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2006/09/21のBlog
[ 09:56 ] [ 音楽・芸能 ]
好調「純情きらり」、理由は「文系男子」「普通の人生」

によると、昨今珍しく、NHKの”朝ドラ”の視聴率が非常に良く、初回こそワースト2だったが、その後盛りかえし、来週最終回となる現在では、24.2%の高視聴率をあげているという。では、その理由は何か?と分析しているのが、この記事である。

その理由を探るために、作家らに聞いてみたようだ。

ドラマ好きの詩人、白石公子さん:
「男性陣が魅力的。彼らを目当てに朝ドラを見たのは、『あすか』の藤木直人君以来」
「女の人とちゃんと向き合う優しい人ばかり。物静かで文系男子のようなふるまいは、最近では新鮮。揺れる気持ちが描かれたのもよかった」

この脚本を書いた浅野さん:
「ときめきのないドラマは物足りないと思って。男性が優しくなってしまうのは、自分の理想が入っちゃうから」
「意のままにならない人生を送らざるを得なかった人々の物語が、何不自由なく生きられる現在の視聴者に、非日常の劇的な気分を感じさせている」
「何かを成しとげた女ではなく、何もなさずに一生を終える女の“人生そのものの輝き”を描きたかった。女性は、結婚や育児と“やりたいこと”の間で揺れる人が多い。そんな普通の人生に朝ドラで光を当てたかった」


実はこの”問題”、私はずっと前から分析済み。奇しくも私の分析の予言した通りだったようだ。

NHKの朝ドラ低迷の理由は? 」の中で次のように書いていた。

”要するに、得体の知れない”ド素人”の女子高生を発掘して、その周りをちょっと有名筋の俳優と引き立て役の吉本芸人で固め、田舎の地場産業振興するようなストーリーを作れば、視聴率がとれるかといえば、そういうことはない、ということである。”

さらにこの中で紹介したもっと前(2年前)の「’韓流’現象の本質とは?」では、より正確に分析していたようだ。

”つまり、現在の日本女性もまた、「純粋で真面目で爽やかで知的でハンサムで体がしっかりした」”正統派二枚目”若手俳優の登場を待ち望んでいるのである”

”たとえば、NHKの朝ドラをみればこのことが良く分る。これは”日本女性”のためというより、世の”オヤジ”のためにある。というのも、”少女趣味”に走り、”美少女を売り出すことにばかり躍起になっている”ように私には見えるからである。”高卒”のどこの馬の骨かもわからない女の子の学芸会レベルのドラマを毎日毎日続けて見せられてはたまったものではない。また、朝っぱらから美少女の顔みて始まるのであれば、植草教授じゃないが、朝電車に乗れば、美少女のお尻を追っ掛けるのも無理はない、といえるのかもしれない。それなりにNHKの責任というものもあろう”

”さらに”悪い”風潮すら生まれている。それは、高校卒業したばかりの頭空っぽの美少女でも、半年ほどNHKの朝ドラに(主演、助演などで)出て演技の練習を重ねると、ドラマ終了後からすぐに民放のコマーシャルに出るようになる”

”これでは、NHKの朝ドラは美少女を発掘して売り出すために我々視聴者から税金以外に受信料を徴集していると見られてもしかたあるまい”

そして最後にはこう書いていた。

”つまり現代日本の代表者の顔となる、”正統派二枚目”スター発掘の時代が今必要なことである”

というわけで、大分前からNHKの”朝ドラ”の使命は終わっているのである。

NHKの”朝ドラ”の使命とは何だったか? というと、それは、こういうことだろう。

いわゆる”日本の男尊女卑”の悪しき伝統が抜け切らなかった時代に、つまり、”女”あるいは”女性”に生まれたというだけで虐げられ、自分の人間としての自己能力を開発できず、完成もできず、夢を持つ事が出来なかった時代、自己実現ができなかった時代に、それにもめげず日本の現代女性の地位向上に努めた女性たちが存在した。こうした日本女性たちの群像(人となり)を紹介することに意義があったのである。言い換えれば、未だにそうした困難が渦巻く中で生きている女性達に、明治・大正・昭和初期に生きた偉大な女性達の人生を毎日毎日紹介することで生きる希望を与えようとした。そこにその意義があったのである。

それと見事に重ね合わせたかのごとく、”朝ドラ”自体を新人女優の”登竜門”に仕立て上げたわけである。伝統的な日本男児に虐げられながらもけなげに”自己実現”を成していく”美しく強い”日本女性を演じる事で、そのイメージに新人女性の美貌をもって重ねたのである。だから、高視聴率が取れたのである。

そういうことを数十年と行った結果、日本女性は自由になり、もはやこの地球上で日本女性ほど自由闊達な生き物はないと言われるほどの女性たちに変身を遂げた。どこの国にも旅をし、どこの国の男性ともセックスする、どこの国の人とも国際結婚するという女性達に進化したのだ。今ほど”自由”をエンジョイできる日本女性はないのだ。

しかしそれとは逆に、”日本男児”は悪しき伝統の権化とされ、あるいはその汚名を着せられ、今や絶滅してしまったのである。それゆえ、同時に今度は「国家の品格」は失われ、価値基準が喪失してしまったと最近になって考えるものまで出てきたというわけである。

こうした今やありふれた風景のルーツも、NHKの”朝ドラ”であり、これによって蒔かれた種が成就した結果である。すでに十分その使命は果たしたのである。任務完了したのである。まあ、言い換えれば、戦後ずっと、アメリカ政府によって蒔かれた”民主化”路線を日本政府が後押し、NHKの”朝ドラ”を通じて、国民を『日本女性もアメリカ女性のようになれ』と”洗脳”してきたわけである。この役割は十分に果たしたのである。

今やその役割が成就した世界に我々は生きているのだから、この期に及んでも未だに”悪しき日本男児”VS”虐げられ働き者で健気で美しい日本女性”のイメージでは、だれが見ても現実的ではない。リアリティーに欠けるのである。なぜなら、今では、”世界中で笑い者にされる、か弱い日本男児”と”世界中でブランドを買い漁る強く逞しい日本女性”しかいないからである。

そんなわけで、これからは、日本女性を題材にしたもの、主人公にしたものよりは、むしろ、日本男児を題材にしたもの、主人公にしたものが国内情勢には適切なのである。現在多くの若者は、フリーターやニートとして自室に閉じこもって”鎖国”してしまっている。こんな時代背景の時には、1人でアメリカを旅したジョン万次郎とか、勝海舟とか、坂本竜馬とか、星一とか、高峰譲吉とか、”鎖国時代”に世界を見たい、世界は広いと世界に打って出て行こうとした日本男児のドラマの方が国民にはより好ましいのである。この偉人のイメージに若手男性俳優のイメージを重ねて”登竜門”とする。こうすれば、今は自宅に引きこもっている若者達の中から、世の中に打って出ようとし、自分の可能性に挑戦しようとする素晴らしい若者が登場してくるに違いない。これが、新しいタイプの日本男児、これからの日本の若者を誕生させるのではないだろうか。

NHKよ、良く聞け。
君らの果たした役割は大きい。
その多くは成就した。
かつて虐げられた日本女性は強く自由になった。
しかし、今やそれは失敗の母となっている。
日本男児は死に絶え、社会は混沌としている。
過去の栄光は現在の挫折なのだ。
これを変えるには、主従逆転することだ。
”朝ドラ”の主役を女性から男性に変える事だ。
あるいは、男女同権にすることだ。
これによって、引きこもり、ニートなどの
若者達を勇気づける事ができる。

とまあ、こんな感じか。
2006/09/20のBlog
王子製紙が新経営計画、富岡工場の設備改廃が柱

いやはや、”机上の空論”というのは、こういうものを言うのだろう。

この記事によれば、

「王子製紙は20日、2009年3月期に、連結経常利益が最大で970億円に拡大することを掲げた新経営計画を発表した。」

と篠田和久社長はたいそう威勢の良い事をいっているようだ。が、王子製紙は、北越製紙とのTOBに失敗したばかりか、傘下に収めたかった当の北越製紙の”反感”を買い、ライバルの日本製紙と合併してむしろライバルの方が大きな製紙会社になってしまったという大失態を演じたわけだ。この責任をどう取ったのだろうか。

それどころか、その自分の”見込みの甘さ”を今度は、王子製紙の中で一番上手く行っていると目されている富岡工場を抜本的に改革するという方針に打って出たというのがこの記事の語る内容だろう。

実は、我が家は、この”王子製紙富岡工場”から歩いて数分のところにある。だから、この社長よりも我々の方がこの地に詳しいだろう。

もともとこの”王子製紙富岡工場”と王子製紙が呼んでいる工場は、”神崎製紙”という地元の優良企業だった。”神崎製紙”というのは、歴史は古く、日本に戦前に近代的な製紙工場が出来た頃から誕生した日本有数の製紙会社である。その理由は、製紙工場に不可欠な清涼で豊富な水なのである。ここには徳島の中でも有数の那賀川があり、この河口に最古の1つとして製紙業が発達したというわけだ。この川の水質の良さは、最近まで”ナカちゃん”と呼ばれたアザラシが住み着いたことでもわかる。

この神崎製紙の富岡工場が非常に良く発展したのは、神崎製紙の社長の人間性にあったというのは、地元では良く知られた話である。地元の人々をこよなく愛し、仕事を供給し、地元の経済発展と教育環境を良くする事に尽した。だから、阿南市の中でもこの地域には、非常に優秀な人々が引き寄せられてこの一帯に知的な文化を蒔いたと言われている。それまで、猟師や農民しか住んでいなかった地域に都会的な良家の子女のようなイメージの子供達が溢れるようになり、阿南市の雰囲気は大きく変わったという。こうした環境の下に四国電力、日亜化学などが後々発展する準備が整ったと見えるのである。

それを13年ほど前に王子製紙が今回の北越製紙のようなやり方で地元民も知らない内に買収してしまったのだ。

それから、かなりこの辺の空気が変わったようだ。実際に”空気”も変わった。それは、富岡製紙工場は年がら年中24時間体制で稼動できるために、いつも工場の煙突から煙りが出ている。その煙突から出されるばい煙に含まれる”異臭成分”が地元住民を悩ませるのである。風向きによっては、我が家も非常に困る。それでも、神崎製紙の頃は、地元住民に迷惑にならないように、風向きを考えて陸風に乗せて海の方に臭いを流していたようだが、王子製紙に変わった後では海風の場合にも変わらずばい煙をまき散らすためにかなりの異臭を漂わせているわけだ。現在でも、王子製紙の工場近辺はかなりの異臭がただよう。(もっとも何十年か前の神崎製紙時代にこの富岡工場の製紙用モーターが24時間止まることなく動けるようにしたのが私の妻の亡き父親であった。発明の才あったこの父親は、下請け会社として努力に努力を重ねて壊れにくいモーターを発明・改良したのである。その恩恵をこの工場は受け、今に至っている。)

こんなわけだから、この記事にあるように、東京に住む王子製紙の社長さんや重役達が経済効果だけを考えた”机上の空論”で設備投資し、今でも”公害”をまき散らしているこの富岡工場の規模を拡大してフル稼動させるようになれば、いったいどうなるのだろうか。おのずと想像がつくだろう。

「年間35万トン規模の生産設備を総額500億円かけて新設するとともに、同工場の古い生産設備を年産30万トン分廃棄する。」

と言えば、地元には500億円も投資されるわけだから、経済効果は抜群で阿南市長も県知事もそれはそれは大喜びする事はあっても反対する事はない。なぜなら、飯泉県知事も阿南市長もこの工場の近辺に住んではいない。しかし、我々すぐ近郊に住む人間たちにとっては、工場から排出されるだろう”臭いばい煙”の方が心配なのだ。

果たして”新設備”というものはどのようなものか。ばい煙の有害ガスを除去するための”触媒除去装置付きの煙突”を作るのだろうか。

この辺の緻密な”見積もり”のない計画は、単なる”机上の空論”に過ぎない。やはり、都内に住んでのほほんとしている人に地元のことは分からない。何ごとも”現場主義”が大事である。金だけかけりゃー何とかなるというのは、北越製紙買収失敗でそうではないというのが身にしみているはずであろう。今度の工場改変であっても全く同じ事で、地元に住む社員、工場員や一般の人々の状況を考えるだけの想像力がなければ、この投資も”絵に書いた餅”になって終わってしまう事だろう。
2006/09/19のBlog
この家に何十年も住み着いているという主は和製タランチュラの”足長クモ”。写真のはその子孫。大きさは人の手ほどもある。だいたい8一10cm。母親はもっと太く大きい。しかし、身体ににあわず大人しくて無毒。

この他にも我が家には、体長20cmもあるムカデ(よく出店で売っているゴムのムカデとそっくりのものが勢いよく動き回る)が出たり、まれにマムシが現われた事もある。最近は、寝ていたら顔をムカデの子供が歩き回り、振りほどいた時に噛まれてしまった。ちくちくした鋭い痛みを伴う。

まあ、田舎に住むにはムシと共存しなくてはいけないだろう。
2006/09/18のBlog
日本、北朝鮮下し優勝 U17アジア選手権
U17・日本、北朝鮮に逆転勝ちでアジア制覇
日本が2点差逆転、北朝鮮下し優勝 U17アジア選手権

いやー、実に感動的なナイスゲームだった。4一2(0一2、2一0、2一0)の勝利。

昨夜、というより、今朝の未明の試合を私は最後まで見たが、このU17日本代表は非常に好いチームだ。

オシム・ジャパンを見なれている人は、いつも自信無さそうにプレーする日本代表に歯がゆい思いをさせられるだろう。しかし、このチームは、実に落ち着いた自信に溢れた才能豊かなチームである。走るチームで相手の北朝鮮が走り負けていた。オシム・ジャパンに足りないものがこのチームにはある。そんな感じのチームである。

最初の失点は、相手の北朝鮮を誉めるべきであって、遠めから打ってきたボールがディフェンダーに当り向きが変わって入るというアンラッキーなものだった。2点目も相手のフォローが勝り、遠めからのシュートが決まった。

問題は、日本代表ならこういった状況では焦るばかりで同じ事を繰り返してしまい、単調なゲーム展開に落ち入りやすいが、このチームは、非常に冷静でいろいろな攻撃パターンを試みてみるのが好い。まだまだ最終ラインで危ないミスをすることもあるが、身体で防ぎすぐに反撃に出るのが好い。

日本の最初の得点は、柿谷曜一朗(セ大阪)が見事な”シャペウ”(ボールをディフェンダーの頭の上に浮かせて抜く技。ペレやロナウジーニョが好きな技)で、ディフェンダーを交わし、そのボールが落ちてくるところをすぐにボレーでシュートしてきれいに決めた。そういう”芸術的プレー”だった。お見事の一言。2点目はやはり柿谷からのスルーパスを端戸(はなと)仁(横浜Mユース)が決めた。

延長に入って、河野(東京ヴユース)が、中央をワンツーで突破してシュートの3点目、最後はカウンターアタックから1人抜け出して冷静にアウトサイドでシュート。これで万事休す。

試合が終わった後は、監督の胴上げ、スポーツドリンクのかけあいが始まった。実に楽しい光景であった。

いずれにせよ、この年代が育ってきているのは実にうれしいことだ。この世代が活躍するのは、8年後12年後のワールドカップのこと。そのためには、来年のU17ワールドカップで活躍しないといけない。ぜひそれを期待したいところである。きっと良い成果を残してくれるだろう。
2006/09/17のBlog
[ 12:53 ] [ 高校サッカー ]
東京ヴユースなどが決勝Tへ サッカー高円宮杯

高円宮杯第2日目の試合結果は以下のようになったという。

▽A組 星稜高(石川)(4)2-2ルーテル学院高(熊本)(2)、青森山田高(4)4-1銀河学院高(広島)(0)

 ▽B組 ガ大阪ユース(3)3-0高知高(0)、湘南ユース(6)2-0札幌第一高(3)

 ▽C組 鹿島ユース(3)3-2東福岡高(3)、広島ユース(6)5-1神戸ユース(0)

 ▽D組 静岡学園高(6)6-3大分ユース(0)、滝川二高(兵庫)(3)4-3作陽高(岡山)(3)

 ▽E組 東京ヴユース(6)2-1広島観音高(1)、盛岡商高(4)1-0旭川実高(北海道)(0)

 ▽F組 名古屋ユース(6)1-0横浜ユース(3)、初芝橋本高(和歌山)(3)1-0水橋高(富山)(0)
乗用車が信号に衝突、高校生2人死亡3人けが 長野
信号機に衝突、車の若者2人死亡・1人重体・2人重傷

”最近の自動車は弱い”。こんなことを感じさせる事故である。

信号機に衝突しただけで、”木っ端みじん”という言葉そのものに大破する。これでは、中に乗っていた人間も木っ端みじんに押しつぶされてしまう。ここまで大破すれば、まずは助からないだろう。

かつて、F1の貴公子ブラジルのアイルトン・セナがレース中の事故で死んだ。その時にも問題になったのが、俗に”コックピット”(と呼ばれているレーサーの入っている空間)の強度。事故を起こしても、レーサーを取り巻いているカプセル状の”コックピット”さえ潰されなければ中にいるレーサーは助かる。ところが、セナの乗っていた頃のF1カーには十分な強度がなく、”コックピット”ごとに大破した。

