Blog
2008/02/21のBlog
[ 17:58 ]
[ 徳島サッカー ]
2008年徳島県高校サッカー新人戦。準々決勝、準決勝。
【2008年徳島県新人戦】
【準々決勝】2月16日
徳島商4一0(3一0:1一0)川島
阿波3一1(2一0:1一1)城北
鳴門5一0(2一0:3一0)富岡東
徳島市立0一0(0一0:0一0、延長0一0:0一0、PK10一9)城ノ内
【準決勝】2月17日
徳島市立0一0(0一0:0一0、延長0一0:0一0、PK4一3)徳島商
鳴門1一0(1一0:0一0)阿波
それにしても、徳島市立は面白い。3試合で2得点しかしていないにもかかわらず、3試合無失点。2試合連続のPK戦を制し強豪を倒した。これは久しぶりの快挙と言えるだろう。
この戦い方から推測すれば、決勝も徳島市立は無失点を目指すだろうから、再びPK戦の勝負ということになるだろう。
しかし、これが弱いチームが強豪に勝ち上がる唯一の方法である。”サッカーの極意”を知っている分、徳島市立に歩があるように見えるが、果たしてどうなるか。楽しみな決勝である。
決勝は、徳島スポーツビレッジにて2月23日午前10時半キックオフ予定。
参考:
2008年徳島県高校サッカー新人戦:1回戦、2回戦
【2008年徳島県新人戦】
【準々決勝】2月16日
徳島商4一0(3一0:1一0)川島
阿波3一1(2一0:1一1)城北
鳴門5一0(2一0:3一0)富岡東
徳島市立0一0(0一0:0一0、延長0一0:0一0、PK10一9)城ノ内
【準決勝】2月17日
徳島市立0一0(0一0:0一0、延長0一0:0一0、PK4一3)徳島商
鳴門1一0(1一0:0一0)阿波
それにしても、徳島市立は面白い。3試合で2得点しかしていないにもかかわらず、3試合無失点。2試合連続のPK戦を制し強豪を倒した。これは久しぶりの快挙と言えるだろう。
この戦い方から推測すれば、決勝も徳島市立は無失点を目指すだろうから、再びPK戦の勝負ということになるだろう。
しかし、これが弱いチームが強豪に勝ち上がる唯一の方法である。”サッカーの極意”を知っている分、徳島市立に歩があるように見えるが、果たしてどうなるか。楽しみな決勝である。
決勝は、徳島スポーツビレッジにて2月23日午前10時半キックオフ予定。
参考:
2008年徳島県高校サッカー新人戦:1回戦、2回戦
[ 10:18 ]
[ サッカー ]
日本、1一0で中国に勝利 サッカー東アジア選手権
安田独走、キーパーと1対1。華麗なループシュートで2点目か、と思ったその瞬間、中国のゴールキーパーが”真空飛び前蹴り”で、安田は吹っ飛んだ。
だれもが「キーパーの一発退場」と思った。そして、日本選手がキーパーをぶっとばし乱闘ぼっ発かと思った。
しかし、レフェリーは、単なる警告のミスジャッジ。日本選手も猛抗議もなく、事なきを得た。
一方、安田は負傷退場。今期の選手生命が危ぶまれるほどの重傷を負った。
こんな低レベルな主審で行われる東アジア杯。本当に参加する意味はあるのだろうか? そう考えざるを得ない。そんな試合だった。
それにしても、あまりに中国選手たちは質が悪い。心掛けの悪いサッカー選手は試合に勝つことはできない。こんなことも教育されていないらしい。
この中国と比べたら、北朝鮮の選手達の方がよほどフェアで良いチームである。
どうも本当に北京オリンピックはうまく開催できるのか、ますます心配になる。そんな不信感を世界中に広げる結果となるような気がする。
サッカーは単なるスポーツではない。
どうやらこの常識がまだ中国人には理解できていないらしい。
サッカーの後進国というのは、その国の選手たちのフェアで気持ちの良い姿で世界に感銘を与えることくらいしかできない。
ぜひこういうことを学んで欲しいものですナ。
ついでに書いておくと、大リーグでは、味方がビンボールでやられたら、次の回でやり返す義務となっているらしい。もし乱闘になれば、ベンチの全員で乱闘に参加するのも義務(仕事)らしい。同様に、欧州のプロサッカーでも、味方が悪質なファールで負傷退場させられた場合、報復で相手に仕返しする義務があるらしい。
まあ、こういう西洋人流の報復行動のマネをする理由はないのだが、少なくとも、主審にキーパーの一発退場をしつこく抗議する。キーパーに安田に謝れと迫るというような行動は必要であったと私は考えている。
それにしても、ACミランのように、試合を完全にコントロールして、もっともっと楽に勝つという”大人の方法”(つまり、”プロ”らしい方法)で試合に勝てないものだろうかネ。まるで小中学生のサッカーのように、いつでもどこでも必至すぎて、危なっかしい。まあそれが岡田監督のアマチュアサッカーだから仕方ないのだろうがナ。
安田選手には気の毒な結果となり言葉もないが、怪我から無事復帰することを心より願っている。それにしても、もしあれが左胸であれば、心臓が止まって即死だったかもしれないほどの危険プレーだった。
安田独走、キーパーと1対1。華麗なループシュートで2点目か、と思ったその瞬間、中国のゴールキーパーが”真空飛び前蹴り”で、安田は吹っ飛んだ。
だれもが「キーパーの一発退場」と思った。そして、日本選手がキーパーをぶっとばし乱闘ぼっ発かと思った。
しかし、レフェリーは、単なる警告のミスジャッジ。日本選手も猛抗議もなく、事なきを得た。
一方、安田は負傷退場。今期の選手生命が危ぶまれるほどの重傷を負った。
こんな低レベルな主審で行われる東アジア杯。本当に参加する意味はあるのだろうか? そう考えざるを得ない。そんな試合だった。
それにしても、あまりに中国選手たちは質が悪い。心掛けの悪いサッカー選手は試合に勝つことはできない。こんなことも教育されていないらしい。
この中国と比べたら、北朝鮮の選手達の方がよほどフェアで良いチームである。
どうも本当に北京オリンピックはうまく開催できるのか、ますます心配になる。そんな不信感を世界中に広げる結果となるような気がする。
サッカーは単なるスポーツではない。
どうやらこの常識がまだ中国人には理解できていないらしい。
サッカーの後進国というのは、その国の選手たちのフェアで気持ちの良い姿で世界に感銘を与えることくらいしかできない。
ぜひこういうことを学んで欲しいものですナ。
ついでに書いておくと、大リーグでは、味方がビンボールでやられたら、次の回でやり返す義務となっているらしい。もし乱闘になれば、ベンチの全員で乱闘に参加するのも義務(仕事)らしい。同様に、欧州のプロサッカーでも、味方が悪質なファールで負傷退場させられた場合、報復で相手に仕返しする義務があるらしい。
まあ、こういう西洋人流の報復行動のマネをする理由はないのだが、少なくとも、主審にキーパーの一発退場をしつこく抗議する。キーパーに安田に謝れと迫るというような行動は必要であったと私は考えている。
それにしても、ACミランのように、試合を完全にコントロールして、もっともっと楽に勝つという”大人の方法”(つまり、”プロ”らしい方法)で試合に勝てないものだろうかネ。まるで小中学生のサッカーのように、いつでもどこでも必至すぎて、危なっかしい。まあそれが岡田監督のアマチュアサッカーだから仕方ないのだろうがナ。
安田選手には気の毒な結果となり言葉もないが、怪我から無事復帰することを心より願っている。それにしても、もしあれが左胸であれば、心臓が止まって即死だったかもしれないほどの危険プレーだった。
2008/02/19のBlog
[ 21:33 ]
[ 政治・経済 ]
『除雪もできない』『予算見切り発車』 暫定税率 自治体は必死の巻き返し
いやはや、なんと言うのか、寂しい限りだ。
昨日、とあるニュース番組で、民主党の議員達が地方に行って「道路特定財源」の一般財源化の是非を説明するというのをやっていたが、民主党議員達のあまりの”感覚のずれ”に恐れ入った。
民主党の菅代表代行は、地方に視察に行って、地方に出来た橋や道路を見て回ったのだが、「この橋は”○○橋”と呼ばれる」というように、自民党の○○議員を批判する材料にするだけで一向に地方の惨状を理解する気持ちや思いやりがみじんも感じられなかった。
管代表代行が、視察している時に”飛び入り”で、その町の元町長だった老人がやってきて、「何とか橋の先の道路を予定通り作らないと何のために橋を作ったか分からず、橋も無駄に終わり、町民も陸の孤島になってしまう」ということを管氏に直訴した。ところが、管氏は、10数年前の管氏とは全く別人のように、まるで「視察の邪魔をするな」というようにその老人を邪魔物扱いしていたのだ。その老人は、その橋の作られた町の”元町長”だったのにもかかわらずである。この元町長さんは、管さんに激怒していたヨ。
また、他の若手議員たちが地方で「ガソリン税値下げ」のことを遊説して回ったが、これまた地方議員や町長さんたちから、「道路特定財源を一般会計化したら、地方は壊滅する」と批判され、もはや収拾のつかない状態となってしまった。
こんな状況だから、もはや民主党の議員達が地方に遊説にいくやいなや、地方の人々はみんな”民主党の敵”になる。そんな感じである。
実際、「道路特定財源」を一般会計化すれば、大都市近隣だけが潤い、地方は財政的に壊滅する。これは事実である。
こうなると、地震や台風など災害で地方の道路が傷付いた場合でも復旧することもできなくなり、”陸の孤島”となる地域がたくさん出てくることになる。つまり、最低限の人間的生活を維持できなくなる地方が無数に出てくることになるということである。
元国土交通省の官僚で最近俳優に転向した人が言っていたが、すでに「道路特定財源」のうち1・6兆円ほどが「一般会計化」しているという。だから、地方はすでに非常にひどい状態に陥っていると彼は言っていた。
ところが、最初の記事にあるように、慶応大など首都圏に住む人々は地方の惨状を目にしたことがない。だから、「しかし、地方の多くの住民はドライバーでもある。大方は「道路建設の速度は多少落ちても、ガソリンの値段を下げてほしい」というのが本音ではないか。今、道路を計画通り造り続けないと地域がひっくり返るということはない。」などと言う始末である。
まったく馬鹿げた話である。
地方の田舎の道路が都市部に繋がらなくなれば、いくらガソリンが安くなろうが、田舎の住民は陸の孤島となり、車で都市部に買い物にも行けなくなるわけだ。田舎の老人は大半が年金で細々と暮らしている人たちで、お金持ちじゃないわけだから、簡単に都市部に家を建てて引っ越すなどという芸当ができるはずもない。
こういうことが首都圏の学者や議員たちにはまったく理解できないらしい。
道路は「ライフライン」の1つである。ガス、水道などと同じ種類の生命の維持に必須なネットワークである。だから、「道路特定財源」はある意味で、聖域にしておかなくてはならない。多少政治的問題がからんだとしてもそれは一種の「必要悪」であろう。何よりも国民の食料補給経路を遮断してしまうようなことはやるべきではない。これは、憲法に定められた「基本的人権」の確保として国が当然行うべき義務と考えるべきだろう。
それを、どうも民主党は、自民党打倒のための政争のネタにしようとしているように国民には見えるというわけだ。これでは、民主党は惨敗するのは必至である。
お馬鹿な鳩山由紀夫や管直人の口車に乗っていては、民主党は大変な状況に陥ることは必至だろう。せっかく参議院で大勝しても、軸がぶれてしまえば、それも一貫の終わり。今や地方はみんな民主党の敵なのだから。これも民主党自ら蒔いた種だから仕方ないのだろう。
いずれにせよ、「目先の損得にこだわり、一生の大損をこく」ようなやり方を民主党はすべきではないだろうヨ。
いやはや、なんと言うのか、寂しい限りだ。
昨日、とあるニュース番組で、民主党の議員達が地方に行って「道路特定財源」の一般財源化の是非を説明するというのをやっていたが、民主党議員達のあまりの”感覚のずれ”に恐れ入った。
民主党の菅代表代行は、地方に視察に行って、地方に出来た橋や道路を見て回ったのだが、「この橋は”○○橋”と呼ばれる」というように、自民党の○○議員を批判する材料にするだけで一向に地方の惨状を理解する気持ちや思いやりがみじんも感じられなかった。
管代表代行が、視察している時に”飛び入り”で、その町の元町長だった老人がやってきて、「何とか橋の先の道路を予定通り作らないと何のために橋を作ったか分からず、橋も無駄に終わり、町民も陸の孤島になってしまう」ということを管氏に直訴した。ところが、管氏は、10数年前の管氏とは全く別人のように、まるで「視察の邪魔をするな」というようにその老人を邪魔物扱いしていたのだ。その老人は、その橋の作られた町の”元町長”だったのにもかかわらずである。この元町長さんは、管さんに激怒していたヨ。
また、他の若手議員たちが地方で「ガソリン税値下げ」のことを遊説して回ったが、これまた地方議員や町長さんたちから、「道路特定財源を一般会計化したら、地方は壊滅する」と批判され、もはや収拾のつかない状態となってしまった。
こんな状況だから、もはや民主党の議員達が地方に遊説にいくやいなや、地方の人々はみんな”民主党の敵”になる。そんな感じである。
実際、「道路特定財源」を一般会計化すれば、大都市近隣だけが潤い、地方は財政的に壊滅する。これは事実である。
こうなると、地震や台風など災害で地方の道路が傷付いた場合でも復旧することもできなくなり、”陸の孤島”となる地域がたくさん出てくることになる。つまり、最低限の人間的生活を維持できなくなる地方が無数に出てくることになるということである。
元国土交通省の官僚で最近俳優に転向した人が言っていたが、すでに「道路特定財源」のうち1・6兆円ほどが「一般会計化」しているという。だから、地方はすでに非常にひどい状態に陥っていると彼は言っていた。
ところが、最初の記事にあるように、慶応大など首都圏に住む人々は地方の惨状を目にしたことがない。だから、「しかし、地方の多くの住民はドライバーでもある。大方は「道路建設の速度は多少落ちても、ガソリンの値段を下げてほしい」というのが本音ではないか。今、道路を計画通り造り続けないと地域がひっくり返るということはない。」などと言う始末である。
まったく馬鹿げた話である。
地方の田舎の道路が都市部に繋がらなくなれば、いくらガソリンが安くなろうが、田舎の住民は陸の孤島となり、車で都市部に買い物にも行けなくなるわけだ。田舎の老人は大半が年金で細々と暮らしている人たちで、お金持ちじゃないわけだから、簡単に都市部に家を建てて引っ越すなどという芸当ができるはずもない。
こういうことが首都圏の学者や議員たちにはまったく理解できないらしい。
道路は「ライフライン」の1つである。ガス、水道などと同じ種類の生命の維持に必須なネットワークである。だから、「道路特定財源」はある意味で、聖域にしておかなくてはならない。多少政治的問題がからんだとしてもそれは一種の「必要悪」であろう。何よりも国民の食料補給経路を遮断してしまうようなことはやるべきではない。これは、憲法に定められた「基本的人権」の確保として国が当然行うべき義務と考えるべきだろう。
それを、どうも民主党は、自民党打倒のための政争のネタにしようとしているように国民には見えるというわけだ。これでは、民主党は惨敗するのは必至である。
お馬鹿な鳩山由紀夫や管直人の口車に乗っていては、民主党は大変な状況に陥ることは必至だろう。せっかく参議院で大勝しても、軸がぶれてしまえば、それも一貫の終わり。今や地方はみんな民主党の敵なのだから。これも民主党自ら蒔いた種だから仕方ないのだろう。
いずれにせよ、「目先の損得にこだわり、一生の大損をこく」ようなやり方を民主党はすべきではないだろうヨ。
2008/02/18のBlog
[ 16:39 ]
[ 政治・経済 ]
およそ20年前の1980年代後半、日本企業は、いわゆる”不動産バブル”全盛期にあった。企業人は世界を飛び回り、世界を相手に仕事する。その一方、日本の大学は”貧乏”な職業の代名詞となっていた。たいした給料も得られず、たいした研究費も得られず、世界的にも泣かず飛ばずの状態に喘ぎ、世界からも何か取り残された感じの状況にあった。
大学院の卒業生は、大学に残るものはほとんどなく、大半が企業へ就職し、2、3年もすればかなりの高給とステイタスが得られた。大学へ残ったものは、せいぜい10年勤めれば奨学金がチャラになるという特権程度のもので、しがない「大学教師」以上のものではなかった。アカデミックな研究の楽しみと世俗の成功は相容れないという価値観に貫かれた時代であった。そんな感じの時代であった。
そんな中で、私は阪大の大学院生として方や塾講師をアルバイトにして奨学金と合わせて生計を立てながら理論物理学の勉強をしていた。当時はまだ世の中のこと、日米のことは何も知らず、ただただ理論物理の博士になることだけを夢見て過ごしていたのだった。
あれから、20年。今や、立場はまったく逆転した。
大学人は、清潔で意気揚々とし、世界中の大学に出向き、世界中の国際学会に参加し、世界中から留学生を受け入れるという時代となった。その一方で、企業はリストラの恐怖に喘ぎ、いつファンドや銀行に乗っ取られるか気が気でない状況となった。何をするにも明細書が事細かに必要となり無駄を省き、簡単には国際学会へも行けなくなった。
大学院の卒業生は、企業に入るものはほとんどなく、大半が研究所や大学のポスドクとなり、かなりの給料はもらえるが、不安定な身で過ごす。ポスドクを過ぎれば、かなり有力なコネのあるものしか大学のポストが得られず、大半は研究者の道を断念せざるを得ないという状況になった。一方、企業に入ったものは、正社員になれれば好いが、なれなければおのずとこれまた身分不安定の派遣社員にならざるを得ない。そんな感じの時代となった。
果たして、どうしてこうなってしまったのだろうか?
実は、(これは私の個人的見方に過ぎないが)日本国の政府・官僚がいくつか本質的な失敗をしたからである。私はそう見ている。
1990年に私がアメリカのユタ大学から帰国した頃、まだまだ日本には余力があった。こんな時代、どうすれば日本がその当時世界最高水準の社会システムを作っていたアメリカ型にできるのか、と問い、それに私なりの見解を述べたものが、
「三セクター分立の概念」
であった。
この中で、私はこう主張した。
”日本は、各都道府県に少なくとも1つずつ東大クラスの総合研究大学を新設すべきだ”
”さもなくば、地方自治は実現しない”
この主張をいくつかの政治、経済、学問の3つのセクターから考えたものがこの本であった。
しかし、現実には、各都道府県に東大京大クラスの総合大学ができるどころか、大学変革に呼応したのは、各地方自治体ではなく、旧帝大を中心とした文部省であった。つまり、当時、文部省の傘下にあった国立大学群であった。「教養部解体」、「学部改組」、「大学院重点化」などなど、さまざまな改革の荒らしが吹き荒れた。
中には、私の主張をすぐさまに理解したジャーナリストや立命館大学なども現れた。
中村龍兵「挑戦する立命館:大学改革とは何か」(エトレ、1997年)
この本では、上の拙著も引用された。一度、著者の中村さんと大阪で会って食事したこともあった。
ここでの日本の失敗とは何か?
というと、要するにそれは、本当なら私が主張したように、大学を変革するのであれば、「各地方に新しい大学をつくり出す」という形で行えば良いものを、「明治からある古き良き伝統を持っている老舗の大学を構造改革しようとした」ことであった。また、本来ならその予算で地方に大学を作るべきことを、「首都圏など大都市を中心に新しい大学を作ってしまった」ことにある。(「何が科学をつぶすのか?」参照)
残念ながら、この時期では、日本国内には”私以外のだれも”「これが後に問題を生む」とは気付いていなかった。
確かに旧態然としたカビついた大学を刷新しようというのは、それなりのメリットがあり、それ自体問題ということはない。しかし、一番大事な点である、「大学は投資の対象となる可能性があるから、地方分権になるように国土にバランスよく作らなくてはならない」という一番大事なことを”見落とした”ことである。これが悪かった。
そして致命的なミスが次に来た。
東大総長、理研理事長をやった理論物理学者の有馬朗人博士が、その次に文部大臣になり、「大学院重点化」、「ポスドク1万人化計画」、「科学技術基本法」を実施してしまったからである。
これらは、基本的には、1970年代までの田中角栄の「日本列島改造計画」時代に出来上がった「土建業行政」(今問題になっている、道路財源などの根源がこれ)の枠組みを解体して、「文部行政、科学行政」のためにその金回りを変化させる事が目的であった。
したがって、地方やどこでも道路公団を通じて道路をどんどん作ってきたお金が、そっちへは行かず、今度はどんどんハイテク企業や大学を中心にお金が回るような仕組に変わったのである。
ところが、本来なら、こういう政策は、「まず各地方へ東大クラスの大学を先に作っておいて、その後でそこに金が流れるように財源をつけるべきだった」にもかかわらず、その逆をやってしまったのだ。だから、大失敗の結果となったわけである。
この方式も決して悪いものではなかったのだが、タイミングが悪かった。そのために、格差社会への印篭を渡してしまったのである。つまり、「たくさん大学のある大都市には巨額の公的資金が流れ込んだが、大学など全く存在しない地方には少しも公的資金が流れなくなった」のである。(例えば、「「道州制」?古い。これからは「連邦国家制」だよ!」参照)
というわけである。
何ごとにも「もし…であったら」というのはないと言われるが、あえて言わせてもらえば、
「もし日本の文部省のお役人がもう少し賢くて私のアイデアを理解できていれば、日本は今とはまったく違った社会に変わっていただろう」
と私は考えざるを得ない。
私はこの20年近くに渡って、次のような観点(そのどれもが大向こうのお偉方の世界とは正反対であるが)でいろんな場で語って来た(もうお忘れになった人々がほとんどだろう。あるいは、まったく知られていないだろうが)。
「大学を新設するには各地方に東大クラスを作れ」
「看護師や学者などプロフェッショナルは少数精鋭主義が本流」
「政治、経済、教育は3つの独立セクターであるべきだ」
「大学入試は廃止すべきだ。大学卒業認定で才能を見極めよ」
「秋入学のアカデミックイヤーにせよ」
「大学院に共通試験を設けよ」
などなど。
しかし、我々の日本国が行ってくれたことは、ことごとくこの反対であった。これはだれの目にも今や明白だろうヨ。
その結果がこれだ!!「格差社会」
ちょっと想像力があり、ちょっとだけ頭の練れた人なら、私の言っている意味が実に良く分かるだろうヨ。
頭のにぶい人にも分かるように書けば、こうなる。
もし各地方(つまり各都道府県)に東大クラスの総合大学があったらどうだろうか?
