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2006/11/26のBlog
[ 16:53 ]
[ 健康・医学 ]
約4年前に私は以下のジョークを書いていた(「物理お宅博士のジョーク集」。これらのジョークは昔の私の掲示板Kazumoto's Scientific BBSに書いたもの)。
【井口博士、チクリン遺伝子研究着手!】
日本の貧乏父さん、サラリーマン教育に業を煮やした、われらが井口博士が、日本でチクリン文化が花開く理由は貧乏父さん高等教育のせいなのか、それとも貧乏父さんにチクリン遺伝子や知ったかぶり遺伝子があるせいなのか、環境か遺伝かという古来からの難問に挑戦するのだとか。そして、文部科学省(Ministry of Everything)の科研費を申請したもよう。
人間の個性が環境で決まるのか、それとも人間の遺伝子で決定されるのかという問題は古くからあるが、今だ明確には解決されていない大問題。これまで多くは行われてこなかった。強いて言えば、教育学者など文系の学者のアンケート調査程度のお遊びレベル。
ところが、近年人間のDNAの全配列がほぼ完全に決定され公開された。そこで理論家でも遺伝子研究に着手できる環境が整ったわけだ。井口博士はそこに目を付けた。 これまでのところ、人間の寿命はテロメア遺伝子という遺伝子の端っこの長さで決まっていると分かっている。また、楽天的か悲観的かというのも、ある遺伝子の長さが決めてであると分かっている。
このことから、井口博士は、性格は遺伝子のあるなしというメンデルの法則以外に、遺伝子の長さが決め手であると予想した。そう、これまでは、遺伝子のあるなし、あるいは遺伝子の優勢劣勢など2進法的な発想がほとんど。そこに遺伝子があるなしという位置情報とその大きさ情報というベクトルの発想を持ち込もうというわけだ。つまり、遺伝子の表現型をベクトル表記し、人間の遺伝子をそれらベクトルの直積表現しようという企てだ。したがって、一人一人の人間はハイゼンベルグスピンモデルのように表現できるわけ。
この研究には多くの遺伝子が必要。そこでチクリン遺伝子や知ったかぶり遺伝子を持ってすでに遺伝子の働きが活発に発現している人やだれが見ても遺伝子が発現しているという人々の協力が必要。そこで、井口博士は言う。
「そう、この研究の成否は遺伝子を持っている人の協力が絶対条件。だから、世に知られた国立大学の知ったかぶり掲示板の数々、あるいは国立大学や私立大学で匿名でチクリンを活発にしている人たちへDNA採取に協力して欲しい。」
今活発に協力を呼び掛けているところらしい。
ちなみに、この成果は世直し奉行の銭形平治のだんなさんのところにある膨大なデータの一つとして蓄積されるらしい。もちろん科研費研究レポートにも加えられるはず。もっともこれだけの研究してもたった1ページ程度かも知れないが。
------------------------
今回のこの研究結果は、この中で私がジョークとして”予想”した、
「このことから、井口博士は、性格は遺伝子のあるなしというメンデルの法則以外に、遺伝子の長さが決め手であると予想した。そう、これまでは、遺伝子のあるなし、あるいは遺伝子の優勢劣勢など2進法的な発想がほとんど。そこに遺伝子があるなしという位置情報とその大きさ情報というベクトルの発想を持ち込もうというわけだ。つまり、遺伝子の表現型をベクトル表記し、人間の遺伝子をそれらベクトルの直積表現しようという企てだ。したがって、一人一人の人間はハイゼンベルグスピンモデルのように表現できるわけ。」
が事実であったということである。4年前の私の”予想通り”であった、ということになる。
研究によれば、「遺伝子重複の個人差は1447カ所」であるということから、この表現型の違いは、1447エントリーの違いで区別できることになる。したがって、各エントリーで違いがA個あるとすれば、A^1447種類の違いがあり得ることになる。
こうしたことから、これまでの「優勢劣勢というメンデル的発想」に加えて、「遺伝の強弱」という新しい座標を加えて考えることができるようになると予想できる。いずれ、「西洋人の遺伝子がなぜ強いのか」、というような問題がこの方向から理解できるようになるだろう。
ところで、ここでいう”チクリン”とは、”誹謗中傷すること”や”密告する”という意味の「ちくる」から私が作ったジャーゴン(造語)である。そういった陰湿な行為を行なわせる遺伝子を「チクリン遺伝子」と私は定義した。
最近問題となっている「言葉による”いじめ”」の問題の根源は、このチクリン遺伝子のせいで、日本人の中には何%かの家系にこういった遺伝子が脈々と継承されてきている、と私は見ている。こういう遺伝形質を持った家系が社会や学校の中で陰湿ないじめを行ない弱いもの虐めをしているわけである。しかし、この形質はいわゆる”お勉強”ができるタイプの家系に多く存在し、たいていは大学・大学院まで行くために、大学人にすでに多く発現しているのである。この傾向を皮肉ったジョークが上のものであった。
「”いじめ”問題」で何より一番困ったことは、”いじめ遺伝子”や”チクリン遺伝子”を持つ人々がすでに日本のほとんどすべての大学や高校など学校の先生になっていることである。それゆえ、この問題を処理する能力が最初からまったくないということである。
つまり、いじめ問題を処理すべき体制側にすでにいじめ形質やチクリン遺伝子を所有する人々がついていること、すなわち大学教授や小中高の学校の先生や評論家やマスコミなどの”インテリ”の中の数十%がこの”いじめ遺伝子”や”チクリン遺伝子”を持っている。それゆえ、例え学校の中でだれかが虐められて自殺しても、その学校のほとんどの先生たちにとって、それはどこかのだれかの子供の話であるに過ぎず、所詮は「他人事」なのである。だから、いつも”ピンぼけ”で”おとぼけ”な答弁でお茶を濁すような校長先生が出てくるのである。いつもそのばしのぎの言葉や答弁や対応しかできず、あとは事が過ぎ去るのを待つという態度に終止するだろう。
事実、「2ちゃんねる」などの匿名掲示板に頻繁に誹謗中傷を書き込んでいるのも、大学教職員であったり、高等教育を受けた大学生などのインテリである。大学や教職にこれから就こうとしている人物達が、同時に裏で匿名で陰湿な書き込みを行なっているのである。私は日本で最初にインターネットが流通した頃からずっと観察してきているが、こうした傾向はこの10年全く変わっていない。むしろひどくなっている。
そんなわけで、「いじめ問題」などは、政治家や教育評論家などがいくら「いじめは間違っている。いじめは良くない。」などとお題目を唱えようがなくなることはないのである。なぜなら、本人が逆らえない遺伝子の問題だからである。いじめをする本人にとって、やろうと思ってしているのではない。だれにそうしろと言われたのではなくても自ずからしてしまうという類いの問題なのである。だから問題は非常に深刻なのである。
最初の遺伝子研究記事に戻れば、それこそ、”いじめ遺伝子”や”チクリン遺伝子”というこの形質のベクトル表記が必要な問題なのである。ある人が潜在的にどれほどこの遺伝子を持っているか判別できれば、人に対する「いじめ攻撃」や「誹謗中傷行為」などをどの程度の確率で行ないやすいかを理解できるようになるだろう。そうすれば、この生徒とこの生徒は別々のクラスに分けた方がいいとか、いっしょでもよいとかがあらかじめ分かるようになるかも知れないからである。
日本では、現在多くの人々がこの問題が、社会性の問題、教育の問題であると見ているようだ。が、私は”遺伝性の問題”だとずっと前から見てきている。実際、我が家の関わった幼稚園、小学校、中学校などでどの子供がいじめ形質を持っているかとこの10年観察してきたところ、すべての子供がいじめに走るのではなく、決まってある特定の家系の子供であるのが普通である。ほとんどの場合、いじめを学校で発揮する生徒や子供の親もまたPTAや父兄会などで似たようないじめ行動に出ているというのがごく日常的に見受けられる事実である。こうした家系はずっと続くので、この問題はなくならないのである。つまり、「いじめ家系は遺伝する」ということなのである。
したがって、この問題を本当に解決しようと思うのであれば、それは、まるで我々が「ガン撲滅」宣言をしてガン退治をするようなものである。ガン研究を盛んにしてあらゆる面からガン根絶を目指す。ガンの早期発見、早期治療。こういったことが「ガン撲滅」には必要である。しかしまだ十分ではない。なぜならガンは「ガン家系」というように本来”遺伝性の問題”であるからである。
私は、「いじめ問題」というのもまったく「ガン撲滅」と同じような方法を行なわない限り「いじめ撲滅」はできないと考えている。「いじめ問題」が”遺伝性の問題”であると認識して初めて本当の第一歩が生まれると考える。ガンは臓器の遺伝的形質による異常であるが、いじめは脳の遺伝的形質による異常であると認識すべきなのである。こういったことを正しく認識できない限り、何ら有効な措置はできないだろうと私は思う。「いじめ問題」というのは、このくらいに深刻な問題なのである。
【井口博士、チクリン遺伝子研究着手!】
日本の貧乏父さん、サラリーマン教育に業を煮やした、われらが井口博士が、日本でチクリン文化が花開く理由は貧乏父さん高等教育のせいなのか、それとも貧乏父さんにチクリン遺伝子や知ったかぶり遺伝子があるせいなのか、環境か遺伝かという古来からの難問に挑戦するのだとか。そして、文部科学省(Ministry of Everything)の科研費を申請したもよう。
人間の個性が環境で決まるのか、それとも人間の遺伝子で決定されるのかという問題は古くからあるが、今だ明確には解決されていない大問題。これまで多くは行われてこなかった。強いて言えば、教育学者など文系の学者のアンケート調査程度のお遊びレベル。
ところが、近年人間のDNAの全配列がほぼ完全に決定され公開された。そこで理論家でも遺伝子研究に着手できる環境が整ったわけだ。井口博士はそこに目を付けた。 これまでのところ、人間の寿命はテロメア遺伝子という遺伝子の端っこの長さで決まっていると分かっている。また、楽天的か悲観的かというのも、ある遺伝子の長さが決めてであると分かっている。
このことから、井口博士は、性格は遺伝子のあるなしというメンデルの法則以外に、遺伝子の長さが決め手であると予想した。そう、これまでは、遺伝子のあるなし、あるいは遺伝子の優勢劣勢など2進法的な発想がほとんど。そこに遺伝子があるなしという位置情報とその大きさ情報というベクトルの発想を持ち込もうというわけだ。つまり、遺伝子の表現型をベクトル表記し、人間の遺伝子をそれらベクトルの直積表現しようという企てだ。したがって、一人一人の人間はハイゼンベルグスピンモデルのように表現できるわけ。
この研究には多くの遺伝子が必要。そこでチクリン遺伝子や知ったかぶり遺伝子を持ってすでに遺伝子の働きが活発に発現している人やだれが見ても遺伝子が発現しているという人々の協力が必要。そこで、井口博士は言う。
「そう、この研究の成否は遺伝子を持っている人の協力が絶対条件。だから、世に知られた国立大学の知ったかぶり掲示板の数々、あるいは国立大学や私立大学で匿名でチクリンを活発にしている人たちへDNA採取に協力して欲しい。」
今活発に協力を呼び掛けているところらしい。
ちなみに、この成果は世直し奉行の銭形平治のだんなさんのところにある膨大なデータの一つとして蓄積されるらしい。もちろん科研費研究レポートにも加えられるはず。もっともこれだけの研究してもたった1ページ程度かも知れないが。
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今回のこの研究結果は、この中で私がジョークとして”予想”した、
「このことから、井口博士は、性格は遺伝子のあるなしというメンデルの法則以外に、遺伝子の長さが決め手であると予想した。そう、これまでは、遺伝子のあるなし、あるいは遺伝子の優勢劣勢など2進法的な発想がほとんど。そこに遺伝子があるなしという位置情報とその大きさ情報というベクトルの発想を持ち込もうというわけだ。つまり、遺伝子の表現型をベクトル表記し、人間の遺伝子をそれらベクトルの直積表現しようという企てだ。したがって、一人一人の人間はハイゼンベルグスピンモデルのように表現できるわけ。」
が事実であったということである。4年前の私の”予想通り”であった、ということになる。
研究によれば、「遺伝子重複の個人差は1447カ所」であるということから、この表現型の違いは、1447エントリーの違いで区別できることになる。したがって、各エントリーで違いがA個あるとすれば、A^1447種類の違いがあり得ることになる。
こうしたことから、これまでの「優勢劣勢というメンデル的発想」に加えて、「遺伝の強弱」という新しい座標を加えて考えることができるようになると予想できる。いずれ、「西洋人の遺伝子がなぜ強いのか」、というような問題がこの方向から理解できるようになるだろう。
ところで、ここでいう”チクリン”とは、”誹謗中傷すること”や”密告する”という意味の「ちくる」から私が作ったジャーゴン(造語)である。そういった陰湿な行為を行なわせる遺伝子を「チクリン遺伝子」と私は定義した。
最近問題となっている「言葉による”いじめ”」の問題の根源は、このチクリン遺伝子のせいで、日本人の中には何%かの家系にこういった遺伝子が脈々と継承されてきている、と私は見ている。こういう遺伝形質を持った家系が社会や学校の中で陰湿ないじめを行ない弱いもの虐めをしているわけである。しかし、この形質はいわゆる”お勉強”ができるタイプの家系に多く存在し、たいていは大学・大学院まで行くために、大学人にすでに多く発現しているのである。この傾向を皮肉ったジョークが上のものであった。
「”いじめ”問題」で何より一番困ったことは、”いじめ遺伝子”や”チクリン遺伝子”を持つ人々がすでに日本のほとんどすべての大学や高校など学校の先生になっていることである。それゆえ、この問題を処理する能力が最初からまったくないということである。
つまり、いじめ問題を処理すべき体制側にすでにいじめ形質やチクリン遺伝子を所有する人々がついていること、すなわち大学教授や小中高の学校の先生や評論家やマスコミなどの”インテリ”の中の数十%がこの”いじめ遺伝子”や”チクリン遺伝子”を持っている。それゆえ、例え学校の中でだれかが虐められて自殺しても、その学校のほとんどの先生たちにとって、それはどこかのだれかの子供の話であるに過ぎず、所詮は「他人事」なのである。だから、いつも”ピンぼけ”で”おとぼけ”な答弁でお茶を濁すような校長先生が出てくるのである。いつもそのばしのぎの言葉や答弁や対応しかできず、あとは事が過ぎ去るのを待つという態度に終止するだろう。
事実、「2ちゃんねる」などの匿名掲示板に頻繁に誹謗中傷を書き込んでいるのも、大学教職員であったり、高等教育を受けた大学生などのインテリである。大学や教職にこれから就こうとしている人物達が、同時に裏で匿名で陰湿な書き込みを行なっているのである。私は日本で最初にインターネットが流通した頃からずっと観察してきているが、こうした傾向はこの10年全く変わっていない。むしろひどくなっている。
そんなわけで、「いじめ問題」などは、政治家や教育評論家などがいくら「いじめは間違っている。いじめは良くない。」などとお題目を唱えようがなくなることはないのである。なぜなら、本人が逆らえない遺伝子の問題だからである。いじめをする本人にとって、やろうと思ってしているのではない。だれにそうしろと言われたのではなくても自ずからしてしまうという類いの問題なのである。だから問題は非常に深刻なのである。
最初の遺伝子研究記事に戻れば、それこそ、”いじめ遺伝子”や”チクリン遺伝子”というこの形質のベクトル表記が必要な問題なのである。ある人が潜在的にどれほどこの遺伝子を持っているか判別できれば、人に対する「いじめ攻撃」や「誹謗中傷行為」などをどの程度の確率で行ないやすいかを理解できるようになるだろう。そうすれば、この生徒とこの生徒は別々のクラスに分けた方がいいとか、いっしょでもよいとかがあらかじめ分かるようになるかも知れないからである。
日本では、現在多くの人々がこの問題が、社会性の問題、教育の問題であると見ているようだ。が、私は”遺伝性の問題”だとずっと前から見てきている。実際、我が家の関わった幼稚園、小学校、中学校などでどの子供がいじめ形質を持っているかとこの10年観察してきたところ、すべての子供がいじめに走るのではなく、決まってある特定の家系の子供であるのが普通である。ほとんどの場合、いじめを学校で発揮する生徒や子供の親もまたPTAや父兄会などで似たようないじめ行動に出ているというのがごく日常的に見受けられる事実である。こうした家系はずっと続くので、この問題はなくならないのである。つまり、「いじめ家系は遺伝する」ということなのである。
したがって、この問題を本当に解決しようと思うのであれば、それは、まるで我々が「ガン撲滅」宣言をしてガン退治をするようなものである。ガン研究を盛んにしてあらゆる面からガン根絶を目指す。ガンの早期発見、早期治療。こういったことが「ガン撲滅」には必要である。しかしまだ十分ではない。なぜならガンは「ガン家系」というように本来”遺伝性の問題”であるからである。
私は、「いじめ問題」というのもまったく「ガン撲滅」と同じような方法を行なわない限り「いじめ撲滅」はできないと考えている。「いじめ問題」が”遺伝性の問題”であると認識して初めて本当の第一歩が生まれると考える。ガンは臓器の遺伝的形質による異常であるが、いじめは脳の遺伝的形質による異常であると認識すべきなのである。こういったことを正しく認識できない限り、何ら有効な措置はできないだろうと私は思う。「いじめ問題」というのは、このくらいに深刻な問題なのである。
2006/11/24のBlog
[ 17:30 ]
[ 科学ニュース ]
写真:日本で初めて見つかったミコバチ
「ミコバチ」国内で初確認 兵庫で小学校教諭が捕獲
「ミコバチ」国内で初確認 兵庫で小学校教諭が捕獲
2006/11/20のBlog
[ 15:14 ]
[ 健康・医学 ]
写真:土星の極にあるという渦の目
卵と心筋梗塞、実は無関係だった 厚労省9万人調査
これは非常に面白い問題を含んでいる。
全国10地域に住む40一69歳の男女で狭心症などにかかったことがない人々約9万人を10年間調べ、調査開始時に食生活などの習慣を聞き、卵を「ほぼ毎日食べる」から「ほとんど食べない」まで、四つのグループに分けて分析したところ、「ほぼ毎日」の人たちの心筋梗塞の発症危険度は、ほかのグループと変わらなかった。これまでは、卵はコレステロールを多く含み、たくさん食べると心筋梗塞の危険性を高めると指摘されてきていたために、それが真っ赤な嘘であったというニュース。
要するに、厚生官僚の公表する調査がいかにずさんでいい加減なものであったかということを自ら証明してしまったわけである。
約1年前に私は「アット・ホーム・ダッドは一番短命なの? 」というものを書いていた。この中の最後で、私はこう書いていた。
『以上のことから、コレステロール値を下げる食事が必ずしも良いとは言えないのである。なぜならコルチゾールはコレステロールがその原料となり、コレステロールが少ないとストレスに弱くなるからである。このコレステロールのお話はもっと恐ろしい話と繋がるが、これはまたの機会としようネ。』
さらに上の”このコレステロールのお話はもっと恐ろしい話と繋がるが、これはまたの機会としようネ。”を受けてそれから1ヶ月ほどして私は「バレンタインデーチョコの効用 」を書いていた。この中で私はこう書いていた。
『(6)提案
以上のことから考えると、昨今の日本で犯罪率が急速に高まったこと、児童や青少年にいわゆる”キレやすい”、”暴力的”という性格が非常に見受けられるようになったこと、”引きこもり”の人間が増えたこと、などの日本人の傾向と”低コレステロール”食事の普及が実は非常に深いレベルで関連しているのではないか、と私は考えるのである。
リドレー博士も言っているが、”低コレステロール”の食事というものは、心臓病の気がある人や心臓病患者にとっては必要な食事だが、一般人にはむしろ非常に危険なことなのである。良質のコレステロール、つまり善玉コレステロールは若者や子供や成人に至るすべての人間の脳内活動に必須な栄養素なのである。
近年特に若者の”うつ病”、”自殺(集団自殺)”が増えたことも社会全体で、”低コレステロール”食事を煽ったことが原因の1つであることはまず間違いないことだろう。これは日本の栄養学者の大罪であると私は考えている。早急に改善すべきであろう。
離婚率が増えたこと、女性が外で働くようになったこと、などのさまざまなことが要因となり、日本人の子供や若者が”朝飯を抜く”ようになったことも、十分な栄養(コレステロール)が頭(脳)に行かなくなったことの原因であるだろう。その結果は明白であろう。子供は痩せぎすになり、いつもうつ病患者のようにいらいらし不機嫌で落ち着きがなく、少しのことで切れ、暴力的となる。身体は女性化し、十分に発達しない。
こういうことから考えて、私は十分な栄養を子供達にとらせることが必要であると考える。特に善玉コレステロールの必要性である。昔の日本人は朝飯にはいつも卵の入った味噌汁(あるいは味噌汁と卵焼き)と御飯と漬け物を食べた。おそらく粗食に向いている日本人にはこれで十分なのであろう。
空腹感は人の心を蝕む。特に若者には痛手となる。栄養素が足りなければ、人間の精神活動をつかさどる脳内ホルモンや性ホルモンや副皮質ホルモンを作り出せず、脳の機能も発達しない。つまりネットワークを強化できない。
ぜひ子供達に十分な食事を与えよう。これが私の一番の提案である。』
この中の「こういうことから考えて、私は十分な栄養を子供達にとらせることが必要であると考える。特に善玉コレステロールの必要性である。昔の日本人は朝飯にはいつも卵の入った味噌汁(あるいは味噌汁と卵焼き)と御飯と漬け物を食べた。おそらく粗食に向いている日本人にはこれで十分なのであろう。」は示唆的である。
元来肉食でなかった日本人にとって卵は非常に理想的なタンパク質と善玉コレステロールの入った食べ物である。卵と納豆などの組み合わせは非常に日本人に合っている。日本人で卵を食べ過ぎて死んだという話はあまり聞いたことがない。事実、女優の森光子さんは毎日たくさんの卵を食べて高齢にもかかわらず至って元気である。
こうしたことからも、善玉コレステロールはむしろたくさん摂取すべきであり、総コレステロールを制限するために卵を制限するというのは日本人には合っていない。こんなわけで、我が家では毎日卵をかならず朝食で取るようにしている。実際的効果として妻の生理痛が楽になったり、頭痛が起こりにくくなったりしている。
私がかつて紹介したように、心筋梗塞にもっとも関わるのは、ストレスである。それは、リドレー博士の言ったとおりである。「ストレスこそ諸悪の根源」なのである。卵が原因ではない。
この意味で、”主夫”の寿命は、出世した人物の寿命よりはるかに短いのであり、高級官僚より低級官僚の寿命の方がはるかに短いのである。それは、ストレスが心筋梗塞の直接の原因だからである。
にもかかわらず、厚生労働省の担当者は、これだけのデータを自分で出しておきながら、まだ次のように言っている。
「もともとコレステロール値が高かった人が、食べないグループに入った影響も考えられる。卵を毎日食べるかどうかよりも、総コレステロールを低く保つことの方が重要だ」
まったく困ったものである。今回の調査結果は、私が書いたことを証明したと言えるだろう。
卵と心筋梗塞、実は無関係だった 厚労省9万人調査
これは非常に面白い問題を含んでいる。
全国10地域に住む40一69歳の男女で狭心症などにかかったことがない人々約9万人を10年間調べ、調査開始時に食生活などの習慣を聞き、卵を「ほぼ毎日食べる」から「ほとんど食べない」まで、四つのグループに分けて分析したところ、「ほぼ毎日」の人たちの心筋梗塞の発症危険度は、ほかのグループと変わらなかった。これまでは、卵はコレステロールを多く含み、たくさん食べると心筋梗塞の危険性を高めると指摘されてきていたために、それが真っ赤な嘘であったというニュース。
要するに、厚生官僚の公表する調査がいかにずさんでいい加減なものであったかということを自ら証明してしまったわけである。
約1年前に私は「アット・ホーム・ダッドは一番短命なの? 」というものを書いていた。この中の最後で、私はこう書いていた。
『以上のことから、コレステロール値を下げる食事が必ずしも良いとは言えないのである。なぜならコルチゾールはコレステロールがその原料となり、コレステロールが少ないとストレスに弱くなるからである。このコレステロールのお話はもっと恐ろしい話と繋がるが、これはまたの機会としようネ。』
さらに上の”このコレステロールのお話はもっと恐ろしい話と繋がるが、これはまたの機会としようネ。”を受けてそれから1ヶ月ほどして私は「バレンタインデーチョコの効用 」を書いていた。この中で私はこう書いていた。
『(6)提案
以上のことから考えると、昨今の日本で犯罪率が急速に高まったこと、児童や青少年にいわゆる”キレやすい”、”暴力的”という性格が非常に見受けられるようになったこと、”引きこもり”の人間が増えたこと、などの日本人の傾向と”低コレステロール”食事の普及が実は非常に深いレベルで関連しているのではないか、と私は考えるのである。
リドレー博士も言っているが、”低コレステロール”の食事というものは、心臓病の気がある人や心臓病患者にとっては必要な食事だが、一般人にはむしろ非常に危険なことなのである。良質のコレステロール、つまり善玉コレステロールは若者や子供や成人に至るすべての人間の脳内活動に必須な栄養素なのである。
近年特に若者の”うつ病”、”自殺(集団自殺)”が増えたことも社会全体で、”低コレステロール”食事を煽ったことが原因の1つであることはまず間違いないことだろう。これは日本の栄養学者の大罪であると私は考えている。早急に改善すべきであろう。
離婚率が増えたこと、女性が外で働くようになったこと、などのさまざまなことが要因となり、日本人の子供や若者が”朝飯を抜く”ようになったことも、十分な栄養(コレステロール)が頭(脳)に行かなくなったことの原因であるだろう。その結果は明白であろう。子供は痩せぎすになり、いつもうつ病患者のようにいらいらし不機嫌で落ち着きがなく、少しのことで切れ、暴力的となる。身体は女性化し、十分に発達しない。
こういうことから考えて、私は十分な栄養を子供達にとらせることが必要であると考える。特に善玉コレステロールの必要性である。昔の日本人は朝飯にはいつも卵の入った味噌汁(あるいは味噌汁と卵焼き)と御飯と漬け物を食べた。おそらく粗食に向いている日本人にはこれで十分なのであろう。
空腹感は人の心を蝕む。特に若者には痛手となる。栄養素が足りなければ、人間の精神活動をつかさどる脳内ホルモンや性ホルモンや副皮質ホルモンを作り出せず、脳の機能も発達しない。つまりネットワークを強化できない。
ぜひ子供達に十分な食事を与えよう。これが私の一番の提案である。』
この中の「こういうことから考えて、私は十分な栄養を子供達にとらせることが必要であると考える。特に善玉コレステロールの必要性である。昔の日本人は朝飯にはいつも卵の入った味噌汁(あるいは味噌汁と卵焼き)と御飯と漬け物を食べた。おそらく粗食に向いている日本人にはこれで十分なのであろう。」は示唆的である。
元来肉食でなかった日本人にとって卵は非常に理想的なタンパク質と善玉コレステロールの入った食べ物である。卵と納豆などの組み合わせは非常に日本人に合っている。日本人で卵を食べ過ぎて死んだという話はあまり聞いたことがない。事実、女優の森光子さんは毎日たくさんの卵を食べて高齢にもかかわらず至って元気である。
こうしたことからも、善玉コレステロールはむしろたくさん摂取すべきであり、総コレステロールを制限するために卵を制限するというのは日本人には合っていない。こんなわけで、我が家では毎日卵をかならず朝食で取るようにしている。実際的効果として妻の生理痛が楽になったり、頭痛が起こりにくくなったりしている。
私がかつて紹介したように、心筋梗塞にもっとも関わるのは、ストレスである。それは、リドレー博士の言ったとおりである。「ストレスこそ諸悪の根源」なのである。卵が原因ではない。
この意味で、”主夫”の寿命は、出世した人物の寿命よりはるかに短いのであり、高級官僚より低級官僚の寿命の方がはるかに短いのである。それは、ストレスが心筋梗塞の直接の原因だからである。
にもかかわらず、厚生労働省の担当者は、これだけのデータを自分で出しておきながら、まだ次のように言っている。
「もともとコレステロール値が高かった人が、食べないグループに入った影響も考えられる。卵を毎日食べるかどうかよりも、総コレステロールを低く保つことの方が重要だ」
まったく困ったものである。今回の調査結果は、私が書いたことを証明したと言えるだろう。
[ 13:58 ]
[ スポーツ ]
世界陸上選考会に再挑戦も 女子マラソンの高橋尚子
2年程前私は昔の掲示板の1つに「高橋尚子落選」というエッセイを書いていた。
『昨日(2004年3月16日)の女子陸上マラソン選考発表には、非常に驚かされた。その原因は、河野洋平氏という政治家の介入によって陸上選考会委員の意見が二転三転したことであるだろう。選考会や相撲の横綱審議会などに有力政治家や財界人が入ることがあるが、もはやこういうことはやめた方がいい、という教訓になるだろう。
しかし、一言でいえば、今回の選考の最大の問題点は、有森選手と高橋選手を味噌くそにした、ということである。
有森選手はメダリストではあったが、金メダリストではなかった。その有森選手を代表に入れたために、同程度の実力があっても生涯一度もオリンピックに出られないという選手が一方で出てしまうという問題である。選手を育てた監督が一様に自分の選手を押すのは人情である。だから、土佐選手や他の監督が自分の選手に肩入れするのは当然である。しかし、今回は、デフェンディングチャンピオンの高橋選手を外したという意味で、オリンピックというものを日本陸連がまったく理解できていなかったということを露呈した、といえるだろう。あるいは、選考委員の中で河野洋平氏など日本の政治家がまったくそういうことを理解していなかったのかもしれない。
