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2007/05/16のBlog
[ 16:51 ]
[ 徳島 ]
2007/05/15のBlog
[ 18:58 ]
[ 社会 ]
写真:吉村作治さん発見のエジプトのひつぎ
「ミイラとりがミイラになる」
とは、非常に面白い言葉だと私は考えている。
これは、「エジプトへミイラを発掘に行った冒険家が遭難して自分自身が死んでミイラ化してしまう」という文章そのものの意味であるが、これが意味するものは、結構深いからである。
「虎穴に入らば虎児を得ず」だが、しかし虎穴で死ねば己がミイラとなり、虎の餌食となる。
最近、「エベレスト掃除」で有名になった山岳冒険家の野口健がある時こんなことを言っていた。
「僕が遭難すれば、今度は僕自身がゴミになるんです」
つまり、
「エベレストのゴミとり屋が、エベレストのゴミになる」
これこそ、冒頭のミイラとりがミイラとまったく同じことである。こういった例は比較的分かりやすい。
しかし、ここ30年ほど、科学の世界を旅してきた私が観察したところ、これと非常に似たようなことがしばしば起こっているのである。
例えば、こんなものがある。
「癌研究者が癌で死ぬ」
ことが非常に多い。この理由は分からないが、おそらく研究に使う発がん物質を自分自身があびて癌となるのだろうと想像している。
「脳科学者が、脳硬塞になる」
これも、有名な多田富雄博士の例がある。
「物理学者が物理的な事故にあう」
一番有名なのはノーベル賞学者のレフ・ランダウである。BCS理論のノーベル賞学者シュリーファーもそうである。
「心臓外科医が心筋梗塞になる」
これは、その昔、慶応大の当代きっての有名心臓外科医が、ハワイで心筋梗塞となり、心臓バイパス手術を受けて生還したという話があったことを覚えている。
「胃外科医が胃ガンで死ぬ」
これは、有名な「白い巨搭」の財前教授の話である。
そして、ジョークのような話だが、今日のニュースにこんなものがあった。
東大大学院教授が電車内で痴漢、現行犯逮捕される
この蟻川恒正さんの専門は、「ポルノグラフィと法規制:ジェンダーの視点から」にあるように、”ポルノグラフィーの権利侵害を集団としての女性に対する権利侵害”というような、女性に対する性犯罪であるらしい。
つまり、
「性犯罪の法学者が性犯罪を犯した」
のである。
他にも非常にたくさんの似たような例がある。
そんなわけで、”ミイラとりがミイラ”というのは、本当に肝に命じておかなくてはならないことわざである。
「ミイラとりがミイラになる」
とは、非常に面白い言葉だと私は考えている。
これは、「エジプトへミイラを発掘に行った冒険家が遭難して自分自身が死んでミイラ化してしまう」という文章そのものの意味であるが、これが意味するものは、結構深いからである。
「虎穴に入らば虎児を得ず」だが、しかし虎穴で死ねば己がミイラとなり、虎の餌食となる。
最近、「エベレスト掃除」で有名になった山岳冒険家の野口健がある時こんなことを言っていた。
「僕が遭難すれば、今度は僕自身がゴミになるんです」
つまり、
「エベレストのゴミとり屋が、エベレストのゴミになる」
これこそ、冒頭のミイラとりがミイラとまったく同じことである。こういった例は比較的分かりやすい。
しかし、ここ30年ほど、科学の世界を旅してきた私が観察したところ、これと非常に似たようなことがしばしば起こっているのである。
例えば、こんなものがある。
「癌研究者が癌で死ぬ」
ことが非常に多い。この理由は分からないが、おそらく研究に使う発がん物質を自分自身があびて癌となるのだろうと想像している。
「脳科学者が、脳硬塞になる」
これも、有名な多田富雄博士の例がある。
「物理学者が物理的な事故にあう」
一番有名なのはノーベル賞学者のレフ・ランダウである。BCS理論のノーベル賞学者シュリーファーもそうである。
「心臓外科医が心筋梗塞になる」
これは、その昔、慶応大の当代きっての有名心臓外科医が、ハワイで心筋梗塞となり、心臓バイパス手術を受けて生還したという話があったことを覚えている。
「胃外科医が胃ガンで死ぬ」
これは、有名な「白い巨搭」の財前教授の話である。
そして、ジョークのような話だが、今日のニュースにこんなものがあった。
東大大学院教授が電車内で痴漢、現行犯逮捕される
この蟻川恒正さんの専門は、「ポルノグラフィと法規制:ジェンダーの視点から」にあるように、”ポルノグラフィーの権利侵害を集団としての女性に対する権利侵害”というような、女性に対する性犯罪であるらしい。
つまり、
「性犯罪の法学者が性犯罪を犯した」
のである。
他にも非常にたくさんの似たような例がある。
そんなわけで、”ミイラとりがミイラ”というのは、本当に肝に命じておかなくてはならないことわざである。
2007/05/13のBlog
[ 11:18 ]
[ ジョーク ]
「失敗恐れないで」ハイリスク研究に補助金 文科省検討
「万に一つ」、「万が一」という言葉がある。これは競馬の「万馬券」ではないが、めったに起こらないような稀なことを表現する言葉である。
文科省が、成功の見込みが「十に一つ」程度でも、大きな成果につながる可能性があると判断した研究に対して、新しいタイプの研究助成を設ける検討をを考慮中というニュース。
その理由は、近年、成果が確実と期待される研究に補助金が集中し、革新的な研究が出にくくなったからだ。選考方法や補助額など考え、来年度の制度創設を目指す。
その対象は?
(1)才能や先見性を実績で示した研究者が試みる、従来とは違う分野の研究への取り組み
(2)従来の学問分野を超えた新しい分野の研究
(3)現在の技術では実現が難しい高い目標を掲げたテーマに挑戦する研究、
などを想定。(3)は個性的なベテラン研究者が目標を設定し、若い研究者が挑戦する形などを模索している。
「万に一つ」、「万が一」という言葉がある。これは競馬の「万馬券」ではないが、めったに起こらないような稀なことを表現する言葉である。
文科省が、成功の見込みが「十に一つ」程度でも、大きな成果につながる可能性があると判断した研究に対して、新しいタイプの研究助成を設ける検討をを考慮中というニュース。
その理由は、近年、成果が確実と期待される研究に補助金が集中し、革新的な研究が出にくくなったからだ。選考方法や補助額など考え、来年度の制度創設を目指す。
その対象は?
(1)才能や先見性を実績で示した研究者が試みる、従来とは違う分野の研究への取り組み
(2)従来の学問分野を超えた新しい分野の研究
(3)現在の技術では実現が難しい高い目標を掲げたテーマに挑戦する研究、
などを想定。(3)は個性的なベテラン研究者が目標を設定し、若い研究者が挑戦する形などを模索している。
今回の助成は、
「十のうち九はダメかも知れない」(文科省)
「自由な発想による面白い研究が減っているのではないか」
というような問題を打開するのが目的らしい。
しかし、現実には「10に1つの研究」や「万に1つの研究」というようなものは、取っ掛かりの始めには、万人からは「気狂いじみて見える」、「”とんでもなく”見える」、「あまりに突飛に見える」というようなものである。したがって、多くの場合は、標準的、平均的アイデアから逸脱するものである。大笑いされたり、バカにされかねないものでもある。なぜなら、可能性が一見、一考すると低く見えるからである。”普通”の人には、理解できないものであるからである。
ところが、一方で、何でもかんでも標準的観点や視点からはずれるものを「トンデモ」というスローガンでいっしょくたにしていくという風潮も一部の大学教授を中心に広がってきている。こういう極めて”生真面目な”科学者や科学教育者たちの政治的圧力も今や無視できないほどになってきている。
にもかかわらず、”稀な研究”というのは、多くの場合、かなり”気印のつく”信仰めいた本人特有のモティベーションなくしてはできない代物であるというのもまた事実なのである。標準的アプローチの先にそれをつきつめていけばできるというふうにはどうも自然界はできていない。
だから、ある程度、”気印のつく”、一見気狂いじみた研究やアイデアも、”まじめに考えて行って取捨選択する”という開かれた態度が大事なのだが、どうも最近の日本人研究者の標準的なもの達は、そういう努力を怠る、あるいは惜しむ傾向が強くなっている。
それゆえ、欧米のように「”10に1つの研究”や”万に1つの研究”を行おう」という精神風土と日本のように「あれはトンデモ、あれはニセ科学だ」という精神風土と対立し、矛盾してしまうのである。
したがって、こういった新しい制度が成功するかどうか、というのは、まさしく「この矛盾をいかに回避できるか」ということに直結しているのである。
「十のうち九はダメかも知れない」(文科省)
「自由な発想による面白い研究が減っているのではないか」
というような問題を打開するのが目的らしい。
しかし、現実には「10に1つの研究」や「万に1つの研究」というようなものは、取っ掛かりの始めには、万人からは「気狂いじみて見える」、「”とんでもなく”見える」、「あまりに突飛に見える」というようなものである。したがって、多くの場合は、標準的、平均的アイデアから逸脱するものである。大笑いされたり、バカにされかねないものでもある。なぜなら、可能性が一見、一考すると低く見えるからである。”普通”の人には、理解できないものであるからである。
ところが、一方で、何でもかんでも標準的観点や視点からはずれるものを「トンデモ」というスローガンでいっしょくたにしていくという風潮も一部の大学教授を中心に広がってきている。こういう極めて”生真面目な”科学者や科学教育者たちの政治的圧力も今や無視できないほどになってきている。
にもかかわらず、”稀な研究”というのは、多くの場合、かなり”気印のつく”信仰めいた本人特有のモティベーションなくしてはできない代物であるというのもまた事実なのである。標準的アプローチの先にそれをつきつめていけばできるというふうにはどうも自然界はできていない。
だから、ある程度、”気印のつく”、一見気狂いじみた研究やアイデアも、”まじめに考えて行って取捨選択する”という開かれた態度が大事なのだが、どうも最近の日本人研究者の標準的なもの達は、そういう努力を怠る、あるいは惜しむ傾向が強くなっている。
それゆえ、欧米のように「”10に1つの研究”や”万に1つの研究”を行おう」という精神風土と日本のように「あれはトンデモ、あれはニセ科学だ」という精神風土と対立し、矛盾してしまうのである。
したがって、こういった新しい制度が成功するかどうか、というのは、まさしく「この矛盾をいかに回避できるか」ということに直結しているのである。
ところで、この試みそのものは、非常に結構なのだが、このニュース記事の後半を読むと、ガクっと来るものがある。これは、ジョークそのものなので、ジョークにしておこう。
【失敗を恐れずに挑戦を】
世界の科学界は、近年、自由な発想による面白い味のある研究が減った。
成果が確実と期待される研究に補助金が集中したため、革新的な研究が出にくくなった。
そこで、この状況に業を煮やした各国の科学省は、「10に1つ」の「ハイリスク・ハイインパクト」研究に対する新しい研究助成を行うことにした。
この提案に賛同した各国の研究所長は次のようにいう。
イギリスの場合。
「科学者諸君、今こそ英国紳士の心意気を世界に見せる時だ。
10に1つの研究でも失敗を恐れずに挑戦をしてくれたまえ」
すると、若きイギリス人科学者達は、”英国紳士の勇気を見せてやる”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
アメリカの場合。
「科学者諸君、君たちは雇用保険や年金に入っているから大丈夫だ。
失敗しようがどうなろうが何も問題ない。
10に1つの研究でも失敗を恐れずに挑戦をしてくれたまえ」
すると、若きアメリカ人科学者達は安心して後のことは”保険に任せた”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
ドイツの場合。
「科学者諸君、これは所長の絶対命令だ。
10に1つの研究でも失敗を恐れずに死ぬ気で挑戦をしてくれたまえ」
すると、若きドイツ人科学者達は所長の”命令には絶対服従”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
フランスの場合。
「科学者諸君、我が国は”自由、平等、博愛”の精神で多くの移民を受け入れて来た。
国の理想のために10に1つの研究でも失敗を恐れずに挑戦をしてくれたまえ』
すると、若きフランス人科学者達は”世界の自由、平等、博愛のために”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
イタリアの場合。
「科学者諸君、君たちはこのままで結構。
10に1つの研究は他国に任せて普通の研究をしてくれたまえ。
しかし、美人にもてたいなら別だがね」
すると、若きイタリア人科学者達は”所長の命令に従うのは真っ平ごめんだが美人にはもてたい”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
カナダの場合。
「科学者諸君、我が国には死刑制度は廃止されている。
どんな研究で失敗しても死刑になることはない。
10に1つの研究でも失敗を恐れずに挑戦をしてくれたまえ」
すると、若きカナダ人科学者達は”どんなにお金を費やしても死刑にならないのなら”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
中国の場合。
「科学者諸君、我が国では10万円以上の汚職行為は死刑とされている。
10万円以上の研究助成をもらった以上、失敗すれば死刑だ。
10に1つの研究でも生き続けたいなら成功するまで挑戦するほかない」
すると、若き中国人科学者達は”成功しないかぎり死刑になるのなら”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
日本の場合。
「科学者諸君、他国ではみんな10に1つの「ハイリスク・ハイインパクト」研究をやっている。
きみたちだけだよ、やっていないのは」
すると若き日本人科学者達はそれが”世界の常識だ”と知ってしぶしぶ10に1つの研究に挑戦する。
【失敗を恐れずに挑戦を】
世界の科学界は、近年、自由な発想による面白い味のある研究が減った。
成果が確実と期待される研究に補助金が集中したため、革新的な研究が出にくくなった。
そこで、この状況に業を煮やした各国の科学省は、「10に1つ」の「ハイリスク・ハイインパクト」研究に対する新しい研究助成を行うことにした。
この提案に賛同した各国の研究所長は次のようにいう。
イギリスの場合。
「科学者諸君、今こそ英国紳士の心意気を世界に見せる時だ。
10に1つの研究でも失敗を恐れずに挑戦をしてくれたまえ」
すると、若きイギリス人科学者達は、”英国紳士の勇気を見せてやる”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
アメリカの場合。
「科学者諸君、君たちは雇用保険や年金に入っているから大丈夫だ。
失敗しようがどうなろうが何も問題ない。
10に1つの研究でも失敗を恐れずに挑戦をしてくれたまえ」
すると、若きアメリカ人科学者達は安心して後のことは”保険に任せた”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
ドイツの場合。
「科学者諸君、これは所長の絶対命令だ。
10に1つの研究でも失敗を恐れずに死ぬ気で挑戦をしてくれたまえ」
すると、若きドイツ人科学者達は所長の”命令には絶対服従”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
フランスの場合。
「科学者諸君、我が国は”自由、平等、博愛”の精神で多くの移民を受け入れて来た。
国の理想のために10に1つの研究でも失敗を恐れずに挑戦をしてくれたまえ』
すると、若きフランス人科学者達は”世界の自由、平等、博愛のために”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
イタリアの場合。
「科学者諸君、君たちはこのままで結構。
10に1つの研究は他国に任せて普通の研究をしてくれたまえ。
しかし、美人にもてたいなら別だがね」
すると、若きイタリア人科学者達は”所長の命令に従うのは真っ平ごめんだが美人にはもてたい”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
カナダの場合。
「科学者諸君、我が国には死刑制度は廃止されている。
どんな研究で失敗しても死刑になることはない。
10に1つの研究でも失敗を恐れずに挑戦をしてくれたまえ」
すると、若きカナダ人科学者達は”どんなにお金を費やしても死刑にならないのなら”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
中国の場合。
「科学者諸君、我が国では10万円以上の汚職行為は死刑とされている。
10万円以上の研究助成をもらった以上、失敗すれば死刑だ。
10に1つの研究でも生き続けたいなら成功するまで挑戦するほかない」
すると、若き中国人科学者達は”成功しないかぎり死刑になるのなら”と勇猛果敢に10に1つの研究に挑戦する。
日本の場合。
「科学者諸君、他国ではみんな10に1つの「ハイリスク・ハイインパクト」研究をやっている。
きみたちだけだよ、やっていないのは」
すると若き日本人科学者達はそれが”世界の常識だ”と知ってしぶしぶ10に1つの研究に挑戦する。
2007/05/11のBlog
[ 09:41 ]
[ 大学・大学院 ]
写真:春の黄砂
ひと頃、日本でも「会社はだれのものか?」というような話題が流行った。しかし、もうその話は忘れ去られてしまったように見える。
思い出せば、
「会社は、会社を立ち上げた創業者やその一族のものか?」、
あるいは
「会社は、会社の株主のものか?」、
あるいは
「会社は、会社に勤めている従業員のものか?」、
あるいは
「会社は、会社の顧客のものか?」、
はてまた
「会社は、会社のある地域住民のものなのか?」、
などなど。「果たしていったいだれのためのものか?」というような議論であった。
実は、会社ほど一般受けもせず、なじみもないが、非常に似たような問題に、
「大学はだれのものか?」
という問題がある。
この場合には、会社と大学にはうまい対応がつく。
会社(民間セクター)ーー大学(アカデミックセクター)
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
創業者ーーーーーーーーー創立者
株主ーーーーーーーーーー理事
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
従業員ーーーーーーーーー教職員
顧客ーーーーーーーーーー学生
地域住民ーーーーーーーー地域住民
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
会社の場合に、だれのものかという議論の顛末も結末も私は知らないが、大学(や研究所)の場合、私は以前からずっと個人的に疑問に思ってきたことがある。
それは、「大学は何を目的に生きているのか?」、そして「それはだれのためのものか?」というものである。
アメリカの大学というのは、その歴史上比較的この点が分かりやすい。それは、社会が、国家、宗教、企業、大学(アカデミック)とセクターがはっきり区分されているからである。したがって、その答えは簡単で、他のセクターのできないことややらないことの研究とそこへの人材供給ということとなる。
しかし、日本の場合は、いまだにこの区分はますます不明瞭となり、大学は民間にあるのか、国家にあるのか、宗教にあるのか、あるいはまた独立したアカデミックセクターにあるのか、良く分からない。したがって、その目的そのものが明確でない。
ある学部(例えば工学部)は企業とべったりとなるだろうし、また別の学部(理学部)はアカデミックな活動に集中し、また別の学部(法学部)は国とべったりというような案配に見える。こうした場合、大学は一枚岩となれずに、その教職員自らも混乱する。
結局こうした状況下でどうなるかといえば、「大学の構成メンバーである教職員が各人各様で行き当たりばったり支離滅裂に日々を過ごして行く」ということになる。
教育をメインに行うのか、研究をメインに行うのか、
学部中心か、大学院中心か、
独立独歩で行くのか、国とべったりで行くのか、企業とべったりで行くのか、
こういったことが、あやふやのまま日々が過ぎて行くのである。
研究も教育も基本的には、教える側であれ、教わる側であれ、個人の才能や努力や意欲に依存する。だから、どんなシステムの下であれ、時には良い研究者や良い教育者も生まれる。しかし、アメリカのようにすでに”組織的”にできている場所とは雲泥の違いが現れるのである。
ひと頃、日本でも「会社はだれのものか?」というような話題が流行った。しかし、もうその話は忘れ去られてしまったように見える。
思い出せば、
「会社は、会社を立ち上げた創業者やその一族のものか?」、
あるいは
「会社は、会社の株主のものか?」、
あるいは
「会社は、会社に勤めている従業員のものか?」、
あるいは
「会社は、会社の顧客のものか?」、
はてまた
「会社は、会社のある地域住民のものなのか?」、
などなど。「果たしていったいだれのためのものか?」というような議論であった。
実は、会社ほど一般受けもせず、なじみもないが、非常に似たような問題に、
「大学はだれのものか?」
という問題がある。
この場合には、会社と大学にはうまい対応がつく。
会社(民間セクター)ーー大学(アカデミックセクター)
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
創業者ーーーーーーーーー創立者
株主ーーーーーーーーーー理事
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
従業員ーーーーーーーーー教職員
顧客ーーーーーーーーーー学生
地域住民ーーーーーーーー地域住民
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
会社の場合に、だれのものかという議論の顛末も結末も私は知らないが、大学(や研究所)の場合、私は以前からずっと個人的に疑問に思ってきたことがある。
それは、「大学は何を目的に生きているのか?」、そして「それはだれのためのものか?」というものである。
アメリカの大学というのは、その歴史上比較的この点が分かりやすい。それは、社会が、国家、宗教、企業、大学(アカデミック)とセクターがはっきり区分されているからである。したがって、その答えは簡単で、他のセクターのできないことややらないことの研究とそこへの人材供給ということとなる。
しかし、日本の場合は、いまだにこの区分はますます不明瞭となり、大学は民間にあるのか、国家にあるのか、宗教にあるのか、あるいはまた独立したアカデミックセクターにあるのか、良く分からない。したがって、その目的そのものが明確でない。
ある学部(例えば工学部)は企業とべったりとなるだろうし、また別の学部(理学部)はアカデミックな活動に集中し、また別の学部(法学部)は国とべったりというような案配に見える。こうした場合、大学は一枚岩となれずに、その教職員自らも混乱する。
結局こうした状況下でどうなるかといえば、「大学の構成メンバーである教職員が各人各様で行き当たりばったり支離滅裂に日々を過ごして行く」ということになる。
教育をメインに行うのか、研究をメインに行うのか、
学部中心か、大学院中心か、
独立独歩で行くのか、国とべったりで行くのか、企業とべったりで行くのか、
こういったことが、あやふやのまま日々が過ぎて行くのである。
研究も教育も基本的には、教える側であれ、教わる側であれ、個人の才能や努力や意欲に依存する。だから、どんなシステムの下であれ、時には良い研究者や良い教育者も生まれる。しかし、アメリカのようにすでに”組織的”にできている場所とは雲泥の違いが現れるのである。
例えとして分かりやすいのは、ハリウッドであろう。
映画でも、すでに世界中に配信可能なシステムができあがっている場所で映画を作ることと、それができていない場所で映画を作ることはやりやすさが異なる。
日本でも、すでに芸能界というシステムが出来上がっている東京とそれがない受信者としての機能しかもたない地方とでは、情報発信において力の差がありすぎる。
大学もこれとまったくいっしょなのである。すでにアカデミックセクターが確立しているアメリカとそれがまだない日本とでは科学や学問のやりやすさが全く異なるのである。同様に日本国内では数百の大学がひしめく東京と、大学がせいぜい数個もない地方の県ではやりやすさが全く違うのである。
ハリウッドにはっきりした存在意義やその目的がある。それと同じくアメリカの大学や研究所にはしっかりした存在意義やその目的がある。ところが、日本の大学にはそれがない。
実は、一番大事なことは、「この差が何をもたらすか?」ということなのである。
ハリウッドの”人事”をみれば分かるように、脚本家、監督、俳優、メークアップアーティスト、ファッションデザイナー、キャラクタークリエーターなどなど、さまざまな才能の発掘、人材登用が、ハリウッドの成功の鍵を握っている。つまり、目的が明瞭であるからこそ、どういう人材を集めれば良いか、という明確な戦略が生まれる。そしてそれに応じてオーディションして集めるのである。
これと同じで、アメリカの大学や研究所の場合にも、似たようなキャスティングが学部や研究室を立ち上げる際に行われるのである。だから、アメリカの大学は世界的に強いものとなる。
ところが、日本にはこういった明確な目的がない。そのために、キャスティングも不明瞭となる。どこかに今よりもっと適任者がいるにもかかわらずその研究者を発掘し登用しない。人事は研究室の年中行事にようになり、講座の長である個人研究者のまるで所有物のように変わる。それも国立の研究機関でもそうなってしまうのである。
そんなわけだから、欧米の研究者の物まね、見よう見まね、いつも教科書にして2、3歩後から追っかけるというような姿となってしまうのである。
日本の場合は、むしろ、大学からも政府からも企業からも独立した一個人の施設から、すぐれたものが出ることが多いのである。例えば、手塚治虫とか、宮崎駿とか、黒沢明とか。
私がいつも残念に、また苦々しく思っているのは、そのために日本ではこうした個人の経験があくまで個人経験に留まって若い学生に伝授されていかないということである。せいぜい家内企業、ファミリービジネス、伝統芸能のような域を出ないということである。
手塚治虫、宮崎駿、黒沢明を大学教授にしてもよい。官僚が大学教授に天下ることよりよほどましである。
いかに”本物”を大学に置いておくか?
(必ずしも、”偽者”を追い出す必要はない)
最初に言った問題は、この差に繋がって行くのである。
映画でも、すでに世界中に配信可能なシステムができあがっている場所で映画を作ることと、それができていない場所で映画を作ることはやりやすさが異なる。
日本でも、すでに芸能界というシステムが出来上がっている東京とそれがない受信者としての機能しかもたない地方とでは、情報発信において力の差がありすぎる。
大学もこれとまったくいっしょなのである。すでにアカデミックセクターが確立しているアメリカとそれがまだない日本とでは科学や学問のやりやすさが全く異なるのである。同様に日本国内では数百の大学がひしめく東京と、大学がせいぜい数個もない地方の県ではやりやすさが全く違うのである。
ハリウッドにはっきりした存在意義やその目的がある。それと同じくアメリカの大学や研究所にはしっかりした存在意義やその目的がある。ところが、日本の大学にはそれがない。
実は、一番大事なことは、「この差が何をもたらすか?」ということなのである。
ハリウッドの”人事”をみれば分かるように、脚本家、監督、俳優、メークアップアーティスト、ファッションデザイナー、キャラクタークリエーターなどなど、さまざまな才能の発掘、人材登用が、ハリウッドの成功の鍵を握っている。つまり、目的が明瞭であるからこそ、どういう人材を集めれば良いか、という明確な戦略が生まれる。そしてそれに応じてオーディションして集めるのである。
これと同じで、アメリカの大学や研究所の場合にも、似たようなキャスティングが学部や研究室を立ち上げる際に行われるのである。だから、アメリカの大学は世界的に強いものとなる。
ところが、日本にはこういった明確な目的がない。そのために、キャスティングも不明瞭となる。どこかに今よりもっと適任者がいるにもかかわらずその研究者を発掘し登用しない。人事は研究室の年中行事にようになり、講座の長である個人研究者のまるで所有物のように変わる。それも国立の研究機関でもそうなってしまうのである。
そんなわけだから、欧米の研究者の物まね、見よう見まね、いつも教科書にして2、3歩後から追っかけるというような姿となってしまうのである。
日本の場合は、むしろ、大学からも政府からも企業からも独立した一個人の施設から、すぐれたものが出ることが多いのである。例えば、手塚治虫とか、宮崎駿とか、黒沢明とか。
私がいつも残念に、また苦々しく思っているのは、そのために日本ではこうした個人の経験があくまで個人経験に留まって若い学生に伝授されていかないということである。せいぜい家内企業、ファミリービジネス、伝統芸能のような域を出ないということである。
手塚治虫、宮崎駿、黒沢明を大学教授にしてもよい。官僚が大学教授に天下ることよりよほどましである。
いかに”本物”を大学に置いておくか?