と想像してみよ。東大クラスの大学病院が各都道府県に存在するのだから、地方で医師不足も看護師不足も産科医不足も病院たらい回しも存在し得ない。毎年毎年そういう大学に「科学技術基本法」の下で、何兆円もの公的資金が投資されるのだ。今現在の1000倍、いや1万倍は地方は豊かになっていたことだろう。
日本の政治家や官僚のバカさ加減には呆れるばかりだが、同時に地方の人々の馬鹿さ加減にも呆れるばかりだ。
俺の言った通りにしていればなアア。
と最近つくづく思うこの頃である。
大学院の卒業生は、大学に残るものはほとんどなく、大半が企業へ就職し、2、3年もすればかなりの高給とステイタスが得られた。大学へ残ったものは、せいぜい10年勤めれば奨学金がチャラになるという特権程度のもので、しがない「大学教師」以上のものではなかった。アカデミックな研究の楽しみと世俗の成功は相容れないという価値観に貫かれた時代であった。そんな感じの時代であった。
そんな中で、私は阪大の大学院生として方や塾講師をアルバイトにして奨学金と合わせて生計を立てながら理論物理学の勉強をしていた。当時はまだ世の中のこと、日米のことは何も知らず、ただただ理論物理の博士になることだけを夢見て過ごしていたのだった。
あれから、20年。今や、立場はまったく逆転した。
大学人は、清潔で意気揚々とし、世界中の大学に出向き、世界中の国際学会に参加し、世界中から留学生を受け入れるという時代となった。その一方で、企業はリストラの恐怖に喘ぎ、いつファンドや銀行に乗っ取られるか気が気でない状況となった。何をするにも明細書が事細かに必要となり無駄を省き、簡単には国際学会へも行けなくなった。
大学院の卒業生は、企業に入るものはほとんどなく、大半が研究所や大学のポスドクとなり、かなりの給料はもらえるが、不安定な身で過ごす。ポスドクを過ぎれば、かなり有力なコネのあるものしか大学のポストが得られず、大半は研究者の道を断念せざるを得ないという状況になった。一方、企業に入ったものは、正社員になれれば好いが、なれなければおのずとこれまた身分不安定の派遣社員にならざるを得ない。そんな感じの時代となった。
果たして、どうしてこうなってしまったのだろうか?
実は、(これは私の個人的見方に過ぎないが)日本国の政府・官僚がいくつか本質的な失敗をしたからである。私はそう見ている。
1990年に私がアメリカのユタ大学から帰国した頃、まだまだ日本には余力があった。こんな時代、どうすれば日本がその当時世界最高水準の社会システムを作っていたアメリカ型にできるのか、と問い、それに私なりの見解を述べたものが、
「三セクター分立の概念」
であった。
この中で、私はこう主張した。
”日本は、各都道府県に少なくとも1つずつ東大クラスの総合研究大学を新設すべきだ”
”さもなくば、地方自治は実現しない”
この主張をいくつかの政治、経済、学問の3つのセクターから考えたものがこの本であった。
しかし、現実には、各都道府県に東大京大クラスの総合大学ができるどころか、大学変革に呼応したのは、各地方自治体ではなく、旧帝大を中心とした文部省であった。つまり、当時、文部省の傘下にあった国立大学群であった。「教養部解体」、「学部改組」、「大学院重点化」などなど、さまざまな改革の荒らしが吹き荒れた。
中には、私の主張をすぐさまに理解したジャーナリストや立命館大学なども現れた。
中村龍兵「挑戦する立命館:大学改革とは何か」(エトレ、1997年)
この本では、上の拙著も引用された。一度、著者の中村さんと大阪で会って食事したこともあった。
ここでの日本の失敗とは何か?
というと、要するにそれは、本当なら私が主張したように、大学を変革するのであれば、「各地方に新しい大学をつくり出す」という形で行えば良いものを、「明治からある古き良き伝統を持っている老舗の大学を構造改革しようとした」ことであった。また、本来ならその予算で地方に大学を作るべきことを、「首都圏など大都市を中心に新しい大学を作ってしまった」ことにある。(「何が科学をつぶすのか?」参照)
残念ながら、この時期では、日本国内には”私以外のだれも”「これが後に問題を生む」とは気付いていなかった。
確かに旧態然としたカビついた大学を刷新しようというのは、それなりのメリットがあり、それ自体問題ということはない。しかし、一番大事な点である、「大学は投資の対象となる可能性があるから、地方分権になるように国土にバランスよく作らなくてはならない」という一番大事なことを”見落とした”ことである。これが悪かった。
そして致命的なミスが次に来た。
東大総長、理研理事長をやった理論物理学者の有馬朗人博士が、その次に文部大臣になり、「大学院重点化」、「ポスドク1万人化計画」、「科学技術基本法」を実施してしまったからである。
これらは、基本的には、1970年代までの田中角栄の「日本列島改造計画」時代に出来上がった「土建業行政」(今問題になっている、道路財源などの根源がこれ)の枠組みを解体して、「文部行政、科学行政」のためにその金回りを変化させる事が目的であった。
したがって、地方やどこでも道路公団を通じて道路をどんどん作ってきたお金が、そっちへは行かず、今度はどんどんハイテク企業や大学を中心にお金が回るような仕組に変わったのである。
ところが、本来なら、こういう政策は、「まず各地方へ東大クラスの大学を先に作っておいて、その後でそこに金が流れるように財源をつけるべきだった」にもかかわらず、その逆をやってしまったのだ。だから、大失敗の結果となったわけである。
この方式も決して悪いものではなかったのだが、タイミングが悪かった。そのために、格差社会への印篭を渡してしまったのである。つまり、「たくさん大学のある大都市には巨額の公的資金が流れ込んだが、大学など全く存在しない地方には少しも公的資金が流れなくなった」のである。(例えば、「「道州制」?古い。これからは「連邦国家制」だよ!」参照)
というわけである。
何ごとにも「もし…であったら」というのはないと言われるが、あえて言わせてもらえば、
「もし日本の文部省のお役人がもう少し賢くて私のアイデアを理解できていれば、日本は今とはまったく違った社会に変わっていただろう」
と私は考えざるを得ない。
私はこの20年近くに渡って、次のような観点(そのどれもが大向こうのお偉方の世界とは正反対であるが)でいろんな場で語って来た(もうお忘れになった人々がほとんどだろう。あるいは、まったく知られていないだろうが)。
「大学を新設するには各地方に東大クラスを作れ」
「看護師や学者などプロフェッショナルは少数精鋭主義が本流」
「政治、経済、教育は3つの独立セクターであるべきだ」
「大学入試は廃止すべきだ。大学卒業認定で才能を見極めよ」
「秋入学のアカデミックイヤーにせよ」
「大学院に共通試験を設けよ」
などなど。
しかし、我々の日本国が行ってくれたことは、ことごとくこの反対であった。これはだれの目にも今や明白だろうヨ。
その結果がこれだ!!「格差社会」
ちょっと想像力があり、ちょっとだけ頭の練れた人なら、私の言っている意味が実に良く分かるだろうヨ。
頭のにぶい人にも分かるように書けば、こうなる。
もし各地方(つまり各都道府県)に東大クラスの総合大学があったらどうだろうか?
と想像してみよ。東大クラスの大学病院が各都道府県に存在するのだから、地方で医師不足も看護師不足も産科医不足も病院たらい回しも存在し得ない。毎年毎年そういう大学に「科学技術基本法」の下で、何兆円もの公的資金が投資されるのだ。今現在の1000倍、いや1万倍は地方は豊かになっていたことだろう。
日本の政治家や官僚のバカさ加減には呆れるばかりだが、同時に地方の人々の馬鹿さ加減にも呆れるばかりだ。
俺の言った通りにしていればなアア。
と最近つくづく思うこの頃である。
2008/02/17のBlog
[ 12:30 ]
[ 社会 ]
なぜマスコミは有名人(セレブ)を取材したがるのか?
セレブとは、有名人の意味でお金持ち(リッチマン)の意味ではない。これまた、悪名高き”和製英語”のリストに加えられてしまった。
さて、最近のマスコミは、”金持ち迎合主義”の吉本系の芸人から派生して、どうも著名人が好きのようである。どうして著名人の動向ばかりどうでもいいことを取材したがるのか?と実に不思議である。
ところで、吉本芸人が金持ちに手を挽いて金持ちにごますりするのはそれなりの理由がある。それは、吉本興行特有の給料システムのせいだ。吉本は芸人の給料を歩合制で安く押さえ、その代わり、番組や出番で得られる御祝儀だけは本人の取り分とするからである。
ちなみに、これに一番似ているのが、アメリカのチップ制度であろう。レストランのウェートレスは、安い時給で働くが、サービスによる客からのチップはもらった本人のものという、”2本立ての”システムだからだ。中には、日本人が経営するレストランなどでは、そのチップも集めて店で上前をはねるところもあり、アメリカ人からの評判は良くないという場合もある。が、しかし、一般的にはこのチップ方式が普通である。
最近、日本のマクドナルドなどのフランチャイズ店で問題になっていること(「”マクドナルド”の奴隷商売?」)や派遣社員で問題となっている低賃金の問題の根源は、実はここにある。つまり、日本はうわべの雇用体系はアメリカ式を真似たが、実はそのアメリカ式のもう一方のもっとも”大事な点”である「チップ方式」は見事に捨て去って取り入れたからである。要するに、2本立てで出来たアメリカ式の自分に都合の好い一方だけを取り入れたということだ。
愛想のいい社員、仕事が出来て顧客から評価される社員が、顧客からその都度チップやボーナスがもらえるという社会であれば、いくら給料が押さえられても、本人の努力次第でいくらでもリッチになれるからである。しかし、日本はこれは真似しなかった。だから働き損で、問題が出る。
話は逸れたが、そんな給料体系であれば、吉本芸人はお金持ちの方へなびくのは当然だろう。金持ち番組であれば、番組内の賞金やプレゼントは全部自分の所得にできるからである。あるいは、グルメ番組や旅行番組であれば、取材で出た経費は全部テレビ局が出し、番組で出されたものは全部自分のものとなるからだ。
こういう芸風が、次第に芸能界全体、テレビマスコミ全体に拡散していったというわけである。私はそう見ている。
そうして何年も何年も経つと、「記事や取材は有名人やお金持ちでないと自分にはたいしたメリットがない」という風習がはびこる社会となるわけだ。
こうして、自分の身の回りにいる素晴らしい人物や見事な出来事の取材よりは、海外やリゾートなどにいる有名人や金持ちのする馬鹿げたことの取材を好むようになるというわけである。
なぜなら、自分の近所の無名な人の大きな功績を取材しても自分には何も得られない。それよりは、遠く海外の有名人や金持ちのたわいない私生活を取材した方が視聴者や読者のためになるというより自分自身のためになるからである。こうして俗にいう「パパラッチ」がうまれることになる。
ちなみに、イギリスには「パパラッチ学校」なるものまであるらしい。一説では、イギリスのパパラッチ(つまり”パパラッチ”という表向きの名を持つ工作員として海外に派遣され)は、さまざまな事件を取材し社会的混乱や事件をまん延させることが目的であり、これまた「300人委員会」や「タビストック研究所」流の仕業であるという説もあるらしい。
そんなわけで、今や日本の新聞やテレビに出る記事は、悪いものばかり、あるいはお金持ちやセレブのどうでもいい記事ばかりとなってしまった、というわけである。
物事の意味や意義を考えず、物事の値段やブランドばかり考える人間となってしまったということだ。
困ったことですナ。
セレブとは、有名人の意味でお金持ち(リッチマン)の意味ではない。これまた、悪名高き”和製英語”のリストに加えられてしまった。
さて、最近のマスコミは、”金持ち迎合主義”の吉本系の芸人から派生して、どうも著名人が好きのようである。どうして著名人の動向ばかりどうでもいいことを取材したがるのか?と実に不思議である。
ところで、吉本芸人が金持ちに手を挽いて金持ちにごますりするのはそれなりの理由がある。それは、吉本興行特有の給料システムのせいだ。吉本は芸人の給料を歩合制で安く押さえ、その代わり、番組や出番で得られる御祝儀だけは本人の取り分とするからである。
ちなみに、これに一番似ているのが、アメリカのチップ制度であろう。レストランのウェートレスは、安い時給で働くが、サービスによる客からのチップはもらった本人のものという、”2本立ての”システムだからだ。中には、日本人が経営するレストランなどでは、そのチップも集めて店で上前をはねるところもあり、アメリカ人からの評判は良くないという場合もある。が、しかし、一般的にはこのチップ方式が普通である。
最近、日本のマクドナルドなどのフランチャイズ店で問題になっていること(「”マクドナルド”の奴隷商売?」)や派遣社員で問題となっている低賃金の問題の根源は、実はここにある。つまり、日本はうわべの雇用体系はアメリカ式を真似たが、実はそのアメリカ式のもう一方のもっとも”大事な点”である「チップ方式」は見事に捨て去って取り入れたからである。要するに、2本立てで出来たアメリカ式の自分に都合の好い一方だけを取り入れたということだ。
愛想のいい社員、仕事が出来て顧客から評価される社員が、顧客からその都度チップやボーナスがもらえるという社会であれば、いくら給料が押さえられても、本人の努力次第でいくらでもリッチになれるからである。しかし、日本はこれは真似しなかった。だから働き損で、問題が出る。
話は逸れたが、そんな給料体系であれば、吉本芸人はお金持ちの方へなびくのは当然だろう。金持ち番組であれば、番組内の賞金やプレゼントは全部自分の所得にできるからである。あるいは、グルメ番組や旅行番組であれば、取材で出た経費は全部テレビ局が出し、番組で出されたものは全部自分のものとなるからだ。
こういう芸風が、次第に芸能界全体、テレビマスコミ全体に拡散していったというわけである。私はそう見ている。
そうして何年も何年も経つと、「記事や取材は有名人やお金持ちでないと自分にはたいしたメリットがない」という風習がはびこる社会となるわけだ。
こうして、自分の身の回りにいる素晴らしい人物や見事な出来事の取材よりは、海外やリゾートなどにいる有名人や金持ちのする馬鹿げたことの取材を好むようになるというわけである。
なぜなら、自分の近所の無名な人の大きな功績を取材しても自分には何も得られない。それよりは、遠く海外の有名人や金持ちのたわいない私生活を取材した方が視聴者や読者のためになるというより自分自身のためになるからである。こうして俗にいう「パパラッチ」がうまれることになる。
ちなみに、イギリスには「パパラッチ学校」なるものまであるらしい。一説では、イギリスのパパラッチ(つまり”パパラッチ”という表向きの名を持つ工作員として海外に派遣され)は、さまざまな事件を取材し社会的混乱や事件をまん延させることが目的であり、これまた「300人委員会」や「タビストック研究所」流の仕業であるという説もあるらしい。
そんなわけで、今や日本の新聞やテレビに出る記事は、悪いものばかり、あるいはお金持ちやセレブのどうでもいい記事ばかりとなってしまった、というわけである。
物事の意味や意義を考えず、物事の値段やブランドばかり考える人間となってしまったということだ。
困ったことですナ。
2008/02/15のBlog
[ 12:14 ]
[ 社会 ]
沖縄の繁華街に防犯カメラ、政府が検討
昨年末から最近までずっとゼカリア・シッチン博士の本の大半を読んでいたのだが、こういった事件を見ると、どうやらシッチン博士が解釈した古代シュメールの”神々”の世界は真実であるのではないか、とすら感じさせられる。
例えば、シッチン博士の
「ネフィリムとアヌンナキ人類(ホモ・サピエンス)を創成した宇宙人」
によれば、こういう逸話がある。
今からだいたい6000年以上前の古代シュメールの粘土板によれば、”シュメールの神々”と呼ばれる人々は、「空から地に降り立った人々」と呼ばれた(これをネフィリムあるいはアヌンナキと呼ぶ)。この神々は、だいたい43万年前に地球に飛来し、メソポタミア地方と東南アフリカ地方の2手に別れて活動した。600人ほどが地上へおりた。一方、地球の上には母船があり、そこに200人ほどのアヌンナキたちがいた。
メソポタミア地方を治めた神はエンリルと呼ばれ、東南アフリカ地方を治めた神はエンキと呼ばれた。エンリルとエンキは母星ニビルの王アヌの妻の腹違いの兄弟であり、正妻の息子がエンキであり、アヌの腹違いの姉妹との間に出来た息子がエンリルであった。同族結婚の方が王家の血筋は濃いために、王アヌの継承者はエンリルとなった。エンリルは地球総司令官となり、エンキは地方に左遷され金採掘の司令官となった。
エンキはあまりに金採掘は重労働であったために、自身が科学者であったことから、地球上での労働力を得るために、アフリカ東部に住んでいた類人猿を遺伝子操作して知的生命体にする研究に着手した。何十万年もの間にニンフルサグという女性アヌンナキの借り腹出産のおかげで、とうとう神々に似た地球人を出産することができた。これが最初の人類となった。
しかし初期の人類は、馬とロバの間の子のラバやヒーニーのように子孫を残す力はなかった。そこでさらに研究を続け、地球人どうしで子孫が残せるものが生まれた。神々は、自分達に似ているが異なる生物である地球人を「黒き髪の人々」と呼んだ。
神々の寿命は極めて長く、数十万年もあったが、地球人の寿命は非常に短かった。そのため、地には地球人がどんどん増えることになった。そんな中、ついに地球人の中に、神々の女に瓜二つの美しい地球人女性が誕生するようになった。
ある時、地球を回る母船の中にいた若いネフィリムたちが反乱を起こした。地上に女たちが溢れかえっているのに、どうして自分達はいつまでも宇宙船内に留まらなくてはならないのかと。そして、ついに彼等は地上に降り立ち、それがコーカサス地方の山であった。そこで地上の女どもと酒池肉林の日々を過ごし、ますます神々に似た地球人が産み落とされた。こうして神々に似た金髪碧眼の地球人が地に誕生した。
身体が大きく、頑健で、容姿端麗、金髪碧眼の神々に極めて似た風貌のこの地球人たちは、「貴い人々」(アーリア人)と呼ばれるようになった。彼等はその頑健な身体と聡明さを持って徐々に地方を支配して、後のヒッタイト、アッカド、アッシリアなどシュメールを代表する人々となっていった。
とまあ、記憶を基に書けば、こんなお話である。
そこで、最初の米軍兵の起こした事件を見ると、まさに
”血は争えない”
地球を回る母船の中にいた若いネフィリムたち(空から地に降り立った人々)が起こした事件と全く同じようなことを現在のネフィリムたち(空母から地に降り立った人々)が起こしたというわけである。
西洋人の大本となった古代シュメールの神々は、東洋人の神々と違って、”性の奴隷”である。性欲がすべてに打ち勝つ。そうした遺伝的特徴を持っているらしい。
地球総司令官であったエンリルですら、自分の妻に息子ができないと、妹、娘と次々に強姦して回ったというエピソードすらあるというのだから恐れ入る。また、エンリルの妻となったニンキも、その母親がエンリルをゲットするために策略したというのだから恐れ入る。毎日プールで泳ぐ習慣のあったエンリルの通り道で素っ裸で泳げと悪知恵を仕込んだからだ。いつものように水泳に来たエンリルはその妖艶な裸にスイッチオン。すぐにその姿が頭から離れず、求婚しようとした。今度はエンリルが裸で待ち、自分の巨大な一物を見せて誘惑し、2人は結婚した。
とまあ、こんな案配である。東洋人から見れば、”毛唐”と呼ぶに相応しい(あくまでこういう悪い性格を評しての差別用語である)”神々”であった。しかし、まあ、未だにハリウッド辺りではそんなやり取りが毎日毎日金髪女性の間で行われているから不思議である。ブリトニー・ヒューストン、パリス・ヒルトンなどを見れば分かるだろう。
かつてイギリスが大英帝国の頃、イギリス人が、植民地の原住民をイギリス人化するためには何世代混血をくり返したら良いか、というような研究をしたことが近代生物学の発展を生んだという話もある。この発想こそまさにエンキとニンフルサグが行ったことと同じである。
私はかねてから「どうして白人と東洋人が混血すると白人化するのか」ということに疑問を持ってきたが、どうもそれは最初のシュメールの神々が仕組んだことなのかも知れない。そう考えると、なぜか不思議と話のつじつまが合ってしまうからこれまた不思議である。
いずれにしてもシッチン博士の研究は面白い。
昨年末から最近までずっとゼカリア・シッチン博士の本の大半を読んでいたのだが、こういった事件を見ると、どうやらシッチン博士が解釈した古代シュメールの”神々”の世界は真実であるのではないか、とすら感じさせられる。
例えば、シッチン博士の
「ネフィリムとアヌンナキ人類(ホモ・サピエンス)を創成した宇宙人」
によれば、こういう逸話がある。
今からだいたい6000年以上前の古代シュメールの粘土板によれば、”シュメールの神々”と呼ばれる人々は、「空から地に降り立った人々」と呼ばれた(これをネフィリムあるいはアヌンナキと呼ぶ)。この神々は、だいたい43万年前に地球に飛来し、メソポタミア地方と東南アフリカ地方の2手に別れて活動した。600人ほどが地上へおりた。一方、地球の上には母船があり、そこに200人ほどのアヌンナキたちがいた。
メソポタミア地方を治めた神はエンリルと呼ばれ、東南アフリカ地方を治めた神はエンキと呼ばれた。エンリルとエンキは母星ニビルの王アヌの妻の腹違いの兄弟であり、正妻の息子がエンキであり、アヌの腹違いの姉妹との間に出来た息子がエンリルであった。同族結婚の方が王家の血筋は濃いために、王アヌの継承者はエンリルとなった。エンリルは地球総司令官となり、エンキは地方に左遷され金採掘の司令官となった。
