Call my name
西暦2015年 十月某日 深夜
ゲブラー
護法陣による念会話に参加する般若姫は、顔こそ隠しているものの怒気を隠そうという気は微塵も無い。
念による幽体放射による会議は、般若姫にとって耐え難い退屈だ。参加者のほとんどは妖魔であり、顔を隠している者も多い。
「重羽童子は使徒を撃退し、駒は碇の元へ集ったようだな」
議長と呼ばれる男、キール・ロレンツが般若姫への嫌味を吐き出す。バイザー姿の老人は、妖魔の世界でも有名な男だ。
「ふっ、鵺が余計なことをせねば始末はついた。キール、お前の手落ちだ」
般若姫も言い返す。言い訳だが、どうせこの場に誇りなんてものは無い。あるのは退屈な責任の擦り付けだ。
「だが、SEELE全体では予測の内だ。まだ、我らのシナリオ通り。奴等は京都へ鎧を取りにいくだろう。そこで倒す」
キールが言うと同時に、新たな入室者が現れた。
「その者は何だ? よもやわらわの代わりとでも言うまいな……」
般若姫が新たな入室者を睨みつける。
だが、その瞬間に悪寒を覚えた。
白髪と西洋魔術の方陣を象ったマント、銀色のオーラをまとった幽体、こんな男は他にいない。
「紹介が遅れたな。彼は冬月、いや銀の魔術師と言った方が皆にも分かり易いだろう」
キールの言った一言で場は騒然となった。
セカンドインパクトまで妖魔を震え上がらせた銀の魔術師と言えば、闇の世界で知らない者などいない。
「……キールよ、貴様は言うておったな。ゼーレは世界の破滅を回避する集まりだと。我ら鬼道衆は妖魔と人の中間、他に集まった妖魔の面々も一筋縄ではいかぬ大物ぞろい。たばかっておるのなら……」
般若姫の言葉に他の妖魔たちも妖気を発した。
キールのことは誰も知らない。封印されていた大妖怪を操っていることだけしか、皆は知らないのだ。一つだけ真実があるとすれば、重羽童子を引き金として世界が滅びつつあるということだ。
西暦2015年 十月某日 昼
京都ダンジョン
世界各地の霊的要とも言える都市を襲った同時多発地震、これがセカンドインパクトと裏の世界で呼ばれているものだ。
プラハやメッカ、イスラエルすらも崩壊し、日本では東京と京都がその犠牲になった。
京都府は妖魔解放と、それに敵対するものたちの解放で廃墟同然となった。阿部晴明の怨霊が調伏されたとはいえ、街自体から発せられる妖気により妖魔たちの巣となっている。だが、この京都から脱出しない人間たちもいた。妖魔の存在を知り、それと交渉できる人間たちは、今も京都ダンジョンと呼ばれる都市で生き続けている。
公式には、京都に生存者は存在しない。
四条烏丸について、ようやくシンジとアスカ、そして重羽童子は食事にありつけることになった。
こんなことになったのは、青葉が余計なことを調べてきたせいである。重羽童子の鎧、それは京都にあるというのだ。しかも、わざわざ出張してそれが確かな情報である裏づけまで取る始末。
京都以外の場所なら、ネルフの権限でいくらでも調べられるのだが、京都だけは違う。ここは一つの独立した都市だ。
「なかなかスリリングな道のりだったな」
青葉は崩れかけた烏丸駅前に、廃車になったジープを乗り捨てた。
京都の内側まで来て分かること、それはここが近未来SFのような廃墟であり、そこかしこに知能の無い妖魔が溢れていることだ。
アスカと青葉、なぜかチームを組まされてしまった二人と、鎧の所有者である重羽童子、そして彼の契約者である碇シンジは、のほほんとしたものだ。
ジープからリュックを出して背負ったアスカは、学生服で辺りをキョロキョロ見回しているシンジと、首をゴキゴキいわせながらビーフジャーキーをくちゃくちゃやっている重羽童子に声をかけた。