(必ずしも、”偽者”を追い出す必要はない)
最初に言った問題は、この差に繋がって行くのである。
2007/05/10のBlog
[ 23:18 ]
[ スポーツ ]
特待生問題、高野連が優遇措置解約の生徒救済策
「学校長や関係審査機関の裁量で設けた奨学制度による給付は、憲章13条違反と見なさない」
引責辞任した野球部長の謹慎期間についても「原則1年間」の方針から5月末までに短縮した
一転、二転、三転
いやはや、「高野連」のやることは理解しがたい。
「第二十三条 この憲章の適用に関して、疑義を生じたときは、日本学生野球協会審査室の議を経て、会長がこれを決定する。」
とあるように、最初から理事会を開いてしっかり議論して判断していれば、何もここまで混乱させることはなかったのではないだろうか。
一応、今回の措置で結局ほぼ”振り出しに戻ったわけだが、「高野連」という団体の異常さだけが誰の目にも明かとなったわけである。
”潰される”のが恐いから、あそこまで強硬姿勢を貫いていた態度を180度変化させたというわけだろう。
だれが伊吹文科相に”げんこつ”くらわすのか?
高野連をつぶそう!6:ナベツネvs脇村の戦争
高野連をつぶそう!5:高野連は何様のつもり?
高野連はつぶそう!4:”脇村問題”
”春の選抜優勝”常葉菊川初戦敗退:「高野連」の迷走
”高校野球崩壊”
しかし、この他にも「高野連」は、不祥事に対する、いわゆる”連帯責任”問題でこれまで多くの若者たちの人生を踏みにじってきたことを忘れてはならない。だから、若者の人生を踏みにじることは何とも思っていないという団体なのである。
「学校長や関係審査機関の裁量で設けた奨学制度による給付は、憲章13条違反と見なさない」
引責辞任した野球部長の謹慎期間についても「原則1年間」の方針から5月末までに短縮した
一転、二転、三転
いやはや、「高野連」のやることは理解しがたい。
「第二十三条 この憲章の適用に関して、疑義を生じたときは、日本学生野球協会審査室の議を経て、会長がこれを決定する。」
とあるように、最初から理事会を開いてしっかり議論して判断していれば、何もここまで混乱させることはなかったのではないだろうか。
一応、今回の措置で結局ほぼ”振り出しに戻ったわけだが、「高野連」という団体の異常さだけが誰の目にも明かとなったわけである。
”潰される”のが恐いから、あそこまで強硬姿勢を貫いていた態度を180度変化させたというわけだろう。
だれが伊吹文科相に”げんこつ”くらわすのか?
高野連をつぶそう!6:ナベツネvs脇村の戦争
高野連をつぶそう!5:高野連は何様のつもり?
高野連はつぶそう!4:”脇村問題”
”春の選抜優勝”常葉菊川初戦敗退:「高野連」の迷走
”高校野球崩壊”
しかし、この他にも「高野連」は、不祥事に対する、いわゆる”連帯責任”問題でこれまで多くの若者たちの人生を踏みにじってきたことを忘れてはならない。だから、若者の人生を踏みにじることは何とも思っていないという団体なのである。
2007/05/09のBlog
[ 16:37 ]
[ 社会 ]
50年までに「CO2半減目標」提案、来月のサミットで
この記事によれば、日本政府は、
「2050年までにCO2など温室効果ガスの排出量を2007年現在の半分にする」
計画だという。
果たして実現可能かどうか?
ところで、どうして2050年という年代が出たのだろうか? 実に不思議である。
さて、「エネルギー問題」に関して、しばらく前に偶然以下のHPを見つけた。ここで、紹介しておこう。
「エネルギー問題」
この中で紹介されている、リチャード・ダンカン博士の「オルドュバイ理論 」によれば、我々地球人類の文明は、「2050年には再び”ロウソクの時代”へと舞い戻る」ということらしい。
もしそれが事実であれば、石油供給自体がなくなるわけだから、石油からの温室効果ガスの排出はおのずと減るわけである。
私が2050年まで生きている可能性は実に低いが、果たしてどちらが正しいだろうか?
それは、その時になれば分かることかも知れない。
いずれにせよ、そのHPで紹介しているいくつかの論文は一読の価値はありそうである。
この記事によれば、日本政府は、
「2050年までにCO2など温室効果ガスの排出量を2007年現在の半分にする」
計画だという。
果たして実現可能かどうか?
ところで、どうして2050年という年代が出たのだろうか? 実に不思議である。
さて、「エネルギー問題」に関して、しばらく前に偶然以下のHPを見つけた。ここで、紹介しておこう。
「エネルギー問題」
この中で紹介されている、リチャード・ダンカン博士の「オルドュバイ理論 」によれば、我々地球人類の文明は、「2050年には再び”ロウソクの時代”へと舞い戻る」ということらしい。
もしそれが事実であれば、石油供給自体がなくなるわけだから、石油からの温室効果ガスの排出はおのずと減るわけである。
私が2050年まで生きている可能性は実に低いが、果たしてどちらが正しいだろうか?
それは、その時になれば分かることかも知れない。
いずれにせよ、そのHPで紹介しているいくつかの論文は一読の価値はありそうである。
2007/05/07のBlog
[ 19:46 ]
[ 社会 ]
文科相、野球留学を批判 特待生については理解
いやはや、伊吹文科相にも困ったものである。
この権力ボケのご老人、ボケ症状がかなり深刻なレベルにまで進行してきたようだ。
だれか、こういう権力ボケ老人に一発くらわす人はいないのか?
威勢が良いのは結構なのだが、その時々の思い付きや自分の印象で答弁されては困る。国会答弁なのだから、答弁するにはそれなりの調査や研究が必要であるからだ。
この大臣は調子こいてこういったという。呆れるばかりである。
「特待生制度そのものが悪いとは思わない」
しかし
「親元を離れて、大勢の野球の能力のある者を集めて、それで校名をあげようというのは少し教育の本筋から離れている」
と述べ、「野球留学」を批判。
さらに、野球以外のスポーツでは特待生制度があり、アマチュア規定に違反していないことを踏まえ、
「高校野球連盟が、社会一般の風潮を考えられて、どう対応されるかということが大きなポイントだと思う」
「特待生として認めてあげて、親元で皆が高校生活を送りながら学校間の技量を競うことが、本来のアマチュア精神の在り方ではないか」
”とろい”のもここまでくれば”犯罪的”である。この大臣は、「特待生制度」や「スポーツ留学」の意義を全く理解していない。
まあ、私にはえらい面倒臭い話だが、あまりに”ばかげた意見”なのでいちおうコメントしておこう。
この大臣が、いかに馬鹿か、というより惚けているかは明らかなので説明の余地はないが、この大臣の認識がいかに間違っているかというのは説明が必要だからだ。
【現代スポーツには金がかかる】
まず、スポーツというのは、この伊吹のだんなや脇村のだんながやっていた何十年も前と違って、今や何をするにも結構なお金がかかるのだ、ということが全く分かっていない。
昔なら布の靴やはだしで野球もできただろうが、今やちょっとした靴になれば、1万円は下らない。これもみんな日本社会が金持ちとなったせいである。
鬼塚タイガー(今のアシックス)や美津濃などの靴屋も家内工業で始まった。それが高度成長とともにどんどん発展し世界的大企業となり、最初は海外の高級品の物まねで始まったものが、今や世界をリードする最先端の靴を創る時代なのである。
そんなわけだから、私が子供の頃の日本製の靴は安かったが、今や日本製は最高級となってしまったのである。これを今の子供達はスポーツ店で買うわけだ。もちろん、ユニフォームや遠征費もバカにならない。優秀な選手ほどお金がかかる。だから、現代社会でスポーツをするには、その維持費に非常にお金がかかる。同じスポーツをしている以上、アマチュアといえども、この経費はプロ並みにかかるのだ。
それゆえ、貧乏な家庭の親は、お金をいつもセーブし、工面してスポーツさせているのである。要するに、食うものも食わずに子供のためにお金をねん出しているのである。そうして、一縷の望みをかけて、特待生として有名高校進学に人生をかけているのである。
ゴルフのさくら、宮里、みんなそうである。体操やフィギュアスケートなどお金持ちでなくては今やできないスポーツなのである。それでも、お金がかかる。
伊吹や脇村は、”惚け過ぎて”こういう現実がまったく理解できていないのだ。安倍さんは、どうしてこんなボケ老人をいつまでも大臣にしておくのだろうか? その見識と知性と品性を疑う。
【スポーツ年齢は若く早く来る】
さて、伊吹のだんなは
「特待生として認めてあげて、親元で皆が高校生活を送りながら学校間の技量を競うことが、本来のアマチュア精神の在り方ではないか」
というこれまた”とぼけた”ことをいうが、これがいかに馬鹿げているかは、この中の「特待生」の意味を「科学特待生」=「奨学金をもらう大学生」と変えて読んでみれば分かるだろう。
つまり「学問上良い大学に入ること」と、「スポーツ上良い高校に入ること」はまったく同じことなのである。学問年齢はスポーツ年齢よりずっと遅い。だから大学生や大学院生の年齢、すなわち20代前半から後半で始まっても手後れではない。
しかし、スポーツ年齢はそれよりずっとはやくローティーンからハイティーンには世界レベルに行かなくてはならないのである。だから、大学生の年齢ではもうすでに老人になってしまうのである。水泳、スケート、体操などはそれが顕著なスポーツなのである。野球やサッカーとて例外ではない。
だから、科学や学問における大学とスポーツにおける高校は同格に論じなくては意味をなさないのである。
それゆえ、科学においては文科省は「スーパーサイエンス校」や「スーパー英語校」などを率先して作っておきながら、その一方で「スーパースポーツ校」である有名私立学校を槍玉にあげるというのは、”支離滅裂”でつじつまが合わない。まさに”ボケ老人の意見”である。
【親元を離れるから良いのだ】
そして、サッカーで言えば、現ブラジル代表監督のドゥンガ、フランス代表だったジダン、ブラジル代表のロナウジーニョなど、多くのプロ選手は”親元を離れて”スポーツ奨学金によって大選手に育ったのである。この事実を無視してはならない。
子供の成長は、合宿や遠征、そして留学など、多くの場合、親元を離れることにより成長するのである。いつまでも親元にいるからニートに育つのであって、親元から引き離すことにより自立心が生まれ、大きく成長する。だから、イギリスやフランスでは、小学校から全寮制を採用しているのである(文科省もこの方式に変えるべきである)。
伊吹のだんなは簡単に”親元”というが、その親が良ければ良いが、悪かったらどうするつもりなのか? せっかく特待生として野球留学して自立の道ができているものを、再度自分の親元に引き戻すというのは、よいとは限らないのである。
とまあ、こんなわけで、相変わらずこの伊吹文科大臣は、分けの分からないことを言い続けているらしいので、ここでコメントしたというわけだ。
本当に、こういうふうにボケ老人が権力を握ってしまった場合、
いったい今の日本ではどうすべきなのだろうか?
だれが”げんこつ”一発くらわすのか?
まあ、これは、”シビリアンコントロール”というものの一種であるが、これまでのものとは大分違う。
これが、私がここ最近ずっと心配し続けている問題なのである。
”高齢者に振り回される時代”突入?
知性は年齢では買えないものなのだ。
いやはや、伊吹文科相にも困ったものである。
この権力ボケのご老人、ボケ症状がかなり深刻なレベルにまで進行してきたようだ。
だれか、こういう権力ボケ老人に一発くらわす人はいないのか?
威勢が良いのは結構なのだが、その時々の思い付きや自分の印象で答弁されては困る。国会答弁なのだから、答弁するにはそれなりの調査や研究が必要であるからだ。
この大臣は調子こいてこういったという。呆れるばかりである。
「特待生制度そのものが悪いとは思わない」
しかし
「親元を離れて、大勢の野球の能力のある者を集めて、それで校名をあげようというのは少し教育の本筋から離れている」
と述べ、「野球留学」を批判。
さらに、野球以外のスポーツでは特待生制度があり、アマチュア規定に違反していないことを踏まえ、
「高校野球連盟が、社会一般の風潮を考えられて、どう対応されるかということが大きなポイントだと思う」
「特待生として認めてあげて、親元で皆が高校生活を送りながら学校間の技量を競うことが、本来のアマチュア精神の在り方ではないか」
”とろい”のもここまでくれば”犯罪的”である。この大臣は、「特待生制度」や「スポーツ留学」の意義を全く理解していない。
まあ、私にはえらい面倒臭い話だが、あまりに”ばかげた意見”なのでいちおうコメントしておこう。
この大臣が、いかに馬鹿か、というより惚けているかは明らかなので説明の余地はないが、この大臣の認識がいかに間違っているかというのは説明が必要だからだ。
【現代スポーツには金がかかる】
まず、スポーツというのは、この伊吹のだんなや脇村のだんながやっていた何十年も前と違って、今や何をするにも結構なお金がかかるのだ、ということが全く分かっていない。
昔なら布の靴やはだしで野球もできただろうが、今やちょっとした靴になれば、1万円は下らない。これもみんな日本社会が金持ちとなったせいである。
鬼塚タイガー(今のアシックス)や美津濃などの靴屋も家内工業で始まった。それが高度成長とともにどんどん発展し世界的大企業となり、最初は海外の高級品の物まねで始まったものが、今や世界をリードする最先端の靴を創る時代なのである。
そんなわけだから、私が子供の頃の日本製の靴は安かったが、今や日本製は最高級となってしまったのである。これを今の子供達はスポーツ店で買うわけだ。もちろん、ユニフォームや遠征費もバカにならない。優秀な選手ほどお金がかかる。だから、現代社会でスポーツをするには、その維持費に非常にお金がかかる。同じスポーツをしている以上、アマチュアといえども、この経費はプロ並みにかかるのだ。
それゆえ、貧乏な家庭の親は、お金をいつもセーブし、工面してスポーツさせているのである。要するに、食うものも食わずに子供のためにお金をねん出しているのである。そうして、一縷の望みをかけて、特待生として有名高校進学に人生をかけているのである。
ゴルフのさくら、宮里、みんなそうである。体操やフィギュアスケートなどお金持ちでなくては今やできないスポーツなのである。それでも、お金がかかる。
伊吹や脇村は、”惚け過ぎて”こういう現実がまったく理解できていないのだ。安倍さんは、どうしてこんなボケ老人をいつまでも大臣にしておくのだろうか? その見識と知性と品性を疑う。
【スポーツ年齢は若く早く来る】
さて、伊吹のだんなは
「特待生として認めてあげて、親元で皆が高校生活を送りながら学校間の技量を競うことが、本来のアマチュア精神の在り方ではないか」
というこれまた”とぼけた”ことをいうが、これがいかに馬鹿げているかは、この中の「特待生」の意味を「科学特待生」=「奨学金をもらう大学生」と変えて読んでみれば分かるだろう。
つまり「学問上良い大学に入ること」と、「スポーツ上良い高校に入ること」はまったく同じことなのである。学問年齢はスポーツ年齢よりずっと遅い。だから大学生や大学院生の年齢、すなわち20代前半から後半で始まっても手後れではない。
しかし、スポーツ年齢はそれよりずっとはやくローティーンからハイティーンには世界レベルに行かなくてはならないのである。だから、大学生の年齢ではもうすでに老人になってしまうのである。水泳、スケート、体操などはそれが顕著なスポーツなのである。野球やサッカーとて例外ではない。
だから、科学や学問における大学とスポーツにおける高校は同格に論じなくては意味をなさないのである。
それゆえ、科学においては文科省は「スーパーサイエンス校」や「スーパー英語校」などを率先して作っておきながら、その一方で「スーパースポーツ校」である有名私立学校を槍玉にあげるというのは、”支離滅裂”でつじつまが合わない。まさに”ボケ老人の意見”である。
【親元を離れるから良いのだ】
そして、サッカーで言えば、現ブラジル代表監督のドゥンガ、フランス代表だったジダン、ブラジル代表のロナウジーニョなど、多くのプロ選手は”親元を離れて”スポーツ奨学金によって大選手に育ったのである。この事実を無視してはならない。
子供の成長は、合宿や遠征、そして留学など、多くの場合、親元を離れることにより成長するのである。いつまでも親元にいるからニートに育つのであって、親元から引き離すことにより自立心が生まれ、大きく成長する。だから、イギリスやフランスでは、小学校から全寮制を採用しているのである(文科省もこの方式に変えるべきである)。
伊吹のだんなは簡単に”親元”というが、その親が良ければ良いが、悪かったらどうするつもりなのか? せっかく特待生として野球留学して自立の道ができているものを、再度自分の親元に引き戻すというのは、よいとは限らないのである。
とまあ、こんなわけで、相変わらずこの伊吹文科大臣は、分けの分からないことを言い続けているらしいので、ここでコメントしたというわけだ。
本当に、こういうふうにボケ老人が権力を握ってしまった場合、
いったい今の日本ではどうすべきなのだろうか?
だれが”げんこつ”一発くらわすのか?
まあ、これは、”シビリアンコントロール”というものの一種であるが、これまでのものとは大分違う。
これが、私がここ最近ずっと心配し続けている問題なのである。
”高齢者に振り回される時代”突入?
知性は年齢では買えないものなのだ。
[ 13:38 ]
[ 社会 ]
写真:浅尾美和選手。
赤外線盗撮には、黒いパンツは透けて見えて危ないらしい。黒よりは白だとか。
いやはや、日本は”盗撮天国”と化して久しいが、インターネット時代となり、文字どおりの”盗撮大国”となったように見える。
人気女子ビーチバレー選手の浅尾美和(あさお・みわ)を盗撮目的で観戦しにきたものが後を絶たなかったとか。
実際、検索で見つけると、こんなものが”簡単に”見つかる。
浦田聖子,浅尾美和のお宝大公開!!パンチラオッパイポロリ|浦田聖子
浅尾を守れ!一般撮影禁止
まあ、アングラのヤクザ企業が、自分のアダルトサイトへお客を引っ張り込みたいが故に、話題性のある女子スポーツ選手の”盗撮”映像で”釣る”という、良くある手口のようである。
要するに、”盗撮”は「犯罪への窓口」ということですナ。
これも、ここ数十年、日本の警察がアダルト関連会社を”野放し”にしてきたツケが回ってきて、今や一般市民もその魔の手の標的になってきた、ということですナ。
もしアメリカで”盗撮”行為をすれば、すぐにカメラ没収、即”逮捕”というところだろう。
これからしても、日本という国は、下半身犯罪に甘過ぎるネ。
そのうち、”盗撮しているやつを盗撮するやつ”も出てくるかも知れないナ。
赤外線盗撮には、黒いパンツは透けて見えて危ないらしい。黒よりは白だとか。
いやはや、日本は”盗撮天国”と化して久しいが、インターネット時代となり、文字どおりの”盗撮大国”となったように見える。
人気女子ビーチバレー選手の浅尾美和(あさお・みわ)を盗撮目的で観戦しにきたものが後を絶たなかったとか。
実際、検索で見つけると、こんなものが”簡単に”見つかる。
浦田聖子,浅尾美和のお宝大公開!!パンチラオッパイポロリ|浦田聖子
浅尾を守れ!一般撮影禁止
まあ、アングラのヤクザ企業が、自分のアダルトサイトへお客を引っ張り込みたいが故に、話題性のある女子スポーツ選手の”盗撮”映像で”釣る”という、良くある手口のようである。
要するに、”盗撮”は「犯罪への窓口」ということですナ。
これも、ここ数十年、日本の警察がアダルト関連会社を”野放し”にしてきたツケが回ってきて、今や一般市民もその魔の手の標的になってきた、ということですナ。
もしアメリカで”盗撮”行為をすれば、すぐにカメラ没収、即”逮捕”というところだろう。
これからしても、日本という国は、下半身犯罪に甘過ぎるネ。
そのうち、”盗撮しているやつを盗撮するやつ”も出てくるかも知れないナ。
[ 12:19 ]
[ 社会 ]
サッカーくじ「BIG」、繰越金10億円超える
とうとう今期最初から始まった「totoBIG」の繰り越し金が10億円を超え、10億8818万1720円となった。つまり、「今期のJリーグ開幕以来だれも当選していない」ということである。
しかし、これは”当然”と言える。
というのも、「totoBIG」の場合、14試合の勝ち、負け、分けの3種類の可能性をコンピュータが”ランダム”に割り振るからである。
これは、簡単な確率の問題である。
当たる”可能性”のある空間は、勝ち、負け、分けの3種類の14乗。
すなわち、
3^14=4782969通り
の組み合わせがある。
つまり、
全部勝ち=11111111111111から
全部分け=00000000000000を経て
全部負け=22222222222222まで
4782969通りあるという意味である。
一方、毎回(一節当たり)およそ1億円のオーダーの売り上げである。1枚300円だから、
1億/300=333333枚
のクジが売られた計算になるので、この程度の可能性がコンピュータで”ランダム”に配付されるわけである。
したがって、一節当たり1等が当たる確率は、せいぜい
1/4782969=2・10^{-7}=だいたい500万分の1。
一節当たりだれかが当たる確率は、
333333/4782969=7%
となる。
このことから、100%/7%=14であることから、最低15節の試合を行わないと、だれかが当たる確率が1を超えない。
ところが、実際のJリーグの試合では、各チームにそれぞれの特色があり、力量の差がある。その時々のチームコンディションもある。
だから、実際のJリーグの試合では、勝ち、負け、分けの配分は、決してランダムに探索されているのではない。”非常に狭い領域”内で実現するのである。
しかし、コンピュータは勝手に(一様に)4782969の可能性の中から選ぶわけだから、このコンピュータ探索が、現実の”非常に狭い領域”に入らない限り、1等が出ることはない。
図示すればこんな感じだろう。
|ーーーーー○=当たりが出る領域
|ーーーーー●=コンピュータが割り振る領域
|
|●ーーーーー●ーーー●ーーーー●
|
|ーーーーー○ー○ーーー●ーーー●
|ー●ーー○ー○ーー○ーー○
|ーーーー○ー○ー○ー○ーーー●
|ーーーーー○ーー○
|ーー●ーーー●ーーーーー●ーーーー●
|
|ー●ーー●ーーーーー●
|
|●ーー●ーーーー●ーーー●ーーーー●
|
|ー●ーーーー●ーーー●ーーーー●
|
4782969通りの中から333333通りを割り振るしかたは、
4782969!
-------------------------
333333! 4449636!
したがって、実質上無限に近い割り振り方がある。この中で、当たりが出る領域に重なる場合のみ、当たりが出る可能性があるというわけである。
まあ、そういうわけで、そんなに簡単に1等は出ないということになる。
いずれにせよ、シーズン中にもし1発も当たりが出ないということにでもなれば、いよいよ”サッカーくじ「BIG」”販売は”詐欺行為”ということになるだろうヨ。
文科省の”天下り団体”である日本スポーツ協会はどうするつもりなのだろうか。
Jリーグとtoto開幕:totoはどこへ行く?
とうとう今期最初から始まった「totoBIG」の繰り越し金が10億円を超え、10億8818万1720円となった。つまり、「今期のJリーグ開幕以来だれも当選していない」ということである。
しかし、これは”当然”と言える。
というのも、「totoBIG」の場合、14試合の勝ち、負け、分けの3種類の可能性をコンピュータが”ランダム”に割り振るからである。
これは、簡単な確率の問題である。
当たる”可能性”のある空間は、勝ち、負け、分けの3種類の14乗。
すなわち、
3^14=4782969通り
の組み合わせがある。
つまり、
全部勝ち=11111111111111から
全部分け=00000000000000を経て
全部負け=22222222222222まで
4782969通りあるという意味である。
一方、毎回(一節当たり)およそ1億円のオーダーの売り上げである。1枚300円だから、
1億/300=333333枚
のクジが売られた計算になるので、この程度の可能性がコンピュータで”ランダム”に配付されるわけである。
したがって、一節当たり1等が当たる確率は、せいぜい
1/4782969=2・10^{-7}=だいたい500万分の1。
一節当たりだれかが当たる確率は、
333333/4782969=7%
となる。
このことから、100%/7%=14であることから、最低15節の試合を行わないと、だれかが当たる確率が1を超えない。
ところが、実際のJリーグの試合では、各チームにそれぞれの特色があり、力量の差がある。その時々のチームコンディションもある。
だから、実際のJリーグの試合では、勝ち、負け、分けの配分は、決してランダムに探索されているのではない。”非常に狭い領域”内で実現するのである。
しかし、コンピュータは勝手に(一様に)4782969の可能性の中から選ぶわけだから、このコンピュータ探索が、現実の”非常に狭い領域”に入らない限り、1等が出ることはない。
図示すればこんな感じだろう。
|ーーーーー○=当たりが出る領域
|ーーーーー●=コンピュータが割り振る領域
|
|●ーーーーー●ーーー●ーーーー●
|
|ーーーーー○ー○ーーー●ーーー●
|ー●ーー○ー○ーー○ーー○
|ーーーー○ー○ー○ー○ーーー●
|ーーーーー○ーー○
|ーー●ーーー●ーーーーー●ーーーー●
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|ー●ーー●ーーーーー●
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|●ーー●ーーーー●ーーー●ーーーー●
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|ー●ーーーー●ーーー●ーーーー●
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4782969通りの中から333333通りを割り振るしかたは、
4782969!
-------------------------
333333! 4449636!
したがって、実質上無限に近い割り振り方がある。この中で、当たりが出る領域に重なる場合のみ、当たりが出る可能性があるというわけである。
まあ、そういうわけで、そんなに簡単に1等は出ないということになる。
いずれにせよ、シーズン中にもし1発も当たりが出ないということにでもなれば、いよいよ”サッカーくじ「BIG」”販売は”詐欺行為”ということになるだろうヨ。
文科省の”天下り団体”である日本スポーツ協会はどうするつもりなのだろうか。
Jリーグとtoto開幕:totoはどこへ行く?