それにしても、最近の車は実に見事に潰れる。ちょっとした出合い頭の衝突でも大破する事がある。

この理由が、コンピュータ設計であるために、設計者が生身の人間の存在を身近に感じないということであるのかも知れない。

今どきの車は、すべてコンピュータで衝撃実験をして、強度計算したものである。だから、だいたいどこのメーカーの車も似たような個性のないデザインとなる。しかし、見た目のデザインが似かよるのならまだ良いが、車の強度まで似てしまうとなればこれは大問題かも知れない。

自動車が簡単に潰れる理由は、衝突の衝撃を吸収するために、わざと潰れるようにしているということらしい。がしかし、それが中にいる人間のためではなくなると、いとも簡単に潰れて人のいる空間まであっという間に潰されてしまうということになるだろう。

不思議なことは、自動車と大型トラックがぶつかったような時には、自動車が大破するので、大型トラックはほとんど無傷にすら見える場合もあるということだ。これでは、まるで、トラックを保護するために、自動車側がいとも簡単に大破するようにわざと仕組まれているとしか見えない。おそらく、自動車メーカー業界とトラックメーカー業界との間で”裏で”何か取り決めが行われているのだろう。

翻って言えば、日本の板金技術が余りに高度すぎて、あまりに薄い金属板を作る事ができるということが逆効果となっているということだろう。あるいは、石油値上がりのために、すこしでも自動車の重量を減らしたいということがあるのかも知れない。

いずれにせよ、我々は、自動車を運転する時はちょっとした接触だと思って油断してはならない。すこしでも接触すれば、あっという間に大破する。自分で自分の命を守りたければ、飲酒運転をしないことはもとより、本来ならできる限り運転しないことに限る。なぜなら、今の自動車はドライバーの命を守ってはくれないからだ。

ただただこうした事故で亡くなった方々の御冥福を祈りたい。
2006/09/16のBlog
刑務所“満員”超す116%、受刑者7万人突破

昨年暮れに「”耐震偽装刑務所” 」というジョークで、私はこんなことを書いていた。

”昨今、不況やデジタルディバイドで貧富の差がつき、世の中の犯罪者の数はうなぎ上り。世の中は少子化や高齢化で人口はどんどん減っているのを尻目に刑務所内はてんやわんやの大賑い。あまりに犯罪者が多く、満員御礼状態なのだ。”

上のニュースはまさにこれを証明してくれたようだ。7月末現在(速報値)で、以下の通り。

収容者数=7万737人。
収容定員=6万794人。
収容率=116・4%。

受刑者が、7万人を突破したのは終戦直後の混乱期(1948一51年)以来というから、やはり1990年バブル崩壊以後の自民党政治は、”第2の敗戦”というに相応しい、ということが数字にも現れているということだろう。自民党政治の戦後の敗戦なのである。今は、終戦直後の”闇市”時代と同じくらいに”モラル低下”した時代だという証明である。

最近では、受刑者は、刑務所の中で「コンサート」を聞いたり、ゲームに興じたり、雑誌を読んだりと、まるで野外コンサートに行ったり、合宿しているというようなものだ。

これでは、税金の負担が増える一方だ。

そこで、1つの提案として、田中角栄やホリエモンのような「高額所得者」などの高級犯罪者、あるいは、ある程度リッチな犯罪者たちには”自分の財産や所得から刑期を終えるまでの経費を支払ってもらう”ようにしたらいいだろう。ホテル代は自分で賄ってもらうのだ。

もう1つは、国が税金で刑務所を建築するのも1つの方法だが、そうするのではなく、刑務所もアメリカのように「民間の刑務所」を作るというのも良いアイデアだろう。刑務所の”民営化”である。

政治家や官僚の汚職のような犯罪の場合には、こういった民間刑務所に入ってもらい、経費は自腹を切らせる。これがもっとも合理的な方法だろう。

いずれにせよ、刑務所システムもそろそろ抜本的改革が必要な時期に来ているのだろう。
2006/09/15のBlog
しばらく前に私は昔の掲示板(クロノエッセイ)に”飲酒問題”に関して書き残したことがある。ちょうど昨今「飲酒運転」で多くの人々が命を失ったことが社会問題となり、飲酒運転の是非が問われるようになってきた。これ自体は非常に良い事である。しかし、飲酒運転だけが問題なのではなく、飲酒という習慣自体が問題で、多くの問題を生じてきたのだが、それが”一貫性”をもって議論されてはいないようだ。

例えば、日本のテレビドラマ、トレンディードラマには、パイロット、スチュワーデス、医師、看護婦(看護師)、OLなどさまざまだが、こういったドラマには、”バーで飲酒する”シーンやいわゆる”合コン”シーンがつきものである。これを見ても分かるように、職場の仕事が終わって後の”5時から男(女)”に見る飲酒文化は、非常に一般的である。しかし、私の個人的印象では、医者や看護師の飲酒が原因で医療ミス、医療過誤を起こしているのも少なくないように見える。

これは、ドライバーが飲酒運転して事故を起こし、人命を失うことと非常に似ている。この意味では、飲酒運転と同じことである。飲酒運転、飲酒手術、飲酒治療、飲酒授業、飲酒出勤などなどは、みな同じカテゴリーの問題である。

こんなわけで、もう一度ここに私が3年前に書いたことを以下に紹介しておこう。これは、キャッシュでも見る事ができる。
【69】 世界でもっとも飲酒に寛容な国:日本はアルコール業界を甘えさせ過ぎ! 2003/11/17(Mon)

最近、大型トラックの運転手が飲酒することが原因で人身事故を起こすことが社会問題化している。すでに多くの貴い人命がたくさん失われてきている。実はこの問題の背後に、我々日本社会が抱えている特有の問題があるということをここでは指摘しておこう。つまり、日本は喫煙や飲酒に対してもっとも寛容な国であることがひき起こす問題であるということである。

まず、トラック業界の場合には、宅急便の発達と不況によるトラック業界の勤務が極めて超過勤務になっている実態があるだろう。そしてそのストレスを和らげようとしてトラック運転手たちは酒を飲むようになるわけだ。そうしていくうちに、知らず知らずのうちにアル中(=アルコール依存症)になる。そして、勤務時間中にも飲酒するという状況が生まれるわけである。

一方、これは一見まったく飲酒とは無関係に見えるかも知れないが、私の観点では、最近増えてきている医療ミスの根源もこの飲酒が原因ではないかと思わせるものがあるのである。というのも、ベテラントラック運転手がいとも簡単に初歩的ミスで重大事故をひき起こしているように、医師や看護婦の場合にもベテランたちがあまりにも初歩的なミスをひき起こすからである。若い入り立ての新人医師や看護士/婦が起こすのであれば、基礎的なトレーニング不足によると想像できるが、あまりにもベテランに属するものたちのミスであるように見えるからである。これがベテラントラック運転手やJRの運転手がひき起こす事故と似ているように思うからである。

また、これらの問題とは無関係に見えるだろうが、若者の飲酒と暴力の問題もある。若者たちがホームレスを襲ったり、あるいはスーパーフリーのように、合コンパーティーの最中や後に女性をレイプするような事件も頻繁に出てきている。これらの問題も実は飲酒が基本的には原因となっているのである。もし飲酒なしの合コンであったのならどうだっただろうか?レイプ事件は生じただろうか?これは2年ほど前に問題となった成人式での飲酒が成人式を滅茶苦茶にしてしまったという問題とほとんど同じであると言えるだろう。

一般に西洋人と比べて我々東洋人は酒に弱い。この原因はすでに科学的に良く分かっていて、アルコールやアルコールによって体内にできるアセトアルデヒドなどを分解する酵素を遺伝的に作る能力がないからである。日本人の60%にはこの遺伝子が欠損しているということが分かっている。したがって、この遺伝子のない人はすぐにアル中になる。そして徐々に脳の前頭葉をやられていく。そして普段なら簡単に見極められるような簡単なこともそれができないように変わる。この結果日常生活にも影響がでてくるわけである。

喫煙にも非常に厳しい国で知られているのはアメリカであるが、この国では飲酒に対しても非常に厳しい国として知られている。まず飲酒年齢は満21才を越えないと酒を買うことは禁じられている。そればかりか未成年に酒を売った売店も営業停止処分になる。だから売る方の店も非常に相手に注意を払う。必ず身分証明書の提示を求めるのである。だから、ハワイなどへ日本人が行った場合、日本人は欧米人より若く見えるので、たいていは30歳台の人であっても未成年者に間違われて免許証やパスポートの提示を要求された人は多いことだろう。これがその理由である。

したがって、こんな国で飲酒運転で人身事故を起こしたらまず人生の破滅と考えられているのである。それくらいに飲酒に対して厳しい社会である。かのエドワードケネディー上院議員が飲酒事故で大統領選から除外されたのは有名な話である。また、飲酒運転が警察に見つかれば、まず銃を向けられてホールドアップさせられるのは間違いないだろう。

私が大学院生時代を送ったユタ州では、モルモン教徒のメッカであり、この州内では封を切った酒びんや缶ビールなどを車に乗せていればすぐに警察に連行されるのである。ましてや外で酒を飲んでいようものならすぐにしょっぴかれるというほど飲酒には厳しいのである。もちろん酒を売る方も特定のバーなど決まった場所でしかアルコールは飲めない。レストランでは自分で自分が飲む酒を持参する他ないというほどである。ハワイはそれほどでもないが、そこはやはりアメリカの州である。未成年者の飲酒には極めて厳しいのである。

翻って日本を見れば、ちまたにはどこにも酒類の自動販売機がある。金さえ入れれば幼児でも未成年者でもだれでも酒を買うことができる。こんな国は本当に世界では例を見ない。また、昔からの文化的伝統があり、酒の席では無礼講が許されるとか、酔っ払いは大目に見るなどという伝統もあり、そのために酒業界に極めて甘い国となっているのである。

一方、アメリカはなぜ酒に厳しいのかと言えば、かの1930年代の禁酒法の時代のアルカポネやアンタッチャブルで有名なほどに酒がマフィアの資金源になっているという認識があるのである。基本的には、酒業界というのは地下組織とつながりやすいというわけである。これは現代でもまったくの事実である。

しかし、日本では、阪急の創始者の小林一三に見るように(実家は山梨の酒業者で大金持ちであった)、古来酒屋は優遇されて大金持ちであった。そのために酒屋出身という政治家が代々優遇されてきているという国である。だから、サントリーであれ、アサヒであれ、どこであれ、酒の大手が非常に優遇されているのである。だから、政治的にも酒類の自動販売機やら身分証明書の提示もなくだれにでも酒を売ることができるのである。したがって、深夜にトラック運転手が酒類を買うことも可能になるわけだ。もちろん、医療関係者とて同様である。未成年の若者とて同じことであるだろう。そして酒に弱い日本人はすぐにアル中になり依存症に陥る。そして犯罪や事故に至るというわけである。

このように、今や日本の伝統的な酒文化と現代の国際化した日本の状況が矛盾し相容れない状況を生み出してきていると私は思うのである。そのために、最初に紹介したようなさまざまな問題が生じるのだろうと私は考えているわけである。酒業界とその販売方法を徹底してコントロールしない限り、最初にあげたようなトラック運転手の飲酒事故、医療ミス、若者の暴力の問題は解決しないだろうと私は考えるのである。もちろん、これをしたからといって完全に解決できるというわけではないが、かなり押さえられる、予防できることだけは間違いないだろう。
米大陸最古の文字か 紀元前900年、石塊発見

これは、マヤ文明に先立ち、紀元前1200年ごろから紀元前後に栄えたと考えられるオルメカ文化というものがあるが、この中心地で発見されたために、文字をもたないと考えられたオルメカ文化の文字ではないかというニュース。

ベラクルス州南東部の採石場で発見された石は縦36センチ、横21センチ、厚さ13センチ。束ねた野菜や上を向いた虫、装飾した人間の目などの形をした62個の模様やその反復が表面に彫られていたために、文字ではないかと研究者は考えているようだ。


ネアンデルタール人、“現代人”と長く共存遺跡発見

「ネアンデルタール人」というのは、かなり最近まで生きていたが、”約3万年前までに地上から姿を消した”と考えられていた。しかし、実はそれはウソで、”2万8000一2万4000年前まで生存していた”という証拠が見つかったというニュース。

”証拠”は、イベリア半島ジブラルタル沿岸の洞窟(どうくつ)で見つかった。英領ジブラルタル博物館や日本の海洋研究開発機構のチームが、その場所でネアンデルタール人の文化を示す石器類103個と火の使用跡を見つけ、地層中の放射性炭素などの分析で年代を特定したという。

ヨーロッパでは、いわゆるヨーロッパ人の先祖と言われている「クロマニヨン人」が、約3万2000年前にイベリア半島へ進出したと考えられている。それゆえ、今回の発見では、数千年に渡って「ネアンデルタール人」と「クロマニヨン人」が”共存”した可能性が浮上してきた。

そのため、両者の”混血”の可能性が出てきたようだ。欧米の専門家は「遺伝子の研究で否定されていた両者の混血があった可能性も出てきた」と主張しているとか。

果たして、「ネアンデルタール人」と「クロマニヨン人」が結婚したか?

現在でも日本人(短身で胴長短足の不格好なアジア人)とアメリカ人(長身で胴短長足のかっこいいヨーロッパ人や黒人)の結婚を見た場合、日本人女性とアメリカ人男性である場合が”ほとんど”であることからも想像できるように、恐らく、結婚したとすれば、ネアンデルタール人女性とクロマニヨン人男性ではなかったかと私は想像を逞しくしている。この逆は非常に”まれ”であったと私は想像する。

現在でも「クロマニヨン人」はどこから誕生したのか、良く分かっていないようで、一説には”インド・ヨーロッパ語族”というように、言語も顔つきもインド人とヨーロッパ人は極めて似ていることから、中央アジアの山岳地帯で氷河期に誕生したのではないか、とも考えられているようだ。

オカルト説では次のようなものもある。ヨーロッパ系の白人のほうがアジア人より整って見えることから、UFOに乗った宇宙人がシリウスの周りの惑星から地球に降り立ち、遅れていた地球人に遺伝子操作してクロマニオン人を誕生させ、地球人を宇宙人型に進化させようと目論んだ。(こういった俗説の背景には、いわゆる白人とアジア人が子供を作ると、その子供達がすべて白人に似て、アジア系の要素が見た目から消え去るという経験的な印象が根深くあるのだろうと私は想像している。例え混血児の中身は日本人と変わらないくても、混血児の見てくれ(ルックス)が白人的なので、日本の芸能界でちやほやされている混血児の活躍を見ればこの意味が分かるだろう)。

こういった諸説の真偽のほどは今は分からない。が、ミトコンドリア遺伝子研究では、母系遺伝のミトコンドリアの起源はアフリカ女性から来ていると考えられているので、アフリカ出身の”ネアンデルタール人女性”であったという可能性もないとはいえない。今後の研究を待ちたい。いずれにせよ、なぜ白人とアジア人が子供を作るとメンデルの法則を破るのかは依然として謎だ。

参考:
”360度”
日本人の起源
脳を大きくする遺伝子発見?
北米で5万年前の遺跡発見の衝撃




縄文石器に3人の人物画 青森、近野遺跡で発見

一方、これは日本の発見。青森市の近野遺跡で発掘した縄文時代の石器に人物3人を表現したとみられる線刻が描かれていたことが判明したというニュース。

しかし、”遺跡捏造”で信用失墜した日本の考古学の発見なので、にわかには信じ難い発見。

最近では、「イカの線刻石」の話題もテレビ(アンビリバボー)などで紹介されたので、そんなものにヒントを得たのではないかという疑いも頭によぎる。

どこまで信用できるかは、今後の研究によるだろう。
2006/09/14のBlog
セルティック・中村俊輔、欧州CLで日本人初ゴール

中村俊輔選手はスコットランド・プレミアリーグのセルティックに所属するが、13日に英・マンチェスターで行われたサッカーの欧州チャンピオンズリーグ(CL)デビュー戦で日本選手として初得点した。前身の欧州チャンピオンズカップ時代に1978一79年シーズンに1FCケルン(西ドイツ=当時)の奥寺康彦選手がゴールして以来の快挙という。


稲本、「ホールディングMF」で安定 分けでも監督絶賛

進化する稲本、ブラジル伝統の”ボランチ”から、イングランド伝統の”センターハーフ”へ大変身。

ブラジルの伝統のボランチ・システムは、1960年代から1970年代のペレ時代に完成された4一2一4システムがその基礎となっている。

この4一2一4システムは私が中学生の頃やっていたもので、フォワードの4人は、両サイド”ウィング”と内側に陣取るために”インナー”と呼ばれたツートップで成り立つ。そして中央から後方までフィールドをくまなく走り回る”汗かき役”のハーフが2人。そして”バックス”と呼ばれたディフェンダーが横に4人が並ぶというシステムだった。ブラジルはこの中央のハーフを”ボランチ”と伝統的に呼んで来たわけだ。

これが元になり、両サイドウィングはディフェンスも行うように中央に下がると、前線にツートップだけを残して戦う4一4一2システムとなる。この場合には、相手に合わせて、中央のハーフ4人がボックス型に並んだり、1ボランチのダイヤモンド型に並んだりしていつも変化する。

いずれにせよ、ブラジルは左右対称形の2ボランチを好む傾向がある。

一方、イングランド伝統のセンターハーフシステムは、4一3一3を基本に取る。フォワードは、左右のウィングと中央にトップ。ミッドフィールダーは、左右のサイドハーフと中央のセンターハーフ。そして4人のディフェンダーが横に並ぶというシステムだ。

