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KiKidoblog
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2006/10/12のBlog
[ 22:56 ] [ オシムの言葉 ]
オシム監督、システム論争でインド人プレスやりこめる
アジア杯予選、日本がインド下す 播戸2ゴール、中村も

GK=川口能活
DF=阿部勇樹、今野泰幸、水本裕貴→長谷部誠
MF=三都主アレサンドロ、山岸智、鈴木啓太、中村憲剛、駒野友一
FW=播戸竜二→佐藤寿人、巻誠一郎→我那覇和樹

昨夜、日本代表対インド戦--世界ランキング47位の日本と136位のインドの戦い--を見たが、いやはやこれほどひどい日本代表は近年見たことがない。試合は3-0で日本が勝利したが、どっこいどっこいの”ナイスゲーム”だった。

また、どう見ても、播戸の1点目はオフサイド。レベルの低い相手に、サッカー場の照明は切れるわ、フィールドを犬が駆け回るわのてんやわんやの大騒動だった。

ジーコ・ジャパンの申し子である三都主や駒野や巻に至っては、三都主は”腰砕け”、駒野はちっともセンタリングが合わせられない。巻はシュートが枠へ飛ばない。見ていて、まるで”アマチュア”である。

いったい日本代表はどうなってしまったのだろう。本当に才能ある選手達が選ばれているのだろうか。おっかなびっくりの少しもサッカーらしくないサッカーでどうなるのか。はっきり言って、ランク下のインドの方がずっとサッカーらしいサッカーをしていた。こんな”消化試合”の勝利で喜んでいるようでは、先が思いやられる。

ところで、”オシム効果”は、どうやら小中学生のサッカー部の監督やコーチにも”悪影響”が出つつあるようだ。

それは、これまでの日本サッカー協会やJリーグの指導方針は、年令に見合った練習プログラムを組んで行ってきたが、オシムの”走るサッカー”、”体力勝負のサッカー”のおかげで、まだ技術優先であるべき小中学校の選手達にも”走る”ことが強要されるようになってきたからだ。

おかげで、我が家の息子たちのいる弱小中学のサッカーチームですら、オシム流のカラフルビブズの”走るフォーメーション練習”ばかりで、ほとんどの選手がまだろくにボールコントロールもままならないにもかかわらず、”気分はオシム”の中学サッカー部監督の言うがままにきつい練習を強いられるようになってきたのである。

がしかし、これでは、うまくはならない。というのは、やはり選手の年令、技量や特質などを見ながら臨機応変に指導しなくてはならないからである。しっかりした基礎ができた上で大人のような”走るサッカー”が構築されるのである。この逆はない。つまり、”走るサッカー”を練習していれば、基礎技術ができるようになるかというとそういうことはないのだ。

こんなわけで、私は当初”オシム効果”は比較的素晴らしいものだと思っていたのだが、”生半可なオシム効果”はかえって日本人には逆効果となるのではないか、と最近はかなり心配になってきたというのが真実のところなのである。

”オシム効果”がうまくいったクロアチアという地方は、東欧のブラジルというほど、サッカーにおいては基礎技術能力の高いお国柄なのである。そういう基礎技術のある選手達を率いてオシム流の”走るサッカー”が完成できたのであって、決してこの逆ではないのである。

日本はまだまだブラジルにもクロアチアにも基本技術で劣っているわけだから、この基礎をおろそかにして”走るサッカー”に飛びついても、それは”ただ走るだけ”に終わりかねないのである。

身体能力のない日本人にとっては、「人が走るのではなく、ボールを走らせる」というブラジルサッカーは比較的向いているのだ。確かに、ジーコは日本代表監督としては(監督としてやるべきことをやらなかったという意味で)不適格であったが、テクニカルコーチとしては間違ったことはしていない。この意味では、ここ10年のブラジルの”ボールを走らせるサッカー”からいきなりオシムの”人が走るサッカー”への切り替えはかなり難しいのではないかと私は感じるようになった。

サッカー教育法の180度の切り替えは、これまでのサッカー指導法に大きな混乱をもたらしつつある。私はそう感じている。
2006/10/11のBlog
滝川二高が名古屋ユース破り初優勝 サッカー高円宮杯

U18高円宮杯第17回全日本ユース選手権で、兵庫県の滝川二高が名古屋ユースを3-0で破り”初優勝”したようだ。

ここのところ、98年製の私のパソコンの調子が悪く、初期化して復旧させるのに手間取っていたが、この間に高円宮杯の決勝が終わっていたようだ。

しかし、今回の滝川二高は、Jユースの強豪、優勝候補を次々に破っていった。そして、最後に名古屋ユースを3-0で破って初優勝を遂げたというのは実にすばらしい。この年代の選手というのは、1つの大会を通じて自信をつけて大きく成長し、大化けするということがある。今回の滝川二高は、そういう”良いムード”を作って波に乗ったのだろう。

ところで、ほぼ同じころ、ここ徳島の中学校では、GRAZ杯という西日本の中学生サッカーのミニワールドカップ(あるいは、ミニ高円宮杯)があった。これは、1次リーグ4グループでリーグ戦を戦い、上位2チームが決勝トーナメントに出るという教育リーグである。我が家の息子2人もこれに参加し、たまたま1次リーグで今回高円宮杯で優勝した滝川二高の地方の滝川二中と当たった。ほぼワンサイドゲームで押しに押されていたらしいが、強風と1日3試合の強硬スケジュールが幸いして、この滝川二中に2-1で勝ち、2勝1敗で1次リーグを突破した。決勝トーナメント初戦は愛媛の大州北中学に2-1で破れたが、中学生たちにとってはふだん経験できない実に貴重な経験となったようだ。

中学生も高校生もこういう経験を積んで子供達は少しずつ成長していく。

最近では、Jリーグユースに各県の優秀選手が吸い上げられてしまい、中高サッカー部の”衰退”現象が囁かれている。各県のサッカー協会の幹部の間では、「Jユースに入れなかった次のレベルの選手が高校サッカー部に入る」といわれる始末。そんな中の快挙であり、非常にすばらしいと私は感じる。

逆に言えば、私はここ最近のJリーグユースの育成事業は少し(かなり)”だれ”てきているのではないか、と心配している。Jユースに入る選手達は、小中学校でテスト合格して入っている運動神経で言えばトップレベルの選手達である。しかし、基本技術など非常にうまくなっている面もある反面、メンタルな面で非常に悪い傾向も出てきているように私は感じている。

というのは、最近ではこんなことをよく耳にするようになったからである。

我が家の息子達の仲間にもJユース(徳島ヴォルティスユース)に入るような子供もちらほら出てくるようになったが、そういう選手達は地域の小中学校の中では、言わば”サッカーエリート”である。小中学校のサッカー部や他の民間のサッカークラブの選手たちよりずっと上のクラスの”格が違う”サッカー選手と見られるようになる。すると、時としてそういった選手は、小中学校の中では他の普通のサッカー選手達の前では結構横柄に振る舞うようになったらしい。その父兄も横柄に振る舞うらしい。

ここが同じようなシステムで大成功しているフランスとは違うところなのである。フランスでは、プロユースの選手たちは、全寮制のためクラブハウスに住む。そしてそこから学校に送迎されるために、学校で他の選手たちとサッカーで競うことはない。だから、学校では同じ生徒として仲良く勉強する。だからフランスの場合には、日本のように学校でサッカー選手として特待生気分、あるいは天才気分を味わう、優越感に浸るというような場面がない。なぜなら、学校が終わればすぐにクラブハウスに戻されるからだ。

ところが、日本のJユース育成システムはフランスの方式より”中途半端に”取り入れたため、こういった新しい問題がでてきたと言える。そして、それに各地方のサッカー協会の幹部が拍車をかける。極端な話、「Jユースに入れない選手はくずだ」と言うというように、レッテルを張る悪い気風が生まれつつあるわけだ。そして、Jユースの選手もこれまた「日本人特有のメンタリティー」から学校で小中学生という早い段階から”有頂天気分”に浸ってしまうわけである。(非常に困ったことだが、これは、灘や開成など有名私立中学高校の校長が、「普通の学校に入っているものはくずだ」と考えているというのに非常に似ている。)

確かに選ばれた才能豊かなサッカー選手達がJユースに入ってプロの指導を受けているのだから、そこと普通の小中学高校サッカー部が試合をすれば、Jユースが勝って当たり前のはずなのである。なぜなら、totoの”天下り”のバカ官僚たちのおかげで未だに小中学高校のグラウンドが芝になっていない現状で、Jユースの選手達だけは芝生のグラウンドで練習できるからである。

にもかかわらず、最近のJユースは”若干”弱くなったように私は見ているのである。その理由が、上で述べたような選手達の”驕り”や”油断”や”有頂天”にあるのではないか。それゆえ、Jユースが高校に負けたのではないか、と私は感じるのである。

ここ最近は、高円宮杯では、Jユースが高校サッカー覇者を一蹴するようになった。それまでは、なかなか高校の強豪に勝てなかったのだが、そのおかげでJユースの選手達には、まだ自分達はベストではないという謙虚な気持ちに溢れていた。それが、ここ最近では文字どおりJユースが最強となり、向かうところ敵無しとなってしまった。それがために、Jユース世代の選手達のメンタリティーが”悪く変化”したのだろうと私は見る。つまり、言い換えれば、Jユースの選手たちのメンタリティーの変化と同時に、それを指導しているJユースの指導者たちのメンタリティーが急速に変化したのだろうと私は感じている。そして横柄になってきた。

将来、これは日本のサッカーの歴史の中で大きな転換期になるかも知れないと私は思う。というのは、

”サッカーでは心掛けの悪いチームは勝てない”

このサッカーの掟を無視したJユースの指導法では、世界のサッカー界では通じることはないと思うからである。今後は、Jユースは技術指導のみならずメンタル面での指導が急務となってきたのだろう。こんなことを感じさせる今大会であった。
2006/10/07のBlog
「鶏が先か、卵が先か」という有名なパラドックスがあるが、私が最近思うことは、何やらいろんなところに似たようではあるがちょっと趣の異なる「パラドックス」があるということである。これをメモ代わりにここにまとめておこう。

まずこんな話から始めよう。

 あなたは、とある大企業の社員とする。ある時、たまたまあなたが都内を歩く傍ら、道ばたに寝ているホームレスに出くわしたとしよう。きっとあなたはこう思うだろう。
「ああいう連中には困ったものだ。社会にパラサイトしているウジ虫だ。何の役にも立たない」
 またある時、あなたは仕事の途中、街で小さな商店を見る。きっとあなたはこう思うに違いない。
「あんな小さな商店は社会のお荷物さ。大企業がなければ売るものもなく、生き延びる事すらできっこない。ホームレスほどはひどくはないが、あれも似たようなもの。社会にパラサイトしているのだ」
 そしてあなたは日々こう考えながら満足して生きていることだろう。
「現代社会においては、大企業こそ本当の組織なのだ。現代の社会人は皆良い企業に入っている人間こそ真の人間、まっとうな人間なのだ。ホームレスや小売店、ましてや自宅に引きこもっているニートや主夫なんていうのは社会のくず。人間の屑さ。俺達、大企業やしかるべき組織の正社員こそ現代の人間。人としての勝ち組なのさ。だからやつらは負け組さ。」

まあ、ここまではっきり言う人はいないかも知れないが、大なり小なり普通の人はこんなふうに考えているのではないだろうか。また、大筋において、現代日本社会でよく聞く意見である。つい最近の細木数子の番組で、彼女もそんなふうな意見を若者達の前で披露していた。

こういった意見や考えなどにはいろんな立場があり人それぞれ(もちろん私はそうは思わないが)。その正否に関しては議論百出であろう。そういう見方もあれば、そうでない見方もある。しかし、ここで紹介したい事は、この話の”内容”そのものというのではなく、この話の”仕方”に私が最近気付いた非常に面白い問題がうまく含まれているということである。

では、今度は次の話はどうか。

 ウィルスは、それ自体では自己複製できない。それゆえ、ウィルスは自分を複製して増殖するためには、宿主となる別の生物の細胞に感染しなくてはならない。
 マイコプラズマは、ウィルスよりちょっと複雑な半生命体である。まだ完全には真核生物の細胞のようにはなっていない。そのため、マイコプラズマはウィルスと同じく、自己複製するためには宿主となる別の生物の細胞に感染しなくてはならない。これがマイコプラズマ肺炎である。
 マイコプラズマよりもうちょっと進化した細胞は、大腸菌である。大腸菌は立派な単細胞生物であるが、それ自体で繁殖するには弱すぎるので動物の大腸の中でしか生きられない。
 この意味で、こういったウィルス、マイコプラズマや大腸菌は、生物にパラサイトする(寄生する)病原体である。それゆえ、ウィルス、マイコプラズマや大腸菌は、生命進化の過程の王道を進んできたのではなく、逆進化した異端の生命体である。

これは、生物学者と話したり、生物学者の本を読んだりするとよく出会う結構常識的な見解である。そんなわけで、一般的には(普通の生物学の話としては)、生物進化において、ウィルスはそれ自身では自己複製できないのだから、ウィルスから細胞へ進化したのではないと解釈されている。

さてここで最初の日本社会の話に戻る。

この”ウィルスの話”と最初の”ホームレスの話”は非常に似ていると私は感じるのである。話の論理の展開の仕方がそっくりだと思うのである。それに最近私は気づいたというわけである。

つまり、以下のようなうまい対応が付くということである。

ウィルス ーー→ホームレス(だれかの援助なしには生きられない)
マイコプラズマ→出店(まだ完全な店になっていない)
大腸菌 ーーー→小売店(大きな会社の下でしか生きていられない)
真核細胞 ーー→1企業
多細胞生物 ー→大企業

ところで、ここで私が何を言わんとしているか、と言えば、”ホームレスの話”も”ウィルスの話”もともに「現代に生きるものの立場から見ている」、ということである。もちろんホームレスは現代社会の話であり、ウィルスも現代生命圏での話である。現代の社会体系の中からホームレスを論じ、現代の生態系からウィルスを論じている。そうやって、社会進化を論じ、生物進化を論じているわけだ。

