Call my name
西暦2015年 十月某日 昼
第三新東京
巨大なプリズム、使徒ラミエルの放った霊気圧縮光線により、国連軍は敗退した。ネルフの要請で出張った部隊は、まさに犬死である。その無念を持った悪霊は、輸送途中の霊機に取り込まれた。
時間を潰すため、漫画喫茶に入ったことが一度だけある。
有線が流れる中、一言も口を開かずいい大人たちが漫画を真剣に読んでいる光景は、なんだか崇高なものを感じさせた。図書室で勉強している連中の顔色と比べて、彼らはその数倍も真剣に没頭しているからだ。
クラスメイトの矢崎くんは秀才で、友達のいない彼は図書室で勉強をしていることが多い。暇つぶしに入った図書室で見ることのできた、ひたすら勉学に励む彼の必死さは覇者を目指すそれであり、そこにあるのは張り詰めた戦場の空気だった。それと比べて、この漫画喫茶に流れる緩やかな崇高さはどうだろう。読み古されて手垢のついた漫画本を開き、絵の世界に多人数が没頭する異空間、ここには僧侶が悟りを開こうとして写経に望むものと同じ静謐があるのだ。
綾波レイは虚偽の生理痛を理由に学校を早退し、二度目の来訪となった駅前にある雑居ビルの六階という立地の漫画喫茶で、安野モヨコという作家の表題作を読んでいた。
と、その時警報が響いた。
携帯電話でネルフにコール。すぐに戻るように言われ、ネルフから渡されたAMEXのゴールドで支払いを済ませ、地下シェルターへの列に並んだ。地下鉄の駅からシェルターにはいける、そこからネルフへと進むことも可能だ。
専用列車を使って本部に到着すると、ミサトが出迎えた。
「レイ、使徒が迫っているわ」
「……重羽童子はいないと聞いています」
「そうよ、だから彼無しで進めるわ」
ミサトはサングラスを外さず、いつものように慇懃無礼な態度でレイに微笑みかけた。
ミサトの笑みを初めて見たレイは、なぜか衝撃を受けた。笑う、なんてことをしない女が笑っている、それは単純な驚きだった。
赤木リツコはミサトの建てた作戦に一言も文句を言えないでいた。
政財界に独自のコネクションを持ち、ネルフという組織を作り上げた謎の女、それが葛城ミサトだ。以前に、政府の要人が彼女を比丘尼と呼んでいたのを見たことがある。司令の態度からしても密教系の人物なのだろうが、それを測り知ることはできない。全てにおいてトップシークレット、それが葛城ミサトだ。
「では、ヤシマ作戦の概要を説明します」
リツコは内心に募る不信を出さず、会議室に響くほど声を張り上げた。レイを見て、なぜか安心する。自分たちの作り上げた彼女は、唯一葛城ミサトの知らないものだ。
会議に出席しているのは、ミサト、リツコ、レイ、それだけだ。広すぎる会議室に全く意味は無い。
「裏高野から譲渡されたヴァジュラを使用し、日本中の寺社仏閣教会の霊力を集めます。魔法陣都市として設計された第三新東京の龍脈を通してこれをヴァジュラに集中させ、使徒ラミエルを一撃で破壊します」
モニターにヴァジュラの映像が映った。
元々は大威徳明王像の元に安置されていたそれは、巨大な柱と言っていいほどの大きさである。伝説にある明王や巨人の類、言い換えるならアスラや蚩尤(しゆう)が使ったものなのかも知れない。出所は明らかではないが、とにかく霊力を充填して撃ちだすことのできる兵器なのである。
「私が、それを使うのですか」
「ヴァジュラは持ち主を選ぶのよ。大極の乱の中でいつもそれは力を発揮してきたわ。レイ、ヴァジュラを自分のものにしなさい」
ミサトはさらりと言ってのけた。
言葉の通り、第二次世界大戦においてはヒトラーがそれを所有していた。西洋魔術ではそれを使うことはできなかったが、ヒトラーに資格がなかったというのが真相だろう。
「……了解しました」
レイにとって、それは最後のチャンスだ。
「この作戦は、失敗した場合重羽童子が来るまで我々だけであの巨大な物体を相手にすることになるわ。レイ、しっかりね」
リツコは念を押す。が、レイは無表情のままだ。
「じゃあヴァジュラの元に案内するわ」
ミサトの言葉に従い、レイは会議室を出た。ここからあまりにも辛い道のりが控えているとは、その時は夢にも思わなかったのである。
西暦2015年 十月某日 昼
ネルフ本部 第二科学結界
重羽童子を閉じ込めたものと同じく、近代科学と魔術の融合である檻に、ヴァジュラは安置されていた。
