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2007/01/31のBlog
[ 15:06 ]
[ 科学ニュース ]
月探査機「ルナーA」計画中止 152億円散る
コップに水がいっぱいあったがあなたは半分まで飲んでしまった。この時、「まだ半分ある」と思うか、「もう半分しかない」と思うかは人による。まだ半分と思う人はイエスタイプ、もう半分と思う人はノータイプである。イエスタイプの人には、直接的に「こうしよう」、「こうですか?」といい、ノータイプの人には、間接的に「こうしないように」、「こうではないですか?」といえばいい。こんな心理学者の話がある。
さて、あなたはすでに16年間で152億円の税金を費やしてしまった。しかしまだ計画は途中で頓挫したまま。こんな時、あなたはどう思うか?
「もう152億円無駄にしてしまった」
と思うか、あるいは、
「まだ152億円しか無駄にしていない」
と思うだろうか。
まさにこんな選択を迫られる話が最初の記事の話題である。
月面に「ペネトレーター」というヤリ形観測機器を打ち込み、内部構造を調べる月探査機「ルナーA」計画(宇宙航空研究開発機構)が事実上中止となったというニュースである。
まったくボランティアでゼロ研究費で研究している私であれば、そんな無駄するとはなんてこった、と言ってもしかたないだろう。
しかし、日に1000万円の出演料、1億円の月収、12億円の年収を得ていると言われている、みのもんたや所ジョージやしんすけやさんまならどういうだろうか?
”16年で152億?1年で10億にもならんのやでー。おれらの年収にも満たんやないけー。そんなんでなんで開発できるん?ウソやろー。ウソちゃうんか?そんなんで月までいけるんやったら、おれら月まで何往復できるん?”
とまあ、こんな声が聞こえて来そうである。どうも科学研究の音頭を取る人たちのしみったれた金銭感覚が税金をどぶに捨てている感じだね。どう見ても桁が1つ足りない感じがする。これでは、ナニワの毎度衛星と良い勝負だろう。
いずれにせよ、こういう開発というのは、成功してなんぼ。失敗すれば無駄になるもの。それゆえ中止というのは、本来あり得ない。中止するなら初めからしないほうがまし。ダム建設と同じ事だろう。成功の見込みがあればずっと根性すえてやるべきだし、見込みがなければ最初から別の事をすべきなのである。
研究費の欲しい私らからすれば、何とも後味の悪い話である。
コップに水がいっぱいあったがあなたは半分まで飲んでしまった。この時、「まだ半分ある」と思うか、「もう半分しかない」と思うかは人による。まだ半分と思う人はイエスタイプ、もう半分と思う人はノータイプである。イエスタイプの人には、直接的に「こうしよう」、「こうですか?」といい、ノータイプの人には、間接的に「こうしないように」、「こうではないですか?」といえばいい。こんな心理学者の話がある。
さて、あなたはすでに16年間で152億円の税金を費やしてしまった。しかしまだ計画は途中で頓挫したまま。こんな時、あなたはどう思うか?
「もう152億円無駄にしてしまった」
と思うか、あるいは、
「まだ152億円しか無駄にしていない」
と思うだろうか。
まさにこんな選択を迫られる話が最初の記事の話題である。
月面に「ペネトレーター」というヤリ形観測機器を打ち込み、内部構造を調べる月探査機「ルナーA」計画(宇宙航空研究開発機構)が事実上中止となったというニュースである。
まったくボランティアでゼロ研究費で研究している私であれば、そんな無駄するとはなんてこった、と言ってもしかたないだろう。
しかし、日に1000万円の出演料、1億円の月収、12億円の年収を得ていると言われている、みのもんたや所ジョージやしんすけやさんまならどういうだろうか?
”16年で152億?1年で10億にもならんのやでー。おれらの年収にも満たんやないけー。そんなんでなんで開発できるん?ウソやろー。ウソちゃうんか?そんなんで月までいけるんやったら、おれら月まで何往復できるん?”
とまあ、こんな声が聞こえて来そうである。どうも科学研究の音頭を取る人たちのしみったれた金銭感覚が税金をどぶに捨てている感じだね。どう見ても桁が1つ足りない感じがする。これでは、ナニワの毎度衛星と良い勝負だろう。
いずれにせよ、こういう開発というのは、成功してなんぼ。失敗すれば無駄になるもの。それゆえ中止というのは、本来あり得ない。中止するなら初めからしないほうがまし。ダム建設と同じ事だろう。成功の見込みがあればずっと根性すえてやるべきだし、見込みがなければ最初から別の事をすべきなのである。
研究費の欲しい私らからすれば、何とも後味の悪い話である。
2007/01/30のBlog
[ 12:50 ]
[ 社会 ]
「あるある」関テレ数十億円の損失か
いやはや、テレビマスコミの”現実”が次第に明らかになってきた。関西テレビ制作の情報番組「発掘!あるある大事典2」の「◯◯ダイエット」というようなものが、ほとんどが”嘘”、捏造らしいということが発覚してきたのである。
昨今のテレビは、”いい加減なネタ”の記事を出す週間芸能雑誌と同じように、”いい加減なネタ”の番組を作っているという証である。一方で週刊誌の乗りで番組を作っておきながら、その一方で「公共放送」という”正義感ぶり”をしているのである。
この関西テレビの常連も吉本興業のタレント達であるが、人前では正義感ぶって他人の起こした事件を評してさんざん悪口を叩いておきながら、陰では自分達は風俗店で豪遊しているというわけである。表と裏を見事に使い分けているわけだ。
こういう”悪徳吉本文化”の中で関西テレビも育っているわけだから、インチキは当然のこととなる。要するに、大阪人特有の論理、「なんでもありあり売れりゃー良いのさ大事典」となるのである。
こうしてみると、「発掘!あるある大事典2」のタイトルそのものが、実は何でもありの大阪人が作ったとさえ思われてくるからか摩訶不思議である。
では、志村ケンの番組ばかりでなく、みのもんたの番組や所ジョージの番組はどうか、ということになる。おそらく、みんな似たような手法を使っているのではないだろうか。見た目には、ほとんど同じような構成になっているからである。
しかし、こういった番組司会者はのんきなものである。自分が話す”内容の真偽”などどうでもいいからである。内容が正しければ自分が得をし、内容が間違っていれば、その人や作成者を非難すればいいのだからだ。どっちみち、番組に出演し続けられれば1時間の出演料数百万円(普通の人の年収以上)を獲得できるからである。
ところで、私は善人面した所ジョージやみのもんたやしんすけは大嫌いである。なぜなら、「日本は大変な国になった」とか言いながら、実は自分よりお金のない人々がお金がないことのために起こしたことを自分の番組のネタにして自分は大儲けしているからである。また、「事件」をネタにして自分が儲けるからである。他人の不幸を自分の利益に変える。こういう行為はいただけないからである(こういうのを”悪魔的”という)。自分がリッチで他人が不幸なのであれば、番組などで取り上げるまでもなく、リッチな人が不幸な人をただ援助すればいいだけだからである。ところが、みのもんたは飲み歩くだけ、所ジョージは趣味に浪費、しんすけは私腹を肥やすだけだからである。
「それが経済さ」と言ってしまえば単純だが、そういうものではない。古来よりどこの国にも、善人面した所ジョージやみのもんたやしんすけのような人物はいて、そういうものを「偽善者」と呼ぶ。しかし、こういう人物が人気を得るのが今の「品格のない日本」の特徴なのである。
中田英寿とて同類と言える。自分1人で旅をしたいという。一人旅はいい。人を成長させる。しかし、実はいつもマネージャーもつき、カメラマンも同伴。行く先々で話題を作って何かの番組を作る。ワールドカップサッカーでもチームにだまって自分だけの番組を作る。これでは人はついてこない。引退したならもうサッカー選手ではない。一旦サッカー選手のユニフォームを脱いだ以上、それをネタに番組は作るべきではない。旅をするなら、だれもつけず、個人として旅を続けるべきである。密かに本のため、写真集のためにやるのであるなら、”一人旅”という嘘はつくべきではない。それがサッカー少年のためだからである。”サッカーは単なるスポーツではない”。そこが野球と違うところである。
ましてや、いつも思う事だが、テレビでちまたで売られている新聞や雑誌を取り上げて簡単に紹介してニュース番組だと思っているバカ番組の類いは”やらせ”ではないのか。少なくとも、これは公共放送としての資格はない。というのは、これは立派な「プレイジャリズム」=「他人の記事の無断盗用」だからである。許可なく、他人の記事を営業目的では披露できないのが普通の常識である。がしかし、得意満面でテレビ番組の中でそれを読んでいるばか者たちがいる。
私の個人的観点からは、こっちの方が実は「あるある大事典」より悪質なのである。
なぜなら、もしこういう形が普通のこととなれば、真面目に取材するものほど損をすることになるからである。取材、取材費、取材時間、取材記事作成などさまざまな苦労のもとに作った商品である新聞や雑誌の記事が、テレビ局は新聞雑誌を一般消費者同様の安さで買って自分の番組に使えるからである。これでは、マトモな記者は減ってしまう。育たない。
こういう風潮がマトモな番組作りをないがしろにする文化を生み出すのである。そうして、今回の事件のようなものを産む。
これまた、安倍さん好みの、日本の”美しくない”ところだ。
いやはや、テレビマスコミの”現実”が次第に明らかになってきた。関西テレビ制作の情報番組「発掘!あるある大事典2」の「◯◯ダイエット」というようなものが、ほとんどが”嘘”、捏造らしいということが発覚してきたのである。
昨今のテレビは、”いい加減なネタ”の記事を出す週間芸能雑誌と同じように、”いい加減なネタ”の番組を作っているという証である。一方で週刊誌の乗りで番組を作っておきながら、その一方で「公共放送」という”正義感ぶり”をしているのである。
この関西テレビの常連も吉本興業のタレント達であるが、人前では正義感ぶって他人の起こした事件を評してさんざん悪口を叩いておきながら、陰では自分達は風俗店で豪遊しているというわけである。表と裏を見事に使い分けているわけだ。
こういう”悪徳吉本文化”の中で関西テレビも育っているわけだから、インチキは当然のこととなる。要するに、大阪人特有の論理、「なんでもありあり売れりゃー良いのさ大事典」となるのである。
こうしてみると、「発掘!あるある大事典2」のタイトルそのものが、実は何でもありの大阪人が作ったとさえ思われてくるからか摩訶不思議である。
では、志村ケンの番組ばかりでなく、みのもんたの番組や所ジョージの番組はどうか、ということになる。おそらく、みんな似たような手法を使っているのではないだろうか。見た目には、ほとんど同じような構成になっているからである。
しかし、こういった番組司会者はのんきなものである。自分が話す”内容の真偽”などどうでもいいからである。内容が正しければ自分が得をし、内容が間違っていれば、その人や作成者を非難すればいいのだからだ。どっちみち、番組に出演し続けられれば1時間の出演料数百万円(普通の人の年収以上)を獲得できるからである。
ところで、私は善人面した所ジョージやみのもんたやしんすけは大嫌いである。なぜなら、「日本は大変な国になった」とか言いながら、実は自分よりお金のない人々がお金がないことのために起こしたことを自分の番組のネタにして自分は大儲けしているからである。また、「事件」をネタにして自分が儲けるからである。他人の不幸を自分の利益に変える。こういう行為はいただけないからである(こういうのを”悪魔的”という)。自分がリッチで他人が不幸なのであれば、番組などで取り上げるまでもなく、リッチな人が不幸な人をただ援助すればいいだけだからである。ところが、みのもんたは飲み歩くだけ、所ジョージは趣味に浪費、しんすけは私腹を肥やすだけだからである。
「それが経済さ」と言ってしまえば単純だが、そういうものではない。古来よりどこの国にも、善人面した所ジョージやみのもんたやしんすけのような人物はいて、そういうものを「偽善者」と呼ぶ。しかし、こういう人物が人気を得るのが今の「品格のない日本」の特徴なのである。
中田英寿とて同類と言える。自分1人で旅をしたいという。一人旅はいい。人を成長させる。しかし、実はいつもマネージャーもつき、カメラマンも同伴。行く先々で話題を作って何かの番組を作る。ワールドカップサッカーでもチームにだまって自分だけの番組を作る。これでは人はついてこない。引退したならもうサッカー選手ではない。一旦サッカー選手のユニフォームを脱いだ以上、それをネタに番組は作るべきではない。旅をするなら、だれもつけず、個人として旅を続けるべきである。密かに本のため、写真集のためにやるのであるなら、”一人旅”という嘘はつくべきではない。それがサッカー少年のためだからである。”サッカーは単なるスポーツではない”。そこが野球と違うところである。
ましてや、いつも思う事だが、テレビでちまたで売られている新聞や雑誌を取り上げて簡単に紹介してニュース番組だと思っているバカ番組の類いは”やらせ”ではないのか。少なくとも、これは公共放送としての資格はない。というのは、これは立派な「プレイジャリズム」=「他人の記事の無断盗用」だからである。許可なく、他人の記事を営業目的では披露できないのが普通の常識である。がしかし、得意満面でテレビ番組の中でそれを読んでいるばか者たちがいる。
私の個人的観点からは、こっちの方が実は「あるある大事典」より悪質なのである。
なぜなら、もしこういう形が普通のこととなれば、真面目に取材するものほど損をすることになるからである。取材、取材費、取材時間、取材記事作成などさまざまな苦労のもとに作った商品である新聞や雑誌の記事が、テレビ局は新聞雑誌を一般消費者同様の安さで買って自分の番組に使えるからである。これでは、マトモな記者は減ってしまう。育たない。
こういう風潮がマトモな番組作りをないがしろにする文化を生み出すのである。そうして、今回の事件のようなものを産む。
これまた、安倍さん好みの、日本の”美しくない”ところだ。
[ 11:48 ]
[ ジョーク ]
笑いは百薬之長。以下はジョーク。笑い飛ばすことが肝心。信じるなよ。
柳沢厚労大臣が、「女性の10代から50代までは子を産む機械」と発言して失笑をかっているという。
そこで、とある日本の公共放送局が、これこそ人気ばん回のチャンスと各界の著名人に「あなたは女性をどう見ますか?」とインタビューを実施した。
生命科学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりにおぞましい比喩です。生命の誕生こそ生命科学の神秘に他なりません。女性こそ、生命科学の謎とするものなのです。大臣にはぜひ生命科学を勉強してもらいたい。」
工学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに原始的な比喩だね。今やナノテクノロジーの時代。女性こそ、ナノテクノロジーの極致にちがいない。大臣にはぜひナノテクを勉強してもらいたい。」
物理学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりにあいまいな比喩です。たった1つの原子でも量子コンピュータにできます。なのに女性のように原子の集合体が単なる機械であるはずがない。きっとそれ以上のものであるはずです。大臣にはぜひ物理学を勉強してもらいたい。」
数学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに文学的な比喩だね。10代から50代までの女性でも1人目の子、2人目、3人目とちゃんと数えられるではないか。だから、子を産むだけではない。女性こそ、数学に自然数を産んだ張本人なんです。それに、数学は科学の女王というのですぞ。大臣にはぜひ数学を勉強してもらいたい。」
化学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに工学的すぎる比喩です。たった1つの細胞でも無数の化学反応から成り立っている。なのに女性が機械とはお笑いぐさだ。女性こそ、無数の化学反応の連鎖なのです。大臣にはぜひ化学を勉強してもらいたい。」
教育学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに一面的な比喩ですね。子を産むだけではだれがその子を教育するのでしょうか。女性には産むだけではなく、教育者としての面もあるのです。女性こそ、真の教育者の鏡でなくてはならないのです。大臣にはぜひ教育学を勉強してもらいたい。」
社会学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに現実離れした比喩だね。女性にも熟したのと未熟のものがある。だれでも子に恵まれるわけではない。もし女性を機械に例えるのなら、女性の10代から50代までは子を産む可能性のある機械と言うべきだった。大臣にはぜひ社会学を勉強してもらいたい。」
ついでに、その放送局はアダルト関連会社にも聞いてみた。すると、アダルトビデオ制作者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとサ。ヤバイよ。あまりにビミョーな比喩だ。女性についてあまりに知らなすぎるヨ。出産シーンよりエッチシーンの方が売れるんだよナ。女性は幼女から老婆まですべて需要があるのヨ。年令相応、分相応にお客がつくのサ。大臣にはぜひエッチビデオを勉強してもらいたいヨ。」
柳沢厚労大臣が、「女性の10代から50代までは子を産む機械」と発言して失笑をかっているという。
そこで、とある日本の公共放送局が、これこそ人気ばん回のチャンスと各界の著名人に「あなたは女性をどう見ますか?」とインタビューを実施した。
生命科学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりにおぞましい比喩です。生命の誕生こそ生命科学の神秘に他なりません。女性こそ、生命科学の謎とするものなのです。大臣にはぜひ生命科学を勉強してもらいたい。」
工学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに原始的な比喩だね。今やナノテクノロジーの時代。女性こそ、ナノテクノロジーの極致にちがいない。大臣にはぜひナノテクを勉強してもらいたい。」
物理学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりにあいまいな比喩です。たった1つの原子でも量子コンピュータにできます。なのに女性のように原子の集合体が単なる機械であるはずがない。きっとそれ以上のものであるはずです。大臣にはぜひ物理学を勉強してもらいたい。」
数学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに文学的な比喩だね。10代から50代までの女性でも1人目の子、2人目、3人目とちゃんと数えられるではないか。だから、子を産むだけではない。女性こそ、数学に自然数を産んだ張本人なんです。それに、数学は科学の女王というのですぞ。大臣にはぜひ数学を勉強してもらいたい。」
化学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに工学的すぎる比喩です。たった1つの細胞でも無数の化学反応から成り立っている。なのに女性が機械とはお笑いぐさだ。女性こそ、無数の化学反応の連鎖なのです。大臣にはぜひ化学を勉強してもらいたい。」
教育学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに一面的な比喩ですね。子を産むだけではだれがその子を教育するのでしょうか。女性には産むだけではなく、教育者としての面もあるのです。女性こそ、真の教育者の鏡でなくてはならないのです。大臣にはぜひ教育学を勉強してもらいたい。」
社会学者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとか。あまりに現実離れした比喩だね。女性にも熟したのと未熟のものがある。だれでも子に恵まれるわけではない。もし女性を機械に例えるのなら、女性の10代から50代までは子を産む可能性のある機械と言うべきだった。大臣にはぜひ社会学を勉強してもらいたい。」
ついでに、その放送局はアダルト関連会社にも聞いてみた。すると、アダルトビデオ制作者はこういった。
「子を産む機械とは何ごとサ。ヤバイよ。あまりにビミョーな比喩だ。女性についてあまりに知らなすぎるヨ。出産シーンよりエッチシーンの方が売れるんだよナ。女性は幼女から老婆まですべて需要があるのヨ。年令相応、分相応にお客がつくのサ。大臣にはぜひエッチビデオを勉強してもらいたいヨ。」
[ 09:57 ]
[ 社会 ]
週刊誌の八百長報道、4大関が疑惑否定相撲協会聴取
これは、結構面白い問題を含んでいる。
ニュースは、大相撲の横綱朝青龍に関連して、一部週刊誌が”八百長疑惑”を報じたらしい。私は読んでいないのでどんなことが書かれたか知らないが、この問題で、日本相撲協会が29日に記事の中で実名を挙げられた栃東、琴欧洲、千代大海、魁皇の4大関から事情を聞いたところ、全員が疑惑を否定した、というものである。
最近になってやっと「あるある大辞典」の”番組のやらせ・捏造”問題が発覚して、テレビマスコミの下劣さがちまたに明かとなったが、上の相撲の問題は、こんどはいわゆる週刊誌の”記事のやらせ・捏造”問題の一種に関係するからである。
私の記憶では、だいたい20年前頃だったか、かつて千代の富士が横綱だったころ、荒瀬という力士がいて、引退後自分がどのように「八百長」に関わったかを暴露したという記事があったと思う。この力士の言う「八百長」とは、我々が想像するようなものではない。
普通、スポーツで「八百長」というと、昨年のイタリアのサッカー界に起こった「八百長」事件のようなものを想定する。この場合は、”選手以外の”誰かと特定の選手が”取り引き”してお金をもらい、サッカーのトトカルチョの勝敗を調節し、”選手以外の”誰かに得をさせる、というものである。キーパーがわざとミスして負けたり、わざとシュートをはずすというような方法で勝敗をコントロールする。
野球の八百長疑惑というのも、その昔あった。この場合は、ピッチャーがわざと打てるボールを投げてホームランやヒットを打たせて負けるのである。強豪チームが負ければオッズが高くなるから闇賭博にとっては儲かるのである。
我々がスポーツの「八百長」を想像するとこういったものを一番先に考える。しかし、荒瀬の言ったものはこういうものではなかった。これが面白いところである。
荒瀬の言った相撲の「八百長」とは、力士以外のだれかを儲けさせるものではなく、力士自身が儲けるものであった。これは、”星勘定”の帳じりを合わせるために、「勝ったり負けたりの取り組みの星をその都度の状況に応じて臨機応変に力士の間で譲り合う」ということである。
つまり、例えば、ある力士が角番で、今回負け越せば大関陥落するという危機にあるとしよう。そうすると、まわりの力士が大関が何とか勝ち越せるように、帳じり合わせを画策するということなのである。大関自身がこれに関わる場合も関わらない場合もある。これを将来の親方株や金で取り引き(注射)するのだという。これを「注射相撲」という。
日本の大相撲は、個人競技のようで個人競技ではない。むしろ、チームどうしで戦う自動車のF1やラリーに似ている。
F1では、各チームには優勝候補のトップドライバーがいて、その下のクラスの仲間は、自チームの優勝候補が優勝できるように徹底的に相手チームを邪魔するのが仕事となる。タナボタ式に自分が優勝することもあるが、トップレーサーになれなければ、優勝という仕事はまだ自分には入ってこない。また実力もともわなければそのチャンスも来ない。
これと同様に、相撲は部屋ごとに戦う。”兄弟力士”である同部屋力士は対戦しない。だから、格の低いクラスの力士は必至で自分の部屋の一番上位の力士が良い成績を残せるようなお膳立てをする。この目的で一番常識的なのは、下のクラスが頑張って好成績を残せば、ライバル部屋の力士は星勘定が悪くなるわけだから、自分の部屋の上位陣も好成績を納めやすくなるのである。
しかし、もし上位陣が怪我などで絶不調となった場合には、下手をすればあっという間に陥落してしまう。それでは、飯の食い上げとなる。なぜなら、関取の給料は上位陣力士の稼ぎに依存しているからである。
そこで、こういう場合には、格下の兄弟力士が”取り引き”して、ライバル部屋の上位陣と当たる時にわざと負けてやるから、今度は自分の部屋の不調の上位力士が勝ち越せるように、相手の部屋の力士に負けてもらう。こういう”取り引き”をして自分の部屋の力士の地位を守る。
こういうのを荒瀬は相撲の「八百長」(=真剣勝負ではないという意味)と言ったと私は記憶している。
したがって、各部屋の上位陣であるスター選手に「お前は八百長したか」と聞いてもだれもそうしたとは言わない(はずである)。
なぜなら、スター選手はそれなりに必至でやっているし、八百長するべき理由もないからである。しかし、自分の部屋の先輩力士や上位力士の成績を心配する親方や下位力士や後輩力士たちは、何とかして給料をもらってくるべき力士の成績をあげようと画策するのである。
今回の事件とまったく同じようなことが、20年程前にもあったのである(ほとんどの人は忘れてしまったかも知れないが)。もちろん、30年前にも、10年前にもあった。
というのは、これが大相撲の構造的問題だからである。「同部屋力士は対戦しない」というのは、たびたびこの「八百長」問題を引き起こし、大問題となるが、未だにこれ以外の有効な方法は現れていない。(これを大分前に論じたのが、拙著「フラーとカウフマンの世界」の中の「フラーとカウフマンの違い5 若貴相撲バブルの終焉」というものである)
いずれにせよ、この問題の解決は非常に難しいだろう。
