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2007/10/24のBlog
さて、ここ1週間ほど私は、京都で開催された「What is Life? The Next 100 Years of Yukawa's Dream」(生命とは何か? 湯川の夢の次の100年)に参加してきた。

月曜日から土曜日まで毎日朝9時から夜9時近くまで、ホテルの会議ホールで32の講演を聴いた。1日平均6つのビッグな講演を聴いたことになる。(実際には計34の講演があったが、最初の2つは早朝一番のバスで行ったが間に合わなかった。)

それぞれ、各分野の第一人者の考え抜かれた講演であったために、この1週間で私の頭の完璧な「脳トレーニング」となった。というより、「脳のリハビリ」に近かったと言えるかも知れない。

私も1つポスターセッションで発表したので、湯川秀樹博士の生誕100年を称えるイベントに多少は貢献できたかも知れない。

この風景は3日目に講演した、数学者でSF作家として有名なルディー・ラッカー博士のブログに写真が掲載されているのを見つけたのでここに紹介しておこう。(写真まん中一番右が私)

講演の最後に、「私に写真を撮らせて下さい。ビッグスマイルーーー」と言って写真を撮ったので、面白い人だな、と思っていたら、どうやら博士はアメリカの有名なブロガーで、毎日毎日ブログにその日のことをアップしているらしい。

ラッカー博士とは、金曜日の2回目のレセプションで、ちょっと話すことができた。私が「どういう時にSFのインスピレーションを得るのですか?」と聞いたら、「日本に来たような時だ。というのは、日本は僕にとっては別の惑星に来たようなものだから。景色も違うし、人も違うし、言葉も全く違うんだからね」といって、ニヤっと笑った。その後、ちょっと自己紹介した後、少し私の研究の話などをして別れた。彼の奥さんともちょっと話すことができたのはラッキーだった。

この国際会議の詳細はいずれ主催者の方でビデオを掲載するらしいので、そちらに委ねるが、毎日毎日、寝食を共にし朝から晩まで講演を聴きまくっていると、さすがに日本のスポーツ合宿のように、なにやら参加者の間に”連帯感”のようなものが、国籍を問わず、人種を問わず、生まれてくるから不思議である。

多くの方々と無名のこの私も知り合うことができた。

これほど楽しく、愉快な国際学会は珍しかったのではないか、と思うが、実に充実した1週間であった。

みなさん、ご苦労様でした。それぞれの今後の御活躍を心から期待していますヨ。
2007/10/23のBlog
[ 22:00 ] [ 紀行文 ]
ここ1週間ほど京都へ行っていたのだが、その帰りの京都駅。高速バスを待つ間、京都駅周辺のどこを探しても座るベンチがない。やっと見つけたのは、金属のパイプ状の立ち椅子のような代物。疲れた旅行者たちは、マクドナルドやミスタードーナッツなどの喫茶店で時間を待つほかない。

京都市は、全国一(市職員の)”犯罪者”が多くて大変な問題となって来たが、こんなところにも京都市の公務員的で不親切な風潮が出ていると言えるだろう。

一般的に京都市民が我々旅行者に非常に親切で好印象を持たせてくれるのと”裏腹”の感じで大変残念なことのように思える。まあ、お金さえ出せば芸子でも何でもありというのが京都の文化なのかも知れないが。

ところで、京都近郊には山も多く、子供達が坂道を昇り降りする度に走り回っている姿が目に付いた。ここ徳島では比較的平たんな道を子供はゆっくりと歩く姿しかみたことないから、これは非常に新鮮に感じた。おそらく、これが京都の高校が駅伝に強いということの原因なのかも知れない。

徳島県はここ2年連続で国体最下位の不名誉記録を更新中だが、こんなところにも”走る遺伝子”の違いが出ているのかも知れない。徳島県民はあまり走るのが好きではないが、京都府民は結構走るのが好きなように見えるからである。

また、私は山梨県甲府市出身なので、京都の風景はなぜか郷愁を強く感じさせた。何かどこか馴染みのある感覚に襲われた。甲府盆地と京都盆地の似た風景がそうさせただろうことは確かである。事実、町並み、遠くの山並など非常に雰囲気は似ている。しかしもちろん、多くの寺や町の文化は全く違っている。

面白いものである。
2007/10/14のBlog
[ 16:40 ] [ 地震・災害 ]
ところで、昨日13日の空には、”怪しい”地震雲的な波雲があった。方向としては、関西地方であろうか。地震雲だといけないので、一応ここに紹介しておこう。地震雲の出た後、1、2週間後が危ないと聞く。まあ、何もないことを祈るのみ。備えあれば憂いなし。
2007/10/13のBlog
今日は、私の誕生日もかねて、奥さんといっしょに、徳島市の「アスティー徳島」で年一回開催される、「ブジネスチャレンジメッセ2007」の最終日に出かけた。

相変わらず、徳島県内にはユニークな地場産業がたくさんあった。

中でも、ここ阿南発の「青色発光ダイオード」から派生した、LEDビジネスは年々その幅を広げ、ますますユニークなものになって来ている。

いくつか紹介しておこう。

写真1:これは、光りマンダラドームの下に小型ドーム状のロボットが色彩点滅しながら動き回るというオブジェである。大隆精機、L・E・D(光環境デザイン)、板東デザイン事務所、阿南高専、石原金属、GASEBO、L・po、日亜化学などが共同開発している。ロボットのコントロールは、上部のカメラでロボットの運動を計測し、赤外線LEDで送信してコントロールしているという。

写真2:これは、ロボット部だけが独立して、赤外線センサーで障害物から回避する、自動ロボットである。状態に応じて、発色や色のパターンが変化する。


写真3:子供達の足下に犬のように近寄り、自分で逃げ回る。



写真4:L・E・D(光環境デザイン)の大栗さんの発明。この巨大なものは、ここ毎年東京ドームを飾っている。


写真5:最終日は、子供ビジネスチャレンジの日であり、小中学生、高校生、大学生も店を開いてビジネス体験をする。「子供の売るものは、買ってやれ」の教訓どうり、我々も”沖縄そば”を食べて協力した。これは、結構美味しかったヨ。
2007/10/12のBlog
ノーベル平和賞にゴア氏ら 環境問題への取り組み評価
The 2007 Nobel Peace Prize

今年のノーベル平和賞は、「地球温暖化問題」を万人に知らせた、ゴア元米副大統領とIntergovernmental Panel on Climate Change (IPCC)に授与された。

しばらく前に、
バイオエタノールの”不都合な真実”
バイオ燃料の行方?:金持ちvs貧乏人
カオス理論の新しい標語:”自爆テロ効果”
ジョークのような現実の話:ハリウッドの終焉?
ゴア元副大統領が演説すると桶屋が儲かる?
などで、こう書いていた。

”地球温暖化”現象改善のために、アメリカのゴア元副大統領が映画を作り、世界中を駆け巡る。すると、世界中の知識人やお金持ちの意識が良い方向に変わり、病んでしまった地球改善のためにその対策にお金を投資するようになる。バイオ燃料やエタノール燃料の研究に投資するようになる。そのためには、植物や動物が必要だ。すると、もっとも安いトウモロコシや大豆など、あるいは海藻の類いが材料となる。すると、それを主食として生活している人間、それも安い食料しか買うことのできない人々が食うに困る。結果として、主食のトウモロコシは高騰し、経済的弱者から路頭に迷い。餓死者が続出する。結果として葬儀屋が儲かる。

すなわち、

「アメリカのゴア元副大統領が地球を救おうと演説すると桶屋が儲かる」

が「不都合な真実」だということが誰の目にも明かとなった。しかし、まだノーベル平和賞委員会には明らかとはなっていなかったようだ。どうもノーベル平和賞委員会は、IPCCの活動とゴア氏の活動をいっしょくたにしている観がある。

しかし、この2つは異なると見るべきだろう。「地球温暖化」を指摘することと、その解決策として、代替燃料としてバイオ燃料をエタノールに取ること、さらにはその原料としてトウモロコシやさとうきびや大豆などの主食に関わる食物を当てることとは異なるはずだからである。

もし本当に「地球温暖化」を阻止したいなら、まあ非常に極端に言えば、即刻核戦争でも起こして先進国を原始時代に引き戻す方が手っ取り早い。要するに、先進工業国や発展途上国の経済活動を停止しないかぎり、本当の意味でのCO2の削減はできない。しかし、これは現実的には無理である。平和的な方法で「地球温暖化」を阻止する、ということは現状では非常に困難である。

民主党のゴア氏がやったことは、共和党の地盤であるアメリカの農夫への利益譲渡のようなもので、共和党支持者の票集めに「地球温暖化」を利用したようなものと言える。これまで、トウモロコシ農場や大豆農家は、安く売るほかなかったが、エタノール原料とすれば、高額で売れ、リッチになれる。そういう新たな道を示したことになる。

結果として、アメリカの農場主や大土地所有者の農園主などがリッチになるというだけのことである。

「地球温暖化」を阻止するためには、我々地球人の”生き方”の哲学を抜本的に変えなくてはならない。そうしないかぎり解決しようのないものである。しかし、現実には何も変わっていない。

多少の変更は、その時期をほんのごくわずかだけ先に伸ばすだけで、問題の解決には繋がらない。ゴア氏の家の使用電力を多少減らそうが、そんなことで解決できる問題ではないのだ。市民がCO2の削減しようが、大企業がCO2の削減しようが、その程度で解決に繋がるというような問題ではない。なぜなら、世界中の油田で石油を取るために燃やされている火から出るCO2の方がはるかに多いからである。

したがって、私個人の意見としては、「CO2の削減」というような現実的には不可能な”後ろ向き”のことを目標に取るのではなく、むしろ、「地球環境悪化した世界でも十分に生活できる」ような家、交通手段、食料確保などの”前向き”の方向に主力を移していくべきだろうと考えている。

ところで、私はかねてからヨーロッパ人、つまり白人、のもつかなり際立った特徴が気になる。これは、どうしてなのだろうかは私はよく分からないが、確かにそういう傾向がある。

例えば、かつてアメリカ新大陸にヨーロッパ人が進出した時、アメリカにコルテスなどもっとも残虐なものが行った。そしてアメリカのインディアンやインディオを皆殺しにした。ところが、しばらくすると、それを今度は同じ白人の中から止めようとするものが現れる。しかし、実際には完全に解決はできないのだが、悪者どもに抗して行った行動を本国で評価され、そのものは評価される。一方で、白人に占拠され滅ぼされてしまった原住民の生活はほとんど変わらない。

要するに、地球は「白人劇場」なのである。「白人劇場」の前で原住民は蹂躙されるのである。

かつて、インカ帝国もそうして滅び、アメリカインディアン、アボリジニ、ハワイアンもそうやって蹂躙された。

ハワイが舞台となったプレスリーの青春映画のストーリーもこれと同じだった。黒真珠集めが目的の悪い白人がハワイアンを利用しているところへ、良い白人のプレスリーがやって来て追い出す。しかし蹂躙されたハワイはもう戻らない。

どうも私には今の「地球温暖化」問題の話の展開は、この白人社会特有のお決まりの展開と瓜二つのように思えて仕方がない。

CO2を垂れ流す大企業経営者は悪い白人で、それを指摘し告発するゴアは良い白人。しかし、その両者の争いの犠牲者は原住民である地球人である。

いずれにせよ、白人劇場の前で実際には何も変わっていないのだ。

どうも”史実後の”ヨーロッパ人のやることはよく理解できないことがありますナ。
写真:在りし日のアイルトン・セナ

さて、すこし暇になったので、最近私が個人的に、密かに気になっていることをここにまとめておこう。

ちょっと前に「未来からの警告:”サンアンドレアス断層” 」というのを紹介した。(これは、その日に1500を超えるヒットとなり、その日の5位にランクされた。私のブログとして最高位で、実に珍しいこととなった。)

その中で紹介した、的中率95%という驚異的な記録を持つ、「未来からの警告:ジュセリーノ予言集1」の予言の中に、「2007年の予言」の1つとして私に気になるものがある。

『2007年
ブラジルで渡り鳥による鳥インフルエンザが広がる。また強烈な新しいデング病が出現する
トルネードがリオデジャネイロを直撃し、数千人が死亡する
鳥インフルエンザは日本やアジア、ヨーロッパ各国に拡大する
アメリカで12月17日にテロ事件が発生。年末が環境破壊に対し人類が意識を変える最終期限
2007年あるいは2008年の7月13日にアジアで地震による3トメートル以上の津波が発生
10月に日本で地震と台風の被害が出る
セナの事故が再燃する』

それは、最後の非常に短い予言である。

「セナの事故が再燃する」

果たしてこれは何を意味しているのか?

これが非常に気になるのだ。


”セナの事故”の”セナ”というのは、あの有名なブラジル人F1ドライバーのアイルトン・セナのことである。セナは、1994年のサンマリノGPで事故死した。私もこのレースは当時テレビで見ていたが、フェンスに激突し痙攣しているセナを目撃したから良く知っている。

”再燃”とは、どういう意味か?

