守の切り替えの早さ”、”多彩な戦術”、”シュートの正確さ”、これらがバスケットボールの魅力である。シュートの入らないバスケットボールなど誰も見ない。このシュートの正確さのために、毎日どれ程多くのシュート練習をバスケットボールの選手達はやっているか。これは、アップから練習などを見れば良く解る。シュート練習にもさまざまな角度、距離、組み合わせのものがあり、それらをさんざん練習しないと、バスケットボールにならない。
「サッカーでもこれと同じ事をやるのだ。」
これがクラマーさんの”教え”である。
しかし、私がこれまで見て来たところでは、日本人のサッカーチームの指導者は、”パス回し”が好きだ。練習の大半が、パス回しやミニゲームで終わる。これはバスケットボールで言えば、パスばかりしてシュートしないバスケットと同じだ。また、極端な話、日本のチームは試合ばかりする。シュート練習をしなくても試合ばかりする。これは、ろくにシュート練習をしないで試合ばかりするバスケットと同じだ。これでは、いつになっても得点できない。
大人になるまで、Jリーガーになるまでほとんどシュートの練習を積んできていないのに、プロになっていきなりシュートの精度を高めよと言われてもそれは無理な相談だ。マイケル・ジョーダンも四六時中シュート練習を積んでヒーローに育ったわけだ。サッカー選手も同じ事だ。体力強化も考えるスピードも走るスピードもみんな大事だ。しかし、それと同じくらいシュート練習も大事だ。これは大人になってからでは遅すぎる。
子供達よ、サッカーの”マイケル・ジョーダン”になれ! そのためには、今から始めるのだ!
GK:川口能活(磐田)
DF:坪井慶介(浦和)→栗原勇蔵(横浜)、
田中マルクス闘莉王(浦和)、
駒野友一(広島)
MF:三都主アレサンドロ(浦和)→坂田大輔(横浜)、
田中隼磨(横浜)、
長谷部誠(浦和)→中村直志(名古屋)、
鈴木啓太(浦和)、
山瀬功治(横浜)→小林大悟(大宮)
FW:我那覇和樹(川崎フ)→佐藤寿人(広島)、
田中達也(浦和)
これまで、日本の”司令塔”は、中田英寿、ないしは中村俊輔、あるいは小野だったが、この試合ではジーコジャパンの生き残りとしてのサントスにその役割を担わせた、ということのようである。
いずれにせよ、後方から走り込みそれに合わせるという戦術は、フランス代表のお家芸であり、それに匹敵する作戦がうまく決まったあたり、非常に見事なものだった。オシムジャパンの方向性はだいたい見えたという感じがする。
ディフェンスに関しても、どんどん”下がってしまう”宮本システムから、どんどん”前で奪う”トゥーリオスタイルに変わって成功したようだ。かつて中田英寿がさんざん忠告していたように、ディフェンスが下がり過ぎて失点を食らうという場面がなくなった。ディフェンスというのは後ろに戻りながら奪うよりは、前に出ていって奪う方がはるかにやりやすい。トゥーリオはこれを見事に忠実に行っていた。最少失点の浦和のカテナチオが生きた試合だった。
フォワードから中盤の選手に関しては、やはり”決定力”不足だった。シュートが枠内に飛ばない、というのは致命的だった。これは、やはり、小中高までのジュニア時代にどれほど”基本練習”、それも特にインステップキックの練習ができているかどうか、が結果として大人になって後の決定力の差になるのだ。
私が子供を指導する場合は、キック練習のほとんどがインステップキックの練習である。インサイドでもアウトサイドでもない。もちろん、インフロントは論外である。インステップでショート、ロング、フライやゴロのあらゆるパスの練習を求める。なぜなら、サッカーにとっての”インステップキック”とは、ゴルフで言えば、”ドライバーショット”、野球の投球で言えば、”直球”にあたるからだ。サッカー選手にとってインステップキックで”距離感”を計る。ゴルファーがドライバーショットで距離感をつかむのと同じなのだ。
これが「私の哲学」だが、私がこれまでサッカー部の練習を見て来たところでは、子供達はほとんどこういった指導を受けていない。それゆえ、仮に運動神経の良い子や足の早い子供がJリーガーになったとしても、その時はすでに手後れとなる。キック精度がなく、狙ってシュートしても先に行って枠から外れる。
この試合でも、鈴木、中村、長谷部、田中、坂田らのシュートは、まったく枠に行かなかった。1つ良いシュートが枠内に向かったが我那覇に当った。(我那覇がうまくコースを変える事ができたなら1点の場面だったが、我那覇にはそうしたアイデアがなかった。)
かつて西ドイツのクラマーコーチが当時の釜本や杉山たちに
「サッカーとは、このフィールドでバスケットボールをやることだ」
と言ったという。これが”ヨーロッパサッカーの神髄”である。サッカーコートでバスケットボールをするのである。”攻守の切り替えの早さ”、”多彩な戦術”、”シュートの正確さ”、これらがバスケットボールの魅力である。シュートの入らないバスケットボールなど誰も見ない。このシュートの正確さのために、毎日どれ程多くのシュート練習をバスケットボールの選手達はやっているか。これは、アップから練習などを見れば良く解る。シュート練習にもさまざまな角度、距離、組み合わせのものがあり、それらをさんざん練習しないと、バスケットボールにならない。
「サッカーでもこれと同じ事をやるのだ。」
これがクラマーさんの”教え”である。
しかし、私がこれまで見て来たところでは、日本人のサッカーチームの指導者は、”パス回し”が好きだ。練習の大半が、パス回しやミニゲームで終わる。これはバスケットボールで言えば、パスばかりしてシュートしないバスケットと同じだ。また、極端な話、日本のチームは試合ばかりする。シュート練習をしなくても試合ばかりする。これは、ろくにシュート練習をしないで試合ばかりするバスケットと同じだ。これでは、いつになっても得点できない。
大人になるまで、Jリーガーになるまでほとんどシュートの練習を積んできていないのに、プロになっていきなりシュートの精度を高めよと言われてもそれは無理な相談だ。マイケル・ジョーダンも四六時中シュート練習を積んでヒーローに育ったわけだ。サッカー選手も同じ事だ。体力強化も考えるスピードも走るスピードもみんな大事だ。しかし、それと同じくらいシュート練習も大事だ。これは大人になってからでは遅すぎる。
子供達よ、サッカーの”マイケル・ジョーダン”になれ! そのためには、今から始めるのだ!
GK:川口能活(磐田)
DF:坪井慶介(浦和)→栗原勇蔵(横浜)、
田中マルクス闘莉王(浦和)、
駒野友一(広島)
MF:三都主アレサンドロ(浦和)→坂田大輔(横浜)、
田中隼磨(横浜)、
長谷部誠(浦和)→中村直志(名古屋)、
鈴木啓太(浦和)、
山瀬功治(横浜)→小林大悟(大宮)
FW:我那覇和樹(川崎フ)→佐藤寿人(広島)、
田中達也(浦和)
2006/08/09のBlog
[ 10:34 ]
[ 社会 ]
今日のテレビの「スーパーモーニング」でちょっと面白い話が紹介されていた。これは”出生率”アップをどうすれば実現できるかということへの良いヒントになるので、ちょっとここでもまとめておこう。
不思議な事に現在日本で出生率トップは長野県南部の下條村というところだという。ここの出生率は、全国トップの”2・12”。全国平均は1・25程度。人口4196人で、子供の人口は726人という極めて人口構成が若い。
下條村は、10数年前には村の”過疎化”で2000人を切るところまで行きかねなかったというが、その村があっという間にここまで人口が増えたという。その理由とは何か。
まず第一は、”善い村長”が就いたということ。この村長さんの指導体制の下、村は”経費削減政策”に踏み切った。その一方で、”若い夫婦の居住”や”子育て支援”のために、以下のような好条件を整えた。
(あ)安い家賃 → 新築2LDKで3万6千円程度。
(い)医療費タダ → 子供の医療費が中学生まで全部ただ。村が支払う。
(う)家族間のコミュニケーション → 近所つき合いがある。
(え)公共施設が完備 → 保育園、幼稚園など子育てに必要な施設が完備されている。
要するに、”子育て”をしやすくするために、村の公務員達が、光熱費からコピー費まで、果ては工事費や公共事業費まで自ら経費節約して、子育てに回す。こうした地道な努力が実って若い夫婦が住むようになり、子育てのもっともしやすい場所になったというのだ。
特に面白かったのは、いわゆる”公共事業”は、業者に仕事を発注するのではなく、村の人々自らが行う。これで大幅に経費削減できたという。まあ、考えてみれば、当たり前。
町や村の公共事業を道路公団やら地元の道路工事会社に請け負わせたら、”エンドレス工事”になる。これはみんな知っている事だ。「ネバーエンディングストーリー」のようにいつまで経っても決して終わらず、ちんたらちんたらと続く。しかもたくさんのアルバイトおじさんやお兄さんたちを置いて人件費をアップする。しかし、日当はやたらと低くして儲けに走る。工事日数も日数に比例してお金をむさぼる事ができるので、日や時間をかければかれる程儲かる仕組。アメリカのように、期限を決めてその期限を過ぎれば業者が赤字となるがそれより早ければ早い程儲かるというシステムではない。だから、公共事業を田中角栄時代にできた土木建築業者に発注すれば、村や町はその生き血まで吸われて恒久的な赤字路線に転落するのだ。
下條村は、村びとや役場の職員を使って人件費を実費程度に押え、ことごとく経費節約できたというわけだ。
だいたい、日本の業者の人件費はアメリカ並に高い。人件費や実費に加えて、業者が上前を”ピンはね”するマージンがすこぶる高い。アメリカの場合には、これがほとんどないので、結果として人件費が高くても、総体的にみて安くなる。
その昔、10年前我が家がここ阿南に引っ越す頃、我が家は、まだ関西圏でしか知られていなかった”パンダマーク”の「サカイ引っ越しセンター」を使った。理研の引っ越しでサカイ引っ越しセンターが入ったのはこれが最初だっただろう。ここは”良心的”で、比較的安く当時の関東のどの引っ越し屋さんよりずっと安かったからだ。しかし、そのサカイ引っ越しセンターですら、マージンは高かった。このマージン部分を交渉でいかに値引きするかが、関西人の文化である。私もすこし”勉強”してもらった。これが、”べんきょもしまーす引っ越しのサカイ”という歌の意味である。
だいたい、料金から、車代、ガソリン代、日当などの実費・人件費を除いた部分が、マージンとなる。これが会社の取り分ということにあるだろうが、一般に日本の会社はここが大きすぎるのだ。
不動産業、公共事業種、引っ越し屋などなど、日本の会社というのは、マージンが高すぎる。だから、”とかく世間は住みにくい”となってしまうのだ。
この部分を下げ、下條村のように、”子育て支援”に回せば、日本の”少子高齢化”問題は、簡単に解決できるだろう。
要するに、1995年にできた「科学技術基本法」によって、この10年間、いわゆる、田中角栄時代にできた公共事業体質から、科学育成事業体質へと変化させた。これによって、不動産土地バブル時代から、IT産業などのバブル時代へと変遷したわけだ。
しかし、人々は都市部では安く住む場所がなくなり、給料は右から左へとなくなり、子供を育てるどころか、結婚すら難しい時代へと変わった。結婚しないとなれば、子育ての必要はなくなり、自分が偏屈な変わり者になろうが、”オタク”になろうがかまわない。子育てで自分が成長する必要もない。こういう都市文化を醸成したわけだ。
気がついたら、都内の出生率は1・0。もはや東京も”過疎化”しかねない分水嶺を過ぎてしまった。労働人口、若者人口がない。人材がいない。老人のケアする若者もない。病人を看護できるものもない。と、”ない、ない、ない”ずくしとなってしまった。もはや東京は”研究している場合ではない”というほどに出生率が低くなった。
しかも悪い事に、テレビなどの電波発信事業は東京しかないために、この間違った”東京文化”が全国を被ってしまった。そして、”変態文化”、”オタク文化”が全国に瞬時に広がり、”少子化問題”も飛び火した。
これと同じく、10数年前に”不良債券”で破綻した銀行が、宮沢さんが”破綻銀行”を潰さなかったばかりに、こういった”破綻銀行”がゾンビのように復活した。それも、自分の給料は据え置き、破たんしたツケを無知な市民に回した。その戦術がいわゆる”ノンバンク”や”サラ金”や”高利貸”を使って国民から借金させて利子を取る、というものだ。影で裏から資金を回したのが、破たんし合併した大手銀行だったのだ(最近、プロミスのコマーシャルに大手銀行の名前が出てくるようになったことからも明白)。国民の税金で自分の負債を帳消しにしてもらったばかりか、その国民から借りた金を今度は自分の金のようにしてその国民に貸して利子を取るというあくどい商売を始めたのだ。
これで、一気に日本人は借金人生を歩む事となった。借金が借金を生む。そんな国になった。トランプの馬場抜きのように、借金というジョーカーをだれが引くか。このジョーカーを引いてしまった人は破たんする。世の中をロシアンルーレットのような不安な社会へと変えたというわけだ。
心理的にも、不安定。のんびり住む場所も無い。もちろん、恋人も探す暇も無ければ、愛を結ぶ空間も時間もない。悪い事に、愛を売り物にしなくては食えない哀れな人間も増えた。これでは、”子育て”はできない。
とまあ、東京文化圏に犯された社会は、悪化の一途、崩壊の一途を辿っているのだが、田舎には田舎の論理というものがあり、それが日本の地方を救う。地方には地方の論理がある。これが、時に大きくなって日本全体を救うということもあるかも知れない。
そんなことを考えさせる話であった。
もし、東京都や近隣県で、下條村と同じような条件(あるいはもっと良い条件)をクリアすれば、恐らく出生率はアップしていくだろう。
ところで、日本に金持ちを住まわせるのも、日本に企業を住まわせるのも、子育て支援策と全く同じ論理なのである。所得税など税金を世界一安くすれば、世界中の金持ちが日本に住む。法人税などを世界一安くすれば、世界中から優良企業が日本に来る。住みやすくすれば、寄ってきて住み着く。人間も動物だから、海や川に魚が住むのと全くいっしょのことなのだ。
不思議な事に現在日本で出生率トップは長野県南部の下條村というところだという。ここの出生率は、全国トップの”2・12”。全国平均は1・25程度。人口4196人で、子供の人口は726人という極めて人口構成が若い。
下條村は、10数年前には村の”過疎化”で2000人を切るところまで行きかねなかったというが、その村があっという間にここまで人口が増えたという。その理由とは何か。
まず第一は、”善い村長”が就いたということ。この村長さんの指導体制の下、村は”経費削減政策”に踏み切った。その一方で、”若い夫婦の居住”や”子育て支援”のために、以下のような好条件を整えた。
(あ)安い家賃 → 新築2LDKで3万6千円程度。
(い)医療費タダ → 子供の医療費が中学生まで全部ただ。村が支払う。
(う)家族間のコミュニケーション → 近所つき合いがある。
(え)公共施設が完備 → 保育園、幼稚園など子育てに必要な施設が完備されている。
要するに、”子育て”をしやすくするために、村の公務員達が、光熱費からコピー費まで、果ては工事費や公共事業費まで自ら経費節約して、子育てに回す。こうした地道な努力が実って若い夫婦が住むようになり、子育てのもっともしやすい場所になったというのだ。
特に面白かったのは、いわゆる”公共事業”は、業者に仕事を発注するのではなく、村の人々自らが行う。これで大幅に経費削減できたという。まあ、考えてみれば、当たり前。
町や村の公共事業を道路公団やら地元の道路工事会社に請け負わせたら、”エンドレス工事”になる。これはみんな知っている事だ。「ネバーエンディングストーリー」のようにいつまで経っても決して終わらず、ちんたらちんたらと続く。しかもたくさんのアルバイトおじさんやお兄さんたちを置いて人件費をアップする。しかし、日当はやたらと低くして儲けに走る。工事日数も日数に比例してお金をむさぼる事ができるので、日や時間をかければかれる程儲かる仕組。アメリカのように、期限を決めてその期限を過ぎれば業者が赤字となるがそれより早ければ早い程儲かるというシステムではない。だから、公共事業を田中角栄時代にできた土木建築業者に発注すれば、村や町はその生き血まで吸われて恒久的な赤字路線に転落するのだ。
下條村は、村びとや役場の職員を使って人件費を実費程度に押え、ことごとく経費節約できたというわけだ。
だいたい、日本の業者の人件費はアメリカ並に高い。人件費や実費に加えて、業者が上前を”ピンはね”するマージンがすこぶる高い。アメリカの場合には、これがほとんどないので、結果として人件費が高くても、総体的にみて安くなる。
その昔、10年前我が家がここ阿南に引っ越す頃、我が家は、まだ関西圏でしか知られていなかった”パンダマーク”の「サカイ引っ越しセンター」を使った。理研の引っ越しでサカイ引っ越しセンターが入ったのはこれが最初だっただろう。ここは”良心的”で、比較的安く当時の関東のどの引っ越し屋さんよりずっと安かったからだ。しかし、そのサカイ引っ越しセンターですら、マージンは高かった。このマージン部分を交渉でいかに値引きするかが、関西人の文化である。私もすこし”勉強”してもらった。これが、”べんきょもしまーす引っ越しのサカイ”という歌の意味である。
だいたい、料金から、車代、ガソリン代、日当などの実費・人件費を除いた部分が、マージンとなる。これが会社の取り分ということにあるだろうが、一般に日本の会社はここが大きすぎるのだ。
不動産業、公共事業種、引っ越し屋などなど、日本の会社というのは、マージンが高すぎる。だから、”とかく世間は住みにくい”となってしまうのだ。
この部分を下げ、下條村のように、”子育て支援”に回せば、日本の”少子高齢化”問題は、簡単に解決できるだろう。
要するに、1995年にできた「科学技術基本法」によって、この10年間、いわゆる、田中角栄時代にできた公共事業体質から、科学育成事業体質へと変化させた。これによって、不動産土地バブル時代から、IT産業などのバブル時代へと変遷したわけだ。
しかし、人々は都市部では安く住む場所がなくなり、給料は右から左へとなくなり、子供を育てるどころか、結婚すら難しい時代へと変わった。結婚しないとなれば、子育ての必要はなくなり、自分が偏屈な変わり者になろうが、”オタク”になろうがかまわない。子育てで自分が成長する必要もない。こういう都市文化を醸成したわけだ。
気がついたら、都内の出生率は1・0。もはや東京も”過疎化”しかねない分水嶺を過ぎてしまった。労働人口、若者人口がない。人材がいない。老人のケアする若者もない。病人を看護できるものもない。と、”ない、ない、ない”ずくしとなってしまった。もはや東京は”研究している場合ではない”というほどに出生率が低くなった。
しかも悪い事に、テレビなどの電波発信事業は東京しかないために、この間違った”東京文化”が全国を被ってしまった。そして、”変態文化”、”オタク文化”が全国に瞬時に広がり、”少子化問題”も飛び火した。
これと同じく、10数年前に”不良債券”で破綻した銀行が、宮沢さんが”破綻銀行”を潰さなかったばかりに、こういった”破綻銀行”がゾンビのように復活した。それも、自分の給料は据え置き、破たんしたツケを無知な市民に回した。その戦術がいわゆる”ノンバンク”や”サラ金”や”高利貸”を使って国民から借金させて利子を取る、というものだ。影で裏から資金を回したのが、破たんし合併した大手銀行だったのだ(最近、プロミスのコマーシャルに大手銀行の名前が出てくるようになったことからも明白)。国民の税金で自分の負債を帳消しにしてもらったばかりか、その国民から借りた金を今度は自分の金のようにしてその国民に貸して利子を取るというあくどい商売を始めたのだ。
これで、一気に日本人は借金人生を歩む事となった。借金が借金を生む。そんな国になった。トランプの馬場抜きのように、借金というジョーカーをだれが引くか。このジョーカーを引いてしまった人は破たんする。世の中をロシアンルーレットのような不安な社会へと変えたというわけだ。
心理的にも、不安定。のんびり住む場所も無い。もちろん、恋人も探す暇も無ければ、愛を結ぶ空間も時間もない。悪い事に、愛を売り物にしなくては食えない哀れな人間も増えた。これでは、”子育て”はできない。
とまあ、東京文化圏に犯された社会は、悪化の一途、崩壊の一途を辿っているのだが、田舎には田舎の論理というものがあり、それが日本の地方を救う。地方には地方の論理がある。これが、時に大きくなって日本全体を救うということもあるかも知れない。
そんなことを考えさせる話であった。
もし、東京都や近隣県で、下條村と同じような条件(あるいはもっと良い条件)をクリアすれば、恐らく出生率はアップしていくだろう。
ところで、日本に金持ちを住まわせるのも、日本に企業を住まわせるのも、子育て支援策と全く同じ論理なのである。所得税など税金を世界一安くすれば、世界中の金持ちが日本に住む。法人税などを世界一安くすれば、世界中から優良企業が日本に来る。住みやすくすれば、寄ってきて住み着く。人間も動物だから、海や川に魚が住むのと全くいっしょのことなのだ。
2006/08/08のBlog
[ 17:22 ]
[ 政治・経済 ]
「この国のかたち」というのは、日本の歴史作家、司馬遼太郎の晩年の作品である。ライフワークとも言って良い。
この司馬遼太郎の”司馬”はどこから来たか、と言えば、もちろんそれは中国の歴史家”司馬遷(しばせん)”から取ったものである。
しばらく前のある時、私は妻といっしょに徳島の本屋へ行った。妻が用事を済ませている間、私はこの司馬遷の有名な歴史書「史記」というのを”たまたま”目にしたので、手に取って中を見ていた。たぶんそれは文庫本のようなもので、巻数もたくさん並んでいたので、「司馬遷 『史記』全5巻」というものであったろう。
妻が戻るまでの短い時間、私は非常に”衝撃的”なことを知ったので、それをここにまとめておこう。
それは次のようなことだ。
現在我々日本人が「官僚」という時、この意味は、もうちょっと古い言い方の「公家」(お公家さん)とほぼ同じ意味である。
日本の普通の国語辞書には、こうある。
「公家」=朝廷、または、朝廷に仕える人
「官僚」=官吏、役人
「官僚的」=官僚にありがちな、好ましくない性質・傾向であること
=形式的で柔軟性に欠け、権威主義・秘密主義の行動・態度・様子
それゆえ、私はこれまで”当然のごとく”この定義に従ってきた。
ところが、「史記」の何巻だったか、とある一節に「官僚」についての記載があった。それによれば、”官僚”の定義は全く異なるものであったのだ。むしろ、我々が「今イメージする”官僚”の意味とは全く”逆”」であった。
どういう風に違っていたか。
まず、司馬遷その人自身が”官僚”であった。このことから、分かるように、当時の”官僚”とは、孔子や老子のように、”野に下り”、というよりは”野に咲く”逸材をある国が”抜てきして、その国の重要なポストに据えた人物のことであった。
今の日本で言えば、大前研一氏や竹村健一氏や立花隆氏のような、”野に咲く逸材”を国が抜てきして主要なポストに付ける。こういった人物達のことを”官僚”と呼んだ。
つまり、ある国にどうしてもある種の”特殊能力”を持った逸材が必要となる。例えば、自分の国の歴史を編纂したいが、それができる人材がいない。こんな時に司馬遷のような人物を国中から探し出し、その要職に就け、歴史書を書かせる。こうやって選ばれし者が”官僚”の語源であった。
だから、「史記」の時代の”官僚”とは、今の日本語の辞書にあるような、”形式的で柔軟性に欠け、権威主義・秘密主義の行動・態度・様子を持つ人”とは全く逆の人種だったのだ。
私は、これに衝撃を受けたのだった。
社会に1人といない優秀で特別の能力を持つ人間。これを国がその力に頼る時、人はその人物を”官僚”と呼んだのだ。
今現在で言えば、日本サッカー協会にとって、オシム監督や反町監督こそ、本当の意味の”官僚”なのである。この”真の意味の官僚”は、決して”官僚的”であってはならない。
いやはや、日本語は非常に混乱している、とだけは言える。
この司馬遼太郎の”司馬”はどこから来たか、と言えば、もちろんそれは中国の歴史家”司馬遷(しばせん)”から取ったものである。
しばらく前のある時、私は妻といっしょに徳島の本屋へ行った。妻が用事を済ませている間、私はこの司馬遷の有名な歴史書「史記」というのを”たまたま”目にしたので、手に取って中を見ていた。たぶんそれは文庫本のようなもので、巻数もたくさん並んでいたので、「司馬遷 『史記』全5巻」というものであったろう。
妻が戻るまでの短い時間、私は非常に”衝撃的”なことを知ったので、それをここにまとめておこう。
それは次のようなことだ。
現在我々日本人が「官僚」という時、この意味は、もうちょっと古い言い方の「公家」(お公家さん)とほぼ同じ意味である。
日本の普通の国語辞書には、こうある。
「公家」=朝廷、または、朝廷に仕える人
「官僚」=官吏、役人
「官僚的」=官僚にありがちな、好ましくない性質・傾向であること
=形式的で柔軟性に欠け、権威主義・秘密主義の行動・態度・様子
それゆえ、私はこれまで”当然のごとく”この定義に従ってきた。