なぜなら、今の大相撲の審判団や協会側についているのは、かつての往年の名力士たちである。彼等も今の横綱・大関たちと同じく、大相撲の良い面だけを見て引退できた”幸せもの”たちである。それゆえ、彼等の大半もその昔に同じような質問を受けた人々であったが、今の横綱・大関たちと同じように返答した力士である。したがって、問題を正しく認識でできようはずがないからである。荒瀬のように、大横綱や大関になれずに、ずっと縁の下の力持ちで”汚い仕事”だけさせられて引退した力士というものにこそ”本音”が現れているはずである。
やはり、第三者機関(警察当局や検察当局)などの全く独立した機関が調査すべきなのかも知れない。
これは、結構面白い問題を含んでいる。
ニュースは、大相撲の横綱朝青龍に関連して、一部週刊誌が”八百長疑惑”を報じたらしい。私は読んでいないのでどんなことが書かれたか知らないが、この問題で、日本相撲協会が29日に記事の中で実名を挙げられた栃東、琴欧洲、千代大海、魁皇の4大関から事情を聞いたところ、全員が疑惑を否定した、というものである。
最近になってやっと「あるある大辞典」の”番組のやらせ・捏造”問題が発覚して、テレビマスコミの下劣さがちまたに明かとなったが、上の相撲の問題は、こんどはいわゆる週刊誌の”記事のやらせ・捏造”問題の一種に関係するからである。
私の記憶では、だいたい20年前頃だったか、かつて千代の富士が横綱だったころ、荒瀬という力士がいて、引退後自分がどのように「八百長」に関わったかを暴露したという記事があったと思う。この力士の言う「八百長」とは、我々が想像するようなものではない。
普通、スポーツで「八百長」というと、昨年のイタリアのサッカー界に起こった「八百長」事件のようなものを想定する。この場合は、”選手以外の”誰かと特定の選手が”取り引き”してお金をもらい、サッカーのトトカルチョの勝敗を調節し、”選手以外の”誰かに得をさせる、というものである。キーパーがわざとミスして負けたり、わざとシュートをはずすというような方法で勝敗をコントロールする。
野球の八百長疑惑というのも、その昔あった。この場合は、ピッチャーがわざと打てるボールを投げてホームランやヒットを打たせて負けるのである。強豪チームが負ければオッズが高くなるから闇賭博にとっては儲かるのである。
我々がスポーツの「八百長」を想像するとこういったものを一番先に考える。しかし、荒瀬の言ったものはこういうものではなかった。これが面白いところである。
荒瀬の言った相撲の「八百長」とは、力士以外のだれかを儲けさせるものではなく、力士自身が儲けるものであった。これは、”星勘定”の帳じりを合わせるために、「勝ったり負けたりの取り組みの星をその都度の状況に応じて臨機応変に力士の間で譲り合う」ということである。
つまり、例えば、ある力士が角番で、今回負け越せば大関陥落するという危機にあるとしよう。そうすると、まわりの力士が大関が何とか勝ち越せるように、帳じり合わせを画策するということなのである。大関自身がこれに関わる場合も関わらない場合もある。これを将来の親方株や金で取り引き(注射)するのだという。これを「注射相撲」という。
日本の大相撲は、個人競技のようで個人競技ではない。むしろ、チームどうしで戦う自動車のF1やラリーに似ている。
F1では、各チームには優勝候補のトップドライバーがいて、その下のクラスの仲間は、自チームの優勝候補が優勝できるように徹底的に相手チームを邪魔するのが仕事となる。タナボタ式に自分が優勝することもあるが、トップレーサーになれなければ、優勝という仕事はまだ自分には入ってこない。また実力もともわなければそのチャンスも来ない。
これと同様に、相撲は部屋ごとに戦う。”兄弟力士”である同部屋力士は対戦しない。だから、格の低いクラスの力士は必至で自分の部屋の一番上位の力士が良い成績を残せるようなお膳立てをする。この目的で一番常識的なのは、下のクラスが頑張って好成績を残せば、ライバル部屋の力士は星勘定が悪くなるわけだから、自分の部屋の上位陣も好成績を納めやすくなるのである。
しかし、もし上位陣が怪我などで絶不調となった場合には、下手をすればあっという間に陥落してしまう。それでは、飯の食い上げとなる。なぜなら、関取の給料は上位陣力士の稼ぎに依存しているからである。
そこで、こういう場合には、格下の兄弟力士が”取り引き”して、ライバル部屋の上位陣と当たる時にわざと負けてやるから、今度は自分の部屋の不調の上位力士が勝ち越せるように、相手の部屋の力士に負けてもらう。こういう”取り引き”をして自分の部屋の力士の地位を守る。
こういうのを荒瀬は相撲の「八百長」(=真剣勝負ではないという意味)と言ったと私は記憶している。
したがって、各部屋の上位陣であるスター選手に「お前は八百長したか」と聞いてもだれもそうしたとは言わない(はずである)。
なぜなら、スター選手はそれなりに必至でやっているし、八百長するべき理由もないからである。しかし、自分の部屋の先輩力士や上位力士の成績を心配する親方や下位力士や後輩力士たちは、何とかして給料をもらってくるべき力士の成績をあげようと画策するのである。
今回の事件とまったく同じようなことが、20年程前にもあったのである(ほとんどの人は忘れてしまったかも知れないが)。もちろん、30年前にも、10年前にもあった。
というのは、これが大相撲の構造的問題だからである。「同部屋力士は対戦しない」というのは、たびたびこの「八百長」問題を引き起こし、大問題となるが、未だにこれ以外の有効な方法は現れていない。(これを大分前に論じたのが、拙著「フラーとカウフマンの世界」の中の「フラーとカウフマンの違い5 若貴相撲バブルの終焉」というものである)
いずれにせよ、この問題の解決は非常に難しいだろう。
なぜなら、今の大相撲の審判団や協会側についているのは、かつての往年の名力士たちである。彼等も今の横綱・大関たちと同じく、大相撲の良い面だけを見て引退できた”幸せもの”たちである。それゆえ、彼等の大半もその昔に同じような質問を受けた人々であったが、今の横綱・大関たちと同じように返答した力士である。したがって、問題を正しく認識でできようはずがないからである。荒瀬のように、大横綱や大関になれずに、ずっと縁の下の力持ちで”汚い仕事”だけさせられて引退した力士というものにこそ”本音”が現れているはずである。
やはり、第三者機関(警察当局や検察当局)などの全く独立した機関が調査すべきなのかも知れない。
ところで、実は大相撲の力士とか、自動車のF1とかだけにこういった問題があるというわけではない。野球でもサッカーでも科学者でも新聞記者でもジャーナリストでもテレビ制作者でも似たような問題がある。もちろん、政治家にも官僚にも当然存在する。一般社会にも、企業にも存在する。ヤクザ社会にも存在する。つまり、どんな組織であれ、こうした問題はある。なぜなら、この問題は、トップスターが存在し、そのスターを支えるために誰かが犠牲を強いられるという”構造的問題”だからである。したがって、もちろん、ジャニーズであれ、吉本興業であれ、どこにも存在する。
自分がどこかの組織でトップスターに登りつける事が出来たとすれば、そこには無数の”無名の夢半ばで頓挫してしまった人々の下支え”があるのである(これは自分のファンのことではない。自分と同業者の格下の人々のこと)。トップスターはそれを想像できなくてはならない。その種の想像力がぜひとも必要である。
しかし、サッカーの中田英寿、野球の長島、などを見ていてもどうも日本人にはこの精神が希薄である(野茂選手は例外である。彼はこれにしっかり気付いている)。
科学者とて同様である。1人のノーベル賞学者の陰には約1万人の犠牲が必要なのである。1人のトップスターのために1万人の自己犠牲が必要なのである。が、しかしそれに気付いている学者は少ない。
才能ある若者のために自分が練習材料になる。ある才能ある若手役者のために自分が”芸の肥やし”となる(女性の場合は、男女関係、肉体関係、恋愛関係の練習材料にされてしまうということ)。必ずこうした不遇の役目を負わされる人物が出る。
ある意味これは一種の宿命かも知れない。ユダヤ人のように、その役目は他の人種に請け負わせても当然と達観できる人種は良い。しかし、日本人のように、同じ民族どうしでそれを背負うというのは、かなりいびつなことかも知れない。これが何なくできるとすれば、同じ日本人でも自分は別格だという一種の差別意識がどこかに潜んでいるはずである。さもなくば難しいだろう。
大横綱になりたくて入門したがそうはなれずに大横綱のために”汚れ役”を担うはめに陥ってしまった力士たち。大科学者になりたくて大学院に入ったがそうはなれずに大科学者のための”下請け仕事”を担うはめに陥ってしまった科学者たち。大番組のプロデューサーになりたくてテレビ界に入ったがそうはなれずに大番組の”下請け仕事”を担うはめに陥ってしまったテレビ関係者たち。
こういった人々の気持ちを表現するうまい言葉を私は知らないが、何と言うのか”怨念(おんねん)”というのか、そういうものが渦巻いているのが、今の日本という国なのかも知れない。
いずれにせよ、「あるある大事典」問題にせよ、力士の「八百長」問題にせよ、学者の「論文盗用・捏造」問題にせよ、同じような構造的問題がその背後にあるような気がしてならない。
人は、 人として生まれたからには、人の上に立つ一角の人物になってみたいと一度は欲するものである。
しかし、そうなれるものは、稀である。これが現実であろう。多くの場合は、自分以外の誰か好まざるもののために自己犠牲を強いられるものである。自分の身内や家族のためならまだましである。自分が尊敬できる人物ならまだましである。しかしそうではないもののために、自己犠牲を強いられるとすれば、”美しくない”。
私は、個人的には、”美しい”とは、「物事が見事に首尾一貫している」という意味である。
果たしてこの国に”美しさ”があるかどうか。
これは、明白だろう。
自分がどこかの組織でトップスターに登りつける事が出来たとすれば、そこには無数の”無名の夢半ばで頓挫してしまった人々の下支え”があるのである(これは自分のファンのことではない。自分と同業者の格下の人々のこと)。トップスターはそれを想像できなくてはならない。その種の想像力がぜひとも必要である。
しかし、サッカーの中田英寿、野球の長島、などを見ていてもどうも日本人にはこの精神が希薄である(野茂選手は例外である。彼はこれにしっかり気付いている)。
科学者とて同様である。1人のノーベル賞学者の陰には約1万人の犠牲が必要なのである。1人のトップスターのために1万人の自己犠牲が必要なのである。が、しかしそれに気付いている学者は少ない。
才能ある若者のために自分が練習材料になる。ある才能ある若手役者のために自分が”芸の肥やし”となる(女性の場合は、男女関係、肉体関係、恋愛関係の練習材料にされてしまうということ)。必ずこうした不遇の役目を負わされる人物が出る。
ある意味これは一種の宿命かも知れない。ユダヤ人のように、その役目は他の人種に請け負わせても当然と達観できる人種は良い。しかし、日本人のように、同じ民族どうしでそれを背負うというのは、かなりいびつなことかも知れない。これが何なくできるとすれば、同じ日本人でも自分は別格だという一種の差別意識がどこかに潜んでいるはずである。さもなくば難しいだろう。
大横綱になりたくて入門したがそうはなれずに大横綱のために”汚れ役”を担うはめに陥ってしまった力士たち。大科学者になりたくて大学院に入ったがそうはなれずに大科学者のための”下請け仕事”を担うはめに陥ってしまった科学者たち。大番組のプロデューサーになりたくてテレビ界に入ったがそうはなれずに大番組の”下請け仕事”を担うはめに陥ってしまったテレビ関係者たち。
こういった人々の気持ちを表現するうまい言葉を私は知らないが、何と言うのか”怨念(おんねん)”というのか、そういうものが渦巻いているのが、今の日本という国なのかも知れない。
いずれにせよ、「あるある大事典」問題にせよ、力士の「八百長」問題にせよ、学者の「論文盗用・捏造」問題にせよ、同じような構造的問題がその背後にあるような気がしてならない。
人は、 人として生まれたからには、人の上に立つ一角の人物になってみたいと一度は欲するものである。
しかし、そうなれるものは、稀である。これが現実であろう。多くの場合は、自分以外の誰か好まざるもののために自己犠牲を強いられるものである。自分の身内や家族のためならまだましである。自分が尊敬できる人物ならまだましである。しかしそうではないもののために、自己犠牲を強いられるとすれば、”美しくない”。
私は、個人的には、”美しい”とは、「物事が見事に首尾一貫している」という意味である。
果たしてこの国に”美しさ”があるかどうか。
これは、明白だろう。
2007/01/27のBlog
[ 17:41 ]
[ 科学ニュース ]
[ 17:32 ]
[ 科学ニュース ]
2007/01/26のBlog
[ 17:16 ]
[ スケールフリー ]
さて、少し”荒唐無稽な”お話をしよう。
最近まで、大前研一氏の20年程前の「道州制」にほだされて未だに自民党や民主党などの政治家は道州制が”来るべき日本”の理想的な国家のあり方だと信じているようである。しかし、私は最近になって「これはまったくの間違いだ」と個人的に確信を持って考えるようになった。
その理由は、ここずっと私が続けてきたネットワーク理論の分野の科学的知識に基づく。これらについては、このブログ内を「ネットワーク」で検索すれば参照できる。例えば、
「”物理的でないもの”の物理学:究理学 」
「”世襲社会” 」
「研究者グループもスケールフリー? 」
「スケールフリーネットワークとエイズ禍 」
さて、そこで、ネットワークで何が重要かといえば、ネットワークには”→”で表わされる”向き”があるということである。AからBへのリンク(結びつき)は、
(あ)”A→B”
のように表わす。同様に、BからAへのリンクは、
(い)”A←B”
のように表わす。これらが両方ある場合の”A<=>B”のようなものを簡単に
(う)”A-B”
のように表わす。したがって、Aという人物にとって(あ)の場合は「出力」であり、(い)の場合が「入力」である。もし「出力」を支出、「入力」を収入とすれば、ネットワーク構造は、バランスシートのマネーフローチャート構造(お金の流れ)を表現する事になるだろう。
そうすると、現実の日本社会にあてはめると、政府からの補助や支援などが地方への合法的なお金の環流(リベート、英語本来の意味)であり、これがインプットリンクになる。逆に、地方から政府への税金がアウトプットリンクとなる。
これで、現実の地方と中央政府の関係を表現するとしよう。実際には非常に難しいが関係者がやればできるだろう。単純化すれば、こんな感じだろう。
○ ○ ○
\|/
○一●一○
/|\
○ ○ ○
この中心の”●”をハブ、周辺にある”○”をリムと呼ぶ。そして”一”を双方向のリンクを表す。日本の場合はハブが東京であり、リムは地方である。
この概念を使って日本の「格差社会」がなぜ誕生したか、を考えよう。あるいは、東京と地方の差がなぜ顕著になったかを論じよう。
バブル崩壊したおよそ10年程前までは、「地方交付税」や土木建築費など地方への政府からの資金援助があった。それは、地方から得た税金とほぼ同程度のものだったと考えておこう。すると、各リンクには、収支決済としてはとんとん(五分五分)のものがあったことになり、地方から税金が取られてもそれなりに地方へお金は環流していたことになる。
ところが、小泉政権になって、「地方分権」を銘打って、「地方交付税」が削減された。同時に、談合などの問題やバブル崩壊から、ダムや道路やトンネル工事などの土木建築費もカットされるようになった。すると、マネーフローのネットワークは次のように代わったと考えられる。
○ □ ○
\↓/
□→●←□
/↑\
○ □ ○
すると、地方の中で、税金は取られるが、資金は戻ってこないという地方が生まれたことになる。
実は、ネットワーク理論に基づくと、”□”で表わしたようなノード(点)の活動は、そこに外から入る入力がないために、すぐに”活動が凍結する(死ぬ)”ことが分かっている。つまり、こういう構造になってしまった地方(や人)はすぐに破たんするのである。
ところが、これまで地方に「地方交付税」などで地方に環流したものが、地方には行かなくなったわけである。では、どこに行ったかと言えば、それは東京などの大都市の大学や研究所に行ったのである。
したがって、実際には、上の図よりさらにまん中の東京が太ったのである。すなわちこんな感じである。
○ □ ○
ーー\↓/
ーーー●
□→●●●←□
ーーー●
ーー/↑\
○ □ ○
これが「格差社会」の真実である。
こんな理由から、私は、これから「地方分権」あるいは「道州制」に変えても上手く行かないと信じる。むしろ、「道州制」に変えたらさらに悪くなることは必至である。
では、どうすれば宜しいか。
というと、答えは図から明らか。リンクをカットすればいいのである。すなわち、東京への出力リンクをカットするのである。すると、こうなる。
○一一一○
ーー\ /
ーーー□
ーーー●
□ ●●● □
ーーー●
ーーー□
ーー/ \
○一一一○
この意味は非常に単純である。要するに、「地方交付税」をもらわない代わりに、税金も払わないということである。つまり、言い換えれば、道州制などとバカなことを言わないで、いっそのこと道州ごとにいくつかくっついて丸ごと「独立国家」になることである。例えば、九州、四国、本州、北海道の4つが独立国家を歩むのである。言い換えれば、イギリスのように4つの「連邦国家」になるのである。
こういう大胆なことが日本を活性化させるのである。そう私は考えている。
例えば、日本が4つの国の連邦国家となれば、サッカーのワールドカップには、4つのチームを派遣できる。九州代表、四国代表、本州代表、北海道代表である。オリンピックにも4つ派遣できる。実際、イスラエルは600万人程度の国である。100万人程度の国すらたくさん存在する。したがって、四国の人口は一国として十分である。
また、連邦国家にすると、東京の悪しき文化(「品格のない国」の代表格)が、地方に伝播することを防ぐ事ができる。どうでも良い芸人は大阪や東京の本州に行ってもらい、九州や四国は、本物の住む国に変える事もできる。もちろん、”独自の憲法”を持つ事もできる。
今、憲法改正などといって安倍政権は騒いでいるが、そんな改正など本州国でやってもらい、四国や九州は一気に独自の憲法を発令した方が手っ取り早い。アメリカ型憲法でもよろしい。1つの”思想”により書かれた憲法を修正するより、まったく新しい”思想”に基づいた憲法を作る方が簡単である。
国会議事堂やいろんな施設を作る必要が出て、経済は右上がりになることは明らかである。欲しければ独自の”軍隊”すら作る事ができる。
とかく「この国の形」などと日本人はいう事がある。しかし、それは1つの前提をもとにしてのお話にすぎない。明治に出来た国の形を基にしてのお話である。しかし、明治維新以降、この国は疲れ果てた。人々も疲れ果てた。ではどうすべきかと問えば、改革しかないと人は口にする。しかしそれとて同じ前提の上のこと。昔のように他国を侵略して領地を増やせば経済問題はすぐに解決する。しかし今や戦争はできない。戦争することなく領土を増やすこと。それは簡単だ。日本が分裂することである。連邦国家になれば、領土は増える。もちろん物理的な面積は増えない。これによって、日本は刷新可能である。
昔、とは言ってもごく最近まで、私は「遷都」(都を東京から別に移す事)が、日本再生の鍵であると考えていた。都を移せば、それに応じた経済が動く。それにより国内は活性化する。これは、江戸時代から明治時代に向けて勝海舟が考えた事である。
しかし、遷都は国内だけのお話である。これよりもっと合理的なものが「連邦国家」の独立国家制度である。遷都より多く、少なくとも4つの新たなる都が日本に誕生する。
とまあ、こんな”荒唐無稽”の話である。
最近まで、大前研一氏の20年程前の「道州制」にほだされて未だに自民党や民主党などの政治家は道州制が”来るべき日本”の理想的な国家のあり方だと信じているようである。しかし、私は最近になって「これはまったくの間違いだ」と個人的に確信を持って考えるようになった。
その理由は、ここずっと私が続けてきたネットワーク理論の分野の科学的知識に基づく。これらについては、このブログ内を「ネットワーク」で検索すれば参照できる。例えば、
「”物理的でないもの”の物理学:究理学 」
「”世襲社会” 」
「研究者グループもスケールフリー? 」
「スケールフリーネットワークとエイズ禍 」
さて、そこで、ネットワークで何が重要かといえば、ネットワークには”→”で表わされる”向き”があるということである。AからBへのリンク(結びつき)は、
(あ)”A→B”
のように表わす。同様に、BからAへのリンクは、
(い)”A←B”
のように表わす。これらが両方ある場合の”A<=>B”のようなものを簡単に
(う)”A-B”
のように表わす。したがって、Aという人物にとって(あ)の場合は「出力」であり、(い)の場合が「入力」である。もし「出力」を支出、「入力」を収入とすれば、ネットワーク構造は、バランスシートのマネーフローチャート構造(お金の流れ)を表現する事になるだろう。
そうすると、現実の日本社会にあてはめると、政府からの補助や支援などが地方への合法的なお金の環流(リベート、英語本来の意味)であり、これがインプットリンクになる。逆に、地方から政府への税金がアウトプットリンクとなる。
これで、現実の地方と中央政府の関係を表現するとしよう。実際には非常に難しいが関係者がやればできるだろう。単純化すれば、こんな感じだろう。
○ ○ ○
\|/
○一●一○
/|\
○ ○ ○
この中心の”●”をハブ、周辺にある”○”をリムと呼ぶ。そして”一”を双方向のリンクを表す。日本の場合はハブが東京であり、リムは地方である。
この概念を使って日本の「格差社会」がなぜ誕生したか、を考えよう。あるいは、東京と地方の差がなぜ顕著になったかを論じよう。
バブル崩壊したおよそ10年程前までは、「地方交付税」や土木建築費など地方への政府からの資金援助があった。それは、地方から得た税金とほぼ同程度のものだったと考えておこう。すると、各リンクには、収支決済としてはとんとん(五分五分)のものがあったことになり、地方から税金が取られてもそれなりに地方へお金は環流していたことになる。
ところが、小泉政権になって、「地方分権」を銘打って、「地方交付税」が削減された。同時に、談合などの問題やバブル崩壊から、ダムや道路やトンネル工事などの土木建築費もカットされるようになった。すると、マネーフローのネットワークは次のように代わったと考えられる。
○ □ ○
\↓/
□→●←□
/↑\
○ □ ○
すると、地方の中で、税金は取られるが、資金は戻ってこないという地方が生まれたことになる。
実は、ネットワーク理論に基づくと、”□”で表わしたようなノード(点)の活動は、そこに外から入る入力がないために、すぐに”活動が凍結する(死ぬ)”ことが分かっている。つまり、こういう構造になってしまった地方(や人)はすぐに破たんするのである。
ところが、これまで地方に「地方交付税」などで地方に環流したものが、地方には行かなくなったわけである。では、どこに行ったかと言えば、それは東京などの大都市の大学や研究所に行ったのである。
したがって、実際には、上の図よりさらにまん中の東京が太ったのである。すなわちこんな感じである。
○ □ ○
ーー\↓/
ーーー●
□→●●●←□
ーーー●
ーー/↑\
○ □ ○
これが「格差社会」の真実である。
こんな理由から、私は、これから「地方分権」あるいは「道州制」に変えても上手く行かないと信じる。むしろ、「道州制」に変えたらさらに悪くなることは必至である。
では、どうすれば宜しいか。
というと、答えは図から明らか。リンクをカットすればいいのである。すなわち、東京への出力リンクをカットするのである。すると、こうなる。
○一一一○
ーー\ /
ーーー□
ーーー●
□ ●●● □
ーーー●
ーーー□
ーー/ \
○一一一○
この意味は非常に単純である。要するに、「地方交付税」をもらわない代わりに、税金も払わないということである。つまり、言い換えれば、道州制などとバカなことを言わないで、いっそのこと道州ごとにいくつかくっついて丸ごと「独立国家」になることである。例えば、九州、四国、本州、北海道の4つが独立国家を歩むのである。言い換えれば、イギリスのように4つの「連邦国家」になるのである。
こういう大胆なことが日本を活性化させるのである。そう私は考えている。
例えば、日本が4つの国の連邦国家となれば、サッカーのワールドカップには、4つのチームを派遣できる。九州代表、四国代表、本州代表、北海道代表である。オリンピックにも4つ派遣できる。実際、イスラエルは600万人程度の国である。100万人程度の国すらたくさん存在する。したがって、四国の人口は一国として十分である。
また、連邦国家にすると、東京の悪しき文化(「品格のない国」の代表格)が、地方に伝播することを防ぐ事ができる。どうでも良い芸人は大阪や東京の本州に行ってもらい、九州や四国は、本物の住む国に変える事もできる。もちろん、”独自の憲法”を持つ事もできる。
今、憲法改正などといって安倍政権は騒いでいるが、そんな改正など本州国でやってもらい、四国や九州は一気に独自の憲法を発令した方が手っ取り早い。アメリカ型憲法でもよろしい。1つの”思想”により書かれた憲法を修正するより、まったく新しい”思想”に基づいた憲法を作る方が簡単である。
国会議事堂やいろんな施設を作る必要が出て、経済は右上がりになることは明らかである。欲しければ独自の”軍隊”すら作る事ができる。
とかく「この国の形」などと日本人はいう事がある。しかし、それは1つの前提をもとにしてのお話にすぎない。明治に出来た国の形を基にしてのお話である。しかし、明治維新以降、この国は疲れ果てた。人々も疲れ果てた。ではどうすべきかと問えば、改革しかないと人は口にする。しかしそれとて同じ前提の上のこと。昔のように他国を侵略して領地を増やせば経済問題はすぐに解決する。しかし今や戦争はできない。戦争することなく領土を増やすこと。それは簡単だ。日本が分裂することである。連邦国家になれば、領土は増える。もちろん物理的な面積は増えない。これによって、日本は刷新可能である。