この「セナの事故の二の舞いが訪れる」という意味だろうか。それとも「セナの事故の真相解明が行われる」という意味だろうか。

後者の事故の原因解明に関しては、ダイアナ妃の事故同様に、真相解明は”闇の中”である。「アイルトン・セナ」によれば、「パワーアシスト装置故障説」、「ステアリングコラム・シャフト破損説」、「タイヤ・バースト説」の3つがあるという。

「事故から10年以上を経た2005年5月30日、イタリアの裁判所は過失を問われていた当時の関係者全員について、ようやく過失責任なしという判断を下し、無罪を確定させた。これにより、セナの事故原因は不明のまま幕を閉じた。」

という裁判が”再燃”するということなのだろうか。しかしこれはありそうもない。だとすれば、前者の”新たなる事故死”の予言なのだろうか。もしそうなら、それは非常に危険なことなので、ここで分析しておこうというのが、私の気になることなのだ。

ところで、世紀の予言者ジュセリーノは、その「セナの事故死」をも(セナが超一流のF1ドライバーになる)はるか前から予知し、セナに手紙を事故直前まで送り続けていたという。しかし、それは手紙を受理したのがセナのレースチームの関係者で意識的に無視され破棄されたという。

その手紙の中で、ジュセリーノは、事故の原因も”殺人”であると予知してた。ジュセリーノによれば、チームの関係者が、セナの暗殺を目論んで、ステアリングが走行中に壊れるように仕込んだというのである。つまり、「ステアリングコラム・シャフト破損説」が正しく、その原因は、だれそれとだれそれとだれそれがやったと手紙に書いたそうだ。すなわち、「セナの事故」のすべてを予知夢で予言していたらしい。それが、「未来からの警告:ジュセリーノ予言集1」に書かれていることだ。

もしこれと同じようなことが今年起こるとすれば、すでに残すは最終戦のブラジルGPしかない。

今回は、
【F1 07】第16戦中国GP、ライコネンV、アロンソ2位、ハミルトンまさかのリタイアでタイトル決定は最終戦に
【F1 07】第15戦日本GP、大雨の富士でハミルトンV、タイトルに王手、アロンソ自滅
に見るように、久しぶりの”激戦”である。

特に、マクラーレンは、黒人初のF1レーサーのルイス‐ハミルトンとフェルナンド・アロンソがいるが、アロンソとの仲は非常に悪い。一方、フェラーリには、キミ・ライコネンがいる。これら3者の三つどもえの優勝争い最終戦まで続いている。中国GPでハミルトンが優勝すれば、それで万事めでたしめでたしだったが、どういうわけか、そこで初のリタイアとなり、優勝が最後に持ち越されてしまった。

そんなわけで、ジュセリーノの予知が意味するものが、「セナの事故死」のような事件であるとすれば、もはや最終戦のブラジルGPしかなくなったというわけだ。

ジュセリーノは、予知を本人に送りつける人物である。だから、当然、すでに関係者には予知による警告を送っているはずである。だから、これらの内の、事故に巻き込まれるかも知れない、だれかには警告の手紙を出したはずである。それゆえ、当の本人は知っているかも知れない。

果たして”ジュセリーノの警告”は、功を奏するか。あるいは、予知夢どおりの展開をして、”ジュセリーノの予言”のリストの1つに加えられるのか。実に興味深い。それゆえ、ここに紹介しておくことにしたのだ。

果たして、ブラジルGPはどうなるか?

奇しくもジュセリーノはブラジル人である。彼の目の前で”それ”を目撃するはめになるのだろうか。

”ジュセリーノの警告”が功を奏し、何ごとも起こらず、F1初の黒人レーサーチャンピオン誕生して欲しいものである。
2007/10/11のBlog
The Nobel Prize in Literature 2007

今年度のノーベル文学賞は、Doris Lessing(United Kingdom)さんへ。

"that epicist of the female experience, who with scepticism, fire and visionary power has subjected a divided civilisation to scrutiny"
2007/10/10のBlog
The Nobel Prize in Chemistry 2007

今年度のノーベル化学賞は、「固体表面の化学反応」の研究に対して、Gerhard Ertl(Fritz-Haber-Institut der Max-Planck-Gesellschaft, Berlin, Germany)に授与された。
ちりとてちん

「はよー、終わってんか。こんなん、毎朝見せられたらたまらんわー」

というのが、正直なところか。

NHKの受信料で、大阪の吉本興行べったりの「朝ドラ」を作るとは、大阪NHKもかなりいい根性しているようだ。

最近の「朝ドラ」には、2つの基本的な筋がある。

1つめは、都会の女子が、田舎の仕事を継ぐ、というもの(要するに、地盤沈下し格差社会となった田舎を立て直すタイプ)。

2つめは、田舎の女子が田舎の仕事やしきたりを嫌い、東京や大阪などの都会へ出ていって自立する、というもの(要するに、立身出世し、故郷に錦を飾るタイプ)。

「どんど晴れ」、「風のハルカ」、「さくら」、「あすか」などは前者であり、「ちりとてちん」、「ファイト」などは後者である。

それ以外に、「芋たこなんきん」などのように大阪文化、吉本喜劇べったりのものがある。「ちりとてちん」はこれにも当てはまるかも知れない。

それにしても、「ちりとてちん」は悪い面がある。出演者は非常に一生懸命に演技しているわけだろうが、筋書きが悪ければ、その効果も帳消しとなる。出演者にも可哀想な話である。

我々福井県人や福井県民性をまったく知らないものは、この「ちりとてちん」を見て福井の人はどんなかを知るわけである。

私個人は、この「朝ドラ」を見る度に、「福井県には住みたくないナ」と感じるわけである。もちろん、私が福井県に住む可能性はゼロだが、今度は「福井には行く気がしない」と思うわけである。実際には、福井の人は、この「ちりとてちん」が描くような人々でないだろうことは明白なのだが、それは我々には知るすべがないからである。

それゆえ、作者は面白可笑しく筋書きを考えてのことだろうが、それが逆効果を生む。

そして極め付けは、大阪で”芸人”(おそらく、吉本芸人)になるというわけである。

これは、私のように、”吉本芸人嫌い”には致命的となる。「NHKよ、受信料返せ」と思うからである。私は”ユーモア”や”ジョーク”、”ブラックユーモア”や”ブラックジョーク”は好きだが、吉本芸人などのいわゆる芸人の”お笑いやギャグ”は嫌いだからだ。(”お笑い”インベーダー4:藤原紀香陥落?

いやはや、NHK大阪は、”お笑いインベーダー”に占拠されてしまったようだ。いよいよ困った事態である。

それにしても、”男尊女卑社会”の昔の日本社会で、女性も自立し、自分の仕事や職を持ち、自分の人生を歩んでしかるべきだ、と啓蒙することを兼ねて始まったのが、女子を主人公にとる「朝ドラ」だったのだろうが、その役割は終えた、というのが正直なところだろう。

今や沢尻エリカのように自由気侭に生きることができる。和田アキ子を見ても分かる。今は女性のしたいように自由に生きることができる社会である。むしろ、少子高齢化のおかげで、男子の方が不自由な社会を生きざるをえないというのが現状なのではないか、と私は見ている。

果たして、こんな現実社会の前で、あいも変わらず、女子発掘(女優発掘)事業を高い受信料とって続ける価値はあるのだろうか?(NHK”朝ドラ”の功罪
2007/10/09のBlog
The Nobel Prize in Physics 2007

今年のノーベル物理学賞は、「巨大磁気抵抗」の発見者のAlbert Fert(Universite Paris-Sud; Unite Mixte de Physique CNRS/THALES, Orsay, France)とPeter Grunberg(Forschungszentrum Julich, Julich, Germany)の2人に授与された。

ノーベル賞予測の命中率は?
ですでに紹介したように、この2人は、今年のウォルフ賞の同時受賞者である。

したがって、物理学分野では、46人がこの賞を受賞し、うち13人がノーベル賞を取ったということになった。2割8分の確率である。

こんなわけで、ウォルフ賞がノーベル賞の前哨戦としての役割が一番高いと言えそうですナ。

ちなみに、日本国内では、この「巨大磁気抵抗」の発見は東大の十倉好紀博士が行ったことになっている。(たとえば、十倉好紀強相関電子技術研究センター長 朝日賞受賞) それゆえ、十倉博士は、数々の国内の大きな賞を受賞し、次はノーベル賞の期待がかかっていた。

今回のノーベル物理学賞で、残念ながら十倉博士は、”41番目の席”につくこととなった。非常に残念なことである。

これは、かつて「高温超伝導の発見」で、アメリカの中国系チュー博士や「量子ホール効果の発見」で学習院大学の川路博士が置かれた立場の再現となってしまった。悪しき歴史再びというところだろうか。

この意味で、今年のノーベル物理学賞は、東大や産業技術総合研究所には大きな”衝撃”となったことは確かだろう。
流通経大柏高が優勝 高円宮杯全日本ユース選手権

U-18高円宮杯、第18回全日本ユース選手権(日本サッカー協会主催、朝日新聞社共催)の決勝が昨日埼玉スタジアムで行われ、千葉の流通経大柏高が広島ユースを1一0で破り初優勝。高校勢が優勝するのは2年連続。流通経大柏高は、全国高校選手権、全国高校総体をあわせても、初の全国制覇となった。


1年前に
「高円宮杯」、滝川二高が初優勝、Jユースを撃沈!
で分析したように、この2年ほど、「Jユースより高校サッカーのレベルが上がっている」という傾向が出て来た。

今のところ、この理由は良く分からないが、こういう傾向は確かにあるように見える。

今大会、徳島代表は、徳島ヴォルティスユースが、四国のプリンスリーグをぶっちぎりで優勝して出場した。しかし、全国大会の予選1次リーグを1勝も出来ずに敗退した。その時、千葉の市立船橋にも完敗している。

常識的に考えれば、選手のレベル、コーチ陣、芝生のグラウンド整備、フィットネスクラブ環境、シャワー施設など、Jリーグユースはほぼ完璧に近い状態であるために、Jリーグユースチームのない地方を除けば、高円宮杯の出場チームの大半がJリーグユースチームになって良さそうなものである。そして、1次予選が終われば、予選突破するチームは、すべてJリーグユースチームとなってしかるべきである。

しかし、現実にはそうはならなかった。

これは、Jリーグのユースチームにかせられた問題提起であると見るべきだろう。要するに、今のJリーグユースチームの”育成事業”に何か根本的な問題があるということである。

これは、選手のメンタリティーの問題かも知れないし、選手のフィジカルな問題かもしれないし、選手の育成スタッフの指導法における問題かもしれないが、こういった事の中の何かが間違っているのである。それゆえ、研究分析が必要である。

私の個人的印象では、おそらく選手の育成事業の問題であると見ている。

ここ徳島ヴォルティスユースの場合、小学校の高学年になると、ヴォルティスユースの「セレクション」を受ける。この「セレクション」は、その年令における、技術や体力や身体的特徴で選別を受けるのである。

したがって、ユースに入れる選手は、比較的”早熟”である必要がある。つまり、その「セレクション」の時に、回りの選手より体が大きく、足が早く、技術も良く、フィジカルにも優れている必要があるのである。さもなくば、人数制限のあるユースチームには入れない。(基本的には、サッカー協会やJリーグが推進しているトレーニングセンター制度(通称、トレセン)も同じような「セレクション」を行っている)

しかし、人間の成長というのは千差万別。個人個人で全く異なる。技術も、早咲きもいれば、遅咲きもいる。

今や4000回を越すボールジャグリング(リフティング)のできる、この私自身、小学校では少年野球、中2までは野球部に所属し、サッカーを本格的に取り組んだのは、野球部からサッカー部に転向した中2後半からである。私が、飛躍したのは、中3以降であり、けっして小学校ではない。大飛躍したのは、肉体面が完成した高2、高3時代である。

このように、サッカー選手の”成長過程”にマニュアルはない。なぜならサッカー選手は生身の人間だからである。

ところが、どうもJユースのやり方は、「選手の成長がマニュアル通り行けば良い」というような何か間違った偏見があるように感じるのである。

これは、まっかなウソだ。明白な間違いである。

まあ、理想としては、何歳でリフティング何回できればいい、というような目標はあるが、それはあくまで理想の目標であって、それを選手に押し付けることは良くない。なぜなら、今日はできなくても、明日に突然できるようになるかも知れないからである。もし今日がセレクション日だとすれば、その選手はせっかくのチャンスを失うからである。

一番の問題は、このように、成長過程が千差万別であるにも関わらず、その「セレクション」の時に規定の成長過程に乗らず、落選してしまった選手たちが、「一生の精神的トラウマ」を持ってしまうという悪い傾向があるのである。たかが、その時にまだ成長過程になく、たまたま落ちたに過ぎないのに、自分は才能がないとか、自分はダメだとか、自分は下手な選手だと錯覚させられてしまうのである。最悪な場合には、こういったことが原因で選手たちがサッカーが嫌になり、止めてしまうのである。

私の価値観では、これがJユースの「セレクション」のもたらす最大の過ちである。

そんなことはまったくのナンセンスに過ぎず、人間の成長にはさまざまなルートがあるために、いくらでも道はあるからだ。

「僕の効き足は頭です」が、代名詞の日本代表の巻選手は、足のリフティングは、20回程度もできない。高校までアイスホッケーの選手だったと聞く。しかし、強靱な肉体とタフな精神、抜群の体力で一気に日本代表選手になったのである。

