■□ call my name □■

Call my name





 あなたは、世界に何を望みますか?
 初めて会った時、ユイはそう問い掛けた。
 一介の退魔僧であるゲンドウにとっては、応えようの無い問いである。
「全ては御仏の意思ですから」
 と、僧であるなら誰しもが答えるであろうものを返しただけである。
「ありがとうございます」
 花のような笑みを浮かべたユイに、ゲンドウは目を奪われた。だから、その後に呼び止めて、言い直した。
「本当は、分かりません。御仏が救えるものが何かすら、まだ分かっていませんから」
 ユイは驚いた顔で固まった後、ころころと笑った。
 それが始まりの合図だった。いや、もっと前から始まっていたが、ゲンドウの始まりと世界の始まりだった。



西暦2001年 
京都


 シンジが産まれる直前、ゲンドウは病院の待合室で七十本目になる煙草をいらいらとふかしていた。
 医師たちは苦笑していたが誰しもがそれを祝福していた。
 看護婦の悲鳴が聞こえたのは、七十六本目に火を点けた時のことだ。煙草を灰皿に放り込んで分娩室へ駆けつけた時、そこに神聖な霊気が満ちていた。
 彼は自身を天使だと名乗った。
 ユイは気を失い、医師たちは天使よりも産声すら上げないシンジに怯えていた。
 ゲンドウは見てはいけない、自身の霊力が直感としてそれを告げていたというのに、我が子を見た。
 悲鳴を上げなかったのは奇跡だろう。
 そこにいたのは古事記に登場する蛭子を連想させられる人間のパーツだった。臓器はびくびくと痙攣しながら、視神経を剥き出しにした目がぎょろりとゲンドウを睨み、声らしきものを上げようとしている。
「あ、あ……」
 それは確かに、何かを言おうとしていた。
 それは確かに、知性を有していた。
『ト……ウサ……ン……』
 シンジの瞳から涙が滲み出る。
「なんだ、これは……」
 ゲンドウがよろめいた時、頭にあったのは仏罰という言葉だ。
『碇ゲンドウよ、この子は人ではありません。これで生きていられるのは、人では無い証拠です。見なさい、この子はすでに妖気を発している』
 ゲンドウは天使の声を遠くに聞きながら、その妖気を感じていた。
 なんということだろう。これでは、妖魔の類ではないか。
「な、なぜだ」
『碇ユイに全ては起因しています。彼女は人ではないのです。異類婚の罪は子に受け継がれるのです』
「知ったことを言うなっ、西洋の悪魔め。姿を現せっ」
 ゲンドウは印を組み、天使に気を叩きつけた。
『待ちなさい。この子の産まれた意味はあるのです。この子は生まれながらにして無限妖力を持っています。この妖力あれば、肉体を維持させることもできます』
「何を言っている」
『分からないのですか? 彼は自身の前世とも呼ぶべき苦しみに囚われているのです。そしてここでもまた同じ運命を送らぬため、あなたに手を差し伸べているのですよ』
 その瞬間だろう。
 碇ゲンドウ男のもう一つの記憶が解放されたのは。いや、昔から気付いていたのかも知れない。
「どうすればいい」
『あなたは今より一人の修羅となりなさい。そうすれば、未来はきっと』
「お前は何者だ?」
 鉄の意志がゲンドウには生まれていた。
『私は、世界の歪を正すために来た者です』
 それだけでもう充分だった。
「分かった……。どうすればいい?」
 シンジは泣き叫ぶことなくそれを見ていた。