通常、オリンピックではウィンブルドンテニスやかつてのワールドカップサッカーと同様に、”金メダリスト(デフェンディングチャンピオン)は無条件で出場してもよろしい”というものである。(もちろん、本人が不調や事故などで出場しないというなら別である。)
なぜなら、それは”オリンピックの歴史”というものがあるからである。かつての”はだしのアベベ”時代など歴史の転換点に立つパイオニアを冠した時代変遷というものがあるからである。また、マラソンは100mなど他のトラックのタイムレースと違って、コースも天候も毎回異なり、勝負は勝ち負けで決まるスポーツであり、トラックレースのように1発で決めることができないからである。だから、世界中のランナーが”打倒高橋”を目標にしてこの4年間を過ごして来たのである。(たとえば、「世界の陸上関係者も驚きの声 高橋選手代表落選 」)
高橋選手は、日本陸連はどう考えたのかしらないが、女子マラソン2時間20分の壁を初めて突破し、女子マラソンを男子マラソンなみの”高速化時代”突入を告げた、歴史的選手である。それを今回は逆に一度の”失敗”(これは初めての調整ミス)で、その責任を問われたということである。これはアンフェアだろう。”ほとんど無名で来て一度の成功で結果を手に入れた選手”と”何度もチャンピオンで来て一度の失敗でチャンスを失った選手”を比較するのであれば、それでは”実力のない選手がまぐれ当たりする方が断然有利である”、ということになるからである。実際、これほどまでに高橋選手の実力は”別格”(飛び抜けている)のである。
ところで、私の予想では、起伏が激しくタフなアテネのコースは、筋力トレーニング主体の野口選手だけがついていけるはずなので、気弱な土佐選手や若さだけの坂本選手はおそらく失敗するだろう。また、海外独特のムードで調子を崩すかもしれない。経験豊かな高橋選手は実力通りの結果を出せ、海外経験豊富なためにムードに飲まれることもないだろう。(これは、私の”独断的”予想だが、気弱な土佐選手かあるいは若い坂本選手が、オリンピック直前に体調を崩し、補欠の千葉選手が選ばれる。しかし、チームメイトの千葉選手はそれを高橋選手に譲る。というようなことが起りそうな気がする。が、果して高橋選手がその時に間に合うかどうか。)
日本陸連が、今回の選考を行った背景には、以前、有森選手の選考の時に、選考レースで良い記録を出した選手と、(選考レースに出場しないが)実力の有る選手の比較で、選考レース外で有森選手を選んだ時の批判が非常に大きかった、ということを考慮したようである。この時のことが非常に日本陸連にはこたえていたようである。これを肝に銘じて今回の決定があったのだろうが、今度は、国内のことに気を取られるばかり、世界のことを忘れてしまった、ということである。つまり、”日本の常識は世界の非常識”の典型例の1つになってしまったということである。高橋選手は実力に裏打ちされそのうえ人柄も良いために国民的に人気があるのだが、日本陸連はその実力と人気をごちゃまぜにしてしまった結果であるといえるだろう。(ところで、この選考の様子を自分のせいで高橋選手が落選したにもかかわらず、のうのうとテレビ解説している有森さんの”脳天気”ぶりにはさすがに驚かされた。)
高橋選手はディフェンディングチャンピオン、あとは選考会で決める。これで、”苦渋の選択”どころか、もっともフェアで分りやすかったはずだったのが、どうやら政治家も介入した今回の陸連の選考会では、逆方向へ迷走してしまった、ようである。ほんと日本陸連のお偉方は頭が悪い、と見える今日このごろである。
いずれにせよ、金メダリスト(前回オリンピック覇者)がいれば、無条件で出場。いなければ、あとは選考会で決定。単純な選考のはずなのだが。いやはや、何とも後味の悪い結果であった。』
これは、アテネ・オリンピック前夜の予選での話であった。土佐選手はともかく、坂本選手は、たった一回標準記録を突破したために選考されたという選手であった。
昨日の東京国際女子マラソンは、その時期からちょうど2年目にあたり、高橋尚子選手が本格的にマラソン再開したレースであった。
結果は承知のように、アテネの予選時と全く同じように後半に失速してジョギング状態に陥ってしまった。ライバルの土佐選手が平凡的なタイムながら悪コンディションの中で優勝した。
マラソンの選考時にいつも問題となるのが、日本陸連の選考基準である。この日本陸連に似ていたのが、日本スケート協会であった。いつもだれを代表にするのかすったもんだの問題を生じてきたからである。が、ここはやはり協会長や理事長などが不正経理を行なって実質的に予算を私物化していたわけである。そしてついにこれが表面化して理事長は逮捕されてしまった。このことからも、私は個人的には日本陸連というのも、非常に不透明なものがあるような気がしている。それゆえ、ディフェンディングチャンピオンであった高橋尚子選手落選という暴挙を行なったわけである。
レース前の海外記者とのインタビューでとある外国人記者がジョーク半分、高橋選手に「隣の人はオリンピック出場を奪った人なのですがどう思うか」というような質問を行なった。これに対して、高橋選手は「そうは思っていません」と答え、土佐選手は「・・・」という感じであった。
しかし、これは土佐選手が奪ったのではなく、坂本選手が奪ったのであるから、明らかに間違いだと私は思う。新人で一発だけ標準記録突破の選手とすでにコンスタントに上位に入賞している選手とは経験も格も違うわけだが、それをどういうわけか陸連が考慮しなかったという問題。選手の問題というよりは、陸連の問題である。
さて、高橋選手はまだ引退せずに頑張るという。ではそのためには何をすれば良いか。
私は2年前の上のエッセイで「ところで、私の予想では、起伏が激しくタフなアテネのコースは、筋力トレーニング主体の野口選手だけがついていけるはずなので、気弱な土佐選手や若さだけの坂本選手はおそらく失敗するだろう。」と書いていたように、高橋選手はそろそろ本格的に”筋トレ”をメニューに組み込む時期に入ったと思う。
だいたい日本人選手やスポーツマンの場合、30才過ぎるとそれまでのように若さとセンスだけではいくら才能ある選手でも通用しなくなる。しかし、筋トレをして筋肉を鍛えておくと、疲れ方が減り、非常に回復力が増すようになる。それゆえ、いつも”筋トレ”を欠かさない野口選手が驚異的な選手に育ったわけである。野口選手は、自分の小柄な身体のハンディキャップを補うためにストライドを伸ばせるように”筋トレ”を始めたらしいが、それが逆にユニークな選手と飛躍するのに繋がったわけである。同様に、相撲界では、肩に脱きゅう癖のある千代の富士が、それを克服するために”筋トレ”を始めて逆に大横綱に成長したというのと似ているのである。
この意味では、高橋選手は、野口選手に”弟子入り”して正しい”筋トレ”法を身につける必要があるかも知れない。今回の結果から、高橋選手はこれまでと同じような練習だけではすでに優勝できない年令に来ていることは確かである。”筋トレ”しパワーアップしなくては優勝できないだろう。いくら体重を落としても筋力は落とさないようにしないとばててしまうのである。
いずれにせよ、”見た目”も高橋選手はかなり”貧弱”であった。これがすべてを物語っていた。
2年程前私は昔の掲示板の1つに「高橋尚子落選」というエッセイを書いていた。
『昨日(2004年3月16日)の女子陸上マラソン選考発表には、非常に驚かされた。その原因は、河野洋平氏という政治家の介入によって陸上選考会委員の意見が二転三転したことであるだろう。選考会や相撲の横綱審議会などに有力政治家や財界人が入ることがあるが、もはやこういうことはやめた方がいい、という教訓になるだろう。
しかし、一言でいえば、今回の選考の最大の問題点は、有森選手と高橋選手を味噌くそにした、ということである。
有森選手はメダリストではあったが、金メダリストではなかった。その有森選手を代表に入れたために、同程度の実力があっても生涯一度もオリンピックに出られないという選手が一方で出てしまうという問題である。選手を育てた監督が一様に自分の選手を押すのは人情である。だから、土佐選手や他の監督が自分の選手に肩入れするのは当然である。しかし、今回は、デフェンディングチャンピオンの高橋選手を外したという意味で、オリンピックというものを日本陸連がまったく理解できていなかったということを露呈した、といえるだろう。あるいは、選考委員の中で河野洋平氏など日本の政治家がまったくそういうことを理解していなかったのかもしれない。
通常、オリンピックではウィンブルドンテニスやかつてのワールドカップサッカーと同様に、”金メダリスト(デフェンディングチャンピオン)は無条件で出場してもよろしい”というものである。(もちろん、本人が不調や事故などで出場しないというなら別である。)
なぜなら、それは”オリンピックの歴史”というものがあるからである。かつての”はだしのアベベ”時代など歴史の転換点に立つパイオニアを冠した時代変遷というものがあるからである。また、マラソンは100mなど他のトラックのタイムレースと違って、コースも天候も毎回異なり、勝負は勝ち負けで決まるスポーツであり、トラックレースのように1発で決めることができないからである。だから、世界中のランナーが”打倒高橋”を目標にしてこの4年間を過ごして来たのである。(たとえば、「世界の陸上関係者も驚きの声 高橋選手代表落選 」)
高橋選手は、日本陸連はどう考えたのかしらないが、女子マラソン2時間20分の壁を初めて突破し、女子マラソンを男子マラソンなみの”高速化時代”突入を告げた、歴史的選手である。それを今回は逆に一度の”失敗”(これは初めての調整ミス)で、その責任を問われたということである。これはアンフェアだろう。”ほとんど無名で来て一度の成功で結果を手に入れた選手”と”何度もチャンピオンで来て一度の失敗でチャンスを失った選手”を比較するのであれば、それでは”実力のない選手がまぐれ当たりする方が断然有利である”、ということになるからである。実際、これほどまでに高橋選手の実力は”別格”(飛び抜けている)のである。
ところで、私の予想では、起伏が激しくタフなアテネのコースは、筋力トレーニング主体の野口選手だけがついていけるはずなので、気弱な土佐選手や若さだけの坂本選手はおそらく失敗するだろう。また、海外独特のムードで調子を崩すかもしれない。経験豊かな高橋選手は実力通りの結果を出せ、海外経験豊富なためにムードに飲まれることもないだろう。(これは、私の”独断的”予想だが、気弱な土佐選手かあるいは若い坂本選手が、オリンピック直前に体調を崩し、補欠の千葉選手が選ばれる。しかし、チームメイトの千葉選手はそれを高橋選手に譲る。というようなことが起りそうな気がする。が、果して高橋選手がその時に間に合うかどうか。)
日本陸連が、今回の選考を行った背景には、以前、有森選手の選考の時に、選考レースで良い記録を出した選手と、(選考レースに出場しないが)実力の有る選手の比較で、選考レース外で有森選手を選んだ時の批判が非常に大きかった、ということを考慮したようである。この時のことが非常に日本陸連にはこたえていたようである。これを肝に銘じて今回の決定があったのだろうが、今度は、国内のことに気を取られるばかり、世界のことを忘れてしまった、ということである。つまり、”日本の常識は世界の非常識”の典型例の1つになってしまったということである。高橋選手は実力に裏打ちされそのうえ人柄も良いために国民的に人気があるのだが、日本陸連はその実力と人気をごちゃまぜにしてしまった結果であるといえるだろう。(ところで、この選考の様子を自分のせいで高橋選手が落選したにもかかわらず、のうのうとテレビ解説している有森さんの”脳天気”ぶりにはさすがに驚かされた。)
高橋選手はディフェンディングチャンピオン、あとは選考会で決める。これで、”苦渋の選択”どころか、もっともフェアで分りやすかったはずだったのが、どうやら政治家も介入した今回の陸連の選考会では、逆方向へ迷走してしまった、ようである。ほんと日本陸連のお偉方は頭が悪い、と見える今日このごろである。
いずれにせよ、金メダリスト(前回オリンピック覇者)がいれば、無条件で出場。いなければ、あとは選考会で決定。単純な選考のはずなのだが。いやはや、何とも後味の悪い結果であった。』
これは、アテネ・オリンピック前夜の予選での話であった。土佐選手はともかく、坂本選手は、たった一回標準記録を突破したために選考されたという選手であった。
昨日の東京国際女子マラソンは、その時期からちょうど2年目にあたり、高橋尚子選手が本格的にマラソン再開したレースであった。
結果は承知のように、アテネの予選時と全く同じように後半に失速してジョギング状態に陥ってしまった。ライバルの土佐選手が平凡的なタイムながら悪コンディションの中で優勝した。
マラソンの選考時にいつも問題となるのが、日本陸連の選考基準である。この日本陸連に似ていたのが、日本スケート協会であった。いつもだれを代表にするのかすったもんだの問題を生じてきたからである。が、ここはやはり協会長や理事長などが不正経理を行なって実質的に予算を私物化していたわけである。そしてついにこれが表面化して理事長は逮捕されてしまった。このことからも、私は個人的には日本陸連というのも、非常に不透明なものがあるような気がしている。それゆえ、ディフェンディングチャンピオンであった高橋尚子選手落選という暴挙を行なったわけである。
レース前の海外記者とのインタビューでとある外国人記者がジョーク半分、高橋選手に「隣の人はオリンピック出場を奪った人なのですがどう思うか」というような質問を行なった。これに対して、高橋選手は「そうは思っていません」と答え、土佐選手は「・・・」という感じであった。
しかし、これは土佐選手が奪ったのではなく、坂本選手が奪ったのであるから、明らかに間違いだと私は思う。新人で一発だけ標準記録突破の選手とすでにコンスタントに上位に入賞している選手とは経験も格も違うわけだが、それをどういうわけか陸連が考慮しなかったという問題。選手の問題というよりは、陸連の問題である。
さて、高橋選手はまだ引退せずに頑張るという。ではそのためには何をすれば良いか。
私は2年前の上のエッセイで「ところで、私の予想では、起伏が激しくタフなアテネのコースは、筋力トレーニング主体の野口選手だけがついていけるはずなので、気弱な土佐選手や若さだけの坂本選手はおそらく失敗するだろう。」と書いていたように、高橋選手はそろそろ本格的に”筋トレ”をメニューに組み込む時期に入ったと思う。
だいたい日本人選手やスポーツマンの場合、30才過ぎるとそれまでのように若さとセンスだけではいくら才能ある選手でも通用しなくなる。しかし、筋トレをして筋肉を鍛えておくと、疲れ方が減り、非常に回復力が増すようになる。それゆえ、いつも”筋トレ”を欠かさない野口選手が驚異的な選手に育ったわけである。野口選手は、自分の小柄な身体のハンディキャップを補うためにストライドを伸ばせるように”筋トレ”を始めたらしいが、それが逆にユニークな選手と飛躍するのに繋がったわけである。同様に、相撲界では、肩に脱きゅう癖のある千代の富士が、それを克服するために”筋トレ”を始めて逆に大横綱に成長したというのと似ているのである。
この意味では、高橋選手は、野口選手に”弟子入り”して正しい”筋トレ”法を身につける必要があるかも知れない。今回の結果から、高橋選手はこれまでと同じような練習だけではすでに優勝できない年令に来ていることは確かである。”筋トレ”しパワーアップしなくては優勝できないだろう。いくら体重を落としても筋力は落とさないようにしないとばててしまうのである。
いずれにせよ、”見た目”も高橋選手はかなり”貧弱”であった。これがすべてを物語っていた。
2006/11/18のBlog
[ 10:33 ]
[ オシムの言葉 ]
「最強メンバー」U21韓国戦の代表決まる
によると、21日のU一21日韓戦のメンバー23人が決まった。以下の通り。
▽GK 松井謙弥(磐田)、西川周作(大分)
▽DF 一柳夢吾(東京V)、千葉和彦(新潟)、伊野波雅彦(F東京)、水本裕貴(千葉)、細貝萌(浦和)、青山直晃(清水)、福元洋平(大分)
▽MF 本田拓也(法大)、増田誓志(鹿島)、谷口博之(川崎)、中村北斗(福岡)、水野晃樹(千葉)、梶山陽平(F東京)、青山敏弘(広島)、家長昭博(G大阪)、本田圭佑(名古屋)、枝村匠馬(清水)、乾貴士(滋賀・野洲高)
▽FW 平山相太(F東京)、カレン・ロバート(磐田)、苔口卓也(C大阪)
反町監督談、「現在最強チームである」
果たしてこれが本当にそうかどうかは、21日を楽しみにしておこう。ちなみに、このメンバーには元野洲高校、現野洲高校の選手も入っているので、野洲高校の”セクシーサッカー”が出るのかどうか見物である。
によると、21日のU一21日韓戦のメンバー23人が決まった。以下の通り。
▽GK 松井謙弥(磐田)、西川周作(大分)
▽DF 一柳夢吾(東京V)、千葉和彦(新潟)、伊野波雅彦(F東京)、水本裕貴(千葉)、細貝萌(浦和)、青山直晃(清水)、福元洋平(大分)
▽MF 本田拓也(法大)、増田誓志(鹿島)、谷口博之(川崎)、中村北斗(福岡)、水野晃樹(千葉)、梶山陽平(F東京)、青山敏弘(広島)、家長昭博(G大阪)、本田圭佑(名古屋)、枝村匠馬(清水)、乾貴士(滋賀・野洲高)
▽FW 平山相太(F東京)、カレン・ロバート(磐田)、苔口卓也(C大阪)
反町監督談、「現在最強チームである」
果たしてこれが本当にそうかどうかは、21日を楽しみにしておこう。ちなみに、このメンバーには元野洲高校、現野洲高校の選手も入っているので、野洲高校の”セクシーサッカー”が出るのかどうか見物である。
一方、オシム・ジャパンは、アジアの強豪サウジアラビア相手に3一1で快勝。久々に見る良い試合だった。ここに来て、オシム監督の意図する攻撃パターンができるようになってきたようである。
トップの我那覇選手は、一時の久保選手のような”輝き”を発揮しつつあるようだ。巻選手は相変わらずのミスショットの連続。それでもおとりの役割は果たしているのでまずまずだった。
しかし、何よりの収穫は、もうひとりの”中村”、中村憲剛(なかむら けんご/川崎フロンターレ)選手がここに来て急速に成長してきたことだろう。顔もプレースタイルも中村俊輔選手に似ているが、ロングシュートの精度が高くまたやわらかなプレーもできる。これまでトルシエ・チルドレンの遠藤選手の影でなかなかその潜在的才能を発揮できずにいたが、”神のお恵み”か、このアジア大会の最後に遠藤選手が急性肝炎に罹ってしまった。これが中村憲剛選手に幸いした。まだ、この中村憲剛選手のやろうとするプレーに周りはついていけていないが、その先を読む力と展開能力はかなり非凡なものを感じる。稀に見るMFに成長できるかどうか、今後を期待したい。
トップの我那覇選手は、一時の久保選手のような”輝き”を発揮しつつあるようだ。巻選手は相変わらずのミスショットの連続。それでもおとりの役割は果たしているのでまずまずだった。
しかし、何よりの収穫は、もうひとりの”中村”、中村憲剛(なかむら けんご/川崎フロンターレ)選手がここに来て急速に成長してきたことだろう。顔もプレースタイルも中村俊輔選手に似ているが、ロングシュートの精度が高くまたやわらかなプレーもできる。これまでトルシエ・チルドレンの遠藤選手の影でなかなかその潜在的才能を発揮できずにいたが、”神のお恵み”か、このアジア大会の最後に遠藤選手が急性肝炎に罹ってしまった。これが中村憲剛選手に幸いした。まだ、この中村憲剛選手のやろうとするプレーに周りはついていけていないが、その先を読む力と展開能力はかなり非凡なものを感じる。稀に見るMFに成長できるかどうか、今後を期待したい。
2006/11/17のBlog
[ 11:32 ]
[ 訃報・追悼 ]
同じ頃、「未来の衝撃」。「第3の波」のアルビン・トフラーなど「未来学者」というものが登場しはじめ、新世紀に向けて社会は何でも自由で、家庭の形態から消費に至るまで何でもかんでも本人自由の多様性に富んだ時代へと変わるのだと宣言された時代であった。
商品は大衆消費材から個人消費的な高級ブランドものへ、大量生産から受注生産へ、ファミリー食品からグルメと大きく転換しはじめたのである。そして、大衆相手のスーパーやデパート時代から個別専門店、高級ブランド店へと消費形態も「選択の自由」が行なわれる社会へと変ぼうしたのである。
しかし、バブル崩壊と共に、この「選択の自由」の通じるインフレーション経済が崩壊し、次の20年はデフレスパイラルの超緊縮財政時代へと変わり、バラ色の「選択の自由」的社会から暗く陰うつなレスター・サローの「ゼロサム社会 」へと変ぼうをとげたのである。つまり、誰もが努力すればそれに見合って成果が得られる社会からお金を争奪戦の社会へと変わったのである。何ごともその人の努力によってではなくその人の所得や給料によって決まる、もはや「何の選択の余地もない社会」へと転落したのである。
果たしてこのミルトン・フリードマン博士は、現在の「格差社会」や「下流社会」をどう考えたのだろうか。
この辺りをぜひ聞いてみたいものであった。
御冥福をお祈りしたい。
商品は大衆消費材から個人消費的な高級ブランドものへ、大量生産から受注生産へ、ファミリー食品からグルメと大きく転換しはじめたのである。そして、大衆相手のスーパーやデパート時代から個別専門店、高級ブランド店へと消費形態も「選択の自由」が行なわれる社会へと変ぼうしたのである。
しかし、バブル崩壊と共に、この「選択の自由」の通じるインフレーション経済が崩壊し、次の20年はデフレスパイラルの超緊縮財政時代へと変わり、バラ色の「選択の自由」的社会から暗く陰うつなレスター・サローの「ゼロサム社会 」へと変ぼうをとげたのである。つまり、誰もが努力すればそれに見合って成果が得られる社会からお金を争奪戦の社会へと変わったのである。何ごともその人の努力によってではなくその人の所得や給料によって決まる、もはや「何の選択の余地もない社会」へと転落したのである。
果たしてこのミルトン・フリードマン博士は、現在の「格差社会」や「下流社会」をどう考えたのだろうか。
この辺りをぜひ聞いてみたいものであった。
御冥福をお祈りしたい。
2006/11/15のBlog
[ 16:25 ]
[ サッカー ]
日本、PK戦で敗れV逃す 6度目の決勝も頂点届かず
決勝まで快進撃を続けてきたU20日本代表もついに決勝戦のPK戦でついえた。一方、3位決定戦は韓国2-0ヨルダン。
この試合に何が日本に欠けていたのかと言えば、PK戦でのキーパーの”読み”と”反応”の違いだった。日本のゴールキーパーは、左右に”山をはる”80年代以前の理論に基づいていたが、北朝鮮のゴールキーパーは、キッカーがボールを蹴る前に動かず”蹴る瞬間までボールを見て反応する”90年代の理論に従っていた。その差がセーブに出たといえる。
また、北朝鮮の選手達は非常に元気があり覇気があった。実に”爽やか”で好印象を与える好チームであった。これに比べて日本は優勝しなくてはならないというプレッシャーからか、全体的に”暗く陰うつな表情”でプレーしていた。最後に来て、のびのびとした元気はつらつプレーが影を潜めてしまった。まるで日本シリーズの日本ハムと中日の試合のようであった。新庄効果で勝敗抜きで試合を楽しもうという日本ハムの明るいムードが中日を追い詰めた。これと同じように、良い試合をしようという北朝鮮チームが精神的に優位に立った。これが一番の敗因だったろう。
決勝まで来たら”心を切り替える”ゲームを楽しむ。こういったもう1つ上のランクの芸当が必要なのだろう。
決勝まで快進撃を続けてきたU20日本代表もついに決勝戦のPK戦でついえた。一方、3位決定戦は韓国2-0ヨルダン。
この試合に何が日本に欠けていたのかと言えば、PK戦でのキーパーの”読み”と”反応”の違いだった。日本のゴールキーパーは、左右に”山をはる”80年代以前の理論に基づいていたが、北朝鮮のゴールキーパーは、キッカーがボールを蹴る前に動かず”蹴る瞬間までボールを見て反応する”90年代の理論に従っていた。その差がセーブに出たといえる。
また、北朝鮮の選手達は非常に元気があり覇気があった。実に”爽やか”で好印象を与える好チームであった。これに比べて日本は優勝しなくてはならないというプレッシャーからか、全体的に”暗く陰うつな表情”でプレーしていた。最後に来て、のびのびとした元気はつらつプレーが影を潜めてしまった。まるで日本シリーズの日本ハムと中日の試合のようであった。新庄効果で勝敗抜きで試合を楽しもうという日本ハムの明るいムードが中日を追い詰めた。これと同じように、良い試合をしようという北朝鮮チームが精神的に優位に立った。これが一番の敗因だったろう。
決勝まで来たら”心を切り替える”ゲームを楽しむ。こういったもう1つ上のランクの芸当が必要なのだろう。
日本が追いつき、引き分け U21日韓戦
一方、U21は韓国と親善試合を行なったが、1-1で引き分けだった。後半相手のオウンゴールで追い付いた。
反町監督は、「我々には何かが足りなかった」とドゥンガのような言葉を吐いた。がしかし、その”何か”は明白だった。「シュートの決定力」、「シュート力」である。
一方、U21は韓国と親善試合を行なったが、1-1で引き分けだった。後半相手のオウンゴールで追い付いた。
反町監督は、「我々には何かが足りなかった」とドゥンガのような言葉を吐いた。がしかし、その”何か”は明白だった。「シュートの決定力」、「シュート力」である。
現在の日本のサッカー選手は、その育成過程(小学校のスポーツ少年団から高校大学まで)でシュートの基本練習をほとんどこなさない。これが私がこの1年半ほど阿南高専サッカー部のコーチをして得た実感である。
ここでいう「シュートの基本練習」とは、次のようなもののことである。
「プレースキックのシュート」、
「止まったボールを走り込んで蹴るシュート」、
「軽くゴロでセンタリングしてもらったボールに合わせて蹴るシュート」、
「フライのセンタリングにボレーをするシュート」、
「バウンドしたボールに合わせるシュート」、
「高いフライボールを胸や足でトラップして蹴るシュート」、
「トップにボールを当ててワンツーで蹴るシュート」、
「投げてもらったフライボールにヘディングするシュート」、
「投げてもらった高いフライボールにヘディングするシュート」、
「投げてもらった非常に早いボールにヘディングするシュート」。
こういった練習が大切なのだが、ここ徳島のサッカーチームでこういった練習を試合前の練習や普段の練習で用意周到に行なっているチームはまったくない。
ついでに言えば、「パス練習」も最近のサッカー部の練習にはほとんどない。「パスの基本練習」とは例えば次のようなものである。
ジグザグパス。
①一→①※一→①※一→
ーー/ー\ー/ー\
②※一一→②※一→②一→
コの字パス。
①※一→②※一→①※一→②※一→
ーー/ーー↓\ーー↑/ーー↓
②一一一①※一→②※一→①一→
これをグランド全面を使って何周も何周もえんえんと20分、30分と走り回る練習のことである。これを徳島で行なっている中学高校サッカーチームはまず目にしたことがない。
ところが、私が選手をしていた1970年代の山梨の中学高校チームはどこでもたいていはこうした練習を執拗にくり返していた。試合前でも必ず”おさらい”としてシュートとヘディングシュートはハーフタイムの練習(次の試合に出るチームは前の試合のハーフタイムの15分間にコートに出て練習する権利がある)に組み込まれていたのである。そして、韮崎高校は1976年に初の全国制覇したのであった。中田英寿生誕の2年程前のことである。私はこの韮崎と3回対戦した。1年新人戦1回戦0-1、2年の新人戦準々決勝1-0、3年のインターハイ予選準決勝0-1。それゆえこの時代の練習法は今も十分通用すると考えている。
バスケットボールを見れば良く分かるだろう。シュート練習しないバスケットボールなど想像できるだろうか。シュート練習しなければ、だれもバスケットにボールを入れることができない。これでは得点が入らない。だから、バスケットボールでは、四六時中あらゆるパターンでシュート練習する。パス交換していって最後にシュート。パスをもらってすぐシュート。ドリブルしてシュートなどなど。
サッカーとてゴールにボールを入れるという意味ではまったく同じことである。
かつて日本の最初の黄金時代であったメキシコオリンピック3位の釜本選手はまるでバスケットボールのように右45度からは目をつぶっても枠に入るというほどのシュート力を持っていた。そのためには、くる日もくる日もシュート練習を重ねたのである。イングランドのベッカム選手も同様に四六時中フリーキックの練習をしていたという。
果たして今のサッカー選手にこうした選手はいるのだろうか。
私は今こそサッカーの初心に帰り、シュート練習とパス練習を基本にしたものに変えるべきであると思う。
ここでいう「シュートの基本練習」とは、次のようなもののことである。
「プレースキックのシュート」、
「止まったボールを走り込んで蹴るシュート」、
「軽くゴロでセンタリングしてもらったボールに合わせて蹴るシュート」、
「フライのセンタリングにボレーをするシュート」、
「バウンドしたボールに合わせるシュート」、
「高いフライボールを胸や足でトラップして蹴るシュート」、
「トップにボールを当ててワンツーで蹴るシュート」、
「投げてもらったフライボールにヘディングするシュート」、
「投げてもらった高いフライボールにヘディングするシュート」、
「投げてもらった非常に早いボールにヘディングするシュート」。
こういった練習が大切なのだが、ここ徳島のサッカーチームでこういった練習を試合前の練習や普段の練習で用意周到に行なっているチームはまったくない。
ついでに言えば、「パス練習」も最近のサッカー部の練習にはほとんどない。「パスの基本練習」とは例えば次のようなものである。