エンキはあまりに金採掘は重労働であったために、自身が科学者であったことから、地球上での労働力を得るために、アフリカ東部に住んでいた類人猿を遺伝子操作して知的生命体にする研究に着手した。何十万年もの間にニンフルサグという女性アヌンナキの借り腹出産のおかげで、とうとう神々に似た地球人を出産することができた。これが最初の人類となった。
しかし初期の人類は、馬とロバの間の子のラバやヒーニーのように子孫を残す力はなかった。そこでさらに研究を続け、地球人どうしで子孫が残せるものが生まれた。神々は、自分達に似ているが異なる生物である地球人を「黒き髪の人々」と呼んだ。
神々の寿命は極めて長く、数十万年もあったが、地球人の寿命は非常に短かった。そのため、地には地球人がどんどん増えることになった。そんな中、ついに地球人の中に、神々の女に瓜二つの美しい地球人女性が誕生するようになった。
ある時、地球を回る母船の中にいた若いネフィリムたちが反乱を起こした。地上に女たちが溢れかえっているのに、どうして自分達はいつまでも宇宙船内に留まらなくてはならないのかと。そして、ついに彼等は地上に降り立ち、それがコーカサス地方の山であった。そこで地上の女どもと酒池肉林の日々を過ごし、ますます神々に似た地球人が産み落とされた。こうして神々に似た金髪碧眼の地球人が地に誕生した。
身体が大きく、頑健で、容姿端麗、金髪碧眼の神々に極めて似た風貌のこの地球人たちは、「貴い人々」(アーリア人)と呼ばれるようになった。彼等はその頑健な身体と聡明さを持って徐々に地方を支配して、後のヒッタイト、アッカド、アッシリアなどシュメールを代表する人々となっていった。
とまあ、記憶を基に書けば、こんなお話である。
そこで、最初の米軍兵の起こした事件を見ると、まさに
”血は争えない”
地球を回る母船の中にいた若いネフィリムたち(空から地に降り立った人々)が起こした事件と全く同じようなことを現在のネフィリムたち(空母から地に降り立った人々)が起こしたというわけである。
西洋人の大本となった古代シュメールの神々は、東洋人の神々と違って、”性の奴隷”である。性欲がすべてに打ち勝つ。そうした遺伝的特徴を持っているらしい。
地球総司令官であったエンリルですら、自分の妻に息子ができないと、妹、娘と次々に強姦して回ったというエピソードすらあるというのだから恐れ入る。また、エンリルの妻となったニンキも、その母親がエンリルをゲットするために策略したというのだから恐れ入る。毎日プールで泳ぐ習慣のあったエンリルの通り道で素っ裸で泳げと悪知恵を仕込んだからだ。いつものように水泳に来たエンリルはその妖艶な裸にスイッチオン。すぐにその姿が頭から離れず、求婚しようとした。今度はエンリルが裸で待ち、自分の巨大な一物を見せて誘惑し、2人は結婚した。
とまあ、こんな案配である。東洋人から見れば、”毛唐”と呼ぶに相応しい(あくまでこういう悪い性格を評しての差別用語である)”神々”であった。しかし、まあ、未だにハリウッド辺りではそんなやり取りが毎日毎日金髪女性の間で行われているから不思議である。ブリトニー・ヒューストン、パリス・ヒルトンなどを見れば分かるだろう。
かつてイギリスが大英帝国の頃、イギリス人が、植民地の原住民をイギリス人化するためには何世代混血をくり返したら良いか、というような研究をしたことが近代生物学の発展を生んだという話もある。この発想こそまさにエンキとニンフルサグが行ったことと同じである。
私はかねてから「どうして白人と東洋人が混血すると白人化するのか」ということに疑問を持ってきたが、どうもそれは最初のシュメールの神々が仕組んだことなのかも知れない。そう考えると、なぜか不思議と話のつじつまが合ってしまうからこれまた不思議である。
いずれにしてもシッチン博士の研究は面白い。
2008/02/14のBlog
[ 19:49 ]
[ 科学 ]
日本沈没ない?愛媛大でプレート落下説を否定する研究成果
これは、「巨大地震を起こす原因でもある、地表を覆うプレート(板状の岩盤)は地中に沈み込んでいった後、地下600キロ前後でたまって、それ以上の深さには沈んでいかない可能性が高いことが分かった」という愛媛大の入舩(いりふね)徹男教授(高圧地球科学)らの研究。
約1年半ほど前、「「我思うゆえに我あり」」で私はこんな話をちょっと紹介していた。
”例えば、1960年代までは、地球の地殻が動くとはだれも知らなかった。この時代に地球の地殻が動いていると言えば、”気狂い”扱いされ鼻つまみものだった。1970年代になって証拠が積み重なり、逆に「プレートテクトニクス」全盛の時代になった。すると、今度は何でもかんでもプレートの運動や衝突で考えることとなった。しかし、このアイデアには地球が過去の創世の時代から未来永劫同じ大きさであるという仮定が潜む。だれも地球が、膨張あるいは収縮したとは考えない。この時代つまり現代に地球が膨張したと言えば、まだ”気狂い”扱いされ鼻つまみものである。しかし、地球が隕石が寄せ集まって出来たとするならば、最初の地球は小さく次第に大きさを増したわけだから、何億年もの間に大小さまざまな隕石を積み重ねていけば、それなりに地球も大きくなったはずである。だから、未来永劫に同じ大きさのままマントルが対流していたという仮定は成り立たない。この意味では「プレートテクトニクス」は1つの近似概念に過ぎない。最近では、「地球膨張説」も1つの有力な可能性となっている。”
これは、「巨大地震を起こす原因でもある、地表を覆うプレート(板状の岩盤)は地中に沈み込んでいった後、地下600キロ前後でたまって、それ以上の深さには沈んでいかない可能性が高いことが分かった」という愛媛大の入舩(いりふね)徹男教授(高圧地球科学)らの研究。
約1年半ほど前、「「我思うゆえに我あり」」で私はこんな話をちょっと紹介していた。
”例えば、1960年代までは、地球の地殻が動くとはだれも知らなかった。この時代に地球の地殻が動いていると言えば、”気狂い”扱いされ鼻つまみものだった。1970年代になって証拠が積み重なり、逆に「プレートテクトニクス」全盛の時代になった。すると、今度は何でもかんでもプレートの運動や衝突で考えることとなった。しかし、このアイデアには地球が過去の創世の時代から未来永劫同じ大きさであるという仮定が潜む。だれも地球が、膨張あるいは収縮したとは考えない。この時代つまり現代に地球が膨張したと言えば、まだ”気狂い”扱いされ鼻つまみものである。しかし、地球が隕石が寄せ集まって出来たとするならば、最初の地球は小さく次第に大きさを増したわけだから、何億年もの間に大小さまざまな隕石を積み重ねていけば、それなりに地球も大きくなったはずである。だから、未来永劫に同じ大きさのままマントルが対流していたという仮定は成り立たない。この意味では「プレートテクトニクス」は1つの近似概念に過ぎない。最近では、「地球膨張説」も1つの有力な可能性となっている。”
この中の「地球膨張説」というのは、太古において地球は今よりずっと小さかった。それが次第に膨張して大きくなった、と考える説である。したがって、マントル対流による地殻の移動は存在しない。地殻は小さかったころのプレートが割れて広がっているにすぎない、と考える。(例えば、「膨らむ地球」参照)
この考え方の証拠としては、一般にプレートテクトニクスの根拠として、「地磁気の逆転の層がプレート中央から海溝の底の辺りまで一定の間隔でくり返される」というものがあるが、実は海溝の付近まではこれが正しいが海溝のもっとも深い部分では、逆転現象があり、沈み込みの位置までずっと年代の古い地層となっているわけではない、ということが知られている。
つまり、言い換えると、プレートは海溝深くで沈み込んでいない、ということである。
こんなわけで、昔から、大陸の移動説に対して、大陸の隆起沈降説、地殻膨張説などが存在するようである。
今回の発見は、実に面白く、これらの中で地球膨張説の「プレートの沈み込みはない」という主張を支持しているように見える。
今後の研究を期待したい。
参考:
昔、北極は暖かかった:IODPの快挙
この考え方の証拠としては、一般にプレートテクトニクスの根拠として、「地磁気の逆転の層がプレート中央から海溝の底の辺りまで一定の間隔でくり返される」というものがあるが、実は海溝の付近まではこれが正しいが海溝のもっとも深い部分では、逆転現象があり、沈み込みの位置までずっと年代の古い地層となっているわけではない、ということが知られている。
つまり、言い換えると、プレートは海溝深くで沈み込んでいない、ということである。
こんなわけで、昔から、大陸の移動説に対して、大陸の隆起沈降説、地殻膨張説などが存在するようである。
今回の発見は、実に面白く、これらの中で地球膨張説の「プレートの沈み込みはない」という主張を支持しているように見える。
今後の研究を期待したい。
参考:
昔、北極は暖かかった:IODPの快挙
2008/02/13のBlog
[ 21:49 ]
[ 音楽・芸能 ]
ザ!世界仰天ニュース
ザ!世界仰天ニュース
最近、「ザ!世界仰天ニュース」で放送した犯罪事件が、その後日本社会に伝染してきているように見える。
私に理解できないことは、「欧米で過去に起こった凶悪事件についてその手口までどうしてここまで詳細に紹介する必要があるのか?」ということである。
そもそも、欧米でどうしてこういう番組が放映されているかと言えば、それは、一説に拠れば、社会を不安定にするための「タビストック研究所」の策略であるらしい。毎日毎日こういう凶悪事件を視聴者に見せ続けると、それを放映している社会の視聴者を心理的に洗脳し、同様の事件が引き起こされるからであるという説である。
どうやらこの戦略は日本の馬鹿テレビ(読売テレビなど)を通じて、巧妙にかつ次第に日本社会を毒することに成功して来ているように見えるから困ったものだ。
実際、番組で放映された欧米の凶悪事件と似たような事件が番組放映後に生じているように見えるから不思議である。
これを笑福亭鶴瓶と中居正広(SMAP)が大喜びでやって、自分達は時給数百万円ももらっているのだから困ったものである。まさに国賊もの、犯罪者的な番組と言えるだろう。
”最も幸福な人とは最も多くの人に幸福をもたらす人”(ブラジルの諺(ことわざ))
という諺からすれば、連中のやっていることは、まさにその逆。
”最も不幸な人とは最も多くの人に不幸をもたらす人”
ということになるだろう。
こうした番組や類似番組は、「青少年少女への悪影響」も含めて、”即刻”中止されるべきだろう。
いずれにせよ、悪いことを公共放送を通じて放映するという愚策をするより、もっと良いことを放映するようにして欲しいものだ。
ザ!世界仰天ニュース
最近、「ザ!世界仰天ニュース」で放送した犯罪事件が、その後日本社会に伝染してきているように見える。
私に理解できないことは、「欧米で過去に起こった凶悪事件についてその手口までどうしてここまで詳細に紹介する必要があるのか?」ということである。
そもそも、欧米でどうしてこういう番組が放映されているかと言えば、それは、一説に拠れば、社会を不安定にするための「タビストック研究所」の策略であるらしい。毎日毎日こういう凶悪事件を視聴者に見せ続けると、それを放映している社会の視聴者を心理的に洗脳し、同様の事件が引き起こされるからであるという説である。
どうやらこの戦略は日本の馬鹿テレビ(読売テレビなど)を通じて、巧妙にかつ次第に日本社会を毒することに成功して来ているように見えるから困ったものだ。
実際、番組で放映された欧米の凶悪事件と似たような事件が番組放映後に生じているように見えるから不思議である。
これを笑福亭鶴瓶と中居正広(SMAP)が大喜びでやって、自分達は時給数百万円ももらっているのだから困ったものである。まさに国賊もの、犯罪者的な番組と言えるだろう。
”最も幸福な人とは最も多くの人に幸福をもたらす人”(ブラジルの諺(ことわざ))
という諺からすれば、連中のやっていることは、まさにその逆。
”最も不幸な人とは最も多くの人に不幸をもたらす人”
ということになるだろう。
こうした番組や類似番組は、「青少年少女への悪影響」も含めて、”即刻”中止されるべきだろう。
いずれにせよ、悪いことを公共放送を通じて放映するという愚策をするより、もっと良いことを放映するようにして欲しいものだ。
2008/02/12のBlog
[ 15:49 ]
[ テクノロジー ]
「人力発電」歩くだけで携帯10台分 平均出力5ワット
作用と反作用。動くものと動かされるもの。この間の”相対性”から、電磁気学は成り立つ。
もし動くものが電気モーターで、動かされるものが自分であれば、モーターによるアシスト作用が得られる。ロボットスーツ、アシスト付き電動自転車などは、これである。
方や、もし動くものが自分で、動かされるものが電気モーターであれば、ファラデーの電磁誘導の法則で発電できる。風力発電、自転車の発電などが、これである。
ならば、電気によるロボットスーツが実現可能なら、その逆のロボットスーツを来て発電することも可能である。
おそらく、こんな発想で実現したのが、この「人力発電」だろう。こんな方向の1つのやり方が今回の発明と考えられる。
したがって、筑波のロボットスーツも逆に筋力を落とせば、日常的に発電スーツに転用できるとも言えるわけである。
何ごともファラデーの”相対性原理”である。
ところで、最近テレビで、大昔の発明のことをやっていたのを見たが、かの発明王エジソンは、一番最初に作った車は、モーターで動く電気自動車であったという。それを、当時エジソン研究所の一介の技師に過ぎなかったヘンリー・フォードが、石油エンジン自動車を作ると言ってスピンオフして、大自動車会社フォードが誕生したのだという。
もしそうなら、我々地球人は100年近く前にエジソンの言う通りにしていれば、ずっと早くから再生可能な電気エンジンシステムの交通機関を持つ近未来型都市に行き着いていたはずである。もちろん、CO2による地球温暖化も問題とはならなかったかも知れない。
もし我々が、紀元前数千年前のシュメール人のように粘土板を使って文字を記録し続けて来たとすれば、今のように紙のための森林伐採もなかったはずである。我々が使っているパソコンの類いは、シリコン半導体なる”石”の表面に文字を刻み込むものだから、むしろ太古の粘土板に近いとも言えるからだ。
このように、一般に我々は発明によっていつも線形に進歩していると思うかも知れないが、それは全くのウソである。人類はいつも紆余曲折し、曲がりに曲がりくねって、3歩進んで2歩下がるような進歩をしているものなのだ。これを往々にしてマスコミやインテリは無視したがる。
我々はもっともっと賢くならねばならない。
作用と反作用。動くものと動かされるもの。この間の”相対性”から、電磁気学は成り立つ。
もし動くものが電気モーターで、動かされるものが自分であれば、モーターによるアシスト作用が得られる。ロボットスーツ、アシスト付き電動自転車などは、これである。
方や、もし動くものが自分で、動かされるものが電気モーターであれば、ファラデーの電磁誘導の法則で発電できる。風力発電、自転車の発電などが、これである。
ならば、電気によるロボットスーツが実現可能なら、その逆のロボットスーツを来て発電することも可能である。
おそらく、こんな発想で実現したのが、この「人力発電」だろう。こんな方向の1つのやり方が今回の発明と考えられる。
したがって、筑波のロボットスーツも逆に筋力を落とせば、日常的に発電スーツに転用できるとも言えるわけである。
何ごともファラデーの”相対性原理”である。
ところで、最近テレビで、大昔の発明のことをやっていたのを見たが、かの発明王エジソンは、一番最初に作った車は、モーターで動く電気自動車であったという。それを、当時エジソン研究所の一介の技師に過ぎなかったヘンリー・フォードが、石油エンジン自動車を作ると言ってスピンオフして、大自動車会社フォードが誕生したのだという。
もしそうなら、我々地球人は100年近く前にエジソンの言う通りにしていれば、ずっと早くから再生可能な電気エンジンシステムの交通機関を持つ近未来型都市に行き着いていたはずである。もちろん、CO2による地球温暖化も問題とはならなかったかも知れない。
もし我々が、紀元前数千年前のシュメール人のように粘土板を使って文字を記録し続けて来たとすれば、今のように紙のための森林伐採もなかったはずである。我々が使っているパソコンの類いは、シリコン半導体なる”石”の表面に文字を刻み込むものだから、むしろ太古の粘土板に近いとも言えるからだ。
このように、一般に我々は発明によっていつも線形に進歩していると思うかも知れないが、それは全くのウソである。人類はいつも紆余曲折し、曲がりに曲がりくねって、3歩進んで2歩下がるような進歩をしているものなのだ。これを往々にしてマスコミやインテリは無視したがる。
我々はもっともっと賢くならねばならない。
[ 11:46 ]
[ 徳島サッカー ]
かつて私が高校2年生の時の新人戦、これは一生忘れない。山梨県の進学校が歴史上唯一強豪韮崎高校を破ったという歴史を作った。1一0の薄氷の勝利。延長戦を制しての勝利だった。この後優勝は逃したものの、初のベスト4入りを果たした。
1975年度 山梨県高校新人サッカー
その1年前の新人戦では、2年生以上の上級生が全員退部し、たった11人の1年生だけで初出場したのがこの新人戦であった。相手は1、2年生で作った強豪韮崎であった。結果は1一0の敗戦。つまり、1年後の偉業の前にはすでにその徴候が1年前には現れていたというわけだ。
高校の新人戦というものは、これほどまでに出場する選手にとって重要な意味がある。しかしながら、有名人(つまりセレブ)びいきに洗脳された今のマスコミにはこれが分からない。それゆえ、往々にして各地方でもせいぜい県民板に結果が小さな記事として載るだけである。
試合は新聞には2一0とかいう結果しか書かれないが、こうした結果のために選手や学校の監督やコーチは1年、また1年と努力して来たものなのだ。それなくして試合自体が生まれない。読者や記者はそれを忘れてはならない。
「努力なくしては結果はない」
ということを! 人生では、結果がすべてではない。この結果を生み出すための努力(これには、計画力、実現力、実行力、不屈の精神などなどすべて)が必要なのだ!
これを学ぶことがもっとも重要である(2章 小中高時代:私がスポーツから学んだ事)。
そんなわけで、私はここに今年の徳島県高校サッカー新人戦の結果を紹介させてもらおう。勝ったものは奢れず敗者を称え、負けたものは卑屈にならず勝者を称え来年に備えて欲しいものである。
さらなる健闘を祈る!
【2008年徳島県新人戦】
【1回戦】
徳島北9一0徳島東工
鳴門工9一0生光学園
富岡東5一0阿南高専
城南2一0富岡西
阿波13一1板野
城ノ内13一0脇町
川島3一0徳島文理
小松島・穴吹4一1徳島工
城北5一1阿南工
海部3一1城東
鴨島商4一1城西
辻2一0貞光工
【2回戦】
徳島商2一0徳島北
川島3一1鳴門工
徳島市立2一0辻
阿波2一0池田
鳴門4一0鴨島商
富岡東4一0小松島・穴吹
城北2一1海部
城ノ内4一0城南
1975年度 山梨県高校新人サッカー
その1年前の新人戦では、2年生以上の上級生が全員退部し、たった11人の1年生だけで初出場したのがこの新人戦であった。相手は1、2年生で作った強豪韮崎であった。結果は1一0の敗戦。つまり、1年後の偉業の前にはすでにその徴候が1年前には現れていたというわけだ。
高校の新人戦というものは、これほどまでに出場する選手にとって重要な意味がある。しかしながら、有名人(つまりセレブ)びいきに洗脳された今のマスコミにはこれが分からない。それゆえ、往々にして各地方でもせいぜい県民板に結果が小さな記事として載るだけである。
試合は新聞には2一0とかいう結果しか書かれないが、こうした結果のために選手や学校の監督やコーチは1年、また1年と努力して来たものなのだ。それなくして試合自体が生まれない。読者や記者はそれを忘れてはならない。
「努力なくしては結果はない」
ということを! 人生では、結果がすべてではない。この結果を生み出すための努力(これには、計画力、実現力、実行力、不屈の精神などなどすべて)が必要なのだ!
これを学ぶことがもっとも重要である(2章 小中高時代:私がスポーツから学んだ事)。
そんなわけで、私はここに今年の徳島県高校サッカー新人戦の結果を紹介させてもらおう。勝ったものは奢れず敗者を称え、負けたものは卑屈にならず勝者を称え来年に備えて欲しいものである。
さらなる健闘を祈る!
【2008年徳島県新人戦】
【1回戦】
徳島北9一0徳島東工
鳴門工9一0生光学園
富岡東5一0阿南高専
城南2一0富岡西
阿波13一1板野
城ノ内13一0脇町
川島3一0徳島文理
小松島・穴吹4一1徳島工
城北5一1阿南工
海部3一1城東
鴨島商4一1城西
辻2一0貞光工
【2回戦】
徳島商2一0徳島北
川島3一1鳴門工
徳島市立2一0辻
阿波2一0池田
鳴門4一0鴨島商
富岡東4一0小松島・穴吹
城北2一1海部
城ノ内4一0城南
2008/02/10のBlog
[ 17:38 ]
[ ボブスレー ]
Europe Cup in Cortina(ITALY) 4人乗り2試合目
今日本のボブスレーが”熱い”!
なぜなら、欧州の強豪ひしめく国際大会で堂々の6位、5位入賞。徐々に順位を上げて来ているからだ。
ボブスレーは”氷上のF1”と呼ばれ、欧米では冬のスポーツでは絶大なる人気を博する。
これまで日本はいつも20数番と下位を低迷していた。男子に至ってはトリノではオリンピック出場も逃してしまった。
それが、開びゃく以来始めての6位入賞を果たしたというわけだ。熱くならない方がおかしい。
総監督が石井和男さんに代わり、若手の発掘と育成。そして「ボブスレー工学研究会」を発足し、東大の航空宇宙流体力学出身の科学者やデザイナーやハイテク企業のサポートを集めることに成功。徐々に科学サイドからのデータを集め、レースに生かして来た。
その成果がここに来てやっと出始めたということだろう。
今日本のボブスレーが”熱い”!