こういう傾向は欧米にもあり、最近の若いサッカー選手には、バスケットボールの選手だったとか、体操選手だったとかいう”変わり種”がたくさん現れるようになってきた。

このように、一流のサッカー選手に育つにも、いろんなルートや経歴があり得るのだ。このことを、Jリーグユース、Jリーグ、日本サッカー協会は”肝に命じる”べきである。

「学問に王道はない」というが、これはサッカーにも言えることだ。

「サッカーに王道はない」

どうもJリーグ発足初期には、高校サッカーに負けるなという精神で、必死に良い教育を行い、今日本代表にいる遠藤、稲本、高原、明神、小野など育てて来たが、そこそこ名が出てくると、油断し、あぐらをかいて、初心を忘れて来た。むしろ、他の学校サッカーを小馬鹿にするようになったというのが、現実なのではないだろうか。

私は、30年程前千葉県野田市にある東京理科大理工学部で4年間学んだので、よく柏にはボーリングをしに遊びにいったものだ。当時はまだ柏そごうくらいしかなかった。しかし、今や、流通経済大柏のある、千葉県柏には、柏レイソルがある。Jユースのない地方の高校(例えば、滋賀県の野洲高校)が高円宮杯で優勝するならまだ話はわかる。しかし、Jユース柏のある地方の高校が高円宮杯で優勝したのである。

ここには、何か重大な問題が潜むと見るべきだろうヨ。


蛇足として、ついでに付け加えれば、上のサッカーの話は比較的「セレクション」の弊害について分かりやすいだろうが、日本の大学入試もまったくサッカーと同じ間違いを冒しているのである。Jユースの「セレクション」に相当するものが、いわゆる「大学入試」だからである。したがって、上で述べたことは、専門家社会、研究者社会、学者社会にもまったく同様な状況が日本にはあり、多くの弊害を生んで来ているのだ。しかし、このことはあまり理解されていないように見える。

かつて故柘植先生が、「小学生相撲の結果で大相撲の横綱は判別できない」という比喩を使って大学入試問題を看過したように、「小学生サッカーのセレクションの結果で将来のエースは判別できない」のである。同様に「大学入試の結果で将来の学会の重鎮や天才的科学者や大発見者となる人材を判別することはできない」のである。

「何ごとにも王道はない」のである。
2007/10/08のBlog
[ 20:36 ] [ 科学ニュース ]
ノーベル医学生理学賞はカペッキ氏ら3氏に
米ユタ大のカペッキ教授ら3人にノーベル生理学・医学賞

今年度のノーベル生理医学賞は、マリオ・カペッキ(Mario R. Capecchi)、オリバー・スミシーズ(Oliver Smithies)、マーチン・エバンスの米英3氏に授与された。

しばらく前に、
ノーベル賞予測の命中率は?
でノーベル賞の命中率について紹介したのだが、そこで書いたように、今回の受賞者のうち2人のマリオ・カペッキ、オリバー・スミシーズは、2002/03年度のウォルフ賞受賞者であった。

というわけで、ノーベル生理医学賞に関しては、ウォルフ賞に歩があったと言えるかも知れない。明日以降の他の受賞者がどうなるか面白いところである。

ところで、イタリア人のカペッキ博士は現在ユタ大学教授ということらしい。とすれば、おそらく”ユタ大学初”のノーベル賞教授になったのではないかと思う。私自身もユタ大学出身者なので、実に喜ばしく、おめでたいことである。

ユタ大に”乾杯”!

参考:
ノーベル賞
2007/10/07のBlog
未来からの警告

このマリオ・エンジオ・著「ジュセリーノ予言集1」の未来予言。的中率95%という話だが、その2038年一2040年の予言に

「カリフォルニアと日本からオーストラリアまでの太平洋の島々は、地震と火山噴火のために海中に沈む」

というものがある。その理由は、カリフォルニアの”サンアンドレアス断層”が崩壊するというものである。

今日のニュース「米西海岸の“地震の巣“、断層部の試料採取に初成功」は、アメリカの地質調査所などの研究チームが”サンアンドレアス断層”を丹念にボーリング調査したというものである。

研究チームは、こう言っている。

「試料は、月の石と同じくらいの高い学術的価値がある」


数ある地震の候補地でわざわざこの”サンアンドレアス断層”を選んで精密調査したわけは何だろうか?

予言者ジュセリーノは、関係者各位に手紙を出す人物として知られている。だから、ひょっとすれば、アメリカのこの研究者たちにも手紙を送りつけていたのかも知れない。

そんなことを想像させるニュースである。
2007/10/03のBlog
ティム・オライリー:WEB2.0提唱者に聞く----独占インタビュー

これは、「WEB2.0」の概念を提唱した、ソフトウェア界の伝説的人物の1人、ティム・オライリー氏の一問一答。非常に面白いことが語られている。本文は非常に長いので、自分で読んでもらおう。

◇5年以内に大変化
◇「集団知」をけん引
◇モバイル、大きな潜在力
◇「ウェブこそ核心」信じた
◇新しい出版刊行の形
◇「生態系」は変わる

ここでは、私が一番面白いと感じた最後の部分だけ紹介しておこう。

いずれにせよ、オライリー氏が取り出す”比喩”は結構面白い。

【マスメディアが流す情報に比べ、ブロガーの書くブログの中には面白くて信頼の置けるものも少なくありません。新聞やプリントメディアの将来をどう予測しますか。生き残れますか。】

オライリー:生き残ることは出来るだろう。ただ、問題は成功するかどうかだ。楽譜が音楽をシェアする手段だった時代には、人々は楽譜を買ってピアノを弾いた。ところが、音楽が録音出来るようになると、人々は楽器を弾くのをやめた。そして、楽譜の市場は縮小していった。

同じように、プリントメディアは確かに大きく変わるだろう。頭の良い出版者は読者のために何をなすべきか理解するだろうが、どうやるかについては、それほど懸念していないようだ。どんな道具を使うかより、どんな仕事をするのかについて考えなければならない。混乱はあるだろう。新しいメディアには、初期段階では古いモデルほど資金もなく、ビジネスモデルの過渡期には谷間もあるものだ。その過渡期を乗り切り、生き残るために戦わなければならない。「生態系」は成長するのだ。
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この部分にある、

「楽譜が音楽をシェアする手段だった時代には、人々は楽譜を買ってピアノを弾いた。ところが、音楽が録音出来るようになると、人々は楽器を弾くのをやめた。そして、楽譜の市場は縮小していった」

というのは、実に慧眼である。これは、過去から現在や未来を類推する時の常套手段だが、我々日本人が結構苦手にするやり方だと私は考えている。

オライリーは、この「楽譜」の部分に「プリントメディア」、「音楽」に「ニュース」、「楽器を弾く」に「買って読む」を入れて置き換えてみよ、と言っているのである。するとこうなる。

「プリントメディアがニュースをシェアする手段だった時代には、人々はプリントメディアを買って読んだ。ところが、プリントメディアがウェッブで読むことが出来るようになると、人々はプリントメディアを買って読むのをやめた。そして、プリントメディアの市場は縮小していった」

ということになる。

だから、その昔、楽譜を必要とした人々がどのような人に変わっていったか、楽譜はどういう仕事で必要とされるようになったか、を考えるべきだという意見である。

実際には、楽譜は音楽学校の生徒や先生など、プロの音楽家になる人々やその教育者たちに必要となって生き延びたわけだ。だから、プリントメディアにもこれと同じような特殊化が必須ということだろう。

【ウェブ社会のマイナス面についてもお尋ねしなければなりません。例えば、幼い子供がオンラインゲームにのめり込んだりすると、現実世界と仮想世界を区別することがますます困難になるのではという指摘もあります。】

オライリー氏:そうかも知れない。懸念はいつでもあるものだが、インターネットについての懸念は、いつも大げさに語られる。では、テレビの影響はどうだったのか。あるいは、読書の影響は。ルネッサンスの時代に、「乗馬や鷹狩りをするべきなのに、うちの子供は引きこもって本ばかり読んでいる」と嘆いた家族の姿が私には容易に想像出来る。

世界は変わる。もちろん、悪者はいる。常に問題もある。子供のころ、母親に「ボウリング場には麻薬の売人がいるから近づいてはいけない」と言われたことがあった。しかし、ボウリング場と麻薬の売人の固有の連携があるわけではない。

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この部分にある

「ルネッサンスの時代に、「乗馬や鷹狩りをするべきなのに、うちの子供は引きこもって本ばかり読んでいる」と嘆いた家族の姿が私には容易に想像出来る」

というのも面白い。

要するに、その時代時代に応じて、その時代に必須の「常識的教養」は異なる。それが必要とされている時代に新しいメディアができて、これに捕われた子供が出ると、何か異常事態が起こっているかのように見えてしまう、ということを言いたいのだろう。

その結果、現在では

「本を読むべきなのに、うちの子供は引きこもってパソコンばかりしている」

と見えるというわけだ。こういう感じで「世界は変わる」と言いたいらしい。

インターネットのネガティブな面に関しては、

「子供のころ、母親に「ボウリング場には麻薬の売人がいるから近づいてはいけない」と言われたことがあった。しかし、ボウリング場と麻薬の売人の固有の連携があるわけではない。」

の比喩を披露した。要するに、「常にどんなものにも悪者がいる」ということであるが、現在ではこんな感じだろう。

「インターネットには麻薬の売人がいるから近づいてはいけない」と言われたことがあった。しかし、インターネットと麻薬の売人の固有の連携があるわけではない。」

しかしながら、昔の「ボウリング場」と比べて、「インターネット」はより固有の連携ができやすい形態に変わっていることは確かだろう。なぜなら、売人は「ボウリング場」では物理的実在としてそこに存在しなくてはならないが、「インターネット」では非物理的実在としてそこに存在できるからだ。

この点に関しては、さらなる研究が必要だろう。オライリーのいう意味は良く分かるが、その被害も甚大に成りやすく変わっている。

【では、ウェブの将来については楽観的なのですね。】

オライリー氏:私は極めて楽観的だ。

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まあ、たいてい事業の成功者というものは楽観的である。学問の成功者は、学問に対して楽観的である。実業界の成功者は、商売に対して楽観的である。同様に、ハリウッドスターはショービジネスに対して楽観的なものである。

定義からしてそうならざるを得ない。なぜなら、成功者というものは、敗者ではないからである。敗者の痛みは理解できない。

また、そういうふうに楽観的でないと、その事業の裾野を広げられないからでもある。イチローは1万人の野球少年があって始めて誕生するのである。イチローに聞けば、野球に対して極めて楽観的なはずである。努力次第でみんな野球のプロ選手になれるというはずだ。

あるいはまた、成功者は楽観的だから成功したのだというような、俗にいう「成功哲学」のような意味合いで語られる場合もあるだろう。

しかし、私は必ずしもそうは思わない。というのは、世の中には、必ずどんなものにも合う合わない、向き不向き、勝ち負けが存在するからである。大半は途中で挫折するものだ。偶然が成功者を生む。

だとすれば、その途中で挫折してしまった人々に対しても素晴らしいものであるようなものでなくてはならない。がしかし、現実はやったもの勝ちのような側面もあり、かならずしもフェアにはできていないからである。

まあ、なるようにしかならない、というのがもっともフェアなところだろう。
2007/10/02のBlog
女性600人のわいせつ画像投稿で報酬、小学教頭を逮捕

このニュースは、非常に”衝撃的”である。

この教頭さんは、北海道新聞の「 広がる「学校給食リサイクル」」の中で、

”給食生ごみの分別収集は調理員が行っており、生ごみと紙類・ビニール類を分け、生ごみは塵芥(じんかい)庫に半日間、保管し、翌日に業者が回収、札幌近郊のリサイクル施設で飼料や肥料に加工されている。細田孝幸教頭は「五、六年生は家庭科でごみを出さない料理づくりにも取り組むなど、児童の意識は高い。有限な資源は長く使うという時代。その流れを読み取ることが学校にも求められている」と強調する”

と述べるなど、表向きでは全くノーマルであったからだ。

それが、ジキルとハイドのように、夜になると人格が変わり、「毎日のように同市内の繁華街に繰り出しては、知り合った若い女性らのわいせつな写真や映像を撮っていた」わけだ。

さらに、”市内の出会い系カフェと呼ばれる会員制の飲食店で”良さそうな子を見つけると、「札幌市中央区の駐車場に止めた乗用車内で、市内の無職少女(16)に現金6000円を渡し、みだらな行為をする」というわけだ。

現金6千円というのは、6万円の間違いで1桁違うのではないか、と一見驚くが、小銭で少女とお遊びするのが大好きな教頭らしい。

要するに、少女売春などの、俗に言う「エロじじい」の典型的人物のようだ。

この「エロじじい」細田孝幸教頭の自宅からは、なんとなんと「少女の裸などもカメラで撮影しており、同署は小学校などを捜索。自宅と車からわいせつなDVD334枚や264人分の写真、セーラー服や手錠、撮影機材などを押収した。画像の中には未成年者のものも含まれているとみられる」というからさらに驚く。