ジグザグパス。
①一→①※一→①※一→
ーー/ー\ー/ー\
②※一一→②※一→②一→
コの字パス。
①※一→②※一→①※一→②※一→
ーー/ーー↓\ーー↑/ーー↓
②一一一①※一→②※一→①一→
これをグランド全面を使って何周も何周もえんえんと20分、30分と走り回る練習のことである。これを徳島で行なっている中学高校サッカーチームはまず目にしたことがない。
ところが、私が選手をしていた1970年代の山梨の中学高校チームはどこでもたいていはこうした練習を執拗にくり返していた。試合前でも必ず”おさらい”としてシュートとヘディングシュートはハーフタイムの練習(次の試合に出るチームは前の試合のハーフタイムの15分間にコートに出て練習する権利がある)に組み込まれていたのである。そして、韮崎高校は1976年に初の全国制覇したのであった。中田英寿生誕の2年程前のことである。私はこの韮崎と3回対戦した。1年新人戦1回戦0-1、2年の新人戦準々決勝1-0、3年のインターハイ予選準決勝0-1。それゆえこの時代の練習法は今も十分通用すると考えている。
バスケットボールを見れば良く分かるだろう。シュート練習しないバスケットボールなど想像できるだろうか。シュート練習しなければ、だれもバスケットにボールを入れることができない。これでは得点が入らない。だから、バスケットボールでは、四六時中あらゆるパターンでシュート練習する。パス交換していって最後にシュート。パスをもらってすぐシュート。ドリブルしてシュートなどなど。
サッカーとてゴールにボールを入れるという意味ではまったく同じことである。
かつて日本の最初の黄金時代であったメキシコオリンピック3位の釜本選手はまるでバスケットボールのように右45度からは目をつぶっても枠に入るというほどのシュート力を持っていた。そのためには、くる日もくる日もシュート練習を重ねたのである。イングランドのベッカム選手も同様に四六時中フリーキックの練習をしていたという。
果たして今のサッカー選手にこうした選手はいるのだろうか。
私は今こそサッカーの初心に帰り、シュート練習とパス練習を基本にしたものに変えるべきであると思う。
2006/11/14のBlog
[ 10:19 ]
[ 社会 ]
写真:”2足歩行”風太の子孫
奈良市の中3が首つり自殺
埼玉・中3自殺、恐喝は昨年度から 学校「対応遅れた」
今、日本社会で「自殺の連鎖」が止まない。
「伊吹文科相、”思い付き”で早速国民を”振り回す” 」
で私が”予言”したように、日本社会は、半ば”ぼけた”伊吹文明(いぶきぶんめい)氏に振り回されてしまったようだ。
この人物が大臣となってからいったい何人が”自殺した”のだろうか。「必修科目の履修問題」で学校の校長の何人かが自殺。「いじめ問題」でもう10人近い児童が自殺。貴い命が失われた。しかし、小泉純一郎・竹中平蔵の「郵政民営化」政権が誕生してすでに毎年3万人強、計18万人もの人々が自殺したわけだから、これよりはまだずっと”まし”とは言えるかも知れない。
北朝鮮人は、キム・ジョンイル1人に振り回されているわけだが、今や日本人も自民党の御老人たちに振り回されているわけである。だから、似たようなものと言えるだろう。もっともそれを助長する日本のマスメディアも似たようなものと言える。
7年程前私は週間金曜日という雑誌に「テレビは少年少女への影響を考えた報道を」という記事を投書したのだが、今や私のこの指摘が真実であるということが分かったことだろう。
テレビで犯罪を克明に報道すれば、しなくても良い人までその手口を真似て犯罪に手を染めるようになる。これと同様に、テレビで自殺を克明に報道すればするほど、自殺をしなくて良い人まで誘発されるのである。そして、”自殺の連鎖”が始まる。
そこで、「”自殺の連鎖”をどうやって止めるべきか」、と今度はまた新たなる問題が生じるわけだが、テレビや新聞などのマスコミはこれといって良い手を持たない。
”子供に人間の尊厳や価値を教えるべきだ”(マスコミ)
”いじめは悪いと教えるべきだ”(マスコミ)
”自分の命は自分だけのものではない”(伊吹文明氏)
などなど各人各様の意見が出ることとなる。しかし、こういったことは、7年前の「週間金曜日」を見るまでもなく、ずっと昔から言われてきたことである。だから、効果がないということが証明されているとも考えられるのである。
では、どう子供達に説明したらいいのだろうか。
これが問題となる。
私も結構”世間知らず”なのだが、子供達もまだ子供、非常に”世間知らず”であるだろう。だから、現実を知らせるというのも、1つのアイデアである。つまり、「死後の世界」ではなく、「死後の家族」を教えるのである。つまり、自分が死んだとしたら、残された家族はどうなるかを教えるのである。これは、自分が死んだ後、残された家族が”どう悲しむか”、という精神的なことではなく、残された家族が”何をしなくてはならなくなるか”という現実的なことを教えるのである。
どういうわけか、ここ最近、我が家の近所でも「世代交代」の時期を迎えたのか、高年の老人がどんどん亡くなった。そこで、私もいくつかの葬儀を見る機会を得たわけだ。
ここ徳島は、空海が作ったとされる真言宗のメッカなので、徳島の人々はやたらと熱心に御葬式をあげる。そして、葬式後、49日、1回忌、7回忌などを行なうようだ。49日を迎えるまでには、毎週7日おきに坊さんに来てもらって拝む(できなければ、自分で拝む)。49日の間は熱心に毎日自分でも拝む。供養の儀式はえんえんと続く。すると、この全部の行事にどれだけの(日数と)経費がかかるかというと、安くても100万円から200万円はかかるのである。
私は日本の子供達にまずまっ先にこの事実を教えるべきであると考える。
「自分が自殺したら葬儀代から7回忌までものすごい時間と手間と経費がかかり、家族に悲しみ以上の悲しみや負担を強いるのだ」
という現実を教え込むべきである。要するに
「死ねば金がかかるのだ」
「ただでは死ねないのだ」
と教えるべきだということだ。
「自分が死ねば、家族も道ずれになる」
ということを教えるべきだということである。実際、そうした事件も起きている(葬儀代払えず母親の遺体遺棄の二男逮捕)。
参考までにどれほどお金がかかるか紹介しておこう。「葬儀費用相場について」によれば、日本の葬儀では、3種類のお金がかかる。
(あ)接待費 弔問に訪れた方々への飲食代等に掛かる経費 ⇒ 仕出屋さん等への支払い
(い)葬儀懇志 葬儀式に対する布施 ⇒ お寺さんへの支払い(?)
(う)葬儀代 祭壇(仏壇)の設営、人件費、事務手続き他、 ⇒ 葬儀屋さんへの支払い
そして、それぞれの相場はこうであるという。
ーーーー接待費(仕出屋さん)ーー葬儀懇志(お寺さん)ーーー葬儀代(葬儀社)
北海道ー54万円ーーーーーーー51万円ーーーーーーー157万円
東北ーー57万円ーーーーーーー70万円ーーーーーーー104万円
東京ーー51万円ーーーーーー101万円ーーーーーーー160万円
北陸ーー79万円ーーーーーーー42万円ーーーーーーー132万円
したがって、日本では葬儀代にだいたい200一300万円はかかるのである。これはあくまで”たった1回”の葬儀のためのお金である。坊さんに1回お経を読んでもらうために(読経料)、何万円ものお金がかかる。それゆえ、49日、1回忌、7回忌などを行なうたびにかなりのお金がかかるのである(葬儀代)。
それも日本の坊さんたちの金銭体系があまりに”ずさん”でお寺や宗派ごとにあるいは坊さん個人ごとに体系が異なっているからである。しかし、日本人の場合は死人の前ではしたないことはしたがらないので、高額料金をふっかけられてもそれを拒絶しないのが普通である。もちろん、坊さん達はこの収入に対しては領収書も出さず、所得に勘定しないので税金も支払わないわけだ。
参考までに世界各国の葬儀代のおおよその相場は次のようなものである(お葬式でトラブルに遭わない方法 )。
アメリカ45万円、イギリス12万円、ドイツ20万円、韓国37万円。
ちなみに、軍人や退役軍人の葬儀は軍が面倒見るので”ただ”だという。
現実には、仏教国の日本とキリスト教国の欧米とはこれほどまでに葬儀代が違うのである。
聖徳太子の時代に日本に最初に仏教が伝来したが、その頃、仏教は「厄病神」と揶揄された。それは、一緒に伝来した金ぴかの仏像に病原菌(たぶん今でいうインフルエンザ)がついていて人々が病気や災難に見舞われたからだという。これほどはひどくなくても、今現在も”日本の”仏教はかなり「厄病神」的なところがあり、葬儀代は遺族に重くのしかかる。クリスチャンで葬式したほうがずっと安いからである(葬儀代のリーズナブルな相場は、ノンバンク・サラ金・高利貸の利息と同じく国が一線を引いておくべきであると私は考えている)。
今の日本では、国民の3割は300万円以下の貯蓄しかない(二極化する日本人 )。したがって、子供が1人自殺すれば、葬儀代を支払うことができないかもしれない家族は3割はいるということになる。
たとえ、自分が虐められても自殺すれば家族も巻き込むという現実を学校で教えるべきである。現実には、「家族のためには自分がいじめをうけても死ねない」はずなのである。
いずれにせよ、自殺は、葬儀屋と仏教の坊さんをお金もちにするだけで、国も潤おわなければ、国民も潤わない。この事実を国の政治家も官僚も知っておくべきである。
奈良市の中3が首つり自殺
埼玉・中3自殺、恐喝は昨年度から 学校「対応遅れた」
今、日本社会で「自殺の連鎖」が止まない。
「伊吹文科相、”思い付き”で早速国民を”振り回す” 」
で私が”予言”したように、日本社会は、半ば”ぼけた”伊吹文明(いぶきぶんめい)氏に振り回されてしまったようだ。
この人物が大臣となってからいったい何人が”自殺した”のだろうか。「必修科目の履修問題」で学校の校長の何人かが自殺。「いじめ問題」でもう10人近い児童が自殺。貴い命が失われた。しかし、小泉純一郎・竹中平蔵の「郵政民営化」政権が誕生してすでに毎年3万人強、計18万人もの人々が自殺したわけだから、これよりはまだずっと”まし”とは言えるかも知れない。
北朝鮮人は、キム・ジョンイル1人に振り回されているわけだが、今や日本人も自民党の御老人たちに振り回されているわけである。だから、似たようなものと言えるだろう。もっともそれを助長する日本のマスメディアも似たようなものと言える。
7年程前私は週間金曜日という雑誌に「テレビは少年少女への影響を考えた報道を」という記事を投書したのだが、今や私のこの指摘が真実であるということが分かったことだろう。
テレビで犯罪を克明に報道すれば、しなくても良い人までその手口を真似て犯罪に手を染めるようになる。これと同様に、テレビで自殺を克明に報道すればするほど、自殺をしなくて良い人まで誘発されるのである。そして、”自殺の連鎖”が始まる。
そこで、「”自殺の連鎖”をどうやって止めるべきか」、と今度はまた新たなる問題が生じるわけだが、テレビや新聞などのマスコミはこれといって良い手を持たない。
”子供に人間の尊厳や価値を教えるべきだ”(マスコミ)
”いじめは悪いと教えるべきだ”(マスコミ)
”自分の命は自分だけのものではない”(伊吹文明氏)
などなど各人各様の意見が出ることとなる。しかし、こういったことは、7年前の「週間金曜日」を見るまでもなく、ずっと昔から言われてきたことである。だから、効果がないということが証明されているとも考えられるのである。
では、どう子供達に説明したらいいのだろうか。
これが問題となる。
私も結構”世間知らず”なのだが、子供達もまだ子供、非常に”世間知らず”であるだろう。だから、現実を知らせるというのも、1つのアイデアである。つまり、「死後の世界」ではなく、「死後の家族」を教えるのである。つまり、自分が死んだとしたら、残された家族はどうなるかを教えるのである。これは、自分が死んだ後、残された家族が”どう悲しむか”、という精神的なことではなく、残された家族が”何をしなくてはならなくなるか”という現実的なことを教えるのである。
どういうわけか、ここ最近、我が家の近所でも「世代交代」の時期を迎えたのか、高年の老人がどんどん亡くなった。そこで、私もいくつかの葬儀を見る機会を得たわけだ。
ここ徳島は、空海が作ったとされる真言宗のメッカなので、徳島の人々はやたらと熱心に御葬式をあげる。そして、葬式後、49日、1回忌、7回忌などを行なうようだ。49日を迎えるまでには、毎週7日おきに坊さんに来てもらって拝む(できなければ、自分で拝む)。49日の間は熱心に毎日自分でも拝む。供養の儀式はえんえんと続く。すると、この全部の行事にどれだけの(日数と)経費がかかるかというと、安くても100万円から200万円はかかるのである。
私は日本の子供達にまずまっ先にこの事実を教えるべきであると考える。
「自分が自殺したら葬儀代から7回忌までものすごい時間と手間と経費がかかり、家族に悲しみ以上の悲しみや負担を強いるのだ」
という現実を教え込むべきである。要するに
「死ねば金がかかるのだ」
「ただでは死ねないのだ」
と教えるべきだということだ。
「自分が死ねば、家族も道ずれになる」
ということを教えるべきだということである。実際、そうした事件も起きている(葬儀代払えず母親の遺体遺棄の二男逮捕)。
参考までにどれほどお金がかかるか紹介しておこう。「葬儀費用相場について」によれば、日本の葬儀では、3種類のお金がかかる。
(あ)接待費 弔問に訪れた方々への飲食代等に掛かる経費 ⇒ 仕出屋さん等への支払い
(い)葬儀懇志 葬儀式に対する布施 ⇒ お寺さんへの支払い(?)
(う)葬儀代 祭壇(仏壇)の設営、人件費、事務手続き他、 ⇒ 葬儀屋さんへの支払い
そして、それぞれの相場はこうであるという。
ーーーー接待費(仕出屋さん)ーー葬儀懇志(お寺さん)ーーー葬儀代(葬儀社)
北海道ー54万円ーーーーーーー51万円ーーーーーーー157万円
東北ーー57万円ーーーーーーー70万円ーーーーーーー104万円
東京ーー51万円ーーーーーー101万円ーーーーーーー160万円
北陸ーー79万円ーーーーーーー42万円ーーーーーーー132万円
したがって、日本では葬儀代にだいたい200一300万円はかかるのである。これはあくまで”たった1回”の葬儀のためのお金である。坊さんに1回お経を読んでもらうために(読経料)、何万円ものお金がかかる。それゆえ、49日、1回忌、7回忌などを行なうたびにかなりのお金がかかるのである(葬儀代)。
それも日本の坊さんたちの金銭体系があまりに”ずさん”でお寺や宗派ごとにあるいは坊さん個人ごとに体系が異なっているからである。しかし、日本人の場合は死人の前ではしたないことはしたがらないので、高額料金をふっかけられてもそれを拒絶しないのが普通である。もちろん、坊さん達はこの収入に対しては領収書も出さず、所得に勘定しないので税金も支払わないわけだ。
参考までに世界各国の葬儀代のおおよその相場は次のようなものである(お葬式でトラブルに遭わない方法 )。
アメリカ45万円、イギリス12万円、ドイツ20万円、韓国37万円。
ちなみに、軍人や退役軍人の葬儀は軍が面倒見るので”ただ”だという。
現実には、仏教国の日本とキリスト教国の欧米とはこれほどまでに葬儀代が違うのである。
聖徳太子の時代に日本に最初に仏教が伝来したが、その頃、仏教は「厄病神」と揶揄された。それは、一緒に伝来した金ぴかの仏像に病原菌(たぶん今でいうインフルエンザ)がついていて人々が病気や災難に見舞われたからだという。これほどはひどくなくても、今現在も”日本の”仏教はかなり「厄病神」的なところがあり、葬儀代は遺族に重くのしかかる。クリスチャンで葬式したほうがずっと安いからである(葬儀代のリーズナブルな相場は、ノンバンク・サラ金・高利貸の利息と同じく国が一線を引いておくべきであると私は考えている)。
今の日本では、国民の3割は300万円以下の貯蓄しかない(二極化する日本人 )。したがって、子供が1人自殺すれば、葬儀代を支払うことができないかもしれない家族は3割はいるということになる。
たとえ、自分が虐められても自殺すれば家族も巻き込むという現実を学校で教えるべきである。現実には、「家族のためには自分がいじめをうけても死ねない」はずなのである。
いずれにせよ、自殺は、葬儀屋と仏教の坊さんをお金もちにするだけで、国も潤おわなければ、国民も潤わない。この事実を国の政治家も官僚も知っておくべきである。
2006/11/13のBlog
[ 10:21 ]
[ スポーツ ]
ビーチサッカーW杯 ブラジルが初優勝
ビーチサッカーの本場ブラジルが、ビーチサッカーのワールドカップで悲願の初優勝。昨年はフランスが優勝。今回、2位ウルグアイ、3位フランス、4位ポルトガル。日本は昨年ラモス監督が率いて4位入賞。今年は優勝したブラジルとベスト8で対戦し負けた。それでも8位入賞。本場のサッカーよりビーチサッカーの方が好成績を納めている。
ただし、フットサルもビーチサッカーもサッカーの亜種であり、サッカーに似ている。それゆえ共通の部分(基礎技術、戦術など)もある。しかしやはり別のスポーツであると考えるべきである。サッカーという基本スポーツがあってこそである。サッカーの競技人口が増え、そこから別のフットサルやビーチサッカーへと流れていくべきであると私は考える。
というのは、フットサルもビーチサッカーもサッカーのレクリエーションにはなるが、これらをサッカーの練習と考えてやればサッカーがうまくなるということはない。逆も真なり。それぞれにはそれぞれに合った練習が必要であるからである。
実際、フットサルにはスライディングタックルはないしオフサイドもない。ビーチサッカーははだしで行なう。ともに5人のメンバーである。したがって、フットサルはバスケットボール化したサッカーであり、ビーチサッカーは交代枠自由のアイスホッケー化したサッカーであるということもできる。
こういうことからもやはり基本となるサッカーがまずは強くなることが好ましいということが分かるだろう。
ビーチサッカーの本場ブラジルが、ビーチサッカーのワールドカップで悲願の初優勝。昨年はフランスが優勝。今回、2位ウルグアイ、3位フランス、4位ポルトガル。日本は昨年ラモス監督が率いて4位入賞。今年は優勝したブラジルとベスト8で対戦し負けた。それでも8位入賞。本場のサッカーよりビーチサッカーの方が好成績を納めている。
ただし、フットサルもビーチサッカーもサッカーの亜種であり、サッカーに似ている。それゆえ共通の部分(基礎技術、戦術など)もある。しかしやはり別のスポーツであると考えるべきである。サッカーという基本スポーツがあってこそである。サッカーの競技人口が増え、そこから別のフットサルやビーチサッカーへと流れていくべきであると私は考える。
というのは、フットサルもビーチサッカーもサッカーのレクリエーションにはなるが、これらをサッカーの練習と考えてやればサッカーがうまくなるということはない。逆も真なり。それぞれにはそれぞれに合った練習が必要であるからである。
実際、フットサルにはスライディングタックルはないしオフサイドもない。ビーチサッカーははだしで行なう。ともに5人のメンバーである。したがって、フットサルはバスケットボール化したサッカーであり、ビーチサッカーは交代枠自由のアイスホッケー化したサッカーであるということもできる。
こういうことからもやはり基本となるサッカーがまずは強くなることが好ましいということが分かるだろう。
2006/11/11のBlog
[ 22:41 ]
[ 訃報・追悼 ]
沖縄大学名誉教授の宇井純さん死去 公害研究の第一人者
水俣病など日本の公害問題を学者の立場から追求した宇井純博士が死去。享年74歳。
学者には大きく分けて2種類いる。国や大企業や成功者など”強者の側”に付くものと被害者や個人や失敗者など”弱者の側”に付くものである。
最初のものは、いわゆる「御用学者」といって国や政治家などのやることを権威づけるために使われるタイプの学者や権威に協力するタイプの学者である。財務大臣となった竹中平蔵氏はこのタイプに入る。
このクラスには、社会の成功者を称える(よいしょする)というような「よいしょ学者」も入る。このタイプは、養老孟司氏や最近では茂木健一郎氏が入るだろう。
これに対して、大企業のやっていることや国のやっていることに対して異を唱えるタイプの学者がいる。このタイプの学者をどう呼ぶべきか知らないが、ここではとりあえず「告発学者」(「反体制派の学者」という言い方はあるかも知れない)とでも呼んでおこう。宇井純さんは、”原発問題”を追及した高木任三郎さんと同様にこのタイプの学者である。もちろん、日本国内ではこのタイプの学者は極めて少ない。
私の記憶では、宇井純博士は、日本の公害問題を学者の立場から追及したために、東大の”俊優”であったにもかかわらず、いわゆる「万年助手」の立場に追いやられていた。おそらくその場に居ずらくなって沖縄に移るまでは昇進の機会は訪れなかった。
要するに最近巷で話題となっている「いじめ」を東大という職場の中で受け続けたのである。日本の大学では、こういうふうに、教授会から目を付けられて昇進の機会を奪われ”いじめ”られてきた人は非常に多い。今もこういった人々はたくさん存在する。
日本社会では、自分の昇進を願うものは、”表と裏”、”建前と本音”、”人前と影”をうまく使い分けられる狡猾な人物でないといけない。大学内では、こういった”腹芸”の達者なものでないとまず教授まで進むことはできない。もちろん、それは、芸能界であれ、公務員社会であれ、企業界であれ、全く同様であろう。この典型が「白い巨塔」に描かれた世界である。
それゆえ、日本社会の”陰湿さ”が国を覆ってしまうのである。その点、キムジョンイル政権の北朝鮮とそれほど大差はない。
宇井純さんはそういう日本人の”いやらしさ”に充ち満ちた時代に学者時代を送った。そのストレスは相当なものであったのだろう。
「胸部大動脈瘤」あるいは「腹部大動脈瘤」というのは、長年のストレスのせいで、血管内にコレステロールがたまり、動脈硬化を起こしてできる病気である。高血圧でも血管が弱くなれば生じるだろう。俳優の石原裕次郎さんが亡くなった病気である。
宇井純さんの病気がこれであったことがそのストレスの大きさを物語っている。
”公害問題”を追求した宇井純さんや”原発問題”を追及した高木任三郎さんが早世したことは、日本社会ではいかに「正義の使者」が生きにくい社会であるかということを証明している。
正直、国や政治家の言いなりの「御用学者」になったり、大企業に取り入って「子飼いの学者」になった方が実入りも良いし、有名にもなれるし、長生きもできるのである。文科省のお役人に刃向かうことなく手下になって言われるがままに一学者として「学問の道」を歩んでいた方が楽なのである。業績も残るし、学者としての名声も高まるからである。
では、どこが学者を「御用学者」と「告発学者」に分ける決めてとなるのだろうか。
学者になるまではほとんどは同じような生活をして成長する。そして博士となり、大学で職を得る。ここまではだれもがそう大差はない人生を送る。しかし、ある社会問題や社会現象を見た時に、それをどう受け取るかという場面で2つの人生は分かれる。
弱者の生活を全く無視し、自分の学者としての栄光のみを突き進むことができるという、ある意味”冷淡な人間”はきっと体制側の見た非常に良い学者となるのだろう。一方、弱者の生活にショックを受け、それを心から同情するという、ある意味”心優しい人間”はきっと反体制派の学者となるのだろう。
要するに、「御用学者」となるか、「告発学者」となるかは、その人物固有の人間的性格のなせる技なのである。事実、巷にたくさんのホームレスがいて、人生の悲哀を感じる状況下でそれを完全に無視して自分の小さな研究生活だけにのめり込むことができるという人物はなかなか普通の人間のできることではないからである。
かつて朝永振一郎博士が、科学者には3種類いるということを著書で書いていた。1つは社会に無関係に超然としていられる学者。2つめは、社会と直接関わって行く学者。3つめは、その間を適当に渡り歩く学者あるいはそのどちらでもない学者。
「御用学者」と「告発学者」は、ともに2つめの社会と直接関わっていくタイプの学者である。がしかし、その関わり方が正反対である。
果たして学者の”運命”は何が決めるのだろうか。
御冥福を心から祈りたい。
水俣病など日本の公害問題を学者の立場から追求した宇井純博士が死去。享年74歳。
学者には大きく分けて2種類いる。国や大企業や成功者など”強者の側”に付くものと被害者や個人や失敗者など”弱者の側”に付くものである。
最初のものは、いわゆる「御用学者」といって国や政治家などのやることを権威づけるために使われるタイプの学者や権威に協力するタイプの学者である。財務大臣となった竹中平蔵氏はこのタイプに入る。
このクラスには、社会の成功者を称える(よいしょする)というような「よいしょ学者」も入る。このタイプは、養老孟司氏や最近では茂木健一郎氏が入るだろう。
これに対して、大企業のやっていることや国のやっていることに対して異を唱えるタイプの学者がいる。このタイプの学者をどう呼ぶべきか知らないが、ここではとりあえず「告発学者」(「反体制派の学者」という言い方はあるかも知れない)とでも呼んでおこう。宇井純さんは、”原発問題”を追及した高木任三郎さんと同様にこのタイプの学者である。もちろん、日本国内ではこのタイプの学者は極めて少ない。
私の記憶では、宇井純博士は、日本の公害問題を学者の立場から追及したために、東大の”俊優”であったにもかかわらず、いわゆる「万年助手」の立場に追いやられていた。おそらくその場に居ずらくなって沖縄に移るまでは昇進の機会は訪れなかった。
要するに最近巷で話題となっている「いじめ」を東大という職場の中で受け続けたのである。日本の大学では、こういうふうに、教授会から目を付けられて昇進の機会を奪われ”いじめ”られてきた人は非常に多い。今もこういった人々はたくさん存在する。
日本社会では、自分の昇進を願うものは、”表と裏”、”建前と本音”、”人前と影”をうまく使い分けられる狡猾な人物でないといけない。大学内では、こういった”腹芸”の達者なものでないとまず教授まで進むことはできない。もちろん、それは、芸能界であれ、公務員社会であれ、企業界であれ、全く同様であろう。この典型が「白い巨塔」に描かれた世界である。
それゆえ、日本社会の”陰湿さ”が国を覆ってしまうのである。その点、キムジョンイル政権の北朝鮮とそれほど大差はない。
宇井純さんはそういう日本人の”いやらしさ”に充ち満ちた時代に学者時代を送った。そのストレスは相当なものであったのだろう。
「胸部大動脈瘤」あるいは「腹部大動脈瘤」というのは、長年のストレスのせいで、血管内にコレステロールがたまり、動脈硬化を起こしてできる病気である。高血圧でも血管が弱くなれば生じるだろう。俳優の石原裕次郎さんが亡くなった病気である。
宇井純さんの病気がこれであったことがそのストレスの大きさを物語っている。
”公害問題”を追求した宇井純さんや”原発問題”を追及した高木任三郎さんが早世したことは、日本社会ではいかに「正義の使者」が生きにくい社会であるかということを証明している。
正直、国や政治家の言いなりの「御用学者」になったり、大企業に取り入って「子飼いの学者」になった方が実入りも良いし、有名にもなれるし、長生きもできるのである。文科省のお役人に刃向かうことなく手下になって言われるがままに一学者として「学問の道」を歩んでいた方が楽なのである。業績も残るし、学者としての名声も高まるからである。
では、どこが学者を「御用学者」と「告発学者」に分ける決めてとなるのだろうか。
学者になるまではほとんどは同じような生活をして成長する。そして博士となり、大学で職を得る。ここまではだれもがそう大差はない人生を送る。しかし、ある社会問題や社会現象を見た時に、それをどう受け取るかという場面で2つの人生は分かれる。
弱者の生活を全く無視し、自分の学者としての栄光のみを突き進むことができるという、ある意味”冷淡な人間”はきっと体制側の見た非常に良い学者となるのだろう。一方、弱者の生活にショックを受け、それを心から同情するという、ある意味”心優しい人間”はきっと反体制派の学者となるのだろう。
要するに、「御用学者」となるか、「告発学者」となるかは、その人物固有の人間的性格のなせる技なのである。事実、巷にたくさんのホームレスがいて、人生の悲哀を感じる状況下でそれを完全に無視して自分の小さな研究生活だけにのめり込むことができるという人物はなかなか普通の人間のできることではないからである。
かつて朝永振一郎博士が、科学者には3種類いるということを著書で書いていた。1つは社会に無関係に超然としていられる学者。2つめは、社会と直接関わって行く学者。3つめは、その間を適当に渡り歩く学者あるいはそのどちらでもない学者。
「御用学者」と「告発学者」は、ともに2つめの社会と直接関わっていくタイプの学者である。がしかし、その関わり方が正反対である。
果たして学者の”運命”は何が決めるのだろうか。
御冥福を心から祈りたい。
2006/11/07のBlog
[ 11:02 ]
[ 大学・大学院 ]
写真:オリオン座の星雲
米の大学生、一般教養は「落第」
これは、非常に”面白い”。
日本の大学が「レジャーランド化」していると云われて久しいが、この統計によると、アメリカの大学もまた「レジャーランド化」しているようだ。
「大学のレジャーランド化」というのは、1980年代の”バブル全盛時代”に高校生が大学へ進学するが、大学では少しも勉強せず遊んでばかりいて、そのために高校時代の学力や知識の方が多く、大学にいるうちに高校時代に身に付けた(と思った)知識まできれいさっぱりと忘れてしまうという状況を当時の日本のマスコミが”揶揄”したものである。
この日本の状況と全く同じことが”大学立国”アメリカでも起こっているとのこと。
この調査は、昨年秋に米国の大学間学問研究所(ISI)が、全米50大学の新入生と4年生の計1万4000人を対象に、(1)米国史(2)政府機構(3)国際情勢(4)経済の各分野の基礎知識に関する60の質問で、学生の知識の習得度を調べたという。
その結果は?