西暦2015年 十二月某日 午後
第三新東京



 裏死海経典に綴られた使徒は残り一体となっていた。
 綾波レイ、総流アスカ、重羽童子、かれらの力は死線を潜り抜ける度に強くなる。七大天王に数えられる強敵たちと互角かそれ以上の力を身に付けていた。
 重羽童子に至っては、もはや手をつけられない強さだ。アスカとレイが協力したとして、重羽童子の無限妖力に対抗できないだろう。
 もう使途など敵ではない、そんなムードが流れている今、司令室で異常な事態が起こっていた。
 司令室に現われたシンジは、父に白雉のような笑みを向けている。
「父さん、イヴが欲しいんだ。母さんにも父さんにも渡さない」
 ゲンドウは引き出しから取り出したリボルバーを向けるだけだ。
「冬月、動けるか?」
「ああ、しかし、シンジくんは強いな。こんな隠し玉を持っているとは思わなかったぞ」
 冬月はシンジの放った妖力圧縮光線によって、右腕を失っている。銀の魔術師にさえ防ぐこともできない出力だ。
「皆を避難させろ」
「死ぬなよ、碇」
 ゲンドウは薄く笑い、冬月が空間転移で姿を消すのを見送った。シンジはあえてそれを見送ったのだろう。
「シンジ、ではないな」
「うん、シンジはシンジなんだけど、今までの、僕の残り滓とは違うよ。縛妖鎖との因縁がなくなって、僕もようやく意志を取り戻せたんだ」
「そうか……、やはり使徒だったか」
「父さん、あの時なんで僕を殺さなかったの?」
 遠い追憶がゲンドウを苦笑させた。


西暦2001年
京都


 碇シンジの持つ無限妖力にコアは無い。
 コアすら無く、その肉体には妖力が備わっていた。不具の体ではあるが、その妖力に惹かれてやってきた妖魔をいとも簡単に消滅させるだけの力があった。
 ユイは産後の昏睡から目覚めた後、何度もゲンドウに謝った。
 自身が異仮と呼ばれる、千年の昔から黄泉路を守る一族であること。そして、人と呼べない遺伝子を持つこと。ゲンドウにすら、本来の醜い姿を隠していたことを。
 ゲンドウはそれでもユイを愛し、シンジを愛した。
 シンジは不具の肉体をLCLに浸すことで生きていた。意志疎通も可能で、三歳にしてその知性は並外れていた。天才と言ってもいいだろう。退魔の術を妖力で自在に操り、知力も大学生なみにあった。
 ゲンドウの知る限り、シンジは泣いたことが無い。初めての命の危機、東方天女葛城ミサトに命を狙われた時も、泣くこともなく、死を受け入れようとしていた。その場はミサトが引いたことで助かったが、ゲンドウはここで初めてシンジを恐れた。
 たとえ、別の世界の記憶を十四年分持つとしても、これは異常ではない、と。
 死を身近にして生きてきたとはいえ、シンジは少年だったはずだ。葛城ミサトの殺意におびえることなく薄笑いを浮かべていたのはなぜだ。
『父さん、僕はまだ生きてていいみたいだね』
 テレパシーで問い掛けたシンジのそれは、どこまでも非人間的だった。
 母親であるユイはそれに早い段階で気付いていた。
 結界の守護を先代から引き継ぐ前に、ユイとゲンドウはシンジを封じることに決めた。
 赤木ナオコと先代天狐、さらに東方天女に協力してもらい、シンジの妖力を押さえ込むことができた。溢れ出る妖力を人の体を維持するために使わせ、さらにその意識を無意識の海に封じ込めた。
 抵抗したシンジは、魔女であった赤木ナオコを焼き殺し、ユイの肉体を半壊させた。それでも、なんとか成功したのだ。
『父さん、母さん、世界が何を欲しているのか分からないのか』
 その声を忘れたことは無い。
 シンジの魂は、その意識は人のものではなかった。あれは、悪意を持つ祟り神と同じ威圧感を備えていた。
 それでも、その邪悪な意識だけを破壊したのだ。ただの肉人形になったシンジに生きることを教えたのは贖罪のつもりだったのかも知れない。