左右のサイドウィングは徹底してセンタリングを中央のトップに合わせる。一方、中央に陣取ったセンターハーフはコート全体の中央を死守し、周りの選手達をいつも支援し中央から指揮を執る。そして攻撃では中央でボールをもらい攻撃の起点を作りサイドにボールを振る。守備では相手のボールの供給源であるセンターハーフの司令塔を徹底的にマークする。これが、私が高校時代にやっていたシステムである。

この4一3一3のフォワードのトップ1人が下がると、4一4一2システムとなる。この場合には、ミッドフィールダーは4人がダイヤモンド型になる。下がり目のトップが前のハーフとなり、中央のセンターハーフは1ボランチのような役割となる。この下がり目の後ろに引きぎみのセンターハーフをホールディングミッドフィールダーと呼んでいるらしい。

いずれにせよ、イングランドは、役割分担がはっきりし、全員で攻撃し全員で守るというのが好みである。

ドイツのコンチネンタルスタイルは、このイングランドスタイルに加えて、ディフェンダーの4人がダイヤモンド型(あるいは平行四辺形型)になり、中央に長身選手を起き、その後ろの最後方の1人がリベロの役割をこなすのが好きである。攻撃ではロングボールやフライではなく、徹底的にグラウンダーのボールで足下でプレーするのが特徴である。

ボランチとセンターハーフ(ホールディングミッドフィールダー)はこんな感じの違いがある。

稲本選手は、イングランドに行ってこのセンターハーフのプレースタイルを身に付けたということらしい。今のオシム・ジャパンにはミッドフィールダーらしいミッドフィールダーが育っていないので、ぜひ稲本選手には頑張ってもらいたいものだ。
2006/09/13のBlog
笑いは百薬之長。せち辛い世の中には笑いが必要。以下はジョーク。本気にしない事だよ。

【田舎に住む世界的な学者】

 日本のとある田舎に世界的に著名な学者が住んでいるというので、それを知ったマスコミが取材に行った。

 記者はまずこう聞いた。
「先生は、田舎に住んでおられますが、それはなぜ?」
 学者はこう答えた。
「地球人が地球だけに住むから地球が見えないように、人が都会に住むから都会のことが分からなくなる。遠くから見れば、普段見えないものが見えるようになるものだ。」
 次に記者が聞いた。
「先生はどうして田舎の研究者であり続けるのですか?」
 すると、その学者は突然、ペレルマンが100万ドルを見るような目つきになって、こう答えた。
「教師はバカな人に対して忍耐強くないといけない。しかし、私はバカなやつが大嫌いだ。それゆえバカには忍耐がない。だから教師にはなれない。」
「理科の先生は何が主流のアイデアか見積もる。いつも自分のアイデアより他人のアイデアが大好きだ。しかし、私は主流のアイデアや他人のアイデアには興味がない。だから、理科教師にはなれない。」
「大学教授は研究と称して研究費を使うのが仕事だ。しかし、私は買い物は嫌いだ。だから大学教授にはなれない。」
「政治家はウソがつけないと失格だ。しかし、私は嘘つきが大嫌いだ。だから政治家にはなれない。」
「官僚は国と国民の間であいまいに生きるのが仕事だ。しかし、私はあいまいなことが大嫌いだ。だから官僚にはなれない。」
「起業家は社会で儲けてその金で豪邸に住み、いい女を囲い、御馳走を食うのが夢だ。しかし、私は豪邸もいい女も御馳走にも関心がない。だから起業家にはなれない。」
「サラリーマンは人に仕えるのが仕事だ。しかし、私は人ではなく神様に仕えている。だからサラリーマンにはなれない。」
 記者はだんだん心配になってこう聞いた。
「先生、それでは先生は生きていられなくなってしまいますよ。どうやって食べるのですか?」
すると、学者は、茸狩りが趣味のペレルマンがポアンカレ予想を研究した時のような顔つきになってこう言った。
「だから、私は、田舎で何を食ったら生きていけるか研究しておるのだよ。」
 記者はこう思った。
「やはりこの学者の言っている事を理解するのは、ペレルマンを野原で見つけるようなものだ。」
[ 11:02 ] [ 社会 ]
消費者金融 自殺で保険金、年3600件

「消費者金融大手5社が05年度に受け取った死亡保険金は3万9880件で、うち1割にあたる3649件の死亡理由が自殺だった」というニュースである。

この場合の保険とは、「消費者信用団体生命保険」=”消費者金融会社が保険料を負担し、借り手が死亡すると消費者金融に300万円を上限に保険金が支払われる”というものである。

この”聞き取り調査”は、アイフル、アコム、プロミス、武富士、三洋信販の消費者金融大手5社のみ。だから無数にある悪徳消費者金融まで含めれば、数十万、数百万人にも及ぶかも知れない(ところが、昨今の芸能界では、こういったサラ金のCMが若手女優やモデルの登竜門となっているらしいから困ったことだ)。

いやはや在日朝鮮人が作った「パチンコ業界」や「ラブホテル業界」もすごいが、この「消費者金融業(サラ金)」もすごい。竹内力の「ミナミの帝王」という”悪徳高利貸”を描いた映画もあるが、まさに映画以上の現実というところだろう。

もし伊丹十三監督が御存命なら、”悪徳高利貸”の脱税事件を追う「マルサの女4」も作れたかも知れない。

ほんと日本はどうなってしまったのか。

薬を作れば、”薬害”ばかり(薬害、薬害、薬害 )。本を作れば、”本の捏造”(”下流社会”を煽る新たな階層の出現? )。研究論文を作れば、”論文捏造”で自殺者まで出る(若手生物学者”K”の自殺 )。天下り役人が校長に天下った徳山高専では、”美人女学生殺人事件”( 繰り返される「警察ミス」:その原因はどこにある? )。ボクシングをやれば、”チャンピオン捏造”だ(ランダエタ戦の”八百長疑惑”:ちまたの声、声、声 )。おまけに、サッカー日本代表は”小学生レベル”と来た(オシム日本代表イエメン戦もていたらくのそのわけは? )。

勢いついでに付け加えれば、日本の政治家も2世、3世ばかり。それも”全身入れ墨大臣”の孫の小泉純一郎が首相になったかと思いきや、今度は”大平洋戦争A級戦犯岸信介”の孫の安倍が首相になるというのだから、アメリカのジョージ・ブッシュファミリーを少しも非難できない。

この安倍さんが唱うのが「美しい国」だというから摩訶不思議。上の日本のどこが”美しい”のだろうか。”アグリーな国”そのものだ。”美しさ”というのは、”清さ”とほとんど同じ意味である。清らかな世界が美しい世界なのである。清らかな女性は女神のように美しい。清らかな男性は神様のように頼もしく見える(早稲田実業の斉藤投手を見ればその意味が分かるだろう)。安倍さんには、ぜひ「清い国」(=清潔な国家)を目指してほしいものだ。

そんなわけで、最近感じるのは、在りし日の古き良き日本を思い出す”サウダーデ”のみ(官僚と公家 )。

とはいうものの、本当にこの国に”清らかな良い時代”があったのだろうか。もしあったとすれば、明治維新後の約10年、そして戦後の約10年くらいだったのではないか、と私は考えているが、果たして本当のところはどうだったのだろうか。

いやはや、先行き暗い日本の姿である。
狩野永徳の屏風絵か 京都で発見、来秋に公開

”織田信長や豊臣秀吉に重用された安土桃山時代を代表する絵師、狩野永徳(1543-90)の作とみられる屏風(びょうぶ)絵が新たに見つかった。”という。

これを発見したのが、狩野博幸同志社大教授(日本美術史)。同じ”狩野”姓の人物。果たしてこの人物は、狩野永徳の”子孫”なのだろうか? 私は、こっちの方に関心がある。


ところで、その屏風。「紅葉の下で酒宴を楽しむ武士たち(右隻部分)」というのがあるらしいが、安土桃山時代から日本の武士は、酒宴を楽しんでいたようだ。

しかし、この時代には、自動車はなかったから良いものの、もし自動車で”飲酒運転”するのだけは勘弁してもらいたいものだ。
2006/09/12のBlog
[ 22:36 ] [ 大学・大学院 ]
阪大が米誌に発表の論文取り下げ著者の一人が自殺

によると、大阪大学の大学院生命機能研究科(大阪府吹田市)で非常に”痛ましい”出来事が起こったようだ。

そこから出された「染色体の複製にかかわるたんぱく質」に関する論文を、内容に不備があったなどとして取り下げていたのだが、大学側はデータ改ざんなどの問題がなかったか調べているうちに、内部告発した非常に優秀な若手研究者が自ら命を絶った。

空念仏に終わった大阪大学総長見解 によれば、その問題の論文とは、右のものである。


この事件に関してはかなり多くの日本の生物関係の研究者がイニシャル”K”で表記して、事件のあった阪大では箝口令(かんこうれい)がしかれて、決して外部に他言するなという状況らしい。

私がネットサーフィンで調べたところでは、その”K”という人は、その論文の第2著者である川崎泰生(Kawasaki Yasuo)という人物であった。


一方、この論文の指導者と見なされるもっとも重要な人物は、その論文の最終著者である杉野明雄教授という人物らしい。すでにこの人物に関する大学内のホームページはことごとく削除されている。(例えば、細胞ネットワーク講座 染色体複製研究室

この人物の研究テーマに関しては、例えば、研究代表者氏名 杉野 明雄 研究組織 人 5がある。さらに、会報NO.68(2001年2月)によれば、この人物はなんと「日本分子生物学会」の”第23回年会長”だったというから驚きである。(杉野明雄


要するに、結論から言えば、この”捏造論文”事件に関して、その内部告発した川崎泰生氏が相手にしたのは、自分自身の研究分野である分子生物学会の元会長さんだったということである。これは、実に”不幸”で”最悪”なことだった。これでは、自分の将来に悲観してひどく憂鬱になるのも当然というものだろう。

正義観に貫かれて内部告発した正義の志士が、自分の将来を悲観して自殺してしまい、それをやらせた元会長さんが組織に守られてぬくぬくと生きているというのではまさに本末転倒。さすがに”白い巨塔”の本家、大阪大学というものである。

この若手研究者にかかったお金(税金)はいったいどれほどか。それを見積もっただけでもいかに損失か分かるだろう。かつて私が拙著「何が科学をつぶすのか?」でもこういった問題を論じたが、大学院生からポスドク(博士研究員)になるだけでも、少なくとも2000万円は下らない税金がこの1人に投入されている。助手にまでなれば、その数倍以上だろう。それが、こうしてろくな論文を作らないでさらに自殺してしまうとなれば億単位の損失ということになろう。

私はただただ”怒り心頭に発する”思いである。

さて、お亡くなりになった川崎泰生氏の生前の発表には以下のものがあった。
細胞の増殖と分化:細胞の運命のキーファクターを探る

「真核生物の染色体DNA複製とその制御一出芽酵母タンパク質抽出液を用いた試験管内複製複合体形成の分子ダイナミズム一

真核生物は、個々の細胞が持つ長大なゲノムを過不足なく複製させるために巧妙な制御機構を持ち、その仕組みは酵母からヒトまで高度に保存されていることがわかってきている。染色体DNAの複製開始反応は大きく2つの段階で制御されている。すなわち、ゲノム上に散在する複製開始領域(オリジン)に複製前複合体(pre-RC: pre-replicative complex)が形成される段階とS期CDK、Cdc7/Dbf4と呼ばれる二種類のタンパク質リン酸化酵素の働きによってpre-RC近傍に複製フォークが形成される段階である。前者は細胞周期のM期の終わりからG1期にかけて、後者はG1後期からS期初期に起こる。Pre-RC形成には14種類以上のタンパク質が関与し、複製フォークは3種類のDNAポリメラーゼを含む30種類ものタンパク質が含まれると考えられており、そのほとんどが生育に必須であることから、DNA複製の全体像を知るには個々のタンパク質の役割を解明することが必須である。我々は、これらの制御機構を分子レベルで解明するために出芽酵母を用いて研究を行っている。1)pre-RC形成における構成因子の分子動態の解析、および、2)Cdc7/Dbf4の複製オリジンへの結合とそのリン酸化ターゲットの解析、についてDNA複製に欠損を来す条件致死変異株を用いた分子遺伝学的な解析と、同調した細胞の粗抽出液を用いることにより複製オリジンDNA上での複合体の集合・離散の解析を行ってきた結果を報告したい。これらの研究を通じて、複製オリジンにおける複合体形成は段階的にかつダイナミックに行われていることを紹介し、DNA複製制御の真核生物共通の側面と酵母に特異的な現象について考察したい。」

御冥福を心よりお祈りしたい。
パチンコ会社の巨額脱税、経営者一族逮捕金塊も隠す

いやはや、今は亡き伊丹十三監督の「マルサの女」や「マルサの女2」のような、極めて”えげつない”お話である。

「マルサの女」では、”ラブホテル経営者”の脱税に対する戦いが、そして「マルサの女2」では、”地上げ屋や宗教法人”の脱税に対する戦いが描かれた。

ということは、今回の”パチンコ屋経営者”の脱税に対する戦いは、「マルサの女3」というところか。伊丹監督には、ぜひ作って欲しかった作品である。

家の中に400kgの”金塊”まであったというのは、まさしく「マルサの女」とそっくりだ。これで、愛人宅に実印やら認印やらがわんさか見つかり、それを愛人が”陰部”に隠したり、あるいは、重要書類を社員が”飲み込んだり”したら、映画そっくりの展開ということになる。

はたして現実はどうだったのだろうか。

それにしても、100億円も良くため込んだものだ。同社代表取締役の崔大秀容疑者(69)というのは、その名前からしていわゆる日本人ではなさそうだ。いったい何人なんだろうか。


ところで、日本に根深く”巣食っている”「パチンコ業界とはいったい何か」ということを鋭く突っ込んだものに、「パチンコ業界の成り立ち」というものがあった。

これによれば、こうある。

”パチンコの原型は大正13年にヨーロッパから日本に伝わったウォールマシンが原型とされています。一銭硬貨をはじき景品を獲得する子供向けゲームとして普及し、昭和5年にパチンコ店第1号が誕生し、その後昭和12年に戦時特別措置令で新規営業を禁止されるなどしますが、戦後復活します。
 それまでのパチンは細々と景品好感していた庶民の娯楽でした。ところが敗戦、後駅前の一等地を襲撃・不法占拠した朝鮮人が、米軍から横流しされたタバコを景品にしたことで、それを渇望していた庶民を急激に魅了します。
 その上戦勝国民を自称した彼ら朝鮮人は、バックの朝鮮系ヤクザ共々“不逮捕特権”を武器にして、公然と換金行為まで行って賭博産業としてぼろ儲けし始めたのです。”

パチンコとは、そもそもヨーロッパから伝来したウォールマシーンが元で、子供の”お遊び”(要するにゲーム)として出来たものだった。要するに、祭りの時に良く見かける玉当て鉄砲のような景品交換するゲームだったのだ。それを、戦後、在日朝鮮人が景品をお金に変える賭博性を持つ非公式のギャンブルにすり替えたというわけだ。

確かに、いわゆる”闇市時代”だったわけだから、日本人でも生き延びるのは大変。だから、まして強制連行されて日本に住まざるを得なかった在日朝鮮人たちにとっては生活の糧としてはいたしかたなかったのだろう。焼肉店やキムチ店あるいはパチンコ屋あるいはラブホテル経営として生きる事は当然であったろう。そのことを否定することはできない。

しかし、問題は、在日朝鮮人も日本人も戦後復興を果たしたにもかかわらず、そしてパチンコ業界(やラブホテル業界)は大成功したにもかかわらず、この事件のように戦後60年間まったく税金を支払わずに来た、あるいはずっと巨額の脱税してきたというのであれば、これは大問題であろう。そして、その利益が今の北朝鮮に流れ、キムジョンイルを潤し、日本人拉致に使われてきたとすれば、これこそ大問題と言えるだろう。

つい最近、大阪出身のプロボクサー、亀田一家のタイトルマッチでパチンコ業界のCMがまるでテレビをハイジャックしたような作りになって大問題となった。(「”八百長一家は永久追放しろ! 日本の恥だ。” 」、「ランダエタ戦の”八百長疑惑”:ちまたの声、声、声 」参照)。TBSは、パチンコ業界の下僕となったわけだが、そのパチンコ業界のパワーの源が実は巨額の脱税だったという事かも知れない。

なるほど、こういう観点で見れば、背後に親方日の丸ではなく、親方”パチンコ業界”をつけたわけだから、どこぞの”つっぱり”のように威勢が良いわけだ。要するに、タイトルマッチの審判も”ウソジャッジによる”不正、タイトルマッチの資金も”脱税による”不正だったということだろう。

それにしても、マルサも警察も日本国も在日朝鮮人が作った”パチンコ業界”をあまりにのさばらせ過ぎていないだろうか。この数十年でたった1度の”脱税”検挙ではおそまつすぎる。それゆえ、「パチンコ業界の成り立ち」の著者が”提案”するように、”パチンコ税”を作るというのは、非常に好い事であろう。

