Blog
2007/02/22のBlog
[ 14:38 ]
[ 社会 ]
夜間学校に通うベトナム人姉弟らに退去命じる 大阪入管
私が最近よく分からないことに、
「どうして最近の大阪人というのは、よわいものいじめや公務員意識にどっぷり浸った人種となってしまったのだろうか?」
というものがある。もっとも、これは大阪人に限らず、どこの”地方公務員”の類いや銀行員などにも散見される。
つい先日も真っ当なイラン系の女子学生一家を東京の管理局は、国外退去処分にしたばかりである。今度は、大阪で同じように真面目に日本で働き勉学に勤める姉弟を国外退去処分にしようというのである。また、ホームレスを襲撃してみたり、追い出してみたり、公園で商売している低所得者を追い出してみたりということがあったばかりである。
ところが、その一方で、富山あたりでは、人の土地を不法占拠して、どうやって手に入れたかも分からない自動車(ナンバープレートなしの車)を富山で船で入出国するロシア人相手に売り捌いて巨額の金を儲けている不法パキスタン人の類いがいる。あるいは、国内にはタレント志望と称して不法滞在している外国人も何万人といる。もちろん大阪にもたくさんいるはずである。だが、こういった連中は全く自由気侭にのさばっているわけである。あるいは、巨額の金を裏金にするわ、オリンピック招致失敗するわ、湾岸開発に失敗して借金しても平気だわとさまざまである。
この差はいったいどこからくるのか?
ということが、私には全く理解できないのである。
公務員意識丸出しで、”官尊民碑”で庶民や諸外国人滞在者に向かうのであれば、あらゆるものに対して同じように向かうべきである。あるものには厳しく別のあるもには緩くでは話にならない。厳しく取り締まるか、まったく取り締まらないか、のどちらかであるべきである。
かつて大阪は「人情の街」と言われ、「食い倒れ」の街でもあった。大阪には官僚的な東京にはない人の良さ、民間人の良さがあると言われたのである。それゆえ、私も一度は東京とは違う空気の都市を知る必要があると学生時代に考えて、大学院では大阪大学に入ったのである。そして5年ほど豊中で過ごしたというわけだ。
しかし、”あれから25年”。
どうやら大阪人も昔の東京人のような官僚的な地方公務員ばかりとなったようである。むしろ、最近では、東京の方が、昔の大阪人のように人情味があるのかも知れない。きっと、東京都知事に追い出された者や嫌ったものたちが大阪に流れてしまったからかも知れない。が、この理由がどうしても私は知りたいところである。ついでに言えば、阪大にいる物理学者や科学者の中にも昔はいなかったような官僚的なタイプというのか、公務員的というのか、そういったタイプが増えた気がする。
そう言えば、そもそもここまで大阪府や大阪市職員がちまたを騒がせるようになる徴候があった。それは、大阪にあるUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)に対する執拗なまでの花火量規制であった。火薬の使用量が大阪市の規定を上回るからそれを禁止するというものであった。
英語には、"You are mean."という独特の表現がある。これは、「あんたはいじわるだね。」という意味である。これは、よく白人女性なんかに人に「こうしろ、ああしろ」というように何でも命令する人がいるが、こういったタイプの人に言う言葉である。
どうもこの”ミーン”というのがぴったりの人種が”今の大阪人”である。これからは大阪人というより大阪民の方がミーンの響きが出ていい。大阪市民のほうがもっといい。欧米人には、いじわるそうな響きに聞こえるだろう。それゆえ、大阪民と聞いたら要注意だという印象を持つことができるかも知れない。
昔の大阪人は、「食い倒れ」者にも食うものをやり、住むところのないものにも、大目に見るという優しさや親切さがあったと聞く。が、それも今や昔の物語というところなのだろう。
私が最近よく分からないことに、
「どうして最近の大阪人というのは、よわいものいじめや公務員意識にどっぷり浸った人種となってしまったのだろうか?」
というものがある。もっとも、これは大阪人に限らず、どこの”地方公務員”の類いや銀行員などにも散見される。
つい先日も真っ当なイラン系の女子学生一家を東京の管理局は、国外退去処分にしたばかりである。今度は、大阪で同じように真面目に日本で働き勉学に勤める姉弟を国外退去処分にしようというのである。また、ホームレスを襲撃してみたり、追い出してみたり、公園で商売している低所得者を追い出してみたりということがあったばかりである。
ところが、その一方で、富山あたりでは、人の土地を不法占拠して、どうやって手に入れたかも分からない自動車(ナンバープレートなしの車)を富山で船で入出国するロシア人相手に売り捌いて巨額の金を儲けている不法パキスタン人の類いがいる。あるいは、国内にはタレント志望と称して不法滞在している外国人も何万人といる。もちろん大阪にもたくさんいるはずである。だが、こういった連中は全く自由気侭にのさばっているわけである。あるいは、巨額の金を裏金にするわ、オリンピック招致失敗するわ、湾岸開発に失敗して借金しても平気だわとさまざまである。
この差はいったいどこからくるのか?
ということが、私には全く理解できないのである。
公務員意識丸出しで、”官尊民碑”で庶民や諸外国人滞在者に向かうのであれば、あらゆるものに対して同じように向かうべきである。あるものには厳しく別のあるもには緩くでは話にならない。厳しく取り締まるか、まったく取り締まらないか、のどちらかであるべきである。
かつて大阪は「人情の街」と言われ、「食い倒れ」の街でもあった。大阪には官僚的な東京にはない人の良さ、民間人の良さがあると言われたのである。それゆえ、私も一度は東京とは違う空気の都市を知る必要があると学生時代に考えて、大学院では大阪大学に入ったのである。そして5年ほど豊中で過ごしたというわけだ。
しかし、”あれから25年”。
どうやら大阪人も昔の東京人のような官僚的な地方公務員ばかりとなったようである。むしろ、最近では、東京の方が、昔の大阪人のように人情味があるのかも知れない。きっと、東京都知事に追い出された者や嫌ったものたちが大阪に流れてしまったからかも知れない。が、この理由がどうしても私は知りたいところである。ついでに言えば、阪大にいる物理学者や科学者の中にも昔はいなかったような官僚的なタイプというのか、公務員的というのか、そういったタイプが増えた気がする。
そう言えば、そもそもここまで大阪府や大阪市職員がちまたを騒がせるようになる徴候があった。それは、大阪にあるUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)に対する執拗なまでの花火量規制であった。火薬の使用量が大阪市の規定を上回るからそれを禁止するというものであった。
英語には、"You are mean."という独特の表現がある。これは、「あんたはいじわるだね。」という意味である。これは、よく白人女性なんかに人に「こうしろ、ああしろ」というように何でも命令する人がいるが、こういったタイプの人に言う言葉である。
どうもこの”ミーン”というのがぴったりの人種が”今の大阪人”である。これからは大阪人というより大阪民の方がミーンの響きが出ていい。大阪市民のほうがもっといい。欧米人には、いじわるそうな響きに聞こえるだろう。それゆえ、大阪民と聞いたら要注意だという印象を持つことができるかも知れない。
昔の大阪人は、「食い倒れ」者にも食うものをやり、住むところのないものにも、大目に見るという優しさや親切さがあったと聞く。が、それも今や昔の物語というところなのだろう。
[ 09:20 ]
[ 公表論文 ]
(63) Kazumoto Iguchi and Hiroaki S. Yamada,
"General Connectivity Distribution Functions for Growing Networks with Preferential Attachment of Fractional Power",
J. Math. Phys. 48, 113303-1-17 (2007).*
cond-mat/0702497
"General Connectivity Distribution Functions for Growing Networks with Preferential Attachment of Fractional Power",
J. Math. Phys. 48, 113303-1-17 (2007).*
cond-mat/0702497
2007/02/21のBlog
[ 10:16 ]
[ 教育 ]
定期不正使用、642万円支払い 日大運動部員61人
日本大学でまた犯罪。いやはや、これでは”大学崩壊”? いよいよ日本の”大学崩壊”の時代に突入したのだろうか?
サッカー部員とラグビー部員の合計61人が、練習場に通う交通費を安くしようと住所を偽り定期券を不正に取得した、というニュース。
いったい日大サッカー部は何を教えているのだろうか?
見つからなければいい、
という考えのようだが、これではサッカーでも審判に見つからなければ何しても良いのか、ということになる。スポーツマン精神やフェアー精神に反する行為である。額の大きさや罪の重さの問題ではない。精神性の問題である。
「サッカーは単なるスポーツではない」
というのは闘将ドゥンガの言葉だが、これはドゥンガが日本の武士道や柔道でいうような意味の「サッカー道」を志しているからである。”道”の精神というものである。普段の”心掛け”の悪いものは成長しない、上達しないものである。(これは科学者でも何でも同様。”心掛け”の悪い科学者は良い研究はできない。)
まあ、サッカー精神の理解できない者たちは退場していただくほかないだろう。
ところで、ついこの間も、日大理工学部の現役の学生さんが、金を盗むために近所の老夫婦を殺害した、という事件が起こったばかりである。私の昔の知り合いにも日大理工にいる人が2人ほどいるが、ショックを受けているにちがいない。これは日大に限ったことなのだろうか? それとも一般に日本の大学全般に言えることなのだろうか。もしそうなら、確実に大学崩壊の時代に入ったということなのだろう。
やはり、これは進学率が高くなったことの裏返しなのだろう。インドのように7%程度の進学率であれば、学生には良い意味のエリート意識が芽生える。つまり、自分の恵まれたことに対する感謝の念と責任感が生まれる。しかし、進学率が高まるとともにそういう意識を失う。小学生がそのまま大学生、そして社会人となるというわけである。
「赤信号、みんなで渡れば恐くない」
というような犯罪行為であった。これは、その昔の小学生たちにビートたけしが言ったギャクである。たけし自身はこれで人気者となったわけだが、その頃この言葉を鵜のみしてしまったのだろうか。こうした子供達が今の大学生となったのだろう。
もしそうであれば、やはりコメディアンのギャグというものも社会にとっては困った存在となる(もちろん、私自身はコメディアンそのものも困った存在だと思っているが)。そもそも日本の”いじめ”問題でもいじめっこは多くの「いじめの手口」をコメディアンのギャグから取っている。
この意味では、今のように、テレビのまねを大人も子供も無批判にすぐにまねしてしまうという気質の日本社会では、コメディアンのいじめギャグ(頭をたたいたり、ケリをいれたり、ぼけとつっこみで相手をバカにしたりする)をテレビでは放映禁止にした方が良いのかも知れない。あまりにひどいギャグが多すぎる。
いずれにせよ、日本もまた”悪循環”サイクルに入っているのだろう。つまり、
不況になるとコメディアンが増える→コメディアンが増えると悪質ギャグがテレビに出る→悪質ギャグが出ると子供が真似する→子供が真似するといじめが増える→いじめが増えると社会は不安定になる→社会が不安定になると不況になる
まあ、コメディアンのせいとばかりとは言えないかも知れないが、数が増えればその影響力は桁外れに増す。その責任を問われるようになるのだ。が、コメディアン業界はあまりそういうことに無頓着ですナ。
日本大学でまた犯罪。いやはや、これでは”大学崩壊”? いよいよ日本の”大学崩壊”の時代に突入したのだろうか?
サッカー部員とラグビー部員の合計61人が、練習場に通う交通費を安くしようと住所を偽り定期券を不正に取得した、というニュース。
いったい日大サッカー部は何を教えているのだろうか?
見つからなければいい、
という考えのようだが、これではサッカーでも審判に見つからなければ何しても良いのか、ということになる。スポーツマン精神やフェアー精神に反する行為である。額の大きさや罪の重さの問題ではない。精神性の問題である。
「サッカーは単なるスポーツではない」
というのは闘将ドゥンガの言葉だが、これはドゥンガが日本の武士道や柔道でいうような意味の「サッカー道」を志しているからである。”道”の精神というものである。普段の”心掛け”の悪いものは成長しない、上達しないものである。(これは科学者でも何でも同様。”心掛け”の悪い科学者は良い研究はできない。)
まあ、サッカー精神の理解できない者たちは退場していただくほかないだろう。
ところで、ついこの間も、日大理工学部の現役の学生さんが、金を盗むために近所の老夫婦を殺害した、という事件が起こったばかりである。私の昔の知り合いにも日大理工にいる人が2人ほどいるが、ショックを受けているにちがいない。これは日大に限ったことなのだろうか? それとも一般に日本の大学全般に言えることなのだろうか。もしそうなら、確実に大学崩壊の時代に入ったということなのだろう。
やはり、これは進学率が高くなったことの裏返しなのだろう。インドのように7%程度の進学率であれば、学生には良い意味のエリート意識が芽生える。つまり、自分の恵まれたことに対する感謝の念と責任感が生まれる。しかし、進学率が高まるとともにそういう意識を失う。小学生がそのまま大学生、そして社会人となるというわけである。
「赤信号、みんなで渡れば恐くない」
というような犯罪行為であった。これは、その昔の小学生たちにビートたけしが言ったギャクである。たけし自身はこれで人気者となったわけだが、その頃この言葉を鵜のみしてしまったのだろうか。こうした子供達が今の大学生となったのだろう。
もしそうであれば、やはりコメディアンのギャグというものも社会にとっては困った存在となる(もちろん、私自身はコメディアンそのものも困った存在だと思っているが)。そもそも日本の”いじめ”問題でもいじめっこは多くの「いじめの手口」をコメディアンのギャグから取っている。
この意味では、今のように、テレビのまねを大人も子供も無批判にすぐにまねしてしまうという気質の日本社会では、コメディアンのいじめギャグ(頭をたたいたり、ケリをいれたり、ぼけとつっこみで相手をバカにしたりする)をテレビでは放映禁止にした方が良いのかも知れない。あまりにひどいギャグが多すぎる。
いずれにせよ、日本もまた”悪循環”サイクルに入っているのだろう。つまり、
不況になるとコメディアンが増える→コメディアンが増えると悪質ギャグがテレビに出る→悪質ギャグが出ると子供が真似する→子供が真似するといじめが増える→いじめが増えると社会は不安定になる→社会が不安定になると不況になる
まあ、コメディアンのせいとばかりとは言えないかも知れないが、数が増えればその影響力は桁外れに増す。その責任を問われるようになるのだ。が、コメディアン業界はあまりそういうことに無頓着ですナ。
2007/02/20のBlog
[ 13:38 ]
[ 政治・経済 ]
川沿いの遊歩道に男性の変死体 東京・板橋
最近は、日本でも毎日何人もの殺人事件が起こる。
私が子供の頃、1960年代の日本、そしてバブルに向かう1970年代では、私の記憶では、年に1、2人の殺人事件でも大きな話題となり大事件となったように思う。それから、半世紀近くが過ぎてみると、日本は”殺人大国”のお仲間入りである。それでも、諸外国と比べたらまだまし、というから恐れ入る。
しかし、諸外国と日本の大きな違いもある。
それは、殺人事件に”時効”があるなしである。不思議なことに、日本には殺人事件に時効がある。15年。これが日本の殺人者の時効である。一方、欧米には殺人の時効がない。
この差はどこから来たのか、私は知らない。
たぶん、欧米や諸外国がカソリックやプロテスタントのキリスト教で成り立ったことから来ているのだろうと思う。それに対して、日本は神仏混交の八百おろずの神の国。何でもありの国柄である。きっとこの中には殺人の神もいるのだろう。そのせいで、殺人者にも大目に見るという気侭な精神が生まれたのだろう。
神の前に平等、神の裁きを受ける、神の意志に反する、
こういった精神は21世紀の今も日本では根付かない。それゆえ、裁判官は「神の代弁者」とは少しも思わない。
裁判がいくら儀式化しているとしても、裁判官自身の内に神があるのとそれがないのとでは雲泥の違いが生まれる。
自分の上に神の存在を感じる裁判官は、自身はどうであれ、他人の上にもそれがあることを感じる。それがなければ、裁判官は神の前で審議を行っているということにはならないからだ。したがって、欧米の裁判では、裁判官や検事や弁護士や原告や被告や傍聴人もすべて含めて彼等の上に神が監視しているのだ、という気持ちが芽生える。それゆえ、形なりにも、自分は神の前でフェアであることが要求されるようになる。
ところが、残念ながら日本にはこれがない。そのため、裁判官と検事や弁護士を監視すべき”もの”が存在しない。それゆえ、日本の裁判は、裁判官や検事や弁護士の個別の人間性に極めて左右されることとなる。
そんなわけで、日本の裁判では、「裁判官がだれか?」ということに大きく左右される結果となる。したがって、「法の下に平等」どころか、「判事の下に平等」となり、同じ事件の審議でも、だれが裁判官かによって全く逆の結論と至る。こんな現象が現れることとなる。しかも、裁判官組織も国家公務員だから、当然”官尊民卑”の精神や「強い者に巻かれろ」精神に影響される。その結果、弱い民間人(一個人)には冷たくあしらい、大企業や著名人には比較的友好的にあつかうこととなる。相手が自分と同じ大学出身者ならもっと好意的に扱うだろう。
こういった態度は、神の前では絶対に許されない、というのがキリスト教国の裁判である。したがって、神の支配下にある我々の国で神の意志に反する殺害行為は絶対に許されない、というのが諸外国の考え方なのだと私は理解している。ならば、当然、殺人に時効はあり得ない。犯人を発見するまで永遠に神の意志は続くからである。なぜなら、神に寿命はなく、永遠の命を持っているからである。
「神の前の平等」と「法の下の平等」とはこれほどの違いがあるのである。
最近は、日本でも毎日何人もの殺人事件が起こる。
私が子供の頃、1960年代の日本、そしてバブルに向かう1970年代では、私の記憶では、年に1、2人の殺人事件でも大きな話題となり大事件となったように思う。それから、半世紀近くが過ぎてみると、日本は”殺人大国”のお仲間入りである。それでも、諸外国と比べたらまだまし、というから恐れ入る。
しかし、諸外国と日本の大きな違いもある。
それは、殺人事件に”時効”があるなしである。不思議なことに、日本には殺人事件に時効がある。15年。これが日本の殺人者の時効である。一方、欧米には殺人の時効がない。
この差はどこから来たのか、私は知らない。
たぶん、欧米や諸外国がカソリックやプロテスタントのキリスト教で成り立ったことから来ているのだろうと思う。それに対して、日本は神仏混交の八百おろずの神の国。何でもありの国柄である。きっとこの中には殺人の神もいるのだろう。そのせいで、殺人者にも大目に見るという気侭な精神が生まれたのだろう。
神の前に平等、神の裁きを受ける、神の意志に反する、
こういった精神は21世紀の今も日本では根付かない。それゆえ、裁判官は「神の代弁者」とは少しも思わない。
裁判がいくら儀式化しているとしても、裁判官自身の内に神があるのとそれがないのとでは雲泥の違いが生まれる。
自分の上に神の存在を感じる裁判官は、自身はどうであれ、他人の上にもそれがあることを感じる。それがなければ、裁判官は神の前で審議を行っているということにはならないからだ。したがって、欧米の裁判では、裁判官や検事や弁護士や原告や被告や傍聴人もすべて含めて彼等の上に神が監視しているのだ、という気持ちが芽生える。それゆえ、形なりにも、自分は神の前でフェアであることが要求されるようになる。
ところが、残念ながら日本にはこれがない。そのため、裁判官と検事や弁護士を監視すべき”もの”が存在しない。それゆえ、日本の裁判は、裁判官や検事や弁護士の個別の人間性に極めて左右されることとなる。
そんなわけで、日本の裁判では、「裁判官がだれか?」ということに大きく左右される結果となる。したがって、「法の下に平等」どころか、「判事の下に平等」となり、同じ事件の審議でも、だれが裁判官かによって全く逆の結論と至る。こんな現象が現れることとなる。しかも、裁判官組織も国家公務員だから、当然”官尊民卑”の精神や「強い者に巻かれろ」精神に影響される。その結果、弱い民間人(一個人)には冷たくあしらい、大企業や著名人には比較的友好的にあつかうこととなる。相手が自分と同じ大学出身者ならもっと好意的に扱うだろう。
こういった態度は、神の前では絶対に許されない、というのがキリスト教国の裁判である。したがって、神の支配下にある我々の国で神の意志に反する殺害行為は絶対に許されない、というのが諸外国の考え方なのだと私は理解している。ならば、当然、殺人に時効はあり得ない。犯人を発見するまで永遠に神の意志は続くからである。なぜなら、神に寿命はなく、永遠の命を持っているからである。
「神の前の平等」と「法の下の平等」とはこれほどの違いがあるのである。
いずれにせよ、そろそろ日本も殺人事件の時効をなくすべきではないか、と私は考える。もっとも、殺人事件の時効をなくすことと殺人者を死刑にする問題はまた別の話であることに注意しておく。
さもなくば、仮に捕まったとしても10年程して刑務所から出てくる。犯罪の再犯率が非常に高いことから、再び殺人を犯す可能性もある。ということは、人生の内で数回は同じような殺人事件をくり返すことになる。だからいっそのこと一気に死刑にしてしまえ、というのが、後者の「殺人者を死刑にする問題」である。
しかし、この場合にはえん罪の危機もある。日本の裁判も上で述べたような”悪循環”に陥っているのだから、どれか一つだけを極刑にすると、その弊害が出る。これもまた複雑なネットワークの問題だからである。死刑だけを加えれば、殺人者に間違えられたら無実の罪で死刑となる可能性が高くなる。なぜなら裁判がいい加減だからだ。時効があるために十分な調査もしないうちに判決を取るからである。
したがって、極刑を付け加えるためには、裁判官も検事も警察もすべてを極めたものにしなくてならない。さもなくば全体のバランスを失い、弊害が出る。
こうしたことを一番簡単に解決するのが、どうやら時効を廃止することである。そうすれば、犯人探しにも時間がかけられるし、裁判審議にも時間がかけられる。結果として極刑をかせられる。まして、時効がないのだから、一度殺人を犯した者は、一生逃げ隠れて暮らすことになる。そういう意味で”抑止力”が働く。さらに、時効がないのだから、事件の調査書類を無期限で保管しなくてはならなくなり、事件解決しやすくなる。事件が時効でうやむやになって調査書類や証拠物件の破棄ということになりえない。
”時効”の有無とは、これほどまでに結果を変えるものなのである。
さもなくば、仮に捕まったとしても10年程して刑務所から出てくる。犯罪の再犯率が非常に高いことから、再び殺人を犯す可能性もある。ということは、人生の内で数回は同じような殺人事件をくり返すことになる。だからいっそのこと一気に死刑にしてしまえ、というのが、後者の「殺人者を死刑にする問題」である。
しかし、この場合にはえん罪の危機もある。日本の裁判も上で述べたような”悪循環”に陥っているのだから、どれか一つだけを極刑にすると、その弊害が出る。これもまた複雑なネットワークの問題だからである。死刑だけを加えれば、殺人者に間違えられたら無実の罪で死刑となる可能性が高くなる。なぜなら裁判がいい加減だからだ。時効があるために十分な調査もしないうちに判決を取るからである。
したがって、極刑を付け加えるためには、裁判官も検事も警察もすべてを極めたものにしなくてならない。さもなくば全体のバランスを失い、弊害が出る。
こうしたことを一番簡単に解決するのが、どうやら時効を廃止することである。そうすれば、犯人探しにも時間がかけられるし、裁判審議にも時間がかけられる。結果として極刑をかせられる。まして、時効がないのだから、一度殺人を犯した者は、一生逃げ隠れて暮らすことになる。そういう意味で”抑止力”が働く。さらに、時効がないのだから、事件の調査書類を無期限で保管しなくてはならなくなり、事件解決しやすくなる。事件が時効でうやむやになって調査書類や証拠物件の破棄ということになりえない。
”時効”の有無とは、これほどまでに結果を変えるものなのである。
2007/02/19のBlog
[ 20:57 ]
[ 音楽・芸能 ]
[ 10:53 ]
[ 政治・経済 ]
物理学や科学の分野では1980年代以降、
「風が吹くと桶屋が儲かる」(日本版)、
「南米で蝶がはばたくと北半球のハリケーンが起こる」(アメリカ版)
などのキャッチフレーズとともに、俗に言う「カオス理論」が世界を駆け巡った。
