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2007/04/23のBlog
セルティック中村がMVP劇的決勝弾で2連覇に貢献

スコットランド・プレミアリーグのセルティック、中村俊輔選手の活躍で2連破。スコットランド・プロサッカー選手協会は、今季の年間最優秀選手に、優勝に大貢献した中村俊輔選手を選んだ。

というニュース。

ブラボー中村俊輔選手。おめでとう、MVP。

ところで、サッカー選手にも、”合う合わない”というものがある。

一般的に日本のサッカー選手は、激しくかつスピードの早い展開のヨーロッパスタイルは不向きである。むしろ、汚いチャージを嫌いゆっくりパス回ししてから攻撃する南米スタイルの方に向いている。ましてやサッカーの天才たちが集まるスペインリーグやイングランドのプレミアリーグでの日本選手の活躍は困難を極める。

中村俊輔選手も、イタリアセリエAに所属した時には、今一つであった。しかし、スコットランドのセルティックに移籍してからは、非常に良くなったように見える。そして、昨年と今年の大活躍に行き着いた。

この活躍の原因は何だったのか、分析するのは面白い。

しばらく前に、やべっちのサッカー番組で、中村俊輔選手がインタビューやゲスト出演していたが、それに中村俊輔選手が良くなった理由がうまく表現されていたと思う。

(あ)まず第1の原因は、”結婚”である。

一般に、サッカー選手は、他のどのスポーツの選手と比べても、「結婚が早い」。

この理由は良く分からないが、やはり一番の理由は、サッカーが見た目や科学的計測以上に”疲れる”大変なスポーツであるということであるだろう。

陸上の10種競技の選手のようなフィジカルを要し、K1選手のような格闘技的側面があり、アメリカンフットボールの選手のようなアタックを受ける。なおかつ、上海雜技団並みのボールコントロールも必須である。こういったさまざまなものをクリアできた上でなおかつサッカーという知的な戦術スポーツを行わなくてはならないのである。

しかもサッカーは有名なゼロサムゲームである。つまり、勝か負けるか引き分けるかのいずれかしかない。

こういう過酷なスポーツであるから、選手生命も短い。

こういったことが原因でサッカー選手は、比較的早く自分の私生活の安定を求める。そのせいで、結婚が早くなるのである。

実際、結婚して生活面が安定すると、サッカー選手は一段とうまくなる。そういう傾向もある。

しかし、ブラジル現代表監督のドゥンガがかつて「サッカーは人の成長を早める」と言ったように、サッカーというスポーツそのものが、人の人格形成で成長を早めるという効果があるという可能性も否定できない。さもなくば、他の似たような過酷なスポーツの選手達があまり早く結婚しないということを説明できないからである。

中村選手の場合も結婚し家庭ができ、子供ができたことが非常に精神性を高めた可能性はある。トルシエ時代以前には、まだ子供っぽい要素が残っていたからである。

い)さて、もう1つは、中村選手自体の”意識改革”である。

やべっちのサッカー番組でも言っていたが、セリエAの時には、試合後すぐにトレーナーにマッサージしてもらって家に帰って休んでいたという。しかし、セルティックに移ってからは、試合後にジムに行き、さらに「”持久走と筋トレ”を日課にかす」ようになったという。

「これが効いているのではないか」

というのが中村選手の説明であった。

これは、前から私が主張して来たことである(「日韓ワールドカップ2002」)

スポーツ選手というのは、ある年令を過ぎると、それまでのような練習だけでは以前の状態を維持できなくなる。それゆえ、同じメニューではだめで、”持久走と筋トレ”を仕込まないと維持できなくなるのである。

しかし、逆に、「筋金が入る」という言葉があるように、それを30過ぎの中年まで続けていくと、本当に”落ちない”筋肉が育つのである。若い人の筋肉はトレーニングをすればすぐつくが、止めると落ちるのも早い。

これは、私自身の経験でもそうである。私は、20代前半までずっとサッカーをやっていたので腹筋は6つに割れていたが、阪大の大学院にいてろくにスポーツをしなかったら、20代後半までに見事にぶよぶよの普通人の身体に戻ってしまった。しかし、ここ阿南に来た30代後半からずっと筋トレを続けてきたところ、今では多少練習をしなくてもあまり落ちなくなったのである。

横浜FCの三浦カズ選手が今も頑張っていられるのは、摂生と筋トレなどの準備のせいである。逆に、若くしても老いの早い選手は、これを怠る。

つまり、若い頃の自分のサッカーセンスだけに頼る選手は老いが早くその活躍の時間も短いが、しっかりした基礎トレーニングを積んだ選手は若さを長く維持できるのである。

最近NHKでみた野球の金本選手や工藤選手の場合も同じであった。かれらも用意周到な筋トレや持久力のトレーニングによって選手生命を長くしてきたようである。

セルティックに行くまでは、中村選手は、非常に優れたセンスを持っているが、フィジカルに弱く、90分間持たなかった。精神的にも弱いという感じの選手であった。だから、トルシエ監督にも嫌われた。しかし、セルティックに行ってからは、非常に良くなった。

技術とセンスを持ち、良く走る、フィジカルにもメンタルにも強い選手は、サッカー選手の理想なのだから、これからは中田無き後の日本選手の代表格となっていくだろう。
2007/04/20のBlog
絵本作家のピエール・プロブストさん死去

私は男なので、こういう本を見て育ったわけではないが、私の妻が小さい頃から愛読していたという絵本「カロリーヌ」の作者、ピエール・プロブストさんが死去。享年93歳。

まるで生きているかのような登場人物たちの表情や動きが特徴で、絶大なる人気を得たようである。

ノーマン・ロックウェルの絵と通じるところがある。

古き良き地球人世界の絵本である。

カロリーヌキャンプに行く


カロリーヌ月へ行く


カロリーヌのおひっこし


カロリーヌ海へ行く
米大学乱射:高校時代にいじめ受ける…当時の同級生証言

によれば、やはり私が「「銃社会」vs「やくざ社会」vs「テロ社会」 」で想像したように、この事件の背景には、アメリカ社会特有の”いじめ構造”が潜んでいたようである。

昨夜あたりから日本のテレビでも頻繁に犯人のチョのビデオを放映したが、私が受けた印象は、回りの先生や学生たちアメリカ人が言うほど、その人物が異常な感じはしなかった。こんな感じの青少年はアメリカには五万といるからである。

彼の主張もまったくそれほど変な印象は受けなかった。チョと同じようなことを考えている人間はそこら中にいるはずである。

事実、私が住んだユタ大学の学生寮にも、当時、グルネード(手榴弾)を部屋に隠し持っているとウワサされたアメリカ人学生がいた。我々留学生の間では、「あいつの周りに住んでいたら危ないぞ」というような話で持ち切りだったが、半分ジョークか嘘だろうと思っていた。

しかし、仮にそういう物騒なものを持ち歩いていたとしても、普通は使用するというとこまではいかないものである。

今回の事件でもそうで、アメリカ人に不信感や嫌悪感を持っていたとしても、普通はそれだけではこういう事件は起こさない。ストレスを物騒な小説にして発散したり、いろんなゲームなどで発散できれば、それでいいのである。

しかし、チョの場合は、そういったストレスの発散も逆に病院送りになったり、女の子を追い掛けたらストーカー呼ばわりされたりして、教師や学生達全部から変な人物扱いされ続けてしまい、もはや居場所がまったくないほどまでに追い込まれてしまったというのが、直接の原因なのだろうと思う。おそらく彼の主張どうりの状況があったのだろう。作文を教えたアジア系教師が、インタビューで、まるで自分はあんな変な東洋人といっしょにされたら迷惑だというような顔をしながらチョの異常性を指摘しているというのも非常に異様であった。

我々でも、あそこまで追い詰められたら普通は自殺するか、何かの事件を引き起こしかねないだろう。たぶん、気の弱い日本人なら自分を追い詰めて死に至るだろうが、気の強い韓国人のチョは他人を道連れにして死ぬ方を選んでしまったのだろう。


記事には、いじめの様子として、

「高校時代の複数の同級生によるとチョ容疑者は高校時代からほとんど周囲と会話しなかった。ある日英語の授業で教科書の音読をした時、おかしな太い声だったため、クラス中が笑って「中国へ帰れ」とからかったという。また、中学校時代にもチョ容疑者の英語がうまくないことから、笑いものにする同級生がいた。」

とある。

これを見ても、かなり徹底したいじめ構造がヴァージニアにもあるということなのだろう。韓国人のチョに対して「中国へ帰れ」というあたりにも、その陰湿さが出ていると見るべきだろう。まあ、アメリカ人のいじめというのは、そのパワーにおいて日本人の比ではない。

さらに、知人を殺された学生が

「自分のことを弱者にしたてて人を殺した上、自慢するようなもので傲慢だ」
「(放送を見なかったのは)チョ容疑者の宣伝にくみしたくなかったから」

というあたりにもこの地域の白人学生たちの特徴が出ているのではないかと思う。これこそイラクを攻め入って軍人以外のイラク人を殺しまくっているアメリカ人の発想と同じようなものと言えるだろう。

チョにとって不幸だったのは、その”はけ口”としてスポーツとか、学問とか、何か別の鉾先がなかったようだ、ということだろう。どこかに”逃げ道”があれば、反社会的な行動に出る必要があったかどうか。またそれをアドバイスする大人もいなかったのが残念なことだった。

例えば、一時的にも、アメリカ以外の国に行ってみるとか、アメリカでももっと別の土地に出向くとか、とにかく環境を変えるようにいう人がいなかったということである。

いずれにせよ、事件の状況を知るにつれ、これは十分に避けられた事件であったように感じる。チョには、日本の「ヤンキー先生」とか「夜回り先生」のような良い先生がいれば救えたはずである。

アメリカ社会もあいかわらず病んでいる側面もあるということだろう。


ところで、話は変わるが、レッドソックスの松坂が3戦目も負けたが、私が見た感じでは、あれも日本で言う一種の”しかと”のような感じであった。松坂登板になると、強豪打線がまったく打つ気がない。松坂を援護しない。審判もストライクを全部ボールにしてしまう。WBCのボブ・デービッドソン主審もひどかったが、この試合の主審もかなりひどかった。そして松坂がいらついているうちに失点を喫したという感じだった。広く言えば、こういったものも一種の差別のようなものだが、これに打ち勝てなければ、大リーグで活躍するのは難しいだろう。
ガラパゴスの生態系が危機外来種や観光客の影響で

”好奇心”のある観光客がガラパゴスに押し掛けて、生態系の危機にあるというニュース(どうやら南極もそうらしいが)。

聖書によれば、次のような神話があるという。

人類の最初の人、アダムとイブは楽園である「エデン」に生きていた。そこには楽園を維持するために「知恵の実」と「命の実」が生い茂っていた。ある時、アダムとイブが「知恵の実」を食べてしまった。神はもう1つの「命の実」も食べかねないと恐れたために、2人を追放した。


あれから数千年。

今や楽園を追放された人は「知恵の実」を食べ過ぎて”好奇心”だらけとなり、再び「エデン」に大挙して舞い戻って来た。そして、「命の実」をも食べつくしかねない勢いである。

チャールズ・ダーウィンの”進化論”の発祥の地「ガラパゴス諸島」も今や人、人、人。つばを吐くわ、ふん尿をするわ、ごみを捨てるわ、写真を撮るわ、の人間のやりたい放題らしい。

今を神話風に例えれば、ツアーガイドに引き連れられて「エデン」の周りに陣取り、中を覗いてはディジタルカメラやビデオで撮影しまくっているアダムとイブの大軍というところだろうか。中には、塀を乗り越えて敷地に入ってくるものまでいる、というような状況だろう。

ところで、ここ徳島もそうだが、橋ができて以来、大阪、兵庫、などの都市部の変な好奇心を持つものが大挙して押し寄せるようになった。ある場合には”観光客”、ある場合には”お遍路さん”の姿をしているが、どこにでもゴミを捨てるわ、中には「乞食遍路」といって、四国中を金を恵んでもらえると錯覚して乞食しながら”お遍路さん”するバカものも後を絶たない。また、”お遍路さん”をしながら不動産物件を見て回る、これまた修業精神のみじんもないバカ遍路も増えてきている。

大半は、「団塊の世代」の人々なので、この世代がそうやって”無責任に”日本という国を害虫のウンカやイナゴのように”食い尽くし”てきたことは間違い無さそうである。ウンカやイナゴの子供はやはりウンカやイナゴ。だれかイナゴのつくだ煮にして食ってくれるものがあらわれないといけないのかもしれない。

最近「無責任男」の植木等が死んだが、その責任は実に重かったのではないか、と私は最近良く思う。その時代の娯楽映画としては面白かったかも知れないが、それが長年に渡って先々どういう結果を導くかということは日本のマスコミはまったく考えなかったのだろう。

ついでに言えば、マスコミが「ちょい悪オヤジ」とか命名して、変な風潮をオヤジ年代に流布しているが、これも先々見れば植木等の「無責任男」と同じような問題を生じるだろう。そう私は予測している。


果たして、神は人を楽園から追放して良かったのか、悪かったのか?

エルニーニョ現象よりラニーニャ現象より何より、「人間による人災の方が天災より勝る」という時代になってしまったということらしいナ。

参考:
ガラパゴス島のイグアナたち
2007/04/19のBlog
[ 13:24 ] [ 地震・災害 ]
図:地震動予測地図

震度6弱以上、東海から沖縄で確率上昇 地震動予測地図

「今後30年以内に震度6弱以上の地震が起きる確率」が公表された。

東南海地震=64%(前年62%)
南海地震=53%(前年50%)
 
那覇=15.4%(前年10.2%)
高知=52.3%(前年50.1%)
和歌山=34.1%(前年33.2%)
名古屋=37.1%(前年36.5%)
静岡=86.5%

ちなみに、確率の程度を実感する例として、災害や事件に合う確率が紹介された。

大雨災害=0.5%
すり=0.58%
強盗=0.16%

果たしてこの確率予報がどの程度信頼できるのだろうか?

この答えは分からないが、仮にこれが正しいと仮定するとして、これらを比較すると、いかに高知や静岡が大地震に見舞われる確率が高いか分かる。

高知に巨大地震が来る確率は、すりに合う確率の100倍の大きさである。

にわかには信じがたいが、これが事実だとすれば、この高知と同じ地震に見舞われる可能性の高い、それももっと震源地に近い”東洋町”に「高レベル核廃棄物処理場」を作るというのは、いかがなものか? いかにナンセンスなことか分かるだろう。あまりに馬鹿げた計画である。もし地震のことを知っていてもそうするというのであれば、犯罪行為である。

ジョークのような現実の話2:風前の灯の東洋町?
水床トンネルを超えるとそこは東洋町だった。
東洋町のジレンマ:南海大地震か被爆か?

ところで、 しばらく前に「”能登地震”、対岸の地震ではない?:今村の予言 」で紹介したように、関東大震災は、今村明恒によって、周期的に来ると予言されていた。だいたい「70-90年周期説」である。

この予言からすれば、私には、南海、東南海より先に関東の方に来るという気がする。あるいは、安政時代のように、東海、南海と立続けに来て、その翌年に関東に来るという可能性もある。

にもかかわらず、今回の予測では、関東にはあまり注意が向いていないのはどうしてなのだろうか?

地震頻発地域の土地代は下がる一方である。しかし、土地代があがって欲しい首都圏には地震が頻発されては困る。そこで、関東の地震は発生確率は低く見積もっている。どうもそんな恣意的な操作が入っているようなデータである。

果たしてどうなるのか?