すると、こうなる。

(あ)ホームレスは店や組織に依存しそれ自身では食っていけないのだから、大企業がホームレスから進化したはずはない。
(い)ウィルスは宿主細胞に依存しそれ自身では自己複製できないのだから、細胞がウィルスから進化したはずがない。

(あ)と(い)はまったく同じことを言い換えているだけだが、(い)の推論は現代生物学の”主流”の考え方である。しかし、(あ)は明らかに間違いだ。

なぜなら、太古の人類はいわばみんながみんなホームレスのようなものであった。家はなく、食うや食わずの狩猟生活だった。腹が減ったら”冬眠”するだけだ。実際、多くのほ乳類は冬眠するし、ウィルスとは”冬眠”した生命体のようなものである。

生物学では、「ウィルスが先か、細胞が先か」といえば、「細胞」が先だろうと考えている。では、「細胞」より先は何かといえば、それは生の「DNAの自己複製するシステム」である。では、「DNAの自己複製システム」より先は何かといえば、おそらくそれは「RNAの自己複製するシステム」であろう。なぜならそれ自身で自己複製できなければ、生物としての機能を満たさないからだ、というように考えられている。

しかし、みんな昔は原始人。ホームレスの人類から現生人類は出発した。猿人や猿は、森に住んでいた。そういうことを我々は知っている。

ならば、現代社会のホームレスは自分で食うことができないというように、今はウィルスが自己複製できなかったとしても、ずっと昔にはウィルスが自己複製できた、人類にとっての”太古の森”に匹敵するような環境があったのではないか。論理的には、こっちの方が自然ではないか、と私は時々感じるのである。

果たして本当はどうであったか。

これはこれから研究していかなくてはならないことだろう。
2006/10/06のBlog
スウェーデンアカデミーの「ノーベル賞」をパクったアメリカの”パロディー”ノーベル賞”イグ・ノーベル賞”(ハーバード大学主催)の今年の受賞者が発表されたようだ。

「教師に聞こえない携帯着信音」にイグ・ノーベル平和賞
Winners of the Ig Nobel Prize

【鳥類学賞】
「キツツキはなぜ頭が痛くならないのか」(米カリフォルニア大デービス校)

【栄養学賞】
「クウェートの糞ころがしの糞の好みについて」(クウェート大)

【平和賞】
「高周波雑音発生装置モスキートの発明」(英国のハワード・ステイプルトンさん)

【音響学賞】
「肝を冷やす音の心理音響学」(米ハーバード大他)

【数学賞】
「まばたきしてもOKな写真」(オーストラリアのスベンソンさんとバーンズさん)

【文学賞】
「必要性を顧みず使用される学識的で固有風土的言葉の帰結:むやみに長い言葉を使う問題」(米プリンストン大)

【医学賞】
「ディジタルな直腸メッセージで止まらないしゃっくりを止める方法」(米テネシー医科大)

【物理学賞】
「乾燥スパゲティを曲げると、しばしば二つより多くの部分に折れてしまうのはなぜか」の研究(仏ピエール・マリー・キュリー大)

【化学賞】
「温度で変わるチェダーチーズ内の超音波速度」(スペインのバレンシア大)

【生物学賞】
「人の臭いとマラリア蚊とリンバーガーチーズ」(ワゲニンゲン大のクノールさん)

補足:
過去の受賞者たち
この中の最後が面白い。こうある。
"Footnote: It is worth noting that Ig Nobel stalwart and 'Keeper of the Broom' Roy Glauber was unable to attend the 2005 Ig Nobel ceremony, having just won the (genuine) Nobel Prize for Physics."

「註:注意しておく価値があるのは、イグ・ノーベル賞の忠実な理解者で”ほうきの守神”であるロイ・グラウバーは、(正真正銘の)ノーベル物理学賞の受賞のため、2005年度イグ・ノーベル賞授賞式に参加できなかったということである。」

写真:ロイ・グラウバー(昨年のノーベル物理学賞受賞者)と物理学者たち
2006/10/05のBlog
日本代表、ガーナに0-1で敗れる 親善試合

オシム・ジャパンの実力を占う大事なガーナ戦、点差こそ1-0の1点差だったが、試合内容からすれば実質的には、3-0か4-0くらいの差があった試合である。

GK=川口能活(磐田)
DF=阿部勇樹(千葉)、今野泰幸(FC東京)、水本裕貴(千葉)、鈴木啓太(浦和)→長谷部誠(浦和)
MF=遠藤保仁(ガ大阪)→中村憲剛(川崎)、駒野友一(広島)、三都主アレサンドロ(浦和)→二川孝広(ガ大阪)、山岸智(千葉)→播戸竜二(ガ大阪)
FW=巻誠一郎(千葉)→我那覇和樹(川崎)、佐藤寿人(広島)→羽生直剛(千葉)
ガーナはW杯出場選手9人が先発。

日本のゴールキーパーの川口は、昔から”負け試合”に目立つ選手である。本来ならキーパーというのは、いるのかいないのか分からないというくらいに目立たないのがベストなのだ。しかし、どういうわけか川口は、「川口は頑張ったけど負ける」というタイプの選手となってしまった。せっかくスーパーセーブしても負けてしまったのでは何にもならない。

それにしても、日本の選手はシュートが枠へ行かない。毎度毎度オシム監督も「なぜだ」という表情を浮かべていた。今回はトルシエ・U20世代のレギュラーの1人で、アフリカ・ナイジェリア大会で準優勝した時のメンバーだった播戸が初選出され、少しは決定力が増すかと思って見ていると、ようやく播戸の出番となった。がしかし、「播戸よ、お前もか」という相変わらずの”おなじみの”プレーとなってしまった。日本のエースストライカーのシュートも枠へ行かない。

何やら「Jヴィレッジ疑惑」(サッカー界の疑獄事件に発展の予感:Jヴィレッジ疑惑 )が尾を引いているのか、日本選手の技量は相変わらずだ。ちっともうまくならない。

何よりもこのチームに欠けているのは、日本代表に選ばれた選手たちに”輝き”(俗に言う、”オーラ”)がないということだ。早稲田実業の斉藤投手や駒大苫小牧の田中投手たちのような”独特のムード”がない。”スター性がない”と言い換えてもいいだろう。とにかく、”華がない”。したがって、これが役者やテレビの世界であれば、主役というよりは脇役に回されてしまうに違いない。そんな「谷間の世代」の脇役をオシム監督は集めて来た感じである。

この原因はよく分からないが、オシム監督には独特の特徴があるように見える。私の分析では、それは次のような特徴である。

(あ)(どちらかといえば)ハンサムでルックスの良い選手が好きだ。
(い)(どちらかといえば)知的に見える選手が好きだ。
(う)(どちらかといえば)強引な選手よりそつないプレーをする選手が好きだ。
(え)(どういうわけか)チームの中の大人しい選手が好きだ。
(お)(どちらかといえば)控えめな選手が好きだ。

というわけで、こういった特徴を備えた選手ばかりを集めた結果、少年サッカーのようなチームとなってしまったように見える。

この原因は、おそらく、オシム監督は、日本語が理解できないので、どうも「日本人メンタリティー」がよく分かっていないのではないか、と私は見ている。そこが、チームメートとして何年もプレーしたドゥンガやジーコとは異なる。ドゥンガやジーコは、日本人選手の弱点となる「日本人メンタリティー」をよく理解していた。しかし、オシム監督にはそこが分からず、サッカーの質やプレースタイルを見て選手を選ぶのは良いが選手同士のメンタル面やコミュニケーション面(つまり、だれがリーダーでだれがボス猿かというようなこと)を全く理解していないのではないか、と私は感じることがあるからだ。

実際、今のこのチームには、ゴン中山や三浦カズや中田ヒデのような「俺が、俺が」、「俺に回せ」、「俺にボールをよこせ」と言うような押しの強い選手はいない。皆まじめで正直で大人しく控えめな選手ばかりだ。だから、当然の結果として、プレーに意外性や強引さが出ることもなく、だいたいのプレーの予測がつく。これでは、勝てない。

サッカーはまず人間がするものだ。機械がするものではない。だから、いくら技量においては優れていても、メンタル面で秀でていなければ、サッカー選手としてトータルに勝ることはない。それゆえ、いくらオシム監督が良い監督で、戦術面、チーム面、技術面で飛び抜けた選手達を集め、バランスのとれたチームになったとしても、今度は選手間の人間関係で絶妙なバランスがとれないのであれば、結局統率が取れずサッカーでは勝てないのだ。事実、オシム監督は、Jリーグのジェフでもいつもここぞという時に失敗して来た。それが、ジェフの選手のメンタリティーの弱さであり、意志の弱さである。

下手をすれば、オシム監督が日本人青年のメンタリティーを理解するまでに4年以上かかり、結局次のワールドカップには間に合わないということもあり得る。この意味では、前に書いたように(オシム・ジャパン:谷間は谷間、オシムが可哀想。 )、オシム監督には8年、12年と長期的に面倒見てもらう他ないのかも知れない。

ところで、日本の新聞は、”どうしてガーナのメンバーを公表しないのか?” 全く理解に苦しむ。

なぜなら、ガーナは、日本より上位の27位のチームであり、なおかつワールドカップ・ドイツ大会でベスト16に入ったチームであり(アメリカと死闘を繰り広げたあのガーナなのだ)、なおかつヨーロッパのクラブチームでレギュラーで活躍している選手達がほとんどであるからだ。エシエンなど世界屈指のMFで、50億円プレーヤーというスーパープレーヤーなのだ。”格が違う”相手がわざわざ日本に来て試合をしているのだ。なぜそんな選手達のメンバー表を出さないのだろうか。世界のサッカーファンや我々日本のサッカーファンは、”無名の”オシム・ジャパンを見ているのではなく、ガーナ代表を見ているのである。

この辺りにも日本のマスコミには「日本の常識は世界の非常識」が現れているようだ。

それにしても、日本代表には、このガーナに一泡吹かせてやろうという気概が全くなかったネ。オシム監督には、ぜひ今度は”オーラ”のある選手、”スター性”のある選手、”輝き”のある選手を選んでもらいたいものだ。U18の柿谷なんていいネ。昨年優勝した野洲高校出身の選手もいいだろう。しかし、私の考える常識なら、多少下手だろうが各チームの”主将クラス”を一同に集めて、「Jリーグチームの主将になれば日本代表に入れる」という1つのステータスを作ることである。これなら非常にモティベーションが高くなると思う。チームの主将クラスであれば、メンタリティーにも優れ、その主将の中の主将が日本代表の主将になるといういい流れができると思う。まあ、残念ながら、外人のオシム監督にはこの辺は理解不能だろう。
ノーベル経済学賞(俗名、ノーベル応用数学賞)の発表までは少し時間があるので、今回の自然科学を振り返ってみよう。

いやはや何というべきか。やはり、アメリカのアカデミズムセクターの”底力”はすごい。アメリカは社会面・スポーツなどで”凋落”、”衰退”モードにあるが、科学分野だけはまだ世界で突出した力と勢いを保っているように見える。

今回の科学賞では、

マサチューセッツ大学のCraig C. Mello博士→ハーバード大出身
スタンフォード大学のAndrew Z. Fire博士→MIT出身
カリフォルニア大学バークレー校のGeorge F. Smoot博士→、MIT出身
NASAゴダード宇宙飛行センターのJohn C. Mather博士→カリフォルニア大学バークレー校出身
スタンフォード大学のRoger D. Kornberg博士→スタンフォード大出身

と現職のスタンフォード大教授が2人、カリフォルニア大バークレー校教授1人、マサチューセッツ大教授1人。そして、出身校は、MIT2人、ハーバード大1人、カリフォルニア大学バークレー校1人となっている。

アメリカの大統領選挙を見ても分かるが、今のアメリカは、インテリの北部vsネオコンの南部と分かれ、さらにハイテクの東海岸・西海岸vs農業畜産の中南部と分かれている。人口もほぼ半分ずつ。政党は、インテリの北部とハイテクの東海岸西海岸が民主党支持で、ネオコンの南部と農業畜産の中南部が共和党支持である。選挙の際には、この両者が国を2分して戦う。

アメリカの知識層の中でもトップレベルの知識層、そうノーベル賞級の知識層は、ほとんどがハイテクの西海岸・東海岸に住むと言われている。最近ではさらに、ノーベル賞を欲しければ、東海岸にいてはだめだということで、有名になればどんどん西海岸へ移住してくると言われている。

(今回のノーベル賞を見てもこのことが分かる。学生時代に東海岸のMITで博士になり、その後西海岸スタンフォード大で教授となり、ノーベル賞をもらったものが2人。ちなみに、利根川進博士もMIT教授。スタンフォードに移れば2個目のノーベル賞がもらえるかも知れない。ついでに言えば、青色発光ダイオードの中村修二博士はカリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)。

西海岸とはカリフォルニアのことであり、ハリウッドスターのシュワルツェネッガーが州知事をしているハリウッドの街である。すなわち、アカデミー賞の”赤じゅうたん”の場所である。ここに多くのノーベル賞学者やその候補者たちが住んでいるのである。

カリフォルニアと言えば、教育を知っている人なら知っているだろうが、「カリフォルニア大学機構(10大学と3つの国立研究所)」や「カリフォルニア州立大学機構(24大学)」で有名である。そして、スタンフォード大学、南カリフォルニア大学(USC)、クレアモント大学、カリフォルニア工科大学(Caltech)、カルフォルニア芸術大学(CalArts)などの有名なスーパー私立大学群がある。その他にも無数の大学がある。

これを見れば分かるように、カリフォルニアという1つの州が、日本のような1国に匹敵する、いやそれ以上の大学群を持っているのである。事実、カリフォルニアの分校とはいうが、どの1つをとってみても、日本の東京大学よりすべての面(人材、学生、予算、施設、ローケーションなど)で勝っているのである。この上に世界の英知(ビッグスター)や天才を集めたスタンフォード大やカルテクがある。

日本で言えば(=日本になぞらえて言えば=つまり、アメリカの3次元社会から日本の2次元社会へ射影して言えば)、こうなるだろう。

カリフォルニア大学機構(10大学) ー→日本の旧帝国大学(7大学)
カリフォルニア州立大学機構(24大学)→日本の国立大学(83大学)。
スタンフォード大、カルテクなど ーーー→早稲田大、慶応大など
その他の大学(コミュニティーカレッジ)→その他の大学(73公立大学)