西暦2015年 十二月某日 午後
ネルフ


「そうだな、私はお前を殺したくなかった」
 シンジは笑うのを止めてゲンドウに向き直る。
「なぜ? 僕は人間じゃない」
 ゲンドウはリボルバーを放して、机に置いた。
「仏教は、全ての人が仏になれる教えだ。私は、それを信じた。それに、我が子を殺せるものか」
「そうか。父さんは、やっぱり前と違うんだね。殺さなくてよかった。でもさ、僕はやっぱりシンジっていう人間なんだ。重羽童子は僕とは違う存在だよ、それは意外だったかな?」
「黄泉路を通ってきたシンジではないのか、重羽童子は?」
「違うよ。アレは、僕が肉を現世に持てない理由を作った存在だから、さ」
「……そうか」
 ゲンドウは考えるのをやめてシンジと向き合った。
 独鈷を取り出して印を組む。
「だが、イヴは渡さん。世界を破滅させる訳にはいかんのだ」
「創生の意味がまだ分からないの? あの世界が滅んだのは、人の時代が限界に来てるからだ。僕はリリスの役をするよ、だからカヲルくんが来る前に世界を混沌に還す」
 あの記憶がたしかなら、あの世界にいたのはアダムとリリスだ。
 イヴはこちら側にいた。
 対極、陰陽、世界にもそれがある。
 どちらが陰でどちらが陽なのか、それは分からない。
「伏儀と女禍になるつもりか、シンジ」
「綾波は女禍になったじゃないか。それなら、僕は伏儀にならなきゃいけない。あの世界を滅ぼした僕には、それしか残っていない」
 中国で言う所の、アダムとイヴ、それが伏儀と女禍だ。二人がまた出会う時、それは世界が再構成される時だ。
「シンジ、なぜだ。なぜ、お前はそんな宿命を背負った」
「自分の残したツケを払いにいくだけだ。父さん、イヴを渡せ」
「できん」
「……やりたくなかったよ」
 独鈷に霊気を集中させ、狙うはシンジの頭部。
 十年間、シンジを殺す時のため、気を練り続けた。子を殺すためにだけ練り上げた霊気を独鈷に込める。
「父さん」
「シンジっ」
 独鈷を放つ前に、シンジの掌打で壁に叩き付けられていた。
 なおも独鈷を放とうとしたゲンドウの手をシンジが止めた。
「さよなら、父さん」
「シンジ、……父らしいことは何一つしてやれなかったな」
 最後に、シンジの涙を見た。ゲンドウは間違いを見つけた。ずっと、シンジは異常だと思っていた。だが、違う。我が子は、自身と同じく泣かない道を選んだだけだ。自らの大義を信ずる道を選んだのだ。
 ゲンドウの意識は闇に飲まれた。



 重羽童子は厳重にかけられた封印を力づくで破壊すると、ネルフの職員食堂へ向かった。
 遅い昼食を取っていた面々が驚く中で、不運にも居合わせた青葉の首根っこをつかみあげる。
『おい、金を貸せ』
「ちょ、ちょっとカツアゲは勘弁してくれよ。なんだ、何が欲しいんだ、車とかは勘弁してくれよ」
『メシだ。食っとかねぇと持ちそうにないんでな』
 メニューの端から持ってこい、と一度は言ってみたいセリフを青葉は言わされることになった。