今後を見守る他ない。備えあれば憂いなし。
バージニア工科大で乱射、32人死亡 米最悪の銃撃事件
伊藤長崎市長、銃撃され重体 容疑の暴力団員逮捕
バグダッドで連続爆弾テロ、イラク全土で死者200人超

スピルバーグ監督の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」にこんな話がある。

エメット・ブラウン博士とマーティー・マクフライはタイムマシーンのデロリアンで未来へ行く。マーティーはそこでスポーツ年鑑を持ち帰る。それを見ていた未来のビフ・タネンが手に入れ、そして密かに1955年代に戻り、若き日の自分自身に手渡す。それを知らずに現在の世界に戻ると、何やら世界がすべて変わっている。物騒な暴力と女と金とギャンブルの世界に変わっていた。

私は、アメリカの2代目ジョージ・ブッシュ大統領の政治を見ると、いつもこの名作SFを思い出す。この意味で、スピルバーグの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、この世界によくある普遍的な問題を扱っているのである。

ジャズサックス奏者のビル・クリントン大統領時代からジョージ・ブッシュ大統領に変わっただけでこうも世界が見事に変わるのか、と思う程に変わってしまったように感じるのである。

映画では、「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」で、もっと昔に戻れば、世界を”ほとんど”元に戻すことが可能だったが、果たして現実のこの世界はそういうことはないだろう。

この何日かに起こった最初の3つの事件は、この世界が見事に変わってしまったことを表しているように感じる。

さて、これらの最初のアメリカの事件と2番目の日本の事件を比べると、一見まったく異なるように思える。しかし、私はそうは思わない。

まず、アメリカ、ヴァージニア州の事件を見ると、日本のマスコミの論調は、アメリカの”銃社会”(=誰でも銃が簡単に手に入る社会)の問題であるという、実に安直な”ステレオタイプ”のものである。

確かに、事件の結果は銃によって引き起こされたために、1人で32人も死者を出すことができたという甚大な被害者を生んだわけである。しかし、これは”銃使用”は、結果を増幅しただけのことで、”銃”そのものが引き金ではないだろう。この事件の場合は、仮に銃規制されていたとしても今度はナイフや包丁など別の方法で同じようなことが起こされたはずである。

この事件では、アメリカにおける「人種差別社会」、「格差社会」、「貧富の差」など、社会環境や文化的背景が非常に根強い感じがするのである。

私も4年間、白人中心社会であるユタ州に住んだことがあるので分かるが、欧米人の何と言うのか、根底に潜む”優越感”というのか、”差別主義”というのか、それは非常に”根深い”ものがある。

私は幸いそういったことをあまり気にしない質であったことや、ヨーロッパやインドや中国などの諸外国の留学生たちと仲間意識ができたので、特に問題はなかった。だから結構楽しく米国生活をエンジョイできた。しかし、そういうことに敏感なナイーブな人は非常に傷付くことがある。

というのも、顔かたちが違うというだけで、まるで「犯罪者」を見るというような扱い方を欧米の白人はするというような傾向があるからである。この私ですら、夜中に道ばたを歩いていると、突然、車の中から何か石のようなものを投げ付けられたことがある。ナイフだったかもしれないし、今となっては分からないが、命中していたら私は大怪我をしていただろう。

”虐め”と言っても白人の子がやる虐めというのは、日本人の比ではない。その位に差があるのである。知恵が回るし、素早いし、何よりパワーが違うのである。

子供というのは時に残酷なことをして学んでいくのだが、私がハワイで見た子供達もその例にもれずいろいろ残酷なことをする。カエルを捕まえてきては殺してしまうのだが、そういう場合も同じ年令の日本人の子と比べたらその勢いが違う。身体も大きくパワーが違うからである。

したがって、韓国という母国で貧困であったものが、現在のアメリカに住めば、その人間がどういう扱いを受けるかは言うまでもなく、明白だろう。日本人や韓国人などの子供達が、もし虐めを受けるとすれば、そのパワーが違うのである。

だから、その地に日本人仲間や韓国人仲間があればそこで多少心の傷は和らげられるから良いかも知れないが、そういうものがなければその疎外感というものはものすごいものであろうと想像できる。

こういう白人パワーの存在は、長らく白人が住み着いた伝統的な街や都市ほど顕著である。だから、名門地区ほど一般にそういう傾向が強い。

マイケル・ジャクソン裁判のあの執拗さもやはり黒人に対する白人特有の意識から来ているのは間違いないだろう。超スーパースターのマイケル・ジャクソンですらあれなのだから、貧乏東洋人に対してはなおさらだろう。

これが、100年近く前にアメリカに渡った中国人や日本人の時代に受けた差別なのであろうと私は考える。当時の人々の苦労というものがどういうものか分かるというものである。

アメリカにもどこにも良い人もいれば悪い人もいる。だから、すべてが悪い、すべてが差別するということは現実問題としてあるわけではないが、深層心理の問題として自分と顔かたちの違う人に対して恐怖心を持ったり、不信感を感じたりするというのは、どこの民族にもあることである。

問題は、こういった潜在意識が、9・11以降にアメリカ社会で”復古”したのではないか、と私は感じるのである。それゆえ、それ以前に留学した私の頃とは違って、今のアメリカでは差別意識もまた”復古”したのかも知れないと私は感じるのである。

こうしたさまざまな傾向が、今回の”悲劇”を生んだ背景にあるのではないか、と私は見ているのである。

さて、もう1つの日本の事件もまた実に”日本的”である。

これまた、日本のマスコミは、間違った「刷り込み」を行って、「アメリカが”銃社会”で日本はそうではない」というような印象付けを頻繁に行う。しかし、私は、そうは思わない。現実には、「アメリカは”銃社会”なら、日本は”やくざ社会”」なのである。日本の暴力団や警察は銃や武器を所有しているのだから、現実には日本もまた”銃社会”なのである。

アメリカとの違いは、アメリカではだれでも銃所有できるが、日本では銃の所有が、警察や暴力団や猟民に限られて一般人は所有できないという”非対称”になっているという違いに過ぎないのである。

最初のアメリカのヴァージニア工大の事件は、大学という銃規制のある地域に外から銃を持ち込んだために起こった事件なのである。もしそれが大学の外であれば、例えば民間人の家や店などであれば、おそらく銃撃戦となったはずである。

日本の事件の場合は、銃規制のある場所がアメリカより少し広いというだけのことで、ヤクザ事務所に不法所持された銃が市内に持ち込まれて起こった事件ということである。しかし、一般人は自分が襲われても反撃できない。だから、簡単に打ち殺されたのである。

つまり、銃規制というものにも、一長一短あるのである。

規制するのであれば、例外なく”全員を規制”しなくてはならない(しかしこれが現実には非常に難しい。いつも隠れて非合法に持てるからである)。規制しないならまったく自由にする他ないが、日本ではこの点に曖昧さがあるために、こういう事件が起こり得るのである。

もし市長の警護班が銃を持っていれば、すぐに市長を守って犯人を射殺できたはずである。しかし、これは日本ではあり得ない。(逮捕されても、また10年もすれば刑務所から出てきて同じことをするはずである。)

逆に言えば、日本の暴力団が暴力団であり得るのも、この非対称によって守られているからである。要するに、警察以外に銃を持っているのは暴力団のみだからである。この恐怖が、暴力団に力を与えるのである。

最初のマスコミの論調に戻れば、「アメリカはだれでも銃を持てる銃社会だからマフィアは少ないのであり、日本はだれでも銃を持てない社会だから逆に暴力団がはびこるのである」ということなのである。

実際にアメリカのマフィアは、せいぜい1ファミリー100人程度と言われている。大きくなればすぐにFBIに逮捕される。しかし、日本の暴力団組織は数十万人もいると言われているのである。警察や自衛隊並みの人口があり、それが銃や武器を所有しているのである。

ごく普通の頭を持った一般人が銃を持つのと、非合法の暴力団が銃を持つのとどっちがましか、と言えば、前者であることは間違いない。

まあ、日本政府や警察が、暴力団に甘いからこういう事件が起きるに過ぎないのである。

さて、最後のニュースでは、アメリカ人は自国の殺人事件にはあまりに感傷的となるが、他国の殺人事件には無関心であるという点で実に対照的である。

イラクでは、もはや毎日のように無差別テロが起きて、毎日毎日何十人、何百人もの命が失われている。

しかし、おそらく日本と違って、アメリカの場合には、そういうニュースはあまり放映されないのではないだろうか。むしろ松坂のニュースの方が大きなニュースなのだろう。

スピルバーグの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では、タイムマシンで何とかすれば、いつでも社会をリセットできる。しかし、現実の我々のこの世界は”リセット”できない。失われた人を元通りにすることはできないのである。ここが映画と現実の違いなのである。

暴力によって亡くなった方々とその家族にかける言葉は思い浮かばないが、御冥福を祈りたい。
2007/04/17のBlog
大学交付金削減見直し、教育再生会議が予算拡充提言へ

これは、「国立大への運営費交付金を削減する政府方針の見直しなど、教育予算の大幅な拡充を提言。特に、大学・大学院での高等教育に重点を置いた財政措置を求める方針を固めた」というニュース。

この会議の「提言の素案」というのは、以下のものらしい。

提言の素案:

「日本の教育予算は国際的に見て極めて低い」
「教育再生に必要な政策にはメリハリをつけた特別の財政措置が必要だ」
「最低限の光熱水費や設備のランニングコストは一定額を措置すべきだ。(政府方針を)見直す必要がある」

〈1〉海外の研究者の招待にODA(政府開発援助)予算を使うなど、文部科学省以外の予算を回す
〈2〉消費税の一部を教育目的に使う

日本の教育予算は、国内総生産(GDP)に占める公教育の支出の割合が3・7%で、フランス(5・9%)や米国(5・7%)などより低い。

同交付金は2007年度予算で1兆2043億円だが、人件費などが多くを占め、特別教育研究経費は約7%にとどまっている。
---------------
これを見ても、「教育再生会議」の提言の数々も”支離滅裂”あるいは”行き当たりばったりの思い付き”の域を出ていないことがよく分かる。これまでの日本の状況をきちんとリサーチした上で計画的な提言をまとめているのではないようである。

ここでは、私がこの十数年間論文や本で主張して来たことを基に”私なりの提案”をしておこう。

もっとも主要なものは、以下の16年前に書いた(1)にある。(2)では、より具体的な提案がある(日本物理学会でも講演したもの)。(3)は昔の掲示板で書いたことをまとめたもの。

(1)「三セクター分立の概念」(1990年作。1995年初版)
(2)「「日本の物理学--明日への展望」に異議あり!: 戦後の日本におけるアカデミズムの問題点」(1995年作)
(3)「何が科学をつぶすのか?」(2002年作)

また、以下の最近再録したものでも同じような問題を論じたものである。これらは、昔の掲示板に書いたものである。

(a)「日本の大学問題を解決する道
(b)「「若干のコメント:国立大の職員は今より3倍働け」
(c)「日米の大学教職員の比較
(d)「大学のクローンとセックス

さて、まず最初に私が「”研究世界ランキング”から見える日本の姿 」にまとめたことを思い出してみよう。

そこには、次のようなデータがある。

(2)【研究機関世界ランキング】
世界研究機関ランキング、東大13位で国内トップ
学術文献情報の分析を行う米国の「トムソンサイエンティフィック」が10日、発表した。

東京大→物理学(世界2位)、
東北大→材料科学(世界2位)

【総合順位】
1位 東京大(世界13位)
2位 京都大(世界31位)
3位 大阪大(世界35位)
4位 東北大(世界72位)
5位 名古屋大(世界97位)


これを見れば、日本の東大も結構”頑張っている”ように感じるだろう。

しかし、上の(a)-(d)で紹介したことを思い出してみよう。すると、「日本の大学の1つの特徴」が明かとなる。例えば、次のものを見てみよう。

ーーーーーーーMITーーーーーーーーー東大
-----------------------------------------------------
学部ーーー16000ーーーーーー18876
-----------------------------------------------------
大学院ーー15000ーーーーーー17836
-----------------------------------------------------
教職員ーーー2300ーーーーーー11778
-----------------------------------------------------
内訳ーーーー1600(正教授等)ー4122(教授助手等)
ーーーーーーー???(事務系)ーー1498(事務系)
ーーーーーーー???(技術系)ーーー960(技術系) 
ーーーーーーー???(ポスドク)ー1085(医療系) 
ーーーーーーー770(TA、RA)


東大の「世界研究ランキング」と「大学人口構成」を比較すれば、すぐに「どうして東大の世界研究ランキングが意外に良いのか」の謎が解けるだろう。

東大の場合、「世界研究ランキング」は13位。方や、東大の教職員数は、MIT(マサチューセッツ工科大学)の5倍。

つまり、東大はMITと同程度の研究業績を挙げるのに、MITの”5倍”の研究者人口を要している、ということになる。言い換えれば、東大の「研究生産性」は、MITの1/5程度しかないということになる。

この傾向は、日本の国立大学(旧帝国大学)一般に共通するものである。したがって、京大、阪大、東北大と同じような研究生産性をもっていると考えて良いだろう。

要するに、日本の大学の特徴とは、

「研究生産性がアメリカの大学の1/5以下程度しかない」

ということである。

物事というのは、たいていは”分数”(=パーセンテージ)で評価するものである。この場合には、あるものの総数(=分子に乗る数)だけでなく、かならず分母に来る数を無視してはならない。

大学の評価であれば、大学における何かの生産性を考えれば、必ずそれをつかさどっている大学の人口を無視してはならないということになる。さもなければ、”詭弁”となる。

東大の場合、世界13位と喜んでいれば、それは嘘となる。研究者数が普通の大学の5倍もある(つまり、研究者数は世界トップクラスである)のに、世界13位でしかないと悲しむべきなのである。

さて、このことを踏まえて考えると、最初にあげたニュースにある「教育再生会議」の提言の見方とは、なにやら世界の見え方が変わったはずである。

つまり、ノーベル賞学者の野依座長の「教育再生会議」の”考え方”では、

「日本の大学・大学院にはお金が足りない」

というものであったが、ここで紹介した現実のデータに基づく私の見方では、

「日本の大学・大学院には能力が足りない」

というものであるからである。要するに、「日本の大学・大学院の場合は、お金が足りないのではなく、研究者の能力が足りない」のである。

そりゃそうだろう。

日本の大学・大学院の場合は、研究者は研究や授業のことをもっと総力をあげて行うのではなく、社会への鬱憤をはらすために「インターネット遊び」ばかりしているからである。同様に、学生は世界標準レベルの良い教科書(の章末問題を宿題で解きながら)を学ぶのではなく、インターネットで遊んでばかりいるからである。

まあ、一言で言えば、「本業をおろそかにして余計なことばかりしている」わけである。

したがって、本来なら(つまり、普通の経済学の論理に従えば)、日本の大学は、再生会議のいうような「もっと教育にお金を」ではなく、まっ先に「余剰教員のリストラをしなくてはならない」のである。会社と同様で、能力のない人がまだたくさんいるのに、そこにお金を注ぎ込んでもそのお金が無駄になるだけのことである。

この辺のことが、大学出身の野依さんたちにはあまり理解できないように見える。

もっと、分かりやすく言えば、昔の(つまりバブル崩壊時の)日本の銀行と同じで、たくさんの”不良債券”を抱えているのである。大学の場合は、たくさんの”不良教職員”を抱えているということになる。東大の場合には、MITの5倍も教職員がいるわけだから、東大の4/5は”余剰人員”ということになる。会社ならこれがリストラの対象となるものである。

もっとミクロに具体的に言えば、こういうものである。

アメリカの大学の場合は、「学部制」なので、教授の講座というものはない。各教授が自分の専門分野の講議をするだけのことである。研究する場合には、自分の大学院生たちと個人的に研究をすすめていく。グループ研究でも同様である。だから、学部には秘書はせいぜい数人ですむわけである。研究雑誌や本も学部で買えばすむ。

ところが、日本の場合は、悪名高い「講座制」である。学部の中には専門科目ごとに講座があり、それぞれに助教授、講師、助手(今年度から、いわゆる「ソープランド」方式によって名前だけ変わった。准教授、講師、助教となった)がつく。研究室ごとに研究費が付き、大学院生数にあわせて研究費もつく。秘書も講座ごと(あるいは、2、3の講座ごと)に付く。

こんなわけだから、研究雑誌や本も講座ごとに同じものを買ったり、パソコンも机やソファーや書棚も講座ごとにたくさん買わなくてはならなくなる。要するに、「重複購買」だらけとなるのである。

だいたい、日米の大学・大学院のシステムにはこんな類いの差があるのである。

こういったことから、結論めいたことをまとめれば、こう言えるだろう。

日本の「講座制」というのは、余剰人員を生むこと、諸経費をかさませることなどによる”お金の無駄使い”もさることながら、同時にもっとも悪いことは”研究や教育の能率を下げる”直接の原因にもなっている、ということなのである。

いまこそ、日本の大学は「リストラ」すべきなのであって、「予算増額」をすべきではないのである。


では、どうやって「リストラ」すべきか?