したがって、カリフォルニア機構の呼び方を日本の大学に当てはめれば、

北海道大学→帝国大学北海道校
東北大学 →帝国大学東北校
東京大学 →帝国大学東京校
名古屋大学→帝国大学名古屋校
大阪大学 →帝国大学大阪校
京都大学 →帝国大学京都校
九州大学 →帝国大学九州校

ということになる。これら以外の国立大学は、カリフォルニアの”州立大学”に当り、県立市立大学など公立大学は、カリフォルニアのコミュニティーカレッジに当る。

というわけで、日本の場合は、戦前は日本の大学制度はほぼ当時のカリフォルニアと同じ規模の大学群があり、欧米と同レベルで競えたと考えられるが、戦後になり、旧帝国大学以外の国公立大学がやたらと増え、旧帝国大学の足を引っ張ったらしいことが分かる。そして、日米の大学レベルの差が一気に開いて行ったようである。

上の対応から分かる人なら分かるだろうが、その昔の私のBBSでもこの「カリフォルニア大学機構」のことは書いたことがあるが、”日本が教育改革する場合”には、この「カリフォルニアの大学システム全体を非常に良く研究して参考にするのが好ましい」のである。

それは、人口、規模(広さ)、経済、立地条件、地震災害、気候、風土、人柄など、あらゆる面で日本はカリフォルニア州に似ているからである。また、かつて江戸時代末期に咸臨丸でアメリカに渡った勝海舟や福沢諭吉が見たアメリカこそ、このカリフォルニアだったのであり、明治の日本政府が念頭においたアメリカ型教育とはカリフォルニアスタイルだったのであると考えられるからでもある。

この意味からも、私個人は、現代の世界の頭脳の集積地、ノーベル賞学者の街となっているカリフォルニアという興味深い州における大学教育システムを日本は再び研究し取り入れて行く必要があると考えている。

果たして「教育改革、教育改革」と叫ぶ安倍晋三さんや自民党議員たちに、「カリフォルニア州こそ日本の未来像だ」という発想があるだろうか。(たぶん全くないだろう。)
2006/10/04のBlog
Congratulations! おめでとう。

真核生物の遺伝情報の転写 」がノーベル賞を受賞。

ノーベル化学賞にロジャー・コーンバーグ教授

今年のノーベル化学賞は、 スタンフォード大学医学部のRoger D. Kornberg博士(1947年生の59歳、スタンフォード大出身、写真上)に決まった。

"for his studies of the molecular basis of eukaryotic transcription"



父親はノーベル賞学者のアーサー・ コーンバーグ博士(スタンフォード大学医学部生化学科 名誉教授。ロッチェスター大学医学部出身。写真中)


次男の弟は発生生物学者Tom B. Kornberg博士(カリフォルニア大学サンフランシスコ校教授。コロンビア大学出身。写真下)

アメリカの典型的なユダヤ系学者の”華麗なる一族”である。弟がノーベル賞を取る日も近い。子供達もそうなっていくんだろうナ。
「極楽とんぼ」山本圭一・元メンバー、不起訴処分に
函館地検、 ”少女と示談が成立し、少女と母親が9月22日、告訴を取り下げた。”

つまり、芸能人は、未成年女性と”淫行した”のに示談のみ。

酒気帯び運転、中村獅童さんに罰金20万円命令
東京簡裁、”罰金20万円の略式命令”
つまり、芸能人は、”飲酒運転事故を起こした”のに罰金のみ。

これでは、芸能人は何でも金で解決、やっぱり金さえあれば何でもできる、というメッセージを青少年少女は受け取ったことだろうヨ。

それに対して、

植草元教授を起訴 東京地検、電車内で痴漢
東京地検、植草教授は、”女子生徒のスカートの中に手を入れ、下半身を触った疑い”だけで起訴。

芸能人は、現行犯で未成年女性と淫行しようが、夜中に不倫し飲酒運転して事故起こそうが、”無罪”(や”罰金”)程度だが、民間人は電車で女子高生が悲鳴をあげただけでアウト。

この違いは何だろうか。やはり「陰謀説」の気配を感じる。
「この世にフェアなものなんてない。アンフェア」
というドラマの台詞を思い出す。

どうやら小泉・安倍自民党政権のいう「美しい国」とは、民間人、芸能人、公人などの新たなる”カースト社会”のことらしい。
2006/10/03のBlog
Congratulations! おめでとう。

COBE」がノーベル賞を受賞。(NASAのCOBE

ノーベル物理学賞は米の2氏 電波「背景放射」を観測


今年のノーベル物理学賞は、カリフォルニア大学バークレー校のGeorge F. Smoot博士(1945年生の61歳、MIT出身、写真上)とNASAゴダード宇宙飛行センターのJohn C. Mather博士(1946年生の60歳、カリフォルニア大学バークレー校出身、写真下)の2人に決まった。

"for their discovery of the blackbody form and anisotropy of the cosmic microwave background radiation"
今年のノーベル生理医学賞は、マサチューセッツ大学のCraig C. Mello博士(1960年生の45歳、ハーバード大出身、写真上)とスタンフォード大学のAndrew Z. Fire博士(1959年生の46歳、MIT出身、写真下)の”若い”2人に決まった。

"for their discovery of RNA interference - gene silencing by double-stranded RNA"
2006/10/02のBlog
最近は、毎日ブログに何か書いているが、それは私が特に”勤勉”というわけでも”律義”だからというわけでもない。ここ最近の1ヶ月の間に日本国内ではあまりに”ばかげた”出来事が多すぎるからだ。どういうわけか、ますます「日本の常識は世界の非常識」的なこと、「無知蒙昧」的なことが日本の指導層を通じて出てきたことが原因だろう。何も書かなくてもいい日が来て欲しいものだ。

さて、読売の社説にこんなものがあった。
[外国人看護師]「体制を整え着実に受け入れたい」

これは、先進諸国で「看護師=看護婦・看護士」の数が激減し、一方で高齢社会となって看護を希望ないしは必要とする人々が増えすぎて、何とか数を確保したいという目的のための”苦肉の策”として考え出されたものである。要するに、後進(=発展途上)諸国の人命はなおざりにしても良いから、先進諸国の人命を優先したいという大国やリッチな国の”エゴ”の産物なのである。

常識的に考えれば、先進諸国で看護師が足りず、結果として早死にしていけば、後進国はそのままでも早死にしているわけだから、多少なりとも、”先進国と後進国の差”が縮まっていくのではないか、と想像できる。しかし、これでは後進国の”上澄み”を一掃してしまうわけだから、その差が広がるばかりとなる違いない。

しかし、欧米や日本の医療施設としては、死活問題だと思うため、どんどんどんどん後進国のいいところを必要とする。

そこで、アメリカはこう出た。アメリカの場合は、どこかテレビのニュース特集では、フィリピンやマレーシアなどの医師(母国では経験のある医師)でもアメリカの看護師資格を取れば、アメリカの医療施設で”アメリカ並”の給料で働けるという制度を作った。これにより、後進国の優秀な医者が看護師になってアメリカで働くのである。なぜなら、アメリカ医学界はアメリカ以外の国の医師資格を認めないからだ。もちろん日本の医師免許もアメリカでは通じない。

こういう事実を知った上で、最初の記事を見ると面白い。というのは、日本の政治家や官僚やもちろんマスコミやインテリたちがいかに”バカ”か分かるからだ(私はバカほど嫌いなものはない。いくら学歴があろうが地位があろうがバカは所詮バカだ。もちろん、私の言う意味の”ばか”とはフォレスト・ガンプの言う意味だが。つまり、バカなことをするのがバカ)。

その読売の社説記事にはこうある。

『看護師らを日本に受け入れる、と言っても、フィリピンでの資格をそのまま認めるわけではない。「候補者」として3一4年の在留を認め、その間に日本の看護師または介護福祉士の資格を取ってもらう。合格できなければ帰国する。』

つまり、日本の場合は、国税を使ってわざわざ後進国の看護師資格を持つものを、日本へ3一4年の在留させ、資格を取れたものは残すが取れなかったものは返すというやたらと親切な待遇のものである。

一方、上述のように、アメリカの場合は、アメリカの看護士資格をその国でテストし、それに受かったものをアメリカへ送る。だから、賃金や物価の安い後進国ベースでやるために経費があまりかからない。さらに、その国の医者が看護師になってやってくるわけだから、その国のもっとも医療レベルの高いものが、アメリカの医療看護師として加わるわけだ。後進国には可哀想だが、実に”巧妙な”やり方である。

では、この日米の差から何が生じるか。

これもだれにも明らかだろう。

まずは、後進国の”上澄み”(=一番医療レベルの高い人々)は全部根こそぎアメリカに取られ、その下のレベルの普通の看護師が日本にやって来ることになる。場合によっては、偽看護師免許や偽造看護士免許を持ってやってきて、日本で研修している振りをして実は他で働き荒稼ぎするものも出てくるだろう。昼の看護師というより、”夜の看護師”になるかも知れない。

読売の社説記者は言う。

「日本人と同じ国家試験を受けて合格した人が、その後、日本で看護師や介護福祉士として働き続けることを拒む理由はなかろう。」
「フィリピンは国策として、看護師を米国などに年間1万数千人も送り出しており、能力も高いと評価されている。」

こういうのは何と表現すべきだろう。やはり、”脳天気”というのだろうか。現実を基にした私の解釈とは180度逆の解釈である。この人物の認識の甘さには恐れ入る。

後進国の看護師や医師とてバカではない。できれば、一番住みやすい国、一番儲かる国、一番夢のある国を望む。おそらくそれは英語の国のアメリカだろう。だから、むしろ、一番ありそうなことはこうであるかも知れない。

法律上、資格上、金銭上などいろんな理由で最初にアメリカ行きが叶わなかった場合、アメリカでも日本でもどっちみち、現状の母国の資格は使えないので、まずは「候補者」として”迎えてくれる”日本へ行く。そして3一4年の在留期間にできる限り研修の合間に働く。十分円が稼げたら、途中でもアメリカへ渡り、医療ヘルパーとしてアメリカの病院に勤務する。その際に日本の医療機関で研修したことを利用する。そしてアメリカで資格を取り何とかして正規の看護師として勤務する道を目指す。

こうして、結局”日本の制度”は、ますますアメリカへ看護師を供給するための道具とされるのだ。

果たして真実がどっちへ転ぶかは、いずれ判明するだろう。
[ 08:42 ] [ 科学ニュース ]
科学者ならだれもが一度は夢見るノーベル賞。今年2006年度の発表がもうすぐ始まる。



nobelprize.org
10月2日生理医学賞
10月3日物理学賞
10月4日化学賞
10月9日経済学賞
10月13日平和賞
10月?日文学賞
写真:未知のサメ、メガマウスの解体作業。何事も経験を積むことが一番。

手術少ないほど高死亡率 がんや心臓病で学会調査

これによると、しばらく前に私が
繰り返される「警察ミス」:その原因はどこにある?
手術ミス:’くり返される人体実験’
科学者の研究経験不足
などで”分析”したことが、きちんとしたデータとして証明されたようだ。

”1年間の肺がん手術数が10件に満たない医療施設は、150件以上手掛ける施設に比べて手術に伴う死亡が最大約4・9倍になる”
”手術数の多い施設と少ない施設では食道がんや心臓病の手術でも同様に成績の開きがあり、手術が少ないほど死亡率が高い”

「2000年から04年までに全国約770の医療施設で行われた胸部外科手術約42万件を集計。手術数と手術による死亡率との関係を調べた。」
という。結果は以下の通り。

【肺がん手術】
1年間の肺がん手術数で比較。
平均死亡率=約1%。
ほとんどの施設の%<1%。
全体の約23%手術数年9件以下の施設=平均約1・6%。
約11%と極端に高い施設もある。
10件以下の医療施設の死亡率は、150件以上の施設の最大約4・9倍。

【食道がん手術】
治療成績が良い、手術数50件以上の施設はごくわずか。
全体の約93%は24件以下で、死亡率は50件以上の施設の約3・0倍。

【心臓手術】
年100件以上と24件以下で約2・2倍の差。

【緊急手術や新生児の手術】
年間件数が少ないほど死亡率がばらつく。


とまあ、こんなデータが得られたらしいが、こんなことは調べるまでもなく明らかな事。医者や病院、あるいは厚生労働省の官僚など専門家は、我々部外者に言われても納得できなかっただろうが、自分の頭で納得するためには”必要な調査”だったと言えるかも知れない。これにより、手術経験200例以上ないと手術医として独立させない、というフランス式も理にかなっているということが分かるだろう。

この話と全く同じことが、警察官の捜査の場合にも言えるし、また科学者の研究の場合にも言えるのである。こういった問題にも、「成績のいい場所はますます良くなり、成績の悪い場所はますます悪くなる」というスケールフリーネットワーク的な内容が含まれていることが理解できる。
2006/10/01のBlog
最近私は1つ非常に面白いことに気づいた。これを今回は”メモ”代わりにここに書いておこう。

まずは、右図(Figure5)を見て欲しい。

これは、昨年(2005年)6月号のPhysics Today(アメリカ物理学会誌)に載ったSidney Redner博士による"Citation Statistics from 110 Years of Physical Review"という論文にあった図である。

この論文は、過去110年間にアメリカのPhysical Review関連の雑誌に載った論文で全部の”被引用数(サイテーション)”を調べて、そのうちのトップランク(被引用数が1000を越えたもの)に入った論文を紹介したものである。

この図のBCS、EPR、G4、J/ψ、KS、Wとは、それぞれノーベル賞を取った有名な研究論文の”代名詞”である。BCSはもちろん超伝導の「BCS理論」、EPRは「アインシュタイン、ポドロスキー、ローゼンの量子力学批判の論文」、G4はギャングフォーと呼ばれた「アンダーソン局在のスケーリング理論」、J/ψは素粒子論の「J/ψ粒子発見の論文」、KSは「量子多体問題のコーン一シャムの汎関数理論」、そしてWは素粒子論の弱い相互作用の「ワインバーグ一サラムの理論」のことである。

この図のグラフは、これら6つの論文でそれぞれを「どれだけの他の論文が引用したか」の数を年ごとに追っている。それゆえ、このグラフの下に囲まれた面積(積分)がそれまでのトータルの被引用数ということになる。