ところが、「史記」の何巻だったか、とある一節に「官僚」についての記載があった。それによれば、”官僚”の定義は全く異なるものであったのだ。むしろ、我々が「今イメージする”官僚”の意味とは全く”逆”」であった。
どういう風に違っていたか。
まず、司馬遷その人自身が”官僚”であった。このことから、分かるように、当時の”官僚”とは、孔子や老子のように、”野に下り”、というよりは”野に咲く”逸材をある国が”抜てきして、その国の重要なポストに据えた人物のことであった。
今の日本で言えば、大前研一氏や竹村健一氏や立花隆氏のような、”野に咲く逸材”を国が抜てきして主要なポストに付ける。こういった人物達のことを”官僚”と呼んだ。
つまり、ある国にどうしてもある種の”特殊能力”を持った逸材が必要となる。例えば、自分の国の歴史を編纂したいが、それができる人材がいない。こんな時に司馬遷のような人物を国中から探し出し、その要職に就け、歴史書を書かせる。こうやって選ばれし者が”官僚”の語源であった。
だから、「史記」の時代の”官僚”とは、今の日本語の辞書にあるような、”形式的で柔軟性に欠け、権威主義・秘密主義の行動・態度・様子を持つ人”とは全く逆の人種だったのだ。
私は、これに衝撃を受けたのだった。
社会に1人といない優秀で特別の能力を持つ人間。これを国がその力に頼る時、人はその人物を”官僚”と呼んだのだ。
今現在で言えば、日本サッカー協会にとって、オシム監督や反町監督こそ、本当の意味の”官僚”なのである。この”真の意味の官僚”は、決して”官僚的”であってはならない。
いやはや、日本語は非常に混乱している、とだけは言える。
[ 15:05 ]
[ オシムの言葉 ]
反町U21、中国に2一0で快勝国際親善試合
反町康治監督の”初ゲーム”が昨夜行われた。私も最初から最後までずっと見たが、新聞記事が言うような、”快勝”ではなかったと私は思う。
結果的に、2得点でき、快勝となったが、前半は良いところがなく、再三再四押し込まれて失点場面が何度もあった。特に、日本ディフェンスの7番が、逆サイドのボールに気を取られて何度かマークをはずしてフリーでシュートされてしまった。相手の中国選手の決定力の無さのおかげで失点しなかっただけのことで、もしドイツであれば、5一0くらいの大差で負けただろう。というのも、先にバイエルンミュンヘンが来日した際、シュバインシュタイガー、ポドロフスキー、ラーメなどのドイツの21歳トリオはいとも簡単に”無回転シュート”をゴール枠内に蹴ることができた。だから、フリーのシュートは絶対にはずさないだろうからだ。
日本で唯一素晴らしいと言えたのは、ゴールキーパーの西川だろう。実に安定した判断と、的確なポジショニングで相手のシュートを防いだ。日本代表の川口とは違ったタイプの好ゴールキーパーである。
まあしかし、前線へのパスの”精度”があまりに悪く、一昔前の”走れサッカー”(つまり、何が何でも前に蹴り出しそれに追いつけというラグビーサッカー)に戻ってしまったように私は感じた。昨年の長崎国見や鹿児島実業のサッカーのようなものだ。少なくとも、野洲高校のような”セクシーサッカー”にまで進んでいって欲しいものだ。
反町康治監督の”初ゲーム”が昨夜行われた。私も最初から最後までずっと見たが、新聞記事が言うような、”快勝”ではなかったと私は思う。
結果的に、2得点でき、快勝となったが、前半は良いところがなく、再三再四押し込まれて失点場面が何度もあった。特に、日本ディフェンスの7番が、逆サイドのボールに気を取られて何度かマークをはずしてフリーでシュートされてしまった。相手の中国選手の決定力の無さのおかげで失点しなかっただけのことで、もしドイツであれば、5一0くらいの大差で負けただろう。というのも、先にバイエルンミュンヘンが来日した際、シュバインシュタイガー、ポドロフスキー、ラーメなどのドイツの21歳トリオはいとも簡単に”無回転シュート”をゴール枠内に蹴ることができた。だから、フリーのシュートは絶対にはずさないだろうからだ。
日本で唯一素晴らしいと言えたのは、ゴールキーパーの西川だろう。実に安定した判断と、的確なポジショニングで相手のシュートを防いだ。日本代表の川口とは違ったタイプの好ゴールキーパーである。
まあしかし、前線へのパスの”精度”があまりに悪く、一昔前の”走れサッカー”(つまり、何が何でも前に蹴り出しそれに追いつけというラグビーサッカー)に戻ってしまったように私は感じた。昨年の長崎国見や鹿児島実業のサッカーのようなものだ。少なくとも、野洲高校のような”セクシーサッカー”にまで進んでいって欲しいものだ。
2006/08/06のBlog
[ 14:15 ]
[ 科学模型 ]
私は、1998年に「ルービックのマジックスネーク模型」から見つけたこの”折れ畳み構造”(EXACTLY SOLVABLE MODEL OF PROTEIN FOLDING: RUBIK'S MAGIC SNAKE MODEL, IJMPB13, pp.325-361(1999))を1999年2月に論文で公表した。(実際には、理研にいた1994年頃には科学オブジェ:折れ畳み模型 を作っていた。)
これと同じものを木工で作って売っている人を発見したので、ここで紹介しておこう。遠藤裕という人である。不思議な事にこの人も1999年8月にこれを考案したという。不思議な偶然である。
[ 11:30 ]
[ 科学ニュース ]
最近のニュースに登場した動物たち。そんなに多くはないが紹介しておこう。
ルリモンハナバチ。
暑い夏には、トロピカルな飲み物がみんなの好物。トロピカルな雰囲気は、”青”や”赤”の原色だ。中でも、青く涼し気な色が飲み物にあると、まさに清涼飲料水という感じが出る。青色発光ダイオードの”青”も涼しい冷たい光の代名詞。”青色LED”で夜空が飾られると何か”ロマンチック”な感じがするから不思議だ。どうして”青色”がそういう”涼し気な”イメージや”ロマンチックな”イメージを与えるのか。本当の理由は分からないが、恐らく”海の色”や”空の色”から来るのだろう。それが太古の昔に地球上の生命に”刷り込まれ”て来たのだろう。もしこんな青色が動物にもあると、人間はその動物を何か”麗しく”感じる。”青色の昆虫”。蝶やハチ。トンボ。こんなものに”青色”がしばしば見られる。このルリモンハナバチというのもそんなやつらしい。
ルリモンハナバチ。
暑い夏には、トロピカルな飲み物がみんなの好物。トロピカルな雰囲気は、”青”や”赤”の原色だ。中でも、青く涼し気な色が飲み物にあると、まさに清涼飲料水という感じが出る。青色発光ダイオードの”青”も涼しい冷たい光の代名詞。”青色LED”で夜空が飾られると何か”ロマンチック”な感じがするから不思議だ。どうして”青色”がそういう”涼し気な”イメージや”ロマンチックな”イメージを与えるのか。本当の理由は分からないが、恐らく”海の色”や”空の色”から来るのだろう。それが太古の昔に地球上の生命に”刷り込まれ”て来たのだろう。もしこんな青色が動物にもあると、人間はその動物を何か”麗しく”感じる。”青色の昆虫”。蝶やハチ。トンボ。こんなものに”青色”がしばしば見られる。このルリモンハナバチというのもそんなやつらしい。
黄金のおたまじゃくし。
”黄金虫”とは、まさに黄金に光り輝く甲虫のこと。ジェームズ・ボンドの”007”にも「ゴールドフィンガー」というものがあったが、人間は、なぜか黄金が好きだ。金色も好きで、ブロンドガールは、ボンドガールの象徴でもある。人は、”黄金”に魅せられる。だから、”黄金色”に光り輝くものには目がない。これは、そういうふうに、”黄金色”に輝くおたまじゃくしが見つかったというもの。果たして、このおたまじゃくしは、”黄金のカエル”に育つのだろうか。
”黄金虫”とは、まさに黄金に光り輝く甲虫のこと。ジェームズ・ボンドの”007”にも「ゴールドフィンガー」というものがあったが、人間は、なぜか黄金が好きだ。金色も好きで、ブロンドガールは、ボンドガールの象徴でもある。人は、”黄金”に魅せられる。だから、”黄金色”に光り輝くものには目がない。これは、そういうふうに、”黄金色”に輝くおたまじゃくしが見つかったというもの。果たして、このおたまじゃくしは、”黄金のカエル”に育つのだろうか。
宿借り。
ついに地球上の”やどかり”までホームレスの時代到来か。そう思わせる発見。通常やどかりの一族は巻貝を”宿”にしてその家に住む。だから”宿借り”と日本人は呼んで来た。しかし、ついにそういう巻貝の類いがいなくなってしまったのか、最近のやどかりは、プラスチックキャップのような代物に住むというのだ。人間の場合も、ホームレスになれば、段ボールの箱をどこからか見つけて来てその中に住む。そうすると結構暖かでちょうど良いからだ。やどかりも今や巻貝の家を失い、ホームレス状態になってしまったのだろうか。かつてバックミンスター・フラーは、「海の生き物は自然にお金を払って動き回る必要はない。魚が餌を取るのに自然に金を支払はない」と言っていたが、今や、やどかりすら人間にお金を払わないと生きていけない時代になってしまったのかも知れない。
ついに地球上の”やどかり”までホームレスの時代到来か。そう思わせる発見。通常やどかりの一族は巻貝を”宿”にしてその家に住む。だから”宿借り”と日本人は呼んで来た。しかし、ついにそういう巻貝の類いがいなくなってしまったのか、最近のやどかりは、プラスチックキャップのような代物に住むというのだ。人間の場合も、ホームレスになれば、段ボールの箱をどこからか見つけて来てその中に住む。そうすると結構暖かでちょうど良いからだ。やどかりも今や巻貝の家を失い、ホームレス状態になってしまったのだろうか。かつてバックミンスター・フラーは、「海の生き物は自然にお金を払って動き回る必要はない。魚が餌を取るのに自然に金を支払はない」と言っていたが、今や、やどかりすら人間にお金を払わないと生きていけない時代になってしまったのかも知れない。
2006/08/05のBlog
[ 15:39 ]
[ サッカー ]
トリニダード・トバゴ戦の”オシム・ジャパン”のメンバー13人が発表された。
オシム・ジャパン初戦
「トリニダード・トバゴ戦とアジアカップ予選のイエメン戦(16日、新潟スタジアム)は、同じメンバーで戦いたい。追加招集して全体で20人前後になる」
「ジーコ前監督に呼ばれたかどうかは関係ない。様々な試合を観察して選んだ」
”オシムの言葉”という本によれば、オシム監督は常日頃、1日平均、2、3試合を家の”ビデオ”で見るという。だから、会場に駆け付けて見るものまで含めれば、ここ最近の全部の試合をオシム監督は見ているはずである。
これほど多くの試合を見た上で、たったの”13人”しか”オシムのお眼鏡”にかなった選手はいなかった、ということだ。したがって、”13人”という数字そのものが、”オシムの言葉”なのである。
つまり、今国内にいる日本人選手で自分のお眼鏡にかかるのは、13人程度。多くても20人前後しかいない、という”オシムからのメッセージ”である。言葉で多く語るより、ここでは”数字で語る”方が得策、という意味である。
そして、”どういう選手をオシムが欲しがっているか”と国内にいる他の選手達に知らせているわけだ。
さて、選ばれた者は以下の13人。
【GK】
★川口能活(磐田、30)
☆山岸範宏(浦和、28)
【DF】
★三都主アレサンドロ(浦和、29)
★坪井慶介(浦和、26)
☆田中マルクス闘莉王(浦和、25)
★駒野友一(広島、25)
【MF】
☆田中隼磨(横浜、24)
今野泰幸(FC東京、23)
☆小林大悟(大宮、23)
長谷部誠(浦和、22)
【FW】
☆我那覇和樹(川崎、25)
佐藤寿人(広島、24)
田中達也(浦和、23)
これを見れば、オシム監督が何を考えているか良く分かる。今回の試合に関していえば、これで十分行けるということだろう。
つまり、ディフェンスは、ブッフバルト監督が育てた浦和レッズのディフェンダーをコアにする。なぜなら、練習時間がほとんどないので、コンビネーションの出来ているチームから選ぶ他ないからである。
中盤は、ボランチに今野、田中を置いてこの4人でOK。中盤の選手達は運動量豊富で自分も最前線にシュートにも行くし、自陣ゴールラインの最後尾まで守るというタイプの選手達である
前線は、田中、佐藤、我那覇のうち2人を先発させ、残りをスーパーサブに使う。あるいは、1人が中盤に下がる。3選手ともに中盤もできる選手である。
したがって、3一5一2の場合は、駒野をはずし、我那覇か田中を中盤に入れる。4一4一2の場合は、駒野を入れ、我那覇を下げる。こういったことをして、3一5一2でも4一4一2でも、あるいはそれ以外4一5一1の1トップの場合でも自在に変化できるようなチームを念頭に置いているのだろう。
この意味で、オシム監督は、”冗談”で「これでも戦える」と言ったのだろう。
ここには、ジーコ・ジャパンは少ないので、一度ジーコ・ジャパンのチームと試合させたいほど、面白いチームである。
”オシムの言葉”にあるように、「名前や人気や知名度で選手を選ぶ」のではなく、「自分のサッカーの構想に応じて選手を選ぶ」が十分に貫かれていると思う。
私の想像では、ドイツ大会のジーコ・ジャパンと今回のオシム・ジャパンが戦えば、オシム・ジャパンの2一0の勝利だろうと思う。
オシム・ジャパン初戦
「トリニダード・トバゴ戦とアジアカップ予選のイエメン戦(16日、新潟スタジアム)は、同じメンバーで戦いたい。追加招集して全体で20人前後になる」
「ジーコ前監督に呼ばれたかどうかは関係ない。様々な試合を観察して選んだ」
”オシムの言葉”という本によれば、オシム監督は常日頃、1日平均、2、3試合を家の”ビデオ”で見るという。だから、会場に駆け付けて見るものまで含めれば、ここ最近の全部の試合をオシム監督は見ているはずである。
これほど多くの試合を見た上で、たったの”13人”しか”オシムのお眼鏡”にかなった選手はいなかった、ということだ。したがって、”13人”という数字そのものが、”オシムの言葉”なのである。
つまり、今国内にいる日本人選手で自分のお眼鏡にかかるのは、13人程度。多くても20人前後しかいない、という”オシムからのメッセージ”である。言葉で多く語るより、ここでは”数字で語る”方が得策、という意味である。
そして、”どういう選手をオシムが欲しがっているか”と国内にいる他の選手達に知らせているわけだ。
さて、選ばれた者は以下の13人。
【GK】
★川口能活(磐田、30)
☆山岸範宏(浦和、28)
【DF】
★三都主アレサンドロ(浦和、29)
★坪井慶介(浦和、26)
☆田中マルクス闘莉王(浦和、25)
★駒野友一(広島、25)
【MF】
☆田中隼磨(横浜、24)
今野泰幸(FC東京、23)
☆小林大悟(大宮、23)
長谷部誠(浦和、22)
【FW】
☆我那覇和樹(川崎、25)
佐藤寿人(広島、24)
田中達也(浦和、23)
これを見れば、オシム監督が何を考えているか良く分かる。今回の試合に関していえば、これで十分行けるということだろう。
つまり、ディフェンスは、ブッフバルト監督が育てた浦和レッズのディフェンダーをコアにする。なぜなら、練習時間がほとんどないので、コンビネーションの出来ているチームから選ぶ他ないからである。
中盤は、ボランチに今野、田中を置いてこの4人でOK。中盤の選手達は運動量豊富で自分も最前線にシュートにも行くし、自陣ゴールラインの最後尾まで守るというタイプの選手達である
前線は、田中、佐藤、我那覇のうち2人を先発させ、残りをスーパーサブに使う。あるいは、1人が中盤に下がる。3選手ともに中盤もできる選手である。
したがって、3一5一2の場合は、駒野をはずし、我那覇か田中を中盤に入れる。4一4一2の場合は、駒野を入れ、我那覇を下げる。こういったことをして、3一5一2でも4一4一2でも、あるいはそれ以外4一5一1の1トップの場合でも自在に変化できるようなチームを念頭に置いているのだろう。
この意味で、オシム監督は、”冗談”で「これでも戦える」と言ったのだろう。
ここには、ジーコ・ジャパンは少ないので、一度ジーコ・ジャパンのチームと試合させたいほど、面白いチームである。
”オシムの言葉”にあるように、「名前や人気や知名度で選手を選ぶ」のではなく、「自分のサッカーの構想に応じて選手を選ぶ」が十分に貫かれていると思う。
私の想像では、ドイツ大会のジーコ・ジャパンと今回のオシム・ジャパンが戦えば、オシム・ジャパンの2一0の勝利だろうと思う。
2006/08/03のBlog
[ 08:38 ]
[ スポーツ ]
昨夜の”いかさま試合”後の人々の声を拾っておこう。
まずはチャンピオンを失った”正義”のランダエタ。
亀田に敗れたランダエタ、「私が勝者」
一一 判定は?
ランダエタ:「もちろん私が勝っている。リングの上で亀田は分かったと思うが、彼は、ただの子供だ」
一一 再試合は?
ランダエタ:「今すぐにでもやれるが、彼はこれ以上、私とやりたくないだろう」
一一 結果については?
ランダエタ:「訴えることはしない。でも、判定がおかしかったことは、試合を見ていた方々が一番わかっていると思う」
まったくランダエタの言う通り。
亀田興毅:勝利のアナウンスに驚きの声横浜アリーナ
会場にいた一般人の声。
埼玉県春日部市の建築業、関根良行さん(28):「負けていた試合。こういう結果は逆に残念で、亀田選手にとってもよくない」
東京都足立区の会社員、下川圭太さん(42):「気が抜けた。前半のダウンを取り返そうと一生懸命やっていたのは分かるけど、5ポイントは負けていたと思う。結果を喜べない」
川崎市の主婦(34):「亀田選手が勝ったことをとやかく言われることになったらかわいそう。だけど私もなんだかすっきりしない」
亀田興毅:立ち上がりにダウン 判定に疑問の声も
専門家の声
一一 判定は?
ガッツ石松:「まいったね。なんでこの人が勝ちなの」「ランダエタが7ポイントもリードしていた」
一一 試合については?
ガッツ石松:「亀田兄弟は人気があるかもしれないけど、この試合で勝てるのなら、ボクシング界は何をやっているのかと思われる。日本人は立っていれば、チャンピオンになれるの? 全世界のボクシング関係者に見せて、判定してもらえばいい」
ガッツ石松:「日本のボクシングはタレント養成所ではない。これがまかり通るなら、僕はボクシング関係の肩書は何もいらない」
漫画家のやくみつる:「非常に不愉快なものを見た。実況も最後の方は負けモードだったし、こういう判定になるとは。判定後の(亀田選手の)態度も疑問。あの場では勝者の振る舞いをしないと格好がつかないところもあるだろうが、大口をたたける試合内容ではなかった。態度を改めるべきではないか」
輪島功一:「亀田選手は前半、悪かったが、中盤から盛り返してがんがんに攻めて最後までよく頑張った。引き分けかなとも思ったが、勝ちに値する戦いぶりだった。(苦戦の理由は)今までやってきた相手とあまりにも差がありすぎ、(戦い方を)考えていなかったこと。これからは世界王者。どんな相手ともやらないといけないのだから、よく考えて戦わないと」
亀田興毅:中継のTBSに電話殺到
ワールドカップ・ドイツ大会前にイタリアの”八百長疑惑”が出たが、この結末は、ユベントスの2部降格という厳しいものだった。
これと同じで、ボクシングの”八百長疑惑”も立派な犯罪。警視庁は調査に乗り出すべきで、場合によっては亀田家を”立件”すべきだろう。ボクシングの”八百長”は、立派に”詐欺行為”匹敵するからだ。普通なら、”チャンピオンベルトの剥奪”、”降格”、あるいは”永久追放”もあり得るだろう。
それにしても、昨今の日本はひどい。政治家の”履歴書捏造”から始まって、科学者の”論文捏造”やら、画家の”絵の捏造”やらと続き、とうとうボクシングの”判定捏造”、”チャンピオン捏造”にまで来てしまった。これでは、”国家の品格”もなにもない。本当に”目に余る”。
いずれにせよ、TBSには、2度とボクシング放映させないほうが良さそうだ。
”亀田興毅、お前も悪よのう”
というところだね。まあ、口程のことはなく、あくまでアマチュアボクシングの粋を出ていなかったということだ。亀田家は、”減らず口を叩いている”といつかもっと痛い目に合うかも知れない。
まずはチャンピオンを失った”正義”のランダエタ。
亀田に敗れたランダエタ、「私が勝者」
一一 判定は?
ランダエタ:「もちろん私が勝っている。リングの上で亀田は分かったと思うが、彼は、ただの子供だ」
一一 再試合は?
ランダエタ:「今すぐにでもやれるが、彼はこれ以上、私とやりたくないだろう」
一一 結果については?
ランダエタ:「訴えることはしない。でも、判定がおかしかったことは、試合を見ていた方々が一番わかっていると思う」
まったくランダエタの言う通り。
亀田興毅:勝利のアナウンスに驚きの声横浜アリーナ
会場にいた一般人の声。
埼玉県春日部市の建築業、関根良行さん(28):「負けていた試合。こういう結果は逆に残念で、亀田選手にとってもよくない」
東京都足立区の会社員、下川圭太さん(42):「気が抜けた。前半のダウンを取り返そうと一生懸命やっていたのは分かるけど、5ポイントは負けていたと思う。結果を喜べない」
川崎市の主婦(34):「亀田選手が勝ったことをとやかく言われることになったらかわいそう。だけど私もなんだかすっきりしない」
亀田興毅:立ち上がりにダウン 判定に疑問の声も
専門家の声
一一 判定は?
ガッツ石松:「まいったね。なんでこの人が勝ちなの」「ランダエタが7ポイントもリードしていた」
一一 試合については?
ガッツ石松:「亀田兄弟は人気があるかもしれないけど、この試合で勝てるのなら、ボクシング界は何をやっているのかと思われる。日本人は立っていれば、チャンピオンになれるの? 全世界のボクシング関係者に見せて、判定してもらえばいい」
ガッツ石松:「日本のボクシングはタレント養成所ではない。これがまかり通るなら、僕はボクシング関係の肩書は何もいらない」
漫画家のやくみつる:「非常に不愉快なものを見た。実況も最後の方は負けモードだったし、こういう判定になるとは。判定後の(亀田選手の)態度も疑問。あの場では勝者の振る舞いをしないと格好がつかないところもあるだろうが、大口をたたける試合内容ではなかった。態度を改めるべきではないか」
輪島功一:「亀田選手は前半、悪かったが、中盤から盛り返してがんがんに攻めて最後までよく頑張った。引き分けかなとも思ったが、勝ちに値する戦いぶりだった。(苦戦の理由は)今までやってきた相手とあまりにも差がありすぎ、(戦い方を)考えていなかったこと。これからは世界王者。どんな相手ともやらないといけないのだから、よく考えて戦わないと」
亀田興毅:中継のTBSに電話殺到
ワールドカップ・ドイツ大会前にイタリアの”八百長疑惑”が出たが、この結末は、ユベントスの2部降格という厳しいものだった。
これと同じで、ボクシングの”八百長疑惑”も立派な犯罪。警視庁は調査に乗り出すべきで、場合によっては亀田家を”立件”すべきだろう。ボクシングの”八百長”は、立派に”詐欺行為”匹敵するからだ。普通なら、”チャンピオンベルトの剥奪”、”降格”、あるいは”永久追放”もあり得るだろう。
それにしても、昨今の日本はひどい。政治家の”履歴書捏造”から始まって、科学者の”論文捏造”やら、画家の”絵の捏造”やらと続き、とうとうボクシングの”判定捏造”、”チャンピオン捏造”にまで来てしまった。これでは、”国家の品格”もなにもない。本当に”目に余る”。
いずれにせよ、TBSには、2度とボクシング放映させないほうが良さそうだ。
”亀田興毅、お前も悪よのう”
というところだね。まあ、口程のことはなく、あくまでアマチュアボクシングの粋を出ていなかったということだ。亀田家は、”減らず口を叩いている”といつかもっと痛い目に合うかも知れない。
2006/08/02のBlog
[ 22:33 ]
[ スポーツ ]
亀田興毅、世界王者に WBAライトフライ級
亀田興毅、判定で世界ライトフライ級王座獲得
「信じられない判定だった。亀田が新王者となったが、試合内容は完敗だった。」
”親方日の丸”で有名な読売新聞のスポーツ記者ですら、自分の目を疑った。
1ラウンドでクリーンヒットでダウン。しかし早い終了時間でゴングに救われる。最終ラウンドは、よろよろで目もろくに見えていない。打つと見せてはクリンチでダウンを逃げる。柔道でいうところの”かけ逃げ”だ。試合終了後では、挑戦者の顔は醜く腫れ上がり、出血もひどい。チャンピオンの顔はきれいで元気はつらつ。
だから、だれもがチャンピオンの”防衛”だろうと思った瞬間、「新チャンピオン誕生」とアナウンス。
さすがの私もこれには呆れ返った。
というより、半ば予想通りの展開。なぜなら、終盤のラウンドでセコンドについた父親が毎回耳打ちしていたからだ。私には、なんて話しているのか、手に取るように分かった。
”ダウンだけするな。ダウンさえしなけりゃ、お前の勝ちになっている。絶対倒れるな。”
おそらくこんな感じだろう。頭に来たチャンピオンはすぐに帰ってしまった。新チャンピオンに感謝の言葉もない。
日本のボクシングもとうとうここまで”落ちてしまったか”という感じのするゲームだった。
強いものが勝ち残る。それがボクシングだ。金のあるものが勝ち残るのではない。今後日本のボクシング界は大変な事態に陥るのではないかという気がする。大問題になることだろう。
いずれにせよ、亀田興毅は”金玉パンチ”のダウンやら、早いTKOやら何やら、”やらせ”の試合ばかりだ。こんな試合、テレビ放映するな。バカめ!