2007/05/06のBlog
[ 10:00 ]
[ ジョーク ]
【日本にやってきたスパイダーマン】
アメリカのスーパーヒーローである”スパイダーマン”
ピーター・パーカーが日本にやってきた。
デイリー・ビューグル社の東京支社カメラマンに採用されたのだ。
すると、父の復讐に燃えるグリーン・ゴブリンも後を追っかけて東京にきた。
深夜の東京、ハリーがスパイダーマンに攻撃を加える。
しかし、スパイダーマンはいつもの調子がでない。
なぜなら、東京にはまだちょっとしか高層ビル群がないからだ。
クモ糸はなかなかビルに届かない。
届いてスウィングバイすると、地面に叩き付けられる。
ビル群からビル群へ走って移らなくてはならない。
これでは、グリーン・ゴブリンには勝てない。
やっと逃げ延びたスパイダーマン。
東京タワーのてっぺんでじっと悩む。
周りを見渡せば、低いビルばかり。
このまま日本に留まるべきか、あるいはニューヨークに戻るべきか。
日本を去れば、またフリーのカメラマンに戻る。
東京ならメリージェーンと甘い生活が続けられる。
ピーターは、東京での生活を取った。
しかたなく、スパイダーマンは日本ではジグモの
ランドスパイダーマンに進化したとサ。
アメリカのスーパーヒーローである”スパイダーマン”
ピーター・パーカーが日本にやってきた。
デイリー・ビューグル社の東京支社カメラマンに採用されたのだ。
すると、父の復讐に燃えるグリーン・ゴブリンも後を追っかけて東京にきた。
深夜の東京、ハリーがスパイダーマンに攻撃を加える。
しかし、スパイダーマンはいつもの調子がでない。
なぜなら、東京にはまだちょっとしか高層ビル群がないからだ。
クモ糸はなかなかビルに届かない。
届いてスウィングバイすると、地面に叩き付けられる。
ビル群からビル群へ走って移らなくてはならない。
これでは、グリーン・ゴブリンには勝てない。
やっと逃げ延びたスパイダーマン。
東京タワーのてっぺんでじっと悩む。
周りを見渡せば、低いビルばかり。
このまま日本に留まるべきか、あるいはニューヨークに戻るべきか。
日本を去れば、またフリーのカメラマンに戻る。
東京ならメリージェーンと甘い生活が続けられる。
ピーターは、東京での生活を取った。
しかたなく、スパイダーマンは日本ではジグモの
ランドスパイダーマンに進化したとサ。
【運が悪かったサンドマン】
重病で死にそうな1人娘のために治療費を得ようと
犯罪に走ってしまったサンドマン。
およそ父親ならだれもが感じるジレンマだ。
「あなたなんか顔もみたくない。早く出て行って」
という妻の前でつぶらなひとみの娘にサンドマンが言った。
「娘よ、俺は悪いやつじゃない。ただ運が悪かっただけだ」
最後の戦いの後、サンドマンはスパイダーマンと向き合った。
「俺はおまえの叔父を殺してはいない。あれは事故だったのだ」
そして、ピーターにこういった。
「ピーター、俺は悪いやつじゃない。ただ運が悪かっただけだ」
「許すよ」
とスパイダーマン。
実に感動的な名場面である。
それを見ていた東京の大学のとある有名な日本人理論物理学者が皮肉っぽく言った。
「悪運も実力のうち」
ちなみに、なんで理論物理学者がスパイダーマンを見に来たか
というと、ピーターとグウェンが聴講している講議が
初等量子力学の講議で、テーマが角運動量の量子化の話だったからだという。
また、サンドマンがサンド化する場面が素粒子物理学の実験施設。
いかに「トンデモ」か調べに来たらしい。
重病で死にそうな1人娘のために治療費を得ようと
犯罪に走ってしまったサンドマン。
およそ父親ならだれもが感じるジレンマだ。
「あなたなんか顔もみたくない。早く出て行って」
という妻の前でつぶらなひとみの娘にサンドマンが言った。
「娘よ、俺は悪いやつじゃない。ただ運が悪かっただけだ」
最後の戦いの後、サンドマンはスパイダーマンと向き合った。
「俺はおまえの叔父を殺してはいない。あれは事故だったのだ」
そして、ピーターにこういった。
「ピーター、俺は悪いやつじゃない。ただ運が悪かっただけだ」
「許すよ」
とスパイダーマン。
実に感動的な名場面である。
それを見ていた東京の大学のとある有名な日本人理論物理学者が皮肉っぽく言った。
「悪運も実力のうち」
ちなみに、なんで理論物理学者がスパイダーマンを見に来たか
というと、ピーターとグウェンが聴講している講議が
初等量子力学の講議で、テーマが角運動量の量子化の話だったからだという。
また、サンドマンがサンド化する場面が素粒子物理学の実験施設。
いかに「トンデモ」か調べに来たらしい。
2007/05/05のBlog
[ 23:26 ]
[ ドラマ・映画 ]
スパイダーマン3のオフィシャルサイトによると、自分のブログやHPに以下のスクリプトを入れると、予告編映像がつくという。
<script src="http://flash.sonypictures.com/intl/jp/movies/spider-man3/blogparts/tags.js" language="JavaScript" type="text/javascript"></script>
もっともこのブログではこれはできないようだ。
<script src="http://flash.sonypictures.com/intl/jp/movies/spider-man3/blogparts/tags.js" language="JavaScript" type="text/javascript"></script>
もっともこのブログではこれはできないようだ。
2007/05/04のBlog
2007/05/03のBlog
[ 11:25 ]
[ スポーツ ]
「子供にも責任」「憲章見直さず」…高野連の脇村会長
全国の400校近くが日本学生野球憲章に抵触する特待生制度を実施している現状に
脇村会長:
「非常に驚いている」
「学生野球憲章を見直す考えはございません」
「子どもに責任はないのではないか」との質問に
脇村会長:
「憲章を知らない子どもに責任はないというが、現実に(学費などを)もらっている。故意ではないにしても、責任はある」
田名部(たなべ)和裕参事:
「憲章13条はアマチュア規則そのもの。その考え方で行けば、お金をもらった時点で資格を喪失する」
「なぜ野球だけが駄目なのか」との質問に
脇村会長:
「高校野球は教育の一環、フェアプレーの精神で行われている」
というニュース。
この御老人も自分を棚にあげてよく言うヨ、というのが、私の受けた印象である。御自身はまったく「フェアプレー精神がみじんもない」からである。
学校が制度として決めているものに従ったという高校生たちには何ら責任がない。同様に、その制度のもとで雇われたコーチや監督や部長にも責任はない。あるとすれば、学校長にある。
それゆえ、責任を取るべきは、学校長であり、それを認めた文科省にあるはずである。
どうしてこの脇村と田名部がここまで固執するのか、いろいろネットサーフィンで調べたところ、実に面白い意見を見つけたのでここに紹介しておこう。
それは、とある新聞のネット記者であるという人の
当馬敏人「超論暴論」
というブログである。
この中の「2007-03-23 1球団と権力のない人間が余計な事をしてくれた…」にそのヒントがあった。
実に面白いので、一部を勝手に引用させてもらうことにしよう。
”当然、アマチュア側が激怒したのは言うまでもない。日本高校野球連盟の田名部和裕参事は全日本大学野球連盟や社会人野球を統括する日本野球連盟と連絡を取って、NPBに議論を尽くすよう要望する。アマ3団体は希望入団枠撤廃をNPB側に申し入れていただけに、完全に期待を裏切られる結果となった。田名部氏は語る。
「失望した。アマ3団体として、このような中途半端な結果に応じられない。あの会議は何だったのか?今年中に撤廃できない理由説明があるのなら別だが、申し入れをした日はそういう事はなかった。NPB各球団でいろいろな意見があるというが、夜を徹してでも決めるべきだった。NPBはドラフト制度がアマの協力なしに成立しないという事がわかっているのか?アマ3団体が納得するまで断固応じるつもりはない」。
他のアマ関係者もこの結果に不満を口にした事は言うまでもない。高野連の脇村春夫会長(美智子皇后のいとこだという事はあまり知られていない。東洋紡を退職した後、大阪大学の大学院で特別扱いを拒んで他の学生と同等に学んだという一面もあった)は「撤廃が1年遅れたのは遺憾の極み。撤廃を訴える運動は続ける」と語れば、全日本大学野球連盟の内藤雅之常任理事は「今年から撤廃されると思っていたので驚いているし、失望した。今年からの撤廃を期待する」と予想外の結果に戸惑いを隠せない。また、日本野球連盟の後勝専務理事も「今年から撤廃してもらわないと、何のために意見交換したのかわからない」と憤りを見せた。
高野連は2004年1月に、当時のNPB川島広守コミッショナーとの間で「ドラフト制度を変更する場合は事前に高野連の同意を必要とする」という覚書を交わしており、その効力は今も有効と判断する。田名部氏は「今回はアマ側が現行制度の不備を訴えているから、覚書に該当する。今秋のドラフト拒否を含めた考えでNPB側に当たっていかなければならない」と話す。もし、撤廃されない場合はプロアマ一切の交流が凍結され、8月に北京で行われるプレ五輪での星野ジャパンへのアマ選手派遣にも大きな影を落としかねない事態にもなったと言える。”
まあ、要するに、この問題を一言で言えば、「日本プロ野球機構(NPB)と日本高校野球連盟の間の戦争」、ということだ。
高野連の脇村は、天皇家の美智子皇后のいとこということで、読売巨人のナベツネ(渡辺恒雄球団会長)より自分の方が”格が上だ”と思っているわけである。その分、質が悪い。
一方、読売巨人のナベツネは、すでにアルツハイマー病が進行し、「妄想や幻覚、暴言や暴力」などの問題行動が見られる状況らしい。
ところが、そのイエスマンである取り巻きのジャイアンツの滝鼻卓雄オーナーやジャイアンツの清武英利球団代表や根来衆忍者の末裔である根来コミッショナー代行が、アルツハイマー病ナベツネの言うがままに従う。
それで、結局、アマとプロが取り決めしたことを全部”反古”にしてしまった。台なしにしたのである。
つまり、これまで11球団とアマの間で
「今年のドラフト会議からの希望入団枠を撤廃する」
という事で合意しかかったものが、ナベツネの息のかかった根来のおかげで
「来年のドラフト会議からの希望入団枠を撤廃する事では合意したものの、今年のドラフトに関しては現行制度での実施を主張する球団と来年からの新制度での実施する」
となってしまったことに対して、アマ側が激怒した、ということが事件の発端なのである。
これに対する”報復”行為に出たのが、プロ選手の供給源である高校野球の「特待生制度」の廃止という脇村・田名部戦略なのであるということとなる。
まあ、”アルツハイマーボケ老人VS意固地ボケ老人の戦い”なのである。これに、無垢な高校生やその家庭、そして野球指導者たちが巻き込まれてしまったということなのである。
これが、私はずっと以前から主張してきている「高齢者問題」なのである。
高野連をつぶそう!5:高野連は何様のつもり?
”高齢者に振り回される時代”突入?
”面子にこだわるボケ老人”問題ということですナ。
いい年こいてまで権力にこだわるこういう連中は、俺とまったく違った人種のようだナ。本当に真の日本人の血筋を引いているのか怪しいものである。ぶざまな連中である。
いずれにせよ、こういうボケが権力に居座った時、どうやって自浄作用を働かせるのか?
この問題が解決できない国に憲法改正はまだまだ早い。
もしボケ老人が国のトップについたらどうするつもりか?
という問題が出てくるからである。
全国の400校近くが日本学生野球憲章に抵触する特待生制度を実施している現状に
脇村会長:
「非常に驚いている」
「学生野球憲章を見直す考えはございません」
「子どもに責任はないのではないか」との質問に
脇村会長:
「憲章を知らない子どもに責任はないというが、現実に(学費などを)もらっている。故意ではないにしても、責任はある」
田名部(たなべ)和裕参事:
「憲章13条はアマチュア規則そのもの。その考え方で行けば、お金をもらった時点で資格を喪失する」
「なぜ野球だけが駄目なのか」との質問に
脇村会長:
「高校野球は教育の一環、フェアプレーの精神で行われている」
というニュース。
この御老人も自分を棚にあげてよく言うヨ、というのが、私の受けた印象である。御自身はまったく「フェアプレー精神がみじんもない」からである。
学校が制度として決めているものに従ったという高校生たちには何ら責任がない。同様に、その制度のもとで雇われたコーチや監督や部長にも責任はない。あるとすれば、学校長にある。
それゆえ、責任を取るべきは、学校長であり、それを認めた文科省にあるはずである。
どうしてこの脇村と田名部がここまで固執するのか、いろいろネットサーフィンで調べたところ、実に面白い意見を見つけたのでここに紹介しておこう。
それは、とある新聞のネット記者であるという人の
当馬敏人「超論暴論」
というブログである。
この中の「2007-03-23 1球団と権力のない人間が余計な事をしてくれた…」にそのヒントがあった。
実に面白いので、一部を勝手に引用させてもらうことにしよう。
”当然、アマチュア側が激怒したのは言うまでもない。日本高校野球連盟の田名部和裕参事は全日本大学野球連盟や社会人野球を統括する日本野球連盟と連絡を取って、NPBに議論を尽くすよう要望する。アマ3団体は希望入団枠撤廃をNPB側に申し入れていただけに、完全に期待を裏切られる結果となった。田名部氏は語る。
「失望した。アマ3団体として、このような中途半端な結果に応じられない。あの会議は何だったのか?今年中に撤廃できない理由説明があるのなら別だが、申し入れをした日はそういう事はなかった。NPB各球団でいろいろな意見があるというが、夜を徹してでも決めるべきだった。NPBはドラフト制度がアマの協力なしに成立しないという事がわかっているのか?アマ3団体が納得するまで断固応じるつもりはない」。
他のアマ関係者もこの結果に不満を口にした事は言うまでもない。高野連の脇村春夫会長(美智子皇后のいとこだという事はあまり知られていない。東洋紡を退職した後、大阪大学の大学院で特別扱いを拒んで他の学生と同等に学んだという一面もあった)は「撤廃が1年遅れたのは遺憾の極み。撤廃を訴える運動は続ける」と語れば、全日本大学野球連盟の内藤雅之常任理事は「今年から撤廃されると思っていたので驚いているし、失望した。今年からの撤廃を期待する」と予想外の結果に戸惑いを隠せない。また、日本野球連盟の後勝専務理事も「今年から撤廃してもらわないと、何のために意見交換したのかわからない」と憤りを見せた。
高野連は2004年1月に、当時のNPB川島広守コミッショナーとの間で「ドラフト制度を変更する場合は事前に高野連の同意を必要とする」という覚書を交わしており、その効力は今も有効と判断する。田名部氏は「今回はアマ側が現行制度の不備を訴えているから、覚書に該当する。今秋のドラフト拒否を含めた考えでNPB側に当たっていかなければならない」と話す。もし、撤廃されない場合はプロアマ一切の交流が凍結され、8月に北京で行われるプレ五輪での星野ジャパンへのアマ選手派遣にも大きな影を落としかねない事態にもなったと言える。”
まあ、要するに、この問題を一言で言えば、「日本プロ野球機構(NPB)と日本高校野球連盟の間の戦争」、ということだ。
高野連の脇村は、天皇家の美智子皇后のいとこということで、読売巨人のナベツネ(渡辺恒雄球団会長)より自分の方が”格が上だ”と思っているわけである。その分、質が悪い。
一方、読売巨人のナベツネは、すでにアルツハイマー病が進行し、「妄想や幻覚、暴言や暴力」などの問題行動が見られる状況らしい。
ところが、そのイエスマンである取り巻きのジャイアンツの滝鼻卓雄オーナーやジャイアンツの清武英利球団代表や根来衆忍者の末裔である根来コミッショナー代行が、アルツハイマー病ナベツネの言うがままに従う。
それで、結局、アマとプロが取り決めしたことを全部”反古”にしてしまった。台なしにしたのである。
つまり、これまで11球団とアマの間で
「今年のドラフト会議からの希望入団枠を撤廃する」
という事で合意しかかったものが、ナベツネの息のかかった根来のおかげで
「来年のドラフト会議からの希望入団枠を撤廃する事では合意したものの、今年のドラフトに関しては現行制度での実施を主張する球団と来年からの新制度での実施する」
となってしまったことに対して、アマ側が激怒した、ということが事件の発端なのである。
これに対する”報復”行為に出たのが、プロ選手の供給源である高校野球の「特待生制度」の廃止という脇村・田名部戦略なのであるということとなる。
まあ、”アルツハイマーボケ老人VS意固地ボケ老人の戦い”なのである。これに、無垢な高校生やその家庭、そして野球指導者たちが巻き込まれてしまったということなのである。
これが、私はずっと以前から主張してきている「高齢者問題」なのである。
高野連をつぶそう!5:高野連は何様のつもり?
”高齢者に振り回される時代”突入?
”面子にこだわるボケ老人”問題ということですナ。
いい年こいてまで権力にこだわるこういう連中は、俺とまったく違った人種のようだナ。本当に真の日本人の血筋を引いているのか怪しいものである。ぶざまな連中である。
いずれにせよ、こういうボケが権力に居座った時、どうやって自浄作用を働かせるのか?
この問題が解決できない国に憲法改正はまだまだ早い。
もしボケ老人が国のトップについたらどうするつもりか?
という問題が出てくるからである。
2007/05/02のBlog
[ 22:24 ]
[ スポーツ ]
特待生申告校は382校に 高野連が発表
”計382校(硬式373校、軟式9校)が申告。
対象部員は最終的に8000人超。
申告したチーム当該部員が5月中の対外試合出場を自粛。
部長は”失業”。”
もはやこれは高野連の脇村による”大粛正”である。ブッシュ政権によるイラク人の大量虐殺に匹敵する事態となったように見える。
こうなると、もはや高野連だけでは処理不可能なわけだから、文科省や政府が介入すべき”大事態”に変貌したようである。
私の個人的印象では、特待生として一縷の望みをかけて進学した選手達の夢や学性生活が破れて、”自殺”してしまう子供達が出てこないか、という心配があるということである。
すでに、毎日悲嘆に暮れている母親たちが後を絶たない。精神的不調をきたし、将来の夢や人生設計を無惨にも打ち砕かれた家庭が少なくとも”8000超”あるということになるのである。
この問題が、実は大分前に私が「”高齢者に振り回される時代”突入? 」で意味した問題なのである。
そこでは、私はこう書いていた。
『私は最近個人的に非常に”心配する”ことがある。
それは、今後10年日本は「高齢者に悩まされる時代」あるいは「高齢者に振り回される時代」に入ったということである。
”少子高齢化”ということは、単に”子供の数が減り、高齢者や年輩者が増える”というだけではない。実際には、”子供の数が減り、高齢者や年輩者が増える”ということは、高齢者や年輩者より若い人々が、高齢者や年輩者に”振り回される”ということでもある。これが、日本人のほとんどすべての人たちにあまり良く理解されていないように見える。』
さらにこんなことも書いていた。
『しかし、年金問題でも明らかなように、一応社会で一番”お金”や”財産”を持っているのが高齢者である。経済的に一番優雅に暮らせるのが普通の高齢者なのである。それに加えて、元公務員、元国家公務員とかになれば、同じ高齢者と言っても”権力”や”人間関係”まで持っている。実はこれが一番質が悪い。』
『果たして”権力”や”人間関係”を持った高齢者が”惚けた”らどうなるのか。
”惚け”ていても人は人。その人の持つ”お金”や”財産”、”権力”や”人間関係”もまたその人のものなのである。ゆえに”惚け”た人の”お金”や”財産”、”権力”や”人間関係”もまたその”惚け”た人のものなのである。』
『ここに、冒頭で私が言ったようなことが現れる。つまり、若干”惚けはじめた人”に周りが振り回されるのである。例えば、会話は問題なくできるので、周りとのコミュニケーションは取れる。しかし、何やら支離滅裂に”思い付く”。周りがそれを実現してやる。がしかし、本人はすぐに忘れる。やってあげた周りにはえらい迷惑だ。こんなことが頻繁に起こるようになり、非常に混乱するようになるのである。』
『高齢者が社会の中で数が少なかった頃には、こういった現象が起きてもそれは社会問題にまでならなかった。その影響力は限られたからだ。しかし、高齢者の数が増えれば増える程、こうした現象が起きる。したがって、こういう迷惑千万な話で社会は満ち溢れることとなる。』
『これが”真の高齢者問題”なのである。私はそう考えている。』
まあ、ここまで来れば、私が言わんとした意味も今やだれの目にも明らかだろう。
小泉首相の「格差社会問題」(「道州制」?古い。これからは「連邦国家制」だよ!
、格差社会、”安倍の耳に念仏”:国会予算委員会答弁 )、
伊吹文科大臣の「高校未履修問題」(伊吹文科相、”思い付き”で早速国民を”振り回す” 、高校の履修問題の根源は?:30年前に遡る。 )、
御手洗冨士夫の「大学交付金格差問題」(”痴的財産戦略本部”の御乱心? )
そして
脇村春夫の「特待生問題」(”高校野球崩壊”、高野連はつぶそう!4:”脇村問題” )
と来たわけである。
要するに、これらはみな同じ問題:
”社会的権力”を持つボケ老人が現れてしまった場合、我々国民はどう対処したら良いのだろうか?
が日本社会に現れているということなのである。つまり、「老人権力者のその時々の思い付きによって日本社会が右へ左へと振り回される」ということである。
老人に権力がなければ、それはそれでも特に問題はないだろう。その老人の身内のものだけのお話ですむからである。しかし、その老人が国家権力やなにがしかの組織の長となると話が違ってくる。
確かに日本人の寿命は伸びた。60代や70代でも”肉体的に”は元気いっぱいの高齢者も増えた。だから、高齢者もずっと仕事を続けて、”権力の座”に居座っても結構なのだという考えもある。高齢者はそう思いたい。その気持ちは分かる。
しかし、待ってもらいたい。
”肉体年齢”と”精神年齢”というものは、まったく異なるのである。
子供の頃は、幼い年令の割には成長が早く、早熟という意味の”精神年齢”というものがある。知能指数(IQ)の一番簡単な定義は、(精神年齢/肉体年齢)×100である。だから、精神の発達が肉体と同程度であれば、IQ=100となる。2倍の早さで精神が発達していれば、IQ=200ということになる。
大人になると、これは”逆の意味”となる。今度は、精神年齢は、自分の最高に発達した精神年齢からなかなか進歩しないのに、自分の肉体年齢は増える一方なのだから、IQは下がる一方なのである。
つまり、何を言いたいかと言えば、いくら肉体的に若いままでいられたからと言って、決してそれにともなって精神まで若さを保てるという保証はない、ということなのである。これができるためには、相当に勉強して努力しなくてはならないのである。
それゆえ、身体が若くても精神が老いさらばえたものは、やはり要職から退いてもらう他ない、ということである。
私が観察している限り、自民、民主に限らず、大半の政治家も相当に知能が低くなっているのである。確かに知識や経験は増すだろうが、それを生かすほどの記憶力も能力も減退しているのである。結局、物わかりが悪くなり、意固地となり、頭が固くなる。自分の主張にこだわり人の意見を聞かない。こういう症状が出る。
というわけで、高野連の脇村にも引退をお勧めするが、私のこれまでの人生経験からすると、この人物の”顔つき”は特有である。こういう顔つきの老人は非常に意固地で頑固者が多い。だから、周りのだれのいうことも聞かないだろう。
だからこそ、この”特待生問題”の解決には、文科省のお役人か、あるいは政府が直接介入して、「日本学生野球憲章」を改定させるか、あるいは、高校野球もまた「高野連」から出て、「高体連」に移行するか、の方策を取るべきだろう。
いずれにせよ、このままでは、高校野球がどうのこうのというより、高野連が自らが高校球児やその家族や学校関係者への”いじめ”を行っているようにしか見えないのである。多くの家庭が、脇村の偏屈なまでの意固地によって地獄を見ているのである。
”計382校(硬式373校、軟式9校)が申告。
対象部員は最終的に8000人超。
申告したチーム当該部員が5月中の対外試合出場を自粛。
部長は”失業”。”
もはやこれは高野連の脇村による”大粛正”である。ブッシュ政権によるイラク人の大量虐殺に匹敵する事態となったように見える。
こうなると、もはや高野連だけでは処理不可能なわけだから、文科省や政府が介入すべき”大事態”に変貌したようである。
私の個人的印象では、特待生として一縷の望みをかけて進学した選手達の夢や学性生活が破れて、”自殺”してしまう子供達が出てこないか、という心配があるということである。
すでに、毎日悲嘆に暮れている母親たちが後を絶たない。精神的不調をきたし、将来の夢や人生設計を無惨にも打ち砕かれた家庭が少なくとも”8000超”あるということになるのである。
この問題が、実は大分前に私が「”高齢者に振り回される時代”突入? 」で意味した問題なのである。
そこでは、私はこう書いていた。
『私は最近個人的に非常に”心配する”ことがある。
それは、今後10年日本は「高齢者に悩まされる時代」あるいは「高齢者に振り回される時代」に入ったということである。
”少子高齢化”ということは、単に”子供の数が減り、高齢者や年輩者が増える”というだけではない。実際には、”子供の数が減り、高齢者や年輩者が増える”ということは、高齢者や年輩者より若い人々が、高齢者や年輩者に”振り回される”ということでもある。これが、日本人のほとんどすべての人たちにあまり良く理解されていないように見える。』
さらにこんなことも書いていた。
『しかし、年金問題でも明らかなように、一応社会で一番”お金”や”財産”を持っているのが高齢者である。経済的に一番優雅に暮らせるのが普通の高齢者なのである。それに加えて、元公務員、元国家公務員とかになれば、同じ高齢者と言っても”権力”や”人間関係”まで持っている。実はこれが一番質が悪い。』
『果たして”権力”や”人間関係”を持った高齢者が”惚けた”らどうなるのか。
”惚け”ていても人は人。その人の持つ”お金”や”財産”、”権力”や”人間関係”もまたその人のものなのである。ゆえに”惚け”た人の”お金”や”財産”、”権力”や”人間関係”もまたその”惚け”た人のものなのである。』
『ここに、冒頭で私が言ったようなことが現れる。つまり、若干”惚けはじめた人”に周りが振り回されるのである。例えば、会話は問題なくできるので、周りとのコミュニケーションは取れる。しかし、何やら支離滅裂に”思い付く”。周りがそれを実現してやる。がしかし、本人はすぐに忘れる。やってあげた周りにはえらい迷惑だ。こんなことが頻繁に起こるようになり、非常に混乱するようになるのである。』
『高齢者が社会の中で数が少なかった頃には、こういった現象が起きてもそれは社会問題にまでならなかった。その影響力は限られたからだ。しかし、高齢者の数が増えれば増える程、こうした現象が起きる。したがって、こういう迷惑千万な話で社会は満ち溢れることとなる。』
『これが”真の高齢者問題”なのである。私はそう考えている。』
まあ、ここまで来れば、私が言わんとした意味も今やだれの目にも明らかだろう。
小泉首相の「格差社会問題」(「道州制」?古い。これからは「連邦国家制」だよ!