これは、物理的な初期条件のわずかな違いが回り回って”意外な場所に”大きな違いを生むという非線形現象の妙味を唄ったものである。一見わずかな差が天国と地獄のような差を生むのである。
フロリダを襲う巨大ハリケーンから見れば、今自分がそこに存在するのは、明確な”必然性”があったと思うに違いない。が、しかし、事のはじめは単なる”偶然”に過ぎなかったのである。
人間社会にもこのようなことがある。
近所のお姉さんやお隣のお兄さんが、ひょんなことから芸能界入りし、日本の大スターに変身していく。今や大成功者となり日本の大スターとなった、俗に言う「勝ち組」に入ったお姉さんお兄さんから見れば、自分が今ここにあるのは初めから成功すべき理由があった。その”必然性”があったと思うに違いない。しかし、事のはじめは、たまたまそこにいたというような”偶然性”に起因するのである。
これと同じようなことは、上で紹介したような一見「良い方向」へばかり働くとは限らない。あるいは、一見「小さなものから巨大化する方向」へばかり働くとは限らない。普通、人は物事はいつも良い方向に進むと信じている。あるいは、そう信じる傾向がある。しかし、そうとばかりは行かない。(もちろん、物理学者や数学者は巨大化する方向を好むという傾向があるが)
例えば、こんなことが起こり得る。
「アメリカのゴア元副大統領が地球を救おうと演説すると桶屋が儲かる」
これだけでは何のことかわからないだろう。こういうことである。
”地球温暖化”現象改善のために、アメリカのゴア元副大統領が映画を作り、世界中を駆け巡る。すると、世界中の知識人やお金持ちの意識が良い方向に変わり、病んでしまった地球改善のためにその対策にお金を投資するようになる。バイオ燃料やエタノール燃料の研究に投資するようになる。そのためには、植物や動物が必要だ。すると、もっとも安いトウモロコシや大豆など、あるいは海藻の類いが材料となる。すると、それを主食として生活している人間、それも安い食料しか買うことのできない人々が食うに困る。結果として、主食のトウモロコシは高騰し、経済的弱者から路頭に迷い。餓死者が続出する。結果として葬儀屋が儲かる。
つまり、世界の権力者が地球保全を願えば願う程、世界中の弱者は食べ物を失い死に直面する。これでは、地球環境を守ることが人類の大半を逆に危機に陥れることになり、人類のために地球温暖化を防ぐという最初の目的に矛盾する、ということとなる。
「風が吹くと桶屋が儲かる」(日本版)、
「南米で蝶がはばたくと北半球のハリケーンが起こる」(アメリカ版)
などのキャッチフレーズとともに、俗に言う「カオス理論」が世界を駆け巡った。
これは、物理的な初期条件のわずかな違いが回り回って”意外な場所に”大きな違いを生むという非線形現象の妙味を唄ったものである。一見わずかな差が天国と地獄のような差を生むのである。
フロリダを襲う巨大ハリケーンから見れば、今自分がそこに存在するのは、明確な”必然性”があったと思うに違いない。が、しかし、事のはじめは単なる”偶然”に過ぎなかったのである。
人間社会にもこのようなことがある。
近所のお姉さんやお隣のお兄さんが、ひょんなことから芸能界入りし、日本の大スターに変身していく。今や大成功者となり日本の大スターとなった、俗に言う「勝ち組」に入ったお姉さんお兄さんから見れば、自分が今ここにあるのは初めから成功すべき理由があった。その”必然性”があったと思うに違いない。しかし、事のはじめは、たまたまそこにいたというような”偶然性”に起因するのである。
これと同じようなことは、上で紹介したような一見「良い方向」へばかり働くとは限らない。あるいは、一見「小さなものから巨大化する方向」へばかり働くとは限らない。普通、人は物事はいつも良い方向に進むと信じている。あるいは、そう信じる傾向がある。しかし、そうとばかりは行かない。(もちろん、物理学者や数学者は巨大化する方向を好むという傾向があるが)
例えば、こんなことが起こり得る。
「アメリカのゴア元副大統領が地球を救おうと演説すると桶屋が儲かる」
これだけでは何のことかわからないだろう。こういうことである。
”地球温暖化”現象改善のために、アメリカのゴア元副大統領が映画を作り、世界中を駆け巡る。すると、世界中の知識人やお金持ちの意識が良い方向に変わり、病んでしまった地球改善のためにその対策にお金を投資するようになる。バイオ燃料やエタノール燃料の研究に投資するようになる。そのためには、植物や動物が必要だ。すると、もっとも安いトウモロコシや大豆など、あるいは海藻の類いが材料となる。すると、それを主食として生活している人間、それも安い食料しか買うことのできない人々が食うに困る。結果として、主食のトウモロコシは高騰し、経済的弱者から路頭に迷い。餓死者が続出する。結果として葬儀屋が儲かる。
つまり、世界の権力者が地球保全を願えば願う程、世界中の弱者は食べ物を失い死に直面する。これでは、地球環境を守ることが人類の大半を逆に危機に陥れることになり、人類のために地球温暖化を防ぐという最初の目的に矛盾する、ということとなる。
実は、人間社会には、こういう一見「パラドックス」に見えることが非常に多く潜んでいる。通常、パラドックスというものは、言葉の問題として、相反することを”同時に”並べるために、矛盾に見えるというようなことを表現する。
例えば、「今私がここで言っていることは全部嘘である」というような表現である。あるいは、「クレタ島の人間は嘘をつく。私はクレタ島の人間である。では、今私が言っていることは嘘か本当か」というようなもの。
ところが、言葉というものの性格上、言葉はいつも時間的に異なった出来事も同時に並記できる。このために矛盾に見えるというものも多い。それが最初のタイプのパラドックスである。
つまり、そこに2つの文章を並記したものの間に一連の”時間的”プロセスが存在しているというようなものである。そして、このプロセスは、単純な関係では起こらず、かなり複雑なネットワークを経て起こる。
何を言いたいか、と言えば、「この世界は還元論的にはできていない」、ということなのである。つまり、この世界から地球温暖化問題だけを抜き出してそれだけを解決できるというようなふうにはできていないということである。地球温暖化問題には、おのずと経済問題、教育問題、南北問題、などなど世界中の既存の諸問題群が絡む。世界中の問題という問題が複雑怪奇なネットワークを形成しているらしいということである。それゆえ、その中の1つの問題を個別に解決することはできない相談だということである。
もしこの世界が「還元論的」であるならば、物事の解決は簡単だ。この場合には、問題は個別に独立して存在している。だから、いくら大変な問題でも、その問題だけを抜き取って時間をかけて解決していけば良い。しかし、どうやらこの世界の現実はそうではない。その認識が大事なのである。がしかし、残念ながら、現在ではまだ、あまりそういう認識はない。
もしこの世界が「非還元論的」であるならば、物事は複雑怪奇に絡まるネットワーク構造を持つ。それゆえ、個別に取り出すことはできない。ネットワークには、中心問題のハブ問題があり、それに隣接している関連問題群、リム問題がある。リム問題はたいした影響を与えないから、まだ個別に解決できる可能性はある。しかしハブ問題は無数のリム問題と関連しているために、その解決の仕方の強い影響が出る。
こんなふうなことがあるのではないか、と私は考えている。
そこで、最初の問題に戻る。
ハブ問題の挙動は周辺の関連問題に大きな影響を与えるのだから、その解決の方法論において結果を非常に大きく左右するはずである。だから、一面的に扱うことは非常に危険なのである。ある手法はあるタイプのリム問題を切り捨てる。また別の手法は、別のタイプのリム問題を切り捨てる。だから、最適な方法を選ぶ必要が出る。
もし、ゴアのやり方がこの中の1つだけを強調するのであれば、それに応じたあるタイプのもののみが生き残り、別のタイプのものは死に絶える。結局、「ゴア元副大統領が演説すると桶屋が儲かる」ということになるのである。
こういう観点からすると、いかに「ネットワーク理論」的観点が重要か分かるだろう。実は、医療においても似たような問題があるが、これはまたとしよう。
例えば、「今私がここで言っていることは全部嘘である」というような表現である。あるいは、「クレタ島の人間は嘘をつく。私はクレタ島の人間である。では、今私が言っていることは嘘か本当か」というようなもの。
ところが、言葉というものの性格上、言葉はいつも時間的に異なった出来事も同時に並記できる。このために矛盾に見えるというものも多い。それが最初のタイプのパラドックスである。
つまり、そこに2つの文章を並記したものの間に一連の”時間的”プロセスが存在しているというようなものである。そして、このプロセスは、単純な関係では起こらず、かなり複雑なネットワークを経て起こる。
何を言いたいか、と言えば、「この世界は還元論的にはできていない」、ということなのである。つまり、この世界から地球温暖化問題だけを抜き出してそれだけを解決できるというようなふうにはできていないということである。地球温暖化問題には、おのずと経済問題、教育問題、南北問題、などなど世界中の既存の諸問題群が絡む。世界中の問題という問題が複雑怪奇なネットワークを形成しているらしいということである。それゆえ、その中の1つの問題を個別に解決することはできない相談だということである。
もしこの世界が「還元論的」であるならば、物事の解決は簡単だ。この場合には、問題は個別に独立して存在している。だから、いくら大変な問題でも、その問題だけを抜き取って時間をかけて解決していけば良い。しかし、どうやらこの世界の現実はそうではない。その認識が大事なのである。がしかし、残念ながら、現在ではまだ、あまりそういう認識はない。
もしこの世界が「非還元論的」であるならば、物事は複雑怪奇に絡まるネットワーク構造を持つ。それゆえ、個別に取り出すことはできない。ネットワークには、中心問題のハブ問題があり、それに隣接している関連問題群、リム問題がある。リム問題はたいした影響を与えないから、まだ個別に解決できる可能性はある。しかしハブ問題は無数のリム問題と関連しているために、その解決の仕方の強い影響が出る。
こんなふうなことがあるのではないか、と私は考えている。
そこで、最初の問題に戻る。
ハブ問題の挙動は周辺の関連問題に大きな影響を与えるのだから、その解決の方法論において結果を非常に大きく左右するはずである。だから、一面的に扱うことは非常に危険なのである。ある手法はあるタイプのリム問題を切り捨てる。また別の手法は、別のタイプのリム問題を切り捨てる。だから、最適な方法を選ぶ必要が出る。
もし、ゴアのやり方がこの中の1つだけを強調するのであれば、それに応じたあるタイプのもののみが生き残り、別のタイプのものは死に絶える。結局、「ゴア元副大統領が演説すると桶屋が儲かる」ということになるのである。
こういう観点からすると、いかに「ネットワーク理論」的観点が重要か分かるだろう。実は、医療においても似たような問題があるが、これはまたとしよう。
2007/02/17のBlog
[ 23:01 ]
[ 音楽・芸能 ]
渡辺謙「周囲に感謝」/日本アカデミー賞
第30回日本アカデミー賞で、「明日の記憶」の渡辺謙(47)さんが主演男優賞を初受賞したというニュース。難病を克服しての受賞だけに思わず”涙”が頬を伝わった。心よりおめでとうと言いたい。
「平成元年、大きな映画を断念し、病院のベッドの上にいました。いつか主演映画で日本アカデミー賞の壇上に立ってスピーチするんだとイメージトレーニングをしていました」。
「時間がかかったけど実現できました。支えてくださった皆さま、本当にありがとうございました」。
第30回日本アカデミー賞で、「明日の記憶」の渡辺謙(47)さんが主演男優賞を初受賞したというニュース。難病を克服しての受賞だけに思わず”涙”が頬を伝わった。心よりおめでとうと言いたい。
「平成元年、大きな映画を断念し、病院のベッドの上にいました。いつか主演映画で日本アカデミー賞の壇上に立ってスピーチするんだとイメージトレーニングをしていました」。
「時間がかかったけど実現できました。支えてくださった皆さま、本当にありがとうございました」。
大分前に、私はここで、「山岡鉄舟と渡辺謙の顔 」を書いていた。
これは、幕臣の英雄、山岡鉄舟先生の顔と渡辺謙さんの顔が実に良く似ている、というものある。
しかし、顔は似ていても、方や”本物の”侍、方や”演技者の”侍。やはり中身はずいぶん違っていたようだ。
山岡鉄舟先生は、当時の不治の病であった胃癌にかかり、53才で亡くなった。この時、鉄舟先生は、結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢で死んでいたと言われている。つまり、座禅をしたまま眠るように死んだのである。
やはり”本物の侍”とはこういう者をいうのだろう。
いくら苦しかったことがあっても人様の前で泣いてはいけない。本当の侍は、人前で泣かないものである、と私は思う。
アメリカの”真のカウボーイ”は、死の瀬戸際でもジョークを言って死に、”真の侍”とは決して泣き言を言わず、涙もみせない。
渡辺謙もまだまだ真の侍にはほど遠いということだろう。
参考:
鉄舟寺
正宗鍛刀記
山岡鉄舟について知りたい人は、私の「柘植の『反秀才論』を読み解く」やここのリンクにあるTesshuu Kenkyuuを見ることをお勧めする。
これは、幕臣の英雄、山岡鉄舟先生の顔と渡辺謙さんの顔が実に良く似ている、というものある。
しかし、顔は似ていても、方や”本物の”侍、方や”演技者の”侍。やはり中身はずいぶん違っていたようだ。
山岡鉄舟先生は、当時の不治の病であった胃癌にかかり、53才で亡くなった。この時、鉄舟先生は、結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢で死んでいたと言われている。つまり、座禅をしたまま眠るように死んだのである。
やはり”本物の侍”とはこういう者をいうのだろう。
いくら苦しかったことがあっても人様の前で泣いてはいけない。本当の侍は、人前で泣かないものである、と私は思う。
アメリカの”真のカウボーイ”は、死の瀬戸際でもジョークを言って死に、”真の侍”とは決して泣き言を言わず、涙もみせない。
渡辺謙もまだまだ真の侍にはほど遠いということだろう。
参考:
鉄舟寺
正宗鍛刀記
山岡鉄舟について知りたい人は、私の「柘植の『反秀才論』を読み解く」やここのリンクにあるTesshuu Kenkyuuを見ることをお勧めする。
2007/02/15のBlog
[ 13:04 ]
[ 社会 ]
ハーマンプロ製小型湯沸かし器、5件目のCO中毒判明
リンナイ製湯沸かし器、CO中毒で3人死亡
金網式ガスストーブ、24年で中毒死61人
「パロマ工業」(名古屋市)、「リンナイ」(名古屋市)、「ハーマンプロ」(大阪市)など日本の大手メーカーの不完全燃焼防止装置付きの小型湯沸かし器で一酸化炭素(CO)中毒事故が起きていたことが次々に明らかとなったというニュース。
こういうニュースを聞く度に私はその昔を思い出す。
私がユタ大学の大学院に留学して1年目のこと。大学の学生たちは、最初の1年間は大学のドーミトリー(寮)に住むが、その後はどこかのアパートを借りてそこから出なくてはならない。新入生のためにそうするのである。だから、私もその機会を探していたのだが、冬のある時友人のパレスチナ人留学生がアパート物件を教えてくれた。一度歩いて見に行ったらまあまあのところに見えたので、そこで契約を取って週末から住むことにした。週末まで授業があったので、週末には時間が取れるからだ。週末になり寮を解約して大学を出て、何もなくがらんとしたアパートに住み始めた。ところがユタの冬は日昼は暖かいが夜は冷える。その晩は特別の寒さで、急激に冷え込んだ。凍えそうになり、早速暖房を入れようと思ったが、暖房が入らない。そこで、早速大型湯沸かし器式の温水暖房機の火を入れてもらおうとガス屋に電話した。しかし、そこは休みで週明けの月曜日になるとのこと。そんなわけで、週末の2日間、凍えそうになり、ほぼ凍死寸前の状態で月曜日まで耐え抜いた。幸い月曜日にはガス屋が来てくれ、何とか助かった。
こんな経験があった。
アメリカの場合には、日本の「石油ストーブ」方式の暖房や「小型湯沸かし器」方式の温水器とは違う。かなり大型の「湯沸かし器」がついている。これが室外に置いてある。それで大量のお湯を湧かして貯水しておく。この貯水器からお湯を風呂やシャワーやキッチン、冬には部屋の暖房にまで使う。つまり、部屋の壁の中に張り巡らせてある金属管の中をお湯を巡らせ、その熱を部屋に取り入れ、暖房の代わりにするのである。言わば、お湯熱暖房である。
大きなアパートにも必ずこれがある。もっとずっと大型の湯沸かし器が地下室に置いてある。これが自動的にガスで適温に保たれている。ここからキッチンや風呂や暖房に回っていくのである。
そんなわけで、アメリカの家の場合には、あまりガスで死ぬ、あるいは不完全燃焼で死ぬという事故の話は聞かない。そこはやはり湯沸かし器の設置場所が室外にあるからであろう。
リンナイ製湯沸かし器、CO中毒で3人死亡
金網式ガスストーブ、24年で中毒死61人
「パロマ工業」(名古屋市)、「リンナイ」(名古屋市)、「ハーマンプロ」(大阪市)など日本の大手メーカーの不完全燃焼防止装置付きの小型湯沸かし器で一酸化炭素(CO)中毒事故が起きていたことが次々に明らかとなったというニュース。
こういうニュースを聞く度に私はその昔を思い出す。
私がユタ大学の大学院に留学して1年目のこと。大学の学生たちは、最初の1年間は大学のドーミトリー(寮)に住むが、その後はどこかのアパートを借りてそこから出なくてはならない。新入生のためにそうするのである。だから、私もその機会を探していたのだが、冬のある時友人のパレスチナ人留学生がアパート物件を教えてくれた。一度歩いて見に行ったらまあまあのところに見えたので、そこで契約を取って週末から住むことにした。週末まで授業があったので、週末には時間が取れるからだ。週末になり寮を解約して大学を出て、何もなくがらんとしたアパートに住み始めた。ところがユタの冬は日昼は暖かいが夜は冷える。その晩は特別の寒さで、急激に冷え込んだ。凍えそうになり、早速暖房を入れようと思ったが、暖房が入らない。そこで、早速大型湯沸かし器式の温水暖房機の火を入れてもらおうとガス屋に電話した。しかし、そこは休みで週明けの月曜日になるとのこと。そんなわけで、週末の2日間、凍えそうになり、ほぼ凍死寸前の状態で月曜日まで耐え抜いた。幸い月曜日にはガス屋が来てくれ、何とか助かった。
こんな経験があった。
アメリカの場合には、日本の「石油ストーブ」方式の暖房や「小型湯沸かし器」方式の温水器とは違う。かなり大型の「湯沸かし器」がついている。これが室外に置いてある。それで大量のお湯を湧かして貯水しておく。この貯水器からお湯を風呂やシャワーやキッチン、冬には部屋の暖房にまで使う。つまり、部屋の壁の中に張り巡らせてある金属管の中をお湯を巡らせ、その熱を部屋に取り入れ、暖房の代わりにするのである。言わば、お湯熱暖房である。
大きなアパートにも必ずこれがある。もっとずっと大型の湯沸かし器が地下室に置いてある。これが自動的にガスで適温に保たれている。ここからキッチンや風呂や暖房に回っていくのである。
そんなわけで、アメリカの家の場合には、あまりガスで死ぬ、あるいは不完全燃焼で死ぬという事故の話は聞かない。そこはやはり湯沸かし器の設置場所が室外にあるからであろう。
一方、日本はというと、私の祖母の時代はいろりや火鉢だった。昔私が正月になると小遣い欲しさにお年玉をもらいに欠かさず祖母の家に行く。祖母の小さな部屋には必ず火鉢があった。私が行くと、「よく来たな」と気をよくして祖母は火鉢の上に網を置き、すぐに残り物のおかしや正月の餅をあぶる。そうすればすぐに食べることができた。そして、餅が焼けるのを待つ間、「じゃ、一局」と囲碁をするのが祖母の楽しみだった。料理もできるし、暖房にもなる。そんな便利なものが日本の火鉢であった。だから、いつも少し窓を開け外気を入れていた。空気の換気には昔の日本人は非常に注意していたものである。これが”日本人の知恵”である。
しかし、日本が高度成長時代になり、アメリカ式生活に憧れた頃、アメリカの室外湯沸かし器の便利さに日本人は憧れた。その頃の日本人の家は「ウサギ小屋」と呼ばれるほど狭く、それゆえ地下室に大型湯沸かし器を設置することも室外に設置することもできなかった。だが、憧れのアメリカ人のように寒い冬も台所でお湯を使いたい。そこで、考え出されたものが、”簡易温水器”、すなわち、室内の「小型湯沸かし器」であった。高度成長とともに、パロマ、リンナイなどの製品は、飛ぶように売れた。まだ、その頃の日本の家はあばら家に近く、換気が良かったから事故も少なかったのかも知れない。その一方で火事は多かったのかも知れないが。
高度成長、そしてバブル全盛期と来て、しだいにアルミサッシや鉄筋コンクリートの建物が増えて来た。それに応じて、密室的な部屋が増えてきたのである。
ところが、どういうわけか、このあたりで、つまり日本人がかなりリッチになり世界中を闊歩する時代に入っても、アメリカの温水熱暖房システムは根付かなかった(もちろん、夏の冷房システムでもアメリカ式の空調システムは根付かなかった)。これはどうしてなのだろうか。
その理由を私は知らない。が、室内に取り付ける簡易温水器がどんな大きなビルのマンションでも使われ続けたのである。そのために、各部屋ごとに冷暖房機の室外機を取り付け、各風呂やキッチンごとに湯沸かし器を取り付ける、という日本型の風景が誕生したのである。そして21世紀に入った現在でもこの状況は日本では変わらない。
しかし、時代は地球温暖化の時代になってしまった。
果たして、アメリカ式の「室外大型お湯沸かし器」方式と日本式の「室内小型お湯沸かし器」方式のどちらが、熱効率が良いのだろうか? あるいは、アメリカ式の「室外大型お湯熱暖房や空調システム」方式と日本式の「室内小型石油ストーブや室外小型冷暖房」方式のいずれが効率がいいのだろうか?
私は、日本政府や日本の関連企業は温暖化対策の一番最初にまずこういった疑問に答えるべきだろうと考えている。
耐震偽装事件で有名になるような大きなマンションでは、アメリカ式のマンション全体の冷熱暖房と日本式の各世帯ごとの冷熱暖房のどちらが石油消費量がより少ないのか、明確にすべきである。あるいは、一軒家でも、各部屋ごとの冷暖房で行うのと、家全体を冷暖房するのとどちらは安上がりか、明確にすべきなのである。
さもなくば、例えば一軒家の場合。家の部屋という部屋に小型冷暖房機が設置され、すべての部屋でいっせいに使うのが良いのか、あるいは最初から家全体をわずかな温水で温水暖房するのが良いのか、分からないからである。
さまざまなケースで詳細な見積もりが必要であると私は個人的には考えている。そうやっておいて、家の性質に応じてどれがベストかを選択できるようにしておけばいいのである。
地域によっては温泉が出るところもある。そういう場では、わざわざ石油ストーブや電気ストーブを使う必要はない。アメリカ式の温水暖房方式のお湯源に温泉を使えば良いからである。臨機応変に対処すればいいのである。
しかし、そういう見積もりがガス会社から出されないために、しょうがなく、室内湯沸かし器を使うということなる。もちろん、我が家でも小さなパロマ製のものを使っている。時々不完全燃焼する時もある。幸い、我が家は空気の出入りの良すぎるところで問題はない。
この問題を単に「小型湯沸かし器」の不完全燃焼事故と無視してはならない。なぜなら、この問題は深いところで地球温暖化の問題と直結しているからである。
しかし、日本が高度成長時代になり、アメリカ式生活に憧れた頃、アメリカの室外湯沸かし器の便利さに日本人は憧れた。その頃の日本人の家は「ウサギ小屋」と呼ばれるほど狭く、それゆえ地下室に大型湯沸かし器を設置することも室外に設置することもできなかった。だが、憧れのアメリカ人のように寒い冬も台所でお湯を使いたい。そこで、考え出されたものが、”簡易温水器”、すなわち、室内の「小型湯沸かし器」であった。高度成長とともに、パロマ、リンナイなどの製品は、飛ぶように売れた。まだ、その頃の日本の家はあばら家に近く、換気が良かったから事故も少なかったのかも知れない。その一方で火事は多かったのかも知れないが。
高度成長、そしてバブル全盛期と来て、しだいにアルミサッシや鉄筋コンクリートの建物が増えて来た。それに応じて、密室的な部屋が増えてきたのである。
ところが、どういうわけか、このあたりで、つまり日本人がかなりリッチになり世界中を闊歩する時代に入っても、アメリカの温水熱暖房システムは根付かなかった(もちろん、夏の冷房システムでもアメリカ式の空調システムは根付かなかった)。これはどうしてなのだろうか。
その理由を私は知らない。が、室内に取り付ける簡易温水器がどんな大きなビルのマンションでも使われ続けたのである。そのために、各部屋ごとに冷暖房機の室外機を取り付け、各風呂やキッチンごとに湯沸かし器を取り付ける、という日本型の風景が誕生したのである。そして21世紀に入った現在でもこの状況は日本では変わらない。
しかし、時代は地球温暖化の時代になってしまった。
果たして、アメリカ式の「室外大型お湯沸かし器」方式と日本式の「室内小型お湯沸かし器」方式のどちらが、熱効率が良いのだろうか? あるいは、アメリカ式の「室外大型お湯熱暖房や空調システム」方式と日本式の「室内小型石油ストーブや室外小型冷暖房」方式のいずれが効率がいいのだろうか?