いずれにせよ、すべての在日朝鮮人がこのパチンコ業のように見られてはたまらないはずだ。ちゃんとした在日朝鮮人や韓国人の方々もたくさんいるはずだ。大阪朝鮮高校のように、すばらしいサッカーチームを作っているところもある。Jリーガーにもたくさんの在日朝鮮人や在日韓国人出身の名プレーヤーがいる。彼等もいっしょに見られるのは嫌だろう。

こうしたことからも、日本人であれ、在日朝鮮人や在日韓国人であれ、何人であれ、”ヤクザ的”な業界には、もっと厳しくあたるべきだろう。

果たして日本政府はどこまで本気なのだろうか。
[ 16:10 ] [ 管理人から ]
いやー不思議なこともあるものだ。つい先日9・11のことを書いたこの時期にちょうどこの記事が偶然にも911番目のブログ記事となった。また、我が家のホームページのヒット数も9月11日にちょうど115911だった。偶然というのは面白い。
[ 08:37 ] [ テクノロジー ]
容量最大のメモリー開発 回路線幅は毛髪の3千分の1

いやー、韓国ハイテク企業の”逆襲”。日本が、ホリエモン騒動に見るように、株価の変動に一喜一憂してM&AやTOBに奔走している間、お隣の韓国企業はいつか日本のメーカーを追い越してやろうと密かに頑張っていたようだ。

韓国企業の電機大手サムスン電子が、記憶容量が32ギガビットで量産品では世界最大容量となるNAND型フラッシュメモリー(電気的に一括消去・再書き込みできるメモリー)を開発したというニュース。

こんな小さなメモリーカードでも、64ギガバイト。映画なら40本、新聞なら400年分の情報を記録できるというから驚くばかり。

これから来るユビキタス社会の実現を大きく前進させるはずだ。が、こんなカードがあらゆるものに装着させるなら、もう直あらゆるものに記憶媒体が含まれて、どんな物体にもモニターされてしまう時代がやってくることだろう。パソコンもますます小型化するだろう。

ところで、このサムスン電子にも、この技術を開発した天才的技術者がいるはずだろう。これで将来大儲けした場合、日本の中村修二博士や舛岡富士雄博士のように、後々その発明者とこの企業で争うというようなことが起こらないのだろうか。ぜひ日本の真似にならないように、開発者には厚遇が望まれる。

また、フラッシュメモリーは、舛岡富士雄博士の発明というが、特許使用の問題はどうなっているのだろうか。舛岡富士雄博士にローヤリティーが入るのだろうか。

いずれにせよ、フラッシュメモリーにある

”記憶セルを接続する構造によりNAND型フラッシュメモリとNOR型フラッシュメモリなどに分けられ、ともに元東芝の舛岡富士雄が発明した。その後インテルの開発により、NOR型が先行して市場に広がった。NAND型は、高集積化に向いていて、書き込みが高速な利点があるが、1バイト単位の書き込みはできず、ランダムアクセス読み出しが低速である欠点を持つ。NOR型は、1バイト単位の書き込みが可能で、高速にアクセス出来る利点があるが、書き込みは低速で、大容量化に劣る欠点を持つ。どちらの型も、数キロバイト数十キロバイトのブロック単位でしか消去は出来ない。”

という部分を大幅に改良する方法を発見したということなのだろう。
2006/09/11のBlog
[ 22:19 ] [ 昔のエッセイ ]
”2001年9・11同時多発テロ”からちょうど5年経ち、「追悼」番組や「追悼セレモニー」が行われたようだ。

朝日新聞にあった落合早苗氏の「追悼 『9一11』:今こそチョムスキーのインタビュー集『9一11』を読み返したい。」でもこれを追悼している。

そこで、私も個人的に犠牲者や被災者を「追悼」する意味で、ちょうどその当時私が持っていた掲示板(kazumoto's scientific BBS)に書いたことをいくつか再度ここに紹介したい。もう5年前のことである。

一番最後の【フラーの言う在宅勤務の重要性とアフガン問題の根源】と落合早苗氏の記事を比べれば、チョムスキーの言ったことは確かに間違ってはいないのだが、誤解を招く事が分かるだろう。そもそもアフガン問題そのものを作ったのは、第2次世界大戦後の米ソだったからだ。ビンラディンやアルカイーダそのものを育て上げたのはアメリカだったのであり、必要がなくなれば臭いものにはフタをしろ式に、敵にしたてあげて叩き殺せば良いという卑劣なやり方が彼等の反感を招いたわけである。しかし、無知な大半のアメリカ人は今もってそういうことを知らない。そういうことを知っていたのはフラーくらいのものだ。ここにアメリカ人の悲劇がある。



【アメリカがたいへんなことになってしまった。】2001/09/12 00:18

NY世界貿易センターツインビルがハイジャック飛行機の突撃を受けて
倒壊してしまった。ペンタゴンも同様の攻撃を受けて炎上中。
人気番組「未来日記」の想い出の場も失われた。
まるで映画シーンを見ているようだ。信じ難い暴挙である。
どれほどの犠牲者が出ているか分らないが、犠牲者の方々の御冥福
を祈ります。


【ブッシュ大統領の量子ビンラディン】2001/09/30 11:03

笑いは百薬之長。緊張した世界にはジョークが必要。以下はジョークです。
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アフガニスタンの山脈の地下基地に閉じこもったテロリストの
親玉、ビンラディン。ツインタワー爆破飛行機自爆テロの復讐に
燃えたアメリカのブッシュ大統領はやつを何としても捕まえ、
法の裁きを受けさせようと考え、"dead or alive"、やつを
捕まえると宣言した。この宣言の背後で次のようなやりとりが
秘密裏に交わされたと聞く。

ブッシュ大統領はアメリカの科学技術の高さを思い知らせるために、
現代科学の粋を使って、やつの生死を確かめてやろうと目論んだ。
そして、アメリカのあるユダヤ人量子物理学者に聞いた。
「現代科学でやつが生きているか、死んでいるか確かめられる方法
があるかい?」
するとその量子物理学者は言った。
「はい大統領、ありますとも。彼と非常に『もつれた』関係にある
人間を捕らえることです。」
ブッシュ大統領は思った。
「なに『もつれた』関係にあるやつ?確かにビンラディンはオマル氏の娘を嫁にして、
大変『もつれた』関係にある。」
ブッシュ大統領が聞いた。
「たぶんそいつはオマル氏だろうが、どうしてそれで分るんだ?」
量子物理学者は答えた。
「はい大統領、もしオマル氏を捕まえてることができると、オマル
氏が生きていれば、ビンラディンも生きている、そしてオマル氏が
死んでいれば、ビンラディンも死んでいる。なぜなら、アフガニス
タンの地下基地でやつらは共に生きたままで『もつれた』関係を
作っていたからです。」
ブッシュ大統領は思った。
「それには結局オマル氏を捉えなくてはダメだ。やつも捕まえて
いない以上この作戦は使えない。他に方法はないものか?」
ブッシュ大統領は聞いた。
「じゃ、地下基地にいるビンラディンは生きているのか死んでいる
のかどっちか分るかい?」
量子物理学者は答えた。
「はい大統領、ビンラディンの波動関数は、『生きている』状態
と『死んでいる』状態の重ね合わせの状態でできていると考えられ
ます。」
「ですから、何らかの観測行為を行わない以上、どちらとも
言えません。観測しないと波動関数の収縮が起こらないからです。」
そこで量子物理学者の提案にしたがって、ブッシュ大統領は秘密裏にまず
オマル氏とビンラディンのそれぞれを観測するための偵察機を2基送った。
しかし、これらは撃墜されてしまった。
これに業を煮やしたブッシュ大統領は例の「生きていようが死んで
いようがビンラディンを捕まえてやる。」と宣言したというわけだ。

今ブッシュ大統領が研究させているのは、「量子わら人形作戦」。
ビンラディンと「もつれた」関係にあるものをとらえ、その波動
関数を変化させることにより、その結果親玉ビンラディンの
波動関数を変化させようというもの。
つまり、ビンラディンと「もつれた」わら人形に釘を刺すことに
より、ビンラディンに痛みをもたらす「量子わら人形作戦」。
「痛み」を瞬時に光速より早く「量子テレポーテーション」させて
やっつけようという作戦。はたしてうまく行くか。


【なぜアメリカがテロを受けるのかの答え:巨大資本主義が第x次世界大戦を生む】2001/09/30 11:03

1)昨夜のNHKスペシャル「水を金に変える男」は、先進国に住む人間必見
の番組だった。ここで取り上げられているアメリカ人のビジネスの
やり方に実は今回の無差別テロをアメリカがなぜ受けるのかという
本質があるからだ。

この「ウォータービジネス」は、コカコーラなどアメリカの大手
資本がアメリカ国内や諸外国水の源泉を所有し、いかにして巨大
米国資本が世界のウォータービジネスを乗っ取って行くかを如実
に示している。
あ)まず、「国際標準の基準」をインド政府に採用する
ようにアメリカの専門家にインドでセミナーを開かせ、いかに
インドの水が危ないかあおる。
い)そして、インド政府が基準を作り発動する。
う)すると、インド人経営の中小零細企業は、アメリカの高度設備
を持つ巨大資本と対決し、負ける。
え)今度は、競争に負けたインド人の中小零細企業をアメリカの
巨大資本が買い漁り、インド中をコカコーラの会社にしてしまう。
という筋書きだった。そして、インドにこの水質基準を設定させる
ためのフィクサー役とインドの零細企業をつぶし今度はそれを買い
漁る役が同一人物であるというのが傑作。これをインド人は全く
知らないというのがみそ。もし知ったら何が起こるだろうか?
結局、インド人は自分の足下の水を買わされ、その利益はアメリカ人を
潤すはめに陥る。

こういうやり方はインサイダー取引の典型なので、アメリカ国内では
違法行為であるが、まだ法律のない発展途上国ではぬけぬけとそう
いう違法行為を行っても平気。そして、「それが経済さ」とうそぶく。
これが典型的な20世紀(前半)型巨大資本のやり方。

2)実は、20世紀の前半に欧米がイスラム社会の石油源に対して行った
のがこれと全く同じやり方だった。まだろくに社会構造も国の自覚も
なかったイスラム社会で(というのも基本的にイスラム社会は国とい
うよりはイスラム教徒であるかどうかが決めてだから、あまり国とい
う意識は欧米ほど強くない)、石油源を自国のものにすべく、各国が
利権争いした。そして、気が付いたら、アラビア人、イラン人、
イラク人などの自分の住んでいる地の地下にある石油は全部欧米
人のものになっていた。それを欧米人は、「それが経済さ」とうそ
ぶいた。結局、神からもらった自分の石油は先進国を潤すだけに
変っていた。先進国からもらえる仕事は奴隷労働のような肉体労働
だけ。

はじめてリビアの地でこの構造に嫌気がさしたのが、カダフィ大佐。
彼は国内の石油源を全部国有化するために占拠した。すると欧米人
は彼をテロリストと呼んだ。イランでもイラクでもエジプトでも
どこでもいっしょ。現地の人間が自国の資源を自国民のものにする
度に欧米はテロ行為と呼んだ。

3)実は第1次世界大戦も第2次世界大戦もまったくいっしょ。
第1次世界大戦は、第0次世界大戦(俗に言うスペイン継承戦争)
にで遅れたロシアとドイツが英米独占の世界市場に挑戦したもの。
一方、第0次世界大戦は、スペインが奴隷貿易で世界市場を独占
したものを英米が挑戦したもの。
第2次世界大戦は、欧米とロシアが独占した世界市場に、極東の
日本と出遅れたドイツ、イタリアが挑戦したもの。
そして今回の第3次世界大戦は、世界市場に出遅れたイスラム社会
が欧米先進国に挑戦してきているもの。
そしてこの後は、第4次世界大戦は、出遅れた中国が挑戦してくる
だろう。そして、最後に第5次世界大戦は、一番出遅れたアフリカ
大陸が世界市場に挑戦してくるだろう。

挑戦する側は、国をあげての挑戦であるからクレージーになる。
国粋主義や原理主義や民族主義がはびこることになるだろう。
追い詰めれば追い詰める程クレージーになる。

4)世界平和を真に求めるのであれば、20世紀的な経済至上主義
を緩めること。また、至上独占を制限すること。アメリカは国内
に独占禁止法を明記しているが、他国には明記していない。
先のインド人の話で言えば、アメリカの巨大企業進出もあっていいが、
自国の零細企業も生き延びられるように、適度の基準にすること。
つまり、最高級、準最高級、高級、中級、低級、粗悪品などの
何段階かの品質に分けて、それぞれの値段の差別化を図る。すると、
アメリカ製品は最高級品、インド製品は中級品となり、相互に
共存可能となる。一気に巨大資本で独占すれば、いずれは敵を作り
テロ行為を受けるかも知れないと覚悟すべきだろう。イスラム社会
でアメリカが人気がないのは、イスラム社会はすでにアメリカの
石油巨大資本が何をやってきたか全部知っているということ。
今度はインド人もアメリカの水巨大資本が何をやったか理解すれば、
同じような事態になるかもしれない。資本主義のやり方は間違って
はいないが、そのやり方を間違え、あまりにえげつなくなると
歪みを生み、その結果報復を受けるということ。イスラム社会が
なぜブッシュ大統領の時で、クリントン大統領の時を狙わなかった
か その理由がこれである。リンカーン大統領やクリントン大統領は
苦学して成功した努力の人でイスラム社会も胸襟をゆるめる。
しかし、ブッシュ大統領はテキサス巨大石油資本の御曹子。
すなわち、イスラム社会全体の敵であるということ。たぶん、
ゴア大統領であれば、今回のテロはなかっただろう。アメリカ国民
ももう少しこういう世界事情を考えて大統領を選ばないとまた
犠牲が出かねないだろう。もっと注意すべきである。


【フラーの言う在宅勤務の重要性とアフガン問題の根源】2002/12/05 11:05

権兵衛のだんなさん

いやー、だんなもとうとうフラーの神髄を理解してしまったようですナー。
大変素晴らしい!

さて、おれは、1997年物理学会誌の会員の声というのに、インターネット
時代の研究と研究の意義っていう意見を載せたんだが、もう5年も前のこと
になるネ。これで、インターネット時代には、在宅研究や在宅で仕事する
ことが重要になるっていう話題だった。

最近ずっとここで述べてきたフラーの本にも、同じことが書いてあって
驚くのサ。それは、第6章のワールドゲームの350ページにある。
そこでフラーは次のような内容を述べている。

だいたいアメリカ人の60%は、真の富を生産していない仕事に従事している
らしい。たぶん、現在の日本人も同じようなものだろうサ。たとえば、
保険、監査人、銀行などの金融業界、アパレル産業や衣服装飾関係など。

そこでフラーは言う。

「大多数の仕事は、車で仕事先に行き、そこから帰宅する個人に1日34
ガロンを消費させている。それはつまり宇宙的原価計算では、1日につき
1人400万ドルの消費を意味する。(ちなみに、フラーの計算では
古代地球が作った石油を現在の技術で作るためには1ガロン100万ドル
かかるとしている。)」

そこで、フラーは実際に車通勤しない在宅で仕事する場合をコンピュータで
計算したようだ。そして、フラーは言う。

「コンピュータによると、真の富を生産しない労働者全員を在宅させて全額
給料支払うことが、惑星地球のエネルギー500兆ドルの節約に繋がること
は明らかである。」


まったくその通りですナ。真の富を生み出さない産業分野の職員は、全部
在宅にて仕事する。そうすれば、物凄い莫大なエネルギー消費が押さえられる
というわけダ。フラーの時代には、日本はバブル全盛時代であり、高度成長
の余波で、アメリカ全土も日本の不動産で買い尽くせると豪語した時代でも
あった。ましてや、今のようにインターネットも情報ハイウェーもなかった。
だから、その頃、フラーのアイデアはかなり荒唐無稽に聞こえただろうサ。
しかし、今現在フラーのアイデアをよく考えてみれば、もっとも自然な
発想、かつ合理的な発想であり、どこにも突飛なものではないことが分かる。


実は、権兵衛のだんなも語っていたように、明治初期に、勝海舟が戦争が
終わり用なしになってしまった軍人(侍)に、つまり、直接の生産活動に
従事しない侍達を静岡へ引っ越しさせて、生きるのに必要な給料だけは
支払ってやるが、何もしないで待っていろと在宅勤務(在宅侍)を命じた
というのも、実に理に適っていたわけですナ。結局、彼らは静岡の当時の
最先端産業であったお茶産業を生み出し、結局現代もそれが缶入りお茶
という形で復活しているというわけなのサ。

したがって、破たんした金融界の職員は役員も従業員も含めて、給料は
やるから何もするなと在宅勤務を命じた方が、わざわざ電車や車に乗って
会社にやってきて再び不良債券を増倍させることとくらべれば、ずっと
効果あるということだろうヨ。石油エネルギーを無駄に消費させないために
もその方が良いだろうヨ。

日本の病院は、風邪のように薬を飲んで家で安静にしていれば直るような、
たいしたこともない病気で病院へ来るために、逆に病院にいる他の健康人
まで病気を拡散させてしまうという有り様サ。わざわざインフルエンザを
病院で増やしているようなものなのサ。