逆に言えば、1つの論文には他人の論文は1度しか引用されないので、「どれだけの他の論文が引用したかという被引用数」とは、「その引用されたオリジナル論文に関連して出版された論文の数」という意味でもある。言い換えれば、「被引用数=関連論文数」という意味でもある。

それゆえ、このグラフの意味するものは、だれかがある時にオリジナルの発見をしてその内容を論文として公表するとそれを知った追随者たちが、似たようなテーマや話題で研究し、そのオリジナルの論文に新しい内容を少しずつ追加する。そしてその都度論文が増えるということである。したがって、あるオリジナルの論文の被引用数を知れば、逆にそのテーマの追随者の数が分かるということになる。

これらのグラフにいくつかの特徴が現れている。

まず、J/ψ論文は、”鋭いピーク”とともにすぐに消え去る。これは、新しい”実験”結果が大発見当時にあっという間に流行になったが、すぐに事実が定着してその後だれも研究しなくなったということである。つまり、別の問題に皆移ったということを示す。

BCS論文とW論文は、J/ψ論文ほどではないが、徐々に”ピーク”に上がり、それからゆっくり減衰する。これは、その論文の重要性が徐々に知られ、世界に定着するとだんだん役割を終えてこの研究をするものがいなくなるということである。しかし、BCS論文の場合には、1985年以降復活する。それはこの時期に別の超伝導、高温超伝導が発見されリバイバルしたからである。

一方、G4、EPR、KSの3つの論文は、徐々にその数を増やしている。つまり、徐々にこれらのテーマが研究されるようになり関連論文が増えていることを意味している。

KS論文は指数関数的ではなくほぼ線形に増えているために、さらに増えそうな気配がある。面積が非常に大きく、このテーマの研究者数の多さを表している。

面白いのは、EPR論文でこれは、1935年に公表されたのに、80年代後半から1990年頃までほとんどばかにされきっていて誰にも相手にされなかったが、この頃に量子コンピュータが考え出されて以降重要性が再認識されて研究数が増えたということである。それゆえ、これは”眠れる森の美女”タイプの論文と呼ばれる。

G4論文は、公表当時にあっという間に有名になったが、それ以降もいろんなところで研究されているので、ほぼ一定の数で研究されている。アンダーソン局在というテーマが、固体半導体からガラス、高分子、DNAなどといろんなシステムに応用されて来たことを物語っている。

以上が”科学研究”におけるお話である。まとめれば、被引用数というもので、そのテーマの研究論文数、関連論文数を見積もることができ、”あるテーマの盛者必衰”の歴史を知ることができるということである。

さて、マイケル・ボウルター、"Extinction: Evolution and the End of Man"(日本語訳、「人類は絶滅する化石が明かす「残された時間」」、朝日新聞社)という、実に興味深い本がある。


今度は、上の本の中にある右図(図5一6)を見て欲しい。上の左右がシダ類の場合、下の左右が両生類の場合である。この図では、同じシダ類あるいは同じ両生類にも、”古生代起源”のものと”中生代起源”のもの2種類がいたということを示すために、左右にわけて表示している。この図は、考古学や古生物学の「化石年代」を横軸(数字は億年前を示す)に、ある生物の生息した「個体の多様性数」を縦軸(種類の数)に表したものである。例えば、シダ類なら縦軸は、シダの中にどれほど多くのバラエティーがあったかの数である。

これを見れば分かるように、古生代起源のシダ類と両生類はともにある時点で”ピーク”を持ち、すぐに絶滅している(すぐと言っても、絶滅するには1億年以上かかっている)。一方、中生代起源のシダ類と両生類は、ともに現在までに徐々にその数を増やしてきたということが分かる。

同様にして”恐竜”族の場合に描いたものが、右図(図4一1)である。これには、約6500万年前にメキシコ湾に巨大隕石が衝突したことが原因でいったん恐竜は絶滅し、その後再び指数関数的に増加した。この増加したものが、いわゆる”鳥類”である。”恐竜類”と”鳥類”を足したらだいたい指数関数則に乗る。それゆえ、鳥は恐竜の一派が生き残ってそこから進化したと統計的にも言えるというのがその著者の意見である。


そして、同じように今度は我々”現生人類”を含む「ほ乳類」の場合にはどうかというのが右図(図5一5)である。この図から、我々ほ乳類の動物は2億年の長い”眠り”から覚め、恐竜が絶滅した約6500万年前に増加し始め、約2000万年前から”減少”の一途を歩み始めて今日に至る。ボウルター理論では、約9億年後にほ乳類は絶滅すると見積もっている。しかし、実際には、理論曲線よりはるかに急激に”減衰”している。

ここまでが、考古学や古生物学の話である。まとめれば、地球上に誕生した生物にも盛者必衰の理があり、どの種にも発展と衰退の時期がある。衰退の原因は隕石の衝突や氷河期の到来など”宇宙物理学的なもの”や”地球物理学的なもの”などさまざまである。しかし、何らかの理由でそれは起こる、ということである。こういった研究はインターネット時代になって世界中の研究者の持つ化石データが共有できるようになって初めてできたのである。この意味では、最近のネットワーク研究が生まれたのと同じような”理由”があり、同じような特有の面白さがある。ともに極めて21世紀的な研究分野である。

さて、ここからが最初に述べた私の発見の話である。

まず被引用数に関する一番上の図(Figure5)とシダ・両生類の絶滅の図(図5一6)を見比べて欲しい。

古生代起源のシダ・両生類の絶滅の仕方は、J/ψ論文の盛衰と実によく似ている。一気にピークにあがりすぐに急激に減衰する。一方、中生代起源のシダ・両生類の増え方は、線形増加型のKS論文の場合と非常によく似ている。ともにまだ”序の口”なのだ。

今度は、ほ乳類の図5一5や恐竜・鳥類の図4一1を見ると、これらの立ち上がり方は、EPR論文のそれと非常によく似ている。特にEPR論文の”眠れる森の美女”的な長い眠りのしかたは、我々ほ乳類の先祖の長い眠りと非常に似ていて面白い。

というわけで、「科学研究の盛者必衰の法則」と「生物種の盛者必衰の法則」には、極めて似た法則がある。きっと何か両者に通じる理由があるはずだろう、というのが私の最近の発見なのである。果たしてどういう理由があるのだろうか。

科学研究の場合には、科学の世界である時だれかが、その時代のある研究テーマで非常に”好いこと”を見つける。それは、科学世界の障壁を突破(ブレイクスルーする)何かである。一度、だれかがブレイクスルーすると、それにしたがってどんどん似たような論文や研究が生まれる。

一方、生物進化の場合には、地球上である時何かの種がその時代の地球上の生活で”好いこと(=有利なこと)”を見つける。それは、遺伝学的な障壁を突破する何かである。一度、その種がブレイクスルーすると、それにしたがってどんどん亜種が生まれていく。

ここに、両者のアナロジーが見いだせる。果たしてこれは”偶然の一致”だろうか。たまたまそうだったということだろうか。

ここから私の個人的な”妄想”を言えば、両者は同じことであると思っている。なぜなら、それはこういうことからだ。

科学者が研究している場合には、自然相手にいろいろな実験したり、理論を作ったりして”研究”する。試行錯誤する。そして時に良いアイデアに出会いブレークスルーする。そうすれば論文という形で世に問う。すると、それに刺激されてどんどん似たような研究が生まれ、その分野が進歩していくわけである。

一方、生物の場合には、自然相手にいろいろな実験したり、理論を作ったりして探求しているのは、個々の生物個体である。あるいは生物個体内のDNAシステムである。あるいは、その生物個体の生命系と言っても良い。そこで突然変異によってこれまでにない特異な個体が生まれる。善かれあしかれどんどん特異な個体が生まれる。これが、一種の”探求”と言える。”探求”したものは、自然と適応するか試されねばならない。ここでこれまで以上にうまくいくものがブレークスルーである。そうすれば、生物はそれを新種ということで地球という世に問う。すると、これに刺激されてどんどん似たような亜種が生まれてその新種の亜種、バラエティーが増える。

生物種の”探求”は、科学者の”研究”であり、生物種の”DNA”は、科学者の”論文”である。

というわけで、両者には以下のような対応がつく、というのが私の発見なのである。

一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーー科学研究ーーーーー生物進化
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーー研究テーマーーーー生物種
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーー論文ーーーーーーーDNA
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーー研究ーーーーーーー自然探索
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーーーーーブレイクスルー
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
新しい事実や概念ーーーー新しい生物システム
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーー新分野誕生ーーーー新種誕生
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一

これをバラバシのネットワークモデルのようなうまい数学理論に乗せることができれば、面白い研究論文となり、”新種”誕生となるだろう。
2006/09/30のBlog
私は最近ちょっと気になっている事がある。もちろん科学の話である。こんなことだ。

仮に私には書く紙がたった1枚しかない。しかし、私には書きたいことが無数にある。しかたないから、その紙を使って端から書きはじめる。少しずつ少しずつ書きたい事を書き込む。そうすると紙が徐々に私の書きたい事で一杯になってくる。すぐに紙一面に私は書きまくってしまったことを知る。一応ここまでに書いた事は首尾一貫している。しかしまだまだ書きたい事はたくさんある。そこで、すでに書いた事の中であまり重要そうでないものを選んで消しゴムで消す。そしてその隙間に別の何かを書き込む。もはやこういった作業をする以外にこの紙に書く事は出来ない。そうして気が付いてみたら、自分が全部書きたい事を書いてしまったと思ったら、紙には支離滅裂な文章の断片だらけとなってしまった。もはや後戻りは出来ず、どうしようもない作品で我慢しなくてはならなかった。

これはあくまで一種の比喩である。

ここで私が問題にしているのは、人間の遺伝子のことである。上で”一枚の紙”に例えたものが、人の細胞の中にあるDNAである。人のDNAにも長さに限りがある。それを1枚の紙に例えた。そして、”紙に書きたい事を書き込む”というのが、我々の”DNAに生じる突然変異”のことである。神様が我々のDNAに我々に善かれと思っていろいろ時間をかけて”書き込む”のだ。そうやって進化した、と科学者は考える。

では、神様に書きたい事が山ほどあり、それがありすぎたらどうなるのか。

おそらく、上の例えのように、神様はそれまでに書き込んだ遺伝子をまた別のものに書き直すというような作業を必要とするだろう。

するとどうなるか。

今度は、いままで上手くいっていた生物学的システムが少しずつ壊されて行くだろう。そして、しまいには、あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たず、というような首尾一貫性のなくなったシステムに変わってしまうだろう。

神様が、もう十分だと突然変異の”書き込み”をどこかで止めてくれれば良いが、神様には書きたい事が山ほどある。したがって、神様は我々のDNAへメッセージを書き込む事を止めない。結局、気が付くと我々のDNAは、最初に描いた支離滅裂な文章の山と同じ事にはならないだろうか。

というのが、私の疑問なのだ。

言い換えれば、生きとし生けるものには、その本来的な意味で、”寿命がある”に違いない、ということだ。

どの生物のDNAにも長さの限りがある。したがって、どこかで、自由に書き込む事を制限しなくてはならない。さもなくば、断片的な文章の羅列となり、支離滅裂な遺伝子配列ということになる。

これは物理で言えば、双対性(デュアリティー)と呼ぶものである。

一杯に詰まった水の中に少しの泡があると、最初は泡が有ると思うが、その泡の数がどんどん増えると今度は、泡が主か水滴が主か分からなくなる。しかしさらに泡が増えると今度は空気中に水滴があるというようになる。さらに増えれば、最後には水滴が1つあるという状況となり、泡と水滴、水と空気が双対的な役割を担ったことが分かる。

この現象の種明かしは、そのシステムの大きさに限りがあるからだ。DNAの中でもこれと同じ事が起こり得る。

こんな風な考えから、もしある生物が本当に進化するのであれば、その時には何らかの形でより長いDNAを待たなくてはならないはずである。もっと紙が必要となるのだ。紙の長さが変わるということは、DNAの長さが変わる事だから、結局新種の生物へと変わる事を意味する。

要するに、どの種族にもそれ特有の考古学的意味の寿命が有り、さらに生き長らえるには、生物種を変えて行かざるを得ないということである。

もしこれが正しい推論とすれば、我々人類も時間とともに、システムは上手く行かなくなり、生き残るには、別の生物へと進化しなくてはならない時が必ず来るということであろう。

人間が進化したらどんな生物になるのか、想像力のない私には想像も付かないが、おそらく恐竜が鳥類となって生き残ったように、羽の生えた鳥人類にでも変わるのだろうか。これこそ”天使”というやつも知れない。空を飛ぶ人類。あるいは、再び海に戻って生きる。これは”人魚”の類いだろう。あるいは、土に潜る。これは”地底人”だろう。あるいは、宇宙に出て、酸素なしでも生きていられる”宇宙人”に進化するのだろうか。

いずれにせよ、今の地球上の生物システムのルールでは、どの生物にもいずれDNAの遺伝子コードにもう余白がなくなる臨界期が必ず訪れるはずである。

写真:NHK映像科学館「DNAの構造」より
2006/09/29のBlog
マル激トーク・オン・ディマンド 第283回(2006年09月01日)
シリーズ『小泉政治の総決算』その5『小泉内閣は改革政権にあらず』


この中の植草教授の話は非常に面白い。

”しかし、植草氏は小泉政治にはより大きな罪があると言う。それは、「構造改革」の名のもとに行った様々な制度改革はその内実をよく見てみると、実際はこれまで日本の政治を支配してきた旧田中派の建設・運輸関連と郵政関連の利権を破壊し、それを小泉氏自身の出身母体となっている財務・金融利権へと塗り替えただけでのものに過ぎないというのだ。そこには国民の生活をよりよくするなどの「国民の側に立った視点」はまったく欠如している。しかも、その「利権の移動」を、アメリカの後ろ盾で行いながら、アメリカのファンドなどにはしっかりと稼がせているという。これが、植草氏が、小泉改革を「売国奴的」とまで呼んで酷評する最大の理由だ。 ”