これには、さまざまな方法があるが、私は元メリルリンチの副社長だった、現民主党の岩国哲人さんの(しばらく前の国会の時の)国会質問にあった”希望”にそえるものが適切だろうと考えている。

要するに、今や「地方は痴呆」なのである。頭の良い人材が今や首都圏や大都市以外のどの地方自治体にもいないのである。一番良い例が、夕張市である。しかし、これは夕張だけの問題ではない。私がすむ阿南市とて同じこと。岩国さんの故郷の島根県でも同じである。

なぜコメディアンの「そのまんま東」が鹿児島県知事になれたか?

と言えば、その原因がこれである。要するに、東京のコメディアン程度の人物すら今の鹿児島にはいないのである。

それも当然、お金儲けに関心があるものは、大都市や首都圏に出る。若者が教育を受けて進学すれば、自動的に首都圏に集まるような仕組みができている。その後は、就職で首都圏を離れられなくなる。したがって、地方に残ったものは、半分ぼけかかった爺さんや婆さんしか地方にはいないのである。つまり、地方は痴呆化したのである。

この問題に対して、岩国さんは、首都圏ばかりでなく、地方の教育行政を抜本的に改善すべきである、と主張したのである。

しかし、これは私が実は1990年に最初に書いた「三セクター分立の概念」で、提案したものにすぎないのである。

私の本を読めば分かるが、

「”地方自治”というのは、地方に最高級の大学が存在して初めて成り立つのだ」

と日本で主張した最初のものなのである。だから、地方に東大級の大学を各県に1つずつ程度作るべきだという提案を当時から一貫して私は主張して来たのである。しかし、周知のように、日本政府や官僚は、その重要性に気付かず、今に至ったというわけである。

その結果、見事に日本では「地方は痴呆と化した」のである。

そのあげく、バカなコメディアンでも知事ができるというレベルにまでなったという始末である。(別に、そのまんま東のことを言っているのではない。東京都の青島、大阪府の横山ノックもあったわけだから、地方だけではない。しかし、その後の東京や大阪の衰退を見れば、コメディアンでは無理が来るのは明白。知名度や人気だけで政治はできないからである)

そこで、首都圏の大学や国立大学の”余剰教職員”を地方の大学へ再配備して、地方を痴呆から脱却するのが、もっとも理に適ったやり方だろうというのが私の提案である。同時に、首都圏の主要大学をスリム化し、少数精鋭型の教職員構成に変える。

簡単に分かりやすく言えば、今の東大の教職員数はMITの5倍なのだから、これを1/5にして、さまざまな付属の研究所などを都内ではなく、地方へ移転するのである。京大、阪大、東北大など以下同様。

そうすれば、都内や首都圏や大都市のインテリたちが、地方に住み着くことになり、地方の痴呆化は少なからず救われる道に乗るだろう。

地方は、これまで道路工事やダムやトンネル工事のような、いわゆる「箱もの」型の公共事業ばかりで成り立って来た。これが、田中角栄さんに端を発したやり方だが、今後は、いかにインテリを地方にUターン、Iターンさせるか、ということが焦点となるはずである。

さもなくば、地方は痴呆化し、過疎ばかりに拍車がかかることはまぬがれない。

果たして、今の日本の官僚や政治家に私のアイデアを理解できる頭脳はあるだろうか?

いずれにせよ、今の地方は本当に痴呆化しているのである。この事実は変わらない。
2007/04/16のBlog
[ 09:31 ] [ 大学・大学院 ]
ところで、先に再録した昔のエッセイで書いたように、日本の国立大学(特に、旧帝国大学)は、取り得る「2つの道」がある。

(1)有名私立大学化への道
1つめは、現在がほぼこの方向に進んでいるが、国から財政支援されたまま、一種の”私立大学化”していくという道である。

この場合は、国立大学は、学習院大のように「日本の特権階級のための大学」となるということである。

実際には、日本では、”戦後60年”の受験産業構造の中で、東大からピラミッド型のきれいな「序列」ができている。生徒数、予算、研究費、職員数など、どれをとっても見事な階層構造ができている。

これに学生の親の所得も見事な階層構造を作っているわけである。つまり、親の所得が多い程、東大、京大に入りやすく、お金がない人ほど無学歴という現実が存在する。東大に入る学生の親の平均年収はだいたい1000万円強で、これから徐々に下がるにつれて京大、阪大と続くのである。「格差社会」の見事な例証となっている。

これが日本である。

この国では、エイブラハム・リンカーン大統領とか、ビル・クリントン大統領とか、親が貧乏だったり無学であったとしても苦学して大学に行き、大人物に育つというようなシステムとはまったく違い、そういう大人物は育たない”仕組み”となっているのである。

まあ、一見、自由主義国家の体裁を備えた「日本株式会社」のようでいてそうではない、日本独特の「官僚国家」であるからそうなるのも当然である。

この点では、イ・ヨンエが主役を演じた「チャングムの誓い」の朝鮮王朝の社会構造(そして現在もこれが北朝鮮の土台となっている)とそう大差はないのである。

出世するには、本人の実力や人柄や人間性というよりは、血縁、派閥、閨閥、知り合い、などをベースにした”後ろ楯(推薦人)”が必要となる国なのである。

安倍首相や小泉首相がアメリカに生まれたら、まず大学卒業できたかどうかも怪しい。仮にそれができたとしても、彼等の実力では大統領にはなれないだろう。もちろん、ブッシュ大統領のような大富豪の御曹子として生まれた場合は、可能性はあるのだろうが。

いずれにせよ、この場合には、国立大学の人口構成は、アメリカのMITのようなものが妥当だろう。だいたい次のようになる。ちなみに、これは2002年次のもので、実際には東大にはもっと教職員数が増えているはずである。

ーーーーーーーMITーーーーーーーーー東大
-----------------------------------------------------
学部ーーー16000ーーーーーー18876
-----------------------------------------------------
大学院ーー15000ーーーーーー17836
-----------------------------------------------------
教職員ーーー2300ーーーーーー11778
-----------------------------------------------------
内訳ーーーー1600(正教授等)ー4122(教授助手等)
ーーーーーーー???(事務系)ーー1498(事務系)
ーーーーーーー???(技術系)ーーー960(技術系) 
ーーーーーーー???(ポスドク)ー1085(医療系) 
ーーーーーーー770(TA、RA)

これから見ても、東大に限らず、日本の国立大学は、教職員組合の力が強すぎて、教職員が”多すぎる”のである。

MITには、利根川進博士も含めて何人もノーベル賞学者がいることと比較して、いかに(一般に)アメリカの超エリート校が、教職員を「少数精鋭」システムで運営しているか明白だろう。

(2)州立大学化への道
2つめは、日本の国立大学は、アメリカの州立大学のような、社会に開かれた大学への道である。現状では、この可能性は実に低い。

この場合には、ハワイ大学マノア校、オハイオ州立大学(OSU)、カリフォルニア大学(ここでは調べていないが)、などの人口構成が参考になるだろう。

ーーーハワイ大マノア校ーーーーーーーOSU
-----------------------------------------------------
学部ーーー20000ーーーーーー140000
-----------------------------------------------------
大学院ーー15000ーーーーーーー30000
-----------------------------------------------------
教職員ーーー2310ーーーーーーー17000
-----------------------------------------------------
内訳ーーーーー700(正教授等)ーー2980(正教授等)
ーーーーーーー210(事務系)ーー14000(事務系等)
ーーーーーーー150((技術系) 
ーーーーーーー510(ポスドク) 
ーーーーーーー740(TA、RA)

ここで注意しておくことは、ハワイ大学の場合、大衆教育という側面を強調するのであれば、他にもう一つの大学「ハワイ大学西オアフ校」があり、さらに「5つのコミュニティーカレッジ」と「4つの教育センター」がまだその下にあるということである。このことを考慮すれば、ハワイ大学の学部人口は、だいたいOSUと同程度の十数万人の規模になるのである。この場合には、おそらく教職員数などもOSUと同程度になるだろうと想像できる。

日本の国立大学が、州立大学化した場合には、「大学入試は廃止」である。なぜなら、「州民への奉仕」であるから当然のこと。日本の場合は、「国民への奉仕」として入学試験はしない。やるとすれば、最低限の知識状況を調べるための「大学検定試験」のような別機関が行うもののみ。

授業料は、「完全単位制」(=聴講する教科ごとに授業料を徴集するシステム)で行う。その代わり、試験をしっかりして、単位認定するわけである。

こうやって規定の単位数を取得したら卒業できるというシステムである。

この場合では、東大の教職員数は現状のまま維持できる。がしかし、学部学生を今の10倍まで、大学院生を今の2倍程度までアップ可能である。

まあ、だいたいこんなふうに、日本の国立大学は、(あ)有名私立大学化、(い)有名州立大学化、の2つの道がある。

だいたい論理的に考えて、地方の市民で、自分の家族や子孫がまったく東大に行ったこともない、あるいは、東京に行ったこともない、行く必要もない人々が、東大のために税金を取られる必要はない。それは、ありえないはずなのだ。東大へ進学する家庭や人物が必要な経費を払えばそれで良いのである。

現状では、旧帝国大学にまったく無関係な国民も多額の税金を取られているのである。その一方で、そういう貧乏家庭は進学しないのだから、税金の2重、3重取りをされているわけである。

実際には、東大、京大などに進学する生徒の親の所得は、1000万円を超える「高額所得者」であり、奨学金も必要無ければ、授業料免除も不必要な家庭出身が大半なのである。むしろ、こういう「高額所得者」の子弟が再び、国民の税金の”恩恵”を受け取るという見事な仕組みができているのである。

こんなわけだから、爽秋さんが、

「ある大学教授のブログを読んだのですが、どうも「庶民=愚か」「私は賢い」という論法でその野郎自大ぶりには反吐が出る思いでした。先生のコラムのような人に対する愛がないのです。」

というのは当然なのである。

というのも、親が国家公務員や大学教授で、都内の有名私立幼稚園、小学校と進み、今度は、都内の有名な中高一貫高校(たとえば、開成)に入り、そして東大に進学。後は自動的に学部、大学院へと進む。そして、ポスドクを東大でやり、海外の有名私立大学に1、2年行き、帰国して大学職員になる、というわけだからである。

こうやって大人になった日本人は、その辺のおっちゃん、おばちゃんとは、「人種が違う」と思うはずである。当然、「庶民=愚か」「私は賢い」と考えているはずである。「庶民=無学=トンデモ」「私は賢い」と思うはずである。少なくとも、普通の人たちとは生活を共にしたいとは思わないはずである。なぜなら「肌が合わない」と思うはずだからである。

まあ、拙著「何が科学をつぶすのか?」で私は日本の国立大学はアメリカの州立大学化するのがもっとも日本には好い、ということを指摘したが、現実はむしろ全く逆で、「スーパーサイエンス校」などの発想にもあるように、経済界や自民党政府や官僚は、東大や京大を「スーパー大学」にしたいと考えているようである。

しかし、この場合には、実質的には、「私立大学化」しているわけだから、税金を使うべきではないと私は考える。むしろ、自分達のお仲間がいる大企業や大銀行などからどんどん資金援助してもらえばすむことだろうからである。

今のまま進めば、一般人は、自分も子弟も大学にも行けず、その代わり取られるものは全部税金として取られるという状況がさらに強化されることになるはずである。つまり、世間知らず、教育のない安倍さんが、主張する「美しい国」どころの騒ぎではなく、「格差社会」はおろか、もうすぐ今のインドあるいは日本の江戸時代のような「階級社会」(=「カースト社会」)に”逆戻り”する可能性すらあるのである。

アメリカもブッシュ大統領時代になって、たぶん100年時代が早戻りしたように見える。今や、アメリカの半分以上が「ブッシュ王朝」と化したわけである。

だから、日本がそうならないという保証はない。まあ、実質的には、すでに憲法改正して「王朝制度」に戻したいということなのだろうと私は見ている。

欧米の大学、イギリスのオックスフォードやケンブリッジは、「王様を滅ぼしかねない知識人をコントロールするために生まれた」という説がある。(アメリカの大学はこれとは違った歴史を持つが、実際上はすでに似たものだろう。)これと同じで、日本の東大も「天皇制や官僚制を滅ぼしかねない知識人をコントロールするために生まれた」というのが、現実であろう。

まあ、「科学や学問に集中しろ」といって、インテリの素性を明らかにして居場所を固定化し、インテリの精力を一生消耗させるのである。その替わりに多少の生活の便宜を与えてやる。そうやって実質上、インテリを大学の中に「飼い殺し」しておけばいいのである。

とまあ、こんな説である。

いずれにせよ、”世の中の本質”はそれほど進歩していないのである。一見進歩したように見えるのは見せ掛けにすぎない。私にはそう見えるナ。

果たして、日本の大学はどう進むだろうか?