なぜなら、欧州の強豪ひしめく国際大会で堂々の6位、5位入賞。徐々に順位を上げて来ているからだ。
ボブスレーは”氷上のF1”と呼ばれ、欧米では冬のスポーツでは絶大なる人気を博する。
これまで日本はいつも20数番と下位を低迷していた。男子に至ってはトリノではオリンピック出場も逃してしまった。
それが、開びゃく以来始めての6位入賞を果たしたというわけだ。熱くならない方がおかしい。
総監督が石井和男さんに代わり、若手の発掘と育成。そして「ボブスレー工学研究会」を発足し、東大の航空宇宙流体力学出身の科学者やデザイナーやハイテク企業のサポートを集めることに成功。徐々に科学サイドからのデータを集め、レースに生かして来た。
その成果がここに来てやっと出始めたということだろう。
[ 16:46 ]
[ 音楽・芸能 ]
NHK、ねぎらいの言葉ない…橋下知事大いに不信感
橋下氏が、「知事の公務で忙しくてNHK大阪の番組には出ることが出来ない」と拒否していたにもかかわらず、「無理にでも出ろ」とNHK側が強要し、それで、橋下氏がしょうがなく出たところ、「30分遅れで到着しました」とまるで知事の責任であるかのように報道されたことにたいそう橋下知事が憤慨したという騒動。
女性アナウンサー:「30分の遅刻で到着されました」
橋下:「遅刻は僕の責任じゃない。(公務で冒頭から)来れませんと再三、言っていた」
この騒動に対して
橋下:「黙っていても金が入ってくる組織はこんなもの」
まったくその通りだ。
私も最近のNHK大阪の作る「朝ドラ」の質の低下に憤慨して来た1人だが、昨年からの「ちりとてちん」のような低級お笑い番組として伝統ある「落語」を扱われては「落語」の権威すらおとしめてしまうものだろうと感じる。
あんな態度の悪い弟子や質の低い弟子、そういう連中が金もうけだけのために「落語」界に入っているのだという印象を与える番組だからである。これでは、「落語」なるものを芸術にまで高めた先駆的な人々は浮かばれない。
おそらく、吉本興行のいわゆる「吉本芸」的な”感覚”で「落語」を見下して、プロデューサーや脚本家が番組を作ったのだろう。
早く終わって欲しいものだが、春までは終わる気配がない。困ったものである。良い役者たちが必死で演技しているだけに、だめなドラマで気の毒である。
こうしたことからもNHK大阪(もちろんNHK東京も同じようなものだが)はかなり「殿様商売」の気になって久しいのだろう。
まあ、一時追放された「関西テレビ」と同じで、実は大手テレビ局は、商社と同じで仕事を外部に発注するだけで、実際には自分達はほとんど何もしていないのだろう。そんなやり方に問題が出ているということでしょうナ。
だいたいなんでこんなにNHKがお笑い番組やお笑いタレント登竜門ばかりに力を入れるのか、私には理解できないのだが。
参考:
「吉本は芸能界から追放すべきだナ 」
「はよー、終わってんか、”ちりとてちん”? 」
橋下氏が、「知事の公務で忙しくてNHK大阪の番組には出ることが出来ない」と拒否していたにもかかわらず、「無理にでも出ろ」とNHK側が強要し、それで、橋下氏がしょうがなく出たところ、「30分遅れで到着しました」とまるで知事の責任であるかのように報道されたことにたいそう橋下知事が憤慨したという騒動。
女性アナウンサー:「30分の遅刻で到着されました」
橋下:「遅刻は僕の責任じゃない。(公務で冒頭から)来れませんと再三、言っていた」
この騒動に対して
橋下:「黙っていても金が入ってくる組織はこんなもの」
まったくその通りだ。
私も最近のNHK大阪の作る「朝ドラ」の質の低下に憤慨して来た1人だが、昨年からの「ちりとてちん」のような低級お笑い番組として伝統ある「落語」を扱われては「落語」の権威すらおとしめてしまうものだろうと感じる。
あんな態度の悪い弟子や質の低い弟子、そういう連中が金もうけだけのために「落語」界に入っているのだという印象を与える番組だからである。これでは、「落語」なるものを芸術にまで高めた先駆的な人々は浮かばれない。
おそらく、吉本興行のいわゆる「吉本芸」的な”感覚”で「落語」を見下して、プロデューサーや脚本家が番組を作ったのだろう。
早く終わって欲しいものだが、春までは終わる気配がない。困ったものである。良い役者たちが必死で演技しているだけに、だめなドラマで気の毒である。
こうしたことからもNHK大阪(もちろんNHK東京も同じようなものだが)はかなり「殿様商売」の気になって久しいのだろう。
まあ、一時追放された「関西テレビ」と同じで、実は大手テレビ局は、商社と同じで仕事を外部に発注するだけで、実際には自分達はほとんど何もしていないのだろう。そんなやり方に問題が出ているということでしょうナ。
だいたいなんでこんなにNHKがお笑い番組やお笑いタレント登竜門ばかりに力を入れるのか、私には理解できないのだが。
参考:
「吉本は芸能界から追放すべきだナ 」
「はよー、終わってんか、”ちりとてちん”? 」
2008/02/07のBlog
[ 13:32 ]
[ 大学・大学院 ]
俗に”耳学問(みみがくもん)”という言葉がある。
”耳学問”というのは、いろんな会議や会合やサロンなどで会った他人の口からそれとなく聞く話に価値あることがある。だからそうやって勉強すること、というような意味の言葉である。
今だに日本の学者社会では、この”耳学問”は非常に重宝がられているようだ。特に、自分の専門外の研究を知るというような場合にこれが有効だと思われているらしい。
これは、おそらく、日本の学者社会が日常的にたいへん忙しいために、自分で論文を読んだり、自分で原典に当たったり、自分で実際に確かめたりする時間がないことが原因であるように見える。
これに対して、もしあるとすれば、実はあまりこういう言葉は私も聞いたことがないのだが、私自身の造語として、”目学問(めがくもん)”なるものもあるだろうと思う。
私は、フリーでどこの研究機関にも所属することなく、お金もないのでほとんど研究会や会合などに出かけることがない。それゆえ、あまり日常的に他の研究者と会話する機会がない。
こういう私の場合には、耳学問は意味をなさない。なぜなら他人の口を当てにすることがあり得ないからだ。そこで、私の場合は、直接自分で原典を当たって論文を読みまくる他ない。そうしなければ、最新の研究テーマも何も何も分からないからである。
したがって、いわゆる日本の大学の集団の中にいる学者の場合の”耳学問”に対して、私のような市井の1フリーの学者の場合には”目学問”なるものがあり得る。
私はこういう”目学問”でここ10数年過ごして来たわけである。こうしない限り、私が自分で海外の一流研究雑誌にそれなりの論文を公表することはまず不可能だからである。およそ私に研究協力を日常的に提供しようというような御親切な学者は、このせち辛い日本社会には皆無だからだ(もちろん、2、3の友人を除いての話である)。
しかし、こうして10数年”目学問”をやって来てみると、私は逆に、「これこそ学者本来のやり方ではないのか」と最近よく思うようになった。
大学にいる普通の学者から見れば、四六時中人の論文ばかり読んでいる私のような研究者はオリジナリティーに欠けた研究者に見えることだろう。およそこれでは競争の厳しい研究者社会では生き残れないと思うに違いない。なぜなら、自分の専門分野はいうに及ばず、自分の専門外の分野では、”耳学問”でささっと概観する方がよほど効率的だと考えるはずだからである。
ところが、私の個人的経験では、それは大きな間違いだと思うのである。というのは、
「学者なるものその分野のすべてを知り尽くしていなければならない」
と私は個人的に考えているからである。
例えば、「宇宙考古学」なる分野を発明したとされるユダヤ人のゼカリア・シッチン博士は、私の言葉で言えば”目学問”の大家である。
シッチン博士は、古代エジプトのヒエログラフ、アッカド語、ヒッタイト語、セム語、ハム語、インドヨーロッパ語、古代ヘブライ語、フェニキア語、現代英語、などなど何でも読むことができるらしい。そして40年の歳月を経てとうとう古代シュメール語(楔形文字)まで読むことができるようになったという。
そして、古代シュメール語で書かれた粘土板の原典を読み解く内に、古代シュメールの神話こそ旧約聖書やエジプト文明やメソポタミア文明の神話のルーツ、先史文明であることを突き止めたというわけである。
私はやはり研究というものは、自分の書くことすべてに自分の理解が行き届いたものであるべきだと思うのである。”耳学問”で学んだことは、所詮は他人の目で見たものに過ぎない。それゆえ、”耳学問”は自分にはブラックボックスとなってしまう。だから自分が記述することに他人の口から語られたブラックボックスの部分が少なければ少ないほど素晴らしいと考えるのである。
こう考えると、何かの問題を自分なりに解こうと挑戦すると、どうしてもその問題の事の起こり、歴史、それ以前の先行研究、そして現在の状況など勉強するはめになる。それゆえ、それが完逐するまでただひたすら他人の口で語られた論文を粛々と忍耐強く読み続けなければならない。したがって、人が見れば、「お前は勉強ばかりしているな。論文ばかり読んで少しも考えない奴だな」というふうに見られるかも知れないのである。
しかし、私は真に本質的な研究とは、こうした極めて地道な作業の後にのみ生まれるものであるとこれまでの体験から信じている。
ところが、最近の世の風潮としては、こういうことはだれもがやりたがらないように見えるから困る。また、大学や研究機関のシステム上、なかなかそうしたことが出来にくくなっているようにも見える。だれしも、一度自分の専門分野を持てば、まるでクモが自分の張った小さなクモの巣に何かがかかるのを待つように、自分の専門分野に留まって何か面白そうな話題がひっかかるのを待つようになってしまうからである。
したがって、他の分野を自分で開拓したり征服するというような強者はなかなか出てこないことになる。
こんなふうなことから、私は”耳学問”という言葉は大嫌いである。学者なるもの”目学問”で行きたいものである。もちろん、一番良いのは自分で何でもやってみる”肌学問”である。
”耳学問”というのは、いろんな会議や会合やサロンなどで会った他人の口からそれとなく聞く話に価値あることがある。だからそうやって勉強すること、というような意味の言葉である。
今だに日本の学者社会では、この”耳学問”は非常に重宝がられているようだ。特に、自分の専門外の研究を知るというような場合にこれが有効だと思われているらしい。
これは、おそらく、日本の学者社会が日常的にたいへん忙しいために、自分で論文を読んだり、自分で原典に当たったり、自分で実際に確かめたりする時間がないことが原因であるように見える。
これに対して、もしあるとすれば、実はあまりこういう言葉は私も聞いたことがないのだが、私自身の造語として、”目学問(めがくもん)”なるものもあるだろうと思う。
私は、フリーでどこの研究機関にも所属することなく、お金もないのでほとんど研究会や会合などに出かけることがない。それゆえ、あまり日常的に他の研究者と会話する機会がない。
こういう私の場合には、耳学問は意味をなさない。なぜなら他人の口を当てにすることがあり得ないからだ。そこで、私の場合は、直接自分で原典を当たって論文を読みまくる他ない。そうしなければ、最新の研究テーマも何も何も分からないからである。
したがって、いわゆる日本の大学の集団の中にいる学者の場合の”耳学問”に対して、私のような市井の1フリーの学者の場合には”目学問”なるものがあり得る。
私はこういう”目学問”でここ10数年過ごして来たわけである。こうしない限り、私が自分で海外の一流研究雑誌にそれなりの論文を公表することはまず不可能だからである。およそ私に研究協力を日常的に提供しようというような御親切な学者は、このせち辛い日本社会には皆無だからだ(もちろん、2、3の友人を除いての話である)。
しかし、こうして10数年”目学問”をやって来てみると、私は逆に、「これこそ学者本来のやり方ではないのか」と最近よく思うようになった。
大学にいる普通の学者から見れば、四六時中人の論文ばかり読んでいる私のような研究者はオリジナリティーに欠けた研究者に見えることだろう。およそこれでは競争の厳しい研究者社会では生き残れないと思うに違いない。なぜなら、自分の専門分野はいうに及ばず、自分の専門外の分野では、”耳学問”でささっと概観する方がよほど効率的だと考えるはずだからである。
ところが、私の個人的経験では、それは大きな間違いだと思うのである。というのは、
「学者なるものその分野のすべてを知り尽くしていなければならない」
と私は個人的に考えているからである。
例えば、「宇宙考古学」なる分野を発明したとされるユダヤ人のゼカリア・シッチン博士は、私の言葉で言えば”目学問”の大家である。
シッチン博士は、古代エジプトのヒエログラフ、アッカド語、ヒッタイト語、セム語、ハム語、インドヨーロッパ語、古代ヘブライ語、フェニキア語、現代英語、などなど何でも読むことができるらしい。そして40年の歳月を経てとうとう古代シュメール語(楔形文字)まで読むことができるようになったという。
そして、古代シュメール語で書かれた粘土板の原典を読み解く内に、古代シュメールの神話こそ旧約聖書やエジプト文明やメソポタミア文明の神話のルーツ、先史文明であることを突き止めたというわけである。
私はやはり研究というものは、自分の書くことすべてに自分の理解が行き届いたものであるべきだと思うのである。”耳学問”で学んだことは、所詮は他人の目で見たものに過ぎない。それゆえ、”耳学問”は自分にはブラックボックスとなってしまう。だから自分が記述することに他人の口から語られたブラックボックスの部分が少なければ少ないほど素晴らしいと考えるのである。
こう考えると、何かの問題を自分なりに解こうと挑戦すると、どうしてもその問題の事の起こり、歴史、それ以前の先行研究、そして現在の状況など勉強するはめになる。それゆえ、それが完逐するまでただひたすら他人の口で語られた論文を粛々と忍耐強く読み続けなければならない。したがって、人が見れば、「お前は勉強ばかりしているな。論文ばかり読んで少しも考えない奴だな」というふうに見られるかも知れないのである。
しかし、私は真に本質的な研究とは、こうした極めて地道な作業の後にのみ生まれるものであるとこれまでの体験から信じている。
ところが、最近の世の風潮としては、こういうことはだれもがやりたがらないように見えるから困る。また、大学や研究機関のシステム上、なかなかそうしたことが出来にくくなっているようにも見える。だれしも、一度自分の専門分野を持てば、まるでクモが自分の張った小さなクモの巣に何かがかかるのを待つように、自分の専門分野に留まって何か面白そうな話題がひっかかるのを待つようになってしまうからである。
したがって、他の分野を自分で開拓したり征服するというような強者はなかなか出てこないことになる。
こんなふうなことから、私は”耳学問”という言葉は大嫌いである。学者なるもの”目学問”で行きたいものである。もちろん、一番良いのは自分で何でもやってみる”肌学問”である。
[ 09:24 ]
[ サッカー ]
岡田ジャパン、次へ大きな勝ち点3 W杯3次予選
暑い国から来た選手が雪の降る寒いピッチでサッカーをする。不利になるのは当たり前。
そう、昨日のサッカーW杯アジア予選日本vsタイの試合のことである。明かにタイは動きが悪かった。要するに、雪が日本に味方した。それ以上でもそれ以下でもなかった。日本の攻撃は単調で、これといってあまり良いところはなかった。
1点目は、遠藤のフリーキックで直接決めた。その直後にタイにキックオフ後に見事な攻撃ですぐに失点。これでどうなるかと思ったが、この時間帯から雪がぱらつき始め、寒くなったようだ。これと同時にタイの選手達の動きが止まった。受けに回ったタイの選手たちのおかげで、タイ陣で攻撃できるようになり、クリアをつめた中村の足にはねかったボールが大久保にセンタリングとなり大久保が2点目を入れた。コーナーキックから中沢の3点目。そして、最後に巻が「僕の効き足は頭です」のヘッドで4点目。
こんなわけで、点差から見れば大勝のように見えるが、内容はいまいちだった。相手の動きが悪すぎた。
まあ、ホームゲームの利で買った試合ということですナ。あまり参考にはならないだろう。
暑い国から来た選手が雪の降る寒いピッチでサッカーをする。不利になるのは当たり前。
そう、昨日のサッカーW杯アジア予選日本vsタイの試合のことである。明かにタイは動きが悪かった。要するに、雪が日本に味方した。それ以上でもそれ以下でもなかった。日本の攻撃は単調で、これといってあまり良いところはなかった。
1点目は、遠藤のフリーキックで直接決めた。その直後にタイにキックオフ後に見事な攻撃ですぐに失点。これでどうなるかと思ったが、この時間帯から雪がぱらつき始め、寒くなったようだ。これと同時にタイの選手達の動きが止まった。受けに回ったタイの選手たちのおかげで、タイ陣で攻撃できるようになり、クリアをつめた中村の足にはねかったボールが大久保にセンタリングとなり大久保が2点目を入れた。コーナーキックから中沢の3点目。そして、最後に巻が「僕の効き足は頭です」のヘッドで4点目。
こんなわけで、点差から見れば大勝のように見えるが、内容はいまいちだった。相手の動きが悪すぎた。
まあ、ホームゲームの利で買った試合ということですナ。あまり参考にはならないだろう。
[ 09:03 ]
[ 歴史 ]
「島津発祥の地」でNHKに異議申し立てへ 宮崎・都城
”NHKの大河ドラマ「篤(あつ)姫」を巡り、宮崎県都城市の長峯誠市長が19日、NHK鹿児島放送局(鹿児島市)を訪れ、島津家発祥の地を鹿児島県出水市と紹介したことに異議を申し立てる。「島津発祥の地」をキャッチフレーズに掲げるまちとして、都城も紹介してと同時に求めるという。 ”
市の担当者:
「出水が発祥の地としていることを否定するものではないが、島津氏の名前の起こりは都城ということをNHK側に理解してほしい」
NHK広報部:
「要望書の内容を見ていないのでコメントできない。19日に受け取った時点で対応したい」
私はこの1月に「本当の「島津斉彬公」はどんな顔?」の最後にこう書いていた。
”NHKは、「NHK自身が権威だ」と思っているらしく、AとBと2つの物がある場合には、Aがより流布している、良く知られている、一見権威がある様に見えると、真実に近いBがあったとしてもAを採用する。こういう傾向が強い。その結果、往々にして、一般人に誤解を与えてしまうのである。”
まさしくこの問題である。
実は、私はもっと前(ちょうど1年ほど前)にも「「グーグル革命の衝撃」の裏には何が?」で”同じこと”を指摘していた。
”昨夜のNHKスペシャルで「グーグル革命の衝撃あなたの人生を“検索”が変える」という非常に面白い番組をやっていた。私もこれを見たが、どうも最近NHKは、番組で”物事を一面的にしか放送しない”という傾向が強まってきたように感じる。”
”その時は、「誰が坂本竜馬を暗殺したか」を問うテーマの番組であった。この番組では、「水戸藩の新撰組残党が暗殺した」という側に上田早苗がつき、「薩摩藩の西郷隆盛が暗殺した」という側に松平定知がついた。キャスターは2人しかいないために、”たった2つ”の可能性しか考慮しなかったわけだ。
これを視聴者に投票させて、「西郷隆盛が暗殺した」という方が勝利して、あたかも松平定知の仮説がもっとも有力な説であるかのような”印象”をかもし出して番組が彼のナレーションと共に終わった。
これも一種の”番組捏造”、あるいは”歴史改変”である。なぜなら、何の根拠もないからである。あくまでキャスター本人の”希望的観測”を補強するための状況証拠を並べたに過ぎないからである。”
というようなわけで、NHK自らが日本の歴史や事実を意識的に無視してねつ造しているわけですナ。
困った風潮である。
”NHKの大河ドラマ「篤(あつ)姫」を巡り、宮崎県都城市の長峯誠市長が19日、NHK鹿児島放送局(鹿児島市)を訪れ、島津家発祥の地を鹿児島県出水市と紹介したことに異議を申し立てる。「島津発祥の地」をキャッチフレーズに掲げるまちとして、都城も紹介してと同時に求めるという。 ”
市の担当者:
「出水が発祥の地としていることを否定するものではないが、島津氏の名前の起こりは都城ということをNHK側に理解してほしい」
NHK広報部:
「要望書の内容を見ていないのでコメントできない。19日に受け取った時点で対応したい」
私はこの1月に「本当の「島津斉彬公」はどんな顔?」の最後にこう書いていた。
”NHKは、「NHK自身が権威だ」と思っているらしく、AとBと2つの物がある場合には、Aがより流布している、良く知られている、一見権威がある様に見えると、真実に近いBがあったとしてもAを採用する。こういう傾向が強い。その結果、往々にして、一般人に誤解を与えてしまうのである。”
まさしくこの問題である。
実は、私はもっと前(ちょうど1年ほど前)にも「「グーグル革命の衝撃」の裏には何が?」で”同じこと”を指摘していた。
”昨夜のNHKスペシャルで「グーグル革命の衝撃あなたの人生を“検索”が変える」という非常に面白い番組をやっていた。私もこれを見たが、どうも最近NHKは、番組で”物事を一面的にしか放送しない”という傾向が強まってきたように感じる。”
”その時は、「誰が坂本竜馬を暗殺したか」を問うテーマの番組であった。この番組では、「水戸藩の新撰組残党が暗殺した」という側に上田早苗がつき、「薩摩藩の西郷隆盛が暗殺した」という側に松平定知がついた。キャスターは2人しかいないために、”たった2つ”の可能性しか考慮しなかったわけだ。
これを視聴者に投票させて、「西郷隆盛が暗殺した」という方が勝利して、あたかも松平定知の仮説がもっとも有力な説であるかのような”印象”をかもし出して番組が彼のナレーションと共に終わった。
これも一種の”番組捏造”、あるいは”歴史改変”である。なぜなら、何の根拠もないからである。あくまでキャスター本人の”希望的観測”を補強するための状況証拠を並べたに過ぎないからである。”
というようなわけで、NHK自らが日本の歴史や事実を意識的に無視してねつ造しているわけですナ。
困った風潮である。
2008/02/05のBlog
[ 12:29 ]
[ 社会 ]
最近さまざまなニュースが報道される。そんな中でどうやら「我々日本人はかなりヒステリックに対応するように何か誘導されている」ように思うことがしばしばある。何かどこかの「見えざる手」に動かされているようにすら見える時がある。
世界陰謀論の「300人委員会」で有名なジョン・コールマン博士や「王室レプティリアン説」で有名なデーヴィッド・アイクなどに言わせれば、それはおそらくイギリス王朝の作った「タビストック研究所」の”仕業”ということになるだろう。つまり、「パニック研究」というものであるらしい。
これは、「社会に何か悪さや衝撃的事件を起こして、それがどのように伝わり、どのような反応がでるか」をつぶさに観察して、その国民のパニック特性を調べるというものらしい。これに日本やアメリカのマスコミがうまく利用されるらしい。