私は、日本政府や日本の関連企業は温暖化対策の一番最初にまずこういった疑問に答えるべきだろうと考えている。
耐震偽装事件で有名になるような大きなマンションでは、アメリカ式のマンション全体の冷熱暖房と日本式の各世帯ごとの冷熱暖房のどちらが石油消費量がより少ないのか、明確にすべきである。あるいは、一軒家でも、各部屋ごとの冷暖房で行うのと、家全体を冷暖房するのとどちらは安上がりか、明確にすべきなのである。
さもなくば、例えば一軒家の場合。家の部屋という部屋に小型冷暖房機が設置され、すべての部屋でいっせいに使うのが良いのか、あるいは最初から家全体をわずかな温水で温水暖房するのが良いのか、分からないからである。
さまざまなケースで詳細な見積もりが必要であると私は個人的には考えている。そうやっておいて、家の性質に応じてどれがベストかを選択できるようにしておけばいいのである。
地域によっては温泉が出るところもある。そういう場では、わざわざ石油ストーブや電気ストーブを使う必要はない。アメリカ式の温水暖房方式のお湯源に温泉を使えば良いからである。臨機応変に対処すればいいのである。
しかし、そういう見積もりがガス会社から出されないために、しょうがなく、室内湯沸かし器を使うということなる。もちろん、我が家でも小さなパロマ製のものを使っている。時々不完全燃焼する時もある。幸い、我が家は空気の出入りの良すぎるところで問題はない。
この問題を単に「小型湯沸かし器」の不完全燃焼事故と無視してはならない。なぜなら、この問題は深いところで地球温暖化の問題と直結しているからである。
2007/02/14のBlog
[ 11:29 ]
[ 社会 ]
写真:宇宙の中の”悪魔の目”。
物理では、”粒子”という描像と”空孔(ホール)”という描像がある。これらは、”地(背景)”と”図(物)”の問題である。
背景に”何もない”と見れば、そこに”ある”ものは点(●)に見える。だから、それを”粒子”と呼ぶ。一方、背景が”何かに満たされている”と見れば、そこに”ない”ものが点(○)に見える。それを”空孔”と呼ぶ。この場合は、そこに”ある”ものは点(●)に見えない。
実は人間の認識とはこんなものである。いつも大多数となる”背景”と少数となる”物”の好対照によって物事を認識しているに過ぎない。
したがって、物事が非常に分かりにくくなるのは、あるいは物事が曖昧に見えるのは、”背景と物”、”地と図”、”入れ物と粒子”の関係が半々となりどっちがどっちと言えない時である。こういう場合には我々の認識は無力となる。
○○○○○○○○○○ ○●○●○●●○●● ●●●●●●●●●●
○○○○○○○○○○ ●○●●○●○●●○ ●●●●●●●●●●
○○○○●○○○○○ ○●○●○●●●●○ ●●●●○●●●●●
○○○○○○○○○○ ●●○●●●○○●● ●●●●●●●●●●
○○○○○○○○○○ ○○●●○●○●○● ●●●●●●●●●●
実は、物理学で扱うような科学的なものに限らず、我々は日々の生活の中でもこれと同じようなことを行っているのである。しかし、普段あまりこれに気付かない。
例えば、古今東西、マスコミはこんな話が大好きだ。
NBA(プロバスケットボール)初の黒人選手、
NFL(プロフットボール)初の黒人監督、
NBA初の日本人選手、
MBA(メジャーリーグ)初の日本人投手、
MBA初の日本人野手、
セリエA初の日本人サッカー選手、
プレミアリーグ初の日本人サッカー選手、
あるいは、
アメリカ初の女性大統領、
ハーバード大学初の女性学長、
日本初の女性大学教授、
あるいは、
元やくざの作家、
元やくざの牧師、
元ヤンキーの先生、
などなど、延々と続く。
こういった見方や感じ方こそ、「地と図の関係」に他ならない。白人選手達の中の唯一の黒人選手、アメリカ人の中の日本人選手、ヨーロッパ人の中の日本人サッカー選手。”大多数者”の中の”少数派”。こういう意味だからである。
既存の世界が”大多数者”を優遇して、”少数派”を”差別”する中では、こういった少数派の人々は英雄であり、よく目立つ存在となる。それゆえ、マスコミの格好の題材となる。また、なりやすい。
しかし、それもありふれてくると、今度はだれも取り上げなくなる。すなわち、白人選手も黒人選手も同程度にいれば、どっちが主でどっちが従か分からなくなるからだ。主従関係があいまいとなるからである。
しかし、私個人は、こういったマスコミの観点はずっと前から何かしら違和感を感じてきた。
というのは、物理や科学では、地と図の関係はそれはそれで分かりやすい比喩となるが、人間社会ではこれはあくまで目に分かりやすいというだけのことで、本来それだけではないからである。
どういうことかと言えば、人間の場合には、確かに大多数者から受ける差別が根強くある世界に少数者として入ることはそれ自体はすばらしいことであるが、そこでその少数者が行っていることが他の大多数者と同じレベルのことを付け加えるだけであれば、それ自体は本当はたいしたことではないからである。あくまで”お仲間入り”しただけだからだ。
例えば、日本初の女性教授といっても、やっていることが他のレベルと同じなら、ある男が別の女に入れ代わったにすぎないからである。実は、大事なことは、女性が入ったことによってそれまでになかった視点や何か別の新しい良い点がその世界にもたらさせるかどうかということである。これが一番の問題なのである。
アメリカのメジャーリーグに日本人選手が行ったとしても、別のアメリカ人から職を奪ってただ入れ代わっただけであったとすれば、それではそれほどの価値はない。むしろ、そのおかげで今までのアメリカにはなかったような目を見張るプレーが生まれる時、本来の価値が生まれるのである。野茂やイチローにはそれがあった。だからすばらしいのである。私はそう考える。
単に既存の大多数に特定の少数派が入れ代わっただけでは、単なる物珍しさに過ぎないが、もし少数派が入れ代わることよってそれまでとは違うレベルのことをもたらすのであれば、社会にとって非常にすばらしいこととなる。
日本ではこの辺もあいまいである。だから、何でもかんでも少数派を含めるべきだというような議論も多い。国会に女性を入れても他の男性国会議員と入れ代わっただけなら、それはその女性個人には良いかも知れないが、たいした差はないのである。議員や知事にタレントやコメディアンが入ったとしてもただ入れ代わっただけではたいした意味はない。
我々科学者とてまったく同じことである。
民間に置き換わったとしても国でやっていたことと同じことを入れ替えてするだけではたいした意味はない。どこかに所属していた科学者がフリーの科学者になり、これまで行っていたことを同じようにするだけでは意味はない。フリーだからこそできるもの、そういった別の視点や貢献が必要なのである。
物理では、”粒子”という描像と”空孔(ホール)”という描像がある。これらは、”地(背景)”と”図(物)”の問題である。
背景に”何もない”と見れば、そこに”ある”ものは点(●)に見える。だから、それを”粒子”と呼ぶ。一方、背景が”何かに満たされている”と見れば、そこに”ない”ものが点(○)に見える。それを”空孔”と呼ぶ。この場合は、そこに”ある”ものは点(●)に見えない。
実は人間の認識とはこんなものである。いつも大多数となる”背景”と少数となる”物”の好対照によって物事を認識しているに過ぎない。
したがって、物事が非常に分かりにくくなるのは、あるいは物事が曖昧に見えるのは、”背景と物”、”地と図”、”入れ物と粒子”の関係が半々となりどっちがどっちと言えない時である。こういう場合には我々の認識は無力となる。
○○○○○○○○○○ ○●○●○●●○●● ●●●●●●●●●●
○○○○○○○○○○ ●○●●○●○●●○ ●●●●●●●●●●
○○○○●○○○○○ ○●○●○●●●●○ ●●●●○●●●●●
○○○○○○○○○○ ●●○●●●○○●● ●●●●●●●●●●
○○○○○○○○○○ ○○●●○●○●○● ●●●●●●●●●●
実は、物理学で扱うような科学的なものに限らず、我々は日々の生活の中でもこれと同じようなことを行っているのである。しかし、普段あまりこれに気付かない。
例えば、古今東西、マスコミはこんな話が大好きだ。
NBA(プロバスケットボール)初の黒人選手、
NFL(プロフットボール)初の黒人監督、
NBA初の日本人選手、
MBA(メジャーリーグ)初の日本人投手、
MBA初の日本人野手、
セリエA初の日本人サッカー選手、
プレミアリーグ初の日本人サッカー選手、
あるいは、
アメリカ初の女性大統領、
ハーバード大学初の女性学長、
日本初の女性大学教授、
あるいは、
元やくざの作家、
元やくざの牧師、
元ヤンキーの先生、
などなど、延々と続く。
こういった見方や感じ方こそ、「地と図の関係」に他ならない。白人選手達の中の唯一の黒人選手、アメリカ人の中の日本人選手、ヨーロッパ人の中の日本人サッカー選手。”大多数者”の中の”少数派”。こういう意味だからである。
既存の世界が”大多数者”を優遇して、”少数派”を”差別”する中では、こういった少数派の人々は英雄であり、よく目立つ存在となる。それゆえ、マスコミの格好の題材となる。また、なりやすい。
しかし、それもありふれてくると、今度はだれも取り上げなくなる。すなわち、白人選手も黒人選手も同程度にいれば、どっちが主でどっちが従か分からなくなるからだ。主従関係があいまいとなるからである。
しかし、私個人は、こういったマスコミの観点はずっと前から何かしら違和感を感じてきた。
というのは、物理や科学では、地と図の関係はそれはそれで分かりやすい比喩となるが、人間社会ではこれはあくまで目に分かりやすいというだけのことで、本来それだけではないからである。
どういうことかと言えば、人間の場合には、確かに大多数者から受ける差別が根強くある世界に少数者として入ることはそれ自体はすばらしいことであるが、そこでその少数者が行っていることが他の大多数者と同じレベルのことを付け加えるだけであれば、それ自体は本当はたいしたことではないからである。あくまで”お仲間入り”しただけだからだ。
例えば、日本初の女性教授といっても、やっていることが他のレベルと同じなら、ある男が別の女に入れ代わったにすぎないからである。実は、大事なことは、女性が入ったことによってそれまでになかった視点や何か別の新しい良い点がその世界にもたらさせるかどうかということである。これが一番の問題なのである。
アメリカのメジャーリーグに日本人選手が行ったとしても、別のアメリカ人から職を奪ってただ入れ代わっただけであったとすれば、それではそれほどの価値はない。むしろ、そのおかげで今までのアメリカにはなかったような目を見張るプレーが生まれる時、本来の価値が生まれるのである。野茂やイチローにはそれがあった。だからすばらしいのである。私はそう考える。
単に既存の大多数に特定の少数派が入れ代わっただけでは、単なる物珍しさに過ぎないが、もし少数派が入れ代わることよってそれまでとは違うレベルのことをもたらすのであれば、社会にとって非常にすばらしいこととなる。
日本ではこの辺もあいまいである。だから、何でもかんでも少数派を含めるべきだというような議論も多い。国会に女性を入れても他の男性国会議員と入れ代わっただけなら、それはその女性個人には良いかも知れないが、たいした差はないのである。議員や知事にタレントやコメディアンが入ったとしてもただ入れ代わっただけではたいした意味はない。
我々科学者とてまったく同じことである。
民間に置き換わったとしても国でやっていたことと同じことを入れ替えてするだけではたいした意味はない。どこかに所属していた科学者がフリーの科学者になり、これまで行っていたことを同じようにするだけでは意味はない。フリーだからこそできるもの、そういった別の視点や貢献が必要なのである。
こういう見方が確立されていないと、また別の意味で困ったことも起こり得る。今度は大多数者の存在があまり注目されなくなるということである。
つまり、人があまりに目新しい少数派ばかりに捕われると、今度は大多数者の中にいる、さらなる先駆者や革新者や革命児を見失いやすくなる。また、少数派というものは、大多数という背景がそこに”きちんと”存在してこそ意味があるのだが、大多数者が内部崩壊してしまえば、そこに加わる少数派の意味すら失いかねない。
だから、”なにげなくそこに存在する”こと自体に意味があるのだが、この”ありふれている”ことの意義や価値がおろそかにされるようになるということである。
”ごく普通のありふれた日本人”が”立派に”そこに存在するからこそ、タレントやコメディアンやスターが存在できるのである。すべての日本人がありふれないものとなれば、もはやすべてがタレント化した国民のようであり、たいした差はなくなるのである。
それゆえ、絵はキャンバスや背景に、図は地や背景に感謝しなくてならない。物は入れ物に感謝すべきである。粒子は空間に感謝しなくてはならない。
なぜなら、地あっての図なのである。国民あっての国会議員なのである。
一流の絵、第一級の作品は、見事な地と図のバランスや構図そして思想がある。適材適所の人事とは、まさしく第一級の絵のようなものでなくてはならない。
しかし、こういう見方のできる人物は少ない。
つまり、人があまりに目新しい少数派ばかりに捕われると、今度は大多数者の中にいる、さらなる先駆者や革新者や革命児を見失いやすくなる。また、少数派というものは、大多数という背景がそこに”きちんと”存在してこそ意味があるのだが、大多数者が内部崩壊してしまえば、そこに加わる少数派の意味すら失いかねない。
だから、”なにげなくそこに存在する”こと自体に意味があるのだが、この”ありふれている”ことの意義や価値がおろそかにされるようになるということである。
”ごく普通のありふれた日本人”が”立派に”そこに存在するからこそ、タレントやコメディアンやスターが存在できるのである。すべての日本人がありふれないものとなれば、もはやすべてがタレント化した国民のようであり、たいした差はなくなるのである。
それゆえ、絵はキャンバスや背景に、図は地や背景に感謝しなくてならない。物は入れ物に感謝すべきである。粒子は空間に感謝しなくてはならない。
なぜなら、地あっての図なのである。国民あっての国会議員なのである。
一流の絵、第一級の作品は、見事な地と図のバランスや構図そして思想がある。適材適所の人事とは、まさしく第一級の絵のようなものでなくてはならない。
しかし、こういう見方のできる人物は少ない。
2007/02/12のBlog
[ 17:16 ]
[ 大学・大学院 ]
若い研究者は世間知らず? 文科省の意識調査
いやはや、最近つくづく思うのは、日本人というのは、どうも「大学だけ”特別扱い”するという傾向がある」ということである。まあ、それも、まだ国民の大半は大学院はおろか大学卒業していない国であるから仕方ないと言えばそれまでだが、あまりにもひどいように見える。
学校の”いじめ”問題にしても、議論の大半は小中高が基本である。しかし、問題の”根っこ”はそういう学校に人材を送り込んでいる大学の方にあるのだが、どうもその辺があやふやとなる。まるで大学だけは一種の”聖域”であるかのごとくである。なかなか大学批判に鉾先が向かず、大学で教えも請うてない先生たちにばかり非難が向かうという御時世である。
それゆえ、大学の先生達は、スポイルされてしまったせいか、大学人のレベル低下は留まるところを知らず、論文ねつ造、論文盗用などお構い無しというところまでやってきたというわけである。すでに”自浄作用”は機能せず、である。
ましてや最近では、「科学技術基本法」のおかげで逆に大学の先生たちに”権力と金と地位”の3拍子が揃ったものだから、その勢いは留まるところを知らない。バラエティー番組やらNHKの番組やら、そこら中に大学の先生が跋扈する時代となった。また、世界中の国際学会や会議には日本人学者が顔を見せる。そして、適当に参加し、適当に物見遊山して帰ってくるという時代なのである。おまけに、学生もお供できる程にリッチである。
それも、もし日本国の借金財政がないのであれば、すばらしいことなのかも知れないが、一向に日本の借金は減るどころか国債だけでは飽き足らずに税金税金税金と自分達の起こしたツケを国民に付け回すばかりである。
まあ、こんな時代だから、大学卒あるいは大学に職を持つ人種の”論法”ももはや自由気侭となる。「公私混同」は当たり前、「商用とアカデミック使用の区別」も付かず、何でもかんでも”味噌糞論法”となる。
勤務中や学校所属時間内に2chに書き込んで遊ぶわ、論文盗用議論もアカデミックな研究使用とコマーシャリズムな商用使用の区別も付かないわ、大学の研究と称して個人が儲けることを目論んだ研究が行われるという始末であるから始末におえない。
ましてや、大学の外からの批判や非難はすべて”ジェラシー(嫉妬)”のせいだと来る。人の動力学の根源は”嫉妬”なのだと考える。さらには、”何人も国家公務員によって被害を受けるべからず”の憲法条文も忘れて、しゃにむに一部の国民を大学サーバーを通じて批判するものまで出る。何も知らない新聞記者までそれに乗せられる有り様である。こうした風潮が”言葉狩り”や”言葉いじめ”を生み出すのであろう。これも日本のペーパー試験の暗記教育の弊害なのである。彼等もまたその犠牲者なのである。
それと比べるとインドは好い。
日本が「学力低下」と声だかに叫び、さらなる「暗記学問」を目指すなら、インドは「頭脳国家建設」と声だかに叫び、さらなる「思考学問」を目指す。同じく受験国家だが、日本が大学入試問題を暗記させ早さを競うなら、インドは大学入試問題を筆記試験にして徹底的に考えさせる。日本の大学が日本一を目指すなら、インドの大学は世界一を目指す。英語の苦手な日本人に対してインド人は英語が大得意。TOEFLでも最高点はインド人で最低点が日本人。世界が英米支配の情勢にかわったわけだから、英語文化圏が有利なのはしかたがないが、日本語商売では、日本通という一種の変わり種相手の商売しかできないが、英語商売では、欧米から世界全体で商売できる。しかも日本人は数学が大嫌いだが、インド人は数学が大好き。IT文明は数学が不可欠。日本人はITを使いたいと思うが、インド人はITを開発したいと思う。
いつの間にか、インドと日本は正反対の方向性を持つ国とかわったようである。
かつて聖人ガンジーはこの日本の近代文明化を範とした。それをネルー大統領が継承し、その伝統の上に今がある。しかし、日本はそれを忘れ果てた。今や明治維新すら知らない国民と化した。
もうすぐまた三蔵法師の時代に舞い戻るのかも知れないナ。
いやはや、最近つくづく思うのは、日本人というのは、どうも「大学だけ”特別扱い”するという傾向がある」ということである。まあ、それも、まだ国民の大半は大学院はおろか大学卒業していない国であるから仕方ないと言えばそれまでだが、あまりにもひどいように見える。
学校の”いじめ”問題にしても、議論の大半は小中高が基本である。しかし、問題の”根っこ”はそういう学校に人材を送り込んでいる大学の方にあるのだが、どうもその辺があやふやとなる。まるで大学だけは一種の”聖域”であるかのごとくである。なかなか大学批判に鉾先が向かず、大学で教えも請うてない先生たちにばかり非難が向かうという御時世である。
それゆえ、大学の先生達は、スポイルされてしまったせいか、大学人のレベル低下は留まるところを知らず、論文ねつ造、論文盗用などお構い無しというところまでやってきたというわけである。すでに”自浄作用”は機能せず、である。
ましてや最近では、「科学技術基本法」のおかげで逆に大学の先生たちに”権力と金と地位”の3拍子が揃ったものだから、その勢いは留まるところを知らない。バラエティー番組やらNHKの番組やら、そこら中に大学の先生が跋扈する時代となった。また、世界中の国際学会や会議には日本人学者が顔を見せる。そして、適当に参加し、適当に物見遊山して帰ってくるという時代なのである。おまけに、学生もお供できる程にリッチである。
それも、もし日本国の借金財政がないのであれば、すばらしいことなのかも知れないが、一向に日本の借金は減るどころか国債だけでは飽き足らずに税金税金税金と自分達の起こしたツケを国民に付け回すばかりである。
まあ、こんな時代だから、大学卒あるいは大学に職を持つ人種の”論法”ももはや自由気侭となる。「公私混同」は当たり前、「商用とアカデミック使用の区別」も付かず、何でもかんでも”味噌糞論法”となる。
勤務中や学校所属時間内に2chに書き込んで遊ぶわ、論文盗用議論もアカデミックな研究使用とコマーシャリズムな商用使用の区別も付かないわ、大学の研究と称して個人が儲けることを目論んだ研究が行われるという始末であるから始末におえない。
ましてや、大学の外からの批判や非難はすべて”ジェラシー(嫉妬)”のせいだと来る。人の動力学の根源は”嫉妬”なのだと考える。さらには、”何人も国家公務員によって被害を受けるべからず”の憲法条文も忘れて、しゃにむに一部の国民を大学サーバーを通じて批判するものまで出る。何も知らない新聞記者までそれに乗せられる有り様である。こうした風潮が”言葉狩り”や”言葉いじめ”を生み出すのであろう。これも日本のペーパー試験の暗記教育の弊害なのである。彼等もまたその犠牲者なのである。
それと比べるとインドは好い。
日本が「学力低下」と声だかに叫び、さらなる「暗記学問」を目指すなら、インドは「頭脳国家建設」と声だかに叫び、さらなる「思考学問」を目指す。同じく受験国家だが、日本が大学入試問題を暗記させ早さを競うなら、インドは大学入試問題を筆記試験にして徹底的に考えさせる。日本の大学が日本一を目指すなら、インドの大学は世界一を目指す。英語の苦手な日本人に対してインド人は英語が大得意。TOEFLでも最高点はインド人で最低点が日本人。世界が英米支配の情勢にかわったわけだから、英語文化圏が有利なのはしかたがないが、日本語商売では、日本通という一種の変わり種相手の商売しかできないが、英語商売では、欧米から世界全体で商売できる。しかも日本人は数学が大嫌いだが、インド人は数学が大好き。IT文明は数学が不可欠。日本人はITを使いたいと思うが、インド人はITを開発したいと思う。
いつの間にか、インドと日本は正反対の方向性を持つ国とかわったようである。
かつて聖人ガンジーはこの日本の近代文明化を範とした。それをネルー大統領が継承し、その伝統の上に今がある。しかし、日本はそれを忘れ果てた。今や明治維新すら知らない国民と化した。
もうすぐまた三蔵法師の時代に舞い戻るのかも知れないナ。
[ 14:54 ]
[ 社会 ]
NHKスペシャル「インドの衝撃」第1回 わき上がる頭脳パワー
太古の”ゼロ”の発見からインド数字(俗にいうアラビア数字)の発明、そして現代になってから、謎の天才数学者ラマヌジャン、ブラックホールの予言者天才天文学者でノーベル賞受賞者のチャンドラセカール、スケール変換理論のラマクリシュナン、天才物性理論物理学者シャストリーに至まで、現代社会はインド人学者の強力な影響下にある。
私が21年前の1986年秋にスーツケース1つを持ってユタ大学に初めて到着した時、私が最初に話したのが、真っ黒だが目が大きく端正な顔だちのインド人。アショーク君というインドからの留学生だった。他にも日本人の数十倍のインド人留学生がいた。(もちろん、同じくらいに中国本土からの中国人もいたが。)
こんな世界の潮流を特集したのがこの特集である。(ちなみに、今夜と明日の深夜に第2回、第3回が放送予定。)
昨夜の放送は再放送だったが、偶然私はこれを見ることができた。正直、これはタイトル以上に”衝撃”的であった。
11億の人口のうち、5億の若者がいる。大学進学率がたった7%だったとしても、3500万人の大学新入生が生まれる。日本の35倍の学生人口である。
この中でトップの大学が、
「IITに落ちたらアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)に行く」
という「インド工科大学(IIT)」である。そして先生たちはすべて欧米で博士号をとった天才的教授陣。
そういえば、私の恩師ビル・サザーランド博士の弟子であるシュリラム・シャストリー博士もある時期からアメリカ東海岸の名門プリンストン大学教授を捨てインドに戻った。私はずっとその理由を知らなかったのだが、今回のこの特集で初めてそのわけが理解できた。インドには健全で輝かしい未来がそこにあるからである。
それと比べれば、日本はひどい。同じくサザーランドの弟子である私の活躍する場はない。まあ、これが現実だ。だから、それを作るべく自分で切り開いているわけだ(まあ、未だにどこからも私にオファーは来ないが)。
しかし、インドは首相自らが「頭脳国家」を目指すと宣言済み。世界に散った有名インド人教授たちが集う。
かつてバックミンスター・フラーが言ったように、「すべてはメタフィジカルなものがフィジカルなものを超越するようになる」。これこそ、すべてはアイデアや知恵、すなわちソフトにより構築できるようになるという予言であった。IT時代となり、それが実現可能な時代に入ったわけである。
かつて8年程前に私は「ミレニアムに思う:21世紀は数学の時代?」というエッセイを出していたが(参考のために、下に再掲した)、この最後に私はこう”予言”していた。
”現在社会に「英語」のない世界はすでに考えられないように,同様に,「21世紀には数学のない世界は考えられなくなるのではないか?」と私は想像しています.”
NHKスペシャル「インドの衝撃」は、まさに私のこの”予言”がまったく正しかったということを証明してくれたようである。
ところで、今回はインドの衝撃であったが、実は全く同じことが中国でも起きているのである。これを忘れてはならない。21年前に私がアメリカ留学した時、インド人と同じことをすでに中国人も行っていたからである。
あれから21年が経った。
議論するまでもなく、すでに勝敗は決まり、勝負はついている。したがって、”将来はすでに決まっている”。アジアは、日本の頭上を超え、アメリカと中国とインドで時代は進むのである。
眠れる獅子の中国、眠れる頭脳の国インドがついに目をさましたということである。
太古の”ゼロ”の発見からインド数字(俗にいうアラビア数字)の発明、そして現代になってから、謎の天才数学者ラマヌジャン、ブラックホールの予言者天才天文学者でノーベル賞受賞者のチャンドラセカール、スケール変換理論のラマクリシュナン、天才物性理論物理学者シャストリーに至まで、現代社会はインド人学者の強力な影響下にある。
私が21年前の1986年秋にスーツケース1つを持ってユタ大学に初めて到着した時、私が最初に話したのが、真っ黒だが目が大きく端正な顔だちのインド人。アショーク君というインドからの留学生だった。他にも日本人の数十倍のインド人留学生がいた。(もちろん、同じくらいに中国本土からの中国人もいたが。)
こんな世界の潮流を特集したのがこの特集である。(ちなみに、今夜と明日の深夜に第2回、第3回が放送予定。)
昨夜の放送は再放送だったが、偶然私はこれを見ることができた。正直、これはタイトル以上に”衝撃”的であった。
11億の人口のうち、5億の若者がいる。大学進学率がたった7%だったとしても、3500万人の大学新入生が生まれる。日本の35倍の学生人口である。
この中でトップの大学が、
「IITに落ちたらアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)に行く」
という「インド工科大学(IIT)」である。そして先生たちはすべて欧米で博士号をとった天才的教授陣。
そういえば、私の恩師ビル・サザーランド博士の弟子であるシュリラム・シャストリー博士もある時期からアメリカ東海岸の名門プリンストン大学教授を捨てインドに戻った。私はずっとその理由を知らなかったのだが、今回のこの特集で初めてそのわけが理解できた。インドには健全で輝かしい未来がそこにあるからである。
それと比べれば、日本はひどい。同じくサザーランドの弟子である私の活躍する場はない。まあ、これが現実だ。だから、それを作るべく自分で切り開いているわけだ(まあ、未だにどこからも私にオファーは来ないが)。
しかし、インドは首相自らが「頭脳国家」を目指すと宣言済み。世界に散った有名インド人教授たちが集う。
かつてバックミンスター・フラーが言ったように、「すべてはメタフィジカルなものがフィジカルなものを超越するようになる」。これこそ、すべてはアイデアや知恵、すなわちソフトにより構築できるようになるという予言であった。IT時代となり、それが実現可能な時代に入ったわけである。
かつて8年程前に私は「ミレニアムに思う:21世紀は数学の時代?」というエッセイを出していたが(参考のために、下に再掲した)、この最後に私はこう”予言”していた。
”現在社会に「英語」のない世界はすでに考えられないように,同様に,「21世紀には数学のない世界は考えられなくなるのではないか?」と私は想像しています.”
NHKスペシャル「インドの衝撃」は、まさに私のこの”予言”がまったく正しかったということを証明してくれたようである。
ところで、今回はインドの衝撃であったが、実は全く同じことが中国でも起きているのである。これを忘れてはならない。21年前に私がアメリカ留学した時、インド人と同じことをすでに中国人も行っていたからである。
あれから21年が経った。
議論するまでもなく、すでに勝敗は決まり、勝負はついている。したがって、”将来はすでに決まっている”。アジアは、日本の頭上を超え、アメリカと中国とインドで時代は進むのである。
眠れる獅子の中国、眠れる頭脳の国インドがついに目をさましたということである。
[ 14:38 ]
[ 昔のエッセイ ]
以下は8年前に私が書いたエッセイである。
------------
【ミレニアムに思う:21世紀は数学の時代?】
もうすぐ2000年になりますが,21世紀には科学はどのようになるでしょうか?日経サイエンスなどでも「21世紀の科学」を予想しています.私は非常に個人的見解ですが,以下のように考えています.「21世紀は数学の時代になる」のではないか?そして,この理由は以下のようなものがあるだろうと予想しています.
1)「数学⇒科学」の方向
20世紀には数学は,いわゆる「現代数学」と我々が呼ぶ形で発展しました.このほとんどは「抽象数学」と呼ばれているものです.そして,それらのほんの一部だけが理論物理学などの「現代物理学」で使われてきました.例えば,「超ひも理論」などの分野で使われ,大きな成功をおさめました.しかし,通常は,理論物理学で使われているものは,いわゆる「物理数学」と我々が呼んでいるもので,そのほとんどは19世紀までに完成されたものです.ですから,「現代数学」のほとんどは未だ「科学」では使われていないような新規な数学があります.ほとんどは,何の役に立つのか解らない代物です.
私はこういった「20世紀に開拓された数学を自然科学などに応用する方向の科学」がますます重要になるだろうと予想しています.これらを「数理科学」と呼ぶことができるでしょう.つまり,「数学⇒科学」です.これは「超ひも理論」などにおいてすでにずっと行われて来ていると考えることも出来ます.したがって,この方向は必ず,21世紀で実現される方向と言えるでしょう.
2)「科学⇒数学」の方向
もう一つは,今度は逆にさまざまな「科学から新しく現れた数学」が数学に直接影響を与えるだろう方向があります.これらには以下のようなものがあります.
あ)量子計算,量子チューリング機械,量子コンピュータ
これはコンピュータ計算の基本概念である「チューリング機械」の原理(計算の原理)を,物理学の「量子力学の原理」にしたがって「計算」を行うものです.したがって,「量子チューリング機械」という考え方を必要とします.これは,最初に例のリチャード・ファインマン博士によって予想されたものです.この方向は,「フーリエ解析」や「波動方程式」などが19世紀に自然科学の中から発展し,「物理数学」と呼ばれるようになったことに似て,本来の意味で「物理数学」と呼ぶべきものの一つでしょう.
い)DNA計算やDNAコンピュータ
これは生物の「DNA言語」における「遺伝子複製」メカニズムを使って,DNAレベルでプログラムを作り,自然科学の問題を「試験管」の中で行うという画期的なアイデアです.これは,エイデルマン博士によって考案されたものです.すでに一部の数学者はこれを「生物数学」と呼んでいます.(今年号にこの解説が日経サイエンスに載っていました.)
う)さまざまなコンピュータ
同様の事は,さらにさまざまな自然科学の分野を使って行うことができるでしょう.例えば,インターネットを使ってできるかも知れません.この一部は,すでにLinuxなどを使ってパソコンの何百台ものネットワークを使って行う人々がいます.この分野は「ネットワークの数学」と呼ぶべきものを生み出すかも知れません.
3)経済学や芸術の人文社会分野の方向
上で述べたように,現在コンピュータを使って行われるさまざまな芸術を見ても解るように,今や「映画」などの芸術においてもコンピュータグラフィクス,ヴァーチャルリアリティーなど,さまざまなコンピュータテクノロジーが使われています.例えば,「スタウォーズ エピソード1」,「バグズライフ」などを見てももはや今までのアニメーションを超えた技術が使われています.映像もますますリアルになって来ています.
さらには,経済学の分野などでも,理論物理学の知識が使われています.この分野では,すでに「統計力学」や「フラクラル」,「カオス」理論などはもはや切り離せない状況です.
以上に見たように,現代の様々な分野でコンピュータが中心になって来ています.そして,そこではさまざまな数学が使われて来ています.この流れの中では,物理学などはすでに細分化された応用分野の一つに過ぎず,その重要性の比重は,そこで使われて来ている「数学」の方に移って来ていると言えるのではいでしょうか?この意味では,いわゆる「物理学帝国主義」はもはや昔の物であると言えるのではないでしょうか?
では,これからは「数学帝国主義」の時代になるのでしょうか?私はそうではないと思います.現在,英語が国際語機能を果たしていますが,世の中が「大英帝国」に支配されているわけではありません.イギリスにその力はもはやありません.私はこれからの数学の状況もこれに非常に似てくるだろうと想像しています.つまり,「数学が自然科学,あるいは人類の共通知識として,世界共通語の役割を果たす」だろうと.それぞれの,数学者はすでに細分化され,すべての数学をものにし,あらゆる分野を支配できる程の大数学者はもはやこの世には存在しません.だれも数学全体を鳥瞰することはできません.しかし,数学語が解らないと多くの分野で時代遅れになってしまうような状況に陥るのではないでしょうか?その意味で,数学の教育は特別の意味を持っていると私は考えています.