見物であるナ。

ちなみに、昨日、ハンカチ王子の早稲田と東大が試合したが、東大があわやいきなり「ノーヒットノーラン」を食いそうになったが、野球に限らず、科学においても実は似たようなもの。この辺がほとんど日本社会では一般人に知られていない。プロでも通用する斉藤投手とアマチュアの域を出ない物好き東大野球部では実力が違いすぎるが、受験勉強しかやってこないで大学に来た「物好き」学生しかいない東大とMITやカルテクでは、実力がまったく異なるのである。プロとアマの違いがある。東大は欧米人の超一流の見よう見まね、物まねでほぼ一生を終わるか、あるいは”超一流”の欧米人の下に”弟子入り”して、一生奉公するか、のいずれかに終わるのである。これが現実なのである。
大学院の閉鎖性にメス、格差拡大の懸念も…再生会議提言

ノーベル化学賞受賞の野依良治博士が座長を勤めている「教育再生会議」で、「大学・大学院改革の提言素案」が提案されたが、それが保守的な日本のインテリたちから「大学の構造を変える過激な内容」と受け取られて反発を買っているというニュース。

その改革案の骨子とは、以下のものらしい。

(あ)大学院に進学する場合、学部3年での卒業・院進学を標準にする
(い)大学院入試は論文や研究計画書を重視する
(う)大学院生について、同大学の同一学部出身者(内部進学者)の割合を
 最大2割程度に制限。外国人学生を2割以上選抜する
(え)研究者養成、高度職業人養成など分野別に大学院の性格、機能を明確にする

どこが”過激”なのか全く理解できないが、こういうものはすでに何年も前に私が本で論じたもののごく一部に過ぎない。
(1)「三セクター分立の概念
(2)「何が科学をつぶすのか?
(3)「「日本の物理学--明日への展望」に異議あり!: 戦後の日本におけるアカデミズムの問題点


また、以下に再録したものでも同じような問題を論じたものである。

(a)「日本の大学問題を解決する道
(b)「「若干のコメント:国立大の職員は今より3倍働け」
(c)「日米の大学教職員の比較
(d)「大学のクローンとセックス

まあ、「改革案骨子」の(う)は、私の5年前の「大学のクローンとセックス」で分析したことを目指しているようなものといえる。

(え)は、「「日本の物理学--明日への展望」に異議あり!: 戦後の日本におけるアカデミズムの問題点」で論じた、大学院を修士と博士を別物にして、修士をテクニシャン用、博士を修士課程博士課程を分けずに一本化するという案と似た発想と言えるだろう。

こういった観点から、改革案を出すことは良いことであるが、現状はどんどん変化しているわけだから、過去のことに捕われて改革するのではなく、先々のことを想定しながらでないとうまくはいかないだろう。

そこで、私が上の(あ)-(え)にぜひ加えなくてはならないと思うのは次のものである。

(お)大学教職員に入るためには、それまでに必ず民間企業で最低2年は勤務経験を積むこと。

現在の日本の大学で何が問題か、と言えば、自分の研究室の教授の”ごますり”や”おべっか”や”いい子ブリっ子”などをして、大学しか知らないで大学の先生になってしまった大学教授がほとんどだということである。

つまり、大学院を卒業してたまたま運良く大学にポストを持つと、一生社会のことを知らずに大学の先生となり、挙げ句の果てには世間知らずにもかかわらず「有識者」、あるいは「学識経験者」という間違った称号を与えることに繋がるという問題である。

これが、大学教授の「世間知らず」を醸成して、変な特権階級意識を生んでしまったのである。

この問題を解決するためには、どうしても大学の外で仕事させる必要があると私は考えている。これなくしては、(一部に)本当にどうしようもない学者や研究者が大学に残ってしまうことにつながるのである。

ついでに付け加えると、こんなものもいいかも知れない。

(か)大学ポストの公募は、一切「推薦人」を要せず、オーディションで採用する。

一般に、大学などのアカデミック研究職というやつには、2、3人の推薦人(英語ではreferenceという)が必要とされる。しかし、私がこの25年ほど見て来た範囲では、これは非常に”悪い制度”であると私は確信している。よりよいのは、その当人だけを見て判断するという面接インタビューによるオーディション制である。

というのは、そもそもなんで欧米でこの制度が必要となったかというと、私はその歴史は知らないが、この25年見て来たところで言えば、やはり欧米のユダヤ人が厳しい社会で生き残るために、少なくともアカデミック職には自分達ユダヤ系を残していきたいという願望が生んだものであろうと見ているからである。

実際、推薦人制度の許では、有力な教授が推薦人になってくれた方がいい。そのためには、すでに有名な学者ほどいいわけである。現実問題として、ユダヤ人学者はたくさんのノーベル賞学者を出してきたわけだから、日本人よりはユダヤ系の方がそうした人物の下で働くチャンスや推薦人になってもらえるチャンスが多いわけである。その結果、主要なアカデミックポストは若いユダヤ人が取りやすい。

これは、日本にも当然存在する。

日本の場合は、大学院生の総数からして、東大を頂点とするピラミッドができ、また日本の歴史上、東大、京大とできたわけだから、大学に職をもっている人数からして東大、京大という”階層構造”になっているわけである。

したがって、この状況の下で有力な推薦人を選ぶとすれば、東大出身者が一番有利である。そういう「格差」が現実に存在する。

そうやって選ばれて大学に職を持つ人個人にはたいへんラッキーな話だが、国民にとっては、その人物が適切でないのであれば、たいへんやっかいな問題ということになる。

「あんまり変な人物を大学教授にして欲しくない」

ということである。(事実、セクハラ、アカデミックハラスメント、自殺強要、論文捏造、研究費不正、から出張などなど、悪の限りを尽くす教授達ばかりとなっているからである)

こういったことから、もっとも良い方法は、私が経験した中では、「オーディション」方式だろうと思う。理研の「基礎科学特別研究員制度」の公募はこのオーディションスタイルだが、これは実にフェアでいいと思う。

今やハリウッドスターの仲間入りした俳優の渡辺謙さんは、やはり「オーディション」を受けて受かったという話である。

もし、この場合に「推薦人制度」だったとすれば、日本人の場合には、ねたみややっかみ半分に、渡辺謙さんを推さないということもあり得ただろう。たぶん、渡辺謙さんよりもっと別の自分の息のかかった俳優を推薦したであろう。

こういうことが「現物主義のオーディション制」ではあり得ないのである。

私は、世界中のアカデミックポストで、「推薦人制度」を廃止して「オーディション制度」にすべきだろうと考えている。

考えてみて欲しい。

今あなたがどこかの企業に入れたのも、「会社面接」という、一種の「オーディション」があったからである。もしそこに、何人かの推薦人が必要と会社規定にあれば、有名大学出身者ほど有利になることは明らかだろう。

まあ、いずれにせよ、「再生会議」の提言を見ても、こういうお偉方が決して頭が良いとは見えないはずである。所詮は何かの分野の専門家に過ぎず、我々研究者というのは、偏った頭脳の持ち主たちに過ぎないのである。

日本の学者の言うことは、まあ腹八文目程度に聴いていれば良いのだヨ。
2007/04/15のBlog
以下は、昔の私の掲示版(kazumoto's scientific BBS)に書いたものである。私の見積もりに対して若干の修正コメントがあったので、それに応じて修正したのが以下のものである。


【日本の大学問題を解決する道:講座制廃止し、学生数を10倍、教職員数を1/4にせよ。】
2002/07/08 08:29

さて、前の話題で日本の大学の人口構成について考えたが、
この流れで日本の大学の講座制の功罪について論じよう。

日本の大学の講座制のシステム上の問題については、私は
すでに12年前からずっと論じて来たので、ここでは論じ
ない。それらは、私の本「三セクター分立の概念(太陽書房)」、
今度出る本「何が科学をつぶすのか?(太陽書房)」、そして
「日本の物理学--明日への展望」に異議あり!: 戦後の
日本におけるアカデミズムの問題点

などを読んでもらうことにしよう。

ここでは私とYHさんが与えた日米の大学の人口構成のデータ
を基に論じよう。まず、そのデータをまとめると以下のように
なる。

ーーーハワイ大マノア校ーーーーーー東大
-----------------------------------------------------
学部ーーー20000ーーーーーー18876
-----------------------------------------------------
大学院ーー15000ーーーーーー17836
-----------------------------------------------------
教職員ーーー2310ーーーーーー11778
-----------------------------------------------------
内訳ーーーーー700(正教授等)ー4122(教授助手等)
ーーーーーーー210(事務系)ーー1498(事務系)
ーーーーーーー150(技術系)ーーー960(技術系)
ーーーーーーー510(ポスドク)ー1085(医療系)
ーーーーーーー740(TA、RA)

ーーーーーーーMITーーーーーーーーーOSU
-----------------------------------------------------
学部ーーー16000ーーーーーー140000
-----------------------------------------------------
大学院ーー15000ーーーーーーー30000
-----------------------------------------------------
教職員ーーー2300ーーーーーーー17000
-----------------------------------------------------
内訳ーーーー1600(正教授等)ーー2980(正教授等)
ーーーーーーー???(事務系)ーー14000(事務系等)
ーーーーーーー???(技術系) 
ーーーーーーー???(ポスドク) 
ーーーーーーー770(TA、RA)

ここでは、正確な数字がweb pageだけでは分らないので、
一応、YHさんの学生数計算法を基にした。

これを見て最初に分ることは、アメリカの大学の人口構成が
「ピラミッド型」になっていることだ。これはアメリカの大学
経営がいわゆる「小数精鋭」システムで行われていること
を意味している。だいたい学部生から大学院生に行くにしたがって
1/3-1/4になっていると考えて良いだろう。

ハワイ大学の場合には、学部生はマノア校以外に学部中心の
西オアフ校と5つのコミュニティーカレッジと4つの教育
センターがあって大学入学準備をしていることを合わせて
考えると、だいたいOSU程度の学部生があると考えて良い
だろう。

次に、アメリカの大学のファカルティー数が東大と比べて
非常に少ないという顕著な特徴があることが分る。実は
この理由が日米の講座制か学部制かの違いということだ。

日本の大学はほとんどすべての学部で講座制を採用して
いる。したがって、学部はあるのだが、学部としての
一貫した教育体制はなく、研究室と言う名前のミニ学部
のようなものができ、そこで研究室経営が基になる。
そのために、教授の下に助教授、講師、助手とあることに
なる。

一方、アメリカの大学では一般に講座制は採らない。
そのために学部で一貫した教育体制ができ、学部経営
のために、ポスドク、大学院生も含むすべてのファカル
ティーが協力することになる。教授は研究室を持つので
はなく、教授室のみをもらう。研究所は研究プロジェクト
のために存在し、学部の教育経営とは別ものである。

この差のために、日本の大学では、教授の下につく
助教授、講師、助手の分の職が余剰雇用を生んでいると
いうことになる。したがって、だいたい日本の大学の
教職員数がアメリカの大学のそれの4、5倍になって
いるということになるわけだ。いかに税金の無駄を
しているか明らかだろう。ほぼどう程度の学生数の
大学教育をアメリカの大学は1/4-1/5のスタッフ
でまかなっているということだからだ。これが日本の
大学の競争力が極めて低く、上位47カ国中で47位
とかいう現実の証明になっていると言えるだろう。

さらには、講座制のために、研究雑誌や書籍の重複購入
の大きな原因になり、大学図書館の書籍購入力を損なう
最大の原因にもなっている。たとえば、研究室ごとに
同じNature, Phys. Rev. Lett.誌を買っているということ
が頻繁に起こっているわけだ。緊迫した経済情勢の中で
こういうお金の無駄は致命的結果を生み出すだろう。

また、東大など国立大学が経営的に採算が取れないのは、
OSUと東大を見比べれば明らかだ。学生数による入学金や
授業料収入が1/10しか入っていないからだ。これは
数年前から私がことある度にいろんなとこで言って来た
ように、厳しい大学入試を国立大学が採用する結果、
大学が潤うのではなく、逆に受験産業が潤ってしまった
ということを証明しているわけだ。つまり、本来なら
今の10倍の学生をとってやっと経営が黒字になるはず
の大学が、その9割の学生を切り捨ててしまった結果、
その学生達が受験産業を支えているということになる
からだ。

さらにはこれも前にどこかで述べたように、アメリカの
大学の4倍ものファカルティーがいるために、本来
ならその3/4の職はポスドクや大学院生のために
使われるべきものが、全部ダメ教官に使われていると
いうことになる。そして、この分が得られない大学院
生たちは結局大学外の受験産業でアルバイトしなくて
はならなくなるということだ。

さらには、このために一般家庭では本来なら大学の
ために使われるべき教育費を支払えば十分であるはずなの
に、それ以外の受験産業のためにまで2重3重の教育費
を支払わなくてはならないという状況を生み出している
わけだ。

まあ、このことから、非常に簡単な結論が引き出される。
あ)今の1/4にファカルティー数を減らし、その分を
大学院生、ポスドクに回し連中に助教授、講師、助手の
肩代わりをさせて、一生懸命働かせることだ。インターネット
で遊ぶ暇がないくらいに教育のために働かせることが好ましい。
い)学部生を今の10倍にまで増やし、大学入試は行わない。

まあ、これで一番困るのは、塾、予備校など受験業界だ
ろうが、今度は大学入試準備ではなく、卒業準備のために
授業構成を行うことになり、今よりも仕事がアカデミック
になり、非常にやりがいや生き甲斐が出てくることだろう。

まあ、こんなわけで、日本の大学問題や教育問題の根本は
解決できるという明るい結論が導かれたわけですな。

さて、またプリオンに戻るか。じゃ、またーね。
以下は、昔の私の掲示版(kazumoto's scientific BBS)に書いたものである。


【若干のコメント:国立大の職員は今より3倍働け】
2002/07/07 09:16

さて、日本のトップレベルの研究大学の東大と大衆教育の
ハワイ大学を比較することが無謀だと思う人のために
ちょっとコメントしよう。

この比較は総学生数に対して行ったので、学部学生の数は東大と
ハワイ大マノア校ではほぼ同数であることを出発点にした。
この場合には、大衆教育という側面を強調するのであれば、ハワイ
大学の場合、他にもう一つの大学ハワイ大学西オアフ校があり、
さらに5つのコミュニティーカレッジと4つの教育センターが
まだその下にあることを加える必要があるだろう。

研究大学として比較するには、およそ大学院生数が3倍である
ので、それに応じて教職員数を3倍すると、

ーーーーハワイ大マノア校ーーーー東大
-----------------------------------------------------
学部ーー20000ーーーーーー18876
-----------------------------------------------------
大学院ー18000ーーーーーー17836
-----------------------------------------------------
教職員ーー6930ーーーーーー11778
-----------------------------------------------------
内訳ーーー2100(正教授)ーー4122(教授助手等)
ーーーーーー630(事務系)ーー1498(事務系)
ーーーーーー450(技術系)ーーー960(技術系)
ーーーーー1530(ポスドク)ー1085(医療系)
ーーーーー2220(TA、RA)

のようになるが、それでもまだ正教授数でまだ2倍の開きが
ある。事務系でも2倍以上雇用されていると言えるだろう。


一方、もし東大が大衆教育を目ざすとした場合にはどうか。
この場合には、ハワイ大学やアメリカの州立大学の場合の
ようなピラミッド型の人口構成が必要となるだろう。
つまり、上に行くにしたがって人口が減るという構成だ。
実は、これが小数精鋭方式を意味している。学部生には
チャンスを与えたくさん入れるが、その中でしっかり
卒業できた学生を大学院に入学させるという方式だ。
これによって、学部生のおよそ1/3に大学院生は絞られる
ことになる。この割合を東大に適用すると、学部生は
およそ6万人ほど採ってもいいことになる。この際、
大学入試はあまり重要ではなくなる。ある程度優秀と高校
で評価されればどんどん入学させれば良いということになる
からだ。さらには教職員数はまだ2倍もあるので、大学院生数を
さらに3倍にすることも可能だろう。すると、結局ハワイ大の
ようなアメリカの州立大学の研究大学の人口構成にしたがって
東大の現職員数で換算すると、

ーーーハワイ大マノア校ーーーーー東大
-----------------------------------------------------
学部ーー20000ーーーーー110000
-----------------------------------------------------
大学院ーー6000ーーーーーー36000
-----------------------------------------------------
教職員ーー2310ーーーーーー11778
-----------------------------------------------------
内訳ーーーー700(正教授)ーー4122(教授助手等)
ーーーーーー210(事務系)ーー1498(事務系)
ーーーーーー150(技術系)ーーー960(技術系)
ーーーーーー510(ポスドク)ー1085(医療系)
ーーーーーー740(TA、RA)

のような人口構成でも良いということになるだろう。これは
超マンモス校になるが、現在の東大の教職員数はそれに匹敵
するほどたくさんの人を雇っているということだ。いかに
日本の国立大学が大学入試を行っていることで、学生から
の授業料収入を損しているか分るだろう。学部が学生数で
1/9程度しか入学させていないということだ。つまり、
今より9倍の学部生を入学させ、その1/3を大学院生に
選別しすると、今より9倍の授業料が入る。それをポスドク、
TA、RAに回すことができるということだ。

いずれにせよ、国立大学の教職員は今の3倍は働く必要がある
ということだ。

じゃ、またーね。
[ 22:55 ] [ 昔のエッセイ ]
以下は、昔の私の掲示版(kazumoto's scientific BBS)に書いたものである。


【日米の大学教職員の比較:いかに国立大学はダメ教授を支援しているか?】
2002/07/07 09:07

日本の国立大学はいかに職員を無駄に雇用しているか考えてみよう。
比較のために、比較的仲がいい東大とハワイ大学マノア校を
取り上げよう。

まず、学生数、大学院生数、教職員数は以下の通り。
http://www.phys.hawaii.edu/dept.html
http://www.u-tokyo.ac.jp/jpn/gaiyou/gakuseisuu.html