亀田興毅、判定で世界ライトフライ級王座獲得
「信じられない判定だった。亀田が新王者となったが、試合内容は完敗だった。」
”親方日の丸”で有名な読売新聞のスポーツ記者ですら、自分の目を疑った。
1ラウンドでクリーンヒットでダウン。しかし早い終了時間でゴングに救われる。最終ラウンドは、よろよろで目もろくに見えていない。打つと見せてはクリンチでダウンを逃げる。柔道でいうところの”かけ逃げ”だ。試合終了後では、挑戦者の顔は醜く腫れ上がり、出血もひどい。チャンピオンの顔はきれいで元気はつらつ。
だから、だれもがチャンピオンの”防衛”だろうと思った瞬間、「新チャンピオン誕生」とアナウンス。
さすがの私もこれには呆れ返った。
というより、半ば予想通りの展開。なぜなら、終盤のラウンドでセコンドについた父親が毎回耳打ちしていたからだ。私には、なんて話しているのか、手に取るように分かった。
”ダウンだけするな。ダウンさえしなけりゃ、お前の勝ちになっている。絶対倒れるな。”
おそらくこんな感じだろう。頭に来たチャンピオンはすぐに帰ってしまった。新チャンピオンに感謝の言葉もない。
日本のボクシングもとうとうここまで”落ちてしまったか”という感じのするゲームだった。
強いものが勝ち残る。それがボクシングだ。金のあるものが勝ち残るのではない。今後日本のボクシング界は大変な事態に陥るのではないかという気がする。大問題になることだろう。
いずれにせよ、亀田興毅は”金玉パンチ”のダウンやら、早いTKOやら何やら、”やらせ”の試合ばかりだ。こんな試合、テレビ放映するな。バカめ!
[ 17:41 ]
[ 音楽・芸能 ]
昨晩、私は妻と小松左京原作「日本沈没」のリーメーク版を見たが(子供達は「カリブの海賊2」を見た)、”映画”そのものは結構面白かった。ほとんどが”3次元CG”だったが、最近までの日本映画にはない迫力と臨場感が出ていた”秀作”であった。最近のハリウッド映画、トム・クルーツの「宇宙戦争」に負けないだけの作り方が為されていたと思う。
しかし、細かい事を言えば、結構「これはどうした?」と思う”ナンセンス”な場面もたくさんあった。
たとえば、掘削船「ちきゅう」などがプレートを剥がすために爆弾をしかけるための掘削作業中に大地震とそれによる津波が日本列島を襲った。しかし、掘削船群は無傷であった。常識的には、掘削船も沈没するだろう。
もっと驚くのは、一番最初のシーンで地震が関東を襲い、大火事が起こっている。その火事の現場で人命救助したり、人が逃げ回っているのに、だれも”熱い”、”あちー”などという表現がない。
また、火事シーンや火山灰が降り注ぐシーンでは、人は煤(すす)や灰を吸い込むので、”口が真っ黒”になるはずである。そのため、人々は”咳き込んだり”、”苦しがったり”するはずだ。これは、ニューヨークのツウィンタワービルのテロ事件の時の被災者の映像からも明らかだろう。
ところが、背後の状況は凄まじいのに、登場人物達はあまりに”静か”に動いていた。
さらには、登場人物の”演技”にも”不自然さ”というのか、”演技不足”というのか、状況に似つかわしくない場面が多かった。
例えば、豊川悦司演じる地球物理学者の振る舞いがそうだ。日本人の科学者の”大人しい”メンタリティーからして、日本人科学者はアメリカ人学者とは違って、怒って研究所の備品や物に怒りをぶちまけることはない。パソコンを投げたり、物を蹴ったりするというのは、ハリウッドのアメリカ人の振る舞い方で日本人のものではない。だから、自分の理論が日本の沈没をアメリカ人学者より早く予言して恐怖にかられるシーンでは、むしろ韓国ドラマのように、むしろもっと”ウェットな”演技の方がリアリティーがあっただろう。この辺のシーンは、全部”ハリウッドB級SF・ホラー映画”の科学者のような演技であった。
こうしたところを”詰めていかない限り”日本映画が韓国映画に勝ち、ハリウッド映画に勝っていく事は難しいだろう。
私がいつも日本映画で理解できない事は、こういったいわゆる”映画のバグ”をどうして公開前に取り除かないのか、ということである。
では、逆にアメリカのハリウッド映画ではどうやって”映画のバグ”を取り除くのだろうか。
私がかつてユタ大学の大学院生であった頃、大学の映画館(ユタ大学内に、そんなに大きくはないが映画館があった)で、”新作映画のプレビュー”というのを無料で見せてくれたものである。この”新作映画のプレビュー”というのは、今作成中でだいたい完成したものを、大学生たちに見せてその反応を見るというものである。だから、料金を取らない(か、取ったとしても非常に安い)。学生はどの国でもお金はないので、みんなで大挙して押しかけて見る。私も何度かこういった”プレビュー”を見たものである。”新作007”とか、なんとか。そして、放映後に学生達がアンケートに答えて、どこが良かったとか、悪かったとかを紙に書いて渡すのである。作った側はこういったアンケート調査に基づいて、ここを削った方が良いとか、ここをもっと改良すべきだとかの意見をまとめて、最終調整して、”映画のバグ”を取り除く。そして、本当の意味の”公開”に踏み切る。
私はこの「日本沈没」もこういった”プレビュー”をして作って欲しかったと心底思う。
なぜなら、私の個人的な最大の疑問は次のようなものだからだ。
”おい、日本に駐留する米軍はどうした?”
”やつらは年間10兆円も日本人の税金使っているのに、日本沈没時に何もしないのか?”
ついでに言えば、こんな疑問もある。
”中国はどうした? ODAでこれまでさんざん援助して来たのに、こんな災害時に何もしないのか?”
残念ながら、この「日本沈没」には、警察、自衛隊、海上保安庁、消防庁などの隊員や施設や設備が”披露”されただけで、米軍も中国軍も韓国軍も出てこなかった。 しかし、これでは、現実に沖縄、横須賀など全国に駐留する在日米軍の存在からしてリアリティーに欠けるということになるだろう。
掘削船「ちきゅう」の仕掛ける(核爆弾並みの)爆弾に対して、米軍が仕掛ける”核爆弾”。そして、米軍と日本軍の間で”板挟み”になり、葛藤する日本人学者たち。こんなストーリーの方がはるかに現実味があっただろう。
だから、この意味では、”海猿”と同じように、昨今”日本防衛”するという為に日本人に必要な”愛国心の刷り込み(マインドコントロール)”が、この映画の”影の目的”にあると私は見ている。
ところで、我が家では、いつもこう言っている。
もし関東に巨大地震が来るという時をどうやって予測できるか。これは簡単だ。
これは、関東にいる在日米軍が”何か”の理由をつけて全部いなくなった時だ。その直後に大地震が来る。
つまり、アメリカの地震学者や気象学者はハワイの研究所にいて米軍とリンクしているので、東京に巨大地震が来る時には、その前には必ず在日米軍にそれが知らされる。だから、日本人より先に米軍人やその家族などアメリカ人たちが東京からいなくなるはずである。
東京からアメリカ人がいなくなった時、”これは変だ”と思うべきである。
もっとも、「日本沈没」は、すでに日本にいたアメリカ人たちが全部いなくなってしまった後の話だとすれば、確かにつじつまは合う。
最後に、掘削船「ちきゅう」に関して言えば、これは(私の観点からすれば)、大問題の中にある。この「ちきゅう」は、そもそも、地球物理学のアカデミックな問題を解決するために作られたのだが、現在は世界中の資源探査、つまり、鉱物資源や石油資源探査のために出向いていて、ちっともマントル内部まで掘削なんかしていないのだ。
これは、日本の”国の研究施設”に良く見受けられることだが、”アカデミックな大問題解決”のために作られた設備や装置が、実はもっと矮小な”現実的”目的のために使われてしまう、ということである。まあ、例えて言えば、”電子顕微鏡で毛穴を見る”というようなことである。
物凄い性能のある装置があるのなら、何もめったにないような、あまりにアカデミックな目的より、もっと現実的なことにどんどん使うべきだというような発想を日本人(たぶん政治家や経営者)がするということである。
電子顕微鏡で、めったに見つからない新ウィルスを見つけるより、禿げで悩んでいる者が多い事だし、”ハゲの毛穴”を見た方が儲かるぞ、というような発想だろう。小芝博士のスーパーカミオカンデで、いつ飛んで来るかも分からない”ニュートリノ”を観測するより、巨大プールがあるなら、それを一般人に水泳プールとして使え、というようなものだ。
しかし、これでは、既存の装置や設備でもできるわけだから、そもそも世界最高のものを作る必要はないということだ。
こんなわけで、「ちきゅう」はマントルを掘っていないのだから、地球最古の生命の発見という大きな発見はすることなく、石油探査などジョージ・ブッシュの片棒を担ぐ程度の馬鹿げたことをやっているようだ。つまりは、”本末転倒”なのだ。もし、小芝博士がこういう本末転倒なことをして、カミオカンデをスイミングプールとして市民に解放していたら、スーパーノヴァの発見も出来ず、ノーベル賞もなかったことだろう。
だが、日本人はよくこういった発想をするのである。ぜひ本来の目的のために尽力して欲しいものだ。
参考:
昔、北極は暖かかった:IODPの快挙
しかし、細かい事を言えば、結構「これはどうした?」と思う”ナンセンス”な場面もたくさんあった。
たとえば、掘削船「ちきゅう」などがプレートを剥がすために爆弾をしかけるための掘削作業中に大地震とそれによる津波が日本列島を襲った。しかし、掘削船群は無傷であった。常識的には、掘削船も沈没するだろう。
もっと驚くのは、一番最初のシーンで地震が関東を襲い、大火事が起こっている。その火事の現場で人命救助したり、人が逃げ回っているのに、だれも”熱い”、”あちー”などという表現がない。
また、火事シーンや火山灰が降り注ぐシーンでは、人は煤(すす)や灰を吸い込むので、”口が真っ黒”になるはずである。そのため、人々は”咳き込んだり”、”苦しがったり”するはずだ。これは、ニューヨークのツウィンタワービルのテロ事件の時の被災者の映像からも明らかだろう。
ところが、背後の状況は凄まじいのに、登場人物達はあまりに”静か”に動いていた。
さらには、登場人物の”演技”にも”不自然さ”というのか、”演技不足”というのか、状況に似つかわしくない場面が多かった。
例えば、豊川悦司演じる地球物理学者の振る舞いがそうだ。日本人の科学者の”大人しい”メンタリティーからして、日本人科学者はアメリカ人学者とは違って、怒って研究所の備品や物に怒りをぶちまけることはない。パソコンを投げたり、物を蹴ったりするというのは、ハリウッドのアメリカ人の振る舞い方で日本人のものではない。だから、自分の理論が日本の沈没をアメリカ人学者より早く予言して恐怖にかられるシーンでは、むしろ韓国ドラマのように、むしろもっと”ウェットな”演技の方がリアリティーがあっただろう。この辺のシーンは、全部”ハリウッドB級SF・ホラー映画”の科学者のような演技であった。
こうしたところを”詰めていかない限り”日本映画が韓国映画に勝ち、ハリウッド映画に勝っていく事は難しいだろう。
私がいつも日本映画で理解できない事は、こういったいわゆる”映画のバグ”をどうして公開前に取り除かないのか、ということである。
では、逆にアメリカのハリウッド映画ではどうやって”映画のバグ”を取り除くのだろうか。
私がかつてユタ大学の大学院生であった頃、大学の映画館(ユタ大学内に、そんなに大きくはないが映画館があった)で、”新作映画のプレビュー”というのを無料で見せてくれたものである。この”新作映画のプレビュー”というのは、今作成中でだいたい完成したものを、大学生たちに見せてその反応を見るというものである。だから、料金を取らない(か、取ったとしても非常に安い)。学生はどの国でもお金はないので、みんなで大挙して押しかけて見る。私も何度かこういった”プレビュー”を見たものである。”新作007”とか、なんとか。そして、放映後に学生達がアンケートに答えて、どこが良かったとか、悪かったとかを紙に書いて渡すのである。作った側はこういったアンケート調査に基づいて、ここを削った方が良いとか、ここをもっと改良すべきだとかの意見をまとめて、最終調整して、”映画のバグ”を取り除く。そして、本当の意味の”公開”に踏み切る。
私はこの「日本沈没」もこういった”プレビュー”をして作って欲しかったと心底思う。
なぜなら、私の個人的な最大の疑問は次のようなものだからだ。
”おい、日本に駐留する米軍はどうした?”
”やつらは年間10兆円も日本人の税金使っているのに、日本沈没時に何もしないのか?”
ついでに言えば、こんな疑問もある。
”中国はどうした? ODAでこれまでさんざん援助して来たのに、こんな災害時に何もしないのか?”
残念ながら、この「日本沈没」には、警察、自衛隊、海上保安庁、消防庁などの隊員や施設や設備が”披露”されただけで、米軍も中国軍も韓国軍も出てこなかった。 しかし、これでは、現実に沖縄、横須賀など全国に駐留する在日米軍の存在からしてリアリティーに欠けるということになるだろう。
掘削船「ちきゅう」の仕掛ける(核爆弾並みの)爆弾に対して、米軍が仕掛ける”核爆弾”。そして、米軍と日本軍の間で”板挟み”になり、葛藤する日本人学者たち。こんなストーリーの方がはるかに現実味があっただろう。
だから、この意味では、”海猿”と同じように、昨今”日本防衛”するという為に日本人に必要な”愛国心の刷り込み(マインドコントロール)”が、この映画の”影の目的”にあると私は見ている。
ところで、我が家では、いつもこう言っている。
もし関東に巨大地震が来るという時をどうやって予測できるか。これは簡単だ。
これは、関東にいる在日米軍が”何か”の理由をつけて全部いなくなった時だ。その直後に大地震が来る。
つまり、アメリカの地震学者や気象学者はハワイの研究所にいて米軍とリンクしているので、東京に巨大地震が来る時には、その前には必ず在日米軍にそれが知らされる。だから、日本人より先に米軍人やその家族などアメリカ人たちが東京からいなくなるはずである。
東京からアメリカ人がいなくなった時、”これは変だ”と思うべきである。
もっとも、「日本沈没」は、すでに日本にいたアメリカ人たちが全部いなくなってしまった後の話だとすれば、確かにつじつまは合う。
最後に、掘削船「ちきゅう」に関して言えば、これは(私の観点からすれば)、大問題の中にある。この「ちきゅう」は、そもそも、地球物理学のアカデミックな問題を解決するために作られたのだが、現在は世界中の資源探査、つまり、鉱物資源や石油資源探査のために出向いていて、ちっともマントル内部まで掘削なんかしていないのだ。
これは、日本の”国の研究施設”に良く見受けられることだが、”アカデミックな大問題解決”のために作られた設備や装置が、実はもっと矮小な”現実的”目的のために使われてしまう、ということである。まあ、例えて言えば、”電子顕微鏡で毛穴を見る”というようなことである。
物凄い性能のある装置があるのなら、何もめったにないような、あまりにアカデミックな目的より、もっと現実的なことにどんどん使うべきだというような発想を日本人(たぶん政治家や経営者)がするということである。
電子顕微鏡で、めったに見つからない新ウィルスを見つけるより、禿げで悩んでいる者が多い事だし、”ハゲの毛穴”を見た方が儲かるぞ、というような発想だろう。小芝博士のスーパーカミオカンデで、いつ飛んで来るかも分からない”ニュートリノ”を観測するより、巨大プールがあるなら、それを一般人に水泳プールとして使え、というようなものだ。
しかし、これでは、既存の装置や設備でもできるわけだから、そもそも世界最高のものを作る必要はないということだ。
こんなわけで、「ちきゅう」はマントルを掘っていないのだから、地球最古の生命の発見という大きな発見はすることなく、石油探査などジョージ・ブッシュの片棒を担ぐ程度の馬鹿げたことをやっているようだ。つまりは、”本末転倒”なのだ。もし、小芝博士がこういう本末転倒なことをして、カミオカンデをスイミングプールとして市民に解放していたら、スーパーノヴァの発見も出来ず、ノーベル賞もなかったことだろう。
だが、日本人はよくこういった発想をするのである。ぜひ本来の目的のために尽力して欲しいものだ。
参考:
昔、北極は暖かかった:IODPの快挙
2006/07/31のBlog
[ 09:08 ]
[ オシムの言葉 ]
一昨日、阿南図書館から「オシムの言葉」を借りて、一昨日昨日と読んだが、サッカーに関する内容はだいたい私が『オシム監督就任と久米宏のWCサッカー特番 』で想像していたようなものであった。
サッカーに関して言えば、オシム監督の指導方法は特に目新しくはない。基本的には、戦後日本のクラマー(西ドイツ)さん以来のヨーロッパサッカーの源流に基づいている。
戦後日本では、クラマー(西ドイツ)さん以来のヨーロッパサッカーの伝統をつちかった”走るパスワークサッカー”から始まった。それに、オフトの”ゾーンプレス”、トルシエの”フラットスリー”、ジーコの”ブラジルサッカー”と来たわけだ。トルシエまではヨーロッパスタイルだったが、ジーコで”弱いブラジルサッカー”を学んでしまったのが今回のドイツ大会における日本サッカーの失敗の原因と言える。
ブラジル、あるいはアルゼンチンも、南米のテクニック重視の個人技サッカーから組織プレー重視のサッカーへと”ヨーロッパ化”して初めてワールドカップで優勝した。だから、同じブラジルサッカーでも、ドゥンガ(最近ブラジル代表監督に就任したばかり)やアルゼンチンのアルディレスのサッカーは極めてヨーロッパ的だ。それゆえ、世界制覇できたのである。しかし、優勝経験のないジーコにはそれが分からなかった。
この意味では、最初ヨーロッパスタイルから始まった日本サッカーが、ヨーロッパスタイルに回帰するのは、ある意味当然だろう。
本として見た場合には、特に素晴らしいのは、旧ユーゴスラビアのサッカーシーンの”崩壊”と、ユーゴ戦争の状況について非常に詳しく書かれていたことだ。サッカーはともかく、この点に一番の興味を私は引かれた。
この本では、特に書かれていなかったが(あまりに分かり切っていたためかも知れないが)、オシム監督が旧ユーゴスラビア代表監督として1990年イタリア大会でユーゴスラビア代表を率いた時、若干19歳の若き天才ストイコビッチと同じ年齢層にシューケルたちがいた。このシューケルたちが、後にクロアチア代表として1998年フランス大会に乗り込んで来て、いきなり”初出場3位”という快挙を成し遂げたわけだが、この快挙の背後にいた指導者こそこのオシム監督であった、ということだ。
私は、これまでなぜ突然クロアチアがいきなり3位に入れたのかよく分からなかったが、その理由をこの本から読み取る事が出来た。これが一番の収穫であった。
もちろん、同時に、今度のドイツ大会のセルビア・モンテネグロの代表、他にスロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどの代表もそのほとんどがオシム監督の指導下にあったということである。また、近年ギリシャも強豪国になったが、それもこのオシム監督が一時期ギリシャのチームの監督をしたことに端を発していると考えられる。
この意味からも、オシム監督の監督としての”才能”は申し分ない。オシム監督は今の日本代表監督としてはベストの監督である。これは間違いなく真実である。
また、いつも西洋や南米のサッカー選手達が言う「日本人特有のメンタリティー」の消えない日本人にとって、オシム監督のような”練れた人物”は非常に良い教訓(あるいは教材)となるだろう。
特に、若い世代、オシム監督と接する事のできた若者たち、(つまり、サッカー選手や通訳や関係者)にとってもっとも良い教材となっている。ここが大事だ。
中でも、本にあるように、通訳の間瀬秀一氏(元プロサッカー選手)は将来の大物監督になる可能性がある。自身、今一番なりたいものは監督であるという。オシム監督と出会うそれまでは、通訳だった。練習法、心理的技術、心構えなどあらゆる面で、間瀬氏は学んでいる。
同様に、今ジェフで指導を受けて来た選手達の中からも将来の大物監督に育って行くものが出るだろう。この意味では、10年後、20年後に今の”オシムの言葉”が成果を出すと言えるだろう。
これは、かつてクラマーコーチが行ったことが、何十年も経ってから成果を出した(つまり、日本サッカーのプロ化)ように、今のオシム監督の行っていることが、10年、20年、30年と先に行って花開く、という意味である。
この意味でも、オシム監督は、例え次の南アフリカ大会で良い成績を残せなかったとしても、今の日本サッカーにとってはやはり最適な人物と言えるだろう。
しかし、世界には、フェリペ、ジャケ、ベンゲル、オシム、リッピ(そして、ドゥンガ)というような名将が生まれているが、日本にはどうしてこういった大物が育たないのだろうか。まあ、もっともそれは、サッカーだけに限られるわけではなく、学者世界(や役者世界)でもそうだ。やはり、日本のどの分野でも、”ちまちました”人物、”練れていない”人物しか育っていない。
かつて勝海舟は、”大きな人物は大きな国にこそ育つ”というような意味のことを言っていたが、”小さな人物しか育たない”ということは、日本という国が”小国”であるという意味だろう。島国ということかも知れない。
そこは、欧州、アフリカ、アジアの3大陸が交わり、古代からもっとも紛争がある地域であった、バルカン半島とは違う。オシムの故郷とは違うということだ。バルカン地帯は小さな国々に分裂しているが、その文化圏としての大きさは日本をはるかに凌駕した大国であるということだろう。
”大きな国にしか大きな人物は育たない”
やはり、我々日本人は高望みは禁物だというところだろう。
一一一一一一
ところで、昨日これを書いていてブログに出そうと思っていた頃、doblogはダウンしていて全く機能していなかったが、ちょうどその時期に昨夜のNHKでオシム監督の特集があり、それに「オシムの言葉」の原作者の木村氏が出ていた。
確かに木村氏の”オシム解説”は、「オシムの言葉」にあるように”的確な”ものではあったが、やはり著者の”顔”を見てしまうと興味も半減するから不思議である。「オシムの言葉」の著者も所詮はオシム監督そのものではない。”異なる顔”がオシムのことを論じるのは、妙に違和感を感じた。
特に、その木村氏自身が「オシムの言葉」でオシム監督が通訳のことで言ったとされる部分に次のような意味のことを書いた部分がある。
”Jリーグ通訳には通訳しているうちに監督本人になったかのように錯覚し、通訳自身がその監督であるかのごとく振舞うものがしばしば見られる。だから、そういうふうな行動をするな。”
これは実に不思議なことだが、私もいつも思うことである。実際、ジーコの通訳氏もジーコ以上に”ジーコ的”に振舞っていた。トルシエの通訳もトルシエ以上に”トルシエ的”に振舞っていた。これは、永年寝食を共にして”情が移って”しまい、さらには監督になり切らない限り監督の意向や感情が言葉に乗り移らないので、次第に自分自身が監督の影武者のような存在になってくることが原因だろう。しかし、それがあまりに行き過ぎると見ていて”見苦しい”ものがある。
実は、これと同じ事は、スポーツジャーナリズムにも言えるのだ(もちろん、解説者や翻訳者にも言える)。
あるジャーナリストが、ある選手(例えば中田英寿)やある監督(例えばオシム)を取材する。そして本にする。その人物の哲学や生い立ちを書いて行く内に、その人物像が次第に著者に分かってくる。そして本を書き終えた頃には、著者自身があたかもその当の本人になったかのように錯覚して振舞う。こういう傾向が日本人の著者の場合には非常に良く見られる。
これは、英語では"commitment"(コミットメント)というのに一番近いのかも知れない。その人物と本人が心情的に一体化してしまうのである。そして、あたかも自分がその人そのものかのような代弁者として振舞うのである。
残念ながら、昨夜の木村氏もそんな感じに見えた。まるで、”オシム監督が経験したことを木村氏もその場にいて経験していたか”のように話していたから非常に不思議だ。実際には、ご自分は、いろんな人にインタビューしていろんな人から聞きかじっただけだろう。
これは、ある人物がだれかの考え方や哲学に共鳴して影響を受けるというのと非常に似ているが、質も意味も全く異なる。ここはぜひ注意が必要だ。なぜなら、精神的に影響を受け、それを自分自身の実生活に生かす(応用する)のは素晴らしいが、紹介者が紹介されたものと同一視されることは明らかに間違っているからだ。
例えば、”オシムの言葉”に感動して、自分のビジネスや仕事や監督業に生かす。こういうことは素晴らしい。しかし、いくら”オシムの言葉”の最良の理解者だからといって、もし木村氏を”サッカー監督”にしようと考えるものが出るとすればそれは間違っている。木村氏はあくまでもジャーナリストに過ぎないからだ。
しかし、日本人はいつもこの手の間違いをするものが後を絶たない。例えば、あるジャーナリストが政治について良い本を書いたとする。すると、そのジャーナリストを政治の専門家のように錯覚してしまう。作家を政治家にしようというのも大きな間違いだ。サッカーの解説者がサッカー監督になるのも同じ意味で間違っている。サッカー監督になるのでれば、サッカー指導を学ぶべきであって、ジャーナリズムや解説を学んでも意味がない。
似たようなことは、翻訳者にもある。ハリーポッターの翻訳者は、原作を翻訳しただけなのに、まるで原作者のような印税をもらい、原作者以上の生活を送る。今や”税金対策”でスイス人になり、優雅な生活を送っているという。これは、”本末転倒”なことで、オリジナルよりその翻訳の方が得をするということになってしまう。
”オリジナル”と”物まね”コメディアンでも同様の間違いが日本では良く見られる。原物の歌手よりもその人を”物まね”している者の方が儲かってしまう。馬鹿げている。
実は、科学者や学者世界にも同じようなことがある。欧米の現物のオリジナルより、それを日本に紹介した人物の方が儲かってしまう。その一番は”クオリア”であろう。欧州のオリジナルの人物を知っている人は、日本ではほとんどいない。紹介者の茂木健一郎氏の方がはるかに知名度が高い。
いくら紹介すべき人物や内容が優れていたとしても、それを紹介した人の方がそれより有名になってしまったり、お金持ちになってしまう、というのは考えものだ。
がしかし、そうなってしまうところが、今の”本末転倒国家”日本の”日本らしい”ところなのだろう。”オシムの言葉”も同じ問題が垣間見えた。
サッカーに関して言えば、オシム監督の指導方法は特に目新しくはない。基本的には、戦後日本のクラマー(西ドイツ)さん以来のヨーロッパサッカーの源流に基づいている。
戦後日本では、クラマー(西ドイツ)さん以来のヨーロッパサッカーの伝統をつちかった”走るパスワークサッカー”から始まった。それに、オフトの”ゾーンプレス”、トルシエの”フラットスリー”、ジーコの”ブラジルサッカー”と来たわけだ。トルシエまではヨーロッパスタイルだったが、ジーコで”弱いブラジルサッカー”を学んでしまったのが今回のドイツ大会における日本サッカーの失敗の原因と言える。
ブラジル、あるいはアルゼンチンも、南米のテクニック重視の個人技サッカーから組織プレー重視のサッカーへと”ヨーロッパ化”して初めてワールドカップで優勝した。だから、同じブラジルサッカーでも、ドゥンガ(最近ブラジル代表監督に就任したばかり)やアルゼンチンのアルディレスのサッカーは極めてヨーロッパ的だ。それゆえ、世界制覇できたのである。しかし、優勝経験のないジーコにはそれが分からなかった。
この意味では、最初ヨーロッパスタイルから始まった日本サッカーが、ヨーロッパスタイルに回帰するのは、ある意味当然だろう。
本として見た場合には、特に素晴らしいのは、旧ユーゴスラビアのサッカーシーンの”崩壊”と、ユーゴ戦争の状況について非常に詳しく書かれていたことだ。サッカーはともかく、この点に一番の興味を私は引かれた。
この本では、特に書かれていなかったが(あまりに分かり切っていたためかも知れないが)、オシム監督が旧ユーゴスラビア代表監督として1990年イタリア大会でユーゴスラビア代表を率いた時、若干19歳の若き天才ストイコビッチと同じ年齢層にシューケルたちがいた。このシューケルたちが、後にクロアチア代表として1998年フランス大会に乗り込んで来て、いきなり”初出場3位”という快挙を成し遂げたわけだが、この快挙の背後にいた指導者こそこのオシム監督であった、ということだ。