現在の我々ネットワーク研究の言葉で言えば、「ネットワークシステムの主要ノードに摂動(せつどう)を加え、ネットワークのロバストネスを調べる」ということに当たる。ちょうど今我々数理科学者が研究しているテーマである。
しかし、数理科学ではパソコン内にそういうモデルを作って実験すれば済むことだが、実際の社会でやるとなれば、それはそれなりの危険性が伴う。少なくとも、無実の人の命が危険にさらされるからである。ショックで死ぬ人やその摂動の効果をもろにかぶる人が出るはずだからである。
したがって、我々普通の科学者はそうした実験は行わない。また我々科学者にはできない。
ところが、もうかなり昔から少なくとも第一次世界大戦よりずっと前から英国では王室の肝煎りでそういう研究と実験が行われたという話である。その伝統がずっと今日まで生きているらしい。そのため、第一次世界大戦前ではロシアへ使われ(「カラマゾフの兄弟」の時代となった)、第二次世界大戦前にはドイツへ使われ(ナチス台頭)、そして現在では第三次世界大戦を生むためにこれが日米欧に使われているのだ。
そういう場合、何を起こせば良いかをタビストック研究所から世界各国に潜んだスパイ(MI6やフリーメーソンや東インド会社社員)に指示し、実行させる。まあ、中国マフィアや日本のヤクザが「聞くな団」なるものを組織して起こす犯罪と同じような手口である(”カナダからの手紙”2:今度は海からの手紙)。
とまあ、こういう見方がコールマン博士やアイクや太田の見方である。
例えば、今回の「中国毒入り餃子」事件の場合。毒の混入はかなり人為的かつ局所的なものだということが分かって来た。製造者の作った大量のものには毒は無く、販売する業者の過程でもほとんどは無害。しかし、いくつかの特定の場所の数個のものにはだれかが混入したような穴があった。また、事件発覚前に株価が急激に下がり大きな売買があったことから、だれかが株価操作を狙った容疑も出て来ている。
こうしたことから、明かに「中国毒入り餃子」事件は、だれかが”意図的に”仕組んだように見える。これに日本のマスコミがうまく利用されたわけである。
そして我々ごく一般人は(アイクの言葉で言えば)「問題、反応、解決」という単純な反応パターンにしたがって、それまでの関係を失っていく。つまり、普通の言い方で言えば、過剰反応して怖がり、法的強化を求め、相手との関係が悪化していくということである。
こういう反応データを集めて、その国民の特徴を集めて、次第にその国民をうまく世論誘導して行こうというのが、大英帝国以来のイギリス王室の手口らしい。困ったものである。
私は、よその国の王室がどうであろうが何ら興味は無いが、やはりその国の自国の利益だけ優先するというのであれば、やはりそれはいわゆる「帝国主義」以外の何ものでもなく、それでは世界平和は実現しない。もっともコールマン博士によれば、「世界平和はいらない」というのが欧州の王室の意見らしいが。なぜなら今後50年待たずに「世界人口を半減させる」という話であるからだ。「余剰人口を浄化する」ことが目的となっているというのであるからだ。
その目的のためには、”王室の手下となった国連、WHO、世界銀行などを通じて”、内戦、自爆テロ、戦争、麻薬、エイズ、プリオン、肝炎、エボラ、鳥インフルエンザ、抗うつ剤、タミフル、ワクチン、フッ素、株価操作、などなどなんでもござれ、「貧乏人が死に絶えることが良いことだ」というような方策や施策をどんどん推進するらしいナ。
まあ、「封建社会」の時代ならどこでもやっていたようなことである。要するに、21世紀の今も我々は封建社会に生きているということですナ。未だに「戦国時代」というわけサ。
いやはや、世も末ですナ。
世界陰謀論の「300人委員会」で有名なジョン・コールマン博士や「王室レプティリアン説」で有名なデーヴィッド・アイクなどに言わせれば、それはおそらくイギリス王朝の作った「タビストック研究所」の”仕業”ということになるだろう。つまり、「パニック研究」というものであるらしい。
これは、「社会に何か悪さや衝撃的事件を起こして、それがどのように伝わり、どのような反応がでるか」をつぶさに観察して、その国民のパニック特性を調べるというものらしい。これに日本やアメリカのマスコミがうまく利用されるらしい。
現在の我々ネットワーク研究の言葉で言えば、「ネットワークシステムの主要ノードに摂動(せつどう)を加え、ネットワークのロバストネスを調べる」ということに当たる。ちょうど今我々数理科学者が研究しているテーマである。
しかし、数理科学ではパソコン内にそういうモデルを作って実験すれば済むことだが、実際の社会でやるとなれば、それはそれなりの危険性が伴う。少なくとも、無実の人の命が危険にさらされるからである。ショックで死ぬ人やその摂動の効果をもろにかぶる人が出るはずだからである。
したがって、我々普通の科学者はそうした実験は行わない。また我々科学者にはできない。
ところが、もうかなり昔から少なくとも第一次世界大戦よりずっと前から英国では王室の肝煎りでそういう研究と実験が行われたという話である。その伝統がずっと今日まで生きているらしい。そのため、第一次世界大戦前ではロシアへ使われ(「カラマゾフの兄弟」の時代となった)、第二次世界大戦前にはドイツへ使われ(ナチス台頭)、そして現在では第三次世界大戦を生むためにこれが日米欧に使われているのだ。
そういう場合、何を起こせば良いかをタビストック研究所から世界各国に潜んだスパイ(MI6やフリーメーソンや東インド会社社員)に指示し、実行させる。まあ、中国マフィアや日本のヤクザが「聞くな団」なるものを組織して起こす犯罪と同じような手口である(”カナダからの手紙”2:今度は海からの手紙)。
とまあ、こういう見方がコールマン博士やアイクや太田の見方である。
例えば、今回の「中国毒入り餃子」事件の場合。毒の混入はかなり人為的かつ局所的なものだということが分かって来た。製造者の作った大量のものには毒は無く、販売する業者の過程でもほとんどは無害。しかし、いくつかの特定の場所の数個のものにはだれかが混入したような穴があった。また、事件発覚前に株価が急激に下がり大きな売買があったことから、だれかが株価操作を狙った容疑も出て来ている。
こうしたことから、明かに「中国毒入り餃子」事件は、だれかが”意図的に”仕組んだように見える。これに日本のマスコミがうまく利用されたわけである。
そして我々ごく一般人は(アイクの言葉で言えば)「問題、反応、解決」という単純な反応パターンにしたがって、それまでの関係を失っていく。つまり、普通の言い方で言えば、過剰反応して怖がり、法的強化を求め、相手との関係が悪化していくということである。
こういう反応データを集めて、その国民の特徴を集めて、次第にその国民をうまく世論誘導して行こうというのが、大英帝国以来のイギリス王室の手口らしい。困ったものである。
私は、よその国の王室がどうであろうが何ら興味は無いが、やはりその国の自国の利益だけ優先するというのであれば、やはりそれはいわゆる「帝国主義」以外の何ものでもなく、それでは世界平和は実現しない。もっともコールマン博士によれば、「世界平和はいらない」というのが欧州の王室の意見らしいが。なぜなら今後50年待たずに「世界人口を半減させる」という話であるからだ。「余剰人口を浄化する」ことが目的となっているというのであるからだ。
その目的のためには、”王室の手下となった国連、WHO、世界銀行などを通じて”、内戦、自爆テロ、戦争、麻薬、エイズ、プリオン、肝炎、エボラ、鳥インフルエンザ、抗うつ剤、タミフル、ワクチン、フッ素、株価操作、などなどなんでもござれ、「貧乏人が死に絶えることが良いことだ」というような方策や施策をどんどん推進するらしいナ。
まあ、「封建社会」の時代ならどこでもやっていたようなことである。要するに、21世紀の今も我々は封建社会に生きているということですナ。未だに「戦国時代」というわけサ。
いやはや、世も末ですナ。
2008/02/01のBlog
[ 14:37 ]
[ ジョーク ]
笑いは百薬之長。笑う角には福来る。せち辛い世の中には笑いが必要。
以下はジョーク。本気にしないことが肝心。
中国の「石景山遊楽園」は、ディズニーランドや日本のドラエモンやキティーなどの有名キャラクターのイミテーションで超有名。
このほどここに新しいキャラクターのアトラクションが誕生したらしい。
なんとそれは、ジョニー・デップ主演の「チャーリーとチョコレート工場」の中国版、ジョ・デッパ主演の「チェンと餃子工場」。
以下はジョーク。本気にしないことが肝心。
中国の「石景山遊楽園」は、ディズニーランドや日本のドラエモンやキティーなどの有名キャラクターのイミテーションで超有名。
このほどここに新しいキャラクターのアトラクションが誕生したらしい。
なんとそれは、ジョニー・デップ主演の「チャーリーとチョコレート工場」の中国版、ジョ・デッパ主演の「チェンと餃子工場」。
ジョニー・デップ主演の「チャーリーとチョコレート工場」のあらすじは以下のもの。
”ウィリー・ウォンカ製のお菓子は世界中で大人気。しかしその工場の中は一切謎に包まれている。ある日ウォンカは「生産するチョコレートの中に5枚だけ金色のチケットを同封し、それを引き当てた子供は家族を一人同伴で工場を見学する権利が与えられ、さらにそのうちの一人にはすばらしい副賞がつく」という告知を出した。世界中がチケット争奪で大騒ぎとなる中、運良く引き当てたのは、食いしん坊の肥満少年オーガスタス、お金持ちでわがままな少女ベルーカ、いつもガムを噛んで勝つことにこだわる少女バイオレット、テレビ好きで反抗的な少年マイク、そして家は貧しいが家族思いの心優しい少年チャーリー。
彼らはウォンカの招待のもと、工場の中で夢のような不思議な光景を体験していく。ところがその途中で、まるであらかじめ仕組んであったかのようなさまざまなハプニングが起きて、子供たちは一人、また一人と消えていく…果たして、最後まで工場を見て回れる子供はいるのか。ウォンカの「副賞」とは、そして彼の過去とは?”
これが中国版ジョ・デッパ主演「チェンと餃子工場」のあらすじではこうなる。
”ウィー・ウォン製の餃子は世界中で大人気。しかしその工場の中は一切謎に包まれている。ある日ウォンは「生産する餃子の中に5枚だけ金色のチケットを同封し、それを引き当てた子供は家族を一人同伴で工場を見学する権利が与えられ、さらにそのうちの一人にはすばらしい副賞がつく」という告知を出した。世界中がチケット争奪で大騒ぎとなる中、運良く引き当てたのは、食いしん坊の肥満少年オー、お金持ちでわがままな少女キム、いつもガムを噛んで勝つことにこだわる少女ウィ、テレビ好きで反抗的な少年マー、そして家は貧しいが家族思いの心優しい少年チェン。
彼らはウォンの招待のもと、工場の中で夢のような不思議な光景を体験していく。ところがその途中で、まるであらかじめ仕組んであったかのようなさまざまなハプニングが起きて、子供たちは一人、また一人と消えていく…果たして、最後まで工場を見て回れる子供はいるのか。ウォンの「副賞」とは、そして彼の過去とは?”
参考:
”中国人の3大発明”
”カナダからの手紙”:それは中国人犯罪者からだった
”ウィリー・ウォンカ製のお菓子は世界中で大人気。しかしその工場の中は一切謎に包まれている。ある日ウォンカは「生産するチョコレートの中に5枚だけ金色のチケットを同封し、それを引き当てた子供は家族を一人同伴で工場を見学する権利が与えられ、さらにそのうちの一人にはすばらしい副賞がつく」という告知を出した。世界中がチケット争奪で大騒ぎとなる中、運良く引き当てたのは、食いしん坊の肥満少年オーガスタス、お金持ちでわがままな少女ベルーカ、いつもガムを噛んで勝つことにこだわる少女バイオレット、テレビ好きで反抗的な少年マイク、そして家は貧しいが家族思いの心優しい少年チャーリー。
彼らはウォンカの招待のもと、工場の中で夢のような不思議な光景を体験していく。ところがその途中で、まるであらかじめ仕組んであったかのようなさまざまなハプニングが起きて、子供たちは一人、また一人と消えていく…果たして、最後まで工場を見て回れる子供はいるのか。ウォンカの「副賞」とは、そして彼の過去とは?”
これが中国版ジョ・デッパ主演「チェンと餃子工場」のあらすじではこうなる。
”ウィー・ウォン製の餃子は世界中で大人気。しかしその工場の中は一切謎に包まれている。ある日ウォンは「生産する餃子の中に5枚だけ金色のチケットを同封し、それを引き当てた子供は家族を一人同伴で工場を見学する権利が与えられ、さらにそのうちの一人にはすばらしい副賞がつく」という告知を出した。世界中がチケット争奪で大騒ぎとなる中、運良く引き当てたのは、食いしん坊の肥満少年オー、お金持ちでわがままな少女キム、いつもガムを噛んで勝つことにこだわる少女ウィ、テレビ好きで反抗的な少年マー、そして家は貧しいが家族思いの心優しい少年チェン。
彼らはウォンの招待のもと、工場の中で夢のような不思議な光景を体験していく。ところがその途中で、まるであらかじめ仕組んであったかのようなさまざまなハプニングが起きて、子供たちは一人、また一人と消えていく…果たして、最後まで工場を見て回れる子供はいるのか。ウォンの「副賞」とは、そして彼の過去とは?”
参考:
”中国人の3大発明”
”カナダからの手紙”:それは中国人犯罪者からだった
[ 13:53 ]
[ 地震・災害 ]
昨日の朝方、徳島南方から高知方面の上空で発見した”ちょっと怪しい”地震雲ふうの雲。
もしこれが地震雲であったとすると、こういうタイプでは、活断層の流れに沿ってこういう直線形の地震雲ができ、だいたい”1一2週間後”くらいに地震が来ると考えられている。
ちなみに「”交差するはしご雲”」のタイプは、はしご雲のはしごの横棒が収束する方向に地震が来ると考えられている。
備えあれば憂いなし。
もしこれが地震雲であったとすると、こういうタイプでは、活断層の流れに沿ってこういう直線形の地震雲ができ、だいたい”1一2週間後”くらいに地震が来ると考えられている。
ちなみに「”交差するはしご雲”」のタイプは、はしご雲のはしごの横棒が収束する方向に地震が来ると考えられている。
備えあれば憂いなし。
2008/01/31のBlog
[ 16:57 ]
[ 大学・大学院 ]
東大の論文、1本1845万円 国立大でコスト最大級
いやはや、ここ10数年ほどいろんな場で私が言ったり書いたりして来たことが、これまた”見事に”証明されたようだ。おそらく、これまで”こういう結果”が出ることが恐ろしくて統計すら出せなかったのではないだろうか。
東大から「公表される論文1本当たりにいくら必要か」という生産費は、なんと平均1845万円。こんなにかかっているということが判明。実に情けない状況にある。
湯川秀樹博士や朝永振一郎博士の時代、「理論物理は紙と鉛筆さえあればできる」と言われたものだ。つまり、せいぜい数百円もあれば論文が書ける(公表できる)と考えられたのである。
それから50年。今や「理論物理は約2千万円かかる」時代となったらしい。
まあ、好意的に見て現在ではパソコンやインターネットも必要である。パソコンは高くてもせいぜい20一30万円、インターネットの維持費は少なくとも年2万円ほどは必要かも知れない。だから毎年パソコンを替えたとしても(そんなことするものは大学の人しかいないが。私は未だに1998年製のMacを根気よく使っている)、だいたい年30万円もあれば済むだろう。
それゆえ、「理論物理は紙と鉛筆とパソコンとインターネットさえあればできる」というのがフェアなところだろう。
ところが、東大では約2千万円かかるというのだ。ここ阿南あたりの田舎では土地付きの一軒家が買える金額である。
一方、私のこれまでの観察では東大の一教授の1年当たりの出版論文数は10以上もある場合もしばしばである。通常、2一3が良いところだが、多い人はその10倍の20一30ある人もいる。これを金額に直せば、普通の教授は4千万円一6千万円。多い人は、4億一6億円も1年で研究費を使っているということになるだろう。
つまり、東大(や国立大学)の研究者たちは、「サブプライムローン」並みの負債を国に負わせているということになる。なぜなら論文1本につき2千万円も浪費し、たいした特許もたいした引用数も得れらない”ゴミ論文”がほとんどだからだ。しかし、ここでは研究費だけの話で教授達の給料など人件費については何も語っていない。だから、実際にはさらに多くのお金が消費されていることになるはずである。
私のように”主夫”(アトホームダッド)として奥さんのわずかな給料から研究に充てている人間からすれば、大変な驚きである。もちろん、それでも年にいくつかの論文を公表できる。インターネット時代の現在では出版費はゼロなので、大昔と違って論文出版費がかさむことはないからである。
この意味では、東大の研究者と比べて、私の”生産性”は”無限”に近い。まさに「理論物理はアイデアさえあればできる」という方に近い。本来あるべき学者の姿であるナ。
このように、現在ではむしろ研究費は昔より本来少なくても済むはずの時代なのである。それが昔よりはるかに浪費しているわけだから国の借金は莫大となる。
ところで、この”悲惨な研究状況”に関して、東大の岡村定矩(さだのり)副学長(研究担当)はこう言った。
「いろいろな統計データがあるので、とくにコメントすることはない」
このだんな、何か大勘違いしているのではないか。NHKではないが、記者会見して国民に「浪費してすみません。今後はもっと生産性をお上げします」と謝罪すべきなのではないだろうか。私にはそう見えるが。
その点、早稲田の竹内淳教授は少しましでこう言った。
「少ない費用で優れた成果を出している地方の国立大にも研究費を正当に配分するような制度に変える必要がある」
さて、私は、この問題(東大の極少生産性の問題)は大学における研究だけの話ではないと考えている。これは今の日本社会における生産性の問題と全く同じであると感じるからだ。つまり、東大を東京に置き換えればそのまま同じことが成り立つだろうと私は推測しているのである。
要するに、東京の生産性は東大並みに低いはずである。そう考えるということだ。お金(=投資、東大の場合の研究費にあたる)額が東京が1人勝ちで極めて巨額であるために、総額としては東京の生産性が高く見えるが、実質的には日本で最低クラスの生産性に過ぎないだろうということである。いずれこれもちゃんと証明される日が来るだろう。
この意味では、「東大の問題は日本を象徴する実にうまい例」なのである。まあ、一言で言えば、「あまり研究に向いていない人たちがやっている」ということですナ。
それにしてもひどい生産性ですナ!
参考:
地方は痴呆化した?:”教育再生会議への提言”
日本の科学研究「効率悪い」、その理由は?
いやはや、ここ10数年ほどいろんな場で私が言ったり書いたりして来たことが、これまた”見事に”証明されたようだ。おそらく、これまで”こういう結果”が出ることが恐ろしくて統計すら出せなかったのではないだろうか。
東大から「公表される論文1本当たりにいくら必要か」という生産費は、なんと平均1845万円。こんなにかかっているということが判明。実に情けない状況にある。
湯川秀樹博士や朝永振一郎博士の時代、「理論物理は紙と鉛筆さえあればできる」と言われたものだ。つまり、せいぜい数百円もあれば論文が書ける(公表できる)と考えられたのである。
それから50年。今や「理論物理は約2千万円かかる」時代となったらしい。
まあ、好意的に見て現在ではパソコンやインターネットも必要である。パソコンは高くてもせいぜい20一30万円、インターネットの維持費は少なくとも年2万円ほどは必要かも知れない。だから毎年パソコンを替えたとしても(そんなことするものは大学の人しかいないが。私は未だに1998年製のMacを根気よく使っている)、だいたい年30万円もあれば済むだろう。
それゆえ、「理論物理は紙と鉛筆とパソコンとインターネットさえあればできる」というのがフェアなところだろう。
ところが、東大では約2千万円かかるというのだ。ここ阿南あたりの田舎では土地付きの一軒家が買える金額である。
一方、私のこれまでの観察では東大の一教授の1年当たりの出版論文数は10以上もある場合もしばしばである。通常、2一3が良いところだが、多い人はその10倍の20一30ある人もいる。これを金額に直せば、普通の教授は4千万円一6千万円。多い人は、4億一6億円も1年で研究費を使っているということになるだろう。
つまり、東大(や国立大学)の研究者たちは、「サブプライムローン」並みの負債を国に負わせているということになる。なぜなら論文1本につき2千万円も浪費し、たいした特許もたいした引用数も得れらない”ゴミ論文”がほとんどだからだ。しかし、ここでは研究費だけの話で教授達の給料など人件費については何も語っていない。だから、実際にはさらに多くのお金が消費されていることになるはずである。
私のように”主夫”(アトホームダッド)として奥さんのわずかな給料から研究に充てている人間からすれば、大変な驚きである。もちろん、それでも年にいくつかの論文を公表できる。インターネット時代の現在では出版費はゼロなので、大昔と違って論文出版費がかさむことはないからである。
この意味では、東大の研究者と比べて、私の”生産性”は”無限”に近い。まさに「理論物理はアイデアさえあればできる」という方に近い。本来あるべき学者の姿であるナ。
このように、現在ではむしろ研究費は昔より本来少なくても済むはずの時代なのである。それが昔よりはるかに浪費しているわけだから国の借金は莫大となる。
ところで、この”悲惨な研究状況”に関して、東大の岡村定矩(さだのり)副学長(研究担当)はこう言った。
「いろいろな統計データがあるので、とくにコメントすることはない」
このだんな、何か大勘違いしているのではないか。NHKではないが、記者会見して国民に「浪費してすみません。今後はもっと生産性をお上げします」と謝罪すべきなのではないだろうか。私にはそう見えるが。
その点、早稲田の竹内淳教授は少しましでこう言った。
「少ない費用で優れた成果を出している地方の国立大にも研究費を正当に配分するような制度に変える必要がある」
さて、私は、この問題(東大の極少生産性の問題)は大学における研究だけの話ではないと考えている。これは今の日本社会における生産性の問題と全く同じであると感じるからだ。つまり、東大を東京に置き換えればそのまま同じことが成り立つだろうと私は推測しているのである。
要するに、東京の生産性は東大並みに低いはずである。そう考えるということだ。お金(=投資、東大の場合の研究費にあたる)額が東京が1人勝ちで極めて巨額であるために、総額としては東京の生産性が高く見えるが、実質的には日本で最低クラスの生産性に過ぎないだろうということである。いずれこれもちゃんと証明される日が来るだろう。
この意味では、「東大の問題は日本を象徴する実にうまい例」なのである。まあ、一言で言えば、「あまり研究に向いていない人たちがやっている」ということですナ。
それにしてもひどい生産性ですナ!
参考:
地方は痴呆化した?:”教育再生会議への提言”
日本の科学研究「効率悪い」、その理由は?