 学校にもいかず、アスカは食堂でレイの愚痴を聞くはめに陥っていた。
 最近シンジの様子がおすしいことから始まり、重羽童子をどうしたらいいのかと延々と語られているのだ。
「私だって、分かってはいるのよ。私の記憶にある綾波レイは私じゃないっていうのはね。でも、重羽童子からはあの碇くんの匂いがするのよ。それにね、私は今までどんな妖魔だって支配できたのに、重羽童子だけできなかったのよ。最初はそれは嫌な化物だと思ってたけど、意外と優しいもの」
 言い終えたレイに、すっかり冷めたコーヒーをスプーンでかき混ぜていたアスカはようやく向き直る。
「そんなこと知らねーってーの」
「総流さん、あなたここでは二十六歳よね。だったら、私よりもっと大人な」
「っていうかさ、あんたの夜這いが成功したら条例引っかかるじゃない。それにお子様は映画館にでも行っときゃいいのよ」
 最初はそれなりにレイの話に付き合っていたのだが、正直ウザくなってきた。
「やりたい盛りなのは分かるけど、重羽童子の入ったらあんたの裂けちゃうわよ」
「覚悟してるわ」
「そんなこと言われてもなぁ。あっ、来た」
 レイが首をかしげた時、重羽童子が食堂へやって来た。一応は厳重に封印しているのだが、S2機関による無限妖力を取り戻した彼にはそれすら意味をなさない。
「ど、どうしよう」
 レイが目の前でオロオロしている姿を見るのは、アスカにとっても愉快だった。幼稚園児の恋愛みたいだが、至って本人は真面目だ。
「隣に座ってご飯食べてきたら?」
「で、でも……」
 アスカはウザいと言いそうになるのを我慢して、レイに微笑みかけた。お子様の相談から解放されるならこれでいい。凶暴で凶悪で狂気に支配された化物、という認識は今ではなくなっている。あの鬼自体、悪いものとは思えなかった。善ではないが悪でもない。最も性質の悪い人間に近い位置の鬼。
「はーい、いってらっしゃい」
 レイはちらちらとアスカを振り返りながら重羽童子へ近づいていく。
 青葉の会計で、膨大なオーダーを通しているようだ。そういえば、まともに重羽童子が何か食べるのを見るのは初めてだ。
 予想の通り野獣のような食い散らし方で、少し笑ってしまった。
 レイは隣に座って話し掛けようとしているものの、重羽童子は聞いていないし青葉もにやにやとそれを見守っている。
「居心地いいのよねぇ」
 アスカはつぶやいて、もう一つの記憶を思い返した。
 きっと、子供のころの自分なら、こんな状況下では笑えなかっただろう。優しさを求めれば、受けてきた優しさが見えない。悲しめば、惨めになる。
 もし、あの世界へアスカが行けたとしたら、レイを笑わせてやってシンジを叱ってやろう。救いたい? いや、そんないいものではない。ただ、とても納得できないだけだ。
「ミサト、か」
 葛城ミサトだけがこの世界で全てが違う。
 ただ一人、縁の在り方が違う。縁とは、宿命により紡がれる糸のようなものだ。霊力を持つ者になら、その抗えないものを感じ取れる。ミサトだけが、その縁が奇妙に違う。むしろ、アレは無理にこの面子をネルフへ誘導させたかのような、そんな妙なものがある。
 と、重羽童子を見ると、大盛りラーメンのスープを飲み終えた所だ。なんとなく見ているとずんずんこちらにやってくる。
『アスカ、シンジを殺したら怒るか?』
 そう問われてもアスカには答えが無い。ただ、この世界のシンジはどこか違っている。あれは人間ですら無いような、そんな気がする時がある。
「……あいつが使徒っていうのは考えにくいけど、なんかあるの?」
『怒るか聞いてるんだぜ』
「怒るわよ」
 以前のアスカならなんと答えただろうか。
『そうか』
 重羽童子は口元で笑った。牙が覗くが、それがセクシーに見えた。レイの変な趣味が伝染ったのだろうか。
「あの世界のあたしと、今のあたしは違うの。オーケー?」
『そうだったな。区別のついてねぇ阿呆をぶん殴ってくる』
 アスカは問い質そうとは思わなかった。ぶん殴るヤツがいるだけの話だろう。
「ま、がんばってね」
『ハ、もっと昔に言われたかったぜ』
 この場合はいってらっしゃいが正しいのかも知れないが、レイが怒りそうなのでやめておいた。
 重羽童子が立ち去ってから、鬼の形相のレイがやってくる。
「そ、総流さん、どういうこと?」
「あ、そうだ。アスカでいいわ、ね、レイ?」
 レイの怒りが爆発しようとしていた。