「ちょっと、あんたたちも持ちなさいよ」
「あ、うん。エヴァさん、これもって」
『……分かった』
シンジからは気力というものが抜け落ちている、とアスカと青葉は聞いている。半日行動を共にしてそれがよく理解できた。
妖魔を殺すところを見ても、シンジは悲鳴一つ上げない。肝が据わっているのではなく、シンジにとってそれは一場面にしかすぎないのだ。目の前で起こった、という事実に何の感情も持てなければ、恐怖も悲しみもない。実際、重羽童子が妖魔と暴れている時に、シンジが犬型妖魔に襲われたのだが、それでもシンジは驚いた、という顔をしているだけだった。
「あんたら、仲いいわよね」
重羽童子はシンジに街にあるものについて質問をしたりするが、会話といえばそれだけだ。お互いに、隣にいて当然というように接している。
「そうなのかな」
『こいつは俺と同じだ。俺の鎖を握るヤツと俺は、同じになる』
あの綾波レイという依巫の少女が拒絶されたのは、同調、もしくは共生のような関係になることができなかったからだろう。
「何はともあれ、このゴールデングループで京都旅行だ」
なぜか青葉はハイテンションでノリノリだった。
西暦2015年 十月某日 昼
第三新東京
特務機関ネルフ、それは国連によって認可された妖魔対策組織である。
警察機構や企業によるそれに対抗して、ではなく扱いは表に出ていないWHOのようなものだ。
セカンドインパクト以後、世界に害をなす邪神たちを人知れず葬り去るために形作られた組織、それが特務機関ネルフだ。
第三新東京市のように都市ごとネルフの管轄というのは珍しいが、世界各国にネルフは存在している。
この都市に住む人々はネルフ関係者か、妖魔の血を引いているか、それに対抗できる素質のある者だけだ。中には一般人もいるが、霊気に満ちたここで素質の無い者は一ヶ月と持たない。例外として、第三新東京市を建設するに辺り、多額の投資をした企業からのルートで潜り込んだ者が少なからず存在する。
引越し業者が豪華な一戸建て住宅に荷物を運んでいる所に、軽自動車がやって来た。ひどく古いタイプの角張ったガソリン車から降りたのは三人の女性だ。
長女、洞木コダマ、洞木ノゾミ、洞木ヒカリ、三姉妹はどこか落ち着きなく、てきぱきとした引越し業者を見つめていた。
「敵地に侵入とは我ながら良いアイデアじゃ」
何度か大きくうなずいたそばかす少女、洞木ノゾミこと般若姫は満足げである。だがしかし、姉を演ずるはめになった二人は気が重い。
「しかし、姫様……。いやさ、ヒカリさ、さ、さん、わざわざ若返りまで行う必要はなかったのでは?」
長女ノゾミは、グラマラスな体をくねらせて、「ヒカリ様」と言ってしまいそうになる自分をおちつかせる。
「ええい、何を言うか。わらわは不老の術など心得ておるわ、この体になったのは、強敵斉天大聖と同じ土俵で勝負するためじゃ」
次女コダマは、頭領の悪い癖が出たとため息を吐き出す。活発な女子高生といった彼女は般若姫の側近だ。直情型の熱血が燃えてしまったら止まらないのはよく理解していた。
「……よいか、わらわたちは姉妹じゃ。これからはそれを心得るようにな、姉上たち」
「「はい」」
と声をそろえて言う姉二人は、全く心得ていなかった。
例えば学校生活というものはひどく単純なものであり、それは未成年にのしかかる拷問と言っても過言ではない。年を取れば思い出となりよかったことに分類されるが、それを行っていた時期は、暗澹たる気持ちで毎日を過ごしていたはずだ。よく思い出してみるといい、それこそが真実なのだ。
などと下らないことを考えていた綾波レイは、学校に行くということについての奇妙な駄文を書き終えて、居眠りを始めた。