いろいろな場で数学教育は理科教育の一つとして重要であるという意見がありますが,私はそれ以上に「数学は本質的なものである」と考えています.「21世紀の理科教育,高等教育は数学教育なくしては恐らく実現しない」でしょう.現在社会に「英語」のない世界はすでに考えられないように,同様に,「21世紀には数学のない世界は考えられなくなるのではないか?」と私は想像しています.
若い皆さん,ぜひ数学を勉強して下さい.
(1999年12月12日/2000年6月8日)
------------
【ミレニアムに思う:21世紀は数学の時代?】
もうすぐ2000年になりますが,21世紀には科学はどのようになるでしょうか?日経サイエンスなどでも「21世紀の科学」を予想しています.私は非常に個人的見解ですが,以下のように考えています.「21世紀は数学の時代になる」のではないか?そして,この理由は以下のようなものがあるだろうと予想しています.
1)「数学⇒科学」の方向
20世紀には数学は,いわゆる「現代数学」と我々が呼ぶ形で発展しました.このほとんどは「抽象数学」と呼ばれているものです.そして,それらのほんの一部だけが理論物理学などの「現代物理学」で使われてきました.例えば,「超ひも理論」などの分野で使われ,大きな成功をおさめました.しかし,通常は,理論物理学で使われているものは,いわゆる「物理数学」と我々が呼んでいるもので,そのほとんどは19世紀までに完成されたものです.ですから,「現代数学」のほとんどは未だ「科学」では使われていないような新規な数学があります.ほとんどは,何の役に立つのか解らない代物です.
私はこういった「20世紀に開拓された数学を自然科学などに応用する方向の科学」がますます重要になるだろうと予想しています.これらを「数理科学」と呼ぶことができるでしょう.つまり,「数学⇒科学」です.これは「超ひも理論」などにおいてすでにずっと行われて来ていると考えることも出来ます.したがって,この方向は必ず,21世紀で実現される方向と言えるでしょう.
2)「科学⇒数学」の方向
もう一つは,今度は逆にさまざまな「科学から新しく現れた数学」が数学に直接影響を与えるだろう方向があります.これらには以下のようなものがあります.
あ)量子計算,量子チューリング機械,量子コンピュータ
これはコンピュータ計算の基本概念である「チューリング機械」の原理(計算の原理)を,物理学の「量子力学の原理」にしたがって「計算」を行うものです.したがって,「量子チューリング機械」という考え方を必要とします.これは,最初に例のリチャード・ファインマン博士によって予想されたものです.この方向は,「フーリエ解析」や「波動方程式」などが19世紀に自然科学の中から発展し,「物理数学」と呼ばれるようになったことに似て,本来の意味で「物理数学」と呼ぶべきものの一つでしょう.
い)DNA計算やDNAコンピュータ
これは生物の「DNA言語」における「遺伝子複製」メカニズムを使って,DNAレベルでプログラムを作り,自然科学の問題を「試験管」の中で行うという画期的なアイデアです.これは,エイデルマン博士によって考案されたものです.すでに一部の数学者はこれを「生物数学」と呼んでいます.(今年号にこの解説が日経サイエンスに載っていました.)
う)さまざまなコンピュータ
同様の事は,さらにさまざまな自然科学の分野を使って行うことができるでしょう.例えば,インターネットを使ってできるかも知れません.この一部は,すでにLinuxなどを使ってパソコンの何百台ものネットワークを使って行う人々がいます.この分野は「ネットワークの数学」と呼ぶべきものを生み出すかも知れません.
3)経済学や芸術の人文社会分野の方向
上で述べたように,現在コンピュータを使って行われるさまざまな芸術を見ても解るように,今や「映画」などの芸術においてもコンピュータグラフィクス,ヴァーチャルリアリティーなど,さまざまなコンピュータテクノロジーが使われています.例えば,「スタウォーズ エピソード1」,「バグズライフ」などを見てももはや今までのアニメーションを超えた技術が使われています.映像もますますリアルになって来ています.
さらには,経済学の分野などでも,理論物理学の知識が使われています.この分野では,すでに「統計力学」や「フラクラル」,「カオス」理論などはもはや切り離せない状況です.
以上に見たように,現代の様々な分野でコンピュータが中心になって来ています.そして,そこではさまざまな数学が使われて来ています.この流れの中では,物理学などはすでに細分化された応用分野の一つに過ぎず,その重要性の比重は,そこで使われて来ている「数学」の方に移って来ていると言えるのではいでしょうか?この意味では,いわゆる「物理学帝国主義」はもはや昔の物であると言えるのではないでしょうか?
では,これからは「数学帝国主義」の時代になるのでしょうか?私はそうではないと思います.現在,英語が国際語機能を果たしていますが,世の中が「大英帝国」に支配されているわけではありません.イギリスにその力はもはやありません.私はこれからの数学の状況もこれに非常に似てくるだろうと想像しています.つまり,「数学が自然科学,あるいは人類の共通知識として,世界共通語の役割を果たす」だろうと.それぞれの,数学者はすでに細分化され,すべての数学をものにし,あらゆる分野を支配できる程の大数学者はもはやこの世には存在しません.だれも数学全体を鳥瞰することはできません.しかし,数学語が解らないと多くの分野で時代遅れになってしまうような状況に陥るのではないでしょうか?その意味で,数学の教育は特別の意味を持っていると私は考えています.
いろいろな場で数学教育は理科教育の一つとして重要であるという意見がありますが,私はそれ以上に「数学は本質的なものである」と考えています.「21世紀の理科教育,高等教育は数学教育なくしては恐らく実現しない」でしょう.現在社会に「英語」のない世界はすでに考えられないように,同様に,「21世紀には数学のない世界は考えられなくなるのではないか?」と私は想像しています.
若い皆さん,ぜひ数学を勉強して下さい.
(1999年12月12日/2000年6月8日)
2007/02/11のBlog
[ 15:08 ]
[ ジョーク ]
日本のとある大学教授が夢を見た。その夢の中で、昔の自分、つまり大学院生だったころの自分と再会した。
大学院生が聞く。
「僕は学会発表するのに参加費も旅費もない。だから塾でアルバイトしてお金をためる。まだ発表すれば旅費くらいは教授が出してくれるとは思うが。教授の時代はどうなんでしょうか?」
大学教授が答える。
「20年後の今は違うんだよ。20年前には僕も想像もしていなかったんだが、今では研究室の1人1人に旅費が出る。」
「へー、そうなんだ。じゃ、パソコンは? 僕の研究室では、部屋に1台しかない。それを交代交代で使わせてもらう。」
と大学院生が聞く。
「今はねー、1人1人にパソコンがある。中には何台も持っている者もいる。全部公費で買えるんだよ。それも20年前の大学の大形コンピュータ並みの性能を持っているものなんだ。」
と大学教授が答える。
「それは凄い時代ですね。僕もそんな時代に生まれたかった。」
「じゃー、研究室はどんな感じですか?」
と大学院生。
「研究室も今では昔の大企業並みだ。ちゃんと1人1人に個室とまではいかないが、それなりのコンパートメントに分かれた机が与えられるのさ。」
と教授が答える。
「講座はどうなんですか?20年後も講座制はあるんですか?」
と大学院生は聞く。
「うん、それはいっしょだよ。今も基本的には講座制だ。しかし、中には大講座制になったところもある。しかし、昔は助手、講師、助教授、教授だったが、今は助教、講師、准教授、教授と変わったんだよ。大きな違いは、昔と違って、他の大学や研究所と併任しやすくなったところかな。」
と大学教授が答える。
「いろんなところから給料がもらえるんですか?」
と大学院生が聞く。
「そりゃーそうさ。特許も昔よりはるかに楽になったよ。国研や大学職員や学生は実質上国から援助を受けてただなんだよ。僕も今では21ほど特許を持っている。審査もほとんど免除なんだ。建物だって変わったさ。全部新築だよ。」
と大学教授が答える。
「うわー、それはうらやましいですね。僕の時代では特許とるにも何十万円もお金がかかるから諦めましたよ。建物も古くて3Kの典型だったですね。」
と大学院生。
「今は毎年世界中の国際学会や国際会議に参加できるんだよ。先週はパリ、今週末からニューヨーク。先月には中国、シンガポールと忙しかったね。年がら年中こんな感じさ。」
と大学教授が続ける。
「へー、そ、そんなに。そんなに世界中に旅できるんですか。すごい。じゃー、研究はいつやるんですか?」
と素朴な疑問を大学院生がぶつける。
「君には分からないだろうな。今はポスドクという専属の博士号もった研究員がいて、彼等に任せるんだよ。我々教授は彼等の邪魔をせず、能力を引き延ばしてやればいいのさ。だから、こうしろ、ああしろと方向性だけ指定して後はただ待っていればいいんだよ。」
と大学教授が答える。
「そうですか?それじゃ、まるで今のバブル真っ盛りの実業界のようですね。みんな会社の人は僕達大学院生をバカにして、早く社会に出てこいよ、社会人になれば世界中を旅行できるぞと言っています。僕はいつかバブルが弾けると思って心配でならないのです。だから僕は大学に残るつもりです。」
と大学院生。
「君の判断は正しかったんだよ。あのまま大学を出て社会に出ていれば大変なことになったんだよ。あの時バブルで浮かれていた連中は全部リストラで失業者さ。もう僕と同世代の大半は企業からリストラされて今や研究どころの騒ぎではない。」
と大学教授が言う。
「なるほど、僕はずっと大学に居続ける方が良いということですね?」
大学院生と大学教授が話していると向こうからだれかみすぼらしい格好の老人がやってきた。
「やあ、お二人さん。やっと会えたね。大学院生と大学教授が話していると神様に聞いて天国からやって来たんじゃよ。」
「私は大学教授の20年後の姿、大学院生の40年後の姿なのじゃよ。」
とホームレス風の老人が言った。
二人は絶句して聞いた。
「いったいどうしたんですか?」
「なーに、これもすべて少子高齢化のせいじゃ。ついに大学バブルが弾けたのじゃ。」
と老人が答えた時、あまりの恐ろしさに大学教授はぱっと目が覚めた。体は汗でびっしょりだった。
「夢で良かった。」
大学院生が聞く。
「僕は学会発表するのに参加費も旅費もない。だから塾でアルバイトしてお金をためる。まだ発表すれば旅費くらいは教授が出してくれるとは思うが。教授の時代はどうなんでしょうか?」
大学教授が答える。
「20年後の今は違うんだよ。20年前には僕も想像もしていなかったんだが、今では研究室の1人1人に旅費が出る。」
「へー、そうなんだ。じゃ、パソコンは? 僕の研究室では、部屋に1台しかない。それを交代交代で使わせてもらう。」
と大学院生が聞く。
「今はねー、1人1人にパソコンがある。中には何台も持っている者もいる。全部公費で買えるんだよ。それも20年前の大学の大形コンピュータ並みの性能を持っているものなんだ。」
と大学教授が答える。
「それは凄い時代ですね。僕もそんな時代に生まれたかった。」
「じゃー、研究室はどんな感じですか?」
と大学院生。
「研究室も今では昔の大企業並みだ。ちゃんと1人1人に個室とまではいかないが、それなりのコンパートメントに分かれた机が与えられるのさ。」
と教授が答える。
「講座はどうなんですか?20年後も講座制はあるんですか?」
と大学院生は聞く。
「うん、それはいっしょだよ。今も基本的には講座制だ。しかし、中には大講座制になったところもある。しかし、昔は助手、講師、助教授、教授だったが、今は助教、講師、准教授、教授と変わったんだよ。大きな違いは、昔と違って、他の大学や研究所と併任しやすくなったところかな。」
と大学教授が答える。
「いろんなところから給料がもらえるんですか?」
と大学院生が聞く。
「そりゃーそうさ。特許も昔よりはるかに楽になったよ。国研や大学職員や学生は実質上国から援助を受けてただなんだよ。僕も今では21ほど特許を持っている。審査もほとんど免除なんだ。建物だって変わったさ。全部新築だよ。」
と大学教授が答える。
「うわー、それはうらやましいですね。僕の時代では特許とるにも何十万円もお金がかかるから諦めましたよ。建物も古くて3Kの典型だったですね。」
と大学院生。
「今は毎年世界中の国際学会や国際会議に参加できるんだよ。先週はパリ、今週末からニューヨーク。先月には中国、シンガポールと忙しかったね。年がら年中こんな感じさ。」
と大学教授が続ける。
「へー、そ、そんなに。そんなに世界中に旅できるんですか。すごい。じゃー、研究はいつやるんですか?」
と素朴な疑問を大学院生がぶつける。
「君には分からないだろうな。今はポスドクという専属の博士号もった研究員がいて、彼等に任せるんだよ。我々教授は彼等の邪魔をせず、能力を引き延ばしてやればいいのさ。だから、こうしろ、ああしろと方向性だけ指定して後はただ待っていればいいんだよ。」
と大学教授が答える。
「そうですか?それじゃ、まるで今のバブル真っ盛りの実業界のようですね。みんな会社の人は僕達大学院生をバカにして、早く社会に出てこいよ、社会人になれば世界中を旅行できるぞと言っています。僕はいつかバブルが弾けると思って心配でならないのです。だから僕は大学に残るつもりです。」
と大学院生。
「君の判断は正しかったんだよ。あのまま大学を出て社会に出ていれば大変なことになったんだよ。あの時バブルで浮かれていた連中は全部リストラで失業者さ。もう僕と同世代の大半は企業からリストラされて今や研究どころの騒ぎではない。」
と大学教授が言う。
「なるほど、僕はずっと大学に居続ける方が良いということですね?」
大学院生と大学教授が話していると向こうからだれかみすぼらしい格好の老人がやってきた。
「やあ、お二人さん。やっと会えたね。大学院生と大学教授が話していると神様に聞いて天国からやって来たんじゃよ。」
「私は大学教授の20年後の姿、大学院生の40年後の姿なのじゃよ。」
とホームレス風の老人が言った。
二人は絶句して聞いた。
「いったいどうしたんですか?」
「なーに、これもすべて少子高齢化のせいじゃ。ついに大学バブルが弾けたのじゃ。」
と老人が答えた時、あまりの恐ろしさに大学教授はぱっと目が覚めた。体は汗でびっしょりだった。
「夢で良かった。」
[ 14:04 ]
[ 社会 ]
普通の若者が携帯小説 ベストセラーも続々
もしこれが”本当”なら実に面白い。
”ごく普通の若者”たちが携帯電話で書いた小説がベストセラーになり、出版業会も大慌て、というお話である。
しかし、この業界は、すでに人気掲示板を使った「電車男」で「バイラルマーケティング」(サクラ商法)疑惑が付きまとう。それゆえ、ゴーストライターの影や”プロジェクト”の陰謀がつきまとう。
小泉純一郎元首相の”人気”には「電通マン」の計算し尽くされた戦略があったと言われている。またその「電通マン」のひな形はアメリカブッシュ政権の広報官の戦略があったとも言われている。
要するに、今の国民の性格分析や年令構成などを正確に分析してしかるべき映像を流すというものである。日本では、すでに実質上は中高年が支配層であるから中高年に合わせた分かりやすい言葉で同じ主張を繰り返す。すると、中高年はあたかもそれを前から自分がずっと考えていたかのように思い込むというのである。
このように人は”心理学的手法”の前には実に弱い。「あるある大事典」でもそれが明かとなった。まあ、その昔のヒットラーもこれを使っていたわけである。
やはり、過剰な人気の背後には”何かある”と考えた方が自然なのだろうと私は理解している。それゆえ、これも出版業会の1つの新手の戦略なのではないだろうか。
出版業会恐るべし。
もしこれが”本当”なら実に面白い。
”ごく普通の若者”たちが携帯電話で書いた小説がベストセラーになり、出版業会も大慌て、というお話である。
しかし、この業界は、すでに人気掲示板を使った「電車男」で「バイラルマーケティング」(サクラ商法)疑惑が付きまとう。それゆえ、ゴーストライターの影や”プロジェクト”の陰謀がつきまとう。
小泉純一郎元首相の”人気”には「電通マン」の計算し尽くされた戦略があったと言われている。またその「電通マン」のひな形はアメリカブッシュ政権の広報官の戦略があったとも言われている。
要するに、今の国民の性格分析や年令構成などを正確に分析してしかるべき映像を流すというものである。日本では、すでに実質上は中高年が支配層であるから中高年に合わせた分かりやすい言葉で同じ主張を繰り返す。すると、中高年はあたかもそれを前から自分がずっと考えていたかのように思い込むというのである。
このように人は”心理学的手法”の前には実に弱い。「あるある大事典」でもそれが明かとなった。まあ、その昔のヒットラーもこれを使っていたわけである。
やはり、過剰な人気の背後には”何かある”と考えた方が自然なのだろうと私は理解している。それゆえ、これも出版業会の1つの新手の戦略なのではないだろうか。
出版業会恐るべし。
[ 11:25 ]
[ ジョーク ]
笑いは百薬之長。以下はジョーク。笑い飛ばすことが肝心。
とある日本人科学者が東京で開かれる国際学会に行く途中の飛行機の中で、最近の日本の話題の中でもしばしば問題になる「適材適所」の問題をアメリカのモロビッツ博士と話していた。
日本人学者がいった。
「モロビッツさん、最近の日本はだめですね。大阪市や大阪府などの地方公務員が”裏金”をどんどん溜め込んでしまうんです。」
「”ウラガーネ”。何ですか、それは?」
とモロビッツさん。
「おはずかしい話ですが、市民からとった税金を公務や公共事業に使わずに公務員が勝手に溜め込んで、自分達の”隠れ所得”にして山分けしてしまうんですよ。」
「オー、ソレハヨクナイ。大阪人は数ある日本人の中でもっとも商才にたけていると聞いていますが。大阪は江戸時代には大坂といって商人の街だったのでは。」
とモロビッツさん。
「さすがにモロビッツさん。日本の歴史までよく御存じですね。」
「江戸時代までは、公家は京都、武士は江戸、商人は大坂に住んでいました。明治になって公家と武士と商人が東京に住むようになったんです。しかしまだ大方の商人は大阪にいました。」
と日本人学者が答えた。
「アハー、ナルホド。東京は官僚が住み、大阪は商売人が住むということですね。」
とモロビッツ博士。
日本人学者は続けた。
「それなのに、大阪市職員はホームレス一掃に実に熱心なんですわ。”執念”すら感じますね。」
「ソレハ、ヘンデスネ。どうしてですか。」
とモロビッツ博士。
「どうやらホームレス一掃などの屋外公務には特別手当てが出るらしい。いろんな手当てがつくのだとか。危険手当て。屋外労働手当て。出張費などなど。」
と日本人学者がいった。
「アハー、ワカリマシタ。大阪人は公務員になっても商売しているんですね。公費商売。ホームレスをネタに自分の懐を暖める。むしろ、市職員が何もしないでホームレスに裏金を寄付したらいいのでは。」
とモロビッツ博士。
「デハ、日本でもっとも商売に向かないところはどこですか?」
とモロビッツ博士は続けた。
「たぶん北海道の夕張市だろうね。もう財政破たんしてつぶれちゃったから。」
と日本人学者は答えた。
「ウーーン。ではこうしたらどうでしょう。夕張市職員を大阪市職員にして、大阪市職員を夕張市職員にするのです。交換トレードです。」
とモロビッツ博士。
「なるほど。大阪得意の”裏金作り”の商売根性を夕張に植え付け、逆に”商売向きでない”夕張精神を大阪に植え付けるという発想ですな。」
と日本人学者が答えた。
そうこうする内に、飛行機は東京に到着。「続きはまた」と言って2人は会場へ向かった。
とある日本人科学者が東京で開かれる国際学会に行く途中の飛行機の中で、最近の日本の話題の中でもしばしば問題になる「適材適所」の問題をアメリカのモロビッツ博士と話していた。
日本人学者がいった。
「モロビッツさん、最近の日本はだめですね。大阪市や大阪府などの地方公務員が”裏金”をどんどん溜め込んでしまうんです。」
「”ウラガーネ”。何ですか、それは?」
とモロビッツさん。
「おはずかしい話ですが、市民からとった税金を公務や公共事業に使わずに公務員が勝手に溜め込んで、自分達の”隠れ所得”にして山分けしてしまうんですよ。」
「オー、ソレハヨクナイ。大阪人は数ある日本人の中でもっとも商才にたけていると聞いていますが。大阪は江戸時代には大坂といって商人の街だったのでは。」
とモロビッツさん。
「さすがにモロビッツさん。日本の歴史までよく御存じですね。」
「江戸時代までは、公家は京都、武士は江戸、商人は大坂に住んでいました。明治になって公家と武士と商人が東京に住むようになったんです。しかしまだ大方の商人は大阪にいました。」
と日本人学者が答えた。
「アハー、ナルホド。東京は官僚が住み、大阪は商売人が住むということですね。」
とモロビッツ博士。
日本人学者は続けた。
「それなのに、大阪市職員はホームレス一掃に実に熱心なんですわ。”執念”すら感じますね。」
「ソレハ、ヘンデスネ。どうしてですか。」
とモロビッツ博士。
「どうやらホームレス一掃などの屋外公務には特別手当てが出るらしい。いろんな手当てがつくのだとか。危険手当て。屋外労働手当て。出張費などなど。」
と日本人学者がいった。
「アハー、ワカリマシタ。大阪人は公務員になっても商売しているんですね。公費商売。ホームレスをネタに自分の懐を暖める。むしろ、市職員が何もしないでホームレスに裏金を寄付したらいいのでは。」
とモロビッツ博士。
「デハ、日本でもっとも商売に向かないところはどこですか?」
とモロビッツ博士は続けた。
「たぶん北海道の夕張市だろうね。もう財政破たんしてつぶれちゃったから。」
と日本人学者は答えた。
「ウーーン。ではこうしたらどうでしょう。夕張市職員を大阪市職員にして、大阪市職員を夕張市職員にするのです。交換トレードです。」
とモロビッツ博士。
「なるほど。大阪得意の”裏金作り”の商売根性を夕張に植え付け、逆に”商売向きでない”夕張精神を大阪に植え付けるという発想ですな。」
と日本人学者が答えた。
そうこうする内に、飛行機は東京に到着。「続きはまた」と言って2人は会場へ向かった。
2007/02/10のBlog
[ 17:46 ]
[ 科学ニュース ]
[ 09:56 ]
[ 社会 ]
YouTubeの“ヤラセ”騒動 孤独な少女、実は虚構
毎日新聞にあるこの記事は結構面白い。
アメリカの話だが、YouTubeに登場して一躍アイドルとなった「Bree」という名の素人少女が実はプロの仕組んだ女優の”やらせ”だったというものである。アメリカでも”やらせ・捏造”は大問題となっているという話である。
これは、はじめから映画化を目論んだプロジェクトであった。
「それによると、Lonelygirl15は、シナリオライター・映画作家のRamesh Flinders氏、Miles Beckett氏らが映画化することを狙って開始したプロジェクトだった」
私が面白いと思ったのは、この記事の最後の部分である。そこにこうある。
「この騒動は、「バイラルマーケティング」の成功例であり、ユーザー参加型メディアに潜む“プロ”の仕事がクローズアップされた事例といえる。今後も似た例は何度も起こりそうだ。
日本の「電車男」も、プロの手による創作だという見方が根強いのである。 」
まあ、要するに、「フーテンの寅さんの”さくら”商売」と同じ手口だということである。
一般人の中に一般人の振りをした”さくら”を仕込んでおき、その”さくら”がうまく寅さんの口上のかもになる。すると、「わたしも。わたしも」と次々とお客が買うという心理効果を利用した商法のことである。
どうやらこれをアメリカでは「バイラルマーケティング」と呼ぶらしい。
そして、この記事の著者は、かの2chからミリオンセラーとなりドラマ化・映画化された「電車男」は、新潮社の仕組んだ「バイラルマーケティング」だったのではないかと結論づけたということである。
まあ、こんなことは私はもう1年以上前に「”捏造”の時代精神 」で紹介していたことである。そこにはこうあった。
『「捏造」は、日本では、小説家の”小説の捏造”から始まり(例えば、「電車男」)、医者の”カルテの捏造”、マスコミの”事件の捏造”、NHKの”ドキュメンタリー捏造”、そして大学研究者の”論文の捏造”と来た。サッカーでも審判の”ファールの捏造”がある。
だから、”捏造”は、現代人の時代精神の一つを象徴しているのではないだろうか? ”妄想”と”捏造”には何か似たところがある。』
『どうやったら改善できるかって?
やった本人たちにまずは聞いてみるべきだろうネ。どうして捏造なんかしたの?ってネ。そうしていくうちにその原因が分かるようになり、何がしかの方策も分かってくるようになるだろう。』
というわけで、「電車男」捏造疑惑に関しては新潮社に聞いてみるべきだろうね。私個人は、新潮社というのは、儲け主義の何でもありの出版社と見ている。さもなくば、「これから癌で死ぬ」という人を題材に本は作らないだろう。もちろん、これは伝説のサーファーの話だが、あまりに痛々しかった。
毎日新聞にあるこの記事は結構面白い。
アメリカの話だが、YouTubeに登場して一躍アイドルとなった「Bree」という名の素人少女が実はプロの仕組んだ女優の”やらせ”だったというものである。アメリカでも”やらせ・捏造”は大問題となっているという話である。
これは、はじめから映画化を目論んだプロジェクトであった。
「それによると、Lonelygirl15は、シナリオライター・映画作家のRamesh Flinders氏、Miles Beckett氏らが映画化することを狙って開始したプロジェクトだった」
私が面白いと思ったのは、この記事の最後の部分である。そこにこうある。
「この騒動は、「バイラルマーケティング」の成功例であり、ユーザー参加型メディアに潜む“プロ”の仕事がクローズアップされた事例といえる。今後も似た例は何度も起こりそうだ。
日本の「電車男」も、プロの手による創作だという見方が根強いのである。 」
まあ、要するに、「フーテンの寅さんの”さくら”商売」と同じ手口だということである。
一般人の中に一般人の振りをした”さくら”を仕込んでおき、その”さくら”がうまく寅さんの口上のかもになる。すると、「わたしも。わたしも」と次々とお客が買うという心理効果を利用した商法のことである。
どうやらこれをアメリカでは「バイラルマーケティング」と呼ぶらしい。
そして、この記事の著者は、かの2chからミリオンセラーとなりドラマ化・映画化された「電車男」は、新潮社の仕組んだ「バイラルマーケティング」だったのではないかと結論づけたということである。
まあ、こんなことは私はもう1年以上前に「”捏造”の時代精神 」で紹介していたことである。そこにはこうあった。
『「捏造」は、日本では、小説家の”小説の捏造”から始まり(例えば、「電車男」)、医者の”カルテの捏造”、マスコミの”事件の捏造”、NHKの”ドキュメンタリー捏造”、そして大学研究者の”論文の捏造”と来た。サッカーでも審判の”ファールの捏造”がある。
だから、”捏造”は、現代人の時代精神の一つを象徴しているのではないだろうか? ”妄想”と”捏造”には何か似たところがある。』
『どうやったら改善できるかって?