この「エロ教頭」さんは、「複数の写真雑誌に投稿して7年間に計約1800万円の報酬を得ていた」というサイドビジネスのプロで、”趣味と実益”を兼ねていたというからさらに驚く。

まあ、学校の給料からの小銭で少女売春し、それを写真に撮り、今度はそれをエロ雑誌などに売って儲け、その金で今度はまた少女売春をくり返す、というサイクルビジネスを行っていたということですナ。これは、”プロの手口”であるナ。

ところで、最近見たテレビの話では、アメリカの性犯罪者でどうしても更正できない人間の場合、”去勢”(金玉をくり抜く)が求められるが、これはあまりに残酷なので、実際上同じことになる”生化学的去勢”というものを行っているという。

この”生化学的去勢”とは、抗男性ホルモン剤(男性ホルモンの働きを非常に減少させる薬)というものを入れたカプセルを腕の皮膚化に埋め込む、という治療法である。凶悪な強姦殺人者もこれにより、かなりの効果が出るようだ。

これは、俗に「宇宙人アブダクション」事件というもので有名になった方法の地球人版のマネ(パクリ)である。宇宙人に拉致され、宇宙船の中で体に何かカプセルを埋め込まれたというような話を彷佛させるからだ。アメリカ人は、どこからでもいいアイデアを盗むという典型だろう。

まあ、いいアイデアはそれが宇宙人からであろうが、ウソからであろうが、利用してしまえ、という臨機応変なアメリカ人らしい発想である。

というのも、我々男にも、実は、”女性の生理のようなもの”があるからだと私は考えている。それは、一度射精してから次の射精に来るまでには、男性ホルモンの増加が必要であり、男性ホルモンが溜まるまでは比較的紳士状態を保てるが、男性ホルモンが満タンになり、精子満タンになるといつでも射精レディー状態となり、ワイルドになる。こういう周期を男は持つ。

女性の1ヶ月周期とは異なるが、男性にもこうした周期が存在する。

このワイルド状態には個性があり、極端にホルモン過多の人物の場合は、犯罪者的となる。それほどまでに、本能の制御が困難となるのである。

こういう遺伝的特徴を持つ人物に言葉による「心理学療法」を行っても土台無理な話。こういう場合こそ、”去勢”が必要なのである。

まあ、”去勢”と言えば語弊があるが、”抗男性ホルモン治療”と言えば、同じことだが一般人には聞こえがいいだろうヨ。

それにしても、性ホルモンバランスというのは難しいものだ。少なすぎれば、更年期障害を生んだり、男か女か分からない男になったりする。”おばさんオヤジ”になってみたりもする。かといって、多すぎれば、”エロじじい”、”エロおやじ”に変身するからだ。

いずれにせよ、適当な部類が一番ということだろうヨ。
2007/10/01のBlog
女子サッカーW杯、ドイツが初の連覇…ブラジルに2-0

昨夜深夜、私は、女子サッカーW杯決勝のドイツ一ブラジル戦を見たが、実に面白いいい試合だった。ドイツは、今大会”無失点”で優勝したのだが、この理由が良く分かる試合であった。

何よりもこのドイツの選手(や欧米の選手)たちは、スライディング・タックルが実にうまい。この技術で個人技に優るブラジル選手を封じ込めていた。また、長身選手が多く、ほぼ鉄壁のディフェンスであった。おまけに展開のスピードも物凄く早い。

私の個人的印象では、このドイツはオシム・ジャパンより強いのではないかと思う。

今回、なでしこ日本は1次リーグ予選でこのドイツと同組となり、戦ったわけだが、やはり2一0だった。だから、壮行試合でブラジルに2一1で勝ったのは、”まぐれ”ではなかったということになるだろう。

やはり優勝候補のドイツと同じ組に入ってしまったという、「くじ運が悪かった」ということだろう。

ほんと、一度、オシム・ジャパンとなでしこジャパンで練習マッチをしてもらいたいものである。

ところで、女子サッカー選手のトラップ(特に、太もものトラップや腰トラップ)のうまさの”秘けつ”は、女性にはペニスとボールがないからである。

中高生の男子・女子サッカーを見ても分かるが、女子サッカーでは、金玉にボールが当たって、「コキーン」という金テキ・シーンがない。だから、勇猛果敢にトラップできるのだ。しかし、男の子の場合は、しばしば股間に直撃してガクンというシーンがある。

この意味では、数あるスポーツの中でもサッカーは非常に女子に適したスポーツであるということができるだろう。

日本代表に女性が入る日もそのうちあるかも知れないネ。
2007/09/30のBlog
米物理学者ウォルフガング・パノフスキーさん死去

米スタンフォード大学のウォルフガング・パノフスキー博士(米物理学者)が24日、心臓発作で死去。享年88歳。


パノフスキーと言えば、日本では、パノフスキー一フィリップスの「古典電磁気学」だろう。私も大学生の頃、この本を勉強した。


私がユタ大に留学した1980年代ころには、アメリカの電磁気学の教科書は、学部ではグリフィスの教科書(Introduction to Electrodynamics


大学院ではジャクソンの電磁気学(Classical Electrodynamics
に変わっていたが、パノフスキー一フィリップスの教科書は古い世代の標準的教科書として知られていた。


アメリカの大学生や大学院生は、こうした教科書の章末問題を宿題として、毎日毎日釘付けとなってレポートにまとめ、授業の最初に提出するという生活する。だいたい1学期に、2、3科目受講すれば、各科目が週3時間(=3単位)あるので、ほぼ1週間宿題を解くために費やされてしまう。学期4科目も取れば、週2回は徹夜しなくてはならなくなる。これがアメリカの学生生活である。

私にとっても実に懐かしい時代である。

それと比べると、日本の教科書作りや授業形態は、相変わらず”いいかげん”過ぎる。これも「日本の常識は世界の非常識」の典型の1つである。

いずれにせよ、こうした”アメリカ流”の一翼を担ったのが、パノフスキー博士であると言える。御冥福を祈りたい。

参考:
Wolfgang K. H. Panofsky
電磁気学〈上〉
電磁気学〈下〉
日米の学生生活については「6章一1 アメリカ留学:ユタ大学の4年間」参照。
2007/09/29のBlog
タミフルの脳への興奮作用、ラットで実証 米の邦人教授

またもうすぐ寒くなり、インフルエンザの時期になる。すると、タミフルのお世話に再びならなくなるかも知れない。今日の上のニュースは実に示唆的である。

今年の2月に「日テレ大杉君枝アナが自殺か? 」で、私は次のようなことを書いていた。

”私(と妻)は、最近よく思うのだが、どうやらちまたの病院では、このうつ状態の症状を見せるとすぐに処方してくれる「睡眠薬」があるようだ。我が家では、どうもこの薬の副作用に逆に「うつを悪化させ自殺を促すものがある」のではないか、と疑っている。そして、この薬には”常習性”があり、一度使い出すとなかなか手が離せない状態になる。”

これは、最近、”抗うつ薬”「リタリン」が、まさしくこの原因であり、”常習性”はこの薬のせいだということになり、”抗うつ薬”から除外された。(向精神薬「リタリン」、適応症からうつ病除外へ ) まさに、私の予想がまったく正しかったのである。

また、私は次のように書いていた。

”似たような例にインフルエンザ薬のタミフルがある。タミフルを飲んで突然衝動的に自殺した子供が出た。私はこの場合もアルコールが関与したのではないか、と想像している。というのは、日本では「卵酒」というような庶民の対処療法がある。また、その上に薬を飲めば2重で効くだろうという誤解もある。だから、不幸にも、酒と睡眠薬が重なって自殺者が出たように、不幸にもタミフルと卵酒で衝動的に自殺してしまった、ということかもしれないからである。そんなわけで、我が家では、タミフルの場合は、アルコールも他の風邪薬も飲まない。素人カクテル療法は危険だからである(少なくとも6時間以上の時間を空けて飲む)。”

というふうに、我が家では、「タミフル服用の時には、アルコールも風邪薬も飲まない」と書いていたのだが、今日のニュース「タミフルの脳への興奮作用、ラットで実証 米の邦人教授」によれば、これもどうやら全く正しかったようである。

このニュースには、

『また、エフェドリンという風邪薬に含まれる成分や、アルコールを、タミフルと同時に幼いラットに摂取させると神経興奮作用が強まることもわかった。』

とある。

さらに、私は「「疑わしき”物”は罰せよ」:タミフル vs パピラ 」の中で、次のようにも書いていた。

”ねずみの研究では、子ねずみと大人のねずみで効果が異なり、子ねずみの場合には”リン酸オセルタミビル”(タミフルの主成分)の濃度が脳内で大人の1500倍にも跳ね上がるというのである。そこには、

「なお、ラットを用いた試験では、幼若ラットでは、リン酸オセルタミビルの脳内濃度は、成熟ラットの約1,500倍高くなり、幼若ラットでは、血液脳関門が未熟である可能性が、示唆されている。」

とある。また、その濃度を下げるためには腎臓から排出するので、腎臓の機能が良くないといけない。だから、「腎機能の悪い子供の場合に危険性が高まる」という可能性がある。

いずれにせよ、小さな子供の場合は、塀を乗り越えたり、大人を振り切ったりする能力がない。だから、親の世話になりやすく事故まで至らない。しかし、中高生になると、力もあり大人並みの行動力があるために親も異常行動を制止しにくい。だから、逆に被害者が出易いということは確かだろう。”

これもまた全く正しい予想だったようだ。このニュースによれば、

『和泉教授らは、ラットの脳から取り出した神経細胞を、タミフルと、タミフルが体の中で分解された時にできる薬効成分のOCBという化学物質の水溶液にそれぞれ浸した。すると、どちらも約10分後に神経細胞の活動が過剰に盛んになった。各薬物を洗い流した後も、40分以上神経細胞の興奮は続いた。タミフルそのものよりも、OCBの方が約30倍も作用は強かった。人間で未成年に異常行動が相次いでいるため、今回は思春期前の子どもに相当する生後1カ月の幼いラットの神経細胞を使った。 』

とあるが、「タミフル」にある「ラットの実験結果」が全く正しいということが証明されたということになる。

「幼若ラット(SD系:7日齢、14日齢、24日齢、42日齢)にリン酸オセルタミビル(1000mg/kg、単回)を強制的に経口投与した実験では、7日齢のラットは投与34時間後に死亡(体温低下、蒼白、自発運動低下)し、14日齢のラットは投与10分で死亡し、24日齢のラットは投与時に死亡(偶発死)した。血漿中や脳中のリン酸オセルタミビル濃度(Ro64-0796)や、オセルタミビル活性体(Ro64-0802)濃度は、幼若なラット程(7日齢>14日齢>24日齢>42日齢)、高かった。特に、幼若なラット程、脳中の濃度(暴露量)が顕著に多く(リン酸オセルタミビルは、非臨床的な高用量ある1000mg/kgを投与すると、脳内濃度は、生後7日目の幼若ラットは、成熟ラットより、約1,500倍高い)これは、血液脳関門が未成熟な為、脳へ容易に移行する為と考えられている。」

まあ、要するに、しかるべき人々には

「タミフルは子供には極めて危険。アルコールや風邪薬との混用も危険」

と明白に解っていたということですナ。もっともこのデータは、「中外製薬株式会社の公開審査資料概要」から来ているのだから、販売元自体が最初から知っていた、ということになるだろうヨ。

タミフルの異常行動で子供を失った家族は、作って販売した製薬会社や危険性を知りながら認可した国を訴えてしかるべきということになる。

それにしても、私の”予言”は良く当たるナア。
2007/09/28のBlog
[ 10:03 ] [ 社会 ]
最近、柳田ブログに日本の科学技術研究助成に関する話題があったので、JST関係者とのやりとりを興味深く見ている。というのも、日本の科学技術分野の”お偉方の哲学”とはどんなものか分析できるからだ。

昨日の「朝食前の仕事、JSTについて、引っ越しと旅行、時津風部屋での殺害事件」で、柳田博士はこう書いている。

「ふと生駒さんの書かれた文章を思いだしました。あれくらい、普通にやっている基礎研究者にたいして、自己満足の論文書き、ばらまき予算の対象と悪意というか軽侮的に表現した文書はかつて見たことがありません。何人もわたくしにあれはひどすぎる、あれがイノベーションセンターなるもののトップの言動か、と言ってきた人達はいますが、繰り返しません、みなさん自分の責任で周囲に発信してください。」

ここに語られたように、JSTの生駒俊明さんの意見に、それほど”ひどい”侮蔑の意見があったのだろうか?