しかし、この中の最後の「植草一秀氏の当社番組への出演について」はもっと面白い。

”植草氏が主張するように、この事件は品川駅でのできごとに対して、神奈川県内からずっと植草氏を尾行してきた神奈川県警の鉄道警察隊の隊員が、しかも非番の時に逮捕している点など、始めから植草氏を狙い打ちしたとしか思えないような不可解な点が多いことも事実です。また植草氏が一貫して小泉政権の経済政策批判の急先鋒であったことや、氏が小泉首相と自民党総裁の座を争った政敵亀井静香氏の経済政策ブレーンであったことなどから、政治的陰謀の 可能性も排除できないとの意見も根強くあります。しかし、とは言え、弊社は捜査機関ではありませんで、事の真偽については判断できる立場にはありません。また、警察を疑ってかかるべきであるのと同様に、植草氏の言い分をそのまま鵜呑みにすることも、報道機関としては慎むべき姿勢だと考えます。”

要するに”悪名高い”、”泣く子も黙る”、”警察不祥事のメッカ”の神奈川県警が品川まで追い掛けてきたというのである。神奈川県こそ、小泉家の本場。小泉家の”犬”はたくさんいるということだろう。

これで思い出すのは、今の東京都知事石原慎太郎作といわれ、主演男優が石原裕次郎で主演女優が芦川いづみだった「あいつと私」という昔の青春映画である。若き日の吉永小百合も出演している。この中で、裕次郎演じた主人公のヤクザの親を持つ大学生の”モデル”とは、小泉純一郎ではなかったのか。石原慎太郎と小泉純一郎は、慎ちゃん、純ちゃんという仲らしいから、さもありなん、と私は感じていたのだが、本当はどうなのか。

いずれにせよ、「植草一秀氏の当社番組への出演について」はかなり回りくどい。

仮に事件が事実だったとしても、植草は「田中角栄のロッキード事件」並みの「小泉首相の外資系金融汚職」を追究している男なんだから、女の子の下半身触るのとどっちが大事か、と言えば一言で済むはずだろう。

ほんと”女の身体に触る事”と”一国の首相の起こした一大事に触る事”とどっちが大事だろう。誰にも明白だ。私なら大目に見るね。許したれと。ちょっと女の体触ったりパンツ覗くくらいで一国の首相の犯罪を追及してくれるなら、いくらでもやれと(まあ、これはちょっと言い過ぎで、ジョークだけどね)。
しばらく前に「”高齢者に振り回される時代”突入? 」で、いかに小泉純一郎首相の”思い付き”に周りが振り回されて困ったか、というような話を紹介した。

今回、安倍政権で伊吹文明(いぶきぶんめい)氏が文部科学大臣になったが、この大臣が就任一番、「小学校の英語必修化は不必要」とのたまった。(小学英語「必修は不要」 伊吹文科相が発言

いやはや何と言うべきか。私が「”高齢者に振り回される時代”突入? 」で言った事がまさしくこれであった。

この大臣の”個人的思い付き”で話すものだから、これまで小泉政権でその下について何年もかけて答申を作った人々やこれから「英語教育は小学生に必須となる」と見込んでいた人々は非常に”情けない”思いや”なんともいえない”思いをしていることだろう。

こうやって、高齢者がその都度何かの拍子にふと思い付く”思い付き”に国民や周りのもの達があっちこっちへと振り回されるようになるのだ。これが、もっと頻繁に社会のあらゆる場所や場面で登場することになるだろう、というのが私の個人的予想である。

いずれにせよ、安倍内閣は平均年齢が60台と聞く。御自身はちょっと若いわけだが、年齢的には団塊の世代が中心ということとなる。これは結構高齢者の集まりであり、非常に”悪い徴候”のように私は見ているが、はたして上手く行くのだろうか。もう一気に40台の若手で攻めて世代交代を計った方が良くはなかったかと思う。

小泉純一郎政権は”骨太の方針”というものだったが、これは”カルシウム添加”されていた骨太牛乳のようなものだった。このカルシウムは初期には狂牛病の原因となったプリオン入りの肉骨粉同様に動物の骨肉を砕いたものを乾燥させて牛乳に添加したのだ。この悪さは狂牛病のように時間がかかって出てくる。

一方、安倍晋三内閣は”筋肉質の方針”らしいが、筋肉というものは鍛えても付くまでには極めて時間がかかるものである。いつも同じだけのメニューを決まった時間に決まった量のトレーニングをこなし、何ヶ月もたって初めてその効果が分かるという代物だ。果たして安倍さんはそういうことをご存知で言っているのだろうか。どうも”お小ちゃま内閣”というイメージで、アメリカの悪どもにはコケにされそうだ。
不明の東工大研究員、ブラジルの海岸で遺体確認

アファール猿人、新サメ、アウトフロー、最も遠い銀河
のところで、ちょっと書いておいた(日本人研究者が行方不明 ブラジルで海水浴か )話で、行方不明であった東京工業大研究員で理論物理学者の浅田洋一さん(28)の死亡が確認された。

亡くなった人はたいへんお気の毒なことで、御冥福を祈りたいところだが、諸外国の多くの研究者たちといっしょに海水浴して自分だけ溺れ死ぬということがいかに多くの人の迷惑になるか考えるべきだろう。運動音痴で頭でっかちだけでは、世界では通用しないのだ。やはり、そこは”文武両道”、なんでもござれの強者が理論物理をやっているというのでなくてはならない。日本物理学会は、その辺のことを肝に命じておくべきだろう。

もうそろそろ日本の大学は、”オタク”っぽい奴は、大学や大学院にいれないとか、面接ではねるとかする方策を考えないといけないのではないか。

天才アラン・チューリングはホモだったと言われているが、同時に素晴らしいアスリートでもあった。いつも走り回っていたという。強靱な肉体も強靱な知性も合わせ持たなくては、世界では通用しないだろう。
2006/09/28のBlog
アカウミガメの卵ふ化 阿南・北の脇海水浴場

我が家の近くには、淡島海岸と中林海岸がある。ともに夏は海水浴場となる。ここからもうちょっと南のところの海岸が北の脇海水浴場である。この場所で、8月5日に人知れずアオウミガメが産卵し、だれもが夏を忘れ去った今頃、数百匹のアオウミガメの子供が孵化し、海に帰っていった。


徳島県では、海南・海部(現、海陽町)の日和佐にあるウミガメの海岸、大浜海岸がウミガメの絶好の産卵地として有名だが、産卵するウミガメの数は年々減ってきている。今年は2、3匹しか上陸しなかったという。そうなると、ウミガメを管理している地元の人は心配になる。

大浜海岸など徳島の海岸地元民はこう考えた。

”人工孵化”で海に返すべきだ。

なぜなら、せっかく産卵してもその卵が全部孵らず死んでしまったらもともこうもないから。

そこで、地元民は小学校やウミガメ博物館の所員に協力してもらって、ウミガメの卵を人工孵化させて、海に返すというプロジェクトを何年か前からやるようになった。

毎年小学生をつれてせっせと働き、どこにウミガメが産卵したかマークし、ウミガメが産卵し終わるとすぐに砂を掘って何十もの卵を集め、人口孵化器で孵化させては海に戻すという作業を行っているというわけだ。さらには、仮に知らないところから卵が孵った場合には、穴の中に生き埋めで死んでしまっているウミガメの子はいないか探し、もし残っていればそれも救出して海に返すこともしている。

「それでも、ウミガメが産卵に来なくなった」

と地元民は嘆く。


我が家はハワイ・オアフに親戚があるため、何度かオアフの西海岸を旅したが、そこにタートルベイ(ウミガメ海岸)という場所がある。ここには何千、何万ものウミガメが生息している。ウミガメの食べ物は、海底や磯にこびりついた藻や海草である。本当に無数にいるからただただ驚く。オアフの場合は、ウミガメは保護動物なので、タートルベイだけでなく、オアフの北・西海岸ならたいていの海岸に住んでいる。

オアフのこの状況と比べると、徳島のウミガメはその数が激減しているわけだ。

果たしてこの理由は何だろうか。

私は地元民とは、ちょっと違ったアイデアを持っている。

「自然に任せるべきである」
「人工孵化するからウミガメの帰巣本能が狂い、場所を間違うのだ」
「穴から這い上がれない亀の子はそれが自然の摂理なのだ」


私の個人的印象では、そうである。ウミガメが産卵した場所の確保と保護、そして盗っ人から守ることなどが必要だろうが、できるかぎり自然に任せるべきだろうと思う。ひょっとすれば、鳥の子が生まれてすぐに見た動くものを母鳥と覚え込むというような「”本能”のメカニズム」がウミガメにもあるかも知れないと思うからだ。

つまり、ウミガメの場合には、生まれて味わった砂の味や匂いや形、水の音色、海水の味など、その海岸に生まれた瞬間から感知し、それによってその生まれた海岸への帰巣本能が働いているのではないか、というような気がするのである。


それを卵のうちから別の場所へ持っていき、そこで生まれて大きくしてから海に返したところで、その海岸に戻るかどうかは分からないだろう。事実、最近は本来の生息地の大浜海岸ではなく、その近辺の海岸にどういうわけかウミガメがたどり着いている。この記事の北の脇海岸もそうである。阿南の東の突端の蒲生田岬の海岸にもウミガメが産卵した。

こんなことから、私には、どうやら「人工孵化すればするほど、ウミガメは産卵地に戻ってこなくなる」のではないかと見えるのである。

果たしてこの”仮説”が真実かどうか、これは来年(何年か先に)に北の脇海岸や蒲生田岬海岸にウミガメが戻ってくるかどうか注意していればおのずと判明するだろう(本来、子供が1年で産卵するようになることはないはずだから、何十年も観察しなくてはならないだろうが。子供の亀にGPSチップを埋め込んで回遊を調べるというのも面白い方法かも知れない)。

いずれにせよ、ハワイの場合は、自然の保護やウミガメを保護することはあるが、人工孵化させたり余計な手助けは一切していない。
2006/09/27のBlog
痴漢容疑の植草教授、名古屋商科大が解雇

”ちかん野郎”の植草一秀客員教授(45)の”解雇”で万事めでたし、めでたし
としばらく前までの私なら思ったことだろう。

しかし、最近ネットサーフィンで偶然見つけた「神州の泉」という非常に興味深いブログの意見を読むにつけ、それまでに私の持つ”記憶”と奇妙な一致を見せ、私の植草一秀教授に対する見方もかなり変わってきたのである。

この「神州の泉」には、以下のエッセイがある。
国思う者を救うのは今(植草先生は無罪)
植草一秀氏は今、謀殺の危機に晒されている
植草氏、すでに七回も示談あり、って何だ?

これらの主張を簡単にまとめて言えば、こうである。

植草教授は、テレビ出演した頃から”アンチ竹中、アンチ小泉”路線の急先鋒であった。新進気鋭の経済学者として、”アンチ竹中、アンチ小泉”の観点から彼等の経済政策の欠陥を論じた。彼等2人の政策を執拗に追い詰め、執拗に経済分析して行く内に、竹中大臣と小泉首相のとった経済政策と日本経済の株価に”連動”した”面白い履歴”に気付いた。それゆえ、さらにそこをしぶとく追跡して行くと、とうとう小泉一竹中政策と小泉政権とその裏で暗躍するアメリカ巨大資本(ホリエモン騒動で有名になったレーマンとかJPモルガンなど)との”見えないリンク”の存在に気付いた。それはおかしいということで植草教授はどんどんインターネット上や雑誌などで、そのストーリーを暴き出した。すると、ある時、巨大な力が植草教授に忍び寄り、いつの間にか”手鏡変態教授”にされていた。一気に大学教授職を失った植草教授はそれでもかろうじて名古屋商科大に客員教授のポストを得た。そこで再び生きを吹き返し、早速前と同様の論調で竹中一小泉政策の”影の陰謀”を暴き出した。すると、今度は電車内で居眠りしているうちに”痴漢騒動”に巻き込まれて”少女趣味のある変態教授”とみなされて逮捕されてしまった。そして、このマスコミ報道を信じた大学から今日解雇された。


確かに真偽のほどは当事者しか分かららず、マスコミ報道や警察発表がどれほど正確か誰にも分からないため、この話題には2つの見方があり得る。1つは、植草氏は”変態教授”だという単なる事件と見るもの。もう1つは、植草氏は何かに”はめられた”という陰謀説と見るもの。

そこで、この「神州の泉」の著者が言うように、植草氏がそれほどまでに危険な観点で意見していたのか、と氏の主張を見てみる必要がある。氏の意見は以下のホームページにあった。
「第12回「失われた5年小泉政権・負の総決算(6)」
「第12回「失われた5年小泉政権・負の総決算(5)」
「第12回「失われた5年小泉政権・負の総決算(4)」

これを読んでどう考えるかは自分で判断してもらう事にして、私が特に興味深く感じているのは、一番下の「りそな銀行支援」批判記事にある次の部分である。

『 りそなの繰延税金資産計上が3年となったことについて、竹中金融相(当時)は、監査法人は独立機関で、政府といえども監査法人の決定には逆らえないと繰り返したが、りそな処理に際して監査法人が金融庁当局と完全に独立に意思決定したなどということはありえない。3年計上は政府の意向であったと考えるべきである。
 当時の公認会計士協会会長は奥山章雄氏(中央青山監査法人)だが、奥山氏は竹中金融相の下に置かれた「金融問題タスクフォース」のメンバーも務めた人物で竹中氏との関係は非常に深い。公認会計士協会と金融庁当局が連携してりそな銀行処理が決められたと考えるのが妥当である。当時の関係者からの取材をもとにして、りそな処理がどのような経緯を経て決定されたのかを再検証する必要がある。』

植草氏の記述によれば、竹中元大臣は、”中央青山監査法人”の奥山章雄氏と旧知の仲だったというのである。しかし、この”中央青山監査法人”というのは、例の「粉食決済」(totoの”扮飾決済”の根源とは? )で問題となり、すでに”潰されてしまった”のである。だから我々の知らない間にこの組織はすでに消滅したのである。

要するに、植草氏が糾弾した「りそな銀行処理」で問題だった、当の”中央青山監査法人”は存在しないのである。それゆえ、もはや「当時の関係者からの取材をもとにして、りそな処理がどのような経緯を経て決定されたのかを再検証」しようがないということになる。

