「林真須美」と表記されることが多いですが正式には「林眞須美」です。「真」でなく「眞」になります。

第1回和歌山カレー事件を考える人々の集い報告 07.12.9

和歌山カレー事件を考える人々の集い様子
 12月9日(日)、事件の現地・和歌山では初めてとなる支援集会を開きました。会場に入りきれない70人以上の参加者、そしてマスコミもテレビ・新聞が多数集まり、大盛況となりました。
 今回の集会は二部構成で開催されましたが、一部ではまず最初に支援会の代表・三浦和義さんが挨拶されました。

三浦和義さんの話
三浦和義さん
 みなさん、今日はお忙しい中お集まり頂き、どうもありがとうございます。

 私が眞須美さんと最初に関わったのは、2002年に一審の和歌山地裁の判決が出た時でした。判決要旨を見ただけですが、状況証拠だけで、具体的事実がまったくない。それで当時、接見禁止中だった眞須美さんに速達で手紙を出しました。そうしたら二審の大阪高裁の頃、接見禁止がとけた眞須美さんから「三浦さんは私の発信第一号です」と手紙がきて、眞須美さんとの交流が始まりました。

 そして2005年に二審の判決が出た時、私は大阪高裁まで行ったのですが、「動機も目的もわからないけど、それでもあんたは死刑だ」みたいな判決だったので、非常に驚きました。隣にいたジャーナリストの大谷昭宏くんたちが「当然の判決だ」と言っていましたが、それは違うんじゃないですか、と。動機も目的もわからないまま死刑、そんなことで刑事手続きとして適正なのか。そんなことがまかり通れば、国民1人1人がみんな、冤罪被害の危険にさらされてしまいます。


 たしかに状況証拠の積み重ねだけで人を裁くことはできるし、時にはそういうことをしなければならないこともあります。しかし、その場合は確かな状況証拠を4つ、5つと積み重ね、新たに確かな状況証拠を作り出し、全体として極めて信頼性が高い判決にしないといけない。眞須美さんの裁判のように「あの人は疑わしい」「怪しい」といった近所の人たちの話だけで死刑にしていいのか。私は大阪高裁の前でインタビューを受けながら、そのように怒りでコメントしたことを今も覚えています。

 上告審はぜひとも安田(好弘)先生にお願いしたいと、安田先生に弁護団を再構成してもらい、今日まで安田先生には無理の言い通しできていますが、とにかく「一審、二審の判決を見直して欲しい」「眞須美さんが冤罪だとわかって欲しい」というのが私の希望です。いま、司法改革が言われていますが、その中で最高裁までみんなが一人一人の力を合わせ、眞須美さんの命を救いたいと思っています。

 みなさん、今後ともよろしくお願い致します。本当に今日はどうもありがとうございます。

 続いて、11月30日に眞須美さんに面会した支援会の津久井淑子さんから、眞須美さんの近況についての報告がありました。

津久井淑子さんの話

 私は事件を知るまでは、眞須美さんとは知り合いでも何でもなかったのですが、この裁判がおかしいと思い、支援を始めました。

 眞須美さんとは、11月30日にも面会でお会いしてきましたが、私の眞須美さんのイメージは「普通のお母さん」。いつも4人のお子さんのことを心配されているのですが、事件当時は4歳で、現在は13歳になる一番下の娘さんのことは難しい年頃ということもあり、最近とくに心配しておられます。

 また、私がお会いする時の眞須美さんはいつも元気で、30日にお会いした時もお元気でしたが、ストレスで食べ過ぎて太ってしまったことを悩まれていたり、実際は私たちの前では元気にふるまってくれているということかもしれません。しかし、今回の集会のことは、初めて現地の和歌山で開かれる集会ということもあり、とても楽しみにしてらっしゃいました。今回は多くの方が集まってくださり、眞須美さんは喜ばれると思いますので、早く報告してあげたいと思います。

 眞須美さんは、少しでも多くの人に事件のことを知ってもらいたいと思っておられます。面会時間は10分とか、15分くらいしかありませんが、みなさん、ぜひとも眞須美さんに一度、会いに行ってあげて欲しいと思います。

 続いて、1948年に発生した免田事件の冤罪被害者で、1983年に死刑確定囚としては日本で初めて再審・無罪を勝ち取った免田栄さんが、自らの貴重な経験を語ってくれました。