昔、とは言ってもごく最近まで、私は「遷都」(都を東京から別に移す事)が、日本再生の鍵であると考えていた。都を移せば、それに応じた経済が動く。それにより国内は活性化する。これは、江戸時代から明治時代に向けて勝海舟が考えた事である。
しかし、遷都は国内だけのお話である。これよりもっと合理的なものが「連邦国家」の独立国家制度である。遷都より多く、少なくとも4つの新たなる都が日本に誕生する。
とまあ、こんな”荒唐無稽”の話である。
2007/01/24のBlog
[ 11:28 ]
[ テクノロジー ]
エチゼンクラゲからコラーゲン抽出 化粧品原料メーカー
これは、”逆転の発想”で面白い。
大阪の企業が、”越前クラゲ”の利用法を発明したというニュース。越前クラゲからコラーゲンを取る、というものである。要するに、災害である越前クラゲの襲来を逆に資源到来の好機とみる逆転の発想なのである。
もうこの商品の名前はこれしかないだろう。
”エチゼンクラーゲン”
これは、”逆転の発想”で面白い。
大阪の企業が、”越前クラゲ”の利用法を発明したというニュース。越前クラゲからコラーゲンを取る、というものである。要するに、災害である越前クラゲの襲来を逆に資源到来の好機とみる逆転の発想なのである。
もうこの商品の名前はこれしかないだろう。
”エチゼンクラーゲン”
[ 11:01 ]
[ 音楽・芸能 ]
助演女優賞候補に菊地さん
菊地凛子さん(26)という日本人女優が、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」でアメリカのアカデミー賞”助演女優賞”にノミネートされたという”快挙”のニュース。
しかし、私もアメリカに4年ほど住んでアメリカに住む日本女性というものは比較的良く知っているので、この人には正直”がっかり”である。
というのは、映画の演技では、ごく普通の日本人女子高校生(ただし聾唖の)を演じたのに、アメリカ在住の今となってはその辺の”お登り日本女性”のような風体となってしまったからである。髪を金髪に染め、目の上を真っ黒に描いた、水商売風(つまり、アメリカの売春婦のような)メイクをして、あたかも「私は大女優よ」という調子。自分の平凡な顔にまったく似合わない。
私は、この女優がオスカーの前のすべての有名な賞にノミネートされ、あれほど”評判”が高かったのに、それがことごとく”落選”したというのにひどく驚いていた。が、どうやらその原因が”これ”なのだろうと見る。要するに、この人物は、”アメリカ人気質”を御存じないのである。
アメリカ人というのは、良く言えば、非常に素直で率直である。悪く言えば、単純。それゆえ、映画で描かれた良いイメージに非常に左右される。1昨年の映画で昨年、渡辺謙さんが大ブレイクしたのも、ここに秘密がある。彼が成功できたのは、映画のイメージと現実が見事にマッチしたからである。
したがって、菊地凛子さんの場合も、少なくとも、賞の対象になっている間は、映画そのもののイメージを保ち、人が見れば、「ああ、あの映画の菊地凛子さんね」と分かるようにしておくべきであった。しかし、彼女はそういうタイプではなかったようである。
これでは、他の候補と競合している場合には、そっちの方に歩がある。
私の分析では(もちろん、はずれて賞をとって欲しいが)、おそらく今回もノミネートだけで、落選するだろう。なぜなら、賞をあげるアメリカ人も、私と同じように、変にアメリカナイズされた日本女性にあげるより、日本女性らしい日本女性に賞をあげるべきだ、と考えているはずだからである。
だれか、この女性にそういう”心掛け”を叩きこむ人物は周りにいないのだろうか。まったく理解に苦しむ。(私が周りにいれば、1時間は説教するナ)
めったにないチャンスだけに残念なことである。
菊地凛子さん(26)という日本人女優が、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」でアメリカのアカデミー賞”助演女優賞”にノミネートされたという”快挙”のニュース。
しかし、私もアメリカに4年ほど住んでアメリカに住む日本女性というものは比較的良く知っているので、この人には正直”がっかり”である。
というのは、映画の演技では、ごく普通の日本人女子高校生(ただし聾唖の)を演じたのに、アメリカ在住の今となってはその辺の”お登り日本女性”のような風体となってしまったからである。髪を金髪に染め、目の上を真っ黒に描いた、水商売風(つまり、アメリカの売春婦のような)メイクをして、あたかも「私は大女優よ」という調子。自分の平凡な顔にまったく似合わない。
私は、この女優がオスカーの前のすべての有名な賞にノミネートされ、あれほど”評判”が高かったのに、それがことごとく”落選”したというのにひどく驚いていた。が、どうやらその原因が”これ”なのだろうと見る。要するに、この人物は、”アメリカ人気質”を御存じないのである。
アメリカ人というのは、良く言えば、非常に素直で率直である。悪く言えば、単純。それゆえ、映画で描かれた良いイメージに非常に左右される。1昨年の映画で昨年、渡辺謙さんが大ブレイクしたのも、ここに秘密がある。彼が成功できたのは、映画のイメージと現実が見事にマッチしたからである。
したがって、菊地凛子さんの場合も、少なくとも、賞の対象になっている間は、映画そのもののイメージを保ち、人が見れば、「ああ、あの映画の菊地凛子さんね」と分かるようにしておくべきであった。しかし、彼女はそういうタイプではなかったようである。
これでは、他の候補と競合している場合には、そっちの方に歩がある。
私の分析では(もちろん、はずれて賞をとって欲しいが)、おそらく今回もノミネートだけで、落選するだろう。なぜなら、賞をあげるアメリカ人も、私と同じように、変にアメリカナイズされた日本女性にあげるより、日本女性らしい日本女性に賞をあげるべきだ、と考えているはずだからである。
だれか、この女性にそういう”心掛け”を叩きこむ人物は周りにいないのだろうか。まったく理解に苦しむ。(私が周りにいれば、1時間は説教するナ)
めったにないチャンスだけに残念なことである。
2007/01/23のBlog
[ 17:38 ]
[ 科学ニュース ]
中間子着想4日間、湯川博士の日記に ノーベル賞の原点
「湯川秀樹博士生誕100年」に合わせて、故湯川秀樹博士の未公開日記が公開されたというニュース。
この記事で公開されたものは、以下の部分。ちょうど湯川博士の「中間子理論」を着想したとされる時期にあたる。
【1934(昭和9)年10月の日記(抜粋) 】
8日 高秋(9月29日に生まれた次男)出生届を出す
9日 六時半起床
浅田さんのコロキウム(研究室内での研究報告や討論会)、東出さん七時頃になる。
γ'rayについて考える。
10日 六時半起床
γ'rayの考えを坂田君に話す
午後四時半頃から堂島空地で野球練習。
11日 六時半起床登校。午後演習、談話会、池原、山口。
γ'rayの話 菊池さん等と話し合う。
12日 昨夕食、阪急食堂で支那そばを食べた所、生やけでかたく、夜から腹痛む。朝下痢する。
行きがけに、阪急で春ちゃんの運動靴買う。
登校、相変わらずγ'rayのことを坂田君と議論する
13日 今日は腹具合大体よい
昼前講義 午後コロキウム
その後で野球猛練習
1415日 〈理学部内対抗野球大会〉
《注》坂田君=坂田昌一助手。のちの名古屋大教授▽菊池さん=菊池正士教授。阪大原子核研究グループの中心▽春ちゃん=1歳6カ月の長男春洋(はるみ)さん
(仮名と漢字は現代の表記)
「湯川秀樹博士生誕100年」に合わせて、故湯川秀樹博士の未公開日記が公開されたというニュース。
この記事で公開されたものは、以下の部分。ちょうど湯川博士の「中間子理論」を着想したとされる時期にあたる。
【1934(昭和9)年10月の日記(抜粋) 】
8日 高秋(9月29日に生まれた次男)出生届を出す
9日 六時半起床
浅田さんのコロキウム(研究室内での研究報告や討論会)、東出さん七時頃になる。
γ'rayについて考える。
10日 六時半起床
γ'rayの考えを坂田君に話す
午後四時半頃から堂島空地で野球練習。
11日 六時半起床登校。午後演習、談話会、池原、山口。
γ'rayの話 菊池さん等と話し合う。
12日 昨夕食、阪急食堂で支那そばを食べた所、生やけでかたく、夜から腹痛む。朝下痢する。
行きがけに、阪急で春ちゃんの運動靴買う。
登校、相変わらずγ'rayのことを坂田君と議論する
13日 今日は腹具合大体よい
昼前講義 午後コロキウム
その後で野球猛練習
1415日 〈理学部内対抗野球大会〉
《注》坂田君=坂田昌一助手。のちの名古屋大教授▽菊池さん=菊池正士教授。阪大原子核研究グループの中心▽春ちゃん=1歳6カ月の長男春洋(はるみ)さん
(仮名と漢字は現代の表記)
この記事は非常に興味深い。
というのは、小沼通二博士のインタビューには書かれていないが、私は「湯川秀樹博士が野球が好きだった」というのが初耳であり、これこそ博士の中間子の着想そのものだったと思うからである。
この中の「γ'ray」というのが「中間子」のことだろうと考えられているが、中間子はまさに陽子と中性子の間で”キャッチボール”されるボールのようなものである。
野球でキャッチボールする時を考えてみよう。
ボールを投げるには自分のボールが届く距離がある。あまりに距離が離れたらボールは相手まで到達しない。したがって、自分の肩の強さに応じてキャッチボールの距離が決まる。ボールを相手とできる限り早く投げあうには距離が短くなくてはならない。距離が離れたらボールが相手に到達するまでに時間がかかる。そのため、相手と自分の双方は強く相互作用するには、近距離で頻繁に相手とボールの交換が必要である。
これはまさに、湯川秀樹博士の「中間子論」と同じ発想である。
私は、これまで湯川博士は運動音痴でスポーツは嫌いであったと理解していた。さまざまな著作からそう感じていた。しかし、今回の記事の日記では、運動音痴はともかくとして、毎日毎日野球の練習に明け暮れていたことが明らかである。このことから、必死で野球を練習する内に、「野球のキャッチボールから中間子の着想が生まれたのではないか」、という印象を受けるのである。
おそらく、これは正しいだろう。
この”仮説”を裏付けるには、同じ時期に湯川博士と議論していた坂田博士の日記などを参照して、何かヒントがないか調べるべきだろう。ついでに、この時期の「坂田日記」のようなものがあれば、それも公開してもらいたいものである。
”湯川秀樹博士は、野球のキャッチボールから中間子を思い付いた。”
これが事実なら実に面白い。
というのは、小沼通二博士のインタビューには書かれていないが、私は「湯川秀樹博士が野球が好きだった」というのが初耳であり、これこそ博士の中間子の着想そのものだったと思うからである。
この中の「γ'ray」というのが「中間子」のことだろうと考えられているが、中間子はまさに陽子と中性子の間で”キャッチボール”されるボールのようなものである。
野球でキャッチボールする時を考えてみよう。
ボールを投げるには自分のボールが届く距離がある。あまりに距離が離れたらボールは相手まで到達しない。したがって、自分の肩の強さに応じてキャッチボールの距離が決まる。ボールを相手とできる限り早く投げあうには距離が短くなくてはならない。距離が離れたらボールが相手に到達するまでに時間がかかる。そのため、相手と自分の双方は強く相互作用するには、近距離で頻繁に相手とボールの交換が必要である。
これはまさに、湯川秀樹博士の「中間子論」と同じ発想である。
私は、これまで湯川博士は運動音痴でスポーツは嫌いであったと理解していた。さまざまな著作からそう感じていた。しかし、今回の記事の日記では、運動音痴はともかくとして、毎日毎日野球の練習に明け暮れていたことが明らかである。このことから、必死で野球を練習する内に、「野球のキャッチボールから中間子の着想が生まれたのではないか」、という印象を受けるのである。
おそらく、これは正しいだろう。
この”仮説”を裏付けるには、同じ時期に湯川博士と議論していた坂田博士の日記などを参照して、何かヒントがないか調べるべきだろう。ついでに、この時期の「坂田日記」のようなものがあれば、それも公開してもらいたいものである。
”湯川秀樹博士は、野球のキャッチボールから中間子を思い付いた。”
これが事実なら実に面白い。
2007/01/22のBlog
[ 11:02 ]
[ テクノロジー ]
昨夜のNHKスペシャルで「グーグル革命の衝撃あなたの人生を“検索”が変える」という非常に面白い番組をやっていた。私もこれを見たが、どうも最近NHKは、番組で”物事を一面的にしか放送しない”という傾向が強まってきたように感じる。
以前、上田早苗と松平定知の「歴史選択その時歴史が動いた」で初めてそういう印象を持ったのである。
その時は、「誰が坂本竜馬を暗殺したか」を問うテーマの番組であった。この番組では、「水戸藩の新撰組残党が暗殺した」という側に上田早苗がつき、「薩摩藩の西郷隆盛が暗殺した」という側に松平定知がついた。キャスターは2人しかいないために、”たった2つ”の可能性しか考慮しなかったわけだ。
これを視聴者に投票させて、「西郷隆盛が暗殺した」という方が勝利して、あたかも松平定知の仮説がもっとも有力な説であるかのような”印象”をかもし出して番組が彼のナレーションと共に終わった。
これも一種の”番組捏造”、あるいは”歴史改変”である。なぜなら、何の根拠もないからである。あくまでキャスター本人の”希望的観測”を補強するための状況証拠を並べたに過ぎないからである。
私はこの番組に”憤り”を感じたのは、次のような点であった。
私が知る限りのどのような文献においても、西郷隆盛という偉大な人物の描写は、西郷隆盛が「暗殺」というような姑息な手法を弄する人物ではない、ということが明らかだからである。
もし西郷隆盛が人を陰で暗殺するというような人物であったとすれば、当然、豪傑の勝海舟や坂本竜馬や山岡鉄舟などとの会談において、「大政奉還」などの平和解決を望むはずはなかったと考えられるからである。長州は、江戸征伐を望んでいて、徳川家もろとも江戸を火の海、血の海にして、徹底的に関東征伐を行ないたかったからである。
それを品川会談で山岡鉄舟の意見に賛同し、江戸戦争を回避したのが、西郷隆盛であった(「正宗鍛刀記 」、「清水の次郎長と黒駒の勝蔵」)。
山岡鉄舟、西郷隆盛、坂本竜馬は、幕末にいた同類の人物であり、けっして相手を羨んで密かに暗殺するというタイプの人物ではなかったのである。
むしろ、その後の明治維新成功後、明治政府の政権を担っていった人物たちに長州(山口県)出身者が多い事からも分かるように、”坂本竜馬暗殺”の可能性としては、長州藩や土佐藩(高知県)であったという可能性もある。あるいは、大政奉還に耐えられなかった徳川家であったという可能性もあるわけである。(ちなみに、今の安倍首相の先祖がこの長州藩士である。)
徳川家の家臣であった山岡鉄舟は、自身では誰1人斬った経験はなかったと言われ、
”無刀流”の達人であったというが、その取り巻きには名のあるごろつき(たとえば、清水の次郎長など)や暗殺者がいたといわれている。そのため、自分では暗殺はしなかったが、仲間にそれとなく指図すればすぐにでも暗殺に出かけるというような人物たちがたむろしていたと言われている(たとえば、柘植先生の「反秀才論」、「柘植の「反秀才論」を読み解く」)。
私が知るかぎり、知将、島津斉彬(しまずなりあきら)の庇護の下に育てられた西郷隆盛という人物には暗殺者というような一面の曇りもない。真に大きな人物であった。山岡鉄舟が、一生に渡って「江戸(東京)の人間は西郷隆盛に感謝しなくてはならない」と言っていたが、それは、江戸を今のイラクのような戦場にしなかったことに感謝せよという意味である。坂本竜馬のこの提案にしたがった人物が、その提案者である坂本竜馬を暗殺するはずがないからである。
NHKや松平定知は、こういったあらゆる可能性をしっかり吟味してから、番組を作って欲しいものである。
その時は、「誰が坂本竜馬を暗殺したか」を問うテーマの番組であった。この番組では、「水戸藩の新撰組残党が暗殺した」という側に上田早苗がつき、「薩摩藩の西郷隆盛が暗殺した」という側に松平定知がついた。キャスターは2人しかいないために、”たった2つ”の可能性しか考慮しなかったわけだ。
これを視聴者に投票させて、「西郷隆盛が暗殺した」という方が勝利して、あたかも松平定知の仮説がもっとも有力な説であるかのような”印象”をかもし出して番組が彼のナレーションと共に終わった。
これも一種の”番組捏造”、あるいは”歴史改変”である。なぜなら、何の根拠もないからである。あくまでキャスター本人の”希望的観測”を補強するための状況証拠を並べたに過ぎないからである。
私はこの番組に”憤り”を感じたのは、次のような点であった。
私が知る限りのどのような文献においても、西郷隆盛という偉大な人物の描写は、西郷隆盛が「暗殺」というような姑息な手法を弄する人物ではない、ということが明らかだからである。
もし西郷隆盛が人を陰で暗殺するというような人物であったとすれば、当然、豪傑の勝海舟や坂本竜馬や山岡鉄舟などとの会談において、「大政奉還」などの平和解決を望むはずはなかったと考えられるからである。長州は、江戸征伐を望んでいて、徳川家もろとも江戸を火の海、血の海にして、徹底的に関東征伐を行ないたかったからである。
それを品川会談で山岡鉄舟の意見に賛同し、江戸戦争を回避したのが、西郷隆盛であった(「正宗鍛刀記 」、「清水の次郎長と黒駒の勝蔵」)。
山岡鉄舟、西郷隆盛、坂本竜馬は、幕末にいた同類の人物であり、けっして相手を羨んで密かに暗殺するというタイプの人物ではなかったのである。
むしろ、その後の明治維新成功後、明治政府の政権を担っていった人物たちに長州(山口県)出身者が多い事からも分かるように、”坂本竜馬暗殺”の可能性としては、長州藩や土佐藩(高知県)であったという可能性もある。あるいは、大政奉還に耐えられなかった徳川家であったという可能性もあるわけである。(ちなみに、今の安倍首相の先祖がこの長州藩士である。)
徳川家の家臣であった山岡鉄舟は、自身では誰1人斬った経験はなかったと言われ、
”無刀流”の達人であったというが、その取り巻きには名のあるごろつき(たとえば、清水の次郎長など)や暗殺者がいたといわれている。そのため、自分では暗殺はしなかったが、仲間にそれとなく指図すればすぐにでも暗殺に出かけるというような人物たちがたむろしていたと言われている(たとえば、柘植先生の「反秀才論」、「柘植の「反秀才論」を読み解く」)。
私が知るかぎり、知将、島津斉彬(しまずなりあきら)の庇護の下に育てられた西郷隆盛という人物には暗殺者というような一面の曇りもない。真に大きな人物であった。山岡鉄舟が、一生に渡って「江戸(東京)の人間は西郷隆盛に感謝しなくてはならない」と言っていたが、それは、江戸を今のイラクのような戦場にしなかったことに感謝せよという意味である。坂本竜馬のこの提案にしたがった人物が、その提案者である坂本竜馬を暗殺するはずがないからである。
NHKや松平定知は、こういったあらゆる可能性をしっかり吟味してから、番組を作って欲しいものである。
さて、最初のグーグルの話に戻ろう。
これも実は、その番組では”意識的”にか、”無意識的”にか、”無視されている問題”があった。この無視された問題の方が、実はグーグルの成功そのものよりよほど衝撃的なのであるが、NHKの女性ディレクターは残念ながらそれに全く気付いていないようであった。
これをここでは紹介しておこう。
比較的最近だが、ちょっと前にこんなニュースがあった。あまりにさり気ないニュースであったために、この筋の専門家以外はこのニュースの”真の価値”には気付かなかったにちがいない。
「ネット検索業者育成 著作権の許諾不要に」
この記事の
「米グーグルや米ヤフーのようなインターネット検索ビジネスを日本の事業者ができるように、日本でも著作権者の許諾なしに著作物のキーワードや索引の編集・利用が認められる見通しになった。」
の部分にすべてのヒントがある。
要するに、今回のNHK特集で何が無視されていたかと言えば、これである。つまり、「日本では「著作権法」により、検索ビジネスは営業できなかった」ということである(おそらく、ヨーロッパも同じだったろう)。だから、アメリカが世界を席巻できたわけである。このおかげで、世界中のデータはアメリカのサーバーに集まるようになったわけである。掲示板にせよ、何にせよレンタルサーバーのほとんどはこの問題のためにアメリカに設置されているのである。
では、なぜアメリカにそれが出来たのか?
と言えば、それは、「アメリカ政府が、検索ビジネスの国防上の価値を理解していた」からである。そう考えられる。
一方、日本政府など諸外国の政府はその価値を認識できていなかったと考えられるということである。NHKは日本政府のこうした杜撰さや無能さを少しも非難も報道もしなかった。これが今回の「NHKスペシャルの最大の問題であった」と私は考えている。
かつて、1980年代に世界は”パソコンの時代”に突入した。この時代に、日本でもパソコン用のOSソフトの開発や発明(例えば有名なトロン)があった。しかし、日米貿易摩擦の槍玉にされて、アメリカの「スーパー301条」によって日本ではOS開発が禁止されてしまったのである。これにより、実質上、世界のOS製作はマイクロソフトだけの独占状態となり、マイクロソフト帝国が誕生できたのである。
この経験から、アメリカ政府は、その次の1990年代の”インターネット時代”にも同じ事を行なった。この時代の新規産業である「検索ビジネス」においても、同様の取り扱いを行なったと考えられるのである。すなわち、世界の検索ビジネスの独占を目指したわけである。そのためには、従来の厳しい著作権法を改正する必要があったはずである。これを、おそらく、密かにかつ迅速に行なった。その結果、他国が著作権法を改正できずにいる間に一気にアメリカの検索ビジネスが世界を席巻できたのである。なぜなら、これほど国防上大事なものはないからである。
NHKでは、検索事業はグーグル本社だけが行なっているように放映したが、私の個人的印象では、これまでコンピュータ(エニアック)そのものの開発からインターネットまでアメリカの国防省が行なったという、アメリカのあらゆるコンピュータ開発の歴史を見れば、今回の検索研究においても、もちろんアメリカ政府が主導となって行なってきたと考えられる。それゆえ、必ず、ペンタゴンの組織のどこかに、世界中の情報を収集している機関が密かに存在し、データベースを作っているはずである。これをグーグルのようなアメリカ私企業が真似をしているのだろう。
こういった部分はNHKの取材にはどこにもなかったのである。
”インターネット”は、アメリカのスタンフォード大学で開発されたものである。また、”検索”もまたスタンフォード大学の学生たちが始めたものであると言われている。
しかし、このスタンフォード大学は、別名「国防省大学」とも揶揄される程アメリカ政府と結びついている大学なのである。アメリカのロスアラモス国立研究所(原爆を作ったところ)とスタンフォード大は密接な関係がある。
このようなことからも、米軍関係者や米軍と密接な大学教授が学生にそれとなくこういった新技術の開発をほのめかしたということも考えられるのである。先行研究は密かに軍事機密の下に米軍の研究所で行ない、ある程度目処がつくと、スタンフォードなどの大学研究者に任せる。
どうも日本のマスコミ関係者は、ビジネスで成功したとか”結果”ばかりに目を奪われ、そもそものどうしてそういうビジネスが立ち上がったか、だれが仕掛人かというような、本当の部分を見ない傾向が強い。私はこれに危惧している。
ホリエモンがなぜたったの10年で急成長したかと言えば、それは日本政府関係者が援助したからである。同様に、マイクロソフトやグーグルがなぜたったの10年で急成長できたかと言えば、それもまたアメリカ政府が援助したからである。
つまり、最大の援助とは、「法律の改正」のことである。
たとえば、もし日本政府が、私のような在宅研究者や民間人研究者に支援するような法律改正を今日したとしよう。そうすれば、私は明日からリッチマンである。博士号取得者に、減税措置や相談料(コンサルタント料)を得られるように法改正があれば、明日から博士号取得者は、だれかに質問される度にお金が入る。30分で5000円。今の弁護士のようなものである。
法律の支援というものほど大きな効果を持つものはない。これがマイクロソフトやグーグルにはあったのである。
かつてバックミンスター・フラーがクリティカル・パスの中で言ったことだが、これが「グランチ オヴ ジャイアンツ(巨人のどん欲さ)」の”法律家資本主義”というものの中身である。
ここまで理解できれば、NHKも真っ当と言えるが、どうも表面的なレベルに留まっている。大変残念なことである。
これも実は、その番組では”意識的”にか、”無意識的”にか、”無視されている問題”があった。この無視された問題の方が、実はグーグルの成功そのものよりよほど衝撃的なのであるが、NHKの女性ディレクターは残念ながらそれに全く気付いていないようであった。
これをここでは紹介しておこう。
比較的最近だが、ちょっと前にこんなニュースがあった。あまりにさり気ないニュースであったために、この筋の専門家以外はこのニュースの”真の価値”には気付かなかったにちがいない。
「ネット検索業者育成 著作権の許諾不要に」
この記事の
「米グーグルや米ヤフーのようなインターネット検索ビジネスを日本の事業者ができるように、日本でも著作権者の許諾なしに著作物のキーワードや索引の編集・利用が認められる見通しになった。」
の部分にすべてのヒントがある。
要するに、今回のNHK特集で何が無視されていたかと言えば、これである。つまり、「日本では「著作権法」により、検索ビジネスは営業できなかった」ということである(おそらく、ヨーロッパも同じだったろう)。だから、アメリカが世界を席巻できたわけである。このおかげで、世界中のデータはアメリカのサーバーに集まるようになったわけである。掲示板にせよ、何にせよレンタルサーバーのほとんどはこの問題のためにアメリカに設置されているのである。
では、なぜアメリカにそれが出来たのか?