そこで、もう一度読み直してみると、私にはどこにも”侮蔑”は見当たらなかった。もしそうなら、柳田流に言えば、私自身も”侮蔑”しているからということになろう。

生駒さんが言っているのは、次のようなことである。

「科学技術基本法」が1995年にできて以来、すでに2期が過ぎ、その10年で40兆円以上が使われた(実際には、約41兆円)。そして今は第3期目で向こう5年で25兆円が用意されている(20兆円を25兆円に変えさせたのは、理研理事長の野依博士らの力である)。

これは、これまでの道路やダムや橋の建設に使ってきた「土木建築工事予算」の大半(これは”地方”への「ばらまき予算」と言われたものである)を凍結して、科学技術へ振り向けたものである。事実、1998年までJPSPもJSTも共に500億円前後の予算であったが、それ以降3倍、4倍と倍増したからである。

昔の土木建築の「ばらまき予算」を日本の大学や研究所に”ばらまいた”にも関わらず、まったくメリット(利潤や利益)が出ないのではこれは困ったことである。もし研究者だけでメリットが出せないのであれば、組織を改革してメリットの出せるシステムに変えていかなくてはならない。(実際には、JSTの投資予算に対して、この投資で行われた研究から得られた利益は1割にも満たないのが現実である。かろうじて、青色発光ダイオード(赤崎流ダイオード)特許関連で年数億というところである)

とまあ、こういうことだろう。

どこに”侮蔑”的部分があるのだろうか?

私には理解できない。

かねてからこの柳田博士には「お公家さん」気質があると見て来たが、ここに来てそれがだれにも明瞭となって来たように見える。

1998年まで年500億円でも十分にやってきた分野に年2000億円以上もの投資を行うようになったわけである。現実には、年5兆円となったわけだ。100倍になったのである。にもかかわらず、研究者の”気分”は年500億円の10年以上前のままでは困る。まったく変化しないのでは納税者はだまっていまい。


生駒さんの意見にはこういうニュアンスが含まれている。これは当然のことである。ましてや日本IBMという私大企業経営者出身の人なのだから、利潤を追求するのは当然であるし、国の研究者を見る目は常に一民間人の立場からとなるのは明白だろう。

まあ、私個人の受けた印象では、生駒さんの見方は、

「年5兆円もの税金(実際には負債なのだが)を日本の大学や国研の研究者に出すなら、我々民間企業へ投資してくれた方がはるかに利益が出る。」

というような見方だろう。

「それでも、国がそうすると決めてしまった以上、しょうがないからその中で利益がでるようにせざるを得ない」

と考えているわけだ。しかし、柳田博士のような大学の研究者は、

「研究が単に論文を書いて終わり」

莫大な税金をもらってもさも当然と思い、それで良い気になっている。ましてや、日本中や世界中を講演して回って贅沢三昧。個人所得で土地を買っては趣味で農作物を作って家族だけで食べる。これでは困る。

「そういうのではなく、その成果が有効に活用され、社会経済的価値の創造に貢献して始めてその任務を果たしたことになる」

そこまで面倒みられる研究者という、新しい人材を生み出す必要がある。まあ、要するに、税金で生きているならそれなりに

「人の為に働け」

ということですナ。

どこが”侮蔑”なのか俺には理解不能だヨ。

いっそのこと、柳田さんは、自分の畑の農産物を「道の駅」でも売って、その利益で研究してみたら良かろう。

きっと、この世の中で100円儲けることがどんなに困難なことかよく分かると思うがネ。
決勝はブラジルとドイツ サッカー女子W杯

『サッカー女子W杯準決勝残り1試合のブラジル一米国戦が27日、中国で行われ、ブラジルが4一0で大勝し、決勝へ』

いやはや、サッカー大国のブラジルが、サッカーはブラジル男子(セレソン)だけのものではないことを証明したようだ。

9月2日の「なでしこジャパン壮行試合、ブラジルを撃破!」で紹介したように、壮行試合のブラジル戦で日本は2一1で勝利して、ワールドカップへ出かけたわけである。

このブラジルが決勝へ見事に進んだわけだから、実力から言えば、なでしこジャパンも決勝に進むだけの力が十分にあったことになる。

問題は、遠征でアウェーの試合の場合の「コンディショニング」や「監督采配」ということである。

選手は水が違う、食事が違う、気候が違うなどのちょっとしたことでも、体調を崩す。特に、O型の選手はその傾向が顕著である。だから、そういうもろもろのことを念頭に置いて大会の臨めるかどうかが勝負の分かれ目となる。

また、監督も選手も大会の独特の雰囲気のために、「試合に飲まれる」ということがしばしば起こる。特に、試合中には、監督が熱くなり、「平常心を失う」ことが多い。相手の強豪国が、コンピュータで試合分析して、冷静に選手交代しているにもかかわらず、日本の監督は、激こうし相手に合わせて、不用意で不適切な選手交代をして失敗するということが実に多い。これが、日本人監督の特徴の1つである。

要するに、自分自身を自制できずに、自分の受けたストレスを発散させ、自分自身を落ち着かせるために選手交代を行ってしまうのである。言いかえれば、ゲームが重要な局面になると、しゃにむに選手交代したくなってしまうのである。

今回の女子ワールドカップでも、イングランド戦で勝てる試合を落としかけたのがこれであった。(「なでしこジャパンvsオシム・ジャパン 」) 好調の宮本の交代がこのゲームのすべてであった。

日本の問題は、こうした「敗戦分析」というものがどこかの第三者機関によって行われることがないために(欧米ではこの仕事をスポーツマスコミの専門家が実に厳しく行うのだが、日本の芸能界化したスポーツマスコミにはこの力がない)、采配を振るった監督自身が自分の失敗を気付かずにキャリアアップしてしまうということである。おそらく、なでしこジャパンの監督もまったく自分の失敗で負けたとは”思っていない”に違いない。しかし、明らかにこの采配は誤りであった。

同様に、最後のドイツ戦でも、絶好調の宇津木を先発からはずし、ドイツの優勢を変えることは出来なかった。これも、監督の采配ミスの1つである。

選手が良い時には監督が良くない。監督が良くても選手がだめ、というように、サッカーというのはなかなか難しいものなのである。
2007/09/27のBlog
[ 14:17 ] [ 歴史 ]
国内最古の木製仮面が出土奈良・纒向遺跡

『邪馬台国の有力候補地として知られる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、弥生時代末期古墳時代初期(3世紀前半)とみられる木製仮面が出土』

というが、私はこの奈良のお面(アカガシ製で、長さ26センチ、幅21・5センチ)を見て、一番最初に「これはどこかで見たぞ。見覚えがある」と思った。


この夏に見たチャン・ツィイ主演の「女帝(エンペラー)」の中の重要なダンスシーンである。奇妙な音楽と歌に合わせて、男達がこんなお面をつけて奇妙な踊りを踊っていた。これを思い出した。

どうしてこんなお面をつけて踊るのか知らないが、中国人の血の中には、太古の昔の記憶が現在も生き続けているということかも知れない。おそらく、弥生時代に来た人々は、中国経由で来たのだろう。


きっとこんなお面をつけ、奇妙な音楽と歌を奏でて踊ったのかも知れない。

そんな想像をかき立てる発見である。
柳田博士のブログ「柳田充弘の休憩時間」にJSTの北澤宏一博士のコメントが、再び掲示されているので、それをここで紹介しておこう。次のものである。

休みの後、仮設階段、福田内閣ここまでの人事、北澤理事からの追加のご意見

この北澤宏一博士は、次のJSTの理事長となるようだ。

そこで、北澤宏一博士とは、どんな人かと調べてみると、まず、この人の経歴は、例えば次のものにある。

独立行政法人 科学技術振興機構 理事 北澤宏一

学歴・略歴 Career
 本籍地 東京都  
昭和41年 3月 東京大学理学部化学科卒業
昭和43年 3月 東京大学工学系大学院工業化学専攻修士課程修了
昭和43年 4月 同 博士課程進学
昭和44年 9月 マサチューセッツ工科大学冶金および材料科学専攻博士課程入学
昭和47年 2月 同 博士課程修了
Doctor of Science 授与
昭和47年 2月 マサチューセッツ工科大学セラミックス部門研究員就任
DSR staff(Division of Sponsored Research)
昭和47年12月 同 辞任
昭和48年 1月 東京大学工学部合成化学科助手就任
昭和54年 3月 同 講師
昭和55年 1月 同 物理工学科配置換え
昭和57年 4月 同 物理工学科助教授
昭和61年 4月 同 工業化学科配置換え
昭和62年 7月 同 教授
平成元年 4月 同 超伝導工学専攻教授に配置換え(工業化学専攻兼担)
平成 7年 4月 同 応用化学専攻教授に配置換え(超伝導工学専攻兼担)
平成11年 4月 東京大学大学院新領域創世科学研究科物質系専攻教授に配置換え
(工学系研究科応用化学専攻、同 超伝導工学専攻教授兼担)
平成14年 5月 科学技術振興事業団専務理事就任
平成15年 10月 独立行政法人科学技術振興機構理事就任

まあ、東大で高温超伝導を最初に研究し、これは本物の”高温”超伝導だと公表して有名になった、あの田中昭二博士のお弟子さんのようだ。(実は、高温超伝導については、ヨーロッパスイスのIBMで発見者のベッドノーツとミュラー博士の許で一緒に研究した、M. Takashigeという日本人が1人いたのだが、このグループのおかげでその人物は日本社会では実質上”抹殺”されてしまったという歴史が残っている。K. A. Muller, M. Takashige, and J. G. Bednorz, Flux trapping and superconductive glass state in La2CuO4-y:Ba


次に、以下のものが見つかった。非常に面白いので、ここで紹介しておこう。これは、5年程前のものなのだろうか。

サイエンス・シアター 科学者が語る、サイエンスの現在 第1回 北澤宏一教授

本文は御自分で読んでもらうとして、ところどころに面白い話題があるので、ピックアップしてみよう。

”科学技術の効用はですね、科学者にお金を渡すと、科学者はいつも何か買いたくて困っていますから、すぐにお金を使ってくれる。何を買うかっていうと、だいたいはハイテク製品なんです。測定器とか。ハイテクの塊のようなものを必ず買うわけです。するとそのハイテクメーカーは、部品を買うという形でどんどんお金が回っていく。 ”

”東大で見ますと、文化I類を受ける学生の方が理科系を受ける学生よりも理科ができるんです。つまり理科が好きなはずなんです。 ”

”(ノーベル賞は)西洋社会がつくったシステム、一種のサロンですから、これからも日本人の受賞者はそんなに増えないと思います。ですからノーベル賞の数で、日本人が日本人の科学レベルをはかるなどと言うのは、自分たちがものさしを持ってないことの現われでしょうね。”

”日本は科学技術がさびれたら、老大国なんて言ってられない。また、小国に落っこってしまう。”

”わたしたちは内部努力として、いかに理科が面白いか、子供たちに宣伝し、面白いことをやっていれば、給料少しくらい安くてもいいじゃないかというように子供たちを納得させようとしているんですけど、お母さんたちが納得しない。”

”わたしたちの頃は単純な答えがあって、科学技術を発達させることで日本の未来が開ける、それに飛び込んだし、それに賭けた。そういう風にやってきたわたしたちに、いまの若い人たちはSO WHAT?と聞いてくる。だからどこがよかったの?と聞く。日本はいま、こんなに問題を抱えているじゃないかと。しかも未来を考えてみると決して明るくは見えないじゃないかと。”


とまあ、日本は「科学者天国」になったという哲学のようですナ。

それにしても、何十兆円という予算が科学技術に回っていく時代。隔世の観あり。

だが、ネットワーク理論の基本を押さえておかないと、この予算が全部、大学や研究機関や大企業の存在する大都市近郊にしか行かず、地方都市は寂れる、ということになる。このことに気付かない。

今は大学の先生たちが、この世の春を謳歌する「科学研究バブル」時代なのである。かつて80年代に日本のビジネスマンが世界中を飛び回っていたように、今は日本の科学者が世界中を飛び回っている。世界中どこへ行っても、犬も歩けば日本人科学者に当たる。そんな時代なのである。

まあ、簡単にまとめれば、

科学技術基本法により、莫大な予算が注がれる。そして、科学は日本の中心となる。科学が日本経済の牽引車となる。しかし、ノーベル賞は欧米サロンだからそんなに出ない。科学がなければ、日本は滅ぶ。

こういう(何か一昔前の新興宗教家の言説めいた響きがする)主張なのだが、はたしてその後どうなったか。

科学が発展しても、国は「格差社会」となり、人心は荒廃し、毎日毎日凶悪犯罪者で溢れかえる世の中となった。つまり、本来人を豊かにし、人を救うために行われる科学が実際には少しも人を救ってはいないのである。確かに目先は救う。しかし本質は救わない。

いやはや、問題は深刻ですナ。

まあ、そうは言うものの、アメリカ生活経験があり、「アメリカ型研究開発」を御存じの人がJST理事長につくというのは、日本の科学者にとっては朗報であることは間違いないだろう。
2007/09/26のBlog
昨日紹介した、ハンス・マーク博士の見解は、今読んでも本当に時代を感じさせないほど”お見事”なものである。

「私の国における基礎研究は、大学を通じて管理されます。それは非常に民主的な、我々が同業者評価法と呼ばれるシステムによって管理されています。化学者は化学者を評価します。物理学者は物理学者を評価します。数学者は数学者を評価します。技術者は技術者を評価します。生物学者は生物学者を評価します。誰かがそのようなシステムの中で新しいアイデアを持ち込もうとしても極めて難しいのです。ほとんどの物理学者は、物理における新しいアイデアを好きではありません。ほとんどの化学者は、化学における新しいアイデアを好きではありません。ほとんどの生物学者は、生物学における新しいアイデアを好きではありません。彼らは、自分達が打ち立てた業績によりかかっているのが一番居心地よいのです。基礎研究を管理するにあたって貴方が確認すべきことは、この同業者評価システムをバイパスする手段があるかどうかということです。」