レイにとっては、ちょっと可愛い面倒見のよさそうな転校生などどうでもいいことであり、今は重羽童子のことしか頭に無い。
自身の依巫としての価値は終了したかに見えたが、碇ゲンドウ総司令の命により新たな任務に着くこととなった。今は、自分の価値が無くならずにすんだことに安堵している。
ふと考えると、あの新入り総流・アスカ・ラングレーはなぜに通学の義務が無いのか、それが多少気になった。
西暦2015年 十月某日 昼
京都ダンジョン
「はいー、大人二枚に子供二枚ね」
と、鎧を着たされこうべが顎をかちかち鳴らせて手を突き出してきた。
烏丸駅前を過ぎて少し歩いた所で、入り口と書き殴られた看板が立っており、そこにこの妖魔が陣取っているのである。
「何よコイツ、野盗の類?」
『野伏か?』
されこうべの妖魔はあからさまに馬鹿にした顔で、肩をすくめた。白骨のくせにその姿は妙に苛つかせるものに満ちていた。
「まあまあ、おのぼりさんだし仕方ないじゃないか。はいよ、これでいいだろ」
青葉が差し出したのは、普通の一万円札だ。
「ん、いいぞ。フリーパスな」
と、渡されたのは青い色の勾玉である。青葉にうながされるままに、それを首にかけると景色が一変した。
されこうべの後ろには高い塀が組まれており、中からは賑やかな声が聞こえてくる。大きな扉は中世の城門のように巨大だ。
『なんだこりゃあ、キツネか?』
「キツネ?」とシンジ。
「まあまあ、とにかく中に入ろう」
されこうべは片手で扉を開くが、明らかにそれはリアルな重さを持っていた。門番をやるだけの妖魔なのだろう。
ぽかんと口を開けていたシンジとアスカは青葉にうながされて中に入る。重羽童子が通る時、門番が手を止めた。
「なぁ、アンタ、重羽童子だろ」
『……お前、俺を知っているのか』
されこうべは口をカチカチさせて笑う。
「なぁに、昔一度見かけただけさ。暴れるなよ」
『必要がなければなぁ』
ギギキと音を立てて門が閉まった。
内側から開けるのは不可能だろう。
「ここが、俺が独自に調査して入り方を証明した、京都ダンジョンメインストリートだ」
青葉はなぜか自慢げに広がる街に向かって手を広げた。
露店に屋台、人間と妖魔が入り乱れて歩いている。平屋建ての建物がずらりと並び、街の中心部には巨大な城のような建物まである始末だ。
「何よこれ、人間と妖魔が肩組んでるし、それになんでこんな巨大な幻術まで」
アスカが呆然とつぶやく前を、腰にガンベルトを下げた人間と鬼らしき妖魔が何やら話しながら歩いていく。露店に並ぶものは、最新の雑誌やスナック菓子もあれば銃や刀まである。
「賑やかだなぁ」
シンジはぽかんとそれを見ながら言った。
「まあアレだ。観光もいいけど、エヴァっちの鎧も捜さないとな。とりあえず今日は一泊しなけりゃいけないし、観光しよう」
青葉はマイペースだ。アスカはなんだか腹が立ってきたが黙っている。
『メシだ。青葉、何か食わせろ』
「はいはい、食事にしようか。ちょっと早いけどな。宿も取ってあるし」
疲れた顔で、アスカはそれに従うことにした。
青葉の案内で辿り着いたのは、旅館風の建物である。いかにも老舗といった風情だが、こんなものセカンドインパクト前は存在しなかったみとは明白だ。
日向屋と書かれた看板の前にいた蛙顔の下男に玄関に案内され、そこで待ち受けていたのは着流し姿の若い男であった。しっかり整えられた髪に黒ぶちメガネ。青葉とは正反対の印象を受ける。
「シゲルか、本当にまた来たんだな」
と、若者、日向マコトは呆れた表情でそう言った。口元には楽しげな笑みが浮かんでいることから見ても、一行を歓迎しているのは明らかだ。
「ああ、コイツは大学の同期で日向マコト。ここの若旦那だよ」
「あ、どうも碇シンジです」