[ 13:10 ]
[ スポーツ ]
日本25一28、韓国に惜敗 ハンドボール五輪再予選
いやー、実に良い試合だった。しかし、実に”口惜しい”。日本は一度もリードできず、韓国に余裕の終盤を与えてしまった。
この口惜しさに満ち満ちた試合を見て一番最初に感じたのは、
「いつかどこかで見たことのある、非常に馴染みある風景だナア」
というものだ。そう、1980年代までの日本サッカーである。
当時、日本は今のハンドボールと同じような環境に置かれていた。国際試合があっても観客は関係者だけで数百人ほどしか集まらない。韓国と試合すれば必ず負ける。非常に惜しい試合をしても最後には1点取られて突き放される。
オリンピック予選でもワールドカップ予選でもいつも韓国が日本サッカーに立ちはだかって邪魔をする。一番惜しい試合は、1985年のワールドカップ予選で木村和司のフリーキックで韓国勝利へと夢をつないだがそれもだめだった。
1985.10.26[Japan vs Korea][K.Kimura FK]
こんなふうに、日本サッカーは、Jリーグができるまでいわゆる”アマチュア”サッカーの域を出なかった。それと比べて、長い軍事政権下を経た韓国は、大学から社会まで何から何まで徹底していた。どの競技でも”選りすぐり”の選手達が送り込まれた。プロ的な韓国選手とモティベーションの低い日本選手では勝負にならない。そんな時代であった。
いやー、実に良い試合だった。しかし、実に”口惜しい”。日本は一度もリードできず、韓国に余裕の終盤を与えてしまった。
この口惜しさに満ち満ちた試合を見て一番最初に感じたのは、
「いつかどこかで見たことのある、非常に馴染みある風景だナア」
というものだ。そう、1980年代までの日本サッカーである。
当時、日本は今のハンドボールと同じような環境に置かれていた。国際試合があっても観客は関係者だけで数百人ほどしか集まらない。韓国と試合すれば必ず負ける。非常に惜しい試合をしても最後には1点取られて突き放される。
オリンピック予選でもワールドカップ予選でもいつも韓国が日本サッカーに立ちはだかって邪魔をする。一番惜しい試合は、1985年のワールドカップ予選で木村和司のフリーキックで韓国勝利へと夢をつないだがそれもだめだった。
1985.10.26[Japan vs Korea][K.Kimura FK]
こんなふうに、日本サッカーは、Jリーグができるまでいわゆる”アマチュア”サッカーの域を出なかった。それと比べて、長い軍事政権下を経た韓国は、大学から社会まで何から何まで徹底していた。どの競技でも”選りすぐり”の選手達が送り込まれた。プロ的な韓国選手とモティベーションの低い日本選手では勝負にならない。そんな時代であった。
今回の日本ハンドボールもまさしくそんな”アマチュア”の域を男女ともに出ていなかった。イージーミスや気迫の欠如が目についた。負けても号泣せずたいして悔しがらない。
かつてプロ化へ向けてジーコが鹿島の前身の本田技研に来たころ、ジーコが一番驚いたことは日本選手が試合に負けても口惜しさを見せなかったことだという。
「お前達は試合に負けてどうして口惜しくないんだ?」
「俺は口惜しくてしょうがない」
こういわれても日本選手達はきょとんとして「何をジーコはトチ狂ってんだ?」と意味が理解できなかったという話である。
読売クラブではラモスが同じことを感じ、ジュビロ磐田ではドゥンガが同じことを感じ、名古屋グランパスではストイコビッチが、同じことを感じ同じようなことを日本人選手達に言った。もちろん、他のクラブでも全く同じことがくり返された。そういう歴史が残っている。
要するに、これがドゥンガの言う「日本人特有のメンタリティー」であり、日本人はそういう気質を持っているのだ。
今回の日本のハンドボールの男女の選手たちも日本のサッカー選手が持っていたのとまったく同じ「日本人特有のメンタリティー」を見せたのは実に興味深い。しかし、Jリーグができて10数年で日本サッカーは少しずつそれを克服して来た。
この意味では、日本ハンドボールにとって、「日本サッカー界の歴史」は非常に参考になるはずである(例えば、「NHK知るを楽しむこの人この世界:”日本サッカーが世界一になる日”川淵三郎」を勧める。もちろん私は読んだ)。
ぜひ日本サッカーの歴史を学んで役立てて欲しいものである。
かつてプロ化へ向けてジーコが鹿島の前身の本田技研に来たころ、ジーコが一番驚いたことは日本選手が試合に負けても口惜しさを見せなかったことだという。
「お前達は試合に負けてどうして口惜しくないんだ?」
「俺は口惜しくてしょうがない」
こういわれても日本選手達はきょとんとして「何をジーコはトチ狂ってんだ?」と意味が理解できなかったという話である。
読売クラブではラモスが同じことを感じ、ジュビロ磐田ではドゥンガが同じことを感じ、名古屋グランパスではストイコビッチが、同じことを感じ同じようなことを日本人選手達に言った。もちろん、他のクラブでも全く同じことがくり返された。そういう歴史が残っている。
要するに、これがドゥンガの言う「日本人特有のメンタリティー」であり、日本人はそういう気質を持っているのだ。
今回の日本のハンドボールの男女の選手たちも日本のサッカー選手が持っていたのとまったく同じ「日本人特有のメンタリティー」を見せたのは実に興味深い。しかし、Jリーグができて10数年で日本サッカーは少しずつそれを克服して来た。
この意味では、日本ハンドボールにとって、「日本サッカー界の歴史」は非常に参考になるはずである(例えば、「NHK知るを楽しむこの人この世界:”日本サッカーが世界一になる日”川淵三郎」を勧める。もちろん私は読んだ)。
ぜひ日本サッカーの歴史を学んで役立てて欲しいものである。
さて、宮崎選手は日本サッカーのキングカズやラモスになれるだろうか?
おそらく、まったくキャラクターが違い、むしろ昔の木村や金田のような感じの選手に見える。実に”ナイスガイ”である。
しかし、”ナイスガイ”ならチームが強くできるかと言えばそうではない。ここが難しいところである。
私個人の考えとしては、日本サッカー協会は、日本ハンドボール協会(や日本バスケットボールやバレーボール)と提携して、日本のハンドボールをJリーグの下部組織に入れ、”姉妹関係”ないしは”兄弟関係”にして、援助すべきだろうと思う。サッカーとハンドボールはフットサル同様非常に似ているスポーツであるからだ。サッカー選手として訓練を積んで来たが、いまいち(足の)才能が伸びなかった選手たちには、ハンドボールへの転向の道も残されるからである。
事実、Jリーグが模範にしていた旧西ドイツのブンデスリーガは、資金面ではプロサッカーが収益をあげ、他のマイナースポーツもプロサッカーが施設や資金を援助するという方法でオリンピック選手を育成するシステムを採っていた。これが現在もドイツで生きている。
この意味で、今回日本サッカーの「サムライブルー」をハンドボールの応援団に提供したというのは非常にすばらしい連係である。今後そういう取り組みがもっと増えるべきだろう。
おそらく、まったくキャラクターが違い、むしろ昔の木村や金田のような感じの選手に見える。実に”ナイスガイ”である。
しかし、”ナイスガイ”ならチームが強くできるかと言えばそうではない。ここが難しいところである。
私個人の考えとしては、日本サッカー協会は、日本ハンドボール協会(や日本バスケットボールやバレーボール)と提携して、日本のハンドボールをJリーグの下部組織に入れ、”姉妹関係”ないしは”兄弟関係”にして、援助すべきだろうと思う。サッカーとハンドボールはフットサル同様非常に似ているスポーツであるからだ。サッカー選手として訓練を積んで来たが、いまいち(足の)才能が伸びなかった選手たちには、ハンドボールへの転向の道も残されるからである。
事実、Jリーグが模範にしていた旧西ドイツのブンデスリーガは、資金面ではプロサッカーが収益をあげ、他のマイナースポーツもプロサッカーが施設や資金を援助するという方法でオリンピック選手を育成するシステムを採っていた。これが現在もドイツで生きている。
この意味で、今回日本サッカーの「サムライブルー」をハンドボールの応援団に提供したというのは非常にすばらしい連係である。今後そういう取り組みがもっと増えるべきだろう。
エース宮崎大輔「魅力は伝えられた」 ハンド五輪予選
宮崎大輔選手:
「悔しいが、ハンドの魅力は伝えられた」
「ハンドを知ってもらうためなら、何でもやってきた」
フランスの国際大会で「何だ、あのチビ」と客席から笑われ、その後抜群のジャンプ力で大活躍し「ミヤザキ」は大会の人気者となったことについて
「あの興奮を日本でも味わいたかった。ハンドはバスケット、バレーほど高さが絶対ではない。横からシュートを打っても、キーパーの股の下からでも1点は1点。手先の器用な日本人に向いている」
蒲生晴明・強化本部長(53):
「負けは悔しい。でも、努力は報われる。頑張れば五輪に行けると示せたことが何よりうれしい」
いずれにせよ、173cmの宮崎選手は「筋肉番付」で優勝するなど”桁外れ”の身体能力を持っている。ハンドボールの選手にしておくのはもったいない運動神経のある選手である。なかなか日本のサッカー選手にこういう選手がでてこないのが残念なところですナ。
参考:
ハンドボール女子:公正さに勝ものなし!
「沖縄科学技術大学院大学」の”悲劇”?
宮崎大輔選手:
「悔しいが、ハンドの魅力は伝えられた」
「ハンドを知ってもらうためなら、何でもやってきた」
フランスの国際大会で「何だ、あのチビ」と客席から笑われ、その後抜群のジャンプ力で大活躍し「ミヤザキ」は大会の人気者となったことについて
「あの興奮を日本でも味わいたかった。ハンドはバスケット、バレーほど高さが絶対ではない。横からシュートを打っても、キーパーの股の下からでも1点は1点。手先の器用な日本人に向いている」
蒲生晴明・強化本部長(53):
「負けは悔しい。でも、努力は報われる。頑張れば五輪に行けると示せたことが何よりうれしい」
いずれにせよ、173cmの宮崎選手は「筋肉番付」で優勝するなど”桁外れ”の身体能力を持っている。ハンドボールの選手にしておくのはもったいない運動神経のある選手である。なかなか日本のサッカー選手にこういう選手がでてこないのが残念なところですナ。
参考:
ハンドボール女子:公正さに勝ものなし!
「沖縄科学技術大学院大学」の”悲劇”?
2008/01/30のBlog
[ 17:04 ]
[ 社会 ]
「画像ちゃんねる」、米サーバー・新管理人で再開
いやはや、”お馬鹿な”管理人たちである。
”2ちゃんねる”の西村博之もそうだが、アメリカのサーバー使ったビジネスというのは、「悪玉アメリカ人が日本社会を大混乱に巻き込むのがその目的」と言われている。まあ、要するに、”うまく利用されている”わけだ。
この管理人の三条場孝志のだんなは、米カリフォルニアのサーバーでなら何も問題ないと思っているらしい。(【ネット】“「画像ちゃんねる」管理者ら逮捕”で、「投稿者が100%悪い」と三条場孝志容疑者主張)
「懲役2年、執行猶予3年」の刑罰が出たとたんにアメリカ発で同じことをやり始めたらしい。要するに、執行猶予期間中だから即実刑になるはずであろう。
「海外のサーバーには国内警察の捜査権が及ばないことから、神奈川県警は摘発逃れとみている」
「他国より表現に関して自由があるためです。投稿の際にはカリフォルニア州法に抵触しないようにお願いします」
などということだが、本当に無知とは困ったものだ。
10年前ならともかく9・11以降の最近では、アメリカの司法関係者の「児童ポルノ」に対する厳しい罰則は、スポーツ選手のドーピングと同じく極めて厳しくなって来ているようである。それゆえ、児童ポルノの写真の投稿者、写真保持者などは、即刻アメリカのFBIによって検挙されかねない時代なのである。事実、日本の警察へも児童ポルノ所持者の日本人名リストが届けられているとどこかで読んだ記憶がある。今では日本よりはるかに厳格なのである。
どうやら、「画像ちゃんねる」の管理者たちは、こういった時代背景の変化を御存じないらしい。
もし「画像ちゃんねる」に「児童ポルノ」写真などが投稿されたら、投稿者はもちろん管理者もアメリカの刑務所行きかも知れないのである。
何かあまく見ているように私には見えるんですナ。
まあ、俺にはどうでも良いことだが。
くわばら、くわばら。
参考:
”ダークサイド”
いやはや、”お馬鹿な”管理人たちである。
”2ちゃんねる”の西村博之もそうだが、アメリカのサーバー使ったビジネスというのは、「悪玉アメリカ人が日本社会を大混乱に巻き込むのがその目的」と言われている。まあ、要するに、”うまく利用されている”わけだ。
この管理人の三条場孝志のだんなは、米カリフォルニアのサーバーでなら何も問題ないと思っているらしい。(【ネット】“「画像ちゃんねる」管理者ら逮捕”で、「投稿者が100%悪い」と三条場孝志容疑者主張)
「懲役2年、執行猶予3年」の刑罰が出たとたんにアメリカ発で同じことをやり始めたらしい。要するに、執行猶予期間中だから即実刑になるはずであろう。
「海外のサーバーには国内警察の捜査権が及ばないことから、神奈川県警は摘発逃れとみている」
「他国より表現に関して自由があるためです。投稿の際にはカリフォルニア州法に抵触しないようにお願いします」
などということだが、本当に無知とは困ったものだ。
10年前ならともかく9・11以降の最近では、アメリカの司法関係者の「児童ポルノ」に対する厳しい罰則は、スポーツ選手のドーピングと同じく極めて厳しくなって来ているようである。それゆえ、児童ポルノの写真の投稿者、写真保持者などは、即刻アメリカのFBIによって検挙されかねない時代なのである。事実、日本の警察へも児童ポルノ所持者の日本人名リストが届けられているとどこかで読んだ記憶がある。今では日本よりはるかに厳格なのである。
どうやら、「画像ちゃんねる」の管理者たちは、こういった時代背景の変化を御存じないらしい。
もし「画像ちゃんねる」に「児童ポルノ」写真などが投稿されたら、投稿者はもちろん管理者もアメリカの刑務所行きかも知れないのである。
何かあまく見ているように私には見えるんですナ。
まあ、俺にはどうでも良いことだが。
くわばら、くわばら。
参考:
”ダークサイド”
[ 11:11 ]
[ スポーツ ]
日本、韓国に敗れる ハンドボール・アジア予選女子
”公正さ”(フェアネス)に勝るものはない。
そんなことを感じさせる、実に素晴らしくフェアーな試合だった。結果は、日本が21一34で敗れたのだが、ビハインドを何とか必死で追い上げようとする姿が感動を呼んだ。しかし、実力差やしたたかさの差は明か。韓国の方がはるかに上だった。
この点から言えば、アラブ諸国のチームもフェアーにやれば、この程度の実力の日本チームなら”楽に”勝利できたのではないだろうか。「中東の笛」の出る必要無いほど日本は弱小チームだった。
私はサッカーの観点からいつも不思議なのは、
どうしていつもハンドボールのゴールキーパーはつったったままでシュートを受けるのか?
ということである。
人が投げるボールの早さは、早くても野球でせいぜい松坂並みの150km程度。普通は120km程度。ハンドボールでも似たようなもの。サッカーのPKの時のキックもこの程度。だから、サッカーのゴールキーパーと同じようなセービングの方法はあり得る。アイスホッケーのように20kgの重量のある防具付きなら自由に動けないからハンドボールのように立ったままで受けることになるが、ハンドボールなら十分にバレーボールのようにジャンプセービングできるはずである。
それをすぐに防ぐ面積を稼ごうとしてジャンプして大の字に構える。これでは、空中ではなかなか動けないためにフリーズしてしまう。したがって、隙間を狙って投げれば簡単に得点できる。
サッカーでも同じで、キーパーから点を一番取りやすいのは、キーパーが立ったままフリーズした時である。キーパーにボールを見られた時が一番入りにくい。それゆえ、キーパーはできる限り最後までボールを見てから反応するように練習する。その極致がダイビングセービングである。
キーパーは、”大の字”に構えれば確かに一見入りにくいように感じるだろうが、サッカーのPKの時のように、キーパーがわざと先にフェイントを入れて一方へ動き、わざと逆コースを空け、そこにシュートさせてからセーブするという方法もある。右利きのキーパーなら苦手の左を先に切り、右に打たせて右に飛ぶ。こういうメンタルなトレーニングが必要である。
今回、キーパーの差が得点の差に繋がったように私には見えた。あまりに正直すぎた。
精進あるのみ。練習あるのみ。今後を期待したいところですナ。
”公正さ”(フェアネス)に勝るものはない。
そんなことを感じさせる、実に素晴らしくフェアーな試合だった。結果は、日本が21一34で敗れたのだが、ビハインドを何とか必死で追い上げようとする姿が感動を呼んだ。しかし、実力差やしたたかさの差は明か。韓国の方がはるかに上だった。
この点から言えば、アラブ諸国のチームもフェアーにやれば、この程度の実力の日本チームなら”楽に”勝利できたのではないだろうか。「中東の笛」の出る必要無いほど日本は弱小チームだった。
私はサッカーの観点からいつも不思議なのは、
どうしていつもハンドボールのゴールキーパーはつったったままでシュートを受けるのか?
ということである。
人が投げるボールの早さは、早くても野球でせいぜい松坂並みの150km程度。普通は120km程度。ハンドボールでも似たようなもの。サッカーのPKの時のキックもこの程度。だから、サッカーのゴールキーパーと同じようなセービングの方法はあり得る。アイスホッケーのように20kgの重量のある防具付きなら自由に動けないからハンドボールのように立ったままで受けることになるが、ハンドボールなら十分にバレーボールのようにジャンプセービングできるはずである。
それをすぐに防ぐ面積を稼ごうとしてジャンプして大の字に構える。これでは、空中ではなかなか動けないためにフリーズしてしまう。したがって、隙間を狙って投げれば簡単に得点できる。
サッカーでも同じで、キーパーから点を一番取りやすいのは、キーパーが立ったままフリーズした時である。キーパーにボールを見られた時が一番入りにくい。それゆえ、キーパーはできる限り最後までボールを見てから反応するように練習する。その極致がダイビングセービングである。
キーパーは、”大の字”に構えれば確かに一見入りにくいように感じるだろうが、サッカーのPKの時のように、キーパーがわざと先にフェイントを入れて一方へ動き、わざと逆コースを空け、そこにシュートさせてからセーブするという方法もある。右利きのキーパーなら苦手の左を先に切り、右に打たせて右に飛ぶ。こういうメンタルなトレーニングが必要である。
今回、キーパーの差が得点の差に繋がったように私には見えた。あまりに正直すぎた。
精進あるのみ。練習あるのみ。今後を期待したいところですナ。
2008/01/29のBlog
[ 13:13 ]
[ 社会 ]
写真:マクドナルドの”ゴールデンアーチーズ”
マック判決 「店長は管理職」を認めなかった(1月29日付・読売社説)
”戦後”、アメリカ式のいわゆる”フランチャイズ”システムを日本に最初に導入した老舗が「マクドナルド」であろう。
それぞれのフランチャイズ店に店長を置き、アルバイト店員を雇い、中央本社から監視員がやって来て、店の売り上げをかっさらって行く。
その昔には”マックのハンバーガーにはネコの肉が混入している”という噂までされたものだ。
今回の裁判は、首になった社員からそういう噂を流されても仕方ないというほど悪いことをマクドナルドはやっていたということだろう。
”店長”とは名ばかりで何の権利もないのに、実は”管理職級”の過酷な仕事を強いるが給料は低い。それも管理職だから残業手当なしというふざけたことをしていたというのである。まあ、「詐欺商売」である。
考えてみれば、マクドナルドシステムこそ、昨今日本でどこの企業でも行われるようになった”派遣社員”システムの典型に見えるから不思議である。
マクドナルド → 企業
監視員 → 本社社員
フランチャイズ店→ 子会社
店長 → 似せ管理職
アルバイト店員 → 派遣社員
こうしてみると、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどアメリカのファーストフード店が日本に上陸した”本当の狙い”とは何か?
と考えざるを得ない気がする。
この意味では、おそらく、「ハンバーガーやフライドチキンを売るというビジネスにあった」というよりはむしろ「日本の営業構造を格差社会化することが目的であった」のではないかとすら思える(しかし、ビジネスマンの間では、マクドナルドの本当の仕事は土地所有するための不動産業で、ハンバーガービジネスはその表向きの仕事であると言われている。確かロバート・キヨサキ「金持ち父さん貧乏父さん」の中にあったと記憶している)。
ちなみに、マクドナルドのマク一一というのは、「一一の息子」という意味のスコットランド系の名前である。スコットランドはフリーメーソンの発祥の地であり、またケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースは、フリーメーソンの1人である。
日本にマクドナルドが出来たのが1971年7月20日。
あれから37年。今や”マクドナルドの野望”が何だったのか? だれの目にも明かですナ。
もっとも我が家も結構マクドナルドを信じて買っていたのだがナ。
マック判決 「店長は管理職」を認めなかった(1月29日付・読売社説)
”戦後”、アメリカ式のいわゆる”フランチャイズ”システムを日本に最初に導入した老舗が「マクドナルド」であろう。
それぞれのフランチャイズ店に店長を置き、アルバイト店員を雇い、中央本社から監視員がやって来て、店の売り上げをかっさらって行く。
その昔には”マックのハンバーガーにはネコの肉が混入している”という噂までされたものだ。
今回の裁判は、首になった社員からそういう噂を流されても仕方ないというほど悪いことをマクドナルドはやっていたということだろう。
”店長”とは名ばかりで何の権利もないのに、実は”管理職級”の過酷な仕事を強いるが給料は低い。それも管理職だから残業手当なしというふざけたことをしていたというのである。まあ、「詐欺商売」である。
考えてみれば、マクドナルドシステムこそ、昨今日本でどこの企業でも行われるようになった”派遣社員”システムの典型に見えるから不思議である。
マクドナルド → 企業
監視員 → 本社社員
フランチャイズ店→ 子会社
店長 → 似せ管理職
アルバイト店員 → 派遣社員
こうしてみると、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどアメリカのファーストフード店が日本に上陸した”本当の狙い”とは何か?