と言えば、それは、「アメリカ政府が、検索ビジネスの国防上の価値を理解していた」からである。そう考えられる。
一方、日本政府など諸外国の政府はその価値を認識できていなかったと考えられるということである。NHKは日本政府のこうした杜撰さや無能さを少しも非難も報道もしなかった。これが今回の「NHKスペシャルの最大の問題であった」と私は考えている。
かつて、1980年代に世界は”パソコンの時代”に突入した。この時代に、日本でもパソコン用のOSソフトの開発や発明(例えば有名なトロン)があった。しかし、日米貿易摩擦の槍玉にされて、アメリカの「スーパー301条」によって日本ではOS開発が禁止されてしまったのである。これにより、実質上、世界のOS製作はマイクロソフトだけの独占状態となり、マイクロソフト帝国が誕生できたのである。
この経験から、アメリカ政府は、その次の1990年代の”インターネット時代”にも同じ事を行なった。この時代の新規産業である「検索ビジネス」においても、同様の取り扱いを行なったと考えられるのである。すなわち、世界の検索ビジネスの独占を目指したわけである。そのためには、従来の厳しい著作権法を改正する必要があったはずである。これを、おそらく、密かにかつ迅速に行なった。その結果、他国が著作権法を改正できずにいる間に一気にアメリカの検索ビジネスが世界を席巻できたのである。なぜなら、これほど国防上大事なものはないからである。
NHKでは、検索事業はグーグル本社だけが行なっているように放映したが、私の個人的印象では、これまでコンピュータ(エニアック)そのものの開発からインターネットまでアメリカの国防省が行なったという、アメリカのあらゆるコンピュータ開発の歴史を見れば、今回の検索研究においても、もちろんアメリカ政府が主導となって行なってきたと考えられる。それゆえ、必ず、ペンタゴンの組織のどこかに、世界中の情報を収集している機関が密かに存在し、データベースを作っているはずである。これをグーグルのようなアメリカ私企業が真似をしているのだろう。
こういった部分はNHKの取材にはどこにもなかったのである。
”インターネット”は、アメリカのスタンフォード大学で開発されたものである。また、”検索”もまたスタンフォード大学の学生たちが始めたものであると言われている。
しかし、このスタンフォード大学は、別名「国防省大学」とも揶揄される程アメリカ政府と結びついている大学なのである。アメリカのロスアラモス国立研究所(原爆を作ったところ)とスタンフォード大は密接な関係がある。
このようなことからも、米軍関係者や米軍と密接な大学教授が学生にそれとなくこういった新技術の開発をほのめかしたということも考えられるのである。先行研究は密かに軍事機密の下に米軍の研究所で行ない、ある程度目処がつくと、スタンフォードなどの大学研究者に任せる。
どうも日本のマスコミ関係者は、ビジネスで成功したとか”結果”ばかりに目を奪われ、そもそものどうしてそういうビジネスが立ち上がったか、だれが仕掛人かというような、本当の部分を見ない傾向が強い。私はこれに危惧している。
ホリエモンがなぜたったの10年で急成長したかと言えば、それは日本政府関係者が援助したからである。同様に、マイクロソフトやグーグルがなぜたったの10年で急成長できたかと言えば、それもまたアメリカ政府が援助したからである。
つまり、最大の援助とは、「法律の改正」のことである。
たとえば、もし日本政府が、私のような在宅研究者や民間人研究者に支援するような法律改正を今日したとしよう。そうすれば、私は明日からリッチマンである。博士号取得者に、減税措置や相談料(コンサルタント料)を得られるように法改正があれば、明日から博士号取得者は、だれかに質問される度にお金が入る。30分で5000円。今の弁護士のようなものである。
法律の支援というものほど大きな効果を持つものはない。これがマイクロソフトやグーグルにはあったのである。
かつてバックミンスター・フラーがクリティカル・パスの中で言ったことだが、これが「グランチ オヴ ジャイアンツ(巨人のどん欲さ)」の”法律家資本主義”というものの中身である。
ここまで理解できれば、NHKも真っ当と言えるが、どうも表面的なレベルに留まっている。大変残念なことである。
2007/01/21のBlog
[ 11:24 ]
[ 社会 ]
大分前に以下のようなことを紹介していた。
公務員の”勤務捏造”
”単位捏造”:受験教育の末路
「”捏造”の時代精神 」、
「”科学者の規範作り”には2種類必要だ! 」、
「理研の”不正行為防止策” 」
「”科学者の捏造論文”vs”文芸人の無断盗用” 」
「ランダエタ戦の”八百長疑惑”:ちまたの声、声、声 」
この中の「”単位捏造”:受験教育の末路 」でこう書いていた。
”『それにしても、昨今の日本はひどい。政治家の”履歴書捏造”から始まって、科学者の”論文捏造”やら、画家の”絵の捏造”やらと続き、とうとうボクシングの”判定捏造”、”チャンピオン捏造”にまで来てしまった。これでは、”国家の品格”もなにもない。本当に”目に余る”。』
と書いていたが、今度は高校の「単位捏造」と来た。
1970年代に文部省が行った教育(「受験戦争」、「受験地獄」)の”つけ”が今まさに社会問題となってきたのである。したがって、この問題の”根”は実に深い。”
今度はさらに「テレビ番組捏造」が加わった。
「あるある大事典」の納豆ダイエットで捏造 関西テレビ
フジテレビ系の生活情報番組「発掘!あるある大事典2」で紹介した、”納豆のダイエット効果”が全部捏造だったが発覚したというニュースである。私もこれを見ていてすっかり騙されてしまった。
公務員の”勤務捏造”
”単位捏造”:受験教育の末路
「”捏造”の時代精神 」、
「”科学者の規範作り”には2種類必要だ! 」、
「理研の”不正行為防止策” 」
「”科学者の捏造論文”vs”文芸人の無断盗用” 」
「ランダエタ戦の”八百長疑惑”:ちまたの声、声、声 」
この中の「”単位捏造”:受験教育の末路 」でこう書いていた。
”『それにしても、昨今の日本はひどい。政治家の”履歴書捏造”から始まって、科学者の”論文捏造”やら、画家の”絵の捏造”やらと続き、とうとうボクシングの”判定捏造”、”チャンピオン捏造”にまで来てしまった。これでは、”国家の品格”もなにもない。本当に”目に余る”。』
と書いていたが、今度は高校の「単位捏造」と来た。
1970年代に文部省が行った教育(「受験戦争」、「受験地獄」)の”つけ”が今まさに社会問題となってきたのである。したがって、この問題の”根”は実に深い。”
今度はさらに「テレビ番組捏造」が加わった。
「あるある大事典」の納豆ダイエットで捏造 関西テレビ
フジテレビ系の生活情報番組「発掘!あるある大事典2」で紹介した、”納豆のダイエット効果”が全部捏造だったが発覚したというニュースである。私もこれを見ていてすっかり騙されてしまった。
我が家ではもともと納豆は良く食べる。しかし私自身はあまり良くまぜないで食べるのが好みである。が、「納豆を良くまぜてこねて20分してから食べればダイエットに効く」という話に実験データや学者のコメントが加えられていたために、私もそれを信じて毎日納豆を”良くまぜて食べる”ようにしたのである。
ところが、この番組で使われた「実験データ」や「インタビュー」や「グラフ」などが全部”捏造”、さらには「無断盗用」もあったようだ。要するに、番組の内容が全部スタッフの行なった”作り事”だったというわけである。
いやはや、何とも情けない話である。
写真:報道後買い占められた納豆。ちょっとした”賞味期限切れ”が報道されれば、不二家のようにさも死人が出るかのごとく大問題にされ、逆に”真っ赤なうそ”でもダイエットに効果あると報道されれば、このように”大売れ”となる。まったく昨今のマスコミ報道は日本社会を大混乱に追い込むことが目的なのだろうか。
ところが、この番組で使われた「実験データ」や「インタビュー」や「グラフ」などが全部”捏造”、さらには「無断盗用」もあったようだ。要するに、番組の内容が全部スタッフの行なった”作り事”だったというわけである。
いやはや、何とも情けない話である。
写真:報道後買い占められた納豆。ちょっとした”賞味期限切れ”が報道されれば、不二家のようにさも死人が出るかのごとく大問題にされ、逆に”真っ赤なうそ”でもダイエットに効果あると報道されれば、このように”大売れ”となる。まったく昨今のマスコミ報道は日本社会を大混乱に追い込むことが目的なのだろうか。
ところで、これと似たようなものは、「あるある大事典」だけではない。
最近見た、スーパーモーニングでは、「議員のセクハラ疑惑」というのを報道していたが、見ていて何とも後味の悪いものだった。それは、わざわざ地方の田舎の議員をあげつらって、番組がいちゃもんをつけて”弱いものいじめ”をしているように見えたからである。
雇ったコンパニオンガールの胸を触って写真を取ったとか、議員の1人にアポイントメントもなくいきなり犯罪者扱いして怒らせ、押されたらわざと大袈裟に倒れて(サッカーでいうシミュレーション)、その人物のイメージを悪くするように報道する。「報道の自由」を逆手にとって、自分達の作ったシナリオ通りに話を展開していこうとするのが見え見えであったからである。
この様は、痴漢行為をしていないのにも関わらず、されたと大袈裟に騒ぐ女子高生のようであった。
このような番組は、確かに「あるある大事典」のような”テレビ番組捏造”ではない。しかし、取材側が取材される側の悪いイメージを視聴者に”意識的に誘導しよう”というものである。確かに「セクハラ行為」や「セクハラ的行為」は許されるものではないが、かといって、状況も考えずに、一律に杓子定規に取材される側のイメージを誘導してしまうというのはこれまた犯罪的行為と言えるだろう。「セクハラ行為」は悪いんだから、この議員の場合も悪いとその番組が思うから悪いのだ、いうことにはならない。つまり、テレビ番組の司会者やレポートが、視聴者に代わって、他人を裁く事はできない、のである。
もちろん、番組としてそれなりの”意見”を個人として言うことは可能だろうが、何人も裁くことはできない。もちろん、現行犯としてはできるかも知れないが、現行犯で逮捕していない以上、女性側の意見のみで裁く事はできないはずだからである。
ところが、不思議なことに、日本の番組は、暴走行為や悪さをしている若者や違法行為している人物を報道する場合にわざわざ顔が見えないように”モザイク”や”影”をつけることがある。この場合にどうしてそうするのか良く知らないが、恐らく、「プライバシーの侵害」を恐れてのことだろう。
しかし、現行犯で取材者の目の前で違法行為や犯罪行為している人物のプライバシーは守るが、公的な催しや公人として出かけ、その合間の個人、私人として行なったことに関しては、平気で「プライバシーの侵害」を行なうというようなことがしばしば行なわれる。
私にはどうもこの辺りの感覚が理解できない。犯罪行為にプライベートもパブリックもない。犯罪に私人も公人もない。殺人はだれが行なっても殺人である。したがって、現行犯の報道は、全部顔を見えるようにして報道すべきである。さもなくば、やらせかどうか、だれが判断できると言えるのだろうか。勝手に番組スタッフが行なっているのかもしれないからである。
一方、公人であれ、民間人であれ、「公私の区別」は存在する。
公人が公的目的(例えば、海外視察)で出かけても、あるいは、民間人が企業の出張で出かけても、それは基本的には、仕事は一日の労働時間に相当する、勤務時間内の「9時から5時」までの話であり、それ以外のオフの時間は自由時間である。したがって、お金の支払いもそれ応じて公私の区別が必要である。極端な話、勤務時間内のコンパニオンには、セクハラ行為は違法行為だが、オフの時間のコンパニオンや売春婦の支払いは自前で支払う事になるだろう。もちろん、倫理的にはいただけない話だが、公人とて公私の区別はたとえ仕事で出張中でもつけるべき事なのである。
一番の例は、米軍である。第二次世界大戦の時、米軍が硫黄島を進攻したり、ルソン島を進攻したりする時も、「9時から5時」だったというのは有名な話である。会田雄二の「アーロン収容所」にはそんな話があったと記憶している。
要するに、米軍の兵士は、戦時中で実際の戦闘中でも、”仕事(=労働)”として戦争を行なっているために、自国の労働基準法に定められた労働時間しか戦闘行為を行なわない。そして、後はオフなのである。つまり、「戦争中でも”公私の区別”がある」ということなのである。
「公私の区別」がつかない。それゆえ「公私混同」してしまう、というのは、今もって日本人の最大の弱点、最大の文化的特徴だが、これは、咸臨丸(かいりんまる)でアメリカに渡った勝海舟も言っていたことである。それから、150年近く経った今もいまだによく分からないようである。
こうした「公私の区別」や「公私混同」がよく分かっていないと、”番組の捏造”、”番組の私物化”などもなくなることはないだろう。
しかし、それにしても、女優が「役は監督とエッチしてもらった」とか、あるいは、女子アナなどがよく「私は番組のレギュラーをプロデューサーとエッチして取った」というようなことを口にするが、これは映画監督やテレビのプロデューサーやディレクターのセクハラ行為ではないのか。あるいは、公私混同ではないのか。ほんと芸能界というのは、よく分からない世界である。
いずれにせよ、芸能界のレベルもどんどん低下する一方なので、我々視聴者が十二分に注意していかないといけない時代になってしまったようである。
最近見た、スーパーモーニングでは、「議員のセクハラ疑惑」というのを報道していたが、見ていて何とも後味の悪いものだった。それは、わざわざ地方の田舎の議員をあげつらって、番組がいちゃもんをつけて”弱いものいじめ”をしているように見えたからである。
雇ったコンパニオンガールの胸を触って写真を取ったとか、議員の1人にアポイントメントもなくいきなり犯罪者扱いして怒らせ、押されたらわざと大袈裟に倒れて(サッカーでいうシミュレーション)、その人物のイメージを悪くするように報道する。「報道の自由」を逆手にとって、自分達の作ったシナリオ通りに話を展開していこうとするのが見え見えであったからである。
この様は、痴漢行為をしていないのにも関わらず、されたと大袈裟に騒ぐ女子高生のようであった。
このような番組は、確かに「あるある大事典」のような”テレビ番組捏造”ではない。しかし、取材側が取材される側の悪いイメージを視聴者に”意識的に誘導しよう”というものである。確かに「セクハラ行為」や「セクハラ的行為」は許されるものではないが、かといって、状況も考えずに、一律に杓子定規に取材される側のイメージを誘導してしまうというのはこれまた犯罪的行為と言えるだろう。「セクハラ行為」は悪いんだから、この議員の場合も悪いとその番組が思うから悪いのだ、いうことにはならない。つまり、テレビ番組の司会者やレポートが、視聴者に代わって、他人を裁く事はできない、のである。
もちろん、番組としてそれなりの”意見”を個人として言うことは可能だろうが、何人も裁くことはできない。もちろん、現行犯としてはできるかも知れないが、現行犯で逮捕していない以上、女性側の意見のみで裁く事はできないはずだからである。
ところが、不思議なことに、日本の番組は、暴走行為や悪さをしている若者や違法行為している人物を報道する場合にわざわざ顔が見えないように”モザイク”や”影”をつけることがある。この場合にどうしてそうするのか良く知らないが、恐らく、「プライバシーの侵害」を恐れてのことだろう。
しかし、現行犯で取材者の目の前で違法行為や犯罪行為している人物のプライバシーは守るが、公的な催しや公人として出かけ、その合間の個人、私人として行なったことに関しては、平気で「プライバシーの侵害」を行なうというようなことがしばしば行なわれる。
私にはどうもこの辺りの感覚が理解できない。犯罪行為にプライベートもパブリックもない。犯罪に私人も公人もない。殺人はだれが行なっても殺人である。したがって、現行犯の報道は、全部顔を見えるようにして報道すべきである。さもなくば、やらせかどうか、だれが判断できると言えるのだろうか。勝手に番組スタッフが行なっているのかもしれないからである。
一方、公人であれ、民間人であれ、「公私の区別」は存在する。
公人が公的目的(例えば、海外視察)で出かけても、あるいは、民間人が企業の出張で出かけても、それは基本的には、仕事は一日の労働時間に相当する、勤務時間内の「9時から5時」までの話であり、それ以外のオフの時間は自由時間である。したがって、お金の支払いもそれ応じて公私の区別が必要である。極端な話、勤務時間内のコンパニオンには、セクハラ行為は違法行為だが、オフの時間のコンパニオンや売春婦の支払いは自前で支払う事になるだろう。もちろん、倫理的にはいただけない話だが、公人とて公私の区別はたとえ仕事で出張中でもつけるべき事なのである。
一番の例は、米軍である。第二次世界大戦の時、米軍が硫黄島を進攻したり、ルソン島を進攻したりする時も、「9時から5時」だったというのは有名な話である。会田雄二の「アーロン収容所」にはそんな話があったと記憶している。
要するに、米軍の兵士は、戦時中で実際の戦闘中でも、”仕事(=労働)”として戦争を行なっているために、自国の労働基準法に定められた労働時間しか戦闘行為を行なわない。そして、後はオフなのである。つまり、「戦争中でも”公私の区別”がある」ということなのである。
「公私の区別」がつかない。それゆえ「公私混同」してしまう、というのは、今もって日本人の最大の弱点、最大の文化的特徴だが、これは、咸臨丸(かいりんまる)でアメリカに渡った勝海舟も言っていたことである。それから、150年近く経った今もいまだによく分からないようである。
こうした「公私の区別」や「公私混同」がよく分かっていないと、”番組の捏造”、”番組の私物化”などもなくなることはないだろう。
しかし、それにしても、女優が「役は監督とエッチしてもらった」とか、あるいは、女子アナなどがよく「私は番組のレギュラーをプロデューサーとエッチして取った」というようなことを口にするが、これは映画監督やテレビのプロデューサーやディレクターのセクハラ行為ではないのか。あるいは、公私混同ではないのか。ほんと芸能界というのは、よく分からない世界である。
いずれにせよ、芸能界のレベルもどんどん低下する一方なので、我々視聴者が十二分に注意していかないといけない時代になってしまったようである。
2007/01/20のBlog
[ 11:50 ]
[ テクノロジー ]
動くスクリーン、自在に立体映像 国立新美術館で公開へ
新しいタイプの立体映像装置が開発されたというニュース。
世界的なCGアーティストで東京大学教授の河口洋一郎さん(54)が、”ジェモーション”という装置を作り、国立新美術館で公開。
これまでディジタル情報を3次元映像にするには、ホログラフィー、偏光眼鏡、左右の視差、回転映像などを利用するものがあった。これらは、脳の中で映像を統合するメカニズムを利用したものである。
新しいタイプの立体映像装置が開発されたというニュース。
世界的なCGアーティストで東京大学教授の河口洋一郎さん(54)が、”ジェモーション”という装置を作り、国立新美術館で公開。
これまでディジタル情報を3次元映像にするには、ホログラフィー、偏光眼鏡、左右の視差、回転映像などを利用するものがあった。これらは、脳の中で映像を統合するメカニズムを利用したものである。
今回のものは、CG映像に合わせて実際にスクリーンがアナログに変型するというもの。
これを彷佛させるのが、キムジョンイルも大好きな「人間掲示板」。つまり、1人1人がカラフルなボードも持ち、その色を変えると、何百人もの表示がカラー画像に変わる。良く甲子園の応援で見るものである。
これもディジタル情報をアナログに変化させるという意味では実に似ている。サッカー場などで人々が行なう歓喜の”ウェーブ”も、立つか座るかのディジタル情報をアナログに変換して波を作っている、という意味では似た原理であると言える。
これを機械でスクリーンにしたのが今回の発明である。まあ、3次元というよりは、準2次元というべきも知れないが、面白い発明である。
こういったものの一番の応用例は、恐らく今度は”球面上”で行なう事だろう。また、スケールを小型化してもっと可動ピストン部の数を増やす事だろう。もし、たくさんのピストンが球面を被えば、これに応じて、立体地球儀のようなものを作る事ができるだろう。こんな感じのさまざまな応用を予感させる発明である。
今後の発展を期待したい。
これを彷佛させるのが、キムジョンイルも大好きな「人間掲示板」。つまり、1人1人がカラフルなボードも持ち、その色を変えると、何百人もの表示がカラー画像に変わる。良く甲子園の応援で見るものである。
これもディジタル情報をアナログに変化させるという意味では実に似ている。サッカー場などで人々が行なう歓喜の”ウェーブ”も、立つか座るかのディジタル情報をアナログに変換して波を作っている、という意味では似た原理であると言える。
これを機械でスクリーンにしたのが今回の発明である。まあ、3次元というよりは、準2次元というべきも知れないが、面白い発明である。
こういったものの一番の応用例は、恐らく今度は”球面上”で行なう事だろう。また、スケールを小型化してもっと可動ピストン部の数を増やす事だろう。もし、たくさんのピストンが球面を被えば、これに応じて、立体地球儀のようなものを作る事ができるだろう。こんな感じのさまざまな応用を予感させる発明である。
今後の発展を期待したい。
2007/01/17のBlog
[ 16:09 ]
[ 地震・災害 ]
ちょうど2、3年程前に、私はここで
「2004年新潟県中越大地震」
「新潟中越地震は予知されていた? 」
「再び震度5強の中越地震、epio”予想”が当った? 」
「地震の前ぶれ?メガマウス参上:宏観現象」
などを書いていたが、それは、「宏観現象」というものを紹介することが目的であった。いわゆる”地震雲”のような現象のことである。
その後、「衛星写真で地震雲は見えるか? 」や最近では、「”特異な自然現象”:雷雲、地震雲 」などでも紹介した。
今日のニュース「震災前からラドン濃度上昇 大気中、放医研など解析」は、非常に興味深い。
この記事によれば、「阪神大震災前に大気中のラドン濃度が異常に上昇していた」という分析結果がでたようだ。その理由は、「地震前にかかった力で岩石に小さなひび割れができ、地中のラドンがそこから大気中に放出されたため」らしい。
この科学分析結果は、これまで、”まゆつばもの”と見なされてきた
八ヶ岳のアマチュア科学者串田氏が率いるepio研究班の『FM電波観測』、
岡山理科大学の弘原海(わだつみ)清教授(総合情報学部)の『プラスイオン流測定法』、
理研の『地震による電離層異常の研究』、
北海道大学の『FM電波観測』、
などの研究を有力に後押しするものである。というのは、これらの研究で対象にしている”未知のプラスイオン”の存在が、どうやら大気中に放出される「ラドンイオン(Ra++)」である可能性が出てきたからである。
もしこの研究成果が”事実”であるとすれば、
”地震の前には、地殻の圧縮により土中からラドンイオンが空気中に放出される。これが、プラスイオンとして観測され、大気中を通過して地震雲を形成する。その後、このイオンが成層圏まで達して、電離層の電子分布を変化させ、電離層の状態を擾乱する。そのために、本来ならこの電離層で反射されるべきFM電波が反射されずにFM電波異常を引き起こす。これが観測される”
こんなシナリオが想像できる。果たして真実はどうか?今後の研究を期待したい。
「2004年新潟県中越大地震」
「新潟中越地震は予知されていた? 」
「再び震度5強の中越地震、epio”予想”が当った? 」
「地震の前ぶれ?メガマウス参上:宏観現象」
などを書いていたが、それは、「宏観現象」というものを紹介することが目的であった。いわゆる”地震雲”のような現象のことである。
その後、「衛星写真で地震雲は見えるか? 」や最近では、「”特異な自然現象”:雷雲、地震雲 」などでも紹介した。
今日のニュース「震災前からラドン濃度上昇 大気中、放医研など解析」は、非常に興味深い。
この記事によれば、「阪神大震災前に大気中のラドン濃度が異常に上昇していた」という分析結果がでたようだ。その理由は、「地震前にかかった力で岩石に小さなひび割れができ、地中のラドンがそこから大気中に放出されたため」らしい。
この科学分析結果は、これまで、”まゆつばもの”と見なされてきた
八ヶ岳のアマチュア科学者串田氏が率いるepio研究班の『FM電波観測』、
岡山理科大学の弘原海(わだつみ)清教授(総合情報学部)の『プラスイオン流測定法』、
理研の『地震による電離層異常の研究』、
北海道大学の『FM電波観測』、
などの研究を有力に後押しするものである。というのは、これらの研究で対象にしている”未知のプラスイオン”の存在が、どうやら大気中に放出される「ラドンイオン(Ra++)」である可能性が出てきたからである。
もしこの研究成果が”事実”であるとすれば、
”地震の前には、地殻の圧縮により土中からラドンイオンが空気中に放出される。これが、プラスイオンとして観測され、大気中を通過して地震雲を形成する。その後、このイオンが成層圏まで達して、電離層の電子分布を変化させ、電離層の状態を擾乱する。そのために、本来ならこの電離層で反射されるべきFM電波が反射されずにFM電波異常を引き起こす。これが観測される”
こんなシナリオが想像できる。果たして真実はどうか?今後の研究を期待したい。
2007/01/14のBlog
[ 14:27 ]
[ スポーツ ]
稲田が3位、初の表彰台にスケルトンW杯男子
稲田選手、3位おめでとう!!
いやー、これは立派。日本人に不利と言われるソリ競技で、稲田勝選手の3位入賞は実に立派。往年の名選手越選手を抜いての3位はお見事の一言。
また、日本ではこういった競技の”すごさ”が理解されていないので分からないのだろうが(そのうちいつか説明しようと思う)、「女子の日本勢は小室希(仙台大)の9位」も実に立派。
昨年の暮れに私は長野のこのコース(長野スパイラル)へとある用事(4人乗りボブスレー試乗)で出かけ、全日本の強化合宿を見てきた。だから、その時にいた選手たちが世界最高峰に一歩近付いたことを知り、実に嬉しい限りである。日本の大学では、こういった競技を行なっているのは、北大と仙台大しかない。この2つの大学の選手達ともちょっと話した。運良く、越選手とも会って話ができた。
このように競技人口そのものが少ない中で入賞したのだから、その努力は想像に絶するすさまじいものがあったはずである。
これに応じるように、リュージュ、ボブスレーなど他の競技でも、入賞めざして頑張ってもらいたいものである。
稲田選手、3位おめでとう!!