ハワイ大マノア校ーーーーーーーー東大
-----------------------------------------------
学部ーー20000ーーーーーー18876
大学院ーー6000ーーーーーー17836
教職員ーー2310ーーーーーー11778
-----------------------------------------------
内訳ーーー700(正教授)ーー4122(教授助手等)
ーーーーー210(事務系)ーー1498(事務系)
ーーーーー150(技術系)ーーー960(技術系)
ーーーーー510(ポスドク)ー1085(医療系)
ーーーーー740(TA、RA)

ここで、東大の場合、事務職員には、事務系職員、技術系職員、
医療系職員も含まれている。医療系職員とは何なのか私は知らない
が、たぶん看護士看護婦のことなのだろうと想像する。

一方、ハワイ大の場合、教職員(Faculty)には大学院生のTA, RA
やポスドクも含まれているが、事務系は別枠。
つまり、デパートメントが給料を支払う教職員の数ということである。
だから、大学院生数にはこの教職員に一部含まれている。
ここでは教職員に事務系も加えて書いた。

たとえば、物理学部の場合には、計79人のファカルティーがいて、
教授29(エメリタス4)、ポスドク7、研究者5、TA23、RA9、
技術者6である。事務系は9。したがって、だいたいファカルティー
の1/3が正教授というところ。

この割合が他の学部でもだいたい同じであると仮定すると、
正教授は全部で700人程度になる。後は、ポスドクとTA、RA、
技術系職員ということになる。ここではハワイ大マノア校
を例にとったが、アメリカの州立大学は、多少の程度の差こそあれ、
だいたいにおいて似たようなものと言えるだろう。ま、傾向と
しては研究予算の大きいところ程、ファカルティーの数が増え、
予算のない大学程その数が減るということだろう。


これを見て分ることは、いかに日本の国立大学の教職員数が多い
ということだ。また、アメリカの州立大学が明確に学校経営を
ポスドクと大学院生(TA、RA)の協力を経て行われている
ということが良く分る。それゆえ、アメリカの州立大学は理事会、
大学裁判所などのメンバーに学生代表も加ったり、大学人事に
学生たちも参加する理由になっていると言えるだろう。

つまり、このことから、アメリカの正教授の数と日本の国立大学
を比べた場合、ダメ教官を首にするということがいかに重要な
行為であるかということがわかる。およそ1/6の教授数に
までリストラしてもよろしいということを正当化する。一方、
そこで空いた予算を全部ポスドク、TA、RAのためにまわして
よろしいということになる。

というわけで、我々日本の一般人が日本の大学にはいかにだめ
教授や教官が多いかという非常に良く知られた常識的印象が
いかに正しい感覚に基づいているかを示していると言えるだろう。

*)ファカルティーに事務系を入れて数えていたのを、はずして
再調整した。ま、どっちにしてもそれほど大差はないだろう。

じゃ、またーね。
以下は、昔の私の掲示版(kazumoto's scientific BBS)に書いたものである。


【大学のクローンとセックス】 2002/07/27 10:35

アメリカの大学では、学部を卒業すると、他の大学の大学院へ入る
ように勧められる。そして大学院を卒業すると、また別の大学の
ポスドクになるように勧められる。さらに、今度ポスドクから
助教授になるときには、再び別の大学のファカルティーになるよう
に勧められる。そして、最後にテニュアー付き教授になるときにも
また別の大学の教授になることを勧められる。

このように、

学部→大学院→ポスドク→助教授→教授

とすべての段階で他の大学へ転進するのが、アメリカの大学界の
システムである。これは、今やアメリカの世界に誇る伝統の一つに
まで発展し、世界中の大学へ強烈なプレッシャーになっているわけ
だ。

しかし、このシステムもアメリカに最初からあったわけではない。
これはアカデミズムにおける「独占禁止法」のようなもので、
たぶん1900年代にアメリカの州立大学がたくさん作られ始めた
頃にできてきた伝統だろうと思う。

この知的伝統がアメリカの教育会のダイナミズムの源泉であり、
その後アメリカ人全般に変化や多様性を生む根源にまで発展した
わけだ。


方や、日本(やドイツ)では、このシステムはまったく根付かな
かったわけだ。これは、一般に日本(やドイツ)では、忠誠心文化
のために、指図を好む国民性になってしまったことが原因かもしれ
ない。一言で言えば、上司の命令に忠実な国民ということだ。


さて、この問題の数理をちょっと考えてみよう。これを理解するた
めに、日本にはたった2つの大学しかないと仮定しよう。そこで、
今、日本には東大と京大だけが存在すると考えよう。
ここで、学部を卒業すると必ず大学院は他の大学へ行くという
ルールがある。

まず、東大の学部を卒業すると、この学生は京大の大学院へ進む。
京大の大学院を卒業すると、今度は東大のポスドクになる。
東大のポスドクから今度は、京大の助教授になる。京大の助教授
から今度は、東大の教授に迎えられる。こうして、東大に入学した
学生は、京都、東大と行き来を繰り返して最後には自分の入学した
東大の教授としてまっとうすることになる。つまり、

東大 → 京大 → 東大 → 京大 → 東大
学部 → 大学院 → ポスドク→ 助教授 → 教授。

これを、教授A1の履歴として、東大(T)、京都大(K)と書いて、

A1 = TKTKT

と書こう。

全く同様にして、京大へ入学した学部生は、今度は

京大 → 東大 → 京大 → 東大 → 京大
学部 → 大学院 → ポスドク→ 助教授 → 教授

となるだろう。したがって、京大教授B1の出身校履歴は、

B1 = KTKTK。


これらのAとBが学部生に入った頃は、つまり彼らの先輩は全く
こういうことをしていない従来のシステムで教育を受けたと仮定す
ると、それまでは東大には全部東大だけで教育を受けた人間だけ
が教職を持っていることになり、京大では京大だけで教育を受けた
ものだけが教職を持っていることになる。つまり、この人達第0
世代の経歴は、

A0 = TTTTT,
B0 = KKKKK

ということになる。このように、各段階で他校へ移るということで、
これほど違う教育を受けると言うことが分るわけだ。

また、出身校経歴は、5つの文字列だが、同様に各レベルで
どのような出身の人から教育を受けたかを学部、大学院、ポスドク
の教官の出身校履歴で現すと、その人の教育履歴K(A)ができる。

K(A1) = TTTTTKKKKKTTTTT,
K(B1) = KKKKKTTTTTKKKKK

となるだろう。同様にして第0世代の教育履歴は、

K(A0) = TTTTTTTTTTTTTTT,
K(B0) = KKKKKKKKKKKKKKK

となる。


さて、次の第2世代はどうなるか?第0世代が教育は、

東大 → 東大 → 東大 → 東大 → 東大
TTTTT → TTTTT → TTTTT → TTTTT → TTTTT
学部 → 大学院 → ポスドク→ 助教授 → 教授、

京大 → 京大 → 京大 → 京大 → 京大
KKKKK → KKKKK → KKKKK → KKKKK → KKKKK
学部 → 大学院 → ポスドク→ 助教授 → 教授

のいずれかだった。しかし、次の第1世代では、

東大 → 京大 → 東大 → 京大 → 東大
TTTTT → KKKKK → TTTTT → KKKKK → TTTTT
学部 → 大学院 → ポスドク→ 助教授 → 教授、

京大 → 東大 → 京大 → 東大 → 京大
KKKKK → TTTTT → KKKKK → TTTTT → KKKKK
学部 → 大学院 → ポスドク→ 助教授 → 教授

に変わったわけだ。すると、この第2世代が受ける教育
は、この第1世代が教職についた世界で教育を受けるわけ
だから、

東大 → 京大 → 東大 → 京大 → 東大
TKTKT → KTKTK → TKTKT → KTKTK → TKTKT
学部 → 大学院 → ポスドク→ 助教授 → 教授、

京大 → 東大 → 京大 → 東大 → 京大
KTKTK → TKTKT → KTKTK → TKTKT → KTKTK
学部 → 大学院 → ポスドク→ 助教授 → 教授

となるだろう。したがって、第2世代の出身校履歴は、基本的には
第2世代と全く同じだが、第2世代の教育履歴はかなりことなり、

K(A2) = TKTKTKTKTKTKTKT,
K(B2) = KTKTKTKTKTKTKTK

となるだろう。以下同様にして、T, Kの中がどんどん細かく
なってゆく。つまり、

T→ TKTKT, K→KTKTK

と再現なく続くと考えられる。


これは、AとBの二つの遺伝子からハイブリッドな遺伝子を作る
方法に似ている。つまり、セックス(交配)である。一方、
これまでのやり方はクローン(無交配)であると言えるだろう。

したがって、アメリカ型の大学システムは大学どうしで交配を
繰り返してより多様性のある大学へ進化したと言えるのでは
ないだろうか?一般社会では、人間のクローンは禁止されている。
そろそろ、大学のクローンも禁止して良い時代が来ていると
いえるだろうね。

じゃ、またーね。
写真:未だに「せんずり精子」使用を認める産科婦人科学会会長の武谷雄二さん

亡夫精子使った死後生殖を禁止…産科婦人科学会が指針に

「日本産科婦人科学会」は、

(あ)凍結された精子は、提供者が死亡した場合に廃棄する
(い)不妊治療で使用する場合には本人の生存を確認する
(う)凍結保存した精子の売買も認めない

という”指針”を作ったというが、そのが禁止の理由は、

「本人が亡くなっており(不妊治療に使用するための)同意が得られないため」

だというニュース。

大分前から、この”謎の学会”「日本産科婦人科学会」の”支離滅裂振り”は要注意学会としてマークして来ているが、今回も”何様のつもり”か知らないが、”偉そうに”指針を作ったとほざいているらしい。

この学会の連中は、我々国民の選挙で選ばれたわけでもなければ、我々科学者が連中の業績を認めたわけでもない。連中が”勝手に偉そうに”振る舞っているだけのことだ。だから、法的にも何の根拠もない(事実、日本にはこの分野では何の法律もないというのが現実)。強いて言えば、自分達は「産科婦人科」の権威なのだから、「国民も政治家も自分達に従え」という”傲慢”な態度に終始しているわけである。

以前から、私は以下のものを書いているが、

”相変わらずの”日本産科婦人科学会
精子保存に期間?:「産婦学会」って何様のつもり?
医療は、”結果がすべて”
日本も”精子バンク”を作るべき時代到来?

特に最後の「日本も”精子バンク”を作るべき時代到来?」で取り上げて紹介したように、”未だに”医学生の「精子提供アルバイト」は禁止されていないのである。私の知る限りでは、禁止されたという話は知らない。

「自分の死んだ亭主の冷凍保存された精子をつかって受精する」

のと、

「どこぞの医者志望のばか息子の”せんずり”精子をつかって受精する」

のと、どっちが倫理的と言えるだろうか。

言うまでもなく、前者であろう。

禁止するなら、まっ先にのこの「医者のバカ息子の精子提供アルバイトを禁止すべき」だろう。こっちの方が先だろう。

こんなことも処理できずに、一般市民に”不条理なことばかり”押し付けて、泣き寝入りばかりさせるというこの「日本産科婦人科学会」というのは、「悪の巣窟」である。

したがって、根津医師は、まったくこんな「日本産科婦人科学会」の言い付けに従う理由はないと私は思うネ。むしろ、この学会を厚生労働省はまず潰すべきだろう。そして、もっとましな学会を作りなおすべきだろう。

ほんと、

「このバカたれが」

と「日本産科婦人科学会」の武谷雄二には言いたいところですナ。
2007/04/13のBlog
かつて(といってもほんの10年程前)ホリエモンが「ホームページ作り」を職業とした頃、私も自分のホームページを作った。1996、97年頃のことである。

この頃、「有料掲示板」なるビジネスが現れた。

人々は、インターネットで自由自在に自分の意見なり、メッセージなりを書き込むことに快感を覚えたのである。あるいは、自分で掲示板のオーナーとなって、さまざまなサークル的雰囲気に酔いしれたものである。

しかし、最初、それは良いビジネスになると思ったが、なかなか儲からず、無数にはびこった掲示板オーナーは、「有料掲示板」に自分で広告を取って商売するよりは、プロバイダーが用意する「無料掲示板」の方に流れて行った。

この意味では、掲示板オーナーたちは、どんどん淘汰されて、いくつかの主要なものだけが生き残ったとも言える。

現在、「セカンドライフ」は、アメリカの『リンデンラボ社』のものだけである。

あまりに奇想天外で、飛び過ぎた、超進歩的、超御親切なシステムであるために、他の追随を許さないのである。

それゆえ、『リンデンラボ社』製の「セカンドライフ」には、すでに500万人の住人がいるが、この世界での土地の所有も、すべて”有料”である。

では、日本のソフトメーカーやゲームメーカー、あるいはコンピュータメーカーなど、世界中の企業が参入して来たとしたらどうなるのだろうか?

私の個人的推測では、最近の「ネットワーク理論」の帰結の通り、情報産業では、先発企業程ますます有利なのであるから、いくら追随企業が似たような「セカンドライフ」を始めても、なかなか最初の『リンデンラボ社』の「セカンドライフ」に勝てるところまでは行かないはずである。

特に、同じようなルールでは、そうだろうと思う。

そこで、きっと後発会社は、『リンデンラボ社』の「セカンドライフ」のように、土地を売買するのではなく、土地所有をフリー(ただ)にするのではないか、と想像する。

その代わり、そこでだれかがつくり出した街やその土地のどこかに「コマーシャルの看板」を立てるとか、あるいは、作ったものに「広告バナー」をつける、というようなことをするのではないか、と想像する。

これは、現在のインターネットの”掲示板オーナー”が、掲示板の維持費獲得のために掲示板のどこかに「広告バナー」をつけるということの「セカンドライフ」版である。

いずれにせよ、私のようにあまりお金持ちでないコンピュータ利用者たちは、フリー「セカンドライフ」の方に流れるはずである。

こうやって、今インターネットにさまざまなサイトがあるように、今後10年20年で、インターネット界にさまざまな「セカンドライフ」サイトが立ち上がってくることだろうと私は想像するのである。
「セカンドライフ」に大学を作る。

私がもし「セカンドライフ」に住むとすれば、この現実世界の中では作るのが難しい研究所を作るだろう、という例え話をしたが、「セカンドライフ」の中に”大学”を作ることもできるだろう。

現在まで、すでに「インターネット大学」というものが作られている。

これは、インターネットにホームページを作り、そこに”大学”システムを構築するものである。この場合は、さまざまな「講議」はビデオクリップにして貯蔵し、さまざまな「講議ノート」はpdfファイルとして提供する、というようなものである。

あるいは、英会話の「オンライン教室」のようにパソコンにカメラを繋いで、”双方向”で授業を行う、というシステムの「オンライン大学」もあり得る。

しかし、こういったものは、既存の大学の、あくまで”代替物”でしかない。もし大学に入れるお金と時間があるのであれば、別にわざわざ「オンライン大学」に所属する必要はないからである。

また、あなたが極度の対人恐怖症があったり、障害などを持ち、いじめの対象になりやすかったりすれば、「大学」に行くことも難しく、かといって「オンライン大学」で学ぶことも難しいはずである。

こういう人々にとって、もし「セカンドライフ大学」があったとすれば、どうだろうか。

あなたは自分の”アバター”を作り、「セカンドライフ」の中にあるMITに入学する。

そこで授業を聴いても良いし、「セカンドライフ」の中の自宅のパソコンで「オンライン授業」を聴いても良い。

あなたが欲したら、「セカンドライフ」の中のハーバード大学でも東大でも、望むところへ行って学ぶことができる。異なる授業を平行して聴くこともできる。もちろん、講議内容を自由にダウンロードすることもできる。

そんなわけで、私は、これまで大学が大学のホームページ作りを行ってきたように、今度は、大学が「セカンドライフ」の中でさまざまな大学を作るべき時代がこれから到来するだろうと想像する。