私は、これまでなぜ突然クロアチアがいきなり3位に入れたのかよく分からなかったが、その理由をこの本から読み取る事が出来た。これが一番の収穫であった。
もちろん、同時に、今度のドイツ大会のセルビア・モンテネグロの代表、他にスロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどの代表もそのほとんどがオシム監督の指導下にあったということである。また、近年ギリシャも強豪国になったが、それもこのオシム監督が一時期ギリシャのチームの監督をしたことに端を発していると考えられる。
この意味からも、オシム監督の監督としての”才能”は申し分ない。オシム監督は今の日本代表監督としてはベストの監督である。これは間違いなく真実である。
また、いつも西洋や南米のサッカー選手達が言う「日本人特有のメンタリティー」の消えない日本人にとって、オシム監督のような”練れた人物”は非常に良い教訓(あるいは教材)となるだろう。
特に、若い世代、オシム監督と接する事のできた若者たち、(つまり、サッカー選手や通訳や関係者)にとってもっとも良い教材となっている。ここが大事だ。
中でも、本にあるように、通訳の間瀬秀一氏(元プロサッカー選手)は将来の大物監督になる可能性がある。自身、今一番なりたいものは監督であるという。オシム監督と出会うそれまでは、通訳だった。練習法、心理的技術、心構えなどあらゆる面で、間瀬氏は学んでいる。
同様に、今ジェフで指導を受けて来た選手達の中からも将来の大物監督に育って行くものが出るだろう。この意味では、10年後、20年後に今の”オシムの言葉”が成果を出すと言えるだろう。
これは、かつてクラマーコーチが行ったことが、何十年も経ってから成果を出した(つまり、日本サッカーのプロ化)ように、今のオシム監督の行っていることが、10年、20年、30年と先に行って花開く、という意味である。
この意味でも、オシム監督は、例え次の南アフリカ大会で良い成績を残せなかったとしても、今の日本サッカーにとってはやはり最適な人物と言えるだろう。
しかし、世界には、フェリペ、ジャケ、ベンゲル、オシム、リッピ(そして、ドゥンガ)というような名将が生まれているが、日本にはどうしてこういった大物が育たないのだろうか。まあ、もっともそれは、サッカーだけに限られるわけではなく、学者世界(や役者世界)でもそうだ。やはり、日本のどの分野でも、”ちまちました”人物、”練れていない”人物しか育っていない。
かつて勝海舟は、”大きな人物は大きな国にこそ育つ”というような意味のことを言っていたが、”小さな人物しか育たない”ということは、日本という国が”小国”であるという意味だろう。島国ということかも知れない。
そこは、欧州、アフリカ、アジアの3大陸が交わり、古代からもっとも紛争がある地域であった、バルカン半島とは違う。オシムの故郷とは違うということだ。バルカン地帯は小さな国々に分裂しているが、その文化圏としての大きさは日本をはるかに凌駕した大国であるということだろう。
”大きな国にしか大きな人物は育たない”
やはり、我々日本人は高望みは禁物だというところだろう。
一一一一一一
ところで、昨日これを書いていてブログに出そうと思っていた頃、doblogはダウンしていて全く機能していなかったが、ちょうどその時期に昨夜のNHKでオシム監督の特集があり、それに「オシムの言葉」の原作者の木村氏が出ていた。
確かに木村氏の”オシム解説”は、「オシムの言葉」にあるように”的確な”ものではあったが、やはり著者の”顔”を見てしまうと興味も半減するから不思議である。「オシムの言葉」の著者も所詮はオシム監督そのものではない。”異なる顔”がオシムのことを論じるのは、妙に違和感を感じた。
特に、その木村氏自身が「オシムの言葉」でオシム監督が通訳のことで言ったとされる部分に次のような意味のことを書いた部分がある。
”Jリーグ通訳には通訳しているうちに監督本人になったかのように錯覚し、通訳自身がその監督であるかのごとく振舞うものがしばしば見られる。だから、そういうふうな行動をするな。”
これは実に不思議なことだが、私もいつも思うことである。実際、ジーコの通訳氏もジーコ以上に”ジーコ的”に振舞っていた。トルシエの通訳もトルシエ以上に”トルシエ的”に振舞っていた。これは、永年寝食を共にして”情が移って”しまい、さらには監督になり切らない限り監督の意向や感情が言葉に乗り移らないので、次第に自分自身が監督の影武者のような存在になってくることが原因だろう。しかし、それがあまりに行き過ぎると見ていて”見苦しい”ものがある。
実は、これと同じ事は、スポーツジャーナリズムにも言えるのだ(もちろん、解説者や翻訳者にも言える)。
あるジャーナリストが、ある選手(例えば中田英寿)やある監督(例えばオシム)を取材する。そして本にする。その人物の哲学や生い立ちを書いて行く内に、その人物像が次第に著者に分かってくる。そして本を書き終えた頃には、著者自身があたかもその当の本人になったかのように錯覚して振舞う。こういう傾向が日本人の著者の場合には非常に良く見られる。
これは、英語では"commitment"(コミットメント)というのに一番近いのかも知れない。その人物と本人が心情的に一体化してしまうのである。そして、あたかも自分がその人そのものかのような代弁者として振舞うのである。
残念ながら、昨夜の木村氏もそんな感じに見えた。まるで、”オシム監督が経験したことを木村氏もその場にいて経験していたか”のように話していたから非常に不思議だ。実際には、ご自分は、いろんな人にインタビューしていろんな人から聞きかじっただけだろう。
これは、ある人物がだれかの考え方や哲学に共鳴して影響を受けるというのと非常に似ているが、質も意味も全く異なる。ここはぜひ注意が必要だ。なぜなら、精神的に影響を受け、それを自分自身の実生活に生かす(応用する)のは素晴らしいが、紹介者が紹介されたものと同一視されることは明らかに間違っているからだ。
例えば、”オシムの言葉”に感動して、自分のビジネスや仕事や監督業に生かす。こういうことは素晴らしい。しかし、いくら”オシムの言葉”の最良の理解者だからといって、もし木村氏を”サッカー監督”にしようと考えるものが出るとすればそれは間違っている。木村氏はあくまでもジャーナリストに過ぎないからだ。
しかし、日本人はいつもこの手の間違いをするものが後を絶たない。例えば、あるジャーナリストが政治について良い本を書いたとする。すると、そのジャーナリストを政治の専門家のように錯覚してしまう。作家を政治家にしようというのも大きな間違いだ。サッカーの解説者がサッカー監督になるのも同じ意味で間違っている。サッカー監督になるのでれば、サッカー指導を学ぶべきであって、ジャーナリズムや解説を学んでも意味がない。
似たようなことは、翻訳者にもある。ハリーポッターの翻訳者は、原作を翻訳しただけなのに、まるで原作者のような印税をもらい、原作者以上の生活を送る。今や”税金対策”でスイス人になり、優雅な生活を送っているという。これは、”本末転倒”なことで、オリジナルよりその翻訳の方が得をするということになってしまう。
”オリジナル”と”物まね”コメディアンでも同様の間違いが日本では良く見られる。原物の歌手よりもその人を”物まね”している者の方が儲かってしまう。馬鹿げている。
実は、科学者や学者世界にも同じようなことがある。欧米の現物のオリジナルより、それを日本に紹介した人物の方が儲かってしまう。その一番は”クオリア”であろう。欧州のオリジナルの人物を知っている人は、日本ではほとんどいない。紹介者の茂木健一郎氏の方がはるかに知名度が高い。
いくら紹介すべき人物や内容が優れていたとしても、それを紹介した人の方がそれより有名になってしまったり、お金持ちになってしまう、というのは考えものだ。
がしかし、そうなってしまうところが、今の”本末転倒国家”日本の”日本らしい”ところなのだろう。”オシムの言葉”も同じ問題が垣間見えた。
2006/07/29のBlog
[ 11:11 ]
[ 科学ニュース ]
ここ1、2週間のうちで目に止まった科学ニュースをまとめておこう。
アラビア半島で発見の隕石、月裏側の石と初めて確認
アラビア半島で見つかった”隕石”が、42・3億年前の”月の裏側”から来た隕石であったというニュース。では、問題は、どうやって地球にやってきたのか?
アラビア半島で発見の隕石、月裏側の石と初めて確認
アラビア半島で見つかった”隕石”が、42・3億年前の”月の裏側”から来た隕石であったというニュース。では、問題は、どうやって地球にやってきたのか?
木星で二つの斑点、最接近 ハワイの天文台撮影
木星の”大赤斑”が2つになったというニュース。木星の”大赤斑”の謎は今だ解明されていない。古くはラグランジュ(1770年頃)から研究されている。大きな”渦”という説もあれば、実は木星内部には地核があり、その山の天辺にできる雲だという説。非線形波特有のソリトンだとう説。横幅が2万キロ以上あり、しかも何万年も”安定”存在するという事実。果たしてどれが正しいのだろうか。
木星の”大赤斑”が2つになったというニュース。木星の”大赤斑”の謎は今だ解明されていない。古くはラグランジュ(1770年頃)から研究されている。大きな”渦”という説もあれば、実は木星内部には地核があり、その山の天辺にできる雲だという説。非線形波特有のソリトンだとう説。横幅が2万キロ以上あり、しかも何万年も”安定”存在するという事実。果たしてどれが正しいのだろうか。
土星の衛星タイタンに湖?液体状態のメタンかエタンか
タイタンには、”河川”のような液体によって作られた地形が無数にあることが分かっていたが、その先には、河川”から流れて行き着く”海”や”湖”も無数にあることが分かったというニュース。この液体は、”メタン”(か、”エタン”)であると考えられている。もしこれが”水”であれば、おそらく地球型の生命も存在するだろう。
タイタンには、”河川”のような液体によって作られた地形が無数にあることが分かっていたが、その先には、河川”から流れて行き着く”海”や”湖”も無数にあることが分かったというニュース。この液体は、”メタン”(か、”エタン”)であると考えられている。もしこれが”水”であれば、おそらく地球型の生命も存在するだろう。
これは、池や水槽などの”水たまり”に、銅でできている10円玉を入れておくと、ボウフラが湧かず、蚊が繁殖できないというニュース。新品のきれいな10円玉ほど効果があるという。理由は分からないらしいが、”銅イオンの効果”ではないかという。昔から「池や噴水の水にお金を投げ入れると良い事がある」と世界中で名所・旧跡の水たまりには賽銭する人が後を絶たないが、その一番の理由は”蚊が湧かない”ということだったのかも知れない。蚊は病気を蔓延させるので、蚊が湧かないなら、やはり”良い事”と言うべきだろう。
最後は、最近私が凝っている”ルシャトリエの原理”のルシャトリエさん(1850一1936)。”ルシャトリエの原理”とは、「平衡状態にある系は、外部変化に”保守的”に応答する」という原理。一種の”慣性の法則”である。この原理の理論は、ランダウの教科書とプリゴジンの教科書にある程度で、原理ほどには知られていない。ましてやオンサーガーの理論レベルにはほど遠い。しかし、平衡状態(閉じた系の死の状態)から非平衡状態(開放系の生きた状態)の間のつながりの一端をこの原理は語っている。この原理の先に生きた状態の世界が垣間見えるのではないか、というのが私の”予想”。
2006/07/26のBlog
[ 21:36 ]
[ サッカー ]
J1横浜の中沢、日本代表引退を示唆
”サムライブルー”で、昨年のJリーグとこのJリーグオールスターのMVPの中沢佑二(28)選手が、代表を引退する意向であるという。
ワールドカップというのは、非常に長丁場である。準備期間も4年、開催も1ヶ月、最低でも1、2週間の戦いがある。その間、国民の期待も大きく、マスコミにもとやかくいわれ、プレッシャーが非常にかかる。
それゆえ、大会が終わると、選手達は1ヶ月程何も手につかず、ボーッとするという。要するに、一種の”ワールドカップブルー”に陥るのである。
”サムライブルー”と銘打ったのはだれか知らないが、中田英寿から始まり、中沢佑二まで本当の”ブルー(うつ)”に陥ってしまったのかも知れない。これぞ、ジーコの副産物と言えるだろう。
今回のワールドカップ・ドイツ大会での日本選手たちの”自信喪失”は非常に大きなものであり、この”傷”はそう簡単には癒されるものではない。失った自信は4年かけて徐々に回復していくほかないだろう。
”サムライブルー”で、昨年のJリーグとこのJリーグオールスターのMVPの中沢佑二(28)選手が、代表を引退する意向であるという。
ワールドカップというのは、非常に長丁場である。準備期間も4年、開催も1ヶ月、最低でも1、2週間の戦いがある。その間、国民の期待も大きく、マスコミにもとやかくいわれ、プレッシャーが非常にかかる。
それゆえ、大会が終わると、選手達は1ヶ月程何も手につかず、ボーッとするという。要するに、一種の”ワールドカップブルー”に陥るのである。
”サムライブルー”と銘打ったのはだれか知らないが、中田英寿から始まり、中沢佑二まで本当の”ブルー(うつ)”に陥ってしまったのかも知れない。これぞ、ジーコの副産物と言えるだろう。
今回のワールドカップ・ドイツ大会での日本選手たちの”自信喪失”は非常に大きなものであり、この”傷”はそう簡単には癒されるものではない。失った自信は4年かけて徐々に回復していくほかないだろう。
[ 13:18 ]
[ 科学 ]
先週木曜日に神戸大学発達科学部で
”物理的でないもの”の物理学
というタイトルの講演を行って来た。この講演で使った内容をアップしておいたので、関心のある人は見て欲しい。これを見れば、だいたいどんな内容か分かるだろう。「ネットワーク理論とその応用研究」に関する話である。
21世紀の現在では、”物理学者”が「物質科学」やいわゆる「物理」をやっているとは限らない。そういった雰囲気は理解できるはずである。
明治期には、Physicsは”究理学”(=物事の理屈を追究する学問)と訳されたらしい。が、日本では、いつしか(たぶん戦後)、「物事の理屈」が「物質の理屈」ヘと変わり、Physicsは”物理学”(=物質の理屈を追究する学問)と意味が矮小化されてしまった。そのため、物理学者という人種は、物質科学を扱う人種と狭義の意味でしかものを語らなくなってしまったのである。
しかし、いつの時代にも”変わった人物”は誕生してくるもので、「物理学者が”物理以外のもの”、”物理的でないもの”を研究して何が悪い」、と考える物理学者も最近では再び現れ出てきたというわけだ。私もその1人。
こうなってみると、Physicsが”物理”と狭く訳されるのでは、現状に合わなくなってくる。そこで、再び”究理学”がベターな名前となるのである。が、しかし、なかなか世の中の大衆というものは、現実の進展に追いつけずにいる。あるいは現実を正確に把握できないでいる、というのが今の現状なのである。
”物理的でないもの”の物理学
というタイトルの講演を行って来た。この講演で使った内容をアップしておいたので、関心のある人は見て欲しい。これを見れば、だいたいどんな内容か分かるだろう。「ネットワーク理論とその応用研究」に関する話である。
21世紀の現在では、”物理学者”が「物質科学」やいわゆる「物理」をやっているとは限らない。そういった雰囲気は理解できるはずである。
明治期には、Physicsは”究理学”(=物事の理屈を追究する学問)と訳されたらしい。が、日本では、いつしか(たぶん戦後)、「物事の理屈」が「物質の理屈」ヘと変わり、Physicsは”物理学”(=物質の理屈を追究する学問)と意味が矮小化されてしまった。そのため、物理学者という人種は、物質科学を扱う人種と狭義の意味でしかものを語らなくなってしまったのである。
しかし、いつの時代にも”変わった人物”は誕生してくるもので、「物理学者が”物理以外のもの”、”物理的でないもの”を研究して何が悪い」、と考える物理学者も最近では再び現れ出てきたというわけだ。私もその1人。
こうなってみると、Physicsが”物理”と狭く訳されるのでは、現状に合わなくなってくる。そこで、再び”究理学”がベターな名前となるのである。が、しかし、なかなか世の中の大衆というものは、現実の進展に追いつけずにいる。あるいは現実を正確に把握できないでいる、というのが今の現状なのである。
2006/07/25のBlog
[ 11:30 ]
[ サッカー ]
ブラジル監督にドゥンガ氏 磐田にも所属の闘将
わーお、きたー。
ブラジル「セレソン」の代表監督に、元ジュビロ磐田の主将、ワールドカップアメリカ大会優勝、フランス大会準優勝のブラジル主将の”ドゥンガ”が決まったというニュース。
”お公家さん”化したパレイラ監督では優勝は無理。”闘将”ドゥンガに命運をかける。
ドゥンガ:「選手時代と同じ決意を代表に持ち込みたい。気持ちの激しさとやる気、勝つ意思がなければ、ブラジル代表のユニホームは着られない」
やはり”厳しい”ね。ドゥンガは。
この意味は、
「気持ちの激しさとやる気、勝つ意思がなければ、ブラジル代表には選ばないよ」
ということである。ロナウジーニョ、ロナウドのように、ただうまいだけではセレソンにはなれないぞ、というドゥンガからの”メッセージ”であろう。
ジュビロ磐田では、ドゥンガは、このドイツ大会でポルトガルを指揮したフェリペ・スコラリ監督といっしょにやっていた。そして、実質的にはドゥンガが監督をしていたようなものだったから、監督・コーチ経験なしは特に問題とはならないだろう。ここがドゥンガとジーコの違いである。
いやはや、次回ブラジルはもっとも強敵になるだろう。
わーお、きたー。
ブラジル「セレソン」の代表監督に、元ジュビロ磐田の主将、ワールドカップアメリカ大会優勝、フランス大会準優勝のブラジル主将の”ドゥンガ”が決まったというニュース。
”お公家さん”化したパレイラ監督では優勝は無理。”闘将”ドゥンガに命運をかける。
ドゥンガ:「選手時代と同じ決意を代表に持ち込みたい。気持ちの激しさとやる気、勝つ意思がなければ、ブラジル代表のユニホームは着られない」
やはり”厳しい”ね。ドゥンガは。
この意味は、
「気持ちの激しさとやる気、勝つ意思がなければ、ブラジル代表には選ばないよ」
ということである。ロナウジーニョ、ロナウドのように、ただうまいだけではセレソンにはなれないぞ、というドゥンガからの”メッセージ”であろう。
ジュビロ磐田では、ドゥンガは、このドイツ大会でポルトガルを指揮したフェリペ・スコラリ監督といっしょにやっていた。そして、実質的にはドゥンガが監督をしていたようなものだったから、監督・コーチ経験なしは特に問題とはならないだろう。ここがドゥンガとジーコの違いである。
いやはや、次回ブラジルはもっとも強敵になるだろう。
2006/07/24のBlog
[ 14:40 ]
[ ジョーク ]
しばらく前に私は以下のものを書いていた。
”お笑い”インベーダー1
”お笑い”インベーダー2
上のものではこう書いていた。
『ある時から突然この前までいたテレビキャスターの横に妙にくだけた”へらへら”した”笑い”顔の男が座る。そしてさももっともらしいことを言う。その間に入るコマーシャルを聞いているとヒデキのYMCAを歌っているのだが、見れば、声はヒデキだが顔は”笑っている”。ビールのコマーシャルの台詞を聞いていれば、”いいだろー、いいだろー、いいだろうー”という顔が”笑っている”。朝のニュース番組を見れば、いつの間にか腹のでかい”笑い”顔の男が棒を持って新聞紙を指している。歌番組を見れば、なぜか全員の顔が”笑っている”。トレンディー番組を見れば、綺麗で若い女優の恋人役が”笑っている”猿顔だ。深夜のスポーツ番組でサッカー番組を見れば、綺麗なお姉さんキャスターの横に必ず”笑った”顔がある。翌朝NHKの朝ドラを見れば、主役の周りの顔が”笑っている”。そして日が経つにつれ、少しずつ少しずつテレビの中には”笑った”顔の人物ばかりとなっている。どこかのうどん屋で食べていると、テレビを見ている客や店員がテレビの中の”笑っている”人を見て”笑っている”。アメリカのユニバーサル・スタジオの日本進出版だろうと思ってUSJに行ったら、アトラクションの司会者の顔が”笑っている”。しかも大阪弁だ。』
下のものではこう書いていた。
『これは、その昔の”インベーダー”というアメリカのSFドラマの”静かな恐怖”と似たような感覚を昨今の日本の芸能界やテレビマスコミ世界を見て感じる、という私の印象を紹介したものであった。
この現実はどうやら1年後の今ますます顕著となってきたようである。テレビ、いわゆる”地上波”の番組を見れば、どのチャンネルのどの番組を見ても、そこには必ず吉本興業系の”へらへら”した”笑い”顔のタレントがいる。
女優が”できちゃった結婚”したと報道されたらその横には決まって”へらへら”した”笑い”顔の男がそのお相手だといって立っている。番組の司会者には、そのほとんどが、若くて美しいアシスタントとその横に”へらへら”した”笑い”顔の男がいる。音楽番組でも”へらへら”した”笑い”顔の歌手がバックに美女連を引き連れて歌っている。』
こういった”吉本芸人”(たいした芸もないのに芸人と呼ぶ)のトップスターの1人、「極楽とんぼ」の山本圭一氏が、18歳未満の少女に酒を飲ませた上でセックスしたという事件が発覚し、これが公に知れたことから、所属事務所の”吉本”から解雇通告を受けた。さらに、この山本圭一氏は、「欽ちゃん」の野球球団のメンバーだったことから、萩本欽一氏がショックを受け、一旦は球団廃止、しかしやっぱり活動維持する、というすったもんだ劇にまで発展した。
とまあ、こんなニュースがあった。どうでも良い話だが、私がずっと前から言って来たように、”吉本興業”系の”吉本芸人”の素行の悪さの問題である。タレントになりたがる若い女性を相手に「これも”芸の肥やし”」と言って、淫行してもよろしいと甘く見て来た吉本興業(や芸能界)のツケがここに来て出て来たということだろう。
だから、”極楽とんぼ”の片方がやっていたのだから、当然もう1人もやっていたかも知れない。普通はそう考えるだろう。果ては、所詮”吉本芸人”だから、明石屋さんまから全部同じ事をこれまでにやってきたはずだ、と憶測されても仕方あるまい。
実際、さんまの「夜の空騒ぎ」という番組では、未成年者も平気で番組に出している。そして、未成年者にセックスの話をして喜んでいる始末である。
我々ごく一般人が未成年者を夜連れ回せば今では「未成年者誘拐」という犯罪行為として捕まる。じゃ、さんまや吉本タレントなら”仕事”という大義名分で許されるのか、ということになる。番組の後の”打ち上げ”と称して未成年者と同伴してもよろしいのか、ということにもなるだろう。
まあ、いずれにせよ、”吉本興業”の文化、がここに来て問われているということになるだろう。だから、単に淫行した不届き者を処罰すればよろしいという問題ではない。あくまで”氷山の一角”なのである。この際、膿(うみ)を全部出して欲しいものだ。
それにしても、映画やドラマの共演者と”できてしまう”役者やら、”打ち合わせ”と称して密会をくり返すキャスターや女子アナやら、”芸の肥やし”といって遊びまくるタレントやら、とても公共性の高い”芸能界”には不向きな”やくざな”人々ばかりになった今日この頃である。しかし、芸能界では”吉本”はタブーというから、おそらくうやむやになっておしまいだろう。
吉本の”お笑いインベーダー”が本当に「社会のインベーダー(侵略者)」となっていたという笑えないお話である。
”お笑い”インベーダー1
”お笑い”インベーダー2
上のものではこう書いていた。
『ある時から突然この前までいたテレビキャスターの横に妙にくだけた”へらへら”した”笑い”顔の男が座る。そしてさももっともらしいことを言う。その間に入るコマーシャルを聞いているとヒデキのYMCAを歌っているのだが、見れば、声はヒデキだが顔は”笑っている”。ビールのコマーシャルの台詞を聞いていれば、”いいだろー、いいだろー、いいだろうー”という顔が”笑っている”。朝のニュース番組を見れば、いつの間にか腹のでかい”笑い”顔の男が棒を持って新聞紙を指している。歌番組を見れば、なぜか全員の顔が”笑っている”。トレンディー番組を見れば、綺麗で若い女優の恋人役が”笑っている”猿顔だ。深夜のスポーツ番組でサッカー番組を見れば、綺麗なお姉さんキャスターの横に必ず”笑った”顔がある。翌朝NHKの朝ドラを見れば、主役の周りの顔が”笑っている”。そして日が経つにつれ、少しずつ少しずつテレビの中には”笑った”顔の人物ばかりとなっている。どこかのうどん屋で食べていると、テレビを見ている客や店員がテレビの中の”笑っている”人を見て”笑っている”。アメリカのユニバーサル・スタジオの日本進出版だろうと思ってUSJに行ったら、アトラクションの司会者の顔が”笑っている”。しかも大阪弁だ。』
下のものではこう書いていた。
『これは、その昔の”インベーダー”というアメリカのSFドラマの”静かな恐怖”と似たような感覚を昨今の日本の芸能界やテレビマスコミ世界を見て感じる、という私の印象を紹介したものであった。
この現実はどうやら1年後の今ますます顕著となってきたようである。テレビ、いわゆる”地上波”の番組を見れば、どのチャンネルのどの番組を見ても、そこには必ず吉本興業系の”へらへら”した”笑い”顔のタレントがいる。
女優が”できちゃった結婚”したと報道されたらその横には決まって”へらへら”した”笑い”顔の男がそのお相手だといって立っている。番組の司会者には、そのほとんどが、若くて美しいアシスタントとその横に”へらへら”した”笑い”顔の男がいる。音楽番組でも”へらへら”した”笑い”顔の歌手がバックに美女連を引き連れて歌っている。』
こういった”吉本芸人”(たいした芸もないのに芸人と呼ぶ)のトップスターの1人、「極楽とんぼ」の山本圭一氏が、18歳未満の少女に酒を飲ませた上でセックスしたという事件が発覚し、これが公に知れたことから、所属事務所の”吉本”から解雇通告を受けた。さらに、この山本圭一氏は、「欽ちゃん」の野球球団のメンバーだったことから、萩本欽一氏がショックを受け、一旦は球団廃止、しかしやっぱり活動維持する、というすったもんだ劇にまで発展した。
とまあ、こんなニュースがあった。どうでも良い話だが、私がずっと前から言って来たように、”吉本興業”系の”吉本芸人”の素行の悪さの問題である。タレントになりたがる若い女性を相手に「これも”芸の肥やし”」と言って、淫行してもよろしいと甘く見て来た吉本興業(や芸能界)のツケがここに来て出て来たということだろう。
だから、”極楽とんぼ”の片方がやっていたのだから、当然もう1人もやっていたかも知れない。普通はそう考えるだろう。果ては、所詮”吉本芸人”だから、明石屋さんまから全部同じ事をこれまでにやってきたはずだ、と憶測されても仕方あるまい。
実際、さんまの「夜の空騒ぎ」という番組では、未成年者も平気で番組に出している。そして、未成年者にセックスの話をして喜んでいる始末である。
我々ごく一般人が未成年者を夜連れ回せば今では「未成年者誘拐」という犯罪行為として捕まる。じゃ、さんまや吉本タレントなら”仕事”という大義名分で許されるのか、ということになる。番組の後の”打ち上げ”と称して未成年者と同伴してもよろしいのか、ということにもなるだろう。
まあ、いずれにせよ、”吉本興業”の文化、がここに来て問われているということになるだろう。だから、単に淫行した不届き者を処罰すればよろしいという問題ではない。あくまで”氷山の一角”なのである。この際、膿(うみ)を全部出して欲しいものだ。
それにしても、映画やドラマの共演者と”できてしまう”役者やら、”打ち合わせ”と称して密会をくり返すキャスターや女子アナやら、”芸の肥やし”といって遊びまくるタレントやら、とても公共性の高い”芸能界”には不向きな”やくざな”人々ばかりになった今日この頃である。しかし、芸能界では”吉本”はタブーというから、おそらくうやむやになっておしまいだろう。
吉本の”お笑いインベーダー”が本当に「社会のインベーダー(侵略者)」となっていたという笑えないお話である。
2006/07/23のBlog
[ 20:22 ]
[ なでしこジャパン ]