いやー、これは立派。日本人に不利と言われるソリ競技で、稲田勝選手の3位入賞は実に立派。往年の名選手越選手を抜いての3位はお見事の一言。
また、日本ではこういった競技の”すごさ”が理解されていないので分からないのだろうが(そのうちいつか説明しようと思う)、「女子の日本勢は小室希(仙台大)の9位」も実に立派。
昨年の暮れに私は長野のこのコース(長野スパイラル)へとある用事(4人乗りボブスレー試乗)で出かけ、全日本の強化合宿を見てきた。だから、その時にいた選手たちが世界最高峰に一歩近付いたことを知り、実に嬉しい限りである。日本の大学では、こういった競技を行なっているのは、北大と仙台大しかない。この2つの大学の選手達ともちょっと話した。運良く、越選手とも会って話ができた。
このように競技人口そのものが少ない中で入賞したのだから、その努力は想像に絶するすさまじいものがあったはずである。
これに応じるように、リュージュ、ボブスレーなど他の競技でも、入賞めざして頑張ってもらいたいものである。
2007/01/13のBlog
[ 11:10 ]
[ 社会 ]
写真:早稲田大学で講演する西村博之氏。(ちなみに、この顔が、俗に「イスラエル人顔」というものの典型である。)
ユーザーショック2ちゃんねる、再来週にも強制執行
1996年に始まった日本のIT化社会、90年代後半から21世紀に入っての「ITバブル」で急成長した。その代表格が、「HP掲示板」のライブドア、「Eメール」のヤフー、「ネットショップ」の楽天、「ネット書店」のアマゾン、「ネット株取り引き」の村上ファンド、そして「匿名掲示板」の2chであった。
こういった新規事業は、ホリエモンこと堀江貴文、孫正義、三木谷浩史、村上世彰、西村博之などのような多くのスーパースター、俗にいう「六本木ヒルズ族」を誕生させた。
しかし、2005年以降、ライブドアと村上ファンドが破たん、ソフトバンクもサービス停止問題で暗雲立ちこみ、そして、今度は2chの西村の”強制執行”があるという。これからも、今やいわゆる「ITバブルが終焉した」ことがわかる。
2chの西村の場合は、現行法を全く無視で、裁判で敗訴した際の賠償金を全く支払わないことが原因であるということらしい。恐らく、賠償金額がたとえいくら小さな額であったとしてもだれか1人でも損害賠償金を支払えば、あらゆる被害者に対して賠償金を支払わなくてはならなくなるために、今必死でもがいて抵抗しているというところだろう。まあ、子供がやる「だだをこねている」わけである。
掲示板ビジネスを起こせば、すぐに賠償問題が生じる事はやる前から分かっているわけだから、誹謗中傷や名誉毀損やいたずらを放置してれば賠償問題になることは初めから分かっているはずである。
もはやIT開花時代の牧歌的に、いたずら心や悪ふざけ、あるいは出来心などで遊びで掲示板を使ってみたという時代は一瞬にして過ぎ去ったのである。今は、国民の大半が利用する公的な手段と代わったのである。
しかしながら、大学人もそうだが、IT産業の創始者たち、一時代の寵児達は、未だにその昔の牧歌的雰囲気の時代から離れられないように見える。これが実に興味深い現象であると私は考える。
ユーザーショック2ちゃんねる、再来週にも強制執行
1996年に始まった日本のIT化社会、90年代後半から21世紀に入っての「ITバブル」で急成長した。その代表格が、「HP掲示板」のライブドア、「Eメール」のヤフー、「ネットショップ」の楽天、「ネット書店」のアマゾン、「ネット株取り引き」の村上ファンド、そして「匿名掲示板」の2chであった。
こういった新規事業は、ホリエモンこと堀江貴文、孫正義、三木谷浩史、村上世彰、西村博之などのような多くのスーパースター、俗にいう「六本木ヒルズ族」を誕生させた。
しかし、2005年以降、ライブドアと村上ファンドが破たん、ソフトバンクもサービス停止問題で暗雲立ちこみ、そして、今度は2chの西村の”強制執行”があるという。これからも、今やいわゆる「ITバブルが終焉した」ことがわかる。
2chの西村の場合は、現行法を全く無視で、裁判で敗訴した際の賠償金を全く支払わないことが原因であるということらしい。恐らく、賠償金額がたとえいくら小さな額であったとしてもだれか1人でも損害賠償金を支払えば、あらゆる被害者に対して賠償金を支払わなくてはならなくなるために、今必死でもがいて抵抗しているというところだろう。まあ、子供がやる「だだをこねている」わけである。
掲示板ビジネスを起こせば、すぐに賠償問題が生じる事はやる前から分かっているわけだから、誹謗中傷や名誉毀損やいたずらを放置してれば賠償問題になることは初めから分かっているはずである。
もはやIT開花時代の牧歌的に、いたずら心や悪ふざけ、あるいは出来心などで遊びで掲示板を使ってみたという時代は一瞬にして過ぎ去ったのである。今は、国民の大半が利用する公的な手段と代わったのである。
しかしながら、大学人もそうだが、IT産業の創始者たち、一時代の寵児達は、未だにその昔の牧歌的雰囲気の時代から離れられないように見える。これが実に興味深い現象であると私は考える。
その昔、ソフト産業では、年々進歩する新しいコンピュータ言語の前に、30代では追いつけず、引退を余儀無くされたという歴史がある。新言語の習熟には時間が掛かるが、それはせいぜい20代までだと言われたのである。実際、自分が学生時代から学びはじめてエキスパートになった頃、若い世代は全く新しい言語を使っている。しだいに新言語が主流となり、自分の技術は陳腐化し時代遅れとなる。こうしたことを繰り返してきたのである。
私の個人的観点では、IT産業に飛びついた10年前から20年前当時の若者達にもこれと同じようなことが言えるのではないか、と見ている。つまり、IT技術は進歩しているが、経営者となった当時の若者達の頭脳はそれほど進歩していないのである。むしろ、進歩から遅れを取っている。
人間というのは、自分がその社会で古くなり、もはや使い物にならない、ということに非常に悲しみや不安を覚える動物である。何らかの形で社会に貢献したいと死ぬまで思い続けるという動物である。
しかし、実際には、人間のそういう希望に反して、人を取り巻く環境は日に日に刷新される。努力を怠れば自分はすぐに古くなってしまう。これは、スポーツ選手のように努力しても年令によって物理的にそうなってしまうということもあるが、そうではなくても起こり得る事なのである。つまり、自分の位置は自分だけでは決まらないのである。全体の中で相対的に決まるのである。
ここに我々人間という種の悲哀がある。
IT産業を起こし、自分が”世界標準”となる。しかし、それは一時のもの。自分が”世界標準”と思っていると、逆にしだいに時代に取り残され、気がつくと今度は自分だけが”時代錯誤”となってしまう。自分が”時代の寵児”だと思っていると、いつしか自分が”時代遅れ”となっているかも知れないのである。すなわち、時代の最先端と時代遅れはともに”相補的”なものなのである。
それゆえ、人はこの間のどこかに自分自身で折り合いをつけねばならない。
古来よりある「温故知新」。この言葉は、そういう新規性と老朽化の間の微妙な関係を物語っている。
果たして日本のIT寵児たちに、人の性(さが)を理解するに足る度量があるのかどうか。今後を見て行く他ないだろうヨ。
私の個人的観点では、IT産業に飛びついた10年前から20年前当時の若者達にもこれと同じようなことが言えるのではないか、と見ている。つまり、IT技術は進歩しているが、経営者となった当時の若者達の頭脳はそれほど進歩していないのである。むしろ、進歩から遅れを取っている。
人間というのは、自分がその社会で古くなり、もはや使い物にならない、ということに非常に悲しみや不安を覚える動物である。何らかの形で社会に貢献したいと死ぬまで思い続けるという動物である。
しかし、実際には、人間のそういう希望に反して、人を取り巻く環境は日に日に刷新される。努力を怠れば自分はすぐに古くなってしまう。これは、スポーツ選手のように努力しても年令によって物理的にそうなってしまうということもあるが、そうではなくても起こり得る事なのである。つまり、自分の位置は自分だけでは決まらないのである。全体の中で相対的に決まるのである。
ここに我々人間という種の悲哀がある。
IT産業を起こし、自分が”世界標準”となる。しかし、それは一時のもの。自分が”世界標準”と思っていると、逆にしだいに時代に取り残され、気がつくと今度は自分だけが”時代錯誤”となってしまう。自分が”時代の寵児”だと思っていると、いつしか自分が”時代遅れ”となっているかも知れないのである。すなわち、時代の最先端と時代遅れはともに”相補的”なものなのである。
それゆえ、人はこの間のどこかに自分自身で折り合いをつけねばならない。
古来よりある「温故知新」。この言葉は、そういう新規性と老朽化の間の微妙な関係を物語っている。
果たして日本のIT寵児たちに、人の性(さが)を理解するに足る度量があるのかどうか。今後を見て行く他ないだろうヨ。
2007/01/12のBlog
[ 10:30 ]
[ 阿南市 ]
ついでに、もう少しその”物”である「発光テトラ」がどんなものか、を紹介しておこう。
右写真:電源回路と「発光テトラ」の素子部が並んだところ。
帯状のパーツは、金属製で5つのLEDが並んでいる。これを6つの穴の空いた正6角形のコネクターに結び付ける。平面構造の場合は、これだけだが、立体構造を作る時には、今度これらを合体させる「V字コネクター」が必要となる。
右写真:電源回路と「発光テトラ」の素子部が並んだところ。
帯状のパーツは、金属製で5つのLEDが並んでいる。これを6つの穴の空いた正6角形のコネクターに結び付ける。平面構造の場合は、これだけだが、立体構造を作る時には、今度これらを合体させる「V字コネクター」が必要となる。
[ 09:55 ]
[ 阿南市 ]
ここ阿南市にRichard Backminster Fullerの言葉
"Think global, act local"
"Do more with less"
を社訓にした会社がある。「L・E・D」という、”たった社員3人”の会社である。昨夜、私と妻と妻の知人の3人でこの会社を訪れたので、忘れないうちにここで紹介しておこう。
この会社の名前の「L・E・D」とは、"Lighting Environment Design(=光環境デザイン)"の3つの頭文字をつけて出来たものである。これが、見事に「発光ダイオード(LED="Light Emitting Diode")の3つの頭文字と一致したのである。それゆえ、「即、会社名にした」と社長の大栗克俊さんは教えてくれた。それもそのはず、この会社は、LEDを使った全く新しい、地球環境に配慮した、光照明システムをデザインする会社だからである。他の社員は、電子部品製作のエキスパートである近藤敏則さんとデザイナーの板東孝明さんという取締役2人。社長の大栗さんは、電子回路とプログラムを中心とし全体の製作のパイオニアである。
"Think global, act local"
"Do more with less"
を社訓にした会社がある。「L・E・D」という、”たった社員3人”の会社である。昨夜、私と妻と妻の知人の3人でこの会社を訪れたので、忘れないうちにここで紹介しておこう。
この会社の名前の「L・E・D」とは、"Lighting Environment Design(=光環境デザイン)"の3つの頭文字をつけて出来たものである。これが、見事に「発光ダイオード(LED="Light Emitting Diode")の3つの頭文字と一致したのである。それゆえ、「即、会社名にした」と社長の大栗克俊さんは教えてくれた。それもそのはず、この会社は、LEDを使った全く新しい、地球環境に配慮した、光照明システムをデザインする会社だからである。他の社員は、電子部品製作のエキスパートである近藤敏則さんとデザイナーの板東孝明さんという取締役2人。社長の大栗さんは、電子回路とプログラムを中心とし全体の製作のパイオニアである。
2年程前に私はここで「光の街阿南:阿南の夏祭りは他とはちょっと違う! 」で、どのように”光マンダラドーム”が誕生したか、を紹介した。この会社は、そのグループがその頃に立ち上げた、全くのベンチャー企業である。古今東西の多くのベンチャー企業がガレージから始まったように、このベンチャーの王道をこの会社も進む。それゆえ、今は阿南の運送会社のガレージにある。
我々は、4時に待ち合わせて、仕事場(アトリエのような感じ)に案内してもらった。この会社は、イベント中心の会社なので、イベントに間に合わせる時は大忙しだが、そういったものが過ぎれば、比較的のんびりしているという。我々は、すでに大方貸し出しが終わった後(イベントの多くは、これから東京ドームなどで開催される予定)だったので、のんびり話ができてラッキーであった。
我々は、4時に待ち合わせて、仕事場(アトリエのような感じ)に案内してもらった。この会社は、イベント中心の会社なので、イベントに間に合わせる時は大忙しだが、そういったものが過ぎれば、比較的のんびりしているという。我々は、すでに大方貸し出しが終わった後(イベントの多くは、これから東京ドームなどで開催される予定)だったので、のんびり話ができてラッキーであった。
時間があったので、「じゃ、作りますか」の大栗さんの提案で、我々もテトラ(正四面体モデル)を作ることになった。
4つの面を作るために、まず1面を3本のパーツと3つの正6角形のコネクターをビスとナットで正三角形に組み立てる。そして4つの正三角形を10個のV字コネクターで繋ぐ。すると、またたく間に正四面体構造のオブジェができる。これに大栗さん手製の”差し込みコネクター”のついた電源に差し込むと、見事に”発光”する。この電源は交流100ボルトから直流18ボルトに変換するもので、我々は別のものを目の前で手作りで作ってもらい、それに繋いで完成。これを記念にいただいた。(大栗さんに心から感謝)。
この後、妻が持って行ったシュークリームを食べながら、いろいろとこの会社の今後の展開や将来性、あるいは今後の夢などを聞く事が出来た。2時間があっという間に過ぎ去ったが、実に楽しい時間であった。
4つの面を作るために、まず1面を3本のパーツと3つの正6角形のコネクターをビスとナットで正三角形に組み立てる。そして4つの正三角形を10個のV字コネクターで繋ぐ。すると、またたく間に正四面体構造のオブジェができる。これに大栗さん手製の”差し込みコネクター”のついた電源に差し込むと、見事に”発光”する。この電源は交流100ボルトから直流18ボルトに変換するもので、我々は別のものを目の前で手作りで作ってもらい、それに繋いで完成。これを記念にいただいた。(大栗さんに心から感謝)。
この後、妻が持って行ったシュークリームを食べながら、いろいろとこの会社の今後の展開や将来性、あるいは今後の夢などを聞く事が出来た。2時間があっという間に過ぎ去ったが、実に楽しい時間であった。
家に戻ると、早速、息子たちに見せる。子供たちも見事なできばえに感動する。これを家でも光らせると、青い色が実に見事である。
これを蛍光灯の豆球代わりに点灯させていると、どういうわけか、青い光にすぐに眠りに誘われた。私はこうして夢の中へ。
これを蛍光灯の豆球代わりに点灯させていると、どういうわけか、青い光にすぐに眠りに誘われた。私はこうして夢の中へ。
2007/01/11のBlog
[ 11:46 ]
[ 科学 ]
写真:最近見つかった”新種”。”白いなまこ”と”しましまのウニ”
下に紹介した「マーミンのプレイジャリズム」、「マーミンのジョーク」は、2年ちょっと前に私の昔の掲示板に書いておいたものである。が、しかし、最近私は現在の理論物理学にある種の”違和感”というのか、”危機感”を持っているので、あえて再録した。
ここでは、私の専門である物理学の話題は極力書かないようにしている。というのは、直接は「同業者の論評はしない」という科学者の”不文律”に従っているからである。また、同業者の場合には、言うべき事は直接本人に言えば良い事だからでもある。(もっとも日本の大学でこの約束事を学生に指導しているということは無さそうだが)
さて、今回”あえて”紹介したいのは、日本語の「厳密」という言葉についてである。日本語では、物理学にこんな言葉がある。
(あ)「厳密な証明」、(い)「厳密解」
普通の科学の本(数学や物理の本という意味)では、このような言葉が使われている。しかし、どうやらここに非常に”困ったこと”が起きているように私は感じる。というのは、上2つを英語で表現するとその問題が理解できるだろう。
(あ)"Rigorous proof"、(い)"Exact solution"
つまり、何が問題かと言えば、英語の"rigorous"という言葉と"exact"という言葉が共に日本語では「厳密な」と訳されてしまう、ということである。
しかし、前者は日本語本来の意味の「厳密な」というよりは、どちらかと言えば「厳格な」とか「厳しい」というような意味合いである。しかし後者は、日本語文字どおりの「厳密な」あるいは「完璧な」という意味合いである。それゆえ、本来なら前者を「厳密な」と呼び、後者を「完璧な」(あるいは「完全な」)と呼ぶべきだったのかも知れない。
いずれにしても、"rigorous"とは、なんのあいまいさもない、厳しいチェックにも耐える、というような意味であり、一方の"exact"とは、”そのものずばり”の完璧な、というような意味なのである。ちなみに、英英辞典では次のようにある。
"rigor"= firmness or severity
"exact"= correct in every detail or completely according to fact
下に紹介した「マーミンのプレイジャリズム」、「マーミンのジョーク」は、2年ちょっと前に私の昔の掲示板に書いておいたものである。が、しかし、最近私は現在の理論物理学にある種の”違和感”というのか、”危機感”を持っているので、あえて再録した。
ここでは、私の専門である物理学の話題は極力書かないようにしている。というのは、直接は「同業者の論評はしない」という科学者の”不文律”に従っているからである。また、同業者の場合には、言うべき事は直接本人に言えば良い事だからでもある。(もっとも日本の大学でこの約束事を学生に指導しているということは無さそうだが)
さて、今回”あえて”紹介したいのは、日本語の「厳密」という言葉についてである。日本語では、物理学にこんな言葉がある。
(あ)「厳密な証明」、(い)「厳密解」
普通の科学の本(数学や物理の本という意味)では、このような言葉が使われている。しかし、どうやらここに非常に”困ったこと”が起きているように私は感じる。というのは、上2つを英語で表現するとその問題が理解できるだろう。
(あ)"Rigorous proof"、(い)"Exact solution"
つまり、何が問題かと言えば、英語の"rigorous"という言葉と"exact"という言葉が共に日本語では「厳密な」と訳されてしまう、ということである。
しかし、前者は日本語本来の意味の「厳密な」というよりは、どちらかと言えば「厳格な」とか「厳しい」というような意味合いである。しかし後者は、日本語文字どおりの「厳密な」あるいは「完璧な」という意味合いである。それゆえ、本来なら前者を「厳密な」と呼び、後者を「完璧な」(あるいは「完全な」)と呼ぶべきだったのかも知れない。
いずれにしても、"rigorous"とは、なんのあいまいさもない、厳しいチェックにも耐える、というような意味であり、一方の"exact"とは、”そのものずばり”の完璧な、というような意味なのである。ちなみに、英英辞典では次のようにある。
"rigor"= firmness or severity
"exact"= correct in every detail or completely according to fact
では、もう少し分かりやすく考えてみよう。例えば、
2次方程式:x^2 = x +1
を考えよう。
この解を求めるのは中学生の数学のレベルだが、仮に今我々は2次方程式の解法を知らないとする。そういう場合に、この解の性質がどういうものか、を調べる”厳密な(="rigorous")な方法があるか?
答えは、イエス。
両辺をxで割れば、x= 1 + 1/x となる。xが正の数(x>0)とすれば、右辺>0。したがって、右辺のxに左辺を代入すれば、
x= 1 + 1/(1 + 1/x)=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/x))=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/)))=.....
となることがわかる。
したがって、右辺の中に出てくる1/xを無視すれば、
x_0=1,
x_1=1+ 1=2,
x_2=1+ 1/(1+1)=1+1/2=3/2,
x_3=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1))=1+1/(1+1/2)=1+1/(3/2)=1+2/3=5/3, .....
ということが分かる。これらは本当の解の近似である。これから、もし分子分母に出てくる数を次のように定義すれば、近似が”厳密に(="Exact"に)”得られることになる。そこで、
F(n+1)=F(n-1)+F(n), F(0)=F(1)=1
と定義する。この数列は、前2つの和でできる数列である。つまり、
1、1、2、3、5、8、13、21、......
である。そして、いつも近似が
x_n = F(n+1)/F(n)
となっていることがわかる。n→∞の時には、x_n がx=1.618033989...になることが”予想”(conjecture)できる。仮に真の値τとその近似x_nの差τ-x_nを考えると、
τ-x_n=τ-F(n+1)/F(n)=(F(n)τ-F(n+1))/F(n)=1/(F(n)(-τ)^n)
ここでF(n)τ-F(n+1)=(-τ)^nを使った。これは、F(n+1)τ-F(n)=τ^nにF(-n)=(-1)^{n+1}F(n)を代入して得られ、これらもτ^2 = τ +1から帰納法で証明できる。したがって、τ>1だから、1/(F(n+1)τ-F(n)) < 1/(F(n+1)-F(n))。それゆえ、
|τ-x_n|=|τ-F(n+1)/F(n)|=|1/(F(n)(-τ)^n)| =|(-1)^{n+1}/[F(n)(F(n+1)τ-F(n))]|<|(-1)^{n+1}/[F(n)(F(n+1)-F(n))]|=|(-1)^{n+1}/[F(n)F(n-1)]|
結局、
|τ-x_n| <1/[F(n)F(n-1)]
の関係が”厳密に”(="rigorous"に)証明できたわけである。右辺はn→∞の時には、0に収束するので、この場合に真の値に収束することが分かる。
これが、いわゆる”厳密な証明”(="rigorous proof")の意味である。
それに対して、”厳密解”はどうかといえば、中学の数学の「2次方程式の解法」により、最初の2次方程式を”因数分解”できれば、次のように得られる。
x_{±} = (1±√5)/2
x>0である解は、τ=(1+√5)/2。
これが”厳密解”(="Exact solution")である。(ところで、この方法が得られるためには、「平方根」の概念、「因数分解」などの”新概念を創出する”必要があったわけである。新しい方法が既存の未解決問題を解くためには、必ず何がしかの新概念を生み出さなくては難しいのである。)
こんなふうに見れば、私が言わんとした、同じ「厳密」という日本語であっても、その意味合いが全く異なることが分かっただろう。
2次方程式:x^2 = x +1
を考えよう。
この解を求めるのは中学生の数学のレベルだが、仮に今我々は2次方程式の解法を知らないとする。そういう場合に、この解の性質がどういうものか、を調べる”厳密な(="rigorous")な方法があるか?
答えは、イエス。
両辺をxで割れば、x= 1 + 1/x となる。xが正の数(x>0)とすれば、右辺>0。したがって、右辺のxに左辺を代入すれば、
x= 1 + 1/(1 + 1/x)=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/x))=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/(1 + 1/)))=.....
となることがわかる。
したがって、右辺の中に出てくる1/xを無視すれば、
x_0=1,
x_1=1+ 1=2,
x_2=1+ 1/(1+1)=1+1/2=3/2,
x_3=1 + 1/(1 + 1/(1 + 1))=1+1/(1+1/2)=1+1/(3/2)=1+2/3=5/3, .....
ということが分かる。これらは本当の解の近似である。これから、もし分子分母に出てくる数を次のように定義すれば、近似が”厳密に(="Exact"に)”得られることになる。そこで、
F(n+1)=F(n-1)+F(n), F(0)=F(1)=1
と定義する。この数列は、前2つの和でできる数列である。つまり、
1、1、2、3、5、8、13、21、......
である。そして、いつも近似が
x_n = F(n+1)/F(n)
となっていることがわかる。n→∞の時には、x_n がx=1.618033989...になることが”予想”(conjecture)できる。仮に真の値τとその近似x_nの差τ-x_nを考えると、
τ-x_n=τ-F(n+1)/F(n)=(F(n)τ-F(n+1))/F(n)=1/(F(n)(-τ)^n)
ここでF(n)τ-F(n+1)=(-τ)^nを使った。これは、F(n+1)τ-F(n)=τ^nにF(-n)=(-1)^{n+1}F(n)を代入して得られ、これらもτ^2 = τ +1から帰納法で証明できる。したがって、τ>1だから、1/(F(n+1)τ-F(n)) < 1/(F(n+1)-F(n))。それゆえ、
|τ-x_n|=|τ-F(n+1)/F(n)|=|1/(F(n)(-τ)^n)| =|(-1)^{n+1}/[F(n)(F(n+1)τ-F(n))]|<|(-1)^{n+1}/[F(n)(F(n+1)-F(n))]|=|(-1)^{n+1}/[F(n)F(n-1)]|
結局、
|τ-x_n| <1/[F(n)F(n-1)]
の関係が”厳密に”(="rigorous"に)証明できたわけである。右辺はn→∞の時には、0に収束するので、この場合に真の値に収束することが分かる。
これが、いわゆる”厳密な証明”(="rigorous proof")の意味である。
それに対して、”厳密解”はどうかといえば、中学の数学の「2次方程式の解法」により、最初の2次方程式を”因数分解”できれば、次のように得られる。
x_{±} = (1±√5)/2
x>0である解は、τ=(1+√5)/2。
これが”厳密解”(="Exact solution")である。(ところで、この方法が得られるためには、「平方根」の概念、「因数分解」などの”新概念を創出する”必要があったわけである。新しい方法が既存の未解決問題を解くためには、必ず何がしかの新概念を生み出さなくては難しいのである。)
こんなふうに見れば、私が言わんとした、同じ「厳密」という日本語であっても、その意味合いが全く異なることが分かっただろう。
さて、そこで、最初のマーミンさんのジョークの話に戻る。
”質問:理論物理学と数理物理学の違いは何でしょうか?