もはや「ホームページ」や「オンラインマテリアル」は古いのである。

これからは、「現実には絶対に作ることが不可能な大学」を「セカンドライフ」の中に作るべき時代がかならずやってくるはずだ、と思うからである。

この意味では、いずれまた、「セカンドライフ」の専門家を(現実の)大学が必要とする時代が来ているのである。
2007/04/12のBlog
[ 18:38 ] [ テクノロジー ]
我々”人”という種に特有の考え方にこんなものがある。

あなたはコップの水の中の微細なゴミ粒を眺める。
次に、あなたは自分が住んでいる地球に思いを馳せる。
そして、この地球もコップの水の中のゴミ粒のようなものかも知れないと考える。
さらに、もし地球がそういった宇宙に浮かぶゴミ粒であるならば、自分がコップを外から覗き込むように、宇宙の外からだれかが覗き込んでいるのかも知れないと。

人は、どういうわけか、こんな考え方をすることがある。多くのSFもこんな感じの思考法に基づく。

この傾向がこれからも続くと仮定しよう。そして、ずっと「セカンドライフ」が人々に身近な存在となったと仮定する。

すると、その時代の”人”は、おそらくこんなことを考えるはずである。

今私は「セカンドライフ」の中のアバター(=自分の身替わりキャラクター)を動かし仕事をしている。
次に、私は自分が住んでいる現実世界の中の自分自身に思いを馳せる。
そして、この現実世界の中の自分自身も「セカンドライフ」の中のアバターのようなものかも知れないと考える。
さらに、もし自分が住む現実世界の自分自身が「セカンドライフ」の中のアバターのようなものであるとするならば、私がパソコンの中の「セカンドライフ」を見るように、この現実の世界の外からだれかが覗き込んでいるのかも知れない。
ひょっとしたら、私自身が何かのアバターなのかも知れないと。

人は時に「自分は何かに突き動かされている」と感じることがある。

よく成功者や一流のスポーツマンなどがそんなことを言う。「私が今ここにあるのは、良く分からないが何かが私にそうさせたのだ」というようなことを言うのである。

一方、丹波哲郎さんのように”大霊界”を信じている宗教家たちは、人はだれかの生まれ変わりであり、「魂は不滅である」と信じている。”魂”の存在する場所は、この世ではなく、”大霊界”なのである。そこから、現実の世界の生物の身体を借りて、霊魂が乗り移ってこの世に誕生するのである、と信じているのである。それゆえ、宗教家は「生まれ変わり」を信じている。

これまで科学者はこうした考え方を一笑に伏してきた。ナンセンスで物理的ではない、科学的ではないと。

しかし、「セカンドライフ」の中の住人と現実の我々の世界との関係は、現実世界の我々と”大霊界”の関係に非常に似ているとも言える。発想においてはほぼ同じである。

我々は自分のアバターを「セカンドライフ」の中に生み、生活させる。現実世界の自分の身替わりが自分のアバターである。そのアバターにあきれば、他に乗り換える。

果たして、我々自身がもし何か超宇宙的なもののアバターであるとすれば、どうなるか?

私の背後にだれか私を動かしている”もの”がいて、その”もの”が私にあきれば、私は死ぬ。

もしそんな世界であったとしたらどうなるのだろうか?

「セカンドライフ」は、なぜかそんな不思議な世界を垣間見せてくれるような気がするのである。

おそらく、こんな類いのSFもそのうちできるかも知れない。
[ 18:00 ] [ テクノロジー ]
「セカンドライフ」の中で検索

1990年代にインターネットが始まり、この世界の中に文書やホームページだらけとなってしまった。どこに何があるのかさっぱり分からない。

そこで登場したのが、yahooやGoogleなどの”検索”システムである。

コンピュータの検索ロボットがスーパーコンピュータの素早さで高速で毎日24時間フルに動き、世界中の文書やホームページを読みまくり、どこに何があるかという情報を記録していく。全世界に存在する組織や個人の情報がインターネットに記録される限り、それらをもとに検索可能となった。

最初は、たいしたことはなかった「検索ビジネス」も今やパソコンメーカーやソフトメーカーを追いこす勢いである。現在では、”グーグル帝国”すら築かれつつあるといわれ、グーグルのサービスもたくさんになってきた。

最初は、”だれかが入力した”インターネット内に存在する情報だけを検索することが目的であったが、さらにそればかりか、今度は、リアルな世界の情報をインターネット内にどんどん取り込むのが、新しいビジネスとなった。それをGoogle自らが行う。ひとたび取り込めば、今度はGoogleのもの。これまでの検索技術が生きる。

そうして誕生したのが、「文献検索」、「本検索」、「研究所検索」、「大学検索」、「論文検索」、「研究者検索」などなどであろう。さらに、Google earthでは、地球上の情報という情報が、「3次元地図」として検索できる。この場合には、インターネットを通じて知ることのできる衛星写真すら利用する。

Googleの躍進は留まるところを知らない。

さて、私は「セカンドライフ」が発達すると、今度は「セカンドライフ」の世界の中でこれと同じようなことが起こると想像している。

つまり、「セカンドライフ検索」が必要となるだろうということである。

今どこにだれがいるのか、瞬時に知りたい。
今どこになにがあるのか、瞬時に知りたい。
今何が起こっているのか、瞬時に知りたい。
など、こう考えるのが人の常である。

「セカンドライフ」内の3次元情報は、「Google second life」で探る。同様に、「セカンドライフ」内の「文献検索」、「本検索」、「研究所検索」、「大学検索」、「論文検索」、「研究者検索」は、「second life文献検索」、「second life本検索」、「second life研究所検索」、「second life大学検索」、「second life論文検索」、「second life研究者検索」などなどで探る。

さもなくば、まるで大霊界にさまよう霊魂のように、あてもなくその世界をさまようだけに終わってしまうからである。

果たしてこういったことは可能だろうか?

もし可能であれば、これは非常に有力なビジネスを生み出すかも知れない。

自動車会社はどこに車の自動販売機を置いているのか?
銀行がどこにある?
どこにだれの家がある?
どこにどのアバターが存在する?

こういった疑問に瞬時に答えるためのビジネスである。

もっとももうすでにこんなものはできているのかも知れないが。
2007/04/11のBlog
1980年代、「人工生命」の研究がさかんであった。「カオス理論」の発展と相まって、「生命とは何か?」、「生命の条件はどんなものか?」などの疑問に答えようと、世界中の研究者が挑戦したのである。

しかし、残念ながら、「人工生命」の研究は、それほど芳しい結果をもたらすものではなかった。

なぜなら、「人工生命」ができたとしても、「じゃ、それが何か?」と言われたら、特にこれと言った利用法や応用分野がなかったからである。


ところが、今や「セカンドライフ」が登場した。こうなると、事情がかなり違ってくるのではないか、と私は感じるのである。

それは、「セカンドライフの中で永久に生き続ける」ことが可能かも知れないと私は考えるからである。

どこかに架空の惑星を作りその中に架空の生態系をつくって、架空の生物の進化を研究するということが昔流行った。しかし、それは架空の世界の架空の話であまり面白くない。

しかし、もしあなたが「人工生命」として、セカンドライフの中にあなたが死んだ後でも生き続けるとすればどうだろうか。これなら、「人工生命」研究も新たなる動機を得ることができるかも知れない。


例えば、あなたの”生前の情報”を駆使して、あなたのアバターを作り、セカンドライフの中で、あなたの死後も生き続けるのである。もちろん、あなた自身の記憶は失われる。しかし、あなたの家族や子孫は、セカンドライフの中であなたと会える。

現在までの葬儀システムやお墓のシステムであれば、あなたが死ねばあなたの情報はあなたの肉体の消滅と時を同じくしてほぼ抹消される。残ったものも、文書や写真の中の情報として残されるだけである。あるいは、あなたが生前に出会った人々の中に残る記憶としてしか存在し得ない。人はあなたのお墓を見ては生前のあなたを思い出してくれるだけのことである。

しかし、もしあなたの生前情報、例えば、あなたの趣味、考え方、嗜好など、あらゆる情報をつかって、アバターを作り(この場合は、あなたは現実世界ですでにお亡くなりになっているのだから、あなたそっくりのアバターでいいわけである)、セカンドライフの中に住む。家を持ち、そこでこれまで亡くなった家族たちといっしょに住むのである。

そこが、セカンドライフの中のあなたの先祖代々の墓地である。しかし墓地と言っても、セカンドライフの場合には、あなたは映像としてあるいは実際に人工生命として”生きている”のである。それも永遠に生き続けることができる。これこそ、丹波哲朗の大霊界である。

あなたの子供や子孫は、あなたに会いたければいつでも会いに行ける。なぜなら、あなたの家には、あなたの生前の写真、ビデオ、DVDなどあらゆる情報がいつでも引き出せるようになっているからである。

あなたが望めば、あなたの姿(アバター)やあなたの先祖の姿を3次元ホログラフィーを通じて、現実の世界に現わすこともできる。

今現在では、コンピュータの中のお墓システムも現実に存在する。現実の世界では、お墓を作るにもかなりのお金が必要である。それよりは、コンピュータの中にお墓を持つ方が安いというわけである。

しかし、これでは、現実のお墓そのもののバーチャルリアリティーでしかない。石のお墓が、パソコンの中のお墓の映像に変わっただけのことで、死んだ人と会って話ができるというわけではない。

ところが、もしセカンドライフの中に生き続けているとすれば、あなたが望む時にあなたの先祖代々と会って話ができる。

果たして、こんな利用法が実現できるだろうか?

私はもう直こんな感じのことができるようになるだろうと想像している。

「人工生命」、「人工知能」の研究と、それを生かす場所としてセカンドライフのような世界は実にマッチしていると思うからである。
[ 12:42 ] [ テクノロジー ]
「セカンドライフ」が発達すると、おそらくこんなビジネスが誕生してくると予想できる。

その名も「セカンドライフ・カフェ」。

これは、これまでの「インターネット・カフェ」が全部グレードアップしたお店である。俗にいう「アキバ系」も真っ青の世界。なぜなら、秋葉原そのものが、セカンドライフの中に誕生しているからである。

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まず、レジで最低料金とコース料金を支払う。

結構高いがフルコースを頼む。

すると、店員が、脳研究に使うような(あのオウム真理教徒がいつも頭につけていたもののような)帽子とスェットスーツに着替えろという。

このスーツにも無数の微細線がくっついている。

店員が、私をジョギングマシーンを大きくしたようなちょっとした広場に誘う。そこには、椅子も机も何でもある。

そこで、私はスーツから出ている線をプラグに刺してもらって終わり。

店員が、準備オーケー。では、これから始めますので、デジタルゴーグルをしてくださいというので、さっそくゴーグルをつけて待つ。

すると、私は突然架空の天国のような世界へ飛ぶ。

そこはまるで秋葉原のようなオタクの世界が広がる。コスプレねーちゃんから頭のいかれた若者風までいる。

お茶を飲みたいと思ったので、私が「お茶が欲しい」と言うと、中から可愛いウェイトレスがやってくる。まずはじめに自分が私の好みの顔かと聞いてくる。そこで、ちょっとちがうな私は「パーミンダ・ナーグラ」のような感じの日本人がいいというと、突然そのウェイトレスの姿が変わる。しばらく、その子と話ながらリラックスする。

さて、いつものジョギングの時間になった。私はジョギングコースを探る。今日は、だれとジョギングするか。

そこで、私は先程の女の子に「ブルックシールズ似の白人の女性と走りたい」と告げる。しばらくすると、私の横にそんな女性がやってくる。

そして、30分ほど、”ニューヨークのような”街を二人で話ながら走り回る。

再び、咽が乾いたので、スポーツ飲料を選びに、どこかのスポーツドリンクメーカーのアバターに頼む。すると、それをウェイトレスが持ってきてくれる。

それを飲んで、今日も良いトレーニングができたな、と思っていると、どこかから男がやってきて、もうすぐ時間ですと告げる。瞬間に回りが見えるようになる。

そこで、私はゴーグルをはずし、スーツを脱ぎ、帽子も返却して、店を出る。
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とまあ、こんな感じの店も可能なのではないか、と私は想像する。

今のジムでもそうだが、ジョギング練習の一番の退屈は、回りの景色が変わらないことである。だから、みんなiポッドやウォークマンなどを耳にして音楽を聞いたり、場合によっては目の前にスクリーンをおいて映像を流す。

ところが、セカンドライフの世界をジョギングできるのであれば、それはそれで非常に面白いことになる。

一方、現実の秋葉原のメイド喫茶であれば、結構可愛い女性しか店員になれない。しかし、セカンドライフの中では、アバターを作るので現実がどうであるかは関係ない。ハンサムでなくても、きれいでなくても、セカンドライフの中では、その中のお店で働くことができる。

まあ、映画の声優は、あまり美男美女でなくても声がきれいであればできる、というように、セカンドライフを使ったビジネスは、あまり現実にどうかは関係ないのである。

仮に現実の世界では、ホーキング博士のように障害をもっていたとしても、セカンドライフの中では、健常者として仕事できるという可能性もある。

現実とセカンドライフをつなぐインターフェースをどんどん開発すれば、さまざまな新職種が誕生するはずである。それにより、新たなる六本木ヒルズ族、セカンドライフ族が誕生する可能性もある。

今、インターネットの中に人々の「ブログ」があるように、将来セカンドライフの中に人々の「ブログハウス」が誕生するはずである。

今、あなたが毎日ブログを更新するように、将来、あなたは毎日そのブログハウスで活動するはずである。もちろん、その家の中には自分のパソコンも日記も存在し、そこで作業可能なのである。

こんなふうに、私にはセカンドライフ的世界には非常に大きな可能性があるように見える。

がしかし、今のインターネット界のように悪のはびこりもあるわけだから、セカンドライフもその轍を踏めば同じような悪のはびこりも生じる可能性はある。

いずれにせよ、あなた自身もセカンドライフの中でなにができるか考えてみれば面白いだろう。
Second Lifeの”衝撃”

最近亡くなった丹波哲朗さんは、「人の死後には霊界における第二の人生がある」と”大霊界”なるものを信じていた。自ら、大霊界のメッセンジャーボーイと語っていた。丹波道場の大霊界は、人が死んだ後の話だが、これにちょっと似ているが、人が生きている内に大霊界のような世界に住むことができるというシステムが開発された。

しばらく前にテレビでも紹介された「Second Life」である。これは、アメリカのベンチャー企業「リンデンラボ社」が開発したものであるという。

そして、これは、最先端のコンピュータ関係者たちの間では、「インターネットの発明」に匹敵する、インターネットの発明以来の大発明であると言われている。

今回からしばらくこのシステムの”衝撃”に関して、思い付いたことを紹介しようと思う。(かといって、それはあくまで私個人の”思い付き”あるいは”受けた印象”に過ぎず、本当にそうなるかどうかということを保証するものではない。)

【特徴 】
Second Lifeの特徴」とは、次のような機能を有するということである。

* 3D コンテンツ制作ツール
ジオメトリック基本形状を使用した、柔軟なマウス操作による 3D 構築ツール装備のユーザー インタフェース。

* コンテンツ試作もあっという間
 たった数分でオーディオビデオとスクリプト機能によるシンプルな 3D モックアップを作成し、オンラインで公表できます。

* Havok 3D に支えられた世界の物理 (Havok II 近日対応)
エキサイティングな体験を実現する、確かな技術

* あなたのコンテンツをお金に変える、アクティブなユーザーコミュニティ
現在のユーザー数: 4万人。さらに増加中!

