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2006/12/21のBlog
[ 21:20 ] [ 大学・大学院 ]
日本社会において、経済の「空白の10年」の時代は、逆に「科学研究バブル」の時代でもあった。土地バブル時代の建設ラッシュや公共事業の行き過ぎからの反省で、科学技術や科学研究への投資シフトが起こったからである。

理論物理学者の有馬朗人博士が東大総長から理研理事長を経て文部大臣に登りつめたことがこの時代を象徴している。この時代のさなか1995年に「科学技術基本法」が生まれた。同時に、省庁の再編が行なわれ、文部省と科学技術庁が合体して文部科学省が誕生したのである。

この法律の下で、これまで道路やトンネルやダムや河川工事に「公共事業」の経済の中心があったが、これが今度は、大学や国公立の研究所などの敷地内へ「公共事業」の経済の中心が移ったのである。これにより、「土地バブル」さながらに「大学バブル」、「研究バブル」への時代に突き進んだ。

潤ったお金と敷地内の公共工事のおかげで、大学の建物は見事に老朽化から救われ、生き返った。また、どんどん新しい学部や研究所なども、「学部再編」「大学改革」という名の下に作られた。おそらく、1970年代までの老朽化した大学のイメージはもはや過去の話である。日本全国だいたいどこの大学もその昔の駅前改革のように、似たような近代的建築に置き換わったのである。

そして今見るように、日本で一番リッチで威勢の良い人々は、”大学教授(や国研の研究者)”であるという、日本の歴史の中でも実に”稀な”時代に入ったのである。もっとも私自身は1996年に理研を出てフリーとなったので、この点ではこの流れの恩恵にあずかってはいない。

しかし、何より変わったものといえば、恐らく日本国内に「ポスドク(博士研究員)」という制度が本格的に根付いたことだろう。

私が大学院生だった1980年代までは、大学に残るといえば、せいぜい、無給助手か、あるいは学術振興研究員(学振)というものであったろう。奨学金は、修士博士の都合5年でストップするから、5年以上大学院に在籍するものにはそういった選択肢しかなかったのである。

それが、1980年代後半から少し変わったのである。1987年に利根川進博士がノーベル賞をとり、凱旋帰国して理研に立ち寄った際、欧米で主流である「ポスドク(博士研究員)」の重要性を官僚にぶちまけた。そして誕生したのが、旧通産省の「ポスドク100人計画」であり、それから刺激されて科学技術庁下にあった理研に出来たものが「基礎科学特別研究員」であった。

そして、1995年の「科学技術基本法」の誕生の頃に、「省庁合併」と時を合わせて、「大学院重点化計画」、「ポスドク1万人化計画」というものができたのである。それから10年。これで、ほぼ現在の日本のポスドクシステムが出来上がったのである。

果たして、「空白の10年」の時代に時同じくして起こった「科学バブル」で何が変わったのであろうか。

私の個人的意見では、ちょうど我々が日本の政治や芸能界に見ることと全く同じようなことが日本の科学界でも起こったのである。

日本の政治や芸能界を見て、何が一番の特徴であるか、と問えば、それは「二世、三世」、つまり、「親の七光り」の時代ということであろう。要するに、一言でいえば、”世襲化社会”へと変わったのである。良くいえば、「カエルの子はカエル」で、「子は親を見て育つ」ということである。しかし、悪くいえば、「新参者には厳しく冷たい、排他的世界」ということでもある。

芸能界にだれか血縁者がいれば、その子や兄弟はすぐにでも芸能界に入ることができる。しかし、そうした”つて”がなければ、それは難しい。親がコメディアンであれば、その子もコメディアンの子として売り出せる。姉が女優であれば、その娘、あるいは妹兄弟も売り出せる。

政治も同様。爺さんが築いた帝国をその子が引き継ぐ。そして親が築いた帝国の地盤をその子が引き継ぐ。与党、野党に限らず、政治の世襲化は深刻なほどに進んでいる。政治家になりたければ、政治家の子として生まれるしかない。小泉純一郎しかり、鳩山由紀夫しかり、田中真紀子しかり。人はそういった人々を「各界のプリンス」と呼ぶ。

経済でも同様である。私が1980年代後半ユタ大学に留学した頃、そこに短期留学してきた日本人留学生たちとよく話したが、それより10年程前に大学時代を終えた私の世代と違い、彼等にはすでに今の日本でいうところの「格差社会」の先駆けが見えていたのである。その時代の若者達の間では、バブル時代に優劣や勝敗がついて、同じ年令であっても、信じられないほどの裕福な日本人の子がいるということ、そしてそうしたお金持ちの子弟と庶民の子弟は違うということを学生時代に思い知らされたというのであった。それからすでに20年経ち、今やそれが誰に目にも明らかとなっただけの話なのである。大企業の社長の子は、やはり優遇される。「親の七光り」は生きるのである。

スポーツ界でも全く同じこと。長島茂雄の息子は、何もたいしたことができなくとも、やはり「長島の息子」として「親の七光り」として芸能界で地盤を引き継ぐ。しかし、実力の世界のスポーツ界はまだずっとましである。なぜなら、スポーツの世界は結果がすべて。いくら親は良くても良い成績を残したという実績がないならプロとして高額のお金をもらえないからである。それゆえ、スポーツ選手が芸能人となり芸能界に入ると話が変わってくるというべきだろう。

さて、では科学の世界がどうか、というと、残念ながら、この世界も全く同じことが起こってきたのだ、というのが私の見てきたところである。このことは、恐らく、科学世界に疎い普通の人々は知らないことかも知れない。

それゆえ、例えば「中高生「俊才」育てろ!日本科学五輪委、旗揚げへ」 のような記事を見れば、日本の科学界は親身になって若い科学者の登場を待っているかのように錯角しかねないだろう。しかし、それは明らかなる誤解であり、間違いである。

しばらく前に私が「数学離れの現実とは? 」 で紹介したように、現実には、いくらその学生が優秀であっても、その子のために開かれた職場が日本にはないからである。この統計によれば、早熟の天才であっても、日本国内では、せいぜい公務員や事務員にしかなれない。ほんの一握りが大学に残るというだけのことなのである。

では、だれが大学(有名私立、国立を問わず)の教授として残れるかといえば、それは、その子の父親が大学教授かどうかによっているのである。まして先祖代々の学者一家、あるいは祖父が学者であったか、というようなことが非常に大きな影響力を持つのである。

まあ、これは人を採用する側から見ても明らかなことだろう。どこぞの馬の骨、それも”ちょいっと頭の良い馬の骨”よりは、”血筋の良い馬の骨”の方がいいからに決まっている(だから、その人物が優秀かどうかによらない)。ましてや採用する人物が、その人の祖父や父の学生であったとか、祖父や父を尊敬する学者と考えている、というようなことでもあれば、即刻その人物を大学に残そうとするはずである。

私が見てきた範囲でも、今現在物理学の分野でそれなりの要職についている、あるいはつきつつある若手学者や中堅学者のほとんどは、その父親や祖父もまた学者であるという場合がほとんどである。(まあ、話を簡単にするために、私はこういう現象を「ユダヤ人化」と呼ぶ)。

つまり、以下のようなことが起こったのである。

戦前の教育では、確かに社会は、かなり封建主義的で軍隊色濃い時代であったが、帝国大学という名とは裏腹に、当時の日本の大学には「学問の自由」というものが存在した。もちろん、それは、それを尊ぶ人たちがいたという意味である。その時代には、血統に限らず、俊優や天才に世を託すという社会空気が存在した。

それが、戦後に変わったのである。戦後の混乱期に大学に居残ることができたのは、東京など大都市出身のエリートやあるいは地方の豪族(お金持ちや土地所有地主)の息子であった。東京の俊優たちは東京大空襲のために地方郊外に疎開し、若き日に辛酸をなめ、人生の悲哀を感じたために、人間的にも非常に成長した人物となった。

しかし、地方から来ていた豪族の子たちは、人々が闇市時代を苦しんでいる時でも、比較的裕福に不自由ない生活を送れたためにかなり傲慢な人物に育った。この傲慢になった大学教授と東京出身の苦学したエリートたちが戦後の大学には混在したのである。これらが、戦後教育における第一世代の学者たちである。この第一世代は、ほぼ人生を終えた。

この弟子達が第二世代である。現在、現役を終えつつあるか、あるいは終えた世代である。この世代は、戦前の困窮時代にも研究や科学を志した世代とは異なり、戦中、戦後のまともな教育を受けずに育ってしまったために、第一世代よりは実力的に少し劣っていた。しかも、社会が経済復興する中、劣悪な環境下におかれた大学に職をとったために、給料も悪く、それと共に自信も失った世代でもある。しかし、やる気のあるもの、当時の日本の状況に嫌気がさした者はアメリカへ渡った。現在のアメリカで気鋭の教授となった人々の大半はこの時期に渡米した学者である。

良い方の第一世代の影響を受けた第二世代は結構それなりに良い学者に育った。しかし、傲慢な方の第二世代は、傲慢な第一世代の学者の前で「御用聞き」のような従属した学者となった。

したがって、良い方の筋の伝承者は、戦前、戦中、戦後をもろともせずに、明治からある日本の古き良き学者の伝統の系譜にあり、細々ともその流れを受け継いで来たと言える。こういった学者が、戦後もそれなりに日本の科学水準を”本当の意味で”引き上げてきた人々なのである。

しかし、一方の学者タイプは昔の軍隊の「下士官根性」のようなものを持つ学者に育った。上のものにはへりくだり、裏では目下のものに横柄に振る舞うというような学者である。この悪弊が見事に描かれているのが「白い巨塔」であろう。こういった学者は見せ掛けの地位や名誉にこだわり、学者本来の天分をまっとうすることを忘れる傾向にある。集団主義であり、政治好きなので、大きな権力を持ちやすく、一般人には受けが良い。戦後日本の大学でたくさんの社会問題を引き起こして来たのはこちらのタイプである。

現在の教授として君臨しているものは、この世代の弟子、第一世代の孫弟子である。社会はさらに復興を遂げ、「バブル全盛」時代に学生時代を送ったものたちである。だから精神的には楽天的であるが、同時に物事の理解が浅い。また、大学への関心が薄かった時代に学者となったために、70年代的な感性を持つ。そして、同時に”受験産業化時代”に育ったために、昔の学者なら自分の経験や手を動かし自分の頭で考えて研究するものであったが、それが、何ごとも「傾向と対策」という視点でのみ世界の科学研究の「傾向と対策」を練るというタイプの学者となった。いつも欧米の学者の視点に立ち、面白さや興味や重要性というよりは、流行やみんながやっているとか、世界の潮流とかの視点で科学研究を見るという学者である。(もちろん、戦後の官僚とて例外ではない)

最後に、現在の若手教授の世代とは、この世代の弟子の世代である。第一世代のひ孫弟子にあたる。この世代は、もう日本が戦後復興を見事に遂げ、社会はバブル全盛に湧き、経済大国化した日本で成長したために、自意識過剰、かなりカルト的要素を持つ。多くの場合、父親や祖父が学者であり、父のように国家公務員の学者先生になりたくて学者になったという世代である。これが、現在の大学教授の大半である。したがって、お仲間意識が強く、知らない人を排除したがる。こうして冒頭に述べたような、”世襲化”した学者社会となった。

果たしてここで紹介した私の観察が正しいかどうか、各自の判断に任せるとして、こんな時代背景の中で子供達は科学者を目指すだろうか。

私個人は、「”汚い仕事”をしたくないから科学者になりたい」というような消極的意味、あるいは「みんなが行くから自分も行く」というような他力本願的な意味では科学者になろうとするものはあるが、もっと積極的意味合いで(つまり、自分は何かを解明したいんだというようなテーマを持って)科学者を目指すものは、この国では少ないのではないかと思う。

なぜなら、この国では、科学者の給料は、上で述べたような「世襲化した学者」や「親の七光り的な学者」などの好む程度の”適度”の給料や待遇しかないからである。野球やサッカーのように億単位の給料が入る可能性は日本国内ではないからである。近代スポーツの開かれた世界と学者の因習社会と比べれば、およそ比較にならない違いがあるからである(しかし、将来税金を払い国家に貢献するのはスポーツ選手であり、税金を使いまくるのが学者の方だから、皮肉である)。

私のように、サッカー選手が学者になることは可能。しかし、学者がサッカー選手になることはあり得ない。(まあ、ジョークだが、サッカー選手なら学者にもテノール歌手(ドミンゴ)にもコメディアンにも何にでもなれる。しかしその逆はない。)だとすれば、子供達はまずはスポーツ選手を目指すはずである。

やはり、大きな夢、大きなチャレンジにはそれなりのモティベーション(やステイタス)が必要であろう。きちんとした待遇や安心できる環境がなければ女性が子を生もうとしないのと同様、それなりの待遇や不安のない環境がなければ子供達も科学者になろうとはしないものである。ましてや、職の在り処が、自分の先祖と関係があるというのであれば、なおさらのことである。

いずれにせよ、平和になった現代社会のどの国でも”世襲化が大問題”であるように見える。フセインのイラク、キムジョンイルの北朝鮮だけの話ではない。アメリカでもヨーロッパでもどこでもそうである。大なり小なり世襲化の問題が「格差社会」の本筋なのである。

グローバリゼーション、多様化、選択の自由、国際化、男女差別撤廃、雇用機会均等などが、実は、国の一部の家族だけのためのものである、というような特権的意味に矮小化されてしまっているとすれば、そんな社会や国にはだれも住みたいとは思わない。

「戦争と平和」というのは、人類の恒久のテーマであるが、この背後にはいつも「富の再配分」の問題が潜む。「平和が良い」ということは必ずしもない。これは時として階級化や世襲化の時代を生む。社会が硬直化し、階層化するのである。江戸時代がその良い例である。徳川300年の天下太平時代は、逆に士農工商のカースト制度の時代を生んだ。

逆に「戦争が悪い」ということも必ずしもない。戦争は社会を不幸と貧困のどんぞこに突き落とす、大混乱を社会にもたらすが、時として社会のカースト制度を破壊し、「新たなる秩序」や新世代を誕生させるものでもある。戦国時代がその良い例である。戦後時代の渾沌とした下克上時代が大きな進歩をもたらした。同様に太平洋戦争によって既存の社会が破壊されたからこそ戦後の若い日本が復興できたのである。今の日本人と戦前の日本人は社会的に見れば全く別人種である。

平和はだれもが希求するものではあるが、同時に進歩を阻害するものでもある。戦争はだれにも悲惨なものではあるが、同時に進歩を促すものでもある。もちろん、平和だからこそ進歩する場合も戦争によってさらに悲惨となる場合もある。平和と戦争にはともに一長一短があり、相補的なものである。したがって、平和でかつ進歩的というのは矛盾に満ちているのである。

平和で自由な進歩的社会となれば、その社会の強者が利を得る。弱者には格差がつく。逆に戦時となれば、それまでの支配体系が変わり、弱者にも下克上の機会も訪れる。こうして平和時の進歩と戦争時の進歩の意味は相補的となる。どちらがいいかは、その時々にその人間がそのどちらについているかによるにすぎない。

したがって、平和でありなおかつだれにもすばらしい社会というものを構築したいのであれば、それはだれにも開かれた社会を作らなくてはならない。平和時にありがちな階級下や階層化などの”カースト化”の力に拮抗しなくてはならない。逆に戦時であれば、戦時のどさくさで支配層に君臨し独裁体制を敷こうという私物化の力に拮抗しなくてはならない。平和時の暴力は、言葉の暴力であり、法律の暴力である。戦争時の暴力は、物理的な暴力であり、兵器による暴力である。どちらも力のあるもの、権力による暴力であり本質的な差はない。