百戦錬磨のユダヤ系アメリカ人の頭脳と比べると、いかに我々日本人の知能が劣っているか。そう思わされる。

見方を変えれば、マーク博士の言っていることは、学者社会のランドスケープのことである。

つまり、研究者というのは、学者社会という広大なランドスケープの中で、そのローカルな窪みに入り込み、そこから出られなくなった山椒魚のようなものである。たこつぼに入ったタコと言っても良い。

物理学者は、物理学というローカルな村に住む。そこの住人には、その村が非常に居心地が良い。そして、ますますその場に適応していく。数学者は数学の村。化学者は化学の村。技術者は技術の村。生物学者は生物学の村に住み、適応するということだ。

そうなると、1つの村から別の村に行くには、山1つ超えなくてはならない。これは大変だ。だから、そんなリスクを冒すより、自分の平たんな村の中で自分の家を建てて住んだ方が好い。

もしもそんな平和な村にどこぞの異端者や異邦人が迷い込んだらどうなるか。それこそ大変なことになる。まずは、言葉が違う。だから、お互いに出会い、顔を見ても話が通じない。それゆえ、無視、拒絶する。余計な新参者と見れば、場合よっては村八分。たたき出す。

こういう状況が、学者社会なのである。

こんな中で、村と村、街と町を繋ぐネットワークを作るには、誰か別のものが行わないと無理なのだ。こういうことは、町や村の住人にはできない。

物理村の産物を数学村で売れば金になる。技術村の産物を生物村で売れば商売になる。村の住人たちには、そういう事情がまず飲み込めない。

それゆえ、いろんな村を行商して来た行商人のようなやからが、そういう知恵や情報を提供し、時には、お手伝いしなくてはならない。そうしなければ、金にはならない。

とまあ、マーク博士の言説を日本昔話風に味付けすれば、こんな感じだろうヨ。

それにしても、

「ほとんどの学者は、自分の分野における新しいアイデアを好きではありません。彼らは、自分達が打ち立てた業績によりかかっているのが一番居心地よいのです。」

とは、良く当たっているナア。

だから、

「この同業者評価システムをバイパスする手段があるかどうかということです。」

ということになるが、こんな芸当のできる日本人なんかどこにもいないのだ。せいぜいできることといえば、

「自分達が打ち立てた業績によりかかって、権威者になっているのが一番居心地よいのです。」

ということだ。

いやはや、なんか実に寂しいくなってくるナア。
2007/09/25のBlog
今、日本のノーベル賞級の、著名な生物学者の柳田充弘博士のブログ(柳田充弘の休憩時間)で、”静かなる戦い”が繰り広げられている。

その”戦い”は結構興味深いので、今回は、これをここで紹介しておこう。

(あ)
JSTというのは、「独立行政法人科学技術振興機構」のことである。ここの今年の戦略研究事業の公募結果が公表され、この結果に対して、柳田充弘博士が”かみついた”。

それが、9月7日の以下のものである。
説明責任が発生した、JSTの戦略研究事業(9月7日)

”今年度のがきょう発表になりました。
生命科学関係では、はっきりしたのは2つしかありません。
代謝調節機構解析に基づく細胞機能制御基盤技術と生命システムの動作原理と基盤技術の2つの領域です。前者が49件、後者が97件、応募があって、それぞれ4件ずつしか、採択されていません。ため息がでるような、倍率の高さです。
非常に多くの優れた研究者が時間をかけて申請書類を作って応募してこの結果です。科学技術立国とかいいますが、じつはもっとも優れた研究をする可能性があるグループがこのようなとてつもない競争率にあえいでいるという事実がるのです。
それをしったら、わかい人達はこのような分野にやってくるでしょうか。
こなければ良かったとおもう若い研究者が増えているのも、色んな大学のトップクラスの研究者が研究費であえいでいる実態を見ているからです。”

”今年度は536件の応募が12の研究領域にあったのですが、うち53件が採択されたと発表されました。
内訳を見ると、妙なことに気がつきました。
ひとつの研究分野はわずかに5つの応募しかなく、採択はゼロでした。
実用化を目指した組込みシステム用ディペンダブル・オペレーティングシステムという領域でわたくしにはなんのことか分かりません。
情報システムの超低消費電力化を目指した技術革新と統合化技術とディペンダブルVLSIシステムの基盤技術という2つの領域では、それぞれ10件と8件の応募しかなく、採択件数はそれぞれ4件ですから、40%、50%という高率で採択されています。良かったですね、ラッキーでしたね、ですむ話しでしょうか。
これは、ひとことでいって、これら3つの領域には領域の設定に問題があったと考えることも可能です。”

”わたくしには分かりにくい分野なのですが、それなりに調べて分かったことは、企業の研究者以外にたぶんやってる人達があまりいないような領域ではないのか、ともおもえました。
応募がこれだけ少ないのは、ある意味で最初からそういう研究をやっている人の当選率は高いので、なんらかの癒着があったのではないかという疑いが湧いてきます。実は、大学教員の人事でも極端に研究分野を制限すれば候補者は一人になってしまうという事態がありうるのです。研究費も同じです。領域を極端に限定するのは、領域設定者、領域責任者に説明責任が発生します。
そもそも採択件数がゼロなどは、領域設定に深刻なエラーがあったと言わざるをえません。いわゆる「責任者でてこい」、状態でしょう。日本中、研究費でみんな悩んでいるのです、こんな馬鹿げた話しがあっていいのでしょうか。
これまでのJSTの領域設定にはいろんな噂がありました。
今年の結果はひどすぎます。
かなり深刻な事態と私は個人的におもいます。領域設定が恣意的でないのか、癒着がないのか、研究費の額は大きいのですから、今回のような事態には徹底的な説明責任があると私には思われます。
そうでないと、生命科学のような分野から見れば、わが国は他の根拠の乏しい領域を設定することにより、そのぶん生命科学領域のような国家にとっての根幹的な分野を飢餓状態にして、この分野のトップクラスの研究者の大半を絶滅させたいのか、と言いたくなります。 ”

要するに、簡単にまとめれば、こういうことだろう。

自分の専門とする生命科学では、「代謝調節機構解析に基づく細胞機能制御基盤技術」が49件、「生命システムの動作原理と基盤技術」が97件の応募があり、それぞれ4件ずつが採択。つまり、4/49=8%、4/97=4%の採択率であった。

しかし、JSTセンター長である生駒氏(元IBM)のIT関連では、「情報システムの超低消費電力化を目指した技術革新」が10件、「統合化技術とディペンダブルVLSIシステムの基盤技術」が8件の応募。うちそれぞれ4件が採択。ゆえに、40%、50%の採択率。

ここに10倍の差がある。これは、何か癒着のようなものがあったのではないか。それゆえ、責任者にはこの差を説明する責任があるのではないか。

というのが、柳田博士のコメントであった。


(い)
これについて、あくまで”個人的見解”として、JSTの担当理事の北澤氏から9月18日に返答が送られたようだ。それが以下のものである。
飽き飽きする総裁選、JST北澤理事からのレス(9月18日)

さらに、3日後にJSTセンター長の生駒氏から返答が送られた。それが以下のものである。
彼岸の頃、生駒氏からの回答(9月21日)

いずれも、柳田博士の個人的意見に対して、特に返答する義務はないのだが、ご親切にも個人的に柳田博士に返答をメールしたらしい。

読めば分かるように、2人の考え方は、基本的には同じである。

それは、JST(独立行政法人科学技術振興機構)が管轄している「戦略的創造研究」(500億円)と文科省管轄の外郭団体、JSPS(日本学術振興会)が管轄している「科学研究費補助金」(約2000億円)の”哲学”は異なる(ちなみに、この2つの組織については、拙著「何が科学をつぶすのか?」に5年程前にまとめてある)。すなわち、前者は、『国(あるいは国民)に”富み”をもたらすための研究投資』(すなわち、トップダウン型)であり、後者は、『国の研究者に”富み”をもたらすための研究投資』(すなわち、ボトムアップ型)である。

これが、北澤理事と生駒センター長の返答である。

いずれにせよ、2人(に代表されるJSTの考え方)に共通するのは、

「研究者の自主性だけではなかなか進展しない」、
「研究が単に論文を書いて終わりというのではなく、その成果が有効に活用され、社会経済的価値の創造に貢献して始めてその任務を果たしたことになる」

という、”心配”である。

国税をふんだんに使っているわけだから、その投資分を取り戻して余りある利益をあげられるような研究も国民が豊かになるためには社会事業として必須のものである、というような考え方である。それゆえ、研究者が国税を使って、「基礎研究である発見をしてこれこれの論文を書きました」というだけでは、その研究者は有名になり豊かになったとしても、お金を出した国民は豊かにはなりませんぞ、という発想である。

これは、当然のことである。


(う)
これに対して、再び、柳田博士から意見が述べられた。そして、柳田博士のような基礎研究者からの賛同のコメントが寄せられた。それが以下のものである。
少子化時代の運動会、生駒氏の回答についてのわたくしの意見ーその1(9月22日)
リジェクトしにくい、福田総裁の党内人事、ある若手研究者からの生駒氏からの回答についてのメール(9月24日)


とまあ、こういう感じの”静かなる戦争”(税金獲得競争=縄張り争い)である。

はてさて、こういうレベルのやり取りが国のトップレベルか(現役の基礎科学研究者と現役の国家事業発案者の間の)と思うと、私は震撼とする。なぜなら、どちらさんも少しも研究事業というものを正しく理解していないからである。

一般に、個別の研究者は、自分の研究を通してしかものをみないために、研究所や研究機関のグローバルな視野に欠ける。一方、企業研究所長経験者や企業の取り締まり役経験者は、組織の上澄みの総体的なことしかみないために、個別のミクロな視野に欠ける。

方や、ミクロにしか見れないもの、方やグローバルにしか見れないものが、その両方が必要なことがらをお互いで議論すれば、意思疎通ができないことは当たり前。ましてや、それを指揮しようとすれば、そこに問題が生じる。これは明白である。


(え)
どのように研究事業を行えば良いか、というのは、おおまかには、すでに1980年代にその答えは明確に出ているのである。

それは、かつて、昔の東大出の俊優である、故柘植俊一先生の「反秀才論」で紹介されたのだが、1980年代後半のNASAでスペースシャトル計画を出したハンス・マーク所長が、当時日本へ来て講演した中にある。いわゆる「研究開発マネージメント」という概念が日本に初めて上陸したのが、この頃である。(研究開発のマネージメント歴史と省察)もちろん、拙著「柘植の『反秀才論』を読み解く」でも数年前に議論した。

こんな本をわざわざ読む必要はないが、そのエッセンスはしごく単純である。良い機会なのでここで再度紹介しておこう(「反秀才論」から抜粋)。詳しくは、以下を参照(基礎研究---NASAでの一風景1 )。

マーク博士は、日本の筑波での研究会の講演(1986年4月14日、筑波研究交流センター)で、日本人教授の質問:

「そうしますと、アメリカとか、それを真似している我が国のやり方というのは、非常に長期的な視野に立ちますと、世界をリードするようにはならないんじゃないかというような懸念を持つわけですけれども、そこらへんの意見をお聞きしたいのですけど。」

に対して、こう述べたという。

「そのような基礎研究の分野においては投資の問題はあまりないと思う、といわざるを得ません。私が、我々の投資を基礎研究と応用の分野にどのように分割するかについての米国の数字を申し上げますから、貴方は日本の数字を考えてください。」

と答えて、アメリカの予算の数字をあげる。そして一つの図を示した。

一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーーー大学ーー→ーーーR&D研究所ーーー→ーー企業の製品開発ーー→ー経済利用
ーーーー↓ーーーーーーーーー↓ーーーーーーーーーーー↓ 
ーー研究者はテーマーー研究者は、必ずしもーーー選択の自由なし
ーーを自由に選択ーーーテーマ選択の自由がない
ーーーーーーーーーーー(任務があるから)。
ーーーーーーーーーーー研究者は任務に適合した
ーーーーーーーーーーーテーマを選択する必要あり

資金ーー1ーーーーーーーー10ーーーーーーーーー100
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一

マーク博士が示したこの図の意味は、基礎研究に関わっている研究員1人に対して10人以上の応用研究者がおり、100人以上の企業研究者がいる、ということである。言い換えて、お金に換算すれば、基礎研究の場合、応用研究で使う約10%のお金を使う、ということである。その理由は、どこの国においても、基礎研究をやるだけの能力のある人の数は少ないからだとマーク博士は述べた。

「私自身、そのタイプでないことを知っています。私は、理解はできますが、それを行うことは出来ません。実際やることのできる人は非常に少ないのです。だから、この点で早く壁にぶつかります。応用研究をやることのできる人は多くいます。そしてもちろん誰だって何等かの形で経済には貢献しています。」

この観点からすれば、上述の科研費2000億円の研究費が使われるとすれば、その10倍の2兆円が応用研究費であり、さらにその10倍の20兆円が企業開発研究費であるべきだ、ということとなる。