西暦2015年 十二月某日 午後
ネルフ セントラルドグマ



 護衛を打ち倒し、幾多の防壁をいとも簡単に突破したシンジはセントラルドグマにたどり着いていた。
 LCLの地下湖とでも呼べばいいのだろうか。そこで、シンジは瘴気を吸収し、妖力へと変換する。消耗は無く、この場所での敗北はありえない。
『シンジ、目覚めてしまったのですね』
 LCLが人の形になり、それがユイの形を取った。
「母さんか、黄泉路を開けさせてもらうよ」
『シンジ、あなたでは黄泉路を閉じることも向こう側へ行き着くこともできません』
 シンジが小さく笑みを浮かべた。
「フ、ハハハハ、無意識の海に幽閉されている間に、僕は色々な知識を手に入れたよ。無意識の海には、霊力とか妖力なんかじゃ測れない存在もいたしね」
『……シンジできることならば、あなたを殺したくなかった。私は母ととしては失格だけど、あなただけはどんな形でも生きていて欲しかった』
「今さら、何を言うんだよ。あなたは生きた証なんかになりたくて、それで僕を道具にしただけだ。綾波のために死ね、碇ユイ」
『何を言っているの? それは私ではないわ。そりを欲したのは影の世界の私なのに……。シンジ、あなたはこの世界のシンジなのよ』
「もういい。こんな世界、僕は認めない」
 ユイはシンジの狂気がどこから来るものか、見誤っていた。
アレは、もう一つの世界の記憶と自身を混同してしまっている。
『……全く、親子そろって男は本当に頭が悪いわ。私たち異仮の一族は、世界そのものを作り直せるのに。わざわざ破滅を選ぶなんて』
 ユイの気配が殺気を帯びたものに変わる。
「やっぱり、母さんは悪者な訳だ」
『悪? 善? それは歴史が決めることよ。シンジ、いいから死んでしまいなさい。あなたを産んだのは失敗だったわ』
「ムカツクよ、母さん」
 ユイはにぃと笑うとLCLに戻った。次の瞬間、水面から飛沫があがり、重羽童子と同じ気配が現われる。
「量産型エヴァンゲリオン、切札がそいつか」
『そう、黄泉路から流れてきた肉を使って蘇らせたゴーレムよ。あなたと重羽童子を使って地獄界曼荼羅を描くに必要な、ね。予定には早いけれど、ここで始めさせてもらうわ』
「僕が昔のままだと思うなっ」
 敵は人間サイズの量産型。あまり分のいい話ではない。だが、シンジに負ける気は毛頭無かった。
「火之迦具土(ヒノカグツチ)ぃっ」
 シンジの右手に炎が宿り、それは燃え盛る剣へと変じた。伊耶那美命より生まれた炎の神であり、その炎から親殺しを宿命づけられた神、それが火之迦具土神である。
『シンジ、どこでそれをっ』
「親殺しの宿命を持つ僕のガーディアンエンジェル、それがヒノカグツチだ。母さん、イザナミのように死ね」
 襲い掛かってきた量産型を斬り伏せると、ヒノカグツチを横凪ぎに振るう。
 熱風がドグマを満たし、ユイの張っていた結界が揺らぐ。
『まさか、カクヅチを持っているなんてね……。別の世界へゲートを開いたのかと思ったわ』
「ちいっ」
 背後の気配にヒノカグツチを叩きつけるが、それは簡単にかわされた。量産型は起き上がっていやらしい口を開いて笑っていた。
「この結界を叩き壊して、お前を引きずり出してやる」