、格差社会、”安倍の耳に念仏”:国会予算委員会答弁 )、
伊吹文科大臣の「高校未履修問題」(伊吹文科相、”思い付き”で早速国民を”振り回す” 、高校の履修問題の根源は?:30年前に遡る。 )、
御手洗冨士夫の「大学交付金格差問題」(”痴的財産戦略本部”の御乱心? )
そして
脇村春夫の「特待生問題」(”高校野球崩壊”、高野連はつぶそう!4:”脇村問題” )
と来たわけである。
要するに、これらはみな同じ問題:
”社会的権力”を持つボケ老人が現れてしまった場合、我々国民はどう対処したら良いのだろうか?
が日本社会に現れているということなのである。つまり、「老人権力者のその時々の思い付きによって日本社会が右へ左へと振り回される」ということである。
老人に権力がなければ、それはそれでも特に問題はないだろう。その老人の身内のものだけのお話ですむからである。しかし、その老人が国家権力やなにがしかの組織の長となると話が違ってくる。
確かに日本人の寿命は伸びた。60代や70代でも”肉体的に”は元気いっぱいの高齢者も増えた。だから、高齢者もずっと仕事を続けて、”権力の座”に居座っても結構なのだという考えもある。高齢者はそう思いたい。その気持ちは分かる。
しかし、待ってもらいたい。
”肉体年齢”と”精神年齢”というものは、まったく異なるのである。
子供の頃は、幼い年令の割には成長が早く、早熟という意味の”精神年齢”というものがある。知能指数(IQ)の一番簡単な定義は、(精神年齢/肉体年齢)×100である。だから、精神の発達が肉体と同程度であれば、IQ=100となる。2倍の早さで精神が発達していれば、IQ=200ということになる。
大人になると、これは”逆の意味”となる。今度は、精神年齢は、自分の最高に発達した精神年齢からなかなか進歩しないのに、自分の肉体年齢は増える一方なのだから、IQは下がる一方なのである。
つまり、何を言いたいかと言えば、いくら肉体的に若いままでいられたからと言って、決してそれにともなって精神まで若さを保てるという保証はない、ということなのである。これができるためには、相当に勉強して努力しなくてはならないのである。
それゆえ、身体が若くても精神が老いさらばえたものは、やはり要職から退いてもらう他ない、ということである。
私が観察している限り、自民、民主に限らず、大半の政治家も相当に知能が低くなっているのである。確かに知識や経験は増すだろうが、それを生かすほどの記憶力も能力も減退しているのである。結局、物わかりが悪くなり、意固地となり、頭が固くなる。自分の主張にこだわり人の意見を聞かない。こういう症状が出る。
というわけで、高野連の脇村にも引退をお勧めするが、私のこれまでの人生経験からすると、この人物の”顔つき”は特有である。こういう顔つきの老人は非常に意固地で頑固者が多い。だから、周りのだれのいうことも聞かないだろう。
だからこそ、この”特待生問題”の解決には、文科省のお役人か、あるいは政府が直接介入して、「日本学生野球憲章」を改定させるか、あるいは、高校野球もまた「高野連」から出て、「高体連」に移行するか、の方策を取るべきだろう。
いずれにせよ、このままでは、高校野球がどうのこうのというより、高野連が自らが高校球児やその家族や学校関係者への”いじめ”を行っているようにしか見えないのである。多くの家庭が、脇村の偏屈なまでの意固地によって地獄を見ているのである。
[ 11:24 ]
[ スポーツ ]
「野球特待生認めて」私立中高連が要望書、高野連は拒否
「高校野球の”特待生問題”で、全国の私立高校が加盟する日本私立中学高等学校連合会(田村哲夫会長)が、日本高校野球連盟(脇村春夫会長)あてに、特待生制度禁止について見直しを求める要望書を送付していた」
というニュース。
田村会長は、教育者として、こう訴えた。
(私立高校では、同制度が他の運動部員や学業優秀な生徒にも適用されていることに触れ)
「野球部員に限って制度を禁止した場合、バランスを欠く」
「野球部在籍特待生の勉学、部活動に対する意欲も失われ、高校野球全体の衰退にもつながりかねない」
日本高野連の脇村会長は、読売の記者にこういったという。
「特待生は野球留学に絡んでいるから問題。(特待生を認めないと)高校野球が衰退するという点には論理の飛躍があると思う」
高野連の田名部和裕参事:
「要望書では、5月2日までの(特待生制度の人数や内容などについての)回答期限の猶予を求められたと理解している。(期日までに)回答ができないなら、理由を添えて申し出てくれるよう返事をした」
日本私立中学高等学校連合会の尾崎輝雄事務局長:
「加盟校から強い要望があったため、文書を出した。現場の反応を見て今後の対応を考えるが、特待生制度の実態調査をすることも検討している」
まあ、この脇村が言いたいのは「越境留学が悪い」ということのようだ。
しかし、それをいうなら
「お前も神奈川県から東京都に越境留学して東大に入ったんだろ!」
”高校野球崩壊”
ということをお忘れになったようですナ。大学へ入るのに越境留学するのと、中学高校に入るために越境留学するのとたいした差はない。中学高校がだめで、大学が良いというのでは理屈にならない。
ましてや「ハンカチ王子」の斉藤選手は、群馬県から東京都への”越境留学”ではないか!
その辺の学校関係者は騙せても俺はだませんぞ! まったく理屈になっていない。
ところで、
「高校野球は”学校教育”の一貫である」
というのが、「日本学生野球憲章」のもっとも本筋である。
だとすれば、”越境留学”は特に問題ということにはならない。ましてや、「特待生制度」は、貧乏な家庭の子弟に教育の機会を与え、機会均等に即した実に”教育効果のある”制度と言えるはずである。
まったくこの脇村の言うことは理屈になっていない。
そして、何よりも次の条文が大事だろう。
「第二十三条 この憲章の適用に関して、疑義を生じたときは、日本学生野球協会審査室の議を経て、会長がこれを決定する。」
要するに、高野連会長の一存では決められないのである。その前に必ず「日本学生野球協会審査室」で議論しなくてはならないということである。
しかし、どうも今回の件では、「日本学生野球協会審査室」で議論があったという話は聞かない。
いずれにせよ、どうやら今回の問題は、すべて高野連会長の脇村春夫の個人の問題という観がある。
”お前も悪よのう”
ほんと東大出身のリーダーにはろなくなものがいないようですナ。
まさか、コーチや監督や選手にはプロが”裏金”を恵んでやるが、高野連には”裏金”がこないことを羨んで、いじわるしているということはないだろうナ。まあ、東大出身者はやりかねないか。
いっそのこと、この際、私立学校は、別の高野連を新しく作って、甲子園ではなく、後楽園やドーム球場で大会を開くというようなことを考えたら好い時代となったのだろうヨ。プロと協賛して行うというのも良いのかも知れない。
いずれにせよ、これ以上、高野連に権威を与えるのは日本にとって災いである。
「高校野球の”特待生問題”で、全国の私立高校が加盟する日本私立中学高等学校連合会(田村哲夫会長)が、日本高校野球連盟(脇村春夫会長)あてに、特待生制度禁止について見直しを求める要望書を送付していた」
というニュース。
田村会長は、教育者として、こう訴えた。
(私立高校では、同制度が他の運動部員や学業優秀な生徒にも適用されていることに触れ)
「野球部員に限って制度を禁止した場合、バランスを欠く」
「野球部在籍特待生の勉学、部活動に対する意欲も失われ、高校野球全体の衰退にもつながりかねない」
日本高野連の脇村会長は、読売の記者にこういったという。
「特待生は野球留学に絡んでいるから問題。(特待生を認めないと)高校野球が衰退するという点には論理の飛躍があると思う」
高野連の田名部和裕参事:
「要望書では、5月2日までの(特待生制度の人数や内容などについての)回答期限の猶予を求められたと理解している。(期日までに)回答ができないなら、理由を添えて申し出てくれるよう返事をした」
日本私立中学高等学校連合会の尾崎輝雄事務局長:
「加盟校から強い要望があったため、文書を出した。現場の反応を見て今後の対応を考えるが、特待生制度の実態調査をすることも検討している」
まあ、この脇村が言いたいのは「越境留学が悪い」ということのようだ。
しかし、それをいうなら
「お前も神奈川県から東京都に越境留学して東大に入ったんだろ!」
”高校野球崩壊”
ということをお忘れになったようですナ。大学へ入るのに越境留学するのと、中学高校に入るために越境留学するのとたいした差はない。中学高校がだめで、大学が良いというのでは理屈にならない。
ましてや「ハンカチ王子」の斉藤選手は、群馬県から東京都への”越境留学”ではないか!
その辺の学校関係者は騙せても俺はだませんぞ! まったく理屈になっていない。
ところで、
「高校野球は”学校教育”の一貫である」
というのが、「日本学生野球憲章」のもっとも本筋である。
だとすれば、”越境留学”は特に問題ということにはならない。ましてや、「特待生制度」は、貧乏な家庭の子弟に教育の機会を与え、機会均等に即した実に”教育効果のある”制度と言えるはずである。
まったくこの脇村の言うことは理屈になっていない。
そして、何よりも次の条文が大事だろう。
「第二十三条 この憲章の適用に関して、疑義を生じたときは、日本学生野球協会審査室の議を経て、会長がこれを決定する。」
要するに、高野連会長の一存では決められないのである。その前に必ず「日本学生野球協会審査室」で議論しなくてはならないということである。
しかし、どうも今回の件では、「日本学生野球協会審査室」で議論があったという話は聞かない。
いずれにせよ、どうやら今回の問題は、すべて高野連会長の脇村春夫の個人の問題という観がある。
”お前も悪よのう”
ほんと東大出身のリーダーにはろなくなものがいないようですナ。
まさか、コーチや監督や選手にはプロが”裏金”を恵んでやるが、高野連には”裏金”がこないことを羨んで、いじわるしているということはないだろうナ。まあ、東大出身者はやりかねないか。
いっそのこと、この際、私立学校は、別の高野連を新しく作って、甲子園ではなく、後楽園やドーム球場で大会を開くというようなことを考えたら好い時代となったのだろうヨ。プロと協賛して行うというのも良いのかも知れない。
いずれにせよ、これ以上、高野連に権威を与えるのは日本にとって災いである。
[ 10:14 ]
[ サッカー ]
昨日、妻と2人で久々に映画を観に行った。「スパイダーマン3」である。
スパイダーマン、ピーター・パーカーは、いつしか謎の生命体”ヴェノム”に取り憑かれ、ブラックスパイダーマンになる。その間は、”爽快感”が得られ、女性に持て、ダークサイドに入り込む。七三からチョイ悪に変わり、目もカッと見開き、乗りに乗る。”怒り”はファイトに繋がり、悪のエネルギーに満ち満ちる。しかし、次第に自分自身が”ヴェノム”に操られるようになり、自制できなくなる。
そんなシーンがある。
スパイダーマン、ピーター・パーカーは、いつしか謎の生命体”ヴェノム”に取り憑かれ、ブラックスパイダーマンになる。その間は、”爽快感”が得られ、女性に持て、ダークサイドに入り込む。七三からチョイ悪に変わり、目もカッと見開き、乗りに乗る。”怒り”はファイトに繋がり、悪のエネルギーに満ち満ちる。しかし、次第に自分自身が”ヴェノム”に操られるようになり、自制できなくなる。
そんなシーンがある。
今回のJリーガー我那覇選手の”ドーピング問題”も、ピーター・パーカーの”ヴェノム”を彷佛させる。
「にんにく注射」という静脈注射をすると、疲れがとれ、爽快となり、エネルギーに満ちあふれる。目はカッと見開き、信じられない身体能力のプレーにファンは酔いしれる。しかし、それを続けていく内に、使った時と使っていない時の差が激しくなり、ますます手放せなくなる。そうしている内に、いつしかドーピングから離れられなくなる。
まさしく”ヴェノム”に取りつかれたスパイダーマンそのものである。
実際、我那覇選手の顔を昔のものから追っていくと少しずつ目つきや表情が変わって来たことが分かる。まるでピーター・パーカーの変化とそっくりである。
写真:すこし前の我那覇選手
2我那覇 和樹
「にんにく注射」という静脈注射をすると、疲れがとれ、爽快となり、エネルギーに満ちあふれる。目はカッと見開き、信じられない身体能力のプレーにファンは酔いしれる。しかし、それを続けていく内に、使った時と使っていない時の差が激しくなり、ますます手放せなくなる。そうしている内に、いつしかドーピングから離れられなくなる。
まさしく”ヴェノム”に取りつかれたスパイダーマンそのものである。
実際、我那覇選手の顔を昔のものから追っていくと少しずつ目つきや表情が変わって来たことが分かる。まるでピーター・パーカーの変化とそっくりである。
写真:すこし前の我那覇選手
2我那覇 和樹
我が家には、”我那覇”というジョークがある。
目を極端に2重にしてカッと見開き、日本人離れした濃い顔の真似をする、のである。
これが、実は我那覇選手の顔つきを変えていた理由なのかも知れない。
「ニンニクマン」我那覇。
”ヴェノム”を撃ち破り、生還せよ! スパイディー!
写真:昔の我那覇選手
3我那覇 和樹
目を極端に2重にしてカッと見開き、日本人離れした濃い顔の真似をする、のである。
これが、実は我那覇選手の顔つきを変えていた理由なのかも知れない。
「ニンニクマン」我那覇。
”ヴェノム”を撃ち破り、生還せよ! スパイディー!
写真:昔の我那覇選手
3我那覇 和樹
2007/05/01のBlog
[ 23:13 ]
[ 政治・経済 ]
バイオガソリンの増産 食糧問題の引き金になる可能性も
しばらく前に
「ゴア元副大統領が演説すると桶屋が儲かる? 」
で私はこう書いていた。
「アメリカのゴア元副大統領が地球を救おうと演説すると桶屋が儲かる」
そして、そのこころは?
『”地球温暖化”現象改善のために、アメリカのゴア元副大統領が映画を作り、世界中を駆け巡る。すると、世界中の知識人やお金持ちの意識が良い方向に変わり、病んでしまった地球改善のためにその対策にお金を投資するようになる。バイオ燃料やエタノール燃料の研究に投資するようになる。そのためには、植物や動物が必要だ。すると、もっとも安いトウモロコシや大豆など、あるいは海藻の類いが材料となる。すると、それを主食として生活している人間、それも安い食料しか買うことのできない人々が食うに困る。結果として、主食のトウモロコシは高騰し、経済的弱者から路頭に迷い。餓死者が続出する。結果として葬儀屋が儲かる。』
要するに、”バイオ燃料”という発想自体は実に素晴らしいものであるが、問題はそれを取り巻く世界構造が、南北問題や東西問題、さらには貧富の差や格差社会の問題を温存している以上、得られる結果は分かりきっている、ということなのである。
つまり、「経済的強者が自分達の便利な高度科学文明を維持したいがために、経済的弱者の最低限の食料資源をも奪い取る」という帰結に至るのである。
一説によれば、2050年には石油が枯渇して人類は再び「ロウソクの時代」へと逆戻りするという予測がある。
この説は、人間社会の経済成長とエネルギー供給がほぼ”比例”しているという事実に基づく。したがって、エネルギー源である石油の供給量に比例して世界経済は大きくなって来たが、それが減少すれば、それに応じて世界経済も縮小するのだ、という説である。2010年ごろが石油供給のピークとなり、その後は急速に減少する。それゆえ、2050年には、電力が失われ、再びロウソクの時代となるという説である。(この説は非常に面白いので、そのうちまた紹介するつもりだが、本当にそうなるかどうかは分からない)
いずれにせよ、社会的強者やリッチマンたちがかなり自分達の電力消費量や贅沢な暮らし振りを削減すれば、かなりのエネルギー資源を温存できるはずなのだが、実はそういう贅沢はなかなか捨て去ることができない。代わりに、弱者が胃袋を満たすべき最低限の主食まで贅沢ものたちのための燃料に変えられてしまう、ということなのである。
「贅沢は敵だ」と見るべきか、あるいは、「貧乏人は死ね」と見るべきかのいずれかの選択の時代となったということである。
もちろん、ゴア元大統領のような社会的地位や名誉のあるものたちは、後者を選んだというわけである。
すなわち、(貧乏人のために)人類がすべて死に絶えるよりは、一部の(金持ちの)人類が生き残れば良いという意味である。
その昔、浮浪者やホームレスや貧乏人で酒も買えなくなったものは、エタノールを飲んだという。それもかなわないものは、失明する覚悟でメタノールを飲んだとも言われている。それが今や貧乏人の最後の楽しみも奪われてしまうということだろう。
ところで、”お金持ち”というのは、「大量にエネルギー消費する者」という意味なのだから、本来なら”天罰”を受けるのは金持ちのはずである。しかし、お金持ちの生活水準を維持してやるために、あまりエネルギー消費していない貧乏人たちの食料を奪い取るというのは、あまりに酷な話である。
そのうち、とうもろこしもなくなれば、貧乏人は殺されて薪の代わりに火に焼べられてしまう日がやってくるのかも知れないナ。B級ホラー映画の世界である。
しばらく前に
「ゴア元副大統領が演説すると桶屋が儲かる? 」
で私はこう書いていた。
「アメリカのゴア元副大統領が地球を救おうと演説すると桶屋が儲かる」
そして、そのこころは?
『”地球温暖化”現象改善のために、アメリカのゴア元副大統領が映画を作り、世界中を駆け巡る。すると、世界中の知識人やお金持ちの意識が良い方向に変わり、病んでしまった地球改善のためにその対策にお金を投資するようになる。バイオ燃料やエタノール燃料の研究に投資するようになる。そのためには、植物や動物が必要だ。すると、もっとも安いトウモロコシや大豆など、あるいは海藻の類いが材料となる。すると、それを主食として生活している人間、それも安い食料しか買うことのできない人々が食うに困る。結果として、主食のトウモロコシは高騰し、経済的弱者から路頭に迷い。餓死者が続出する。結果として葬儀屋が儲かる。』
要するに、”バイオ燃料”という発想自体は実に素晴らしいものであるが、問題はそれを取り巻く世界構造が、南北問題や東西問題、さらには貧富の差や格差社会の問題を温存している以上、得られる結果は分かりきっている、ということなのである。
つまり、「経済的強者が自分達の便利な高度科学文明を維持したいがために、経済的弱者の最低限の食料資源をも奪い取る」という帰結に至るのである。
一説によれば、2050年には石油が枯渇して人類は再び「ロウソクの時代」へと逆戻りするという予測がある。
この説は、人間社会の経済成長とエネルギー供給がほぼ”比例”しているという事実に基づく。したがって、エネルギー源である石油の供給量に比例して世界経済は大きくなって来たが、それが減少すれば、それに応じて世界経済も縮小するのだ、という説である。2010年ごろが石油供給のピークとなり、その後は急速に減少する。それゆえ、2050年には、電力が失われ、再びロウソクの時代となるという説である。(この説は非常に面白いので、そのうちまた紹介するつもりだが、本当にそうなるかどうかは分からない)
いずれにせよ、社会的強者やリッチマンたちがかなり自分達の電力消費量や贅沢な暮らし振りを削減すれば、かなりのエネルギー資源を温存できるはずなのだが、実はそういう贅沢はなかなか捨て去ることができない。代わりに、弱者が胃袋を満たすべき最低限の主食まで贅沢ものたちのための燃料に変えられてしまう、ということなのである。
「贅沢は敵だ」と見るべきか、あるいは、「貧乏人は死ね」と見るべきかのいずれかの選択の時代となったということである。
もちろん、ゴア元大統領のような社会的地位や名誉のあるものたちは、後者を選んだというわけである。
すなわち、(貧乏人のために)人類がすべて死に絶えるよりは、一部の(金持ちの)人類が生き残れば良いという意味である。
その昔、浮浪者やホームレスや貧乏人で酒も買えなくなったものは、エタノールを飲んだという。それもかなわないものは、失明する覚悟でメタノールを飲んだとも言われている。それが今や貧乏人の最後の楽しみも奪われてしまうということだろう。
ところで、”お金持ち”というのは、「大量にエネルギー消費する者」という意味なのだから、本来なら”天罰”を受けるのは金持ちのはずである。しかし、お金持ちの生活水準を維持してやるために、あまりエネルギー消費していない貧乏人たちの食料を奪い取るというのは、あまりに酷な話である。
そのうち、とうもろこしもなくなれば、貧乏人は殺されて薪の代わりに火に焼べられてしまう日がやってくるのかも知れないナ。B級ホラー映画の世界である。
2007/04/30のBlog
[ 11:11 ]
[ 社会 ]
商業施設で銃撃、2人犠牲米カンザスシティー
しばらく前に「「銃社会」vs「やくざ社会」vs「テロ社会」 」に
”最初のアメリカのヴァージニア工大の事件は、大学という銃規制のある地域に外から銃を持ち込んだために起こった事件なのである。もしそれが大学の外であれば、例えば民間人の家や店などであれば、おそらく銃撃戦となったはずである。”
と書いていたが、上のニュースは、その通りの事件が起こったようである。私の言っていたことがまったくの事実であるということが分かっただろう。
いずれにせよ、日本という”ナイーブ”な国以外では、「”ティットフォーチャット”(しっぺ返し)の論理」が最もフェアーであると信じられている。
人を銃で殺せば、即座に警官が射殺する。
日本とは違う、ということですナ。
しばらく前に「「銃社会」vs「やくざ社会」vs「テロ社会」 」に
”最初のアメリカのヴァージニア工大の事件は、大学という銃規制のある地域に外から銃を持ち込んだために起こった事件なのである。もしそれが大学の外であれば、例えば民間人の家や店などであれば、おそらく銃撃戦となったはずである。”
と書いていたが、上のニュースは、その通りの事件が起こったようである。私の言っていたことがまったくの事実であるということが分かっただろう。
いずれにせよ、日本という”ナイーブ”な国以外では、「”ティットフォーチャット”(しっぺ返し)の論理」が最もフェアーであると信じられている。
人を銃で殺せば、即座に警官が射殺する。
日本とは違う、ということですナ。
2007/04/29のBlog
[ 09:33 ]
[ スポーツ ]
選抜優勝校の常葉菊川、県大会1回戦で敗れる 高校野球
”悪の枢軸”高野連、自ら自分の首締める。
今春の選抜高校野球で、常葉菊川(静岡)は、並みいる強豪校を撃ち破っていき、優勝した。このチームが、高野連の「特待生問題」を受けて、”特待生”を試合から閉め出したところ、県大会の初戦であえなく敗退してしまった、という笑えない、ジョークのようなニュース。
この際、野球部員を理由とした特待生制度に該当する可能性があるために、登録メンバー20人のうち約半数を今大会の選手登録から外し、佐野心部長が退任したという。
「高野連」は、「日本学生野球憲章」という時代遅れで”化石”のような(目先の)ルールにこだわったあまり、歴史ある高校野球界を戦後最大の混乱の危機に陥れてしまったのである。(「”高校野球崩壊” 」)
もう何十年にも渡り、「特待生制度」やそれに類する制度を見のがして来たにもかかわらず、今年の春以降、西武やプロ野球の”裏金問題”が発覚すると、突然「特待生制度」を悪の権化のように言い出す。問題の鉾先を替え、あたかも自分達「高野連」に何の責任もなかったかのような顔をするとは、たまげた根性である。
昨今の”いじめ問題”で中高生が自殺した際にとった教育委員会のやり方や手口と同じである。
だれが考えても、学校の「特待生制度」と裏金授受の問題はまったく別問題である。たまたま、将来プロ選手になるような優秀選手の多くが特待生となっているというに過ぎない。
特待生制度は、日本のスポーツ環境をよくするためには必須の制度である。何も野球の限るわけではない。サッカーでもバレーボールではバスケットボールでも卓球でも何でも必要な制度である。
スポーツの才能があるものが、その己の才能を基にして高校へ行き、そして大学へと進学する。そこで、スポーツだけではなく、最低限の教養や知識も身につける。これこそ、本来の「文武両道」の精神に適うものである。
それゆえ、このやり方は欧米各国でもよく行われている非常に素晴らしい制度である。
アメリカでも、「スポーツ奨学金制度」(まあ、日本で言う、「特待生制度」)は良く知られている。多くの選手が、親が貧乏で本来なら進学できない家庭で育ったとしても自分のスポーツ能力を糧にして進学しアメリカンフットボールの選手になったりバスケットボールの選手になったりして大学まで進学する。中には、政治家にまで育ったという人々も多い。
最近になり、地方の高校が、「少子高齢化」時代に生き残りをかけて、スポーツで全国的に有名になり、活性化するという戦略を立てるようになった。この一貫として、「特待生制度」はできているのである。したがって、これがなくなれば、ますます「都市と地方の地域格差拡大」、「貧富の差の拡大」が生じることとなるはずである。
しかし、この「スポーツ特待生制度」の問題は、”おバカ”な「高野連」が考えているような野球だけ、あるいはスポーツだけの問題ではないのである。
実は、「スポーツ特待生制度」をとっているような地方の有名私立高校は、これと同時に「学業特待生制度」もとっているのである。”お勉強が非常によくできる生徒”も別枠でとり、東大など有名大学への進学を狙わせるという戦略を採っているのである。つまり、こういった高校では、スポーツのできる生徒は「スポーツ特待生制度」で集め、勉強のできる生徒は「学業特待生制度」で集めるのである。
なぜなら、そうしないと、政府自民党や文部科学省の音頭取りで始まった「スーパーサイエンス校制度」などに対処できないからである。あるいは、文科省の「スポーツマン育成制度」に対処できないからである。
要するに、私の見て来たところでは、「スポーツ特待生制度」や「学業特待生制度」は、文科省や政府自民党の”肝いり”で発展してきたのである。一種の「学校特区制度」のようなものなのである。小泉政権時代の政府自民党や文科省が、学校も自由化させ、政府肝いりで競争原理を計り、学校の差別化、競争化させる。さもなくば、「少子高齢化」の波とともに滅び去れ、という時代背景の中で生み出されて来たものなのである。
こういう時代背景の中、地方の学校が必死で努力して来たものが、「スポーツ特待制度」であり「学業特待制度」なのである。
高野連は「野球特待生制度」はだめだが、他のスポーツ「特待生制度」や「学業特待生制度」なら良いというのだろうか?