日本、中国破りA組1位 サッカー女子アジア杯
”なでしこジャパン”大金星。
以前から日本の女子サッカーのプレーを見て来たが、日本の女子サッカーは、”基本に忠実で”非常に良いサッカーをしている、と私は感じている。
スペースに走り込む(走り込み)。
フリーでボールを受けたら正確にトラップする(ボールコントロール)。
ボールをキープしたらターンして前を向く(ルックアップ)。
前にいるフリーの選手にパスを出す(フィード)。
パスを出したらサポートに行く(パス&ゴー)。
そしてこのくり返し。
日本の女子にはブラジル式、ヨーロッパ式というものはない。なぜなら、女子サッカーは最近出来たばかりでまだどの国にもその国の文化になるほどのお国柄を特徴付けるサッカースタイルはないからである。
その点、女子サッカーは”サッカーの基本”を身につけるのがせい一杯である。どこかの国のサッカースタイルを真似るというようなレベルにはない。女子サッカーに女性の”ロナウジーニョ”はいない。どこも似たり寄ったりだ。
だから、だれかを手本に真似るという行為が必要無い。サッカーの教科書にある基本技術を自分なりに身に付ければそれで良いのである。
また、そこが日本の女子サッカーの良いところで、基本だけを身につけて上手くなって来たために、”逆に”サッカーのプレーに日本の女子サッカー特有の”色”が出て来た。基本に忠実でスピーディーな展開の走り込むサッカー。
日本の男子サッカーとはここが違う。
日本の男子サッカーは、Jリーグのチームごとに目指すサッカーが違い、必ずどこかよその国のサッカーをひな形にしている。代表監督も出身国ごとに目指すサッカーのイメージが異なる。だから、いつもあっち行ったりこっちへ行ったりとふらふらする。
日本の女子サッカーには変な伝統がない分、そういった馬鹿げた事もない。そこが非常に魅力的なところなのだ。
私の個人的理解では、オシム監督が”サッカーを日本化したい”と言っている意味は、こういうようなことだろうと思っている。
つまり、こういうことだ。
サッカーというスポーツには、基本ルールから始まり、基本プレーや基本戦術がある。これは、だれもが必須の常識である。日本人は、それを身に付けて”基本に忠実なプレー”をすれば、それで良く、それが”日本人のサッカー”ということになる。
だから、日本人がブラジル人のようなプレーを真似る必要もなく、ヨーロッパ人の真似をしてプレーする必要もない。必要最小限の基本をしかるべきレベルで身に付け、それに基づいて試合をすれば良いのだ。
もし”日本人特有の良さ”があるとすれば、日本人がサッカーの基本に忠実にプレーしていれば、自然にそれが出る。それで十分ではないか。
私には、”なでしこジャパン”には、なぜかそういうオシムの言わんとする意味が出ているように見える。この意味では、女子サッカーの方が男子サッカーを超えて一歩先を行っているのではないか。日本の男子サッカーは、今こそ日本の女子サッカーを見習う必要があると私は考える。
バレーボールでも女子バレーの方がずっと上を行った。女子バレーが最初にオリンピックで金メダルを取り、後から男子バレーが追い掛けた。
今日本のサッカーも同じようなことが起こっているのかも知れない。
”なでしこジャパン”大金星。
以前から日本の女子サッカーのプレーを見て来たが、日本の女子サッカーは、”基本に忠実で”非常に良いサッカーをしている、と私は感じている。
スペースに走り込む(走り込み)。
フリーでボールを受けたら正確にトラップする(ボールコントロール)。
ボールをキープしたらターンして前を向く(ルックアップ)。
前にいるフリーの選手にパスを出す(フィード)。
パスを出したらサポートに行く(パス&ゴー)。
そしてこのくり返し。
日本の女子にはブラジル式、ヨーロッパ式というものはない。なぜなら、女子サッカーは最近出来たばかりでまだどの国にもその国の文化になるほどのお国柄を特徴付けるサッカースタイルはないからである。
その点、女子サッカーは”サッカーの基本”を身につけるのがせい一杯である。どこかの国のサッカースタイルを真似るというようなレベルにはない。女子サッカーに女性の”ロナウジーニョ”はいない。どこも似たり寄ったりだ。
だから、だれかを手本に真似るという行為が必要無い。サッカーの教科書にある基本技術を自分なりに身に付ければそれで良いのである。
また、そこが日本の女子サッカーの良いところで、基本だけを身につけて上手くなって来たために、”逆に”サッカーのプレーに日本の女子サッカー特有の”色”が出て来た。基本に忠実でスピーディーな展開の走り込むサッカー。
日本の男子サッカーとはここが違う。
日本の男子サッカーは、Jリーグのチームごとに目指すサッカーが違い、必ずどこかよその国のサッカーをひな形にしている。代表監督も出身国ごとに目指すサッカーのイメージが異なる。だから、いつもあっち行ったりこっちへ行ったりとふらふらする。
日本の女子サッカーには変な伝統がない分、そういった馬鹿げた事もない。そこが非常に魅力的なところなのだ。
私の個人的理解では、オシム監督が”サッカーを日本化したい”と言っている意味は、こういうようなことだろうと思っている。
つまり、こういうことだ。
サッカーというスポーツには、基本ルールから始まり、基本プレーや基本戦術がある。これは、だれもが必須の常識である。日本人は、それを身に付けて”基本に忠実なプレー”をすれば、それで良く、それが”日本人のサッカー”ということになる。
だから、日本人がブラジル人のようなプレーを真似る必要もなく、ヨーロッパ人の真似をしてプレーする必要もない。必要最小限の基本をしかるべきレベルで身に付け、それに基づいて試合をすれば良いのだ。
もし”日本人特有の良さ”があるとすれば、日本人がサッカーの基本に忠実にプレーしていれば、自然にそれが出る。それで十分ではないか。
私には、”なでしこジャパン”には、なぜかそういうオシムの言わんとする意味が出ているように見える。この意味では、女子サッカーの方が男子サッカーを超えて一歩先を行っているのではないか。日本の男子サッカーは、今こそ日本の女子サッカーを見習う必要があると私は考える。
バレーボールでも女子バレーの方がずっと上を行った。女子バレーが最初にオリンピックで金メダルを取り、後から男子バレーが追い掛けた。
今日本のサッカーも同じようなことが起こっているのかも知れない。
[ 14:07 ]
[ WCドイツ大会 ]
しばらく前に「”この母にしてこの子あり”?:ジダンの母吠える! 」の最後で私はこう書いていた。
『私はマテラッティにはたいした罪はないと思う。アメリカ大会の時のオランダGKがアルゼンチンのオルテガの頭の上から”何か罵り”、それに怒ったオルテガが頭突き1発、GKは大袈裟に倒れ、オルテガは報復行為で退場したが、この時のキーパーのやったことの方がはるかに悪質だ。それと比べれば、マテラッティのはたいしたことはない。
やはり、”この母にしてこの子あり”なのだろう。ジダンのMVPははく奪すべきだろう。次点のカンナバーロがMVPに輝くべきだ。だいたいどこの世界に準優勝のチームからMVPを出すスポーツがあるというのだろうか。準優勝でもジダンならMVPだという偏見がこういったばかなことを生み出したのだ。最初から優勝国イタリアのカンナバーロにMVPを与えておけば何も問題にはならなかった。
今回の事件では、”FIFA体質”も問題とされるべきだろう。
それにしても、イギリス人は何の目的でジダンの母の言葉なんぞ出すのだろうか。不思議な国民である。』
この最後の『イギリス人は何の目的でジダンの母の言葉なんぞ出すのだろうか。不思議な国民である。』の部分の意味が私にはやっと分かったので、まとめておこう。
ジダンとマテラッティの2人の処分は20日に決まったようだ。
ジダンは社会奉仕と罰金 頭突き事件でFIFA
これによれば、2人の処分は次のようなもの。
ジダン選手:
3試合の国際試合出場停止
罰金7500スイスフラン(約70万円)
3日間の社会奉仕活動
W杯最優秀選手賞のはく奪なし
マテラッツィ:
2試合の出場停止
罰金5000スイスフラン(約50万円)
まあ、これから分かる事は、最初からジダンが決勝まで行けば、”功労賞”としてジダンのMVPが決まっていた、ということだろう。言い換えれば、”FIFA”に対するフランスの影響力が非常に強い、ということだ。
事実、歴代のFIFA会長を見れば、
初代:ROBERT GUERIN, France, 1904-1906
第2代:DANIEL BURLEY WOOLFALL, England, 1906-1918
第3代:JULES RIMET, France, 1921-1954; Honorary President of FIFA nominated 21.6.1954
第4代:RODOLPHE WILLIAM SEELDRAYERS, Belgium, 1954-1955
第5代:ARTHUR DREWRY, England, 1955-1961
第6代:SIR STANLEY ROUS, England, 1961-1974; Honorary President of FIFA nominated 11.6.1974
第7代:JOAO HAVELANGE, Brazil, 1974 -1998; Honorary President of FIFA nominated 8.6.1998
第8代:JOSEPH S. BLATTER, Switzerland elected 8.6.1998
というように、たった8人しかいないFIFA会長のうち、初代と第3代目がフランス人。第2代目、第5代目、第6代目の3人がイギリス人。ブラジル人は第7目のアベランジェが初めて。他がベルギー人とスイス人のブラッターしかいない。
つまり、サッカーの母国のイギリスとフランスで交互にFIFA会長職を”奪い合ってきた”というわけだ。
そして、面白い事に、多くの場合にFIFA会長に母国の出身者がついている時代にその国のサッカーも優勝をしているという事実である。イングランドは、ルース卿時代に優勝。ブラジルもアベランジェ時代に幾度となく優勝。しかしフランスは例外中の例外であった。だからこそ、アベランジェの最後の年に優勝し、アベランジェに”引導”を渡した。そして、スイス人の現ブラッター時代に入った。したがって、フランスの影響力が強いのはまず確実である。ブラッター政権は、フランスの”傀儡(かいらい)政権”と言っても良いのだ。
どうやら、イギリス人はこれが”気に入らない”ということなのだろう。ベッカムのイングランドの最高のチームを送っても優勝できない。イングランド優勝は、再びイギリス人がFIFA会長にならない限り難しい。だから、ことある度に、FIFAにいちゃもんをつけてFIFA会長に揺さぶりをかけている。おそらくこんな事だろう。
それゆえ、以下のような記事を頻繁に書き、FIFAにプレッシャーをかけ続け、ブラッター会長を引きずり降ろしたいのである。
マルディーニらがFIFAを批判マテラッツィも処分で
英紙がFIFA処分を批判「挑発はゲームの一部」
この観点からすれば、日本がワールドカップで優勝するためには、一番の早道あるいは近道は、川淵さんがFIFA会長になることだ。そうすれば、サッカーのあらゆることをアジア中心に行えるだろう。日本人が国連の常任理事国になることは難しいが、FIFAの要職につく事はまだ可能性がある。
川淵さんがFIFA会長になったらどうだろう。
中田英寿がジダンに頭突きをくらわしてもおそらく罰金処分で終わるだろう。
『私はマテラッティにはたいした罪はないと思う。アメリカ大会の時のオランダGKがアルゼンチンのオルテガの頭の上から”何か罵り”、それに怒ったオルテガが頭突き1発、GKは大袈裟に倒れ、オルテガは報復行為で退場したが、この時のキーパーのやったことの方がはるかに悪質だ。それと比べれば、マテラッティのはたいしたことはない。
やはり、”この母にしてこの子あり”なのだろう。ジダンのMVPははく奪すべきだろう。次点のカンナバーロがMVPに輝くべきだ。だいたいどこの世界に準優勝のチームからMVPを出すスポーツがあるというのだろうか。準優勝でもジダンならMVPだという偏見がこういったばかなことを生み出したのだ。最初から優勝国イタリアのカンナバーロにMVPを与えておけば何も問題にはならなかった。
今回の事件では、”FIFA体質”も問題とされるべきだろう。
それにしても、イギリス人は何の目的でジダンの母の言葉なんぞ出すのだろうか。不思議な国民である。』
この最後の『イギリス人は何の目的でジダンの母の言葉なんぞ出すのだろうか。不思議な国民である。』の部分の意味が私にはやっと分かったので、まとめておこう。
ジダンとマテラッティの2人の処分は20日に決まったようだ。
ジダンは社会奉仕と罰金 頭突き事件でFIFA
これによれば、2人の処分は次のようなもの。
ジダン選手:
3試合の国際試合出場停止
罰金7500スイスフラン(約70万円)
3日間の社会奉仕活動
W杯最優秀選手賞のはく奪なし
マテラッツィ:
2試合の出場停止
罰金5000スイスフラン(約50万円)
まあ、これから分かる事は、最初からジダンが決勝まで行けば、”功労賞”としてジダンのMVPが決まっていた、ということだろう。言い換えれば、”FIFA”に対するフランスの影響力が非常に強い、ということだ。
事実、歴代のFIFA会長を見れば、
初代:ROBERT GUERIN, France, 1904-1906
第2代:DANIEL BURLEY WOOLFALL, England, 1906-1918
第3代:JULES RIMET, France, 1921-1954; Honorary President of FIFA nominated 21.6.1954
第4代:RODOLPHE WILLIAM SEELDRAYERS, Belgium, 1954-1955
第5代:ARTHUR DREWRY, England, 1955-1961
第6代:SIR STANLEY ROUS, England, 1961-1974; Honorary President of FIFA nominated 11.6.1974
第7代:JOAO HAVELANGE, Brazil, 1974 -1998; Honorary President of FIFA nominated 8.6.1998
第8代:JOSEPH S. BLATTER, Switzerland elected 8.6.1998
というように、たった8人しかいないFIFA会長のうち、初代と第3代目がフランス人。第2代目、第5代目、第6代目の3人がイギリス人。ブラジル人は第7目のアベランジェが初めて。他がベルギー人とスイス人のブラッターしかいない。
つまり、サッカーの母国のイギリスとフランスで交互にFIFA会長職を”奪い合ってきた”というわけだ。
そして、面白い事に、多くの場合にFIFA会長に母国の出身者がついている時代にその国のサッカーも優勝をしているという事実である。イングランドは、ルース卿時代に優勝。ブラジルもアベランジェ時代に幾度となく優勝。しかしフランスは例外中の例外であった。だからこそ、アベランジェの最後の年に優勝し、アベランジェに”引導”を渡した。そして、スイス人の現ブラッター時代に入った。したがって、フランスの影響力が強いのはまず確実である。ブラッター政権は、フランスの”傀儡(かいらい)政権”と言っても良いのだ。
どうやら、イギリス人はこれが”気に入らない”ということなのだろう。ベッカムのイングランドの最高のチームを送っても優勝できない。イングランド優勝は、再びイギリス人がFIFA会長にならない限り難しい。だから、ことある度に、FIFAにいちゃもんをつけてFIFA会長に揺さぶりをかけている。おそらくこんな事だろう。
それゆえ、以下のような記事を頻繁に書き、FIFAにプレッシャーをかけ続け、ブラッター会長を引きずり降ろしたいのである。
マルディーニらがFIFAを批判マテラッツィも処分で
英紙がFIFA処分を批判「挑発はゲームの一部」
この観点からすれば、日本がワールドカップで優勝するためには、一番の早道あるいは近道は、川淵さんがFIFA会長になることだ。そうすれば、サッカーのあらゆることをアジア中心に行えるだろう。日本人が国連の常任理事国になることは難しいが、FIFAの要職につく事はまだ可能性がある。
川淵さんがFIFA会長になったらどうだろう。
中田英寿がジダンに頭突きをくらわしてもおそらく罰金処分で終わるだろう。
2006/07/21のBlog
[ 22:01 ]
[ オシムの言葉 ]
オシム氏、サッカー日本代表監督に就任
イビチャ・オシム氏(65、J1ジェフ千葉の前監督)が日本代表監督に”正式”に就任。”オシム・ジャパン”が旗揚げした。
果たしてどんなチームになるのだろうか。
しかし、オシム監督が再三述べているように、メンバーそのものはこれまでとそんなに変わらないだろう。問題は、
”サッカーの質”に変化があるかどうか
ということだ。ジーコのブラジル流”ボール回しサッカー”からオシムのヨーロッパ流”走るサッカー”への変身が見られるかどうか。
ブラジル流”ボール回しサッカー”の基盤は高位置からの守備である。宮本や中沢にはこれが理解できず日本は敗退した。中田の”走るサッカー”とディフェンダーの回すサッカーの対立が日本代表を氷解させた。
オシム監督は、”走るサッカー”を信条とするらしい。それゆえ、宮本より中田に近いサッカー哲学を持つ。この当たりが”鍵”となるだろう。
ところで、今夜”久米宏のサッカー番組”があったが、いつから久米宏はサッカー通になったのだろうか。ニュースステーションをしていた頃は大の”野球ファン”だったのではなかったか。
番組を降板してから今現在それらしい仕事がないからと言って、昔とった杵柄(きねづか)で、”にわかサッカー通”にもかかわらずサッカー通気取りで今度のドイツ大会に乗り込み、昔の自分の番組の記録ビデオを持ち込んで来て今の話と”切り張り”して番組を作るというのはどうも感心できない。そこまでして芸能界に戻りたいのか、また美味しい思いをしたいのか、と思わせるような番組作りだった。
確かに昔のジーコの記録は興味深い。が、選手として、あるいは人間として、いくらジーコが素晴らしかったとしても、「監督としてなさねばいけないことをなさなかった」という”責任”を逃れる事はできない。
その点、ジーコ礼讃するばかりで、現実にジーコが何をしたのかということが少しも暴かれていない。むしろ、結局ジーコは、選手達にとっても”良い人”であり続けたという結果しか残っていなかった。
同じブラジル人のドゥンガが「セレソン」で言ったように、
”監督とは選手が嫌がる事をさせるのが務め”
なのだ。選手がニコニコして楽しくできることばかりを監督がさせたとすれば、選手は”退化する”。小中学生サッカーと高大プロサッカーはまったく異なる。ジーコサッカースクールは、お客さん相手のサッカースクールである。しかし、代表チームはそんなお客さんではない。日本代表はサービス業ではないのだ。むしろ”戦闘用員”を養成する軍事組織に近い。この辺が神様ジーコは全く理解できなかったのだろう。
いずれにせよ、久米宏はよぼよぼになってしまい、妙に”痛々しく”見えた。サッカーという激しいスポーツを解説するには不向きであった。
イビチャ・オシム氏(65、J1ジェフ千葉の前監督)が日本代表監督に”正式”に就任。”オシム・ジャパン”が旗揚げした。
果たしてどんなチームになるのだろうか。
しかし、オシム監督が再三述べているように、メンバーそのものはこれまでとそんなに変わらないだろう。問題は、
”サッカーの質”に変化があるかどうか
ということだ。ジーコのブラジル流”ボール回しサッカー”からオシムのヨーロッパ流”走るサッカー”への変身が見られるかどうか。
ブラジル流”ボール回しサッカー”の基盤は高位置からの守備である。宮本や中沢にはこれが理解できず日本は敗退した。中田の”走るサッカー”とディフェンダーの回すサッカーの対立が日本代表を氷解させた。
オシム監督は、”走るサッカー”を信条とするらしい。それゆえ、宮本より中田に近いサッカー哲学を持つ。この当たりが”鍵”となるだろう。
ところで、今夜”久米宏のサッカー番組”があったが、いつから久米宏はサッカー通になったのだろうか。ニュースステーションをしていた頃は大の”野球ファン”だったのではなかったか。
番組を降板してから今現在それらしい仕事がないからと言って、昔とった杵柄(きねづか)で、”にわかサッカー通”にもかかわらずサッカー通気取りで今度のドイツ大会に乗り込み、昔の自分の番組の記録ビデオを持ち込んで来て今の話と”切り張り”して番組を作るというのはどうも感心できない。そこまでして芸能界に戻りたいのか、また美味しい思いをしたいのか、と思わせるような番組作りだった。
確かに昔のジーコの記録は興味深い。が、選手として、あるいは人間として、いくらジーコが素晴らしかったとしても、「監督としてなさねばいけないことをなさなかった」という”責任”を逃れる事はできない。
その点、ジーコ礼讃するばかりで、現実にジーコが何をしたのかということが少しも暴かれていない。むしろ、結局ジーコは、選手達にとっても”良い人”であり続けたという結果しか残っていなかった。
同じブラジル人のドゥンガが「セレソン」で言ったように、
”監督とは選手が嫌がる事をさせるのが務め”
なのだ。選手がニコニコして楽しくできることばかりを監督がさせたとすれば、選手は”退化する”。小中学生サッカーと高大プロサッカーはまったく異なる。ジーコサッカースクールは、お客さん相手のサッカースクールである。しかし、代表チームはそんなお客さんではない。日本代表はサービス業ではないのだ。むしろ”戦闘用員”を養成する軍事組織に近い。この辺が神様ジーコは全く理解できなかったのだろう。
いずれにせよ、久米宏はよぼよぼになってしまい、妙に”痛々しく”見えた。サッカーという激しいスポーツを解説するには不向きであった。
[ 21:24 ]
[ WCドイツ大会 ]
ワールドカップドイツ大会の日本の”英雄”上川徹さん(43)と広嶋禎数(よしかず)さん(44)が、日本サッカー協会から表賞を受けた。非常に喜ばしいことである。
W杯審判の上川・広嶋さん、日本サッカー協会が表彰
表彰式で
上川:「我々の取り組んだことが世界で通用することを実感した」
広嶋:「次のW杯にも日本人が行けるよう力になりたい」
ドイツ戦について
上川:「大変な試合に当たったな」
「異議に対して私が注意をしたので一番印象に残っている(ドイツのMF)シュナイダー選手も、最後は駆け寄ってお礼を言ってくれた」
今後について
上川:「まだ現役だから」
広嶋:「Jリーグでいいパフォーマンスを見せる」
W杯審判の上川・広嶋さん、日本サッカー協会が表彰
表彰式で
上川:「我々の取り組んだことが世界で通用することを実感した」
広嶋:「次のW杯にも日本人が行けるよう力になりたい」
ドイツ戦について
上川:「大変な試合に当たったな」
「異議に対して私が注意をしたので一番印象に残っている(ドイツのMF)シュナイダー選手も、最後は駆け寄ってお礼を言ってくれた」
今後について
上川:「まだ現役だから」
広嶋:「Jリーグでいいパフォーマンスを見せる」
2006/07/19のBlog
[ 09:25 ]
[ オシムの言葉 ]
「オシムの言葉」という本がある。私はまだ手にして読んでいないが、J1ジェフ千葉の”オシム監督の言葉”を集めたものだという。
これを彷佛させることが昨夜あったようなので、これを紹介しておこう。
川淵氏がオシム氏と会談、代表監督就任「確定です」
これは、昨夜日本サッカー協会の川淵氏らとオシム氏が会談し、今後の日本代表監督の就任について、今後の日本サッカーの将来像についてなどを約1時間に渡って語り合ったというニュースである。昨夜のテレビニュースでももちろん取り上げられていた。
このニュースにある”オシムの言葉”もまた面白い。
これを彷佛させることが昨夜あったようなので、これを紹介しておこう。
川淵氏がオシム氏と会談、代表監督就任「確定です」
これは、昨夜日本サッカー協会の川淵氏らとオシム氏が会談し、今後の日本代表監督の就任について、今後の日本サッカーの将来像についてなどを約1時間に渡って語り合ったというニュースである。昨夜のテレビニュースでももちろん取り上げられていた。
このニュースにある”オシムの言葉”もまた面白い。
08年北京五輪を目指す21歳以下日本代表について
川淵:「相談役みたいな立場でかかわってもらう」
川淵会長が記者会見で監督候補としてオシム氏の名前をもらしたことをわびると
オシム:「気にしないでほしい」
川淵:「オシム氏が代表強化の最大の問題と考えているのはスケジュール。リーグ戦の開幕時期が欧州では主に8月、日本では3月とずれていること」
オシム:「欧州に合わせるのが一番いいが、新潟や札幌など雪国の事情を考えると難しい。暑い夏に試合をするのは選手にとってよくない」
選手選考について
オシム:「古い井戸にちょっと水が残っているのに、すぐ新しい井戸を掘るのはどうか」
川淵:「ベテランもうまく使いながらチーム作りを進めていくという意味だろう」
さて、オシム監督が主張した2番目の最大の問題の”スケジュール”というのが、いわゆる「シーズン制」の問題である。これは、かつてから欧米出身のサッカー選手達がずっとことある度に言ってきたことである。リネカー(イングランド)、ジーコ(ブラジル)、ドゥンガ(ブラジル)、オフト監督(オランダ)、アルディレス監督(アルゼンチン)、ベンゲル監督(フランス)、トルシエ監督(フランス)などなど、数えればきりがない。
要するに、一言で言えば、
「サッカーは秋に始まり春に終わる冬のスポーツだ」
ということだ。
一方、野球は選手は手がかじかむとボールを投げらないために、
「野球は春に始まり秋に終わる夏のスポーツだ」
ということである。だから、野球は春、夏、秋、サッカーは秋、冬、春という別々のシーズンで行うことができる。もしある選手がサッカーも野球も上手ければ、夏は野球選手、冬はサッカー選手であるということも可能なのだ。これを”シーズン制”と呼ぶ。
このように、欧米では、このシーズン制は早くから出来ていた。がしかし、日本では冬(正月)に「天皇杯」があるために、野球もサッカーもどんなスポーツもシーズンに関係なく”年がら年中一年中”同じスポーツを続けなくてはならない、一年中”休みなく”練習しなくてはならない、というような状況を生み続けて来たのである。
これでは、選手が少しも休む事ができなくなり、消耗が早くなって選手にとってはよろしくない。ましてや暑い真夏に試合や練習しなくてはならなくなり、サッカー選手には良くない。
これがオシム監督が”スケジュール”と言って問題にしたことである。
同様に、野球の場合も寒い冬も練習しなくてはならなくなり、選手が肩を悪くする原因を作っている。プロの場合はハワイや沖縄や高知など暖かい地方に遠征して冬場に練習するのは、そのためである。
この意味では、日本の「天皇制」はある意味、”天皇杯”というものが過った時期に開催されるということを通じて、日本のスポーツの新興と発展を大きく阻害して来たと言えるのだ。高円宮がスポーツ育成に非常に力を入れる人物であったが、”天皇杯”の正月開催は、逆効果なのである。
しかし、私は川淵氏がこの「シーズン制」を変えるだろうとは思わない。なぜなら、ジーコもベンゲルもトルシエも口が酸っぱくなる程この問題を主張してきたのに、川淵氏は無視してきたからだ。確かに、日本サッカー協会の後見人に天皇家の高円宮がいるから天皇杯の時期(正月)に天皇杯をやらず、「シーズン制」に完全移行するのは非常に難しいだろうからだ。
しかし、これを行わないで、欧米や南米の世界レベルのサッカーに到達するというのは至難の技だ、とオシム他の監督達は言っているのである。
果たしてどうなるだろうか。たぶん川淵はうやむやにするだろう。
ところで、このサッカー(やスポーツ)の「シーズン制」に匹敵する問題が、アカデミズム(つまり、日本の大学)における「アカデミック・イヤー制」の問題なのだ。
「アカデミック・イヤー制」とは、欧米の大学(や小中高などの学校)が秋に始まり初夏に終わり、真夏の3ヶ月は夏休みという学校制度のことである。
実は、これを行っていないのは、世界でも日本(と韓国)ぐらいのもので、諸外国ではすべて学校制度は、「アカデミック・イヤー制」を採っている。