「人は生まれながらにして平等である」が「独立宣言」と答えられたのは4年生の半数以下。
「連邦政府の最大支出は社会保障費」と正しく認識しているのは2割。
など衝撃的な数字が出た。
4年生全体の平均正答率も53.2%と、新入生に比べて1.5ポイント上回っただけ。
この数字では「F(落第)」の判定になるという。
大学別で見ると?
4年間の学習成果(つまり、新入生時の知識から4年生卒業時の知識が増加している「プラス学習」)が出ている大学は、
1位ローズカレッジ(11.6ポイント)
2位コロラド州立大
だったという。
逆に在学中に知識を減らしている「マイナス学習」と判定された大学は、
ジョンズホプキンス大(50位最下位)
カリフォルニア大バークリー校(49位)
エール大(44位)など有名校を含む16校
その原因は?
何かと云えば、どうやら”必修時間の違い”らしい。上位の2校は、4年生が政治や歴史を平均4.2単位履修と時間が多い一方、最下位と49位の両校は、2.9単位のみと少なかったという。
ISIの結論?
「政治や歴史は必修科目にしないと勉強しない傾向がある」
「こうした惨めな成績では次世代の育成に危機が迫っている」
とISI一般教養委員会のバンティング委員長は嘆く。
とまあ、こういったニュースである。
しかし、これは私がユタ大学に1986年秋に留学した当時も言われていたことだ。当時、ユタ大学のインターナショナルスチューデントの最初のミーティングか何かで、図書館の役職にいたある女性職員がこんなふうなことを述べたことをよく覚えいている。
「我々ユタの州民は、西海岸のカリフォルニア・スタイルとも隣のネバダ・スタイルとも東海岸のニューヨーク・スタイルとも異なる独自路線の教育を目指しているのです。毎日パーティーしては遊んでいる西海岸の大学とも酒やギャンブルしか関心がないネバダの大学ともビジネスしか関心がない東海岸の大学とも違ったものを目指しているのです。」
アメリカの「カレッジ(大学学部生)映画」を見れば分かるが、アメリカの名門大学には、俗に「フラターニティー(Fraternity)」と呼ばれるサークルがあり、お金持ちの学生達が一番先に行うのはサークルを決めそこに入ることである。これは日本の大学にはない。日本の大学で言えば、一種のサークルのようなものであると同時に、居住するための”寮”でもあり、そのサークルに入っている間ずっとその家でサークル仲間たちと居住生活、同居生活するというアメリカの大学独特の伝統的システムである。通常大学の近辺の一般の家を借りて(あるいは所有して)行っている。
新入生たちは、”ΑΒΓ(あるふぁべーたがんま)”とか、何やら不思議な響きのするギリシャ文字の付いたサークルに入るのである。そして最初にそのフラターニティーの約束を守るという宣誓の”儀式”を行う。そしてお金を払って入所するのである。一方、お金持ちでない普通の学生達は大学の寮(あるいは近辺の家や部屋)に居住する。
こうしてアメリカの大学では、最初に大学寮か、フラターニティーで新入生を始める。この新入生の時代に友達を作り、酒、セックス、遊びなどに目覚め、いわゆる「社交性」を身に付けていくのである。だから、アメリカのカレッジ映画では、いつもこの場面(つまり、フラターニティー間の運動会シーンやコンパなど)が最大のクライマックスや面白さを引きだすのである。
これが、アメリカの大学の「レジャーランド化」の中身である。がしかし、これにはまればあっという間に大学4年は過ぎ去る。そして、「酒、セックス、遊び」は身に付けたが、勉学は何も身に付けなかったという事態を導くのである。まして教養科目の必修がなければ、やはり無理してまで勉強することはないのは業の深い人間の性である。こうして最初の調査結果へと導かれるのである。(かといって、アメリカの大学生が日本の大学生と比べて日本の大学生と同様に勉強しないという意味ではない。ここを誤解してはいけない。アメリカの大学生は非常によく勉強させられる。毎週宿題が山ほどだされ、それを解き、提出し、テストも受けなくてはそのクラスは合格せず単位取得できない。単位取得できなければ卒業できない。普通、月曜から金曜まで勉強し、金曜の夜に羽目をはずし、ディスコやパーティーに明け暮れ、また土曜日から次週の準備を始める。これを年度末の夏休み前まで続けるという生活である。)
ユタ大学の先生達は、この西海岸や東海岸スタイルを極度に嫌っていた。コロラドはユタの東に位置し、中西部の中堅大学である。当然、コロラドの大学の先生達もユタと同様の文化を持っている。それゆえ、学生に遊ばせないで勉強させようという努力の結果が全米トップの学習効果のある大学という結果を導いたのであろう。
一方、日本の高校では、生徒の「必修科目の履修不足」が大問題となったが、これが今度は下の中学へと飛び火しつつある。しかし、より大事なことは大学であろうが、どうも文部科学省は下へ下へと関心があるようだ。
どうやら日米で同じ「必修科目」の問題が持ち上がったようだが、それが別の形で生じたのが私は実に面白いと感じる。
というのは、アメリカの大学学部というのは、すでに日本で言えば、”高校レベル”に相当するからである。これは、大学の学習レベルが日本の高校レベル(もちろんそういう点もあるが)という意味ではなく、アメリカの場合は、すでに高校までが「義務教育」で大学学部が大学院進学を目指すための高等教育機関という一歩高いレベルのシステムに変化しているという意味からである。
つまり、アメリカの教育システムでは、高校までが義務教育、大学学部が教養教育、大学院が専門教育というもので、日本の教育システムは、中学までが義務教育、高校が受験教育、大学が教養・専門教育、大学院がオプショナルとなっているという歴然たる差があるということである。
日本のマスコミは、日本の教育制度もアメリカの教育制度もあまり知らないで比較や議論しようとするから物事が非常に混乱しかねない。
しかし、アメリカには以前紹介したように、すでに人口は3億を超え(アメリカの人口3億突破:海外派兵時代到来か? )、4年制大学は5000以上もある(ちなみに日本では増えたとはいえ800程度)。大学院のある大学は200以上。
こんなわけだから、日米では、同じ基礎教養教育、必修科目の問題が違ったレベルで生じるのである。日本では高校でアメリカでは大学学部で生じるのである。
ところで、誤解ないようにしてもらいたいことは、あくまでこの調査は「教養科目」についての学部レベルの調査であるということだ。それゆえ、この調査結果から、ユタやコロラドの大学の”研究レベル”が極めて高く(もちろんかなり高いが)西海岸の大学の”研究レベル”が低いと解釈してはならないということである。
これが、「大学院の専門教育」の問題となるとまた話は異なってくる。これがもっとも進んでいるのは、今度は西海岸や東海岸であり、特にカリフォルニアは抜群のトップレベルにある。これは、「ノーベル賞のメッカ、”カリフォルニア”に学べ! 」に紹介した通りである。
こんなわけで、いつも日米の教育システムを論じる時は非常に話が長くなってしまうのである。あまりにシステムが”違っている”からである。しかし日本人は日米の教育システムは同じようなものだと”錯覚”している。まあ、無知は幸せでもあるナ。
いずれにせよ、サッカーでは「選手が嫌がることを行うのが監督の努め」という鉄則があるが、それと同じように、大学も高校も「学生や生徒が嫌がることを行うのが先生の努め」ということだろう。
米の大学生、一般教養は「落第」
これは、非常に”面白い”。
日本の大学が「レジャーランド化」していると云われて久しいが、この統計によると、アメリカの大学もまた「レジャーランド化」しているようだ。
「大学のレジャーランド化」というのは、1980年代の”バブル全盛時代”に高校生が大学へ進学するが、大学では少しも勉強せず遊んでばかりいて、そのために高校時代の学力や知識の方が多く、大学にいるうちに高校時代に身に付けた(と思った)知識まできれいさっぱりと忘れてしまうという状況を当時の日本のマスコミが”揶揄”したものである。
この日本の状況と全く同じことが”大学立国”アメリカでも起こっているとのこと。
この調査は、昨年秋に米国の大学間学問研究所(ISI)が、全米50大学の新入生と4年生の計1万4000人を対象に、(1)米国史(2)政府機構(3)国際情勢(4)経済の各分野の基礎知識に関する60の質問で、学生の知識の習得度を調べたという。
その結果は?
「人は生まれながらにして平等である」が「独立宣言」と答えられたのは4年生の半数以下。
「連邦政府の最大支出は社会保障費」と正しく認識しているのは2割。
など衝撃的な数字が出た。
4年生全体の平均正答率も53.2%と、新入生に比べて1.5ポイント上回っただけ。
この数字では「F(落第)」の判定になるという。
大学別で見ると?
4年間の学習成果(つまり、新入生時の知識から4年生卒業時の知識が増加している「プラス学習」)が出ている大学は、
1位ローズカレッジ(11.6ポイント)
2位コロラド州立大
だったという。
逆に在学中に知識を減らしている「マイナス学習」と判定された大学は、
ジョンズホプキンス大(50位最下位)
カリフォルニア大バークリー校(49位)
エール大(44位)など有名校を含む16校
その原因は?
何かと云えば、どうやら”必修時間の違い”らしい。上位の2校は、4年生が政治や歴史を平均4.2単位履修と時間が多い一方、最下位と49位の両校は、2.9単位のみと少なかったという。
ISIの結論?
「政治や歴史は必修科目にしないと勉強しない傾向がある」
「こうした惨めな成績では次世代の育成に危機が迫っている」
とISI一般教養委員会のバンティング委員長は嘆く。
とまあ、こういったニュースである。
しかし、これは私がユタ大学に1986年秋に留学した当時も言われていたことだ。当時、ユタ大学のインターナショナルスチューデントの最初のミーティングか何かで、図書館の役職にいたある女性職員がこんなふうなことを述べたことをよく覚えいている。
「我々ユタの州民は、西海岸のカリフォルニア・スタイルとも隣のネバダ・スタイルとも東海岸のニューヨーク・スタイルとも異なる独自路線の教育を目指しているのです。毎日パーティーしては遊んでいる西海岸の大学とも酒やギャンブルしか関心がないネバダの大学ともビジネスしか関心がない東海岸の大学とも違ったものを目指しているのです。」
アメリカの「カレッジ(大学学部生)映画」を見れば分かるが、アメリカの名門大学には、俗に「フラターニティー(Fraternity)」と呼ばれるサークルがあり、お金持ちの学生達が一番先に行うのはサークルを決めそこに入ることである。これは日本の大学にはない。日本の大学で言えば、一種のサークルのようなものであると同時に、居住するための”寮”でもあり、そのサークルに入っている間ずっとその家でサークル仲間たちと居住生活、同居生活するというアメリカの大学独特の伝統的システムである。通常大学の近辺の一般の家を借りて(あるいは所有して)行っている。
新入生たちは、”ΑΒΓ(あるふぁべーたがんま)”とか、何やら不思議な響きのするギリシャ文字の付いたサークルに入るのである。そして最初にそのフラターニティーの約束を守るという宣誓の”儀式”を行う。そしてお金を払って入所するのである。一方、お金持ちでない普通の学生達は大学の寮(あるいは近辺の家や部屋)に居住する。
こうしてアメリカの大学では、最初に大学寮か、フラターニティーで新入生を始める。この新入生の時代に友達を作り、酒、セックス、遊びなどに目覚め、いわゆる「社交性」を身に付けていくのである。だから、アメリカのカレッジ映画では、いつもこの場面(つまり、フラターニティー間の運動会シーンやコンパなど)が最大のクライマックスや面白さを引きだすのである。
これが、アメリカの大学の「レジャーランド化」の中身である。がしかし、これにはまればあっという間に大学4年は過ぎ去る。そして、「酒、セックス、遊び」は身に付けたが、勉学は何も身に付けなかったという事態を導くのである。まして教養科目の必修がなければ、やはり無理してまで勉強することはないのは業の深い人間の性である。こうして最初の調査結果へと導かれるのである。(かといって、アメリカの大学生が日本の大学生と比べて日本の大学生と同様に勉強しないという意味ではない。ここを誤解してはいけない。アメリカの大学生は非常によく勉強させられる。毎週宿題が山ほどだされ、それを解き、提出し、テストも受けなくてはそのクラスは合格せず単位取得できない。単位取得できなければ卒業できない。普通、月曜から金曜まで勉強し、金曜の夜に羽目をはずし、ディスコやパーティーに明け暮れ、また土曜日から次週の準備を始める。これを年度末の夏休み前まで続けるという生活である。)
ユタ大学の先生達は、この西海岸や東海岸スタイルを極度に嫌っていた。コロラドはユタの東に位置し、中西部の中堅大学である。当然、コロラドの大学の先生達もユタと同様の文化を持っている。それゆえ、学生に遊ばせないで勉強させようという努力の結果が全米トップの学習効果のある大学という結果を導いたのであろう。
一方、日本の高校では、生徒の「必修科目の履修不足」が大問題となったが、これが今度は下の中学へと飛び火しつつある。しかし、より大事なことは大学であろうが、どうも文部科学省は下へ下へと関心があるようだ。
どうやら日米で同じ「必修科目」の問題が持ち上がったようだが、それが別の形で生じたのが私は実に面白いと感じる。
というのは、アメリカの大学学部というのは、すでに日本で言えば、”高校レベル”に相当するからである。これは、大学の学習レベルが日本の高校レベル(もちろんそういう点もあるが)という意味ではなく、アメリカの場合は、すでに高校までが「義務教育」で大学学部が大学院進学を目指すための高等教育機関という一歩高いレベルのシステムに変化しているという意味からである。
つまり、アメリカの教育システムでは、高校までが義務教育、大学学部が教養教育、大学院が専門教育というもので、日本の教育システムは、中学までが義務教育、高校が受験教育、大学が教養・専門教育、大学院がオプショナルとなっているという歴然たる差があるということである。
日本のマスコミは、日本の教育制度もアメリカの教育制度もあまり知らないで比較や議論しようとするから物事が非常に混乱しかねない。
しかし、アメリカには以前紹介したように、すでに人口は3億を超え(アメリカの人口3億突破:海外派兵時代到来か? )、4年制大学は5000以上もある(ちなみに日本では増えたとはいえ800程度)。大学院のある大学は200以上。
こんなわけだから、日米では、同じ基礎教養教育、必修科目の問題が違ったレベルで生じるのである。日本では高校でアメリカでは大学学部で生じるのである。
ところで、誤解ないようにしてもらいたいことは、あくまでこの調査は「教養科目」についての学部レベルの調査であるということだ。それゆえ、この調査結果から、ユタやコロラドの大学の”研究レベル”が極めて高く(もちろんかなり高いが)西海岸の大学の”研究レベル”が低いと解釈してはならないということである。
これが、「大学院の専門教育」の問題となるとまた話は異なってくる。これがもっとも進んでいるのは、今度は西海岸や東海岸であり、特にカリフォルニアは抜群のトップレベルにある。これは、「ノーベル賞のメッカ、”カリフォルニア”に学べ! 」に紹介した通りである。
こんなわけで、いつも日米の教育システムを論じる時は非常に話が長くなってしまうのである。あまりにシステムが”違っている”からである。しかし日本人は日米の教育システムは同じようなものだと”錯覚”している。まあ、無知は幸せでもあるナ。
いずれにせよ、サッカーでは「選手が嫌がることを行うのが監督の努め」という鉄則があるが、それと同じように、大学も高校も「学生や生徒が嫌がることを行うのが先生の努め」ということだろう。
2006/11/06のBlog
[ 12:26 ]
[ 地震・災害 ]
写真:昨夜の雷雲(2006年11月5日夜7時)
昨夜、夕方から夜までずっと徳島沖の大平洋上空で物凄い雷があった。まるで、映画「宇宙戦争」の中の”火星人襲来”のようであった。溶接の時の火花は物凄いが、そんな感じで音もないのに(音が届かないほど遠くで)積乱雲の上空の青空付近で物凄く明るくぴかぴかまたたいていた。そこで、何とか携帯のカメラで撮ろうと勤めたが、どうしてもシャッター反応がずれて上手く撮れなかった。まあ、参考までに紹介しておこう。こんな積乱雲が上陸した際には物凄い雷電が落ちるだろう。
昨夜、夕方から夜までずっと徳島沖の大平洋上空で物凄い雷があった。まるで、映画「宇宙戦争」の中の”火星人襲来”のようであった。溶接の時の火花は物凄いが、そんな感じで音もないのに(音が届かないほど遠くで)積乱雲の上空の青空付近で物凄く明るくぴかぴかまたたいていた。そこで、何とか携帯のカメラで撮ろうと勤めたが、どうしてもシャッター反応がずれて上手く撮れなかった。まあ、参考までに紹介しておこう。こんな積乱雲が上陸した際には物凄い雷電が落ちるだろう。
写真:地震雲らしき”はしご雲”(2006年11月1日昼1時頃)
物理学者は、”はしご状(ラッダー)”の物質を研究して久しい。たとえば、DNAはその代表格である。結晶成長においても、デフェクト(欠陥)やディスロケーション(歪みしわ)がはしご状に並ぶという現象がある。しかし、”はしご状の雲”というのを私は初めて見たので、これは面白いと思って撮ったもの。方向としては、阿南から北の方向であった。だから、兵庫、大阪、和歌山方面である。ひょっとしたらそっち方面で地震があるかなと思って撮っていたのだが、やはりその翌日に大阪で震度4の地震があった。
物理学者は、”はしご状(ラッダー)”の物質を研究して久しい。たとえば、DNAはその代表格である。結晶成長においても、デフェクト(欠陥)やディスロケーション(歪みしわ)がはしご状に並ぶという現象がある。しかし、”はしご状の雲”というのを私は初めて見たので、これは面白いと思って撮ったもの。方向としては、阿南から北の方向であった。だから、兵庫、大阪、和歌山方面である。ひょっとしたらそっち方面で地震があるかなと思って撮っていたのだが、やはりその翌日に大阪で震度4の地震があった。
2006/11/05のBlog
[ 12:22 ]
[ 科学ニュース ]
写真:”足”を持つイルカ発見
”先祖返り”らしい足状のひれのあるイルカが発見された。人間にも狼男のように全身に毛の生えるという先祖返りが知られている。しかし、その多毛症の先祖返りも遺伝子配列のたった一ケ所の塩基が変わっただけであるということが知られている。したがって、このイルカの場合もたった1つの塩基配列変化で起こったのかも知れない。
第4のひれ持つイルカ発見 退化したはずの後ろ脚?
”先祖返り”らしい足状のひれのあるイルカが発見された。人間にも狼男のように全身に毛の生えるという先祖返りが知られている。しかし、その多毛症の先祖返りも遺伝子配列のたった一ケ所の塩基が変わっただけであるということが知られている。したがって、このイルカの場合もたった1つの塩基配列変化で起こったのかも知れない。
第4のひれ持つイルカ発見 退化したはずの後ろ脚?