善かれ悪しかれ人類は戦いの場で進歩(か退廃かわからないが)してきた。今がいつまでも続くという安直な保証はどこの国にもないのである。常に危機意識を持ち、あらゆる場合を想定していけるもののみが次の時代をリードするのである。
[ 19:32 ] [ 地震・災害 ]
昨日ちょっと見ない珍しい雲を見つけたので、ここに記録しておこう。


別の方向

別の方向

2006/12/20のBlog
1980年代後半に始まった”バブル全盛”期がはじけて後の1990年代を「空白の10年」というが、これはあくまで経済に関するものである。その土地バブルを演出し、その崩壊によって自ら経営破たんした大手銀行が、本来ならこの時代に粛正されるべきであったが、国民から何兆円もの血税を注いで生き返らせた結果、こういった大銀行は今度自らの手を染めることなく、ノンバンクやサラ金や闇金融に資金を裏から援助し、その結果として無知で弱い一般市民たちを借金地獄の憂き目に陥らせたのである。そして、ダークサイドからの執拗な借金取り立てで心身や精神を病んで自殺に追い込まれたのである。この数が毎年3万人前後であったというわけである。10年という「空白の時代」は、約30万人の自殺者を生んだのである。

1人の平均所得が、年300万円とすれば、この10年で約1兆円のGDPの損失である。しかし、これも少ない方の見積もりである。なぜなら、脳死移植を考えれば、1人の脳死者から少なくとも10人の重病患者が救われるというから、自殺者が本来脳死者として適正に処理された場合を考えれば、自殺者以外に同時に10数人の病死者が救われずに死んでいるということになるからである。したがって、実質的には自殺者によって失われる経済損失の約10倍の損失を現実には被っているということとなる。このように、自殺は社会にとって2重3重の意味で損失なのである。この現実を無視すべきではない。

もし自殺者が、ドナーカードに「脳死移植希望」を明記し、自殺場所を指定し、自殺後の脳死移植の処理まですべて設定して自殺したとしよう。自殺後数分以内に臓器が取り出され、それが法的に適切に処理されたとしよう。年3万人の自殺者の臓器は、年30万人の重病患者の命を救う。皮肉なことかも知れないが、こういう場合には、自殺者の自殺にも意義が出る。なぜなら、自殺者の”命”は失われるが、その人の”生命”は他の人達の身体の中で生き続けることができるからである。

今の日本という国は、このように、あらゆることが”不備”にして進んでいるように見える。宮沢喜一により始まったバブル崩壊と、その不正大銀行の延命のための”犠牲”として、多くの見えざる市民の命が代償となったのである。

では、この代償の結果、社会は良くなったといえるのか。破たん大銀行を延命し、その責任ある経営者達を野放しにした結果、何か良くなったのか。

といえば、それはすでに我々の知る社会が結果として得られたのである。すなわち「品格の失われた社会」、「格差社会」、「犯罪者の社会」である。つまり、社会は失速どころか、退廃したのである。

おそらく、大都市や東京近郊に住んでいれば気づかないだろうが、地方は急速に疲弊してきている。その理由とはおそらくこうであろう。

1960年代に始まった集団就職、そして1970年代の高度成長期に引き続いた受験戦争などの結果、大学進学ブームそのものが、地方から人材を大都市へと移住させ、地方を恒常的な人材不足時代へと導いてしまったのである。

これに、戦後の1970年代に誕生したテレビマスコミのおかげで拍車がかかった。ますます優秀であるかいなかに関わらず、お金持ちになるためには、あるいは有名になるためには、東京に出向かなくてはならないという事態に陥ったのである。

結果として、子供が生まれ、学校に行き出すと同時に”自動的に”子供達は進学と同時に東京や大都市へと集まる集客メカニズムが日本には出来上がってしまったのである。ある程度優秀な子供が誕生すれば、自動的に東京に進学するという図式ができあがったのである。

昔はまだ地方もリッチで、いわゆる”Uターン”ができた。しかし、今若者が”Uターン”すれば、多くの場合職無しの憂き目に陥る。

日本政府の借金時計は時々刻々と借金を刻む。しかし、その借金が有効に使われ、借金以上の富みを生めばそれでいい。ところが、実際には、その借金を借り受けて金を得たものたちはみな欧米に投資してしまう。したがって、日本国内には借金だけが残る。おまけに、日本に在留する米軍組織やその家族達のために、毎年何兆円にも及ぶ借金をしてまで食わせる。

こうして、ひもじい思いをしてまで緊縮生活を強いられている日本人にさらなる厳しさが襲う。それも、今の日本人が戦前の日本人のように質素な生活とともに成長した人々であれば貧困にも耐えられるかも知れないが、現実の日本人は「バブル全盛期」の味をしめてしまった人々である。貧しさには耐えられないはずである。その結果、簡単に借金や犯罪に手を染めるのである。

人(普通の人)というのは、自分が正しいことを行なっていると自覚している時には、その背筋もはり、割腹の良い姿となる。何ごともうまくいっている時には、「飛ぶ鳥も射おとす」勢いがある。しかし、自分のやっていることが、うまくないと今度は意気消沈し、威勢もそがれ、見るからによぼよぼになってしまう。ましてや、自分のやったことが社会に対して”有害”であったとなればなおさらである。

最近、とある番組で宮沢喜一元首相の姿を見たが、その姿に、今の日本の姿がダブる。すべてがそこにあった。
2006/12/19のBlog
カンナバーロが初受賞 FIFA年間最優秀選手

2006年度の「FIFA年間最優秀選手」にジダン(2位)、ロナウジーニョ(3位)を押さえて、イタリア代表のカンナバーロが初めて選ばれた。ディフェンダーとしては初という。カンナバーロは、”バロンドール”につづき2冠達成。同賞は世界各国・地域の代表監督と代表主将による投票で決まる、というので、実質上「プロの中のプロ」であると評価されたということになる。ちなみに、今回のトヨタ杯に参加したロナウジーニョは、一昨日この表彰式に向けて帰国したというが、残念ながら彼は3位であった。
2006/12/18のBlog
クラブW杯、南米勢が連覇3位はアルアハリ

昨夜は、トヨタカップの3位決定戦と決勝戦が行なわれた。

アルアハリがクラブアメリカを破り、3位 クラブW杯

3位決定戦では、アフリカ代表アルアハリ(エジプト)vs北中米カリブ海代表アメリカ(メキシコ)が行なわれ、アルアハリが”エジプトのジダン”ことアブトレイカの2点で2-1で勝利した。

このアルアハリは、インテルナシオナルと2-1で負けたというように、相当に強いチームであった。クラブ・アメリカと韓国の全北が1-0であった。そんなわけで、アフリカ、北中米カリブ海、アジアの実力差はほとんどない、と言っても良いだろう。

一方、決勝戦は、南米代表インテルナシオナル(ブラジル)vs欧州代表バルセロナ(スペイン)であったが、インテルナシオナル1-0で見事な勝利で初優勝。

クラブW杯、インテルナシオナルがバルサを下し、世界一
南米インテル底力 強大バルサに堅守速攻 クラブW杯
サッカークラブW杯、インテルがバルサ破り世界一
封殺されたロナウジーニョクラブW杯決

私は、ブラジルの闘将ドゥンガが育ったインテルナシオナルというチームの試合を今大会で初めてみた。確かにチームのメンバーは”ブラジル国内組”で、海外から見ればほとんどがまだ無名の若い選手主体だった。が、今回そのサッカースタイルが1994年のワールドカップ・アメリカ大会で4度目の優勝した時のドゥンガ率いたブラジル代表チームと共通するものを今回はっきりと感じることができた。要するに、”マリーシア”があり”勝負強い”のである。

全員で汗をかき、全員守備全員攻撃のチームである。しかも、必ず相手チームの司令塔に対してダブルボランチが徹底マークし、中盤に自由なスペースを与えず、すぐに全員が中央を埋めてしまう。そして、すばやく前線に走り込んだ選手に精度の高いパスを送り反撃する。ロナウジーニョには、ファビアーノエレルが徹底マーク、デコには別の選手が徹底マークする。


そして何と言ってもブラジルのチーム。個人技ではどんな無名の選手もみんなロナウジーニョ並みに上手い。これがベースになっている。今回の新星アレシャンドレは、生後5ヶ月ですでにオレンジをサッカーボールにして蹴っていたというほどである。
準決勝で得点したMFルイス・アドリアーノ、決勝で決勝点を奪ったMFカルロス・アドリアーノなどのスピードは、ブラジル代表のロビーニョ並みである。


今回の大会で何がすごかったかと言えば、やはり「王国ブラジル」のサッカーの”層の厚さ”である。このインテルナシオナルには、2000人のサッカー選手がいるというのである。こういうすそ野の広いサッカースクールシステムの中からドゥンガやアレシャンドレなどの選手が育つのである。そして今回の優勝賞金5億円で再びこうしたサッカースクールへの投資が行なわれ、再びもっとすごい選手が育成されるのであろう。

ところで、今大会の最優秀選手はバルセロナのデコ(彼もブラジル出身)であった。しかし、私個人は、最優秀選手はインテルナシオナルの10番イアルレイあるいはフェルナンドンであった。ちなみに、イアルレイはアルゼンチンのボカ・ジュニアーズ(マラドーナのホームチーム)で一度優勝経験している。

いずれにせよ、「ボールは丸い」、どうすれば勝てるかという「勝利の方程式」というものを教えてくれた点でインテルナシオナルに感謝したい。
2006/12/16のBlog
クラブW杯、全北現代が3-0で勝って5位確保

昨日、トヨタ・カップ(W杯)の5位6位決定戦、アジア代表の全北現代(韓国)vsオセアニア代表のオークランドシティ(ニュージーランド)が行なわれた。結果は、全北が3-0で快勝、5位を確保した。

まあ、実力差は明らか。このことから、5位と6位には力の差が歴然としている。3位、4位(アフリカ、北中米)と5位(アジア)の間にはそれほど差がなくなったと言える。しかし、1、2位の欧州と南米と3位以下にはまだ差があるということが分かる。

もし決勝で欧州が余裕で勝利し、欧州と南米にあまりに差があるということが分かれば、トヨタカップの意義はあるのか、という問題が生じることになるだろう。というのは、やる前から順位が決まっていることになるからだ。

つまり、トヨタカップの順位は現状の世界のサッカーシステムの発展度や経済状態をそのまま表わしていることになるからである。わざわざ過密スケジュールを組んでまで欧州の選手が戦う理由があるのか、という問題になるからである。

まあ、高額賞金目当ての大会、あるいは、サッカー発展途上の大陸のためのモチベーション向上のための大会にはなるかも知れない。厳しい現実である。

ところで、岩本選手は、まだまだサッカーができそうである。どこかのチーム(例えば、徳島ヴォルティス)がスカウトしたら良いのではないかと思う。

今期、フランスワールドカップ大会時の日本代表が5人J2横浜FCに集まってJ1昇格を果たした。これと同様に、J1上位チームから解雇された、秋田、奈良橋、岩本などたくさんの元日本代表選手たちがいる。こうした選手達の”魂”をJ2のチームは受け継ぐべきであると私は思う。どんどん良い選手を吸収し、下克上でJ2からJ1に昇格してもらいたいものである。
2006/12/15のBlog
バルセロナが決勝進出 サッカー・クラブW杯

昨夜7時、トヨタカップ準決勝第二試合、欧州代表のバルセロナ(スペイン)vs北中米・カリブ代表クラブ・アメリカ(メキシコ)があった。結果は、”銀河系軍団”のバルセロナが4一0の圧勝だった。やはり”格の違い”を見せつけた試合だった。

1点目は、右サイドのロナウジーニョからデコそしてグジョンセンへ”流れる”ようなパスがつながり得点。

2点目は、左サイドからのコーナーキックをディフェンダーのメキシコ代表の主将マルケスがヘディングで得点。


3点目は、後半、右サイドからのシュートの跳ね返りがフリーのロナウジーニョに渡り右サイドにインサイドキックで得点。


4点目は、デコからロナウジーニョ、それをデコに落としてロナウジーニョがディフェンダーを”強烈なスクリーンプレー”で弾き飛ばし、出来たシュートコースにデコが得点。

そこから先は、ロナウジーニョとデコの華麗な技のオンパレードであった。いずれにせよ、デコとロナウジーニョは非常に良いコンビである。

果たして、このドリームチーム”銀河系軍団”バルセロナをブラジルのカウボーイ”ガウショ軍団”がどこまで混乱させられるか。

非常に厳しい状況だが、昨年のトヨタカップのように、ブラジルのサンパウロが優勝候補のイギリスのリバプールに勝利したというように、劣勢をはね除けることもあり得るかも知れない。

良い試合を期待したい。
2006/12/14のBlog
南米インテルナショナルがアフリカ代表破る クラブW杯

昨夜のトヨタカップ準決勝第一試合、インテルナショナル(ブラジル)vsアルアハリ(エジプト)は、2一1でインテルナショナルが勝利した。この試合は実に面白かった。

アルアハリは、初戦のオークランド戦よりはずっと良い試合をしたが、インテルナショナルの方がさすがに王国ブラジルのチームだけあってゲーム運びに歩があった。しかし、実力的にはそれほどの差はない、というのが実感である。アフリカチームの実力がいかんなく発揮されたといえるだろう。

しかし、アルアハリは幸運に見放されて、良いシュートはポストを直撃、逆に見方のバックパスが敵フォワードの若干17歳の新鋭アレシャンドレに渡り失点を喫してしまった。

一方、アレシャンドレは、「小さな恋のメロディー」のマーク・レスターにそっくりで、U一20では、日本戦でハットトリックをあげたという新星である。ブラジルに再び新しいスターが誕生したと言われている逸材らしい。それが、代表初ゴールが開始2分のものだったという。

そして、今回も敵ディフェンスのクリアボールが、オフサイド位置にいてフリーのアレシャンドレの足下に見事に戻る。その幸運を見事にゴールに結び付けた。そういう幸運の下に生まれた選手なのかも知れない。アルゼンチンのアイマール、ブラジルのカカ、ポルトガルのクリスチャン・ロナウドの系譜を引く選手であると言えるだろう。

追加点は、新鋭のアドリアーノに決められた。

いずれにせよ、インテルナショナルの選手達はほとんどが、インテルナショナルの下部組織のユースから12歳で入団して成長してきた選手達であるというから驚きである。現在のブラジル代表監督のドゥンガもこのユースから育った。フランスのジダンも12歳からフランス国立サッカー学校の出身である。日本も遅ればせながら、福島のJヴィレッジにそうしたサッカー学校ができたが、数年後にいきなり日本代表にデビューするような逸材を輩出して欲しいものである。

サッカー日本女子、初V逃す 北朝鮮に惜敗 アジア大会

一方、”なでしこジャパン”は、見事準優勝を決めた。強豪北朝鮮に0一0でPK戦負けなので、非常に立派な成績というべきだろう。U一20レベルでアジア杯優勝を狙うという、なめた日本男子サッカーとは比較にならないほどの好成績である。男子サッカーは、男子バレーボールと同じような運命をたどらないとも限らない。

心掛けの悪いチームは敗退するのがサッカーの常識である。過密スケジュールであれ、日本代表は日本代表としてしかるべきチームを出すべきである。
2006/12/13のBlog
その昔、日本の侍社会で、武士の剣の使用の是非に関していろいろ議論があったかも知れない。ある剣士は、

「剣に倫理を求めることはできない。剣そのものには是非はなく、善くも悪くも使えるからだ」

とこう言っていたかも知れない。また別の剣士は、

「剣に倫理を求めることはできないが、それを使う剣士には倫理を求むべきである」

と言っていたかも知れない。

一見すると、どちらにも一理あるように見える。しかし、最初のものは、明らかに”詭弁”である。なぜなら、そこには、「剣」という時の意味があいまいであるからである。「剣」は、”刀の剣”のことである。だとすれば、刀そのものは所詮は刀。それ自体で動くことはない。刀は道具である以上、それを持ち、使用する者があって初めて善くも悪くも使える。それゆえ、普通「剣」という意味は、概ね「剣士」という意味で使う。ところが、剣士の持つべき倫理に関して、剣(=刀)は生き物ではない、剣に倫理はないと相手の主張を退けようとするからである。