この問題を国内でもっとも重大視したのが、この私であった(「三セクター分立の概念」、「何が科学をつぶすのか?」)。
要するに、スポーツも科学(や学問)も同じアカデミズムの1つである、ということだ。アカデミズムのシステムというのは、世界中で”勉強の秋”、”読書の秋”に始まり、”サマーバケーション”の前に終わる。サッカーのワールドカップもこの夏休み中に開催される。科学の国際学会もほとんどが夏休み中に開催されるのだ。つまり、サッカーやスポーツの「シーズン制」と学校制度の「アカデミック・イヤー制」は同じルーツなのだ。全く同じものなのである。
しかし、このことだけが日本では伝統的に排除されてきたのである。この理由は私には良く分からない。天皇制が原因かも知れないし、官僚制が原因かも知れない。日本人の「サクラ咲く入学式」文化のせいかも知れない。いずれにせよ、この制度に関しては、”日本人は世界の孤児”となっている。
最後に、以上を図にして分かりやすくまとめておこう。
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーーーーーーーーーーーアカデミズム
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーー学校(小中高大学など)ー|スポーツ(サッカー、野球など)
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
「アカデミック・イヤー制」ー|ーーー「シーズン制」
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
秋に始まり春に終わる。夏休み|サッカー:秋に始まり春に終わる。夏休み
夏に国際学会やサマーキャンプ|夏にワールドカップやオリンピック
ーーーーーーーーーーーーーー|野球:春に始まり秋に終わる。冬休み
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
川淵:「相談役みたいな立場でかかわってもらう」
川淵会長が記者会見で監督候補としてオシム氏の名前をもらしたことをわびると
オシム:「気にしないでほしい」
川淵:「オシム氏が代表強化の最大の問題と考えているのはスケジュール。リーグ戦の開幕時期が欧州では主に8月、日本では3月とずれていること」
オシム:「欧州に合わせるのが一番いいが、新潟や札幌など雪国の事情を考えると難しい。暑い夏に試合をするのは選手にとってよくない」
選手選考について
オシム:「古い井戸にちょっと水が残っているのに、すぐ新しい井戸を掘るのはどうか」
川淵:「ベテランもうまく使いながらチーム作りを進めていくという意味だろう」
さて、オシム監督が主張した2番目の最大の問題の”スケジュール”というのが、いわゆる「シーズン制」の問題である。これは、かつてから欧米出身のサッカー選手達がずっとことある度に言ってきたことである。リネカー(イングランド)、ジーコ(ブラジル)、ドゥンガ(ブラジル)、オフト監督(オランダ)、アルディレス監督(アルゼンチン)、ベンゲル監督(フランス)、トルシエ監督(フランス)などなど、数えればきりがない。
要するに、一言で言えば、
「サッカーは秋に始まり春に終わる冬のスポーツだ」
ということだ。
一方、野球は選手は手がかじかむとボールを投げらないために、
「野球は春に始まり秋に終わる夏のスポーツだ」
ということである。だから、野球は春、夏、秋、サッカーは秋、冬、春という別々のシーズンで行うことができる。もしある選手がサッカーも野球も上手ければ、夏は野球選手、冬はサッカー選手であるということも可能なのだ。これを”シーズン制”と呼ぶ。
このように、欧米では、このシーズン制は早くから出来ていた。がしかし、日本では冬(正月)に「天皇杯」があるために、野球もサッカーもどんなスポーツもシーズンに関係なく”年がら年中一年中”同じスポーツを続けなくてはならない、一年中”休みなく”練習しなくてはならない、というような状況を生み続けて来たのである。
これでは、選手が少しも休む事ができなくなり、消耗が早くなって選手にとってはよろしくない。ましてや暑い真夏に試合や練習しなくてはならなくなり、サッカー選手には良くない。
これがオシム監督が”スケジュール”と言って問題にしたことである。
同様に、野球の場合も寒い冬も練習しなくてはならなくなり、選手が肩を悪くする原因を作っている。プロの場合はハワイや沖縄や高知など暖かい地方に遠征して冬場に練習するのは、そのためである。
この意味では、日本の「天皇制」はある意味、”天皇杯”というものが過った時期に開催されるということを通じて、日本のスポーツの新興と発展を大きく阻害して来たと言えるのだ。高円宮がスポーツ育成に非常に力を入れる人物であったが、”天皇杯”の正月開催は、逆効果なのである。
しかし、私は川淵氏がこの「シーズン制」を変えるだろうとは思わない。なぜなら、ジーコもベンゲルもトルシエも口が酸っぱくなる程この問題を主張してきたのに、川淵氏は無視してきたからだ。確かに、日本サッカー協会の後見人に天皇家の高円宮がいるから天皇杯の時期(正月)に天皇杯をやらず、「シーズン制」に完全移行するのは非常に難しいだろうからだ。
しかし、これを行わないで、欧米や南米の世界レベルのサッカーに到達するというのは至難の技だ、とオシム他の監督達は言っているのである。
果たしてどうなるだろうか。たぶん川淵はうやむやにするだろう。
ところで、このサッカー(やスポーツ)の「シーズン制」に匹敵する問題が、アカデミズム(つまり、日本の大学)における「アカデミック・イヤー制」の問題なのだ。
「アカデミック・イヤー制」とは、欧米の大学(や小中高などの学校)が秋に始まり初夏に終わり、真夏の3ヶ月は夏休みという学校制度のことである。
実は、これを行っていないのは、世界でも日本(と韓国)ぐらいのもので、諸外国ではすべて学校制度は、「アカデミック・イヤー制」を採っている。
この問題を国内でもっとも重大視したのが、この私であった(「三セクター分立の概念」、「何が科学をつぶすのか?」)。
要するに、スポーツも科学(や学問)も同じアカデミズムの1つである、ということだ。アカデミズムのシステムというのは、世界中で”勉強の秋”、”読書の秋”に始まり、”サマーバケーション”の前に終わる。サッカーのワールドカップもこの夏休み中に開催される。科学の国際学会もほとんどが夏休み中に開催されるのだ。つまり、サッカーやスポーツの「シーズン制」と学校制度の「アカデミック・イヤー制」は同じルーツなのだ。全く同じものなのである。
しかし、このことだけが日本では伝統的に排除されてきたのである。この理由は私には良く分からない。天皇制が原因かも知れないし、官僚制が原因かも知れない。日本人の「サクラ咲く入学式」文化のせいかも知れない。いずれにせよ、この制度に関しては、”日本人は世界の孤児”となっている。
最後に、以上を図にして分かりやすくまとめておこう。
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーーーーーーーーーーーアカデミズム
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーー学校(小中高大学など)ー|スポーツ(サッカー、野球など)
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
「アカデミック・イヤー制」ー|ーーー「シーズン制」
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
秋に始まり春に終わる。夏休み|サッカー:秋に始まり春に終わる。夏休み
夏に国際学会やサマーキャンプ|夏にワールドカップやオリンピック
ーーーーーーーーーーーーーー|野球:春に始まり秋に終わる。冬休み
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
2006/07/18のBlog
[ 11:07 ]
[ 訃報・追悼 ]
東大名誉教授の江橋節郎さん死去
文化勲章受章者で東大名誉教授の江橋節郎(えばし・せつろう)さん、17日午前2時29分、心不全のため愛知県岡崎市の病院で死去。享年83歳。
8年前の1998年、私は三菱財団の第29回(平成10年度)”自然科学研究助成”をもらう事が出来た。当時、フリーの科学者がこの助成に申請したことも受賞したことも初めての事だった。私はここ徳島阿南に移り住んでまだ2年ほどで若く元気はつらつであったので、”ダメもと”で応募したのだった。
その時の審査委員長が江橋節郎博士であり、博士が授与式で大勢の前で審査報告を行った。この審査報告は非常にすばらしいもので、私も特別に記憶している。この授与式には当時文部大臣であった有馬朗人博士も来て祝辞を述べた。
文化勲章受章者で東大名誉教授の江橋節郎(えばし・せつろう)さん、17日午前2時29分、心不全のため愛知県岡崎市の病院で死去。享年83歳。
8年前の1998年、私は三菱財団の第29回(平成10年度)”自然科学研究助成”をもらう事が出来た。当時、フリーの科学者がこの助成に申請したことも受賞したことも初めての事だった。私はここ徳島阿南に移り住んでまだ2年ほどで若く元気はつらつであったので、”ダメもと”で応募したのだった。
その時の審査委員長が江橋節郎博士であり、博士が授与式で大勢の前で審査報告を行った。この審査報告は非常にすばらしいもので、私も特別に記憶している。この授与式には当時文部大臣であった有馬朗人博士も来て祝辞を述べた。
新聞によれば、江橋節郎博士の経歴は次のようなものである。
東京都出身。
1944年、東大医学部を卒業。
米ロックフェラー研究所客員研究員などを経て、
1959年、東大医学部教授(薬理学)。
1974年、米ハーバード大医学部客員教授に就任。
1983年から岡崎国立共同研究機構(現自然科学研究機構)に移り、
1991年から2年間、同機構長。
私の”個人的雑学”によれば、江橋節郎博士は、ホジキン一ハックスレーがイカの神経で「イオンチャネル伝導」のメカニズムを解明した後、「興奮性膜の生理学」はもう終わった、と考えて、「筋収縮の生理学」に移ったという。この辺の事情は、中島重廣博士の「イオンチャネルの少史」にある。
江橋節郎博士は、この”転向”の後、「筋収縮のカルシウムイオンチャネルの発見」につながる。私の記憶では、2000年頃まで江橋節郎博士は「カルシウムポンプの構造決定」を行うなど非常にアクティブであった。それゆえ、ノーベル賞の真の候補者の1人であったようだ。この意味では、非常に残念なことである。
私は、何人か、個人的に「戦前の東大(東京帝国大学)」の出身者の知人がいるので、その方々を通じて帝大時代の東大生がどのような人々だったかということを良く知っている。一言で言えば、「型破りな超秀才」という感じである。各人がみな個性豊かで博識と実力を持ち、非常に”ブライト(聡明)”である。まったく”官僚的でない”のである。この意味で、現在(戦後)の東大生とはまったくの”異人種”である。
江橋節郎博士もこうした私の認識を裏付けてくれるタイプの方であった。
東京都出身。
1944年、東大医学部を卒業。
米ロックフェラー研究所客員研究員などを経て、
1959年、東大医学部教授(薬理学)。
1974年、米ハーバード大医学部客員教授に就任。
1983年から岡崎国立共同研究機構(現自然科学研究機構)に移り、
1991年から2年間、同機構長。
私の”個人的雑学”によれば、江橋節郎博士は、ホジキン一ハックスレーがイカの神経で「イオンチャネル伝導」のメカニズムを解明した後、「興奮性膜の生理学」はもう終わった、と考えて、「筋収縮の生理学」に移ったという。この辺の事情は、中島重廣博士の「イオンチャネルの少史」にある。
江橋節郎博士は、この”転向”の後、「筋収縮のカルシウムイオンチャネルの発見」につながる。私の記憶では、2000年頃まで江橋節郎博士は「カルシウムポンプの構造決定」を行うなど非常にアクティブであった。それゆえ、ノーベル賞の真の候補者の1人であったようだ。この意味では、非常に残念なことである。
私は、何人か、個人的に「戦前の東大(東京帝国大学)」の出身者の知人がいるので、その方々を通じて帝大時代の東大生がどのような人々だったかということを良く知っている。一言で言えば、「型破りな超秀才」という感じである。各人がみな個性豊かで博識と実力を持ち、非常に”ブライト(聡明)”である。まったく”官僚的でない”のである。この意味で、現在(戦後)の東大生とはまったくの”異人種”である。
江橋節郎博士もこうした私の認識を裏付けてくれるタイプの方であった。
この博士がいなくては、恐らく私が三菱財団の研究助成を得ることはなく、私の研究生活もまったく別の展開をしたことだろう。現在今ここで私がこれを書いていられるのも、この助成のおかげである。私のPCは8年前のその時に買ったものである。
最後に、江橋節郎博士の「審査報告」を箇条書き的に要約して私からの博士への送る言葉としたい。
○今回の応募数は783件で昨年763とほぼ同数で、ある程度将来の目途がたった。
○審査は、応募数が年々増して非常に大変になってきたが、「完全公募」型研究助成として社会に定着した。
○質的には、応募者の裾野が広がり、下位レベルの向上が見られる。候補者のアピールがうまくなったので、正しく評価することは一層難しくなって来た。
○各論:
生物では、分子生物学が主流。しかし、組織や臓器研究もさかんになった。高嶺の花だった植物研究が出てくるようになった。植物研究が分子生物学の言葉で語られるようになった。国家の脳研究助成にもれた人から脳研究のすぐれた応募があった。
理工系では、基礎研究と応用研究の垣根がなくなった。しかし、基礎物理学や数学からの応募が少なく、どうすべきかの意見もあった。
環境問題では、36件の応募があり2件を取り上げた。地道な研究をサポートしたいので、それを心掛ける。
○助成では、採用と非採用の差は紙一重。多くは同レベルの秀逸な申請であった。
○最後に、「科学技術基本法」の大型ファンドについて触れたい。周知のように、非常に多額の研究資金が科学者に配分されるようになった。特に、脳研究に手厚い援助が行われようとしている。この問題について昨年もスペースを割いたが、今回もこれに一言述べたい。
○大型ファンドは、発足3年を経過。社会的評価も定まった。大型ファンドはプロジェクト研究であるということ。一旦設定されると目標達成まで厳密なアプローチとそれに伴う成果が要求される。つまり、大学研究がもつ「あそび」の要素が許されない。かつては大学人はこういう制約は学問の自由を損なうと反発したが、これに対して世間も寛大だった。大学は予算がないので言いたい事を言わせてもらおうというところもあった。しかし、事態は一変。このファンドの持つ厳しさは、国の科学技術水準を向上させる反面、真に創造的な研究はそのような拘束のもとでは生まれない。独創的研究の発足時、つまり萌芽時代には、多額の研究費を必要としないものだ。重要なことは、発想と発展に応じて研究費が自由に使えることだ。この様な研究にはどの程度の金額が必要かは分からないが、年間1000万一2000万円を基準と見る。だいたい三菱財団の研究助成費に一致している。
○こう考えると、政府の大型ファンドと三菱財団の中形ファンドが理念的に棲み分けしたこととなり、我が国の研究支援制度もかなり形が整ったとも言える。これは非常に重要な事で米国の心ある研究者の間でも大きな関心を寄せている。こういう理由から、私自身は日本の自然科学研究の将来に対して明るい希望を持っている。これらを考えると、三菱財団の存在は単なる援助団体を超えて、国の研究体制の一環として、極めて重要な意義を持つものになりつつある。以上で審査報告を終わる。
(興味ある方はオリジナルをお読みになることをお勧めします。)
偉大な科学者がまた日本から1人いなくなった。
本当に心から御冥福をお祈りしたい。本当にいろいろどうもありがとうございました。合掌。
写真(下):前列中央の眼鏡の人が江橋節朗博士。ちなみに前列左から3人目が私。
PS:最近、「カルシウムと私」という江橋博士のエッセイを見つけたので、ここで紹介しておこう。
最後に、江橋節郎博士の「審査報告」を箇条書き的に要約して私からの博士への送る言葉としたい。
○今回の応募数は783件で昨年763とほぼ同数で、ある程度将来の目途がたった。
○審査は、応募数が年々増して非常に大変になってきたが、「完全公募」型研究助成として社会に定着した。
○質的には、応募者の裾野が広がり、下位レベルの向上が見られる。候補者のアピールがうまくなったので、正しく評価することは一層難しくなって来た。
○各論:
生物では、分子生物学が主流。しかし、組織や臓器研究もさかんになった。高嶺の花だった植物研究が出てくるようになった。植物研究が分子生物学の言葉で語られるようになった。国家の脳研究助成にもれた人から脳研究のすぐれた応募があった。
理工系では、基礎研究と応用研究の垣根がなくなった。しかし、基礎物理学や数学からの応募が少なく、どうすべきかの意見もあった。
環境問題では、36件の応募があり2件を取り上げた。地道な研究をサポートしたいので、それを心掛ける。
○助成では、採用と非採用の差は紙一重。多くは同レベルの秀逸な申請であった。
○最後に、「科学技術基本法」の大型ファンドについて触れたい。周知のように、非常に多額の研究資金が科学者に配分されるようになった。特に、脳研究に手厚い援助が行われようとしている。この問題について昨年もスペースを割いたが、今回もこれに一言述べたい。
○大型ファンドは、発足3年を経過。社会的評価も定まった。大型ファンドはプロジェクト研究であるということ。一旦設定されると目標達成まで厳密なアプローチとそれに伴う成果が要求される。つまり、大学研究がもつ「あそび」の要素が許されない。かつては大学人はこういう制約は学問の自由を損なうと反発したが、これに対して世間も寛大だった。大学は予算がないので言いたい事を言わせてもらおうというところもあった。しかし、事態は一変。このファンドの持つ厳しさは、国の科学技術水準を向上させる反面、真に創造的な研究はそのような拘束のもとでは生まれない。独創的研究の発足時、つまり萌芽時代には、多額の研究費を必要としないものだ。重要なことは、発想と発展に応じて研究費が自由に使えることだ。この様な研究にはどの程度の金額が必要かは分からないが、年間1000万一2000万円を基準と見る。だいたい三菱財団の研究助成費に一致している。
○こう考えると、政府の大型ファンドと三菱財団の中形ファンドが理念的に棲み分けしたこととなり、我が国の研究支援制度もかなり形が整ったとも言える。これは非常に重要な事で米国の心ある研究者の間でも大きな関心を寄せている。こういう理由から、私自身は日本の自然科学研究の将来に対して明るい希望を持っている。これらを考えると、三菱財団の存在は単なる援助団体を超えて、国の研究体制の一環として、極めて重要な意義を持つものになりつつある。以上で審査報告を終わる。
(興味ある方はオリジナルをお読みになることをお勧めします。)
偉大な科学者がまた日本から1人いなくなった。
本当に心から御冥福をお祈りしたい。本当にいろいろどうもありがとうございました。合掌。
写真(下):前列中央の眼鏡の人が江橋節朗博士。ちなみに前列左から3人目が私。
PS:最近、「カルシウムと私」という江橋博士のエッセイを見つけたので、ここで紹介しておこう。
2006/07/16のBlog
[ 11:36 ]
[ WCドイツ大会 ]
昨夜、”Jリーグ・オールスター”とその後”中田英寿引退特別番組:悔しくて、悔しくて涙が止まらなかった”という番組があった。私はうっかりしていて”Jリーグ・オールスター”を見逃したが、その後の”中田英寿引退特別番組”を見た。これは実に面白くかつ良い番組だった。
今回のワールドカップ・ドイツ大会においては日本代表内の”中田英寿と宮本恒靖とのバトル”の話が少なからず新聞に出ていたが、この番組の中で今回この問題がこの番組の焦点になっていた。私はこの番組を見て今回の日本代表の何が悪かったかすべて理解できた。”宮本がガンだった”、”今の”宮本を代表にする限り日本は勝てない、ということである。
そして、私がこの番組で中田が語った日本代表の問題点を理解した後、”Jリーグ・オールスター”の試合結果を見ると、まさに中田が指摘したその問題が宮本がいる西日本に出て、4一1でふがいなく負けていた。宮本の西日本が、日本代表がブラジル戦で負けたのとまったく同じことをして負けたのである。(ついでに付け加えると、中田が言っていたことをして、ディフェンスが前でカットし前線まで上がっていった中沢がチャンスを作りMVPに選ばれた。)このことからも”中田英寿の戦術観”が正しかった、ということが分かった。
今回は、この非常に興味深い話題を紹介しておこう。
結論から言うと、ジーコは中田ではなく「宮本を主将に選んだ」が、これが”ジーコの最大の誤りであった”ということになる。この選択によって、トルシエ・チルドレンで”国内組”の宮本の「間違った戦術観」と”海外組”の中田の「正しい戦術観」の対立を生み、チームが完全に混乱し、どっちつかずの状況で力を発揮できずに負けた、ということなのである。”チームに2人の主将はいらない”。
さらに、私は、宮本が個人的に中田に何か非常に”複雑な”心理的な問題(コンプレックス)を持っているように感じた。要するに、一言で言えば、「日本代表は敵と戦う前に内部で宮本が中田と戦っていた」わけだ。そして、これに対してもジーコは何もしなかった。これでは勝てない。これが私の得た結論である。
しかし、日本代表の中で中田だけは一貫していた。主張も行動もすべてが一貫していた。この意味で、中田は実に立派であったと言えるだろう。”ありがとう、中田”。
さて、その問題に移ろう。
私は今大会前の日本代表の練習風景に対して、これまで”中田英寿に他の選手達が自分の意見を言わない”ということを問題視してきていた。だから、今大会では宮本や中沢たちが自身の意見を中田にぶつけるというのは、チームとしては”大きな成長”であると見た。それゆえ、「成長した日本代表サッカーチーム」の中で新聞紙上にあるこんなやり取りを”素晴らしいこと”として取り上げた。
”それが、今回のドイツ大会では、トルシエ・チルドレンも名実共に日本のトップレベルの選手へと変貌を遂げ、海外経験者も増えた。みなぎる自信に溢れる。中田も年長者の1人となり、かつては縦横無尽に走りまわれたが、今では後方から適時のバックアップに代わりつつある。若い世代もすべてを中田だけに任せるわけには行かない。
そんな中での1こまが最初の練習試合であったと私は見ている。
中田は「連係作りは話をしていくしかない」という。一方、宮本や中沢などのDF陣は合宿中、「何でも1人でやろうとしすぎるな」と中田にいう。
守備練習での一こま。
宮本「ヒデさん、前に出過ぎるな」
中沢「ヒデさん、DFラインに吸収されるな」
中田「具体的に指示を出してくれ」
こんなやり取りが出て来たという。実に良い光景である。”
こういった選手間の”コミュニケーション”が計られるというのはチームとしては必須のことだからである。
ところが、昨夜の”中田英寿引退特別番組”での中田英寿と宮本のインタビューを見ると、どうやらこれは、当時のマスコミが報じたものよりもっともっと本質的な問題であったようである。
中田の戦術観ではこう見る。
「リスクを減らすために、より良いディフェンスするためにディフェンスラインをもっと前にあげろ。」
「なぜなら、失点を押さえるために守備ラインをあげる必要があるからだ。」
「高さが恐かったらディフェンスが前であれば、ヘディングされてもゴールに届かない。」
「守備ラインが前なら敵がゴールから離れるためにヘディングでもシュートでも失点の危機が減る。」
「日本代表が良い結果を出している時はディフェンスラインを上げている時だ。」
「しかし、日本代表は不安定。良い試合をする時と悪い試合をする時の差があり過ぎる。」
「ディフェンダーは、相手の前でカットしろ。間合いをつめろ。」
これに対して宮本はこう見る。
「ディフェンスラインの上げ下げは試合展開による。」
「前に行ける時は行くが、行けない時もある。」
「大事なことは、守備ラインが上がれば良いという事ではなく全体がコンパクトであるということ。」
果たしてどちらが正しいのか。
これは結果を見れば明らか。中田英寿の”戦術観”が正しい。これが”サッカーの常識”である。ディフェンスラインは基本的には高いほど良く、下がれば下がる程失点の危機は高まるからだ。
番組の最後の方で、ブラジル戦を中田が評してこう言った。
”隠されていた問題”、”全部膿が出た試合”
この意味は、私が番組を見た印象では、こういうことだ。
”隠されていた問題”とは、間違った守備戦術に固執し日本のディフェンスを不安定にしている宮本問題。
”全部膿が出た試合”とは、守備に根本的問題があるにもかかわらずそれを隠して来たがついに現れてしまったという試合。
では、宮本はどうして自分の”哲学”(私に言わせれば、”間違った”哲学)を身に付けたのだろうか。
これは、私の記憶ではこうである。
宮本は、トルシエの世界ユース準優勝の立て役者の1人だった。そして日韓大会の時までにトルシエ・ジャパンで育った。中でもトルシエの”フラット・スリー”の最大の理解者となった。”フラット・スリー”とは、3一5一2のシステムで守備ラインの3人がいつも一線上に並んでディフェンスをするという守備戦術である。
ところが、ナイジェリアの世界ユースではこの守備ラインを”フラット・スリー”で高く取ってうまく行ったのだが、日韓大会では、時々トルシエ戦術のほころびが出た。そんな時宮本は自らディフェンスラインを下げて乗り切った。そして、見事予選突破し、ベスト16に進んだ。
私が思うに、どうやら宮本はこの時の自分の戦術を正しいことだと”錯覚”したようだ。そして、徐々に宮本が日本代表と育ち、国内組の主将となっていくにつれ、宮本自身の守備戦術を基本に取るようになった。そして、トルシエの”フラット・スリー”とも、中田英寿の高く取る守備ラインとも違った”独自の”守備哲学を持つようになった。しかし、これが間違っていた、ということなのだ。
要するに、ジーコジャパンは、国内組の宮本を主将に取る事で、間違った守備哲学に従い、その間違いが原因となって自滅した、ということとなる。中田英寿はこの4年間最初から最後までその問題に警鐘を鳴らし続けたが、チームもジーコも最後までそれに気付かなかった、ということである。
日本が世界レベルに届くためには、即刻宮本を代表からはずす他ないだろう。昨夜の”Jリーグ・オールスター”の宮本の西日本のディフェンスがそれを見事に証明した。宮本の”臆病な守備”、”何か考え違いした守備”では世界どころか、国内でも通用しない。
しかし、どうして宮本はこんな選手になってしまったのだろうか。
恐らく、日本のマスコミがちやほやしてタレントのような気分に浸ってしまったのだろう。中田英寿が”引退”して一番安堵しているのは、実はこの宮本なのではないか、と私は見る。本当は宮本が引退すべきだった。
私は長らく、ジーコジャパンの問題は、MFの小野を取るか、中田を取るかの問題と考えていたが、どうやらそれは間違いだった。というよりは、もっと深刻な問題があった。実際には、ディフェンスに関して中田戦術を取るか、宮本戦術を取るかの問題で揉めていたのである。
宮本は中田英寿と同じ年齢で、U17時代からずっと中田といっしょにサッカー生活送って来た。ところが中田は常に宮本より一歩先に代表となり、一歩先に海外組になった。宮本にとっての中田はライバルであると同時に憧れでもあり、宮本には大きな目標となったのだろう。そして、今度のドイツ大会で自分が主将の座を射止め、ついに中田に並んだ(あるいは、中田を超えた)と思ったのではないか。だからこそ、ことごとく、中田の言う事に反発し邪魔をした。それが仮に正しい事であったなら宮本が正しいということになったが、どうやら宮本が間違っていたために、日本代表を窮地に陥れたのである。
男の嫉妬ほど見苦しいものはない、というが、どうやら宮本は中田に嫉妬し、ことごとく中田の足を引っ張っていたようだ。この宮本の”罪”は重い。個人の問題と代表の問題を全く混同したからだ。今後これは非常に大きな問題となるかも知れない。
参考:
ウォーミングアップを見よう!