裏高野、高野山で千年の昔から退魔業を生業とする僧たちは、厄介払いができたと言わんばかりのお為ごかしと共に、それを譲渡した。どういうルートで日本に持ち込まれたかは分からないが、それは確実に使い手の無い兵器であった。
「レイ、失敗すれば確実に死ぬわ。見えるでしょう、あなたなら」
レイの目には、巨大な古代遺産から発せられる霊気と、近くの霊を食い荒らす牙を持った口が映っていた。それは、凶暴な妖魔、などというレベルではない。呪いなどというレベルを超えた、まさに荒ぶる神である。
「はい……とても強い力です」
神聖さも邪悪さも無い、それは言うなれば妖力と霊力の中間の力である。
「覚悟はいいかしら?」
サングラスのために、ミサトの表情は見えない。
霊力のある瞳でも、ミサトの因果や気は全く見えない。まるで死人だ、だが確かに生きているし、その声に感情は含まれている。レイから見ても、ミサトは不気味だ。
「はい」
ミサトが無線で指示すると、扉が開いた。
そこに一歩足を踏み入れたレイは、ヴァジュラから発せられる力の牙を受け流し、パンツが見えることを気にせず、座禅を組んだ。
物や妖魔を支配下に置く場合、それは意識での戦いとなる。
妖魔や霊器の過去現在未来を掌握し、それの主人となるのだ。因縁が結ばれ、それらがしっかりとした輪になることで支配下における。重羽童子は最初からシンジと結ばれていた、だが、このヴァジュラはどのような因縁も持っていない。
ヴァジュラもレイの意識に反応し、牙をひっこめた。意識が繋がっていく。
西暦2015年 十月某日 昼
綾波レイとヴァジュラにおける内宇宙
そこは荒野だった。
踏み荒らされた大地とそこかしこに突き刺さる槍や刀、何年も前から野ざらしにされている異形の白骨がそこかしこに放置されている。
『我の識を読まんとする者は誰か』
声が響いた。
レイは自分の姿を強くイメージし、いつもの制服姿でそこに現われる。
「私は綾波レイ、人にして人に非ず物にして物に非ず者」
『汝、我が眠りを妨げるのは何故か』
「あなたを使って敵を倒すから」
荒野が揺れ、ひび割れた大地から、牛の頭を持ち、六本の腕と人間の体を持つ異形が現われた。
『我が力をそのものとした者、黄帝を打ち倒さんとした蚩尤のみなり。強き力を持つ反逆の徒、それに匹敵いる力が汝にあらんや?』
ヴァジュラが主人と共に戦った姿が脳裏に送り込まれる。神々が戦ったとされるその光景だけで、並みの依巫なら脳が沸騰していただろう。
「……昔のことは関係ない。あなたを使いたい」
『汝に資質なきなり。我をねじ伏せること適わず』
蚩尤が大声で笑った。
ただの幻影だ。過去の記録から再生された映像にすぎない、そう分かっていても古代の邪神は強力だ。
『汝に明王たる資格無し。脆弱な魂魄に我は惹かれぬ』
「私は弱くないわ」
レイは蚩尤を睨みつけた。
『それが汝の姿か?』
ハッ、として自分の服装を確認する。手には包帯、顔には眼帯、服はあの薄汚れたYシャツだけだ。生まれたばかりの時に暮らしたあの風景を思い出す。
『汝の魂魄、その全てが脆弱なり。それが汝の姿なり』
嫌な思い出が蘇る。
西暦2005年 四月某日 深夜
ネルフ
そこで目を覚ました時、碇司令を最初に見た。
私のことをユイと呼び、ほんの少しだけその瞳が優しくなっていた。だが、私はそんなことは気にかけず、あなた誰、と聞いた。
今思えば、ユイという人のフリをすれば必要とされのかも知れない。
私は消えた人の魂を呼び戻す反魂の法により生まれた『何か』だ。
綾波レイ、レイは零であり霊。零は存在しない数だ。霊は目に見えないけど確かに存在している。
碇ゲンドウにより、依巫としての教育を受けた。自身の出自、それはただの肉人形に何かの魂が宿ってしまったものと認識した。
人は生きるということに対して目標があるらしいのだが、私にその意識は無い。自身の価値について考え、碇ゲンドウ大僧正の言うように、有益な存在になるということを仮に目標として定めた。
妖魔妖怪、さらに霊力を持つアーティファクトの類を操るのは自分に向いていた。人でも妖魔でもなく、『何か』であるためにそれらを広く操り支配できる。
有益であるために、私は存在しよう。
『ユイ』でなくとも存在としての価値をしらしめてやろう。
西暦2015年 十月某日 昼
綾波レイとヴァジュラにおける内宇宙