もしそうなら”支離滅裂”である。
この問題の”核心”は、「特待生制度」にはない。むしろ、私が「”高校野球崩壊” 」に紹介したように、高野連が”信仰する”「日本学生野球憲章」にある。
要するに、これがもはや時代遅れで、かつ現実性がないということなのである。「日本学生野球憲章」を作り直すか、あるいは「高野連」という組織をつぶすべきか、という問題なのである。今や「高野連」そのものの存在意義が薄れてきているということなのである。
今回の「高野連」の行動は、日本のスポーツ界全体への”悪影響”を与えるのである。しいては、日本社会全体へ”悪影響”を与えかねないのである。
”悪の枢軸”高野連、自ら自分の首締める。
今春の選抜高校野球で、常葉菊川(静岡)は、並みいる強豪校を撃ち破っていき、優勝した。このチームが、高野連の「特待生問題」を受けて、”特待生”を試合から閉め出したところ、県大会の初戦であえなく敗退してしまった、という笑えない、ジョークのようなニュース。
この際、野球部員を理由とした特待生制度に該当する可能性があるために、登録メンバー20人のうち約半数を今大会の選手登録から外し、佐野心部長が退任したという。
「高野連」は、「日本学生野球憲章」という時代遅れで”化石”のような(目先の)ルールにこだわったあまり、歴史ある高校野球界を戦後最大の混乱の危機に陥れてしまったのである。(「”高校野球崩壊” 」)
もう何十年にも渡り、「特待生制度」やそれに類する制度を見のがして来たにもかかわらず、今年の春以降、西武やプロ野球の”裏金問題”が発覚すると、突然「特待生制度」を悪の権化のように言い出す。問題の鉾先を替え、あたかも自分達「高野連」に何の責任もなかったかのような顔をするとは、たまげた根性である。
昨今の”いじめ問題”で中高生が自殺した際にとった教育委員会のやり方や手口と同じである。
だれが考えても、学校の「特待生制度」と裏金授受の問題はまったく別問題である。たまたま、将来プロ選手になるような優秀選手の多くが特待生となっているというに過ぎない。
特待生制度は、日本のスポーツ環境をよくするためには必須の制度である。何も野球の限るわけではない。サッカーでもバレーボールではバスケットボールでも卓球でも何でも必要な制度である。
スポーツの才能があるものが、その己の才能を基にして高校へ行き、そして大学へと進学する。そこで、スポーツだけではなく、最低限の教養や知識も身につける。これこそ、本来の「文武両道」の精神に適うものである。
それゆえ、このやり方は欧米各国でもよく行われている非常に素晴らしい制度である。
アメリカでも、「スポーツ奨学金制度」(まあ、日本で言う、「特待生制度」)は良く知られている。多くの選手が、親が貧乏で本来なら進学できない家庭で育ったとしても自分のスポーツ能力を糧にして進学しアメリカンフットボールの選手になったりバスケットボールの選手になったりして大学まで進学する。中には、政治家にまで育ったという人々も多い。
最近になり、地方の高校が、「少子高齢化」時代に生き残りをかけて、スポーツで全国的に有名になり、活性化するという戦略を立てるようになった。この一貫として、「特待生制度」はできているのである。したがって、これがなくなれば、ますます「都市と地方の地域格差拡大」、「貧富の差の拡大」が生じることとなるはずである。
しかし、この「スポーツ特待生制度」の問題は、”おバカ”な「高野連」が考えているような野球だけ、あるいはスポーツだけの問題ではないのである。
実は、「スポーツ特待生制度」をとっているような地方の有名私立高校は、これと同時に「学業特待生制度」もとっているのである。”お勉強が非常によくできる生徒”も別枠でとり、東大など有名大学への進学を狙わせるという戦略を採っているのである。つまり、こういった高校では、スポーツのできる生徒は「スポーツ特待生制度」で集め、勉強のできる生徒は「学業特待生制度」で集めるのである。
なぜなら、そうしないと、政府自民党や文部科学省の音頭取りで始まった「スーパーサイエンス校制度」などに対処できないからである。あるいは、文科省の「スポーツマン育成制度」に対処できないからである。
要するに、私の見て来たところでは、「スポーツ特待生制度」や「学業特待生制度」は、文科省や政府自民党の”肝いり”で発展してきたのである。一種の「学校特区制度」のようなものなのである。小泉政権時代の政府自民党や文科省が、学校も自由化させ、政府肝いりで競争原理を計り、学校の差別化、競争化させる。さもなくば、「少子高齢化」の波とともに滅び去れ、という時代背景の中で生み出されて来たものなのである。
こういう時代背景の中、地方の学校が必死で努力して来たものが、「スポーツ特待制度」であり「学業特待制度」なのである。
高野連は「野球特待生制度」はだめだが、他のスポーツ「特待生制度」や「学業特待生制度」なら良いというのだろうか?
もしそうなら”支離滅裂”である。
この問題の”核心”は、「特待生制度」にはない。むしろ、私が「”高校野球崩壊” 」に紹介したように、高野連が”信仰する”「日本学生野球憲章」にある。
要するに、これがもはや時代遅れで、かつ現実性がないということなのである。「日本学生野球憲章」を作り直すか、あるいは「高野連」という組織をつぶすべきか、という問題なのである。今や「高野連」そのものの存在意義が薄れてきているということなのである。
今回の「高野連」の行動は、日本のスポーツ界全体への”悪影響”を与えるのである。しいては、日本社会全体へ”悪影響”を与えかねないのである。
2007/04/27のBlog
[ 22:32 ]
[ 科学ニュース ]
図:永嶺謙忠博士による「火山のレントゲン写真」の最初のアイデア
ミュオンで探る生命と地球の謎
火山のレントゲン写真、宇宙線で撮影成功 浅間山火口
”宇宙から降り注ぐ粒子線を写真乾板で捕らえ、火山の火口をX線写真のように透かして撮る”
これは、実に素晴らしいアイデアである。「火山の内部をX線写真のように撮る」のである。東大地震研の田中宏幸特別研究員と名古屋大の中野敏行助教らのアイデアであるという。
ここから先に行くには、次のような方法があるかも知れない。
その昔身体をX線で撮影していた時代に、今度は被写体の周りをぐるりと一周してX線撮影するという「X線CTスキャン」というものが現れた。
これと同じような発想で、火山の周りにぐるりと一周するように、写真乾板を設置すれば、火山の内部を「ミュー粒子線CTスキャン」ができるのではないだろうか。
得られたデータを集めて、逆問題として内部の3次元情報を再構築するのである。これがもし実現できるのであれば、非常に面白いと私は思う。
さらに、同様な発想で、地球内部をニュートリノで見るなんていうのはできないのだろうか?
まあ、そのためには、地球上にそこら中に「スーパーカミオカンデ」を張り巡らせなくてならないのかも知れないが。
いずれにせよ、火山の内部のレントゲン写真を見てみたいものである。
ミュオンで探る生命と地球の謎
火山のレントゲン写真、宇宙線で撮影成功 浅間山火口
”宇宙から降り注ぐ粒子線を写真乾板で捕らえ、火山の火口をX線写真のように透かして撮る”
これは、実に素晴らしいアイデアである。「火山の内部をX線写真のように撮る」のである。東大地震研の田中宏幸特別研究員と名古屋大の中野敏行助教らのアイデアであるという。
ここから先に行くには、次のような方法があるかも知れない。
その昔身体をX線で撮影していた時代に、今度は被写体の周りをぐるりと一周してX線撮影するという「X線CTスキャン」というものが現れた。
これと同じような発想で、火山の周りにぐるりと一周するように、写真乾板を設置すれば、火山の内部を「ミュー粒子線CTスキャン」ができるのではないだろうか。
得られたデータを集めて、逆問題として内部の3次元情報を再構築するのである。これがもし実現できるのであれば、非常に面白いと私は思う。
さらに、同様な発想で、地球内部をニュートリノで見るなんていうのはできないのだろうか?
まあ、そのためには、地球上にそこら中に「スーパーカミオカンデ」を張り巡らせなくてならないのかも知れないが。
いずれにせよ、火山の内部のレントゲン写真を見てみたいものである。
2007/04/25のBlog
[ 22:02 ]
[ ジョーク ]
写真:海底火山
笑いは百薬之長。以下はジョーク。
しばらく前に「ゴア元副大統領が演説すると桶屋が儲かる? 」でカオス理論のことを紹介した。
カオス理論の有名な例え話とはこうである。
「風が吹くと桶屋が儲かる」(日本版)、
「南米で蝶がはばたくと北半球のハリケーンが起こる」(アメリカ版)
これを「バタフライ効果」と呼んでいる。
しかし、ジョージ・ブッシュ大統領時代や安倍晋三首相時代の最近では、悪いことばかり起こる。
竜巻:米テキサス州南部で6人死亡、70人負傷
イラク:自爆攻撃で米兵9人死亡 バグダッド北方
バージニア工科大で乱射、32人死亡 米最悪の銃撃事件
伊藤長崎市長、銃撃され重体 容疑の暴力団員逮捕
バグダッドで連続爆弾テロ、イラク全土で死者200人超
そこで、業を煮やしたカオス理論学者たちは、例え話を次のようなものに変えることとなった。
「選挙になると桶屋が儲かる」(日本版)、
「イラクで自爆テロが起こるとアメリカで巨大竜巻が起こる」(アメリカ版)
これを「自爆テロ効果」と呼ぶ。
いやな世の中になったものである。
笑いは百薬之長。以下はジョーク。
しばらく前に「ゴア元副大統領が演説すると桶屋が儲かる? 」でカオス理論のことを紹介した。
カオス理論の有名な例え話とはこうである。
「風が吹くと桶屋が儲かる」(日本版)、
「南米で蝶がはばたくと北半球のハリケーンが起こる」(アメリカ版)
これを「バタフライ効果」と呼んでいる。
しかし、ジョージ・ブッシュ大統領時代や安倍晋三首相時代の最近では、悪いことばかり起こる。
竜巻:米テキサス州南部で6人死亡、70人負傷
イラク:自爆攻撃で米兵9人死亡 バグダッド北方
バージニア工科大で乱射、32人死亡 米最悪の銃撃事件
伊藤長崎市長、銃撃され重体 容疑の暴力団員逮捕
バグダッドで連続爆弾テロ、イラク全土で死者200人超
そこで、業を煮やしたカオス理論学者たちは、例え話を次のようなものに変えることとなった。
「選挙になると桶屋が儲かる」(日本版)、
「イラクで自爆テロが起こるとアメリカで巨大竜巻が起こる」(アメリカ版)
これを「自爆テロ効果」と呼ぶ。
いやな世の中になったものである。
[ 14:36 ]
[ スポーツ ]
写真:崩壊する彗星
特待生問題、静岡・東海大翔洋高も野球部員10人に減免
波紋広がる「特待生問題」春季大会への出場辞退相次ぐ
松山聖陵も野球部員40人「特待生」…5月の12試合中止
山梨・日大明誠高が報告へ、奨学金が憲章抵触の可能性
京都・福知山成美高にスポーツ奨学生制度、昨夏に8強入り
ダル母校・東北高が春の予選出場辞退、特待生問題か
特待生問題、高野連の全加盟校実態調査を承認
いやはや、「高校野球崩壊」の序章ですナ。
プロ野球の球団が、高校生の”青田狩り”をするために、選手がドラフトに乗るずっと前から金銭授受(そのうちもらうだろう契約金の前借り)を行ったという問題から派生して、高校が野球選手の「特待生」(=奨学金制度)も”ダメだし”した。
すると、出るわ、出るわで、甲子園に出場するような野球部のほとんどが「特待生制度」を取っているということが発覚してしまった、というニュースである。
これでは、もはや「伝統ある甲子園大会ももう終わり」だろう。混乱の極みである。
学校は、自分で経営戦略の一貫としてそういう「スポーツ特待生制度」を作っておきながら、責任を問われると、野球部の部長やコーチを免職させ、責任転嫁するというやり方だ。
その理由というのは、
「野球部員であることを理由とした特待生制度ではないが、日本学生野球憲章に抵触する可能性がある」
「憲章の規定に対する疑問がないわけではないが、ルールはルール。誠実に受け止めて反省する」
「日本学生野球憲章に抵触する恐れがあるスポーツ特別奨学生」
というようなものである。
ここに来て、悪名高い「高野連」のやり方が現代の日本社会の進歩や変化に追い付いていないということが明かとなったようである。もはや「高野連」は日本社会にとってだれがみても”有害”な組織となったように見えるだろう。
これこそ、私が数年以上前からずっと主張して来た特徴や性質なのである。
(1)【高野連はつぶそう!3:時代錯誤 】
(2)【高野連はつぶそう!2】
(3)【【大学プロ指導解禁】
(4)【高野連、プロ指導解禁へ!】
(5)【高野連はつぶそう!】
特待生問題、静岡・東海大翔洋高も野球部員10人に減免
波紋広がる「特待生問題」春季大会への出場辞退相次ぐ
松山聖陵も野球部員40人「特待生」…5月の12試合中止
山梨・日大明誠高が報告へ、奨学金が憲章抵触の可能性
京都・福知山成美高にスポーツ奨学生制度、昨夏に8強入り
ダル母校・東北高が春の予選出場辞退、特待生問題か
特待生問題、高野連の全加盟校実態調査を承認
いやはや、「高校野球崩壊」の序章ですナ。
プロ野球の球団が、高校生の”青田狩り”をするために、選手がドラフトに乗るずっと前から金銭授受(そのうちもらうだろう契約金の前借り)を行ったという問題から派生して、高校が野球選手の「特待生」(=奨学金制度)も”ダメだし”した。
すると、出るわ、出るわで、甲子園に出場するような野球部のほとんどが「特待生制度」を取っているということが発覚してしまった、というニュースである。
これでは、もはや「伝統ある甲子園大会ももう終わり」だろう。混乱の極みである。
学校は、自分で経営戦略の一貫としてそういう「スポーツ特待生制度」を作っておきながら、責任を問われると、野球部の部長やコーチを免職させ、責任転嫁するというやり方だ。
その理由というのは、
「野球部員であることを理由とした特待生制度ではないが、日本学生野球憲章に抵触する可能性がある」
「憲章の規定に対する疑問がないわけではないが、ルールはルール。誠実に受け止めて反省する」
「日本学生野球憲章に抵触する恐れがあるスポーツ特別奨学生」
というようなものである。
ここに来て、悪名高い「高野連」のやり方が現代の日本社会の進歩や変化に追い付いていないということが明かとなったようである。もはや「高野連」は日本社会にとってだれがみても”有害”な組織となったように見えるだろう。
これこそ、私が数年以上前からずっと主張して来た特徴や性質なのである。
(1)【高野連はつぶそう!3:時代錯誤 】
(2)【高野連はつぶそう!2】
(3)【【大学プロ指導解禁】
(4)【高野連、プロ指導解禁へ!】
(5)【高野連はつぶそう!】
では、ここで問題、というか”障害”となっている、「日本学生野球憲章」とはどんなものか?
全部で25条のルールである。各条文の目的を示すために簡単にタイトルをつけておこう。
第一章 総則
第一条 憲章の目的:学生野球の健全な発達
第二条 日本学生野球協会設立
第二章 大学野球
第三条 試合時期:勉学を妨げない
第四条 大会役員
(2) 常置の主催団体
(3) 常置団体以外の主催大会の届け出
(4) 前二項の事業変更の届出義務
第五条 対校試合
第六条 遠征試合の届け出
第七条 入場料徴収と例外規定
第八条 入場料徴収の届け出義務
第九条 選手登録規定
第十条 プロ野球交流禁止
(2) プロ野球スカウト禁止
第十一条 選手及び部員複数チーム兼務禁止
(2) 選手又は部員の憲章遵守
(3) 混合チームの定義
第十二条 日本学生野球の措置
第十三条 選手又は部員の金銭金品供与禁止
(2) 選手又は部員のプロ野球団金品取り引き禁止
第十四条 選手又は部員の報酬禁止
第三章 高等学校野球
第十五条 高野連の監督義務
第十六条 学校の高野連加入規定
第十七条 高等学校チームの参加試合
一 全国大会、高野連主催
二 地方大会、高野連主催
三 都道府県大会、高野連主催
四 他県試合、高野連承認
五 学校長の責任。
第十八条 高校野球の試合入場料徴収
一 全国大会、学生野球協会の承認
二 地方大会、高野連の承認
三 県内試合にあっては、都道府県高野連承認
四 入場料徴収の収支決算提出義務
五 入場料使用の規定
第十九条 第四条第一項・第七条但し書及び第九条-第十四条遵守
附則
第二十条 非行に対する日本学生野球協会の権威
(2) その部長、監督、コーチ、選手又は部員の非行
(3) 部長、監督、コーチ、選手又は部員の野球に関しない個人の非行
(4) 学校法人の役員、若しくは、教職員、其他学校関係者の非行
第二十一条 応援団及びその団員の責任と非行
(2) 学生若しくは一般人の応援団、又はその団員の責任と非行
第二十二条 プロ野球との交渉
第二十三条 憲章の適用疑義
第二十四条 憲章の改正
(2)議決数
第二十五条 憲章施行年月日
まあ、だいたいこんなところか。
全部で25条のルールである。各条文の目的を示すために簡単にタイトルをつけておこう。
第一章 総則
第一条 憲章の目的:学生野球の健全な発達
第二条 日本学生野球協会設立
第二章 大学野球
第三条 試合時期:勉学を妨げない
第四条 大会役員
(2) 常置の主催団体
(3) 常置団体以外の主催大会の届け出
(4) 前二項の事業変更の届出義務
第五条 対校試合
第六条 遠征試合の届け出
第七条 入場料徴収と例外規定
第八条 入場料徴収の届け出義務
第九条 選手登録規定
第十条 プロ野球交流禁止
(2) プロ野球スカウト禁止
第十一条 選手及び部員複数チーム兼務禁止
(2) 選手又は部員の憲章遵守
(3) 混合チームの定義
第十二条 日本学生野球の措置
第十三条 選手又は部員の金銭金品供与禁止
(2) 選手又は部員のプロ野球団金品取り引き禁止
第十四条 選手又は部員の報酬禁止
第三章 高等学校野球
第十五条 高野連の監督義務
第十六条 学校の高野連加入規定
第十七条 高等学校チームの参加試合
一 全国大会、高野連主催
二 地方大会、高野連主催
三 都道府県大会、高野連主催
四 他県試合、高野連承認
五 学校長の責任。
第十八条 高校野球の試合入場料徴収
一 全国大会、学生野球協会の承認
二 地方大会、高野連の承認
三 県内試合にあっては、都道府県高野連承認
四 入場料徴収の収支決算提出義務
五 入場料使用の規定
第十九条 第四条第一項・第七条但し書及び第九条-第十四条遵守
附則
第二十条 非行に対する日本学生野球協会の権威
(2) その部長、監督、コーチ、選手又は部員の非行
(3) 部長、監督、コーチ、選手又は部員の野球に関しない個人の非行
(4) 学校法人の役員、若しくは、教職員、其他学校関係者の非行
第二十一条 応援団及びその団員の責任と非行
(2) 学生若しくは一般人の応援団、又はその団員の責任と非行
第二十二条 プロ野球との交渉
第二十三条 憲章の適用疑義
第二十四条 憲章の改正
(2)議決数
第二十五条 憲章施行年月日
まあ、だいたいこんなところか。
さて、上の(3)、(4)の「プロ野球選手指導」の問題は、第十条である。
「第十条 選手及び部員は、職業野球に所属する選手、監督、コーチ、審判員その他直接に職業野球の試合若しくは練習に関与している者又は関与したことがある者と試合若しくは練習を行ない、又はこれらの者からコーチ若しくは審判を受けることができない。但し、直接に職業野球の試合又は練習に関与したことがある者であっても、日本学生野球協会審査室においてその適性を認定された者については、この限りではない。
(2) 前項の規定は、職業野球のスカウトその他これに準ずる者についても、これを準用する。」
これは、前半の「選手及び部員は、職業野球に所属する選手、監督、コーチ、審判員その他直接に職業野球の試合若しくは練習に関与している者又は関与したことがある者と試合若しくは練習を行ない、又はこれらの者からコーチ若しくは審判を受けることができない。」で、プロ選手による指導を全面禁止しておきながら、後半の「但し、直接に職業野球の試合又は練習に関与したことがある者であっても、日本学生野球協会審査室においてその適性を認定された者については、この限りではない。 」でそれを覆している。
要するに、プロ指導者に対して、アマチュアの野球選手だった高野連のメンバーが指導者としての資質を判断するという傲慢さである。おそらく、私が昔エッセイを書いた頃、高野連は”但し書き”の部分を”付け足した”のだろう。だから、高野連には、この憲章を一貫性ある形で全面的に書き換える力はなさそうである。
次に、今回の事件で大問題となっているのは、第十三条、第十四条である。
「第十三条 選手又は部員は、いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由として支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受けることができない。但し、日本学生野球協会審査室は、本憲章の趣旨に背馳しない限り、日本オリンピック委員会から支給され又は貸与されるものにつき、これを承認することができる。
(2) 選手又は部員は、いかなる名義によるものであつても、職業野球団その他のものから、 これらとの入団、雇傭その他の契約により、又はその締結を条件として契約金、若しくはこれに準ずるものの前渡し、その他の金品の支給、若しくは貸与を受け、又はその他の利益を受けることができない。」
「第十四条 選手又は部員は、コーチ、審判その他これに準ずる行為をするに際し、これらに当然に必要な旅費、宿泊費、その他の経費以外の金品の支給、若しくは貸与を受け、利益を受けることができない。」
第十三条にある「選手又は部員は、いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由として支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受けることができない。」というのは、確かにその気分は理解できる。
これは、まだオリンピックも「アマチュアリズム全盛」という時代のなごりである。日本という国がまだ貧しく、大会や練習にもあまりお金がかからなかった時代の話である。その辺の空き地や学校のグランドで草野球の延長程度の野球をしていた時代のお話である。
その証拠に、野球はもはやオリンピック種目ではなくなるというのに、「但し、日本学生野球協会審査室は、本憲章の趣旨に背馳しない限り、日本オリンピック委員会から支給され又は貸与されるものにつき、これを承認することができる。」と但し書きが付いていて、オリンピックの権威にすりよっているあたりが”痛々しい”。
しかし、現在では、練習するにも、遠征にいくにも、何をするにも、お金がかかる。そして、学生野球憲章ができた昭和25年(1950年)1月22日とあまりに状況が違い過ぎているのである。それは、もう57年も前のことである。
どうやら、57年前から学生野球憲章は、ほとんど進化しなかったのだろう。以下のように、記録では、たった7回しか改定がない。うち、最初の2回は名前変えだけだから、実質的にはたった5回というところだろう。
昭和21年12月21日学生野球基準要項として制定
昭和25年1月22日学生野球憲章と改正
昭和38年2月11日改正
昭和40年2月6日改正
昭和46年2月13日改正
昭和53年2月22日改正
昭和54年7月12日改正
平成4年2月14日改正
というわけで、実質的な部分は、手付かずに57年前から変化してこなかったということだろう。
そろそろ、抜本的に「日本学生野球憲章」を”作り直す”(決して”書き直す”のではない)時期に来ていることは確かなようである。
「第十条 選手及び部員は、職業野球に所属する選手、監督、コーチ、審判員その他直接に職業野球の試合若しくは練習に関与している者又は関与したことがある者と試合若しくは練習を行ない、又はこれらの者からコーチ若しくは審判を受けることができない。但し、直接に職業野球の試合又は練習に関与したことがある者であっても、日本学生野球協会審査室においてその適性を認定された者については、この限りではない。
(2) 前項の規定は、職業野球のスカウトその他これに準ずる者についても、これを準用する。」
これは、前半の「選手及び部員は、職業野球に所属する選手、監督、コーチ、審判員その他直接に職業野球の試合若しくは練習に関与している者又は関与したことがある者と試合若しくは練習を行ない、又はこれらの者からコーチ若しくは審判を受けることができない。」で、プロ選手による指導を全面禁止しておきながら、後半の「但し、直接に職業野球の試合又は練習に関与したことがある者であっても、日本学生野球協会審査室においてその適性を認定された者については、この限りではない。 」でそれを覆している。
要するに、プロ指導者に対して、アマチュアの野球選手だった高野連のメンバーが指導者としての資質を判断するという傲慢さである。おそらく、私が昔エッセイを書いた頃、高野連は”但し書き”の部分を”付け足した”のだろう。だから、高野連には、この憲章を一貫性ある形で全面的に書き換える力はなさそうである。
次に、今回の事件で大問題となっているのは、第十三条、第十四条である。
「第十三条 選手又は部員は、いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由として支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受けることができない。但し、日本学生野球協会審査室は、本憲章の趣旨に背馳しない限り、日本オリンピック委員会から支給され又は貸与されるものにつき、これを承認することができる。
(2) 選手又は部員は、いかなる名義によるものであつても、職業野球団その他のものから、 これらとの入団、雇傭その他の契約により、又はその締結を条件として契約金、若しくはこれに準ずるものの前渡し、その他の金品の支給、若しくは貸与を受け、又はその他の利益を受けることができない。」
「第十四条 選手又は部員は、コーチ、審判その他これに準ずる行為をするに際し、これらに当然に必要な旅費、宿泊費、その他の経費以外の金品の支給、若しくは貸与を受け、利益を受けることができない。」
第十三条にある「選手又は部員は、いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由として支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受けることができない。」というのは、確かにその気分は理解できる。
これは、まだオリンピックも「アマチュアリズム全盛」という時代のなごりである。日本という国がまだ貧しく、大会や練習にもあまりお金がかからなかった時代の話である。その辺の空き地や学校のグランドで草野球の延長程度の野球をしていた時代のお話である。
その証拠に、野球はもはやオリンピック種目ではなくなるというのに、「但し、日本学生野球協会審査室は、本憲章の趣旨に背馳しない限り、日本オリンピック委員会から支給され又は貸与されるものにつき、これを承認することができる。」と但し書きが付いていて、オリンピックの権威にすりよっているあたりが”痛々しい”。
しかし、現在では、練習するにも、遠征にいくにも、何をするにも、お金がかかる。そして、学生野球憲章ができた昭和25年(1950年)1月22日とあまりに状況が違い過ぎているのである。それは、もう57年も前のことである。
どうやら、57年前から学生野球憲章は、ほとんど進化しなかったのだろう。以下のように、記録では、たった7回しか改定がない。うち、最初の2回は名前変えだけだから、実質的にはたった5回というところだろう。
昭和21年12月21日学生野球基準要項として制定
昭和25年1月22日学生野球憲章と改正
昭和38年2月11日改正
昭和40年2月6日改正
昭和46年2月13日改正
昭和53年2月22日改正
昭和54年7月12日改正
平成4年2月14日改正
というわけで、実質的な部分は、手付かずに57年前から変化してこなかったということだろう。
そろそろ、抜本的に「日本学生野球憲章」を”作り直す”(決して”書き直す”のではない)時期に来ていることは確かなようである。
ちなみに、どんな人物が高野連の会長になるのだろうか?