しかし、1年度の研究費がこれだけかさむとすれば、実質上は年5兆円しかない科学研究資金を遥かに超えてしまうことになる。したがって、実際には、年5兆円を111分してその1が基礎研究費、10が応用研究費、100が開発研究費ということになる。

すると、基礎研究費500億円、応用研究費4500億円、開発研究費4兆5000億円という計算になる。(ちなみに、開発研究費の中に、教育予算も入る)

まあ、これがマーク博士のいう、アメリカ型の研究費配分で考えた場合の日本の研究費配分と考えられる。

ところが、日本の場合は、基礎研究なのか、応用研究なのか、開発研究なのか、実に曖昧模糊としていて、研究者自身自分がどこに入るか分かっていない場合が多い。自分がやっている分野が基礎科学だから自分の研究もまた基礎研究である、というような考え方である。しかし、これは変だ。

なぜなら、世界で一般に言う(マーク博士の考えている)意味の”基礎研究”とは、「世界の基礎科学の歴史を書き換えるような研究」の意味である。つまり、「真にブレイクスルーとなる研究」を基礎研究という。だから、だれかが、やった基礎研究を自分が使って行うような研究は、基礎研究とは言わない。これは、応用研究に入る。

例えば、「シュレディンガー方程式」を使って行う研究は、この方程式の応用研究である。「シュレディンガー方程式」の成立を問う研究やこれを超える方程式を見つけるというような研究は基礎研究であると言える。同様に、「ポアンカレ予想」を証明するというような研究は基礎研究であり、証明された「ポアンカレ予想」を使う研究はその応用研究である。

この意味では、日本の大学で行われているほとんど8割は海外の著名な研究者の発明したオリジナル研究の応用研究なのだから、こういう研究者が自分を”基礎研究者”と名乗るのはかなり語弊がある。

マーク博士のいう意味はそういう”厳しい”意味である。ここを誤解してはならない。

実質的に本当の基礎研究を行える研究者は、本当にごくわずかしかいないのである。基礎科学の国のアメリカでもそうなのだから、日本など推して知るべしである。

この意味では、科研費2000億円というのは、はっきり言って、”多すぎる”というのが私個人の見方である。同じ意味で、JSTとJSPSの予算の額は逆転すべきだと私は見ている。


(お)
そして、マークは非常に重要な指摘へと入る。

「私は、我々米国と日本の両方が、基礎研究の分野で共に面している危険は、そこにお金を十分につぎ込んでいないことではなくて、お金を間違った人につぎ込んでいることです。」

これは非常に重要な指摘であると私は思う。マークはここで、

「私の意味していることがどういうことかお話しましょう。」

と言って、さらに非常に重要な指摘を行う。

「私の国における基礎研究は、大学を通じて管理されます。それは非常に民主的な、我々が同業者評価法と呼ばれるシステムによって管理されています。化学者は化学者を評価します。物理学者は物理学者を評価します。数学者は数学者を評価します。技術者は技術者を評価します。誰かがそのようなシステムの中で新しいアイデアを持ち込もうとしても極めて難しいのです。ほとんどの物理学者は、物理における新しいアイデアを好きではありません。ほとんどの化学者は、化学における新しいアイデアを好きではありません。彼らは、自分達が打ち立てた業績によりかかっているのが一番居心地よいのです。基礎研究を管理するにあたって貴方が確認すべきことは、この同業者評価システムをバイパスする手段があるかどうかということです。」

ここで、マークが言っている「同業者評価法」というのは、アメリカではごく一般に行われているもので、大学や研究所の運営者が、自分の研究機関所属である研究者の業績についてそれとなく、他の研究機関にいる同業の研究者に評価してもらう、という方法の事である。またピアレビュー形式による論文査読法も広い意味ではこの「同業者評価法」の一つと言えるだろう。マークはこういうシステムの範囲内では、専門家というものは、革新的アイデアに対して非常に「保守的」に振る舞うものである、ということを言っている。そこで、なにがしかのバイパス(もう一つのチャンネル)がこういうシステムには必要なのである、ということである。


このマーク博士の意見がいかにすごいものかは、柳田博士やその賛同者の基礎研究者の意見をみれば明らかである。正直、本当に恐れ入る。今から20年以上も前に慧眼にもそれを指摘していたからだ。

マーク博士流に言えば、「生物学者は生物学者を評価します。」ということである。そこで、上の部分を今の問題に書き換えればこうなるだろう。

「私の国における基礎研究は、大学を通じて管理されます。それは非常に民主的な、我々が同業者評価法と呼ばれるシステムによって管理されています。化学者は化学者を評価します。物理学者は物理学者を評価します。数学者は数学者を評価します。技術者は技術者を評価します。生物学者は生物学者を評価します。誰かがそのようなシステムの中で新しいアイデアを持ち込もうとしても極めて難しいのです。ほとんどの物理学者は、物理における新しいアイデアを好きではありません。ほとんどの化学者は、化学における新しいアイデアを好きではありません。ほとんどの生物学者は、生物学における新しいアイデアを好きではありません。彼らは、自分達が打ち立てた業績によりかかっているのが一番居心地よいのです。基礎研究を管理するにあたって貴方が確認すべきことは、この同業者評価システムをバイパスする手段があるかどうかということです。」

これで、私が言いたいことが明白となるだろう。

つまり、JSTのやるべきことは、「基礎研究を管理するにあたって、この同業者評価システムをバイパスする」ということなのだ。決して、JSTそのものが、「同業者評価法システムによって管理してはならない」ということである。

言い換えれば、柳田博士など生物学者は、生物学の既存の体系が大好きだ。そこに部外者が持ち込む斬新なアイデアは好まないのが普通。しかし、時に社会には、全く別分野のアイデアが既存の分野の大いなる進展を生むことがある。例えば、生物学分野にIT産業などのハイテクを持ち込むというような場合である。しかし、既存の生物学者は保守的でこうしたことはしたがらない。こういうような場合に、だれかが「バイパス」としてそれをうながさなくてならない。それをJSTのような研究者とは違う第三者機関が行えば良いのである。

これがマーク博士の言わんとしたことである。

しかし、生駒氏などが現在のJSTが行っているのは、明らかに、IT関連のハイテク同業者評価法システムによって管理した”新たなる”分野をつくり出そうとしているということである。これでは、マーク博士の言う意味の「バイパス」が日本の研究者社会にできようはずがない。

これが、自分の分野に保守的な現場の研究者たちからは、何か”癒着があったのではないか”と見えるということなのである。


この私の観点からすれば、既存の生物学者の世界に、ITやディジタル技術やスーパーコンピュータなどのハイテク分野を持ち込み、「ショットガン法」によって全遺伝子配列をどんどん解明していくというクレッグ・ベンター博士の研究など日本からは出ようはずがない、ということが誰にも分かるだろう。

なぜアメリカでこれができるかと言えば、NASAのマーク博士のような、研究開発の”名伯楽”がたくさん存在するからである。かれらが研究と研究の間を”見事に”バイパスするからである。

「亜米利加は、上に行く程伶俐でござる」

と勝海舟が言った意味が分かるだろうヨ。
以下は、4年程前に書いた、拙著「柘植の『反秀才論』を読み解く」のp112のエッセイである。参考のため再度ここで紹介しておこう。

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柘植の「反秀才論」第三章には特に面白い話題が2つある。それが、一つは断食の効用を述べた【極限と真実】という節と、ハンス・マーク博士の研究マネージメント法を論じた【基礎研究---NASAでの一風景】という節である。

この2つはそれぞれ4つの小節に分かれているが、まずハンス・マーク博士の話題の方から紹介しよう。

【基礎研究---NASAでの一風景】
【1 はじめに】
この節では、以前ちょっと紹介した、ハンス・マーク博士来日の時の講演会の話が主題である。これは、1986年(昭和61年)4月14日、筑波研究交流センターで行われたようである。この講演会は、「研究開発マネージメント」に関するもので、産、官、学の研究者、研究管理者を対象とするものであったようである。そして、講演後異例とも言える程の長時間の質議応答があり、この時の同時通訳を再録したものが、この節の話題である。

ちなみに、私はちょうどこの年の9月上旬にユタ大学に留学し、それから4年の後「1次元準周期格子理論」でPh. D.を取って帰国したのだが、その翌年から2年間富士通にいた頃とその後3年間理研にいた頃、ここ筑波研究交流センターで、準周期系に関する研究会があり、2、3度参加したことがある。だから、この筑波研究交流センターとはどんなところかだいたい知っているのである。

また、「研究開発マネージメント」なるものは、私がここ阿南に来て、1999年暮れから2000年初めに行われた工業技術院の「研究人材マネージメント」研究会なるものに参加したことがあるので、少しはどんなものであるのか、見当がつくのである。これは、2002年度から筑波にある工業技術院の持つ研究所群が独立行政法人化するために、どのような制度やシステムに再編すべきかを論じた研究会であった。大まかな計画は官僚の手によって行われていたが、その精神的な部分、哲学的な部分、また細かな部分も含めて、どのようなミッションでいかようにすべきであるか、熱い議論があったことを私はよく覚えている。私はたった一人フリーランス研究者での参加であったが、私の主張は、「とにかく臨機応変に柔軟性ある組織にすべきである」、ということであった。これはまたいつか書くこともあるだろう。いずれにせよ、独立行政法人、産業技術総合研究所という組織形態は、この研究会で生み出されたものなのである。この時の私の意見とこれから紹介するマーク博士の意見と非常似ているので驚くのである。

さて、マーク講演会に話を戻そう。まず、最初の質問者は、金沢工大の中川武夫教授であった。中川は、マークの言う、基礎知識によって応用能力も導かれて来る、という話に対して、その当時自分がゲッチンゲン大学で見てきたこと---教授の教育の自由、研究の自由など---と照らし合わせて、本当にそれだけで十分なのか、と心配する。そして、こう質問する。

「そうしますと、アメリカとか、それを真似している我が国のやり方というのは、非常に長期的な視野に立ちますと、世界をリードするようにはならないんじゃないかというような懸念を持つわけですけれども、そこらへんの意見をお聞きしたいのですけど。」

これにマークは

「そのような基礎研究の分野においては投資の問題はあまりないと思う、といわざるを得ません。私が、我々の投資を基礎研究と応用の分野にどのように分割するかについての米国の数字を申し上げますから、貴方は日本の数字を考えてください。」

と答えて、アメリカの予算の数字をあげる。そして一つの図を示した。


一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
ーーーー大学ーー→ーーーR&D研究所ーーー→ーー企業の製品開発ーー→ー経済利用
ーーーー↓ーーーーーーーーー↓ーーーーーーーーーーー↓ 
ーー研究者はテーマーー研究者は、必ずしもーーー選択の自由なし
ーーを自由に選択ーーーテーマ選択の自由がない
ーーーーーーーーーーー(任務があるから)。
ーーーーーーーーーーー研究者は任務に適合した
ーーーーーーーーーーーテーマを選択する必要あり

資金ーー1ーーーーーーーー10ーーーーーーーーー100
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一

「これが何を意味するかというと、基礎研究に関わっている研究員1人に対して10人以上の応用研究者がおり、100人以上の企業研究者がいるということです。」

「ここでちょっと申し上げます。正しいかどうか分りませんが。基礎研究の場合に重要なことは、応用研究で使う約10%のお金を使うということです。どこの国においても、基礎研究をやるだけの能力のある人の数は少ないのです。」

「私自身、そのタイプでないことを知っています。私は、理解はできますが、それを行うことは出来ません。実際やることのできる人は非常に少ないのです。だから、この点で早く壁にぶつかります。応用研究をやることのできる人は多くいます。そしてもちろん誰だって何等かの形で経済には貢献しています。」

そしてマークは非常に重要な指摘へと入る。

「私は、我々米国と日本の両方が、基礎研究の分野で共に面している危険は、そこにお金を十分につぎ込んでいないことではなくて、お金を間違った人につぎ込んでいることです。」

これは非常に重要な指摘であると私は思う。マークはここで、

「私の意味していることがどういうことかお話しましょう。」

と言って、さらに非常に重要な指摘を行う。

「私の国における基礎研究は、大学を通じて管理されます。それは非常に民主的な、我々が同業者評価法と呼ばれるシステムによって管理されています。化学者は化学者を評価します。物理学者は物理学者を評価します。数学者は数学者を評価します。技術者は技術者を評価します。誰かがそのようなシステムの中で新しいアイデアを持ち込もうとしても極めて難しいのです。ほとんどの物理学者は、物理における新しいアイデアを好きではありません。ほとんどの化学者は、化学における新しいアイデアを好きではありません。彼らは、自分達が打ち立てた業績によりかかっているのが一番居心地よいのです。基礎研究を管理するにあたって貴方が確認すべきことは、この同業者評価システムをバイパスする手段があるかどうかということです。」

ここで、マークが言っている「同業者評価法」というのは、アメリカではごく一般に行われているもので、大学や研究所の運営者が、自分の研究機関所属である研究者の業績についてそれとなく、他の研究機関にいる同業の研究者に評価してもらう、という方法の事である。またピアレビュー形式による論文査読法も広い意味ではこの「同業者評価法」の一つと言えるだろう。マークはこういうシステムの範囲内では、専門家というものは、革新的アイデアに対して非常に「保守的」に振る舞うものである、ということを言っている。そこで、なにがしかのバイパス(もう一つのチャンネル)がこういうシステムには必要なのである、ということである。