「お世話になります、総流・アスカ・ラングレーです」
『エヴァンゲリオンだ。適当に呼べばいい』
シンジに釣られて変な挨拶をすませた一同は、仲居に案内されて部屋へ通された。青葉は日向と話があるとかで、どこかへ消えてしまう。狐につままれたような気持ちで、アスカはお茶うけを食べていた。
「碇くん、あなたって何か訓練とかそういうの受けてたの?」
ぼんやりしているシンジに向けて、アスカは口を開いた。重羽童子とまともな話ができるとは、はなから思っていない。
「別に何もしてなかったよ」
「ふぅん、じゃあ重羽童子じゃなくてエヴァと契約したのは、なんか血筋とかそういうもんなのね」
興味深い話ではあるが、普通の十四歳がこんなことに耐えられるものなのだろうか。そう思ってシンジの顔を見つめてみるアスカだが、シンジは見つめられて顔を赤くしただけだ。
「父さんは、特別だとかなんとか言ってたけど。よく分かんないや」
「そうなんだー。まあいいんだけど、シンジくんは怖くないの?」
「分からないんだ、僕。そういう、感情っていうかな、別に僕に感情が無いとかそんんじゃないんだけど、そういうの無いから」
アスカも話としては聞いているが、シンジは精神に障害をもっている。無気力無感動病というか、自分からは何もしないし興味も持たない。そんな病気だ。体が欲するものについてはそれなりに対処するらしく、アスカに見つめられて顔を赤くしたりはするが、それだけだ。恋愛感情へ発展するということはない。
「シンジくんも大変なのね」
「呼び捨てでいいよ」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、あたしのこともアスカでいいや」
ダラダラと過ぎていく時間の中で、シンジはなんとなくテレビをつけてみた。完全な和風旅館部屋のテレビは、百円玉を入れるタイプである。
チャリン、と百円玉が音を立てた後、ぷつんと音が鳴ってテレビ画面が明るくなる。
『あぁ〜、ダメぇ〜、ここがええんやろ、大きな』
映し出されたのはアダルトビデオだ。
シンジはアスカを振り向くと、真顔で「ごめん」と言うとテレビの電源を切った。
「……別にいいわよ。おっぱじめなかったら気にしないけど?」
アスカはお茶菓子をぽりぽりやりながら。三杯目の茶を飲み干した。
「女の子の前でこういうの見るのはよくないことなんじゃないの?」
「よくは無いけど、そんなもん気にするほど若くも無いわよ」
シンジはアスカを見つめて首をひねった。
「前に友達が学校でエロ本広げてた時は、女の子たちも騒いで大変だったけど」
「だからさ、言ってなかったっけ? あたしこんな姿だけど、今年で二十六歳よ」
「えぇ、嘘だぁ」
アスカは困った顔で平べったいサイフを取り出すと、そこから免許証を取り出してテーブルに滑らせる。
受け取ったシンジが見ると、たしかに二十六歳の免許証だ。写真は目の前のアスカそのままだが、中型と普通車としっかり記載されている。生年月日も二十世紀だ。
「……すごいなぁ、大人だ」
「まあ色々事情があってね、大人なのよ。こんなナリだから子供のフリすることあるけど、ちゃんとした大人だからそこんとこよろしく」
それでも、この業界でのキャリアは綾波レイと変わらない。普通は妖魔と戦うような連中は産まれてこのかたそういう訓練なのだが、アスカがそれを始めたのは十四歳の時からだ。
「うん、分かった。じゃあ、続きを」
またテレビをつけると、シンジは無修正のそれを見始めた。
「あのさ、そんなに見たかった?」
呆れ顔のアスカはちらりと重羽童子を見やる。重羽童子は男女のからみを見つめるシンジとは対照的に、窓から見える景色をじっと眺めていた。