こういった事実からも、私は”痴漢説”よりは”陰謀説”に傾く。

さらに、大分前に「耐震偽装の”本丸”ついに明らかに 」で紹介したが、「きっこの日記」によれば、この耐震偽装事件を生み出した”根源”もまた、小泉純一郎にあったという。

簡単に言えば、”民営化”路線は良いのだが、「建築検査機関の民営化」法案成立の際に業者は自分に有利となるように民営化してもらいたいと思い、官僚のトップ小川忠男氏にすりよる。そのために業者は官僚を接待・御褒美攻めをする。こうして穴だらけになった法案が可決し、その御褒美に今度は官僚がその業者に天下る。それにゴーサインを出したのが建設大臣小泉純一郎だった。そしてその結果、耐震偽装事件が現われたのである、というのがきっこ氏の調査であった。

同様に、植草氏は、”郵政民営化”に際して似たような懸念を見つけたわけだ。「郵政民営化」法案を成立させる際に当然のことながら郵便局やら銀行やら保険業種やら証券会社など金に目のない業者は官僚や竹中大臣にすりよる。そして自分に有利になるように行動する。そして、業者に都合が好い法案ができ、万事めでたしということになる。そしてこの場合にもそれにゴーサインを出したのが小泉純一郎首相だったというわけだ。

ここに、「建築検査機関の民営化」の際の小泉純一郎建設大臣と「郵政民営化」の際の小泉純一郎首相の行動が見事に一致したわけだ。

植草氏は、きっこ氏のように”匿名”の行動をとらなかった。実名で名指しの非難を行った。これは、かつて1970年代に「田中角栄のロッキード事件」を告発した立花隆のとった行動と同じものである。しかし、違っていたのはその政治勢力構造と時代背景である。昔は田中降ろしの反体勢力が世の中にあった。だから立花隆は英雄になれた。しかし、今は抵抗勢力がない。それゆえ、だれも植草氏を英雄視するものはない。この違いが、立花氏と植草氏の違いを生んだのだろうと思う。

田中角栄時代も日本政府の糸を引くものはアメリカ政府であった。残念ながら、小泉純一郎時代も日本政府の糸を引くものはアメリカ政府であった。

アメリカの怪物アーミテージに、”ショウ・ザ・フラッグ”と言われれば、小泉も逆らえないだろう。パキスタン大統領にすら、『刃向かえば、爆弾落として石器時代に突き落としてやる』と言った男だから、同じような脅しを日本政府にも言っただろうからだ。

この意味では、今やもう一度アメリカと世界大戦するくらいの気概のある政治家でなければ、アメリカの前で自由は得られないのだろう。その点では、キム・ジョンイルの方がはったりが上手い。いずれにせよ、嫌な世の中になったものだ。

人類滅亡はかなり近い。(これについてまたいつか書こう)
Jヴィレッジ建設 福島知事に弟が東電の意向を伝達

日本サッカー界の疑獄事件に発展の予感?

イタリアサッカー界は”八百長疑惑”に湧くが、今度は日本サッカー界が「Jヴィレッジ」建設”八百長疑惑”が発覚。まあ、ここでは”Jヴィレッジ疑惑”とでも呼んでおこう。

どうやらこの記事の内容が事実であるなら、日本サッカーの総本山、ベースキャンプとなっている「Jヴィレッジ」の出発点からインサイダーな暗黒の取り引きによって始まったことになる。”日本サッカーの暗黒の時代”の始まりである。

要するに、手身近に内容をまとめればこうである。

川縁チェアマン率いるJリーグが「Jヴィレッジ構想」を1993、4年に打ち上げた。すると、「福島原子力発電所開発」で多大な恩を感じていた東京電力の社長さんが、福島県知事にJヴィレッジを作ってそれに対する恩返しがしたいと提案した。それを認めた福島県に東京電力は130億円もの巨額の投資を行ってJヴィレッジを建設、福島県に”寄付”した。この施設に気を良くしたJリーグは、幾多の候補の中から福島県にJヴィレッジを置く事に決め、福島県と東電、日本サッカー協会などが出資して第三セクター「日本フットボールヴィレッジ」(社長・佐藤知事)を設置した。ここには5000人収容のスタジアムや10面のサッカー用ピッチ、宿泊施設などが併設されている。このやり取りの影でフィクサー役をこなしたのが、佐藤知事の実弟だったという話。

もしこれが本当であれば、日本サッカー協会もJリーグも”吹っ飛びかねない”お話である。果たして、Jリーグには”インサイダーな見返り”が来なかったのか。

私は、かねてからJヴィレッジ構想は知っていた。というのも、数年前に、「ジダンを生んだフランス教育システムが一番である」というエッセイを書き、日本にもこういうものが必要だと論じた事があったからだ(拙著、「物理お宅博士のスポーツ観戦記:日韓ワールドカップ2002」参照)。こういった論調、時代背景を日本サッカー協会が察知して、Jヴィレッジ実現に動いたのである。

ところが、私の疑問は、「どうして福島なのだろうか」というものだ。あんな寒いところにわざわざ行く必要無いだろう。 どうして四国や九州や沖縄などの暖かい場所に設置しないのか、と思ったものである。今回の”疑獄事件”でやっとその理由が分かった。

それは、東京電力が福島原発の見返り事業でJヴィレッジを建設したからである。原油高騰傾向で”ぼろ儲け”している東京電力の資金力の前に勝てる企業はいない。この資金力がものを言って福島にサッカー場を作ってしまったというわけだ。Jリーグとしてもサッカー協会にはお金が無いのだからうってつけの話。すぐに決まったのだろう。つまり、もちつもたれつの取り引きだったということだろう。

いやはや、捜査の魔の手はJリーグや日本サッカー協会に及んでくるのだろうか。

最近、ジーコが監督をしてから日本サッカーには良い事が少ない。すべての運をジーコに吸い取られた感じである。だから、ブラジル人は、「ジーコにはツキがない」というのだろう(ジーコ監督は、「まだ未成熟」! )。

ましてや、サッカー日本代表の選手が福島のJヴィレッジで練習してもなぜかちっともうまくならない。おそらく、福島は”鬼門”なのだ。お祓いでもしなくてはならないのだろう。くわばら、くわばら。
世界競争力ランキング、米国が6位に転落 日本は7位

日本7位、アンビリーバブル?

「世界経済フォーラム」が世界の125カ国の国際競争力ランキングを公表した。以下の通り。

【競争力ランキング 】
1(4)スイス
2(2)フィンランド
3(7)スウェーデン
4(3)デンマーク
5(5)シンガポール
6(1)米国
7(10)日本
8(6)ドイツ
9(11)オランダ
10(9)英国
13(8)台湾
24(19)韓国
26(25)マレーシア
43(45)インド
54(48)中国
(11位以下は主な国・地域のみ。カッコ内は昨年の順位)

しばらく前に、私はこんなことを書いていた。
アメリカ凋落の日

”いったいアメリカはどうなってしまったのだろうか。もはやアメリカは世界ナンバー1の国ではなくなったということだろうか。”

”スポーツというのは、実際の政治的なものや社会的背景よりも数年ほど早く問題が表われる傾向がある。アメリカのスポーツにおける”凋落”は、これから来るアメリカ社会の”凋落”を予言しているのだろうか。”

これは、最近のアメリカのプロスポーツの”衰退現象”を論じたものだが、アメリカ社会の”衰退現象”を予見するに役立つというものである。これを紹介したらすぐにも私の予見が正しいと証明されてしまったようだ。やはり、アメリカは今後世界ナンバー1ではなくなって普通の国になって行くのだろうと思う。北米の”南米化”のようなものだろう。

しかし、一方の日本のランキングが7位というのも驚く。スポーツの成績からすれば(例えば、ワールドカップやオリンピックなどの戦績で見れば)、実際には、韓国の下の25位ほどであろうと私は見ている。

スイス人というのは、日本人がスイスの高級腕時計のお得意先なので、日本人びいきしてくれていると見るべきだろう。同様にフランス人は、日本人が高級ブランドや高級ワインのお得意先であり、イタリア人は、日本人が高級ブランドのお得意先であるので、日本人に好意的である。

しかし、こうやって列挙してみると、世の中の”超高級品”というものは、ほとんどがヨーロッパ産であり、今や日本人がアメリカから買っているのは牛肉や小麦など農産物という低級品ばかりである。

しばらく前に紹介した「下流社会」の著者のお得意なマーケット”見積もり”分析(”下流社会”を煽る新たな階層の出現? )の真似をすれば、アメリカが衰退するのは明白である。

この人の主張はめちゃくちゃだったが、この分析だけは正しい。それは、次のようなものである。

人口構成がリッチマン(お金持ち)と中流(平均人)とプアマン(そうでない人)に分かれた場合”釣り鐘型分布”で中流が多かった時代には、平均的な値段の商品でも売れば儲かり、結果としてGNPに寄与した。

しかし、現在のように中流が消滅して、2割のお金持ちと8割の貧乏人に分かれた場合、これまでのように釣り鐘型分布を想定した商品は売れない。なぜなら、お金持ちはみんなが持っているものよりもっと贅沢品を嗜好する上、貧乏人にはまだ高すぎて買えないからである。したがって、こういう”ベキ状分布”の場合には、むしろ貧乏人は無視してお金持ちだけをターゲットにした超高級品で商売する方がずっと儲かり、結果としてGNPに貢献する。

それゆえ、平均値商品だけを売るスーパーやデパートは失敗し、超高級品だけを売る高級ブランド店は繁栄した。とまあ、こんな分析が「下流社会」の著者の意見であった。

数学的に見ても、これは正しい。だから、ヨーロッパは世界が先進国化してくる際に生じる”新富裕層”をターゲットにして成功したのである。が、日本や韓国は、中流の大衆商品で”歩留まり”で勝負の商売にうつつを抜かしてしまったために国際競争力が低落したわけだ。事実、日本国内の企業でも世界的に成功している企業は、超高級品、超高性能品を作っている企業である。

アメリカも、パソコンやソフトなど超高級品や超高性能品を作っている企業は業績が良いが、大衆商品を作っている自動車会社などはあまり業績は良くない。

こんなことからも、20世紀の代名詞であった”大衆商品”を目的にしている国は転落し、スイスのように”超高級ブランド品”で勝負している国は競争力が高いということなのである。

残念ながら、これが世界の現実であり、日本の現実でもある。20世紀に世界は「持つ国と持たざる国」に分かれてしまったが、IT技術やパソコン技術で国際化・グローバリゼーションを行うと、さらに今度は各国内もまた「持つ人と持たざる人」に分かれてしまった、というわけである。これが、21世紀的な”代名詞”となるのかも知れない。

実は、歴史を見れば良く分かるが、「言葉の発明」、「文字の発明」、「紙の発明」、「武器の発明」、「鉄器の発明」、「農業の発明」など、世紀を決する大発明が起こった直後は、人々がいつもその発明技術を「持つ国と持たざる国」、「持つ人と持たざる人」に分かれる。これはごくごく普通のことなのである。そして、持つ側に立つ人々の”王国”の時代がそれに引き続く。

鉄器文明を発明した人々は、いわゆる”帝国主義”を発明し、その王国を作った。20世紀後半はディジタル技術の時代。そのおかげでパソコンが出来、それを動かすソフト技術を手にしたビル・ゲイツは、マイクロソフト王国を築いた。

というわけで、21世紀は、”新たなる王国の時代”がやってくるのではないか、と私は直感しているのである。「歴史は繰り返す」と言うが、再び封建主義の時代へと復古するのかも知れない。人類の歴史というのは、紆余曲折し決して一直線上には進んで行かないものだからだ。

写真:川を登るサケの大群
2006/09/26のBlog
[ 20:58 ] [ 社会 ]
奈良の女児誘拐殺害、小林被告が控訴
楓ちゃんの両親が手記小林薫被告への憤りなど吐露

今日、小林薫の少女虐待殺人事件の裁判が出たが、結果は大方の期待通り”死刑”であった。しかし、殺人者本人も死刑を望んでいるというのに、「殺人弁護士」たちは不服として控訴したというニュース。”予想通り”の展開であった。

私が「日本の弁護士はどうかしてる? 」に書いた通り、絵に書いたように、典型的な行動パターンにこの「殺人弁護士」たちは打って出た。これで、この審議にはすでに2年経ったというが、これからまた数年の間、遺族は時間もとられ、裁判経費がかさむばかりか、辛い日々を送ることとなった。

本人が即刻の死刑を望み、判決も死刑、遺族も死刑を望み、すべてが”一貫”しているのに、この期に及んで何を控訴する理由があるのだろうか。あるとすれば、殺人者が減刑を望んでいるという猿芝居を打って、弁護士として得られる甘い汁(お金)を吸いたいということだろう。

しかし、この審議の経費はすべて税金で出ているのだから、”不当な”時間延長は、明らかに国民の意に背いた行為であると言えるだろう。明らかに税金の無駄使いであり、不当な税金のかすめ取りである。

こういった金目当ての目的見え見えの”審議時間間延び作戦”を行う「殺人弁護士」は弁護士資格を剥奪すべきだろう。

ところで、ついでに言えば、私はかねてから日本の事件や裁判審議でいつも不思議に思う事は、これほど”脳科学”研究が進んで、脳機能の測定技術が進歩している今であっても、どうして殺人者や犯罪者の場合には、その人物の脳を研究しないのか、ということである。この殺人者小林薫の”脳”は普通人とどこがどう違っているのかのデータを取り、事件の度にデータをとって今後のために蓄積すべきである。

これまで、殺人者や性犯罪者などの場合には、”心理学”的研究が行われるだけで、心理学的な矯正で、犯罪者の治療ができると”信じている”ように見える。しかし、「心理学的治療」というものは、コンピュータで言えば、そのコンピュータにインストールされている”ソフトの欠陥”を修理するようなものである。ところが、欧米の脳研究の結果によれば、多くの犯罪者の場合、脳のソフトの面というよりは、”脳細胞の遺伝的な面”や”脳構造の異常”や”脳の発達障害”や”脳損傷”など”ハードの欠陥”が原因で、異常行動に出るという事が分かってきている。