この手の”論法”というのは、しばしばこの世界で目にすることがある。武士の世界はさておき、20世紀の「科学の時代」においても、この手の論法はしばしば存在した。原爆の製造、化学薬品や有害物質の製造、武器の発明などなどの場面でこうした論法が行なわれたのである。21世紀に入った現在でもしばしば目にすることができる。

たとえば、こんなものである。

「科学に倫理を求めることはできない。科学そのものには是非はなく、善くも悪くも使えるからだ」

これに対して、後者の論法はこうなる。

「科学に倫理を求めることはできないが、それを使う科学者には倫理を求めるべきである」

多くの場合、「科学の進歩」(剣術の進歩)や「科学の自由」(剣の自由)を求める側の人々が前者を求め、それらによって被害を受けることを拒む人々が後者を望む。こういう傾向がある。

今日の「元東大助手に罰金150万円 ウィニー開発で初判断」は、まさに現代版のそんなお話である。

「ウィニー」なる脆弱性を持つ不完全なファイル交換ソフトを作り社会に大問題をもたらし、200億円の損害にもなる違法な、ソフトコピーやダウンロードをもたらした金子被告側や、あるいは開発者側は、こういう主張であろう。

「ウィニーに倫理を求めることはできない。ウィニーそのものには是非はなく、善くも悪くも使えるからだ」

これに対して検察側はこういう感じだろう。

「ウィニーに倫理を求めることはできないが、その開発者には倫理を求めるべきである」

もちろん、似たような例には枚挙がない。たとえば、「2ch問題」ではこうなるだろう。管理者側はこう言うだろう。

「インターネット掲示板に倫理を求めることはできない。インターネット掲示板そのものには是非はなく、善くも悪くも使えるからだ」

被害者側は、こう考えるだろう。

「インターネット掲示板に倫理を求めることはできないが、その管理者には倫理を求めるべきである」


まあ、簡単に言えば、前者の側の論理の「暗黙の前提」というものは、”性善説”である。「人はみな良い人ばかりだ」という時代錯誤の前提であろう。悪いことをするのはその悪い人のせいであり、その技術そのものや開発者のせいではない、というように考える。まあ、”子供じみている”ということ、”ナイーブ”なのである。

一方、後者の側の論理は、どちらかといえば、”性悪説”に立つ。なぜなら、被害者にとって、その技術自らであろうが、開発者であろうが、だれかがやろうが、同じこと。結果として受けた被害は被害なのであるからだ。また、もしその技術がなければ起こらなかったであろう場合には、やはりその技術の制作者にも責任があると言えるからである。

ところで、今回の”判決”は、2重で”驚き”である。

1つは、すでに著作権侵害で200億円以上の被害が出ている。あるいは、この不完全なソフトのおかげで「秘密漏えい」や「個人情報漏えい」が至る所で起こってしまったからである。ソフト製作で言えば、安全性のない不完全なソフトを販売した詐欺事件のようなものである。しかし、”売らずにただで利用させた”ところがもっと悪質である。立派な詐欺行為だろう。

2つめは、これだけの重大事件を引き起こしたのに、その人物の管理側である東大やその部署の上司の管理責任がまったく問われなかったということである。普通の民間の会社であれば、社長が責任取って退陣したかもしれないほどの社会損益を与えたからである。

この裁判官たちは実に不思議である。

いずれにせよ、こういう人物は、社会に放置すれば必ず同じことをくり返すはずなので、必ず何がしかの管理が必要だろう(「ウィニー開発者側が控訴 有罪判決に不服」のように、やはりまったく弁護士も本人も反省の色無し)。よくアメリカで行なわれているように、しかるべき公的組織がずっと管理下で仕事させる(まあ、社会奉仕活動のようなもの)のが適切だろう。それ以外では、北朝鮮の手下になったり、非合法組織に囲われたりする可能性もあり、もっと大きな犯罪に繋がって行くだろう。

文部科学省の役人や大学関係者には猛省を望みたい。大学は社会利益を追求する人物、社会を良い方向に前進させる人物を雇うべき(あるいは、育てるべき)であって、犯罪者が大喜びするような人物、社会を大混乱に陥れるような人物を残すべき(教育すべき)ではないからである。
2006/12/12のBlog
「トヨタカップ」が開幕した。昨日、一昨日とその1回戦が行なわれた。

アルアハリが準決勝進出 トヨタ・クラブW

一昨日のアフリカ代表アルアハリ(エジプト)vsオセアニア代表オークランド(ニュージーランド)は、2一0でアルアハリの勝利。オークランド代表はアマチュアにもかかわらず”予想外”に善戦した。前半は0一0で折り返し、後半も良かったが、さすがにアマチュア。要のディフェンダーが肉離れで離脱し交代要員を準備している間に失点してしまった。しかたなく、選手交代したが、時すでに遅しという感じだった。

岩本選手も投入したが、ここぞという全盛期の輝きはなかった。岩本は、入って数分は全くボールタッチできなかった。ボールをもらえずしびれを切らしたのか、左サイドからどんどん中央に来て右サイドまで釣られてしまい、チームとしてのバランスを欠いていた。また、運動量がなく、大事な守備も怠ったために、かなり危ない場面を作ってしまった。もっと積極的に動き回るべきだった。しかし、普通は日本人は遠慮しがちなところを、率先してフリーキックを蹴って行く積極性は好感が持てた。次の5、6位決定戦では、本来の力を発揮することを期待したい。

アメリカが準決勝進出 サッカークラブW杯

昨夜の北中米カリブ海代表のアメリカ(メキシコ)vsアジア代表の全北(韓国)は、1一0でクラブ・アメリカが勝ったが、ロハスの得点はどう見てもオフサイド。ラッキーな勝利だった。全北は非常に良いチームだった。これでは日本のJリーグチームが勝てないのは良く分かった。走力、技術、戦術とアジアのチームでは三拍子揃った好チームであった。アメリカの再三再四のミスシュートのおかげで、”良い試合に”なった。

クラブ・アメリカは、クラウディオ・ロペスの”不調”がすべてだった。あれだけシュートをミスしては勝てる試合も勝てないだろう。やはり、メキシコシティーのホームが高度2000mの高地にあり、対戦相手が”息切れ”するというホーム有利の試合に慣れてしまっているのかも知れない。低地で相手も”元気”の場合の試合運びを研究すべきだろう。しかし、やはり創立90年の古参クラブだけあって、やろうとしていたサッカーの質は非常に高かった。

この試合の観戦者の中に次の試合の対戦相手バロセロナのスタッフもいたので、彼等に”手の内”を見せたくなかったのだろう。リザーブチームで何とか勝てば良い、というような試合であった。いずれにせよ、次は”本番”。本気で来るだろう。

しかし、こうしてみると、サッカーというスポーツほど”番狂わせ”の少ないスポーツはない、ということがわかる。結局、6大陸の中で一番弱いオセアニア、その次のアジア、そしてアフリカ、北中米、そして2強の南米と欧州という順になっている。

果たして結局、1位欧州、2位南米、3位アフリカ、4位北中米、5位アジア、6位オセアニア、という順に終わってしまうのだろうか。”下克上”を期待したい。
2006/12/10のBlog
沖縄科技大「金看板」理事長が退任意向、構想にも影響

いやはや、この「沖縄科学技術大学院大学」の設立というのは、私は全く知らないのだが、どうやら最近の”理事長の勤務時間不足問題”でとりあげられたノーベル賞学者のシドニー・ブレンナー博士が、嫌になって辞めてしまったようだ。

これで、実質的には、この目新しい大学の将来性は著しく制限されたのではないか。

ところで、日本にこういった新型の大学が誕生する時にいつも”失敗”するのは、どうしてか?

というと、これは東大など、旧帝大系の大学の”権威”にこだわる勢力のせいである。

かつて東京教育大学が筑波大学に変わった時も今回と似たような状況が生じたからである。

筑波大学も、私の知る限りでは、今の日本サッカーで言えば、”海外組”を召集してこれまでの日本の大学にない「国際的大学」を作ることを旗印に設立されたのであった。しかし、これが十分でなく、むしろ”海外組”と”国内組”が学内で対立してしまった。”海外組”には、後にノーベル化学賞を受賞した白川英樹博士もいたが、1つの学部として、あるいは1つの学科・学問として一貫性のある大学システムを構築するのには失敗したのである。結果として、1つの大学としての一貫した機能を持たないまま、名目上は名門大学であるかのように振る舞うという歴史を重ねた(これは、ジーコ・ジャパンが、”海外組”と”国内組”の対立で崩壊してしまったのと実に良く似ている)。

では、どうしてそうなってしまったか。

それは、やはり新大学に対してそれを取り巻く旧大学群の保守的勢力のせいである。

たとえば、新大学が良いスタッフを用意して良い状況で出発したとしても、そこに良い学生を送り込むのは、旧時代の教育を受けてその時代に身につけた偏見をもった教師たち学校関係者である。したがって、新大学の思惑のとおりにはならない。また後々新大学に教職員スタッフを送り込んで来るのも旧勢力の大学である。したがって、最初は新型の大学としてスタートしたとしても徐々に普通の大学と成り果ててしまうのである。そして最後には、東大を頂点とする「日本型大学ランキング」の中に組み込まれてしまうのである。これほどまでに、受験産業化した日本の初等中等教育の弊害は深刻なのである。

こんなわけで、21世紀の現在になっても、この受験産業化した日本の大学進学ビジネスの餌食に新大学はされてしまうのである。首都大学東京も幾多の新生の科学技術大学もそうであった。それゆえ、「沖縄科学技術大学院大学」も例外ではない。

なぜなら、今の日本人を見ればわかるが、そこには”理念”というものが存在しないからである。今の日本人にできることはと言えば、すべてを「傾向と対策」という価値観でしか見られないからである。マニュアルや教科書や参考書を集めては、その傾向を見つけ、対策を練る、という頭の使い方しかできないからである(つまり、「傾向と対策」という参考書で受験経験をしたということ)。物事はすべて”対処療法”なのである。それでしか処理できない。

この「傾向と対策」という受験雑誌やこのやり方で大学入試の合格し大学に入った世代が現在の大学のエリートたちである。すなわち現在日本の大学教授で偉くなっている人々の大半なのである。

結果として日本人は、「目先の損得にこだわるが、将来の大損をこく」というタイプの国民へと変わったのである。こういう国民にこの30年で見事に変わったのである。

そんなわけで、シドニー・ブレンナー博士の勤務時間が少ないという「目先の損得」にこだわったあまり、”ノーベル賞学長”、”ノーベル賞学者の巣窟”という新大学設立のための機会を逸してしまったのである。つまり、大魚を逃してしまったのである。これは、非常に痛い。

いずれにせよ、こうした新しい行動に対して執拗に”妨害工作”を行なっているのは、東大や文部科学省などに存在する旧勢力、あるいは、それを擁護したい受験産業などの取り巻きなのであろう。

かつて1996年に私は「日本の物理学会はJリーグに学べ」という意見を日経サイエンスに出したことがある(参考のため、下に再掲載)。また、7年程前に「簡単な大学改革?ニュー大学リーグ構想」を私のホームページに載せていた(下に再掲載)。

ここでの主張は、大学改革をするのなら、それはJリーグの川淵チェアマンが行なったことと同じようなことをしなくてはならない、ということである。Jリーグの川淵チェアマンが行なったことは、その後NHKが特集し本となって出版されている。
NHK知るを楽しむこの人この世界:”日本サッカーが世界一になる日”川淵三郎
ぜひこれを読んでヒントをつかむべきである(この本は実話なので、実にすばらしい)。そしてこんなことを夢想すべきだろう。

「日本の大学が世界一になる日」
[ 10:52 ] [ 昔のエッセイ ]
今から二十年前の高校生の時、私は山梨県代表の国体高校選抜に主将としてノミネートされるほどのサッカー選手であった。この時期のライバルにヴァンフォーレ甲府の現監督塚田がいる。また当時、元Jリーグ強化委員長の加藤や現五輪代表監督の西野らを擁し大学最強だった早稲田大学からのレセプションの誘いも受けた。私は物理学も好きで、サッカーで行こうか物理学で行こうか本当に迷った。当時は、Jリーグの計画も設立の可能性もなく、結局私は物理学者に成ろうと決心した。そして、私は東理大理工、さらに阪大基礎工の大学院へ進んだ。しかしそこで出会ったものは、日本の物理学界に蔓延した権威主義と不公正な人事の世界であった。
 私立大学は国立大学定年退職者の天下り先であり、学生は自分の興味が教授と異なれば、中ぶらりんの状態になり、下手をするとオーバードクターになってしまう。教授の気に入る人物でない限り、助手の職は得られない。私は独学以外何も得ることなく就職した。しかし、もはや年齢的にサッカー選手として生きる道もなく、物理学者としての道も失った私は完全に社会の中で袋小路に追い詰められてしまった。考え抜いた末、米国ユタ大学留学の道を選んだ。幸い、後にCalogero-Sutherland Model で有名になるSutherland の下で最終的にPhDが取れ、現在までなんとか物理学者として生き延びている。これは全くアメリカの大学、大学院の優れた制度のおかげである。
 では私が今の高校生だったらどうだろうか?私は迷うことなくJリーガーになる方を選ぶに違いない。なぜなら、Jリーグは実力だけの世界で、自分本来の才能を示せば、それがそのまま自分の社会におけるステイタスや高給に繋がっていくからである。世界的には最もレベルの低いと言われるJリーグですら、優勝経験のない監督は代表監督にはなれず、海外のワールドカップ優勝経験者を監督に持ってくることもある。こういう努力があって初めて将来を感じさせる、優秀な若者たちが集まってくる。その結果、Jリーグのレベルは年々上がってきた。これは今度の
オリンピックで見事に証明された。[注]
 このような努力を我々日本の物理学者はやっているだろうか?内外のノーベル賞学者を大学長や研究所長に迎え入れているだろうか?私の知る限り、そうした努力を日本の科学界が率先して行っているようには見えない。ノーベル賞も持たない者が研究所長や学会長になったり、学生の権利や公正な人事が保証されていない日本の科学分野に、真のパイオニアを目指すような、本物の才能の持ち主たちが魅力を感じるだろうか?若者が自分の命をかけて学問に取り組もうとするだろうか?これが、科学離れ、物理離れの本当の理由であると私は思う。

(1996年7月30日)

[注] このエッセイが公表されてから2 年後の1998年7月現在,このことはさらに日本代表のフランスワールドカップ初出場という快挙によって証明された.実力主義でしのぎを削らせれば,次々に若いスターたちが誕生してくるのである.科学の分野もまったくそのとおりなのである.

(1998年7月14日)

[注] このエッセイが公表されてから10 年後の2006年12月現在、このことはさらに日本代表の1998年フランスワールドカップ初出場、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会出場という快挙によって証明された。このエッセイを公表した当時、中田英寿選手はまだデビューしたての新人Jリーガーの1人に過ぎなかった。それがその後、イタリアセリエAの日本人選手となり、現在の世界的に有名なサッカー選手に育ち、今年引退したのは皆さんも周知の事実であろう。その他にも現在たくさんの日本人選手が欧州や南米など諸外国に旅立った。実力主義でしのぎを削らせれば、次々に若いスターたちが誕生してくるのである。科学の分野もまったくそのとおりなのである。私の”予言”がまったく正しかったことが分かるだろう。

(2006年12月13日)
1)私が「やはり大学改革が基本?」で「簡単な」大学改革と言ったのは,「J-リーグ設立の状況をまねれば,日本の教育界においても,本質的な大学教育改革は行い得る」と言う意味です.ここでは,「大学教育が日々簡単に行なえる」ということを言っているのではありません.日本サッカー界の建て直しに成功した J-リーグの行った通りに日本の大学社会に対しても行えば,必ず成功するだろうということです.