そして司会の柘植の研究を例にする。

「ここにおられる柘植教授は、彼が彼の最初の仕事をBBGKY法で実施したとき、私が正しく記憶していればの話ですが、それを発表するのに困難がありました。柘植教授、記憶しておられますか。」

「なぜ発表に苦労したかというと、これが新しいもので、初めてのものだったからです。そして、同僚や評価者はそれに対してハッピーではありませんでした。」

「ところで重要なことは何でしょうか。それは、我々は発表したということです。なぜなら、我々はその評価のメカニズムをバイパスすることが出来たからです。多少は時間がかかりましたが、NASAエイムスのスタッフはやりました。3年おくれましたけれども、彼の研究結果を「Physics of Fluids」に発表できるようにしたのです。」

「今では発表するのに何の問題もありません。如何なる基礎研究のシステムにおいても、それを通り抜ける脇道がなければなりません。もし必要なら、マネジメントによってくぐり抜ける道がなければなりません。」

「『選択することからの自由』という言葉は非常に重要です。自由という言葉はまた、何等かの形でスタッフをバイパスして、私の大学の場合、私が、それをできる人々に直接会うことができるということです。ですから、私は、基礎研究において重要なことは、お金の要因よりも、本当に良い新しいことがスタートできるように、よりうまく管理する能力を持つことだと思います。」

そして最後にマークはアインシュタインのことを引き合いに出す。

「アルバート・アインシュタインが、私がお話した、物理学の世界に革命をもたらした論文を、1905年に書いた時、彼が物理学者として雇われていなかったのは、決して偶然ではなかったのです。彼は、スイスの特許局の事務員として働いていました。物理学者達は誰もアインシュタインを助けようとはしませんでした。しかし、そこにはスイスの学会があり、それがバイパスの役目をしたのです。特許局は、彼を喜んで採用しました。なぜなら、彼は頭のいい男だったからです。そして学会誌はその論文を喜んで発表しました。というのは誰かがそれを発表する必要があるといったからです。
 制度にそのような柔軟性が有る限り私は問題はないと思います。私はそれは、別の言葉でいえば、お金ではないと思います。間違った人々が関わっているから基礎研究は停滞するのです。」

翻って、マーク博士が来日した1986年から、今年で18年経ったわけである。果してマークの言った「柔軟性ある組織」は日本に根付いたであろうか?残念ながら、私の知る限り、この問題はまったく考慮されず、ほとんど手付かずで来たように、私には見える。

というのは、マークがいった意味の「バイパス」すること、されることを、どういうわけか、日本人は非常に嫌うからである。ある意味で、人を「出し抜いた」り、人に「出し抜かれた」ように思い、非常に嫌うからである。

しかし、大学や研究所など、研究分野においてそれを嫌うのはやはり筋違いである、といえるだろう。基礎研究とは、より新しいアイデアによって時代の権威を出し抜いていくことであるからである。したがって、もしこういうバイパスするシステムがなければ、どんな良いアイデアや提案であっても、それは日の目を見ることはないだろう、からである。アメリカではこのバイパスの役目を大学長自らが行っている、ということをマークは証言したというわけである。

かつて、勝海舟が「アメリカは上へ行く程賢いやつがいる」といっていた意味が、このマーク博士の説明で実に良く分るだろう。日本社会が停滞したり、日本の基礎研究が停滞する理由は、お金の問題ではなく、間違った人々にお金を投資していることからくる、一種の人災である、ということである。もちろん、間違った人々に権威をつけるということもこれに入るだろう。それを正すには、間違った人々の間をうまくバイパスできる柔軟なシステムが重要である、ということである。肝に銘ずべきことである。
2007/09/24のBlog
セブン・シスターズ:火星に7つの洞くつ…米探査機撮影

アメリカの”スターゲート”プロジェクトの1人、超能力者マクモニーグルは、「火星人は今も存在し、それは地下に住んでいる」とリモートビューイングしたことで知られているが、それが本当かも知れないと思わせるような発見のニュース。

なんと火星の表面に7つの”洞くつの入り口”らしきものが見つかったというのである。NASAの専門家らは「過去に洞くつ内で生命が存在した可能性もある」と指摘し、「セブン・シスターズ(7人の姉妹)」と命名。

写真で見る限りでは、完璧な”円形”の入り口であり、何らかの”知性体”でないと作れそうにない代物。直径約100一250m。

火星表面には”人面岩”も発見され、一時は話題騒然となったが、その後、それは映像処理の際の間違いだということになった。

これもまた、あとで、何かの間違いということになる運命なのかも知れないが、相変わらず火星は謎めいた存在であり続けている。まあ、そうしておかないと、火星探査計画を行っているNASAの研究者の研究費がストップし、のたれ死にしてしまうからだが。

いずれにせよ、これが事実なら実に面白い。
[ 15:40 ] [ 政治・経済 ]
自民幹事長・伊吹氏、政調会長に谷垣氏、総務会長は二階氏

安倍さん退陣後は、福田総裁(70)となった自民党。

党三役は、いわゆる”派閥人事”で、
幹事長:伊吹文明文部科学相(69)、
政調会長:谷垣禎一・元財務相(62)、
総務会長:二階俊博総務会長(68)、
選挙対策委員長:古賀誠・元幹事長(67)
となったというニュース。

要するに、年功序列の昔ながらの派閥人事となったわけだが、「自民党をぶっこわす」と言って始まった「小泉純一郎改革」はこれで”もとの木阿弥”となったということだろう。すなわち、「自民党はぶっこわれずに復古した」のである。

結局、これでは、「小泉純一郎改革」とは何だったのか、ということになる。高額所得者や有名人、著名人や大企業を優遇する、格差社会を生むことが目的で、庶民の郵便貯金を金持ち連中が、体よく利用して甘い汁を吸いやすくしたという改革であったということだろう。

その目的がだいたいすんだので、それでは基の派閥人事に先祖帰りしても何も問題ないということなのかも知れない。困ったことである。

福田のだんなこそ、小泉政権時代の官房長官だったわけだから、「自民党をぶっこわす」政権の参謀だったはずである。が、「のどもとすぎれば熱さ忘れる」というおとぼけ振りは健在である。

その昔の私の掲示板でも、話題になったが、この福田さんこそ、小泉政権を作った田中真紀子さんを後ろから”追い落とした疑惑”を持つ人物である。外務省の公金不正使用問題が明るみに出ることを恐れたわけだ。みんなすぐに昔のことを物忘れするから、覚えていないのかも知れないナ。

果たして、年功序列の”おとぼけ内閣”に何ができるのだろうか。

それにしても、福田さんは嬉しそうだったネ。
2007/09/20のBlog
「日本の常識は世界の非常識」と言われて久しいが、今や日本の医療現場は第三世界並み、ひょっとしたら発展途上国以下のレベルにまで低下したようだ。

以下に2つほど、そんな日本の”現状”を紹介した記事を紹介しておこう。

1つめは、細菌性髄膜炎のワクチンの問題。この病気は幼児が感染すると、かなりの確率で死に、助かっても障害児となる脳のダメージを生む。家族にとっては実に深刻な問題。

実はこれを”予防”するためのワクチンが世界には広まっているのだが、日本では厚生労働省の官僚や政治家のためになかなか認可されず、多くの子供達が犠牲になっている。

バイアグラなど、”スケベ”な政治家やおやじどものための薬は即座に認可されるが、無垢な子供達のためにはなかなか認可されないという馬鹿げた伝統がある。

そんな”さもしい国”のお話である。

2つ目は、とある冒険家がヨーロッパで左足をばらばらに打ち砕くという、瀕死の自動車事故にあった。しかし、フランスの病院にヘリで搬送されるやいなや即座に治療を受け、数カ月で歩けるようになる、とまで言われたのだが、保険がなく、医療費がかさむためにやむおえず日本で治療を受けたが、その結果、左足に障害が残ってしまったという、実に”可哀想な”お話である。

細菌性髄膜炎 防げるのに

”国内の細菌性髄膜炎の60%以上はHib(ヒブ=インフルエンザ菌b型)と呼ばれる菌が原因で、ワクチンは100か国以上で導入されている。原因の25%を占める肺炎球菌にも乳幼児用のワクチンがあり、84か国で使われている。”

”ワクチンが導入された国では、細菌性髄膜炎の患者が激減している。”

”一方、世界保健機関(WHO)は、乳幼児への定期接種を推奨しており、Hibワクチンを導入した9割以上の国が定期接種としている。”

”日本の予防接種体制は、海外に大きく後れをとっている。他の先進国では、ポリオ、おたふく風邪に、日本の製剤に比べ副作用が少ないワクチンが使われ、乳幼児に下痢や嘔吐(おうと)を起こすロタウイルス胃腸炎への新しいワクチンの定期接種化が進んでいる。”

”細菌性髄膜炎 脳や脊髄(せきずい)を包む髄膜に細菌が入って起きる。年間1000人近くの子供が発症し、半数以上は0一3歳に集中する。患者の約5%が死亡、15一20%に後遺症が残る。抗生物質で治療するが、薬が効かない耐性菌も増えている。”


冒険家・風間さん、バイク旅で日欧の医療の差を痛感

”風間さんは04年1月、出場していたパリ・ダカールラリーの最中に、モロッコで大型トラックと正面衝突し、左のひざから下を粉砕・複雑骨折した。 ”

”空路、パリの公営病院に運ばれた。世界中のスポーツ選手がけがの治療に訪れることで知られ、元横綱の貴乃花もひざを治療したという病院だ。医師は「5月までいれば歩いて帰れるよ」と話したが、フランス人なら無料の医療費が1日15万円もかかり、1カ月で帰国せざるを得なかった。 ”

”その後の日本での治療は難航した。感染症にかかり、ひざの「皿」(膝蓋(しつがい)骨)を取り除かねばならなくなった。手術を繰り返したが、ひざと足首に障害が残り、今もつえが手放せない。 ”

”その一つ、ドイツの外傷専門病院「トラウマセンター」では、1日に何度もドクターヘリが発着していた。山岳事故や交通事故の重傷患者が運ばれるたび、骨、関節、血液などそれぞれの専門医がチームを組んで素早く対応する。 ”

”社会復帰のためのリハビリ施設も充実していた。実物と同じ道具をそろえたダイニングキッチンがあり、庭には歩行訓練用のさまざまな路面や家庭菜園まであった。”

”「日本にもこんな専門病院があれば……」。足が不自由になった無念の思いを鎮めるためにも、日本で外傷治療態勢の充実を訴えていこうという気持ちが固まった。 ”
[ 16:53 ] [ ジョーク ]
沢尻エリカ22歳年上と車中キス&お泊まり

『沢尻エリカ(21)と22歳年上男性のデート現場が、20日発売の週刊誌「女性セブン」にキャッチされた。お相手は六本木ヒルズのCMを手掛けるほか、幅広く活躍する敏腕プロデューサーの高城剛氏(43)。同誌は今月中旬、沢尻が高城氏のポルシェに乗り込む写真などを掲載。また、2人は車中で何度もキスを交わしたり、会食後は高城氏の自宅で一晩過ごしたという。沢尻の所属事務所は「プライベートなことなので把握していません」と話している。』

俳優とは”夢を売る”商売。”体を売る”商売ではない。

プライベートなこととはいえ、こういう”変態”女優はテレビから追放してもらいたいものだネ。

日本の”おやじ”とキスすると、まず100%ピロリ菌をうつされる。なぜなら60%の成人がピロリ菌を持っているからだ。したがって、性的にアクティブすぎる”おやじ”の100%はおそらくピロリ菌を持っている。

次に歯槽のう漏菌(口が臭くなるやつ)、虫歯菌(虫歯になるやつ)もうつされる。

日本の”おやじ”とセックスすれば、30%の確率で、子宮筋腫や子宮癌になる。なぜなら、人パピローマウィルス(いぼ菌)を持っていない日本人の”おやじ”は皆無だからだ。

さらに、エイズウィルス、白血病ウィルス、A、B、C、D、E型肝炎にかかる可能性が高まる。その他にも、ヘルペス、いぼ、にきび、さまざまな病気もうつる。

おまけに、悪いやつとつきあうと、顔や体型が崩れる。もっと悪いことに、体には感染しないが、脳に感染するという悪い病気もある。つまり、悪い趣味趣向が感染するのだ。

すなわち、顔には体液でうつされたにきびや吹き出物が出て来て顔がくずれ、遊び過ぎのために体がぶよぶよし、股間が弛んでくるのだ。そして、ふとしたところに、私生活の乱れが付きまとう。

つまり、”女優失格”となる。

それにしても、このだんな、自分の顔を棚にあげての”面食い”のようだナ。こいつが、性感染症の”ハブ”でないことを祈るのみ。

こういう”性犯罪者”は”去勢”した方が良さそうですナ。


参考:
キンゼイ博士の忘れ物:”子宮頸(けい)がん”
スケールフリーネットワークとエイズ禍
エイズ禍の問題:若者を蝕むエイズ