「へぇ、セックスってこういうこと本当にするんだ」
「あ、あんたねぇ。現実はもうちょっと違うわよ、電気明るいままするの恥ずかしいし」
「へぇ、大人なんだなぁ」
平成育ちのアスカは「へぇボタン押しまくりね」と一人ごちた。
「あのね、シンジ、そんなに見つめてたら女の子にモテないわよ」
「そうなんだ」
と答えても消す気は無い。
アスカも諦めて100円玉が切れるのを待った。しばらくあはんうふんと続いてから、唐突にテレビが切れる。
「勉強になった?」
「うん、多少は」
『アホかお前らは』
重羽童子が言うと同時に、仲居が入ってきた。一見して人間だが、妖気が無いでもない。
「あ、お客様、若旦那と青葉様はもう少し話があるとかで、先にお風呂の方でも」
三人は顔を見合わせて、風呂に入ることを決定した。本当は急ぐ仕事なのだが、焦る気は無い。どの道、青葉がいないと迷うだけだ。
「風呂行こうか」
アスカが言うと、二人は異存無いらしく立ち上がった。
「あの、お客様、その武器の持ち込みはちょっと。お預かりしますけど」
アスカは風呂だというのに金箍棒をかついでいた。
「いいけど、危ないわよ」
「規則なんで、ごめんなさい」
すんなりと金箍棒を渡したアスカ一行は風呂場へ向かうことになった。
どう見ても日向屋自体そのものの敷地面積より広いと思われる風呂へ案内された一行は、男湯と女湯で別れたものの、驚きは同じだった。
『包帯を解くな……、分かったか』
と、凄んだ重羽童子に仲居は丁寧におじぎをして五右衛門風呂に連れていく。何やら特別らしい。
シンジの連れて行かれたのは普通の檜風呂だったが、周りの妖魔たちに物怖じすることもなく、いつものようにぼんやりしている。
一方、アスカは肌にいいとかいう果物の漬かった風呂で汗を流している。
湯船では、妖魔と人間が談笑している姿もあり、アスカはなんだかなぁと思ったりもしたが、元々人と敵対する妖魔は少ない。逆に、人を食うと面倒なことが多いため、普通に働いている者がほとんどだ。人間と見分けのつかない妖魔は妖魔じゃない、世間一般の人間たちもそう思うだろう。実際、日本でも妖魔が学生をやっていたのがバレたが、教師たちが黙認したという事実もある。
そんな訳で、妖魔殲滅に使命感を抱いている人間以外は、この風景に嫌悪感を抱かなかった。
「なーんでこんなことになったんだろ」
アスカはつぶやいて、浮いている果物を手にとる。ご丁寧にも人の顔が浮かび上がっている柿に似た果物だ。
気配が四つ。
ここにいる妖魔たちは人間よりは丈夫にできている。人間の客だって、こんな所に住んでいるのだから頑丈に違いない。
「仕方ないなぁ。男湯は男湯で頑張ってもらいますか」
頭に載せた手拭を取ると、湯船から出る。桶を取って水を頭から被ると、気配に向けて桶を投げつけた。
「キャアアアアア」
悲鳴と共に、黒装束が四人現われる。
「ワオ、なに、忍者レディ?」
クノイチ、という呼び名があるのだが、当然そんなもの知らない。知っているとすればかなりの日本通だ。
「妖怪城よりの使者でござる」
狐耳のセクシー網タイツ女忍者がびっと刀を突きつけた。
「うひゃあ、妖怪忍者だぁ」
何やら三助たちが平伏している。どうやら、ここでは権力者に属しているようだ。
「たった四人でこの斉天大聖をどうにかするってぇ?」
「日向屋主人日向マコト、並びに青葉家頭領の命が惜しくばおとなしく参られよ」
「うわぁ、捕まってたのねあのバカ……。いいわ、投降する。服は着させてね」
アスカは余裕の笑みでそう答えた。
斉天大聖になってから、この程度のピンチは何度もあった。
なんとかなる。今までなんとかなってきたのだから、間違いない。
「重羽童子殿、おとなしくされよ」