免田栄さんの話
免田栄さん
 今から60年ほど前、私は無実の罪で逮捕され、アリバイもあったのに死刑判決を受けました。始まりは1人の警察官の誤りだったのですが、それが最高裁の確定判決にまでなってしまったのです。そして、私は無罪を勝ち取るまでに34年かかった。非常に怖いことです。
 しかし、私はそんな自分の経験を無駄にしてはいけないと思い、こうして今、いろんな機会に自分の経験を話させて頂いてます。

 大変面白い話がありまして、あれは第六次再審請求をしていた時でした。ある教誨師さんが私のもとにやってきて、「再審を諦めろ」と言うんです。
「なぜですか?」と聞くと、その教誨師さんは「これは前世からの因果応報だからだ」と言う。それで、その方がお帰りになられる時、私のほうから逆にこう言いました。
「先生は今から帰り道で交通事故に遭われたら、病院に行きますか? もしも先生が病院に行くのだったら、私も再審を諦めません」と。
 すると、その教誨師さんはそのまま何も言わず、帰って行かれた。噂に聞くとところによると、その方はその後、教誨師を辞められ、お坊さんも辞められたそうです。

 私が一人の警察官の誤りから確定死刑囚にされてしまったように、人間が人間を裁くというのは、完璧にはできません。みなさんもこの機会に、そして裁判員制度を前に、人が人を裁くとはどういうことか、もう一度よく考えてみてください。

 続いて、今回のもう1人のゲスト、1954年に発生した島田事件の冤罪被害者で、1989年に再審・無罪を勝ち取った赤堀政夫さんがご自身の経験を語りつつ、眞須美さんに激励の言葉を贈ってくれました。

赤堀政夫さんの話

 みなさん、こんにちは。はじめまして。元無実の死刑囚の赤堀政夫です。
 私は、昭和29年5月24日、岐阜県鵜沼市を放浪中、全国指名手配として不当な逮捕をされました。しかも、逮捕は別件逮捕です。即日、島田署に連行されました。取り調べでは、同年3月10日に島田市内で起きた「幼女・強姦殺人事件」の容疑者に変わりました。

 しかし、私は事件当時には島田に在宅しておりませんでした。横浜の「外川神社」の縁の下に寝ていました。この外川神社は、私の記憶と絵図面を頼りにして支援者が見つけてくれたもので、重要なアリバイになりました。

 それにも関わらず、全国指名手配を受けたワケは、私には「精神病院入院歴」があり、当時、決まった職もなかったので、全国指名手配の対象者にされたと言われています。
「精神障害者」への予断と差別が警察・検察に利用された典型と言われています。

 浮浪生活者には「不在証明」もなく、それが警察の狙いどころとなったのでしょう。島田市へ連行され、警察に初めて「幼女殺人事件」を知らされました。身に覚えがないのに、それを「拷問」「誘導」で私を締め上げました。知らないことは、知らないのです。

 しかし、島田警察署と検事は、自分たちの勝手な想像で書いた「作文」を「自白調書」に仕立てました。その上、私の腕を無理矢理つかみ、その紙に名前を書かせ、指印を押させたのです。警察の偽装工作はこうして始まりました。

 第一回の公判では最初、「起訴状」が読み上げられました。私は手渡されたその起訴状を丸め、裁判官めがけて投げつけました。それ以降、私とは何も関係ないところで裁判は一審、二審と進み、1960年12月15日、最高裁で死刑確定囚にされました。今も悔しくて、悔しくて仕方ありません。

 この日以降、死刑確定囚として、苦難の日々を送ることになりました。平成元年1月31日、再審で無罪が確定してようやく解放されましたが、私は実に34年8ヶ月間の人生を奪われたのです。

 眞須美さんは「自白調書」がないと聞いています。また、裁判所が事実認定した証拠にも、大きな疑問があると聞いています。実に疑わしい事件だと思っています。法原則が「疑わしきは被告人の利益に」であれば、即座に釈放されるべきでしょう。
 現在、大阪拘置所で眞須美さんは10年目の不当な拘禁生活を強いられています。私は一日も早い釈放を願わずにはおれません。

 冤罪死刑囚の悲劇は第一に、本人の生命が危機的状況にさらされることです。憤り、悔しさ、怨みなどが噴出します。日々の感情は激しく揺れ動き、人は耐えられるものではありません。
 第二に、冤罪死刑囚につながる家族もまた、その渦に巻き込まれ、悲惨な生活を強いられます。第三に、真犯人も取り逃がします。そして第四に、殺された被害者の霊も決して慰められないのです。こうした悲惨さは、誰もが受けてはなりません。

 私は無力ですが、眞須美さんのため、経験を生かして何らかの力になりたいと思っています。皆様も眞須美さん支援の輪を広げて、全国民へ訴えかけてくれることをお願い申し上げます。
 ありがとうございました。