『ふふ、その程度の妖力では何もできはしまい。諦めて、贄となるがいい』
 量産型はさして強くないが、シンジに斬られる度に速さを、強さを増していく。
「こいつ、こんなヤツにアスカは負けたのか」
『狂ったまま死になさい、シンジ』
 量産型に気を取られている隙に、背後から飛んできた何かがシンジの胸を貫いていた。
 時が止まったかのようにシンジには見えた。自分の胸から生えているのは、確かにあの赤い槍である。名を、ロンギヌスといったはずだ。
 後ろを振り返るが、槍を放った母の姿は無い。
「母さん、卑怯だぞ。姿くらいみせろよ」
 言った後、大量に喀血した。
 妖力をロンギヌスが中和していく。それはシンジにとって完全な死に至るプロセスと言えた。
 元々臓器だけの不具の体。妖力で皮膚と筋肉組織を作り出していたのだ。妖力が中和されるということは、肉の塊に戻ることである。
「ちくしょう、こんな所でっ、こんな所で死んでたまるかっ」
 膝をついたシンジの瞳に涙が浮く。
 目の前にはにたにたと笑う量産型。
『阿呆が、こんな所に閉じこもってるヤツが切札以外に奥の手も持ってんのは常識だろうが』
 その声に顔を上げると、重羽童子が立っていた。ミイラ男にしか見えない彼は、シンジをつまらなそうに見下ろしていた。
「お前は……なぜ、ここに」
『手前が一人でこんな穴倉に来てっからだろうが。それよりな、お前なんて名前の野朗はいねぇ。俺の名を言ってみろ』
「重羽童子……、お前も僕の敵だ。母さんの魂を持つお前は敵なんだ……」
『勘違いしてんじゃねぇよ。俺は俺だ。それからな、俺を重羽童子と呼ぶんじゃねぇ。お前は今までそんなふうに呼んでなかっただろ』
 あの白雉のような自分の記憶はある。自身の残り滓でしかないアレは、彼を友達のように扱っていた。
「……」
『さあ、俺の名を呼べ』
 この鬼の真意が分からない。だが、あのシンジの記憶にあるこの鬼は、何があっても勝ってきた。
「エヴァ、さん」
『そうだよなぁ、お前は俺じゃねぇよ。だから、前の世界のことなんて気にするんじゃねぇ。あれは、俺がやっちまったんだからぁよ』
 言うと同時に、重羽童子は迫ってきた量産型を蹴り倒した。シンジの背中から槍を引き抜くと、倒れた量産型に槍を突き刺して地面に縫い止めた。
『重羽童子、なぜシンジを助ける?』
 ユイの声が響いた。
『おい、ババァ、姿くらい見せやがれ』
『重羽童子、縛妖鎖を必要としない貴様にもはやシンジは必要ないはず、なぜ助ける? いや碇シンジのなれの果てよ、何故に人に味方する』
 重羽童子は低く笑った。
『お前にゃわかんねぇよ』
 重羽童子はもがく量産機をしばし眺めた後、その頭を踏み潰した。びく、びく、と痙攣してから量産機は腐り落ちた。
『……その力、素晴らしい』
『碇ユイ、手前どこにいやがんだ?』
 しばしの沈黙の後、ユイの笑い声が響いた。
『アハハハハ、気付いたか重羽童子。私はここにいない。お前のての届かない場所にいる。シンジも同じよ、どうやったって私から逃れることはできないわ』
『勝手に言ってやがれ。手前は俺が殺す。そう決まってんだよ』
 重羽童子はシンジを担ぐと、ドグマから立ち去った。