同様に、人類の生存にはどうでも良いような職種のためにあまりに活発に
生活する人々がいるために、不必要な資源の枯渇と消費を招き、結果として
そのエネルギー源を力ずくで確保しなくてはならなくなっているわけだろうヨ。
そして、結局これが、南北問題、あるいは発展途上国の豊かさを阻害している
というわけなのサ。だから、先進国の人間が、虚栄心に富み、豪華な見てくれ
にうつつを抜かし、直接の生産活動から離れれば離れるほど、結果的に
途上国や第三世界の富を食い尽くすことになるというわけですナ。
そして、結局、第三世界から怨みを買うことになるわけサ。そして、この恨み
は根も葉もないと、無理矢理武力でおどすことになるという悪循環なんだろうヨ。

そこで、フラーは言うのサ。その悪循環を断ち切るためには、科学技術の
進歩あるのみ。そして、そのための障害になる精度は改善してゆくこと。
しかし、誤解しちゃならねーのは、科学技術の進歩と言う意味は、単に
企業社会を豊かにすることだと思っちゃいけねーっていうことサ。
民衆が豊かになるものでなくてはいけないんですナー。いやー、フラーは
深いですナー。


さて、話はノームチョムスキーの講演が映画になったという話題。これは、
アメリカの超一流の天才言語学者のチョムスキー博士が、アメリカのアフガン
政策を批判したという講演をドキュメンタリー映画にしたもの。ここ阿南で
は見られないが、東京では見られるようダ。この中で、チョムスキーは、

「アメリカはアフガンを攻撃するのではなく、アフガンに20年間のアメリカ
の政策の失敗のための損害賠償を行うべきだ。」

と言っていたのサ。

しかし、待ってもらいたい。実は、アフガン問題の根源についてフラーが
すでに1980年にクリティカルパスの中で書いていたように、この問題の
根源は、第2次世界大戦のさなかから始まっていたというわけなのサ。
つまり、ルーズベルト大統領とチャーチル首相の遠大な取り決めのために
起こった問題なのサ。そして、当時のイギリスの地理学の大家が、ソ連と
アメリカの地球支配にとっての分水嶺、あるいは関ヶ原(つまり、
ハートランド)はアフガンだと、アフガンの地球地理的重要性(つまり、
軍事戦略的重要性)に基づいて主張したことが根本原因なのサ。

だから、チョムスキーが言うようなこの20年間の話じゃねーていう
ことなのサ。戦後ずっとアフガンは、ソ連とイギリスアメリカの列強の支配
に甘んじてきたわけなのサ。もっとも、それはどうやら人類史上ずっと引き
続いて来ているようだがネ。

まあ、こんなわけで、フラーのクリティカスパスには、どういうわけか
現代世界で大問題になってきた話題の根源がその解決法とともに列挙されて
いるのだから、驚くばかりなのサ。ほんとフラーおじさんは、我々より
ずっと遠くを見つめていたのだろうヨ。

じゃ、またーね。
ガ大阪ユース、初戦黒星 高円宮杯全日本ユース選手権

U18の最強チームを決める今年度の高円宮杯が昨日開幕した。高円宮杯はワールドカップ方式で、予選リーグ上位2チームとワイルドカード3位内の上位4チームが決勝トーナメント進出を決める。

恐らく大本命は、昨年優勝し連破を狙う東京ヴユースだろう。東京ヴユースは、今年のU18の国際親善大会で4位入賞を果たした。この大会では、メキシコが2-1で優勝し、アーセナルが準優勝した。東京ヴユースは準決勝でそのメキシコチームとあたり、1-0だった。

他には、広島ユース、ガンバ大阪ユース、そして九州代表の東福岡高だろうか。

今後の熱戦を期待したい。

A組 星稜高(石川)21銀河学院高(広島)、ルーテル学院高(熊本)22青森山田高

B組 札幌第一高21ガ大阪ユース、湘南ユース41高知高

C組 広島ユース53鹿島ユース、東福岡高50神戸ユース

D組 静岡学園高21滝川二高(兵庫)、作陽高(岡山)10大分ユース

E組 広島観音高11盛岡商高、東京ヴユース31旭川実高(北海道)

F組 名古屋ユース30水橋高(富山)、横浜ユース52初芝橋本高(和歌山)
2006/09/10のBlog
[ 19:35 ] [ 科学ニュース ]
写真:町中で逃げ回ったイノシシ


写真:イシカワガエル


写真:田んぼに紛れ込んだオットセイ
写真:絶滅種指定のヤンバルクイナ
2006/09/09のBlog
ノーベル生理医学賞の呼び声高かった、”丸めがね”の江橋節朗博士がお亡くなりになっておよそ2ヶ月経ったが、昨日偶然博士の”カルシウムと私”という”自伝的エッセイ”を見つけたので紹介させてもらおう。きっと若い研究者や研究者というものをまだ良く知らない人々の参考になるだろう。また、「生命」を研究している人々も何か”引っ掛かる”面白い視点がこの短いエッセイに含まれている事を感じるに違いない。

エッセイの目次は以下のようなものだ。

【プロローグ 皆は腹をかかえて笑った。】
【一高精神 今を燃やし尽くす】
【電気生理から生化学へ】
【リップマン先生】
【ロックフェラーのある真夜中】
【生命の起源とカルシウム】


【プロローグ 皆は腹をかかえて笑った。】の中で、私が特に面白いと感じたのは、やはり、1962年の”筋収縮”の国際会議の場面である。

座長のジーン・ハンソン博士(筋肉の滑り説をH.ハックスリーとともに唱えた)は、当時筋収縮にはカルシウムが関わっていると発見したばかりの江橋博士と協力者でジーン・ハンソン博士の娘であるアンネマリー・ハンソン博士を「討議の結果、カルシウム説は明らかに否定された」と言って小馬鹿に笑い者にしたという。この場面をH・ハックスリー博士は、こう記録した。

“座長のハンス・ウェーバーが「討議の結果、カルシウム説は明らかに否定された」と宣言するや、娘のアンネマリー・ウェーバーは激昂して絶叫し、エバシは日本語でわめいた。皆は腹をかかえて笑った”

ところが、江橋博士に言わせれば、

”アンネマリーが激昂して絶叫したのも本当だし、私がわめいたのも本当である。しかし、いかに興奮したとはいえ、日本語を使うはずがない。私の英語が誰も理解できなかったのである。”

というように、欧米人には”純”日本人の話す英語は、英語に聞こえない。これは非常に良くある事で、シラブルにあいうえおの母音が入り過ぎて、欧米人には別の言葉に聞こえるからだ。


次の【一高精神 今を燃やし尽くす】の中で特に面白いのは、戦前の「旧制一高」の”バンカラ”(野蛮なカラーあるいは野蛮な柄)のことだ。

旧制一高とは、戦後の東大駒場の教養部の前身である。一高を卒業して、帝国大学であった京大や東大に進学したという当時の”超エリートコース”だったわけだが、この一高は全寮制(この寮が東大駒場の寮として残った)で、その寮歌のさわりがこんなものであったというのだ。

「この世のいのち一時にこめて三年をたゆみなく、淋しく強く生きよとて」

解釈すれば、こういう意味であるだろうか。

”この世で自分の人生を一瞬一瞬を全力で生き、駒場寮の3年間を継続的に、孤独に耐え、力強く、有意義に生活しようとして”

当時の一高では、「哲学と小説、自然科学では数学のみが読むに値する書物」とみなされ、「それ以外のこと、とくに学校の勉強は、”俗物”のやることとして侮蔑の対象」となり、「今という時を燃焼し尽くすことが一高のモラル」であり、「場合によってはそこで人生を終わることさえ理想とされた」という。それゆえ、「東大に行くことも堕落だ」と見なされたのだ。

”西洋的な教養を基盤にしながら、一方で文武両道を賞揚する、今の言葉でいえば保守反動と言ってもよいような気風、これが一高独特のバンカラであった。”

と江橋博士は当時を振り返った。

戦前の東大(一高)生は、”文武両道のバンカラ”精神に裏打ちされた教育が行われていたのである。

この話は、大分前に私が紹介した柘植俊一博士の「反秀才論」の話とも”見事に”一致している。柘植先生は、学会で柘植先生に陰湿なイジメを繰り返す当時の流体力学の権威を駒場の帰り道で柔道の投げ技で側溝に叩きつけたのであった。先をも恐れる事なく、自分の正義感で対処する様こそ、まさに「そこで人生を終わることさえ理想とされた」旧制一高の心意気だったのだ。

ところがどうだ。70年程経った今の受験生たちは、「ドラゴン桜」のお話を真に受け、「バカやブスほど東大へ行け」などとほざいている始末である。「東大に行くことも堕落だ」と見なされた時代とは偉い違いと言えるだろう。

その次の【電気生理から生化学へ】の中で、研究生活開始時期の話が続く。「平滑筋の電気生理」、「ホジキン(イギリス)のナトリウム説」、「セント=ジェルジの『筋収縮の科学』」の話がでるが、中でもホジキン理論を学んですぐに、江橋博士はこう見抜いたところが非凡であった。

”「世の中には及びもつかない人がいる」とショックを受けた(この時の共著者はカッツであったが、この説はその後A.ハックスリーの協力で完成される。A.ハックスリーは前出のH.ハックスリーとは独立に滑り説を唱えた)。すぐさま熊谷先生の部屋に行って、「電気生理は終わりました。もうあの仕事はやめます」と言った。先生は黙って上を向いておられた。”



次の【リップマン先生】では、筋収縮研究で壁にぶちあたっていた江橋博士がアメリカ留学した時の話が紹介されている。「ATPが代謝の世界の通貨である」という事実を発見したリップマン博士のところに留学した。

ここで紹介されている「リンゲルの話」が面白い。極めてセレンディピティーに満ちた話である。

”1883年、蛙の心臓を取り出して食塩水中に吊して、その収縮を見ていたリンゲル先生は、ある日小使いが休んだので自分で食塩水を作る羽目になった。ところが、調べたところ、いつもは収縮してくれる筋がその日に限って、ちっとも縮まない。小使いが蒸留水のかわりに水道水を使っていたのだとわかる。そこでリンゲル先生、水道水を分析したところ、カルシウムを含んでいた。蒸留水にはカルシウムを加えると筋はちゃんと動いた(この話は昔の人は知っているが、今は生理学が不評で、誰も言わなくなった)。”

リップマン博士は、「筋収縮のカルシウム説」に批判的だったが、江橋博士がそれをしたいというとこんなふうな応対だったという。

”「頭をたれてもぐもぐと遠慮がちにしゃべり、そのうち声が次第に小さくなり、やがてはにかみのうちに消えてしまう」というような人だったが、どのような発見も彼の枠組みの中に取り込んでしまうようなスケールの大きな学者だった。そんな洞察力のある大学者でも、カルシウム説には否定的だった。筋収縮の問題に絶望して別の研究をしたいと申し出た私に、リップマン先生は弛緩因子は面白いテーマだから続けるようにとの返事。そこで「カルシウムが収縮弛緩に関係していると思う」と言うと、「私はそうは思わない。が、したいようにしなさい(I don't think so, but you may do it)」と言ってくれた。リップマン先生が、諦めかけていたテーマを続けさせ、その上で自由に研究させてくれなかったら、私のあの「発見」はなかったと思う。”

果たして、今の世界にこのような偉大な学者がどれほどいるか。日本ではめったにお目にかからないのではないだろうか。

次の【ロックフェラーのある真夜中】では、”あの発見”の話が披露される。

これまで今一つうまく結果が出なかった筋収縮の原因を探す実験で、どうやらマグネシウムが悪さをしていると江橋博士は直感した。キレート剤でマグネシウムを除去すれば、純粋なカルシウムの効果が引きだせる。そこで、これを行ったところ見事な結果が出た。この時をこう振り返る。

”1959年2月の真夜中、私はロックフェラー研究所で、突然、「マグネシウムだ」という考えが頭に浮かんだ。キレート剤のカルシウム結合能を日本で計算した時、溶液に含まれているマグネシウムの干渉を計算に入れてなかったのだ。胸が高鳴った。私は有名なロックフェラーの図書館に駆け込み、キレート剤のマグネシウムに対する結合定数を調べた。それをもとに計算し直すと狙った通りの数値を示した。カルシウム結合能が高いキレート剤ほど筋弛緩作用が大きい。この結果はまさに筋収縮カルシウム説を裏づけていた。”

そして、リップマン先生の実験成功を伝え、国際学会で発表することになったのだが、それが最初にあった”笑い者にされた1962年のボストン会議”のことだったのである。

江橋博士の「筋収縮のカルシウム説」が世界で認知されたのは、1965年のことで、カルシウム結合能力の極めて高いたんぱく質を発見し、トロポニンと名づけてからであるという。

”筋肉は、いつもバネのように収縮しようとしていて、トロポニンはそのバネを抑えるブレーキ役としてはたらいている。筋小胞体からカルシウムが放出されて筋肉内の濃度が10^{-5}モルになると(収縮し)、カルシウムが筋小胞体にとりこまれて10^{-7}モルと低くなると弛緩する。”

たぶん、文脈からすれば、この部分で(収縮し)が抜けているのだろうと思う。


そして最後の【生命の起源とカルシウム】で、もっとも面白い話が披露される。そう、「生命の起源とカルシウムの関係」についてである。私自身は科学的にはこの問題に一番興味を持っている。

まず、なぜ「カルシウムが嫌われるのか」というと、それが”骸骨”を連想させるからだという。そして、江橋博士はこう直感している。

”(前略)今では、神経伝達や酵素の活性化など、生体内のほとんどあらゆる部分でカルシウムが重要な機能を担っていることが明らかになってきている。カルシウムは、生命の基本に深く関わっている物質なのである。
 ところが、細胞の内部深く、遺伝情報が発現する現場である核の中では、カルシウムのはたらきが見えない。これはどうも生命の起源に関係していると思われる。カルシウムの制御因子としてのはたらきは、カルシウムがないところでこそ機能するわけで(図9参照)、細胞形成以前、遺伝情報の担い手であるRNA-DNAが剥きだしの状態でカルシウムのふんだんにある海を漂っていた時には、カルシウムが制御因子として機能することはなかった。太古の海水の中に、内部を10^{-7}モルという大変低い濃度に下げる機能をもった袋として最初に細胞が発生した時から、カルシウムは生き物の一部となったのである。”

私はこの記述に何か非常に”惹かれる”ものを感じる。恐らく、ここには非常に”深遠な何か”が潜んでいると直感するからである。”太古の海水において、内部を10^{-7}モルという大変低い濃度に下げる機能をもった袋として最初に細胞が発生した時から、カルシウムは生き物の一部となった”と江橋博士は推測する。

ここには何があるのか。これを行う機構は何か。と探す内に、「細胞膜のカルシウムイオンポンプ」の研究が実ったのである。細胞は、内部のカルシウムを排せつするためのイオンポンプを持つ。同時に外部のカルシウムを引き入れるためのイオンチャンネルも持つということが分かったのだ。これでいくつかのノーベル賞が授与された。

では、それを動かすエンジンは何か?その機構を絶えまなく続けさせる物理化学的なメカニズムとは何か。これは既存の物理理論とどう整合するのか。こういった疑問が今私が個人的に挑戦している問題なのである。

最後に、江橋博士が自分の研究人生をこう振り返って博士のエッセイは終わる。

”私は、もともと無機化学が好きで、カルシウムには抵抗がなかった(その代わり生物は好きではない。小学校の時、理科は一番苦手であった)。生命の基本に触れることを最初から目指したわけではもちろんない。結果としてそうなっただけのことである。半世紀にわたって研究を続けてきたのも、実験をしていて遭遇する馬鹿なことが一つ一つ気にかかってほっておけなかったからである。道筋が決まると急に意欲を失ってしまう。行き当たりばったり、偶然にまかせて、その時自分が面白いと思うものに身をまかせていく。「この世のいのち一時に」というようなロマンチックな人間にはほど遠いが、ほかのことに興味がないということで結局そうなってしまった。これからも同じ道を辿ることになりそうである。”

私はこのエッセイを読んで、「この世のいのち一時にこめて三年をたゆみなく、淋しく強く生きよとて」という、旧制一高のバンカラ精神こそ、戦後の日本を復興させた精神であり、その昔に明治維新を引き起こした日本人の精神であると信じている。

”堕落からの回避”
”東大へ行くのは堕落だ”

というような品性、これが戦後教育で失われてしまったものなのであろうと思う。
2006/09/08のBlog
例えば、こんなことがある。

(あ)あなたの家族が自動車事故に巻き込まれて事故死する。何が原因なのか。真相はどうだったのか。あなたは知りたいはずだ。しかし、警察はずさんな捜査しかしてくれない。調書は、生き残った相手の当事者の言うがまま。死人に口なし。相手に沿って検察は動き、真相究明がなされないまま、事故はうやむやとなる。場合によっては、事故死した被害者の方があたかも加害者のように扱われる。残された家族は、無念のまま一生を終える。

あるいは、こんなこともある。

(い)パトカーが違反車両を発見する。見つかり驚いた違反者は猛スピードで逃げはじめた。パトカーはそれを猛追する。慌てた違反者信号無視も辞さず、赤信号を突破し、何も知らずに直進したあなたの車に激突。そしてあなたと違反者はその場で死んだ。しかし、パトカーの警官はこういう。「これは適正な行為だった」。

あるいは、こんなこともある。

(う)あなたの娘がストーカーに付け回される。最初は「まさか」と思っていたが、次第にエスカレートし、それが事実だと分かる。そこで、地元の警察に被害届する。ストーカー規制法に基づき、相手に警告を発してほしいという。しかし、警察は”個人間の愛情問題”だからといって相手にしてくれない。家族でストーカー相手にびくびくしている内に、ついにストーカーが家に入り、あなたの娘を目の前で殺し、ついでにあなたを殺し、一家残殺をする。残された親族には真相は分からない。