私の個人的構想は以下のようなものです.

あ)まず,Japanese Science Foundation (JSF)のような財団を作る.この財団設立のためには,国,企業,地方自治体,市民などあらゆる場から寄付金を集める.

い)ここに日本の科学財団で理事などをやっている人の中で,本当に日本の科学教育界を立て直そうとする人達に理事になってもらう.この理事の中で理事長を選ぶ(もっとも改革を勧めようと考えている人がなる).

う)その理事長を中心に「日本の教育100年構想」を作る.この構想の中に,さまざまな大学の基本(最低)条件を提示します.例えば,「10年後に各大学に1人のノーベル賞学者が輩出するように育てる」というような教育方針や「大学の必須不可欠な施設」(例えば,大学ホテルシアター,ミュージアム,スポーツスタジアムや大学銀行など確保できるかなど)や,「大学や大学システムについての条件」(例えば,9月入学6月卒,完全単位制度など)などの項目を入れます.

え)この「構想」に参加する大学を日本国内でつのる.既存の国立大学でもいいし,私立大学でもいいし,まったくの個人でも集団でもいいし,市民でもいい.この構想に従った大学を運営したいという人や組織を選ぶ.そして,これらの組織を中心に「大学リーグ」を作る.ここではそれを「J-大学リーグ」と呼ぶことにします.基本的には,北海道から九州沖縄までだいたい地方ブロックに1つ程度で,全8つ程度あればいい.したがって,既存の文部省の持つ大学には参加をつのる事以外特に手を加える事はしません.ですから,この場合は,「独立行政法人化」のようなことは考えていません.

お)この「J-大学リーグ」にJSFは財源のバックアップを全面的に行う.したがって,ある市民グループが大学を作る事を承認された場合は,施設から大学設立までの一切の財政援助を得られるようにする.

か)「J-大学リーグ」の各大学長は,世界水準の大学を運営した事のある学長経験者を相当の給与や待遇で引き抜く.同様に,各大学学部の学部長は,世界のノーベル賞学者やそれに匹敵する業績を残し,指導者として優れた人々を相当の給与や待遇で引き抜く.もちろん国内にそれに匹敵する人がいるのであれば,それも対象になる.研究者,教授も,国内外を問わず,世界中から各分野の指導的研究者や教授などを選ぶ.完全な研究業績,教育業績に基づき,待遇を決める.

き)大学生や大学院生は,通常の大学入学の方法(いわゆる大学入試)を行わなず,面接,実技(この場合は,大学教科についてゆけるか確認)を通して一人一人時間をかけて行う.コンクールで入賞したり,さまざまな活動を通して判断材料にする.

く)「J-大学リーグ」の大学は教授,研究者はいい意味で,競争し,一方学生はこの「J-大学リーグ」のどこの大学へも自由に学ぶ事ができることにする.(もちろん,単位交換もアカデミックな事柄に対しあらゆることを自由にする).

け)そして,次の50年でノーベル賞,フィールズ賞を20ほど取ることを目指す.この8つの大学がうまく軌道に乗れば,徐々に大学数を増やして行く.

以上が私の個人的構想です.J-リーグのやったことを,J-大学リーグに焼き直しただけの事です.こういうプロ組織ができると,既存の大学組織も大きな影響を受け,素晴らしい大学へ変化する可能性があります.それは,J-リーグができたために,既存の学校サッカーも大きな影響を受け,いい方へ変化したというようなことでしょう.大きな可能性があるように思います.たった8つほどの大学ですが,こういう「構想」の大学が新しく国内にできるだけで,現状の国立大学はどんどん変わってゆけるのではないでしょうか?

さて,皆さんはどうお考えでしょうか?

(2000年10月20日/2000年9月5日)
2006/12/09のBlog
写真:アザラシ

精子保存「夫の生存期間に限る」学会がガイドライン

この種の記事に出てくる「日本産科婦人科学会」(理事長・武谷雄二東大教授)というのは、何ものなのだろうか。

ここ最近のニュースとなるほとんどすべてに対して、”社会のお役に立つ”のではなく、”社会のお邪魔”ばかりしているという非常に変わった組織だからである。

私が知っているものでも、「不妊治療」や「代理母」や「小児脳死移植」などで、すべて社会の進歩を阻害してきた。それゆえ、未だに日本国内では、不妊治療も代理母も小児からの脳死移植もできない。こういったことにことごとく反対してきているのが、この団体である。

そして今回もまた社会の”お邪魔”をしているようだ。今回のものは、

「生殖補助医療に使う精子を、凍結して保存する期間について、精子を提供した夫の生存期間に限る」

という実に理解不能な”理不尽な”ものである。

これでは、夫が生きていてまだ射精できる期間しか、精子提供者として凍結保存できない、ということになる。しかし、生きているのなら精子保存する意味がない、とはこの団体は考えなかったようだ。実にあほらしい、バカさ加減である。

普通の人にとって自分の夫の精子を保存しなくてはならないというようなケースは、特種ケースであろう。夫が戦地に出向いていつ死ぬか分からない。あるいは夫が病気闘病中で治療に専念しなくてはならない、などの”非常事態”である。単に、夫の精子が少なくて試験管ベイビーを求めるというような単純なケースとは限らないはずである。

今回の決定では、そういったありがちな特殊なケースを全部無視したようである。

しかし、これでは、普通の人は利用できない。なぜなら自分の夫が闘病生活しているような場合には、その治療費だけでもたいへんな額になる。そのため、同時に高額な支払いをして特殊な不妊治療のようなことを行なうのは難しい。まずは治療優先それが直れば生殖医療という順番になる。しかし、もしそこで夫が死んでしまえば、今度は最後のチャンスとして生殖医療ということになるはずだが、今度の取り決めではこれが不可能ということになるからである。

ところが、その一方で、以前私が「日本も”精子バンク”を作るべき時代到来? 」に紹介したように、医学生のために開かれている「人工受精の精子提供者アルバイト」の方は未だに野放しである。このため、学生時代に病院へ精子提供アルバイトんしてはたくさんの”子供”を作ってしまっている日本男性がたくさんいるのである。

ちまたでは、同時に2人の女性と結婚すれば、結婚しただけでも「重婚罪」という刑事罰がある。あるいは、結婚していて恋愛すれば、「不倫」、「不義」などというものもあるわけである。

この流れからすれば、即刻禁止すべきは、学生の「人工受精の精子提供者アルバイト」の方であって、「精子を提供した夫の凍結生存期間」の方ではない。こんなこともこの学会は分からないらしいのである。

こんなわけで私はこの「日本産科婦人科学会」の”知性”をいつも疑っているのである。こうしたどうしようもない学会はどんどん潰して(廃止して)いくべきだと私は思う。
2006/12/08のBlog
写真:忌部神社

日本書紀に、信頼に差がある2種の筆者 天文現象で分析

最近、とある人から聞いた話だが、一説によれば、古事記、日本書紀よりずっと以前に書かれた「阿波○□」(○□が思い出せない)という奇書があり、それには、天皇(スメラミコト)家が、「イスラエルの失われた10支族」のガド族から来た、と書かれていたが、それが焼失によって昔失われてしまったのだ、という話があるらしい。

というのも、ここ徳島県は、天皇家とゆかりある「忌部族」(いんべぞく)の発祥の地だからである。徳島出身の三木元首相、後藤田元副首相の遠い祖先もこの忌部族であると言われている。この忌部族がどこから来たかと書いたものが、その「阿波○□」という本なのである。

その後、そういった天皇家の先祖代々のルーツのお話は、聖徳太子の時代に”タブー視”されるようになってきた。それが、中国から渡来した中国人による「仏教と漢字の伝来」にあると言われている。当時の舶来の人は中国人であり、まともな文字のなかった日本人には、漢字は今の英語のような公用語の役割を果たしたからである。

しかし、当時の日本人は、神道を信じていたために仏教の布教には適さなかった。と同時に、中国人渡来人にとっては、日本の神道は邪教、日本人は異教徒に見えたはずである。しかも日本にはすでに神話が存在した(これが、「阿波○□」や神代文字でかかれた「上記」というものかもしれない)。

そこで、この時代に日本の神話、歴史書を編纂する必要が出た。

この当時は、非常に面白い時代背景であると思う。日本古来の神道と中国渡来の仏教のせめぎ合いの時代であり、神道継承の天皇家と仏教に帰依した蘇我氏のような有力者の権力争いの時代だからである。

したがって、中国に負けない自国の歴史書編纂にあたって、2種類の勢力があったわけである。中国よりに書きたいと思う者と古来の日本の神話に基づいて書きたいと思う者である。

この問題を「漢字」の使用の立場から言語学的に証明しようとしたのが、どうやら「日本書紀の謎を解く:述作者は誰か」(森博達 / 中央公論社 / 99/10/25)という本であるらしい。

この本の中で(もちろんまだ私は読んでいないのだが)、森博達氏が仮説として採用したのが、「日本書紀は2つの異なる系統の著者群によって書かれた」というものである。

「音韻論」から、「中国音によって書かれたα群」と「倭音に基づく仮名が含まれているβ群」に見事に分かれる。そして、「α群」は中国渡来人(中国語のネイティブ・スピーカー)によって書かれ、「β群」は仏教漢文を学んだ日本人である、というのである。

最初の記事は、この問題を今度は、「音韻論」ではなく、「天文学」という科学知識と照らし合わせみるという立場の研究である。河鰭(かわばた)公昭名古屋大名誉教授と谷川清隆国立天文台助教授らは、書紀の天文現象が中国の記録や計算結果と合うかどうか調べたという。

ここでは、「α群」=「A群(14-21、24-27巻を担当)」、「β群」=「筆者B群(1-13、22、23、28、29巻)、不明(30巻)」と再定義している。一方、Aは、当時の日本の社会常識に疎いことなどで渡来中国人、Bは、漢文の執筆能力が低いことなどで日本人(日本生まれの渡来人子孫も含む)との推測している。

結果は、「音韻論」による森博達氏の結果を支持するものであった。

さて、もし2種類の著者たちがいたということが事実であったとすれば、中国渡来人の目的は何であったのか、歴史改ざんした痕跡があるのか、日本の古書を焚書(焼き払った)事実があるのか、など、こういったさまざまな疑問が浮かぶ。こうした疑問の数々に答えられたら面白いだろう。

一説には、聖徳太子の時代には、秦氏(はたし)という景教(アジアのキリスト教)信者が伝来して聖徳太子側についたというお話もあり、これがNHKの歴史番組にあった。

ちなみに、この秦氏が住み着いたのが兵庫の赤穂浪士の地の赤穂であるといわれている。また日本全国にある「八幡神社」を作ったのもこの秦氏であると言われている。ついでに書けば、私の個人的観察では、秦という名字を持つ人々の顔は結構目鼻くっきりで濃い顔であるように思う。

今後の研究を待とう。
2006/12/07のBlog
[ 15:48 ] [ 科学ニュース ]
火星表面に新しい水流跡?米研究者が探査機画像を解析

これは、火星表面を詳しく分析した結果、「水が斜面をゆっくり流れ下った跡」であると分かったというニュース。


V・火星人はいるのですか?
によれば、

「1877年イタリアの天文学者スキャパレリが、火星の赤い色の地域にスジのような暗い細い模様をたくさん観測し、イタリア語で水路という意味をもつカナリと名づけ、このカナリが英語で人工の運河をあらわすキャナル(canal)と訳された」

ことが”火星の運河”というものの始まりだという。これが毎年パターンを変える、ということが見つかった。

その後、ではなぜパターンが変わるのか? この運河をだれが作ったのか? 

という疑問が生まれ、

「(3本足のタコ型)火星人がいて、彼等が作っているのだ」

ということになったのである。

これが、H・G・ウェルズの「宇宙戦争:火星人襲来」という小説の基となった。それが、スピルバーグ監督の「宇宙戦争」となってリバイバルしたわけである。(ちなみに、図の火星人は4本足ですナ。)
それから、アメリカの火星探査により、しだいに火星は水も生物もいない”不毛の地”というイメージが作られて、火星人や火星の運河説は捨て去られた。

しかし最近の探査によって、水の存在、初期生命体の可能性が考えられるようになり、再び火星表面には水があるのではないか、という考え方が復活してきたのである。

そして、今回のように、運河という人工物とまではいかないが、”自然の水路痕”が見つかったというわけである。

しかし、ちまたには「火星人=エジプト文明創始者」説、俗に「スターゲイト」計画と呼ばれるものがある(この計画で主要な役を果たした人物が、日本でも有名な超能力者のマクモニーグル氏である)。この筋の主張では、「火星には、たくさんのエジプト型ピラミッド建造物、人面岩、塔などがあり、そして今も火星人が地下に住む」、というお話である。

果たしてどっちが正しいのか、今後の進展を待とう。
サッカー日本、北朝鮮に敗れ8強逃す アジア大会男子

いやーこれは”痛い”。日本は、”優勝”を請負されたアジア大会でベストエイトにも入れなかった。これでは先が思い遣られる。

反町ジャパン、平山選手と心中。という、趣きの大会だった。

この6月のワールドカップ・ドイツ大会(World Cup 2006)で、優勝候補のブラジルのパレイラ監督は、不調のロナウドをずっとトップに置き続けて見事敗退したのであった。

今回の反町監督は、この時のパレイラ監督のとった行動と全く同じで、絶不調の平山選手をずっとトップに置き続けてことごとく絶好のチャンスを潰し続けて敗退したのである。カレン・ロバーツと一柳のツートップであれば、もっと楽に予選突破できたはずである。

私は、現在の絶不調の平山の原因は、平山自身にあると考えている。一言で言えば、「わがままで横柄で心掛けが悪い選手」になってしまったのである。ベンチに入れば、腐る。自分がミスしても人のせいにする。不調でも試合に出たいと言う。あるいは国見の校長(サッカー部監督)に出すように圧力をかけてもらう。このわがままに回りの選手が振り回される。こういう感じの選手に見えるからである(サムライジャパンvsなでしこジャパン:どっちが強い? )。

このプレッシャーに反町監督は負けてしまったのだろう。いずれにせよ、反町監督には平山といっしょに辞任してもらうのが良いだろう。
2006/12/05のBlog
5カ月の乳児、人間の顔認識 生理学研究所が発表 愛知

これは非常に興味深い。

最近急速に発展してきた脳研究の手法を使って”赤ちゃん”の脳を研究するという話題である。その結果、遅くても

「赤ちゃんは生後5-7カ月ですでに人間の顔を他の物と見分けて認識している」

ということが分かったというニュース。

先に復活させた3つの記事:

(1)「子育てでの父親の役割 」(2000年05月29日/2000年6月9日)
(2)「脳生理学を無視して基礎教育は語れない 」(1999年10月6日/2000年6月8日)
(3)「子育て研究 」2004/01/14(Wed)

は、最初の2つがそれぞれ約7年前、最後のものが2年程前に当時私が持っていた掲示板(Kazumoto's Scientifc BBSとkazumoto's chrono essays)に書いていたものである。

特にこの最初の(1)の中で私はこう書いていた。

”2)一般に市販されている育児本では,「子供の目は最初は開いていても見えない」とあります.しかし,私はそれは目(つまり眼球)は正常に動いていて反応していても,「子供の「脳」がまだ認識を生み出さない」ということだろうと考えて,私は子供が目を開いた段階(つまり出産直後)から積極的に模様や絵を見られるようにしました.一般に,出産病棟では新生児のベッドは真っ白な布で覆われていていて,まったく絵や色がありません.それで我が家では新生児の子供が首を振って周りを眺めている時に絵を見られるように本や色や絵柄の入ったタオルを置いたりして子供の脳を刺激しました.