と考えざるを得ない気がする。
この意味では、おそらく、「ハンバーガーやフライドチキンを売るというビジネスにあった」というよりはむしろ「日本の営業構造を格差社会化することが目的であった」のではないかとすら思える(しかし、ビジネスマンの間では、マクドナルドの本当の仕事は土地所有するための不動産業で、ハンバーガービジネスはその表向きの仕事であると言われている。確かロバート・キヨサキ「金持ち父さん貧乏父さん」の中にあったと記憶している)。
ちなみに、マクドナルドのマク一一というのは、「一一の息子」という意味のスコットランド系の名前である。スコットランドはフリーメーソンの発祥の地であり、またケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースは、フリーメーソンの1人である。
日本にマクドナルドが出来たのが1971年7月20日。
あれから37年。今や”マクドナルドの野望”が何だったのか? だれの目にも明かですナ。
もっとも我が家も結構マクドナルドを信じて買っていたのだがナ。
写真:星一氏
ついでに書いておくと、戦前にアメリカ式のフランチャイズシステムを日本初で導入したのは、作家星新一氏の父親の星一(はじめ)さんである(『明治・父・アメリカ』に詳しい。これは必読書!)。星薬科大学の創始者である。星一さんは、薬の販売に(古き良き時代の)アメリカ型のフランチャイズシステムを導入したのである。当時の大問屋中問屋子問屋小売りの問屋システムに製造会社とフランチャイズ直売の方式を導入して大成功したのである(星一のフランチャイズは今のマクドナルドのものとは大違いで、フランチャイズ店の経営者や店員を厚遇し、近代的な法律や商業法や経営を教育したので多くの販売店から大きな尊敬を受けたという)。しかし、それを「星製薬疑獄事件」という陰謀により失脚させられすべてを失ったという。 にもかかわらず、それ以前に第一次世界大戦で困窮していたドイツ化学アカデミーに多額の寄付する約束をして援助していたので、最後には全財産を売り払って最後の寄付を完逐しドイツの科学の火を絶やさなかったというエピソードがある。
私個人は、こういう日本人がいたことを本当に誇りに思う。しかし、今や日本人でもドイツ人でも星一を知っているものはほとんどいないのではないかと思う。
ついでに書いておくと、戦前にアメリカ式のフランチャイズシステムを日本初で導入したのは、作家星新一氏の父親の星一(はじめ)さんである(『明治・父・アメリカ』に詳しい。これは必読書!)。星薬科大学の創始者である。星一さんは、薬の販売に(古き良き時代の)アメリカ型のフランチャイズシステムを導入したのである。当時の大問屋中問屋子問屋小売りの問屋システムに製造会社とフランチャイズ直売の方式を導入して大成功したのである(星一のフランチャイズは今のマクドナルドのものとは大違いで、フランチャイズ店の経営者や店員を厚遇し、近代的な法律や商業法や経営を教育したので多くの販売店から大きな尊敬を受けたという)。しかし、それを「星製薬疑獄事件」という陰謀により失脚させられすべてを失ったという。 にもかかわらず、それ以前に第一次世界大戦で困窮していたドイツ化学アカデミーに多額の寄付する約束をして援助していたので、最後には全財産を売り払って最後の寄付を完逐しドイツの科学の火を絶やさなかったというエピソードがある。
私個人は、こういう日本人がいたことを本当に誇りに思う。しかし、今や日本人でもドイツ人でも星一を知っているものはほとんどいないのではないかと思う。
2008/01/27のBlog
[ 18:53 ]
[ 社会 ]
「大手6社の株式過半数取得」 金融庁、ウソと断定
テラメントという”謎の企業”の山口滋という”謎の人物”が、これまた真偽の分からない”謎のオイルマネー”によって、アステラス製薬、ソニー、三菱重工業、トヨタ自動車、フジテレビジョン、日本電信電話の株の51%を保有したという「世界仰天ニュース」になりそうな一大事件。
もしこれが事実であれば、日本の中に”売国奴”的人物が誕生し、アラブの石油王たちの下僕となり、日本の最後に残った優良企業群に総攻撃を仕掛けて来たということであろう。
資本金1000円で去年誕生したばかりの一企業が、翌年には200兆円も使って日本企業を”乗っ取る”ことが可能とすれば、”世界の大衝撃”である。
いよいよ、”アラブの日本総攻撃”が始まったのかも知れないナ。もちろん、アラブ人を背後で操り人形にしているのは、イギリス王室であるらしい。ダイアナ事件を見れば分かる。
まあ、我々貧しい国民にはどうでも良いことだが、日本企業はイギリス王室の手にかかれば、木っ端みじんだろう(”王家のビジネス”? )。これから数年で(2012年までに)いかに見事に日本企業が破滅させれられて行くのかを我々は目撃する”生き証人”となってしまうのかもしれないナ。
いずれにせよ、アラブの国々は、これまで日本人にやってもらった”恩”や”金”を早く日本へ返してもらいたいものですナ。
いやはや、世も末ですナ。
テラメントという”謎の企業”の山口滋という”謎の人物”が、これまた真偽の分からない”謎のオイルマネー”によって、アステラス製薬、ソニー、三菱重工業、トヨタ自動車、フジテレビジョン、日本電信電話の株の51%を保有したという「世界仰天ニュース」になりそうな一大事件。
もしこれが事実であれば、日本の中に”売国奴”的人物が誕生し、アラブの石油王たちの下僕となり、日本の最後に残った優良企業群に総攻撃を仕掛けて来たということであろう。
資本金1000円で去年誕生したばかりの一企業が、翌年には200兆円も使って日本企業を”乗っ取る”ことが可能とすれば、”世界の大衝撃”である。
いよいよ、”アラブの日本総攻撃”が始まったのかも知れないナ。もちろん、アラブ人を背後で操り人形にしているのは、イギリス王室であるらしい。ダイアナ事件を見れば分かる。
まあ、我々貧しい国民にはどうでも良いことだが、日本企業はイギリス王室の手にかかれば、木っ端みじんだろう(”王家のビジネス”? )。これから数年で(2012年までに)いかに見事に日本企業が破滅させれられて行くのかを我々は目撃する”生き証人”となってしまうのかもしれないナ。
いずれにせよ、アラブの国々は、これまで日本人にやってもらった”恩”や”金”を早く日本へ返してもらいたいものですナ。
いやはや、世も末ですナ。
[ 16:33 ]
[ オシムの言葉 ]
10年ぶり復帰の岡田監督「チリは素晴らしいチーム」
昨日、キリンチャレンジカップのチリ代表戦を見たが、日本0一0チリで引き分けた。
いやはや、何たる試合。これで日本代表は10年前レベルに戻ってしまったようだ。
我が家の息子たちは「流通経済大柏の方が強い」、「高原より大前の方がうまいんじゃない」と言っていたヨ。
これも当然。私がかつて
「サッカー日本代表の”危機”:岡田ショック!」
「フランスW杯の戦犯岡田に出る幕はない!!」
などに書いていたように、岡田ジャパンの発想は実に”古臭く”かつ”陳腐なもの”であった。”2バックの超攻撃的布陣”(後で説明するように、これが現在のトップレベルの主流)で行こうというオシムの発想とは全く異なり、4一4一2のダイヤモンド(あるいは4一3一3のスリートップ。これは日本の高校サッカーレベルのやり方)という布陣でしかなかったからだ。
現在では、サッカーはゴロの早いパス回しが主流となってきている。特に欧州ではどの国でも70年代西ドイツのコンチネンタルサッカーを目指すようになり、ハイボール中心のラグビーサッカーをやっていたイングランドのプレミアリーグでもグランダーのパスを中心にするように変ぼうを遂げている。オランダ、スペイン、イタリア、スコットランドなどでもそうなってきている。メキシコ、ブラジル、アルゼンチンなどの中南米でもそうである。
こうなってくると、サッカーの理想型である”足でするバスケットボール”の形に近付く。バスケットボールは、攻守の切り替えが早く、攻撃と守備で陣型が異なる。これと同様に、サッカーでも陣型が攻守で切り替わるというふうになって来たわけだ。
例えば、自チームの選手がボールキープしている時には、最終ラインのディフェンダーは3人や4人もいらない。ラグビーから別れたばかりの頃の大昔のサッカーのように、バックスは2人で十分なわけである。したがって、攻撃の時には、思いきってセンターバックもボランチもハーフに上がり、ハーフやフォワードの人数を増やす。つまり、2一5一3や2一4一4のシステムでも良いというわけである。
ところが、相手にボールが渡ると、今度は守備陣を増やし、4一5一1、4一4一2、場合によっては、5一4一1のシステムに変えるわけである。
これを1試合の中で、その都度自在に変型するというのが、現在のヨーロッパリーグのチームの考え方のようである。
私が見た範囲では、マンチェスターU、バルセロナ、ACミランなど主要クラブはみなこうした方法を採っている。
昨日の日本は、それが高校サッカーレベルの4一4一2でやっていた。終盤になって4一3一3というような布陣であった。これでは、圧勝するのは難しい。
今回のチリは若手中心のほぼ新人チームである。それに対して、日本は新生岡田ジャパンと言っても、オシム以来の古参チームである。それがこんなレベルの低い試合をするのでは困る。
オシムは、最近ほぼ完全に回復し、サッカーの試合も練習も見ているという。そして、岡田監督の練習風景を見て、川淵会長に”激怒”して意見を言ったという話である。まあ、私がテレビのニュースで聞いた範囲では、
「これから完成に向かうはずの才能豊かな良い選手たちがいるのに、あんな練習ではだめだ。どうなっているんだ」
というような話だったようである。
オシムの主張は実によく分かる。要するに、ジーコ、トルシエ、あるいはそれ以前の日本代表の、緊張感のない弛んだ雰囲気、遊びがてらの雰囲気で練習をやるという環境に”逆戻り”(先祖帰り)してしまったからだ。私が見ていても、そう思った。ミスしても笑っている。自分達が代表になったという特権意識ばかりが目につき、真剣味がない。こういう空気が岡田ジャパンの練習にはついていた。
その典型が、岡田監督自らが選手といっしょになってランニングしていたことに象徴される。もし岡田が走りたければ、自分で早朝や夕方に走れば良いことである。選手を監督しなくてはならない場で、面白半分にジョギングしているようなチームが世界レベルで勝てるはずがないからだ。
オシムジャパンでは、ミスしたら1週。馬鹿なミスをしたら怒鳴られる。こういう”厳しい空気”や”緊張感のある空気”の中で選手たちは練習していたからだ(これはプロだからそうなのであって、アマチュアや子供のチームの場合は、怒ることは必ずしもメリットにはならない。多くの場合、怒られ過ぎると嫌になって辞めてしまうからだ)。
にもかかわらず。岡田は「世界を驚かしたい」と主張するというわけだ。自分の願望と実行がまったく伴っていない。私がどうして岡田が好きになれないかというと、私がそういうところになぜか”危険性”を感じるからである。
実は、これと同じことを1998年のフランス大会の時にやったのだ。勝手に「1勝1敗1分で予選突破する」と豪語し、実際には「3連敗」で予選敗退した。要するに、冷静に自分たちを見つめ、敵を見つめ、最善策を採ることができなかった。要するに「大口たたき」なのである。”高望み”にもほどがある。
これと同じことを今度もやろうとしているわけだ。これが、私がいう「岡田は頭が固い」という意味なのである。
昨日の試合も、パスミスはする。イージーなトラップミスはする。シュートミスをする(高原、巻、大久保)。判断ミスをする(”お見合い”をした)。などなど、どうしようもなく緊張感のない試合だった。
それにもかかわらず、岡田は「チリは良いチームだった」などと言っている。バカも休み休み言えと私は考える。
早いところ、オシムチルドレンの反町監督に代えないと日本代表は泣きを見るだろう。もちろん、我々日本サッカーファンも泣きを見るはずである。
いやはや、岡田には困ったものである。もちろん、この期に及んで岡田を推挙した川淵会長にも困ったものだ。
くわばら、くわばら。
昨日、キリンチャレンジカップのチリ代表戦を見たが、日本0一0チリで引き分けた。
いやはや、何たる試合。これで日本代表は10年前レベルに戻ってしまったようだ。
我が家の息子たちは「流通経済大柏の方が強い」、「高原より大前の方がうまいんじゃない」と言っていたヨ。
これも当然。私がかつて
「サッカー日本代表の”危機”:岡田ショック!」
「フランスW杯の戦犯岡田に出る幕はない!!」
などに書いていたように、岡田ジャパンの発想は実に”古臭く”かつ”陳腐なもの”であった。”2バックの超攻撃的布陣”(後で説明するように、これが現在のトップレベルの主流)で行こうというオシムの発想とは全く異なり、4一4一2のダイヤモンド(あるいは4一3一3のスリートップ。これは日本の高校サッカーレベルのやり方)という布陣でしかなかったからだ。
現在では、サッカーはゴロの早いパス回しが主流となってきている。特に欧州ではどの国でも70年代西ドイツのコンチネンタルサッカーを目指すようになり、ハイボール中心のラグビーサッカーをやっていたイングランドのプレミアリーグでもグランダーのパスを中心にするように変ぼうを遂げている。オランダ、スペイン、イタリア、スコットランドなどでもそうなってきている。メキシコ、ブラジル、アルゼンチンなどの中南米でもそうである。
こうなってくると、サッカーの理想型である”足でするバスケットボール”の形に近付く。バスケットボールは、攻守の切り替えが早く、攻撃と守備で陣型が異なる。これと同様に、サッカーでも陣型が攻守で切り替わるというふうになって来たわけだ。
例えば、自チームの選手がボールキープしている時には、最終ラインのディフェンダーは3人や4人もいらない。ラグビーから別れたばかりの頃の大昔のサッカーのように、バックスは2人で十分なわけである。したがって、攻撃の時には、思いきってセンターバックもボランチもハーフに上がり、ハーフやフォワードの人数を増やす。つまり、2一5一3や2一4一4のシステムでも良いというわけである。
ところが、相手にボールが渡ると、今度は守備陣を増やし、4一5一1、4一4一2、場合によっては、5一4一1のシステムに変えるわけである。
これを1試合の中で、その都度自在に変型するというのが、現在のヨーロッパリーグのチームの考え方のようである。
私が見た範囲では、マンチェスターU、バルセロナ、ACミランなど主要クラブはみなこうした方法を採っている。
昨日の日本は、それが高校サッカーレベルの4一4一2でやっていた。終盤になって4一3一3というような布陣であった。これでは、圧勝するのは難しい。
今回のチリは若手中心のほぼ新人チームである。それに対して、日本は新生岡田ジャパンと言っても、オシム以来の古参チームである。それがこんなレベルの低い試合をするのでは困る。
オシムは、最近ほぼ完全に回復し、サッカーの試合も練習も見ているという。そして、岡田監督の練習風景を見て、川淵会長に”激怒”して意見を言ったという話である。まあ、私がテレビのニュースで聞いた範囲では、
「これから完成に向かうはずの才能豊かな良い選手たちがいるのに、あんな練習ではだめだ。どうなっているんだ」
というような話だったようである。
オシムの主張は実によく分かる。要するに、ジーコ、トルシエ、あるいはそれ以前の日本代表の、緊張感のない弛んだ雰囲気、遊びがてらの雰囲気で練習をやるという環境に”逆戻り”(先祖帰り)してしまったからだ。私が見ていても、そう思った。ミスしても笑っている。自分達が代表になったという特権意識ばかりが目につき、真剣味がない。こういう空気が岡田ジャパンの練習にはついていた。
その典型が、岡田監督自らが選手といっしょになってランニングしていたことに象徴される。もし岡田が走りたければ、自分で早朝や夕方に走れば良いことである。選手を監督しなくてはならない場で、面白半分にジョギングしているようなチームが世界レベルで勝てるはずがないからだ。
オシムジャパンでは、ミスしたら1週。馬鹿なミスをしたら怒鳴られる。こういう”厳しい空気”や”緊張感のある空気”の中で選手たちは練習していたからだ(これはプロだからそうなのであって、アマチュアや子供のチームの場合は、怒ることは必ずしもメリットにはならない。多くの場合、怒られ過ぎると嫌になって辞めてしまうからだ)。
にもかかわらず。岡田は「世界を驚かしたい」と主張するというわけだ。自分の願望と実行がまったく伴っていない。私がどうして岡田が好きになれないかというと、私がそういうところになぜか”危険性”を感じるからである。
実は、これと同じことを1998年のフランス大会の時にやったのだ。勝手に「1勝1敗1分で予選突破する」と豪語し、実際には「3連敗」で予選敗退した。要するに、冷静に自分たちを見つめ、敵を見つめ、最善策を採ることができなかった。要するに「大口たたき」なのである。”高望み”にもほどがある。
これと同じことを今度もやろうとしているわけだ。これが、私がいう「岡田は頭が固い」という意味なのである。
昨日の試合も、パスミスはする。イージーなトラップミスはする。シュートミスをする(高原、巻、大久保)。判断ミスをする(”お見合い”をした)。などなど、どうしようもなく緊張感のない試合だった。
それにもかかわらず、岡田は「チリは良いチームだった」などと言っている。バカも休み休み言えと私は考える。
早いところ、オシムチルドレンの反町監督に代えないと日本代表は泣きを見るだろう。もちろん、我々日本サッカーファンも泣きを見るはずである。
いやはや、岡田には困ったものである。もちろん、この期に及んで岡田を推挙した川淵会長にも困ったものだ。
くわばら、くわばら。
2008/01/25のBlog
[ 13:49 ]
[ デーヴィッド・アイク ]
写真:バンク・オブ・アメリカ
税還付など1500億ドル、景気対策で米大統領と議会合意
いやー、実に”うまい”なー。
「サブプライムローン」対策のため、つまり「サブプライムローン破たんによる不況」対策のため、その刺激策としてブッシュ大統領は、「総額1500億ドル(約16兆円)の景気対策」を行うことにした。
まあ、そういうニュース。
しかし、どこからその金が出るのか?
こういう一見当たり前に見えるニュースの背後に何があるのか? それが大事であろう。
かつてバックミンスター・フラーが指摘したように、基本的に今のアメリカ(第一次世界大戦後のアメリカ政府)にはお金が無い。だから、「合衆国が景気対策する」ということは、「合衆国がどこかに借金すること(=だれかに金を供与すること)」になる。
じゃあ、そいつはだれか?
と言えば、「バンク・オブ・アメリカ」(ニューヨーク)である。
私もごくごく最近までバンク・オブ・アメリカは日本銀行のような国が作った銀行だと思っていたが、実はそうではない、1民間銀行である(その日本銀行もまた、1942年、1998年の法改正で実質的には1民間企業にすぎない!)。これがアメリカ建国の時代からの”謎”の1つとされ、実に怪しい歴史が残っているらしい。しかしここが合衆国のドルを発行する。それゆえ、フリーメーソンのマーク(冠石に目のあるピラミッド)がお札に印刷されているというわけである。
税還付など1500億ドル、景気対策で米大統領と議会合意
いやー、実に”うまい”なー。
「サブプライムローン」対策のため、つまり「サブプライムローン破たんによる不況」対策のため、その刺激策としてブッシュ大統領は、「総額1500億ドル(約16兆円)の景気対策」を行うことにした。
まあ、そういうニュース。
しかし、どこからその金が出るのか?
こういう一見当たり前に見えるニュースの背後に何があるのか? それが大事であろう。
かつてバックミンスター・フラーが指摘したように、基本的に今のアメリカ(第一次世界大戦後のアメリカ政府)にはお金が無い。だから、「合衆国が景気対策する」ということは、「合衆国がどこかに借金すること(=だれかに金を供与すること)」になる。
じゃあ、そいつはだれか?
と言えば、「バンク・オブ・アメリカ」(ニューヨーク)である。
私もごくごく最近までバンク・オブ・アメリカは日本銀行のような国が作った銀行だと思っていたが、実はそうではない、1民間銀行である(その日本銀行もまた、1942年、1998年の法改正で実質的には1民間企業にすぎない!)。これがアメリカ建国の時代からの”謎”の1つとされ、実に怪しい歴史が残っているらしい。しかしここが合衆国のドルを発行する。それゆえ、フリーメーソンのマーク(冠石に目のあるピラミッド)がお札に印刷されているというわけである。
写真:FRB
同様に、「FRB」という組織も1民間企業である。決してアメリカ合衆国の所有物ではない。この組織もまたその誕生に”謎”を持つ。
「その対策として、J.P. モルガンやポール・ウォーバーグやジョン・D・ロックフェラーの後ろ盾の元に、1913年に、ウッドロー・ウィルソン大統領がオーウェン・グラス法に署名し、同年多くの上院議員が休暇中の12月23日に、ワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した。」
つまり、上院議員のいない合間に強行採決によって誕生したのである。
同様に、「FRB」という組織も1民間企業である。決してアメリカ合衆国の所有物ではない。この組織もまたその誕生に”謎”を持つ。
「その対策として、J.P. モルガンやポール・ウォーバーグやジョン・D・ロックフェラーの後ろ盾の元に、1913年に、ウッドロー・ウィルソン大統領がオーウェン・グラス法に署名し、同年多くの上院議員が休暇中の12月23日に、ワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した。」
つまり、上院議員のいない合間に強行採決によって誕生したのである。
写真:イングランド銀行
ついでに加えると、大英帝国の「イングランド銀行」(ロンドン)もまた1民間企業である。しかし、イギリス王家の銀行である。決して議会の所有する銀行ではない。
「イングランド銀行は、スコットランド人のウィリアム・パターソンにより当時大同盟戦争下にあったイングランドの軍事費を資金する目的で1694年に創設され、イングランド王国政府の銀行として同年7月27日のウィリアム3世・メアリー2世の勅令により認可された。」
ここに「スコットランド人のウィリアム・パターソン」とあるが、これが面白い。
ついでに加えると、大英帝国の「イングランド銀行」(ロンドン)もまた1民間企業である。しかし、イギリス王家の銀行である。決して議会の所有する銀行ではない。
「イングランド銀行は、スコットランド人のウィリアム・パターソンにより当時大同盟戦争下にあったイングランドの軍事費を資金する目的で1694年に創設され、イングランド王国政府の銀行として同年7月27日のウィリアム3世・メアリー2世の勅令により認可された。」
ここに「スコットランド人のウィリアム・パターソン」とあるが、これが面白い。
写真:スコットランド銀行
実はスコットランドこそ、ローマの王カエサルを殺したブルータスが住み着いた場所なのである。その後、フランス王による粛正を逃れた「テンプル騎士団」の逃げ延びた土地でもある。まあ、日本で言えば、源平の戦いに破れた平家が逃げ延びた徳島の祖谷のようなところである。その子孫が今のスコットランド人なのである。それゆえ、スコットランド人はかなり金髪碧眼のアーリア人の特徴を残している。この「テンプル騎士団」が「キリスト教騎士団」と名を変え、さらに「フリーメーソン」と名を変えて現代に至る。
そんなわけだから、「スコットランド人のウィリアム・パターソン」はまさしく「フリーメーソン」の1人である。この人物が、スコットランド銀行(エジンバラ)を作り、イングランド銀行を作った。要するに”(金髪碧眼の)王家の銀行”を作ったわけである。
そして、この子孫がフランスやアメリカ合衆国を建設、そしてアメリカ銀行(=バンク・オブ・アメリカ)を作ったという歴史である。
同様に、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなど大英連邦の国々では同じことがくり返されたはずである(これを調べるのは皆さんだ)。
つまり、いくら国々が”独立”したと言っても、それぞれの国の金融を支配しているのは、全部イギリス王家と関係した民間企業でしかないというわけである。
そして、「EU」も同じような銀行制度を持つようになったというわけである。EUの欧州中央銀行(フランクフルト)が「ユーロ」を発行する。
したがって、ロンドン、パリ、ローマ、フランクフルト、ニューヨークなどなど、が金融の中心(支配者)ということになる。
まあ、イギリス王家がこういう”超大銀行ネットワーク”を持っているというわけである。
実はスコットランドこそ、ローマの王カエサルを殺したブルータスが住み着いた場所なのである。その後、フランス王による粛正を逃れた「テンプル騎士団」の逃げ延びた土地でもある。まあ、日本で言えば、源平の戦いに破れた平家が逃げ延びた徳島の祖谷のようなところである。その子孫が今のスコットランド人なのである。それゆえ、スコットランド人はかなり金髪碧眼のアーリア人の特徴を残している。この「テンプル騎士団」が「キリスト教騎士団」と名を変え、さらに「フリーメーソン」と名を変えて現代に至る。
そんなわけだから、「スコットランド人のウィリアム・パターソン」はまさしく「フリーメーソン」の1人である。この人物が、スコットランド銀行(エジンバラ)を作り、イングランド銀行を作った。要するに”(金髪碧眼の)王家の銀行”を作ったわけである。
そして、この子孫がフランスやアメリカ合衆国を建設、そしてアメリカ銀行(=バンク・オブ・アメリカ)を作ったという歴史である。
同様に、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなど大英連邦の国々では同じことがくり返されたはずである(これを調べるのは皆さんだ)。
つまり、いくら国々が”独立”したと言っても、それぞれの国の金融を支配しているのは、全部イギリス王家と関係した民間企業でしかないというわけである。
そして、「EU」も同じような銀行制度を持つようになったというわけである。EUの欧州中央銀行(フランクフルト)が「ユーロ」を発行する。
したがって、ロンドン、パリ、ローマ、フランクフルト、ニューヨークなどなど、が金融の中心(支配者)ということになる。
まあ、イギリス王家がこういう”超大銀行ネットワーク”を持っているというわけである。
写真:日本銀行
そこで、最初のテーマに戻ると、そもそも「サブプライムローン」を作ってしかけたのは、こうした銀行関連会社であり、そこが「不動産バブル、証券バブル」を仕掛ける。今度は、そこがFRBに金利をあげさせて、バブルを破たんさせ、不況を作る。すると各国政府は、「景気対策」と言って主要銀行から金を借りて見せ掛けの対策を行う。こうやって、2重3重それ以上に王家の銀行が儲かるという仕組である。
いやー、実にうまい。何も知らない我々一般人は、いつもこうやって見事に乗せられて、場合によっては自分の人生まで失ってしまうわけである。
まあ、日本もイギリス王家のマネをしているんですナ。しかし、それも乗っ取られるのは時間の問題だろうが。
俺にはどうでも良いことだなのだがナ。
そこで、最初のテーマに戻ると、そもそも「サブプライムローン」を作ってしかけたのは、こうした銀行関連会社であり、そこが「不動産バブル、証券バブル」を仕掛ける。今度は、そこがFRBに金利をあげさせて、バブルを破たんさせ、不況を作る。すると各国政府は、「景気対策」と言って主要銀行から金を借りて見せ掛けの対策を行う。こうやって、2重3重それ以上に王家の銀行が儲かるという仕組である。
いやー、実にうまい。何も知らない我々一般人は、いつもこうやって見事に乗せられて、場合によっては自分の人生まで失ってしまうわけである。
まあ、日本もイギリス王家のマネをしているんですナ。しかし、それも乗っ取られるのは時間の問題だろうが。
俺にはどうでも良いことだなのだがナ。
2008/01/23のBlog
[ 16:10 ]
[ 科学模型 ]
いやー、ワンダフル!