やった本人たちにまずは聞いてみるべきだろうネ。どうして捏造なんかしたの?ってネ。そうしていくうちにその原因が分かるようになり、何がしかの方策も分かってくるようになるだろう。』
というわけで、「電車男」捏造疑惑に関しては新潮社に聞いてみるべきだろうね。私個人は、新潮社というのは、儲け主義の何でもありの出版社と見ている。さもなくば、「これから癌で死ぬ」という人を題材に本は作らないだろう。もちろん、これは伝説のサーファーの話だが、あまりに痛々しかった。
2007/02/09のBlog
[ 12:19 ]
[ 訃報・追悼 ]
マクダイアミッド氏死去ノーベル化学賞受賞者
2000年に「ポリアセチレンの研究」(導電性高分子の発見と発展)で白川英樹博士、ヒーガー博士と一緒にノーベル化学賞を受賞したマクダイアミッド博士が死去。享年79歳。
「ポリアエチレン中の”ソリトン”」など、導電性高分子の研究のパイオニアであった。この研究がいわゆる「物性物理学」にもたらした影響は非常に大きく、その後の「ソリトン」、「分数量子ホール効果」や「エニオン」、「分数排他統計」など数多くの概念に結びついた。スー-シュリーファー-ヒーガー(Su-Schrieffer-Heeger)モデルはその代表格と言える。今でも多くの人々がこういった分野の研究で飯を食っている。
実験物理学者の”夢”の1つに、自分の実験結果が全く新しい理論の発展を促す、というものがある。この意味では、導電性高分子の研究は、この理想的な発展をしたかなり教科書的な分野と言えるかも知れない。
心より御冥福を祈りたい。
博士の自伝は以下のものがある。
Alan G. MacDiarmid自伝
2000年に「ポリアセチレンの研究」(導電性高分子の発見と発展)で白川英樹博士、ヒーガー博士と一緒にノーベル化学賞を受賞したマクダイアミッド博士が死去。享年79歳。
「ポリアエチレン中の”ソリトン”」など、導電性高分子の研究のパイオニアであった。この研究がいわゆる「物性物理学」にもたらした影響は非常に大きく、その後の「ソリトン」、「分数量子ホール効果」や「エニオン」、「分数排他統計」など数多くの概念に結びついた。スー-シュリーファー-ヒーガー(Su-Schrieffer-Heeger)モデルはその代表格と言える。今でも多くの人々がこういった分野の研究で飯を食っている。
実験物理学者の”夢”の1つに、自分の実験結果が全く新しい理論の発展を促す、というものがある。この意味では、導電性高分子の研究は、この理想的な発展をしたかなり教科書的な分野と言えるかも知れない。
心より御冥福を祈りたい。
博士の自伝は以下のものがある。
Alan G. MacDiarmid自伝
2007/02/08のBlog
[ 17:41 ]
[ 徳島 ]
写真:今年”廃業”となった「みとこ荘」。この海が宍喰から東洋町までそしてずっと先まで続く。
「水床トンネルを超えるとそこは東洋町だった。」
とは、文豪川端康成の「雪国」のような出だしだが、徳島県と高知県のちょうど県境に「水床(みとこ)トンネル」がある。ちょっと長めのトンネルで、”お遍路さん”たちが徳島の一番札所霊山寺を出発していよいよ高知県に入る時、必ずこのトンネルを通らなくてはならない。やっとのことでこのトンネルを抜けると、もうそこは高知県、そしてそこから東洋町となる。
しばらく前の昨年10月に「”国民宿舎みとこ荘”閉館の危機 」を紹介していたが、この地域は、徳島でももっとも海のきれいな場所である。最近では、大阪、神戸からサーファーたちがやってくる。昨年夏には、 DEF TECのマイクロも内妻海岸でサーフした。そういう美海の場である。
この景色はトンネルを超えてもずっと続き、海よりにお遍路するお遍路さんたちが”悟り”を開くという有名な場所につながる重要な場所なのである。四国遍路、88ケ所遍路のもっとも大事な場所なのである。
ここに「東京電力」(とその開発責任者であった山路亨氏)は、東京人のために出た産業廃棄物である高レベル放射性物質”プルトニウム”の処理施設を建設しようというらしい。まさしく”正気の沙汰”ではない。
まあ、しかし、この山路亨氏タイプは大企業や国の官僚機構(国であろうが民間企業であろうがこういった大企業はその質において大差ない)の中ではしばしば見るタイプの人間である。批判者には低頭で迎え、その裏にいくと実に高圧的な態度に出るという見事に”表と裏”を使い分けるタイプである。
今の日本、戦後の日本の教育制度で生んだ”受験モンスター”であるが、私は戦後の日本の教育制度の最大の失敗とはまさにここにあると信じている。というのは、こういうタイプは、小中高と受験エリートで来て、その際勉強のできない子や弱い子たちを”いじめ抜いて”来たというタイプであると私は考えているからである。
こうした観点からすれば、本来なら、東京電力出身の原子力開発、原子力・立地本部副本部長だった人物が国の重要ポスト(国民の知らないところでどうしてどうやってこの人物が選ばれたのか知らないが)についたわけだから、この人物こそ、国民にもっとも適した場所を選ぶように国に進言する立場にあるはずであろう。
ところが、金に目のくらんだ町長のいる東洋町に鉾先を向けるというのは、いただけない。むしろその東洋町の町長さんに、
「ここはお遍路さんの通り道ではないのですか?」
「本当に大丈夫なの?」
「世界遺産になることを放棄してもよろしいのですか?」
などと逆に町長を問いつめるべきであり、町長の申し出を有り難がっているような立場や場合ではないだろう。
やはり四国は”国家独立”すべき時代に入ったのでしょうナ。さもなくば、豊島ではないが、そのうち、フィリピンやタイのように、東京の産業廃棄物の捨て場所にされてしまうのだろうヨ。
かつて坂本竜馬は維新を起こすにせよ、東京を今のイラクのような戦地にしないように西郷隆盛に進言したのだったが、その坂本竜馬の国である高知に”とんだお礼”をするようだ。「東京電力」や東京都民は感謝の気持ちがないのかネ。
これも文部科学省の受験教育(歴史教育無視)の見事な成果と言えるだろうヨ。
「水床トンネルを超えるとそこは東洋町だった。」
とは、文豪川端康成の「雪国」のような出だしだが、徳島県と高知県のちょうど県境に「水床(みとこ)トンネル」がある。ちょっと長めのトンネルで、”お遍路さん”たちが徳島の一番札所霊山寺を出発していよいよ高知県に入る時、必ずこのトンネルを通らなくてはならない。やっとのことでこのトンネルを抜けると、もうそこは高知県、そしてそこから東洋町となる。
しばらく前の昨年10月に「”国民宿舎みとこ荘”閉館の危機 」を紹介していたが、この地域は、徳島でももっとも海のきれいな場所である。最近では、大阪、神戸からサーファーたちがやってくる。昨年夏には、 DEF TECのマイクロも内妻海岸でサーフした。そういう美海の場である。
この景色はトンネルを超えてもずっと続き、海よりにお遍路するお遍路さんたちが”悟り”を開くという有名な場所につながる重要な場所なのである。四国遍路、88ケ所遍路のもっとも大事な場所なのである。
ここに「東京電力」(とその開発責任者であった山路亨氏)は、東京人のために出た産業廃棄物である高レベル放射性物質”プルトニウム”の処理施設を建設しようというらしい。まさしく”正気の沙汰”ではない。
まあ、しかし、この山路亨氏タイプは大企業や国の官僚機構(国であろうが民間企業であろうがこういった大企業はその質において大差ない)の中ではしばしば見るタイプの人間である。批判者には低頭で迎え、その裏にいくと実に高圧的な態度に出るという見事に”表と裏”を使い分けるタイプである。
今の日本、戦後の日本の教育制度で生んだ”受験モンスター”であるが、私は戦後の日本の教育制度の最大の失敗とはまさにここにあると信じている。というのは、こういうタイプは、小中高と受験エリートで来て、その際勉強のできない子や弱い子たちを”いじめ抜いて”来たというタイプであると私は考えているからである。
こうした観点からすれば、本来なら、東京電力出身の原子力開発、原子力・立地本部副本部長だった人物が国の重要ポスト(国民の知らないところでどうしてどうやってこの人物が選ばれたのか知らないが)についたわけだから、この人物こそ、国民にもっとも適した場所を選ぶように国に進言する立場にあるはずであろう。
ところが、金に目のくらんだ町長のいる東洋町に鉾先を向けるというのは、いただけない。むしろその東洋町の町長さんに、
「ここはお遍路さんの通り道ではないのですか?」
「本当に大丈夫なの?」
「世界遺産になることを放棄してもよろしいのですか?」
などと逆に町長を問いつめるべきであり、町長の申し出を有り難がっているような立場や場合ではないだろう。
やはり四国は”国家独立”すべき時代に入ったのでしょうナ。さもなくば、豊島ではないが、そのうち、フィリピンやタイのように、東京の産業廃棄物の捨て場所にされてしまうのだろうヨ。
かつて坂本竜馬は維新を起こすにせよ、東京を今のイラクのような戦地にしないように西郷隆盛に進言したのだったが、その坂本竜馬の国である高知に”とんだお礼”をするようだ。「東京電力」や東京都民は感謝の気持ちがないのかネ。
これも文部科学省の受験教育(歴史教育無視)の見事な成果と言えるだろうヨ。
2007/02/06のBlog
[ 18:37 ]
[ 社会 ]
飯泉知事ら、国に反対申し入れ 東洋町の核廃棄物処分場問題
いやはや、原子力発電環境整備機構(原環機構、東京)の山路亨理事長という人物も”おつむ”がどうかしてしまったのだろう。また、田舎の町長さんにちょっとのお金をちらつかせて、「ほっぺたをお金で叩いて食い付くのを待つ」という方式で放射性物質処理施設を見つけるというのはいただけない。
「東洋町は周辺に火山がないこと、活断層が直下にないことなどの条件を満たしているため、同機構理事会では認められる見通し」
というが、これから巨大な「南海大地震」に見舞われる可能性の高い高知県の東洋町というところに、わざわざ候補地にするというのだから気が狂っているとしか考えられない。
住民も町民も反対、高知県知事も反対、徳島県知事も反対、しているにも関わらず、のらりくらりと問答無用の態度で突き進むこの山路亨理事長は、なかなかの”たぬき”ですな。こういう人の親の顔、妻の顔を見てみたい、というところだね。
もっとも、「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を作って、それが南海大地震で木っ端みじんとなり、全部きれいさっぱり洗い流されて、もう一度「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を作れば一石二鳥という可能性をこの政府は念頭に置いているのかも知れない。
いずれにせよ、横浜や厚木や沖縄の米軍基地に作るとか、いくらでも候補地はありそうなのだが。
どうやら、政府は、日本中や世界中のお客人であるお遍路さんを被爆させたいらしいナ。とんだ”お接待”になりそうですナ。これで方や、「お遍路道」を世界遺産にしようというのだから、矛盾していませんかね。
参考:
それがたまるか!!
いやはや、原子力発電環境整備機構(原環機構、東京)の山路亨理事長という人物も”おつむ”がどうかしてしまったのだろう。また、田舎の町長さんにちょっとのお金をちらつかせて、「ほっぺたをお金で叩いて食い付くのを待つ」という方式で放射性物質処理施設を見つけるというのはいただけない。
「東洋町は周辺に火山がないこと、活断層が直下にないことなどの条件を満たしているため、同機構理事会では認められる見通し」
というが、これから巨大な「南海大地震」に見舞われる可能性の高い高知県の東洋町というところに、わざわざ候補地にするというのだから気が狂っているとしか考えられない。
住民も町民も反対、高知県知事も反対、徳島県知事も反対、しているにも関わらず、のらりくらりと問答無用の態度で突き進むこの山路亨理事長は、なかなかの”たぬき”ですな。こういう人の親の顔、妻の顔を見てみたい、というところだね。
もっとも、「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を作って、それが南海大地震で木っ端みじんとなり、全部きれいさっぱり洗い流されて、もう一度「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を作れば一石二鳥という可能性をこの政府は念頭に置いているのかも知れない。
いずれにせよ、横浜や厚木や沖縄の米軍基地に作るとか、いくらでも候補地はありそうなのだが。
どうやら、政府は、日本中や世界中のお客人であるお遍路さんを被爆させたいらしいナ。とんだ”お接待”になりそうですナ。これで方や、「お遍路道」を世界遺産にしようというのだから、矛盾していませんかね。
参考:
それがたまるか!!
さて、原子力発電環境整備機構(原環機構、東京)の山路亨理事長なる人物を調べたらちょっと面白いことがわかったので書いておこう。
以前、ここで「サッカー界の疑獄事件に発展の予感:Jヴィレッジ疑惑 」というものを書いていたが、これと今回の問題は根が一つだったということである。
”Jヴィレッジ疑惑 ”とは、東京電力のために福島原発を作らせれば、土地や建物を東京電力が用意し、福島県にJリーグの「Jヴィレッジ」を誘致するというものであった。そして、その間を取り持った福島県知事とその弟がインサイダー取り引きで”お縄”となった、というものだった。
要するに、東京電力が、資金力と権力にものを言わせて地方行政を蹂躙してきているということである。
実は、これと同じことが今回の「東洋町の核廃棄物処分場問題」の根源であるということである。
なぜかというと、原子力産業新聞 2006年11月30日号 ヘッドラインニュースにはこうあったからである。
「○NUMO新理事長に山路氏 伏見氏後任
原子力発電環境整備機構(NUMO)の伏見健司理事長が11月30日付けで
辞任し、後任に山路亨・東京電力常務取締役・原子力・立地本部副本部長が1日
付けで就任する。」
要するに、東京電力の常務取締役であった山路亨氏が、国の政策を取り仕切る立場についたのである。
これでは、地方の住民を蹂躙するのは当たり前だろう。原子炉を作りたい会社の重役がそれを取り仕切るための国家の役人になったのだからだ。まるで、ヤクザを取り締まるための組織にヤクザがついたようなものである。県知事であろうが、住民であろうがそんなことはお構い無しとなるのは当然だろう。もうすでに、福島県の地方行政をめちゃくちゃにしたのが、この「東京電力」なのであったからである。
その昔、「死の商人」や「政商」というものがあったが、現代の「死の商人」、「政商」というものに、”東京電力”が伸し上がってきているのだろう。本当にこれは困った問題である。
以前、ここで「サッカー界の疑獄事件に発展の予感:Jヴィレッジ疑惑 」というものを書いていたが、これと今回の問題は根が一つだったということである。
”Jヴィレッジ疑惑 ”とは、東京電力のために福島原発を作らせれば、土地や建物を東京電力が用意し、福島県にJリーグの「Jヴィレッジ」を誘致するというものであった。そして、その間を取り持った福島県知事とその弟がインサイダー取り引きで”お縄”となった、というものだった。
要するに、東京電力が、資金力と権力にものを言わせて地方行政を蹂躙してきているということである。
実は、これと同じことが今回の「東洋町の核廃棄物処分場問題」の根源であるということである。
なぜかというと、原子力産業新聞 2006年11月30日号 ヘッドラインニュースにはこうあったからである。
「○NUMO新理事長に山路氏 伏見氏後任
原子力発電環境整備機構(NUMO)の伏見健司理事長が11月30日付けで
辞任し、後任に山路亨・東京電力常務取締役・原子力・立地本部副本部長が1日
付けで就任する。」
要するに、東京電力の常務取締役であった山路亨氏が、国の政策を取り仕切る立場についたのである。
これでは、地方の住民を蹂躙するのは当たり前だろう。原子炉を作りたい会社の重役がそれを取り仕切るための国家の役人になったのだからだ。まるで、ヤクザを取り締まるための組織にヤクザがついたようなものである。県知事であろうが、住民であろうがそんなことはお構い無しとなるのは当然だろう。もうすでに、福島県の地方行政をめちゃくちゃにしたのが、この「東京電力」なのであったからである。
その昔、「死の商人」や「政商」というものがあったが、現代の「死の商人」、「政商」というものに、”東京電力”が伸し上がってきているのだろう。本当にこれは困った問題である。
[ 17:07 ]
[ スケールフリー ]
柳沢厚労相「結婚・子供2人、健全」発言に疑問の声
いやはや、日本はどうなってしまったのか?
俗に”識者”と呼ばれるかたがたの”おつむ”が狂ってしまったのか、それとも柳沢厚労相さんの”おつむ”が狂ってしまったのか、どうなってしまったのだろうか。
柳沢厚労相さんが
「家庭を営み、子どもを育てるということには、人生の喜びがあるんだという意識の面で、自己実現といった広い範囲で、若い人たちがとらえることが必要だと思う。他方、ご当人の若い人たちは、結婚をしたい、子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいるわけです。そういう若者の健全な希望に、我々がフィットした政策を出していくということが大事だと思っている。」
つまり、要約して
「結婚し、子どもは2人以上持ちたいという健全な状況にある」
と語ったところ、今度は”識者”(いったいだれがこういう人を識者と定義したのかしらないが。少なくとも私ではないが)の方々が、こんなことを言っているという。
コラムニストの天野祐吉さん:
「結婚願望とか子どもの数を、統計データを基に、多数派、少数派というならいいが、『健全』という言葉を使うのがおかしい。『産む機械』発言と奥の方でつながっている気がするし、失言というより、彼の人生観、社会観が出たんだろう」
「少子化担当のポストは無理だと思うが、柳沢さんはある意味正直に発言しただけ。政治家だけでなく、多くの人たちの中に無意識に残っているこうした考え方がなくならないと、大臣を代えても問題は解決しないと思う」
心理学者の小倉千加子さん:
「結婚したい、子供が2人以上ほしい、というのを健全とすること自体、古い道徳観からくる発言で、年齢的な限界を感じる」
「こういう発言が止まらない人が厚生労働大臣をしているから、ピントのずれた政策が続き、少子化が止まらないのだと思う。(夫の発言をメディアでしかった)奥さんはずっとまともな方のようだから、これからは外で何か発言する前に、奥さんにチェックしてもらった方がいい」
大日向雅美・恵泉女学園大教授(ジェンダー論):
「発言は適切でないが、これを単なる失言の上塗りと取るべきではない」
「少子化対策で必要なのは、産みたいと思う人が安心して産める環境整備。その責務は国にあることを厚労相は心にとめて施策に励んでほしい」
タレントの遙洋子さん:
「自民党内で『極めて理知的で温厚』と言われる柳沢大臣ですら、端々に女性を傷つける一連の発言をする価値観にとらわれているのがこの国だ、と知るいい契機になる」
社民党の福島瑞穂党首:
「色んな生き方の選択肢があるという問題の本質を理解していない。このような大臣の下で審議はできない。辞任要求を続ける」
果たして今回はちと”識者”に歩が悪い。あまりに”気分”や”思いつき”で大臣を非難していて可哀想なので、今回はちょっとここで柳沢さんを弁護してやろう。
私は個人的に柳沢大臣のお話を聞いていて、「おっと、柳沢大臣もネットワーク理論を勉強したのですかな」と思ったので、今回のお話は柳沢大臣が”正しい”と理解した。実は、今回の話は我々理論物理学者が20世紀後半から21世紀に入って必死で研究してきている「ネットワーク理論」の話につながっているのである。
まあ、興味や関心のある人は、ここのブログ内検索で「ネットワーク」で検索してほしい。そうすれば、たくさん関連あるエッセイが見つかるだろう。その中でも「スケールフリーネットワークとエイズ禍 」は図が多いので分かりやすいだろう。
さてそこで、こういうネットワーク理論の結論から先に言うと、俗にこの分野で”パーコレーション”という現象があるのだが、この現象はネットワークを作っている要素(=頂点、ノード)とそれらの間の関係(=辺、リンク)の数には非常に特徴的な性質があり、1つの頂点の回りから出るリンクの平均の数をKとすれば、これがK=2となる場合が臨界点であるということが分かっているのである。
例えば、下のようなネットワークを考えてみよう。
ー●一一一●一一一●ー●一一●一一●一一●
ーー\ーーー|ー/ーーー\ー|ー/ー\/ー\
ーーー●一一●一一一●ーーー●ー|ーー●ーー●
ーーー|ーー|ー\ーー\ /ーー|ーー|ーー/
ーーー●ーー|ーー●ーー●ー●一●一一●一●
ーー/ーーー|ーーー\/\ーーー|ーー|
ー●ーーーー●ーーーー●ー●ーー●ーー●
ここでいう「リンク数」とは、この中のどこかの頂点(●)の周りに生えている線の数のことである。この平均が2のところが特殊なのである。
例えば、この図が、3年B組の生徒たちの友人関係を表すとしよう。この中のだれかに、金八先生のうわさを流す。果たしてこれがクラス全体に伝わるかどうかを調べると、平均のリンク数が2以上の場合しか伝わらないのである。もし、生徒がお互いにたった1人の友人しかいないとすると、結局ウワサは、それぞれの閉じたループを作って全体に到達しないのである。もし全員に(というより端から端に)行き渡った場合は、”ウワサ”がパーコレートしたという。このように、不思議なことに、K=2の場合が特殊なのである。
今度は、柳沢大臣が問題にした「子供の数」を問題にしてみよう。この場合は、下の図のようなものであろう。今度は、縦軸を時間とみて上に時間が進んでいると見てみよう。したがって、これは一世代ごとの時間発展だと思ってほしい。
時間(世代)
↑
|ーーーーー●ーー●ー●ーー●
|ーーーーーー\ー/ー\ー/
|ーーー●ーーー●ーーー●ーーー●
|ーーーー\ーー|ーーー|ーー/
|ーーー●ー●ー●ーーー●ー●ー●
|ーーーーーーーー\ /
|ーーー●ーーーーー●ーーーーー●
|ーーー|ーーーーー|ーーーーー|
|ー●ー●ーーーーー●ーーーーー●ー●
|ーーーー\ーーーーー\ーーー/
|ーーーーー●一●ーーー●一●
|ーーーー/ーー|ーーー|ーー\
|ー●ー●ーーー●ーーー●ーーー●ー●
|ーー\|ーーー \ーー \ーー|
|ー●ー●ー●ーー●ー●ーー●ー●
|ー|ーー\|ーー|ー|ーーー\|
|ー●ー●ー●ーー●ー●ー●ーー●
|
この場合には、下から上につながらない●(人)は、そこで子が途絶えたことを意味する。上に辺が伸びているのは、子孫が存続していることを意味する。したがって、これが全部途中で途絶えれば、日本人は消滅である。
ネットワーク理論によれば、この場合も平均のリンク数が2の場合が特殊となっていることが分かっている。つまり、「平均の子供の数が2」が特別な数なのである。すなわち、この数より大きければ、ネットワークは生い茂るが、この数より少なければ、ネットワークは消滅の危機に瀕する。
現実は極めて複雑なので、我々のネットワーク理論のようなものではない。しかし、私が行ってきた研究でも、数多くのネットワークがこの数で相転移を起こす。つまり、全く異なる結果を生むのである。いずれにせよ、2の付近に臨界数が存在するはずである。そういう”臨界数”は必ず存在するのである。もちろん厳密に2か3かはちゃんと研究しない限り分からないが。
このことから、私個人は、
「日本人の平均出生率が2を超えれば、日本人の人口は増大し、これより下がれば、日本人の人口は減少する」(ちなみに、現在は1・2程度。だから減少する)
と理解している。だから、この意味では、柳沢大臣の言説は全く正しいのである(もっとも、今回は柳沢大臣の”偶然の一致”だったのだろうが)。
まあ、こんなわけで、”識者”の無知さ加減は常軌を逸しているわけだが、もうちょっと”勉強”(や研究)してから意見を言って欲しいものである。
また、我々ネットワーク研究者にも研究費を恵んで欲しいところですナ。
いやはや、日本はどうなってしまったのか?