そして寝返りをうったり,はいはいする度に子供が目を向けるところにさまざまな絵や模様や色彩を見られるように,たいしたものではないが,我が家でできる範囲で工夫しました.

子供が幾何学を認識できるように,私がもっとも「重要な絵」と信ずる「エッシャー」の本を我が家へ子供を病院から連れて帰った直後から2,3歳位になるまでほとんど毎日見せました.ですから,この本はよだれでいっぱいで,もうぼろぼろになってしまっています.

そして現在小学校1年と2年生ですが,2人とも驚く程観察眼がするどいです.

このように,「赤ちゃんの目は開いていても見えない」というのは嘘で,「見えるということを脳が学んでいる真っ最中」なのです.”

この最後の部分「このように,『赤ちゃんの目は開いていても見えない』というのは嘘で,『見えるということを脳が学んでいる真っ最中』なのです」が全く正しいことであった、ということが今回脳科学的に証明されたということになる。やはり、「私が言ったことが正しかった」ということである。

ところで、私は私自身の”予言”がどうして良く当たるのか、その本当の理由は良く理解できないが、実に良く当たる。まあ、よく観察して書いているからだろうと思うが、私の”直感”はめったに外れない。大変不思議である。今回のワールドカップイタリア優勝も見事に当たったことでもわかる(イタリア優勝!ローマ兵アズーリ世界を征服!)。かといって、totoやroto6が当たるかと言えば、こうしたものはまったく当たらない。このことからも、やはり私の脳で何がしかの正しい”分析”をして”予想”や”予言”を行なっているに違いない。

世の中には、こんな感じで、いつの時代にもその時代には「理由はまだ良く分からない」のだが、何がしかのことを正しく”予言”や”予想”をしてしまう人物がいる。

ユダヤ人の「胎教」などはその際たるものである。5000年も前には、胎教が始まり、20世紀後半になってその事実が証明されたからである。他にはノストラダムスがいる。この人物は病原体を正しく予想し、公衆衛生の概念を導いた。それは20世紀に細菌が発見される数百年前のことである。

こういう人物は、まさに「賢者」や「知恵者」というに相応しい。

科学や数学の中にもそういう類いの”異才”がいる。フェルマーなどはそういう人物であった。フェルマーが予想した数学の命題はことごとく証明された。最終予想は300年後にワイルズ博士によって証明された。

私は個人的には、証明もさることながら、こっちの「予想能力」、「予言能力」というものに非常に興味がある。科学では「演繹する能力」と呼んでも良いのかもしれない。(ちなみに、これは「予知能力」ではないことを注意しておく。というのは、「予知能力」は未来に”すでにある”ことを事前に察知することだが、「予想能力」、「予言能力」は未来に”まだない”ことを事前に察知することだからである。)

果たして人間に備わる「予言能力」や「演繹能力」はどこから生まれるのか?

どうして私は「このように,『赤ちゃんの目は開いていても見えない』というのは嘘で,『見えるということを脳が学んでいる真っ最中』なのです」と把握できたのだろうか?

思えば、実に不思議である。しかし、私には、”それは当然に思えた”、のである。
[ 10:04 ] [ 教育 ]
昨今は国立研究所が独立行政法人になり、そして日本の大学でも独立行政法人化の成果が出てきたのか?それほどたいした研究でなくてもマスコミにニュース提供するという、大学の「広報活動」が活発化してきたようである。この風潮自体は、大学の研究者が社会と積極的に接点を持とうとするという意味で良い風潮であると言えるだろう。

今日の読売新聞に出ていた以下の研究もそういったものの1つであるように見える。
乱れた睡眠、幼児の脳発達に悪影響?5歳児調査

これは、以前
【79】 モーツアルトの音楽は知能を発達させる? 2003/11/26(Wed) 10:25」
でちょっと紹介した話の下となった研究者グループの続報である。十分な睡眠を取り規則正しい生活している家庭の子供たち程、精神的に「普通に育つ」ということを統計的に裏付けたというお話である。

しかし、私はおよそ4年ほど前に
子育てでの父親の役割
というエッセイで、赤ちゃん研究の大切さとわが子の観察についていくつかまとめていたのである。

また、赤ん坊の睡眠周期の問題についても約2年前に以下のエッセイでまとめておいたのである。
#1383 赤ちゃん研究始まる 2002/04/09 17:18」
#1390 赤ん坊の睡眠周囲がだいたい24時間の分数 2002/04/10 16:00」

さらに、赤ん坊や幼児の次の段階に来る教育やしつけの問題についてもおよそ5年前の以下のエッセイでまとめておいた。
脳生理学を無視して基礎教育は語れない
子供とのコミュニケーションの重要性
母性と父性の問題

これらのエッセイは一貫して読むと、1つの流れがつかめるので、育児における参考になることだろう。

いずれにせよ、大学の研究者が実社会の「現実から学ぶ」というのは非常に素晴らしいことである。こういった実地研究と比べると、日本国内では一見大学における象牙の塔に隠ったアカデミックな研究(文献研究)の方がたいしたことのように見えるかも知れないが、あるいは大学の研究者にはそう考えられているのかも知れないが、それは間違いである。学問は最後には現実への応用がなされて初めて完成するものなのである。現実は理論通りに簡単にすむわけではない(つまり、簡単に実現するわけではない)。いろんな実際上の困難をクリアして行かなくてはならないからである。理論というダイヤモンドの原石は現実という砥石によって見事に磨かれより一層美しい輝きを増すものなのである。だから、理論段階で留まっているものは、まだ原石に過ぎず、必ず現実への応用が考えられるべきなのである。物理学しかり、心理学しかり、教育学しかり。大学の研究者はどんどん地に下りて現実と向き合って欲しいものである。

2004/01/14(Wed)
ある方の言葉を借りると,

『基礎学力をA、それ以外の自発的、自主的に学ぶ力をBとすると、どちらを重視するかの合意が形成されていない。文部省はBを育てたい。。。。基礎学力と自由な学習とのバランス。しかし子供のエンジンが掛かりさえすれば、学年相当の学力レベルをはるかに越えた成果を発揮し、基礎学力に関する問題は克服できる。』

ということですが,私はこの手の議論には大きな見落としがあると思います.

1)数学では,かつて故小平邦彦氏(フィルズ賞受賞)が言っていたことですが,図形認識には学生の「年齢」が関係あり,「ある年齢を超えると極めて教育効果が落ちる」のではないか,ということです.ですから,彼は「幾何学を今まで以上にもっと低学年できちんと学ばせるべきだ」と主張しました.

2)実はこのこととまったく同じことが,スポーツにもあります.私がずっと専門にしてきたサッカーでも,ボールコントロールやボディバランスなどのサッカーの基礎技術の修得には年齢のハードルがあり,12歳以上で基礎技術の向上は極めて難しくなります.ですから,欧米や南米のサッカースクールでは,まず低学年でこうした基礎技術を徹底的に鍛えます.そして高学年になるにつれて,より高度な戦術観の修得,基礎体力やスピードの鍛練などを行うようなシステムができています.(今J-リーグはこのやり方に変えてきました.その効果が徐々に出てきています.)12歳以降にサッカーを始めても世界のプロレベルに達するのは極めて困難です.もちろん趣味のレベルには達せられますが.

これは,基本的には,どのスポーツでも常識になっていることです.

3)同様なことは,外国語修得についても言えます.例えば,英語のシラブルの判別能力は,やはり12歳くらいが境になっているようです.それ以降にいくら努力しても英語の音声認識は,それ以前に訓練を受けた人とは異なり,事実上不可能なくらい困難なことになります.英語圏で育ったバイリンガルな帰国子女達と我々の英語は歴然とした違いがあります.

ではどうしてこのようなハードルがあるのでしょうか?

4)私は,これは基本的には,「脳」の生理から来ていると考えています.つまり,「1個人それぞれの脳には共通の発達の仕方がある」ということではないでしょうか?(もちろん,個人差は極めて大きいでしょうが.)そして,「基礎技術修得には,ちょうど小学校高学年頃を境に極めて修得しにくくなる時期がある」ということではないかと私は考えています.

つまり,あらゆる分野の「基礎教育」において「脳生理学の知識」を無視して考えることは許されないということではないでしょうか?ですから,私は次のようにすべきであると考えています:

「12歳くらいまでは,あんまり大人の考えにしたがって,大人めいたこと(大人でも難しいこと)ができることを期待するのではなく,むしろ大人になって「技術的に」実際の役に立つことを教えること,訓練すること.」

その方の言葉にある,B「自主的に何かを学ぶ」というのは,サッカーで言えば「高度な戦術レベル」の話ですから,これらは中学生以降で十分であるということです.小学生には,A「基礎学力」(これは,読み書きそろばんや習字や英語やお稽古ごとのような具体的技能力の向上を目ざすもの)であるべきです.

この意味で,江戸時代の「寺子屋」制度は実に適切であったと私は考えています.そして実際,この予備力,基礎学力のおかげで文盲が減り,明治維新が成り立ち,その後の日本の近代化に役立ったのはだれの目にも明白な歴史的事実です.

5)以上の観点から,もし私がこの国の独裁者で,この国を完全に支配しようと目論むなら,次のようにするでしょう.

「国民に12歳以下で教育を受ける権利を奪い,ハイティーンまで国民を農作業などの肉体労働だけさせる.」

そうすれば,その後いくら国民が頑張っても,文字も読めず,基礎能力もつかず,極めて支配しやすい国民を作り出すことができるでしょう.

この意味で,文部省の言っていることは上の独裁者のやりそうなこととたいへん似ています.文部省は事実上この路線に方向転換したということのようですね.まったく,恐ろしい気がします.

6)補足として,徳島のある小学校長さんの話ですが,いわゆる「不良」や「つっぱり」になる学生の多くは,この小学校時期に学校の勉強が,家庭の不和などの様々な理由でおろそかになり,いずれついて行けなくなったことが原因のようです.その原因を取り除いてあげる(つまり勉強がある程度分かるようになる)と,あんまりつっぱらなくなるのだそうです.

しかし,これも12歳過ぎては効果がなくなってくる(つまり,脳は適応性や柔軟性を失ってくる)わけですから,事はたいへん重大です.

7)結論として,私は次のように主張したい:

「脳生理学を無視して基礎教育は語れない.」

文部省の皆さん,ぜひ脳生理学をもっと勉強して,教育行政に役立てて下さい.理研には脳科学研究所という素晴らしい研究機関があるのですから,それは科学技術庁の管轄だとか,わけの分からないこと言わないで,積極的に利用していただきたいと私は心から願っています.

(1999年9月30日)

補足

「教育と脳」の問題は,現実は私が言葉で言う程単純ではないということでしょう.脳というハードの面の問題と行動としてのソフトの面の問題は,あまりに複雑で今なお研究され続けている問題です.そして,現実にも(遺伝的要因や環境的要因などにより)余りにも「個人差」が大きい問題です.ですから,一つの解答と言えるものはないでしょう.

恐らく,我々にとっての大きな問題は,「どこかの段階でその不十分な脳生理と行動様式の知識を基にして,その多種多様な需要に対してさえも,一つの現実的な教育カリキュラムやシステムを作らなくてはならない」というところにあるのでしょう.これはかなり苦しい選択です.

私が指摘したかったことは,そうは言っても,あくまで「経験的」なレベルで(ここでは,いろんな人間がかつていろんなことを経験した中でこうだろうと共通して考えていることという程度の意味),「脳生理からくる学生の年齢によるハードルが存在しているのではないか」ということです.これは現時点で科学的にこうだと証明されても否定されてもいないことであると思います.

こうした例のもっとも典型的例は,いわゆる「胎教」というものだろうと思います.これはユダヤ人は数千年前から伝統的に社会流儀として伝承してきたものらしいですが,その効果が科学的に証明されたのは比較的最近です.そして今は日本のどの育児書にも載っています.そしてこの効果は胎児にとって極めて重要です.

私の言う,「12歳のハードル」も我々スポーツの世界ではずっと以前から我々が「経験的」に知っていることの一つです.そしてそれは歴然としています.恐らく音楽の分野ではもっと以前から知られていたでしょう.例えば,「絶対音感」などにからんで.

私は「こうしたハードルが科学にもあるか」どうかについては明確な答えを持ちません.しかし,仮に科学分野へ将来入る学生にとっていい「基礎教育」のようなもの(これが何かとはすぐには分かりませんし,論理的なもの,幾何学的なもの,量的なもの,あるいはそうしたことのすべてかも知れませんが)は何か存在すると思います.そしてそれがあるとすれば,恐らく12歳くらいまでが勝負だろうと私は予想しています.

私の個人的印象では,この典型が度々私が取り上げた,故R.ファインマン博士の父親のやったことだろうと思っています.(我々理論物理学の分野ではファインマン博士は世紀の天才と考えられています.)ファインマン博士は彼の多くの自伝本で述べていますが,彼の父は彼が幼少の頃からずっと一つの一貫した考えをもっていて,極めてユニークな(ちょっとまねできない)教育をしてきました.そのトレーニングが自分を作ったとはっきり述べています.興味のある方はぜひ彼の本をお読みください.(たとえば,「御冗談でしょう,ファインマンさん」,「ファインマンさんは超天才」,(岩波)など.)

すべての人間が超一流のプロになる必要はないのでそれに従う必要はないでしょうが,オリックスのイチロウ選手のかげには彼にユニークな教育を続けたチチロウがいます.モーツアルトにも父の存在が大きく影響しています.これはほとんどすべての分野で言えることでしょう.

私はこの「『父親』の役割」を果たすような「教育プログラム」があればたいへんすばらしいと思います.まあ私が言いたかったのは,こんなイメージです.

(1999年10月6日/2000年6月8日)
[ 09:53 ] [ 昔のエッセイ ]
私自身は現在「自宅で仕事しているため」,おそらく日本で一番自分の子供と接する時間の長い父親の一人でしょう.また,個人的に自分の脳も含めて「人間の脳の発達」に強い興味を持っているため,自分の子供の誕生前から子供達をずっと観察してきた父親の一人でもあるでしょう.(この辺のことは,我が家の家族のHPにも書いてあります.)その経験で私が特に印象に残っていることを以下に書いてみたいと思います.

1)私は自分の子供に「胎児時代に聞いた音楽を出産後覚えているか?」という実験を私の2人の息子にそれぞれ行い,それが正しいと確認しました.胎児時代,両方の子供にモーツアルトの音楽を聞かせました.そうすると,ある音楽で「活発に動き」,別の静かな音楽では「眠りに落ち」静かになりました.出産後,同じようにいつもの音楽を聞かせると,まったく胎児時代と同じ反応をしました.さらに,別のベートーベンの音楽などを聞かせると,0歳児の段階から「指揮棒を振る」ような手の動きをしながら聞いていました.

このように,「子供は本当に音や音楽に良く反応」します.

2)一般に市販されている育児本では,「子供の目は最初は開いていても見えない」とあります.しかし,私はそれは目(つまり眼球)は正常に動いていて反応していても,「子供の「脳」がまだ認識を生み出さない」ということだろうと考えて,私は子供が目を開いた段階(つまり出産直後)から積極的に模様や絵を見られるようにしました.一般に,出産病棟では新生児のベッドは真っ白な布で覆われていていて,まったく絵や色がありません.それで我が家では新生児の子供が首を振って周りを眺めている時に絵を見られるように本や色や絵柄の入ったタオルを置いたりして子供の脳を刺激しました.

そして寝返りをうったり,はいはいする度に子供が目を向けるところにさまざまな絵や模様や色彩を見られるように,たいしたものではないが,我が家でできる範囲で工夫しました.