もう二度と日本へ来るな、ジーコ!
ジーコ監督は、「まだ未成熟」!
日本代表が”負けた”わけ:フットサル化?
今回のワールドカップ・ドイツ大会においては日本代表内の”中田英寿と宮本恒靖とのバトル”の話が少なからず新聞に出ていたが、この番組の中で今回この問題がこの番組の焦点になっていた。私はこの番組を見て今回の日本代表の何が悪かったかすべて理解できた。”宮本がガンだった”、”今の”宮本を代表にする限り日本は勝てない、ということである。
そして、私がこの番組で中田が語った日本代表の問題点を理解した後、”Jリーグ・オールスター”の試合結果を見ると、まさに中田が指摘したその問題が宮本がいる西日本に出て、4一1でふがいなく負けていた。宮本の西日本が、日本代表がブラジル戦で負けたのとまったく同じことをして負けたのである。(ついでに付け加えると、中田が言っていたことをして、ディフェンスが前でカットし前線まで上がっていった中沢がチャンスを作りMVPに選ばれた。)このことからも”中田英寿の戦術観”が正しかった、ということが分かった。
今回は、この非常に興味深い話題を紹介しておこう。
結論から言うと、ジーコは中田ではなく「宮本を主将に選んだ」が、これが”ジーコの最大の誤りであった”ということになる。この選択によって、トルシエ・チルドレンで”国内組”の宮本の「間違った戦術観」と”海外組”の中田の「正しい戦術観」の対立を生み、チームが完全に混乱し、どっちつかずの状況で力を発揮できずに負けた、ということなのである。”チームに2人の主将はいらない”。
さらに、私は、宮本が個人的に中田に何か非常に”複雑な”心理的な問題(コンプレックス)を持っているように感じた。要するに、一言で言えば、「日本代表は敵と戦う前に内部で宮本が中田と戦っていた」わけだ。そして、これに対してもジーコは何もしなかった。これでは勝てない。これが私の得た結論である。
しかし、日本代表の中で中田だけは一貫していた。主張も行動もすべてが一貫していた。この意味で、中田は実に立派であったと言えるだろう。”ありがとう、中田”。
さて、その問題に移ろう。
私は今大会前の日本代表の練習風景に対して、これまで”中田英寿に他の選手達が自分の意見を言わない”ということを問題視してきていた。だから、今大会では宮本や中沢たちが自身の意見を中田にぶつけるというのは、チームとしては”大きな成長”であると見た。それゆえ、「成長した日本代表サッカーチーム」の中で新聞紙上にあるこんなやり取りを”素晴らしいこと”として取り上げた。
”それが、今回のドイツ大会では、トルシエ・チルドレンも名実共に日本のトップレベルの選手へと変貌を遂げ、海外経験者も増えた。みなぎる自信に溢れる。中田も年長者の1人となり、かつては縦横無尽に走りまわれたが、今では後方から適時のバックアップに代わりつつある。若い世代もすべてを中田だけに任せるわけには行かない。
そんな中での1こまが最初の練習試合であったと私は見ている。
中田は「連係作りは話をしていくしかない」という。一方、宮本や中沢などのDF陣は合宿中、「何でも1人でやろうとしすぎるな」と中田にいう。
守備練習での一こま。
宮本「ヒデさん、前に出過ぎるな」
中沢「ヒデさん、DFラインに吸収されるな」
中田「具体的に指示を出してくれ」
こんなやり取りが出て来たという。実に良い光景である。”
こういった選手間の”コミュニケーション”が計られるというのはチームとしては必須のことだからである。
ところが、昨夜の”中田英寿引退特別番組”での中田英寿と宮本のインタビューを見ると、どうやらこれは、当時のマスコミが報じたものよりもっともっと本質的な問題であったようである。
中田の戦術観ではこう見る。
「リスクを減らすために、より良いディフェンスするためにディフェンスラインをもっと前にあげろ。」
「なぜなら、失点を押さえるために守備ラインをあげる必要があるからだ。」
「高さが恐かったらディフェンスが前であれば、ヘディングされてもゴールに届かない。」
「守備ラインが前なら敵がゴールから離れるためにヘディングでもシュートでも失点の危機が減る。」
「日本代表が良い結果を出している時はディフェンスラインを上げている時だ。」
「しかし、日本代表は不安定。良い試合をする時と悪い試合をする時の差があり過ぎる。」
「ディフェンダーは、相手の前でカットしろ。間合いをつめろ。」
これに対して宮本はこう見る。
「ディフェンスラインの上げ下げは試合展開による。」
「前に行ける時は行くが、行けない時もある。」
「大事なことは、守備ラインが上がれば良いという事ではなく全体がコンパクトであるということ。」
果たしてどちらが正しいのか。
これは結果を見れば明らか。中田英寿の”戦術観”が正しい。これが”サッカーの常識”である。ディフェンスラインは基本的には高いほど良く、下がれば下がる程失点の危機は高まるからだ。
番組の最後の方で、ブラジル戦を中田が評してこう言った。
”隠されていた問題”、”全部膿が出た試合”
この意味は、私が番組を見た印象では、こういうことだ。
”隠されていた問題”とは、間違った守備戦術に固執し日本のディフェンスを不安定にしている宮本問題。
”全部膿が出た試合”とは、守備に根本的問題があるにもかかわらずそれを隠して来たがついに現れてしまったという試合。
では、宮本はどうして自分の”哲学”(私に言わせれば、”間違った”哲学)を身に付けたのだろうか。
これは、私の記憶ではこうである。
宮本は、トルシエの世界ユース準優勝の立て役者の1人だった。そして日韓大会の時までにトルシエ・ジャパンで育った。中でもトルシエの”フラット・スリー”の最大の理解者となった。”フラット・スリー”とは、3一5一2のシステムで守備ラインの3人がいつも一線上に並んでディフェンスをするという守備戦術である。
ところが、ナイジェリアの世界ユースではこの守備ラインを”フラット・スリー”で高く取ってうまく行ったのだが、日韓大会では、時々トルシエ戦術のほころびが出た。そんな時宮本は自らディフェンスラインを下げて乗り切った。そして、見事予選突破し、ベスト16に進んだ。
私が思うに、どうやら宮本はこの時の自分の戦術を正しいことだと”錯覚”したようだ。そして、徐々に宮本が日本代表と育ち、国内組の主将となっていくにつれ、宮本自身の守備戦術を基本に取るようになった。そして、トルシエの”フラット・スリー”とも、中田英寿の高く取る守備ラインとも違った”独自の”守備哲学を持つようになった。しかし、これが間違っていた、ということなのだ。
要するに、ジーコジャパンは、国内組の宮本を主将に取る事で、間違った守備哲学に従い、その間違いが原因となって自滅した、ということとなる。中田英寿はこの4年間最初から最後までその問題に警鐘を鳴らし続けたが、チームもジーコも最後までそれに気付かなかった、ということである。
日本が世界レベルに届くためには、即刻宮本を代表からはずす他ないだろう。昨夜の”Jリーグ・オールスター”の宮本の西日本のディフェンスがそれを見事に証明した。宮本の”臆病な守備”、”何か考え違いした守備”では世界どころか、国内でも通用しない。
しかし、どうして宮本はこんな選手になってしまったのだろうか。
恐らく、日本のマスコミがちやほやしてタレントのような気分に浸ってしまったのだろう。中田英寿が”引退”して一番安堵しているのは、実はこの宮本なのではないか、と私は見る。本当は宮本が引退すべきだった。
私は長らく、ジーコジャパンの問題は、MFの小野を取るか、中田を取るかの問題と考えていたが、どうやらそれは間違いだった。というよりは、もっと深刻な問題があった。実際には、ディフェンスに関して中田戦術を取るか、宮本戦術を取るかの問題で揉めていたのである。
宮本は中田英寿と同じ年齢で、U17時代からずっと中田といっしょにサッカー生活送って来た。ところが中田は常に宮本より一歩先に代表となり、一歩先に海外組になった。宮本にとっての中田はライバルであると同時に憧れでもあり、宮本には大きな目標となったのだろう。そして、今度のドイツ大会で自分が主将の座を射止め、ついに中田に並んだ(あるいは、中田を超えた)と思ったのではないか。だからこそ、ことごとく、中田の言う事に反発し邪魔をした。それが仮に正しい事であったなら宮本が正しいということになったが、どうやら宮本が間違っていたために、日本代表を窮地に陥れたのである。
男の嫉妬ほど見苦しいものはない、というが、どうやら宮本は中田に嫉妬し、ことごとく中田の足を引っ張っていたようだ。この宮本の”罪”は重い。個人の問題と代表の問題を全く混同したからだ。今後これは非常に大きな問題となるかも知れない。
参考:
ウォーミングアップを見よう!
もう二度と日本へ来るな、ジーコ!
ジーコ監督は、「まだ未成熟」!
日本代表が”負けた”わけ:フットサル化?
2006/07/14のBlog
[ 09:16 ]
[ WCドイツ大会 ]
「あの男の急所を切り取ってやりたい」ジダン母
イギリスのタブロイド紙というのも変わっていて、徹底的に”ユーロ大陸の仲違い”を演出しているようだ。よほどイングランドが準々決勝敗退したことが許せなかったらしく、相変わらず、ジダンとマテラッティの問題に固執しているようだ。
そもそも一番最初に、イタリア語の読唇術師を呼んでマテラッティが何と言ったかを調べさせたのもイギリス人だった。そこで出て来たのが、「売春婦の息子」、「テロリスト」、「テロリストの売春婦の息子」という悪態言葉だった。そして、大問題へと発展していった。
今回、イギリスの英大衆紙デイリー・ミラー紙が公表したのは、”ジダンの母”マリカさんの言葉。なんとこのお母さんもすごい。怒り心頭になって、「あの男の急所を切り取ってやりたい」と発言したという。1面には"I want that Italian's b★lls"と出たらしい。「あの子は私の名誉、家族の名誉を守っただけ。マテラッツィに対する嫌悪感だけが残る。彼が言ったことが本当なら、急所を切り取りたい」と。
しかし、この英語の日本語訳は、ちょっとおかしい。
これは、「あの男の急所を切り取ってやりたい」ではなく、「あの男の金★を切り取ってやりたい」であるべきだろう。急所にはポール(ペニス)とボール(睾丸)の2種類があるので正確に訳すべきだ。
やはり、”この母にしてこの子あり”。アルジェリア移民でフランスの貧民街で育ったジダンは、才能と狂暴性という2種類のジキルとハイド的な側面があったということになる。
まあ、私がここで何度か言って来たが、「自分の名誉、家族の名誉を守る」ためであるのなら何もピッチの上で”頭突き”という形で行うのではなく、試合後にしかるべき制裁を与えれば良いはずだ。ジダンはそれをしなかっただけのこと。
”ピッチの上のことはピッチの上の話”であって、試合後と切り離すべきだと私は考える。もしピッチ上のことが後々問題になるというのであれば、選手は恐くて何もできなくならからだ。汚いファールをすればそれが後で問題となるのであれば、思いきったプレーはできなくなる。これでは、”戦争”にまで例えられるワールドカップサッカーの一番の醍醐味は失われるだろう。そしてサッカーはフットサルになる。フットサルになれば、フットサル大国のブラジルが断然有利となるだろう。
ところで、最初に出て来た悪態言葉の何が問題なのだろう。「売春婦の息子」という言葉は、英語では"son of a bitch"(サン・オヴ・ア・ビッチ)で、日本人には”サナバビッチ”と聞こえる。
これは、有名なリプトン教授の「アクターズ・ スタジオ・インタビュー」によれば、ハリウッド映画でもっとも多く使われている悪態言葉の1つである。他には、”フ★ック・ユー”などがある。(リプトン教授の40周年記念 )”あなたの好きな悪態は?”という質問の後に必ずこれらの悪態が出てくる。
どうやら、これらに加えてイタリアでは、「テロリスト」というごくふつうの悪態言葉があるらしい。これは、イスラム系諸国からの移民に対する悪態言葉らしい。日本では昔農村部出身者を”百姓”と言ってバカにしたというようなものだろう。東京都民が”埼玉県”と言ってバカにしたというのもこの手の悪態である。ただし、”悪態”というのは、(何かが原因で)怒った時に使うものであり、平常時に使うのは御法度である。
だから、もしマテラッティがイタリア語で2つの悪態言葉を続けて、
「サナバビッチ(売春婦の息子)」「テロリスト」
と矢継ぎ早に言ったとすれば、それがくっついて
「テロリストの売春婦の息子」
と聞こえたとしても何もおかしくはない。
いずれにしても、私が何度もその試合をビデオで見返したところでは、ジダンは自分のヘッドがブッフォンにセーブされ点が入らなかった頃から非常に苛立っていた。試合が延長になるにつれますますイライラがつのっていたのは確かである。ジダンはイライラしカッカしていたのである。そんな時に”イタリアのひょうきん族”のようなマテラッティから悪態言葉を受けてついに”切れた”というのが真相だろう。
私はマテラッティにはたいした罪はないと思う。アメリカ大会の時のオランダGKがアルゼンチンのオルテガの頭の上から”何か罵り”、それに怒ったオルテガが頭突き1発、GKは大袈裟に倒れ、オルテガは報復行為で退場したが、この時のキーパーのやったことの方がはるかに悪質だ。それと比べれば、マテラッティのはたいしたことはない。
やはり、”この母にしてこの子あり”なのだろう。ジダンのMVPははく奪すべきだろう。次点のカンナバーロがMVPに輝くべきだ。だいたいどこの世界に準優勝のチームからMVPを出すスポーツがあるというのだろうか。準優勝でもジダンならMVPだという偏見がこういったばかなことを生み出したのだ。最初から優勝国イタリアのカンナバーロにMVPを与えておけば何も問題にはならなかった。
今回の事件では、”FIFA体質”も問題とされるべきだろう。
それにしても、イギリス人は何の目的でジダンの母の言葉なんぞ出すのだろうか。不思議な国民である。
イギリスのタブロイド紙というのも変わっていて、徹底的に”ユーロ大陸の仲違い”を演出しているようだ。よほどイングランドが準々決勝敗退したことが許せなかったらしく、相変わらず、ジダンとマテラッティの問題に固執しているようだ。
そもそも一番最初に、イタリア語の読唇術師を呼んでマテラッティが何と言ったかを調べさせたのもイギリス人だった。そこで出て来たのが、「売春婦の息子」、「テロリスト」、「テロリストの売春婦の息子」という悪態言葉だった。そして、大問題へと発展していった。
今回、イギリスの英大衆紙デイリー・ミラー紙が公表したのは、”ジダンの母”マリカさんの言葉。なんとこのお母さんもすごい。怒り心頭になって、「あの男の急所を切り取ってやりたい」と発言したという。1面には"I want that Italian's b★lls"と出たらしい。「あの子は私の名誉、家族の名誉を守っただけ。マテラッツィに対する嫌悪感だけが残る。彼が言ったことが本当なら、急所を切り取りたい」と。
しかし、この英語の日本語訳は、ちょっとおかしい。
これは、「あの男の急所を切り取ってやりたい」ではなく、「あの男の金★を切り取ってやりたい」であるべきだろう。急所にはポール(ペニス)とボール(睾丸)の2種類があるので正確に訳すべきだ。
やはり、”この母にしてこの子あり”。アルジェリア移民でフランスの貧民街で育ったジダンは、才能と狂暴性という2種類のジキルとハイド的な側面があったということになる。
まあ、私がここで何度か言って来たが、「自分の名誉、家族の名誉を守る」ためであるのなら何もピッチの上で”頭突き”という形で行うのではなく、試合後にしかるべき制裁を与えれば良いはずだ。ジダンはそれをしなかっただけのこと。
”ピッチの上のことはピッチの上の話”であって、試合後と切り離すべきだと私は考える。もしピッチ上のことが後々問題になるというのであれば、選手は恐くて何もできなくならからだ。汚いファールをすればそれが後で問題となるのであれば、思いきったプレーはできなくなる。これでは、”戦争”にまで例えられるワールドカップサッカーの一番の醍醐味は失われるだろう。そしてサッカーはフットサルになる。フットサルになれば、フットサル大国のブラジルが断然有利となるだろう。
ところで、最初に出て来た悪態言葉の何が問題なのだろう。「売春婦の息子」という言葉は、英語では"son of a bitch"(サン・オヴ・ア・ビッチ)で、日本人には”サナバビッチ”と聞こえる。
これは、有名なリプトン教授の「アクターズ・ スタジオ・インタビュー」によれば、ハリウッド映画でもっとも多く使われている悪態言葉の1つである。他には、”フ★ック・ユー”などがある。(リプトン教授の40周年記念 )”あなたの好きな悪態は?”という質問の後に必ずこれらの悪態が出てくる。
どうやら、これらに加えてイタリアでは、「テロリスト」というごくふつうの悪態言葉があるらしい。これは、イスラム系諸国からの移民に対する悪態言葉らしい。日本では昔農村部出身者を”百姓”と言ってバカにしたというようなものだろう。東京都民が”埼玉県”と言ってバカにしたというのもこの手の悪態である。ただし、”悪態”というのは、(何かが原因で)怒った時に使うものであり、平常時に使うのは御法度である。
だから、もしマテラッティがイタリア語で2つの悪態言葉を続けて、
「サナバビッチ(売春婦の息子)」「テロリスト」
と矢継ぎ早に言ったとすれば、それがくっついて
「テロリストの売春婦の息子」
と聞こえたとしても何もおかしくはない。
いずれにしても、私が何度もその試合をビデオで見返したところでは、ジダンは自分のヘッドがブッフォンにセーブされ点が入らなかった頃から非常に苛立っていた。試合が延長になるにつれますますイライラがつのっていたのは確かである。ジダンはイライラしカッカしていたのである。そんな時に”イタリアのひょうきん族”のようなマテラッティから悪態言葉を受けてついに”切れた”というのが真相だろう。
私はマテラッティにはたいした罪はないと思う。アメリカ大会の時のオランダGKがアルゼンチンのオルテガの頭の上から”何か罵り”、それに怒ったオルテガが頭突き1発、GKは大袈裟に倒れ、オルテガは報復行為で退場したが、この時のキーパーのやったことの方がはるかに悪質だ。それと比べれば、マテラッティのはたいしたことはない。
やはり、”この母にしてこの子あり”なのだろう。ジダンのMVPははく奪すべきだろう。次点のカンナバーロがMVPに輝くべきだ。だいたいどこの世界に準優勝のチームからMVPを出すスポーツがあるというのだろうか。準優勝でもジダンならMVPだという偏見がこういったばかなことを生み出したのだ。最初から優勝国イタリアのカンナバーロにMVPを与えておけば何も問題にはならなかった。
今回の事件では、”FIFA体質”も問題とされるべきだろう。
それにしても、イギリス人は何の目的でジダンの母の言葉なんぞ出すのだろうか。不思議な国民である。
2006/07/13のBlog
[ 21:29 ]
[ WCドイツ大会 ]
日本が世界ランク18位から49位に急降下 FIFA
いやはや、この世界ランキングは厳しい。これこそ、”20億円監督”ジーコの置き土産。日本サッカー協会は、ジーコから”契約不履行”の違約金をもらうために損害賠償請求でもしたら良いのではないだろうか。
ちなみにジーコはブラジルでも評判がた落ちのせいか、日本とブラジルから逃走したようだ。遠く離れた中東のクラブチームの監督に就任するという。ジーコ、トルコのクラブと正式契約 年俸は3億円弱。
この金の亡者ジーコ側が希望した年俸は700万ユーロ(約10億2000万円)というから恐れ入る。「金のことは二の次だ、方針や条件が一番大事だ」と考えるオシム氏とはえらい違いである。
さて、今回はアジア代表の4チームイラン、サウジアラビア、韓国と日本はふがいなく予選敗退。大きくランキングを下げた。
イラン:47位
日本:49位
韓国:56位
サウジアラビア:81位
ちなみに
ブラジル:1位
クロアチア:23位
オーストラリア:33位
おそらくFIFAはアジアの順位を”意識的に”低く見たのだろう。こうしておいて次回開催の南アフリカ大会のために、アジア枠を3に減らし、アフリカ代表枠の数を増やすのだろう。この順位は”FIFAからのメッセージ”だと思って間違いないだろう。
これは非常に厳しい状況だ。2年以内にアジア各国が20位前後に上がらない限り、アジア枠は3に減り。しかもその中にオーストラリアが入ってくる。
ほんと金の亡者ジーコは大変な置き土産を残して行ってくれたものだ。
もう二度と日本へ来るな、ジーコ!