はっ、とレイは追憶から現実に戻った。現実といっても、未だここはヴァジュラと交信する意識の世界だ。
荒野は静まり返り、蚩尤の姿をとっていたヴァジュラはもういない。
「あなた、だれ……」
代わりに、綾波レイそっくりの少女がにこにこと笑っていた。レイの背筋に悪寒が走る。
『あなたの識を読んだわ。私はあなた、悲しみに充ち満ちたあなたの影』
「違う、ここはあなたの作り出した世界よ」
荒野は果てしなく続き、音は何も無い。風もなく、人の気配もなく、そこにあるのは物言わぬ屍と自身の影だけだ。
『あなたの言う有益はどこにあるの? 本当は自分が存在している意味をあなたは知っている。だけどそれを認めるのが怖いのでしょう』
「私は……偶然に産まれてしまった『何か』だから……」
『そう、望まれなかった偶然、あなたはいらない。一つになりましょう、あなたの世界はなくなるけれど、私の世界にあなたの識は有益だから』
影が手を伸ばした。
依巫にとって最も注意せねばいけないこと、それは相手に魅入られることだ。魅入られ支配されれば、自身がなくなってしまう。そんなことは知っているのに、ヴァジュラの誘惑には勝てない。
『あなたが何者かなんてどうでもいいの。さあ、一つになりましょう』
「だめ……、私は」
『碇ゲンドウはあなたを見てないのよ。分かってるくせに、笑うのが上手くなったものね。笑い方を変えて、あの人の反応を見ていたものね』
レイの頬に赤みがさした。あまりにも、それは知られたくない秘密だ。気に入られようと媚びていた自分を、影は笑う。満ち足りた笑顔で笑う。
『あなたは何も欲していない。だから、何も手に入らない。そんなあなたに、私は使えない。だから、あなたを使う』
影の形が崩れた。
自分自身を成長させればそうなるであろう、何度も頭に思い浮かべた碇ユイの姿で、影はレイの頬をなでた。
自身のイメージが侵食される。皮膚の中に、影の触手が伸びてくる。
『脆弱なあなたは、世界を恐れなくていいのよ。ここがあなたの世界になるの。だから、安心なさい』
「い、や……」
レイはその甘い誘惑を断ち切った。
気付いたのだ。影の言うことが正しいことに。
何も手に入れることができない、それに今まで苦しめられていた。碇ユイにもなれず、依巫としても重羽童子を支配できなかった。人でも妖魔でもない自分を有益にしようとあがいていた。
「私は何も欲していない」
『そうよ、それがあなたの悲しみに充ち満ちた姿』
最初に目標などを定めたのはなせだろう。何も望まないという自身の本質がそれほどまでに恐ろしかったからなのだろうか。だが、今ようやく気付けた。自分自身は何も望んでいないと。
「悲しみも欲してないわ。悲しみってなに? 私の心が悲しみで出来ているのなら、それをあなたにあげる」
影がレイから手を放そうとしたが、逆にその手をつかむ。
皮膚の中を這っていたヴァジュラの触手が消えていく。影の皮膚にレイからの触手が伸びた。
「悲しみがどういうものかは知らない。私には何も無いもの。何も無いから、何かを欲しなければならないと思っていた」
『あ、が、汝は虚無なり。識の奥に潜むは混沌であるか』
影はその姿を変えて、明王の剣へと変じていた。
「あなたを使って敵を倒す。敵を倒す必要はないのかもしれない。でも、あなたを使う。あなたはそれができるから」
『我は蚩尤の剣なり、天帝を討つ乱の剣なり』
「仏に会えば仏を斬り、鬼に会えば鬼を斬る」
綾波レイは自身の渇望が何かを理解した。
混沌への回帰、自身は反魂により呼び出された虚無の使徒であると理解したのだ。
『汝は虚無へと向かうか、母なる混沌へと回帰するか』
「私の行く道がそうであれば」
レイはヴァジュラを握っていた。
明王像の持つ剣に似た形で、それはレイの手に納まっている。
『おお、綾波レイ、我が主人である虚無と混沌の菩薩よ。我は汝の剣となる。汝の道を阻む者全て虚無へと帰依させることを誓おう』
「ありがとう」
綾波レイは薄く微笑んだ。
ヴァジュラが菩薩と呼んだように、その表情は満ち足りていた。
西暦2015年 十月某日 昼
ネルフ本部 第二科学結界
ミサトは巨大なヴァジュラが割れ、その中から飛び足した剣を満足げに見つめた。気難しい古代のアーティファクトを屈服させたレイは、座禅を解きそれを手に取っていた。
ドアのロックを外し、レイに近寄る。
「よくやったわ、レイ」