あるいは、こんなこともある。

(え)あなたの娘がいつものように学校に行く。突然、学校からあなたの娘が研究室で殺害されたと連絡が来る。何だか全く分からないでうをさをしていると、殺害の犯人が未成年の級友だとわかるが居場所がつかめない。あなたは、悲しみに包まれて娘の通夜や葬式を終え、何とかして犯人を捕まえてほしいと警察に言うが、警察は何も特別な事はしてくれない。1週間ほどして、その友人だった生徒が近所の山中で首をつって自殺した事を知る。結局、あなたの娘は何が原因で殺害されたのか分からない。

あるいは、こんなこともある。

(お)あなたの兄は、結婚をもうすぐ控えた幸せの絶頂期にあった。兄はいつものように職場に行き、いつものように帰ってくるはずだった。しかし、突然警察から「あなたの兄は山中で自殺しました」と連絡が入る。何がなんだか分からないまま、兄の車や遺体が届く。いったい何があったのかと地元警察に真相究明を求めるが、警察も自殺したようだと答えるのみ。目撃者もいて明らかに自殺ではないと分かる証言もあるが、警察が認めようとしない。結局、自殺と処理されて、家族もフィアンセも悲嘆にくれる。

上にあげたストーリーはすべて、ここ10年ほどに起こった現実の事件をあらすじで述べたものである。ほとんどは、真相究明が為されず、”お蔵入り”したものである。

(あ)は、もっとも多い自動車事故の話で、このタイプの事件処理は無数に存在する。毎日毎日こんな感じの事件があり、もはやどれがそれだと言う事が出来ない。それほどに多い。いつ自分もこんなものに巻き込まれないかびくびくしながら我々は日々を生きている。多くの場合は、生き残った側が加害者なのだが、その生き残りの”証言”に警察が基づいてしまうために、被害者側が泣き目憂き目を見る。中には、飲酒運転でこれをやられてしまい、死んだほうが損をする。

(い)も同様で、最近警察が”深追い”することが許されるようになって突然増えた警察のカーチェイスによって”誘発された事故”である。つまり、事故を防ぐ事で作られた警察が事故を起こすという例。市民の命を防ぐものが事故を起こして市民の命を巻き添えにしたという例である。まあ、警察がアメリカ映画やアメリカの警察のカーチェイスを見過ぎて”錯覚”したことが原因の事故だ。アメリカのように、片側5車線もある広いフリーウェイや一般道路の話であるが、これがハリウッド映画の見過ぎで、狭い市内でもこんなことをやっていると信じているバカな警官が引き起こす。市街地ではこんなことは普通は行わない。

(う)は、桶川女子大生殺害事件のようなものである。仮に家族が殺害の被害者とはならなかったとしても、遺族として悲しい人生を送るはめに陥る。世田ヶ谷一家残殺事件。福岡一家殺害事件などもこの例に入る。「テレビのチカラ」で、欧米の超能力者を使ってリモートビューイングさせて、事件解決させるほかないと思うのもこの手の事件である。

(え)は、つい最近起こった山口県周南市の徳山工業高専生殺害事件である。

(お)は、数年前に起こった徳島自衛官変死事件である。

このように、全部実話を基にしているが、こういった事件の真相究明は為されず、置き去りの状況である。

では、このような”警察のずさんな調査”を何と呼ぶべきだろうか。これ以外にも、さまざまな、いわゆる「警察不祥事」というものがある。裏金問題や暴力団との癒着問題、セクハラ事件や痴漢行為や飲酒運転とかいうものだ。しかし、上で紹介したようなものは、警察のいわゆる”不祥事”ではないが、やはり似たような空気が漂っている。

警察がきちんと捜査を続け、事件解明原因究明して1つ1つの事件に決着を付けていけば、だれも超能力者マクモニーグルなど呼ばないだろう。マクモニーグルは、元々有名な”スターゲイト”プロジェクトのトップスターであり、CIAのエージェントだったので、”簡単に国内にCIA関係者が入国している”というのも日本の”面白い”ところだ。また、日本の警察も政府もそういうことを知らないというのが実に”微笑ましい”。お子ちゃまだ。

そこで、私はこういった案件を生み出した警察を、これまでのいわゆる「警察不祥事」とは区別して、「警察過誤」あるいは「警察ミス」と呼ぶことにしたい。これは、病院における医者の問題を念頭におくと非常に分かりやすいからだ。

医療関係には、医療者が引き起こした汚職などの「医療不祥事」がある。これと同様に、今度は、患者に対する「医療ミス」、「医療過誤」というものが明確に定義される。

これと同様に考えると、警察にも全く同じことが言える。つまり、「警察不祥事」というのは、警察官が警察官どうしの内部で引き起こすものだ。しかし、「警察ミス」や「警察過誤」というのは、警察が、事件被害者や一般市民に対して巻き込む”捜査ミス”や”巻き添え(過誤)”のことである。おそらく、こういう定義がもっともフェアな定義だろうと私は考える。

こうやって定義を明確にしておくと、最初にあげた(あ)一(お)のような事件群は、全部「警察過誤」や「警察ミス」というカテゴリーの事件として区別できるのである。決して、こういうものを「警察不祥事」と呼んではならない。これをやると、味噌糞になってうやむやになってしまうからだ。

さて、何で私がこうした定義を紹介したのかというと、それは、実は昨今増えてきたいわゆる「医療ミス」や「医療過誤」、あるいは「医療事故」などとまったく同じようなシステム上の問題が日本の警察機構全体にあると私は考えるからだ。

この「医療ミス」などの問題は以下のものを見れば分かるだろう。
手術ミス:’くり返される人体実験’
科学者の研究経験不足
くり返される医療ミス:その原因は飲酒にある?
これらのエッセイの中で引用(リンク)されているもので、クリックしても見られないものは、私がすでに削除した昔の掲示板の記事である。

要するに、何を言いたいのかと言えば、こういうことである。

日本の警察は20年程前までは(日本の医療と同様に)、世界一の検挙率を誇っていた。警察機構は、中央に警察庁を起き、東京の警視庁、そして地方の都道府県警察に分かれて、各所轄の区域内で活動していた。だから、東京都内では警視庁が、県内なら県警が事件を捜査したり処理してきた。

昔は、凶悪事件も少なく、安全であったため、各都道府県内の事件は、大都市を除けばそれほど多くなく、せいぜい交通事故処理程度のもので済んだ。しかし、80年代に入って日本は一気に国際化、グローバル化し、90年代に入って一気にディジタル化、ハイテク化、IT化するとともに、凶悪事件も同様に国際化、ハイテク化、IT化することとなった。

70年代以前には年に数件の殺人事件しか起こらなかったものが(それゆえ、「◯◯殺人事件」とかいうテレビ番組が視聴者の興味を引いたのだが)、90年代以降になると毎日何人もの殺人事件が日本全国至る所で起きるような凶悪国家となってしまった(これも一重に日本の政治家、自民党や民主党の政治家が道を誤らせたことが原因だが)。こうなってくると、もはや地元の県警組織では、すでに最近の凶悪犯罪の処理をするには、”時代遅れ”となっているのである。

要するに、県内で殺人事件がおきても、その専門家がいない。だから行き当たりばったりの事件処理となり、東京の警視庁の捜査の真似事を見よう見まねでやっているようなもので、いったいどうやったら良いのか見当もつかない有り様なのだ。

それもそのはず、もともと地方警察は交通事故や交通行政などの手短な事件処理のために作られたのであって、凶悪犯罪用に組織されたものではないからだ。ましてや事件の「プロファイリング」できるものや「心理捜査官」のようなものもいない。当然、アメリカのような超能力捜査官など皆無である。それゆえ、地方でちょっとした凶悪事件が起これば、地元警察はあっぷあっぷして、何ら有効な手立ても作戦も指揮できずに、事件はうやむやのまま時間が過ぎていく。そして悪い場合には、”時間切れ”の「時効」となる。

これも、日本の司法では、殺人事件にも「時効」の特権があるからだ。アメリカの場合には殺人には「時効」はない。さらに、日本の場合には、最高刑に「死刑」と「無期懲役(仮出所あり)」しかなく、「終身刑(刑務所で死ぬまで出られない)」がない。だから、凶悪犯が仮出所で社会に知らない内に出てきてまた凶悪事件を繰り返す。死刑や終身刑がいやなら”金玉くり抜く”「去勢刑」くらいあれば良いのだが、それも「人権保護」とかが箍(たが)となって存在しない。

これを見れば、あなたは何かを思い出すだろう。そうだ、「医療ミス」である。「医療ミス」の直接の原因は、その病院の医師の”医療経験不足”にある。たまにしか手術経験がないのに、無理にやろうとするからぼろが出て失敗する。手術ではだれもがへまをするが、自分がへました時のリカバリーが大事だ。自分かだれかがリカバーすれば、医療事故は防げる。血管を切ってしまったらなんとか止血する。機具を体内に残さないように周りが注意して良く見てやる。地方病院でも、医療経験を積むまで、”見切り発車”で手術させない。最低でも200例の執刀経験(手術補助ではない)が必須である。

こうしたことをするには、結局、高度な手術を行うには、それなりの”専門病院”が必要となる。さもなくば、地方の総合病院や小病院では、年に1、2人の手術患者しか来ないので、永久にそこの医師はその専門医にまで育たない。その間いつも手術ミスを犯し、患者は死に、実験材料となるのだ。フランスでは、いくつかの病院を高度医療の専門病院として、すべてはそこで実施経験を積む。そうしないと、年間何十人、何百人という患者が来ないので、高度医療の執刀医を育てる環境が作られないからだ。

こうしたことが原因で日本の医療組織は少しずつだが、こういう方向へ動き出しつつある。自分が行った経験のない手術は別の専門家に任せる。お互いに推薦しあって患者にとってより適切な医師を紹介しあう。こんな風に日本の医療もなりつつある。これは前進である。

翻って、日本の警察機構に戻ると、実は日本の警察機構は、日本で「医療ミス」が起こりはじめたころの段階にあると言えるだろう。警察にとっての殺人事件は、医療にとっての高度手術に対応するだろう。その手術の経験がないということは、警察にとって殺人事件処理の経験がないということに対応するはずだ。10年に1度程度しか殺人事件が起こらなかった地方の警察に、毎日起こっているような大都市の凶悪殺人事件の処理はできない。もしできるとすれば、そこに大都市でそういった凶悪殺人事件を手掛けて十分な経験を持つものがいる場合である。さもなくば、事件処理は不適切で適当に処理されてうやむやのまま終わるのみである。なぜならもともと処理能力がないからだ。

今日本で毎日我々が目にする警察の”ずさんさ”や”ふがいなさ”の原因はここにある。要するに、地方警察の「事件処理」や「事件捜査」の経験不足なのである。

凶悪殺人事件には、DNA鑑定から指紋採取や物理的なあらゆる調査、さらにはコンピュータ処理などのハイテクも必要のはずだろう。プロファイリングや心理捜査官も必要だろう。果たして、こういったチームが一地方の警察支部に全部備わっているのだろうか。恐らくそんなはずがない。

だから、「徳山工業高専生殺害事件」でも犯人らしい高専生が今何を考えどう行動するだろうかのプロファイリングできなかったわけである。ちんたらちんたら、まるで交通事故現場の捜査のような、”のんきな捜査”をしたために、犯人が自殺してしまったわけだ。この事件ならアマチュアの我々でも、すぐにこの高専生の身柄を確保しないと自殺するだろうと予見できた。我が家でも、「こりゃーまずいな、早くしないときっと海か山で自殺するな」とみんなで言っていたものだ。案の定、我々の予想通りの結末となった。事件真相が分からず、残された被害者と加害者の家族が可哀想である。

というようなわけで、結局、今の日本の警察システムは極めて”時代遅れ”なのである。こんな組織に任せたら何も解決しないのが、残念ながら今の現実なのである。

ひと頃から、「医療ミス」や「医療過誤」が頻繁に繰り返されるようになり、我々はこう思った。「これでは、病気から自分の身体は自分で守るほかない。下手に手術したら医療の実験材料にされ、医者の練習材料にされてしまう。」と。

今や世界に誇った日本の警察はない。我々は今度はこう思う。
「これでは、犯罪から自分の身は自分で守るほかない。下手に警察に通報したら警察の捜査材料にされ、警官の練習材料にされてしまう。」と。

最後に、「医療ミス」と「警察ミス」の対応をまとめておこう。「手術ミス:’くり返される人体実験’ 」を読めば、おのずと、今の警察に何が必要か分かるだろう。医者を捜査官と直せば良いからだ。

一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
医療ミスーーーーーーーーーーー|警察ミス
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
医師の経験不足が原因ーーーーー|警官の経験不足が原因
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
高度医療に対する執刀経験が必須|凶悪犯罪に対する捜査経験が必須
医療制度の近代化が必要ーーーー|警察制度の近代化が必要
特定手術の”専門病院”が必要ー|特定犯罪の”専門警察署”が必要
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一

これを改善するには、恐らく以下のようなスクール制度が必要だろう。

一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
自動車免許ーーーーーーー|医師免許ーーーーーーー|捜査官免許
=教習=========|教習=========|教習==========
”自動車教習所”ーーーー|”指定病院”ーーーーー|”指定警察署”
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
”交通法規と運転実技をー|”医療法規と手術実技を|”司法法規と捜査実技を
教習所内で勉強”ーーーー|指定病院内で勉強”ーー|指定警察署内で勉強”
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
”座席の隣に座ってーーー|”立ち会ってーーーーー|”立ち会って
運転指導する教官”ーーー|手術指導する指導医”ー|捜査指導する指導官”
”運転してみる人”ーーー|”研修医”ーーーーーー|”研修捜査官”
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
”自動車教習所で規定のー|”指導医の下で規定のー|”指導捜査官の下で規定の
プログラムに沿ってーーー|プログラムに沿ってーー|プログラムに沿って
練習する”ーーーーーーー|手術練習する”ーーーー|捜査練習する”
============|===========|============
ーーーーー↓ーーーーーー|ーーーーー↓ーーーーー|ーーーーー↓
’所内の’法規のテストと規定時間の実技テストにパスすると以下に進む。
ーーーーー↓ーーーーーー|ーーーーー↓ーーーーー|ーーーーー↓
====仮免許=====|====仮免許====|====仮免許=====
”路上運転”ーーーーーー|”実際の手術を執刀”ー|”実際の事件を捜査”
”運転指導する教官”ーー|”手術指導する指導医”|”捜査指導する指導警官
”運転してみる人”ーーー|”研修医”ーーーーーー|”研修捜査官”
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
”規定時間の実技”ーーー|”規定数の手術経験”ー|”規定数の捜査経験”
============|===========|============
ーーーーー↓ーーーーーー|ーーーーー↓ーーーーー|ーーーーー↓
’所内の’法規のテストと規定時間の実技テストにパスすると以下に進む。
ーーーーー↓ーーーーーー|ーーーーー↓ーーーーー|ーーーーー↓
========’所外の’法規テスト===================
ーーーーー↓ーーーーーー|ーーーーー↓ーーーーー|ーーーーー↓
========合格すると、免許取得。==================
ーーーーー↓ーーーーーー|ーーーーー↓ーーーーー|ーーーーー↓
単独のドライバーとなる=|=単独の執刀医となる=|=単独の捜査官となる
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一

まあ、こんな感じのトレーニングシステムにすべきだろう。そして、実際の捜査は、事件の地元の県警に任せるのではなく、”大都市から招いた”経験豊富な専門の警察官に任せるべきである。こういう”良い意味の中央集権化”が今の警察機構には必要なのである。アメリカの場合には、凶悪事件には地元警察(州警察、シェリフ)だけでなく、連邦警察(FBI)も絡んでくる。こういったやり方がこれからの日本の警察機構にもぜひ必要な時代となったのである。
2006/09/07のBlog
最近徳島大学の書店で、三浦展の「下流社会 新たな階層集団の出現」というヒット作、問題作を見つけたので私もここ2日ほどずっと読んでいるのだが、いやはや何と言うべきか、実に”後味が悪い”思いをしている。

これは、別にその本に書かれた”下流社会”や”階層社会”の内容が衝撃的で後味悪いという意味ではなく、この著者とこの出版社に見るような日本の出版界の本の作り方に対して実に後味が悪いのだ。

というのも、この本は、著者の会社が取った”データ”が基になってこのテーマが議論されているのだが、このデータがあまりに”ずさんな”ものだからだ。1億2千万人の国家で、たった”100人”や”200人”のデータを基に日本社会の深刻なテーマを論じている。ここに”後味の悪さ”を私は感じるからだ。

まあ、著者の経歴を見れば分かるように、一橋大社会科を卒業しただけで、社会学の研究して博士号を持っているわけではないので、そういった人が社会に出て揉まれ、その中で実力を育てて自分なりのやり方で、叩き上げてきた成果は見る事ができる。たったこれだけのデータから1冊のヒット商品を書き上げるその”文筆力”というのは、我々科学者の及ぶところではないだろう。しかし、そこには限界がある。

もし我々科学者が、実験と称してたった1回や2回の実験データを基にしてこの本のような論じ方をすれば、これはほぼ間違い無く”論文捏造”あるいは”データ捏造”ということになる。