西暦2015年 十二月某日 午後
ネルフ



 シンジの肉は、妖力で作られた仮初のものだ。今まで縛妖鎖とつながり傷を共有しても死に至らなかったのはそこに理由がある。
 重羽童子の妖力を分け与えると、深かった傷はすっかりふさがった。
 今は、ゼルエルと戦ったジオフロント内部の丘にいる。
「情けをかけたつもりか?」
『シンジらしくしやがれ、阿呆が』
 シンジは唸ると、地面を叩いた。
「あれの本体はどこにいるんだ」
『ケッケッケ、本体を叩かねぇとあの結界し解けないよなぁ』
 黄泉路を塞ぐ結界を解くには、ユイを殺す以外に道は無い。
「何がおかしいっ。あの世界で、綾波はまだ待ってるんだっ」
『それは手前の記憶じゃねぇっ。あの世界の碇シンジの記憶だっ、阿呆がっ』
「な、何を言っている。僕は産まれた時からあの記憶を持っていたんだ。僕は、あそこから来たんだ」
 重羽童子はため息を吐くとシンジあごをつかむ。
『よく聞け。あの世界の綾波はな、お前の考えてるようなもんじゃねぇ。コアを手に入れて使徒になったヤツはな、人間じゃねぇんだ。砂漠に放り出された魚みてぇなもんなんだよ』
「何を言っている」
『使徒ってぇのはな、お前みたいに贖罪がどうとか考えるようなもんじゃねぇってことだ。そろそろあいつが来る。お前はどうしたい?』
 シンジには重羽童子が何を言っているのか分からなかった。だが、次の瞬間、ネルフに警報が鳴り響いたのである。
「これは、使徒が来たのか」
『お前もよく知ってる野朗だ』
 重羽童子は立ち上がると天蓋を見つめた。
 亀裂から白い光が溢れ、天蓋に穴が開く。
そこから降臨したものこそ、渚カヲルであった。
「久しぶりだね、シンジくん」



西暦2015年 十二月某日 午後
ゼーレ マルクト




 キールは目の前に広がる惨状が信じられず笑うしかなかった。
 何千という妖魔の死骸が血の海を形作っている。
「な、なんということだ」
「ごめんね、キール」
 隣にいたミサトは、二百年を共に歩んだキールですら初めて見る笑顔を浮かべていた。
「七大天王は役に立ってくれたわ。エヴァだけだと補完計画をこちらでコントロールできないし、彼らが必要だったのよ」
 仲間である妖魔を虐殺していた者が、血の海からミサトの下へ戻ってきていた。
 ミサトの記憶の中にある量産型エヴァンゲリオンと寸分違わぬ彼は、女王に忠誠を誓う騎士のごとく膝をついて頭を垂れている。
「彼は、元は朱天童子よ。いい男が台無しだけど、量産型になれるほどの妖魔ってちょっち少ないのよね」
 量産型たちが血の海から這い出してくる。
 朱天童子であったもの、茨木童子であったもの、バックベアードであったもの、義経であったもの、四体の量産型がミサトの下に集っていた。
「と、東方天女、お前はこのためにゼーレを」
「そうよん。ゼーレにはちょっち恨みもあったしさ。ま、アタシ的には計画の内なんだけどね。キール、これ何か分かる?」
 ミサトは懐から試験管に収められた胎児のように見えるものを取り出した。キールがあの世界の記憶を持っていれば、それをアダムと呼んだかも知れない。
「南極のさ、前の世界で槍のあったとこを捜したらこれを見つけたのよ。あと、槍自体もアタシが持ってるし、準備はパーペキってやつよ」
「や、ゆめてくれ、なんでもガッ」
 キールの頬をつかんで口を開けさせると、それを流し込んだ。
 機械仕掛けの車椅子から転げ落ちたキールの肉体は、凄まじい速さでそれに侵食されていく。元はキール・ロレンツという男であった量産型エヴァンゲリオンが出来上がるのに、そう時間はかからなかった。
「アハハ、長かったわ。千年だもの」
 滝夜叉姫と加持には逃げられたが、五体の量産型がいれば問題ない。ネルフについたら、アスカとレイも量産型にしてしまえば数は足りる。
 死体と量産型だけになったゼーレで、ミサトは僧衣を脱いだ。
「やっぱこれがしっくりくるわ」
 自前のジャケットにタイトスカート。あの世界の、ネルフ出勤時のベーシックスタイル。
「早く還らないと。ペンペンにご飯あげなきゃね」
 独り言を漏らして、ミサトは薄く微笑んだ。