俗に”識者”と呼ばれるかたがたの”おつむ”が狂ってしまったのか、それとも柳沢厚労相さんの”おつむ”が狂ってしまったのか、どうなってしまったのだろうか。
柳沢厚労相さんが
「家庭を営み、子どもを育てるということには、人生の喜びがあるんだという意識の面で、自己実現といった広い範囲で、若い人たちがとらえることが必要だと思う。他方、ご当人の若い人たちは、結婚をしたい、子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいるわけです。そういう若者の健全な希望に、我々がフィットした政策を出していくということが大事だと思っている。」
つまり、要約して
「結婚し、子どもは2人以上持ちたいという健全な状況にある」
と語ったところ、今度は”識者”(いったいだれがこういう人を識者と定義したのかしらないが。少なくとも私ではないが)の方々が、こんなことを言っているという。
コラムニストの天野祐吉さん:
「結婚願望とか子どもの数を、統計データを基に、多数派、少数派というならいいが、『健全』という言葉を使うのがおかしい。『産む機械』発言と奥の方でつながっている気がするし、失言というより、彼の人生観、社会観が出たんだろう」
「少子化担当のポストは無理だと思うが、柳沢さんはある意味正直に発言しただけ。政治家だけでなく、多くの人たちの中に無意識に残っているこうした考え方がなくならないと、大臣を代えても問題は解決しないと思う」
心理学者の小倉千加子さん:
「結婚したい、子供が2人以上ほしい、というのを健全とすること自体、古い道徳観からくる発言で、年齢的な限界を感じる」
「こういう発言が止まらない人が厚生労働大臣をしているから、ピントのずれた政策が続き、少子化が止まらないのだと思う。(夫の発言をメディアでしかった)奥さんはずっとまともな方のようだから、これからは外で何か発言する前に、奥さんにチェックしてもらった方がいい」
大日向雅美・恵泉女学園大教授(ジェンダー論):
「発言は適切でないが、これを単なる失言の上塗りと取るべきではない」
「少子化対策で必要なのは、産みたいと思う人が安心して産める環境整備。その責務は国にあることを厚労相は心にとめて施策に励んでほしい」
タレントの遙洋子さん:
「自民党内で『極めて理知的で温厚』と言われる柳沢大臣ですら、端々に女性を傷つける一連の発言をする価値観にとらわれているのがこの国だ、と知るいい契機になる」
社民党の福島瑞穂党首:
「色んな生き方の選択肢があるという問題の本質を理解していない。このような大臣の下で審議はできない。辞任要求を続ける」
果たして今回はちと”識者”に歩が悪い。あまりに”気分”や”思いつき”で大臣を非難していて可哀想なので、今回はちょっとここで柳沢さんを弁護してやろう。
私は個人的に柳沢大臣のお話を聞いていて、「おっと、柳沢大臣もネットワーク理論を勉強したのですかな」と思ったので、今回のお話は柳沢大臣が”正しい”と理解した。実は、今回の話は我々理論物理学者が20世紀後半から21世紀に入って必死で研究してきている「ネットワーク理論」の話につながっているのである。
まあ、興味や関心のある人は、ここのブログ内検索で「ネットワーク」で検索してほしい。そうすれば、たくさん関連あるエッセイが見つかるだろう。その中でも「スケールフリーネットワークとエイズ禍 」は図が多いので分かりやすいだろう。
さてそこで、こういうネットワーク理論の結論から先に言うと、俗にこの分野で”パーコレーション”という現象があるのだが、この現象はネットワークを作っている要素(=頂点、ノード)とそれらの間の関係(=辺、リンク)の数には非常に特徴的な性質があり、1つの頂点の回りから出るリンクの平均の数をKとすれば、これがK=2となる場合が臨界点であるということが分かっているのである。
例えば、下のようなネットワークを考えてみよう。
ー●一一一●一一一●ー●一一●一一●一一●
ーー\ーーー|ー/ーーー\ー|ー/ー\/ー\
ーーー●一一●一一一●ーーー●ー|ーー●ーー●
ーーー|ーー|ー\ーー\ /ーー|ーー|ーー/
ーーー●ーー|ーー●ーー●ー●一●一一●一●
ーー/ーーー|ーーー\/\ーーー|ーー|
ー●ーーーー●ーーーー●ー●ーー●ーー●
ここでいう「リンク数」とは、この中のどこかの頂点(●)の周りに生えている線の数のことである。この平均が2のところが特殊なのである。
例えば、この図が、3年B組の生徒たちの友人関係を表すとしよう。この中のだれかに、金八先生のうわさを流す。果たしてこれがクラス全体に伝わるかどうかを調べると、平均のリンク数が2以上の場合しか伝わらないのである。もし、生徒がお互いにたった1人の友人しかいないとすると、結局ウワサは、それぞれの閉じたループを作って全体に到達しないのである。もし全員に(というより端から端に)行き渡った場合は、”ウワサ”がパーコレートしたという。このように、不思議なことに、K=2の場合が特殊なのである。
今度は、柳沢大臣が問題にした「子供の数」を問題にしてみよう。この場合は、下の図のようなものであろう。今度は、縦軸を時間とみて上に時間が進んでいると見てみよう。したがって、これは一世代ごとの時間発展だと思ってほしい。
時間(世代)
↑
|ーーーーー●ーー●ー●ーー●
|ーーーーーー\ー/ー\ー/
|ーーー●ーーー●ーーー●ーーー●
|ーーーー\ーー|ーーー|ーー/
|ーーー●ー●ー●ーーー●ー●ー●
|ーーーーーーーー\ /
|ーーー●ーーーーー●ーーーーー●
|ーーー|ーーーーー|ーーーーー|
|ー●ー●ーーーーー●ーーーーー●ー●
|ーーーー\ーーーーー\ーーー/
|ーーーーー●一●ーーー●一●
|ーーーー/ーー|ーーー|ーー\
|ー●ー●ーーー●ーーー●ーーー●ー●
|ーー\|ーーー \ーー \ーー|
|ー●ー●ー●ーー●ー●ーー●ー●
|ー|ーー\|ーー|ー|ーーー\|
|ー●ー●ー●ーー●ー●ー●ーー●
|
この場合には、下から上につながらない●(人)は、そこで子が途絶えたことを意味する。上に辺が伸びているのは、子孫が存続していることを意味する。したがって、これが全部途中で途絶えれば、日本人は消滅である。
ネットワーク理論によれば、この場合も平均のリンク数が2の場合が特殊となっていることが分かっている。つまり、「平均の子供の数が2」が特別な数なのである。すなわち、この数より大きければ、ネットワークは生い茂るが、この数より少なければ、ネットワークは消滅の危機に瀕する。
現実は極めて複雑なので、我々のネットワーク理論のようなものではない。しかし、私が行ってきた研究でも、数多くのネットワークがこの数で相転移を起こす。つまり、全く異なる結果を生むのである。いずれにせよ、2の付近に臨界数が存在するはずである。そういう”臨界数”は必ず存在するのである。もちろん厳密に2か3かはちゃんと研究しない限り分からないが。
このことから、私個人は、
「日本人の平均出生率が2を超えれば、日本人の人口は増大し、これより下がれば、日本人の人口は減少する」(ちなみに、現在は1・2程度。だから減少する)
と理解している。だから、この意味では、柳沢大臣の言説は全く正しいのである(もっとも、今回は柳沢大臣の”偶然の一致”だったのだろうが)。
まあ、こんなわけで、”識者”の無知さ加減は常軌を逸しているわけだが、もうちょっと”勉強”(や研究)してから意見を言って欲しいものである。
また、我々ネットワーク研究者にも研究費を恵んで欲しいところですナ。
[ 09:06 ]
[ 音楽・芸能 ]
「あるある」問題で番組製作社連盟が声明
関西テレビ制作の「発掘!あるある大事典2」のデータ捏造(ねつぞう)問題のために、視聴者の信頼を損なう事態を招いたことを「遺憾」とする声明を番組制作会社でつくる全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)が発表したというニュース。しかし、
「番組製作会社一般に同様の欠陥があるかのごとき言説には、断じて同意するわけにはいかない」
と言っているようだ。
「よく言うよ」とはこのことだろう。反省のみじんもない。フジテレビもホリエモンのライブドアに買われてしまったほうがよかったのではないかというほどに、ろくな番組は作っていない。どの局の報道番組ですら、我々科学者や大人の賞味にあう深い趣のものはない。NHKも例外でない。これはと思う番組のほとんどは海外製である。
それもそのはず、ど素人がど素人向けに作った「乙女ごかし」的なしろものしかないからである(これを言葉を替えて、大衆向けなどと言っているが)。
みのもんたのように、高齢化社会の”恩恵”をうけて半ばもうろくし始めた60歳以上の老人ねたで行くのもそれはそれ1つの路線だろうが、自分は善人ぶっていつもお話するだけで、すこしも研究もリサーチもしない。にもかかわらず、テレビを私物化し独占してしまう。そして、年収12億というのである。
たもり、所ジョージ、さんま、などなどみのもんた的人物は数多い。
こういうテレビモンスターを生み出してしまったことそのものが、全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)の犯罪のようなものである。少なくともそういう厳しい視点が必要だろう。
新しい番組を始めるなら、既存の有名人ではなく、新しい人材、新人を発掘し、世に出す。そういう配慮が必要だろう。黒沢明監督の映画はそうやっていた。それゆえ黒沢明に見い出されてトップスターになった俳優は数知れない。
それと比べれば、”視聴率”にこだわる余り失敗を恐れて政治家の票とりのように、”視聴率”計算可能な既存の芸能人にこだわり続ける。あるいは大手プロダクションや芸能人派遣会社にこだわる。要するに、自分で調べるより”まる投げ”したほうが楽だからだ。こういう空気が「あるある大事典」のような問題を生んだのである。したがって、「全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)」の主張、あるいは思い込み、とは異なり、やはり現実には、日本のテレビ界全体が生み出したものなのである。
それを、あれは関西テレビ1社の問題にすぎないとつっぱねるというのは、まるでそこら中で”いじめ”が起きているのに、そんなものはないと報告した教育委員会や学校関係者のような対応といえるだろう。あまりに現実離れしている。
だいたいテレビ関係者やそのお偉方は自分が作って出している番組そのものを見ているのだろうか? これは、会社の製作部門が作ったもの、作っているところを会社の上層部がしっかり現場を見に行っているのだろうかという問題である。
私は、不二家と同じで、番組製作現場など見ていないのではないかと思う。不二家ですら、新社長になったものは、まるで”他人事”のように、うわべだけの当たり前のことを述べていただけだったからである。こういった人々が重役をしているわけだから、会社もよくなるはずがない。脱線事故を起こしたJR西日本では、例の問題となった「日勤教育」なるものに責任はないという始末。こういった風潮が今の日本のどの大企業にもあるのではないかと私は見ている。
要するに、自動車なら三菱、お菓子なら不二家、鉄道ならJR西日本、牛乳なら雪印、建築なら木村建設や姉歯、そしてテレビ番組製作なら関西テレビ、というように、そこには同じような空気が流れているのである。そして、これは単に問題となった1社だけの問題ではないだろうということである。
関西テレビ制作の「発掘!あるある大事典2」のデータ捏造(ねつぞう)問題のために、視聴者の信頼を損なう事態を招いたことを「遺憾」とする声明を番組制作会社でつくる全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)が発表したというニュース。しかし、
「番組製作会社一般に同様の欠陥があるかのごとき言説には、断じて同意するわけにはいかない」
と言っているようだ。
「よく言うよ」とはこのことだろう。反省のみじんもない。フジテレビもホリエモンのライブドアに買われてしまったほうがよかったのではないかというほどに、ろくな番組は作っていない。どの局の報道番組ですら、我々科学者や大人の賞味にあう深い趣のものはない。NHKも例外でない。これはと思う番組のほとんどは海外製である。
それもそのはず、ど素人がど素人向けに作った「乙女ごかし」的なしろものしかないからである(これを言葉を替えて、大衆向けなどと言っているが)。
みのもんたのように、高齢化社会の”恩恵”をうけて半ばもうろくし始めた60歳以上の老人ねたで行くのもそれはそれ1つの路線だろうが、自分は善人ぶっていつもお話するだけで、すこしも研究もリサーチもしない。にもかかわらず、テレビを私物化し独占してしまう。そして、年収12億というのである。
たもり、所ジョージ、さんま、などなどみのもんた的人物は数多い。
こういうテレビモンスターを生み出してしまったことそのものが、全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)の犯罪のようなものである。少なくともそういう厳しい視点が必要だろう。
新しい番組を始めるなら、既存の有名人ではなく、新しい人材、新人を発掘し、世に出す。そういう配慮が必要だろう。黒沢明監督の映画はそうやっていた。それゆえ黒沢明に見い出されてトップスターになった俳優は数知れない。
それと比べれば、”視聴率”にこだわる余り失敗を恐れて政治家の票とりのように、”視聴率”計算可能な既存の芸能人にこだわり続ける。あるいは大手プロダクションや芸能人派遣会社にこだわる。要するに、自分で調べるより”まる投げ”したほうが楽だからだ。こういう空気が「あるある大事典」のような問題を生んだのである。したがって、「全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)」の主張、あるいは思い込み、とは異なり、やはり現実には、日本のテレビ界全体が生み出したものなのである。
それを、あれは関西テレビ1社の問題にすぎないとつっぱねるというのは、まるでそこら中で”いじめ”が起きているのに、そんなものはないと報告した教育委員会や学校関係者のような対応といえるだろう。あまりに現実離れしている。
だいたいテレビ関係者やそのお偉方は自分が作って出している番組そのものを見ているのだろうか? これは、会社の製作部門が作ったもの、作っているところを会社の上層部がしっかり現場を見に行っているのだろうかという問題である。
私は、不二家と同じで、番組製作現場など見ていないのではないかと思う。不二家ですら、新社長になったものは、まるで”他人事”のように、うわべだけの当たり前のことを述べていただけだったからである。こういった人々が重役をしているわけだから、会社もよくなるはずがない。脱線事故を起こしたJR西日本では、例の問題となった「日勤教育」なるものに責任はないという始末。こういった風潮が今の日本のどの大企業にもあるのではないかと私は見ている。
要するに、自動車なら三菱、お菓子なら不二家、鉄道ならJR西日本、牛乳なら雪印、建築なら木村建設や姉歯、そしてテレビ番組製作なら関西テレビ、というように、そこには同じような空気が流れているのである。そして、これは単に問題となった1社だけの問題ではないだろうということである。
さて、実は「あるある大事典」問題の背後にあり、これだけではないだろうという大問題の”一端”が見えてきたようである。
あるある「20%超えたら香港に行ける」
というものである。
これは、ディレクターが
「視聴率はこの週が狙い目。20%を超えたい。20%を超えたら関西テレビのプロデューサーからご褒美に、コンペ参加名目で香港に連れて行ってもらえる」
と話していたというような問題である。 要するに、ディレクターが「20%超えたら香港に行ける」という”ニンジン”を目の前にぶら下げてはっぱをかけたのである。
吉本興業は、社訓として、出演者が番組でもらったものは”私物化”してよいというらしい。だから、吉本芸人は、番組にある賞金や商品の類いに血眼になる。ハイヒールもも子も、番組でハワイ旅行をもらって、ハワイで豪遊する。こうしたものは、出演料以外に全部自分の所得となるらしい。だから、吉本芸人はいつも番組に接待させる。つまり、番組を私物化しているわけだ。なぜなら、こういった社訓があれば、ハワイでマッサージを個人的に受ければ自腹を切るが、番組でマッサージシーンを映せば番組がそれを支払うからである。こうして吉本芸人は番組に”たかる”ようになる。「公私の区別」がつかなくなるのである。
日本のテレビ番組を見ていると、その司会者の口から、時々「だれそれは”御褒美”でどこどこに出かけています」というようなことが出る。この意味が、番組制作費からだれかに”御褒美”が出たという意味なのである。要するに、コマーシャル料からでた番組制作費を番組制作者たちが自分の会社の人事問題と混同して勝手に使っているということなのだろうと私は想像している。
視聴率が良ければ、ボーナスが出る。海外旅行に行かせてもらえる。
こうした恵まれた待遇、俗に日本では「役得」(私の一番嫌いなことばだ。ペレルマンが1億円を見る目つきで見てほしい)というものである。
まあ、こんなわけで、日本の芸能界にはすでに「役得」意識がはびこっているということである。「どうせバカな国民なんだから適当な番組を作って適当にやって視聴率”20%”をこえりゃー、海外旅行できるんだよ」というような特権意識が芽生えているということなのである。時々、みのもんたや所ジョージなどの言葉の節々にこの意識が見えかくれしているように私は感じることがある。もちろんあからさまに言えば問題になるからそうは言わないが。さもなくば、「あるある大事典」と似たような番組をいつまでも続けていると言う理由がない。
まあ、こういう連中のような「偽善者の国」になってしまったということである。
問題の”根”は深い。
あるある「20%超えたら香港に行ける」
というものである。
これは、ディレクターが
「視聴率はこの週が狙い目。20%を超えたい。20%を超えたら関西テレビのプロデューサーからご褒美に、コンペ参加名目で香港に連れて行ってもらえる」
と話していたというような問題である。 要するに、ディレクターが「20%超えたら香港に行ける」という”ニンジン”を目の前にぶら下げてはっぱをかけたのである。
吉本興業は、社訓として、出演者が番組でもらったものは”私物化”してよいというらしい。だから、吉本芸人は、番組にある賞金や商品の類いに血眼になる。ハイヒールもも子も、番組でハワイ旅行をもらって、ハワイで豪遊する。こうしたものは、出演料以外に全部自分の所得となるらしい。だから、吉本芸人はいつも番組に接待させる。つまり、番組を私物化しているわけだ。なぜなら、こういった社訓があれば、ハワイでマッサージを個人的に受ければ自腹を切るが、番組でマッサージシーンを映せば番組がそれを支払うからである。こうして吉本芸人は番組に”たかる”ようになる。「公私の区別」がつかなくなるのである。
日本のテレビ番組を見ていると、その司会者の口から、時々「だれそれは”御褒美”でどこどこに出かけています」というようなことが出る。この意味が、番組制作費からだれかに”御褒美”が出たという意味なのである。要するに、コマーシャル料からでた番組制作費を番組制作者たちが自分の会社の人事問題と混同して勝手に使っているということなのだろうと私は想像している。
視聴率が良ければ、ボーナスが出る。海外旅行に行かせてもらえる。
こうした恵まれた待遇、俗に日本では「役得」(私の一番嫌いなことばだ。ペレルマンが1億円を見る目つきで見てほしい)というものである。
まあ、こんなわけで、日本の芸能界にはすでに「役得」意識がはびこっているということである。「どうせバカな国民なんだから適当な番組を作って適当にやって視聴率”20%”をこえりゃー、海外旅行できるんだよ」というような特権意識が芽生えているということなのである。時々、みのもんたや所ジョージなどの言葉の節々にこの意識が見えかくれしているように私は感じることがある。もちろんあからさまに言えば問題になるからそうは言わないが。さもなくば、「あるある大事典」と似たような番組をいつまでも続けていると言う理由がない。
まあ、こういう連中のような「偽善者の国」になってしまったということである。
問題の”根”は深い。
2007/02/05のBlog
[ 21:17 ]
[ 教育 ]
pcjという方から長文のコメントがあったが、かなり面白い内容を含んでいるので、まずpcjさんの文章を1つにして、それから応答しておきたい。あくまで私の個人的見解にすぎないのでご了承を(この問題は何冊もの本にできるほどの内容があるので私がここで詳細な議論はできない。あくまでおおまかなこと)。
---------------------
はじめまして。pcjと申します。いつもQuasimoto様のブログを拝読させて頂いております。
私は英語に関心を持っているので、この事件には興味を引かれました。
このような’不良外人’が英会話学校の中だけに留まっていればまだましなのですが、最近では大学にも出向しています。私が通う大学(関東地方の中堅私立大学です)では、必修の英語の授業は、近隣の英会話学校の教師が非常勤講師として担当しています。授業中は日本語禁止、内容は英会話学校の授業と同様で、友人との雑談の練習や英語のゲームでした。
私がQuasimoto様の英会話学校の体験談を読んで驚いたのは、英会話学校の教師の振る舞いや授業内容が30年前とほとんど変わっていないことです。私が受けた授業でも、学生が授業に遅刻すると、英会話教師は遅刻の理由を英語で問いただしていました。
私は、英会話学校の不良外人や児戯のような英会話の授業が、このまま日本の英語教育に広がっていくことを懸念しています。近い将来、全国の小学校で英語の授業が導入されると思います(伊吹大臣が個人的な反対意見を述べたところで白紙撤回とはならないでしょう)。最近は文部省も英会話教育を重視しており、何よりも、英語のできない小学校の先生に付け焼刃で英語教授法を叩き込むことは困難ですから、恐らくネイティブの教師またはALTが授業を行うのでしょう。その際には、多くの大学が行っているように、手っ取り早く英会話学校からネイティブ教師を調達することも有り得ます。言語の土台がまだ出来上がっていない敏感な小学生に、日本をナメきった不良外人が英語を教えると思うと、寒心せざるをえません。 (まだ続きます。すみません)
ところで、Quasimoto様はコメントの中で、英語コンプレックスの克服法として白人と付き合うことを挙げておられますが、「白人と結婚した日本人が自信満々になる」という現象は、白人や英語のネイティブは日本人より優れた存在であると考えている(すなわち白人や英語に劣等感を持つ)日本人が、上位者である(と本人が思っている)白人と親密な関係を結ぶことによって自分が上位者の仲間入りをしたように感じ、他の日本人に対して優越感を持つことによるものであって、英語コンプレックスを克服したわけではなく、むしろ英語(白人)コンプレックスの一症例ではないかと思います。英語コンプレックスを克服する方法は、白人や英語ネイティブは日本人より優れた存在でも劣った存在でもなく、対等の存在である、と認識することではないでしょうか。非常に難しい事であるとは思いますが。
長文になってしまい失礼いたしました。
---------------------
---------------------
はじめまして。pcjと申します。いつもQuasimoto様のブログを拝読させて頂いております。
私は英語に関心を持っているので、この事件には興味を引かれました。
このような’不良外人’が英会話学校の中だけに留まっていればまだましなのですが、最近では大学にも出向しています。私が通う大学(関東地方の中堅私立大学です)では、必修の英語の授業は、近隣の英会話学校の教師が非常勤講師として担当しています。授業中は日本語禁止、内容は英会話学校の授業と同様で、友人との雑談の練習や英語のゲームでした。
私がQuasimoto様の英会話学校の体験談を読んで驚いたのは、英会話学校の教師の振る舞いや授業内容が30年前とほとんど変わっていないことです。私が受けた授業でも、学生が授業に遅刻すると、英会話教師は遅刻の理由を英語で問いただしていました。
私は、英会話学校の不良外人や児戯のような英会話の授業が、このまま日本の英語教育に広がっていくことを懸念しています。近い将来、全国の小学校で英語の授業が導入されると思います(伊吹大臣が個人的な反対意見を述べたところで白紙撤回とはならないでしょう)。最近は文部省も英会話教育を重視しており、何よりも、英語のできない小学校の先生に付け焼刃で英語教授法を叩き込むことは困難ですから、恐らくネイティブの教師またはALTが授業を行うのでしょう。その際には、多くの大学が行っているように、手っ取り早く英会話学校からネイティブ教師を調達することも有り得ます。言語の土台がまだ出来上がっていない敏感な小学生に、日本をナメきった不良外人が英語を教えると思うと、寒心せざるをえません。 (まだ続きます。すみません)
ところで、Quasimoto様はコメントの中で、英語コンプレックスの克服法として白人と付き合うことを挙げておられますが、「白人と結婚した日本人が自信満々になる」という現象は、白人や英語のネイティブは日本人より優れた存在であると考えている(すなわち白人や英語に劣等感を持つ)日本人が、上位者である(と本人が思っている)白人と親密な関係を結ぶことによって自分が上位者の仲間入りをしたように感じ、他の日本人に対して優越感を持つことによるものであって、英語コンプレックスを克服したわけではなく、むしろ英語(白人)コンプレックスの一症例ではないかと思います。英語コンプレックスを克服する方法は、白人や英語ネイティブは日本人より優れた存在でも劣った存在でもなく、対等の存在である、と認識することではないでしょうか。非常に難しい事であるとは思いますが。
長文になってしまい失礼いたしました。
---------------------
pcjさん
たいへんすばらしく貴重なコメントをどうもありがとう。私のブログをいつも読んでいるとのこと、有り難く思います。また、英語関係に深い理解があると感じました。
(あ)さて、最初のパラグラフについて。
私はアメリカに留学した1986年以降から現在まで日本の大学にはそれほど行ったことががないので、正直最近の日本の大学内のことは良く知りません。だから、私が中学生の時に受けた「英会話スクール」と今も同じだと聞いて、私もまた非常に驚きました。「へーー、そうなんだ」という感じですナ。
たいへんすばらしく貴重なコメントをどうもありがとう。私のブログをいつも読んでいるとのこと、有り難く思います。また、英語関係に深い理解があると感じました。
(あ)さて、最初のパラグラフについて。
私はアメリカに留学した1986年以降から現在まで日本の大学にはそれほど行ったことががないので、正直最近の日本の大学内のことは良く知りません。だから、私が中学生の時に受けた「英会話スクール」と今も同じだと聞いて、私もまた非常に驚きました。「へーー、そうなんだ」という感じですナ。
(い)2番目のパラグラフについて。
私も基本的にはあなたと同じ印象を持つ。ただ、私が「私が日本の英語教育でいつも混乱させられてきたのは、英語圏文化と日本文化のミスマッチである」と書いた中には、次のような非常に深い問題も含んでいるということを指摘したい。
「英語圏文化と日本文化のミスマッチ」というのは、実は非常に根の深く難しい問題を含んでいる。これは、たぶん日本と英語文化圏だけでなく、他の第2外国語を英語とする国々にはあるのだろうと思う。しかし、その中でも日本は特別に突出しているように見える。
では、これは何か?
というと、要するに、「英語を英会話からその文化的背景まで含めて真に理解できる日本人(日系人も含めて)は存在しない」ということ。(なぜなら、アメリカの日系人といってもアメリカに入植した時期以前のことは知り得ないからだ。ましてやアメリカ人の先祖であるイギリス人の文化まで連結して理解できる人物はいないからである。)
英会話に限ってみても非常に複雑な問題がある。
英会話が本当にできるようになるには、脳の臨界期である12歳くらいまでに英語圏で育つ必要がある。しかし、この時期だけでは、大人の英語をしゃべれるようにはならない。だから、少なくとも18歳の成人までは英語文化で育つ必要がある。しかし、そうすると、英会話はネイティブ並みになるが、同時に日本人の文化的背景(漢字や日本語の文字や文化歴史)を忘れて、”アメリカ人”としてメンタルに育つことになる。すると、本人は日本人種であっても自分はアメリカ人だというアイデンティティーを持ちやすい。結局こういう人は、いずれ日本人であることを止め、アメリカ人としてアメリカの生活を望むようになる。場合によっては日本人に敵対するというような人になる。
ところが、先に日本人の文化的背景を優先すると、自分は”日本人”だと思うようになるが、今度は脳の臨界期を失うので、”ジャパニーズイングリッシュ”しか話せない人間になってしまう。そうなると、結局、英語は本当には欧米人と流暢にやり取りできなくなるために、国際社会ではいつも”お客さん”として過ごすことしかできなくなる。欧米人どうしの会話にはついていくことが難しくなる。あくまで英語をツールとして使用するだけの日本人となる(私はこの中に入るだろう)。
では両方をパラレルに行うとどうなるかと言えば、今度は英語はしゃべれるが日本語が読み書きできない。日本語はしゃべれるが英語の読み書きができない。どちらの国の歴史も文化も知らない、というような人間になる。”根無し草”的なアイデンティティーしか持てず、本人が悩むことになる。こうなると、自己否定しかねず、非常にあやふやな人になる。だから、結局どっちかに決めるのだが、そうなると今度は、経済的には(人権問題や税金問題なども含めて)アメリカ人になることを望む傾向がある。なぜなら日本国とアメリカ国を比べた場合にはアメリカの方が有利だからだ。
こんなわけで、結局どっちにころんでも、英語が得意になれば、アメリカ人になった方が有利ということを知るようになり、アメリカ人になりたがるようになる。これでは、英語のできる日本人を育てるという当初の目的とは異なる矛盾した結果に終わることになる。
このように、日本人が英語習得するのは、非常に”微妙な”問題を含む。
一方、アメリカ人が日本語を話せるようになるのは、脳生理学的有利さがあり非常に楽である、ということがある。英語で育つとシラブルの判別(聞き取り)が容易になるために、日本語他の諸外国語の習得が早い。しかし、これができる人は欧米人なのだから、本質的に日本文化(漢字や歴史など)まで理解できるとは限らない。仮に日本文化を理解してくれたとしても、外見も人種的にも外人だから、その制約上それ以上に進むのは難しい。あくまで”日本通”の外人の域をこえない。こうした人は老後日本人女性を妻にめとり身の世話を頼むというライシャワー的な人が多い。
こういった問題から、日本人が欧米人の言葉や文化を理解するようになるより、欧米人が日本人の言葉や文化を理解する方が容易くなる。したがって、日本人が外国人の優劣を判別するより、外国人が日本人の優劣をつける方が楽となる。つまり、「英語問題では、必然的に日本人が不利となる」。このことは、日本人がアメリカのハリウッドで成功者になるより、アメリカ人が日本の芸能界で成功者になる方が楽であることからも分かる。日本人がハリウッドで成功者になるには、結局”日本人として”でなくてはらない。アメリカ人としてではない。渡辺謙を見れば分かるだろう。
以上は、会話問題だけだが、これに法律の問題や社会問題など文化や歴史の問題が加わる。だから、実に難しい問題。
では、最初からこの問題を避けるにはどうすればいいか?
と言えば、日本人が英語文化圏に取り込まれてしまえばいいのだが、そうなると、日本人は人種だけの肉体的問題となり、文化的にはアメリカ人となってしまう。個人的には、そういう人もいてもいいのだが、全員となると現実上不可能。それゆえ、この問題を個人的に避けようとする人は、結局”アメリカ人”に法的にどうやってなるかという問題になる。アメリカ人と結婚するとか、アメリカ留学してワーキングビザをとりそのうち永住権をとってアメリカ人になるか、というような話になる。
こういった問題がまずあると分かると、今度は、日本人が国内に来る英会話の先生を判別するのがいかに困難なことか分かる。アメリカ人の方が日本人より言語的適応性があるわけだから、日本人はアメリカ人どうしの会話を理解できず、本心を見抜くのが難しくなるわけだ(これは、イチローが英語をしゃべるより、回りのアメリカ人選手の方が先に日本語をしゃべるようになることからも明らか)。では、英米で育った日本人が行えばいいかというと、そうなると今度は自分もアメリカ人的な要素を求めているのだから、アメリカ人の”公私の区別(私的には悪さしてもオーケー)”に寛容となる。アメリカ人に”良い先生”を演技されたら私生活や性生活の問題まではチェックできない。
そんなわけだから、「日本人が実質上欧米人の英会話教師の善し悪しを判別するのは不可能に近い」ということになる。しかし、もしそういった問題が判別できる人間がいれば、その人に判別してもらえばいいのだが、欧米人の場合、特にアメリカ人の場合には、「アメリカの法律を念頭において生きている」わけだから、絶対に日本人の慣習や法体系を基に従うことはありえない。かならず、法的手段に訴えるだろう。それゆえ問題がこじれる。
こんなふうにこの問題は極めて難しい問題を含んでいる。
しかし、私がこれまで理解した中では、個人的には、モルモン教徒がミッショナリーを選ぶ方法が一番ましなのではないか、と見ている。モルモン教徒はユタ、ソルトレイクのモルモン教会がミッショナリー派遣の全責任を持つ。だから、日本に布教に行くモルモン教徒をモルモン教会そのものが選ぶことになる。その代わり、日本での活動が帰国後の自分のキャリアアップにつながる。だから、宣教師は必死で日本でいい布教に勤める。
おそらく、アメリカ人の英会話教師が本国に帰国後のキャリアアップに繋がるような方法をとり、「アメリカの然るべき機関を通じてそこの全責任の下に派遣する」というような方法がベストなのではないか、ということである。
さもなくば、日本滞在したいがためのつなぎ資金獲得のために英会話教師になるというような人ばかりになる。こういう人は本国で立派な人間になるつもりもないわけだから、おのずと日本で教えることもいいかげんとなる。
だいたいこんなふうに私は理解している。
私も基本的にはあなたと同じ印象を持つ。ただ、私が「私が日本の英語教育でいつも混乱させられてきたのは、英語圏文化と日本文化のミスマッチである」と書いた中には、次のような非常に深い問題も含んでいるということを指摘したい。
「英語圏文化と日本文化のミスマッチ」というのは、実は非常に根の深く難しい問題を含んでいる。これは、たぶん日本と英語文化圏だけでなく、他の第2外国語を英語とする国々にはあるのだろうと思う。しかし、その中でも日本は特別に突出しているように見える。
では、これは何か?