2006/11/03のBlog
[ 12:46 ]
[ 音楽・芸能 ]
中村獅童が上海で雲隠れ
その昔の時代劇に「霧隠才蔵(くもがくれさいぞう)」とかいうものがあったが、歌舞伎俳優の中村獅童が雲隠れし、”雲隠獅童”となったようだ。
私は1年程前に「歌舞伎界:”歩くペニス”の巣窟? 」でこう書いていた。
『男と女の色恋に第三者が口を挟むのは、不粋というものではあろうが、国を代表しその恩恵を受けている”歌舞伎”役者が、それなりの手続きを経ないで、その辺のイカれた野郎と同じような”ゲットするならやっちゃえ”的な発想で結婚というものをお考えでは困ったものだと思うネ。
映画や舞台で共演しては相手役とセックスしてしまう。これでは、商品に手をつける商売人のようなものである。自分の学生に手を出す教師や大学教授のようなものである。プロとしては”失格”であろう。
ほんと、歌舞伎役者というのは、江戸時代以前から”歩くペニス”ぶりを発揮してきたわけだが、この”歩くペニス”遺伝子は脈々と今の若手歌舞伎俳優にも”遺伝”しているようですナ。』
最近でも、「芸の肥やし」と言って、女性体験を重ねて(というよりは、女性を道具に使って)平気な役者やコメディアンが後を絶たない。役者の”肥やし”にされる女性というのも女性だが、自分の”特権”や”知名度”を道具に使う輩はもっと悪質である。
芸能界は、若者の目標にされている、あるいはロールモデルにされている、ということを理解すべきだろう。適当に大企業のコマーシャルを垂れ流しておれば良いのだということはないはずである。
こんな”歩くペニス”の役者でも60才まで芸能界にすがっていれば、そのうち、国から”秋の叙勲”だ”春の叙勲”だといって表彰されるのだから、「芸の肥やし」もまったくなくならないわけである。私生活の乱れた役者は、叙勲対象から永久追放するとか、それなりの施策が必要だろう。
今我が家で私が一番困っているのは、思春期を迎えつつある子供達に、この国が「そこら中で”腐っている”」ように見えることである。テレビ界、ニュース、学問、芸能、スポーツなどあらゆる面で腐っているわけだ。これをどうやって説明すべきか非常に悩まされるわけである。今の子供達には、「この国は守るに値しない国だ」と見えているのである。
果たして自民党の政治家たちはそうした子供達の考え方を知っているのだろうか。
タウンミーティングと言っても、地域の教育委員会にそれなりのお座なり質問をさせるという”やらせ”が発覚。これでは、尊敬に値することなく、子供達の模範には成り得ない。
雲隠獅童は、隠れてもペニスだけは出ていた、ということにはならないでもらいたいものですナ。
その昔の時代劇に「霧隠才蔵(くもがくれさいぞう)」とかいうものがあったが、歌舞伎俳優の中村獅童が雲隠れし、”雲隠獅童”となったようだ。
私は1年程前に「歌舞伎界:”歩くペニス”の巣窟? 」でこう書いていた。
『男と女の色恋に第三者が口を挟むのは、不粋というものではあろうが、国を代表しその恩恵を受けている”歌舞伎”役者が、それなりの手続きを経ないで、その辺のイカれた野郎と同じような”ゲットするならやっちゃえ”的な発想で結婚というものをお考えでは困ったものだと思うネ。
映画や舞台で共演しては相手役とセックスしてしまう。これでは、商品に手をつける商売人のようなものである。自分の学生に手を出す教師や大学教授のようなものである。プロとしては”失格”であろう。
ほんと、歌舞伎役者というのは、江戸時代以前から”歩くペニス”ぶりを発揮してきたわけだが、この”歩くペニス”遺伝子は脈々と今の若手歌舞伎俳優にも”遺伝”しているようですナ。』
最近でも、「芸の肥やし」と言って、女性体験を重ねて(というよりは、女性を道具に使って)平気な役者やコメディアンが後を絶たない。役者の”肥やし”にされる女性というのも女性だが、自分の”特権”や”知名度”を道具に使う輩はもっと悪質である。
芸能界は、若者の目標にされている、あるいはロールモデルにされている、ということを理解すべきだろう。適当に大企業のコマーシャルを垂れ流しておれば良いのだということはないはずである。
こんな”歩くペニス”の役者でも60才まで芸能界にすがっていれば、そのうち、国から”秋の叙勲”だ”春の叙勲”だといって表彰されるのだから、「芸の肥やし」もまったくなくならないわけである。私生活の乱れた役者は、叙勲対象から永久追放するとか、それなりの施策が必要だろう。
今我が家で私が一番困っているのは、思春期を迎えつつある子供達に、この国が「そこら中で”腐っている”」ように見えることである。テレビ界、ニュース、学問、芸能、スポーツなどあらゆる面で腐っているわけだ。これをどうやって説明すべきか非常に悩まされるわけである。今の子供達には、「この国は守るに値しない国だ」と見えているのである。
果たして自民党の政治家たちはそうした子供達の考え方を知っているのだろうか。
タウンミーティングと言っても、地域の教育委員会にそれなりのお座なり質問をさせるという”やらせ”が発覚。これでは、尊敬に値することなく、子供達の模範には成り得ない。
雲隠獅童は、隠れてもペニスだけは出ていた、ということにはならないでもらいたいものですナ。
2006/11/02のBlog
[ 10:43 ]
[ 政治・経済 ]
安倍首相になって、今「教育基本法」の改正が大問題となっている。
かたや、現役の高校生たちの世界史(必修科目)や日本史などの”未履修”問題が生じて来た。
一見すると、この2つの問題は何の関係もないように見えるだろう。しかし、実はこの2つは深いところで同じ問題として繋がっている。それが表面的には異なるように見えるという問題なのである。
それには2つの理由がある。
1つは、今の政治家自体が学生時代にまともに日本史や世界史を勉強してこなかったために、大きな誤解を身につけたまま大人になってしまったということである。それゆえ、今「教育基本法」などの問題を論じても”無知の上塗り”をしていることになる。言い換えれば、歴史や事実を真面目に知らないため(調べていないため)に、現在の「教育基本法」が1つのものであるかのように錯覚しているということである。
もう1つは、「教育基本法」(や「教育委員会法」)が現在みなが知る形に改正されたために、その結果として高校生の進学問題や学歴偏重の時代が誕生したのだということを知らないことである。つまり、「教育基本法」と「教育委員会法」の改正ゆえに、現在の学歴社会や学歴偏重の日本社会が生まれたのであり、その結果として必然的に世界史や日本史の歴史学問軽視、現代社会など社会学軽視の学校風土が誕生したのである。
が、しかし普通の日本人はまったくこうしたことを知らない。もちろん、政治家すら知らない。だから、今になって「教育基本法」の改正だ、などとたわけたことを言い張る。もちろん、しかるべき文献を調べて読めば分かることだが、そうしたことを行なう日本人は少ない。
もう4年前になるが、私は拙著「何が科学をつぶすのか?(太陽書房)」でこの問題を論じた。
簡単に言えば、こうだ。
今我々が言う(つまり思い浮かべる)「教育基本法」というものは、終戦直後に誕生したものとは異なっている。終戦直後に連合軍の下で作られたのは、「日本国憲法(平和憲法)」とそれに合わせて作られた「教育基本法」と「学校教育法」、そしてそれを実践するための「教育委員会法(旧法)」の4つである。
これらが当時世界平和実現に向けて世界のモデル国にしようと”理想主義”に燃えていた米軍が作った(というより正確には1946年に「アメリカ教育使節団」がやってきて作成した)4つの法律なのである。それゆえ、これらはアメリカにもないほどの理想主義的なものであった。それゆえ、武力も放棄し何から何まである意味非現実的であった。
「教育基本法」は、「日本国憲法」と整合して理想主義的に作られたため、同じ精神の下に”学校教育の精神”を定義したものである。「学校教育法」は、いわゆる戦後の6-3-3-4制を定義したものである。そして、「教育委員会法(旧法)」は、教育委員を知事選挙といっしょに選挙で選ぶということを約束したものであった。
それゆえ、この理想主義の下、終戦直後の日本社会は出発した。だから最初の数年は非常に”民主的な国家”であった。
ところが、朝鮮戦争がぼっ発して、米ソ冷戦時代にいきなり突入して、大国のはざまで日本は板挟みとなり、終戦直後の法律が足枷になった。そこで、現実路線に方向転換する必要が出て、吉田茂、鳩山一郎時代に自衛隊を作り、再軍備化した。これと同時に、戦前の教育体制に復古させるために、1955年に「教育委員会法(旧法)」を葬り去り、現在の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」に変えた。これが現在に見る「教育委員会」を定義したのである。つまり、これまで”知事選と同時に選挙で決めていた”教育委員を、”知事が学校経験者から教育委員を任命する方式”に変えたのである。
これが俗にいう「戦後55年体制」というものである。
これは、普通の人は政治家のことだろうと思っているようだが、実は一番の大事なところは、教育体制も変わったということなのである。しかし、これを国民は知らないというより、今のキムジョンイル政権下の北朝鮮と同じようなもので、学校でこういった現代社会のことを教え込まれたら大変なので、現代社会、世界史、日本史軽視、学歴偏重社会を”目指すように仕向けた”のである。つまり、高度成長時代という大義名分の下に、「戦後55年体制」に政治・教育体制を変更したという現実から目をそらせるように当時の日本政府が音頭を取ったわけである。
こうして現在我々が知る”日本社会”が誕生したのである。
それが、80年代後半の「バブル全盛時代」を生み、「バブル崩壊」、そして「空白の10年」、そしてついには、最近の「格差社会」、「犯罪者国家」を生んだというわけである。封建社会の江戸時代以前ならこんな政策を行なったものは、即刻切腹であろうが、この時代に成長したいわゆる戦後の政治家や「官僚」は責任をとらないのがその特徴なのである。
というふうに私は”私自身の研究”で分かっているが、まるで「教育基本法」や「教育委員会法」がずっと今のままであったかのように論じている政治家を見ていると、「こいつら正気か」と思うほどに滑稽である。中には、教育委員会の選び方を変えるのも良いアイデアだなどとまるで自分が初めて思い付いたかのように語る議員までいるのだから目を被うばかりである。
まともに自国の歴史も知らず、こんな連中がどうやって他国の歴史を理解できるのだろうか。と私は思うが、脳天気だから関係ないのだろう。
いずれにせよ、今では北朝鮮や中国の歴史教育を批判しているが、欧米から見れば、日本とて似たようなものだったということをここでは指摘しておこう。
だから、大学入試において政治や現代社会や日本史や世界史の価値を下げたのであり、結果として試験にでないものは学ぶなという日本の学校の特徴を生んだのである。日本政府や文部省が自らそうしたことを音頭取ってやってきたのに、今になってあたかも学校のせいにするというのは、本末転倒も良いところだろう。
これにはそれなりの”影の理由”というものがあるはずである。
私は、おそらく、憲法改正、防衛庁の防衛省への格上げ、そして最終的には徴兵制に向けた一連の学校統制への前触れなのだろうと見ている。
かつて戦前の日本で「清き流れの国」という言葉がもてはやされた。これは天皇を頂点とした封建主義の軍事国家のことだった。庶民は天皇のために命を落とすことを清い行為とされた。今安倍さんが「美しき国」という時、この言葉の意味はおそらく「清き国」という昔の言葉と似た意味を持っているのだろうと私は感じている。
こんなわけで、最初にあげた2つの問題は同じ問題が別なように見えただけなのである。
かたや、現役の高校生たちの世界史(必修科目)や日本史などの”未履修”問題が生じて来た。
一見すると、この2つの問題は何の関係もないように見えるだろう。しかし、実はこの2つは深いところで同じ問題として繋がっている。それが表面的には異なるように見えるという問題なのである。
それには2つの理由がある。
1つは、今の政治家自体が学生時代にまともに日本史や世界史を勉強してこなかったために、大きな誤解を身につけたまま大人になってしまったということである。それゆえ、今「教育基本法」などの問題を論じても”無知の上塗り”をしていることになる。言い換えれば、歴史や事実を真面目に知らないため(調べていないため)に、現在の「教育基本法」が1つのものであるかのように錯覚しているということである。
もう1つは、「教育基本法」(や「教育委員会法」)が現在みなが知る形に改正されたために、その結果として高校生の進学問題や学歴偏重の時代が誕生したのだということを知らないことである。つまり、「教育基本法」と「教育委員会法」の改正ゆえに、現在の学歴社会や学歴偏重の日本社会が生まれたのであり、その結果として必然的に世界史や日本史の歴史学問軽視、現代社会など社会学軽視の学校風土が誕生したのである。
が、しかし普通の日本人はまったくこうしたことを知らない。もちろん、政治家すら知らない。だから、今になって「教育基本法」の改正だ、などとたわけたことを言い張る。もちろん、しかるべき文献を調べて読めば分かることだが、そうしたことを行なう日本人は少ない。
もう4年前になるが、私は拙著「何が科学をつぶすのか?(太陽書房)」でこの問題を論じた。
簡単に言えば、こうだ。
今我々が言う(つまり思い浮かべる)「教育基本法」というものは、終戦直後に誕生したものとは異なっている。終戦直後に連合軍の下で作られたのは、「日本国憲法(平和憲法)」とそれに合わせて作られた「教育基本法」と「学校教育法」、そしてそれを実践するための「教育委員会法(旧法)」の4つである。
これらが当時世界平和実現に向けて世界のモデル国にしようと”理想主義”に燃えていた米軍が作った(というより正確には1946年に「アメリカ教育使節団」がやってきて作成した)4つの法律なのである。それゆえ、これらはアメリカにもないほどの理想主義的なものであった。それゆえ、武力も放棄し何から何まである意味非現実的であった。
「教育基本法」は、「日本国憲法」と整合して理想主義的に作られたため、同じ精神の下に”学校教育の精神”を定義したものである。「学校教育法」は、いわゆる戦後の6-3-3-4制を定義したものである。そして、「教育委員会法(旧法)」は、教育委員を知事選挙といっしょに選挙で選ぶということを約束したものであった。
それゆえ、この理想主義の下、終戦直後の日本社会は出発した。だから最初の数年は非常に”民主的な国家”であった。
ところが、朝鮮戦争がぼっ発して、米ソ冷戦時代にいきなり突入して、大国のはざまで日本は板挟みとなり、終戦直後の法律が足枷になった。そこで、現実路線に方向転換する必要が出て、吉田茂、鳩山一郎時代に自衛隊を作り、再軍備化した。これと同時に、戦前の教育体制に復古させるために、1955年に「教育委員会法(旧法)」を葬り去り、現在の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」に変えた。これが現在に見る「教育委員会」を定義したのである。つまり、これまで”知事選と同時に選挙で決めていた”教育委員を、”知事が学校経験者から教育委員を任命する方式”に変えたのである。
これが俗にいう「戦後55年体制」というものである。
これは、普通の人は政治家のことだろうと思っているようだが、実は一番の大事なところは、教育体制も変わったということなのである。しかし、これを国民は知らないというより、今のキムジョンイル政権下の北朝鮮と同じようなもので、学校でこういった現代社会のことを教え込まれたら大変なので、現代社会、世界史、日本史軽視、学歴偏重社会を”目指すように仕向けた”のである。つまり、高度成長時代という大義名分の下に、「戦後55年体制」に政治・教育体制を変更したという現実から目をそらせるように当時の日本政府が音頭を取ったわけである。
こうして現在我々が知る”日本社会”が誕生したのである。
それが、80年代後半の「バブル全盛時代」を生み、「バブル崩壊」、そして「空白の10年」、そしてついには、最近の「格差社会」、「犯罪者国家」を生んだというわけである。封建社会の江戸時代以前ならこんな政策を行なったものは、即刻切腹であろうが、この時代に成長したいわゆる戦後の政治家や「官僚」は責任をとらないのがその特徴なのである。
というふうに私は”私自身の研究”で分かっているが、まるで「教育基本法」や「教育委員会法」がずっと今のままであったかのように論じている政治家を見ていると、「こいつら正気か」と思うほどに滑稽である。中には、教育委員会の選び方を変えるのも良いアイデアだなどとまるで自分が初めて思い付いたかのように語る議員までいるのだから目を被うばかりである。
まともに自国の歴史も知らず、こんな連中がどうやって他国の歴史を理解できるのだろうか。と私は思うが、脳天気だから関係ないのだろう。
いずれにせよ、今では北朝鮮や中国の歴史教育を批判しているが、欧米から見れば、日本とて似たようなものだったということをここでは指摘しておこう。
だから、大学入試において政治や現代社会や日本史や世界史の価値を下げたのであり、結果として試験にでないものは学ぶなという日本の学校の特徴を生んだのである。日本政府や文部省が自らそうしたことを音頭取ってやってきたのに、今になってあたかも学校のせいにするというのは、本末転倒も良いところだろう。
これにはそれなりの”影の理由”というものがあるはずである。
私は、おそらく、憲法改正、防衛庁の防衛省への格上げ、そして最終的には徴兵制に向けた一連の学校統制への前触れなのだろうと見ている。
かつて戦前の日本で「清き流れの国」という言葉がもてはやされた。これは天皇を頂点とした封建主義の軍事国家のことだった。庶民は天皇のために命を落とすことを清い行為とされた。今安倍さんが「美しき国」という時、この言葉の意味はおそらく「清き国」という昔の言葉と似た意味を持っているのだろうと私は感じている。
こんなわけで、最初にあげた2つの問題は同じ問題が別なように見えただけなのである。
2006/11/01のBlog
[ 17:01 ]
[ 社会 ]
岡山・倉敷市でも“長期病欠”職員、給与は満額受給
最近、奈良市職員が”勤務捏造”問題で懲戒解雇処分となったというニュースがあったが、今度は岡山の倉敷市でも似たような問題があったと報じたニュース。
しかし、なんというのか、これではまるでこういった事件がごくごく最近に始まったかのような”印象”を与えるのではないだろうか。こういった「公務員天国」は何も今に始まったわけではないだろう。
私の知る範囲では、私がユタに留学した時代の1980年代後半、そこで知り合ったとある日本人教授から”失踪した大学職員の話”を面白おかしく聞いたことがある。ある大学職員は仕事をほったらかして何年だったか何ヶ月だったか行方知れずとなり、その教授がやっと見つけたのだが、それは失踪したその人物の給料が貯まって処理に困るので、給料袋を持って手渡しに行ったとかいう話だった。昔は今と違って給料は現金で手渡した。銀行に自動的に振り込まれるわけではなかった。だから、現金が失踪した人物の机に保管されると困ったわけだろう。
いずれにせよ、昔から公務員は、国家公務員や地方公務員を問わず、一度職に採用されたなら、その権利はちょっとやそっとでは失われ得ることはなかった。そのおかげで、病欠しようが、失踪しようが、講議をさぼろうが、給料は満額もらえたわけである。少なくとも20年前まではごく当たり前のことだったと私は理解している。こんな伝統的風習が今も残っているから、こうした問題が起きるわけだろう。
話は変わるが、昨日だったか、テレビで「フランス外人部隊」の特集があった。それを見たが、特に印象に残ったのは、外国人兵士たちに給料を手渡すシーンである。もちろん、現在であるから給料はチェック(小切手)で渡されるのだが、その際に”白い帽子”をかぶり、上官の前でその帽子を脱ぎ、上官がその帽子の中に小切手を突っ込む。それが、「フランス外人部隊」の”儀式”だというのである。というのは、その給料をフランス国民が支払っているということを外国人兵士達に理解させるためであるという。
私は、どうも日本の国家公務員や地方公務員たちにもこれと同じような”儀式”が必要なのではないかと考える。自分の給料が国民の税金から来ているということを毎回肝に命じさせるためには、そのくらいの”儀式”が必要なのではないかと思うからである。さもなくば、自分は公務員なのだから、高給がもらえて当然と錯覚する人物が現れるのも理解できる。
今どき、”現金”で手渡すとか、チェックや明細書を上司が儀式をして手渡すとか、何かの戒めが必要な時代なのかも知れない。一考に値するだろう。
ところで、こういった長期病欠などの不正行為が発覚すると、今度は本当に病気になってしまった人々が多大の迷惑を被る。それゆえ、ものごとに過敏に過剰反応し、ものごとを杓子定規で一面的に考えると、問題はこじれてしまうだろう。たとえば、一律にこういったシステムを廃止すれば、今後は本当に病気になった人はすぐに首になるだろう。詐欺行為を行った人やそれを見てみぬ振りをした人、参加した人などを見極めて処罰すべきだろう。臨機応変にやればいいわけだが、それができないのが、日本の戦後教育の(負の)遺産なのである。
最近、奈良市職員が”勤務捏造”問題で懲戒解雇処分となったというニュースがあったが、今度は岡山の倉敷市でも似たような問題があったと報じたニュース。
しかし、なんというのか、これではまるでこういった事件がごくごく最近に始まったかのような”印象”を与えるのではないだろうか。こういった「公務員天国」は何も今に始まったわけではないだろう。
私の知る範囲では、私がユタに留学した時代の1980年代後半、そこで知り合ったとある日本人教授から”失踪した大学職員の話”を面白おかしく聞いたことがある。ある大学職員は仕事をほったらかして何年だったか何ヶ月だったか行方知れずとなり、その教授がやっと見つけたのだが、それは失踪したその人物の給料が貯まって処理に困るので、給料袋を持って手渡しに行ったとかいう話だった。昔は今と違って給料は現金で手渡した。銀行に自動的に振り込まれるわけではなかった。だから、現金が失踪した人物の机に保管されると困ったわけだろう。
いずれにせよ、昔から公務員は、国家公務員や地方公務員を問わず、一度職に採用されたなら、その権利はちょっとやそっとでは失われ得ることはなかった。そのおかげで、病欠しようが、失踪しようが、講議をさぼろうが、給料は満額もらえたわけである。少なくとも20年前まではごく当たり前のことだったと私は理解している。こんな伝統的風習が今も残っているから、こうした問題が起きるわけだろう。
話は変わるが、昨日だったか、テレビで「フランス外人部隊」の特集があった。それを見たが、特に印象に残ったのは、外国人兵士たちに給料を手渡すシーンである。もちろん、現在であるから給料はチェック(小切手)で渡されるのだが、その際に”白い帽子”をかぶり、上官の前でその帽子を脱ぎ、上官がその帽子の中に小切手を突っ込む。それが、「フランス外人部隊」の”儀式”だというのである。というのは、その給料をフランス国民が支払っているということを外国人兵士達に理解させるためであるという。
私は、どうも日本の国家公務員や地方公務員たちにもこれと同じような”儀式”が必要なのではないかと考える。自分の給料が国民の税金から来ているということを毎回肝に命じさせるためには、そのくらいの”儀式”が必要なのではないかと思うからである。さもなくば、自分は公務員なのだから、高給がもらえて当然と錯覚する人物が現れるのも理解できる。
今どき、”現金”で手渡すとか、チェックや明細書を上司が儀式をして手渡すとか、何かの戒めが必要な時代なのかも知れない。一考に値するだろう。
ところで、こういった長期病欠などの不正行為が発覚すると、今度は本当に病気になってしまった人々が多大の迷惑を被る。それゆえ、ものごとに過敏に過剰反応し、ものごとを杓子定規で一面的に考えると、問題はこじれてしまうだろう。たとえば、一律にこういったシステムを廃止すれば、今後は本当に病気になった人はすぐに首になるだろう。詐欺行為を行った人やそれを見てみぬ振りをした人、参加した人などを見極めて処罰すべきだろう。臨機応変にやればいいわけだが、それができないのが、日本の戦後教育の(負の)遺産なのである。
2006/10/31のBlog
[ 13:45 ]
[ アルバム写真 ]
2006/10/29のBlog
[ 10:04 ]
[ 科学ニュース ]
写真:遺伝子の全解読がなされた蜜蜂。
昆虫では、ショウジョウバエ、マラリアを媒介するハマダラカの次の第三番目とか。
ゲノムの大きさは、約2億6000万塩基対で、人間の1/10。
ハエ、カ、ハチと来たら次はバッタかカブト虫か。果たして次のターゲットは何だろうか。
Honeybee:ミツバチゲノムの解読
ミツバチの全遺伝情報を解読 東大などの研究者
昆虫では、ショウジョウバエ、マラリアを媒介するハマダラカの次の第三番目とか。
ゲノムの大きさは、約2億6000万塩基対で、人間の1/10。
ハエ、カ、ハチと来たら次はバッタかカブト虫か。果たして次のターゲットは何だろうか。
Honeybee:ミツバチゲノムの解読
ミツバチの全遺伝情報を解読 東大などの研究者
写真:1億年前のハチ。
海の中でも、海の植物と節足動物は見事に共生しているが、それと同じように陸上でも植物と昆虫は見事に共生している。最古のハチはアリのようであった。
1億年前の琥珀にハチ 米研究者がミャンマーで発見
海の中でも、海の植物と節足動物は見事に共生しているが、それと同じように陸上でも植物と昆虫は見事に共生している。最古のハチはアリのようであった。
1億年前の琥珀にハチ 米研究者がミャンマーで発見
写真:鹿児島で見つかった沖縄・奄美のみで生息のクロボシセリ。
日本列島が徐々に温帯から亜熱帯地域に変化しつつある証拠。そのうち、マラリア、デング熱、ライム病なども伝染してきかねない。もっとも我が家の長男は数年前にライム病にかかったので、すでにどこかに潜伏しているかも知れない。
沖縄や奄美に生息のチョウ、クロボシセセリ本土で初確認
日本列島が徐々に温帯から亜熱帯地域に変化しつつある証拠。そのうち、マラリア、デング熱、ライム病なども伝染してきかねない。もっとも我が家の長男は数年前にライム病にかかったので、すでにどこかに潜伏しているかも知れない。
沖縄や奄美に生息のチョウ、クロボシセセリ本土で初確認
写真:広島で見つかった白いオオサンショウウオ。
白いオオサンショウウオ、5匹が群れ 広島・北広島町
白いオオサンショウウオ、5匹が群れ 広島・北広島町
2006/10/28のBlog
[ 11:11 ]
[ 徳島 ]
海陽町・みとこ荘、来年1月閉館 7年連続の赤字響く
旧宍喰町、現海陽町宍喰浦にある「国民宿舎みとこ荘」が来年1月末で閉館するとのニュース。施設の老朽化、8339万円程度の累積赤字などの理由で閉館が決まったという。
実に残念なことだ。
旧宍喰町、現海陽町宍喰浦にある「国民宿舎みとこ荘」が来年1月末で閉館するとのニュース。施設の老朽化、8339万円程度の累積赤字などの理由で閉館が決まったという。
実に残念なことだ。
2000年に私のユタ大時代の恩師であるビル・サザーランド教授が来た時には、眉山の「かんぽの宿」と「ヴィレッジ淡島」を使った。
2002年に私の友人の山田弘明さんが訪問した際とその1月後にビルが奥さんのヴェロニカさんとやって来た2度目の訪問の時には、「ヴィレッジ淡島」と「みとこ荘」を使った。その時、私の妻とビルとヴェロニカと4人で見た朝日はこれまでの人生で見た”最高に美しい朝日”であった。ディスカッション用には、私と妻がもっとも好きで我が家の特別スポットにしている「白い灯台」を使った。我が家のホームページの風景はその時にヴェロニカさんがディジタルカメラで撮ったものである。
写真:眉山山頂の「かんぽの宿」
2002年に私の友人の山田弘明さんが訪問した際とその1月後にビルが奥さんのヴェロニカさんとやって来た2度目の訪問の時には、「ヴィレッジ淡島」と「みとこ荘」を使った。その時、私の妻とビルとヴェロニカと4人で見た朝日はこれまでの人生で見た”最高に美しい朝日”であった。ディスカッション用には、私と妻がもっとも好きで我が家の特別スポットにしている「白い灯台」を使った。我が家のホームページの風景はその時にヴェロニカさんがディジタルカメラで撮ったものである。
写真:眉山山頂の「かんぽの宿」
昨年2005年にDNA研究のユージン・スタリコフさん、田中成典さん、栗田典之さん、山田弘明さんらが訪問した際には、やはり「ヴィレッジ淡島」に宿泊してもらい、「白い灯台」の喫茶室で大平洋を眺めながらスタリコフさんの最新の研究成果の講演をしてもらったものである。