* 役立つ才能の宝庫
Second Life の多くの住民たちは、コンテンツ制作に関するすべての要素に高度な技術を持っているので、彼らを雇ってあるいはボランティアとして働いてもらい、あなたのアイディアをすぐに市場に売り出す手助けをしてもらえます。

* カスタマイズ可能なアバター
アバターは 150 もの [Appearance] スライダーで変更することができ、どんな形状やスタイルの服、小物も着せられるようデザインされていて、全身着ぐるみ (別名「Skins」) で覆うこともできます。

* リアルタイム開発のコラボレーション
土地やオブジェクトの共同所有権により、同時に、または時間差でプロジェクト開発を行うことができます。 開発による変更は制作中に表示され、リアルタイムに更新が反映されます。

* 時間をかけずにマーケットへ
プロジェクトは制作終了後すぐに運営することができます。 内部の住民経営による広告プロモーション サービスの大規模ネットワークと、外部の商用ウェブサイトを利用。 コマースのページを参照。

* グローバルな認知度
世界 90 以上の国から利用者が集うユーザー基盤。
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そしてこれらの機能を実現するために以下のような様々なツールが用意されている。もちろん、こうしたツールを使えるようになるためには、最先端のパソコンが必要である。私の98年製マックでは無理である。

【シン デスクトップ クライアントのパワフルなオーサリングツール
とスクリプトツール 】

* わかりやすいツール機能
Second Life デスクトップ クライアントをダウンロード、インストールして、内蔵されたオーサリング ツールをご利用ください。 たった数分で、想像力がおよぶ限り、ほぼ何でも作成できるようになります。

* パワフルなスクリプト
Internal Linen Script Language (LSL) はイベントドリブンの C/Java スタイル言語で、オブジェクトやアバターの動作をコントロールすることができます。

* CSG モデリング
Second Life 内のストラクチャやオブジェクトの作成には、スカルプト可能な基本形状のセットを使用し、これらをリンクさせてさらに大きなオブジェクトを作成することができます。

* テクスチャ
Photoshop™ や他の画像編集ソフトウェアで作成したファイルは、インワールドに直接アップロードし、オブジェクトの表面に貼り付けることができます。

* アニメーション
Curious Lab の Poserィ と互換性があるオープンファイルフォーマットにより、モーション キャプチャーファイルを含むカスタム アニメーション ファイルを作成、アップロードし、アバターに「バインド」することができます。
* XML 機能
インワールド XML データを外部のウェブサイトやサービスにエクスポート可能。

* オーディオ
Second Life クライアントに WAV、TK、TK オーディオファイルをアップロード可能。 異なるビットレートで高品質配信を可能にする、Ogg-Vorbis 圧縮フォーマット。 ランドオーナー (下記参照) であれば、自分の所有地にどんなホスト URL からもインターネット オーディオをストリームできます。

* ビデオ
ランドオーナー (下記参照) は、自分の所有地の指定した場所に、どんなホスト URL からも Quicktime ビデオファイルをストリームできます。

* シン クライアント
Windows XP および Apple Mac のキ ンストールファイルは合計 20 MB 以下。これにより新しいユーザーは、ブロードバンド接続なら約 90 秒であなたのコンテンツを見ることができます。

* 大規模に拡張可能なリアルタイム環境
Second Life の世界は単一の連続した「グリッド」上に存在し、人口増加に従って新しい土地(サーバー)が追加されます。
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こうした道具を駆使して、音楽などのオーディオビジュアルから映像などのCG製作まで自由自在にできる。そして、セカンドライフの世界を霊魂のようになって、自由自在に動き回ることができるのである。どこに行くのも自由。空も飛べる。誰にでも会える。何でも作ることができる、というのである。

ただし、その世界とリアルな我々の世界はまったく繋がっていないというわけではない。はやり、きなくさい現実世界、せちがらい世の中に作られた作品である。セカンドライフと現実はさまざまな法律とその使用権、そして金銭の授受で成り立つ。

だいたい以下のような権利が存在するらしい。


【パワフルなコマースと組み合わされるコンテンツ所有権と知的財産権】


* デジタル権利
Linden Lab はデジタル ミレニアム著作権法 (DMCA) に完全準拠します。

* 知的財産所有権
Second Life 利用者は、Second Life の中で自身が作成、管理するアバター キャラクター、洋服、建物、スクリプト、テクスチャ、オブジェクト、デザインを含むデジタル コンテンツについて、知的財産権を所持します。 あなたが作ったものはあなたのものです。

* 土地所有権
Second Life は 土地所有権 を提供し、テラフォーミング権限を含むその使用は Second Life デベロッパーの管理に任されます。

* プライベート アイランド
デベロッパーは大規模なプロジェクトや独立したプロジェクト用に、CPU 1台につき インワールドの 16 エーカー (約 6 万 5000 平方メートル) の私有地をサポートするホストサーバーを直接購入することができます。 詳細については、こちらをご覧ください。

* 内部課金システムとインワールド通貨
商品やサービスの売買は Second Life の権利マネジメント システムに組み込まれ、あなたの活動に見合った利益を確実にします。 料金は販売したコンテンツ、ロケーションや体験へのアクセス、サービスに対してそれぞれ課金することができます。
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ここにある権利が本当であるのであれば、これまで個人所有のパソコンで行ってきた、

「チャット」、「ゲーム遊び」、「コンテンツ製作」、「CG製作」、
「シミュレーション」、「商用アンケート調査」、「市場分析」、
「小説製作」、「映画製作」、……、

などなどの作業が全部このセカンドライフの中でリアルタイムで行えるということとなる。



言い換えれば、各人の個人使用するパソコンとそれらが繋がってできる「インターネットでリンクした現実の世界そのもの」が一切合切バーチャルリアリティーの世界に取り込まれた世界なのである。まるでエッシャーの絵のように、自分を含めた現実が、自分が見ている絵画の中に取り込まれたかのような世界と言えるだろう。

これまでインターネットは、世界中の大中小のコンピュータを繋いで、それらの間でデータの送受信という”やり取り”を行うためのものであった。CGでも、だれかがだれかに自分の作った作品を送受信して見ることができるようにすることが目的であった。

ここに私が書いたことは、これをサーバーに送信することにより、自分のデータを暗号化し、それをインターネット上に乗せる。そうすることで、だれか他人が見ることができる。あるいは、私がだれかに私の手紙やメッセージを送る。

こういったものであった。つまり、”情報”をやりとりするものであった。

しかし、「セカンドライフ」のようなシステムは、今ここで私が文書を書いているそのままが、バーチャルリアリティーのCGの世界で行える、という可能性があるのである。

つまり、世界中の人々が、今まさに行っていることが、そのまま「リアルタイムの映像や行動」として、その世界を通じてだれにも見える世界、それもこの世界にはない、別世界の中で行える可能性があるのである。

私は、日本のコンピュータ会社もインターネット会社もプロバイダーも今こそ、総力をあげて、セカンドライフ研究を行うべきであると信じる。そして早急に立ちあげるべきであると思う。さもなくば、世界中の”行動”をやりとりする新しい世界に乗り遅れることは間違いないと思うからである。

例えば、私の場合はこうである。(もちろん、土地を買うのは有料で結構金がかかるため、私はセカンドライフの住人とはなれないが)

まず、ある場所を買い、そこに私の研究所を設立する。
そこに私の架空の身替わり(アバター)のイケメンを誕生させる。
私はこのイケメン君を通じて、その研究所で研究する。
私が論文を作りながらこの世界を旅する。
いろんな人と会い、議論し、さまざまな交流を計る。
論文ができれば、その中に私の雑誌を作る。
それを研究所のショウウィンドーに飾ることもできる。
要するに、普段なら自分のパソコンの中で没になっているものも全部ここに保管でき、その著作権が得られるからである。

とまあ、こんな感じだろう。こんな感じのことができる可能性がある。

普段だれもいない部屋で1人で研究しているよりは、このセカンドライフの中で研究している方が人出があって面白いと思う人も出てくるだろう。

この世界には現在約500万人を超える人々が住むという。これは、一国の人口に匹敵する。

セカンドライフ、恐るべし。

それにしても、こういう発想は日本から出てこないナア。
2007/04/10のBlog
写真:オリンピック2連破の時の谷亮子。昔の笑顔は素晴らしかった。


昨夜、世界選手権の代表選考会で負けて”世界選手権代表”となった”前代未聞”の珍事の立て役者となった、谷亮子が深夜のスポーツ番組の主役として出ていたが、どうも谷の表情に「ウソくささ」や「うさんくささ」がにじみ出ていて、かなり眉唾もののインタビューであった。

明らかに「こいつは嘘ついているな」と分かる表情をしていた。私の目はごまかせんヨ。

今回の件は、やはり谷亮子の今後を占う”試金石”となることだろう。

やはり、母親業と選手との両立がむずかしく、授乳をしなくてはならず、授乳をすると乳は血液と同じだから、体力を消耗する。だから、決勝では負けてしまった。

というような”言い訳”ばかりしていた。

もしそうなら、子育てが楽になるもう2、3年後まで待ち、今は選手であるべきではないだろう。他の選手たちの”迷惑千万”な話である。

もし今選手として出場したいのなら、母親業を理由にすべきではないだろう。あまりに”卑怯千万”なインタビューであった。

ずっと全部インタビューを聞いていたが、さすがに途中で”あまりの言い訳三昧に”私も呆れ返ってしまった。

柔道協会のトップスターの谷亮子に対して、まったく厳しく”当たり前のこと”を番組キャスターたちも聞くこともなかった。これで、年収1000万円を軽く超えるというのだから”楽な仕事”である。

それと比べたら、我々理論物理学者の仕事の厳しさは比較にならない。それでいて、私の場合はボランティアなのだ。インタビュアーよ、”俺の爪の垢でも煎じて飲め”。

いずれにせよ、今回の”珍事”は、今後日本柔道の将来を決めかねない分水嶺なのかも知れない。

ソウル・オリンピックで、「これで金メダル0なら、もう2度と柔道は”日本のお家芸”ではなくなってしまう」という危機一髪の時、それを首の皮1つでつなぎ止めた、斉藤の金メダル。あの時の苦しさを今の日本柔道界は忘れてしまったようだ。

厳しさのない世界に将来はない。あるのは、”腐敗”のみ。

よどんだ谷亮子の目に俺は腐敗を見たのサ。今や昔の誠実そうな笑顔はない。
[ 20:54 ] [ 音楽・芸能 ]
先週末の4月7日にNHKBSの「衛星映画劇場」で「ベッカムに恋して」という映画を見た。

この映画は非常に面白くて良い映画だった。




男子サッカーには、「ゴール2」がある。

ちょうどこのゴールの主人公、メキシコ人アメリカ移民のサンティアゴが、インド系イギリス移民のジェスという女の子に変わったような作品だった。

ただ面白いのは、男子の場合、プロサッカーの本場はヨーロッパにあるため、アメリカからイングランドに来るのが王道なのだが、女子の場合は、全く逆で女子サッカーのプロの本場はアメリカにあり、イングランドからアメリカへと旅立つという違いがある。

それゆえ、アメリカへ不法移民したサンティアゴはイングランドでプレーすることを夢見るが、イギリスで生まれ育ったインド人ジェスは、アメリカでプレーすることを夢見るのである。

男子サッカーの「ゴール」も女子サッカーの「ベッカムに恋して」も共に同じテーマとぶつかりあう。

それは、少年少女時代に育んだ”自分の夢や目標の実現”と、夢では食えないためにそれを捨て去り、実社会の中で生活を続けなくてはならないという”現実”との「葛藤」である。

これは、だれにもある、どの時代にもある、かなり普遍的なテーマである。

だれもが少年少女時代にまず「ベッカムやロナウジーニョのような一流サッカー選手になりたい」と夢見る。そして、それを目指して練習し頑張る。しかし、自分の才能の限界や不慮の事故による非運などで選手であることが難しくなり、自分の生涯の目標を失いかける。

己の夢の実現を果たすが先か、家族や自分の家庭を持つことが先か。

あるいは、

夢を追い続けて普通の人としての生活も棒に振るのか、夢を追い掛けて潰れていくのか。

あるいは、

家族のために自分の夢を捨てるべきか、それとも家族を捨てて自分の夢を取るべきか。

「果たしてどちらが良いのか?」と人は悩むのである。両方共に実現することは必ずしも不可能ではないが、それができる人間は限られる。

自分にはそれができるのだろうか?

”夢と現実のはざまでーー”

とはDef TechのMy wayの歌詞にあるが、若者は、人はいつの時代も同じ問題に行き当たる。同じ問題で悩むのである。

あるものは、親と大げんかとなり、親を殺したくなるものも出る。あるものは、家出する。またあるものは、親を認めさせるまで説得する。あるものは、親と口も聞かない。などなど、さまざまである。

ここに”ドラマ”が生まれる。

この”ドラマ”がハッピーエンドで終わるか、悲劇で終わるかは、その人次第なのである。

この2つの映画は共にハッピーエンドの道を描いたようである。

しかし、現実にはこういった映画で描ききれない程の悲劇も生まれ続けている。

思春期の子供を持つ親たち、今自分が思春期のまっただ中にいるという人たちは、悲劇に終わらせずハッピーエンドで終わらせるためのヒントをこれらの映画でつかめるのかも知れない。


ところで、主役のジェスは、今やスピルバーグ監督の「ER」の主役の1人となったインド系アメリカ人美人女優のパーミンダ・ナーグラが演じている。



その友人ジュールズ役は今や「パイレーツ・オブ・カリビアン2」でスターとなったキーラ・ナイトレイが演じている。

必見の映画であるナ。
中田カウスさん巡る週刊新潮記事、吉本興業が反論

”人は見かけによらない”

というのは、

「良くも悪くも人はその見せ掛けによらず、見た目で判断してはならない」

という意味の日本人の古くからある”知恵”を表現することわざである。

この記事の話は、まさしくそれである。

私はこの手の記事が出るまで、「中田カウス」なる人物は知らなかった。というより、漫才も芸風も見て知っていたが、その人物と中田カウスという人物名が一致しなかったというべきだろう。

この人はNHKの「上方演芸会」などにも頻繁に出る人物である。

例の「芸能情報インサイド」にも頻繁にスクープされているようである。

中田カウスと林マサの泥沼の告発合戦
吉本興業が中田カウスに潰される!
大御所芸人に土下座させた中田カウス
黒い交際を自慢する中田カウス

こういった記事の”真偽”のほどは後々分かることだろうが、この人物はたぶん広告用として吉本が書き込んでいる「ウィキペディア」の記事を見ると、そのヒントが出ているから面白い。

中田カウス・ボタン」には、こんな”黒い話”があるという。

まず、合方の中田ボタンの話。

”1988年10月27日、同年4月23日に大阪府藤井寺市内で山口組系暴力団の開いた賭博に客として加わっていた事がわかり、賭博容疑で逮捕された。ボタンは容疑事実を全面的に認めたため同日夕方釈放されたが、しばらく謹慎処分となった。ここから、謹慎処分で借金漬けのボタンを、裕福なカウスが笑う、というパターンが生まれた。”

ここで、どうして中田カウスが”裕福”かというと、「中田カウス」の項目にそれとなくこうある。

”投機で成功した時期があり、その頃は『金持ちで真っ当な』カウス、『貧乏で犯罪者チックな』ボタンというパターンでボケを担当していた。”

ここに重大なヒントがありそうである。

”投機で成功した時期があり”

という部分である。芸人が投機で成功するということは普通まずありえない。しかし、それに成功したということは、だれかの力添えがあったということを意味する。

北尾と親戚ということから、どうもその指南役は北尾である可能性が高い。まあ、一種のインサイダー情報を得て株の投機で金持ちにしてもらったという意味だろう。

こういうことを”彷佛させる”記事である。

さらに極め付けは、この人物の”イタズラ伝説”にある。

”* 毛布事件
ある日の飛行機で人生幸朗と乗り合わせたカウスは、人生幸朗が寝ているスキに飛行機に備え付けてあった毛布を人生幸朗のカバンの中へこっそりと入れた。その後、深夜3時頃に人生幸朗宅へ「航空会社の者ですが、うちの毛布が無くなったのですが…」という電話を入れる。「こんな時間に相手を誰だと思って電話してるんだ!」と怒った人生師匠だが、カバンの中を調べると本当に毛布が入っており、一転して平謝りしだした。

* メガネ赤塗り事件
昼寝中の人生幸朗のメガネのレンズを赤のマジックインキで塗りつぶし、カウスは耳元で「火事や!」と叫ぶ。目を覚ました人生幸朗は目の前が真っ赤な上に強度の近眼だったので何がなんだか分からず、慌てふためく一方だった。

* 浜田縛りつけ事件
素っ気無く漫才をしていた浜田雅功を舞台の淵にガムテープで縛りつけ、次の自分たちの出番までそのまま浜田を放置した。

* 首吊り事件
当時住んでいたアパートにあった木に、深夜にこっそり縄をくくりつけ、マネキン人形の首をそれに引っ掛けておいた。暗闇の中からそれを見たアパートの管理人は腰を抜かし、庭にあった池へ落ちてしまった。

* 今いくよ・くるよ事件
テレビ局のプロデューサーを装い、今いくよ・くるよに「一生懸命に漫才の稽古している姿を撮りたいので、正月海辺で晴れ着を着て稽古していて下さい。」と電話。実際に晴れ着で稽古をしていたいくよ・くるよを船に乗って見て笑っていたという。

* ホテルプラザ花火事件
かつて大阪福島の朝日放送横にあったホテルプラザの一室で愛人と花火を打ち上げスプリンクラーと非常ベルが作動し大騒動となった。”

まあ、一言で言えば、こういった”悪ふざけ”はやくざがやることだ。普通の人はこういうことはしない。”いたずら”に見せたリンチあるいは報復である。アメリカのギャングスターやチンピラがよくこういうことをやるが、そういう類いの悪い趣味である。

あの”人の良さそうな笑い顔”からはまったく想像もできない。

これが、私が前から言っている「お笑いインベーダー」というものである。(”お笑い”インベーダー中国で撃墜される?