そこで調べてみると、現在は脇村春夫という人物である。以下にプロフィールがある。
[経歴]
昭和26年3月神奈川県立湘南高等学校卒業
昭和30年3月東京大学法学部卒業
昭和30年4月東洋紡績株式会社入社
平成5年6月同社専務取締役退任
平成7年6月新興産業株式会社取締役社長就任
平成10年6月同社取締役社長退任
平成17年9月大阪大学大学院経済学研究科博士課程修了
[球歴]
昭和24年8月第31回全国高等学校野球選手権大会に2年生3塁手として出場
初出場、初優勝
昭和27年4月東京大学3塁手として東京六大学リーグ戦に出場
昭和29年4月東京大学野球部主将を務める
昭和30年8月第26回都市対抗野球大会に富田東洋紡・3塁手で出場、準々決勝進出
翌年東洋紡岩国に移り、社会人野球通算3年プレイ
[職歴]
昭和30年4月 東洋紡株式会社入社
昭和61年7月 同社 取締役
平成元年6月 同社 常務取締役
平成 5年6月 同社 専務取締役
平成 7年6月 新興産業株式会社 社長
平成10年6月 同社 社長辞任
その他の役職 元谷口財団・常務理事
脇村奨学会理事長
元東京大学野球部OB会・一誠会・会長
東京大学野球部OB会・関西一誠会 会長
こんなふうに、やはり東大野球部出身ということで、どうも東大にこだわるようである。これは、日本サッカー協会が、サッカーの生え抜きの中でもやはり岡野俊一郎という東大出身者を協会長にしたのと同じ発想なのだろう。
東大派閥の官僚機構の下では、ちょっと前の文部省や現在の文部科学省のお役人とのパイプ役として同じ東大出身が”便利”であるというような極めて政治的な判断に基づくのだろう。
そこで調べてみると、現在は脇村春夫という人物である。以下にプロフィールがある。
[経歴]
昭和26年3月神奈川県立湘南高等学校卒業
昭和30年3月東京大学法学部卒業
昭和30年4月東洋紡績株式会社入社
平成5年6月同社専務取締役退任
平成7年6月新興産業株式会社取締役社長就任
平成10年6月同社取締役社長退任
平成17年9月大阪大学大学院経済学研究科博士課程修了
[球歴]
昭和24年8月第31回全国高等学校野球選手権大会に2年生3塁手として出場
初出場、初優勝
昭和27年4月東京大学3塁手として東京六大学リーグ戦に出場
昭和29年4月東京大学野球部主将を務める
昭和30年8月第26回都市対抗野球大会に富田東洋紡・3塁手で出場、準々決勝進出
翌年東洋紡岩国に移り、社会人野球通算3年プレイ
[職歴]
昭和30年4月 東洋紡株式会社入社
昭和61年7月 同社 取締役
平成元年6月 同社 常務取締役
平成 5年6月 同社 専務取締役
平成 7年6月 新興産業株式会社 社長
平成10年6月 同社 社長辞任
その他の役職 元谷口財団・常務理事
脇村奨学会理事長
元東京大学野球部OB会・一誠会・会長
東京大学野球部OB会・関西一誠会 会長
こんなふうに、やはり東大野球部出身ということで、どうも東大にこだわるようである。これは、日本サッカー協会が、サッカーの生え抜きの中でもやはり岡野俊一郎という東大出身者を協会長にしたのと同じ発想なのだろう。
東大派閥の官僚機構の下では、ちょっと前の文部省や現在の文部科学省のお役人とのパイプ役として同じ東大出身が”便利”であるというような極めて政治的な判断に基づくのだろう。
まあ、いずれにせよ、もはや高校野球は終わりだろう。
奨学金制度や特待生制度というような、貧乏な子せがれ達にとっての唯一のチャンスを封印してしまうわけだから、今後ますます「格差社会」に拍車がかかるだろう。
特待生をどんどんプロの下部組織で吸収して、貧困問題や南北問題を解決しようという、サッカーのFIFAのやり方やJリーグの理念とは対極に位置する発想である。サッカーでは、その才能を基にして教育を受ける権利があると考えるのである。第三世界や貧乏人の家庭に生まれてきても、サッカー一筋、サッカーさえ上手ければ貧困から脱出できる。そういう発想なのである。
今や世界のサッカーの平和外交官である王様ペレは、貧困家庭出身である。
ジダンもアルジェリア系のフランス移民という貧困家庭出身である。
ベッカムとてイングランドの中では、比較的貧しい家庭出身である。
マラドーナしかり、ロナウジーニョしかり。
このように、サッカーのお偉方の多くは貧困家庭出身で、サッカーだけがそこから脱出する手立てであったという人々なのである。だから、サッカー界は、金銭問題に対して真剣に立ち向かうのである。
サッカーの岡野氏もそうだが、高野連会長の脇村春夫氏にしてもそうだが、いつの時代も東大に進学する人というのは、恵まれた家庭の子である。今なら平均年収1000万を超えるような家庭の子息である。
こういう人々を組織の一番上につけることが良いことかどうか、言うまでもないだろう。
アメリカの大統領もリンカーンやクリントンなど貧困家庭の子がトップに付いた時に限り”賢政”が生じる。逆に、裕福な家庭出身者が上に付いた時、戦争モードに陥るものである。
これはどの時代でも真実であると思う。
野球だけが自分が貧困から抜け出すチャンスだと信じて練習に明け暮れている子供達にとって、特待生制度や奨学金制度を禁止するということがいかに馬鹿げたやり方か、我々大人は肝に命じるべきである。
今後10年で優秀な野球選手になるだろう子供達は全部サッカーに入ってくるだろう。
これは、我々サッカーマンには願ってもないことだが、野球人には可哀想なことである。まあ、バカな男をトップにすえた自分達の責任なのだろう。
いずれにせよ、プロ野球の協定違反問題と高校野球の奨学金問題はまったく別次元の問題なのである。そんなことも理解できないのだろうか、東大出身は。
やはり、文部科学省も東大も高野連も廃止しろ、という私の発想は正しいようですナ。百害あって一利無し、というのはこういうことだろうヨ。
奨学金制度や特待生制度というような、貧乏な子せがれ達にとっての唯一のチャンスを封印してしまうわけだから、今後ますます「格差社会」に拍車がかかるだろう。
特待生をどんどんプロの下部組織で吸収して、貧困問題や南北問題を解決しようという、サッカーのFIFAのやり方やJリーグの理念とは対極に位置する発想である。サッカーでは、その才能を基にして教育を受ける権利があると考えるのである。第三世界や貧乏人の家庭に生まれてきても、サッカー一筋、サッカーさえ上手ければ貧困から脱出できる。そういう発想なのである。
今や世界のサッカーの平和外交官である王様ペレは、貧困家庭出身である。
ジダンもアルジェリア系のフランス移民という貧困家庭出身である。
ベッカムとてイングランドの中では、比較的貧しい家庭出身である。
マラドーナしかり、ロナウジーニョしかり。
このように、サッカーのお偉方の多くは貧困家庭出身で、サッカーだけがそこから脱出する手立てであったという人々なのである。だから、サッカー界は、金銭問題に対して真剣に立ち向かうのである。
サッカーの岡野氏もそうだが、高野連会長の脇村春夫氏にしてもそうだが、いつの時代も東大に進学する人というのは、恵まれた家庭の子である。今なら平均年収1000万を超えるような家庭の子息である。
こういう人々を組織の一番上につけることが良いことかどうか、言うまでもないだろう。
アメリカの大統領もリンカーンやクリントンなど貧困家庭の子がトップに付いた時に限り”賢政”が生じる。逆に、裕福な家庭出身者が上に付いた時、戦争モードに陥るものである。
これはどの時代でも真実であると思う。
野球だけが自分が貧困から抜け出すチャンスだと信じて練習に明け暮れている子供達にとって、特待生制度や奨学金制度を禁止するということがいかに馬鹿げたやり方か、我々大人は肝に命じるべきである。
今後10年で優秀な野球選手になるだろう子供達は全部サッカーに入ってくるだろう。
これは、我々サッカーマンには願ってもないことだが、野球人には可哀想なことである。まあ、バカな男をトップにすえた自分達の責任なのだろう。
いずれにせよ、プロ野球の協定違反問題と高校野球の奨学金問題はまったく別次元の問題なのである。そんなことも理解できないのだろうか、東大出身は。
やはり、文部科学省も東大も高野連も廃止しろ、という私の発想は正しいようですナ。百害あって一利無し、というのはこういうことだろうヨ。
[ 11:56 ]
[ スポーツ ]
以下は3年ほど前に書いたものである。
【高野連はつぶそう!2:『微分評価』を知らない高野連 】
その昔(2年程前)私はかつてのBBSで以下のエッセイを書いておいた
『#1838 高野連はつぶそう! 2002/07/11』
また、それよりずっと以前には、徳島新聞に送った投書として以下のものも書いていた。
『連帯責任を押し付けるな』(1998年1月25日(日))
今朝の読売新聞の記事
『部員不祥事の済美、「警告処分が相当」高野連が上申へ』
によると、未だに高野連の人々は戦前からずっとある『積分評価』しか理解していないようで、困ったものである。ぜひ物事は『微分評価』で行うべきであろう。この概念を明確にしてくれた柘植俊一氏に私は感謝したい。
柘植さんのいう『微分評価』に関しては以下のエッセイを参照してもらうことにしよう。
『【283】 ホテル廃業とアメリカ軍イラク人捕虜虐待殺害問題:微分的評価と積分的評価の問題 』
いずれにせよ、高野連に足りないことは、次のようなことであろう。たとえば、ナンパ、喧嘩、暴力、しごき、など野球部で起ったどんな事件であれ、それに関わった人間とそうでない人間が必ずいるのである。一部の”ばか者”の”ルール無視”に対して、やってもいない者にまでその責任を負わせるということがどれほど馬鹿げているかということである。つまり、高野連はいつまでもお子ちゃまの”連帯責任”ごっこを続けている、ということである。
これがいかに馬鹿げているか、高野連の”おとぼけ”爺さんたちのために、ちょっと説明しておこう。もちろん説明するまでもなく自明であるはずだが。
高野連がやっていることは、サッカーで言えば、次のようなことにあたる。
ジュビロ磐田と鹿島アントラーズが今試合をしているとしよう。両者一進一退をくり返ている。これに負けると後がないアントラーズの選手たちはだんだん熱くなって来た。そこで激しくぶつかりチャージする。反則。しかしそれでも優勝候補の磐田は強い。とうとうフォワードの前田選手がキーパーと1対1となり、あわや失点の場面。そこで、アントラーズのキーパーが反則覚悟で相手を倒す。反則。キーパーはレッドカードで退場だ。ペナルティーキック。と選手も監督もコーチも観客もだれしもが思った。次の一瞬、高野連初の主審がいった。アントラーズは全員退場だ!この主審はアントラーズ全員、それも監督やコーチに対してもこういった。『こんな危険でぶざまな行為をするキーパーを出したチームは全員がレッドカードで退場だ。頭を冷やしてこい!』もはや試合続行不可能。ジュビロ磐田の”不戦勝勝ち”となってしまった。怒ったのはサポーターやファンや観客である。それもそのはず試合中の1プレーに対して全員を退場させてしまったわけだからだ。観客は主審めがけて怒涛のごとく雪崩れ込んで来た。観客は主審を取り囲み猛抗議。もはや試合どころの騒ぎではない。
これが高野連の”手口”であるが、こんなことはサッカーでは起こり得ない。サッカーでは危険な反則を犯した選手張本人がレッドカードで退場である。もちろん、チームには痛手である。しかし、これがルールである。一部の選手のために全員が連帯責任を取るということがまったくの間違いであるからである。
もちろん、これはプロ野球でもそうである。プロ野球でも審判を汚く罵ったり、暴力を振るった選手が即退場となる。がしかし、全員が退場となることはない。これは、どんなスポーツであれ同様である。
では、ここで逆に疑問が持ち上がる。なぜ高野連はいつも”連帯責任”を取らせようとするのだろうか?
この答は簡単である。高野連は高校野球をスポーツではないと考えているということである。言い換えれば、戦前から来る”学徒動員”の一種で、俗に言う『軍事教練』の一種と考えているということである。だから、戦前の日本陸軍の伝統に従って”連帯責任論”花盛りなのであろう。
しかし、ここに私は彼ら高野連の日本の歴史における”無知”を見る。
柘植さんが司馬史観について語ったように、そもそもなぜ日本陸軍が”連帯責任”を押し付けるようになったのかというと、それは次のような歴史であったということである。
日本陸軍は日露戦争におけるふがいない戦史の数々を残した。にもかかわらず、日本海軍がロシア艦隊をやっつけロシアに勝利したお蔭で、国民の目は日本軍が勝利したと美酒に酔った。この間に漁夫の利を得た日本陸軍は海軍との連帯責任のおこぼれを頂戴してだんだん自己肥大していった。つまり、日本軍のなかで最大の足でまといとなった陸軍はその責任を問われることがなかった。図に乗った陸軍は日露戦争史の事実を隠ぺいし、手製の日露戦争史を勝手にねつ造した。その挙句の果てに、海軍はアメリカと戦争しても勝てないと分っているのに、陸軍が威勢に乗って勝手に第2次世界大戦をひき起こしてしまったのである。
このように、日本陸軍は一方で同業者の間の”連帯責任”でおいしい思いをさせてもらい、方やもう一方で多くの善良なものどもを”連帯責任”で支配していったのである。
この”馬鹿げた伝統”が、単に大昔のお話であったというのではない。こういうことが21世紀の今でもある。これが高野連の”連帯責任論”につながっているのである。
若者に、間違った責任論(=”連帯責任”)を押し付けると、今度はそれを押し付けられたものがその『手口』を学んでしまう。そしてこれは連鎖反応となり、ずっと世代を超えて続いていく。したがって、これを断ち切るには、どこかでその伝統を切るほかはないのである。
このためにもっとも良い方法が高野連を潰すことなのである。日本を破滅に追い込んだ戦前の日本陸軍の”連帯責任”(=『積分評価』)は、即刻この日本社会から一掃すべきであろう。さもなくば、また戦前と同じことをくり返しかねないだろう。私はそう思うヨ。
【高野連はつぶそう!2:『微分評価』を知らない高野連 】
その昔(2年程前)私はかつてのBBSで以下のエッセイを書いておいた
『#1838 高野連はつぶそう! 2002/07/11』
また、それよりずっと以前には、徳島新聞に送った投書として以下のものも書いていた。
『連帯責任を押し付けるな』(1998年1月25日(日))
今朝の読売新聞の記事
『部員不祥事の済美、「警告処分が相当」高野連が上申へ』
によると、未だに高野連の人々は戦前からずっとある『積分評価』しか理解していないようで、困ったものである。ぜひ物事は『微分評価』で行うべきであろう。この概念を明確にしてくれた柘植俊一氏に私は感謝したい。
柘植さんのいう『微分評価』に関しては以下のエッセイを参照してもらうことにしよう。
『【283】 ホテル廃業とアメリカ軍イラク人捕虜虐待殺害問題:微分的評価と積分的評価の問題 』
いずれにせよ、高野連に足りないことは、次のようなことであろう。たとえば、ナンパ、喧嘩、暴力、しごき、など野球部で起ったどんな事件であれ、それに関わった人間とそうでない人間が必ずいるのである。一部の”ばか者”の”ルール無視”に対して、やってもいない者にまでその責任を負わせるということがどれほど馬鹿げているかということである。つまり、高野連はいつまでもお子ちゃまの”連帯責任”ごっこを続けている、ということである。
これがいかに馬鹿げているか、高野連の”おとぼけ”爺さんたちのために、ちょっと説明しておこう。もちろん説明するまでもなく自明であるはずだが。
高野連がやっていることは、サッカーで言えば、次のようなことにあたる。
ジュビロ磐田と鹿島アントラーズが今試合をしているとしよう。両者一進一退をくり返ている。これに負けると後がないアントラーズの選手たちはだんだん熱くなって来た。そこで激しくぶつかりチャージする。反則。しかしそれでも優勝候補の磐田は強い。とうとうフォワードの前田選手がキーパーと1対1となり、あわや失点の場面。そこで、アントラーズのキーパーが反則覚悟で相手を倒す。反則。キーパーはレッドカードで退場だ。ペナルティーキック。と選手も監督もコーチも観客もだれしもが思った。次の一瞬、高野連初の主審がいった。アントラーズは全員退場だ!この主審はアントラーズ全員、それも監督やコーチに対してもこういった。『こんな危険でぶざまな行為をするキーパーを出したチームは全員がレッドカードで退場だ。頭を冷やしてこい!』もはや試合続行不可能。ジュビロ磐田の”不戦勝勝ち”となってしまった。怒ったのはサポーターやファンや観客である。それもそのはず試合中の1プレーに対して全員を退場させてしまったわけだからだ。観客は主審めがけて怒涛のごとく雪崩れ込んで来た。観客は主審を取り囲み猛抗議。もはや試合どころの騒ぎではない。
これが高野連の”手口”であるが、こんなことはサッカーでは起こり得ない。サッカーでは危険な反則を犯した選手張本人がレッドカードで退場である。もちろん、チームには痛手である。しかし、これがルールである。一部の選手のために全員が連帯責任を取るということがまったくの間違いであるからである。
もちろん、これはプロ野球でもそうである。プロ野球でも審判を汚く罵ったり、暴力を振るった選手が即退場となる。がしかし、全員が退場となることはない。これは、どんなスポーツであれ同様である。
では、ここで逆に疑問が持ち上がる。なぜ高野連はいつも”連帯責任”を取らせようとするのだろうか?