答え:理論物理は実際の実験を行う技量のない物理学者によって行われるもので、
数理物理学は実際の数学を行う技量のない数学者によって行われるものである。”
というのが、マーミンジョークだが、20世紀後半から理論物理が、かなり”矮小化されて”数理物理学の一種のように理解されてきてしまったようである。理論物理と数理物理のどこがどう違うかというのは、非常に説明が難しい。そこで、マーミンさんは、「数理物理学は、”数学者もどき”が行なうもの」で、「理論物理は、”実験できない物理学者”が行なうもの」とジョーク的に定義したわけであろう。
そこで、もっと端的に説明するにはどうすべきか、と私が考えたところ、どうやらこの2つの曖昧さの原因は、「厳密さ」という言葉の曖昧さにあると気付いたということである。
つまり、簡単に言えば、同じ問題でも、「厳密(="Exact")に行なおうと目指すのが理論物理学者」で、「厳密(="Rigorous")に行なおうと目指すのが数理物理学者」であると定義するのが分かりやすいのではないか、と思ったのである。
なぜなら、物理学者にとって、不等式はあまり意味がない。だから、|τ-x_n| <1/[F(n)F(n-1)]が得られてもあまり御利益がない。できることなら、いくらでも数値計算可能な理論、それも厳密(=Exact=完璧で完全な)ものが良い。したがって、理論物理学者は、一般的に見て、「2次方程式の解法」のようなものが欲しいのである。
しかし、数理物理学者はちょっと違う。「2次方程式の解法」のような完全解が得られなくても、その近似でも結構。不完全解でも結構。とにかく、何かが”厳密に(="rigorous")証明”できれば良い。解のあるなしとか、振るまいとかが厳密に示せればそれで良い。特に、数値的に計算可能でなくても良い。なぜなら実験の詳細にはさほど関心がないからだ。証明の、方策、センス、エレガントさなどの方に興味があるからである。
もちろん、人それぞれいかようにも定義できる。しかし、私の個人的趣味としては、理論物理学者は、「Exactに計算可能な理論」の構築を目指すべきだろうと思う。あるいは、「Exactな概念」の創成に寄与すべきだろう。
こうして20世紀後半を見ると、20世紀前半(や19世紀後半)に、マックスウェルやボルツマン、プランクやアインシュタイン、ディラックやハイゼンベルグやシュレディンガーなど行なった「Exactな研究」と比べて、どうも「Rigorousな研究」に甘んじているのではないか、と私は感じる。私は、「ある現象を何の曇りもなくビシっと計算可能にする画期的な研究」が欲しい。ちょこちょことたくさんの「Rigorous理論」を出すよりは、一発の「Exact理論」を出すべきである。
この意味では、Yangの「Bethe仮説の方法」、Kruskalの「ソリトン理論」などは、Exactな研究の中の模範中の模範である。
理論物理学者というからには、1つでも「完璧な理論(Exact theory)」を生み出したいものである。困難を極めるがネ。
”質問:理論物理学と数理物理学の違いは何でしょうか?
答え:理論物理は実際の実験を行う技量のない物理学者によって行われるもので、
数理物理学は実際の数学を行う技量のない数学者によって行われるものである。”
というのが、マーミンジョークだが、20世紀後半から理論物理が、かなり”矮小化されて”数理物理学の一種のように理解されてきてしまったようである。理論物理と数理物理のどこがどう違うかというのは、非常に説明が難しい。そこで、マーミンさんは、「数理物理学は、”数学者もどき”が行なうもの」で、「理論物理は、”実験できない物理学者”が行なうもの」とジョーク的に定義したわけであろう。
そこで、もっと端的に説明するにはどうすべきか、と私が考えたところ、どうやらこの2つの曖昧さの原因は、「厳密さ」という言葉の曖昧さにあると気付いたということである。
つまり、簡単に言えば、同じ問題でも、「厳密(="Exact")に行なおうと目指すのが理論物理学者」で、「厳密(="Rigorous")に行なおうと目指すのが数理物理学者」であると定義するのが分かりやすいのではないか、と思ったのである。
なぜなら、物理学者にとって、不等式はあまり意味がない。だから、|τ-x_n| <1/[F(n)F(n-1)]が得られてもあまり御利益がない。できることなら、いくらでも数値計算可能な理論、それも厳密(=Exact=完璧で完全な)ものが良い。したがって、理論物理学者は、一般的に見て、「2次方程式の解法」のようなものが欲しいのである。
しかし、数理物理学者はちょっと違う。「2次方程式の解法」のような完全解が得られなくても、その近似でも結構。不完全解でも結構。とにかく、何かが”厳密に(="rigorous")証明”できれば良い。解のあるなしとか、振るまいとかが厳密に示せればそれで良い。特に、数値的に計算可能でなくても良い。なぜなら実験の詳細にはさほど関心がないからだ。証明の、方策、センス、エレガントさなどの方に興味があるからである。
もちろん、人それぞれいかようにも定義できる。しかし、私の個人的趣味としては、理論物理学者は、「Exactに計算可能な理論」の構築を目指すべきだろうと思う。あるいは、「Exactな概念」の創成に寄与すべきだろう。
こうして20世紀後半を見ると、20世紀前半(や19世紀後半)に、マックスウェルやボルツマン、プランクやアインシュタイン、ディラックやハイゼンベルグやシュレディンガーなど行なった「Exactな研究」と比べて、どうも「Rigorousな研究」に甘んじているのではないか、と私は感じる。私は、「ある現象を何の曇りもなくビシっと計算可能にする画期的な研究」が欲しい。ちょこちょことたくさんの「Rigorous理論」を出すよりは、一発の「Exact理論」を出すべきである。
この意味では、Yangの「Bethe仮説の方法」、Kruskalの「ソリトン理論」などは、Exactな研究の中の模範中の模範である。
理論物理学者というからには、1つでも「完璧な理論(Exact theory)」を生み出したいものである。困難を極めるがネ。
[ 09:38 ]
[ ジョーク ]
ちなみに、先のマーミンさんのコラムの中にマーミンさんのジョークが紹介されている。これは結構面白いのでちょっと紹介しておこう。
『質問:理論物理学と数理物理学の違いは何でしょうか?
答え:理論物理は実際の実験を行う技量のない物理学者によって行われるもので、数理物理学は実際の数学を行う技量のない数学者によって行われるものである。』
どうだろう?結構シニカルで面白いジョークである。マーミンさん曰く、このジョークを数理物理学者は好きではないが、普通の物理学者は好きなようだ。
さて、今から3年程前に実はこの私も非常に似たテーマのエッセイを書いていた。これは、
『#571 数理物理学と物理数学、どっちが物理学に近い? 2001/12/27』
(http://bbs9.otd.co.jp/kazumoto/bbs_plain?base=571&range=1)
である。この中で次のようなことを書いていた。
『ちなみに、一般に誤解されていることは、数理物理学と物理数学
のどっちが物理に近いかというと、物理数学のほうなんですが、
逆に受け取られています。
数理物理学は数学者が物理(にある数学)をやる場合で、物理数学は
物理学者が数学(物理で現れた数学)をやる場合です。この辺は、
非常に誤解されていますね。だから、両者はやり方が全く異なります。
前者は数学的厳密性を求め、後者は数式にある物理的内容を重視
します。
同様に、コンピュータ生物学と生物コンピュータ学では、前者が
(普通の)コンピュータの専門家が生物学を扱うもので、つまり、
コンピュータを生物学への応用するものであり、後者は生物学者が
生物の原理を使ったコンピュータを考える学問で、生物学をコンピ
ュータに応用するものですね。
だから、私は理論物理学者、物理数学者であって、数理物理学者
ではないんですね。どっちかと言えば、物理生物学者なんですね。
生物物理学者ではないんです。しかし、実際は、物理生物学者の
仕事が生物物理学と呼ばれていますから、非常に混乱していますね。
もっともそれほどポピュラーではなかったので、生物物理学も
物理生物学もどっちでも良かったということはあるでしょう。』
いやはや、日本語は形容詞か名詞かの区別もあいまいだし、漢文の”レ点”のように後ろ読みしたり、英語も後ろ読みしたりと、いろんなことが混乱しているので、”理論物理”と書いても、これが”理論の物理”なのか、”物理の理論”なのか、”物理的な理論”なのか、はてまた”理論的な物理”なのか、良く知らない人には皆目見当がつかない。
それゆえ、”数理物理”となるともっと訳が分らなる。これが”数学的な物理”なのか、”物理の数学”なのか、”理論物理の数学”なのか、いったい”数理”とは何か?ということになる。
じゃ、今度は”数理”とはいったい何か?”数学”のこと?。それとも、”理論”のこと?。その両方?それとも、これらのいずれでもないのか?これは名詞?それとも形容詞?どっちなんだい?ということになる。
もちろん、マーミンさんがいうところの、”数理物理”とは"mathematical physics"のことである。一方の理論物理とは、"theoretical physics"のことである。このように、英語ならまだ分りやすい。なぜなら、"mathematical physics"とは、”数学的物理”のことで、一方、"theoretical physics"は”理論的物理”のことであるからである。
このことからも、日本語への”意訳”(や”翻訳”)によって意味がまったく不明瞭となる、という例が学問の世界では非常に多い。だからこそ、英語の原文で読む、ということが大事になって来る。
アメリカでは、確かにプレイジャリズムを避けるために、引用する段階で、意味を変えないようにどんどん言い方や言い回しを変えて表現するように義務付けられる。しかし、これを日本語でやったら、ひょっとしたら”伝言ゲーム”のように、表現を変える度に意味が変ってしまい、あるいは読み手が別の意味で受け取ってしまい。どんどん最初のものから変って、終いにはみるも無惨な姿に変ってしまうということがないでもなし。この危険は日本語の場合にはいつもあるような気もする。
こんなわけで、日本語圏に住む我々は、いつも言葉は簡単明瞭にその都度しっかり定義して使わないと、多くの場合には支離滅裂な状況を生みかねないのである。
まあ、最後に以上をまとめておくと、一般に、学問分野では、”A”という学問と”B”という学問があった場合。”AB”(あるいは”A的B”)という学問は”A”に近い。また、”BA”(あるいは”B的A”)という学問は”B”に近い、ということである。だから、”AB”は”BA”よりずっと”A”に近い。
つまり、図式すれば、
A-----AB-----BA-----B
のような感じだろう。したがって、
数学---数理物理---物理数学---理論物理---物理
となる。同様に、”実験物理”となれば、これは物理分野で実験する学問の意となる。(アカデミックに言えば、これは、コード(文字列)間の距離(近さ)をどのように表現するかという問題であり、結構面白い問題である。)
とまあ、こんなふうに、我々の日本語世界は非常に混乱しやすい、というわけである。もし日本人がこういったことを全く混乱して使っているとすれば、我々の学問世界はマーミンさんのジョーク以外の何者でもないといえるだろうネ。
----2004年6月29日----
『質問:理論物理学と数理物理学の違いは何でしょうか?
答え:理論物理は実際の実験を行う技量のない物理学者によって行われるもので、数理物理学は実際の数学を行う技量のない数学者によって行われるものである。』
どうだろう?結構シニカルで面白いジョークである。マーミンさん曰く、このジョークを数理物理学者は好きではないが、普通の物理学者は好きなようだ。
さて、今から3年程前に実はこの私も非常に似たテーマのエッセイを書いていた。これは、
『#571 数理物理学と物理数学、どっちが物理学に近い? 2001/12/27』
(http://bbs9.otd.co.jp/kazumoto/bbs_plain?base=571&range=1)
である。この中で次のようなことを書いていた。
『ちなみに、一般に誤解されていることは、数理物理学と物理数学
のどっちが物理に近いかというと、物理数学のほうなんですが、
逆に受け取られています。
数理物理学は数学者が物理(にある数学)をやる場合で、物理数学は
物理学者が数学(物理で現れた数学)をやる場合です。この辺は、
非常に誤解されていますね。だから、両者はやり方が全く異なります。
前者は数学的厳密性を求め、後者は数式にある物理的内容を重視
します。
同様に、コンピュータ生物学と生物コンピュータ学では、前者が
(普通の)コンピュータの専門家が生物学を扱うもので、つまり、
コンピュータを生物学への応用するものであり、後者は生物学者が
生物の原理を使ったコンピュータを考える学問で、生物学をコンピ
ュータに応用するものですね。
だから、私は理論物理学者、物理数学者であって、数理物理学者
ではないんですね。どっちかと言えば、物理生物学者なんですね。
生物物理学者ではないんです。しかし、実際は、物理生物学者の
仕事が生物物理学と呼ばれていますから、非常に混乱していますね。
もっともそれほどポピュラーではなかったので、生物物理学も
物理生物学もどっちでも良かったということはあるでしょう。』
いやはや、日本語は形容詞か名詞かの区別もあいまいだし、漢文の”レ点”のように後ろ読みしたり、英語も後ろ読みしたりと、いろんなことが混乱しているので、”理論物理”と書いても、これが”理論の物理”なのか、”物理の理論”なのか、”物理的な理論”なのか、はてまた”理論的な物理”なのか、良く知らない人には皆目見当がつかない。
それゆえ、”数理物理”となるともっと訳が分らなる。これが”数学的な物理”なのか、”物理の数学”なのか、”理論物理の数学”なのか、いったい”数理”とは何か?ということになる。
じゃ、今度は”数理”とはいったい何か?”数学”のこと?。それとも、”理論”のこと?。その両方?それとも、これらのいずれでもないのか?これは名詞?それとも形容詞?どっちなんだい?ということになる。
もちろん、マーミンさんがいうところの、”数理物理”とは"mathematical physics"のことである。一方の理論物理とは、"theoretical physics"のことである。このように、英語ならまだ分りやすい。なぜなら、"mathematical physics"とは、”数学的物理”のことで、一方、"theoretical physics"は”理論的物理”のことであるからである。
このことからも、日本語への”意訳”(や”翻訳”)によって意味がまったく不明瞭となる、という例が学問の世界では非常に多い。だからこそ、英語の原文で読む、ということが大事になって来る。
アメリカでは、確かにプレイジャリズムを避けるために、引用する段階で、意味を変えないようにどんどん言い方や言い回しを変えて表現するように義務付けられる。しかし、これを日本語でやったら、ひょっとしたら”伝言ゲーム”のように、表現を変える度に意味が変ってしまい、あるいは読み手が別の意味で受け取ってしまい。どんどん最初のものから変って、終いにはみるも無惨な姿に変ってしまうということがないでもなし。この危険は日本語の場合にはいつもあるような気もする。
こんなわけで、日本語圏に住む我々は、いつも言葉は簡単明瞭にその都度しっかり定義して使わないと、多くの場合には支離滅裂な状況を生みかねないのである。
まあ、最後に以上をまとめておくと、一般に、学問分野では、”A”という学問と”B”という学問があった場合。”AB”(あるいは”A的B”)という学問は”A”に近い。また、”BA”(あるいは”B的A”)という学問は”B”に近い、ということである。だから、”AB”は”BA”よりずっと”A”に近い。
つまり、図式すれば、
A-----AB-----BA-----B
のような感じだろう。したがって、
数学---数理物理---物理数学---理論物理---物理
となる。同様に、”実験物理”となれば、これは物理分野で実験する学問の意となる。(アカデミックに言えば、これは、コード(文字列)間の距離(近さ)をどのように表現するかという問題であり、結構面白い問題である。)
とまあ、こんなふうに、我々の日本語世界は非常に混乱しやすい、というわけである。もし日本人がこういったことを全く混乱して使っているとすれば、我々の学問世界はマーミンさんのジョーク以外の何者でもないといえるだろうネ。
----2004年6月29日----
[ 09:16 ]
[ ジョーク ]
アメリカの物理学会誌Physics Today5月号の巻頭言(Reference frame)、"Could Feynman Have Said This?"(ファインマンはこれを言うことができたか?)は、面白い。これは、理論物理学者のN. D. Merminさんの記事である。(May 2004 Physics Today, page 10.) というのも、これはここ最近私がここで紹介して来た”プレイジャリズム(無断盗用)”がテーマであり、これに対するアメリカの学者の感じ方が見えて実に興味深いからである。
マーミンさんは物性理論物理学者なので、私もこの人の主要な論文は読んで良く知っている。マーミン-ワーグナーの定理、トポロジカル欠陥の理論などが著明であるが、特に有名なものは、アッシュクロフト-マーミンの固体物理学の教科書であろう。これはアメリカ(いや世界)の固体物理学の大学院レベルの標準的教科書となっている。私がユタ大学に留学した1986年当時もこれが教科書に使われていて、大学院生たちは毎週の宿題としてこの章末問題を解かされることになる。私の場合は、当時そこで助教授として教えていた甲元真人博士に教えてもらったものである。
さて、このマーミンさん、今回は少しこれまでの彼のエッセイとは違って、ひょっとしたら自分が行ってしまったのかも知れない、大きな”過ち”について語る。
話はこんなものである。ひと昔前の15年ほど前、マーミンさんはやはり巻頭言を頼まれた。当時気軽にあまり深く考えることもなく、マーミンさんは量子力学に対する世代ごとの理解の仕方や認識の仕方が違うということを取り上げた。
そこで、量子力学の発見者のアインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーの世代と比べて、ずっと若い世代になると、もはやコペンハーゲン精神が世界中に流布していたために、量子力学の解釈における問題などはそっちのけで、むしろ量子力学をいかに使うかということが主題となる。そこで、この代表がファインマンであり、彼は学生達に
"Shut up and calculate(シャラップ、アンド カルキュレイト)"
「黙って計算しろ」
と言った、とマーミンさんは書いたそうである。
つまり、量子力学の解釈や観測理論などの不毛な議論で時間を潰すのではなく、何か有用なことの計算に時間をかけよ、という意味である。若い世代の物理学者はあまり量子力学の基礎論にはおかまいなしとなったということの代表者としてファインマンをマーミンさんは例に挙げたのである。
これからずっと年月が経ち、マーミンさんも自分が書いたこの記事のことを忘れてしまっていた。しかし、比較的最近になり、『ファインマンが本当にそう言ったのか?』と人に聞かれることとなった。そこで現代はインターネット時代であるので、googleでいろんなページを調べてみると、”黙って計算しろ”と”ファインマン”の検索で
『ファインマンは”黙って計算しろ”といった。』
『たとえば、ファインマンの”黙って計算しろ”がある。』
『私の個人的哲学は有名な物理学者ファインマンの”黙って計算しろ”と同じである。』
『どの量子力学解釈がファインマンの立場かと問われると、彼は”黙って計算しろ”であると言った。』
『”黙って計算しろ”--ファインマン』
などなどとでるはでるはの大騒動となった。そこでついでに、”黙って計算しろ”と”マーミン”の検索にかけると、10ほど似たようなものがでた。
そこで、マーミンさんは”非常に恐く”なってしまったのである。ひょっとしたら、ファインマンはこんな事言っていなかったのかもしれない。それが、自分の書いた記事が基になって、"Matthew effect"(マシュー効果、マタイ効果とも言う)のために、その言葉がどんどんどんどん一人歩きして有名になってしまったのかもしれない。ここでいう、”マタイ効果”とは、
聖書にある”富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなる。”
という話(Matthew 25:29)にかけて、現実社会の貧富の差や有名無名の差を論じたMerton(マートン)博士の定義によるとマーミンさんはいう。
この部分に対してマーミンさんはこう書いた。
". . . Not only had I appropriated without proper attribution a Feynman quote, but it appeared to be a famous one. How humiliating! . . ."
(. . . 私は適正に根拠を知ることもなくファインマンの引用を無断盗用してしまったばかりか、それを有名にしてしまった。なんて恥ずかしいことか!. . .)
ここで、"appropriate"という語は、形容詞では”適切に”というような意味であるが、動詞の場合には、”無断盗用する”という意味がある。Longman dictionaryによれば、
"appropriate" = "to set aside for a particular purpose"
(特別な目的のためにとっておくこと)
=" to take for oneself or for one's own use, esp. without permission"
(特に、許可なく自分自身のため、あるいは自分だけの使用のために取ること)
とある。
そして、マーミンさんは自分の昔を思い出す。よくよく考えれば、マーミンさんがまだ若かかりし日に、ハーバード大学で大学院生として量子力学を学んでいた頃、当時の教授の一人からこう言われた。
”もし君が君自身を取るに足らない問題で時間を潰しているのなら、Ph. D.は決して取れないよ。”
”だから、真剣な問題に戻り、何か結果を出しなさい。”
言い換えれば、
”黙って、計算せよ。”
じゃ、ファインマンの時代なら、ファインマンの指導教官(ホウィーラー博士)や当時の教授のだれかがこう言っただろうか?答は、ノー。そんなはずがない。さもなくば、ファインマンが量子力学の再構築であるファインマン積分を発明できたはずがない。
こんなわけでマーミンさんは、昔の物理学者の中で、だれがその言葉を言ったかと、考えを巡らせることとなった。アインシュタインだったろうか?違う。シュレディンガー?違う。ニールス・ボーア?違う。じゃ、ファインマンがそう言った?まさか。しかし、これらの人の中のだれもそんなことをいいそうではない。じゃ、だれが言ったのか?
結局、これまでのことを考えてみると、『もしかしたら”自分が最初?”。そうかもしれない。なんてこった。自分がだれか別の人に言われたことをあたかもファインマンが言ったなどとウソついてしまったというわけである。もしそうでれば、これは誇るべきことでもない。その言葉は美しくもない。賢くもない。それとなく足笑い、心無く思考を拒絶している。』とマーミンさんはいう。そして、こう述べる。
"But, damn it, if I'm the one who said it first, then that means I did not, even uncounsciously, approproate the words of Richard Feynman and pass them off as my own. So I have nothing to be ashamed of other than having chracterized the Copenhagen interpretation in such foolish terms--a lesser offense than unconscious plagiarism, in my moral bookkeeping."
(しかし、ちくしょう、もし私がそれを最初に言った人間だとすれば、それが意味するのは、私は無意識のうちに、リチャード・ファインマンの言葉を無断盗用し自分のものとして出したということではなかった、ということである。だから、私はそんなバカな言葉でコペンハーゲン解釈を特徴付けたこと--私の倫理の記録帳において、無意識のプレイジャリズムよりは罪の軽い攻撃、以外に恥じるべきことはまったくない。)
そして、最後にマーミンさんはいう。
”そんなわけで、親愛なる皆さん。もしだれか、ファインマンが”黙って計算せよ”と言った証拠を見つけたら、どうか私に送ってください。私はそれを受け取ってハッピーにはならないだろう。むしろ、プレイジャリスト(無断盗用者)よりはマタイ効果の犠牲者となるだろう。しかし、私は真実を知りたい。”
と、まあ、こんな感じの記事であった。もちろん、テーマはここでしばらく述べている”プレイジャリズム(≒無断盗用)”の問題である。マーミンさんもさすがにアメリカ人、内容がどうであれ、プレイジャリスト(無断盗用者)呼ばわりされるのは御免こうむりたい、ということである。この辺りが我々日本人学者とはまったく異なっているところであろう。
この記事は、おそらくPhysics todayの日本語版”パリティー”の7、8月号に出るだろう。だから、日本語訳はそちらを読んでもらいたい。私も誤解や誤訳していることもあるかもしれないので、ぜひ御自分でお読み下さい。
いずれにせよ、”プレイジャリズム(plagiarism)”という言葉は、欧米の知的社会ではもっとも重要な言葉である、という私の指摘は皆さんにも十分伝わったことだろう。
----2004年6月29日----
マーミンさんは物性理論物理学者なので、私もこの人の主要な論文は読んで良く知っている。マーミン-ワーグナーの定理、トポロジカル欠陥の理論などが著明であるが、特に有名なものは、アッシュクロフト-マーミンの固体物理学の教科書であろう。これはアメリカ(いや世界)の固体物理学の大学院レベルの標準的教科書となっている。私がユタ大学に留学した1986年当時もこれが教科書に使われていて、大学院生たちは毎週の宿題としてこの章末問題を解かされることになる。私の場合は、当時そこで助教授として教えていた甲元真人博士に教えてもらったものである。
さて、このマーミンさん、今回は少しこれまでの彼のエッセイとは違って、ひょっとしたら自分が行ってしまったのかも知れない、大きな”過ち”について語る。
話はこんなものである。ひと昔前の15年ほど前、マーミンさんはやはり巻頭言を頼まれた。当時気軽にあまり深く考えることもなく、マーミンさんは量子力学に対する世代ごとの理解の仕方や認識の仕方が違うということを取り上げた。
そこで、量子力学の発見者のアインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーの世代と比べて、ずっと若い世代になると、もはやコペンハーゲン精神が世界中に流布していたために、量子力学の解釈における問題などはそっちのけで、むしろ量子力学をいかに使うかということが主題となる。そこで、この代表がファインマンであり、彼は学生達に
"Shut up and calculate(シャラップ、アンド カルキュレイト)"
「黙って計算しろ」
と言った、とマーミンさんは書いたそうである。
つまり、量子力学の解釈や観測理論などの不毛な議論で時間を潰すのではなく、何か有用なことの計算に時間をかけよ、という意味である。若い世代の物理学者はあまり量子力学の基礎論にはおかまいなしとなったということの代表者としてファインマンをマーミンさんは例に挙げたのである。
これからずっと年月が経ち、マーミンさんも自分が書いたこの記事のことを忘れてしまっていた。しかし、比較的最近になり、『ファインマンが本当にそう言ったのか?』と人に聞かれることとなった。そこで現代はインターネット時代であるので、googleでいろんなページを調べてみると、”黙って計算しろ”と”ファインマン”の検索で
『ファインマンは”黙って計算しろ”といった。』
『たとえば、ファインマンの”黙って計算しろ”がある。』
『私の個人的哲学は有名な物理学者ファインマンの”黙って計算しろ”と同じである。』
『どの量子力学解釈がファインマンの立場かと問われると、彼は”黙って計算しろ”であると言った。』
『”黙って計算しろ”--ファインマン』
などなどとでるはでるはの大騒動となった。そこでついでに、”黙って計算しろ”と”マーミン”の検索にかけると、10ほど似たようなものがでた。
そこで、マーミンさんは”非常に恐く”なってしまったのである。ひょっとしたら、ファインマンはこんな事言っていなかったのかもしれない。それが、自分の書いた記事が基になって、"Matthew effect"(マシュー効果、マタイ効果とも言う)のために、その言葉がどんどんどんどん一人歩きして有名になってしまったのかもしれない。ここでいう、”マタイ効果”とは、
聖書にある”富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなる。”
という話(Matthew 25:29)にかけて、現実社会の貧富の差や有名無名の差を論じたMerton(マートン)博士の定義によるとマーミンさんはいう。
この部分に対してマーミンさんはこう書いた。
". . . Not only had I appropriated without proper attribution a Feynman quote, but it appeared to be a famous one. How humiliating! . . ."