ジーコ監督は、「まだ未成熟」!
で私が論じたことが本当だということが分かっただろう。
いやはや、この世界ランキングは厳しい。これこそ、”20億円監督”ジーコの置き土産。日本サッカー協会は、ジーコから”契約不履行”の違約金をもらうために損害賠償請求でもしたら良いのではないだろうか。
ちなみにジーコはブラジルでも評判がた落ちのせいか、日本とブラジルから逃走したようだ。遠く離れた中東のクラブチームの監督に就任するという。ジーコ、トルコのクラブと正式契約 年俸は3億円弱。
この金の亡者ジーコ側が希望した年俸は700万ユーロ(約10億2000万円)というから恐れ入る。「金のことは二の次だ、方針や条件が一番大事だ」と考えるオシム氏とはえらい違いである。
さて、今回はアジア代表の4チームイラン、サウジアラビア、韓国と日本はふがいなく予選敗退。大きくランキングを下げた。
イラン:47位
日本:49位
韓国:56位
サウジアラビア:81位
ちなみに
ブラジル:1位
クロアチア:23位
オーストラリア:33位
おそらくFIFAはアジアの順位を”意識的に”低く見たのだろう。こうしておいて次回開催の南アフリカ大会のために、アジア枠を3に減らし、アフリカ代表枠の数を増やすのだろう。この順位は”FIFAからのメッセージ”だと思って間違いないだろう。
これは非常に厳しい状況だ。2年以内にアジア各国が20位前後に上がらない限り、アジア枠は3に減り。しかもその中にオーストラリアが入ってくる。
ほんと金の亡者ジーコは大変な置き土産を残して行ってくれたものだ。
もう二度と日本へ来るな、ジーコ!
ジーコ監督は、「まだ未成熟」!
で私が論じたことが本当だということが分かっただろう。
[ 10:40 ]
[ WCドイツ大会 ]
「母と姉を傷つける言葉で」ジダンがTVで釈明
「母や姉への中傷繰り返され」ジダン、仏TVで釈明
ワールドカップの決勝戦の”ジダンの頭突き”事件の真相解明に向けて、ジダン選手がフランスのテレビで釈明会見を行ったという。
頭突きの原因は何か?
ジダン:「母や姉を傷つけるひどい言葉を繰り返され、耐えきれなかった」
ジダン:「とても個人的なことだ。母と姉を傷つけるひどい言葉を繰り返された。1度や2度ならともかく、3度となると我慢できなかった」
ジダン:「言葉はしばしば(暴力)行為よりきつい。それは、私を最も深く傷つける言葉だった」
どんな言葉だったのか?「テロリスト売春婦の息子」と言われたのか?
ジダン:「まあそうだ」
「母や姉への中傷繰り返され」ジダン、仏TVで釈明
ワールドカップの決勝戦の”ジダンの頭突き”事件の真相解明に向けて、ジダン選手がフランスのテレビで釈明会見を行ったという。
頭突きの原因は何か?
ジダン:「母や姉を傷つけるひどい言葉を繰り返され、耐えきれなかった」
ジダン:「とても個人的なことだ。母と姉を傷つけるひどい言葉を繰り返された。1度や2度ならともかく、3度となると我慢できなかった」
ジダン:「言葉はしばしば(暴力)行為よりきつい。それは、私を最も深く傷つける言葉だった」
どんな言葉だったのか?「テロリスト売春婦の息子」と言われたのか?
ジダン:「まあそうだ」
ファンや子供達に対してどう思うか?
ジダン:「20億、30億人が見守る中での私の行為は許されないもので、特にテレビを見ていた子供たちに謝りたい。やっていいこと、悪いことを子どもに教えようとしていた人にも謝る」
ジダン:「後悔はしていない。後悔すれば彼の言葉を認めることになるから」
「仏代表は黒人とイスラム教徒、共産主義者で構成されている」と発言した、反移民を掲げるイタリアの政党幹部に対して
ジダン:「私の行為より悪質ではないか」
一方、イタリア代表のマテラッティ
マテラッティ:「守備のためジダン選手のシャツを数秒間つかんだら『そんなにシャツが欲しけりゃ試合後に交換してやるよ』と見下した態度で言われ、ののしり返した」
とまあ、マテラッティに”歩が悪い”雰囲気になってきたが、やはりどんな”言葉の挑発”にもさらりと受け流す精神構造がトップスターには必要だろう。頭突きしたいなら試合後に誰もいないロッカールームでやればすむことだからだ。この辺がジダンには足りないことなのだろう。これではやはりイスラム国出身者は民主国家に移民しても”目には目を歯には歯を”の精神が抜けきれないと逆に”反移民派”に利用されかねないだろう。
果たしてどう決着するのだろうか。
ジダン:「20億、30億人が見守る中での私の行為は許されないもので、特にテレビを見ていた子供たちに謝りたい。やっていいこと、悪いことを子どもに教えようとしていた人にも謝る」
ジダン:「後悔はしていない。後悔すれば彼の言葉を認めることになるから」
「仏代表は黒人とイスラム教徒、共産主義者で構成されている」と発言した、反移民を掲げるイタリアの政党幹部に対して
ジダン:「私の行為より悪質ではないか」
一方、イタリア代表のマテラッティ
マテラッティ:「守備のためジダン選手のシャツを数秒間つかんだら『そんなにシャツが欲しけりゃ試合後に交換してやるよ』と見下した態度で言われ、ののしり返した」
とまあ、マテラッティに”歩が悪い”雰囲気になってきたが、やはりどんな”言葉の挑発”にもさらりと受け流す精神構造がトップスターには必要だろう。頭突きしたいなら試合後に誰もいないロッカールームでやればすむことだからだ。この辺がジダンには足りないことなのだろう。これではやはりイスラム国出身者は民主国家に移民しても”目には目を歯には歯を”の精神が抜けきれないと逆に”反移民派”に利用されかねないだろう。
果たしてどう決着するのだろうか。
2006/07/12のBlog
[ 11:58 ]
[ 社会 ]
私は最近個人的に非常に”心配する”ことがある。
それは、今後10年日本は「高齢者に悩まされる時代」あるいは「高齢者に振り回される時代」に入ったということである。
”少子高齢化”ということは、単に”子供の数が減り、高齢者や年輩者が増える”というだけではない。実際には、”子供の数が減り、高齢者や年輩者が増える”ということは、高齢者や年輩者より若い人々が、高齢者や年輩者に”振り回される”ということでもある。これが、日本人のほとんどすべての人たちにあまり良く理解されていないように見える。
というのは次のような理由からだ。
人間の脳というのは、必ず年齢と共に衰える。つまり、”惚ける”。”恍惚の人”になっていくのである。
その”惚け方”は人による。比較的日常会話は問題ないが記憶力がない人。記憶力や精神能力はあるが運動能力が衰える人。すぐに怒りやすくなる人。すぐに気が変わる人。思い付きで行動する。さまざまである。
困った事に、徐々に”惚ける”ということがある。この場合は、家族でも近所の人でも職場の人でもなかなか気付かずに”惚け”が進行する。本人も自分が多少”惚け”てきたことにすら気付かない。実に深刻な問題なのだ。
この”惚け”問題は将来我々人類が”脳移植”できるようになるまでは続くことだろう。
しかし、年金問題でも明らかなように、一応社会で一番”お金”や”財産”を持っているのが高齢者である。経済的に一番優雅に暮らせるのが普通の高齢者なのである。それに加えて、元公務員、元国家公務員とかになれば、同じ高齢者と言っても”権力”や”人間関係”まで持っている。実はこれが一番質が悪い。
果たして”権力”や”人間関係”を持った高齢者が”惚けた”らどうなるのか。
”惚け”ていても人は人。その人の持つ”お金”や”財産”、”権力”や”人間関係”もまたその人のものなのである。ゆえに”惚け”た人の”お金”や”財産”、”権力”や”人間関係”もまたその”惚け”た人のものなのである。
ここに、冒頭で私が言ったようなことが現れる。つまり、若干”惚けはじめた人”に周りが振り回されるのである。例えば、会話は問題なくできるので、周りとのコミュニケーションは取れる。しかし、何やら支離滅裂に”思い付く”。周りがそれを実現してやる。がしかし、本人はすぐに忘れる。やってあげた周りにはえらい迷惑だ。こんなことが頻繁に起こるようになり、非常に混乱するようになるのである。
高齢者が社会の中で数が少なかった頃には、こういった現象が起きてもそれは社会問題にまでならなかった。その影響力は限られたからだ。しかし、高齢者の数が増えれば増える程、こうした現象が起きる。したがって、こういう迷惑千万な話で社会は満ち溢れることとなる。
これが”真の高齢者問題”なのである。私はそう考えている。
今日のニュースにこれを見事に証明するものがあったので、これを紹介しておこう。
野口英世賞もうありました 首相「本家」に毎年出席へ
これは、小泉首相がアフリカに行って”思い付いて”作った「野口英世賞」というものが、もう50年も前に出来ていた、という話である。
小泉純一郎首相の”靖国神社参拝”問題も小泉純一郎首相の一種の”惚け問題”と私は見ている。人間、惚けてくると、非常に頭が固くなり融通が効かなくなるものだ。これを”靖国神社参拝”に固執する姿が非常に良く表わしている。
こういった現象が日本社会のあちこちで出て来て、高齢者の”思いつき”やら”気変わり”やらで日本社会が非常に混乱させられる、振り回されるのではないか。
これが今私が一番心配していることなのである。やはり、知能テストや脳チェックが公職に必要な時代なのかも知れない。
それは、今後10年日本は「高齢者に悩まされる時代」あるいは「高齢者に振り回される時代」に入ったということである。
”少子高齢化”ということは、単に”子供の数が減り、高齢者や年輩者が増える”というだけではない。実際には、”子供の数が減り、高齢者や年輩者が増える”ということは、高齢者や年輩者より若い人々が、高齢者や年輩者に”振り回される”ということでもある。これが、日本人のほとんどすべての人たちにあまり良く理解されていないように見える。
というのは次のような理由からだ。
人間の脳というのは、必ず年齢と共に衰える。つまり、”惚ける”。”恍惚の人”になっていくのである。
その”惚け方”は人による。比較的日常会話は問題ないが記憶力がない人。記憶力や精神能力はあるが運動能力が衰える人。すぐに怒りやすくなる人。すぐに気が変わる人。思い付きで行動する。さまざまである。
困った事に、徐々に”惚ける”ということがある。この場合は、家族でも近所の人でも職場の人でもなかなか気付かずに”惚け”が進行する。本人も自分が多少”惚け”てきたことにすら気付かない。実に深刻な問題なのだ。
この”惚け”問題は将来我々人類が”脳移植”できるようになるまでは続くことだろう。
しかし、年金問題でも明らかなように、一応社会で一番”お金”や”財産”を持っているのが高齢者である。経済的に一番優雅に暮らせるのが普通の高齢者なのである。それに加えて、元公務員、元国家公務員とかになれば、同じ高齢者と言っても”権力”や”人間関係”まで持っている。実はこれが一番質が悪い。
果たして”権力”や”人間関係”を持った高齢者が”惚けた”らどうなるのか。
”惚け”ていても人は人。その人の持つ”お金”や”財産”、”権力”や”人間関係”もまたその人のものなのである。ゆえに”惚け”た人の”お金”や”財産”、”権力”や”人間関係”もまたその”惚け”た人のものなのである。
ここに、冒頭で私が言ったようなことが現れる。つまり、若干”惚けはじめた人”に周りが振り回されるのである。例えば、会話は問題なくできるので、周りとのコミュニケーションは取れる。しかし、何やら支離滅裂に”思い付く”。周りがそれを実現してやる。がしかし、本人はすぐに忘れる。やってあげた周りにはえらい迷惑だ。こんなことが頻繁に起こるようになり、非常に混乱するようになるのである。
高齢者が社会の中で数が少なかった頃には、こういった現象が起きてもそれは社会問題にまでならなかった。その影響力は限られたからだ。しかし、高齢者の数が増えれば増える程、こうした現象が起きる。したがって、こういう迷惑千万な話で社会は満ち溢れることとなる。
これが”真の高齢者問題”なのである。私はそう考えている。
今日のニュースにこれを見事に証明するものがあったので、これを紹介しておこう。
野口英世賞もうありました 首相「本家」に毎年出席へ
これは、小泉首相がアフリカに行って”思い付いて”作った「野口英世賞」というものが、もう50年も前に出来ていた、という話である。
小泉純一郎首相の”靖国神社参拝”問題も小泉純一郎首相の一種の”惚け問題”と私は見ている。人間、惚けてくると、非常に頭が固くなり融通が効かなくなるものだ。これを”靖国神社参拝”に固執する姿が非常に良く表わしている。
こういった現象が日本社会のあちこちで出て来て、高齢者の”思いつき”やら”気変わり”やらで日本社会が非常に混乱させられる、振り回されるのではないか。
これが今私が一番心配していることなのである。やはり、知能テストや脳チェックが公職に必要な時代なのかも知れない。
2006/07/10のBlog
[ 16:12 ]
[ ジョーク ]
ワールドカップ・ドイツ大会2006はとうとう終わったが、世界のサッカーチームに関して、次のようなワールドカップサッカージョークも作れるかも知れない。
【ワールドカップサッカーもお国柄】
4年に1度のサッカーの国際的な祭典、ワールドカップが開幕した。しかし、本国のサッカーリーグで”八百長疑惑”が発覚した。せっかく苦しい予選を突破しワールドカップに参加したのに、このままではまずい。何とかして母国のサッカーの名誉のためにもワールドカップ本戦で良い成績をあげなくてはならない。そのためにも自国の選手達になんとか活躍してもらわなくてはならない。こんな時各国の監督は各国のサッカー選手達にこういえば良いと言う。
まずイギリス人監督はこう言う。
『選手諸君、今こそ英国紳士の心意気を世界に見せる時だ。頑張ってくれたまえ。』
すると、イギリス人サッカー選手達は”紳士の勇気を見せてやる”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
アメリカ人監督はこう言う。
『選手諸君、君たちは障害保険に入っているから大丈夫だ。怪我しようがどうなろうが何も問題ない。頑張ってくれたまえ。』
すると、そのアメリカ人サッカー選手達は安心して後のことは”保険に任せた”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
ドイツ人監督はこう言う。
『選手諸君、これは監督の絶対命令だ。死ぬ気で頑張れ。』
すると、ドイツ人サッカー選手達は監督の”命令には絶対服従”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
フランス人監督はこう言う。
『選手諸君、我が国は”自由、平等、博愛”の精神で多くの移民を受け入れて来た。君たちは国の理想のために頑張ってくれたまえ。』
すると、フランス人サッカー選手達は”世界の自由、平等、博愛のために”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
イタリア人監督はこう言う。
『選手諸君、君たちはこのままで結構。世界の恥となって不名誉のままピッチを去りなさい。』
すると、イタリア人サッカー選手達は”他人の命令に従うのは真っ平ごめん”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
最後に日本人監督はこう言った。
『選手諸君、他国の選手はみんな頑張っているぞ。君たちも他国のプロ選手を見習いなさい。』
すると日本人サッカー選手達はワールドカップでは死にもの狂いで頑張るのが”世界の常識だ”と知ってしぶしぶサッカーの試合を行った。
【ワールドカップサッカーもお国柄】
4年に1度のサッカーの国際的な祭典、ワールドカップが開幕した。しかし、本国のサッカーリーグで”八百長疑惑”が発覚した。せっかく苦しい予選を突破しワールドカップに参加したのに、このままではまずい。何とかして母国のサッカーの名誉のためにもワールドカップ本戦で良い成績をあげなくてはならない。そのためにも自国の選手達になんとか活躍してもらわなくてはならない。こんな時各国の監督は各国のサッカー選手達にこういえば良いと言う。
まずイギリス人監督はこう言う。
『選手諸君、今こそ英国紳士の心意気を世界に見せる時だ。頑張ってくれたまえ。』
すると、イギリス人サッカー選手達は”紳士の勇気を見せてやる”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
アメリカ人監督はこう言う。
『選手諸君、君たちは障害保険に入っているから大丈夫だ。怪我しようがどうなろうが何も問題ない。頑張ってくれたまえ。』
すると、そのアメリカ人サッカー選手達は安心して後のことは”保険に任せた”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
ドイツ人監督はこう言う。
『選手諸君、これは監督の絶対命令だ。死ぬ気で頑張れ。』
すると、ドイツ人サッカー選手達は監督の”命令には絶対服従”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
フランス人監督はこう言う。
『選手諸君、我が国は”自由、平等、博愛”の精神で多くの移民を受け入れて来た。君たちは国の理想のために頑張ってくれたまえ。』
すると、フランス人サッカー選手達は”世界の自由、平等、博愛のために”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
イタリア人監督はこう言う。
『選手諸君、君たちはこのままで結構。世界の恥となって不名誉のままピッチを去りなさい。』
すると、イタリア人サッカー選手達は”他人の命令に従うのは真っ平ごめん”と勇猛果敢にサッカーの試合を行った。
最後に日本人監督はこう言った。
『選手諸君、他国の選手はみんな頑張っているぞ。君たちも他国のプロ選手を見習いなさい。』
すると日本人サッカー選手達はワールドカップでは死にもの狂いで頑張るのが”世界の常識だ”と知ってしぶしぶサッカーの試合を行った。
[ 15:03 ]
[ WCドイツ大会 ]
【決勝戦】
【イタリア一フランス戦1一1(1一1、0一0;0一0、0一0;PK5一3)】
トレビの泉に飛び込む若者、続出 イタリア優勝で興奮
不正疑惑乗り越え優勝 誇り守ったイタリアの選手たち
「再生」象徴する栄冠 四半世紀ぶり優勝のイタリア
イタリア、PK戦制し4度目の優勝 W杯決勝
試合結果
いやー、私の”イタリア優勝”予想大当たり!!(「”予想、予想、予想” 」)
【イタリア一フランス戦1一1(1一1、0一0;0一0、0一0;PK5一3)】
トレビの泉に飛び込む若者、続出 イタリア優勝で興奮
不正疑惑乗り越え優勝 誇り守ったイタリアの選手たち
「再生」象徴する栄冠 四半世紀ぶり優勝のイタリア
イタリア、PK戦制し4度目の優勝 W杯決勝
試合結果
いやー、私の”イタリア優勝”予想大当たり!!(「”予想、予想、予想” 」)
”現実は小説より奇なり”
と良く言うが、今日の試合もまさにドラマよりも予期せぬ展開の”筋書きのないドラマ”であった。
フランスの英雄ジダンのマテラッティへの”頭突き”一発退場で、フランスのマルセイユの灯は消えた。ジダンの栄光の日はついに蘇らず。
と良く言うが、今日の試合もまさにドラマよりも予期せぬ展開の”筋書きのないドラマ”であった。
フランスの英雄ジダンのマテラッティへの”頭突き”一発退場で、フランスのマルセイユの灯は消えた。ジダンの栄光の日はついに蘇らず。
奇しくも、私が「”偉大なジダン”、スコラリ監督の不敗神話を撃破! 」の中で
”さらにジダンは、現役引退宣言の後こう付け加えた。
「現役最後の試合はW杯決勝」
これが、
「現役最後の試合はW杯優勝」
ではないところが面白いところだが、とにかく決勝まで進みたいという宣言を行い、自分自身に良い意味の、正の”重圧”をかけたのだ。ここが偉大な選手の偉大なところなのである。”
と書いていたように、ジダンのワールドカップは決勝出場でその望みを叶えてしまったかのように終わった。
”さらにジダンは、現役引退宣言の後こう付け加えた。
「現役最後の試合はW杯決勝」
これが、
「現役最後の試合はW杯優勝」
ではないところが面白いところだが、とにかく決勝まで進みたいという宣言を行い、自分自身に良い意味の、正の”重圧”をかけたのだ。ここが偉大な選手の偉大なところなのである。”
と書いていたように、ジダンのワールドカップは決勝出場でその望みを叶えてしまったかのように終わった。
これで、私がワールドカップが始まる前の5月22日に「”予想、予想、予想” 」で予言したように、ついに”イタリアが優勝”した。
さすがに、昨日私が「3一0でイタリアの勝ち」と予想したほどの得点差はなかったが、フランスの得点はポルトガル戦同様に、前半にフォワードの”シミュレーション”に近いPKで得点を取って逃げ切る作戦による得点に過ぎなかった。アンリやマルダがドリブル突破しては自分で倒れてPKを取る作戦のみでこれといった攻撃はなかった。強いて言えば、後半のアンリのシュート、ジダンのヘッドとリベリーのワンツーシュートは非常に惜しかった。
イタリアの後半のグロッソからのフリーキックに合わせたトーニのヘッドはオフサイドではなかったとしても良いほど際どいものだった。これが決まっていれば、イタリアの圧勝だっただろう。審判団はかなりフランスよりだった。
それにしても、中2日で決勝までどんどん試合をやっていける両チームの体力には恐れいる。
さすがに、昨日私が「3一0でイタリアの勝ち」と予想したほどの得点差はなかったが、フランスの得点はポルトガル戦同様に、前半にフォワードの”シミュレーション”に近いPKで得点を取って逃げ切る作戦による得点に過ぎなかった。アンリやマルダがドリブル突破しては自分で倒れてPKを取る作戦のみでこれといった攻撃はなかった。強いて言えば、後半のアンリのシュート、ジダンのヘッドとリベリーのワンツーシュートは非常に惜しかった。
イタリアの後半のグロッソからのフリーキックに合わせたトーニのヘッドはオフサイドではなかったとしても良いほど際どいものだった。これが決まっていれば、イタリアの圧勝だっただろう。審判団はかなりフランスよりだった。
それにしても、中2日で決勝までどんどん試合をやっていける両チームの体力には恐れいる。
さて、優勝したイタリアは、そのほとんどが国内のセリエA所属の選手であるという。したがって、今回のドイツ大会当初から”八百長疑惑”をかけられていて、不様にも敗退する姿を自国の当局や各国から期待されていた。この疑惑をワールドカップ本戦にぶつけて来た勢力がどこにあったのかは分からないが、優勝候補の1つであるイタリアにプレッシャーをだれかが仕掛けたことは明白であろう。
ところが、さまざまなジョークにもあるように(昔聞いたジョーク:世界の中の日本人 )、”イタリア人気質”というものは、非常に面白いもので、こういった妙なプレッシャーがあればあるほどチームの結束力が強くなり、逆境に負けないという特質があるらしい。
事実、選手達はこう言っている。
デルピエロ:
「事件後、彼のことが頭から離れない」
「審判にひいきされて、勝ち取ってきた栄光じゃない。真の実力を見せよう」
トッティ:
「世界のファンがイタリアに注目している。恥ずかしい戦いはできない。82年大会も、そうだったじゃないか」
ガットゥーゾ:
「スキャンダルが発覚しなかったら、W杯優勝はなかった。あの試練が、僕らに結束をもたらした」
本当にご苦労様と言いたい。おめでとうアズーリ!
ところが、さまざまなジョークにもあるように(昔聞いたジョーク:世界の中の日本人 )、”イタリア人気質”というものは、非常に面白いもので、こういった妙なプレッシャーがあればあるほどチームの結束力が強くなり、逆境に負けないという特質があるらしい。
事実、選手達はこう言っている。
デルピエロ:
「事件後、彼のことが頭から離れない」
「審判にひいきされて、勝ち取ってきた栄光じゃない。真の実力を見せよう」
トッティ:
「世界のファンがイタリアに注目している。恥ずかしい戦いはできない。82年大会も、そうだったじゃないか」
ガットゥーゾ:
「スキャンダルが発覚しなかったら、W杯優勝はなかった。あの試練が、僕らに結束をもたらした」
本当にご苦労様と言いたい。おめでとうアズーリ!