子供が幾何学を認識できるように,私がもっとも「重要な絵」と信ずる「エッシャ」の本を我が家へ子供を病院から連れて帰った直後から2,3歳位になるまでほとんど毎日見せました.ですから,この本はよだれでいっぱいで,もうぼろぼろになってしまっています.

そして現在小学校1年と2年生ですが,2人とも驚く程観察眼がするどいです.

このように,「赤ちゃんの目は開いていても見えない」というのは嘘で,「見えるということを脳が学んでいる真っ最中」なのです.

3)一般に「赤ちゃんはすぐには言葉が理解できない」と育児書にあります.しかし,これは誤りだと私は考えています.我が家ではベビーカーに乗せて外を歩いて行く時に,子供が何かを指して(あるいは手を出して)「アー,アー,ウー,ウー」言っているときには,その方向に何があるか見て,それの名前を我々大人の言葉(赤ちゃん言葉ではなく)で,「あれは空だよ」,「青いね」というように,どんどん話すようにしました.ある時,私の妻は近所の主婦から「言葉の分らない赤ちゃんに話してどうするの?」と聞かれたそうです.我が家の子供達は,1歳になるまでに3文字言葉をしゃべりました。私の最初の子供が一番初めに我々夫婦が聞き取れるようになった言葉が,「パパ,プープーやーねー」だから恐れ入りました.私がふとんの中でいつもおならするのでいっしょに寝ていた子供がそう言ったのです.そして確かにそれ以前にもこの言葉と非常に似た響きの言葉をしゃべっていたので,その頃から実はこの子はそう思っていたのだなということが分りました.

このように,「子供は本当に音や言葉に良く反応」します.現在,この2人は,普通の大人よりずっと「理屈っぽい」子供になりました.

4)一般に市販されている育児本では,「子供の絶壁頭のような歪んだ頭は大人になれば直る」と書いてあります.しかし,私はそれは全くの嘘だと考えていたので,出産直後から,子供の頭の位置を左右に良く動かしたり(子供の頭蓋骨の大穿孔,小穿孔が塞がるまでは,頭蓋骨は歪みやすいと予想できるので),「仰向け寝」や「うつ伏せ寝」に頻繁に子供の体位を変えるように妻に話して看護婦さんにも協力してもらいました.その結果,2人とも非常に理想的な頭蓋骨の形態になりました.この時期は出産後の数日から1週間程度の限られた時間です.

一方,この時期を過ぎるとなかなか大きく歪んだ頭蓋骨を矯正することは難しいようです.下手にこだわると頭蓋骨がぼこぼこの「ポテイトヘッド(じゃがいも頭)」になってしまいます.大人になれば直るようにみえるのは,「髪の毛は生えて目立たないようにできる」という程度の意味でしょう.

そして,なぜここまで頭蓋骨の形に私がこだわったかというと,頭蓋骨のプレートを結び付けている部分は,まだ完全には結合せず,子供時代はずっとそこが成長を続けるので,丸い頭蓋骨ほどこの結合部が自然で緩やかであるため,頭蓋骨全体の成長に適しているだろうと考えられるからです.丸い風船に空気を入れて大きくするようすといっしょです.中身の脳はどんどん大きくなる訳です.その中身を包んでいる頭蓋骨は四角よりは丸い方がミスマッチがなく,脳の成長に良いはずです.実際,大人と比べてもわが子は頭がかなり大きく育ってきました.

5)そして,現在,わが子は「いかにテレビとつき合うか」を学ぶ段階に入りました.そこで,前回書いたように,我が家ではテレビやテレビゲームにいかに接するか私がしつけている段階です.

子供は「恐怖映像」や「恐い番組」を見ると,少なくともその晩は夜中に恐い夢を見て騒ぐことがあります.このことからも,子供の脳にとってあまり良くないことは明白です.事実,我々大人でも,余りに長時間アダルトビデオやホラ映画ばかり見ると,その映像が現実と重なり,かなり影響が出ます.偏った映像の見過ぎのために,まともな生活が出来なくなることがあります.ですから,子供の場合は押して知るべしでしょう.

問題は,レンタルビデオなどで,子供ビデオの近くにホラー映画のビデオがあったり,エロビデオのコーナーがあったりで,我々親がひやひやすることがかなりあります.

そこで提案ですが,

「ビデオ屋さん(や本屋さん)は,ビデオ(や本)のカテゴリーごとに部屋を分けるようにして下さい」
「エッチ本やビデオは,子供の本やビデオとは別の階か別の部屋にして欲しい」

と思います.そして,「自治体はこの条件をクリアーできない本屋さんやビデオ屋さんには営業許可がおりない」ようにしてください.

6)「環境ホルモン」や「シックハウス症候群」など化学物質の問題は,より深刻です.これらがすぐには「目に見えない」ことも難しい原因でしょう.しかし,これは個人だけではやりようがないので,「政治的な行動」を起こすこと以外には困難なのではないでしょうか?もちろん,個々の家庭や個人が率先して注意しなくてはならないのは,当然のことですが.

おそらく,この問題のため,化学物質が脳へ直接影響し(脳構造異常),「性不一致症候群」などをひき起こしているのかも知れません.あるいは,「アトピ性皮膚炎」などのアレルギー症状(免疫異常)を引き起こすのでしょうし,ダウン症のような障害(遺伝子異常)をひき起こすのでしょう.特に,「第1子に異常が多い」という傾向は,「母体に蓄積したダイオキシンなどの化学物質が,妊娠で子供に分配される」ということを物語っているのかも知れません.

7)立花隆氏の「脳を鍛える」にありましたが,脳の成長で最後に鍛えられる部分は,人間の脳の前頭葉,頂頭葉,後頭葉,側頭葉の4つの部分の境界にあたる3つの部分だそうです.この部分の成長(つまり構築)がちょうど思春期から成人期に来るのだそうです.これが事実であるとすれば,「この時期にあまりに偏った映像や本や考えに捕らわれることは良くない」ということになります.そして,この時期に「旅」をしたり,「スポーツ」をしたり,「キャンプ」をしたり,「本」を読んだり,さまざまなことを行った青少年の方が,本の虫や一つの事に(頭の中だけで)こだわる「オタクっぽい」,「マニア的」青少年たちと比べて,より活発でさわやかな青少年になるように見えるという我々の経験ともマッチしているように思います.

さて,皆さんはどうお考えでしょうか?
(2000年05月29日/2000年6月9日)
2006/12/04のBlog
[ 10:25 ] [ ジョーク ]
笑いは百薬之長。せちがらい世の中には笑いが必要。以下はジョーク。笑い飛ばすことが肝心。

【カッコイイ】
日本語でいうところの”カッコイイ(格好良い)”という誉め言葉の意味にあたるものもお国柄が出る。

イギリス人は「彼はジェントルマン」と言う。
アメリカ人は「彼はクールガイ」と言う。
ドイツ人は「彼はマイスター」と言う。
フランス人は「彼はシュール」と言う。
イタリア人は「彼はファンタジスタ」と言う。
ロシア人は「彼はペレルマン」と言う。

【好きなジョーク】
世界各国でどんなジョークが好まれるかというと、

イギリスでは王室ジョーク。なぜならイギリス人は王室が大嫌い。
アメリカではブッシュジョーク。なぜならアメリカ人の半数はブッシュ大統領が大嫌い。
ドイツではアメリカ人ジョーク。なぜならドイツ人はアメリカが大嫌い。
フランスでは英米人ジョーク。なぜならフランス人はアングロサクソン料理が大嫌い。
イタリアではフランス人ジョーク。なぜならイタリア人はフランス製品が大嫌い。
ロシアではペレルマンジョーク。なぜならプーチンジョークをいうと殺される。
そして日本では日本人ジョーク。なぜなら日本人は日本が大嫌い。

【死者の弔い】
死者とのお別れの仕方、頭の切り替えも国によって異なりお国柄が出る。
その違いは何処からくるのか、教師とビジネスマンが議論していた。
 教師が言った。
「日本の葬式はお坊さんがえんえんとお経を読む。しかしキリスト教の牧師は短いお別れの言葉を言うだけだ」
 ビジネスマンはこう付け加えた。
「日本人は死者とお別れするのに49日かかる。49日間毎日せっせと死者に御霊供(おりょうぐ)膳や好きだったものを捧げて供養する。49日が終われば、法事、1回忌、7回忌とえんえんと続く」
「しかし、クリスチャンの西洋人は、棺に全部好きなものを入れて納めて1日で死者とお別れする。いったいこの違いはどこから来るのかね?」
 ビジネスマンは聞いた。
「それは、日本の冠婚葬祭がビッグビジネスになっているからさ。葬式代も高いし、日本では生まれてから死ぬまで全部お坊さんの世話になるようにできている。お布施も取るしね」
 教師が答えた。
「いやそれは違うね。教会も冠婚葬祭のめんどうはみる。クリスチャンは毎週教会に集うし、普段から給料の15%くらい寄付を取るから、葬式代が安いのだよ」
 ビジネスマンは言った。
「なるほど、信心深くないほど葬式代が高いというわけか」
 教師は答えた。
「信心深くない日本人にお坊さんがえんえんとお経を読んで説教しているわけさ。葬儀代が高いのも、一種のレッスン料のようなものだ」
 通りがかりにそのやり取りを聞いていたユダヤ人のラビが言った。
「クリスチャンは牧師にお金を支払い、仏教徒はお坊さんにお金を支払うようだが、我々ユダヤ人は直接天の神様に向かってお金を支払うのだよ。神様は御入り用なお金を自分で取って戻してくれるのだ」

【世界のリーダーの違い】
21世紀に入った世界では、こんなジョークが囁かれているという。

イギリスのリーダーは、反対するものを反王室的だと言う。
フランスのリーダーは、反対するものをブルジョアと呼ぶ。
ドイツのリーダーは、反対するものをナチズムと呼ぶ。
イタリアのリーダーは、反対するものを反法皇的だと言う。
アメリカのリーダーは、反対するものを爆撃する。
ロシアのリーダーは、反対するものを暗殺毒殺する。
カナダとベネズエラのリーダーは、反対するものをアメリカ的だと言う。
日本のリーダーは、反対するものを自殺に追い込む。

その他にも

イラクのリーダーは、反対するものを自爆攻撃する。
北朝鮮のリーダーは、反対するものを拉致し強制収容所に入れる。
中国のリーダーは、反対するものを公開処刑する。
アフガニスタンのリーダーは、反対するものを銃殺する。
事故死の子供の写真HP掲載、遺族6組が教師告訴へ

このニュースは、都内の小学校教師が、”本業”そっちのけで、事故被害者の子供らの写真や誹謗中傷をずっと行なって来たという実に”グロテスクな”話である。この教師はどこか精神を病んでいるのだろう。

しばらく前に「遺伝子数の個人差:”いじめ”は遺伝性の問題? 」に

”「”いじめ”問題」で何より一番困ったことは、”いじめ遺伝子”や”チクリン遺伝子”を持つ人々がすでに日本のほとんどすべての大学や高校など学校の先生になっていることである。それゆえ、この問題を処理する能力が最初からまったくないということである。”

”つまり、いじめ問題を処理すべき体制側にすでにいじめ形質やチクリン遺伝子を所有する人々がついていること、すなわち大学教授や小中高の学校の先生や評論家やマスコミなどの”インテリ”の中の数十%がこの”いじめ遺伝子”や”チクリン遺伝子”を持っている。それゆえ、例え学校の中でだれかが虐められて自殺しても、その学校のほとんどの先生たちにとって、それはどこかのだれかの子供の話であるに過ぎず、所詮は「他人事」なのである。だから、いつも”ピンぼけ”で”おとぼけ”な答弁でお茶を濁すような校長先生が出てくるのである。いつもそのばしのぎの言葉や答弁や対応しかできず、あとは事が過ぎ去るのを待つという態度に終止するだろう。”

”事実、「2ちゃんねる」などの匿名掲示板に頻繁に誹謗中傷を書き込んでいるのも、大学教職員であったり、高等教育を受けた大学生などのインテリである。大学や教職にこれから就こうとしている人物達が、同時に裏で匿名で陰湿な書き込みを行なっているのである。私は日本で最初にインターネットが流通した頃からずっと観察してきているが、こうした傾向はこの10年全く変わっていない。むしろひどくなっている。”

などと書いていたが、これが、まったくの”事実”だということが分かっただろう。

また、もっとずっと以前に
遮断ソフトは大学・研究所・官公庁にこそ必要
”ウィニー”
”2ちゃんねる”敗訴:オタク時代の終焉?
などを書いていた。

さらにもっと前には、以下のものを書いていた。
インターネットの大衆化とネット規制
そろそろネットや携帯も免許制度にしたら?
"blog"時代に入って変わったことは?

こういったエッセイで私が紹介してきたこともまた事実であったことが分かっただろう。

まあ、簡単に言えば、「”チクリン遺伝子”を持った日本人にはインターネットや携帯電話は合っていない」ということである。「技術の進歩」と「遺伝的進化」を比較した場合、技術の進歩に遺伝子の進歩はまったく追い付いていないのである。それゆえ、新しい技術が生まれる度に新たなる問題という形で事件が起こるということをくり返すわけである。(私がこういった意見をここに書くと決まって「2ちゃんねる」に中傷する人物が出るのがこれを証明しているから、実に面白い。こういったことを行なっているのも大学関係者である。)

こういう場合には、やはり当面は”自由”よりは”規制”、まあ”規制”といっても”免許制度”だが、こういったものが必要であろう。

ずっと私が主張してきたように、インターネットも高速道路とまったく同じわけである。人が高速道路を走るか、個人情報がケーブルを走るだけの違いである。だから、「インターネットや携帯電話も免許制度にして個人とIP、個人情報と利用機器施設の一致を見るようにしておくこと」も一案である。私はこれを勧めてきた。要するに自動車免許と同じような制度にするのである。ある年令までこないとインターネットや携帯電話が使えなかったとしても、特に問題が生じることはないからである。

また、これも以前書いたことだが、もはやブログ時代に入り、昔の匿名掲示板時代は去りつつあるわけだから、匿名掲示板の事件性を考慮すれば、こういった匿名掲示板ビジネスの個人運営は”禁止”の時代に入っても良いだろう。もはやここまでインターネットが進んだわけだから、社会をインターネットの時代に適用するための”話題作り”のために”野放し”にしてきた「匿名巨大掲示板」の類いはもはやその役割を終えたのである。もはや”百害あって一利なし”の時代となってきた。実際、こういった掲示板行為はすでにこ個人ブログで十分に対応できるからである。

さらに、こういった不特定多数を対象にした「匿名巨大掲示板」の維持のためのスポンサーは、一説によれば、北朝鮮工作員であったり、やくざであったり、風俗経営者であったり、いわゆるアングロマネーである。要するに、非合法組織が日本社会を混乱に陥らせるために行なっているのである。それゆえ、こういった「匿名巨大掲示板」の経営者は、日本人のだれが迷惑を被ろうが何ら良心の呵責がない。

早急に禁止や廃止に向けた政治的処置が必要である。

また別の問題として、ブログ時代になって、パソコンやネットなどいわゆるハイテクに目がないのが、学校関係者である。特に、小中高大学大学院と上に行く程暇になる(忙しくなくなる)ため、一番熱心に毎日ブログをつけているのが、大学関係者である。

匿名であること、あるいは実名であっても、自分達は自己紹介、ないしは大学活動の紹介がてらにいろいろ自分のやっていることを書き込む人が多い。しかし、どんな職業にも「秘守義務」というものがあり、何でも公開すればいいというものではない。自分の研究内容をそのまま書き込んだり、日程や予定を書き込んだりしている大学関係者が多く見られるが、そういったことは大学のしかるべき係りが行なえばいいわけだろうし、研究は特許・優先権などにも繋がるわけだから、簡単に書き込むのはどうかと私は考える。(こういった理由から私は私自身が直接行なっている研究に関しては書かないようにしている。)