 続いて、同志社大学の教授・浅野健一さんから、カレー事件発生当時のメディアの問題点を語ってもらいました。

浅野健一さんの話
浅野健一さん
 よく「メディア・スクラム」という言葉を使う人がいますが、あれは完全な誤訳で、今の報道機関がやっていることは、正しくは「メディアフレンジング=集団取材の人権侵害」だと私は思ってます。

 このメディアフレンジングが一番最初に始まったのは、ロス疑惑報道からだと思います。あれから、警察が逮捕状をとってすらいないのに「あいつが犯人だ」とマスコミが言い出すような報道が始まったんです。その後も、オウムの事件のときに「オウムなら別件逮捕でも何でもいい」とマスコミが言い出したことがありました。そして、そういったメディアフレンジングが完成したのが、和歌山カレー事件の時じゃないかと私は思っています。

 事件が起きた年、98年8月25日に朝日新聞が「園部の民家で飲食をした二人の男性が砒素中毒とみられる症状で入院していた」という和歌山県警の情報を一面トップで書きました。あれ以来、林さん夫婦の周りを直接取材することは控えていた各マスコミが、林さん夫婦の家を堂々と取り囲むようになったんです。

 報道陣は当時、林家の周りに脚立を立てて家の中を覗いたり、林さんの家にどこから宅急便がきているか調べたり、中には、ゴミを漁ったりするメディアもありました。朝日新聞やNHKは「夜中の12時から朝の8時までは取材を自主規制した」と得意げに言っていましたが、そんな時間に取材を自粛しても何の意味もなく、とんでもない話です。

 当時園部に集まったメディアは、地域の人の静かな生活や人権を侵害しているという意識がまるでありませんでした。最初の頃はお好み焼き屋さんも疑われ、メディアに「もしも犯人として捕まったら使おう」ということで写真を撮られたりもしてました。学校と教育委員会がマスメディアに取材の自粛を要請する声明を出したのですが、これも異例のことでした。

 さらに裁判では、逮捕される前に林さん夫婦が出たテレビの放送を和歌山県警と和歌山地検が全部ビデオにとり、法廷に証拠として提出するということもありました。捜査機関は「事実の解明にメディアも協力すべきだ」と言っているのですが、それに対し、報道側はちゃんとした抗議をしていません。これは、TBSがオウムに対し、取材テープを見せたことにも通じるとんでもないことです。

 このように和歌山カレー事件では、日本の犯罪報道のいろいろな悪いところが全部出たように私は思っています。今日はメディアの方もこられていますので、過去に自分たちが犯した過ちを反省した上で最高裁に向け、きちんとした報道をして欲しいと思います。

 続いて、林眞須美さんの夫、健治さんの挨拶です。

林健治さんの話
林健治さん
 今日はみなさん、遠方から来ていただき、どうもありがとうございます。

 2年前に出所して初めて聞いたのですが、実はカレー事件は私と妻が共犯として逮捕されたらしいんです。つまり、私も捕まった時、二度と外に出られないはずだった。施設にいる子供たちによると、弁護士さんに「お父さんもお母さんも一生、外には出れないかもしれない」と言われたそうなんです。

 それで思い出したのが捕まった時、検事に「お前、眞須美に毒飲まされたことにしてくれんか?」と言われたことです。そんな話はまったくないので、私が拒んでいると、検事は「そんなら1つ、ワシらがストーリーつくってやる」と言い出しました。

 検事いわく、「私は元日本生命の職員です。砒素は主人が扱っていたシロモノです。あの日、家に帰ったら主人に『この粉は隠し味や。だから、これをカレーに入れてこい』と言われたんです──こんなことを裁判で眞須美に言わせたら、お前は一生外に出らんぞ」と。
 私はそれを聞き、検事はそんなこと言うくらいだから、よっぽど証拠がないのだな、と思いました。

 先日眞須美から来た手紙に「最近、ありがたいことに面会に来てくれる人が増えたんだけど、遠いところから来てもらうのに面会時間が10分か15分しかない。それだから、寂しい顔や辛い顔はできないけど、私はもうヘトヘトや」と書いてありました。
 私はいつも言っているんですが、妻だから擁護するわけじゃないんです。カレー事件では4人の人も亡くなってるわけですから、もしも眞須美が犯人なら、首を持っていってくれていい。でも、それにはちゃんとした証拠を見せくれないと、納得できないのです。