1億人の国家でその職業意識調査を行い、有意義かつ公正な結果を導き出したいと欲するなら、我々科学者なら、統計学の原理にしたがって、最低でも数千人から1万人のアンケート調査を実施せざるをえないだろう。ガウス分布が仮定できるほどの標本(サンプル)数を得るには、分散(標準偏差)が十分に定義できる程度のサンプルが必要。分散はサンプルNの平方根√Nに比例するので、Nが1億なら√Nは1万のオーダーとなる。だから、この程度の人数の統計を取らなくては、日本社会の本当のことは言えない。さもなくば、このショッキングなテーマの本を書くためにデータを捏造したと言われてもしかたないだろう。

この意味では、この人のやり方は、東京湾だけ見て、日本全体の海を語る、というようなもので、あまりにローカルなお話であり、”揺らぎ”が大きく、正しい結論を導くとは思えない。

読み進む内に、繰り返し繰り返したった”100人のデータを基にした一般論”が展開されるので、さすがに忍耐強い私でももはや読むに絶えず、とうとう本の2/3のところで限界が来た。もちろん、一応最後まで読むつもりだが、息抜きにこれを書くはめに陥ったというわけだ。

それにしても、日本のマーケット会社とか、シンクタンクの研究員というのは、みんなこんなレベルなのだろうか。非常に心配である。

実に”怪し気”なお話である。日本の雑誌や新聞のホームページなどに良くある、ちょっとした分析のような論説で、適度な参考にはなるかも知れないが、真偽のほどは明かとはならず、結局は時間潰し程度に終わってしまうというレベルの内容であった。

しかし、困ったことに、今の日本社会では、こういった本が出ると、それを新聞・雑誌が取り上げて、一人歩きする。そして、たった100人のデータもあたかも1億人のデータであるかのごとく社会を席巻し始めるのだ。今の日本のマスコミにそれを止めるショックアブソーバーはない。むしろ、話題を”煽る”役割を果たすのだから全く困り者だ。脳ブームしかり。大半は根拠のないお話にすぎない。これと同じ事が「下流社会」についても言える。

言い換えれば、この本の著者は最初からこういう風になると答えが分かっていてこうしたアンケートを取ったと言えるかも知れない。自分の身の回りを見て、うすうす勘付いていたことを補強するデータを取ったということだろう。だから、たった100人で十分だということなのだと私は見る。たった100人ですら自分の見込んでいた結果が出たのだから、1000人でも1万人でも結局は同じになるはずだという”思い込み”(先入観)があり、このデータで十分だと思って本を書いてしまったのだろう。実は、これと同じ心理状態が科学者の”論文捏造”を導いたのだ。

この意味では、これは一種の”本の捏造”のようなものだろう。本当に社会に何がしかの警鐘を鳴らし、何かを喚起したいのであれば、統計データ理論に基づいた科学的データ処理をした上で、公表すべきである。私はそう思う。

今のままでは、この「下流社会」の内容は、ただの”作り話”(フィクション)にすぎない。こういうのは、SFというのではなく、何と呼ぶべきだろうか。”ほら吹き”か、あるいは”社会学的フィクション”(これも略せばSFとなってしまうが)と呼ぶべきだろうか。

いずれにせよ。たった100人前後のデータから、1億2千万人に及ぶ日本社会全体の一般論を作り上げてしまったのだから、この”文才”には畏敬の念を私は感じる。私にも欲しい才能である。こういった”お話を作り上げる特殊な才能”でもないかぎり、今の東京で生き残っていくのは難しいのだろう。

そう言えば、養老氏も茂木氏も道に咲く野花の類い1つからでも1冊の本を書く。”作家”とはそういうものである。作家と科学者は180度向きが違う。この辺を見間違えると社会は混乱するのだが、これが日本のマスコミには分からないからこんな感じの国となったわけだ。

本の内容に関しては1文ごとに反論があるので、もはやここに書く事はできないが、基本的には、この本の主張のほとんどが、”著者の思い込み”だろうという点である。この著者のように見ようと思えば見えるが、逆に見ようと思えば見える。そういう程度の話であるということだ。しかし、重ねて言えば、この著者のように、同じ事をすべて逆に本末転倒に書いた方が衝撃は増す。この著者はさすがに売れ筋のジャーナルの編集長経験者だけあってそういうところは練れている。

まあ、1例だけ出せば、こんなことである。164ページに「低階層の若者ほど自己能力感がある」という一節がある。

ここでは、財布の中身の多い、著者の言うところの「上流階層」(俗に言う、上流階級のこと。どういうわけか、この著者は”階級”という言葉を使わず、”階層”が好きだ)の若者達は、”自分らしさ”が発揮できないと感じるが、逆に「下流階層」の若者程”自分らしさ”を発揮できると考えている。この傾向に対して、”だから”これが「低階層の若者の顕著な特徴なのだ」、と結論している。

しかし、これはごく当たり前のことで、何を驚く事があろうか。

例えば、天皇家にあなたが生まれ落ちたら、生まれる前からすべては”決まっている”のだ。そこに”自分らしさ”を求める自由はない。天皇の王子としての生き方を全うすべく教え込まれるのだ。同様に、あなたが大企業の社長の息子や娘として生まれ落ちれば、そのための”教育”を受けて育つほかなく、そこに”自分らしさ”など入り込む余地はない。なぜなら自分の親の持つ企業なり財産を運営していかねばならず、その人生から背を向けて生き抜く事は難しいからだ。

しかし、あなたがごく普通の”無産階級”の子息として生まれ落ちたなら、だれが考えても自分の好きなようにやれ、というのがごく自然なことなのだ。ひと昔前なら、”無産階級”は、特定の主人の家来としてほぼ一生を奴隷生活しなくてはならなかった。森元首相の好きな”滅私奉公”というのは、この奴隷制度の時代の名残りに過ぎない。今の北朝鮮を見れば分かるように、奴隷制度や封建制度時代の”無産階級”の生活の悲惨さは想像を絶していたのだ。これと比べれば、今のフリーターの生活は、奈良平安時代の天皇家の生活よりも贅沢だろう。この意味では、いくら「最下層」と区分されようが、財布の中身がすくなかろうが、”豊か”になったのである。

また、「目先の損得にこだわり、人生の大損をこく」という日本人特有のメンタリティーから、「低階層の若者ほど自己能力感がある」。そのため、損な人生を送るのだ。というニュアンスの意見らしいが、どの時代、どこの国であろうが、まだ社会に認知されていないマイナーなものは、事の起こりはいつも”貧しい”のだ。今や世界長者ナンバー1に輝くビル・ゲイツもMacのジョブズほんの30年前には、ガレージから出発した。”自由にやる若者が貧しいのは当然のこと”であって、”貧しくない若者”の方が異常なのだ。

今やもう廃れたかも知れないが、伝統的なアメリカのしきたりでは、いくら親が金持ちでも、”高校までは面倒見るがそこから先は地力でやれ”というのが、慣習であった。この例外がユダヤ系と日系人と言われていた。親がいつまでも子離れできず、大学大学院と金銭援助してしまうからだ。この日米の差が日米の大学・大学院制度の差、奨学金制度の差を作ったのだ。(これについては、10年前に拙著「三セクター分立の概念」で論じたことだ。)

まあ、この著者の”妄想”もここまでくれば立派なものだが、やはり、この本の一番の欠点(ありすぎるが)は、この著者が言うように、もし本当に社会が「階層化」して、「下流社会」が出てきていると見るのなら、その理由は何か?ということに少しも答えていないことである。背後の”動力学”は何か?これに答えないのであれば、面白さも半減どころか、本として成立しない。もちろん、雑誌として成立するかも知れないが。私はそう考える。(もちろん、私はこの答えを知っているが。)

いずれにせよ、この著者は”マーケッティング”の専門家だから、国民の財布の中身にはたいへん気を使っているのだが、国民のおつむの中身にはまったく気にかけていないらしい。

この人の類別では、私はどこに入るのか。どこにも入れず、まるで自縛霊のように、どこかを漂ってしまう。所得はないが、教育はある。家はないが、住む場所はある。家にいるがニートではない。最下層にいるが、最上層の知り合いも友だちもいる。仕事はお金にはならないが、世界的な知名度はある。いったいどこに入るのか。この著者の100人の1人に私が入れば、この話は全部おしゃかだろう。

ところが、日本は広い。私よりもっと風変わりで面白く、なおかつ価値ある人々はたくさんいる。

まあ、最後の結論として、日本のそれなりの一流の出版社から、あまりいい加減な本を出すべきではない、ということだ。
サッカー日本代表、苦しみながらの勝利
オシム・ジャパン1カ月、存在感増す千葉の選手ら
日本、終了直前に得点 10でイエメン破る

いやはや、昨夜のイエメン戦、何と言って良いのやら、”絶句”の一言。フラストレーションの高まる試合だった。

メンバーは以下の通り。

GK 川口(磐田)
DF 坪井(浦和)、闘莉王(同)、三都主(同)、加地(G大阪)
MF 阿部(千葉)、羽生(同)→我那覇(川崎)、鈴木(浦和)、遠藤(G大阪)、
FW 巻(千葉)→梅崎(大分)、田中達(浦和)→佐藤(広島)


世界ランク125位の格下、というより”論外”の相手に”受け”に回ってしまう。およそ”サッカー”と呼ぶに相応しくない、”パス回しゲーム”のようなサッカーだった。もう途中から、私は「これじゃ、小学生レベルだ」と思ってただただ怒りを押さえるのに必死。”このバカ野郎”とテレビにコーヒーを投げ付けてやろうかと思う程ひどかった。今どき、小学生でももっとましなサッカーをする。ましてや野洲高校のセクシーサッカーの方がよほどサッカーらしい。いくら高地であろうが、グランドの悪コンディションであろうが、ここまでサッカーの質が落ちることはないだろう。

それにしても、日本の選手は何でゴール前のシュートが枠内へ飛ばないのだろうか。いくら練習不足と言っても、ゴール前3m、5mのシュートやヘッドが枠に入れられない選手を日本代表に呼ぶのは間違いだ。

それにしても、サントスにしても、駒野にしても、坪井にしても、ジーコ・ジャパンの時よりはるかに質の低いプレーをしていた。これは、オシムに”反抗”して”わざと”やっているのだろうか。サウジ戦の駒野は自分がミスして敵にボールを奪われたのに追っ掛けもしなかった。サントスは全くオーバーラップしないし、パスミスばかり。いったいどうしたということだろうか。この理由が良く分からない。いずれにせよ、今後、選手の総入れ替えが必要だろう。


記事によれば、オシム監督はほぼ私と同感の御様子。

オシム:
「こんな試合をするんだったら炭鉱労働者になった方がいい」
「内容的には引き分けで満足しなければならない」
「ものすごく効果的なプレーはなかった。もう少し時間があれば、いいものをお見せできる」
「内容以上に押していたが、こういう結果になり、何といっていいかわからない。グラウンドの状態が悪く、サッカー以外の仕事をしに来たようだった。アジアはこういうサッカー場が多いが、アジア連盟が改善すべきだ」

とはいうものの、弱小イエメンにも体で見劣りし、当り負ける。160cm台の”小粒な”選手ばかりじゃ、”脳みそ”も小粒になってしまうはずだ。作戦もなければ、”思い付き”や”アイデア”もない。”創造性”など論外だ。

鈴木は、ボールを左右につなぐだけ、いくらリンクマンと言っても、それだけでは何の役もしない。左右にボールを振ったら、今度はウィングプレーして、自分がゴール前に上がってターゲットにならなくてはいけないはずだが、ボールを出したら止まって見ているだけだ。”パスアンドゴー”の基本も何もない。


たまたまラッキーにもロスタイムでゴールしたが、これをはずすようではもはやアマチュア。そんなボールをゴールして喜んでいるようではもはや日本代表に未来はないだろう。

我那覇:「厳しいときに点を取れた。やっとチームの力になれてうれしい」

さて、この体たらくの根本問題は、私はかつてジーコが言ったことにあると思う。要するに川淵キャプテンの問題。つまりJリーグの問題だ。ジーコは、だいたいこんなことを言っていた。(「”オシムの言葉”と「シーズン制」 」参照。)

Jリーグは、野球と同じく夏リーグ(夏を通じて試合を行う)のために、試合日程が超過密になり、選手の練習時間がない。1週間で大人が2試合も行えば、普段は休憩中心になり、まともな練習ができなくなる。選手の消耗も激しい。そのために、若い選手がきちんとした練習プログラムを経て試合に準備できないこととなって、レベル低下の原因となる。だから、欧米のように秋口にリーグが始まるようにして、しかも天皇杯、Jリーグ覇者、ナビスコ杯、キリン杯などは一本に絞って、できるだけ選手の負担を減らすべきだ。多くても一週間に1試合の日程にすべきだ。

ところが、相変わらず、川淵キャプテン他Jリーグは、超過密の選手消耗スケジュールで運営しているのだ。この過密スケジュールの中から、Jリーグの公式戦も戦い、しかも海外遠征して代表として戦うというのは、恐るべき過酷なことなのである。

にもかかわらず、もっと”恐ろしいこと”に、Jリーグでは、例えば日本代表としてワールドカップや種々の予選に参加し遠征した際に”負傷”した場合に、その”保証”がないというのだ。Jリーグの場合は、選手はチームのレギュラーとして働かないと、良い給料をもらえない仕組になっている。だから、日本代表になり、たまたま運悪く負傷すると、自分のチームに戻っても試合に出られなくなり、結果として”失業状態”のように給料が減ってしまうのである。

例えば、イングランドの場合は、ベッカムがワールドカップで負傷して翌年のリーグ戦出場が出来なくなった場合には、その給与保証がある。だから、イングランド代表として、選手達は死にものぐるいで戦えるのだ。

フランスであれ、ブラジルであれ、スペインであれ、アルゼンチンであれ、代表チームで戦って負傷した場合には、まさしく”名誉の負傷”なのであるから、そのための給与保証は”絶対に”しなくてはならないことで、どこの国にもそれが保証されているのだ。

しかし、どうやら日本代表にはこういった保証がないらしい。これでは、まだ予選段階の試合であまりに頑張り過ぎて自分が負傷をして帰国後のJリーグに出られなくなったら、”おまんまの食い上げ”となってしまう。それなら、選手が一生懸命働らかなくなるのは当たり前のことである。

こういう状況が、ワールドカップの予選でもないし、アジアカップの予選で、相手はランク125位のイエメン。こんなチーム相手に一生懸命頑張って下手に怪我でもしたらもともこうもないと選手が考えるのが自明である。それゆえ、ファンが何と思うが、まだJリーグがあるのだから、”適当に”手を抜いて、適当に勝てば良いのだ、と思っても何も不思議ではない。恐らく、私が日本代表に入っていたら全く同じ事をするはずだ。

川淵キャプテンよ、「川淵キャプテン、退陣せよ!」の垂れ幕もあるらしいが、早く改善しないと、「Jリーグ百年構想」どころか、「Jリーグ百年経ってもJリーグ構想」になってしまうと私は思うヨ。
2006/09/06のBlog
[ 11:46 ] [ 著作&本の紹介 ]
「ある世界にかつては存在したが今はいなくなって久しい人物を、何となく孤独に想いながら思い起こす」

こんな時が、あなたにもあるだろう。

私もこの歳になってしばしばそうした一種の”郷愁”というのか、”寂しさ”というのか、自分は家族もいるし普通の意味では孤独ではないのだが、その人物との関係において会えない孤独のようなものを感じる時がある。

例えば、この夏に中田英寿が日本代表から引退し、今の日本代表を見る度にこの”感じ”を持ってしまう。もちろん、テニスのピート・サンプラスにもそういう想いを感じる。また、かつてユタ大時代に親友となった物理学者の吉田美穂子さんにもそうした想いを強く感じる。

実は、こうした時に感じる気分、気持ちのことを表現する言葉が、ポルトガル語の”サウダーデ”(Saudade)という言葉だという。日本語では、これに対応するものとして、”孤愁”があてられる。

今朝の徳島新聞朝刊の「読書のススメ」には、徳島大学ドイツ文学の依岡隆児さんの「藤原正彦「数学者の休憩時間」」の紹介があった。

この本の中で、著者の数学者藤原正彦(「国家の品格」の著者)が、父親の新田次郎の足跡をポルトガルに訪ねる話があり、藤原が道で会うポルトガル人にかつて彼の父がしたように片っ端から「サウダーデとはどんな意味か?」と聞いたところ、それは”誰か好きな人がいなくなってしまい、その人を懐かしく思い出すこと”だと答えたという。

「母国ポルトガルへサウダーデに悶えたモラエス、モラエスのサウダーデを追ってポルトガルへやって来た父、父のサウダーデを求めてここまで来た私、(中略) いくつものサウダーデが、地図上を這い、追い、逃げ、飛び交うようだった」

さて、一般に知られている”サウダーデ”(Saudade)とは、どんな意味か?