というと、要するに、「英語を英会話からその文化的背景まで含めて真に理解できる日本人(日系人も含めて)は存在しない」ということ。(なぜなら、アメリカの日系人といってもアメリカに入植した時期以前のことは知り得ないからだ。ましてやアメリカ人の先祖であるイギリス人の文化まで連結して理解できる人物はいないからである。)
英会話に限ってみても非常に複雑な問題がある。
英会話が本当にできるようになるには、脳の臨界期である12歳くらいまでに英語圏で育つ必要がある。しかし、この時期だけでは、大人の英語をしゃべれるようにはならない。だから、少なくとも18歳の成人までは英語文化で育つ必要がある。しかし、そうすると、英会話はネイティブ並みになるが、同時に日本人の文化的背景(漢字や日本語の文字や文化歴史)を忘れて、”アメリカ人”としてメンタルに育つことになる。すると、本人は日本人種であっても自分はアメリカ人だというアイデンティティーを持ちやすい。結局こういう人は、いずれ日本人であることを止め、アメリカ人としてアメリカの生活を望むようになる。場合によっては日本人に敵対するというような人になる。
ところが、先に日本人の文化的背景を優先すると、自分は”日本人”だと思うようになるが、今度は脳の臨界期を失うので、”ジャパニーズイングリッシュ”しか話せない人間になってしまう。そうなると、結局、英語は本当には欧米人と流暢にやり取りできなくなるために、国際社会ではいつも”お客さん”として過ごすことしかできなくなる。欧米人どうしの会話にはついていくことが難しくなる。あくまで英語をツールとして使用するだけの日本人となる(私はこの中に入るだろう)。
では両方をパラレルに行うとどうなるかと言えば、今度は英語はしゃべれるが日本語が読み書きできない。日本語はしゃべれるが英語の読み書きができない。どちらの国の歴史も文化も知らない、というような人間になる。”根無し草”的なアイデンティティーしか持てず、本人が悩むことになる。こうなると、自己否定しかねず、非常にあやふやな人になる。だから、結局どっちかに決めるのだが、そうなると今度は、経済的には(人権問題や税金問題なども含めて)アメリカ人になることを望む傾向がある。なぜなら日本国とアメリカ国を比べた場合にはアメリカの方が有利だからだ。
こんなわけで、結局どっちにころんでも、英語が得意になれば、アメリカ人になった方が有利ということを知るようになり、アメリカ人になりたがるようになる。これでは、英語のできる日本人を育てるという当初の目的とは異なる矛盾した結果に終わることになる。
このように、日本人が英語習得するのは、非常に”微妙な”問題を含む。
一方、アメリカ人が日本語を話せるようになるのは、脳生理学的有利さがあり非常に楽である、ということがある。英語で育つとシラブルの判別(聞き取り)が容易になるために、日本語他の諸外国語の習得が早い。しかし、これができる人は欧米人なのだから、本質的に日本文化(漢字や歴史など)まで理解できるとは限らない。仮に日本文化を理解してくれたとしても、外見も人種的にも外人だから、その制約上それ以上に進むのは難しい。あくまで”日本通”の外人の域をこえない。こうした人は老後日本人女性を妻にめとり身の世話を頼むというライシャワー的な人が多い。
こういった問題から、日本人が欧米人の言葉や文化を理解するようになるより、欧米人が日本人の言葉や文化を理解する方が容易くなる。したがって、日本人が外国人の優劣を判別するより、外国人が日本人の優劣をつける方が楽となる。つまり、「英語問題では、必然的に日本人が不利となる」。このことは、日本人がアメリカのハリウッドで成功者になるより、アメリカ人が日本の芸能界で成功者になる方が楽であることからも分かる。日本人がハリウッドで成功者になるには、結局”日本人として”でなくてはらない。アメリカ人としてではない。渡辺謙を見れば分かるだろう。
以上は、会話問題だけだが、これに法律の問題や社会問題など文化や歴史の問題が加わる。だから、実に難しい問題。
では、最初からこの問題を避けるにはどうすればいいか?
と言えば、日本人が英語文化圏に取り込まれてしまえばいいのだが、そうなると、日本人は人種だけの肉体的問題となり、文化的にはアメリカ人となってしまう。個人的には、そういう人もいてもいいのだが、全員となると現実上不可能。それゆえ、この問題を個人的に避けようとする人は、結局”アメリカ人”に法的にどうやってなるかという問題になる。アメリカ人と結婚するとか、アメリカ留学してワーキングビザをとりそのうち永住権をとってアメリカ人になるか、というような話になる。
こういった問題がまずあると分かると、今度は、日本人が国内に来る英会話の先生を判別するのがいかに困難なことか分かる。アメリカ人の方が日本人より言語的適応性があるわけだから、日本人はアメリカ人どうしの会話を理解できず、本心を見抜くのが難しくなるわけだ(これは、イチローが英語をしゃべるより、回りのアメリカ人選手の方が先に日本語をしゃべるようになることからも明らか)。では、英米で育った日本人が行えばいいかというと、そうなると今度は自分もアメリカ人的な要素を求めているのだから、アメリカ人の”公私の区別(私的には悪さしてもオーケー)”に寛容となる。アメリカ人に”良い先生”を演技されたら私生活や性生活の問題まではチェックできない。
そんなわけだから、「日本人が実質上欧米人の英会話教師の善し悪しを判別するのは不可能に近い」ということになる。しかし、もしそういった問題が判別できる人間がいれば、その人に判別してもらえばいいのだが、欧米人の場合、特にアメリカ人の場合には、「アメリカの法律を念頭において生きている」わけだから、絶対に日本人の慣習や法体系を基に従うことはありえない。かならず、法的手段に訴えるだろう。それゆえ問題がこじれる。
こんなふうにこの問題は極めて難しい問題を含んでいる。
しかし、私がこれまで理解した中では、個人的には、モルモン教徒がミッショナリーを選ぶ方法が一番ましなのではないか、と見ている。モルモン教徒はユタ、ソルトレイクのモルモン教会がミッショナリー派遣の全責任を持つ。だから、日本に布教に行くモルモン教徒をモルモン教会そのものが選ぶことになる。その代わり、日本での活動が帰国後の自分のキャリアアップにつながる。だから、宣教師は必死で日本でいい布教に勤める。
おそらく、アメリカ人の英会話教師が本国に帰国後のキャリアアップに繋がるような方法をとり、「アメリカの然るべき機関を通じてそこの全責任の下に派遣する」というような方法がベストなのではないか、ということである。
さもなくば、日本滞在したいがためのつなぎ資金獲得のために英会話教師になるというような人ばかりになる。こういう人は本国で立派な人間になるつもりもないわけだから、おのずと日本で教えることもいいかげんとなる。
だいたいこんなふうに私は理解している。
(う)3番目のパラグラフについて
「英語コンプレックスの克服法」については、あなたのおっしゃる通り。実にするどく本質をついていますナ。まさしくそれは、「白人コンプレックス」の裏返しに過ぎない。
しかし、人間は生き物。現実の人間には、そういった無意識化に潜むコンプレックスがある。だから、それを解消するには必要悪という面もある。実際、英語が習熟するには、ストレートの男(女)ならガール(ボーイ)フレンド、ゲイの男(女)ならボーイ(ガール)フレンドを作ることであるというのは事実。私の知る例で、そうやってどんどんボーイフレンドの国籍を変えて五か国語習得してしまったという日本女性がいた。
この辺はまだ科学的には証明されていないが、私は科学的に”いずれ証明されるだろう何かの理由”があるだろうと信じる。老人でも恋いをすれば10年若返る、というように、人間は恋愛で脳が活性化する。そういうふうに”出来ている”。だから、同じ英語習得でも、相手と恋に陥った方が習得が早くなるのは理屈にあうからだ。私が見てきた現実と合う。
また、もっと具体的には、日本人と結婚し日本に住むということは生涯日本の法律のお世話になるということを意味するが、逆にアメリカ人と結婚しアメリカに住むということは生涯アメリカの法律のお世話になるということを意味する。アメリカの法律と日本の法律を比べた場合、社会の権力者にとっては大差はないが(実際には雲泥の差があるが)、一般人にとっては非常に大きな差がある。やはりアメリカの方が一般人には権利が保証されている。例えば、相続税の免除、税金が安い、などなど。
だから、現実的にも、アメリカ人の優れた男性と結婚した方が、同程度の日本人と結婚するなら1人の女性の得られる権利や有利さからすればはるかに多いというような問題がある。それゆえ、白人男性と結婚した日本人女性が「さも世界征服でもしたかのように自信満々になる」という気持ちが分からないでもない。実際にそういう面は存在するからだ。事実あらゆることが有利となる。もちろん、日本人男性がアメリカ人女性と結婚した場合も法的にはそういう有利さはあるが、いつも紹介するジョーク
「最良の人生とは何か?それは、アメリカの大学に職を持ち、イギリスの家に住み、日本人の奥さんをもらい、中国料理を食べる人生。最悪の人生とは何か?それは、中国に職を持ち、日本人の家に住み、アメリカ人の奥さんをもらい、イギリス料理を食べる人生である。」
のようになる可能性はある。
「英語コンプレックスを克服する方法は、白人や英語ネイティブは日本人より優れた存在でも劣った存在でもなく、対等の存在である、と認識することではないでしょうか。」
これはまったく正しい。しかし、欧米人はサッカーをみるまでもなく”あらゆる手段を講じてやってくる”というのも事実。だから、日本人が英語ができないから、不良外人が入り込むのであり、日本人が英語が分からないからコンプレックスを持つのである。現実は日本人と白人や英語ネイティブとは”対等ではない”というところにこそこの問題の困難さがある。重ねていうが、”英語に関して”は永久に対当になることはありえない(もちろん、他の面では対等になりえる。科学とか、スポーツとか)。
だから、もしその外人コンプレックスが白人女性とセックス一発でなくなるならそれでも結構。彼女にすればなくなるならそれも結構。結婚すればなくなるならそれでも結構。すこしでもコンプレックスを持たない日本人が増えればそれで結構。
こんな風なことを私は言っている。
果たして、この返答が、あなたやより多くの日本人がアメリカ人と結婚することに繋がるということになるのかも知れないが。どうあがいても日本人には不利となってしまうんですナ。
「英語コンプレックスの克服法」については、あなたのおっしゃる通り。実にするどく本質をついていますナ。まさしくそれは、「白人コンプレックス」の裏返しに過ぎない。
しかし、人間は生き物。現実の人間には、そういった無意識化に潜むコンプレックスがある。だから、それを解消するには必要悪という面もある。実際、英語が習熟するには、ストレートの男(女)ならガール(ボーイ)フレンド、ゲイの男(女)ならボーイ(ガール)フレンドを作ることであるというのは事実。私の知る例で、そうやってどんどんボーイフレンドの国籍を変えて五か国語習得してしまったという日本女性がいた。
この辺はまだ科学的には証明されていないが、私は科学的に”いずれ証明されるだろう何かの理由”があるだろうと信じる。老人でも恋いをすれば10年若返る、というように、人間は恋愛で脳が活性化する。そういうふうに”出来ている”。だから、同じ英語習得でも、相手と恋に陥った方が習得が早くなるのは理屈にあうからだ。私が見てきた現実と合う。
また、もっと具体的には、日本人と結婚し日本に住むということは生涯日本の法律のお世話になるということを意味するが、逆にアメリカ人と結婚しアメリカに住むということは生涯アメリカの法律のお世話になるということを意味する。アメリカの法律と日本の法律を比べた場合、社会の権力者にとっては大差はないが(実際には雲泥の差があるが)、一般人にとっては非常に大きな差がある。やはりアメリカの方が一般人には権利が保証されている。例えば、相続税の免除、税金が安い、などなど。
だから、現実的にも、アメリカ人の優れた男性と結婚した方が、同程度の日本人と結婚するなら1人の女性の得られる権利や有利さからすればはるかに多いというような問題がある。それゆえ、白人男性と結婚した日本人女性が「さも世界征服でもしたかのように自信満々になる」という気持ちが分からないでもない。実際にそういう面は存在するからだ。事実あらゆることが有利となる。もちろん、日本人男性がアメリカ人女性と結婚した場合も法的にはそういう有利さはあるが、いつも紹介するジョーク
「最良の人生とは何か?それは、アメリカの大学に職を持ち、イギリスの家に住み、日本人の奥さんをもらい、中国料理を食べる人生。最悪の人生とは何か?それは、中国に職を持ち、日本人の家に住み、アメリカ人の奥さんをもらい、イギリス料理を食べる人生である。」
のようになる可能性はある。
「英語コンプレックスを克服する方法は、白人や英語ネイティブは日本人より優れた存在でも劣った存在でもなく、対等の存在である、と認識することではないでしょうか。」
これはまったく正しい。しかし、欧米人はサッカーをみるまでもなく”あらゆる手段を講じてやってくる”というのも事実。だから、日本人が英語ができないから、不良外人が入り込むのであり、日本人が英語が分からないからコンプレックスを持つのである。現実は日本人と白人や英語ネイティブとは”対等ではない”というところにこそこの問題の困難さがある。重ねていうが、”英語に関して”は永久に対当になることはありえない(もちろん、他の面では対等になりえる。科学とか、スポーツとか)。
だから、もしその外人コンプレックスが白人女性とセックス一発でなくなるならそれでも結構。彼女にすればなくなるならそれも結構。結婚すればなくなるならそれでも結構。すこしでもコンプレックスを持たない日本人が増えればそれで結構。
こんな風なことを私は言っている。
果たして、この返答が、あなたやより多くの日本人がアメリカ人と結婚することに繋がるということになるのかも知れないが。どうあがいても日本人には不利となってしまうんですナ。
2007/02/04のBlog
[ 16:48 ]
[ 音楽・芸能 ]
二重あご解消でも疑惑 顔ヤセに器具使用 「あるある」
「発掘!あるある”やらせ・捏造”大事典2」
の続編。
04年10月31日放送の「10日間で変わる!顔ヤセの科学」もまた”やらせ・ねつ造”番組であったことが発覚。
また、今回新しく明かとなったことでは、”ごく普通の一般人”が選ばれたように見えるが、実は「実験に協力した女性の多くはタレントやエキストラを派遣する芸能事務所に呼びかけて募集し、オーディションで選ばれていた。出演料も支払われている。」ということであった。
要するに、お金のためなら何でもするというタイプの無名芸人がオーディションで選ばれて”ごく普通の一般人”を演出していた疑惑が浮上したということである。
実は、この方法はすでに広く芸能界で使われている。
例えば、さんまやタモリや所ジョージや関口宏などの番組で一般人のような顔をして後や観客席の前に陣取っている人々が、実はまだ無名の役者の卵のような連中であり、出演料を得て”あたかも一般人づらしている”という問題である。
こういう連中が、番組の”しかけ”に合わせて”へーー”とか、”そうですね”とか、”うわー”とか、”うっそーー”とか連発するのである。要するに、番組のための”効果音”替わりに番組に雇われた連中なのである。
「タレントやエキストラを派遣する芸能事務所」や「外人タレントや外人エキストラを派遣する芸能事務所」など、いわゆる”タレント派遣業者”もあたかも普通人を演出させるようなことをして大金を儲けているようだが、今回の事件を契機に、一喝すべきだろう。
「外人タレントや外人エキストラを派遣する芸能事務所」の女社長は、千葉に広大な土地所有しているらしいが、海外国内格差を利用して大儲けしているこういった人々にはもっとしっかり税金を支払ってもらえるように、”マルサ”もしっかりチェックすべきだろう。
いずれにせよ、外人をスカウトして国内番組に出させることで儲かると教えるようなことを仕事にしている、こういった人々ばかりになれば、不良外人ばかりとなってしまうだろう。真面目に考えたり、真面目に働こうとするものは激減してしまうことだろう。
いつも思うことだが、日本のテレビのコマーシャルや広告料金や番組制作費は高すぎるのではないかと思う。果たして企業がそんなに高い広告料や番組制作費を出してまでテレビ番組にこだわる必要があるのか。
そんな時代はすでに過ぎ去っていると私は思う。そんな余分なお金があるのなら、芸能人やマスコミに回すのではなく、本来なら自分の会社の社員に支払うべきである。社員を大事にせずに芸能人ばかりちやほやするからこうした不祥事がうまれるのである。本当に良い商品であれば、広告などなかったとしても十分売れるはずである。今はインターネットなどもあるからである。
そろそろ、芸能界も「許認可制・免許制度」が必要な時代になったのではないかと私は信じる。ちまたと同じで、これまではあまりにも「性善説」に凝り固まっていたのではないかと思うからである。「性悪説」に基づき、芸人は国民のことより自分の財布のことしか興味なく、自分の胃袋や下半身のことしか関心がない(吉本芸人を見れば分かる)ということを念頭においた施策をつくるべきである。
この問題については、
[「あるある」捏造]「関西テレビは説明責任を果たせ」
の中にいくつかヒントがあるが、これについてはまた今度にしよう。
「発掘!あるある”やらせ・捏造”大事典2」
の続編。
04年10月31日放送の「10日間で変わる!顔ヤセの科学」もまた”やらせ・ねつ造”番組であったことが発覚。
また、今回新しく明かとなったことでは、”ごく普通の一般人”が選ばれたように見えるが、実は「実験に協力した女性の多くはタレントやエキストラを派遣する芸能事務所に呼びかけて募集し、オーディションで選ばれていた。出演料も支払われている。」ということであった。
要するに、お金のためなら何でもするというタイプの無名芸人がオーディションで選ばれて”ごく普通の一般人”を演出していた疑惑が浮上したということである。
実は、この方法はすでに広く芸能界で使われている。
例えば、さんまやタモリや所ジョージや関口宏などの番組で一般人のような顔をして後や観客席の前に陣取っている人々が、実はまだ無名の役者の卵のような連中であり、出演料を得て”あたかも一般人づらしている”という問題である。
こういう連中が、番組の”しかけ”に合わせて”へーー”とか、”そうですね”とか、”うわー”とか、”うっそーー”とか連発するのである。要するに、番組のための”効果音”替わりに番組に雇われた連中なのである。
「タレントやエキストラを派遣する芸能事務所」や「外人タレントや外人エキストラを派遣する芸能事務所」など、いわゆる”タレント派遣業者”もあたかも普通人を演出させるようなことをして大金を儲けているようだが、今回の事件を契機に、一喝すべきだろう。
「外人タレントや外人エキストラを派遣する芸能事務所」の女社長は、千葉に広大な土地所有しているらしいが、海外国内格差を利用して大儲けしているこういった人々にはもっとしっかり税金を支払ってもらえるように、”マルサ”もしっかりチェックすべきだろう。
いずれにせよ、外人をスカウトして国内番組に出させることで儲かると教えるようなことを仕事にしている、こういった人々ばかりになれば、不良外人ばかりとなってしまうだろう。真面目に考えたり、真面目に働こうとするものは激減してしまうことだろう。
いつも思うことだが、日本のテレビのコマーシャルや広告料金や番組制作費は高すぎるのではないかと思う。果たして企業がそんなに高い広告料や番組制作費を出してまでテレビ番組にこだわる必要があるのか。
そんな時代はすでに過ぎ去っていると私は思う。そんな余分なお金があるのなら、芸能人やマスコミに回すのではなく、本来なら自分の会社の社員に支払うべきである。社員を大事にせずに芸能人ばかりちやほやするからこうした不祥事がうまれるのである。本当に良い商品であれば、広告などなかったとしても十分売れるはずである。今はインターネットなどもあるからである。
そろそろ、芸能界も「許認可制・免許制度」が必要な時代になったのではないかと私は信じる。ちまたと同じで、これまではあまりにも「性善説」に凝り固まっていたのではないかと思うからである。「性悪説」に基づき、芸人は国民のことより自分の財布のことしか興味なく、自分の胃袋や下半身のことしか関心がない(吉本芸人を見れば分かる)ということを念頭においた施策をつくるべきである。
この問題については、
[「あるある」捏造]「関西テレビは説明責任を果たせ」
の中にいくつかヒントがあるが、これについてはまた今度にしよう。
[ 12:16 ]
[ ジョーク ]
中国で尻出しのトミーズ健、活動自粛 「ぼくが馬鹿」
また”吉本芸人の不祥事”。そして、これまた”大阪人”がやってくれました。「あるある大事典」に続く大阪人の”怪挙”。
漫才コンビ、トミーズの健さん(47)が、朝日放送(大阪市)テレビの番組で中国の海南島ロケをしたが、その際、仏教寺院や混浴温泉などで4回ほど即興の「尻を出しギャグ」でお笑いをとろうとしたが、中国人の受けは得られず、逆に、中国当局に”御用”となったというニュース。
この事件は、国内受けのみの”吉本ギャグ”が、海外でも通用するという”奢り”に端を発している。
どうせなら吉本興業芸人職員全員でイラクに大挙して遠征し、そこでアラブ人の目の前でみんなで一斉に「尻を出しギャグ」をしてもらいたいものである。すぐに、自爆攻撃で吉本興業は木っ端みじんとなるだろう。
大阪の恵まれた第一等地にある吉本喜劇の円舞場で”大阪人だけにしか分からないような芸”をやって喜んでいるわけだ。しかし、その乗りで東京に乗り込み、大阪のバカ芸を全国区にする。ついでに”国の宝”であるべき美人女優たちに”手を出し”、バカ遺伝子を植え付けてしまう。金を稼ぐだけならともかく、こうなるともはや”犯罪行為”である。日本人を生物学的にもバカ人種化しかねないからである。もはや”お笑いテロ”と言えるかも知れない。
大分前に
「”お笑い”インベーダー 」、
「”お笑い”インベーダー2 」
「”お笑い”インベーダー3:吉本の”黄昏れ” 」
というものを書いていたが、とうとう”お笑いインベーダーは中国へも進出したようである。
吉本興業が関東に進出すれば、今度は関東の渡辺プロやジャニーズなど関東のプロダクションも”お笑い”芸人で反撃する。こうして日本全国笑ってばかりいる”お笑いバカ”ばかりとなる。これが”お笑いインベーダー”の恐怖である。
ある日突然あなたの妻がへらへら笑っている。次の日にはあなたの子供がへらへら笑っている。こんな日が来ないことを私は祈っているのだが。
ところで、ちまたでは、日本全国で販売されている商品のうち1つでも”不良品”が混入すれば、日本全国からその商品を撤去する。雪印しかし、不二屋しかり、パロマしかり、松下しかり、三菱自動車しかり。私個人は、こうした連帯責任的なやり方はあまりに”勿体無い”と思うが、これが今の日本社会の潮流のようだ。
芸人というものも言ってみれば、その芸人を所属させている会社の持つ”商品”である。だから、吉本芸人は吉本興業の”商品”である。その商品に”不良品”が混入していたわけである。だから、上のやり方が今の日本社会の潮流なのだとすれば、それに従って”類似商品全部を撤去して欲しい”ところである。
また”吉本芸人の不祥事”。そして、これまた”大阪人”がやってくれました。「あるある大事典」に続く大阪人の”怪挙”。
漫才コンビ、トミーズの健さん(47)が、朝日放送(大阪市)テレビの番組で中国の海南島ロケをしたが、その際、仏教寺院や混浴温泉などで4回ほど即興の「尻を出しギャグ」でお笑いをとろうとしたが、中国人の受けは得られず、逆に、中国当局に”御用”となったというニュース。
この事件は、国内受けのみの”吉本ギャグ”が、海外でも通用するという”奢り”に端を発している。
どうせなら吉本興業芸人職員全員でイラクに大挙して遠征し、そこでアラブ人の目の前でみんなで一斉に「尻を出しギャグ」をしてもらいたいものである。すぐに、自爆攻撃で吉本興業は木っ端みじんとなるだろう。
大阪の恵まれた第一等地にある吉本喜劇の円舞場で”大阪人だけにしか分からないような芸”をやって喜んでいるわけだ。しかし、その乗りで東京に乗り込み、大阪のバカ芸を全国区にする。ついでに”国の宝”であるべき美人女優たちに”手を出し”、バカ遺伝子を植え付けてしまう。金を稼ぐだけならともかく、こうなるともはや”犯罪行為”である。日本人を生物学的にもバカ人種化しかねないからである。もはや”お笑いテロ”と言えるかも知れない。
大分前に
「”お笑い”インベーダー 」、
「”お笑い”インベーダー2 」
「”お笑い”インベーダー3:吉本の”黄昏れ” 」
というものを書いていたが、とうとう”お笑いインベーダーは中国へも進出したようである。
吉本興業が関東に進出すれば、今度は関東の渡辺プロやジャニーズなど関東のプロダクションも”お笑い”芸人で反撃する。こうして日本全国笑ってばかりいる”お笑いバカ”ばかりとなる。これが”お笑いインベーダー”の恐怖である。
ある日突然あなたの妻がへらへら笑っている。次の日にはあなたの子供がへらへら笑っている。こんな日が来ないことを私は祈っているのだが。
ところで、ちまたでは、日本全国で販売されている商品のうち1つでも”不良品”が混入すれば、日本全国からその商品を撤去する。雪印しかし、不二屋しかり、パロマしかり、松下しかり、三菱自動車しかり。私個人は、こうした連帯責任的なやり方はあまりに”勿体無い”と思うが、これが今の日本社会の潮流のようだ。
芸人というものも言ってみれば、その芸人を所属させている会社の持つ”商品”である。だから、吉本芸人は吉本興業の”商品”である。その商品に”不良品”が混入していたわけである。だから、上のやり方が今の日本社会の潮流なのだとすれば、それに従って”類似商品全部を撤去して欲しい”ところである。
2007/02/03のBlog
[ 11:14 ]
[ 公表論文 ]
(62) Kazumoto Iguchi, Shu-ichi Kinoshita and Hiroaki S. Yamada,
"Boolean Dynamics of Kauffman Models with a Scale-Free Network",
to be published, J. Theor. Biol. (2006).*
cond-mat/0510430
"Boolean Dynamics of Kauffman Models with a Scale-Free Network",
to be published, J. Theor. Biol. (2006).*
cond-mat/0510430
[ 09:32 ]
[ 訃報・追悼 ]
日テレの大杉アナ、自殺か 自宅マンションから転落死
いやはや、これは残念なニュース。「女子アナ」ブームの切っ掛けを作った女子アナの一人、大杉(旧姓鈴木)君枝アナウンサー(43)、が飛び降り自殺でなくなったという。出産後の育児休業中に線維筋痛症にかかり治療専念していたらしい。
どうやら出産後の育児の忙しさと線維筋痛症の治療の忙しさの中で心身症にかかり、自殺してしまったように見える。おそらくうまく”眠れない”状態が続き、うつ状態になったのだろう。
私(と妻)は、最近よく思うのだが、どうやらちまたの病院では、このうつ状態の症状を見せるとすぐに処方してくれる「睡眠薬」があるようだ。我が家では、どうもこの薬の副作用に逆に「うつを悪化させ自殺を促すものがある」のではないか、と疑っている。そして、この薬には”常習性”があり、一度使い出すとなかなか手が離せない状態になる。