 私は和歌山へ帰ってきて、2年半になります。今日は地元和歌山での初めての集会ということで内心ハラハラしていたのですが、これだけの人に集まってもらい、今日は本当にありがとうございました。

 続いて、安田好弘弁護士から弁護団の方針や、事件の真相についての説明があったのですが、その中では異例の「真犯人への自首のススメ」も飛び出しました。

安田好弘弁護士の話
安田好弘弁護士
・現状報告
 弁護人の安田です。私と中道、小田、高見、石塚、合計5人で上告審の弁護をやっているのですが、今日は弁護人5人全員ここに来ています。
 まずは裁判の流れですが、昨年10月に一、二審は間違っているということで上告趣意書を提出して以来、今は補充書を出す準備をしているところです。新しい証拠を探し、そこから新たに論証していこう、という準備をしているわけです。

 この後どうなるかというと、これまでの死刑判決の例ですと、上告から3年か4年くらいで最高裁の弁論が開かれますので、来年くらいに弁論ということが話題にのぼってくると思います。そして、弁論が開かれれば、大体1~2ヶ月くらいで判決が出ます。
 しかし、弁論を開かれる段階では、もう結論は出ています。したがって、我々はそれまでにさらに準備を続けていこうと思っています。

 その中で弁護人として心がけているのが、客観的事実や客観的証拠を重視していこうということです。主観的事実や主観的証拠を極力排除し、一体これはどういう事件なのか、ということを改めて検証していくんです。

 で、客観的証拠とは何かというと、争いのない事実です。たとえば、「園部はどういうところか」とか「(亜ヒ酸が混入された)鍋の大きさはどうだったか」とかですね。つまり、誘導とか憶測とか、そういうものが一切入らないものです。目撃者の証言とか、そういう絶対化できない主観的なものを排除して、我々は改めて事件を検証しているわけです。

・事件のあらましの説明
 (事件現場・園部界隈の図をスクリーンに映しながら)これが事件現場の図です。園部は、紀ノ川の川沿いの新興住宅街なんですね。付近は、市街地とは言えない場所です。
 そして、現場の空き地で夏祭りがあり、カレー事件はここで起こった事件なんです。空き地の大きさは約30メートル×15メートル、その近くに林さんの家がありました。
 で、夏祭り会場の天幕の中に4つの鍋があり、2つはおでんの鍋、あとの2つはカレーの鍋、カレーの鍋は寸胴鍋でした。この4つの鍋のうちの1つに約135グラムの亜砒酸が入っていたんです。その結果、4人の方が亡くなりました。また、それ以外に63人の方が砒素中毒になったんです。
 これだけみると、限られた空間の、限られた世間の事件ということになると思います。こうなると、この地域の中の誰かが犯人ということになるんです。極端な言い方をすれば、住民220数名の誰かが犯人ということになるわけですね。
 となると、住民は誰もが疑心暗鬼になる。そして、こういう時は必ず、異端者が犯人になってしまうんです。新参者や流れ者、付近の人と馴染まない生活をしている人ですね。常に主観が先行するんです。
 この事件は眞須美さんが犯人でないと、誰もが困る事件だったんです。

・眞須美さんが有罪とされた根拠について
 それで、判決が眞須美さんを犯人と決めつけてる根拠なんですが、一審は938ページもある異常な判決です。つまり、これだけモノを言わないと、眞須美さんを有罪にできなかったということです。裁判官もよほど自信がなかったんだと思います。
というのも、この事件には、直接証拠がない。直接証拠とは、被告人が毒物を混入する場面のビデオや、犯人じゃないと知らないような秘密の暴露ですね。そういった直接証拠がこの事件には一切なく、「怪しいな」という間接証拠しかないわけです。

それで、この事件でどういう間接証拠があるかというと、まずは亜ヒ酸です。
「①カレー鍋に入っていた亜ヒ酸」、「②夏祭り会場のゴミ袋に入っていた紙コップに付着していた亜ヒ酸」、「③眞須美さんのお兄さんが林夫婦からもらった亜ヒ酸」、そして「④林家の台所から見つかったプラスチック容器に付着していた亜ヒ酸」、この4つが科学鑑定により完璧に一緒だと明らかになったと言うんです。
 ただ、正確には、これらの亜ヒ酸ではなく、これらの亜ヒ酸に含まれている不純物が同じだというだけなんですけどね。
 