(. . . 私は適正に根拠を知ることもなくファインマンの引用を無断盗用してしまったばかりか、それを有名にしてしまった。なんて恥ずかしいことか!. . .)
ここで、"appropriate"という語は、形容詞では”適切に”というような意味であるが、動詞の場合には、”無断盗用する”という意味がある。Longman dictionaryによれば、
"appropriate" = "to set aside for a particular purpose"
(特別な目的のためにとっておくこと)
=" to take for oneself or for one's own use, esp. without permission"
(特に、許可なく自分自身のため、あるいは自分だけの使用のために取ること)
とある。
そして、マーミンさんは自分の昔を思い出す。よくよく考えれば、マーミンさんがまだ若かかりし日に、ハーバード大学で大学院生として量子力学を学んでいた頃、当時の教授の一人からこう言われた。
”もし君が君自身を取るに足らない問題で時間を潰しているのなら、Ph. D.は決して取れないよ。”
”だから、真剣な問題に戻り、何か結果を出しなさい。”
言い換えれば、
”黙って、計算せよ。”
じゃ、ファインマンの時代なら、ファインマンの指導教官(ホウィーラー博士)や当時の教授のだれかがこう言っただろうか?答は、ノー。そんなはずがない。さもなくば、ファインマンが量子力学の再構築であるファインマン積分を発明できたはずがない。
こんなわけでマーミンさんは、昔の物理学者の中で、だれがその言葉を言ったかと、考えを巡らせることとなった。アインシュタインだったろうか?違う。シュレディンガー?違う。ニールス・ボーア?違う。じゃ、ファインマンがそう言った?まさか。しかし、これらの人の中のだれもそんなことをいいそうではない。じゃ、だれが言ったのか?
結局、これまでのことを考えてみると、『もしかしたら”自分が最初?”。そうかもしれない。なんてこった。自分がだれか別の人に言われたことをあたかもファインマンが言ったなどとウソついてしまったというわけである。もしそうでれば、これは誇るべきことでもない。その言葉は美しくもない。賢くもない。それとなく足笑い、心無く思考を拒絶している。』とマーミンさんはいう。そして、こう述べる。
"But, damn it, if I'm the one who said it first, then that means I did not, even uncounsciously, approproate the words of Richard Feynman and pass them off as my own. So I have nothing to be ashamed of other than having chracterized the Copenhagen interpretation in such foolish terms--a lesser offense than unconscious plagiarism, in my moral bookkeeping."
(しかし、ちくしょう、もし私がそれを最初に言った人間だとすれば、それが意味するのは、私は無意識のうちに、リチャード・ファインマンの言葉を無断盗用し自分のものとして出したということではなかった、ということである。だから、私はそんなバカな言葉でコペンハーゲン解釈を特徴付けたこと--私の倫理の記録帳において、無意識のプレイジャリズムよりは罪の軽い攻撃、以外に恥じるべきことはまったくない。)
そして、最後にマーミンさんはいう。
”そんなわけで、親愛なる皆さん。もしだれか、ファインマンが”黙って計算せよ”と言った証拠を見つけたら、どうか私に送ってください。私はそれを受け取ってハッピーにはならないだろう。むしろ、プレイジャリスト(無断盗用者)よりはマタイ効果の犠牲者となるだろう。しかし、私は真実を知りたい。”
と、まあ、こんな感じの記事であった。もちろん、テーマはここでしばらく述べている”プレイジャリズム(≒無断盗用)”の問題である。マーミンさんもさすがにアメリカ人、内容がどうであれ、プレイジャリスト(無断盗用者)呼ばわりされるのは御免こうむりたい、ということである。この辺りが我々日本人学者とはまったく異なっているところであろう。
この記事は、おそらくPhysics todayの日本語版”パリティー”の7、8月号に出るだろう。だから、日本語訳はそちらを読んでもらいたい。私も誤解や誤訳していることもあるかもしれないので、ぜひ御自分でお読み下さい。
いずれにせよ、”プレイジャリズム(plagiarism)”という言葉は、欧米の知的社会ではもっとも重要な言葉である、という私の指摘は皆さんにも十分伝わったことだろう。
----2004年6月29日----
2007/01/08のBlog
[ 21:47 ]
[ 高校サッカー ]
盛岡商が作陽を逆転で破り初優勝 全国高校サッカー決勝
今年の高校サッカー選手権の決勝が、盛岡商(岩手)vs作陽(岡山)で行なわれ、2-1(前半0-0、後半2-1)で盛岡商が逆転勝ちした。
私は全部見ていたが、盛岡商業は、東北の守備主体の堅実なサッカーと”セクシーサッカー”の野洲高校の攻撃的サッカーの両方が備わった実に”好チーム”であった。
特にすばらしかったのは、ディフェンダーの上り下がりと統率であった。普通のチームは、後半になると、ディフェンダーは味方の攻撃の際にあがるのをさぼるが、この盛岡商にはそれがなかった。ディフェンダーの上り下がりのおかげで、中盤のプレスが効くわけだから、当然といえば当然だがこのサッカーの基本をさぼってしまうところから失点に繋がる。今回の野洲の敗北もディフェンダーのさぼりが原因であった。この事からも、相当の”走り込み”を普段行なっているのだろう。
決勝を見る限りでは、優勝に値する立派なチームであった。いずれにせよ、盛岡商の斉藤監督の情熱には頭が下がる。ぜひ長生きしてもらいたいものである。
一方の、作陽は、もう一つ幸運がなかった。前半の立ち上がりの15分でずっと攻めていた時にうまく得点が入れば、結果は全く逆になっていただろう。そこをしのぎきられて次第に盛岡商のペースになっていった。
今大会を振り返えってみよう。
今大会は野洲の”セクシーサッカー革命”が起こった次の年の大会である。したがって、”野洲的サッカー”がどこまで他のチームに影響しているかを私は見ていたが、そこはやはり流行に素早い高校生のこと、だいたいほとんどすべての高校にさっそくその影響が出ていた。
ヒールパス、クロスプレー、ウィングプレー、ジダンのマルセイユルーレットなど今年はどこのチームも行なっていた。中には、ロナウジーニョの”エラシコ”や”ノールックパス”を行なう選手も多々いた(作陽の村井選手や八千代の米倉選手)。
しかし、必ずしもこういった意表をつくチームが勝利するとは限らない。最終的に決勝にまで残ったのは、やはりサッカーの基本に忠実で”セイフティーファースト”を基本に取るチームであった。サッカーの基本をないがしろにしたチームは、強豪で優勝候補の野洲でも敗退した。キーパーの基本を無視したチームは、雨の試合で敗退した。準決勝の2試合の神村学園、八千代はまさにそれで敗退した。
そして、何よりも、トーナメントで勝ちあがるためには、集中力と体力と気力の維持ができることが大事だという事を今大会ほど表わした大会もないのかも知れない。引き分けでPK戦で優勝候補に勝利して行くというのは、それを物語る。
しかし、常に一生懸命に戦って引き分けに持ち込みPK戦で勝利というのも1つのシナリオだが、やはり1試合全体のゲームプランを立ててその中で勝利していくという戦術眼もそろそろ日本の高校生も身につける時代となったと私は見る。
なんでもかんでもやみくもに攻めるのではなく、あえて攻めない時間帯、カウンターアタックに行く、時間稼ぎする、相手の陣型を片寄らせる攻め方など、リズムに変化を与えられるようなチームが好ましい。この点では、野洲は一歩抜きん出ていたが、トーナメントで決勝まで行くだけの基礎体力がなかった。
いずれにせよ、この中から、次の次のワールドカップの代表が出てくることを期待したい。
優勝おめでとう、盛岡商業!!
今年の高校サッカー選手権の決勝が、盛岡商(岩手)vs作陽(岡山)で行なわれ、2-1(前半0-0、後半2-1)で盛岡商が逆転勝ちした。
私は全部見ていたが、盛岡商業は、東北の守備主体の堅実なサッカーと”セクシーサッカー”の野洲高校の攻撃的サッカーの両方が備わった実に”好チーム”であった。
特にすばらしかったのは、ディフェンダーの上り下がりと統率であった。普通のチームは、後半になると、ディフェンダーは味方の攻撃の際にあがるのをさぼるが、この盛岡商にはそれがなかった。ディフェンダーの上り下がりのおかげで、中盤のプレスが効くわけだから、当然といえば当然だがこのサッカーの基本をさぼってしまうところから失点に繋がる。今回の野洲の敗北もディフェンダーのさぼりが原因であった。この事からも、相当の”走り込み”を普段行なっているのだろう。
決勝を見る限りでは、優勝に値する立派なチームであった。いずれにせよ、盛岡商の斉藤監督の情熱には頭が下がる。ぜひ長生きしてもらいたいものである。
一方の、作陽は、もう一つ幸運がなかった。前半の立ち上がりの15分でずっと攻めていた時にうまく得点が入れば、結果は全く逆になっていただろう。そこをしのぎきられて次第に盛岡商のペースになっていった。
今大会を振り返えってみよう。
今大会は野洲の”セクシーサッカー革命”が起こった次の年の大会である。したがって、”野洲的サッカー”がどこまで他のチームに影響しているかを私は見ていたが、そこはやはり流行に素早い高校生のこと、だいたいほとんどすべての高校にさっそくその影響が出ていた。
ヒールパス、クロスプレー、ウィングプレー、ジダンのマルセイユルーレットなど今年はどこのチームも行なっていた。中には、ロナウジーニョの”エラシコ”や”ノールックパス”を行なう選手も多々いた(作陽の村井選手や八千代の米倉選手)。
しかし、必ずしもこういった意表をつくチームが勝利するとは限らない。最終的に決勝にまで残ったのは、やはりサッカーの基本に忠実で”セイフティーファースト”を基本に取るチームであった。サッカーの基本をないがしろにしたチームは、強豪で優勝候補の野洲でも敗退した。キーパーの基本を無視したチームは、雨の試合で敗退した。準決勝の2試合の神村学園、八千代はまさにそれで敗退した。
そして、何よりも、トーナメントで勝ちあがるためには、集中力と体力と気力の維持ができることが大事だという事を今大会ほど表わした大会もないのかも知れない。引き分けでPK戦で優勝候補に勝利して行くというのは、それを物語る。
しかし、常に一生懸命に戦って引き分けに持ち込みPK戦で勝利というのも1つのシナリオだが、やはり1試合全体のゲームプランを立ててその中で勝利していくという戦術眼もそろそろ日本の高校生も身につける時代となったと私は見る。
なんでもかんでもやみくもに攻めるのではなく、あえて攻めない時間帯、カウンターアタックに行く、時間稼ぎする、相手の陣型を片寄らせる攻め方など、リズムに変化を与えられるようなチームが好ましい。この点では、野洲は一歩抜きん出ていたが、トーナメントで決勝まで行くだけの基礎体力がなかった。
いずれにせよ、この中から、次の次のワールドカップの代表が出てくることを期待したい。
優勝おめでとう、盛岡商業!!
2007/01/06のBlog
[ 18:42 ]
[ 社会 ]
昨日の徳島新聞朝刊によると、「年末ジャンボ宝くじ」の当選結果が「みずほ銀行」より公表された。これによれば、1等の当選には”大きな偏り”があったという。
総売上が急減する中、1等は昨年より11本少なく、64本。うち、東京が7、愛知6、千葉と福岡5、徳島は0。2等は、昨年より49本増え、268本。
したがって、億万長者は、両方合わせて、332本に過ぎなかった。
しかし、”所ジョージ”を使って「億万長者が370人」とあれだけ騒いだわけだから、これでは明らかな”詐欺行為”。要するに、悪名高いみずほ銀行の集金ビジネスに乗せられたわけである。
totoもひどいが、宝くじもひどい。もちろんロト6もひどい。
こういった「くじビジネス」は、やれば儲かることは分かっているのだから、1つの企業に独占させるのは明らかに独占禁止法に反する行為だろう。したがって一番良いのは、自治体ごとの持ち回りで47年に1度の割合で行なうというような方法であろう。銀行ごとに持ち回りというのもあり得る。
いずれにせよ、「格差社会」は宝くじにも波及してきているようだ。まったく当たりのでない県が地方都市であり、当たるのが大都市というのは、買った人口に比例するように当たりが出るように、何かの”仕組み”が仕込んであるのだろう。どこか”不自然である”。
総売上が急減する中、1等は昨年より11本少なく、64本。うち、東京が7、愛知6、千葉と福岡5、徳島は0。2等は、昨年より49本増え、268本。
したがって、億万長者は、両方合わせて、332本に過ぎなかった。
しかし、”所ジョージ”を使って「億万長者が370人」とあれだけ騒いだわけだから、これでは明らかな”詐欺行為”。要するに、悪名高いみずほ銀行の集金ビジネスに乗せられたわけである。
totoもひどいが、宝くじもひどい。もちろんロト6もひどい。
こういった「くじビジネス」は、やれば儲かることは分かっているのだから、1つの企業に独占させるのは明らかに独占禁止法に反する行為だろう。したがって一番良いのは、自治体ごとの持ち回りで47年に1度の割合で行なうというような方法であろう。銀行ごとに持ち回りというのもあり得る。
いずれにせよ、「格差社会」は宝くじにも波及してきているようだ。まったく当たりのでない県が地方都市であり、当たるのが大都市というのは、買った人口に比例するように当たりが出るように、何かの”仕組み”が仕込んであるのだろう。どこか”不自然である”。
[ 18:11 ]
[ 訃報・追悼 ]
M・クルスカル氏死去 米数学者
N. J. Zabusky博士と共に「KdV方程式」として知られている”浅水波の方程式”を厳密に解く方法を発見し、「ソリトン」の概念を打ち立てたMartin D. Kruskal(クラスカル)博士が死去。享年81歳。
N. J. Zabusky&Martin D. Kruskalの理論は、物理学の雑誌に公表された[Phys. Rev. Lett. 15, 240 (1965), Phys. Rev. Lett. 19, 1095 (1967)]。
N. J. Zabusky博士と共に「KdV方程式」として知られている”浅水波の方程式”を厳密に解く方法を発見し、「ソリトン」の概念を打ち立てたMartin D. Kruskal(クラスカル)博士が死去。享年81歳。
N. J. Zabusky&Martin D. Kruskalの理論は、物理学の雑誌に公表された[Phys. Rev. Lett. 15, 240 (1965), Phys. Rev. Lett. 19, 1095 (1967)]。
これは、「ソリトン」の概念と共に、俗に言う「可積分系」の発展を促した真に”革命的”論文であった。その後、「ベーテ仮説の方法」、「τ関数理論」、「逆散乱法」、「群の表現論」、「無限次元リー群」、「非線形格子理論」、「流体力学」などなど、数学や理論物理学などの分野を問わず、さまざまな数理科学分野に深い影響を与え、無数の新しい数学的関係が発見されたという、古典的な金字塔を打ち立てた。理論物理学者や数学者であれば、一度はこういう研究をしてみたいと思うような研究であった。
この意味で、現在でもこの分野で飯を食っている研究者は非常に多い。(例えば、「ソリトン」参照)
Kruskal博士は、この研究で1983年度のハイネマン賞(=数理物理で最大の賞の1つ)をもらっている。
御冥福を心より祈りたい。
この意味で、現在でもこの分野で飯を食っている研究者は非常に多い。(例えば、「ソリトン」参照)
Kruskal博士は、この研究で1983年度のハイネマン賞(=数理物理で最大の賞の1つ)をもらっている。
御冥福を心より祈りたい。
2007/01/04のBlog
[ 19:53 ]
[ サッカーがうまくなる ]
日本サッカー、体力消耗しやすい「キック」多い?
これは、大阪市立大大学院の河端隆志助教授(運動環境生理学)らの研究で、欧米南米人のサッカー選手と日本人サッカー選手の間には、歴然たる”キックの差”があるということを証明したものである。非常にすばらしい研究である。
簡単に言えば、日本人のキックは”止まって蹴る(「静的キック」)”であるのに対し、欧米人のキックは”走りながら蹴る(「動的キック」)”であるという違いである。
がしかし、これは私のホームページに10年程前からずっと掲載してきた「サッカーがうまくなるページ」(サッカーがうまくなるページ3 )で、私がずっと説明してきた「サッカーの基本」が科学的に証明されたに過ぎない。
「キックの基本:走ること」というセクションで私はかつてこう説明した。
”サッカーのキックの基本は,「走ること」であるということを説明しましょう.この事実が日本のサッカーでは昔からあまり強調されてきませんでした.そのために,日本のサッカー選手のパスが欧米や南米のサッカー選手のキックと比べると,不正確に(精度に欠けて)見える原因なのです.”
”では,どのようにしたらそのキックの精度を上げられるのでしょうか?それはキックのときに,「自分がキックすることをあまり意識せず,あたかも走り抜けるかのようにボールを蹴ること」なのです.”
”まずはじめに「しっかり軸足を踏み込んで,その軸足を蹴る瞬間に思いっきり走り抜けるように伸び上がる」のです.”
この”内容”を河端隆志助教授がやっと理解したということである。
要するに、サッカーのキックとは、”走り”の延長にあり、「走る動作」の中で足をボールにぶつけるに過ぎないということなのである。それゆえ、軸足から蹴足にすぐに体重移動が自然に行なわれ、2軸運動が自然に行なわれるわけである。
これは、大阪市立大大学院の河端隆志助教授(運動環境生理学)らの研究で、欧米南米人のサッカー選手と日本人サッカー選手の間には、歴然たる”キックの差”があるということを証明したものである。非常にすばらしい研究である。
簡単に言えば、日本人のキックは”止まって蹴る(「静的キック」)”であるのに対し、欧米人のキックは”走りながら蹴る(「動的キック」)”であるという違いである。
がしかし、これは私のホームページに10年程前からずっと掲載してきた「サッカーがうまくなるページ」(サッカーがうまくなるページ3 )で、私がずっと説明してきた「サッカーの基本」が科学的に証明されたに過ぎない。
「キックの基本:走ること」というセクションで私はかつてこう説明した。
”サッカーのキックの基本は,「走ること」であるということを説明しましょう.この事実が日本のサッカーでは昔からあまり強調されてきませんでした.そのために,日本のサッカー選手のパスが欧米や南米のサッカー選手のキックと比べると,不正確に(精度に欠けて)見える原因なのです.”
”では,どのようにしたらそのキックの精度を上げられるのでしょうか?それはキックのときに,「自分がキックすることをあまり意識せず,あたかも走り抜けるかのようにボールを蹴ること」なのです.”
”まずはじめに「しっかり軸足を踏み込んで,その軸足を蹴る瞬間に思いっきり走り抜けるように伸び上がる」のです.”
この”内容”を河端隆志助教授がやっと理解したということである。
要するに、サッカーのキックとは、”走り”の延長にあり、「走る動作」の中で足をボールにぶつけるに過ぎないということなのである。それゆえ、軸足から蹴足にすぐに体重移動が自然に行なわれ、2軸運動が自然に行なわれるわけである。
ついでに言えば、日本人選手がもっとも”苦手”とするのが、アウトサイドキックである。このキックの場合も日本人選手は、止まってアウトサイドで蹴ろうとするから、俗に言う、”引っ掛けるキック(ボールがスピンする、野球のチップボールのような蹴り方)”となってしまう。これも、走り抜けるように軸足から蹴足に体重移動させてアウトサイドで蹴れば、実に自然なキックとなる。本当に欧米人のサッカー選手はこれが上手い。
昔は日本人選手は「がに股」だったために中々アウトサイドキックが上手くできなかったということがあったが、机と椅子生活に変わり今や「がに股」はほとんどいなくなった現在でもなかなかアウトサイドキックがうまくできないのはやはり指導者の側に原因があると言える。
したがって、私は、「走り抜けるように蹴る」というサッカーの極意をマスターするには、アウトサイドキックを完璧にマスターするのがもっとも近道であると考えてきている。それゆえ、もちろん、阿南高専のサッカー部の選手にもこれを指導してきたが、なかなかこれができない。実に不思議である。やはり、小学生時代に”きちんと”このアウトサイドキックを教え込まないと成人してもできないのだろうと思う。
昔は日本人選手は「がに股」だったために中々アウトサイドキックが上手くできなかったということがあったが、机と椅子生活に変わり今や「がに股」はほとんどいなくなった現在でもなかなかアウトサイドキックがうまくできないのはやはり指導者の側に原因があると言える。
したがって、私は、「走り抜けるように蹴る」というサッカーの極意をマスターするには、アウトサイドキックを完璧にマスターするのがもっとも近道であると考えてきている。それゆえ、もちろん、阿南高専のサッカー部の選手にもこれを指導してきたが、なかなかこれができない。実に不思議である。やはり、小学生時代に”きちんと”このアウトサイドキックを教え込まないと成人してもできないのだろうと思う。
参考までに以下のホームページを紹介しておこう。
football coaching
football coaching
[ 16:36 ]
[ サッカー ]
八千代、丸岡など8強出そろう 全国高校サッカー
前回覇者の野洲高校が、八千代高校と対戦し4一1で早くも敗退。
今大会は、「PK戦」がその特徴である。この八千代が初戦で優勝候補国見をPK戦で退け、その次もPK戦で勝利したというように、あまりに「PK戦勝ち」が多い。
サッカーというスポーツは初戦がもっとも難しいと考えられているが、その最初にいきなり「延長なしのPK戦」というのは、困ったものである。またさらに、初戦で優勝候補どうしが当たるというくじ引きというのも困ったものである。
したがって、今大会は、初戦でいきなり優勝候補どうしが対戦、そしてPK戦で勝負がつくというのがかなりあった。これでは、サッカーファンからすれば、実に残念と言えるだろう。
「いきなりのPK戦」というのは、前後半40分ハーフのために、15分ハーフの延長戦を行なうというのは、サッカー選手に大きな負担を強いるため、それを避けたいというのがその本来の目的であったのであろう。がしかし、今大会やここ最近の試合を見る限り、これが”裏目”に出ている気がする。
というのは、延長戦がなければ、やはり弱い方のチームにとって、PK戦に持ち込めばかなり勝ち目が出る、ということになるからである。「いきなりのPK戦」方式は”弱者有利”なのである。
サッカーというのは面白いもので、疲れてくると、おのずとその真の実力が出てきてだいたい実力通りの結果になるのである。しかし、延長戦がなければ”ギャンブル”に変わる。弱くても何とか引き分けに持ち込めば五分五分の勝利の確率に持ち込めるからである。
逆に、10分ハーフ、あるいは15分ハーフの延長戦があれば、延長戦の連戦を行なえば相当に消耗するので、選手たちには時間内で勝つという大きなモチベーションが現れるはずである。
この点で高校サッカーは大きな”転換期”に来ているのかも知れない。
昨年秋、スペインにサッカー留学をした知人から聞いた話では、欧州のサッカーは、小学校レベルから全く大人と同じ時間45分ハーフ、15分ハーフの延長戦という手加減無しで組まれているという。それは、少年の頃から大人の時間感覚や基礎体力を身につけさせるためである、というのである。どうやら、小学生は25分ハーフ、中学生は30分ハーフ、高校生は40分ハーフと区分されているのは日本だけらしい。
日本のやり方にも一利あり、何ごとも一長一短だろうが、もし日本サッカーは「走るサッカー」を目指すのであれば、試合時間だけでも正規の時間で行なうようにすべきなのかも知れない。
それにしても、サッカーでは稀にしかないPK戦ばかりがうまくなっても国際試合では勝つ事はできないだろう。
前回覇者の野洲高校が、八千代高校と対戦し4一1で早くも敗退。
今大会は、「PK戦」がその特徴である。この八千代が初戦で優勝候補国見をPK戦で退け、その次もPK戦で勝利したというように、あまりに「PK戦勝ち」が多い。
サッカーというスポーツは初戦がもっとも難しいと考えられているが、その最初にいきなり「延長なしのPK戦」というのは、困ったものである。またさらに、初戦で優勝候補どうしが当たるというくじ引きというのも困ったものである。
したがって、今大会は、初戦でいきなり優勝候補どうしが対戦、そしてPK戦で勝負がつくというのがかなりあった。これでは、サッカーファンからすれば、実に残念と言えるだろう。
「いきなりのPK戦」というのは、前後半40分ハーフのために、15分ハーフの延長戦を行なうというのは、サッカー選手に大きな負担を強いるため、それを避けたいというのがその本来の目的であったのであろう。がしかし、今大会やここ最近の試合を見る限り、これが”裏目”に出ている気がする。
というのは、延長戦がなければ、やはり弱い方のチームにとって、PK戦に持ち込めばかなり勝ち目が出る、ということになるからである。「いきなりのPK戦」方式は”弱者有利”なのである。
サッカーというのは面白いもので、疲れてくると、おのずとその真の実力が出てきてだいたい実力通りの結果になるのである。しかし、延長戦がなければ”ギャンブル”に変わる。弱くても何とか引き分けに持ち込めば五分五分の勝利の確率に持ち込めるからである。
逆に、10分ハーフ、あるいは15分ハーフの延長戦があれば、延長戦の連戦を行なえば相当に消耗するので、選手たちには時間内で勝つという大きなモチベーションが現れるはずである。
この点で高校サッカーは大きな”転換期”に来ているのかも知れない。
昨年秋、スペインにサッカー留学をした知人から聞いた話では、欧州のサッカーは、小学校レベルから全く大人と同じ時間45分ハーフ、15分ハーフの延長戦という手加減無しで組まれているという。それは、少年の頃から大人の時間感覚や基礎体力を身につけさせるためである、というのである。どうやら、小学生は25分ハーフ、中学生は30分ハーフ、高校生は40分ハーフと区分されているのは日本だけらしい。
日本のやり方にも一利あり、何ごとも一長一短だろうが、もし日本サッカーは「走るサッカー」を目指すのであれば、試合時間だけでも正規の時間で行なうようにすべきなのかも知れない。
それにしても、サッカーでは稀にしかないPK戦ばかりがうまくなっても国際試合では勝つ事はできないだろう。
2007/01/03のBlog
[ 18:44 ]
[ 健康・医学 ]
てんかん薬、パーキンソン病にも効果 日本人医師ら研究
新年早々、これは朗報。
てんかん治療薬「ゾニサミド」が、パーキンソン病にも効果があり、どうやらドーパミンの生成に関与しているというニュース。
今後の研究を期待したい。
新年早々、これは朗報。
てんかん治療薬「ゾニサミド」が、パーキンソン病にも効果があり、どうやらドーパミンの生成に関与しているというニュース。
今後の研究を期待したい。
[ 11:04 ]
[ 管理人から ]
明けましておめでとうございます。本年もよろしく。
昨年はいろんな経験ができました。主なものは以下の通り。
トリノ・オリンピックテレビ観戦(2月)。
阿南高専サッカー部のT3リーグ後期優勝、T2リーグ昇格(1月一3月)。
阿南高専サッカー部の四国放送杯参加、1年半のコーチ業終了(3月)。
「ボブスレー工学研究会」発足参加(6月)。
ワールドカップ・ドイツ大会全試合テレビ観戦(6月一7月)。
Def Techコンサート(7月)。
神戸大学講演(7月)。
「太陽の会」サンタクロース役(12月)。
「全日本ボブスレー強化合宿」参加。4人乗りボブスレー試乗(12月)。
果たして今年はどんな経験が得られるでしょうか?