アメリカなどでは、睡眠薬ではなく、睡眠ホルモンのメラトニンの錠剤を飲むことになっているが、だから眠れないから薬を飲んでうつになるということはない。逆にメラトニンは若返りの健康食品の一種としてすら考えられているほどである。
どうも日本(厚生労働省)は、日本の製薬会社が儲かりそうにないアメリカ製メラトニンは病院で処方しないようである。その代わりに日本の製薬会社が儲かりそうな睡眠薬、つまり日本製睡眠薬を処方しているのではないか、という気がするのである。要するに、日本の官僚は自分の配下の企業が儲からないことはいくら国民のためとなっても許可しないのである(これは、小児の脳死移植を見れば分かるだろう。この場合も小児1人1億円も日本円がアメリカに流出して日本人が損をしているのにお構いなしなのである。逆に、アメリカは世界中から患者が来て大喜びだろう)。
日本の”薬害”というのは、水戸黄門のワンパターンの悪代官振りと全く同じで、全くのワンパターンを繰り返し続けている。(「薬害、薬害、薬害 」参照)。 悪名高い「ミドリ十字」は、薬害エイズ、薬害肝炎などなど相変わらずである。
いやはや、これは残念なニュース。「女子アナ」ブームの切っ掛けを作った女子アナの一人、大杉(旧姓鈴木)君枝アナウンサー(43)、が飛び降り自殺でなくなったという。出産後の育児休業中に線維筋痛症にかかり治療専念していたらしい。
どうやら出産後の育児の忙しさと線維筋痛症の治療の忙しさの中で心身症にかかり、自殺してしまったように見える。おそらくうまく”眠れない”状態が続き、うつ状態になったのだろう。
私(と妻)は、最近よく思うのだが、どうやらちまたの病院では、このうつ状態の症状を見せるとすぐに処方してくれる「睡眠薬」があるようだ。我が家では、どうもこの薬の副作用に逆に「うつを悪化させ自殺を促すものがある」のではないか、と疑っている。そして、この薬には”常習性”があり、一度使い出すとなかなか手が離せない状態になる。
アメリカなどでは、睡眠薬ではなく、睡眠ホルモンのメラトニンの錠剤を飲むことになっているが、だから眠れないから薬を飲んでうつになるということはない。逆にメラトニンは若返りの健康食品の一種としてすら考えられているほどである。
どうも日本(厚生労働省)は、日本の製薬会社が儲かりそうにないアメリカ製メラトニンは病院で処方しないようである。その代わりに日本の製薬会社が儲かりそうな睡眠薬、つまり日本製睡眠薬を処方しているのではないか、という気がするのである。要するに、日本の官僚は自分の配下の企業が儲からないことはいくら国民のためとなっても許可しないのである(これは、小児の脳死移植を見れば分かるだろう。この場合も小児1人1億円も日本円がアメリカに流出して日本人が損をしているのにお構いなしなのである。逆に、アメリカは世界中から患者が来て大喜びだろう)。
日本の”薬害”というのは、水戸黄門のワンパターンの悪代官振りと全く同じで、全くのワンパターンを繰り返し続けている。(「薬害、薬害、薬害 」参照)。 悪名高い「ミドリ十字」は、薬害エイズ、薬害肝炎などなど相変わらずである。
どうも「睡眠薬」の場合にもこれと似たようなことが起こっている気がしてならない。つまり、「睡眠薬害」である。
その昔の睡眠薬「ハルシオン」というのは、非常に危険な副作用があった。これと同時にアルコールを飲むと自殺願望が増すのであった。日本人は、眠れない場合に普通すぐに酒に頼る。酒の力で眠ろうとする。そしてもっと眠れるようにと睡眠薬を飲む。この場合に、副作用が出て、突然喚き散らして窓から飛び降りる。こうして死んだ人々が無数にいるはずだと私は理解している。
かつて、天才伊丹十三監督が突然飛び降りた。悪童青春歌手の尾崎豊が路上で突然死した。両者ともに大酒を飲んでいた。もしその前に睡眠薬を飲んでいれば、衝動的に自殺したという可能性がある。
こういう場合、アルコールと睡眠薬のカクテルだけは避ければいいのである。しかし、日本の医者も医療官僚も不思議とその危険性を主張しない。だから、これも一種の”薬害”なのである。
似たような例にインフルエンザ薬のタミフルがある。タミフルを飲んで突然衝動的に自殺した子供が出た。私はこの場合もアルコールが関与したのではないか、と想像している。というのは、日本では「卵酒」というような庶民の対処療法がある。また、その上に薬を飲めば2重で効くだろうという誤解もある。だから、不幸にも、酒と睡眠薬が重なって自殺者が出たように、不幸にもタミフルと卵酒で衝動的に自殺してしまった、ということかもしれないからである。そんなわけで、我が家では、タミフルの場合は、アルコールも他の風邪薬も飲まない。素人カクテル療法は危険だからである(少なくとも6時間以上の時間を空けて飲む)。
ところで、”薬害”というものと”同じ構造”が裁判にもある。これは”裁判害”とでもいうべきかも知れない。いわゆる「えん罪」事件のことばかりでなく、日本の裁判は全般に言える。
日本の裁判は、「裁判官」というよりは「裁判屋」、「検事」というよりは「事件屋」、「弁護士」というよりは「弁護屋」が行っている観あり、であるからだ。要するに、裁判官僚である裁判官が、利益団体である検察や弁護士に仕事をくれてやるというような構造のことである。(この問題は映画「ぼくはやっていない」に描かれているようだ。またそのうちここで書くこともあるだろう。)
さて、いずれにせよ、私好みの美女がまた1人日本からいなくなってしまった。残念なことである。御冥福を祈りたい。
その昔の睡眠薬「ハルシオン」というのは、非常に危険な副作用があった。これと同時にアルコールを飲むと自殺願望が増すのであった。日本人は、眠れない場合に普通すぐに酒に頼る。酒の力で眠ろうとする。そしてもっと眠れるようにと睡眠薬を飲む。この場合に、副作用が出て、突然喚き散らして窓から飛び降りる。こうして死んだ人々が無数にいるはずだと私は理解している。
かつて、天才伊丹十三監督が突然飛び降りた。悪童青春歌手の尾崎豊が路上で突然死した。両者ともに大酒を飲んでいた。もしその前に睡眠薬を飲んでいれば、衝動的に自殺したという可能性がある。
こういう場合、アルコールと睡眠薬のカクテルだけは避ければいいのである。しかし、日本の医者も医療官僚も不思議とその危険性を主張しない。だから、これも一種の”薬害”なのである。
似たような例にインフルエンザ薬のタミフルがある。タミフルを飲んで突然衝動的に自殺した子供が出た。私はこの場合もアルコールが関与したのではないか、と想像している。というのは、日本では「卵酒」というような庶民の対処療法がある。また、その上に薬を飲めば2重で効くだろうという誤解もある。だから、不幸にも、酒と睡眠薬が重なって自殺者が出たように、不幸にもタミフルと卵酒で衝動的に自殺してしまった、ということかもしれないからである。そんなわけで、我が家では、タミフルの場合は、アルコールも他の風邪薬も飲まない。素人カクテル療法は危険だからである(少なくとも6時間以上の時間を空けて飲む)。
ところで、”薬害”というものと”同じ構造”が裁判にもある。これは”裁判害”とでもいうべきかも知れない。いわゆる「えん罪」事件のことばかりでなく、日本の裁判は全般に言える。
日本の裁判は、「裁判官」というよりは「裁判屋」、「検事」というよりは「事件屋」、「弁護士」というよりは「弁護屋」が行っている観あり、であるからだ。要するに、裁判官僚である裁判官が、利益団体である検察や弁護士に仕事をくれてやるというような構造のことである。(この問題は映画「ぼくはやっていない」に描かれているようだ。またそのうちここで書くこともあるだろう。)
さて、いずれにせよ、私好みの美女がまた1人日本からいなくなってしまった。残念なことである。御冥福を祈りたい。
2007/02/01のBlog
[ 20:56 ]
[ 社会 ]
おとといの”NEWS Zero”という深夜の報道番組を見ていてあぜんと思う事が起こった。忘れない内に、一応書いておこう。
アメリカのNASAは宇宙探査でお持ち帰りしたものは、”非公開”が原則だという。というのは、ロケット打ち上げに数百億円、探査に2000億円ほどかかる。だから、研究用としてすべて保存するらしい。
ところが、日本では違うようだ。その番組では、日本の南極探査のお持ち帰り品である”貴重な”「南極の氷」が、番組に出てきて、氷っていた氷を水につけて溶かしてしまった。それを実演して大喜びだったのである。
この番組の人や南極の探検隊員はどう考えていたのだろうか。いったい氷を持ち帰るのに幾らかかっているのだろうか。
その辺の氷とは違い。その成分に古代の地球の歴史を秘めている。そう番組の解説者も言っていた。その歴史が我々の見ている目の前でお釈迦になった。
ほんと最近のテレビ番組は全く頭が働いていないのではないだろうか。もっとも何でもかんでももののごとの価値がゼロと思うのがこの番組のZEROの意味だったのかもしれないね。
いずれにせよ、あの「南極の氷」はどうなったんだろうか?
アメリカのNASAは宇宙探査でお持ち帰りしたものは、”非公開”が原則だという。というのは、ロケット打ち上げに数百億円、探査に2000億円ほどかかる。だから、研究用としてすべて保存するらしい。
ところが、日本では違うようだ。その番組では、日本の南極探査のお持ち帰り品である”貴重な”「南極の氷」が、番組に出てきて、氷っていた氷を水につけて溶かしてしまった。それを実演して大喜びだったのである。
この番組の人や南極の探検隊員はどう考えていたのだろうか。いったい氷を持ち帰るのに幾らかかっているのだろうか。
その辺の氷とは違い。その成分に古代の地球の歴史を秘めている。そう番組の解説者も言っていた。その歴史が我々の見ている目の前でお釈迦になった。
ほんと最近のテレビ番組は全く頭が働いていないのではないだろうか。もっとも何でもかんでももののごとの価値がゼロと思うのがこの番組のZEROの意味だったのかもしれないね。
いずれにせよ、あの「南極の氷」はどうなったんだろうか?
[ 09:02 ]
[ ジョーク ]
私が良く知っている人にこんな人がいる。
その人物は、自分の目的や理想を持つ。そしてそれゆえ、それにまい進する。しかし、本人はなかなかそれが実現しない。大半はむしろ失敗である。ところが、その人物には不思議な魅力があり、会う人会う人その人の影響を受ける。
その人物が大学へ行くと言えば、じゃおれもと友人は言って受験する。ところが本人は大学入試を失敗するが、友人たちは成功する。だから本人はあまり良い大学に行けないが、周りのものは結構良い大学に行く。
その人物が大学院へ行くと言えば、じゃおれもと友人は言って受験する。ところが本人は第一志望の大学院に入れないが、友人たちは志望がかなう。数年して、本人は博士号取得に失敗するが、友人たちは成功する。だから本人は大学に残れないが、周りのものは結構良い大学に残って教授となる。
その人物がアメリカに留学をする。すると、あいつが留学するならと友人も留学する。その本人は留学を終えて帰国するがあまり良い職に恵まれない。しかし、つられて留学した友人たちは帰国後立派な職を得る。
その人物は自分のテーマを持って研究する。そして今これが面白いといって仲間にも勧める。ところが、自分はいつもうまく行くとは限らない。ところが、教えてもらった友人が成功し有名となる。
その人物は結婚し子供も作る。ささやかながらも楽しい家庭である。すると、知人はその人の幸せそうな家庭を見て自分も結婚してみたくなり結婚する。しかし本人はそれほどリッチな家庭は作れない。知人はその人物よりずっと幸せでリッチな家庭を作る。
その人物はスポーツが好きである。知識も経験もある。そこでどこかの学校で非常勤のコーチとなる。しかし非常勤のため給料はない。遠征費も自腹を斬る。すると、指導を受けた子どもはうまくなり、チームも好成績をあげる。中には海外遠征代表に選ばれるものも出る。そしてその学校のスポーツ音痴の監督も有名になる。しかし、その人には何の見返りもない。
その人物はインターネットをやりはじめる。ちょっとしたサイトを作る。それを見た友人が自分もと思ってやりはじめる。すると、本人のサイトは廃れるが、その友人のサイトは非常に有名になる。その本人にはたいした得はないが、友人は自分の仕事の評判につながるからだ。
その人物は毎日せっせとエッセイを書きはじめる。すると少なからずの人がそれを読む。そして自分の仕事のネタやきっかけに使う。すると、その人物のエッセイは売れないが、それを真似た人物のエッセイがベストセラーになる。
その人はやることなすことすべてが空回りでうまくは行かないのだが、周りに大きな影響を与え、それを受けた人々が成功する。とまあ、毎日毎日そういうことをしている、変わった人物のことである。
この人のタイプはセレンディピティーというのともちょっと違う。なぜなら、セレンディピティーは、偶然の出来事で自分自身が得るラッキーだからである。この人物は偶然の出来事で自分以外の周りをラッキーにするのである。むしろ自分は損をするがその結果として周りの人を幸せにする。そういう人物だからである。アゲマン、アゲチンの類いかも知れないが、これともちょっと違っている。なぜなら周りと深い人間関係を結ぶわけでもないからである。イエス・キリスト的とも言えるがちょっと違う。なぜなら別に本人は他人のために奉仕しているのでも犠牲になっているのでもないからである。カリスマ的とも言えるが、これとも違う。なぜなら、カリスマは周りの熱狂的サポートの上に成り立つが、この人にはだれもサポートはしないからである。福の神的とも言える。しかし福の神は神様。自分はいつも幸せものだ。だから周りを幸せに引き込む。この人は、自分はむしろ失敗の連続で不幸なのである。しかし、なんだかんだと言ってもこの人物に関わっていると関わった周りの人がなにかにつれ幸せになる。もっともその周りの人は、自分がその人の影響のせいで幸せになったと思わないから、だれもその人の効果に気付かないし感謝もしない。こういう変わった人のことである。
果たしてこういう人を何というのだろうか?
その人物は、自分の目的や理想を持つ。そしてそれゆえ、それにまい進する。しかし、本人はなかなかそれが実現しない。大半はむしろ失敗である。ところが、その人物には不思議な魅力があり、会う人会う人その人の影響を受ける。
その人物が大学へ行くと言えば、じゃおれもと友人は言って受験する。ところが本人は大学入試を失敗するが、友人たちは成功する。だから本人はあまり良い大学に行けないが、周りのものは結構良い大学に行く。
その人物が大学院へ行くと言えば、じゃおれもと友人は言って受験する。ところが本人は第一志望の大学院に入れないが、友人たちは志望がかなう。数年して、本人は博士号取得に失敗するが、友人たちは成功する。だから本人は大学に残れないが、周りのものは結構良い大学に残って教授となる。
その人物がアメリカに留学をする。すると、あいつが留学するならと友人も留学する。その本人は留学を終えて帰国するがあまり良い職に恵まれない。しかし、つられて留学した友人たちは帰国後立派な職を得る。
その人物は自分のテーマを持って研究する。そして今これが面白いといって仲間にも勧める。ところが、自分はいつもうまく行くとは限らない。ところが、教えてもらった友人が成功し有名となる。
その人物は結婚し子供も作る。ささやかながらも楽しい家庭である。すると、知人はその人の幸せそうな家庭を見て自分も結婚してみたくなり結婚する。しかし本人はそれほどリッチな家庭は作れない。知人はその人物よりずっと幸せでリッチな家庭を作る。
その人物はスポーツが好きである。知識も経験もある。そこでどこかの学校で非常勤のコーチとなる。しかし非常勤のため給料はない。遠征費も自腹を斬る。すると、指導を受けた子どもはうまくなり、チームも好成績をあげる。中には海外遠征代表に選ばれるものも出る。そしてその学校のスポーツ音痴の監督も有名になる。しかし、その人には何の見返りもない。
その人物はインターネットをやりはじめる。ちょっとしたサイトを作る。それを見た友人が自分もと思ってやりはじめる。すると、本人のサイトは廃れるが、その友人のサイトは非常に有名になる。その本人にはたいした得はないが、友人は自分の仕事の評判につながるからだ。
その人物は毎日せっせとエッセイを書きはじめる。すると少なからずの人がそれを読む。そして自分の仕事のネタやきっかけに使う。すると、その人物のエッセイは売れないが、それを真似た人物のエッセイがベストセラーになる。
その人はやることなすことすべてが空回りでうまくは行かないのだが、周りに大きな影響を与え、それを受けた人々が成功する。とまあ、毎日毎日そういうことをしている、変わった人物のことである。
この人のタイプはセレンディピティーというのともちょっと違う。なぜなら、セレンディピティーは、偶然の出来事で自分自身が得るラッキーだからである。この人物は偶然の出来事で自分以外の周りをラッキーにするのである。むしろ自分は損をするがその結果として周りの人を幸せにする。そういう人物だからである。アゲマン、アゲチンの類いかも知れないが、これともちょっと違っている。なぜなら周りと深い人間関係を結ぶわけでもないからである。イエス・キリスト的とも言えるがちょっと違う。なぜなら別に本人は他人のために奉仕しているのでも犠牲になっているのでもないからである。カリスマ的とも言えるが、これとも違う。なぜなら、カリスマは周りの熱狂的サポートの上に成り立つが、この人にはだれもサポートはしないからである。福の神的とも言える。しかし福の神は神様。自分はいつも幸せものだ。だから周りを幸せに引き込む。この人は、自分はむしろ失敗の連続で不幸なのである。しかし、なんだかんだと言ってもこの人物に関わっていると関わった周りの人がなにかにつれ幸せになる。もっともその周りの人は、自分がその人の影響のせいで幸せになったと思わないから、だれもその人の効果に気付かないし感謝もしない。こういう変わった人のことである。
果たしてこういう人を何というのだろうか?
2007/01/31のBlog
[ 16:52 ]
[ 教育 ]
大麻、コカイン所持容疑 NOVAの教師7人を逮捕
私が日本の英語教育でいつも混乱させられてきたのは、英語圏文化と日本文化のミスマッチである。
かれこれ30数年ほど前私が中学生の頃、当時できたばかりの英会話スクールに学校代表として参加したことがあった。実験的にアメリカ留学帰りの先生が各中学校の希望者に英会話を教えるというものであった。こっちはサッカーの部活で忙しい最中、めんどうくさくてたまらないのに週一回の参加でいいから参加してと学校に頼まれたからしかたなく参加したのだが、自宅からあまりに遠くでいつも遅刻してしまった。その都度、日本人女性の英会話教師が英語で"Please tell us why you are late"といきなり初回から聞き出す始末。毎回、行けば"I am sorry to be late"とかなんとか言い訳ばかりさせられるはめになった。ある時、そのパーティーで当時はやりの連想ゲームというのをやった。しかし、その時間は部活で一度も見た事がない私はなんだかさっぱり分からず大失敗の連続。みんなに大笑いされてすっかり嫌気がさしたので、私はそれっきり英会話そのものもすっかり止めてしまった。
とまあ、こんなことがあった。それ以来私は自分が英会話ができるようになるなどと一度たりとも夢にも思わなかった。
ところが、人生とは不思議なものである。1980年代半ばに大学院を経て企業に就職したが、とあることが機会となり、アメリカ留学に自分の未来を賭ける必要が出てしまった。アメリカ留学か、さもなくば無職か。
そんなわけで、留学願書の要求に合わせて、いわゆるTOEFLを受けに明治大学に行ったのだが、そこで見たのはなんとも懐かしい風景だった。ひげ面でいかにもインテリ教授風の白人指導官がまん中で王様のように振る舞う。その傍らに日本人女性がかしづき、我々に慇懃に振る舞う。そして、白人の余裕たっぷりの英語をその女性が大袈裟に通訳する。単なるインストラクションなのだが、私にはそれでもさっぱり分からない。ヒアリングがさっぱりなのだ。試験終了の合図も実に官僚的で無慈悲だった。時間が終わってもまだなにか書き込むと非常に迷惑そうな顔をする。そして教官どうしは、「ハーイ、マリーコ。サンキュー」というような調子で大袈裟にハグし合って、我々を無視して帰る。そんな調子だった。そんなわけだから、もちろん、目標の500点には届かない。
それでも幸運の女神がいて、私はスコアは未定の状態でアメリカに留学できた。留学しているうちにパスすればいいということだ。アメリカ、ユタで初めてTOEFLを受けるとそこでこれまた懐かしい風景に遭遇した。現地に遊学してTOEFLにパスし、現地で大学進学したいという日本人の若い男女で満杯だった。いざ試験が始まると、ユタのごく普通の老夫婦のようなカップルが指導してくれる。英語は早すぎて分からないが、実に親切で好感が持てた。しかし結果はなかなか受からず、すっかり顔なじみになる始末。しかし、いつ行っても実に親切な老夫婦だった。時間がすぎてももう良いか、もう十分かと何度もみんなに聞いてじゃ終わろうか、という親切さだった。
1年もすると、学部のお偉方があきれたのか、いきなり私に授業を持たす。しょうがなく1日1日としどろもどろのへたくそ英語で何とかしのいで行く。そうやって1年、また1年が過ぎる。すると、少しずつ私のへたくそ英語もまともになってくる。そうして4年目には結構すぐれた英語が話せる留学生となってしまった。この時期、ハワイオアフに旅することがあったが、盗難事件で警察を呼んで話すと、「お前の英語はおれらのよりいいぞ」と変に誉められる始末。
それから20年が経ち、こうして振り返ると、再び私の耳も元通りに近くなってしまった。しかしそれでも苦労して身体にしみ込んだ体験英語は失われないようである。
こんな体験をしたものだから、私はこの記事のような英会話教師を見ると、すぐさまその昔の出来事の時代にワープしてしまう。昔の悪い記憶が蘇る。「英会話のできる日本女性でいい子はいない」というトラウマというやつだろう。英語でいう”フォビア”というものかもしれない。
本国でとりえのないものが、外人顔をぶら下げて日本に来る。本国ではありふれたもてない顔でも日本ではものめずらしがられて日本女性がちやほやする。そうこうするうちに自国でもできないことを日本でやろうとするものが出る。学校で女性と交尾したり、自分の部屋で日本人女性を相手とする。酒池肉林というやつだ。それに飽きると今度はもっと刺激を求めて覚醒剤、そして麻薬へと進む。
駅前留学は高くつく。やはり本国のまっとうな英米人に教えてもらうべきである。その際、人種的にはどうでもいい。すぐれた人物に教えてもらうべきである。さもなくば、英語ではなく、英語のエッチ会話を学ぶだけに終わってしまうだろう。”オーイェー、オーイェー、オーイェーース”。
ちまたでは、日本は、白人天国、黒人天国、アラブ人天国、インド人天国らしいネ。外人天国らしい。
そういえば、何年か前に私の恩師が来た時こういっていたヨ。
"Foreigner can do anything!" (外人は何でもできる!)
私が日本の英語教育でいつも混乱させられてきたのは、英語圏文化と日本文化のミスマッチである。
かれこれ30数年ほど前私が中学生の頃、当時できたばかりの英会話スクールに学校代表として参加したことがあった。実験的にアメリカ留学帰りの先生が各中学校の希望者に英会話を教えるというものであった。こっちはサッカーの部活で忙しい最中、めんどうくさくてたまらないのに週一回の参加でいいから参加してと学校に頼まれたからしかたなく参加したのだが、自宅からあまりに遠くでいつも遅刻してしまった。その都度、日本人女性の英会話教師が英語で"Please tell us why you are late"といきなり初回から聞き出す始末。毎回、行けば"I am sorry to be late"とかなんとか言い訳ばかりさせられるはめになった。ある時、そのパーティーで当時はやりの連想ゲームというのをやった。しかし、その時間は部活で一度も見た事がない私はなんだかさっぱり分からず大失敗の連続。みんなに大笑いされてすっかり嫌気がさしたので、私はそれっきり英会話そのものもすっかり止めてしまった。
とまあ、こんなことがあった。それ以来私は自分が英会話ができるようになるなどと一度たりとも夢にも思わなかった。
ところが、人生とは不思議なものである。1980年代半ばに大学院を経て企業に就職したが、とあることが機会となり、アメリカ留学に自分の未来を賭ける必要が出てしまった。アメリカ留学か、さもなくば無職か。
そんなわけで、留学願書の要求に合わせて、いわゆるTOEFLを受けに明治大学に行ったのだが、そこで見たのはなんとも懐かしい風景だった。ひげ面でいかにもインテリ教授風の白人指導官がまん中で王様のように振る舞う。その傍らに日本人女性がかしづき、我々に慇懃に振る舞う。そして、白人の余裕たっぷりの英語をその女性が大袈裟に通訳する。単なるインストラクションなのだが、私にはそれでもさっぱり分からない。ヒアリングがさっぱりなのだ。試験終了の合図も実に官僚的で無慈悲だった。時間が終わってもまだなにか書き込むと非常に迷惑そうな顔をする。そして教官どうしは、「ハーイ、マリーコ。サンキュー」というような調子で大袈裟にハグし合って、我々を無視して帰る。そんな調子だった。そんなわけだから、もちろん、目標の500点には届かない。
それでも幸運の女神がいて、私はスコアは未定の状態でアメリカに留学できた。留学しているうちにパスすればいいということだ。アメリカ、ユタで初めてTOEFLを受けるとそこでこれまた懐かしい風景に遭遇した。現地に遊学してTOEFLにパスし、現地で大学進学したいという日本人の若い男女で満杯だった。いざ試験が始まると、ユタのごく普通の老夫婦のようなカップルが指導してくれる。英語は早すぎて分からないが、実に親切で好感が持てた。しかし結果はなかなか受からず、すっかり顔なじみになる始末。しかし、いつ行っても実に親切な老夫婦だった。時間がすぎてももう良いか、もう十分かと何度もみんなに聞いてじゃ終わろうか、という親切さだった。
1年もすると、学部のお偉方があきれたのか、いきなり私に授業を持たす。しょうがなく1日1日としどろもどろのへたくそ英語で何とかしのいで行く。そうやって1年、また1年が過ぎる。すると、少しずつ私のへたくそ英語もまともになってくる。そうして4年目には結構すぐれた英語が話せる留学生となってしまった。この時期、ハワイオアフに旅することがあったが、盗難事件で警察を呼んで話すと、「お前の英語はおれらのよりいいぞ」と変に誉められる始末。
それから20年が経ち、こうして振り返ると、再び私の耳も元通りに近くなってしまった。しかしそれでも苦労して身体にしみ込んだ体験英語は失われないようである。
こんな体験をしたものだから、私はこの記事のような英会話教師を見ると、すぐさまその昔の出来事の時代にワープしてしまう。昔の悪い記憶が蘇る。「英会話のできる日本女性でいい子はいない」というトラウマというやつだろう。英語でいう”フォビア”というものかもしれない。
本国でとりえのないものが、外人顔をぶら下げて日本に来る。本国ではありふれたもてない顔でも日本ではものめずらしがられて日本女性がちやほやする。そうこうするうちに自国でもできないことを日本でやろうとするものが出る。学校で女性と交尾したり、自分の部屋で日本人女性を相手とする。酒池肉林というやつだ。それに飽きると今度はもっと刺激を求めて覚醒剤、そして麻薬へと進む。
駅前留学は高くつく。やはり本国のまっとうな英米人に教えてもらうべきである。その際、人種的にはどうでもいい。すぐれた人物に教えてもらうべきである。さもなくば、英語ではなく、英語のエッチ会話を学ぶだけに終わってしまうだろう。”オーイェー、オーイェー、オーイェーース”。
ちまたでは、日本は、白人天国、黒人天国、アラブ人天国、インド人天国らしいネ。外人天国らしい。
そういえば、何年か前に私の恩師が来た時こういっていたヨ。
"Foreigner can do anything!" (外人は何でもできる!)