まあ、正直、良い大人が毎日自分は何食った、何した、何を研究したなどとかいている人物の”精神構造”は私は理解できない。まるで小学生並みである。ましてや、学校の教職員であればなおさらである。啓蒙活動や研究紹介は、きちんとした公の場を通じて行なえば良いわけだし、それをする場は大学関係者には無数に用意されているはずだからである。

とまあ、この陰湿な事件に刺激されていくつか書いてきたが、時代はどんどん進む。だから、しかるべき組織もそれに応じてどんどんreform(改革)されてしかるべきだろう。
2006/12/03のBlog
[ 19:41 ] [ サッカーJリーグ ]
ブッフバルト監督の浦和レッズ、とうとう初優勝。やはりワールドカップ優勝経験者、プロ魂を見事に浦和レッズに浸透させたようである。

セ大阪の塚田監督が辞任 J2降格で引責

一方、私が現役の頃のライバルで韮崎高校全国大会初優勝時の主将だった塚田雄二監督(48)がJ2降格の責任を取り辞任。

ヴァンフォーレ甲府、ガンバ大阪、そしてセレッソ大阪と監督経験したが、その都度結果を出せなかったようだ。サッカーは奥が深い。もっと勉強が必要ということだろう。
2006/12/02のBlog
生命の起源?隕石から発見 原始太陽系の有機物
地球生命の源、隕石から? 原始太陽系の有機物発見

NASAの研究者中村圭子博士のグループが、カナダ北西部に落ちた隕石から46億年前の原始太陽系内で形成されたと考えられる”有機物”を発見したという極めて面白いニュース。

私は今後10年で「生命の起原」、「生命とは何か」、「死んだ物質と生きた物質の境は何か」という問題を研究していくことにして、現在あらゆることを模索している段階である。それゆえ、こういう話題には目がない。実に面白い。

「生命の起原」に関して、当然ながらおおまかに2種類の考え方がある。

1つは、地球生命の素は、”地球上で生成された”とするもの。もう1つは、地球生命の素は、”宇宙から飛来した”とするものである。後者は、これまでの地球人の常識に反するので、特に特別の言葉をつけられて「パンスペルミア(panspermia)説(地球外生命飛来説)」と呼ばれる。

最近、県立図書館に行った時、「日経サイエンス(Scientific American)」の今年の号の中の興味深い記事を全部コピーしたのだが、その中に「地球外生命飛来説を検証する」(2006年2月号30ページ)という記事があった。今回のこのニュースは、この記事を読んで考えると非常に理解が深まるだろう。

さて、「生命とは何か」、「生命の起原」を知るためにもっとも直接的方法は、死んだ物質から生きた生命体をつくり出すことである。これを衆目の前で実現して見せられれば、文句無しのノーベル賞である。(パソコンの仕組みを”本当に”理解しようとすれば、自分でパソコンを組み立てられれば本当に理解したことになる。これと同じである。)

しかし、これが簡単にできない。だから研究者は悩む。

ある者は、しかたないからコンピュータ内で人工的に生命現象を再現しようとする(これが人工生命の研究)。ある者は、いきなり細胞は作れないから、タンパク質やRNAやDNAで自己複製を再現しようとする。ある者は、それも難しいから、生きた細胞をいったんすり潰して殺し、そのパーツを拾い集めて再び細胞に変わるか再現しようとする。こういったことも非常に難しいから、ある者は、少なくとも生命のパーツそのものが、原始地球の大気状態から生成できるのか再現しようとする。

こんなふうな研究が現在も世界の幾多の研究所や研究室で行なわれている。しかしながら、こういった問題の背後で大きく立ちはだかる別の問題がある。

例えば、地球上の生命のパーツはタンパク質やRNAやDNAなどを中心にできているが、これらの高分子には特有のねじれ構造がある。タンパク質は、アミノ酸でできているが、そのアミノ酸には右左の鏡像の2種類のものがある。核酸でもリボ核酸でも同様である。科学的にアミノ酸を作ればかならず左右同等の確率で生じる。しかし地球上の生命にはその片一方しか使われていない。これが、「パスツールのパラドックス」と呼ばれるものである。

どうして地球上の生命は一方のみを使うのか。

この答えとして、一見突飛な考えとして生まれたのが、「パンスペルミア説(地球外生命飛来説)」であった。

左右の違いは、それぞれの分子の安定性の差に繋がる。それゆえ、地球に来るまで天文学的な長時間が過ぎれば、いつもどちらかの分子だけが生き残るはずである。それゆえ、生命の起原の素となるパーツ分子は地球外からやってきた。

こういう考えである。今回の大発見はこのアイデアを支持する。

もちろん、生命がどこでできようが生命が誕生する原理はいっしょのはずである。だから、地球上で誕生できなければ、宇宙で誕生できるはずもない、という別の有力な反論もある。

さて、昨日、オカルトやムー的話題の”オーパーツ”の話をしたが、そのついでに書いておくと、実は隕石にも”オーパーツ”がある。

今回は世界でもっとも権威あるアメリカのNASAが発表したもので、世界中のニュースとなった。このニュースの中で無視してはいけないのは、タンパク質の組成が宇宙飛来を支持したというばかりでなく、

「球形で中が空洞の有機物を26個見つけ出した」

という事実である。

実は、「ムー」に出ていた記事だが、世界各地で「隕石の後に血の雨が降る」という現象が見つかっている。これは、インドで隕石が流れ星のようになって降り注いだ後、突然天から血の雨が降ったという驚くべき現象のことである。これが、調べて見ると、かなり昔からあり、世界各地で記録されていたというのである。最近、この現象がインド近郊で起こったので、イギリスの研究者が、その血の成分を調べたところ、中には生物の赤血球ではなく、「血の色の素は、中空の有機物であった」、という記事であった。

このことから、今回のNASAの発表以前にも世界各地にこういった地球外から飛来する隕石によってもたらされた有機物はたくさんあるかも知れないということになる。

このことからも、有機物は地球上で誕生したのではなく、宇宙のどこかで太陽系が出来上がる時に誕生したのだという説にも一理ある。

さらに、白川英樹博士がノーベル化学賞を受賞した「ポリアセチレン合成」の研究を知れば分かるが、ポリアセチレンは空気内ではできない。かなりの”真空状態”を作らないとポリアセチレンは生成できない。さらには、材料物質と触媒が”どろどろの粘土”のような状態にならないと、長い高分子はできない。

この”白川ポリアセチレン”研究が生命起原研究に利用されたという話は私はまだ知らないので、高分子合成研究の知識が使われているとは思えない。

しかし、こういったすべてを一貫的に理解しようとすれば、生命の素となる物質、それを高分子に反応させる触媒の存在、そして真空状態の必要性などを考えると、地球上で誕生したのであれば、まだ大気の存在していないかなり初期から、あるいは大気の存在しない宇宙で、生命の素は誕生したというシナリオができそうである。

もちろん、もっとオカルト的に、「地球生命は、地球外の宇宙人が作った」という説、あるいは「宇宙人が地球に向けて生命を打ち込んだ」という説、あるいは「別の惑星や別の星から移住した」という説などもある。

果たして今後もっと研究が進めば、いつかこの問題の決着がつく日が来るかも知れない。
2006/12/01のBlog
世界最古の計算機か ギリシャ、月食も予測

オカルト好き、ムー好きなら「アンティキティラの歯車」として常識であるオーパーツが、「世界最古の青銅製の精密な計算機である」ということが確認されたというニュース。

これは、ギリシャ南部アンティキチラ島沖で1901年に沈没船から発見された遺物。俗に高度文明アトランティス文明の遺産ではないかと想像されてきたものである。先史文明の高度な科学技術を物語る証拠であると多くの先史文明研究者の間では有力な証拠とされてきたものである。

しかし、これまでいわゆる現代の普通の科学者たちは”まゆつばもの”とオーパーツの称号とともに無視してきたものである。要するに、精巧な歯車に見えるのも、何かの間違い。何かの拍子に偶然歯車に見えるものができたに過ぎない、というように反論してきたわけである。

今回、これが否定された。X線で内部構造を透視し、内部にあるさまざまなパーツを複製し、見事に新品として”蘇らせる”ことに成功したからである。


さて、有名なオーパーツには以下のものがある。

(1)ルバアントゥン(ベリーズ)やアステカの遺跡で発見されたとされる水晶髑髏
水晶髑髏そのものは複数存在するがその中で最も精巧に作られたもので、宗教的用途のために制作されたと言われる。数世代(100年以上)かけて水晶を磨き上げれば、当時の技術でも製作は可能とされる。十数個体のうちのひとつは、1944年にオークションで買われたものであることが判明しており、19世紀後半にドイツで作られたとされる。美術品としては立派な作品である(おそらくは最も有名と思われる物が「ミッチェル・ヘッジスの水晶髑髏」である。)。
(2)コロンビアの黄金スペースシャトル
飛行機(デルタ翼機)そっくりの黄金で作られた工芸品。ただし、プレコという鯰の一種をかたどったシヌー文化の遺物であると指摘されている。プレコの外見はデルタ翼機に良く似ている。
(3)コロンビアの発生学円盤
南米で出土した約6000年前の遺物。人間の生命の誕生の経過が描かれているという説がある。
(4)ペルーの世界各地の人々の胸像
アジア系や黒人、白人といった人種の特徴が表れている。
(5)コスタリカの石球
専門の職人が数十年かければ製作可能とされる。ただし、現代の腕の立つ職人でも20センチの石球が限界ともいわれる。
(6)ピリ・レイスの地図
当時未発見の南極大陸の海岸線が書き込まれているとされる。他方で、南米大陸が歪んでいるだけとの批判もある。なお、南米大陸の歪みに関しては、衛星写真と同様の大陸の歪みに酷似しているとの指摘があるほか、海岸線の不一致部分に関して海底地形(大陸棚)に酷似しているとの指摘もなされている。ただし、その他の部分は概してめちゃくちゃな地形が書かれている。
(7)アショーカ王の柱(アショカ・ピラー)
数百年間雨晒しにもかかわらずほとんど錆びていない、通称「錆びない鉄柱」。表面に形成されたリンの酸化物の皮膜による偶然の産物である。だから、空気に触れにくい地下部分は腐蝕している。
(8)アンティキティラ島の機械 (これが今回のニュースのもの)
ギリシャのアンティキティラ島近海で発見された青銅製の歯車の組み合わせによる差動歯車機構。歯車は青銅の円盤を手作業でヤスリがけして制作したと推定されている。復元したところ、太陽、月などの運行を示すものであった。(星の未来位置を計算して占星術に使ったと考えられることから、「エーゲ海のパソコン」と呼ぶ研究者もいる)
(9)宇宙飛行士の彫刻
マヤのパレンケ遺跡、「碑銘の神殿」のパカル王の石棺に蓋に刻まれたレリーフ。ロケットとその操縦士を描いたものとして有名であった。しかし、リンダ・シーリーの図像分析によって生命樹であることが明らかにされている。
(10)恐竜土偶
恐竜そっくりの形の土偶。半獣半人や羽の生えた竜のような土偶もあり、それら全てが実在の生物とするのには無理があるため、恐竜に似た像を中心に議論を組み立てるのは適切でないとする反論もある。また、土偶の表面に土中塩類の付着が無く、発掘の際に埋め戻した痕跡が発見されたことなどから、捏造説もある。
(11)古代エジプトのグライダー
実は小鳥の玩具。「オーパーツ」扱いしている本は常に上面や後ろからの写真しか載せないが、前からみれば、立派な目とくちばしが書いてある。しかも実物はかなり小さくタバコの箱ぐらいの大きさである。
(12)聖徳太子の地球儀
聖徳太子とは関係ない江戸時代のもの。
(13)アビドス神殿の壁画
ヘリコプター・潜水艦・戦闘機などに見える絵が描かれている。しかし実際には、ヒエログリフが書き直しによって重なり、そのような形状に見えるだけである。
(14)ハトホル神殿の壁画
フィラメントの入った電球らしき絵が描かれている。
(15)サッカラのフライホイール
エジプト第1王朝のアジブ王の皇太子サブーの墓から見つかった。紀元前32世紀頃のものである。
(16)プレインカの貝殻製ビーズと超極細糸
貝殻を素材にしたビーズに直径0.3mmという穴を開け、そこに糸を通して工芸品が作られている。現代の技術でも製作は不可能と称される。
(17)インドのヴィマーナ
インドの聖典『ヤジェル・ヴェーダ』や叙情詩『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』に登場する飛行船。また、紀元前10世紀以前に書かれた『ヴァイマーニカ・シャストラ』にはその操縦法が書かれている。この『ヴァイマーニカ・シャストラ』は、ヴァラドヴァージャが書いた全8章からなる幻の大原典『ヤントラ・サルヴァスパ』を元に書かれたものである。
(18)バグダッド電池
めっきに利用されたと考えられているが、これを実証したとする実験では、蓋が無かった。実物はアスファルトでふたがしてあったようである。実際のところ、蓋がしてあると電流は短時間しか発生しないのでめっきには使えなさそうである。
(19)古代中国のアルミニウム製ベルトバックル
6世紀ごろの武将の墓からアルミニウム製のベルトバックル(帯止め)が出土したとして話題になったことがある(アルミニウムが単体として分離されたのは19世紀になってからというのが化学史の定説である)。しかし、実際は帯止めそのものを分析したわけではなく一緒に出土した小さな欠片を分析した事が後の調査で判明した。帯止めそのものは分析の結果アルミニウム製ではなく銀製であった。しかも分析した被検体の欠片は後世に墓が盗掘を受けた際に混入したものであった。第一報のみが広く伝わり、後に出された訂正の報告を知らないまま(あるいは無視して?)「古代中国にアルミニウムの精製技術が存在した」と書いている本などがある。
(20)ヴォイニック写本(「ヴォイニッチ手稿」)
1416世紀頃に作成された、未解読の文字と多数の挿絵が書かれた古文書。
(21)アッシリアの水晶レンズ
紀元前7世紀の古代アッシリアの墓から発見された水晶製のレンズ。実際には象嵌に使用されたものでレンズとしての効果は偶然の産物であるとの見解が有力である。
(22)カブレラストーン
恐竜や心臓手術など、時代的にあり得ない絵が刻み込まれている。ただし、BBCの取材で捏造した人物や作り方も発覚している。
(23)コソの点火プラグ
50万年前のものとされる石の中に埋まっていたとされる、点火プラグのような金属部品。複数の点火プラグの専門家は、1920年代にアメリカで製造されたチャンピオン社製の点火プラグそのものと鑑定している。また、「石」ではなく、固まった泥の中から出てきている。50万年前とする年代測定が実際に行われたかどうかも不明。現物は現在行方不明となっている。
(24)エクアドルのピラミッド
エクアドルで発見された用途不明のピラミッド型工芸品。
(25)ペルーの古代アンデスの頭蓋骨手術
2000年以上も前に行われた頭蓋骨の外科手術の跡。ただし、頭蓋骨の一部を取り除くことは他の文明圏でも見られる。
(26)ナスカの地上絵
農耕用水路だとする意見あり。小さな下絵を描き、それを拡大するという手法で作成は可能。衛星写真で見なければ全体像が判らないようなものをなぜ作ったのかは不明だが、神に捧げたという説もある。
(27)モヘンジョダロ
核爆発の痕跡らしき場所が存在し、その場所では今もなおガイガーカウンターが反応するとの主張がある。
(28)マチュ・ピチュ
地球の重力を無視したような構造物が多々ある。逆さになった階段など。
(29)ビミニロード
海底に石畳の道のような構造物がある。アトランティス文明の遺跡であると主張する者もいるが、自然に浸食された地形であるとする反論もある。
(30)沖縄県与那国島の海底遺跡
海底に「神殿」や「階段」と呼ばれる遺跡のような石造物が存在しているが、ビミニロードと同様に自然に形成された地形であるとする反論もある。また、遺跡とするには「階段」の段差が人間が昇降するには大きすぎるなど不自然な点も多いという意見がある。また、遺跡としても一万年ほど水中にあったにしては構造が鋭角的過ぎるため、氷河期以前の文明の遺物では無いと言う説もある。
(31)ストーンヘンジ
古代の天文観測所といわれている。再現実験でも確認済み。
(32)カルナックの列石
(33)太平洋と中南米の石像群
(34)カッパドキア
奇岩大地の地下にキリスト教信者が作ったとされる超巨大地下都市。通気孔や井戸といった設備を備えている。
(35)ファロスストーン
ロケット状のものが彫られている。
(36)パラクシー河の足跡化石
恐竜と人間の足跡が同時に化石化していると信奉者は主張している。実際は創造科学論者が小型恐竜の足跡化石に加工をして人間の足跡に見えるようにしたものであることが判明している。
(37)ナン・マトールの遺跡
六角柱の石材で建築物が建てられている。高度な石材加工技術が必要であり、ムー大陸の遺跡であると主張する論者がいるが、ムー大陸は科学的側面から存在が否定されている。また、遺跡自体がそれほど古いものでもない。実際には玄武岩の柱状節理をそのまま利用しているだけであるという見解がある。
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ところで、大分前に
牛若丸こと源義経は出っ歯だったか?
日本人の起源
脳を大きくする遺伝子発見?
などで紹介した「生物学的オーパーツの研究」も実に面白そうだと私は感じる。”ムイラン人”や”長頭人”や”20cm人”の頭蓋骨からDNAを抽出し、その遺伝子を解読する。そして現代人と比較する、というような研究を行なうのである。