この答は簡単である。高野連は高校野球をスポーツではないと考えているということである。言い換えれば、戦前から来る”学徒動員”の一種で、俗に言う『軍事教練』の一種と考えているということである。だから、戦前の日本陸軍の伝統に従って”連帯責任論”花盛りなのであろう。
しかし、ここに私は彼ら高野連の日本の歴史における”無知”を見る。
柘植さんが司馬史観について語ったように、そもそもなぜ日本陸軍が”連帯責任”を押し付けるようになったのかというと、それは次のような歴史であったということである。
日本陸軍は日露戦争におけるふがいない戦史の数々を残した。にもかかわらず、日本海軍がロシア艦隊をやっつけロシアに勝利したお蔭で、国民の目は日本軍が勝利したと美酒に酔った。この間に漁夫の利を得た日本陸軍は海軍との連帯責任のおこぼれを頂戴してだんだん自己肥大していった。つまり、日本軍のなかで最大の足でまといとなった陸軍はその責任を問われることがなかった。図に乗った陸軍は日露戦争史の事実を隠ぺいし、手製の日露戦争史を勝手にねつ造した。その挙句の果てに、海軍はアメリカと戦争しても勝てないと分っているのに、陸軍が威勢に乗って勝手に第2次世界大戦をひき起こしてしまったのである。
このように、日本陸軍は一方で同業者の間の”連帯責任”でおいしい思いをさせてもらい、方やもう一方で多くの善良なものどもを”連帯責任”で支配していったのである。
この”馬鹿げた伝統”が、単に大昔のお話であったというのではない。こういうことが21世紀の今でもある。これが高野連の”連帯責任論”につながっているのである。
若者に、間違った責任論(=”連帯責任”)を押し付けると、今度はそれを押し付けられたものがその『手口』を学んでしまう。そしてこれは連鎖反応となり、ずっと世代を超えて続いていく。したがって、これを断ち切るには、どこかでその伝統を切るほかはないのである。
このためにもっとも良い方法が高野連を潰すことなのである。日本を破滅に追い込んだ戦前の日本陸軍の”連帯責任”(=『積分評価』)は、即刻この日本社会から一掃すべきであろう。さもなくば、また戦前と同じことをくり返しかねないだろう。私はそう思うヨ。
[ 11:49 ]
[ スポーツ ]
以下は3年ほど前に書いたものである。
【大学プロ指導解禁】
今朝のニュース
「プロ野球OB、大学の監督就任OK 学生協会が解禁方針」
によると、やっと日本の大学野球にも、条件付きで、「プロ指導」解禁の波が届いたようである。
これは、しばらく前に
「高野連、プロ指導解禁へ!」
に書いた、高校野球のプロ解禁の流れに沿う、大学版である。
これにより、事実上、日本の野球も高校から大学までは、元プロ野球選手が指導してもよろしいということになった。これは、限られた範囲の改革ではあっても、実に素晴らしいことである。こういう指導体制の下で、野茂選手やイチロー選手のような将来の大リーガーやプロ野球選手が育っていくことであろう。
こういった話題に関して、私が2年前に
「#1838 高野連はつぶそう!2002/07/11」
に書いて以来、徐々にではあるが、効果が出て来て、一応の成果に結びついたと言えるだろう。
だがしかし、と私はいいたい。実はもっと大事なのは、高校や大学よりも、小学校、中学校レベルでの指導である。私は小学校、中二まで本格的に野球部に入ってやっていたが、実はこの時期の練習がその後の90%を決めてしまうのである。
どういうことかというと、高校野球、大学野球というのは、中学までの野球選手たちの中から一番優れた選手を対象に練習して甲子園出場しているということである。いわば、中学生の”上澄み”をすくってやっているのである。そのため、実際には選手の素質や癖や野球への考え方や取り組み方というものは、この中学生までにだいたい出来てしまっているのである。第二次成長期が終りかけるのも日本人の場合この中学の間で、この時期に選手は急激な肉体的変化を遂げる。このもっとも重要な時期にプレースタイルやポジションなども体の成長に合わせてどんどん変化し得るのである。
一般に私の見て来たところでは、スイングの仕方、キャッチの仕方、スローイングの仕方などすべてはこの時期にだいたい決まるのである。この時期に身につけた癖はなかなか取れない。したがって、この時期につけた良い癖は役に立つが、悪い癖は選手のその後の成長を決定付けてしまうのである。
このような意味で、中学までの野球指導程、元プロ野球選手のコーチが必要である、と私は考えるのである。日本のプロ野球どころか、アメリカの大リーグの監督やマイナーリーグの監督でも良いかもしれない。(しかし、大リーグの監督は日本の安月給では来てくれないだろうが。)
こういう理由から、大学野球や高野連ばかりか、中学野球、小学校野球まで、基本的には、自由にプロ選手の指導を受けられるようにすべきである。(もちろん、ここではリトルリーグは除外し学校野球のことをいっている。基本的に野村監督が自分のリトルリーグを持っているように、リトルリーグでは中学生までプロ選手が自由に指導できるからである。)また、こうした方向が、プロ選手引退後に職を失い、若くして働く場を持てず、調子を崩し、自殺してしまう、というようなケースを阻止することにもつながるだろう。元ヤクルトの優勝投手の高野選手の自殺を見れば、高野連や大学連の取り組みは遅きにすぎたという面もあるが、高野選手のような一流選手の悲劇をくり返さないですむ可能性がでてきたとは言えるだろう。
最後に、再びドウンガの言葉を添えておこう。
「日本人は間違いを見つけてもなかなか変えようとしないところがある。私はどうしてもこのことが我慢できない。」
【大学プロ指導解禁】
今朝のニュース
「プロ野球OB、大学の監督就任OK 学生協会が解禁方針」
によると、やっと日本の大学野球にも、条件付きで、「プロ指導」解禁の波が届いたようである。
これは、しばらく前に
「高野連、プロ指導解禁へ!」
に書いた、高校野球のプロ解禁の流れに沿う、大学版である。
これにより、事実上、日本の野球も高校から大学までは、元プロ野球選手が指導してもよろしいということになった。これは、限られた範囲の改革ではあっても、実に素晴らしいことである。こういう指導体制の下で、野茂選手やイチロー選手のような将来の大リーガーやプロ野球選手が育っていくことであろう。
こういった話題に関して、私が2年前に
「#1838 高野連はつぶそう!2002/07/11」
に書いて以来、徐々にではあるが、効果が出て来て、一応の成果に結びついたと言えるだろう。
だがしかし、と私はいいたい。実はもっと大事なのは、高校や大学よりも、小学校、中学校レベルでの指導である。私は小学校、中二まで本格的に野球部に入ってやっていたが、実はこの時期の練習がその後の90%を決めてしまうのである。
どういうことかというと、高校野球、大学野球というのは、中学までの野球選手たちの中から一番優れた選手を対象に練習して甲子園出場しているということである。いわば、中学生の”上澄み”をすくってやっているのである。そのため、実際には選手の素質や癖や野球への考え方や取り組み方というものは、この中学生までにだいたい出来てしまっているのである。第二次成長期が終りかけるのも日本人の場合この中学の間で、この時期に選手は急激な肉体的変化を遂げる。このもっとも重要な時期にプレースタイルやポジションなども体の成長に合わせてどんどん変化し得るのである。
一般に私の見て来たところでは、スイングの仕方、キャッチの仕方、スローイングの仕方などすべてはこの時期にだいたい決まるのである。この時期に身につけた癖はなかなか取れない。したがって、この時期につけた良い癖は役に立つが、悪い癖は選手のその後の成長を決定付けてしまうのである。
このような意味で、中学までの野球指導程、元プロ野球選手のコーチが必要である、と私は考えるのである。日本のプロ野球どころか、アメリカの大リーグの監督やマイナーリーグの監督でも良いかもしれない。(しかし、大リーグの監督は日本の安月給では来てくれないだろうが。)
こういう理由から、大学野球や高野連ばかりか、中学野球、小学校野球まで、基本的には、自由にプロ選手の指導を受けられるようにすべきである。(もちろん、ここではリトルリーグは除外し学校野球のことをいっている。基本的に野村監督が自分のリトルリーグを持っているように、リトルリーグでは中学生までプロ選手が自由に指導できるからである。)また、こうした方向が、プロ選手引退後に職を失い、若くして働く場を持てず、調子を崩し、自殺してしまう、というようなケースを阻止することにもつながるだろう。元ヤクルトの優勝投手の高野選手の自殺を見れば、高野連や大学連の取り組みは遅きにすぎたという面もあるが、高野選手のような一流選手の悲劇をくり返さないですむ可能性がでてきたとは言えるだろう。
最後に、再びドウンガの言葉を添えておこう。
「日本人は間違いを見つけてもなかなか変えようとしないところがある。私はどうしてもこのことが我慢できない。」
[ 11:37 ]
[ スポーツ ]
以下は3年ほど前に書いたものである。
【高野連、プロ指導解禁へ!】
今朝のニュース
「今秋にも指導解禁へ プロと高野連が覚書を締結」
によると、やっと日本の高校野球にも、条件付きで、「プロ指導」解禁の波が届いたようである。その条件は、高校がある特定の球団の下請け(マイナー=プロ養成校)にならないようにということで、
(1)高校生にドラフトの自由枠はない。
(2)ドラフト制度改革は高野連に最初に知らせる。
(3)プロアマの健全な関係を阻害しない。
の3つである。
実は、この話題は2年程前に私は昔書いたことがある。
「高野連はつぶそう!2002/07/11」
ここでは、プロ選手のトレーニング法がいかに優れたものであるか、ということと、プロ指導を禁止してきた高野連がいかにダメ組織であるか、ということを強調したのだが、さすがの高野連もこの時代の趨勢に抗することができなくなったのだろう。
最後に、ブラジルサッカーのドウンガの言葉を添えておくことにしよう。
「日本人は間違いを見つけてもなかなか変えようとしないところがある。私はどうしてもこのことが我慢できない。」
【高野連、プロ指導解禁へ!】
今朝のニュース
「今秋にも指導解禁へ プロと高野連が覚書を締結」
によると、やっと日本の高校野球にも、条件付きで、「プロ指導」解禁の波が届いたようである。その条件は、高校がある特定の球団の下請け(マイナー=プロ養成校)にならないようにということで、
(1)高校生にドラフトの自由枠はない。
(2)ドラフト制度改革は高野連に最初に知らせる。
(3)プロアマの健全な関係を阻害しない。
の3つである。
実は、この話題は2年程前に私は昔書いたことがある。
「高野連はつぶそう!2002/07/11」
ここでは、プロ選手のトレーニング法がいかに優れたものであるか、ということと、プロ指導を禁止してきた高野連がいかにダメ組織であるか、ということを強調したのだが、さすがの高野連もこの時代の趨勢に抗することができなくなったのだろう。
最後に、ブラジルサッカーのドウンガの言葉を添えておくことにしよう。
「日本人は間違いを見つけてもなかなか変えようとしないところがある。私はどうしてもこのことが我慢できない。」
[ 11:13 ]
[ スポーツ ]
以下は、今から5年ほど前、私の昔の掲示板に書いたものである。
【高野連はつぶそう!】2002/07/11 04:19
いやはや、読売新聞によると、以下のような記事があった。
「高野連、瀬戸内高監督ら謹慎処分…元米選手から指導
日本高校野球連盟は10日、元米大リーグ選手から技術指導を
受けたとして、瀬戸内(広島)の後原富監督、松永俊男部長の謹慎
処分を決めた。16日開幕の全国高校野球選手権広島大会には、
代理の監督、部長を立てるよう指導した。日本高野連によると、
知人の紹介で6月28日、来日中のウエス・ストック氏から部員
98人が技術指導を受けた。瀬戸内は一昨年夏、甲子園に出場して
いる。 (7月11日00:14)」
私は、中学2年までは野球部にいて、本格的に野球をやっていたん
だ。今からおよそ30年前くらいの話し。その頃、私の父の友人に
その昔甲府商業の4番ピッチャーで甲子園へ行って、その後プロ
野球選手にまでになった人がいた。身体はそれほど大きくなかった
選手だったので、故障しすぐにプロは止めて地元に帰っていた。
私はその人に個人レッスンを受けていた。仕事の関係で私の家に
来ると、いつも私がバッティング指導を受けた。これは今でも
私の身体に刻み込まれていて、バッティングセンター140kmの
一番早いボールでも今でも打つことができる。
この人がなぜうまくなったかというと、この人が甲府商業の野球部
の選手だった頃、まったく同じように、当時プロへ行っていた選手
が、たまたまほんの2、3回だけ来て、野球の練習の仕方を教えて
くれたらしい。それは非常に初歩的なことで、バッティングの
スウィングの仕方、肩の作り方(遠投)など。そして、とにかく
遠くへ投げられること、遠くへ打つこと、基礎体力育成法など
を教えてくれたらしい。
ところが、そのたった2、3回の練習が高野連にばれて問題にな
り、今回の上の記事のように、1年間出場停止処分になった。
そこで、1年間試合にも出られないし、他にやることもなかった
ので、言われた練習だけはみんなできっちりと続けたらしい。
その結果、校舎の反対側から打っても校舎の窓ガラスを割る程、
打てるようになったとか。
そして、1年後に試合解禁になると、今度は連戦連勝で、あれよと
言う間に甲子園初出場を果たしたというわけだ。
この話は、だから、私を指導してくれた人が高校生の時のことだか
ら、今から40年以上も前の話だ。この人の伝統が甲府商業に
残り、その後、堀内恒夫投手という大選手が育ったわけだ。巨人
の18番。永遠の大投手。この堀内の顔とサッカーの中田の顔
たいへん似てるだろ。
ここで、大事なことは、アマチュアレベルとプロレベルでは指導
内容に格段の差があるということ。だから、むしろ、プロ選手の
指導を受けられるように自由化すべき時代であるということだ。
サッカーはJ-リーグができて、もうこの問題は決着し、どの年齢
でもプロの指導を受けられるような指導体制が整ったわけだ。
その結果、今回のワールドカップの成功にまでつながった。
一方、野球では、未だにこのプロアマの問題が燻っていて、アマ
の高野連とプロ野球の間に一貫した指導体制が生まれていない。
ところが、こっちのアメリカではすでにプロがどんどんメジャー
リーグベースボールの育成法をビデオ教材にして売っているわけ
だ。だから、小学生でもどんどんサミーソーサ選手のような
素振りをしている。これを大リーガー打法って呼んでいる。
日本の高校野球のようなバットを短く持ってダウンスウィングする
っていうイチロースウィングではない。だから、しかるべき年齢
になると、大選手がどんどん生まれてくるというわけだ。
このことからも、いかに高野連なる代物が、馬鹿げた化石的遺物
か分るだろう。40年以上も前から延々と同じような発想で同じ
ようなことを言って来て、同じようなことをやってきているから
だ。もうそろそろそういう非常に馬鹿げたことを止めないといけ
ないだろうな。こういうのをリディキュラスな事と言うようだ。
大リーガーに指導してもらうこと、大いに結構。プロ選手に指導
を付けてもらうこと大いに結構。こういう発想にならないとだめだ。
なぜなら、プロの指導の方がより科学的に正しい育成法をしている
からだ。さらには、高校までのスポーツ指導をプロが行う道を
作ることになり、アマチュアの高校の先生が休日返上して、
苦労してまでクラブ指導しなくても良いからだ。正直、いくら
良い先生で熱血指導してくれても、アマチュアの指導ほど百害あっ
て一利なしのものはない。実際には、えらい迷惑な話なわけだ。
まあ、それでもないよりはましっていうことで、多少はうまくなるが
プロから見ればまったくでたらめ。あとで大変困ったことになる
わけだ。全部やり直しになるが、一度ついた悪い癖は直らない。
(もちろん、理科教育もまったく同じこと。高校までの学校のアマ
チュア先生の指導では、生徒はえらい迷惑しているっていうこと
を忘れてはいけない。まずはその道のプロの指導を受けること。
さもなくば、左巻きのだんなの検定外教科書のように、どうみても
新興宗教の勧誘書のようなことになりかねないからね。科学の
「問い」は物事に対するものであって、人へのものではないはず
なんだがね。例えば、科学とは何か?って問うベきで、科学とは
何だとあなたは思いますか?と問うべきではない。)
しかし、どうも高野連は昔の文部官僚の天下り先感覚が抜けない
ようで、あたかも自分達がお偉いさんにでもなったかのように
変な錯覚をしているように見える。所詮は官僚の天下り組織の域
を出ていないのだろう。
まあ、そういうわけで、高野連はそろそろ文部省と一緒に廃止
した方が日本国民のためになるようですな。もちろん、東大も
いっしょにね。
いやはや、日本の常識は世界の非常識。ひでーなこりゃー。
【高野連はつぶそう!】2002/07/11 04:19
いやはや、読売新聞によると、以下のような記事があった。
「高野連、瀬戸内高監督ら謹慎処分…元米選手から指導
日本高校野球連盟は10日、元米大リーグ選手から技術指導を
受けたとして、瀬戸内(広島)の後原富監督、松永俊男部長の謹慎
処分を決めた。16日開幕の全国高校野球選手権広島大会には、
代理の監督、部長を立てるよう指導した。日本高野連によると、
知人の紹介で6月28日、来日中のウエス・ストック氏から部員
98人が技術指導を受けた。瀬戸内は一昨年夏、甲子園に出場して
いる。 (7月11日00:14)」
私は、中学2年までは野球部にいて、本格的に野球をやっていたん
だ。今からおよそ30年前くらいの話し。その頃、私の父の友人に
その昔甲府商業の4番ピッチャーで甲子園へ行って、その後プロ
野球選手にまでになった人がいた。身体はそれほど大きくなかった
選手だったので、故障しすぐにプロは止めて地元に帰っていた。
私はその人に個人レッスンを受けていた。仕事の関係で私の家に
来ると、いつも私がバッティング指導を受けた。これは今でも
私の身体に刻み込まれていて、バッティングセンター140kmの
一番早いボールでも今でも打つことができる。
この人がなぜうまくなったかというと、この人が甲府商業の野球部
の選手だった頃、まったく同じように、当時プロへ行っていた選手
が、たまたまほんの2、3回だけ来て、野球の練習の仕方を教えて
くれたらしい。それは非常に初歩的なことで、バッティングの
スウィングの仕方、肩の作り方(遠投)など。そして、とにかく
遠くへ投げられること、遠くへ打つこと、基礎体力育成法など
を教えてくれたらしい。
ところが、そのたった2、3回の練習が高野連にばれて問題にな
り、今回の上の記事のように、1年間出場停止処分になった。
そこで、1年間試合にも出られないし、他にやることもなかった
ので、言われた練習だけはみんなできっちりと続けたらしい。
その結果、校舎の反対側から打っても校舎の窓ガラスを割る程、
打てるようになったとか。
そして、1年後に試合解禁になると、今度は連戦連勝で、あれよと
言う間に甲子園初出場を果たしたというわけだ。
この話は、だから、私を指導してくれた人が高校生の時のことだか
ら、今から40年以上も前の話だ。この人の伝統が甲府商業に
残り、その後、堀内恒夫投手という大選手が育ったわけだ。巨人
の18番。永遠の大投手。この堀内の顔とサッカーの中田の顔
たいへん似てるだろ。
ここで、大事なことは、アマチュアレベルとプロレベルでは指導
内容に格段の差があるということ。だから、むしろ、プロ選手の
指導を受けられるように自由化すべき時代であるということだ。
サッカーはJ-リーグができて、もうこの問題は決着し、どの年齢
でもプロの指導を受けられるような指導体制が整ったわけだ。
その結果、今回のワールドカップの成功にまでつながった。
一方、野球では、未だにこのプロアマの問題が燻っていて、アマ
の高野連とプロ野球の間に一貫した指導体制が生まれていない。
ところが、こっちのアメリカではすでにプロがどんどんメジャー
リーグベースボールの育成法をビデオ教材にして売っているわけ
だ。だから、小学生でもどんどんサミーソーサ選手のような
素振りをしている。これを大リーガー打法って呼んでいる。
日本の高校野球のようなバットを短く持ってダウンスウィングする
っていうイチロースウィングではない。だから、しかるべき年齢
になると、大選手がどんどん生まれてくるというわけだ。
このことからも、いかに高野連なる代物が、馬鹿げた化石的遺物
か分るだろう。40年以上も前から延々と同じような発想で同じ
ようなことを言って来て、同じようなことをやってきているから
だ。もうそろそろそういう非常に馬鹿げたことを止めないといけ
ないだろうな。こういうのをリディキュラスな事と言うようだ。
大リーガーに指導してもらうこと、大いに結構。プロ選手に指導
を付けてもらうこと大いに結構。こういう発想にならないとだめだ。
なぜなら、プロの指導の方がより科学的に正しい育成法をしている
からだ。さらには、高校までのスポーツ指導をプロが行う道を
作ることになり、アマチュアの高校の先生が休日返上して、
苦労してまでクラブ指導しなくても良いからだ。正直、いくら
良い先生で熱血指導してくれても、アマチュアの指導ほど百害あっ
て一利なしのものはない。実際には、えらい迷惑な話なわけだ。
まあ、それでもないよりはましっていうことで、多少はうまくなるが
プロから見ればまったくでたらめ。あとで大変困ったことになる
わけだ。全部やり直しになるが、一度ついた悪い癖は直らない。
(もちろん、理科教育もまったく同じこと。高校までの学校のアマ
チュア先生の指導では、生徒はえらい迷惑しているっていうこと
を忘れてはいけない。まずはその道のプロの指導を受けること。
さもなくば、左巻きのだんなの検定外教科書のように、どうみても
新興宗教の勧誘書のようなことになりかねないからね。科学の
「問い」は物事に対するものであって、人へのものではないはず
なんだがね。例えば、科学とは何か?って問うベきで、科学とは
何だとあなたは思いますか?と問うべきではない。)
しかし、どうも高野連は昔の文部官僚の天下り先感覚が抜けない
ようで、あたかも自分達がお偉いさんにでもなったかのように
変な錯覚をしているように見える。所詮は官僚の天下り組織の域
を出ていないのだろう。
まあ、そういうわけで、高野連はそろそろ文部省と一緒に廃止
した方が日本国民のためになるようですな。もちろん、東大も
いっしょにね。
いやはや、日本の常識は世界の非常識。ひでーなこりゃー。
2007/04/24のBlog
[ 18:52 ]
[ 政治・経済 ]
経産相、東洋町長選の敗因「有権者の誤解」
いやー、甘利経済産業相のおつむは大丈夫かい?
「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を高知県の東洋町に持ってくることに対してこういったという。
「(有権者が)誤解をしたまま賛否が諮られると、当然こういう結果が出る」
「(処分場は)保管施設で、安全性は120%確保されている」
「処分場が危険という誤解、処分場がなくても生活を維持できるという誤解は、解いてもらわないといけない」
いやはや、ここまで物事の理解ができないというのも珍しい。
”東洋町”に「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を持ってくることは、他の”普通の場所”へそれを持ってくることとは異なる。
日本の地震研究の”権威”機関である地震研究所が公表した「地震発生確率 」を見れば、”自明”であろう。
静岡=86.5%
東南海地震=64%(前年62%)
南海地震=53%(前年50%)
高知=52.3%(前年50.1%)
名古屋=37.1%(前年36.5%)
和歌山=34.1%(前年33.2%)
これを見ても分かるように、高知県に巨大地震が起こる確率は、全国第4位である。 しかも、日に日にこの確率は高まるばかりという状況なのである。高知県の中でも”東洋町”は特に震源地に近い場所なのである。
そんな場所に原子力発電所どころか、「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を持ってくるというのは正気の沙汰ではない。だれが考えてもそうであろう。
甘利のだんなはこれが理解できないのだろうか?
私が主張しているのは、「”東洋町”はだめだ」、「”東洋町”は高レベル放射性廃棄物最終処分場に適さない」ということであって、「高レベル放射性廃棄物最終処分場」がだめだという意味ではない。
同様に、地震確率の際立って高い地方は絶対に止めるべきである。確率から言えば、”東洋町”よりまだ”東京”に作った方がましである。
しかも、「水床トンネルを超えるとそこは東洋町だった。 」に紹介したように、”東洋町”はお遍路さんの通り道なのである。世界中、日本全国からやってきた人々がこの”東洋町”を必ず通るのである。
こんな場所に「高レベル放射性廃棄物最終処分場」があれば、どうなるだろうか? 何か事故が起これば、四国の「お遍路さん文化」も終わりである。国は、世界遺産の登録申請しているわけだから、論理的につじつまが合わない。
さて、ではどんな場所なら良いのだろうか?
(あ)まず、地震確率の極めて低い場所。
(い)次に、高レベル核廃棄物を安全に輸送できる場所。
(う)そして、すでに地中深くに施設があるような場所。
(え)農業や漁業など既存の産業に影響を与えない場所。
ということになるだろう。
やはりこうなると、硫黄島とか、離れ小島のような場所、あるいは、飛騨高山のような鉱山があった場所ということになるだろう。一番良いのは、東京の”夢の島”だろう。東京都民の出す”ゴミ”といっしょに”核のゴミ”も廃棄処分にしてもらいたいものである。
参考:
「ジョークのような現実の話2:風前の灯の東洋町? 」
「水床トンネルを超えるとそこは東洋町だった。 」
「東洋町のジレンマ:南海大地震か被爆か? 」
いやー、甘利経済産業相のおつむは大丈夫かい?
「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を高知県の東洋町に持ってくることに対してこういったという。
「(有権者が)誤解をしたまま賛否が諮られると、当然こういう結果が出る」
「(処分場は)保管施設で、安全性は120%確保されている」
「処分場が危険という誤解、処分場がなくても生活を維持できるという誤解は、解いてもらわないといけない」
いやはや、ここまで物事の理解ができないというのも珍しい。
”東洋町”に「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を持ってくることは、他の”普通の場所”へそれを持ってくることとは異なる。
日本の地震研究の”権威”機関である地震研究所が公表した「地震発生確率 」を見れば、”自明”であろう。
静岡=86.5%
東南海地震=64%(前年62%)
南海地震=53%(前年50%)
高知=52.3%(前年50.1%)
名古屋=37.1%(前年36.5%)
和歌山=34.1%(前年33.2%)
これを見ても分かるように、高知県に巨大地震が起こる確率は、全国第4位である。 しかも、日に日にこの確率は高まるばかりという状況なのである。高知県の中でも”東洋町”は特に震源地に近い場所なのである。
そんな場所に原子力発電所どころか、「高レベル放射性廃棄物最終処分場」を持ってくるというのは正気の沙汰ではない。だれが考えてもそうであろう。
甘利のだんなはこれが理解できないのだろうか?
私が主張しているのは、「”東洋町”はだめだ」、「”東洋町”は高レベル放射性廃棄物最終処分場に適さない」ということであって、「高レベル放射性廃棄物最終処分場」がだめだという意味ではない。
同様に、地震確率の際立って高い地方は絶対に止めるべきである。確率から言えば、”東洋町”よりまだ”東京”に作った方がましである。
しかも、「水床トンネルを超えるとそこは東洋町だった。 」に紹介したように、”東洋町”はお遍路さんの通り道なのである。世界中、日本全国からやってきた人々がこの”東洋町”を必ず通るのである。
こんな場所に「高レベル放射性廃棄物最終処分場」があれば、どうなるだろうか? 何か事故が起これば、四国の「お遍路さん文化」も終わりである。国は、世界遺産の登録申請しているわけだから、論理的につじつまが合わない。
さて、ではどんな場所なら良いのだろうか?