例えば、ハンチントン舞踏病という行動異常は、DNAに異常があることが原因で脳細胞が破壊されて生じるれっきとした遺伝病である。また、最近は非常に良く知られて来たことには、ホモの人々の脳は脳の成長障害が原因であったり、ホルモン異常が原因で起こったと分かっている。

このように、一見”心理学的な面”が事件を起こしたとこれまでの裁判官や警察官や心理学者が思うだろう事も、その本質においては、もっとミクロなハードの面から来る行動異常であるという場合があるのである。

果たして、性犯罪者や殺人者のDNAにも異常がないのか、あるいはホルモン異常がないのか、あるいは脳細胞の異常はないのか、あるいは脳構造に異常がないのか、こういったことを調べるべきである。

どうしてこういうことをやらずに、下らん審議ばかりに金をかけるのか、私には全く理解できない。ひょっとすれば、性犯罪は遺伝病であるという可能性も否定できない。調べて研究していないわけだから、こういったことも現在では何も言えないのである。

こういう観点から考えれば、殺人者や性犯罪者の場合には、「血液採取」、「DNA採取」、「脳の構造チェック」、「脳機能チェック」などを行って科学的な研究を”絶対に”行うべきである。こうした地道な研究から、将来の犯罪防止につながる重要な発見が行われるだろう。
「砂の器」「Gメン75」丹波哲郎さん死去

”大霊界のメッセンジャー”、”芸能界のフィクサー”、”芸能界のゴッドファーザー”と言われた俳優の丹波哲郎さんが死去。享年84歳。

丹波哲郎氏は、360本の映画(海外映画10本)、250本のテレビ・ドラマに出演、70册の本を出版したと言われている。芸能界暦50年。この長きに渡って日本の芸能界に文字通り”君臨”してきた人物である。それゆえ、”芸能界のゴッドファーザー”と呼ばれ、”芸能界のゴッドマザー”和田アキ子の”育ての親”(あるいは、”後ろ楯”)でもある。

直接の死因は、肺炎とあるが、激やせのしかたから見て、肺がんか何かのガンだったのだろう。晩年は、あまりに痛々しい姿であった。

日本の偉大な生物学者に「免疫の意味論」や「生命の意味論」を書いた多田富雄氏がいるが、氏の「生命の意味論」という本に「老化一超システムの崩壊」という章がある。この最初に”老いの実像”というセクションがあり、ここで”老い”とはどのようなものかを論じている。

その例えとして、平安中期か末期に書かれたという「玉造小町子荘衰書」(岩波文庫)という本のことが紹介されている。この本は、日本の「絶世の美女」と唱われた小野小町の”老後”のことを描いているというのだ。その冒頭はこうだという。

予(われ)
行路の次(ついで)、
歩道の間、
径の辺途(ほとりおおち)の傍に、
一(ひとり)の女人有り。
容貌○頁□頁(かじ)けて、 ○頁=○は焦、□頁=□は卒
身体疲痩せたり。
頭は霜蓮の如く、
膚(はだえ)は凍梨に似たり。
骨は竦(そばた)ち筋抗(あが)りて、
面は黒く歯黄(きば)めり。
裸形にして衣無く、
徒跣(つるはぎ)にして履(はきもの)無し。
声振ひて言ふこと能はず、
足○(な)へて歩むこと能はず。 ○=寒の点をとって足に変えた漢字。

小野小町の晩年はそれほどに悲惨にみじめであったということを描いた作品らしい。

丹波氏の最後の写真もこれを物語っていて実に痛々しかった。”鉄人”丹波哲郎も人の定めである”死のプログラム”には勝つ事が出来なかったということだろう。しかし、丹波哲郎の場合には、大霊界が待っているのだから、今は霊魂となり、この大宇宙のどこかを旅しているのだろう。

御冥福を祈りたい。
2006/09/25のBlog
オウム裁判弁護士2人の処分請求 東京高裁が日弁連に

これは結構面白い。さすがの東京高裁もさんざん審議妨害した弁護士たちに業を煮やしたらしい。

最近は、弁護士がテレビに出てマスコミ受けしているようだが、弁護士という職業は非常に分かりにくい。特に、昨今の裁判で私が非常に理解できない事は、弁護士で”犯罪者を弁護する弁護士”である。

女子大生を殺害しても、少女を殺害しても、こういった弁護士が”どこからともなく振って湧いたように”殺人者を弁護する。そして、我々の受ける印象としては、”のらりくらり”と裁判を間延びさせる。何とかして犯罪者の刑を軽くしようという意図が見える。

”素人考え”として(もちろん、これも「素人の特権」というやつだが)、裁判のそもそもの目的は、「その犯罪者の起こした犯罪に対して誰もが納得する刑罰を科すこと」であり、「決して犯罪者の刑を軽くすること」がその目的ではないはずである。しかし、現実の裁判では、弁護士は、被害者がどう思うが、犯罪者の刑罰軽減ばかり目的に立ち回るように見える。

オウム真理教の教祖麻原の裁判の場合にも、あらゆる証拠が出揃っていたにもかかわらず、裁判の審議を延期してみたり、審議拒否してみたり、何だかんだと理由をつけて審議を先伸ばししたように見えるのである。今回の記事は、これに対して東京高裁が日弁連に文句を言ったということだろう。

そこで、私に分からないのは、なぜそこまで執拗に審議を延長して裁判の日程を先延ばしにするのか、ということである。弁護士自らが自分の起こした犯罪であるのなら、必死になるということも理解できるが、そうではなく、麻原や他の凶悪殺人者の場合であるにもかかわらず、なぜそうした行動に出るのか、理解に苦しむのである。刑を軽くしたところで、弁護士本人にはたいしたメリットがありそうでないように見えるのに、なぜそうするのだろうか。ここのところが良く理解できない。

良く知らないが、私の勝手な想像では、この辺に今の裁判制度の本質的欠陥がありそうである。恐らく、審議が伸びれば伸びるほど弁護士にとって有利な面があるのだろう。そしてそれは恐らく”金”であろうと見る。

要するに、今の日本の裁判制度では、凶悪犯罪者の弁護であろうが、普通の裁判であろうが、弁護士の得ることのできる料金体系が、審議に”比例して得られる”ようになっているのだろうと思う。さもなくば、こうした弁護士たちの”理不尽”な行動パターンが理解できない。

翻って言えば、この料金体系があるとすれば、これは”悪名高き”道路公団の請け負い工事の場合と同じようなものである。道路建設でいつも道路を工事しているわけは、工事が長引けば長引くほど業者はお金がたくさん得られるからである。だから、年がら年中ちんたらと工事しているわけだ。そこが、アメリカの業者の請け負いの場合と違う。

アメリカの場合には、早くできればできるほど利益が出るような仕組になっていると言われている。だから、徹夜でもどんどん集中的に工事して、予定より早くできた場合には、その分がボーナスや休暇になって従業員にプレゼントされる。

これは裁判でも同じ事である。アメリカの裁判で有名なように(最近のセクハラ裁判など)、もし裁判で弁護士の得るお金が成功報酬であるとすれば、審議期間を伸ばせば伸ばすほど、その弁護士にとっては経費がかさみ利益が減る。さっさと審議して早く裁判を終わらせた方が得なのである。下手に審議に手間取れば、いくら裁判で勝ったと言っても、結局自分の取り分の成功報酬より必要経費がかさんでしまいかねないからだ。

ところが、日本の裁判の場合には、それはそれは時間がかかる。罪が証明されてあとは判決を待つだけというようなくだらん裁判でも何十年と時間がかかる。その理由は、裁判官も弁護士もともに税金からお金をぶったくるために、双方にとって時間がかかった方が得なのだ。それを国民に悟られてはまずいので、裁判には時間がかかるとか、いろんな”大義名分”を作って言い訳しているのである。

だれが見ても麻原裁判の場合には、死刑が適当で、1回目の審議が終われば、10秒で判決が言い渡せる自明なものである。にもかかわらず、やっと判決が出たという始末である。下手をすれば、最高裁まで行くところだった。要するに、麻原の弁護士たちは、麻原をネタにして商売して儲けているわけだ。

これと同じようにして、児童殺害や少女殺害や罪もない人を殺害した殺人犯たちの弁護士たちも”商売”しているわけである。これが”ばれないように”適当に専門用語をちりばめてごまかしているというところだろう。なぜなら往々にして判決の結論はかわらないし、仮に罪を軽減できたところで、その犯罪者の起こした事件の解決にはならないからである。

そろそろ弁護士体系、裁判体系も、そして刑務所体系も本格的に変えないと時代遅れとなってしまうだろう。

思えば、オウムの地下鉄サリン事件の時、オウム真理教に所属した青山弁護士、そしてオウムを弁護した横山弁護士というのもいたが、どちらもかなり変な人々だった。中村修二博士の日亜裁判の時に出てきた双方の弁護士も相当に変わった連中だった。

どうして日本の弁護士(もちろん裁判官や判事も)は変わった人間が多いのだろうか。実に不思議である。相当に日本の教育制度、大学制度が”病んでいる”のだろう。ほんとに困ったものである。
2006/09/24のBlog
今日、高円宮杯第17回全日本ユース選手権の準々決勝が終わった。結果は以下の通り。

優勝候補のヴェルディYを初芝橋本がPK戦で破ったようだ。準決勝には、高校2チーム、Jユース2チームが残った。

準決勝は10月7日で、

初芝橋本高校 vs 後半名古屋グランパスエイトY
ガンバ大阪Y vs 滝川第二高校

高円宮杯サッカー準々決勝

初芝橋本高校1(0一0、1一1、0一0、0一0、3PK0)1ヴェルディY
名古屋グランパスY1(1一0、0一0)0 鹿島アントラーズY
ガンバ大阪Y2(1一0、0一1、0一0、1一0)1星稜高校
滝川第二高校4(2一1、2一0)1サンフレッチェ広島Y

高円宮杯サッカーラウンド16

静岡学園高校1 (0一1、1一2)3初芝橋本高校
ヴェルディY2(1一0、1一1)1東福岡高校
湘南ベルマーレY1(0一0、1一2)2名古屋グランパスY
青森山田高校0(0一1、0一1)2鹿島アントラーズY
ガンバ大阪Y7(0一0、7一0)0銀河学院高校
盛岡商業高校1(0一4、1一4)8星稜高校
横浜 F・マリノスY2(0一1、2一2)3滝川第二高校
サンフレッチェ広島Y4(0一1、2一1、0一0、2一0)2札幌第一高校

初芝橋本高など1次リーグ突破 高円宮杯サッカー

A組 青森山田高(7)1一0星稜高(石川)(4)、銀河学院高(広島)(3)4一1ルーテル学院高(熊本)(2)

B組 ガ大阪ユース(6)2一0湘南ユース(6)、札幌第一高(4)0一0高知高(1)

C組 東福岡高(6)3一2広島ユース(6)、鹿島ユース(6)1一0神戸ユース(0)

D組 静岡学園高(9)3一0作陽高(岡山)(3)、滝川二高(兵庫)(6)5一1大分ユース(0)

E組 東京ヴユース(9)5一0盛岡商高(4)、旭川実高(北海道)(3)2一0広島観音高(1)

F組 横浜ユース(6)5一3水橋高(富山)(0)、初芝橋本高(和歌山)(6)2一0名古屋ユース(6)
Kiryuさんという方(恐らく生物学者の方)が、長いコメントをくれたので、こっちに書いておこう。

【Kiryuさんのコメント】
いつもブログを読ませて頂いています。
生物学者がシナリオやストーリーを提示するだけだ、という指摘はまさにその通りだと思います。ただ、それに留まってしまう理由の多くは研究対象としている系が記述され尽くしていないことが明白であるからだと思います。更にそのような理論的な考察をするための道具がまだ途上である現状ではあらゆる分野で直ちに理論的な裏づけを求めるのは尚早ではないかとも思います。一方で、十分その系の全貌が明らかになったと思われる系については、かなり精力的に現在ある理論を用いた解析が行われていると認識しています。古典的には、活動電位発生におけるホジキンハックスレーの理論、最近ならば、単細胞生物における走性の研究やショウジョウバエの胚発生など。これらは全て(拡散)生化学反応論に基づいています。従って、理論的な裏づけがない、というのは私にとってはやや言い過ぎに思うのですがいかがでしょうか。

また、生物学者はもっと根源的な問に着手するべきだ、という旨の発言を読み取りました。正論だと思いますが、多くの研究者(私の勝手な思い込みかもしれませんが)はそのような問にも興味があるでしょうが、もっと生理的な部分に興味があるからそのような問には取り組まないのだろうと考えています。Quasimotoさんがおっしゃっている問が属する階層とは根本的に異なる階層への興味の方が強い方が生物学者になられているように思います。むしろそのような問は物理学者や化学者の方面から提起されていると思います。だからといって物理学者、化学者だけがその問題を負うべきとは思いませんが、逆に生物学者だけに負われるべき問題でもないと思うのですがいかがでしょうか。

最後のコメントになります。
また、生物学者も根源的な問を提出していることも付け加えさせていただきます。例えば、「性が何故あるか」と言った問は、そのような類だと思います。是とする前提が生物学者と物理学者・化学者でかなりズレがあり、目標の方向が全く異なるために、Quasimotoさんのような問を真剣に考える生物学者よりも上記の問を考える生物学者が多いのではないか、と思うのですがいかがでしょうか。
一一一一一

Kiryuさん

真摯なコメントをどうもありがとうございました。いつも私のブログを読んでいただいているとのこと、ありがとうございます。私は、その都度即興でメモ代わりに書き込んでいるので、適当に取捨選択してお読み下さい。いずれにせよ、これほど真面目に読んでくれている人がいるとは知りませんでした。

さて、コメントにある質問に関して先に私の答を示しておこう。

> 理論的な裏づけがない、というのは私にとってはやや言い過ぎに思うのですがいかがでしょうか。

これは、ノー。言い過ぎではない。もちろん「生物学に”理論”がない」という意味ではなく、この程度で満足できない、してはならないという意味。詳細は下。

> 逆に生物学者だけに負われるべき問題でもないと思うのですがいかがでしょうか。

これは、イエス。生物学者が負うべきである。現状では、それができるのは生物学者以外にないと思うから。

> 是とする前提が生物学者と物理学者・化学者でかなりズレがあり、目標の方向が全く異なるために、Quasimotoさんのような問を真剣に考える生物学者よりも上記の問を考える生物学者が多いのではないか、と思うのですがいかがでしょうか。