男湯でも、忍者が重羽童子に刀を突きつけていた。
シンジは普通に忍者に拘束されており、全裸で腕を捻り上げられていた。
五右衛門風呂で息を吐いていた重羽童子はそれに全く動じていない。忍者たちは、油断なく四方を取り囲み、他の客たちは壁際でそれを見守っていた。
『腹が減った。食い物を持ってこい』
「重羽童子殿、お連れ様が死にますぞ」
『シンジ、お前は腹が減ったか』
聞いていない。
忍者たちがじりじりとにじり寄る。
「ペコペコだよ」
『俺もだ』
風呂から飛び上がった重羽童子は、シンジを捕まえている忍者の目前に降り立つと、その手をつかんで、折り曲げた。
悲鳴を上げようとした忍者を投げ飛ばすと、シンジを小脇に抱えて走り出す。
「重羽童子殿、死んで頂く」
忍者の刀は隙だらけの腹部を切り裂いた、重羽童子は開いている左手ではみ出た内臓を押さえる。
『いてぇぇ』
「死ねい」
刀が首を狙ったが、重羽童子はそれを歯で受け止めていた。忍者が力を入れるが、刀はびくともしない。そして噛み砕かれた。
ぶん、と重羽童子が首を振ると、忍者の左眼に刀の破片が突き刺さる。
『メシだ、メシを食わせろ』
「痛そうだなぁ」
頓珍漢なことを言うシンジだが、忍者は戦意を喪失していた。他の忍者も同様に、重羽童子の強さに動けないでいた。
『通るぞ、いいか?』
忍者の一人が凄まれて一歩下がる。
「うっ、うぅ……」
「ぐっ、重羽童子……。貴様の仲間は預かっている。取り返したくば妖怪城まで来い」
左眼を潰された忍者が、目を押さえたまま言う。もう勝ち目が無いことを彼らは分かっていた。
『メシだ』
シンジを抱えたまま、重羽童子は悠然と通り過ぎていく。
なぜか、風呂場から拍手が上がっていた。
西暦2015年 十月某日 夕暮れ
妖怪城
「なあ、シゲル、妖魔の友達をここに住ませてやりたいとか言ってたよな。だからここに来たんだよな」
「マコっちゃん、それ嘘なんだわ」
座敷牢に閉じ込められ、二人して縄でぐるぐる巻きにされながらも、青葉の口調には余裕があった。
京都ダンジョン中心部に位置する妖怪城は、メインストリートを外部から認識不能にする結界の要だ。衛星や千里眼すら寄せ付けない目くらましを広範囲に維持するための妖力を、この妖怪城一つで捻出している。妖力の源であり、この妖怪城の城主は狐だ。化け狐の最高位、稲荷大明神とも呼ばれる天狐が妖怪城を造り出したのである。
「お前なぁ、俺の実家を破壊するつもりか?」
「いや、大丈夫。こっちには斉天大聖にあの重羽童子までついてんだ。じきに助けてくれるさ」
マコトは腑に落ちない顔で横に転がる青葉を見つめた。
「なんか隠してるだろ」
「ハハハ、やっぱバレた?」
「お前が無抵抗なんて信じられない。シゲル、女か?」
「いやー、その、まあ、実はその通りなんだよな」
青葉シゲルという人間をよく知る日向は深い深いため息をついた。学生時代から、この男はそうだった。
女が絡めば普段のプライドも消えうせる。その上手段は選ばない。
「俺を利用したのはどういう訳だ」
「妖怪城には顔が利くだろ、日向屋の若旦那」
「ま、いきなり打ち首にならなかったからな。でもなぁ、向かいの牢屋に骨が転がってるってことは、このまま飢え死にっぽくないか?」
青葉はハハハと乾いた笑いを漏らした。
「果報は寝て待てとも言うしな。俺は寝る」
答えを待たずに、日向がつぶやく。
「いつも悪いな。これ以上は迷惑かけないよ」
「勝手にしろ」
日向は湿った畳にあお向けになって目を瞑った。親友の大暴れは何度も目にしている。ここから先は青葉の領分だ。
縄のほどける音を聞きながら、日向は眠ることに集中した。
忍者たちは天守閣で片膝をついたまま脂汗を流していた。