 あと、目撃供述も1つありました。それは「眞須美さんが事件当日、一人でカレーの鍋の近くにいた」というものです。というのも、カレーの寸胴鍋には「東鍋」「西鍋」という2つの鍋があるんですが、そのうち1つの鍋のフタを眞須美さんが開けたのを近所の女性が見たと言うんです。
 ただ、カレーの中に亜ヒ酸が入っていた鍋は「東鍋」のほうだけで、「西鍋」のほうには亜ヒ酸は入ってなかった。そして、この目撃供述というのは、亜ヒ酸が入ってなかった西鍋のほうのフタを眞須美さんが開けたのを目撃したというだけのものです。
 つまり、たったこれだけの証拠で一審は眞須美さんを犯人だとしたんです。

・裁判の問題点について
 カレー鍋に混入されていた亜ヒ酸や、林家から見つかった亜ヒ酸などがすべて同一だと結論した鑑定人は、中井さんという東京理科大の教授です。この人は、科警研が「同じかどうか判定できない」と言っているのに、「俺ならできるよ」と鑑定に加わって、「同一」という結論を出しました。

 で、この方が鑑定に使ったのが、「スプリング8」という超微量分子を分析する世界に数台しかない機械なんですが、私たちはその鑑定が正しいのか、検証できないんですね。

 ただ、鑑定そのものが検証できないのでどうしようもないのですが、林家が白アリ駆除に使っていた亜ヒ酸は、昭和56~58年に中国から輸入された60キログラム入りのドラム缶50個のうちの一缶に過ぎない。しかも、この50缶のうち、行き先が特定されているのは林さんのところのものだけなんです。

 さらに言えば、仮に鑑定が正しかったとしても、林家が白アリ駆除に使っていた60キログラムの亜ヒ酸の中の135グラムの行き先が特定されたにすぎません。つまり、せいぜい20万分の1なんですね。

 また、眞須美さんの服装も、事件当日は黒のTシャツだったのに、眞須美さんがカレー鍋のフタを開けるところを目撃したという女性は、眞須美さんは白いTシャツを着ていたと言っているんです。しかも、眞須美さんは当日、手ぬぐいなんか持っていなかったのに、その女性は眞須美さんが首に手ぬぐいを巻いていたと言っている。しかも、そうした眞須美さんの姿を白いレースのカーテン越しに見た、と言うんです。

 この話の違いからすると、この女性は、眞須美さんとは別の人を見ているんじゃないか、むしろ、この証言は眞須美さんの無実を証明する供述じゃないか、と思うわけです。

 そして、仮にその女性が目撃したのが本当に眞須美さんだとしても、眞須美さんがフタをあけたのは、あくまでも砒素が入ってないほうの鍋なんです。ですから、いずれにしても無実になるはずの証拠が、有実の証拠として使われているわけですね。
 逆に、無実の直接証拠もあるんです。それは何かというと、当時中学2年生だった眞須美さんの次女が事件当日、ずっと眞須美さんについて歩いて回っていたことです。
 次女は「お母さんは何もしていない。実は自分がフタをあけて、味見してるんです」と証言しているんです。つまり、先の女性が目撃したのは、次女がフタを開けるところだった可能性もあるんですね。
 しかし、裁判所はこの次女の証言に関しては、まったく無視しました。「親子の証言だから信用できない」と言っているんです。
 つまり結局、「警察と検察が眞須美さんしか犯人はいない」と決めつけているだけの事件なんですね。