というと、Saudade(サウダーデ)にはこうある。

”サウダーデとはポルトガル語だ。もともとの語源はラテン語のsolitateといって孤独という意味だ。ポルトガル語ではsolidaoという。

では日本語でサウダーデはというと平凡社のスペインポルトガルを知る辞典には次のようにでている。「懐かしさ」「未練」「懐旧の情」「愛惜」「郷愁」「ノスタルジー」「孤愁」。しかし、どうやらこの言葉くせものらしく、次のように付け加えられている。「しかし、いずれの訳語もサウダーデの表す多面体的な意味のいづれかの面に対応するものであって、それが持つ意味の総体を示す訳語ではない」と。”

そして、最後にこうある。

「日本語に則して言えば、たとえば異郷にある人が、故郷にいる家族などのことを、そしてそうした故郷そのものを思い浮かべたときの懐かしい思いもサウダーデであれば、事情があって容易に会うことのできない恋人にたいする思いもサウダーデであり、この世を去った肉親、あるいはふたたび帰ることのない少年時代、そしてその頃の草野球に明け暮れて日々に寄せる思いもまたサウダーデである。また大切にしていた物を手放さざるを得なくなったとき、心に感じる痛み・悲しみを伴う感情もサウダーデであり、家族・親友・恋人などと永く別れるときの惜別の情もまたサウダーデである。」

ここに、最初にあげた藤原のポルトガル人に聞いた話と一致する。

ところで、日本語にも似たような発音の言葉はないか、と私が「岩波国語辞典」で探してみたところ、こんなものがあった。

「さうざうし」=ひとりぼっちで、心が満たされない
=張り合いがなく、寂しい
=何ともできず、あるいはする事がなく、満たされない思いだ

これは「源氏物語」や「大鏡」にも使われていたらしく、こんな例が引かれている。

”今まで御子たちの無きこそさうざうしけれ”(「源氏物語」)
”さうざうしきに、いざ給え(おいでなさい)”(「大鏡」)

全くの偶然かも知れないが、「さうざうし」は、なんとなく「サウダーデ」に似ている。

”サウダーデ”、何となく物悲しいが、魅惑的な言葉である。
2006/09/05のBlog
日本、米国に敗れ準優勝 ソフトボール女子世界選手権

あれー? 日本はアメリカに準決勝で勝って決勝に進んだのではなかったか。

と思いきや、敗退したはずのアメリカが”ゾンビ”のように復活して別枠で決勝進出。そして、3一0で日本を下してアメリカ優勝したのだと。要するにアメリカが一番有利に出来ているスポーツだ。どんなチームであれ、同じ強豪チームに2度勝つのは至難の技。だからこそ、トーナメントに運不運がドラマを生む。ワールドカップサッカーしかり。

こんなアンフェアなスポーツはオリンピックはでなくてよろしい。早くなくなれば良い。ほんと日本選手が可哀想な話だった。
49歳の現役ナブラチロワ、最新式のラケットを批判

マルチナ・ナブラチロワ(米)が、今のテニスを”批判”し、”持論”を展開。これが非常にもっともなので、おもしろい。

ナブラチロワ:
「今のテニスはラケットの改良が進んでつまらなくなった。ラケットのヘッドを小さくするなど規制を設けるべきだ」

「今は強く球をたたくだけでいい。(技術を要する)ボレーをしなくても、ベースラインからのストロークで勝てるんだから」

「ゴルフのクラブが、テニスのラケットのように規制が緩かったら、みんなドライバーで400ヤード飛ばせる」

「(ラケットのおかげで)私も10年前、20年前に打てなかったようなショットを打てるようになった」


確かにナブラチロワの言う通り。

野球でもバットが金属バットになったり、竹バットになれば、打ったボールがとび過ぎ、ホームランの確率が大いに増す。これでは、投手はたまったものではなく、野球自体が大味になり、おもしろくなくなる。

サッカーでも同じで、ドイツ大会の時のような軽くて丸いボールでは、蹴ったボールのほとんどがピンポン玉の軌跡のように不安定で、野球のナックルボールのような軌道を描く。これではどんな名ゴールキーパーでもキャッチはできない。ドイツはこのボールの特性を生かして躍進したとも言える。

ゴルフでもナブラチロワが言うように、ヘッドが特殊加工されたら、400ヤードも夢ではなく、だれでもプロ並みとなれるかも知れない。

だから、野球もゴルフもそしてサッカーもある程度の”規制”はつきものである。ところが、テニスラケットはどうやらそうではないらしい。それゆえ、ナブラチロワが噛み付いたということのようだ。

テニスラケットの大きさやスイートスポットの大きさやガットの性能なども最大値を設定するべきなのかも知れない。
2006/09/04のBlog
アガシ、総立ちの観客に涙 「ありがとう。ほっとした」
ストローク力優位の先駆者 革命児アガシ、現役終止符

”アンドレ・アガシ引退”

私がアンドレ・アガシを初めて見たのは、1990年にユタ大学でPh.D.を取ったすぐ後の夏の全米オープンだった。今から16年前、アガシが20歳くらいの頃のことだ。

この1990年の全米選手権は、当時18歳の無名の新人ピート・サンプラスが初めて登場し、見事に初優勝を挙げた大会だった。(「サンプラスとイチロー 」参照。)


今思えば、”歴史的な大会”であった。世紀の天才サンプラスが、初めて登場し、並みいる強豪たち、ジョン・マッケンロー、ボリス・ベッカーなどを退けていった。そして、当時若手の好選手として評判の良かったアガシと決勝戦を戦って、アガシがなすすべなくあっという間に負けてしまったのだ。

今でこそだれもがやる時速200kmを超える弾丸サーブ、当時はベッカーとサンプラスくらいのものだった。しかも、サンプラスは、往年のケン・ローズウォール並みのレシーブとボレー技術。ほぼ完璧な選手として登場した。半ば泣きべそ状態でアガシは戦ったがあえなく散った。

この鮮烈なサンプラスの登場以来、ベースラインのストロークプレーヤーだったアガシは、サンプラスと戦う度に変身して成長していった。最初は時速180km程度のサーブだったが、それがしだいに早くなった。そして、粘りに粘って、相手に勝つという独特のスタイルで、サンプラスと幾多の名勝負を繰り広げた。

サンプラスはしばらく前に引退したので、アガシもすぐに引退するかと私は思っていたが、今日までしぶとく頑張った。スポーツ選手にはいつかこうした”引き際”が現れる。中田英寿もこの夏に引退した。私が青春期後半を送ったユタ大学時代最後に始まった「アガシとサンプラスのテニス物語」はこれで終わったことになる。

当時、私はまだ若く、これからどんどん研究をやってやると、当時にサンプラスやアガシと同様に、意気込み盛んだった。そして帰国し、すでに16年経ってしまった。私にとって、研究者としての実質的キャリアは、サンプラスとアガシの時代と重なっている。だからいつもサンプラスやアガシの試合は見てきたものだ。

サンプラスが引退し、アガシも引退。この16年間で私の研究人生はどうだったかと言えば、最初に私がユタ大を卒業した頃想定していたテーマはほとんどやり遂げたことはやり遂げたと思う。しかし、それがどれほどのものだったかと言えば、心もとないと言えるかも知れない。ユタ時代に夢想したことはやり尽したが、それ以後に新たに夢想したものは、まだほんのわずかしかやり遂げていない。

”光陰矢のごとし”、”少年老いやすく学成り難たし”

とは良く言ったもので、私の場合もその例にもれないかも知れない。研究者の場合には、肉体的な問題による引退はない。だから身体が動かずに引退ということはない。しかし、自分の”やる気”や”集中力”が失せたら即”引退”に等しい。この意味では、私もいつまで続けられるかは分からない。死ぬまで続けられるかも知れないし、どこかでとん挫するかも知れない。マッカーサーのように”老兵は静かに消え去るのみ”という感じかも知れない。それは分からないが、科学者にもいつか”引退”する時は訪れることだろう。

いずれにせよ、私の研究生活の始まった同じ時期にテニス選手として始まり、そして私同様に同じ時期にピークを迎えた2人に心からの感謝をしたいと思い、これを書いた。

本当にありがとう。ご苦労様と言いたい。
オシム・ジャパン、0一1でサウジに敗れる
日本、0一1でサウジに敗れる サッカー・アジア杯予選

ワールドカップのアジアの常連、”アジアの雄”、サウジアラビアとオシム・ジャパンが対戦。0一1で負けた。

参加選手は以下のものたち。

【GK】川口能活(磐田)

【DF】坪井慶介(浦和)、田中マルクス闘莉王(同)、加地亮(ガ大阪)、駒野友一(広島)

【MF】三都主アレサンドロ(浦和)、阿部勇樹(千葉)、遠藤保仁(ガ大阪)、鈴木啓太(浦和)→羽生直剛(千葉)

【FW】巻誠一郎(千葉)→我那覇和樹(川崎)、田中達也(浦和)→佐藤寿人(広島)


この試合、テレビ放映がなかったので、見る事ができなかったが、今朝のニュースで見た限りでは、相変わらずのシュートミスなど決定力の違いが出ていた。フリーでシュートできないためのミスならしかたないが、フリーでなおかつシュートコースが空いてのシュートであるのに、ボールが枠へ行かないというのは致命的である。いかにシュートやキックの”基本”がおろそかにされて育ってきているかの証明である。

Jリーグのチェアマンやサッカー協会は、「Jリーグ百年構想」も結構だが、まずはもっと大事な「サッカーの基本技術修得百年構想」も思い描く必要があるだろう。目をつぶってシュートしてもボールが枠へ行く。何回シュートしても同じ場所を狙える。このくらい基礎技術が必要だろう。

今は、オシム・ジャパンは、”走るサッカー”を目指しているが、これに”決めるサッカー”を早急に加えるべきだろう。

サッカーの基本を述べた言葉に「シュートはゴールへのパスだ」というものがある。しかし、私は自分の子供には、これは”間違い”だと言って、逆に教えている。つまり、「パスはシュートのように正確にする」と。

シュートとパスを比べれば、キーパーのいるゴールへのシュートの方がはるかに高い”精度”が必要となる。もし精度の低いパスの要領でゴールへパスするのがシュートだとすれば、全部キーパーの餌食となってしまう。むしろ実際には、シュートはキーパーのいないコーナーやサイドネットのところに狙って打てる程の高い精度が要求される。それゆえ、普段のパスもそれくらいの精度を持ってパスすべきなのである。ならば、シュートはパスの延長ではなく、パスがシュートの延長でなくてはならない。

果たして、日本サッカーでいつから「シュートはゴールへのパスだ」というのが出てきたのだろうか。

私の個人的記憶では、サッカーマンガの「キャプテン翼」とかいうものが出た頃ではないかと思う。確かこのマンガの中で「シュートはゴールへのパスだ」という言葉があたかもサッカーの鉄則のように、一人歩きしはじめたように記憶している。確かにこれは鉄則にしても良いのだが、私が中学時代に教えてもらった言葉とはちょっと違う。私は、中学のサッカー部監督(初代甲府クラブ(現ヴァンフォーレ甲府)監督)からこう教わった。「シュートはキーパーのいないところへのパスだ」。”キーパーのいないところへのパス”と”ゴールへのパス”ではその精度に大きな差が出るのは当然だろう。

今回もそうだが、日本代表の多くが、日本のプロテニスの選手と同じく、相手のいるところへシュートしてしまう。この原因が、もし「シュートはゴールへのパスだ」というサッカー少年翼の言葉に影響されているとすれば、大変に困ったことである。

サッカー選手は、もう一度、「シュートはキーパーのいないところへのパスだ」という言葉を肝に命じてほしいものだ。

さて、実際の試合の失点シーンについて、左サイドから一瞬のミスから失点したが、左サイドバック、たぶん駒野だっただろうが、全く対応できなかった。また、あの程度のドサリのシュートを川口はセーブできなければおかしい。この点、西川の方がはるかに反応が良い。次回はぜひ西川先発にして欲しいところだ。

いずれにせよ、中途半端に新旧交代するのではなく、この際ジーコ・ジャパン組は全員控え組に回して、若い選手を中心にやってほしいものだ。

昨夜BSで日本の男子バレーボールがミュンヘンで金メダルを取った時の歴史検証番組をしていたが、これは非常に参考になるだろう。日本サッカー協会のお偉方たちはぜひ見るべきである。

この中で、大事なことをまとめておくと以下のようなものだった。

(あ)金メダルは8年後(長期計画)
→金メダルまで64東京(銅)、68メキシコ(銀)、72ミュンヘン(金)の3大会要した。
(い)アウェーをホームにする作戦
→ミュンヘンで頻繁に西ドイツと交流試合しその場をホームに変えた。
(う)常識の延長ではない、非常識に見える高度な技の発明・修得
→フライングレシーブ、Bクイック、Cクイック、時間差攻撃、1人時間差攻撃などの新技を発明した。
(え)若い女性のファン層を獲得
→少女コミックマンガ誌に頻繁に男子バレーボールを紹介し、ファン層を拡大した。
→人気が出ると、練習を公開した。

これを見れば分かるが、日本サッカー協会は、確かに「Jリーグ百年構想」を持っているが、まだ”具体的な構想”を描いてはいない。例えば、8年後のワールドカップで4位入賞とか、優勝とかそういった目標を設定していない。今行っているのは、常に次大会(4年後)にはどうするかということだけで、そのために頻繁に監督を替えている。

もし日本サッカーが本当にワールドカップで優勝したければ、少なくとも12年、短くても8年計画で徹底した英才教育を行わなくてはならないはずだろう。次回の南アフリカ大会の次ぎの次ぎを目指すためには、今12、3歳の選手達、そう、現在小中学生の選手たちの中から才能豊かな将来の逸材を”発掘し”、”特別な指導”を行って、12年間ずっと”気長に”面倒みなくてはならない。この選手達は、Jリーグの各チームの「”商売道具”として消費される選手」にするのではなく、「日本の秘密兵器」として大事に育て上げるべきなのである。

果たしてここまで徹底してサッカー選手を指導できるかどうか。この辺に今後の日本サッカーの生命線がありそうだ。

”谷間の世代”はやはり谷間の世代。人間、その選手の持つ潜在能力や才能以上のことはできない。いくらオシムが良い監督であっても、才能のない選手達に高望みするのは可哀想である。いっそのこと、今17、8才の選手たちにチャンスを与え、次の次の大会、あるいはその先を目指すべきであろう。
2006/09/03のBlog
[ 12:04 ] [ ジョーク ]
昨日ジョークネタが出たついでに今日もジョークをいくつか。

今朝の徳島新聞日曜日版の「人気の一冊」というコラムには、「世界の日本人ジョーク集」(早坂隆著)が紹介されている。すでに11万部に近付くヒット本らしい。

さて、このコラムで2つほどその本のジョークが引用されていたので、ここで紹介しておこう。

一一 「日本=ハイテク」イメージジョーク
日本の会社が、何でも溶かす新薬を開発した。だが、結局、どこにも輸出できなかった。その薬を入れる容器がなかったから。

一一 日中問題ジョーク
日本と中国の仲が悪いと聞いたパキスタン人が、日本の中華街を見て驚いて言った。
「日本と中国の仲が悪いってウソだ。パキスタンにインド人街があったら廃虚になっている」

一一 なぜかこの本はJR浜松町で売れた。なぜ?
「浜松町は、羽田空港行きのモノレールの始発駅。海外旅行に出かける人々が、ジョークを仕込むネタ本として買っていくようです。」

一一 編集部に小学生から手紙が来た。
「世界の日本人のイメージや、日本製品にとても興味があったので、ためになった。世界を知る鍵だと思います」

一一 ちなみに著者は、こう語る。
「これは、自虐ネタの本じゃない。海外ではむしろ、日本人は好感を持たれている。自信を持っていい」


まあ、こんな風な記事だった。しかし、著者が言うように、”自虐ネタ”ではないのだろうか。最初のものは、日本の会社が”どこか1つネジが抜けている”ということだし、2番目のものは、日本人が”超お人好し”という意味である。日米関係が悪ければ、在米日本人に被害者や犠牲者が出るし、日中関係が悪化すれば、在中日本人に被害が出る。これが普通の現象。それに比べると、日韓関係、日中関係、日米関係、日北朝鮮関係がいくら悪くなろうと、日本国内では何も起こらず無関係。3番目のものは、本当のことらしいが、ジョークは海外でのものと国内外を分けているのが日本人らしい。また4番目の、ジョークを”まに受ける”小学生も日本人的だ。最後の著者が”日本人は海外で好感を持たれている。自信を持て”というのも、実に日本人ジョーク的で面白い。私に言わせれば、この記事自体が一種のジョークに聞こえた。

一一 一一 一一
ここから、ついでに私が”真似”してジョークを作ってみた。

◯ 日本の会社がある優れた商品の特許を取った。だが、結局、どこにも輸出できなかった。なぜならその特許製品を作ることができる会社が日本になかったからだ。
 そこで困った会社は、中国の会社に作ってもらい日本製品として販売した。
 パキスタン人はアメリカ製品より日本製品がお気に入り。日本と中国の仲が悪いと聞いていたパキスタン人が秋葉原でその日本製品を買った。中を見たところ、すべての部品に"Made in China"とついていたので驚いて言った。
「日本と中国の仲が悪いってウソだ。パキスタン製品の中身が全部"Made in India"だったらすぐに壊されて廃品になるか、すぐに販売禁止になっている」
 この話を知った日本人作家が、これをネタにジョーク集を出版し、売れに売れた。
 その読者の1人の小学生は言った。
「とてもためになった。世界を知る鍵だと思います」
 これに大喜びした著者はこう語った。
「これは、自虐ネタの本じゃない。海外ではむしろ、日本人は好感を持たれている。自信を持っていい」