私はこう書いていた。

”ある時から突然この前までいたテレビキャスターの横に妙にくだけた”へらへら”した”笑い”顔の男が座る。そしてさも最もらしいことを言う。その間に入るコマーシャルを聞いているとヒデキのYMCAを歌っているのだが、見れば、声はヒデキだが顔は”笑っている”。ビールのコマーシャルの台詞を聞いていれば、”いいだろー、いいだろー、いいだろうー”という顔が”笑っている”。朝のニュース番組を見れば、いつの間にか腹のでかい”笑い”顔の男が棒を持って新聞紙を指している。歌番組を見れば、なぜか全員の顔が”笑っている”。トレンディー番組を見れば、綺麗で若い女優の恋人役が”笑っている”猿顔だ。深夜のスポーツ番組でサッカー番組を見れば、綺麗なお姉さんキャスターの横に必ず”笑った”顔がある。翌朝NHKの朝ドラを見れば、主役の周りの顔が”笑っている”。そして日が経つにつれ、少しずつ少しずつテレビの中には”笑った”顔の人物ばかりとなっている。どこかのうどん屋で食べていると、テレビを見ている客や店員がテレビの中の”笑っている”人を見て”笑っている”。アメリカのユニバーサル・スタジオの日本進出版だろうと思ってUSJに行ったら、アトラクションの司会者の顔が”笑っている”。しかも大阪弁だ。

これは、私には実に”恐い”のである。まるで、”インベーダー”の恐怖のように、”お笑いインベーダー”に日本が侵略されているように感じるからかも知れない。なぜか”恐怖”を感じるのである。”

この”背後”に何があるか、もうお分かりのことだろうヨ。
2007/04/09のBlog
「金融庁」かたる新手の振り込め詐欺 金融庁が注意喚起

「金融庁」の名前をちらつかせて信用させ、金をだまし取る新手の「振り込め詐欺」が起きている。

というらしいが、

「金融庁が個人の信用情報を管理したり個別の貸し付けに関与したりすることはない」

といって注意を呼び掛けているという。

しかし、これではいかんだろう。金融庁の威信にかけて犯罪者をとっ捕まえなくては。

どうももはや日本は国家の体裁を失いつつあるようですナ。
[ 15:38 ] [ 音楽・芸能 ]
芸能情報インサイド

偶然、ネットサーフィンで見つけた上のブログ。これは、芸能界の裏情報を集めたもののようである。だれが書いているか知らないが、あまりに面白すぎる。

例えば、

滝川クリステルが独立へ、待遇面に不満か

この中にそれとなく当たり前のように書かれていることが面白い。そこにこうある。

「フジの女子アナが在籍2、3年程度で1000万円を超えていることからも、
滝川の待遇の悪さは明らかだ。」

つまり、ホリエモンに買収されそうになり、ホワイトナイトで現れた北尾吉孝氏が救ってやったという、あのフジテレビの「女子アナ」の給料は、入社2、3年で年収1000万を超える、というのである。つまり、大学を卒業して22歳。せいぜい24、5歳にして年収1000万円というのだから恐れいる。(それにしても、「女子アナ」は何も生み出さないのだから、あまりに高すぎですナ。)

科学者の給料は、いっぱしの大人の研究者でも良くて400-500万円。教授や主任研究者になればこそやっと年収1000万円超えるくらいだろうか。

「女子アナ」になろうとするものは後を絶たないはずである。そして「女子アナ」をしつつ、一流スポーツ選手をゲットすれば、億万長者となることも可能。これでは、テレビ業界に集まるはずである。

テレビのニュース番組やバラエティー番組で、「格差社会がどうのこうの」と言っているその張本人達が、実は「その格差社会の頂点に君臨する」というわけである。言ってみれば、これも「捏造番組」の類いと言えるだろう。

困ったものである。

ところで、ホワイトナイトの北尾吉孝氏、この人物は今問題になっているらしい中田カウス氏と親戚関係にあるという。あのホリエモン騒動で買収されそうになったフジテレビと同じ時期に、これも買収されそうになった吉本興業を北尾氏のおかげで救った功績で重役になり、権力を欲しいままにしているという話があるらしい。

吉本興業が中田カウスに潰される!

まあ、そんなわけだから、ホリエモンもホリエモンだが、北尾氏もかなりのくせもののようですナ。

ほんと、格差社会に巣くっているお金持ちの考えることは理解不能である。

いっそ、フジテレビも吉本もホリエモンに買収されてしまった方が良かったのかもしれないナ。
花見帰りで飲酒運転、一緒に飲んだ仲間はね死なす

25年以上も前の日本は、今と違って結構飲酒運転に寛容な国であった。

特に地方では、車以外の交通手段はなかったわけだから、多少の飲酒では”お互い様”ということで大目に見ていたわけである。十分に御注意ください、ということだった。

しかし、当時の若者や中年が今や50代、60代になった今、この世代はどうも”知的に老化が早い”せいか、多少の飲酒でも重大な事故を起こしてしまうように見える。あまりに最近の稚拙な人身事故が多すぎるのである。

そんなわけで、飲酒運転による幾多の”悲劇的事故”のせいで、今や多少の飲酒でも逮捕されるという世の中となってしまったのである。

まあ、それも、日本人の60%近くにはアルコールの分解酵素が遺伝的に欠損しているという人種なのだから当然と言えば当然である。

ところが、そんなアジア人である日本人社会であるにも関わらず、どうもこの国では飲酒やアルコールメーカーや酒屋に寛大な国なのである(世界でもっとも飲酒に寛容な国 )。

阪急創始者の小林一三は、山梨韮崎の大酒屋出身であったが、日本の実業界や政界は酒屋あがりが多い。

この複雑な世の中を、電気屋、自転車屋、自動車屋、酒屋、カメラ屋あがりの経営者で動かすのは不可能である。アメリカのように、石油屋が動かすのも困り者だが、酒屋が世の中のテレビCM界を席巻しているようでは本末転倒である。

「飲んだら乗るな」

というのは、警察やテレビマスコミが言っている”たわごと”だ。飲んだら乗るに決まっている。また、飲んでしまったやつに説教したって聞くはずがない。なぜなら、日本人の大半は、飲めば、理性を失い、普段以上に強引になり見境が付かなくなるからである。

したがって、本来ならこういうべきだろうヨ。

「飲むなら乗るな」

あるいは、

「乗るなら飲むな」

これなら、飲む前に忠告しているわけだから、多少は説教の効果もあるかもしれないからだ。

まあ、何ごとも本末転倒の度合は増すばかりのようですナ。
2007/04/08のBlog
[ 23:16 ] [ スポーツ ]
柔道世界選手権の代表に谷ら 選考会は2時間紛糾

これで、柔道界の”インサイダー取り引き”がどんなものか分かった。

要するに、強化委員長の吉村和郎が”がん”だったようだ。吉村と谷は”長い付き合い”があり、谷の”後ろ楯”としてはぴったりの人物ということである。

吉村和郎は言った。

「(五輪、世界選手権では)金メダルが絶対条件。国内で勝っても外国人に勝てない選手ではダメ。金に近い選手を選んだ」
「谷は他の選手と違う」

それに対して筑波大出身の山口香はこう言った。

「勝っても代表に選ばれないのでは、チャンスがなくなってしまう。谷の立派さは分かるが、福見には今年がなければ、来年の五輪もないことになる」

まあ、結論から言えば、山口香が”正論”である。吉村の意見は一見もっともらしいが、それは自分の保身のためであることは明白。責任を取らされることが”恐い”のである。自分の顔はこわおもての割には”チキン”である。

柔道であれ、どんなスポーツであれ、時に10年20年に一度の選手が現れることがある。こういう場合に現れる典型的な問題がある。それは、「後継者が育たない」という問題である。というのは、その余りに偉大な選手の陰で他の若者達や後進達にチャンスが与えられないからである。実は、偉大な選手がその偉大さゆえに長年に渡り”君臨”し続けると、逆にそのおかげで”若手が育たない”という問題がスポーツには存在するのである。

日本サッカーでもかつて釜本という偉大なセンターフォワードが誕生した。がしかし、釜本が長年に渡り日本代表のトップに居座ってしまったために、逆にその後の10年20年の間、「釜本を超えるフォワードが育たない」という問題を日本サッカーは抱えることとなったのである。

この悪しき伝統が現在においてすら伝わっているのである。最近では、中田英寿が存在し続けたために、なかなか日本代表の良いミッドフィールダーが育たなかった。あるいは、東京ヴェルディでは、ラモスやカズが長年選手として存在し続けたために若手が育なかった。

これは日本に限らず、イギリスのサッカーでもどこにもある。フランスのジダンが長く偉大であり過ぎたために、今のフランスにはジダンを超える中盤の選手がいなくなってしまった。ベッカムが長く頑張り続ければそれだけ若手のチャンスが減る。ポルトガルでもヒィーゴが長くいたために、クリスチャン・ロナウドが出るまで若手がなかなか育たなかった。

こういう問題がスポーツにはある。おそらく、これはどんな分野にもあることだろう。科学でもそうである。偉大な科学者の研究室から必ずしも師を超えるような偉大な科学者が誕生することはめずらしい。

だから、”偉大な選手”というのは、その”(引退の)頃合”を自分で判断する。これが”若手への遺産”、”若手への愛情”なのである。それゆえ、国内でプレーはしても代表は降りる、というような行動に出るのである。

今、まさに谷亮子に求められているのは、こういう行動である。国内大会は出場するが国際大会は若手に譲る。こういう精神である。これが強いては将来の日本柔道の勢いを引き継ぐことになるのである。

若手が国際大会で時に失敗するのは、当然である。しかし、それが後々生きてきて、再び谷のような偉大な選手を生み出すことに繋がるのである。

谷が勝てば文句無しだっただろうが、福見の圧勝だったのだから、福見友子にチャンスを与えるのが筋というものであろうヨ。

これでは、自分の柔道場で福見を育て、柔道の稽古中に亡くなられた柘植先生も浮かばれないだろう。

吉村和郎はすでに柔道ビジネスマンになってしまったのであり、日本柔道の本流をお忘れになったようである。

いずれにせよ、”2時間”という短時間で9月のための選考をお茶漬けのように仕上げてしまったようですナ。
谷、5年ぶり黒星でV逃す井上は準決勝敗退

福岡国際センターで「全日本選抜体重別選手権」の最終日が行われた。これは、柔道の世界選手権(9月・ブラジル)の代表選考会を兼ね、男女7階級が行われた。

注目の”48kg級”で、決勝戦は谷亮子(旧姓田村亮子)選手と福見友子選手(筑波大学)で行われ、高校時代に田村の65連勝で連勝記録をストップした福見選手が、ほとんど技有りの有効で優勝した。先程その試合(録画放送)を私も見たが、終始圧倒したのは福見選手であった。

ところが、その試合直後の代表発表では、なんと準優勝の谷亮子選手が、世界選手権代表となってしまった。
谷亮子、世界選手権代表に…全日本では準優勝

さすがに私はこれには驚いた。

これでは、優勝すれば世界選手権代表になれると死にものぐるいで練習してきた選手達は浮かばれないだろう。何をやっても谷選手が代表に選ばれることは最初から決まっていたわけである。K1やボクシングのようなオープニングからしてうさんくささがあったが、これではまるで亀田親子のようなものである。

もし、9月まで十分時間があり、谷選手が今負けてもこれから半年で勝負観が戻るという計算があって代表を与えたというのなら、今すぐ代表権をきめる必要はなく、もっと直前の勝負で決定すべきだろう。あまりにも性急な決定である。逆にもし今決めるというのであれば、優勝した福見選手が代表となるのが理屈であろう。

どうやら、日本柔道界もかつての女子フィギュアスケートのような理屈にあわない代表選考を行う団体に変わってしまったようである。なにやら”不正のにおい”がぷんぷんする。暴挙もいいところである。

ところで、この福見友子選手こそ、「反秀才論」の著者であり、理論物理学者で柔道家であった故柘植俊一さんの”弟子”、氏がつくばで始めた柔道塾の出身なのである。このあたりは拙著「柘植の『反秀才論』を読み解く」に書いたことである。

いずれにせよ、福見選手は今悔し涙でいっぱいだろう。谷選手は自ら負けた責任をとり代表を辞退すべきだろうヨ。
2007/04/07のBlog
捜査資料、地検「死んでも出さない」 鹿児島12人無罪

地方の大名や悪代官やお奉行さまの不正に目を凝らして諸国漫遊するのが、我らが”水戸黄門さまである。

「控えおろう。頭が高い。この紋所が目に入らぬか」

これこそ、アメリカの「Xファイル」のモールダーFBI捜査官と同じことである。

地方警察や地方検事や地方裁判官(あるいは地方大学教授)たちの”不正”をだれが取り締まるのか、という実に古典的な問題なのである。

私はもう何年も前から、主張してきているが、これこそアメリカでいうFBIが行うことであり、今や日本でも地方の権威ある機関の不正を暴くにはこういう組織が必要なのである。

防衛庁も防衛省に”格上げ”したわけだから、そろそろ警察庁も”警察省”に格上げして、その中に”日本版FBI”のような組織を作り、広域犯罪、組織犯罪、地方警察や検事や裁判官の不正などにも目を光らせる組織が必要な時代となったのではないだろうか。

さもなくば、悪徳高利貸し、振り込め詐欺、産業スパイ、汚職官僚、悪徳セックス産業、アダルト業界を取り締まることはできないだろう。さらには、悪徳地方検事、悪徳地方警察などの不正も捜査できないだろう。

良く調べれば、結局”無罪”と分かるような”えん罪行為”を行えば、結局、捜査する方もされる方にとっても”時間の無駄”となり、最後には国民にも国家にとっても”税金の無駄”となり、みんなが損をすることになるのだ、という大人の認識が必要である。

いつの日か、日本にも、

「FBIだ。捜査に協力してもらう。この紋章が目に入らぬか」

というような時代がやってくるだろうか。