・事件の真相について
この事件は殺人とか、殺人未遂とか言われています。しかし、判決がこの事件について、どういうことを言っているかというと、「眞須美さんは、人が死ぬかもしれないと認識しながら、午後12時20分から午後1時の間に亜ヒ酸を東カレー鍋に混入した」と認定しているのですが、事件の中身はこれだけしか書いてないんです。
 眞須美さんがなぜ、そんなことをしたのか、これではまったくわからない。動機については「不明であるが」と書いているのですが、そこが当然、疑問になりますね。
 動機はなんなのか? 誰を殺害しようとしたのか? 殺人事件であれば、ですよ。カレー鍋に混入されていた亜ヒ酸は135グラムですが、砒素は耳掻き一杯が致死量ですから、135グラムというのは大変な量なんです。しかも、それが4つの鍋のうち、1つにしか入ってなかった。これらの点について、裁判所は殺人事件だということを前提にすると、明確な答えを出せないから、「動機が不明」と言うしかなかったんです。
殺人目的だとすると、1つの鍋しか砒素が入ってないのなら、誰が死ぬかわからないんです。
 しかも、午後12時20分から午後1時なら、午後6時からの夏祭りが始まるまでに誰が食べるかわからない。わざわざ殺人など持ち出さずとも、当てはまるものがあるのではないか、と我々は思うんです。なぜ、135グラムもの大量の亜ヒ酸を1つの鍋に入れたのか───それはおそらく、犯人が亜ヒ酸の怖さを知らない人だからではないか、となるわけですね。
 そして、なぜ、犯人が狙った相手が一人じゃなく、不特定の地域住民なのか? それは、犯人は全員じゃなくて一部の人、もしくは不特定多数の人が砒素中毒になればいいということで、被害者は誰でもよかったんじゃないか、となるわけですね。
 要するに、これは毒カレーによる殺人事件じゃなく、食中毒偽装事件じゃないか、と我々は思ってます。げんに、発生翌日まで、この事件は食中毒事件と報じられました。和歌山カレー事件は殺人事件ではなく傷害致死事件です。有期懲役ですから、来年の7月25日に時効が成立します。
 眞須美さんには食中毒を起こさせる動機はまったくありませんから、眞須美さん以外の人が食中毒を起こそうということでちょこっと入れてしまったのではないか。ですから、真犯人は来年の7月25日以降でいいですから、どうか名乗り出て欲しいんです。
 私はこれが事件の真相だと思うんですが、この真相を今日集まったみなさんはどんどん流布して欲しい。そして、真犯人の方は自信を持って出てきて欲しい。そうすれば、我々弁護団は真犯人の方を林さん以上にがんばって弁護するつもりでいます。
 これが今日、私がみなさんにお伝えしたいことです。

 すべての方の話が終わった後、質疑応答の時間も設けました。質問や意見が活発に飛び交いましたが、その一部を以下に紹介します。

   ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

【質疑応答】
──スプリング8の鑑定とは信頼できるのか?
 スプリング8の鑑定は仮に正しかろうが、先にも話したように20万分の1の砒素の行き先を特定したに過ぎません。判決文をみると、一審の裁判官もスプリング8に疑問を持っています。
 しかも、スプリング8の鑑定では、カレー鍋から検出された砒素や林家から見つかった砒素が「同一工場で同一時期に同一工程で製造された」と結論しながら、捜査では、どこの工場で製造されたか、わかってないんです。ですから本当にそんな工場があるのか、砒素の輸入先である中国にも一度行ってみたいと思っています。

──証拠の発見経緯も不自然だということだが?
 林家から発見されたプラスチック容器については、台所のボードに置いてあったことになっています。しかし、最低限135グラムの砒素を入れた容器が、お椀なども入っているボードの中に入っていたのに、家族は誰もそんな容器を見たことがない。とくに、お弁当をつくっていた林さんの長女は毎日、そこを開けていたのに一度も見ていないんです。
 しかも、その容器は事件から2ヶ月もたって、家の中に置かれていた。それが本当なら眞須美さんが大マヌケなのか、家族が全員共犯で口裏を合わせていることになるが、そんなことは絶対にありっこないんです。
 
──上告趣意書の主要な論点と、これから出していく補充書は?
 上告趣意書はこれまで話したように、もう一度事件を見直してみようということでまとめています。
 それから、一、二審でまではなかった新しい証拠としては、捜査機関の内部資料が我々の元に入ってきています。これは和歌山県警が、「自分たちは事件解決のためにこれほどがんばったんだ」という話をまとめているんですが、それを見ていると、証拠として上がってない話も色々出てくるんです。
 たとえば、それを見ると、眞須美さんのお兄さんから警察に任意提出された砒素があるんですが、それが林家から見つけた砒素とすり替わった可能性が大だとわかった。それから、林家の関係者2人を3ヶ月間、保護と称して隔離して、どんどんウソの供述をつくり、林夫婦を保険金サギで別件逮捕したこともわかりました。
 また、県警が公判対策として、付近の目撃者や関係者を送り迎えして、証言をデータベース化して、食い違いのないように作り替えていったこともわかりました。こういったことを県警は勝利宣言として書いているのですが、これらは我々に有利な証拠です。
 また、次女の方が当時書いていた日記の中にも、新証拠が出ています。

──林家から発見されたプラスチック容器から指紋の検出は?
 一切、出てきてません。また、そのプラスチック容器はビニール袋に入っていたんですが、その袋にも指紋はついてない。しかも、このプラスチック容器がおかしいのは、「白アリ薬剤」(=砒素)と黒のマジックペンで書いてあるんです。これでは、わざわざ「私が犯人です」と言っているようなものです。