レイの満ち足りた表情は、悟りを開いた僧にも似ていた。
「いえ、彼のおかげで色々なことが分かりました」
「そう、よかったわね」
「はい」
ミサトにとって、それは使徒殲滅よりも価値のある出来事だった。
『レイ、あなたの霊力の種類が変わっているわ。これはまるで、使徒……』
強化ガラス越しに呆然とつぶやくリツコの姿がある。ミサトは無線を取ってリツコに話し掛けた。
「このことは、外部には漏らさないで。命令よ」
リツコはミサトより階級は下だ。それには従わざるを得ない。
『しかし、葛城さん』
「これは必要なことだったのよ。私より、あなたの方がレイについては詳しいでしょう?」
リツコは歯を食いしばる。
見透かされていた。レイがどんなものにでもなれる無原罪の存在だということを。切札は、最初から見破られていたのだ。
『司令には報告します』
「かまわないわ。あなたのレポートも添えておいて」
レイはそんな様子はつゆと気にせず、ヴァジュラ改め菩薩剣の握り具合をたしかめた。手に吸い付くかのような、まるで自分ののためだけに造られたかのような手触りである。
「あなたは、今から菩薩剣。蚩尤の剣ではない、綾波レイの剣よ」
菩薩剣から青い霊気が立ち昇る。それは、霊を見ることのできないリツコやミサトですらも確認できるほど強力なものだった。
西暦2015年 十月某日 夜
ヤシマ作戦場
魔法陣から注ぎ込まれる霊力を、菩薩剣は完全に吸収していた。
驚異的キャパシティは、それが神話の世界から飛び出した伝説のアーティファクトであることを証明している。
日本中の霊力を受けて、綾波レイの体は青いオーラに包まれている。
満月の光とあいまって、彼女を本物の菩薩と錯覚させるほどだ。
距離にして三十キロ、宙に浮く巨大なプリズムであるラミエルは、その力を察知して、霊気圧縮光線を撃ち出した。
ヨツンヘイムの巨人すらも一瞬で消滅されるそれに向けて、レイは気合と共に菩薩剣を振るった。
上段から振り下ろされたそれから発せられたのは、青い霊力波である。
光線は、霊力波によって真っ二つに切り裂かれた。そのまま使徒すらも両断する。
「使徒、殲滅完了」
レイのつぶやきと共に、光の十字架が立ち昇った。
「あの力、流石ネルフというところじゃの」
建設途中のビルの鉄骨に立った人影は、光の十字架を見て目を細めた。
「頭領、京都の作戦は失敗した模様です」
音も無く現われた女天狗、洞木コダマは、般若姫こと洞木ヒカリに向かって報告する。
「うむ、キールめの計略などその程度。重羽童子を倒し、なんとしてでも封印は守り抜く。そして、この手で斉天大聖を……」
手に持った日本刀のつばを鳴らすと、ヒカリはそこから飛び降りて姿を消す。
工事現場の基礎には、使徒殲滅を妨害するために放たれたキール子飼の妖魔たちの死骸が転がっていた。
敵に塩を送る、という言葉もあるが、使徒殲滅は共通の目的だ。
鬼道衆たちも静かに動き出していた。
西暦2015年 十月某日 夜
ネルフ司令室
リツコから提出されたレポートを読み終えたゲンドウは小さく息を吐き出した。
目の前にいる綾波レイは、先日までとは雰囲気が違う。報告書の通り、何かが変化していた。
「レイ、お前は菩薩剣から何を得た」
「何も得ていません。ただ、自分が何かを知ることができました」
ゲンドウは口の中が乾いていくのを感じていた。
「では、お前はなんだ?」
レイは薄っすらと微笑む。その姿は、碇ユイを思い出させた。
「私は虚無です。混沌へ回帰する虚無です」
碇ゲンドウはサングラスを外してレイを見つめた。その瞳には、たしかな苦悩と後悔がある。
「そうか、使徒殲滅ご苦労だった」
レイは「はい」とだけ答えて背を向けた。そして去っていく。
ゲンドウが何か言おうとした時、入れ違いにミサトが入ってきた。レイが立ち去るのを確認して、ミサトサングラスを外す。
その瞳は、真紅に染まっていた。
「司令、始まりました。全てはもう止められません」
「分かっている。元より止める気など無い」
ミサトはサングラスをかけ直すと、大きく肩をすくめてみせた。
「葛城くん、ゼーレはキミに任せる」
「ええ、司令はドグマをお願いします」
もう止まることは許されない。
元より、彼らは止まることすらできないのだ。
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