ちなみに”ムイラン人”とは、アルジェリアとモロッコの海岸地方でネアンデルタール人の発掘していた考古学グループが1万2千年前の地層から見つけた人骨。
”長頭人”は、世界中で見つかっている現代人の3倍ほどの脳の容量を持つ頭蓋骨。
”20cm人”は南米の森で見つかった身長”20cm”程度の昆虫的な人間のミイラ。

この他にも生物学的オーパーツは多々ある。身長10m、7m、5m、3m、2mの古代人骨もある。こういった生物学的オーパーツの現代科学的研究は非常に興味深い。

いずれにせよ、世の中には摩訶不思議なことは多いもので、もっとこういった”気狂いじみた”ことを真面目に(つまり現代科学的に)研究する研究者が増えて欲しいものである。「科学、科学、科学」と言って、文明破壊兵器や工業製品ばかり作って環境破壊している現代人の研究より、オーパーツの真偽でも研究している方がはるかに平和的で人類の英知に繋がる。”トンデモ”大いに結構ではないか。一生分けの分からないことに費やす。この方がはるかに人類にとっては平和的だと私は思う。
サッカー女子、ヨルダンに大勝 アジア大会

30日、アジア大会2次リーグ:日本13-0ヨルダンで大勝。

これら2試合を見たが、メダルに近いのは、日本女子の方かも知れない。というのは、こういう理由からだ。

女子サッカーの場合には、まだアジア諸国の多くには文化的・宗教的理由から女性差別が残っている。それゆえ、女子サッカーがさかんな国はそれほどない。日本、中国、韓国くらいのものだろう。したがって、上位国と下位国とには力の差がかなりある。

昨夜のヨルダン戦は、まさにそんな感じの試合であった。日本女子の最大のライバルは、韓国、中国であろう。これに旧ソ連から独立した国々。だから、日本女子がメダルを取れる可能性は高い。

一方、日本男子サッカーは、アジアといえども非常に厳しいものがある。というのは、次にような理由からだ。

サッカーはワールドスポーツ。アジアといえどもどこの国でもサッカーをし、しない国はないほどである。またアジアといえども日本人の身体能力が特にすぐれているということはない。強豪韓国、中国他、タイ、ヴェトナム、旧ソ連の国々、そして中東のイスラム国。

1昨日のパキスタンは全くノーマークの国で、それほどサッカー熱の高い国ではないはずだが、強豪日本を相手に非常にすばらしいサッカーをした。この試合の前半は日本が実力の差を見せつけ、すぐに3-0となったが、後半から徐々にゲーム支配され、あわよくば同点にされるという危ない試合であった。日本男子は後半まったく足が止まり、良いところはなかった。本来なら日本女子のような試合展開となるはずであった。よほど体調が悪いのか、理由は良く分からないが、コンディションは良くないようであった。

特にダメだったのは、平山選手であった。ここ最近の平山選手のプレーをずっと見てきているが、この選手は筑波大学に入学して以来良いところがない。190cmの長身という最高のフィジカル面を持ちながら、一向に成長の兆しがない。オランダへ行って成長したのかと思っていたら、帰国するなり「オランダは合わなかった。何もかも嫌いでした」と言うというような有り様。自分がオランダ語の読み書きを勉強してアウェーのオランダに適応しようとするでもなく、ただただ帰国を待っていたらしい。どうやらこの選手の根性は相当に”歪んでいる”ように見える。

ところで、この選手も国見出身。セレッソの大久保も国見のエースだった。このことから、国見の監督は選手の精神性に関してはまったく指導せずに野放しで甘えさせているに違いない。「サッカーが上手ければ何してもいいんだ」というような感じであろう。野球では今年日本ハムのエースになったダルビッシュ投手を育てた高校も似たような感じであった。この辺りが日本のスポーツの今後の問題であろう。

とにかく平山選手はことごとくチャンスをミスショットでつぶしてしまった。全くゴール枠を捕らえられない。そうしているうちに日本のリズムが悪くなり、2失点して、最後はワンサイドで攻め込まれてしまったのである。平山は途中交代したが、交代した選手の方がはるかにシャープな動きであった。

いずれにせよ、どうして反町監督はこれほど”凡庸な”平山を代表に使うのか、この辺が理解できない。交代した平山の背中をまるで「よくやったぞ」というふうに叩く監督やコーチの姿に私は非常に違和感を感じた。この試合では”無視”するか、”怒る”べきであった。

”アウェーに強い選手がいい選手である”

というドゥンガ(元ジュビロ磐田、元ブラジル代表キャプテン、現ブラジル代表監督)の言葉を反町監督はお忘れになったのだろうか。オシムの言葉も良いが、日本の中田英寿が日本代表としてすべての年代の代表経験したように、しかしそのさらに上を行って、すべてのレベルすべての年代で世界優勝を経験した世界のサッカー界唯一の選手であるドゥンガの言葉は無視できないだろう。
2006/11/30のBlog
写真:故小杉健郎博士(こすぎ・たけお=宇宙航空研究開発機構教授・研究総主幹)が推進した太陽観測衛星「ひので」の撮った太陽映像(宇宙航空研究開発機構教授の小杉健郎さん死去 2006年11月27日


[研究費流用対策]「重くなる大学などの管理責任」

「乞食と大学教授は一度やったらやめられない」

というが、この言葉は恐らく”真実”である。しかし、”やめられない”という意味はそれぞれ異なる。これほどに”好対照な”ものもめずらしい。

乞食の場合には、一度乞食の立場に陥ると、「社会の敗者」としてさまざまな”悪循環”に陥り、なかなかその立場から這い上がることができずに”やめられない”のである。一方、大学教授の場合は、一度大学教授の立場に就くと、「社会の勝者」としてさまざまな”メリットや優遇制度”がありすぎて、人生においてこれを失うことはもはや考えられなくなり”やめられない”のである。

乞食には社会的地位などありようもなく、日々をいかに生き抜くかが毎日の目的となる。一方、大学教授は地位が高く、最高級の給料も得られるがために、日々いかにその地位を保守するかが毎日の目的となる。

乞食もどこかで働けばその分所得税を取られる。コンビニで何かを買えばその分消費税を支払う。どこかに行くのに交通機関を使えばその際もガソリン税を支払う。しかし大学教授が働けばその分全部税金から高額の給料が支給される。何かを買えば税金で買う。どこかに行くのに交通機関を使えばその際も全部税金から支払われる。

乞食は自信喪失しともすれば自殺志願者となるが、大学教授は自信過剰となりともすれば長生きして長寿者となる。

こんな対比がえんえんと続く。しかしながら、”共通する面”もある。それは、どちらも「社会的責任が低い」ということである。

乞食に社会的責任などありようもない。公園に居住しようが、森にテントを張ろうが、駅に住もうがどうでも良い。ゴミをあさろうが、物乞いをしようが、生き抜くためにはしかたがない。

一方、大学教授も何をしようが自由という意味で社会的責任などありようもない。学生をこき使おうが自由、セクハラしようが自由、カラ出張しようが自由、失踪しようが自由、講議さぼろうが自由、年度末調整しようが自由、裏金を作ろうが自由、というようなことが長いこと認められてきた。

大学教授の生み出す作品は、あまりにアカデミックで一般社会では直接の価値はない。売れるものではないし、将来使い物になるかならないかも分からないものである。大学教授は頭は良いのでその頭を社会で悪さをするのに使なければ良い。だから大学教授に適当な自由を与えても何ら社会に直接の影響はないだろう。

とまあ、こんな感じでこれまで日本社会では大学教授の「自由」はその「性善説」と共に放置されてきたわけである。

今回の記事は、文部科学省の通達「大学で相次ぐ研究費不正使用、文科省が防止策まとめる」を受けて大学教授に奢らず胸襟を正しフンドシの紐を締め直せと諭したというものである。

1995年に橋本内閣の時「科学技術基本法」ができ、事実上、道路建設中心の土建業行政から科学技術行政へと政策転換が行なわれた(歴代の首相)。

1995年以前は、これまではずっと「地方の道路やダムや治水工事やレクリエーション施設」などの建設が「公共事業」の中心となっていた(これが「土地バブル」、「建設バブル」というものの根源であった)。しかしこれ以後、今度は都市部に存在する「大学や病院や研究所」などの建設が「公共事業」の中心へと変わっていったわけである(これが今度は「研究バブル」、「大学バブル」を生んできたのである)。

この一大方針転換のおかげで、「土地バブル」、「建設バブル」時代に端緒についた地方の公共事業は、今度は完成を見る間もなく、ほとんどが建設途中で中断、切り捨て、破棄されて、今や”遺跡”化して無惨に置き去りにされているのである。方や、大学や研究所などは、土地バブル全盛期のように、建築ラッシュの時代へと変遷したのである。

これが、現在の東京などの「都市部と地方の地域格差」を助長した直接の原因である。

実は、この基本路線変革の動機は、オフィスオートメーションから始まったディジタル革命、そして世界の潮流となっていたインターネット技術革命であった。IT技術に遅れてはならないという日本政府の危機感から当時一番欧米に追い付き起こせがしやすかった大学や研究所などの知的機関を後押しすることがその目的に最短であったからである。もちろんそれを行える高度な人材はこうした場所にしかいなかったからである。

こうして日本国内の都市部に存在する大学群や研究所群を中心にIT化が進むように「科学技術基本法」を作って年間2、3兆円もの投資が行えるようにしたわけである。

ところが、10年経ってみると、私腹を肥やした大学教授、医者、事務官などばかりとなってしまったというわけである。

ところで、この問題で質が悪いのは、”今”の大学教授や大学人は自分達がこの社会の中で一番頭が良い人種である、あるいは一番賢い人種であると堅く信じているということなのである。ある意味で「ユダヤ化」と言っても良い。一種の「選民思想」がこの10年で大学教授や大学スタッフを中心に芽生えてきているらしいということである。

しかし、この問題に気付いているマスコミはまだいない。

これは大学がブランド化し、学生達もブランド指向となり、そうした意識を持った学生が今度は現在の指導層となっていったという背景の中で生じてきたものである。これが不正する学者や医者の精神構造の基調となっているわけである。ホリエモンや村上ファンドの村上を見れば私が何を言いたいか分かるだろう。彼等と同じような精神性を持つ大学教授や研究者ばかりとなっているということである。

昔は(ある意味で)良かった。

昔の学者は、金も地位もそれほどなく、良い意味の治外法権で貧しい研究費の中、自分の頭脳と努力次第で自由にやれた。欧米人とのつき合いもなく、欧米からの膨大な情報伝達もなく、欧米との熾烈な競争意識の中で研究する必要もなかった。逆説的だが、これが良かった。そのおかげで、独創的な研究が生まれたのである。

今はこれとは全く逆である。

これは欧米人社会の中でも同じだと聞く。昔の欧米人の研究の方が今よりは良かったのである。最近では、「米サイエンス誌が論文の審査厳格化、韓国の不正受けて」のように、度重なる不正論文のおかげで、方針転換せざるを得ないところまできたからである。

これも科学もすでにフラーの言う「グランチ オブ ジャイアンツ」となってしまったからである。つまり、「科学もビッグビジネスになった」ということである。ビジネスに自由が存在しないのは当たり前。そんな時代へと科学も変化したのだ。

では、「自由に行える科学」、「科学の自由な楽園」とはどこにあるのか?

私にはよく分からないが、それは自分の内にしかないのではないかと思う。

果たしてこの答えは何か?
2006/11/28のBlog
欧州最優秀サッカー選手にレアルのカンナバーロ

”バロンドール”(仏語で「黄金のボール」)とは、プロサッカー選手ならだれもが望むサッカーの殿堂に輝く「黄金のサッカーボール」のことである。これは、欧州最優秀選手に捧げられる。

ワールドカップ・ドイツ大会イタリア優勝の立て役者、ディフェンダーのカンナバーロ選手が2006年度のバロンドールに輝いた。昨年のブラジルのロナウジーニョ選手からカンナバーロ選手に移った。やはりワールドカップ優勝の貢献が評価されたようだ。

おめでとう、カンナバーロ。

君の”捨て身の鉄壁ディフェンス”はだれもが忘れないだろう。
2006/11/27のBlog
横浜FC、優勝でJ1へ 鳥栖下し初昇格決める
J2横浜、初優勝でJ1昇格決定

横浜FCの前身は、「J1横浜フリューゲルス」である。横浜フリューゲルスは、当時ワールドカップ・フランス大会のブラジル代表に選ばれ、フランス大会初得点を取ったサンパイヨが所属し、98年のJ1で初優勝した。しかしリーグ優勝したにもかかわらず、横浜フリューゲルスはスポンサー企業の撤退などを余儀無くされ、たくさんの優良なサポーターがいたにもかかわらず事実上の解散したのであった。しかし、それに業を煮やした横浜フリューゲルスのサポーターたちが有志を募り会社事務所を開設、サポーター自身が中心となって99年に結成した市民クラブが「横浜FC」であった。

最初の監督は、ドイツ代表でイタリア大会優勝経験者のリトバルスキーであった。最初はJリーグのずっと下の市民サッカーレベルから再出発を余儀無くされた。しかし、各リーグで優勝し、徐々に上昇し、2000年にJ2の下のJFLに入り優勝。そしてついに2001年にJ2に昇格した。そして今年苦節8年の歳月を経て”J2初優勝”&”J1昇格”を遂げたという物語である。

この間、初代監督のリトバルスキーから始まり、日本人最初のプロサッカー選手の奥寺をジェネラルマネージャーに迎えた。今年Jリーグ初期の英雄の三浦知良、フランス大会の日本代表時代のトップの城、MFの山口、DFの小村、そしてトップの高木を監督として迎えた。

そしてついに、悪夢を見た「J1横浜フリューゲルス」は「横浜FC」としてJ1復活を遂げたのである。実にすばらしい快進撃であった。

この立て役者は、城選手であるが、城選手は今期限りで選手引退し、今後は指導者の道を目指すという。

城選手、ほんとに御苦労さん。お疲れさま。

「横浜FC」の来シーズンの活躍を期待したい。