これは、イエス。”日本の場合”、生物学者の興味と他の科学者の興味とかなりずれがある。だから”日本で”問題が起きたと私は考える。欧米の場合は、それほど大きなズレがあるようには感じない。


あなたの御意見全般に通じる精神においては、私も全く同感。それなりに理解しているつもり。今回のエッセイは、昨今の日本の生物学者の論文捏造事件を論じた際の”ついでに言わせてもらえば”ということで書いたもの。”あえて言わせてもらえば”という面が当然ある。それゆえ、”言い過ぎ”に感じられる部分もあるはず。しかし、私”個人”の率直な感想(もちろん、それは、私の”個人的意見”に過ぎず、私が理論物理学者だから他の理論物理学者もみな私のように思っているとは解釈しないでください)。

まず、私が言わんとした意味は、「生物学に”理論”がない」という意味ではなく、「生物学の”理論”は、シナリオ(あるいはストーリー)にすぎないのではないか」という意味。

私は、あなたがあげた理論のいくつか(ホジキンハックスレーの理論、単細胞生物における走性の研究、ショウジョウバエの胚発生など)の原論文は、偶然これまでに手に入るものは手に入れて読んだことがあるもの。他にもたくさんの有名な”理論”があることも知っている。だから、物理の専門で私が知らないから意見したと錯覚しないで欲しい。私は何度生物学者の理論を読んでも”理論”には見えなかった。あくまで現象論の域(シナリオ)を出ないといつも思う。かといって、それが悪いという意味ではない。

大事な事は、私がそれを読んで知っているかどうかではなく(こんなことはどうでもいい)、何がなされているか(なされて来たか)ということ。多くの日本人の科学者はここを良く間違える。自分が読んだことがないこと知らないことは、意見してはいけないのだと思ってしまう。しかし、多田富雄さんの「生命の意味論」という面白い本にもあったが、「ド素人の特権」というものがあり、逆にド素人は何を言ってもいいのだ。それは往々にしてド素人の意見に本質をつくものがあり、非常に良い視点を発見する事に役立つ事があるからだ。私がここで書いているスタイルは全部これに基づく。

さて、より具体的に言えば、我々物理学者は、たった1本のDNAやタンパク質の電子論でもたいへんな思いをして研究している。物質としてのDNAやタンパク質でも理論を作るのは非常に難しい。たった一本のタンパク質の折れ畳みの理論を作るのでも難しい。

この観点からすれば、そういったDNAやタンパク質など無数の分子が存在して出来ている生物の世界は、理解する事は非常に難しい。あまりに複雑すぎる。不可能に近いようにすら感じられる。にもかかわらず、生物学者はそんなシステムを巧妙に扱い実験してそれなりの”事実”を見い出して非常に広大な知識を作った。これ自体は非常に素晴らしい。私から見れば、神業にすら見える。

しかし、セントラル・ドグマにしても、DNAの複製にしても、生物学の教科書に書かれている多くのプロセスは、生物における”理論”というよりはむしろ”シナリオ”、”ストーリー”というもので、およそ理論物理学者が念頭におくような理論ではない。もちろん、生化学、物理化学の教科書にもたくさんの理論(それも物理学や化学から拝借した)があるが、それはあくまで、生物内の部分的な現象を扱っているにすぎない。もちろん、現状としては、それで満足しなくてはならないという場面がほとんどかも知れないが、それで満足してはならないだろうということ。

さらには、生命の根源を理解するためには、既存の物理化学理論と生物学の”真の接点”ないしは”つながり”が欲しいところだが、それがない。要するに、理論物理学のこれまでの発展と密につながるレベルでの生物理論、生命体理論が欲しい、というような意味。

例えば、生命体はエントロピーを減らす、負のエントロピーを食って生きているというような言い方がある。では、この場合には、細胞のどこで、何が、いつ、どうやって、なぜ、エントロピーを減らしているのか。熱力学や統計力学の知識と生命体はどのように結びつくのか。こういったことが理解したいが、今のところ分からない。

あるいは、もっと哲学的な問題もある。生命体が生命であるとする。では、生命体の集合は生命体か。生命体の集合の集合は生命体か。たとえば、細胞は生命体である。細胞の集合も生命体(生物)である。では、生命体の集合の集合(生物の集まり=社会、会社など)は生命体か。

上手く説明できたかどうか分からないが、私が言いたいのは、生物学にはその物理学的基礎というのか、”生命の物理学的基礎理論”がない、ということである。ましてやこういうものにチャレンジしているように見える生物学者も(日本では)非常に少なく見えるということ(もちろん、海外では物理学者にも生物学者にもそういう人はいる)。
2006/09/23のBlog
ジーコ酷評 「戦術ない/退屈/80年代のサッカー」

しばらく前に
ジーコの”置き土産”:日本のランキング急降下!
で私はこう書いていた。

『いやはや、この世界ランキングは厳しい。これこそ、”20億円監督”ジーコの置き土産。日本サッカー協会は、ジーコから”契約不履行”の違約金をもらうために損害賠償請求でもしたら良いのではないだろうか。

ちなみにジーコはブラジルでも評判がた落ちのせいか、日本とブラジルから逃走したようだ。遠く離れた中東のクラブチームの監督に就任するという。ジーコ、トルコのクラブと正式契約 年俸は3億円弱

この金の亡者ジーコ側が希望した年俸は700万ユーロ(約10億2000万円)というから恐れ入る。「金のことは二の次だ、方針や条件が一番大事だ」と考えるオシム氏とはえらい違いである。』

ブラジルと日本で「評価」の落ちたジーコは、その後、10億円の監督料を要求したがかなわず3億円の監督料でトルコ1部リーグ、フェネルバフチェの監督となった。その際、ワールドカップ・ドイツ大会の敗退の責任は自分にはなく、全部日本人サッカーのせいだと言ってのけたのは記憶に新しい。

しかし、ワールドカップ・ドイツ大会の頃私が
もう二度と日本へ来るな、ジーコ!
ジーコ監督は、「まだ未成熟」!
で「ジーコには監督としての器がない」と説明したように、最初の記事にあるように、これが日本以外のトルコのプロリーグでも証明されたようだ。

トルコは、ヨーロッパや中南米と比べれば、確かにサッカーの後進国であるが、東アジアと比べればはるかにレベルが高い。また、フランスサッカーの影響下にあり、ヨーロッパの中では非常にサッカー熱の高いところである。

トルコ程度なら簡単と考えたのか、何を考えたのか知らないが、相手をなめてジーコは10億円くれなきゃ監督はしないよと言ったようだ。最後には、3億円程度で決まり、めでたくトルコのフェネルバフチェの監督になったのだが、トルコのサッカーファンの目は肥えていた。ここに来て”不満噴出の荒らし”。

地元メディア:「更迭すべきだ」
その理由:「戦術のない監督」「退屈極まりない試合」「1980年代のサッカー」「チームとしてのプレーがない」

しかし、ジーコは相変わらずの金の亡者ぶりを発揮、”持論”を唱えたという。

ジーコ:「わたしのチームで守備に対する考えを見ることは難しい。不可能だ。勝つためにまずゴールが必要。失点はセットプレーからで、守備をしないからではない」

私に言わせればこれは妄想だ。こうなれば、もはや新興宗教家に近いが、欧州での成功をクラブ創立100周年の目標とするフェネルバフチェの監督になったことが運のつきとなるかも知れない。本気で欧州選手権で活躍しようと期待する選手やファンや国民の前でジーコ流の小中学生育成サッカーでは太刀打ちできないだろう。

”天才肌”のジーコ、神様ジーコはもともと攻撃の選手。ディフェンスは良く分からない。そこが、守備的ボランチだったドゥンガ(現ブラジル代表監督)とは違う。

オシム監督就任と久米宏のWCサッカー特番
で私はこう分析していた。

『確かに昔のジーコの記録は興味深い。が、選手として、あるいは人間として、いくらジーコが素晴らしかったとしても、「監督としてなさねばいけないことをなさなかった」という”責任”を逃れる事はできない。

その点、ジーコ礼讃するばかりで、現実にジーコが何をしたのかということが少しも暴かれていない。むしろ、結局ジーコは、選手達にとっても”良い人”であり続けたという結果しか残っていなかった。

同じブラジル人のドゥンガが「セレソン」で言ったように、

”監督とは選手が嫌がる事をさせるのが務め”

なのだ。選手がニコニコして楽しくできることばかりを監督がさせたとすれば、選手は”退化する”。小中学生サッカーと高大プロサッカーはまったく異なる。ジーコサッカースクールは、お客さん相手のサッカースクールである。しかし、代表チームはそんなお客さんではない。日本代表はサービス業ではないのだ。むしろ”戦闘用員”を養成する軍事組織に近い。この辺が神様ジーコは全く理解できなかったのだろう。』

もう直、ジーコはトルコでも、もう二度とトルコへ来るな、ジーコ! と言われる日は近そうである。これは、トルシエも言える事である。サッカーを金もうけの道具にしようとする人間は、やはり「サッカーの神様」から嫌われるのである。
[ 09:34 ] [ 大学・大学院 ]
阪大教授の捏造を認定 学内調査、別の論文でも改ざん

ここに来てやっと”問題”教授の氏名を公表したようだ。この人物は、私が「若手生物学者”K”の自殺 」で調査した通り、大阪大学の杉野明雄教授であった。

この人がやった事は、おそらく”後付け”というやつだろう。他の研究者のやったことと合わせたり、何かの優先権が得られるように、自分達の結果を改ざんしてつじつま合わせをしたのである。

「共著者らが実施したたんぱく質の解析などをした実験の画像データを、パソコンのソフトを使って改ざんしたり、まったく実施していない実験データを付け加えたりしていた。」
というから全くの驚きである。

欧米ならこうした行為を行った人物を、それが例え自分の直接の上司だったとしても、告発した人物は”英雄”になるだろう。下手をすれば、最近自分が努めた日本レストランでセクハラや性的暴行を受けたとして巨額な裁判を起こした日本人女性のように、自分の将来を傷つけられたとして裁判に発展しかねない。少なくとも、欧米なら、告発者が”自殺”に追い込まれることはなかっただろう。

いずれにせよ、この教授のような人物は、今の(戦後の)高等教育を受けた官僚や大学教授などのインテリに多く見られる。退職後は、海外に行ってのんびり余生を楽しむつもりだったようだ。さんざん税金をもらっておきながらさらにそれで海外生活(海外逃亡?)を計画していたらしい。私もハワイのとある一角でこういった不審な日本人老人をしばしば見かけたことがある。英語もろくに話せないのに、なぜか良い邸宅に住み、何をやっているのか分からないという日本人である。こういう人につきあわさせられる若者は悲惨であろう。

まあ、そんなことはどうでもいいが、私はかねてから「生物学者の行っていること」を”疑っている”が、それは、生物学者の研究というのは、そのほとんどが「シナリオ」あるいは「ストーリー」を提示しているだけで、我々物理学者が考える意味で、”理論の裏付け”というものがないからである。

我々物理学者であれば、「これこれしかじかの実験したらこういう結果が得られたが、その結果はこういった理論的説明ができる」というように議論を展開する。理論家はそれに”数学的な”理論をつけて納得する。しかし、生物学者の研究にはこれがない。生物学者の研究では、「これこれしかじかの実験したらこうなった」で終わりである。

たとえば、DNAは2重螺旋を組み複製すると生物学者が発見しノーベル賞を取る。OKそれはよしとしよう。では、なぜDNAは複製できるのか。どういうふうに数学的に記述できるのか。同様に、なぜタンパク質は折れ畳むのか、なぜ細胞は生きているのか、なぜ膜タンパク質はイオンチャンネルを実現できるのか、などなど。こうした現象の背後にある”機構”や”原理”を探し出そうという気配は今の生物学者には希薄である。

確かに、これとこれをくっつけたらこういった遺伝子ができる。ではそのDNA特許を取得しよう。そして大金持ちになる。とまあ、そういったことのほうがその背後の”物理”や”原理”を突き止める事よりははるかに”手っ取り早い”からである。

こうした”手っ取り早い”戦略がさらにエスカレートし、その目的を忘れ、結果としての実益やメリットばかりを”計算して”狙うようになると(つまり、主客が逆転し、本末転倒になると)、今回の論文捏造のような結果に終わるのだろうと私は考える。

生物現象一般に潜んでいるもっとも深遠な原理とは何か。
物質と生命体の違いを決めているもっとも本質的な機構とは何か。
なぜ無機物質はすぐに熱平衡に辿り着くのに、一度生命体となると食事した後は非平衡でいられるのか。
水が高いところから低いところへ流れるように、物質は流れに逆らえないのに、なぜ生命体はそれに逆らえるのだろうか。

こういった本質的かつ哲学的な問題に対する答えを生物学者には引き出して欲しいものだ。創薬でいくらもうかるとかそんなことはどうでも良い。太古から存在する哲学的問題を解決する事こそ我々科学者にかされた真の使命なのである。こういった問題を解決できていない以上、生物学者にはもっと”謙虚”になっていただいきたいものだ。
2006/09/22のBlog
写真:アファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)の3才女児が洪水によって埋まってしまったことによって出来た化石。

330万年前の猿人女児の化石、ほぼ完全な形で発見


進化図



写真:最近、インドネシア・パプア地方沿岸で見つかった新種のサメ。この手の”50種類以上の新種”が見つかったとか。

ひれで歩くサメ インドネシア沖で新種50種発見


写真:アウトフローという現象。南アフリカの口径1・4mの赤外線望遠鏡で撮影。

ガス噴出、輝くオリオンの若星 国立天文台など観測


写真:”最も遠い銀河”。さすがに人の目では写真からもおよそ銀河には見えない。ハワイのスバル望遠鏡で撮影。

128億8千万光年、最も遠い銀河発見 すばる望遠鏡

それにしても、アフリカ、南アフリカ、インドネシア、ハワイと今や日本人研究者は世界中を”闊歩”して歩いているようだ。

今朝のニュースでは、ブラジルのリオの海岸で溺れた”気の毒な”日本人理論物理学者も現われた。(日本人研究者が行方不明 ブラジルで海水浴か