──現場周辺に他に砒素を使っていた人物は?
 明らかになっているだけでも、現場付近に6人、砒素と関係ある仕事をしていた人がいたんです。ですから、実はこの地域では、砒素はまったく珍しいものではないんです。
 あと、砒素は毒性が強いので、ある時期から使用禁止になっていたんですが、その代わりに新しく出てきた薬より砒素はずっと安くて、雨が降っても流れないという利点もあり、みんな隠れて使っていたんです。ですから、警察が「オタクが砒素を使ってましたか?」と聞いても、誰もが異口同音に「使ってません」という。探しても出てこないものなんです。

──眞須美さんの次女の証言が取り上げられなかったそうですが、家族の証言は法廷ではいつも信用されないんですが?
 そうですね。だから、家族の話を信用させるのは、難しいんです。ですから、本当なら、お嬢さんの証言を否定させる証言を検察に出させればいいんです。しかし、それは検察から出てきていない。にも関わらず、「親子だから」ということで退けられてしまったんですね。

 今回の集会に先駆け、支援会の事務局には林眞須美さんからのメッセージが寄せられました。その全文が会の最後に読み上げられました。

林眞須美さんからのメッセージ

 本日は皆様大変お忙しいなか遠方よりご出席いただきありがとうございます。
1,2審で死刑判決を受け「国家」というあまりにも大きな壁と対峙している私にとって大変力強い激励となります。何としてでも無罪判決を勝ちとらなければ私の冤罪は晴れず、死んでも死に切れないという思いで、死力を尽くして頑張っております。
 とはいえ、私の住まいは畳わずか3~4枚の鳥小屋生活ですから、自分のできることはしれています。そうした意味でも外から支援してくださる皆さんに深く感謝するとともに、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 さて、私の獄中生活も今年の10月4日で10年が経過いたしました。ここでの生活につきましては、経験した方にしか、いくら話をしてもとてもご理解いただけないような状態でして、拘禁性の症状が毎日次から次へと襲ってくるため、日々自分との闘いの連続です。毎日毎日自分に幾度となく叱咤激励するのですが、自分に負けてしまいそうに何回もなります。
 それでも家族や弁護士の先生や支援者の方々からの激励が私の生活上の大きな支えとなり、なんとか過ごせています。今後ともどうか私に力強いご支援をよろしくお願いいたします。

 平成10年7月25日にカレー事件が突如として発生しました。
 そして、最初「食中毒」と発表され、その後「青酸カレー」となり、その後「青酸砒素カレー」とされ、その後「砒素カレー」となりました。この異例ともいえる発表の経緯に「大量無差別殺人事件」とのことで、全国中からマスコミが駆けつけ、和歌山のホテル、旅館、タクシー会社は、フル回転の大繁盛となり、貸しきり状態であったとのことです。薗部の住宅地は、マスコミの人でごった返していました。
 そんななか8月25日の朝日新聞朝刊が、1面トップで、林夫婦と別件の、マージャンメンバーで林宅に居候していた「Aさん」と元会社社長の「Bさん」の二人が、祭り前にも砒素中毒症状だったとすっぱ抜いたことがきっかけとなって、一挙に報道がヒートアップしていきました。