(あ)まず、地震確率の極めて低い場所。
(い)次に、高レベル核廃棄物を安全に輸送できる場所。
(う)そして、すでに地中深くに施設があるような場所。
(え)農業や漁業など既存の産業に影響を与えない場所。
ということになるだろう。
やはりこうなると、硫黄島とか、離れ小島のような場所、あるいは、飛騨高山のような鉱山があった場所ということになるだろう。一番良いのは、東京の”夢の島”だろう。東京都民の出す”ゴミ”といっしょに”核のゴミ”も廃棄処分にしてもらいたいものである。
参考:
「ジョークのような現実の話2:風前の灯の東洋町? 」
「水床トンネルを超えるとそこは東洋町だった。 」
「東洋町のジレンマ:南海大地震か被爆か? 」
[ 11:00 ]
[ 大学・大学院 ]
「「J・S・ケーラー博士追悼」記事 」の中にいくつか興味深いところがあるので、そこを補足しておこう。
【Frederick Seitz先生】
「Frederick Seitz先生」は、ノーベル賞学者のユージン・ウィグナー博士の弟子で「ウィグナー- ザイツセル」の創始者であり、ザイツの固体物理の教科書(The Modern Theory of Solids)の著者として有名である。その他、ザイツーターンブルのシリーズと呼ばれる固体物理の論文集の編纂でつとに有名なノーベル賞級の学者である。
ジェームズ・S・ケーラー博士は、そのザイツ博士の学生ということになる。
【橋口隆吉先生】
「もう一つは堂山の恩師の橋口隆吉先生」とあるように、この文の著者の堂山昌男博士の師は、橋口隆吉博士である。
この橋口隆吉博士こそ、しばらく前に「”格さん(かくさん)”死去:日本の分子生物学の父 」で紹介した「科学と私」の講演者メンバーであった橋口隆吉博士のことである。
【アメリカの大学院制度】
アメリカの大学院制度については、最近ではいろんなホームページで紹介されるようになってきている。たとえば、日米教育委員会の「アメリカ高等教育の基礎知識」参照。
この中にその”アメリカの大学院生の特徴”として以下のものがあげられている。
(1)約半数がパートタイムの学生。パートタイムの学生:50.7%(修士課程59.1%、博士課程36.0%)
(2)女性の割合が多い。女性:58.1%(修士課程59.8%、博士課程36.0%)
(3)年齢層の幅が広く、平均年齢が高い。
平均年齢:32.5歳
25歳以下の割合:19.2%
40歳以上の割合:22.2%
(4)日本と比較して既婚率が高く、扶養家族がいる割合が高い。
既婚者:43.1%
扶養家族有:33.6%
(5)働きながら大学院に通う学生が多い(但し、on-campus での仕事も含む)。
有職率:81.1% (修士課程86%、博士課程82.5%)
このように、一言で言えば、アメリカの場合、大学院制度は、1つの職業のようなものである。大学院に入学するというのは1つの職業に就職したようなものと言えるのである。ここが日本の学歴社会とは根本的に異なる点である。
【Ph. D. Qualifying examination】
さて、堂山昌男博士の記事に以下の部分がある。
” イリノイ大学物理学科のPh. D. Qualifying examinationは厳しい。2度落ちると、追放である。我々の時代には毎年物理の大学院に100名くらい入って来るのだが、そのほとんどがPh. D.を目指す人ばかりだ。それらで博士号がもらえるのは15-16名であった。その残りは修士をもらって外にでなければならない。アメリカでは責任ある研究は博士号がないとやらせてもらえないと言っても過言ではなかろう。私の受験のときには、Koehler教授に呼ばれて、大きな教室で、2人で黒板の左右に分かれて過去問を解かされた。あの忙しい大先生も一緒に解いてくれたのには恐れ多かった。”
この中に記述されている部分に”対応”するところが、上の「アメリカ高等教育の基礎知識」の中にある、次の部分である。
「先にも述べたとおりアメリカではプログラムにより、大学の学部課程を修了後、修士課程を経ず、直接博士課程に出願することが可能です。博士課程に入学した学生は、定められた量(通常35年間)のコースワークや研究を修了後、学生の総合的な学力や専門知識・研究能力を審査する為の試験(comprehensive examination、または、qualifying examination)を受験します。この試験に合格して初めて博士号の候補生(doctoral candidate)となることができ、その後、博士論文(dissertation)執筆の為の研究にとりかかります。これらのプログラムでは、一定数の単位を取得した時点で、修士号を取得する場合とそうでない場合があります。 」
この問題については、もう12年も前に拙著「三セクター分立の概念」で紹介したものである。
この「Ph. D. Qualifying examination」を特に説明しておくと、堂山昌男博士がこれを受けたのは、私よりはるかに前の時代のようである。だから、”qualifying examination”1つをKoehler博士の前ですれば良かったのかもしれない。しかし、私のユタ大学時代(1986年頃)にはすでに、次のように変わっていた。
大学院生は、入学する時には、GRE(graduate record exam)というものを受けることが進められる。しかし、これはオプショナルである。さらに留学生の場合には、有名なTOEFLも受ける。
共通試験(common exam)と呼ばれる学力試験があり、これが堂山博士の時代のQualifying examinationに対応していると考えられるが、現在では、これはcomprehensive examinationと呼ばれる。堂山博士の時代と異なり、私の時代ではすでに「ペーパー試験」となっていて、大学院生たちが教室のなかで受験した。これは全必須科目に渡るので、2、3日にかかって受ける大変な試験である。
これは、堂山博士の記述にもあるように、入学から1年後、2年後の計2回チャンスがあり、この間に合格しないと修士までで終了となる。博士課程には進学拒否されるのである。つまり、”キックアウト”されるというわけである。入学時も含めると、3回のチャンスと言える。私は入学時に失敗し1年後に合格した。
私の時代には、すでに「Ph. D. Qualifying examination」は、「common exam=comprehensive examination」と「Qualifying examination」の2つに別れていた。
「Qualifying examination」は、まず「comprehensive examination」に合格しないと受けることはできない。これに合格すると、指導教官をつけること、つまり博士のための研究業務につくこと、が許可されるのである。1、2年ほど研究を行って、ある程度研究業績ができた頃、今度は、「Qualifying examination」を行う。
これは、指導教官の他、計5人の「博士審査委員会(コミッティー)」のメンバーを作って、そのメンバー全員に集まってもらい、その前で講演する。そして質議応答して、博士になる人間的資質があるかどうか審査されるのである。
だから、現在では、堂山博士の頃とはかなり違って、さらに厳しくなっていると言えるだろう。
その後、何年か研究し研究論文を公表できる段階、あるいはすでにいくつか公表した段階になった頃、指導教官からPh. D. Thesis(博士論文)を書いてもいいよと許可がおりる。そして、これを1年くらいかけてじっくり作る。だいたいこれが完了すると、ドラフト(原稿)の段階で再び「博士審査委員会」のメンバーを集めて「口頭試問(ディフェンス)」をするのである。この時は一般公開(だれが参加しても良い)で行う。
これに合格すると、あとは「Ph. D. Thesis(博士論文)オフィス」へPh. D. Thesis(博士論文)を書き上げて期日までに提出し、いろんな手続きを完了すれば終わりということになる。
【アメリカの博士課程は厳しい】
堂山博士のイリノイ大学の場合は、大学院に100名くらい入って、博士号がもらえるのは15-16名という話である。
私が出たユタ大学の場合は、大学院に40人ほど入り(学部全体の大学院生数が100人程度であった)、共通試験にパスできるものがその半分、毎年博士号をもらえるのは、4、5人であった。
東大物性研の甲元博士がユタにいた頃私が聞いた話では、甲元博士がシカゴ大学に入った時には、共通試験にパスできるものは約半分だという。おそらく、イリノイ大学の場合と同程度の規模と言えるだろう。
このように、アメリカの大学院で博士になるのは、非常に狭き門なのである。つまり、「少数精鋭主義」なのである。だいたい入学時の学生の1割程度が博士号取得者となるのである。残りは、修士号取得者としてキックアウトされる運命なのである。
この点が、日本の大学院とは根本的に異なる。
私の知る限り、日本の大学院生は、修士課程から博士課程に”自動的”に進学でき、その後も3年経てばほぼ”自動的”に博士になれる、というような仕組になっているからである。
このところ、「教育再生会議」が大学・大学院改革を再び取り上げているが、大分前から私が主張してきているように「日本の大学院をアメリカ型にする」というようなことを行わないと、確実に世界から取り残されるだろう。
大学院は、大衆型ではなく、少数精鋭型でいかなくてはならない。
文部科学省や政府が考えているように、「予算に人を合わせるやり方」ではうまくいかないはずである。やはり「人に予算を合わせるやり方」でなくてはならない。「机上の空論」、「絵に書いた餅」というように、現実の人の有り様を見ないで、数だけで物事がうまく進むということはあり得ないからである。人の問題は、”臨機応変”に行う他ないのである。
この観点からも、「地方は痴呆化した?:”教育再生会議への提言” 」で紹介したような、アメリカの大学型の人口構成に日本の大学も変えていく他ないのである。
【Frederick Seitz先生】
「Frederick Seitz先生」は、ノーベル賞学者のユージン・ウィグナー博士の弟子で「ウィグナー- ザイツセル」の創始者であり、ザイツの固体物理の教科書(The Modern Theory of Solids)の著者として有名である。その他、ザイツーターンブルのシリーズと呼ばれる固体物理の論文集の編纂でつとに有名なノーベル賞級の学者である。
ジェームズ・S・ケーラー博士は、そのザイツ博士の学生ということになる。
【橋口隆吉先生】
「もう一つは堂山の恩師の橋口隆吉先生」とあるように、この文の著者の堂山昌男博士の師は、橋口隆吉博士である。
この橋口隆吉博士こそ、しばらく前に「”格さん(かくさん)”死去:日本の分子生物学の父 」で紹介した「科学と私」の講演者メンバーであった橋口隆吉博士のことである。
【アメリカの大学院制度】
アメリカの大学院制度については、最近ではいろんなホームページで紹介されるようになってきている。たとえば、日米教育委員会の「アメリカ高等教育の基礎知識」参照。
この中にその”アメリカの大学院生の特徴”として以下のものがあげられている。
(1)約半数がパートタイムの学生。パートタイムの学生:50.7%(修士課程59.1%、博士課程36.0%)
(2)女性の割合が多い。女性:58.1%(修士課程59.8%、博士課程36.0%)
(3)年齢層の幅が広く、平均年齢が高い。
平均年齢:32.5歳
25歳以下の割合:19.2%
40歳以上の割合:22.2%
(4)日本と比較して既婚率が高く、扶養家族がいる割合が高い。
既婚者:43.1%
扶養家族有:33.6%
(5)働きながら大学院に通う学生が多い(但し、on-campus での仕事も含む)。
有職率:81.1% (修士課程86%、博士課程82.5%)
このように、一言で言えば、アメリカの場合、大学院制度は、1つの職業のようなものである。大学院に入学するというのは1つの職業に就職したようなものと言えるのである。ここが日本の学歴社会とは根本的に異なる点である。
【Ph. D. Qualifying examination】
さて、堂山昌男博士の記事に以下の部分がある。
” イリノイ大学物理学科のPh. D. Qualifying examinationは厳しい。2度落ちると、追放である。我々の時代には毎年物理の大学院に100名くらい入って来るのだが、そのほとんどがPh. D.を目指す人ばかりだ。それらで博士号がもらえるのは15-16名であった。その残りは修士をもらって外にでなければならない。アメリカでは責任ある研究は博士号がないとやらせてもらえないと言っても過言ではなかろう。私の受験のときには、Koehler教授に呼ばれて、大きな教室で、2人で黒板の左右に分かれて過去問を解かされた。あの忙しい大先生も一緒に解いてくれたのには恐れ多かった。”
この中に記述されている部分に”対応”するところが、上の「アメリカ高等教育の基礎知識」の中にある、次の部分である。
「先にも述べたとおりアメリカではプログラムにより、大学の学部課程を修了後、修士課程を経ず、直接博士課程に出願することが可能です。博士課程に入学した学生は、定められた量(通常35年間)のコースワークや研究を修了後、学生の総合的な学力や専門知識・研究能力を審査する為の試験(comprehensive examination、または、qualifying examination)を受験します。この試験に合格して初めて博士号の候補生(doctoral candidate)となることができ、その後、博士論文(dissertation)執筆の為の研究にとりかかります。これらのプログラムでは、一定数の単位を取得した時点で、修士号を取得する場合とそうでない場合があります。 」
この問題については、もう12年も前に拙著「三セクター分立の概念」で紹介したものである。
この「Ph. D. Qualifying examination」を特に説明しておくと、堂山昌男博士がこれを受けたのは、私よりはるかに前の時代のようである。だから、”qualifying examination”1つをKoehler博士の前ですれば良かったのかもしれない。しかし、私のユタ大学時代(1986年頃)にはすでに、次のように変わっていた。
大学院生は、入学する時には、GRE(graduate record exam)というものを受けることが進められる。しかし、これはオプショナルである。さらに留学生の場合には、有名なTOEFLも受ける。
共通試験(common exam)と呼ばれる学力試験があり、これが堂山博士の時代のQualifying examinationに対応していると考えられるが、現在では、これはcomprehensive examinationと呼ばれる。堂山博士の時代と異なり、私の時代ではすでに「ペーパー試験」となっていて、大学院生たちが教室のなかで受験した。これは全必須科目に渡るので、2、3日にかかって受ける大変な試験である。
これは、堂山博士の記述にもあるように、入学から1年後、2年後の計2回チャンスがあり、この間に合格しないと修士までで終了となる。博士課程には進学拒否されるのである。つまり、”キックアウト”されるというわけである。入学時も含めると、3回のチャンスと言える。私は入学時に失敗し1年後に合格した。
私の時代には、すでに「Ph. D. Qualifying examination」は、「common exam=comprehensive examination」と「Qualifying examination」の2つに別れていた。
「Qualifying examination」は、まず「comprehensive examination」に合格しないと受けることはできない。これに合格すると、指導教官をつけること、つまり博士のための研究業務につくこと、が許可されるのである。1、2年ほど研究を行って、ある程度研究業績ができた頃、今度は、「Qualifying examination」を行う。
これは、指導教官の他、計5人の「博士審査委員会(コミッティー)」のメンバーを作って、そのメンバー全員に集まってもらい、その前で講演する。そして質議応答して、博士になる人間的資質があるかどうか審査されるのである。
だから、現在では、堂山博士の頃とはかなり違って、さらに厳しくなっていると言えるだろう。
その後、何年か研究し研究論文を公表できる段階、あるいはすでにいくつか公表した段階になった頃、指導教官からPh. D. Thesis(博士論文)を書いてもいいよと許可がおりる。そして、これを1年くらいかけてじっくり作る。だいたいこれが完了すると、ドラフト(原稿)の段階で再び「博士審査委員会」のメンバーを集めて「口頭試問(ディフェンス)」をするのである。この時は一般公開(だれが参加しても良い)で行う。
これに合格すると、あとは「Ph. D. Thesis(博士論文)オフィス」へPh. D. Thesis(博士論文)を書き上げて期日までに提出し、いろんな手続きを完了すれば終わりということになる。
【アメリカの博士課程は厳しい】
堂山博士のイリノイ大学の場合は、大学院に100名くらい入って、博士号がもらえるのは15-16名という話である。
私が出たユタ大学の場合は、大学院に40人ほど入り(学部全体の大学院生数が100人程度であった)、共通試験にパスできるものがその半分、毎年博士号をもらえるのは、4、5人であった。
東大物性研の甲元博士がユタにいた頃私が聞いた話では、甲元博士がシカゴ大学に入った時には、共通試験にパスできるものは約半分だという。おそらく、イリノイ大学の場合と同程度の規模と言えるだろう。
このように、アメリカの大学院で博士になるのは、非常に狭き門なのである。つまり、「少数精鋭主義」なのである。だいたい入学時の学生の1割程度が博士号取得者となるのである。残りは、修士号取得者としてキックアウトされる運命なのである。
この点が、日本の大学院とは根本的に異なる。
私の知る限り、日本の大学院生は、修士課程から博士課程に”自動的”に進学でき、その後も3年経てばほぼ”自動的”に博士になれる、というような仕組になっているからである。
このところ、「教育再生会議」が大学・大学院改革を再び取り上げているが、大分前から私が主張してきているように「日本の大学院をアメリカ型にする」というようなことを行わないと、確実に世界から取り残されるだろう。
大学院は、大衆型ではなく、少数精鋭型でいかなくてはならない。
文部科学省や政府が考えているように、「予算に人を合わせるやり方」ではうまくいかないはずである。やはり「人に予算を合わせるやり方」でなくてはならない。「机上の空論」、「絵に書いた餅」というように、現実の人の有り様を見ないで、数だけで物事がうまく進むということはあり得ないからである。人の問題は、”臨機応変”に行う他ないのである。
この観点からも、「地方は痴呆化した?:”教育再生会議への提言” 」で紹介したような、アメリカの大学型の人口構成に日本の大学も変えていく他ないのである。
[ 08:38 ]
[ 訃報・追悼 ]
以下は、ネットサーフィンをしていて偶然見つけた、堂山昌男博士らによる「固体物理学の大家ケーラー博士への追悼」記事である。「アメリカの大学院制度」を知る上で非常に良い記事かつ面白い記事なので、勝手にここにも掲載させてもらおう。
JamesS. Koehler(1915-2006)先生を偲んで(pdf版)
Ralph. O. Simmons1, Frederick Seitz2, Andrew V. Granato3, 堂山昌男4
金属結晶欠陥の基礎研究で世界の先導的研究を常にされたKoehler先生が2006年6月19日にイリノイ大学本校のあるUrbanaで亡くなられた。91才であった。
ピン止めされた転位の運動と減衰の理論、純金属の急冷とその後の回復の実験での原子空孔同士の相互作用、イリノイ大学での照射損傷実験の核心的役割をされた先生である。そのグループは金属中の格子間原子が極めて低温で移動することを世界で初めて示した。Koehler教授はイリノイ大学に透過型電子顕微鏡を導入し、結晶欠陥の研究も行った。これらの研究により、照射損傷後の各回復ステージの統一的解釈を行った。これらに反対する議論も出されたが、ステージでの原子空孔の移動など、陽電子消滅でも正しいことが示されている。
Koehler教授は教育、研究に立派な業績を残された。45名の博士論文の指導教官(Carnegie Tech 7, Illinois大学38)をし、25名以上のポストドック、多数の外国研究者を招聘した。Koehler教授はBell Lab., GE, Philips, 航空宇宙工業等の企業、コロンビア、イリノイ、ミズリー、ノースウエスタン、ユタ、ウイスコンシン、東京大学、広島大学、ソウル、欧州等の大学、Argonne, Oak Ridge, Sandia, デンマーク、ドイツ、日本等の国立研究所にも関係した。米国物理学会のフェローであり、J.S. Guggenheim Fellowshipを得ている。
彼の故郷ウイスコンシン州Oskhoshで1935年に学士号を取り、ミシガン大学において、理論物理でPh. D.を1940年に取得、ポストドックをペンシルバニア大学、ピッツバーグのWHで行った。ペンシルバニア大学でFrederick Seitz先生に会ったことが、彼の生涯の研究方向を固体理論、塑性変形へ決定付けたといえよう。1942年Seitz先生がCarnegie Tech.へ移ったので、KoehlerもCarnegie Tech.に移り、講師に任ぜられた。第2次世界大戦中で、国家防衛研究委員会(National Defense Research Committee)の援助で実験室を立ち上げた。1944年にはManhattan Engineer District研究に入り、ウランの拡散を研究し、原子爆弾の形を円筒形からねじりドーナッツ型に変えさせた。
戦後軍の研究費が基礎研究に注ぎ込まれ、1947年にはOffice of Naval Researchの支援で、塑性変形研究が始まった。1950年にはSeitz指導の固体物理プログラムに加わり、イリノイ大学物理学科に招聘された。Koehler教授はイリノイサイクロトロンを使った原子力委員会の照射損傷プログラムの大きな支援を得た。その後、材料研究所(現、Frederick Seitz Materials Research Lab.)に待望のVan de Graafを入れ、照射が自由に出来るようになった。この間、武藤俊之助、鈴木平、山口嘉夫、西島和彦、神崎熙、小林浩一、山形武虎、藤田英一、吉田○(○=金へんに尚)、藤原浩、二宮敏行、一丸節夫、比企能夫、紀隆雄、深井有、桐谷道雄、下村義治、木暮嘉明、小杉俊男ら(敬称略)50名近くの日本人がイリノイ大学物理学科にお世話になった。1981年に退職し、名誉教授となった。この年京都で高村仁一、堂山昌男、桐谷道雄により行われたPoint Defects and Defect Interactions in Metalsの立役者であった。
Koehler教授は実験手段を特定せず、内部摩擦、巨視的塑性変形、電気抵抗、X線回折、エネルギー放出、X線異常透過、陽子チャンネリング、チャンネリング放出、理論では転位に関する研究を行った。
Koehler教授は真面目で、決して人を押しのけてしゃしゃり出るような人ではなかった。地味にこつこつと一歩一歩組み上げて行かれた先生であった。日曜日には教会の席案内をしていた。
Koehler教授は厳しい面もあった。文責者(堂山)は博士論文の実験として、「純銀の高温からの急冷実験」をさせられたが、2年程経ったとき、同じ研究室でWhityが「純銅の急冷実験」をさせられていたのを知らされていなかった。ある日Koehler教授が来て言うには「Whityの方法がうまく実験が行っているようだからお前も彼の方法を習ってやったらどうか!」。見ると彼の方法は堂山の方法より悪い。「彼の方法でうまく行くなら、私の方法で行かないはずがない。あと3ヵ月下さい」と頼んだ。それからは夜を日に接いで、3ヵ月は夜も寝ないで実験をした。文責者の実験がうまく行き出したら、今度はKoehler教授、Whityのところに行き、「Masaoの方法がうまく行っているから、お前は彼の方法を真似たらいい」。Whityはおとなしいものだから彼は自分の方法を捨てて堂山の方法を真似た。科学実験というものは誰が、何時、何処でやろうと同じ結果が出るはずであるが、きわどい実験はそうは行かない。言葉で言い表せないコツというものがある。また、情熱も重要なファクターだ。
もう一つは堂山の恩師の橋口隆吉先生、お世話になった京大の高村仁一先生がKoehler教授を尋ねて来られたとき、「お前の研究室は見せてはいけない」と言われた。Koehler教授曰く、「発表前に研究室を見せると、見て先を越されるといけないと思って慌てて発表してしまう。だから見せるのは発表の終わった研究に限る!」。
イリノイ大学物理学科のPh. D. Qualifying examinationは厳しい。2度落ちると、追放である。我々の時代には毎年物理の大学院に100名くらい入って来るのだが、そのほとんどがPh. D.を目指す人ばかりだ。それらで博士号がもらえるのは15-16名であった。その残りは修士をもらって外にでなければならない。アメリカでは責任ある研究は博士号がないとやらせてもらえないと言っても過言ではなかろう。私の受験のときには、Koehler教授に呼ばれて、大きな教室で、2人で黒板の左右に分かれて過去問を解かされた。あの忙しい大先生も一緒に解いてくれたのには恐れ多かった。
Koehler教授とその奥さんHarrietにはよく自宅に我々をよんでいただいた。このようなパーティで世界的に著名な結晶欠陥研究者を個人的に知る機会に恵まれた。奥さんは特に気を使う人であった。また、自宅リビングルームにグランドピアノが2台あり、Seitz先生夫人のBettyと連弾をして、我々に聴かせてくれた。彼女は晩年パーキンソン病に侵され、歩くことも出来なくなり、自宅も売って郊外の退職した人たちが住む施設の一区画を借りて住んでおられた。Koehler教授は奥さんの面倒をよく見たが、6年前に亡くなられてしまった。
Koehler先生が全然大学に姿を現さなくなったということを聞いて、今年の4月にお見舞いに行った。それが最後となってしまった。そのときにはFrederick Seitz Materials Research Laboratoryで最近応用研究大プロジェクト方針をGranatoから聞き、憤りさえ述べられていた。最近のオイル危機で照射損傷研究費が急増しているとも聞いた。
お二人のご冥福を祈ってこの稿を終える。
1イリノイ大学*名誉教授、元物理学科主任
2Rockefeller University名誉学長、イリノイ大学*元副学長
3イリノイ大学*名誉教授
4東京大学・帝京科学大学・蘭州大学名誉教授、日本MRS初代会長、IUMRS第3代会長(文責)
*University of Illinois at Urbana-Champaign
JamesS. Koehler(1915-2006)先生を偲んで(pdf版)
Ralph. O. Simmons1, Frederick Seitz2, Andrew V. Granato3, 堂山昌男4
金属結晶欠陥の基礎研究で世界の先導的研究を常にされたKoehler先生が2006年6月19日にイリノイ大学本校のあるUrbanaで亡くなられた。91才であった。
ピン止めされた転位の運動と減衰の理論、純金属の急冷とその後の回復の実験での原子空孔同士の相互作用、イリノイ大学での照射損傷実験の核心的役割をされた先生である。そのグループは金属中の格子間原子が極めて低温で移動することを世界で初めて示した。Koehler教授はイリノイ大学に透過型電子顕微鏡を導入し、結晶欠陥の研究も行った。これらの研究により、照射損傷後の各回復ステージの統一的解釈を行った。これらに反対する議論も出されたが、ステージでの原子空孔の移動など、陽電子消滅でも正しいことが示されている。
Koehler教授は教育、研究に立派な業績を残された。45名の博士論文の指導教官(Carnegie Tech 7, Illinois大学38)をし、25名以上のポストドック、多数の外国研究者を招聘した。Koehler教授はBell Lab., GE, Philips, 航空宇宙工業等の企業、コロンビア、イリノイ、ミズリー、ノースウエスタン、ユタ、ウイスコンシン、東京大学、広島大学、ソウル、欧州等の大学、Argonne, Oak Ridge, Sandia, デンマーク、ドイツ、日本等の国立研究所にも関係した。米国物理学会のフェローであり、J.S. Guggenheim Fellowshipを得ている。
彼の故郷ウイスコンシン州Oskhoshで1935年に学士号を取り、ミシガン大学において、理論物理でPh. D.を1940年に取得、ポストドックをペンシルバニア大学、ピッツバーグのWHで行った。ペンシルバニア大学でFrederick Seitz先生に会ったことが、彼の生涯の研究方向を固体理論、塑性変形へ決定付けたといえよう。1942年Seitz先生がCarnegie Tech.へ移ったので、KoehlerもCarnegie Tech.に移り、講師に任ぜられた。第2次世界大戦中で、国家防衛研究委員会(National Defense Research Committee)の援助で実験室を立ち上げた。1944年にはManhattan Engineer District研究に入り、ウランの拡散を研究し、原子爆弾の形を円筒形からねじりドーナッツ型に変えさせた。
戦後軍の研究費が基礎研究に注ぎ込まれ、1947年にはOffice of Naval Researchの支援で、塑性変形研究が始まった。1950年にはSeitz指導の固体物理プログラムに加わり、イリノイ大学物理学科に招聘された。Koehler教授はイリノイサイクロトロンを使った原子力委員会の照射損傷プログラムの大きな支援を得た。その後、材料研究所(現、Frederick Seitz Materials Research Lab.)に待望のVan de Graafを入れ、照射が自由に出来るようになった。この間、武藤俊之助、鈴木平、山口嘉夫、西島和彦、神崎熙、小林浩一、山形武虎、藤田英一、吉田○(○=金へんに尚)、藤原浩、二宮敏行、一丸節夫、比企能夫、紀隆雄、深井有、桐谷道雄、下村義治、木暮嘉明、小杉俊男ら(敬称略)50名近くの日本人がイリノイ大学物理学科にお世話になった。1981年に退職し、名誉教授となった。この年京都で高村仁一、堂山昌男、桐谷道雄により行われたPoint Defects and Defect Interactions in Metalsの立役者であった。
Koehler教授は実験手段を特定せず、内部摩擦、巨視的塑性変形、電気抵抗、X線回折、エネルギー放出、X線異常透過、陽子チャンネリング、チャンネリング放出、理論では転位に関する研究を行った。
Koehler教授は真面目で、決して人を押しのけてしゃしゃり出るような人ではなかった。地味にこつこつと一歩一歩組み上げて行かれた先生であった。日曜日には教会の席案内をしていた。
Koehler教授は厳しい面もあった。文責者(堂山)は博士論文の実験として、「純銀の高温からの急冷実験」をさせられたが、2年程経ったとき、同じ研究室でWhityが「純銅の急冷実験」をさせられていたのを知らされていなかった。ある日Koehler教授が来て言うには「Whityの方法がうまく実験が行っているようだからお前も彼の方法を習ってやったらどうか!」。見ると彼の方法は堂山の方法より悪い。「彼の方法でうまく行くなら、私の方法で行かないはずがない。あと3ヵ月下さい」と頼んだ。それからは夜を日に接いで、3ヵ月は夜も寝ないで実験をした。文責者の実験がうまく行き出したら、今度はKoehler教授、Whityのところに行き、「Masaoの方法がうまく行っているから、お前は彼の方法を真似たらいい」。Whityはおとなしいものだから彼は自分の方法を捨てて堂山の方法を真似た。科学実験というものは誰が、何時、何処でやろうと同じ結果が出るはずであるが、きわどい実験はそうは行かない。言葉で言い表せないコツというものがある。また、情熱も重要なファクターだ。
もう一つは堂山の恩師の橋口隆吉先生、お世話になった京大の高村仁一先生がKoehler教授を尋ねて来られたとき、「お前の研究室は見せてはいけない」と言われた。Koehler教授曰く、「発表前に研究室を見せると、見て先を越されるといけないと思って慌てて発表してしまう。だから見せるのは発表の終わった研究に限る!」。
イリノイ大学物理学科のPh. D. Qualifying examinationは厳しい。2度落ちると、追放である。我々の時代には毎年物理の大学院に100名くらい入って来るのだが、そのほとんどがPh. D.を目指す人ばかりだ。それらで博士号がもらえるのは15-16名であった。その残りは修士をもらって外にでなければならない。アメリカでは責任ある研究は博士号がないとやらせてもらえないと言っても過言ではなかろう。私の受験のときには、Koehler教授に呼ばれて、大きな教室で、2人で黒板の左右に分かれて過去問を解かされた。あの忙しい大先生も一緒に解いてくれたのには恐れ多かった。
Koehler教授とその奥さんHarrietにはよく自宅に我々をよんでいただいた。このようなパーティで世界的に著名な結晶欠陥研究者を個人的に知る機会に恵まれた。奥さんは特に気を使う人であった。また、自宅リビングルームにグランドピアノが2台あり、Seitz先生夫人のBettyと連弾をして、我々に聴かせてくれた。彼女は晩年パーキンソン病に侵され、歩くことも出来なくなり、自宅も売って郊外の退職した人たちが住む施設の一区画を借りて住んでおられた。Koehler教授は奥さんの面倒をよく見たが、6年前に亡くなられてしまった。
Koehler先生が全然大学に姿を現さなくなったということを聞いて、今年の4月にお見舞いに行った。それが最後となってしまった。そのときにはFrederick Seitz Materials Research Laboratoryで最近応用研究大プロジェクト方針をGranatoから聞き、憤りさえ述べられていた。最近のオイル危機で照射損傷研究費が急増しているとも聞いた。
お二人のご冥福を祈ってこの稿を終える。
1イリノイ大学*名誉教授、元物理学科主任
2Rockefeller University名誉学長、イリノイ大学*元副学長
3イリノイ大学*名誉教授
4東京大学・帝京科学大学・蘭州大学名誉教授、日本MRS初代会長、IUMRS第3代会長(文責)
*University of Illinois at Urbana-Champaign