私は野に住む研究者、言ってみれば、”野外研究者”なので、大学や研究所の研究者などとは違い、大学や研究所の宿泊施設を使うことはできない。それゆえ、そういった民間施設を使う。図書館は大学の図書館や研究所の図書室ではなく、市立県立図書館を使う。コピーも大学や研究所にあるコピー室を使うのではなく、ローソンやサンクスの10円コピーですませる。大学や研究所の研究者は、大学や研究所の喫茶店でコーヒーを飲むが、私はスーパーの喫茶で飲む。つまり、大学や研究所の研究者が大学や研究所に活動の場を求めるのに対し、私は街そのものを活動の場にしているというわけである。
写真:白い灯台
私は野に住む研究者、言ってみれば、”野外研究者”なので、大学や研究所の研究者などとは違い、大学や研究所の宿泊施設を使うことはできない。それゆえ、そういった民間施設を使う。図書館は大学の図書館や研究所の図書室ではなく、市立県立図書館を使う。コピーも大学や研究所にあるコピー室を使うのではなく、ローソンやサンクスの10円コピーですませる。大学や研究所の研究者は、大学や研究所の喫茶店でコーヒーを飲むが、私はスーパーの喫茶で飲む。つまり、大学や研究所の研究者が大学や研究所に活動の場を求めるのに対し、私は街そのものを活動の場にしているというわけである。
写真:白い灯台
こんなわけだから、我が家のひいきにしている施設が老朽化し、潰れて行くのは非常に痛い。しかし、「かんぽの宿」も破たん、「みとこ荘」も閉鎖とは実に残念である。
”ノブレス・オブリージェ”とは、お金持ちが自分を育んでくれた社会に対してそのお返しとして何かすばらしい貢献をしなくてはならないという意味の言葉である。私が大金持ちならもちろん「みとこ荘」をすぐさま援助するだろう。なぜなら、確かに施設は老朽化するだろうが、そこから見ることのできる風景は半永久的なもの、”永遠のもの”で、決して老朽化しないものであるからだ。この景色の美しさの価値は人間界を超えていると思うからである。
だれか、大金持ちにこうした”ノブレス・オブリージェ”の意義の理解できる者がいれば良いのだが。
写真:日和佐の大浜海岸(うみがめの海岸)。ビルの奥さん、ヴェロニカさん撮影
”ノブレス・オブリージェ”とは、お金持ちが自分を育んでくれた社会に対してそのお返しとして何かすばらしい貢献をしなくてはならないという意味の言葉である。私が大金持ちならもちろん「みとこ荘」をすぐさま援助するだろう。なぜなら、確かに施設は老朽化するだろうが、そこから見ることのできる風景は半永久的なもの、”永遠のもの”で、決して老朽化しないものであるからだ。この景色の美しさの価値は人間界を超えていると思うからである。
だれか、大金持ちにこうした”ノブレス・オブリージェ”の意義の理解できる者がいれば良いのだが。
写真:日和佐の大浜海岸(うみがめの海岸)。ビルの奥さん、ヴェロニカさん撮影
2006/10/27のBlog
[ 08:31 ]
[ 教育 ]
必修漏れ、35都道県254校に 多くの科目で発覚
「必修科目の履修漏れ」が、ごく最近とあることから発覚し、全国的な”大問題”に発展してきている。今さらながらに、日本のマスコミは「学校バッシング」を行いたい様子だが、そもそもこの問題のルーツは何であったと言えば、それは遠い時代の我々が高校生だった30年前には少なくとも遡るはずである。
私の記憶でも、私が高校生であった1970年代中ごろには、いわゆる「文系」、「理系」によってクラス分けをしていた。それによって数学3(=高校3年の数学)まで学ぶか数学1(=高校1年の数学)までで済ませるかを選択させられたものである。確か大学受験間近の高3にはさらに「国立文系」か「私立文系」、「国立理系」か「私立理系」かに分かれ、さまざまな授業科目の分配が行われていた。これにより、5教科学ぶもの、たったの3教科しか学ばないものなどが分かれることとなった。
その当時の高校(ここではいわゆる全日制普通科の進学校のこと)で、履修科目の”改ざん”や”単位捏造”を行っていたのかどうか定かではないが、ごくごく普通のことであったように思う。
だから、今回の”発覚”があったとしても、学校関係者たちは、「何で今さら」という思いが強いはずである。もうすでに1世代以上経ってしまっているからである。今の高校生の親たちの時代から同様のことは日常的に行われていて、当時の文部省もそれを推進して来たはずだからである。
つまり、この30年もの間にすでに”既成事実化”していたことなのである。さもなくば、この進学競争の厳しい時代に、公立進学校は”6年制”私立進学校に太刀打ちできない。
それが、今回何かの切っ掛けで”蒸し返された”のである。
これが、しばらく前に私が
「”高齢者に振り回される時代”突入? 」、
「伊吹文科相、”思い付き”で早速国民を”振り回す” 」
などで言いたかったことなのである。
今後こう言った感じのことがどんどん起こってくるだろうということである。権力を持つ中高年のその時々の思いつきであっちこっちへと振り回されるのである。
確かに高校の「単位捏造」はよろしくないが、これまで30年以上も見過ごしておきながら、まるでつい最近突然に生じたかような”しらばっくれた”行為はもっとよろしくないと私は考える。すべては悪しき「ペーパー試験制度」が生んだあだ花なのだから、誰かのせいにすればそれですむというような類いの話ではない。
一番の非は文部省や日教組や当時の政府にあるはずである。それゆえ、誰かが謝ればすむという問題ではなく、今後数十年の将来のために、”国民的な議論”を行って決めるべきものであると私は思う。
「必修科目の履修漏れ」が、ごく最近とあることから発覚し、全国的な”大問題”に発展してきている。今さらながらに、日本のマスコミは「学校バッシング」を行いたい様子だが、そもそもこの問題のルーツは何であったと言えば、それは遠い時代の我々が高校生だった30年前には少なくとも遡るはずである。
私の記憶でも、私が高校生であった1970年代中ごろには、いわゆる「文系」、「理系」によってクラス分けをしていた。それによって数学3(=高校3年の数学)まで学ぶか数学1(=高校1年の数学)までで済ませるかを選択させられたものである。確か大学受験間近の高3にはさらに「国立文系」か「私立文系」、「国立理系」か「私立理系」かに分かれ、さまざまな授業科目の分配が行われていた。これにより、5教科学ぶもの、たったの3教科しか学ばないものなどが分かれることとなった。
その当時の高校(ここではいわゆる全日制普通科の進学校のこと)で、履修科目の”改ざん”や”単位捏造”を行っていたのかどうか定かではないが、ごくごく普通のことであったように思う。
だから、今回の”発覚”があったとしても、学校関係者たちは、「何で今さら」という思いが強いはずである。もうすでに1世代以上経ってしまっているからである。今の高校生の親たちの時代から同様のことは日常的に行われていて、当時の文部省もそれを推進して来たはずだからである。
つまり、この30年もの間にすでに”既成事実化”していたことなのである。さもなくば、この進学競争の厳しい時代に、公立進学校は”6年制”私立進学校に太刀打ちできない。
それが、今回何かの切っ掛けで”蒸し返された”のである。
これが、しばらく前に私が
「”高齢者に振り回される時代”突入? 」、
「伊吹文科相、”思い付き”で早速国民を”振り回す” 」
などで言いたかったことなのである。
今後こう言った感じのことがどんどん起こってくるだろうということである。権力を持つ中高年のその時々の思いつきであっちこっちへと振り回されるのである。
確かに高校の「単位捏造」はよろしくないが、これまで30年以上も見過ごしておきながら、まるでつい最近突然に生じたかような”しらばっくれた”行為はもっとよろしくないと私は考える。すべては悪しき「ペーパー試験制度」が生んだあだ花なのだから、誰かのせいにすればそれですむというような類いの話ではない。
一番の非は文部省や日教組や当時の政府にあるはずである。それゆえ、誰かが謝ればすむという問題ではなく、今後数十年の将来のために、”国民的な議論”を行って決めるべきものであると私は思う。
2006/10/26のBlog
[ 18:14 ]
[ サッカー ]
日本2─0中国U-21、梶山先制・平山が追加点
平山、”ゴッドハンド”で2点目。
U-21の親善マッチ、日本対中国。2-1で日本の勝利。
新聞には「82分、中村の鋭いクロスに飛び込んだ平山が相手GKと交錯しながらボールを体に当てて追加点を決めた。」とあるが、だれがみても平山の手で入れたハンドのファール。”ゴッドハンド”による得点だった。監督のいない中国チームに2-0では、予選突破はかなり厳しいだろう。
それにしても、将来のワールドカップの代表候補であるU-21の試合をテレビで放映しないというのは困ったものである。
平山、”ゴッドハンド”で2点目。
U-21の親善マッチ、日本対中国。2-1で日本の勝利。
新聞には「82分、中村の鋭いクロスに飛び込んだ平山が相手GKと交錯しながらボールを体に当てて追加点を決めた。」とあるが、だれがみても平山の手で入れたハンドのファール。”ゴッドハンド”による得点だった。監督のいない中国チームに2-0では、予選突破はかなり厳しいだろう。
それにしても、将来のワールドカップの代表候補であるU-21の試合をテレビで放映しないというのは困ったものである。
[ 15:35 ]
[ 教育 ]
写真:南極上空のオゾンホール。
その昔の日本の大学では、年末になると成績が悪く単位履修がままならない学生達が、担当教授の自宅に行き、酒を献上してそれで点数を上乗せしてもらって単位をもらったという。私が大学生時代にこんなお話を聞いたことがある。
学生の方もこうしたことは十二分に分かっていて、年末になると、自分の成績の悪さや努力の欠如はさておいて、自分の勝手な希望ばかりを要求してくる。卒業できないと、せっかく決まった就職が困るとか、身勝手なへ理屈をこねてくるわけだ。ブランデーやら酒1本で何とかしてくれ、というわけだ。
これも日本の大学の牧歌的な風情として面白おかしく聞いたものである。こういった学生が社会人となってはや30年は経つだろう。この頃、すなわち、1970年代、80年代に卒業した若者は、今では40台後半から50台前半の初老の大人となっている。日本の組織の中では、中堅から幹部にまでなっている。事実、私のかつての同級生や友人たちの多くも、大学教授やら管理職やら学部長やらとなって久しい。今では立派な”肩書き”を持つ。
こうして1世代の社会の回り方を見ていると、この世代が今後日本社会の牽引車になっていくことは(年功序列として)確かであるが、問題が山積みとなっているように私は感じる。というのも、この世代(つまり、私とほぼ同世代)は、かつての「軽薄短小」世代、バブル全盛期の世代であるからである。何につけても物事の理解が軽薄なのである。深くない。同時に、バブル時代の甘さや「甘えの構造」世代でもあり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式の価値観にどっぷり浸かった世代でもある。
こんな時代的風潮に感化されつつ大人になった世代であるため、みんながやっていることは自分もやりたいと思っているというタイプである。そして、大学生や中高校生など、現在の学齢年齢にある子供たちのほとんどがこの世代の子供たちである。だから、世の中の見方はどんどん軽薄短小となる。これに拍車がかかる。
彼らの子供の世代は、努力し苦労して何かを成し遂げることより、楽して簡単に何かを得ることを望む。彼ら、その親達も物事すべてにマニュアルがあり、教科書通りに進むことを願う。「他山の石」とばかりに、他校で行っていることは自分の学校でもしなければなならいと考えてしまう。こうして、どこも似たり寄ったりの画一的でステレオタイプの発想で充ち満ちてしまう。
どうやら、ごく最近問題になっている、高校の授業未履修の問題(ここでは、「単位捏造」と呼んでおこう)の根源はこんな所にありそうに見える。あそこの進学校でも受験教科だけ教えているのだから我が校も世界史ははしょる。どうせ多科目受験の東大、京大に入れるものはごくわずか、大半の学校は3教科受験だから、受験科目にないものは省こう。どこもみんなやっていることだ。学校の中堅の先生達はみなこう考えたのだろう。
こうして、日本史、世界史も学ばない大学生が世の中で跋扈する時代となったわけである。最近、どうして地理や歴史の無知な成人が増えたのか、と不思議に思っていたら、高校の先生たちが組織的に「履修科目改ざん」や「単位捏造」していたわけである。
しばらく前に
「”捏造”の時代精神 」、
「”科学者の規範作り”には2種類必要だ! 」、
「理研の”不正行為防止策” 」
「”科学者の捏造論文”vs”文芸人の無断盗用” 」
「ランダエタ戦の”八百長疑惑”:ちまたの声、声、声 」
などを書いていたが、この最後に
”それにしても、昨今の日本はひどい。政治家の”履歴書捏造”から始まって、科学者の”論文捏造”やら、画家の”絵の捏造”やらと続き、とうとうボクシングの”判定捏造”、”チャンピオン捏造”にまで来てしまった。これでは、”国家の品格”もなにもない。本当に”目に余る”。”
と書いていたが、今度は高校の「単位捏造」と来た。
1970年代に文部省が行った教育(「受験戦争」、「受験地獄」)の”つけ”が今まさに社会問題となってきたのである。したがって、この問題の”根”は実に深い。
江戸時代の終焉には江戸時代特有の理由というものがあったが、それと同様に”東京時代”の終焉には東京時代特有の理由というものがあるはずである。この理由の1つが、過度の”ペーパー試験信仰”というものである。
私が本当によく理解できないことは、今の日本人(つまり、1970年代の受験ブーム世代前後の教育を受けた日本人)が、現在「学力低下」と叫ぶときに、学校の教科書やら塾や予備校で勉強すれば本当に学力がつく、とまじめに信じているらしいということである。学校がダメ教師なら塾へ行けば良い。それで何とかなるというふうに信じているのだから始末に負えない。
しかし、現実には、学校であろうが、病院であろうが、大学であろうが、「完ぺきな人間」などいようはずがない。「完ぺきな教師」も「完ぺきな医師」も「完ぺきな博士」もいない。それは、「完ぺきなサッカー選手」がいないのと同じことだ。それぞれの人間はそれぞれの特徴を持つ。それぞれの個性がある。みな単に自分ができることをやっているにすぎない。
したがって、我々にできることとは、お互いに”補いあう”ことだけだ。先生にできないことは親が補う。親ができないことは先生が補う。医者ができないことは患者が補う。患者ができないことは医者が補う。学校にできないことは家庭で補う。家庭でできないことは学校でやってもらう。こういうお互いに補うという精神が大事である。
過度の信頼は、宗教と同じで盲目的な過信につながる。先生を信頼しすぎるから何かが起こった後後悔するのだ。先生を信じすぎたばかりに、ことが起こった後に逆に先生を恨むこととなる。医者を信じすぎたばかりに、患者が死ねば遺族の悲しみも深くなる。
結局は、健康維持において、「自分の健康は自分で守る」というように、教育においても「我が子の学習は自分で守る」ということがもっとも理にかなっているのである。先生も教科書もどんな書物も過度に信じてはいけない。”腹八分目”で結構。100点でなくて結構。80点でよろしい。
こんな感じの、”ちょっと不真面目”な感じでないと、真実から遠ざかる。生真面目すぎれば、角が立つ。物事に”過剰反応”して小さなことまでも大騒ぎ、一大事と見えてしまう。「受験戦争」の何が悪かったかといえば、あまりに生真面目、糞まじめな人間で、小粒な人間ばかりを育て上げてしまったということだろう。ちょっと歯車が狂えば、人生の終わりだと大騒ぎ。ちょっと先例がなければ、問題だと大騒ぎする。これでは、世界では通用しない。
それにしても、日本のテレビマスコミも、自分のことは棚に上げて、何かと大騒ぎしすぎだ。
ナザレのイエスは、過ちを犯した人に石を投げ付け罵る人々にこういったという。一度も過ちを犯したことのない人のみ石を投げなさい。だれもが過ちを犯すもの。
今の日本のマスコミは聖書でも読んだ方がよほどためになるように見える。
その昔の日本の大学では、年末になると成績が悪く単位履修がままならない学生達が、担当教授の自宅に行き、酒を献上してそれで点数を上乗せしてもらって単位をもらったという。私が大学生時代にこんなお話を聞いたことがある。
学生の方もこうしたことは十二分に分かっていて、年末になると、自分の成績の悪さや努力の欠如はさておいて、自分の勝手な希望ばかりを要求してくる。卒業できないと、せっかく決まった就職が困るとか、身勝手なへ理屈をこねてくるわけだ。ブランデーやら酒1本で何とかしてくれ、というわけだ。
これも日本の大学の牧歌的な風情として面白おかしく聞いたものである。こういった学生が社会人となってはや30年は経つだろう。この頃、すなわち、1970年代、80年代に卒業した若者は、今では40台後半から50台前半の初老の大人となっている。日本の組織の中では、中堅から幹部にまでなっている。事実、私のかつての同級生や友人たちの多くも、大学教授やら管理職やら学部長やらとなって久しい。今では立派な”肩書き”を持つ。
こうして1世代の社会の回り方を見ていると、この世代が今後日本社会の牽引車になっていくことは(年功序列として)確かであるが、問題が山積みとなっているように私は感じる。というのも、この世代(つまり、私とほぼ同世代)は、かつての「軽薄短小」世代、バブル全盛期の世代であるからである。何につけても物事の理解が軽薄なのである。深くない。同時に、バブル時代の甘さや「甘えの構造」世代でもあり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式の価値観にどっぷり浸かった世代でもある。
こんな時代的風潮に感化されつつ大人になった世代であるため、みんながやっていることは自分もやりたいと思っているというタイプである。そして、大学生や中高校生など、現在の学齢年齢にある子供たちのほとんどがこの世代の子供たちである。だから、世の中の見方はどんどん軽薄短小となる。これに拍車がかかる。
彼らの子供の世代は、努力し苦労して何かを成し遂げることより、楽して簡単に何かを得ることを望む。彼ら、その親達も物事すべてにマニュアルがあり、教科書通りに進むことを願う。「他山の石」とばかりに、他校で行っていることは自分の学校でもしなければなならいと考えてしまう。こうして、どこも似たり寄ったりの画一的でステレオタイプの発想で充ち満ちてしまう。
どうやら、ごく最近問題になっている、高校の授業未履修の問題(ここでは、「単位捏造」と呼んでおこう)の根源はこんな所にありそうに見える。あそこの進学校でも受験教科だけ教えているのだから我が校も世界史ははしょる。どうせ多科目受験の東大、京大に入れるものはごくわずか、大半の学校は3教科受験だから、受験科目にないものは省こう。どこもみんなやっていることだ。学校の中堅の先生達はみなこう考えたのだろう。
こうして、日本史、世界史も学ばない大学生が世の中で跋扈する時代となったわけである。最近、どうして地理や歴史の無知な成人が増えたのか、と不思議に思っていたら、高校の先生たちが組織的に「履修科目改ざん」や「単位捏造」していたわけである。
しばらく前に
「”捏造”の時代精神 」、
「”科学者の規範作り”には2種類必要だ! 」、
「理研の”不正行為防止策” 」
「”科学者の捏造論文”vs”文芸人の無断盗用” 」
「ランダエタ戦の”八百長疑惑”:ちまたの声、声、声 」
などを書いていたが、この最後に
”それにしても、昨今の日本はひどい。政治家の”履歴書捏造”から始まって、科学者の”論文捏造”やら、画家の”絵の捏造”やらと続き、とうとうボクシングの”判定捏造”、”チャンピオン捏造”にまで来てしまった。これでは、”国家の品格”もなにもない。本当に”目に余る”。”
と書いていたが、今度は高校の「単位捏造」と来た。
1970年代に文部省が行った教育(「受験戦争」、「受験地獄」)の”つけ”が今まさに社会問題となってきたのである。したがって、この問題の”根”は実に深い。
江戸時代の終焉には江戸時代特有の理由というものがあったが、それと同様に”東京時代”の終焉には東京時代特有の理由というものがあるはずである。この理由の1つが、過度の”ペーパー試験信仰”というものである。
私が本当によく理解できないことは、今の日本人(つまり、1970年代の受験ブーム世代前後の教育を受けた日本人)が、現在「学力低下」と叫ぶときに、学校の教科書やら塾や予備校で勉強すれば本当に学力がつく、とまじめに信じているらしいということである。学校がダメ教師なら塾へ行けば良い。それで何とかなるというふうに信じているのだから始末に負えない。
しかし、現実には、学校であろうが、病院であろうが、大学であろうが、「完ぺきな人間」などいようはずがない。「完ぺきな教師」も「完ぺきな医師」も「完ぺきな博士」もいない。それは、「完ぺきなサッカー選手」がいないのと同じことだ。それぞれの人間はそれぞれの特徴を持つ。それぞれの個性がある。みな単に自分ができることをやっているにすぎない。
したがって、我々にできることとは、お互いに”補いあう”ことだけだ。先生にできないことは親が補う。親ができないことは先生が補う。医者ができないことは患者が補う。患者ができないことは医者が補う。学校にできないことは家庭で補う。家庭でできないことは学校でやってもらう。こういうお互いに補うという精神が大事である。
過度の信頼は、宗教と同じで盲目的な過信につながる。先生を信頼しすぎるから何かが起こった後後悔するのだ。先生を信じすぎたばかりに、ことが起こった後に逆に先生を恨むこととなる。医者を信じすぎたばかりに、患者が死ねば遺族の悲しみも深くなる。
結局は、健康維持において、「自分の健康は自分で守る」というように、教育においても「我が子の学習は自分で守る」ということがもっとも理にかなっているのである。先生も教科書もどんな書物も過度に信じてはいけない。”腹八分目”で結構。100点でなくて結構。80点でよろしい。
こんな感じの、”ちょっと不真面目”な感じでないと、真実から遠ざかる。生真面目すぎれば、角が立つ。物事に”過剰反応”して小さなことまでも大騒ぎ、一大事と見えてしまう。「受験戦争」の何が悪かったかといえば、あまりに生真面目、糞まじめな人間で、小粒な人間ばかりを育て上げてしまったということだろう。ちょっと歯車が狂えば、人生の終わりだと大騒ぎ。ちょっと先例がなければ、問題だと大騒ぎする。これでは、世界では通用しない。
それにしても、日本のテレビマスコミも、自分のことは棚に上げて、何かと大騒ぎしすぎだ。
ナザレのイエスは、過ちを犯した人に石を投げ付け罵る人々にこういったという。一度も過ちを犯したことのない人のみ石を投げなさい。だれもが過ちを犯すもの。
今の日本のマスコミは聖書でも読んだ方がよほどためになるように見える。
2006/10/25のBlog
[ 12:15 ]
[ 歴史 ]
最近、カナダのジャーナリスト、ヤコボビッチ氏がつくった「The Exodus Decoded(読み解かれた出エジプト)」の日本語版(『出エジプト記の“真実”奇跡は本当に起こったのか?』(前・後編))をNHKでやっていたので見た。プレゼンターは、「タイタニック」のジェームズ・キャメロン。
私が見たのは後編であったが、実に面白かった。一緒に見ていた我が家の息子達も非常に面白がっていた。インディージョーンズを見ているかのようなスリルとサスペンスに満ちた構成で、エンターテイメントとしての見事さもあった。
写真:失われたアーク、10戒のある石碑の入った入れ物と祭壇。このいれものは、なぜか日本の神輿(みこし)に似ている。
私が見たのは後編であったが、実に面白かった。一緒に見ていた我が家の息子達も非常に面白がっていた。インディージョーンズを見ているかのようなスリルとサスペンスに満ちた構成で、エンターテイメントとしての見事さもあった。
写真:失われたアーク、10戒のある石碑の入った入れ物と祭壇。このいれものは、なぜか日本の神輿(みこし)に似ている。
”Exodus(エクソダス)”とは、”旧約聖書”にある「出エジプト」のことである。現在の”ユダヤ人”が、エジプト捕囚(奴隷)となり、そこからモーゼに率いられ、海を渡り、シナイ山で神との契約を結び、神が雷電によって石に”十戒”を碑文に刻む(アーク)。ユダヤ人が”ユダヤ人”となったこの壮大な脱出物語のことである。
我々日本人は、文部省の「世界史」の教科書に「出エジプト」が書かれているので、あたかもそれが歴史上の真実であるかのように学ぶ。だから、その物語を既知の事実と受け止めているのではないだろうか。
写真:モーゼがアークを受けた本当の”シナイ山”
我々日本人は、文部省の「世界史」の教科書に「出エジプト」が書かれているので、あたかもそれが歴史上の真実であるかのように学ぶ。だから、その物語を既知の事実と受け止めているのではないだろうか。
写真:モーゼがアークを受けた本当の”シナイ山”
しかし、欧米人にとってそれが本当にあったかどうか、歴史上の事実かどうか、もしあったとすればそれはどこであったのか、というのは、どうやら我々日本人が想像する以上に深刻な問題であるようだ。それゆえ、古来から長期間に渡って研究されてきた。その年月は約3000年と云われる。
この番組はそれをついに解明したというものであった。ぜひ一見することを勧める。
写真:モーゼの”海が割れた”現象を表す碑文
この番組はそれをついに解明したというものであった。ぜひ一見することを勧める。
写真:モーゼの”海が割れた”現象を表す碑文
さて、数千年前にエジプト捕囚となった古代ユダヤ人は、出エジプト以来中近東に居住し、古代イスラエルを作った。この時12支族がいたとされる。これがダビデ王やソロモン王の時代である。その後、古代イスラエルは、北のイスラエル(10支族)と南のユダ(2支族)に分裂する。
だが、この地域の特性上幾多の戦争に遭遇した。こうして、まず最初に北のイスラエルが鉄器文明開化したアッシリア帝国に滅ぼされ、「 アッシリア捕囚」となる(BC660年)。それから100年ほどしてついに南のユダもバビロニア帝国に滅ぼされ、「バビロン捕囚」となる(BC597年)。
このアッシリア捕囚となった北の10支族の消息は失われて、「失われた10支族」の物語として現在ユダヤ人の間では神話となっている。一方のバビロン捕囚となった部族のユダ民族の末裔はよく知られていて、これが現在の西洋のユダヤ人である。この番組を作った人々も、この南のユダ王国の末裔である現代ユダヤ人の人々(俗に、我々が”ユダヤ人”と呼ぶ人々)である。
実は、一方の「失われた10支族」を探索するという研究も古来から残された西洋のユダヤ人の間では3000年に渡って行われてきているらしい。
これが、最近では、日本人の祖先である、大陸から渡り大和民族となった人々ではないか、という研究が行われるようになってきた(「目白と駒込 」)。
かつて遺伝子による祖先の探索をするという番組で聾唖の女優忍足亜希子のミトコンドリア遺伝子で探索した結果、西アジアの民族にまったく同一の遺伝子を持つ女性がいたというものがあった。
このように、日本人の祖先の1つに北方アジア系というものがあるが、それが西アジア経由で伝来した民族である。日本人の遺伝子の70%は西洋の白人と共通、25%は北方モンゴル系と共通、わずか数%が南方モンゴル系と共通であると云われる(柘植の「反秀才論」)。
この事実と全く呼応するかのように、アッシリア捕囚(”失われた10支族”)の行く先は、西洋の歴史の中では、西アジアまでは明確な証拠が記録されているというのである。これら両者を内挿すれば、なんとなく日本へまで到達した経緯が想像できるような気がする。
カタカナは、古代ヘブル語とうり2つ。右から左へ記述する。日本の神話にも、現在の日本人の発音にはない、意味不明の不思議な音声のものが多く存在する。たとえば、”スメラ命”、”ウガヤフキアエズ”などとという名の人物が登場する。”スメラ命”は、古代サマリアやシュメール人のことではないか、と想像するのもうなずける。また、”侍(サムライ)”とは、古代シュメール語でシャムライ(=守る人)である(アイデルバーグ「日本書紀と日本語のユダヤ起源」徳間書店)。
最後に、実は現代ユダヤ人には、「エクソダス」よりもっと壮大な神話が残されているという。それは、「エフライムの木」という、予言というのか、神話というのか、物語である。「エフライムの木」は、2500年前にエゼキエル書のエゼキエルが書き残した予言と云われる。
”主の言葉が私に臨んだ。
「人の子よ、あなたは1本の木を取り、その上に
「ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために」
と書き、また1本の木を取って、その上に
「ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために」
と書け。
これはエフライムの木である。
あなたはこれらを合わせて、1つの木となせ。
これらはあなたの手で1つになる。。。
私はイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、