私が1999年にアメリカ物理学会100年祭(アトランタ)で発表した、タンパク質折り畳みのルービックのマジックスネークモデルが、今やアメリカでも話題沸騰となってきているようだ。
Welcome to the MATLAB Programming Contest - protein
すでに数式処理ソフトのMATLABを使って「折り畳みモデルのコンテスト」を行っているらしい。折れ畳みのアニメーションまである。
folding animation
その昔、ウルフラム博士のMathematica社に「自由にオブジェクトを折れ畳めるソフト機能を作ってくれ」と頼んだことがあったが、その時には「当面、そういう計画はない」と言われたものだった。
私はこのルービックのマジックスネークモデルを使っていくつか論文を書いたが、これまであまりその面白さを分かってくれる人はなかったようだ。論文としても発表する人は私をおいてまったくなかった。
思えば、それも当然。おもちゃの国、日本でさも当然のようにこの玩具がおもちゃ屋さんでツクダオリジナルから売られていたが(今は確かバンダイに吸収合併された?)、アメリカも含めてまだその当時はほとんど販売されていなかったからだ。
しかし、今や欧米でもこの玩具が販売されるようになった(今やキーホルダーまでできているからすごい)。すると、やはりこれも当然。自分の手で遊んでみれば、その面白さがだれにも分かる。こうして徐々に欧米の科学者もタンパク質の正式なモデルと見なす人も出て来たというわけである。
Bioinformatics: Computing for Molecular Biology
私が最初にこの模型を見つけたのは、私の弟が持っていたものだから、それは1990年のことである。それから8年間、他の研究の合間にいつもいじくってはその原理を確信するまで8年かかり、論文にした。それが1998年。それから10年経ち、今現在が2008年となったわけである。まあ、こんな玩具模型が世界の科学界でちょっと知られるようになるにも、18年もかかるということである。
こうしてみると、お笑いや政治や教育の世界と異なり、我々科学者の世界というものは、残念ながら、あまり効率の良い世界ではない。まあ、そこが「iPS細胞」とかの大発見とは違うと言えばそれまでである。
この模型が流行っても私が儲かるというわけではなく、ルービック博士の会社が儲かるだけのことだが、それでも一見たわいない玩具模型が科学の基本と結びついているのだということを指摘できただけでもこれ幸いと考えるべきだろう。
これぞ、スモールサイエンスの極致ですナ。
私が1999年にアメリカ物理学会100年祭(アトランタ)で発表した、タンパク質折り畳みのルービックのマジックスネークモデルが、今やアメリカでも話題沸騰となってきているようだ。
Welcome to the MATLAB Programming Contest - protein
すでに数式処理ソフトのMATLABを使って「折り畳みモデルのコンテスト」を行っているらしい。折れ畳みのアニメーションまである。
folding animation
その昔、ウルフラム博士のMathematica社に「自由にオブジェクトを折れ畳めるソフト機能を作ってくれ」と頼んだことがあったが、その時には「当面、そういう計画はない」と言われたものだった。
私はこのルービックのマジックスネークモデルを使っていくつか論文を書いたが、これまであまりその面白さを分かってくれる人はなかったようだ。論文としても発表する人は私をおいてまったくなかった。
思えば、それも当然。おもちゃの国、日本でさも当然のようにこの玩具がおもちゃ屋さんでツクダオリジナルから売られていたが(今は確かバンダイに吸収合併された?)、アメリカも含めてまだその当時はほとんど販売されていなかったからだ。
しかし、今や欧米でもこの玩具が販売されるようになった(今やキーホルダーまでできているからすごい)。すると、やはりこれも当然。自分の手で遊んでみれば、その面白さがだれにも分かる。こうして徐々に欧米の科学者もタンパク質の正式なモデルと見なす人も出て来たというわけである。
Bioinformatics: Computing for Molecular Biology
私が最初にこの模型を見つけたのは、私の弟が持っていたものだから、それは1990年のことである。それから8年間、他の研究の合間にいつもいじくってはその原理を確信するまで8年かかり、論文にした。それが1998年。それから10年経ち、今現在が2008年となったわけである。まあ、こんな玩具模型が世界の科学界でちょっと知られるようになるにも、18年もかかるということである。
こうしてみると、お笑いや政治や教育の世界と異なり、我々科学者の世界というものは、残念ながら、あまり効率の良い世界ではない。まあ、そこが「iPS細胞」とかの大発見とは違うと言えばそれまでである。
この模型が流行っても私が儲かるというわけではなく、ルービック博士の会社が儲かるだけのことだが、それでも一見たわいない玩具模型が科学の基本と結びついているのだということを指摘できただけでもこれ幸いと考えるべきだろう。
これぞ、スモールサイエンスの極致ですナ。
[ 12:19 ]
[ スポーツ ]
アジア連盟、ハンド・アジア予選参加国の除名通告
アジアハンドボール連盟のボスは、クウェートのアルサーバ王子。そして”陰の”ボスは、クウェートのファハド王子らしい。いずれもクウェートの王族の王子らしい。
(クウェートの王子が牛耳るハンドボール)
これが、悪名高き”中東の笛”の正体である。
しかし、待ってもらいたい。
そもそも今もクウェートなる弱小王国が曲がりなりにも”存在”できたのはなぜか?
そう、今のブッシュの父親のジョージ・ブッシュ大統領時代の1991年に、我々日本人が”1兆円”を超える資金を多国籍軍に提供して、”1月17日”開戦の「湾岸戦争」に勝利したからである。さもなくば、クウェートは、イラクのフセイン大統領の領土となっていたわけである。
その後も、今のジョージ・ブッシュ大統領による2003年のイラク戦争で日本は多国籍側についてクウェートを救ったわけだ。
どうもクウェートの王子達は、日本人から受けたこの”恩義”をお忘れのようだ。日本に対する”感謝の念”はさらさらないようだ。
まあ、これも日本政府の”政治力の無さ”のせいである。クウェートの王族達に日本人の寄与を教育してこなかったおかげであろう。「そろそろ1兆円返せ!」とクウェートの王子たちにガツンと言って欲しいものですナ。
ところで、クウェートは父ブッシュの利権構造のお膝元、そこをフセインに乗っ取られたものだから怒ってアメリカ軍を私物化して反撃したのが、湾岸戦争の起源である。アメリカ側につくアラブ諸国の大半はブッシュ家の所有物のようなものである。今やアメリカの傀儡政権のようになり、恐怖と窮屈な状況で、そのストレス発散の場がスポーツ政治なのだろう。こうして弱いもの虐めしてウサをはらすのでは困る。
この意味では、この問題もまたアメリカのせいなんですナ。困ったものだ。
いずれにせよ、日本のハンドボールはアジア連盟から除名され、重大な政治問題となることは間違いないだろうヨ。
オーストラリアにせよ、クウェートにせよ、”おとぼけ福田首相”となったとたんに日本攻撃してくる。
ちなみに我が家はもうオーストラリアの牛肉は買わない。我々日本人がアメリカ産に代わって豪州産の牛肉を買ってやれば、調子こいてオーストラリア人が日本の有名スキー場を豪遊し、そこの不動産を買い漁るのでは困るからだ。我が家は、国産など別の牛肉にしている。オーストラリアにはもう十二分に儲けさせてやったはずだからナ。
いやはや、今やあのフセイン大統領が良い人に見えてくる今日この頃である。
いやー、世も末ですナー。
アジアハンドボール連盟のボスは、クウェートのアルサーバ王子。そして”陰の”ボスは、クウェートのファハド王子らしい。いずれもクウェートの王族の王子らしい。
(クウェートの王子が牛耳るハンドボール)
これが、悪名高き”中東の笛”の正体である。
しかし、待ってもらいたい。
そもそも今もクウェートなる弱小王国が曲がりなりにも”存在”できたのはなぜか?
そう、今のブッシュの父親のジョージ・ブッシュ大統領時代の1991年に、我々日本人が”1兆円”を超える資金を多国籍軍に提供して、”1月17日”開戦の「湾岸戦争」に勝利したからである。さもなくば、クウェートは、イラクのフセイン大統領の領土となっていたわけである。
その後も、今のジョージ・ブッシュ大統領による2003年のイラク戦争で日本は多国籍側についてクウェートを救ったわけだ。
どうもクウェートの王子達は、日本人から受けたこの”恩義”をお忘れのようだ。日本に対する”感謝の念”はさらさらないようだ。
まあ、これも日本政府の”政治力の無さ”のせいである。クウェートの王族達に日本人の寄与を教育してこなかったおかげであろう。「そろそろ1兆円返せ!」とクウェートの王子たちにガツンと言って欲しいものですナ。
ところで、クウェートは父ブッシュの利権構造のお膝元、そこをフセインに乗っ取られたものだから怒ってアメリカ軍を私物化して反撃したのが、湾岸戦争の起源である。アメリカ側につくアラブ諸国の大半はブッシュ家の所有物のようなものである。今やアメリカの傀儡政権のようになり、恐怖と窮屈な状況で、そのストレス発散の場がスポーツ政治なのだろう。こうして弱いもの虐めしてウサをはらすのでは困る。
この意味では、この問題もまたアメリカのせいなんですナ。困ったものだ。
いずれにせよ、日本のハンドボールはアジア連盟から除名され、重大な政治問題となることは間違いないだろうヨ。
オーストラリアにせよ、クウェートにせよ、”おとぼけ福田首相”となったとたんに日本攻撃してくる。
ちなみに我が家はもうオーストラリアの牛肉は買わない。我々日本人がアメリカ産に代わって豪州産の牛肉を買ってやれば、調子こいてオーストラリア人が日本の有名スキー場を豪遊し、そこの不動産を買い漁るのでは困るからだ。我が家は、国産など別の牛肉にしている。オーストラリアにはもう十二分に儲けさせてやったはずだからナ。
いやはや、今やあのフセイン大統領が良い人に見えてくる今日この頃である。
いやー、世も末ですナー。
2008/01/22のBlog
[ 15:42 ]
[ デーヴィッド・アイク ]
いやはや「世界同時株安」がやって来た。いよいよ不吉な「世界同時不況」や「世界恐慌」の序章なのかも知れない。
どうしてこうなったか?
これを理解するにも、2種類の見方があり得る。
まずごく普通の見方がある。
この見方では、このアメリカの「サブプライムローン」の破たんによる、世界への波及効果である。つまり、”偶発的に”起こった経済現象という見方である。
それに対して「陰謀論」の見方もあり得る。
この見方では、この世界不況はある種の世界勢力によって”意識的に”かつ”計画的に”引き起こされたものだということになる。
我々日本人のごく一般庶民には理解し得ないことだが、現実問題としてアメリカにはアルバート・パイクのような人物がいる。パイクは、3つの世界戦争を起こして、最後に統一帝国を作れと主張したという人物である。
その2つ目の第2次世界大戦は、やはり1930年代の「世界同時不況」が基で引き起こされたという歴史的事実がある。当時もアメリカは不動産バブルに湧き、都市銀行が多くの農村部に莫大な貸し付けを行い、そのバブル破たんから恐慌が起こったのである。そして、この世界恐慌でもっとも悲惨な状況に陥ったドイツの中からナチスが生まれ、世界戦争の道を進んで行ったわけである。
当時の世界の多くの人々は、これは独裁国家に対する自由民主主義国家の戦い、民主主義を守るための戦いであると信じていたために、それが当然の戦争なのであると信じたわけである。これは日本でもほぼ同じで、戦後からごく最近まで、日本人では、パイクのような人物がいたということすら理解されていなかった。
ところが、最近、元イギリスMI6のジョン・コールマン、イギリス人のデーヴィッド・アイクや日本人では太田龍やその他の人々がいろいろ調査して書くようになり、日本にも世界政治は我々ナイーブな日本人が思い描くような世界ではないということが少しずつ明かになって来たわけである。
こういった人々の意見や本は一見かなり突拍子もないことが多いが、やはり無視してはいけないと私は考える。
物事には、表と裏、ウソと真実、明と暗、光と陰、などなどつねにまさに表裏一体となって織り成されているからである。光がなければ陰はなく、陰がなければ光の方向も分からない。真実とはそういうものであるからだ。
ごく普通の一般論OK、陰謀論もOK、何でも一様に考慮し、研究してみるという開かれた精神の持ち主しか真実を見極めることはできないと思うからだ。
ところで、一般に日本の科学者やインテリに多く見られるやり方や考え方にこんなものがある。具体的な例で説明しよう。
例えば、西郷隆盛の顔の問題がある。一般に知られているのは、キヨソネの版画の西郷隆盛とフルベッキ写真の西郷隆盛である。ともに一長一短。どちらの西郷隆盛の顔の真偽にも問題がある。
キヨソネの版画の西郷隆盛は、隆盛の銅像が上野に建った時から親族から「まったく似ていない」と言われた代物であった。この意味では、キヨソネの図は絵としては実物であるが、描かれた絵はウソである。しかし、こうした証言は時代と共に忘れ去られる。そして、図が真実として一人歩きする。
一方のフルベッキ写真の西郷隆盛は、その写真そのものは実物であり、実際その中の多くの人物も実在の実物であることが証明されている。しかし、西郷隆盛と何人かの重要人物だけがなぜか偽物と目されている。(フルベッキ写真)
ところが、こういうものが今度は中のほんの何人かが良く分からないということのために、どこかから悪意ある”風評”がながされ、今度はその写真そのものがねつ造であるかのごとく見なされてしまう。
まあ、こんなふうなことがしばしば起こる。
こういう場合、日本のインテリや科学者が非常にしばしば陥るのは、社会や歴史の問題であったとしても、数学の論理を援用(=外挿)してしまうという問題である。そういう強い習性がある。
つまり、「A=B」(例えば、「フルベッキ写真の西郷隆盛は本物である」)とだれかが主張した時に、数学の「背理法」に基づいて「A≠B」と仮定しても問題がないから「A=B」は正しくないと考えたり、「A=B」の「反例」を見つけたから、これが正しくないとやってみたりするのである。
しかし、これは数学では好いが、社会や歴史の場合には成り立たない。「A=B」が間違いで「A≠B」であるなら、やはりどちらも確固たる証明が必要なのである。そうでないならそうでないきちんとした理由それがないと否定できないというものなのである。もし確固たるやり方で肯定も否定も出来ない場合には、白黒つけることは出来ずに保留せざるを得ないのである。数学的言明と一般的な言明は全く違うのだ。
どうもこの辺が日本の大学ではおろそかになっているせいか、日本には数学的なやり方や論理的なやり方で指摘すればそれで終わりだと思ってしまっている大人が多すぎる。
こんなわけだから、「陰謀論」というものも、頭から否定することはできない。どんなものでも一考に値するのである。そしてそれが肯定も否定もできないのであれば、真偽の結論はしばらくは保留しておくべきである。いずれ真偽が定かになる時が来るからである。
この意味で、仮にコールマンやアイクや太田の主張する「イルミナティ陰謀論」が正しいとすると、こういうことになる。
”アルバート・パイクが150年前に思い描いた世界支配を成就させるために、「300人委員会」なる組織が世界同時株安を招いて、世界不況を起こし、第三次世界大戦を引き起こそうとしている”
アイクは言う。
「だれがそれによって得したか? それを見きわめよ」
戦争によってすべての人が損や得をしたなら、それは陰謀とは言えないかもしれない。しかし、それによっていつもだれか特定の人々だけが得をしたのであれば、そこには陰謀の陰が付きまとう。
この意味では、この「世界同時株安」で「だれが得をするのか」を見る厳しい目を持ちたいものだ。
いやはや、世も末ですナ。
どうしてこうなったか?
これを理解するにも、2種類の見方があり得る。
まずごく普通の見方がある。
この見方では、このアメリカの「サブプライムローン」の破たんによる、世界への波及効果である。つまり、”偶発的に”起こった経済現象という見方である。
それに対して「陰謀論」の見方もあり得る。
この見方では、この世界不況はある種の世界勢力によって”意識的に”かつ”計画的に”引き起こされたものだということになる。
我々日本人のごく一般庶民には理解し得ないことだが、現実問題としてアメリカにはアルバート・パイクのような人物がいる。パイクは、3つの世界戦争を起こして、最後に統一帝国を作れと主張したという人物である。
その2つ目の第2次世界大戦は、やはり1930年代の「世界同時不況」が基で引き起こされたという歴史的事実がある。当時もアメリカは不動産バブルに湧き、都市銀行が多くの農村部に莫大な貸し付けを行い、そのバブル破たんから恐慌が起こったのである。そして、この世界恐慌でもっとも悲惨な状況に陥ったドイツの中からナチスが生まれ、世界戦争の道を進んで行ったわけである。
当時の世界の多くの人々は、これは独裁国家に対する自由民主主義国家の戦い、民主主義を守るための戦いであると信じていたために、それが当然の戦争なのであると信じたわけである。これは日本でもほぼ同じで、戦後からごく最近まで、日本人では、パイクのような人物がいたということすら理解されていなかった。
ところが、最近、元イギリスMI6のジョン・コールマン、イギリス人のデーヴィッド・アイクや日本人では太田龍やその他の人々がいろいろ調査して書くようになり、日本にも世界政治は我々ナイーブな日本人が思い描くような世界ではないということが少しずつ明かになって来たわけである。
こういった人々の意見や本は一見かなり突拍子もないことが多いが、やはり無視してはいけないと私は考える。
物事には、表と裏、ウソと真実、明と暗、光と陰、などなどつねにまさに表裏一体となって織り成されているからである。光がなければ陰はなく、陰がなければ光の方向も分からない。真実とはそういうものであるからだ。
ごく普通の一般論OK、陰謀論もOK、何でも一様に考慮し、研究してみるという開かれた精神の持ち主しか真実を見極めることはできないと思うからだ。
ところで、一般に日本の科学者やインテリに多く見られるやり方や考え方にこんなものがある。具体的な例で説明しよう。
例えば、西郷隆盛の顔の問題がある。一般に知られているのは、キヨソネの版画の西郷隆盛とフルベッキ写真の西郷隆盛である。ともに一長一短。どちらの西郷隆盛の顔の真偽にも問題がある。
キヨソネの版画の西郷隆盛は、隆盛の銅像が上野に建った時から親族から「まったく似ていない」と言われた代物であった。この意味では、キヨソネの図は絵としては実物であるが、描かれた絵はウソである。しかし、こうした証言は時代と共に忘れ去られる。そして、図が真実として一人歩きする。
一方のフルベッキ写真の西郷隆盛は、その写真そのものは実物であり、実際その中の多くの人物も実在の実物であることが証明されている。しかし、西郷隆盛と何人かの重要人物だけがなぜか偽物と目されている。(フルベッキ写真)
ところが、こういうものが今度は中のほんの何人かが良く分からないということのために、どこかから悪意ある”風評”がながされ、今度はその写真そのものがねつ造であるかのごとく見なされてしまう。
まあ、こんなふうなことがしばしば起こる。
こういう場合、日本のインテリや科学者が非常にしばしば陥るのは、社会や歴史の問題であったとしても、数学の論理を援用(=外挿)してしまうという問題である。そういう強い習性がある。
つまり、「A=B」(例えば、「フルベッキ写真の西郷隆盛は本物である」)とだれかが主張した時に、数学の「背理法」に基づいて「A≠B」と仮定しても問題がないから「A=B」は正しくないと考えたり、「A=B」の「反例」を見つけたから、これが正しくないとやってみたりするのである。
しかし、これは数学では好いが、社会や歴史の場合には成り立たない。「A=B」が間違いで「A≠B」であるなら、やはりどちらも確固たる証明が必要なのである。そうでないならそうでないきちんとした理由それがないと否定できないというものなのである。もし確固たるやり方で肯定も否定も出来ない場合には、白黒つけることは出来ずに保留せざるを得ないのである。数学的言明と一般的な言明は全く違うのだ。
どうもこの辺が日本の大学ではおろそかになっているせいか、日本には数学的なやり方や論理的なやり方で指摘すればそれで終わりだと思ってしまっている大人が多すぎる。
こんなわけだから、「陰謀論」というものも、頭から否定することはできない。どんなものでも一考に値するのである。そしてそれが肯定も否定もできないのであれば、真偽の結論はしばらくは保留しておくべきである。いずれ真偽が定かになる時が来るからである。
この意味で、仮にコールマンやアイクや太田の主張する「イルミナティ陰謀論」が正しいとすると、こういうことになる。
”アルバート・パイクが150年前に思い描いた世界支配を成就させるために、「300人委員会」なる組織が世界同時株安を招いて、世界不況を起こし、第三次世界大戦を引き起こそうとしている”
アイクは言う。
「だれがそれによって得したか? それを見きわめよ」
戦争によってすべての人が損や得をしたなら、それは陰謀とは言えないかもしれない。しかし、それによっていつもだれか特定の人々だけが得をしたのであれば、そこには陰謀の陰が付きまとう。
この意味では、この「世界同時株安」で「だれが得をするのか」を見る厳しい目を持ちたいものだ。
いやはや、世も末ですナ。
2008/01/21のBlog
[ 17:48 ]
[ 歴史 ]
図:フルベッキ写真の西郷隆盛
たとえば、フルベッキ写真の西郷隆盛とキヨソネ図の西郷隆盛を見るといい。両者は全く異なる。しかし、全く別人を描いた西郷隆盛が上野の銅像の原図となってしまったわけだ。
実は、これとまったく同じことが、その西郷隆盛の師であった島津斉彬公についても言える。
たとえば、フルベッキ写真の西郷隆盛とキヨソネ図の西郷隆盛を見るといい。両者は全く異なる。しかし、全く別人を描いた西郷隆盛が上野の銅像の原図となってしまったわけだ。
実は、これとまったく同じことが、その西郷隆盛の師であった島津斉彬公についても言える。
図:「島津斉彬公」の写真
しかし現実の「島津斉彬公」の写真も残っていて、それは全く別人である。この写真から判断すれば、一番似ているのは、若いころの東野英治郎さんではないかと思うが、どうか。すなわち、初代水戸黄門公の東野英治郎さんである。
しかし現実の「島津斉彬公」の写真も残っていて、それは全く別人である。この写真から判断すれば、一番似ているのは、若いころの東野英治郎さんではないかと思うが、どうか。すなわち、初代水戸黄門公の東野英治郎さんである。