散る桜
前述した19日の「お花見」の法要の為に、
前住職(父)が本堂のご本尊の前に、庭に咲いている「八重桜」を生けたのだが、
今朝、「朝のおつとめ」をしながら眺めてみると、すでに2日過ぎて、桜の花びらの色はくすんで汚くなり、半分くらいが散り始めていた。床に花びらが散らばっていて掃除も必要であり、
「もう、片付けるしかないな・・・・」
と思いながらも、
「ああ、これも命の姿だな・・」
と自然にアタマが下がった。
「もうしばらく、このまま置いておこう・・・」
と思った。(片付けをサボっているように見えるけど(苦笑))
ところで、
お花は何の為に供えるのか?
「亡くなった人(仏さま)にお花を・・・・」
という気持ちを表す為にお花を飾るという考えがあるが、
じゃ、
なぜ、
お花の花びらを「こちら側(お参りしている人)」に向けるのか?
「仏花」は、仏様に供えているスタイルをとっているから、もちろん、仏様の教えに出逢った喜びをあらわし、仏の徳を讃える為の荘厳(おかざり)である。
でも、さらに言うと、
実は、
「花のいのち」を通じて、私が「いのち」を学ぶ為にある。
枯れるから、
散るから、
いのちの躍動感がある。
・今、いのちが「お花」を生きている。
・今、いのちが「わたし」を生きている。
・今、いのちがあなたを生きている(真宗大谷派・親鸞聖人750回御遠忌テーマ)
造花もフラワーアレンジメントも見事な芸術的な作品で奥深いけれど、
「仏花」は、やはり、生花(生きている花)でなくてならない理由はここにある。
『散る桜
残る桜も
散る桜』
である。
医療が発達して、「部品」さえ取り替えれば、いのちが長くなるような「錯覚」があるのが現代かもしれない。そして、その文明を享受している私・・・。
でも、
「死は敗北」
という価値観を見直さない限り、
私たちは、100%敗北に向かう。
「散る」ことも含めて、私のいのちだ・・・と
今朝、お花が僕に教えてくれた。
そう思った。
まだ散りたくはないけれど・・・・(笑)
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