四方から彼らを集めて、その地にみちびき、
その地で彼らを1つの民となしてイスラエルの山々におらせ。。。
我がしもべダビデは彼らの王となる。。。”
実は、この中の”エフライム”というのは、古代イスラエル10支族の主要民族のエフライムのことである。
ちなみに、古代イスラエル10支族とは、アシェル、ナフタリ、ダン、マナセ、ゼブルン、イッサカル、ガド、エフライム、ルベン、モアブ(ケモシュ)のことであり、古代ユダヤ2支族とは、ベニヤミンとユダ(シメオン)。
これが、後に「ユダヤの2支族とイスラエルの失われた10支族がいつか合流するとき、世界平和が実現する」という「エフライムの木」なる予言になったと云われている。
ここまで解明できれば実に面白い。
だが、この地域の特性上幾多の戦争に遭遇した。こうして、まず最初に北のイスラエルが鉄器文明開化したアッシリア帝国に滅ぼされ、「 アッシリア捕囚」となる(BC660年)。それから100年ほどしてついに南のユダもバビロニア帝国に滅ぼされ、「バビロン捕囚」となる(BC597年)。
このアッシリア捕囚となった北の10支族の消息は失われて、「失われた10支族」の物語として現在ユダヤ人の間では神話となっている。一方のバビロン捕囚となった部族のユダ民族の末裔はよく知られていて、これが現在の西洋のユダヤ人である。この番組を作った人々も、この南のユダ王国の末裔である現代ユダヤ人の人々(俗に、我々が”ユダヤ人”と呼ぶ人々)である。
実は、一方の「失われた10支族」を探索するという研究も古来から残された西洋のユダヤ人の間では3000年に渡って行われてきているらしい。
これが、最近では、日本人の祖先である、大陸から渡り大和民族となった人々ではないか、という研究が行われるようになってきた(「目白と駒込 」)。
かつて遺伝子による祖先の探索をするという番組で聾唖の女優忍足亜希子のミトコンドリア遺伝子で探索した結果、西アジアの民族にまったく同一の遺伝子を持つ女性がいたというものがあった。
このように、日本人の祖先の1つに北方アジア系というものがあるが、それが西アジア経由で伝来した民族である。日本人の遺伝子の70%は西洋の白人と共通、25%は北方モンゴル系と共通、わずか数%が南方モンゴル系と共通であると云われる(柘植の「反秀才論」)。
この事実と全く呼応するかのように、アッシリア捕囚(”失われた10支族”)の行く先は、西洋の歴史の中では、西アジアまでは明確な証拠が記録されているというのである。これら両者を内挿すれば、なんとなく日本へまで到達した経緯が想像できるような気がする。
カタカナは、古代ヘブル語とうり2つ。右から左へ記述する。日本の神話にも、現在の日本人の発音にはない、意味不明の不思議な音声のものが多く存在する。たとえば、”スメラ命”、”ウガヤフキアエズ”などとという名の人物が登場する。”スメラ命”は、古代サマリアやシュメール人のことではないか、と想像するのもうなずける。また、”侍(サムライ)”とは、古代シュメール語でシャムライ(=守る人)である(アイデルバーグ「日本書紀と日本語のユダヤ起源」徳間書店)。
最後に、実は現代ユダヤ人には、「エクソダス」よりもっと壮大な神話が残されているという。それは、「エフライムの木」という、予言というのか、神話というのか、物語である。「エフライムの木」は、2500年前にエゼキエル書のエゼキエルが書き残した予言と云われる。
”主の言葉が私に臨んだ。
「人の子よ、あなたは1本の木を取り、その上に
「ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために」
と書き、また1本の木を取って、その上に
「ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために」
と書け。
これはエフライムの木である。
あなたはこれらを合わせて、1つの木となせ。
これらはあなたの手で1つになる。。。
私はイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、
四方から彼らを集めて、その地にみちびき、
その地で彼らを1つの民となしてイスラエルの山々におらせ。。。
我がしもべダビデは彼らの王となる。。。”
実は、この中の”エフライム”というのは、古代イスラエル10支族の主要民族のエフライムのことである。
ちなみに、古代イスラエル10支族とは、アシェル、ナフタリ、ダン、マナセ、ゼブルン、イッサカル、ガド、エフライム、ルベン、モアブ(ケモシュ)のことであり、古代ユダヤ2支族とは、ベニヤミンとユダ(シメオン)。
これが、後に「ユダヤの2支族とイスラエルの失われた10支族がいつか合流するとき、世界平和が実現する」という「エフライムの木」なる予言になったと云われている。
ここまで解明できれば実に面白い。
2006/10/22のBlog
[ 12:16 ]
[ 社会 ]
写真:衝突する銀河
数学五輪の出場者、数学研究者になったのは1割以下
このアンケートは、文部科学省の文部科学省科学技術政策研究所が行ったという。
(「日本の”数学研究がピンチ”? 」
「研究者社会は”少数精鋭”に限る!」参照)
「日本数学オリンピック」に出場した中高生のうち実際に数学者になったものは、その1割にも満たないという現実が浮き彫りとなったというニュース。
1990-2005年の間に「日本数学オリンピック」に参加し、予選を通過した現在14-32歳の1063人を対象に調査し、296人(回収率28%)が回答を得たという。
その結果、現在数学研究者になっているものはたったの6.6%。その一方で、参加した現在の中高生が目指す将来の職業は、29.6%で数学者がトップということが分かった。
現実についた職業は、以下の通り。
民間企業や役所などの事務職で22.0%
医師20.9%、
情報処理技術者が11.0%。
そして最後に現在社会人になっているものの感想が紹介されている。「現在の職業は数学の知識を生かせる」と考える人は、半分以下の47.8%。 つまり、自分の持っている数学的才能を自分の職業で生かせると思っているのは半数以下。
こんな実態が浮き彫りとなった。
日本では「理系離れ」、「理科離れ」、「数学離れ」といろいろ話題になるが、その本当の理由はなかなか理解されていない。この理由は実に単純で、要するに「それでは食えない」ということである。もうちょっとカッコつけていえば、「理系分野には十分な職が用意されていない」ということである。ここが欧米とは大変異なっている。
欧米でも英米は、第一次、第二次世界大戦でも数学者が暗号解読などで顕著な実績を残し、戦争では数学者を無視して語れないという歴史を持っている。戦後の世界経済の中でも同様で、英米では多くの数学者が経済学を研究し数多くの金融商品を生み出す原動力となってきたという歴史がある。実際、ジョン・ナッシュ博士のように多くの数学者がノーベル経済学賞を受賞した。この筋では日本の確率論の数学者伊藤清博士はウォール街でもっとも有名な日本人とすらいわれるほどに経済学に貢献した数学者である。数多くの著名な賞を受賞している。
現代社会において物理化学も実に大切だが、コンピュータなど数理科学分野でも数学の力は欠かせない。経済学などはなおさらである。これが現実の世界なのである。
しかし、日本では数学者の待遇が悪く、またその意義もあまり知られていないために、理論物理学者同様に社会における存在意義が薄い。
にもかかわらず、大学の先生たちは逆に「数学オリンピック」やさまざまな科学オリンピックに出場することが中高生の科学離れや理科離れの阻止につながると考えるために、参加を促す。そうした努力は素晴らしいのだが、現実の社会における無理解とが相まって、結局才能ある中高生がその才能を発揮する職場に勤めることができないという事態を生むのである。
これがアンケートに見事に現れたということだろう。
数学五輪の出場者、数学研究者になったのは1割以下
このアンケートは、文部科学省の文部科学省科学技術政策研究所が行ったという。
(「日本の”数学研究がピンチ”? 」
「研究者社会は”少数精鋭”に限る!」参照)
「日本数学オリンピック」に出場した中高生のうち実際に数学者になったものは、その1割にも満たないという現実が浮き彫りとなったというニュース。
1990-2005年の間に「日本数学オリンピック」に参加し、予選を通過した現在14-32歳の1063人を対象に調査し、296人(回収率28%)が回答を得たという。
その結果、現在数学研究者になっているものはたったの6.6%。その一方で、参加した現在の中高生が目指す将来の職業は、29.6%で数学者がトップということが分かった。
現実についた職業は、以下の通り。
民間企業や役所などの事務職で22.0%
医師20.9%、
情報処理技術者が11.0%。
そして最後に現在社会人になっているものの感想が紹介されている。「現在の職業は数学の知識を生かせる」と考える人は、半分以下の47.8%。 つまり、自分の持っている数学的才能を自分の職業で生かせると思っているのは半数以下。
こんな実態が浮き彫りとなった。
日本では「理系離れ」、「理科離れ」、「数学離れ」といろいろ話題になるが、その本当の理由はなかなか理解されていない。この理由は実に単純で、要するに「それでは食えない」ということである。もうちょっとカッコつけていえば、「理系分野には十分な職が用意されていない」ということである。ここが欧米とは大変異なっている。
欧米でも英米は、第一次、第二次世界大戦でも数学者が暗号解読などで顕著な実績を残し、戦争では数学者を無視して語れないという歴史を持っている。戦後の世界経済の中でも同様で、英米では多くの数学者が経済学を研究し数多くの金融商品を生み出す原動力となってきたという歴史がある。実際、ジョン・ナッシュ博士のように多くの数学者がノーベル経済学賞を受賞した。この筋では日本の確率論の数学者伊藤清博士はウォール街でもっとも有名な日本人とすらいわれるほどに経済学に貢献した数学者である。数多くの著名な賞を受賞している。
現代社会において物理化学も実に大切だが、コンピュータなど数理科学分野でも数学の力は欠かせない。経済学などはなおさらである。これが現実の世界なのである。
しかし、日本では数学者の待遇が悪く、またその意義もあまり知られていないために、理論物理学者同様に社会における存在意義が薄い。
にもかかわらず、大学の先生たちは逆に「数学オリンピック」やさまざまな科学オリンピックに出場することが中高生の科学離れや理科離れの阻止につながると考えるために、参加を促す。そうした努力は素晴らしいのだが、現実の社会における無理解とが相まって、結局才能ある中高生がその才能を発揮する職場に勤めることができないという事態を生むのである。
これがアンケートに見事に現れたということだろう。
2006/10/20のBlog
[ 11:00 ]
[ テクノロジー ]
透明マント実現できる? 「見えなくする」理論確認
”透明人間”はSFの王道にある。いたずら心のある人間の一種の夢なのかも知れない。それゆえ、プレデターに出てくる未知のテクノロジーを持ったエイリアンも透明スーツを来ていた。
戦争では”見えない敵”と戦うことがいかに大変なことかよく知られている。そのため、レーダーに映らない戦闘機開発に欧米ではやっきになってきた。ステルス戦闘機はその代表格である。昔には、船のソナー(音波探知機)に映らない潜水艦開発というのもあった。
”映らない”、”見えない”ということは、探知しようとしているものが発する波を探知しているものの方に”反射しない”ことである。”反射しない”ためには、大きく分けて3つある。1つ目は”吸収する”こと。2つ目は”迂回させる”こと。3つ目は”透過させる”こと。
欧米では結構有名な研究者や科学者が戦時中になるとこういった防御技術を研究するという歴史がある。確か私の記憶では、第一次世界大戦の時にはアメリカのラングミュアがソナーの研究や”ソナーに見えない潜水艦”(透明潜水艦)の研究を行った。第二次世界大戦の時は、アメリカの学者たちが”レーダーに傍受されない飛行機”(透明飛行機)の研究を行った。(実は、こういった研究がベースになって、無反射波問題というものが研究されるようになり、後に非線形波動のソリトン理論につながった。だから一律に悪いというわけではない。)
こんなわけで欧米人が”透明”という時には、まず真っ先に戦争への応用ということが頭にある。そう見て間違いない。
今回の”透明人間”の研究は、私にはそういう目的が見え隠れしているように思うが、その辺を見事に”透明”に見えなくしているところが面白い。つまり、人間や物体を透明にする(見えなくする)という研究の軍事目的を見事に透明にする(見えなくする)ことに成功したということである。
もしこんなスーツが誕生すれば未来の戦争はまさにプレデターのような戦いになるだろう。
ある時、あなたが町を歩いていると、どういうわけか、だっだっだっだという足音だけが聞こえる。ふとそちらを見ると、足跡がザク、ザク、ザクと近づいてくる。何だと思って顔を上げると、いきなりタタタタタと機関銃照射で打たれあなたは死んだ。
人から見えない、人から隠れるというのには、やはり心理的に何か後ろめたい目的があるはずである。敵から逃れるために防御として使用するなら良いが、人を欺くための攻撃に用いるのであれば、それは非常に危険なものとなるだろう。
”透明人間”はSFの王道にある。いたずら心のある人間の一種の夢なのかも知れない。それゆえ、プレデターに出てくる未知のテクノロジーを持ったエイリアンも透明スーツを来ていた。
戦争では”見えない敵”と戦うことがいかに大変なことかよく知られている。そのため、レーダーに映らない戦闘機開発に欧米ではやっきになってきた。ステルス戦闘機はその代表格である。昔には、船のソナー(音波探知機)に映らない潜水艦開発というのもあった。
”映らない”、”見えない”ということは、探知しようとしているものが発する波を探知しているものの方に”反射しない”ことである。”反射しない”ためには、大きく分けて3つある。1つ目は”吸収する”こと。2つ目は”迂回させる”こと。3つ目は”透過させる”こと。
欧米では結構有名な研究者や科学者が戦時中になるとこういった防御技術を研究するという歴史がある。確か私の記憶では、第一次世界大戦の時にはアメリカのラングミュアがソナーの研究や”ソナーに見えない潜水艦”(透明潜水艦)の研究を行った。第二次世界大戦の時は、アメリカの学者たちが”レーダーに傍受されない飛行機”(透明飛行機)の研究を行った。(実は、こういった研究がベースになって、無反射波問題というものが研究されるようになり、後に非線形波動のソリトン理論につながった。だから一律に悪いというわけではない。)
こんなわけで欧米人が”透明”という時には、まず真っ先に戦争への応用ということが頭にある。そう見て間違いない。
今回の”透明人間”の研究は、私にはそういう目的が見え隠れしているように思うが、その辺を見事に”透明”に見えなくしているところが面白い。つまり、人間や物体を透明にする(見えなくする)という研究の軍事目的を見事に透明にする(見えなくする)ことに成功したということである。
もしこんなスーツが誕生すれば未来の戦争はまさにプレデターのような戦いになるだろう。
ある時、あなたが町を歩いていると、どういうわけか、だっだっだっだという足音だけが聞こえる。ふとそちらを見ると、足跡がザク、ザク、ザクと近づいてくる。何だと思って顔を上げると、いきなりタタタタタと機関銃照射で打たれあなたは死んだ。
人から見えない、人から隠れるというのには、やはり心理的に何か後ろめたい目的があるはずである。敵から逃れるために防御として使用するなら良いが、人を欺くための攻撃に用いるのであれば、それは非常に危険なものとなるだろう。
2006/10/18のBlog
[ 10:58 ]
[ 社会 ]
アメリカ、人口3億人突破 約40年で1億人急増
ついにアメリカの人口が3億人突破したという。
World POPClock Projection
によれば、世界の人口は現在”6,551,079,530”。
USA POPClock Projection
によれば、アメリカ合衆国の人口は現在”300,004,202”。これは時々刻々と”増加”中。
一方日本人の人口”統計”(人口時計ではない)によると、日本の人口は、”127,693,706”。これは時々刻々と”減少”中。
確か私の記憶では、日本が第二次世界大戦に突入した1930年代後半、アメリカの人口は8000万人で日本の人口が当時のイギリスと同じで6000万人くらいではなかったか。定かではないのでまた後々調べてみたい。(朝日新聞記事には、アメリカの人口は1915年に1億人、67年に2億人とあるので、1930年代にはすでに1億数千万人に到達していたのかもしれない。)ちなみに江戸時代の日本の人口は4000万人程度だったと記憶している。
いずれにせよ、明治維新以降、日本は富国強兵で生めよ増やせよ路線でやってきたため、第二次世界大戦前夜では日米の人口はだいたい似たり寄ったりであったということである。
それが、戦後60年の間にアメリカは3億、日本は1億と差が開き、約3倍の人口差となったわけである。アメリカは急勾配で急上昇中、日本は急勾配で急降下中。
これまで日本は世界で2位の経済大国、人口経済ともにアメリカの1/2の規模と自称してきたが、どう考えてもこれからは差がつく一方かも知れない。一方のEUも「ヨーロッパ合衆国」の様相を呈してきたため、アメリカ合衆国と同じようにかなりの人口を持つ。そんなわけで、経済において今後はさらに厳しい競争を強いられることだろう。
私もつい最近まで日米の教育問題や科学問題を論じる際に1970年代的に論じて来た。
つまり、アメリカには日本よりはるかに多く、日本の人口に匹敵するアメリカの人口の約半分の1億人の高等教育を受けた人々がいる。仮に日米の教育が同じくらいのレベルとすれば、日本の平均以上の教育を受けた者が1億人もいる。日本にはそれがせいぜい1000万人程度だから、アメリカには日本の10倍程度の高等教育を受けた人がいる、というような論じかたをして来た。
しかしそれも今や昔の話。今日からは約2億の高等教育を受けた人々がいて、アメリカには日本の20倍程度の高等教育を受けた人がいる、というように変えなくてはならないのだろう。
これは単純に見れば、こういうことだ。
ある分野の専門家が日本で1人で研究しているとすれば、アメリカでは同じ問題を20人で研究しているということである。アーサー・コーンバーグ博士がアメリカでは「研究者数が膨大で、至る所に“はみ出し者”がいる」という理由も頷ける。(ノーベル賞大国アメリカ )
”3人寄れば文殊の知恵”というが、20人寄れば何と言うのか知らないが、これではとても研究競争では勝ち目がない。あるとすれば、イギリスや韓国のように徹底した天才教育、天才発掘しかない。1人で20人でも何十人でも束になっても勝てないというような天才を見い出す他はない。
また見過ごされがちなことだが、人口増大で一番気になるところは、その国で下層階級や犯罪者が増えた場合に国の外で戦争を起こしてそうしたものどもを軍人として使役するという現実である。アメリカの人口が増えればそれに応じて軍事大国なわけだから諸外国に軍事派兵してくることは自然の成りゆきだろう。
つまり、これまで2億しかいなかったものが、今は3億もいるのだから1億は軍事的に消耗してもかまわないという考えも出てくるだろうということである。今後は中東へもアジアへもアフリカへも中南米へもどんどんアメリカは世界制覇に向けて軍事派遣してくるだろう。
かつてのローマ帝国がそうであったように、アメリカが自由の名の下にどんどん海外派兵してくる時代に入ったと私は見ている。
それゆえ、アメリカが今一番やりたいことは共産主義の中国とロシアのまっただ中にある北朝鮮を爆撃して、そこに米軍基地を作ることだろうと私は考えている。したがって、かつてルーズベルト大統領のアメリカが日本がアメリカ領土を侵攻(真珠湾攻撃)してくるのを待っていたように、あるいは、最近ではブッシュ大統領がアフガン人がニューヨークテロを起こすのを待っていたように、現在では北朝鮮が何かしでかすのをジッと待っているのだろう。そのための準備を今着々と進めているのだろうと想像できる。
どう考えてもアメリカは日本人と違い”拉致問題”などという個別の問題にはそれほど関心がなく、もっと本質的な大きな問題を頭に計画しているはずである。したがって、北朝鮮に米軍基地を作り、北朝鮮を根こそぎ支配することがその最大の目的なのであって、拉致問題などその結果解決できる附随問題なのである。アメリカはこういう考え方をする。
アメリカにとって一番良いことは、北朝鮮がいろいろ原子炉や原爆施設を作ってくれ、ある程度の近代化した設備が北朝鮮内にできれば、後々それらを全部アメリカの軍事基地に使えるということである。おそらくこれを待っている。
そして、今度は中国とロシアと直接面したところにアメリカ軍基地を作り、そこに中国人やロシア人を招き入れて、アメリカ生活を満喫させ、中国とロシアをアメリカ化するというものだろう。
いずれにせよ、こうしたことを行うに足る十二分の人口が今のアメリカには存在するのである。
ついにアメリカの人口が3億人突破したという。
World POPClock Projection
によれば、世界の人口は現在”6,551,079,530”。
USA POPClock Projection
によれば、アメリカ合衆国の人口は現在”300,004,202”。これは時々刻々と”増加”中。
一方日本人の人口”統計”(人口時計ではない)によると、日本の人口は、”127,693,706”。これは時々刻々と”減少”中。
確か私の記憶では、日本が第二次世界大戦に突入した1930年代後半、アメリカの人口は8000万人で日本の人口が当時のイギリスと同じで6000万人くらいではなかったか。定かではないのでまた後々調べてみたい。(朝日新聞記事には、アメリカの人口は1915年に1億人、67年に2億人とあるので、1930年代にはすでに1億数千万人に到達していたのかもしれない。)ちなみに江戸時代の日本の人口は4000万人程度だったと記憶している。
いずれにせよ、明治維新以降、日本は富国強兵で生めよ増やせよ路線でやってきたため、第二次世界大戦前夜では日米の人口はだいたい似たり寄ったりであったということである。
それが、戦後60年の間にアメリカは3億、日本は1億と差が開き、約3倍の人口差となったわけである。アメリカは急勾配で急上昇中、日本は急勾配で急降下中。
これまで日本は世界で2位の経済大国、人口経済ともにアメリカの1/2の規模と自称してきたが、どう考えてもこれからは差がつく一方かも知れない。一方のEUも「ヨーロッパ合衆国」の様相を呈してきたため、アメリカ合衆国と同じようにかなりの人口を持つ。そんなわけで、経済において今後はさらに厳しい競争を強いられることだろう。
私もつい最近まで日米の教育問題や科学問題を論じる際に1970年代的に論じて来た。
つまり、アメリカには日本よりはるかに多く、日本の人口に匹敵するアメリカの人口の約半分の1億人の高等教育を受けた人々がいる。仮に日米の教育が同じくらいのレベルとすれば、日本の平均以上の教育を受けた者が1億人もいる。日本にはそれがせいぜい1000万人程度だから、アメリカには日本の10倍程度の高等教育を受けた人がいる、というような論じかたをして来た。
しかしそれも今や昔の話。今日からは約2億の高等教育を受けた人々がいて、アメリカには日本の20倍程度の高等教育を受けた人がいる、というように変えなくてはならないのだろう。
これは単純に見れば、こういうことだ。
ある分野の専門家が日本で1人で研究しているとすれば、アメリカでは同じ問題を20人で研究しているということである。アーサー・コーンバーグ博士がアメリカでは「研究者数が膨大で、至る所に“はみ出し者”がいる」という理由も頷ける。(ノーベル賞大国アメリカ )
”3人寄れば文殊の知恵”というが、20人寄れば何と言うのか知らないが、これではとても研究競争では勝ち目がない。あるとすれば、イギリスや韓国のように徹底した天才教育、天才発掘しかない。1人で20人でも何十人でも束になっても勝てないというような天才を見い出す他はない。
また見過ごされがちなことだが、人口増大で一番気になるところは、その国で下層階級や犯罪者が増えた場合に国の外で戦争を起こしてそうしたものどもを軍人として使役するという現実である。アメリカの人口が増えればそれに応じて軍事大国なわけだから諸外国に軍事派兵してくることは自然の成りゆきだろう。
つまり、これまで2億しかいなかったものが、今は3億もいるのだから1億は軍事的に消耗してもかまわないという考えも出てくるだろうということである。今後は中東へもアジアへもアフリカへも中南米へもどんどんアメリカは世界制覇に向けて軍事派遣してくるだろう。
かつてのローマ帝国がそうであったように、アメリカが自由の名の下にどんどん海外派兵してくる時代に入ったと私は見ている。
それゆえ、アメリカが今一番やりたいことは共産主義の中国とロシアのまっただ中にある北朝鮮を爆撃して、そこに米軍基地を作ることだろうと私は考えている。したがって、かつてルーズベルト大統領のアメリカが日本がアメリカ領土を侵攻(真珠湾攻撃)してくるのを待っていたように、あるいは、最近ではブッシュ大統領がアフガン人がニューヨークテロを起こすのを待っていたように、現在では北朝鮮が何かしでかすのをジッと待っているのだろう。そのための準備を今着々と進めているのだろうと想像できる。
どう考えてもアメリカは日本人と違い”拉致問題”などという個別の問題にはそれほど関心がなく、もっと本質的な大きな問題を頭に計画しているはずである。したがって、北朝鮮に米軍基地を作り、北朝鮮を根こそぎ支配することがその最大の目的なのであって、拉致問題などその結果解決できる附随問題なのである。アメリカはこういう考え方をする。
アメリカにとって一番良いことは、北朝鮮がいろいろ原子炉や原爆施設を作ってくれ、ある程度の近代化した設備が北朝鮮内にできれば、後々それらを全部アメリカの軍事基地に使えるということである。おそらくこれを待っている。
そして、今度は中国とロシアと直接面したところにアメリカ軍基地を作り、そこに中国人やロシア人を招き入れて、アメリカ生活を満喫させ、中国とロシアをアメリカ化するというものだろう。
いずれにせよ、こうしたことを行うに足る十二分の人口が今のアメリカには存在するのである。
[ 09:23 ]
[ テクノロジー ]
探査船ちきゅう、試験掘削中止
これによると、
”海洋研究開発機構は17日、地球深部探査船「ちきゅう」が9月から続けていた青森県下北半島沖での試験掘削を中止すると発表した。台風なみの低気圧が通過した今月7日、海底に固定した装置と船から垂らした掘削用パイプを切り離す緊急避難の作業が間に合わず、両者をつなぐ棒が大きく曲がって、交換修理が必要になったためだ。”
とあるように、地球深部探査船「ちきゅう」が地球最深部到達を前に早速”頓挫”したようだ。
しばらく前に私は「「日本沈没」、「ちきゅう」、そして在日米軍 」というものを書いていた。
これに書いたように、映画「日本沈没」における”エース”は、地球深部探査船「ちきゅう」であった。しかし、私は巨大な津波を前にして幾多の掘削船が無傷ですむはずはなく、絶対沈没するはずだと考え、こう書いていた。
”たとえば、掘削船「ちきゅう」などがプレートを剥がすために爆弾をしかけるための掘削作業中に大地震とそれによる津波が日本列島を襲った。しかし、掘削船群は無傷であった。常識的には、掘削船も沈没するだろう。”
奇しくも私の予想が当たり、今回は津波ではなかったが、発達した台風程度でも見事に沈没しそうになったわけだ。
また、私はこうも書いていた。
”最後に、掘削船「ちきゅう」に関して言えば、これは(私の観点からすれば)、大問題の中にある。この「ちきゅう」は、そもそも、地球物理学のアカデミックな問題を解決するために作られたのだが、現在は世界中の資源探査、つまり、鉱物資源や石油資源探査のために出向いていて、ちっともマントル内部まで掘削なんかしていないのだ。”
これも大当たり。結局、この掘削船の目的である「地球最深部到達」がかなわず、沈没寸前で逃げ帰ったが、大きなダメージを負ってもはや使い物にならないということだろう。
これは、かつての第二次世界大戦の時に建造された「戦艦大和」や「戦艦武蔵」を思い起こす。どちらもたいした貢献する前に”見通しの甘さ”から活躍する前に沈没したからである。
こんなわけで、地球深部探査船「ちきゅう」に関して私が心配していたことがそのまま起こってしまったようである。たいへん”遺憾な”(=残念な)ことである。
最初の記事に関してはこんなものだが、実は前の話とは別に私はもう1つの心配をしていたのである。それは、こんなものだ。
仮に地球深部探査船「ちきゅう」の計画が全部成功して無事に地球の地殻岩石を全部カラム(筒)に取って帰って来たとしよう。
ではどうなるか?