皆さんのご健康とご幸福を心よりお祈りいたします。
昨年はいろんな経験ができました。主なものは以下の通り。
トリノ・オリンピックテレビ観戦(2月)。
阿南高専サッカー部のT3リーグ後期優勝、T2リーグ昇格(1月一3月)。
阿南高専サッカー部の四国放送杯参加、1年半のコーチ業終了(3月)。
「ボブスレー工学研究会」発足参加(6月)。
ワールドカップ・ドイツ大会全試合テレビ観戦(6月一7月)。
Def Techコンサート(7月)。
神戸大学講演(7月)。
「太陽の会」サンタクロース役(12月)。
「全日本ボブスレー強化合宿」参加。4人乗りボブスレー試乗(12月)。
果たして今年はどんな経験が得られるでしょうか?
皆さんのご健康とご幸福を心よりお祈りいたします。
2006/12/24のBlog
[ 17:30 ]
[ 科学ニュース ]
メリークリスマス! 良いクリスマスを!
ハッピーニューイヤー。良いお年を。
今年はこれが最後の記事。
写真:エルニーニョ現象(上)とラニーニャ現象(下)
異常気象の”原因”と考えられているエルニーニョ現象は、アメリカ側の大平洋の海水温度の異常上昇のこと。この時ガラパゴス島の海イグアナが食物を失い瀕死となる(ガラパゴス島のイグアナ達参照)。
一方、ラニーニャ現象とは、大平洋の日本海側の海水温度が異常上昇すること。この時には、黒潮の蛇行や台風の異常発生などの天変地異が起こる。2年前の台風シーズンは、これが原因ではないかと考えられている(台風10、11号--今年の台風の不思議 )。
ハッピーニューイヤー。良いお年を。
今年はこれが最後の記事。
写真:エルニーニョ現象(上)とラニーニャ現象(下)
異常気象の”原因”と考えられているエルニーニョ現象は、アメリカ側の大平洋の海水温度の異常上昇のこと。この時ガラパゴス島の海イグアナが食物を失い瀕死となる(ガラパゴス島のイグアナ達参照)。
一方、ラニーニャ現象とは、大平洋の日本海側の海水温度が異常上昇すること。この時には、黒潮の蛇行や台風の異常発生などの天変地異が起こる。2年前の台風シーズンは、これが原因ではないかと考えられている(台風10、11号--今年の台風の不思議 )。
写真:体長1m体重4kgの新種の伊勢海老
これは小笠原諸島で発見されたものに非常に似ている(最近話題になった生物 )。まったく違う国々に同じような体重4kgの新種の伊勢海老がいるというのは摩訶不思議な出来事である。
これは小笠原諸島で発見されたものに非常に似ている(最近話題になった生物 )。まったく違う国々に同じような体重4kgの新種の伊勢海老がいるというのは摩訶不思議な出来事である。
写真:外来ねずみ
外来種が島や湖水などに進出すると、旧世界の生態系が破壊される。ある種のねずみが猛繁殖し、島の鳥が絶滅の危機に陥りつつあるという例。
日本の琵琶湖でもブラックバスにより在来種が絶滅の危機にある。同様に、東京都内や日本全土に生息する外来種の人間(外人)のせいで在来種である日本人の生態系も見事に崩れつつある。アメリカの場合も在来種であるインディアンは、外来種であるヨーロッパ人に駆逐されてしまった。
どういうわけか、外来種は在来種より強い。また、異常な繁殖力がある。これはいったいなぜか。実に不思議なことである。
自然の生態系のみならず、人間界でも同じことが起こっている。ブラックバスのことを心配しているうちにその心配する人間すら駆逐されてしまうのかも知れない。
外来種が島や湖水などに進出すると、旧世界の生態系が破壊される。ある種のねずみが猛繁殖し、島の鳥が絶滅の危機に陥りつつあるという例。
日本の琵琶湖でもブラックバスにより在来種が絶滅の危機にある。同様に、東京都内や日本全土に生息する外来種の人間(外人)のせいで在来種である日本人の生態系も見事に崩れつつある。アメリカの場合も在来種であるインディアンは、外来種であるヨーロッパ人に駆逐されてしまった。
どういうわけか、外来種は在来種より強い。また、異常な繁殖力がある。これはいったいなぜか。実に不思議なことである。
自然の生態系のみならず、人間界でも同じことが起こっている。ブラックバスのことを心配しているうちにその心配する人間すら駆逐されてしまうのかも知れない。
[ 11:14 ]
[ 大学・大学院 ]
[ ありんこ ] さんが興味深くかつ長いコメントをつけてくれたので、こっちに返答しておこう。一応、以下に編集し直したものを置き、その後に返答することにしよう。ありんこさんへの御参考になれば幸いである。
[ ありんこ ] [2006/12/24 07:45]
興味深いトピックですね。
今は世間が「科学万能の時代」から脱却しているのではないかと思います。実際は恩恵をこうむっているのですが。子供がなりたいものに「野球選手」「ケーキ屋さん」を挙げるところを見ると、その程度はともかく、自分の能力・個性を見せられる仕事に惹かれるのでしょう。TVでも、科学者が主人公のドラマはこの頃あったでしょうか?
また、実用性を求めているような気もします。見てわかりやすいもの。野球選手はそのプレーで自分を頻繁に見せられますが、科学者は地味で、縁の下の力持ちです。
また、基礎的ではあるが、実用性がよくわからぬ研究もあるでしょう。
高校ぐらいになると、いまだに女子は理系に向かない、という態度をとる高校教師がゴロゴロしてます。また、詰め込みで公式を使って、与えられた問題は解けても、わくわくすることもなく、自分でなぜ?と追求する時間もありません。必須の世界史が履修されていなかったことでもわかる通り。受験戦争に勝たねば、なのです。ビリで入っても、入学なのに、他人よりいい成績を取れば必ず入れる・・・。
大学になると、ゼミで、教官を見て、「恣意的に難しそうな人だ」と思えば、わざわざ育英会の借金までして、科学をやろうと思わないでしょう。しかも、昨今、研究は巨額の費用がかかり、プロジェクトに属さねばならない。 そこで求められるのは、よく言えば、コミュニケーション能力、悪く言えば、教授へのごますり能力がなくては、地獄でしょう。そんなにしても教授に嫌われれば、他大学の大学院の受けようと思う、しかし、教授の推薦状がいるのです!
大学院に行かなくても企業で研究はできないか?よくわかりません。大学での勉学を重視しない企業も多いですし。また、就職協定がなくなって、就職活動を始めるのが早いほど、就職しやすいのではないか、と思えば、大学で学部生として、真面目に研究するより、適当に学生生活を「通過儀礼」としてすごしコミュニケーション能力をつけた方がましでしょう。仕事がなければ、フリーターやニートになる恐怖があるのですから。大卒で就職できねば、ワーキングプアになるのですから。
社会の構造がますますゆとりを許さなくなってきています。能率を上げるには「二世」研究者が手っ取り早いのでしょう。
独断と偏見に満ちていますが、私は今のところ、こう理解しています
それと、私はこういう風潮は嫌ですが、時代の波があるのだろうと思います。
BLOGとかで、大学院の醜い実態を記したのが時にありますが、生き延びる知恵を記したのがでてくる(または出ている)ことと思います。Quasimotoさんは、アメリカ留学で生き延びなさったのでしょうが、今もアメリカが有効か、知りたいところです。
------------------------------------------------------------------
まあ、コメントを要約すれば、以下のようなものだろう。
(1)「TVでも、科学者が主人公のドラマはあったか?」
(2)「実用性の時代となった」
(3)「受験戦争の弊害」
(4)「大学大学院教育の問題」
(5)「大学院に行かなくても企業で研究はできないか?」
(6)「社会の構造がますますゆとりを許さない」
(7)「時代の波がある」
(8)「今もアメリカが有効か」
まず、私のこのエッセイは、あくまで私個人のための「スケッチ」のようなものであり、おおよそのストーリーを書いた「メモ」のようなものにすぎない。このテーマで十分、何冊もの本が書ける程度の内容があるだろう。もちろん、私は本を書くつもりはないが。これを叩き台のようなものとして、各人が自分なりの見方を構築できればそれでよろしいだろう。
基本的には、ありんこさんと私は同じ線の観点にあり、特に反論するものはない。それゆえ、以下は一応の返答にすぎない。
さて、(1)については、答えはノー。確かに日本製のドラマや映画やアニメには、「科学者」が主人公のものは少ない(「日本沈没」などは科学者が主人公)。しかし、アメリカハリウッド製のドラマや映画やアニメには「科学者」が主人公のものは今も多い。ハリウッド製SFの主人公のほとんどは「科学者」である。日本でもすぐにちまたで公開されているので、実際的には日本製のようなものであり、それほど問題はないと私は思う。したがって、日本人の能力的なものが問題だろうと私は見ている。要するに、理由はともかく、一言でいえば、戦後の日本人は能力が劣ってきたのである。
(2)これは全くその通り。日本に限らず、世界は20世紀後半から「実用性の時代」に入った。それは、当然とも言える。なぜなら、19世紀後半から20世紀前半までの「Know What」の時代は完成し、原子論や量子力学のおかげで万物の基本理論は分かってしまったからである。戦後の20世紀後半はいかにそれを応用するかという「応用の時代」に変わり、「Know How」の時代となったからである。21世紀に入っても新法則の発見はほとんどなく、なされたものは応用研究が主体となった。
(3)これは、私はずっと以前から指摘済み。かつて朝日新聞「私の視点ウィークエンド」に「大学入試、官僚的適性測る一発試験」(2001年7月14日)という記事を掲載してもらったので、それを参照して欲しい。現在、日本人で「大学入試廃止論者」は、私と中村修二博士のみ。私は大学入試は廃止すべきであると考えている(ちなみに、私は「東大廃止論者」、「遷都推進論者」でもある)。私が理想としているのは、現在のアメリカの「カリフォルニア大学機構」というものである(ノーベル賞のメッカ、”カリフォルニア”に学べ! )。基本的には、日本の国立大学は、昔の「帝国大学」の分校のような感じに戻るべきで、どこの大学でも自由に移籍して学べるようなものであるべきである。それに、授業料を支払えばだれでも授業を受けられるようにして、「単位取得」、「卒業資格」で能力を測るようなシステムに変えるべきだと考えている。その昔の「高等教育フォーラム(東大の松田掲示板)」でさんざん議論した。
(4)この問題は、すでに数年前に拙著「何が科学をつぶすのか?」(太陽書房)にまとめてあるので省略。最近の日本人は、くり返し同じ問題を議論して時間をつぶしている。問題の焦点はすでにずっと前に解決済みだが、多くの人は大事な本を読まないのでそういうことを知らない。
(5)これは、明らかにその企業による。中村修二博士のように、田舎の民間企業で大発明をするという例もある。これは特例だとすれば稀なケースとなるが、不可能ということではない。できれば、それが世界の歴史となる。アップルもビルゲイツも同様。うまくいったから歴史を作った。だから、その個人の人生のドラマゆえで、一般的なセオリーはありえない。
(6)それは、日本が戦後のテレビ・ラジオ時代の情報化時代から始まった「東京一極集中」の弊害。地方の時間は相も変わらず「悠久の時間」が過ぎ去る。大都市のサラリーマン文化に貧困の時代が到来して余裕が失われたに過ぎず、地方やメインストリームからはずれた人々は実にのんびりとやっている。今の日本社会では「やくざ」ほど自由を満喫しているものあるまい。犯罪で金もうけし、うまいものを食い、良いものを着、良いところに住み、良い女とセックス三昧、法律も宗教も何のおとがめもない。平和そのものだろう。昔から「悪いやつ程良く眠る」ものである。
(7)確かに「時代の波」はある。これを演出しているのは、東京の情報産業だろう。要するに、情報雑誌業界や広告産業や新聞やテレビが”演出”している。これをうまく官僚や政治家が利用して「時代の波」を作っている。一般人は、もはやそれが分からないほどに”マインドコントロール”されてしまっている。まあ、日本社会全体が、”カルト化”したと私は見る。もっとも今のアメリカも似たようなものだが。
(8)アメリカは広く、大きい。それゆえアメリカには「捨てる神あれば拾う神あり」の精神がある。今現在、やはりアカデミズムでもっとも好調な国はアメリカ以外にない。それは、アメリカがハリウッドを通じた広報活動のおかげで、アメリカの現実とは裏腹に世界中の金が集まるような仕組が維持されているからである。日本も中国も、市民は必死ではたらき詰めでも、結局経営者の儲けた金はアメリカに戻るようになっている。現在の真実はこの有名なジョークの通り。
「最良の人生とは何か?それは、アメリカの大学に職を持ち、イギリスの家に住み、日本人の奥さんをもらい、中国料理を食べる人生。最悪の人生とは何か?それは、中国に職を持ち、日本人の家に住み、アメリカ人の奥さんをもらい、イギリス料理を食べる人生である。」
しかし、ひと頃(私が留学した20年前)と違い、アメリカの大学にもかなり格差が広がってきているのではないか、という気がする。東海岸か西海岸が発展し、それ以外は衰退してきているのかも知れない。それでも、日本よりはずっとましだろうが。また、当時と違い、欧州やカナダ、あるいはオーストラリアなどのアカデミズムの復興もある。だから、昔は留学といえばアメリカだったが、今ではそれ以外の先進国も留学対象国になってきている。さらに、ブラジルは近年もっとも科学が発展した国の代表格になった。だから、南米の躍進も無視できない。今やブラジルはサッカーだけの国ではない。
いずれにせよ、アメリカは現状では唯一の「科学のできる国」である。この事実は変わらない。
しかし、今後50年、100年となると分からない。おそらく、今我々が想像しているのとまったく違う問題で盛衰が起こる可能性がある。今一番住みやすいところが一番住みにくくなるとか、さまざまなことが起こり得るからである。一番可能性あるのは、地球温暖化のために、気象変動が起こり、シベリアが一番住みやすくなる、というようなことが起こるかも知れない。ハワイが大陸になるとか、小惑星がアメリカに落下するとか、いう可能性がいつか起こらないとも限らない。いずれにせよ、20世紀に我々が想像した未来とは全く違う未来の到来(「人類の滅亡」も含めて)を予想しなくてはならないだろう。
[ ありんこ ] [2006/12/24 07:45]
興味深いトピックですね。
今は世間が「科学万能の時代」から脱却しているのではないかと思います。実際は恩恵をこうむっているのですが。子供がなりたいものに「野球選手」「ケーキ屋さん」を挙げるところを見ると、その程度はともかく、自分の能力・個性を見せられる仕事に惹かれるのでしょう。TVでも、科学者が主人公のドラマはこの頃あったでしょうか?
また、実用性を求めているような気もします。見てわかりやすいもの。野球選手はそのプレーで自分を頻繁に見せられますが、科学者は地味で、縁の下の力持ちです。
また、基礎的ではあるが、実用性がよくわからぬ研究もあるでしょう。
高校ぐらいになると、いまだに女子は理系に向かない、という態度をとる高校教師がゴロゴロしてます。また、詰め込みで公式を使って、与えられた問題は解けても、わくわくすることもなく、自分でなぜ?と追求する時間もありません。必須の世界史が履修されていなかったことでもわかる通り。受験戦争に勝たねば、なのです。ビリで入っても、入学なのに、他人よりいい成績を取れば必ず入れる・・・。
大学になると、ゼミで、教官を見て、「恣意的に難しそうな人だ」と思えば、わざわざ育英会の借金までして、科学をやろうと思わないでしょう。しかも、昨今、研究は巨額の費用がかかり、プロジェクトに属さねばならない。 そこで求められるのは、よく言えば、コミュニケーション能力、悪く言えば、教授へのごますり能力がなくては、地獄でしょう。そんなにしても教授に嫌われれば、他大学の大学院の受けようと思う、しかし、教授の推薦状がいるのです!
大学院に行かなくても企業で研究はできないか?よくわかりません。大学での勉学を重視しない企業も多いですし。また、就職協定がなくなって、就職活動を始めるのが早いほど、就職しやすいのではないか、と思えば、大学で学部生として、真面目に研究するより、適当に学生生活を「通過儀礼」としてすごしコミュニケーション能力をつけた方がましでしょう。仕事がなければ、フリーターやニートになる恐怖があるのですから。大卒で就職できねば、ワーキングプアになるのですから。
社会の構造がますますゆとりを許さなくなってきています。能率を上げるには「二世」研究者が手っ取り早いのでしょう。
独断と偏見に満ちていますが、私は今のところ、こう理解しています
それと、私はこういう風潮は嫌ですが、時代の波があるのだろうと思います。
BLOGとかで、大学院の醜い実態を記したのが時にありますが、生き延びる知恵を記したのがでてくる(または出ている)ことと思います。Quasimotoさんは、アメリカ留学で生き延びなさったのでしょうが、今もアメリカが有効か、知りたいところです。
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まあ、コメントを要約すれば、以下のようなものだろう。
(1)「TVでも、科学者が主人公のドラマはあったか?」
(2)「実用性の時代となった」
(3)「受験戦争の弊害」
(4)「大学大学院教育の問題」
(5)「大学院に行かなくても企業で研究はできないか?」
(6)「社会の構造がますますゆとりを許さない」
(7)「時代の波がある」
(8)「今もアメリカが有効か」
まず、私のこのエッセイは、あくまで私個人のための「スケッチ」のようなものであり、おおよそのストーリーを書いた「メモ」のようなものにすぎない。このテーマで十分、何冊もの本が書ける程度の内容があるだろう。もちろん、私は本を書くつもりはないが。これを叩き台のようなものとして、各人が自分なりの見方を構築できればそれでよろしいだろう。
基本的には、ありんこさんと私は同じ線の観点にあり、特に反論するものはない。それゆえ、以下は一応の返答にすぎない。
さて、(1)については、答えはノー。確かに日本製のドラマや映画やアニメには、「科学者」が主人公のものは少ない(「日本沈没」などは科学者が主人公)。しかし、アメリカハリウッド製のドラマや映画やアニメには「科学者」が主人公のものは今も多い。ハリウッド製SFの主人公のほとんどは「科学者」である。日本でもすぐにちまたで公開されているので、実際的には日本製のようなものであり、それほど問題はないと私は思う。したがって、日本人の能力的なものが問題だろうと私は見ている。要するに、理由はともかく、一言でいえば、戦後の日本人は能力が劣ってきたのである。
(2)これは全くその通り。日本に限らず、世界は20世紀後半から「実用性の時代」に入った。それは、当然とも言える。なぜなら、19世紀後半から20世紀前半までの「Know What」の時代は完成し、原子論や量子力学のおかげで万物の基本理論は分かってしまったからである。戦後の20世紀後半はいかにそれを応用するかという「応用の時代」に変わり、「Know How」の時代となったからである。21世紀に入っても新法則の発見はほとんどなく、なされたものは応用研究が主体となった。
(3)これは、私はずっと以前から指摘済み。かつて朝日新聞「私の視点ウィークエンド」に「大学入試、官僚的適性測る一発試験」(2001年7月14日)という記事を掲載してもらったので、それを参照して欲しい。現在、日本人で「大学入試廃止論者」は、私と中村修二博士のみ。私は大学入試は廃止すべきであると考えている(ちなみに、私は「東大廃止論者」、「遷都推進論者」でもある)。私が理想としているのは、現在のアメリカの「カリフォルニア大学機構」というものである(ノーベル賞のメッカ、”カリフォルニア”に学べ! )。基本的には、日本の国立大学は、昔の「帝国大学」の分校のような感じに戻るべきで、どこの大学でも自由に移籍して学べるようなものであるべきである。それに、授業料を支払えばだれでも授業を受けられるようにして、「単位取得」、「卒業資格」で能力を測るようなシステムに変えるべきだと考えている。その昔の「高等教育フォーラム(東大の松田掲示板)」でさんざん議論した。
(4)この問題は、すでに数年前に拙著「何が科学をつぶすのか?」(太陽書房)にまとめてあるので省略。最近の日本人は、くり返し同じ問題を議論して時間をつぶしている。問題の焦点はすでにずっと前に解決済みだが、多くの人は大事な本を読まないのでそういうことを知らない。
(5)これは、明らかにその企業による。中村修二博士のように、田舎の民間企業で大発明をするという例もある。これは特例だとすれば稀なケースとなるが、不可能ということではない。できれば、それが世界の歴史となる。アップルもビルゲイツも同様。うまくいったから歴史を作った。だから、その個人の人生のドラマゆえで、一般的なセオリーはありえない。
(6)それは、日本が戦後のテレビ・ラジオ時代の情報化時代から始まった「東京一極集中」の弊害。地方の時間は相も変わらず「悠久の時間」が過ぎ去る。大都市のサラリーマン文化に貧困の時代が到来して余裕が失われたに過ぎず、地方やメインストリームからはずれた人々は実にのんびりとやっている。今の日本社会では「やくざ」ほど自由を満喫しているものあるまい。犯罪で金もうけし、うまいものを食い、良いものを着、良いところに住み、良い女とセックス三昧、法律も宗教も何のおとがめもない。平和そのものだろう。昔から「悪いやつ程良く眠る」ものである。
(7)確かに「時代の波」はある。これを演出しているのは、東京の情報産業だろう。要するに、情報雑誌業界や広告産業や新聞やテレビが”演出”している。これをうまく官僚や政治家が利用して「時代の波」を作っている。一般人は、もはやそれが分からないほどに”マインドコントロール”されてしまっている。まあ、日本社会全体が、”カルト化”したと私は見る。もっとも今のアメリカも似たようなものだが。
(8)アメリカは広く、大きい。それゆえアメリカには「捨てる神あれば拾う神あり」の精神がある。今現在、やはりアカデミズムでもっとも好調な国はアメリカ以外にない。それは、アメリカがハリウッドを通じた広報活動のおかげで、アメリカの現実とは裏腹に世界中の金が集まるような仕組が維持されているからである。日本も中国も、市民は必死ではたらき詰めでも、結局経営者の儲けた金はアメリカに戻るようになっている。現在の真実はこの有名なジョークの通り。
「最良の人生とは何か?それは、アメリカの大学に職を持ち、イギリスの家に住み、日本人の奥さんをもらい、中国料理を食べる人生。最悪の人生とは何か?それは、中国に職を持ち、日本人の家に住み、アメリカ人の奥さんをもらい、イギリス料理を食べる人生である。」
しかし、ひと頃(私が留学した20年前)と違い、アメリカの大学にもかなり格差が広がってきているのではないか、という気がする。東海岸か西海岸が発展し、それ以外は衰退してきているのかも知れない。それでも、日本よりはずっとましだろうが。また、当時と違い、欧州やカナダ、あるいはオーストラリアなどのアカデミズムの復興もある。だから、昔は留学といえばアメリカだったが、今ではそれ以外の先進国も留学対象国になってきている。さらに、ブラジルは近年もっとも科学が発展した国の代表格になった。だから、南米の躍進も無視できない。今やブラジルはサッカーだけの国ではない。
いずれにせよ、アメリカは現状では唯一の「科学のできる国」である。この事実は変わらない。
しかし、今後50年、100年となると分からない。おそらく、今我々が想像しているのとまったく違う問題で盛衰が起こる可能性がある。今一番住みやすいところが一番住みにくくなるとか、さまざまなことが起こり得るからである。一番可能性あるのは、地球温暖化のために、気象変動が起こり、シベリアが一番住みやすくなる、というようなことが起こるかも知れない。ハワイが大陸になるとか、小惑星がアメリカに落下するとか、いう可能性がいつか起こらないとも限らない。いずれにせよ、20世紀に我々が想像した未来とは全く違う未来の到来(「人類の滅亡」も含めて)を予想しなくてはならないだろう。