「で、おめおめ戻ってきたという訳かね」
銀色にも見える豊な白髪の老人は、京都の街並みを見下ろしながらそうつぶやいた。
黒いマントにステッキ、見るからに怪博士の老人こそ、銀の魔術師冬月コウゾウその人である。
「しかしながら、重羽童子殿を封ずるには我らでは役不足。何卒、ご容赦のほどを」
忍者のリーダーである左眼を潰された男は、土下座で許しを請う。
「責任はキミが取りたまえ」
冬月がステッキを一振りすると、リーダーの体が持ち上がり宙に浮く。体は金縛りにでもあったかのように動かない。
「東洋の神秘忍者だ。空も飛べるだろう?」
男が何か言う前に、見えない力で空に放り投げられる。
部下たちが顔を背けると、冬月がようやく振り向いた。そこにあるのは、奇妙な仮面である。赤と黒で装飾された仮面は、魔術的な意味を持たない何かの印だ。
「天狐殿はこちらの手の内だ。早く重羽童子を見てみたいものだな。アトランティス文明ですら成しえなかったアレを扱うオーガか」
忍者の一人が声を張り上げた。
「冬月殿、姫様を」
「分かっているさ。興味があるのはオーガだけなのでね」
信用できずとも、今は信ずる他ないのだ。
青葉は見事な縄抜けを疲労し、忍者顔負けの技術で錠前を破った上に、天井裏を移動しながら、監視に気づかれることなく地下へ向かっていた。
前回は寸でのところで逃げ帰るハメになってしまったが、今回は完全に青葉のペースだ。物事に流れがあるように、アスカとミサトに勘ぐられることなく重羽童子を京都ダンジョンへ誘い込めたのだ。このままうまくいく。
背後から衛兵の狐に襲い掛かり、一瞬で昏倒させる。
ジャケットと靴底に仕込んでいた潜入ツールは、科学の勝利だ。妖魔は、妖気や霊力は気にしても、こういった細かい所はザルだ。
以前に発見していた隠し扉をくぐり、石造りの回廊の落とし穴をかわして、たどりついたのは広い空間である。
「だいたい二週間ぶりってとこか」
古代遺跡というより、宇宙船に近い場所である。
楕円形のホールになっているが、壁も地面も天井も赤く輝く奇妙な物質でできており、その表面には明らかに規則的な配列を持つ謎の文字が刻まれている。
ホールの中央には青い光が輝いており、青葉は走ってそこへ向かった。
「やっ、マヤちゃん。また来たぜ。寂しくなかったか?」
青い光、それは西洋の魔法陣によって形作られた檻であった。その中で、青葉を信じられないという顔で見つめている女がいた。
「こんな所まで……、今度こそ殺される。逃げて」
伊吹マヤ、化け狐最高位稲荷大明神であり、妖怪城城主その人である。桜色の十二単をまとった彼女は、結界越しの青葉を強く睨んだ。
「今日はお話に来たんじゃない。助けに来たんだぜ」
「いくら強くても、人間はアレには適わないわ。それに、私はここから出られないから、早く逃げて」
銀の魔術師に囚われてしまったマヤは、人質にされた上ここに閉じ込められたのである。失意の中で、突然現われたのが青葉だった。この状況でナンパされ、衛兵に見つかって殺されたと思っていたが、まだ生きている。
「おいおい、ここまで来るのに苦労したんだからさ、もうちょっと優しい言葉はないのかい」
「あなたって人は、どうして見ず知らずの妖魔のために」
「キミがキュートだからさ。それに、重羽童子を連れてきた。鎧の封印を解けば、ここから出られるんだろう?」
銀の魔術師冬月が示した条件は、重羽童子の鎧の封印を解くこと。突然現われた冬月にマヤを取られたこで、妖怪城は乗っ取られてしまったのである。
「だめよ、あの重羽童子だって、あんな化物にかないっこないわ」
目を逸らしたマヤに、青葉が微笑む。
「頼む、俺を信じてくれ」
「なんで、あなたは人間なのに……妖怪にそんなことを」