 そして、その8月25日から私の家には、大挙マスコミが殺到し、我が家は24時間マスコミに包囲されてしまうということになりました。その後は、日本中のマスコミが新聞・週刊誌にワイドショーまでもが加わって、私は逮捕まで連日テレビに姿をさらされ「平成の毒婦」とされ、オールマスコミが一体となって「早く真須美を逮捕しろ!」というヒステリックそのものの世論が作られていきました。
 また、私がマスコミに「ホースで水をかけた場面」のみが繰り返し放映されたため、「毒婦」「極悪人」のレッテルが不動のものとされてしまったのです。
 私と主人は6月より、近大病院に入院しており、私は3回目の手術を終えてだいぶよくなり、夏休みには子供たちにも今までしてあげられなかったことをしてあげられると喜んでいました。また2年まえに亡くなった母の供養のための88箇所参りも、7月19日から始めるつもりで準備しており、8月2日からも2回目の参加、また、8月には3女のバトンクラブの近畿大会への参加のための連日の練習、長女の受験のため、この夏休み中の勉強をみてあげることなど、たくさんのスケジュールの予定をたてていました。また、主人も《7月中ごろに》近大病院を退院したところでした。 
 そんな中、突然カレー事件が起こったのです。
 「大量無差別カレー殺人事件」
 この犯人として、10年10月4日長男の小学校の運動会の日に、朝からお弁当を作り始める前に、早朝、日本中が注目する中で、500人以上ものマスコミの方々に囲まれ、上空には10数機以上のヘリコプターがホバ-リング状態で、まるで戦争中の真っ最中で、我が家一軒に日本中が攻撃態勢に入っているというようななかで、「林さんおはようございます」という声がしたので、インターフォンは切ってありましたので、私が玄関を開けますと、逮捕状も示さずにいっせいに、土足で大勢の捜査官が家に勝手に入り込んできました。
 私は、こんなことは生まれて初めてのことなので、アッケにとられ、どうしてこんな全く知らない人たちが一斉に土足で上がりこむのかと大変腹立たしい思いでただ呆然としていました。
 愛しい1男、3女の4人の子供たちは、当時長女が中三で14歳、次女が中二13歳、長男小511歳、三女年中4歳と離れてしまうことになりました。
 この8月25日の事件後、マスコミが殺到し我が家が24時間包囲され、夜間もタバコや飲食のごみの山に包囲され、それのみならず子供たちの中学校、小学校、保育園にまでつきまとい、学校にも行けない状態になりました。
 私は何度も和歌山東警察に電話をしては、マスコミが24時間家を包囲していて外出も出来ず食料の買い物にも行けず、子供たちが学校に行けない状態になっていると訴えても、警察は「報道の自由があるので何も出来ない」という返事ばかりでした。市民の見方であるはずの警察は、子供たちが義務として学校へ行くということに対して、何の保護もしてくれなかったのです。
 それなのにです。警察はマージャンメンバーであり居候をしていたAさん(当時35歳)は、マスコミが自宅に押しかけてくる以前の8月初めより警察官の宿舎で囲われ、寝泊りをして、マスコミに見つからないようにと外出も自由にさせず保護ざれていたのです。
 もう一人のマージャンメンバーであったBさんも同じように8月より、マスコミが押しかけてくる前に、警察官に保護をされ、警察官宿舎で寝泊り、飲食をしていたのです。私がカレー事件で起訴された日まで、この二人は警察に保護してもらっていたのです。しかも、この二人の証言が裁判ではきわめて大きな支柱とされたのです。
 警察は、4人の未成年の子供が学校にも行けない状態なのに保護してくれなかったのに、なぜこのような二人の大人を保護したのか・・・。私はこの差別を許すことができません。
 どうか和歌山県民の方々にも、こうしたこれまでのマスコミ報道に全くなかったことや、全く知られていなかった真実を知っていただきたく、また、本当の林真須美という私を知っていただきたく、カレー事件裁判のことをもっともっと考えていただきたく訴えたいと思います。

 さて、日本の刑事裁判史上でもっとも過酷といえる状況を乗り越えられた4人の方がいます。
 それは、1,2審で死刑、さらに最高裁でも有罪死刑となり、死刑囚として毎日、死の恐怖と闘いながら、30年以上ともいう大変長く厳しい獄中生活のなかから、無罪を叫びつつけ、何回もの再審手続きを経て、「再審無罪」を勝ち取り、死刑台から生還された4人の方です。
 松山事件の斉藤幸夫さん
 財田川事件の谷口繁義さん
 島田事件の赤堀政夫さん
 免田事件の免田栄さん
の4人です。
 斉藤幸夫さんと谷口繁義さんのお二人は、今はもうなくなられていますが、本日は福岡県より免田栄さん、名古屋より赤堀政夫さんのお二人に参加していただくことができました。
 長年、赤堀政夫さんの支援を続けてこられました大野萌子さんにもご参加いただけました。体調がすぐれない中、遠方より私のためにと参加していただき、心より感謝申しあげます。
 今の私よりもはるかに厳しい獄中生活を30年以上も、死刑の恐怖におびえながら闘い、再審無罪を勝ち取った貴重な体験等をここでお話いただけたことに改めて御礼申しあげます。
 裁判官といえども一人の人間です。
 100パーセント完全に正しい判断を神様のごとく下すことはできません。
 なぜなら人間個々それぞれの心証も異なるからです。
 1,2審と、そして最終審の最高裁でも裁判官は無実の免田栄さんと赤堀政夫さんに有罪死刑を言い渡し、確定死刑囚としたのです。
 ここにおられるおふたりは、人間の命を絶つという究極の刑罰である「死刑」という判断は、裁判官も人間であるので誤って下すということもあるのだということを、そしてまた、人の判断に100パーセント完全ということはありえないのだということを証明してくれた、生きた証人であり、私にとりましても力強い支援者のお二人です。
 これからも死力を尽くしてこのお二人の生き方を支えにして頑張っていきたいと思っています。

 本日は皆様どうもありがとうございます。

平成19年12月9日
林 眞須美

ページトップ