実は、ここで問題が起きる。
以前私は「ノーベル賞のメッカ、”カリフォルニア”に学べ! 」というものを書いていた。そこでマイケル・ボウルター、"Extinction: Evolution and the End of Man"(日本語訳、「人類は絶滅する化石が明かす「残された時間」」、朝日新聞社)という本を紹介した。
その本に良く書かれているのだが、地殻カラムに入っている地殻岩石の”年代測定”にはかなりの経験と知識の集積が要求される。そのため、カラムを得てもそれから正確な年代測定するにはその筋の専門家が必要となる。欧米の石油会社は20世紀に入ってからすでに長い間世界中の地殻を掘削してきた。それゆえ世界中の地殻の入った無数のカラムを持っているという。ところが、石油会社はどこに石油がありそうかだけに関心があり、石油がある地殻はどういう地層であるかまでは分からない。ましてや正確な地層年代の測定の仕方が分からない。
結局、石油会社はその本の著者であるボウルター博士のような「古生物学者」に年代測定を”頼む”ことになった。そうなると、せっかく会社が得た現物から会社の外の大学にいる古生物学者が一番”美味しいところ”をデータとして全部得られたということである。
私が地球掘削船「ちきゅう」の計画が出た時から最初から何となく心配していたのは、その地殻コラムを分析できる専門家が日本にいるのかということである。いれば良いがいなければ、結局欧米のボウルター博士のような年代測定の専門家に仕事を回さなくてはならない。そして一番大事なデータを全部欧米人に無償で提供することになる。そういう心配であった。
まあ、それでも世界の科学に貢献できるならまだ良いだろう。
しかし、実際にはアメリカやイギリスには無数の掘削船がありすでに物凄い数のデータを持っている。映画「日本沈没」でも日本近海に世界中から掘削船が駆け付けて爆弾を装着するシーンがあった。これほどまでにたくさんの掘削船が存在する中で、日本の掘削船「ちきゅう」が”Nプラス1”になってどれほどの活躍ができるか、といえばそれはあまりたいしたことにはならないだろうと考えられる。
むしろ”オンリーワン”の立場を目指して「ちきゅう」は最深部到達のみを目指して初めてその意味があるのだと私は見ている。
そのもっとも大事な目的をいきなり目指して今回大失敗し、それ以後は恐くて地球上に無数にある石油掘削船と同じことをインド洋で行うという。おそらく、これでは結局、最深部到達を前に船が老朽化して一番の目標は実現できないということになるだろう。
余計なことは考えず、ただひたすら”地球最深部到達”のみを目指すべきだと私は考えているのだが。
これによると、
”海洋研究開発機構は17日、地球深部探査船「ちきゅう」が9月から続けていた青森県下北半島沖での試験掘削を中止すると発表した。台風なみの低気圧が通過した今月7日、海底に固定した装置と船から垂らした掘削用パイプを切り離す緊急避難の作業が間に合わず、両者をつなぐ棒が大きく曲がって、交換修理が必要になったためだ。”
とあるように、地球深部探査船「ちきゅう」が地球最深部到達を前に早速”頓挫”したようだ。
しばらく前に私は「「日本沈没」、「ちきゅう」、そして在日米軍 」というものを書いていた。
これに書いたように、映画「日本沈没」における”エース”は、地球深部探査船「ちきゅう」であった。しかし、私は巨大な津波を前にして幾多の掘削船が無傷ですむはずはなく、絶対沈没するはずだと考え、こう書いていた。
”たとえば、掘削船「ちきゅう」などがプレートを剥がすために爆弾をしかけるための掘削作業中に大地震とそれによる津波が日本列島を襲った。しかし、掘削船群は無傷であった。常識的には、掘削船も沈没するだろう。”
奇しくも私の予想が当たり、今回は津波ではなかったが、発達した台風程度でも見事に沈没しそうになったわけだ。
また、私はこうも書いていた。
”最後に、掘削船「ちきゅう」に関して言えば、これは(私の観点からすれば)、大問題の中にある。この「ちきゅう」は、そもそも、地球物理学のアカデミックな問題を解決するために作られたのだが、現在は世界中の資源探査、つまり、鉱物資源や石油資源探査のために出向いていて、ちっともマントル内部まで掘削なんかしていないのだ。”
これも大当たり。結局、この掘削船の目的である「地球最深部到達」がかなわず、沈没寸前で逃げ帰ったが、大きなダメージを負ってもはや使い物にならないということだろう。
これは、かつての第二次世界大戦の時に建造された「戦艦大和」や「戦艦武蔵」を思い起こす。どちらもたいした貢献する前に”見通しの甘さ”から活躍する前に沈没したからである。
こんなわけで、地球深部探査船「ちきゅう」に関して私が心配していたことがそのまま起こってしまったようである。たいへん”遺憾な”(=残念な)ことである。
最初の記事に関してはこんなものだが、実は前の話とは別に私はもう1つの心配をしていたのである。それは、こんなものだ。
仮に地球深部探査船「ちきゅう」の計画が全部成功して無事に地球の地殻岩石を全部カラム(筒)に取って帰って来たとしよう。
ではどうなるか?
実は、ここで問題が起きる。
以前私は「ノーベル賞のメッカ、”カリフォルニア”に学べ! 」というものを書いていた。そこでマイケル・ボウルター、"Extinction: Evolution and the End of Man"(日本語訳、「人類は絶滅する化石が明かす「残された時間」」、朝日新聞社)という本を紹介した。
その本に良く書かれているのだが、地殻カラムに入っている地殻岩石の”年代測定”にはかなりの経験と知識の集積が要求される。そのため、カラムを得てもそれから正確な年代測定するにはその筋の専門家が必要となる。欧米の石油会社は20世紀に入ってからすでに長い間世界中の地殻を掘削してきた。それゆえ世界中の地殻の入った無数のカラムを持っているという。ところが、石油会社はどこに石油がありそうかだけに関心があり、石油がある地殻はどういう地層であるかまでは分からない。ましてや正確な地層年代の測定の仕方が分からない。
結局、石油会社はその本の著者であるボウルター博士のような「古生物学者」に年代測定を”頼む”ことになった。そうなると、せっかく会社が得た現物から会社の外の大学にいる古生物学者が一番”美味しいところ”をデータとして全部得られたということである。
私が地球掘削船「ちきゅう」の計画が出た時から最初から何となく心配していたのは、その地殻コラムを分析できる専門家が日本にいるのかということである。いれば良いがいなければ、結局欧米のボウルター博士のような年代測定の専門家に仕事を回さなくてはならない。そして一番大事なデータを全部欧米人に無償で提供することになる。そういう心配であった。
まあ、それでも世界の科学に貢献できるならまだ良いだろう。
しかし、実際にはアメリカやイギリスには無数の掘削船がありすでに物凄い数のデータを持っている。映画「日本沈没」でも日本近海に世界中から掘削船が駆け付けて爆弾を装着するシーンがあった。これほどまでにたくさんの掘削船が存在する中で、日本の掘削船「ちきゅう」が”Nプラス1”になってどれほどの活躍ができるか、といえばそれはあまりたいしたことにはならないだろうと考えられる。
むしろ”オンリーワン”の立場を目指して「ちきゅう」は最深部到達のみを目指して初めてその意味があるのだと私は見ている。
そのもっとも大事な目的をいきなり目指して今回大失敗し、それ以後は恐くて地球上に無数にある石油掘削船と同じことをインド洋で行うという。おそらく、これでは結局、最深部到達を前に船が老朽化して一番の目標は実現できないということになるだろう。
余計なことは考えず、ただひたすら”地球最深部到達”のみを目指すべきだと私は考えているのだが。
2006/10/17のBlog
[ 21:35 ]
[ オシムの言葉 ]
オシム流を熱く伝授 S級指導者講座で講義
オシム監督が、公認S級コーチ養成講習会で講議。
「監督は試合前の控室で、一流の映画監督や演出家のように雰囲気をつくらないといけない」
「バルセロナの水準まで日本のサッカーが届くには、時間、運、多くの努力が必要。大事なことは何ができて何ができないかを把握すること」
「サッカーにはリスクを冒す余地が残っている。どの方法で(指導するか)ということにレシピはない」
サッカーU21が練習 平山、水本ら汗
一方、オシム監督の下で”オシム流”の指導を受けたU-21の反町監督はこういう。
「課題はたくさんある。戦術を含め、すべての面でたくましくならないといけない」
しかし、「”オシム神話”崩壊 」に紹介したように、現実には学校サッカー部やユース世代の間で、これまでにない、将来の日本サッカーの根幹を揺るがしかねない新しい問題が生じてきている。にもかかわらず、日本サッカーの上層部では、こういった”脳天気”では先が思いやられる。
いずれにせよ、Jリーグができて10数年、Jユースができて約10年。この間に日本の学校サッカーの中では、”Jユースに目をつけられた”才能あるサッカー選手とそうではない普通のサッカー選手の間でかなり深刻な軋轢を生み出しつつある。
今では、我々の時代のように上手な選手と下手くそな選手が同じチームで仲良くサッカーをするということができなくなりつつあるのだ。
サッカーの裾野を広げることは大事なのだが、やはりそこで不健全な形で広げたのでは将来に深刻な禍根を残しかねない。
この問題はまだほとんど気付かれていないが、重大な問題である。
オシム監督が、公認S級コーチ養成講習会で講議。
「監督は試合前の控室で、一流の映画監督や演出家のように雰囲気をつくらないといけない」
「バルセロナの水準まで日本のサッカーが届くには、時間、運、多くの努力が必要。大事なことは何ができて何ができないかを把握すること」
「サッカーにはリスクを冒す余地が残っている。どの方法で(指導するか)ということにレシピはない」
サッカーU21が練習 平山、水本ら汗
一方、オシム監督の下で”オシム流”の指導を受けたU-21の反町監督はこういう。
「課題はたくさんある。戦術を含め、すべての面でたくましくならないといけない」
しかし、「”オシム神話”崩壊 」に紹介したように、現実には学校サッカー部やユース世代の間で、これまでにない、将来の日本サッカーの根幹を揺るがしかねない新しい問題が生じてきている。にもかかわらず、日本サッカーの上層部では、こういった”脳天気”では先が思いやられる。
いずれにせよ、Jリーグができて10数年、Jユースができて約10年。この間に日本の学校サッカーの中では、”Jユースに目をつけられた”才能あるサッカー選手とそうではない普通のサッカー選手の間でかなり深刻な軋轢を生み出しつつある。
今では、我々の時代のように上手な選手と下手くそな選手が同じチームで仲良くサッカーをするということができなくなりつつあるのだ。
サッカーの裾野を広げることは大事なのだが、やはりそこで不健全な形で広げたのでは将来に深刻な禍根を残しかねない。
この問題はまだほとんど気付かれていないが、重大な問題である。
2006/10/15のBlog
[ 22:09 ]
[ 政治・経済 ]
旧大蔵・財務幹部ら23人、消費者金融5社に天下り
「ノーベル賞大国アメリカ 」
にも書いたように、日本という国は、将来ノーベル賞につながるというような既成のアイデアや概念を撃ち破る”はみ出し者”が実に存在しにくい国である。常識にとらわれず、型破りな研究者が将来の人類の大きな財産を生み出して来ているのだが、この国ではこうした貢献が評価されることはまずない。
本当にノーベル賞でも取れば、それは大向こう(欧米人)に評価されたというふうに日本人が解釈して、いくらその人物が風変わりで異端の人物であったとしても、逆にそれはその人の余裕であるかのように見なしてしまい、その人を”体制の上座”に置きたがる。こういう強い傾向がある。
そのため、”型破りな研究者”や”はみ出し者”が存在する場はまずないのが現実である。だから、こういった”はみ出し者”たちは本当に研究の場からはみ出してしまい、研究者とは別の存在に変わり果ててしまうのが常である。そうして結局はみ出し者は研究からはみ出て研究できなくなってしまうのである。だから、日本では”はみ出し者”が将来のノーベル賞にまで”昇華”することはまずない。
ところが、世界のために”はみ出した者”は極めて厳しい現実を思い知らされる世界で、最初の記事にあるように、逆に仲間うちのために”はみ出さない者”は特別に甘い汁を吸い続けることができるというのが日本の伝統、お家芸である。
このことを見事に証明するかのように、「大手消費者金融5社に、業界を監督していた旧大蔵省と財務省の官僚OB23人が役員や顧問として天下り、うち4社に5人が現在も在籍していることがわかった」という。
明らかに、日本という国の将来や発展のためには、”はみ出し者”を食わしてやった方がはるかに効果的であるのに、目先の得にばかり目が行くために、”はみ出さない者”を優遇するというのである。
官僚となり、粛々と業務をこなし引退、監督官庁の官僚OBとして大人しくしていれば、関係業種の方から”しかるべきポスト”が用意される。官僚機構と銀行とのパイプ役として「監督官庁の天下りを受け入れることでパイプをつなぎ、銀行から安定的に融資を引き出せた」というのである。
それゆえ、官僚というものは、”はみ出さない者”でなくてはならない。
実は、日本ではこういう感性を持ったものたちが科学研究を操っているのである。つまり、”はみ出さない者”、あるいは(天下りのためには)”絶対にはみ出してはいけないと思っている者”が、”はみ出し者”、あるいは(研究のためには)”絶対にはみ出さなくてはならないと思っている者”を支援する立場に就くのである。
果たしてこれで両者の考え方が理解し合えるのか。といえば、それはたぶん100%不可能であろうと私は考えている。簡単に言えば、人種が違うからである。
”型破りな”、”はみ出した”アイデアや概念や事実を生み出そうという者たちを”杓子定規な”、”はみ出さない”アイデアや概念や事実を尊ぶ者のたちが支援することや良き理解者となるということはあり得ないはずだからだ。
この現実の下で、”はみ出さない”官僚たちが「今世紀前半で30のノーベル賞を取る」(=「今世紀前半で30人の”はみ出し者”を出す」)と言ったのだから実に驚きの論理である。
この”悲しむべき”現実が日本に置かれた科学者や研究者の宿命なのである。
「ノーベル賞大国アメリカ 」
にも書いたように、日本という国は、将来ノーベル賞につながるというような既成のアイデアや概念を撃ち破る”はみ出し者”が実に存在しにくい国である。常識にとらわれず、型破りな研究者が将来の人類の大きな財産を生み出して来ているのだが、この国ではこうした貢献が評価されることはまずない。
本当にノーベル賞でも取れば、それは大向こう(欧米人)に評価されたというふうに日本人が解釈して、いくらその人物が風変わりで異端の人物であったとしても、逆にそれはその人の余裕であるかのように見なしてしまい、その人を”体制の上座”に置きたがる。こういう強い傾向がある。
そのため、”型破りな研究者”や”はみ出し者”が存在する場はまずないのが現実である。だから、こういった”はみ出し者”たちは本当に研究の場からはみ出してしまい、研究者とは別の存在に変わり果ててしまうのが常である。そうして結局はみ出し者は研究からはみ出て研究できなくなってしまうのである。だから、日本では”はみ出し者”が将来のノーベル賞にまで”昇華”することはまずない。
ところが、世界のために”はみ出した者”は極めて厳しい現実を思い知らされる世界で、最初の記事にあるように、逆に仲間うちのために”はみ出さない者”は特別に甘い汁を吸い続けることができるというのが日本の伝統、お家芸である。
このことを見事に証明するかのように、「大手消費者金融5社に、業界を監督していた旧大蔵省と財務省の官僚OB23人が役員や顧問として天下り、うち4社に5人が現在も在籍していることがわかった」という。
明らかに、日本という国の将来や発展のためには、”はみ出し者”を食わしてやった方がはるかに効果的であるのに、目先の得にばかり目が行くために、”はみ出さない者”を優遇するというのである。
官僚となり、粛々と業務をこなし引退、監督官庁の官僚OBとして大人しくしていれば、関係業種の方から”しかるべきポスト”が用意される。官僚機構と銀行とのパイプ役として「監督官庁の天下りを受け入れることでパイプをつなぎ、銀行から安定的に融資を引き出せた」というのである。
それゆえ、官僚というものは、”はみ出さない者”でなくてはならない。
実は、日本ではこういう感性を持ったものたちが科学研究を操っているのである。つまり、”はみ出さない者”、あるいは(天下りのためには)”絶対にはみ出してはいけないと思っている者”が、”はみ出し者”、あるいは(研究のためには)”絶対にはみ出さなくてはならないと思っている者”を支援する立場に就くのである。
果たしてこれで両者の考え方が理解し合えるのか。といえば、それはたぶん100%不可能であろうと私は考えている。簡単に言えば、人種が違うからである。
”型破りな”、”はみ出した”アイデアや概念や事実を生み出そうという者たちを”杓子定規な”、”はみ出さない”アイデアや概念や事実を尊ぶ者のたちが支援することや良き理解者となるということはあり得ないはずだからだ。
この現実の下で、”はみ出さない”官僚たちが「今世紀前半で30のノーベル賞を取る」(=「今世紀前半で30人の”はみ出し者”を出す」)と言ったのだから実に驚きの論理である。
この”悲しむべき”現実が日本に置かれた科学者や研究者の宿命なのである。
2006/10/14のBlog
[ 22:31 ]
[ 科学 ]
ノーベル賞自然科学系を米国独占
今年のノーベル賞の自然科学はアメリカが23年ぶりで独占。科学の新世紀の栄華に酔った。
その理由を日本のマスコミが聞いた。
スウェーデン王立科学アカデミー幹部の談話:
「(アメリカが)資金と野心の両面で欧州に勝っている」
化学賞に輝いたロジャー・D・コーンバーグ米スタンフォード大教授の父で、自身も59年に生理学・医学賞を受けたアーサー・コーンバーグ博士:
「研究者数が膨大で、至る所に“はみ出し者”がいる」
シカゴ大の南部陽一郎名誉教授:
「研究環境の良さだけでなく、当時の日本との生活水準の違いも驚異だった」
とはいうものの、図表を見れば、圧倒的にアメリカ、イギリス、ドイツが多いのだが、この数は”ほぼユダヤ系学者の数に比例している”と見られなくもない。単純に言えば、「学問を文化的伝統に持つ人種の数に比例している」ということだろう。
ところで、「日ユ同祖論」(=日本人とユダヤ人は先祖が共通である=失われたユダヤ10部族が天皇家の祖先である)説というものが、日本には古くからある。これは、12部族で構成されていた古代ユダヤ人民族のうち10部族がアジアに散って失われてしまったのだが、そのうち何部族かが日本に辿り着き日本人(大和民族)の先祖になったという説である。この中にガド族というのが後の天皇家を築き、ミカド(帝)と呼ぶようになったという。
ユダヤ人の伝統的特徴として、ユダヤ教のラビ(=ユダヤ教の神父のようなもの)は古来から学者であるが、それと非常に似て、天皇家も昭和天皇から現在に至まで学者家系である。秋篠宮も生物学者である。神道の最上位の祭司という宗教家が学者であるというのも天皇家とユダヤ人は似たところがある。
こんなところからもその国にどれほどユダヤ人が住んでいるかがその国のノーベル賞学者に比例するというのもうなずける。当然日本にはユダヤ人はまれにしか住んでいないのだからノーベル賞学者も少なくなる。
さて、翻って日本の話に戻れば、日本政府は2001年に、「今世紀前半に30人以上」という数値目標を掲げたものの、4年連続でゼロ。実に幸先悪い出足となっている。毎年、各分野で何人かの”候補”が取りざたされるが、毎年”残念会”に終わっている。
では、どうやって将来のノーベル賞候補を探せば良いかというと、これは簡単で各分野に”ノーベル賞の前哨戦”と目される賞があり、これを見れば良いのである。
例えば、生理医学賞であれば、「ラスカー賞」、物理科学であれば「フランクリンメダル」などがある。
こういった賞の受賞者を見れば、だれがノーベル賞の”ウェイティングリスト”に載っているか、分かるのである。
ところが、そうやってみると、確かに少なからずの日本人が受賞をしているのだが、その何倍もの欧米人学者がおり、これでは日本人に賞が回ってくるまでには非常に時間がかかりそうだということが分かる。こういうわけで、いつも日本のマスコミや日本人の期待を裏切る結果となるのである。
果たして日本という国にアーサー・コーンバーグ博士が言うところの”はみ出し者”が研究者として食っていけるだけの”度量の広さ”や”ゆとり”があるのだろうか。
日本の”はみ出し者”研究者である私自身の経験からもこれは極めて困難であると思う。
また、若者を育てる立場にある日本の科学教育関係者や教科書の執筆者たちの傾向を見ても、いつも何が一番正統的な考えかというようなことばかりにやっきになっていて、正統的なものから”はみ出し”た異端的な考えには冷淡である。日本で言う「良い教科書」、「良い本」とは、権威ある正統的な知識が豊富に詰まってこれ1冊あればその分野の全部が理解できるというような本である。それゆえ、シュレディンガーの「生命とは何か?」というような極めて賛否両論ある”異端の名著”のような本が出版されることは少ない。そんな時は、日本ではたいていは「トンデモ」などと言われる始末である。
こういった度量の狭い国民性を持つ国で今後2、30年でノーベル賞を毎年1つ取るというのは、非常に困難であると言えるだろう。まさしく「絵に書いた餅」、「机上の空論」である。もしそれができるとすれば、アメリカが戦乱の地にでもなって大量のユダヤ系学者が日本に移民するというようなSFのようなことでもない限り無理であろう。しかし、これとて、とてもあり得ないことである。
まあ、10年に1人で十分満足すべきだろう。あるいは、イグ・ノーベル賞で満足すべきだろう。
今年のノーベル賞の自然科学はアメリカが23年ぶりで独占。科学の新世紀の栄華に酔った。
その理由を日本のマスコミが聞いた。
スウェーデン王立科学アカデミー幹部の談話:
「(アメリカが)資金と野心の両面で欧州に勝っている」
化学賞に輝いたロジャー・D・コーンバーグ米スタンフォード大教授の父で、自身も59年に生理学・医学賞を受けたアーサー・コーンバーグ博士:
「研究者数が膨大で、至る所に“はみ出し者”がいる」
シカゴ大の南部陽一郎名誉教授:
「研究環境の良さだけでなく、当時の日本との生活水準の違いも驚異だった」
とはいうものの、図表を見れば、圧倒的にアメリカ、イギリス、ドイツが多いのだが、この数は”ほぼユダヤ系学者の数に比例している”と見られなくもない。単純に言えば、「学問を文化的伝統に持つ人種の数に比例している」ということだろう。
ところで、「日ユ同祖論」(=日本人とユダヤ人は先祖が共通である=失われたユダヤ10部族が天皇家の祖先である)説というものが、日本には古くからある。これは、12部族で構成されていた古代ユダヤ人民族のうち10部族がアジアに散って失われてしまったのだが、そのうち何部族かが日本に辿り着き日本人(大和民族)の先祖になったという説である。この中にガド族というのが後の天皇家を築き、ミカド(帝)と呼ぶようになったという。
ユダヤ人の伝統的特徴として、ユダヤ教のラビ(=ユダヤ教の神父のようなもの)は古来から学者であるが、それと非常に似て、天皇家も昭和天皇から現在に至まで学者家系である。秋篠宮も生物学者である。神道の最上位の祭司という宗教家が学者であるというのも天皇家とユダヤ人は似たところがある。
こんなところからもその国にどれほどユダヤ人が住んでいるかがその国のノーベル賞学者に比例するというのもうなずける。当然日本にはユダヤ人はまれにしか住んでいないのだからノーベル賞学者も少なくなる。
さて、翻って日本の話に戻れば、日本政府は2001年に、「今世紀前半に30人以上」という数値目標を掲げたものの、4年連続でゼロ。実に幸先悪い出足となっている。毎年、各分野で何人かの”候補”が取りざたされるが、毎年”残念会”に終わっている。
では、どうやって将来のノーベル賞候補を探せば良いかというと、これは簡単で各分野に”ノーベル賞の前哨戦”と目される賞があり、これを見れば良いのである。
例えば、生理医学賞であれば、「ラスカー賞」、物理科学であれば「フランクリンメダル」などがある。
こういった賞の受賞者を見れば、だれがノーベル賞の”ウェイティングリスト”に載っているか、分かるのである。
ところが、そうやってみると、確かに少なからずの日本人が受賞をしているのだが、その何倍もの欧米人学者がおり、これでは日本人に賞が回ってくるまでには非常に時間がかかりそうだということが分かる。こういうわけで、いつも日本のマスコミや日本人の期待を裏切る結果となるのである。
果たして日本という国にアーサー・コーンバーグ博士が言うところの”はみ出し者”が研究者として食っていけるだけの”度量の広さ”や”ゆとり”があるのだろうか。
日本の”はみ出し者”研究者である私自身の経験からもこれは極めて困難であると思う。
また、若者を育てる立場にある日本の科学教育関係者や教科書の執筆者たちの傾向を見ても、いつも何が一番正統的な考えかというようなことばかりにやっきになっていて、正統的なものから”はみ出し”た異端的な考えには冷淡である。日本で言う「良い教科書」、「良い本」とは、権威ある正統的な知識が豊富に詰まってこれ1冊あればその分野の全部が理解できるというような本である。それゆえ、シュレディンガーの「生命とは何か?」というような極めて賛否両論ある”異端の名著”のような本が出版されることは少ない。そんな時は、日本ではたいていは「トンデモ」などと言われる始末である。
こういった度量の狭い国民性を持つ国で今後2、30年でノーベル賞を毎年1つ取るというのは、非常に困難であると言えるだろう。まさしく「絵に書いた餅」、「机上の空論」である。もしそれができるとすれば、アメリカが戦乱の地にでもなって大量のユダヤ系学者が日本に移民するというようなSFのようなことでもない限り無理であろう。しかし、これとて、とてもあり得ないことである。
まあ、10年に1人で十分満足すべきだろう。あるいは、イグ・ノーベル賞で満足すべきだろう。