「妖怪人間関係ない。俺がキミに惚れた。キミのためなら、湖の水を一滴足らずとも飲み干せるさ」
「あなた、馬鹿よ」
「よく言われる」
マヤが笑ったのを確認して青葉は笑みを見せた。
銀の魔術師が狙っているのは、重羽童子の鎧である。
その昔、幾多の妖魔が挑んだが傷つけることさえ適わず、持ち主が封じられた後でさえ強大な妖気を放ち続けたという。重羽童子の力の源であるとも言われたそれは、代々の天狐により封印されてきた。今は、封ずると共に、京都ダンジョンの結界に使う妖力を鎧から抽出している。
「鼠が潜り込んでいたか」
何の気配もなく放たれた一言に、青葉が振り向く。すると、薄く透ける立体映像で冬月が現われていた。
「なんだ、こいつは投射か」
「私の目だよ。一応ここも監視しているのでね」
冬月は心底面白いらしく、楽しげに笑う。
「残念だな、お前には重羽童子は止められない。すぐに来るぜ、あいつは」
「そのようだね。だが、キミにはお姫様を解放する力も無ければ、私を倒す力も無い。勇敢な青年だが、無謀と勇気は別物だよ」
含む言い方が気に障る。捕まった鼠をどう料理しようか、そんな口調だ。
「口だけは達者だな、爺さんよ」
「ふぅむ、これを見てもいえるかね」
冬月の残像が、盛り上がった。いや、地面が盛り上がっているのだ。銀色に輝くどろどろとした液体が、形を持って姿を現す。
どろりとしたそれは人の巨大な戯画となって青葉の前に現れた。
「なっ、なんだぁ」
「水銀で出来たゴーレムだよ。どうせ碇の手の者だろう。こちらに着けば、命は助けてあげよう」
魅力的な提案だったが、マヤの半泣きを見てやめた。
「碇司令にゃ義理は無いけどな、マヤちゃん泣かすヤツの言うことなんて聞かないぜ」
水銀のゴーレムに殴られた瞬間、お花畑が見えた。
自分が飛んでいるということを理解するのに数秒かかり、地面に叩きつけられて全身を走る痛みにのたうちまわる。まだ悲鳴を上げられるのだ、死んではいない。
「手加減したのだが、どうするかね」
銀の魔術師、こんなに安っぽい悪人だとは思わなかった。最悪人質だとふんでいた青葉は、それが間違いだったことに致命的な所で気付いた。
水銀のゴーレムにつかみ上げられ、体を締め上げられる。
「い、いてぇ」
「やめてっ、お願い、もう誰も殺さないで」
そろそろギブアップという時に、マヤが叫んだ。冬月の顔は仮面で見えないが、きっと嫌な笑みを浮かべていることだろう。
「よせっ」
「封印を解きます、だから、もうやめて下さい」
「よく言ってくれたプリンセスマヤ。物分りがよくなってくれてよかったよ」
青葉には、冬月を睨むことしかできなかった。
「で、こんなの見せて何がしたいわけ?」
アスカは、青葉の逆境を笑い飛ばした。
捕まってすぐに与えられたのは、艶やかな着物とVIP待遇だった。銀の魔術師は、寿司を頬張るアスカを仮面の中から見つめている。
地下牢の出来事は、冬月の魔術により立体映像でライブ中継されていた。青葉の頑張りはなかなかだが、いささか興ざめな内容だ。
「キミは斉天大聖、日本語にすると『天に等しい聖人』だそうじゃないか。こちらに付かないかね?」
「契約金によっちゃ問題無いわよ。あたしだって、就職先ってだけでネルフ選んだんだしさ。条件にもよるわ」
「なるほど、実に聡明なお嬢さんだ」
二流の悪役、それが冬月の印象だ。どこか、することが安っぽい。伝え聞く所の銀の魔術師とはギャップがある。しかし、現実のビッグネームなどそんなものなのかもしれない。下衆な手口は確かに有効なものの一つだ。
「ま、いいんだけど、そろそろアレを心配した方がいいわよ」
「アレ、とはオーガのことかね?」
「重羽童子、最初はただの噂だと思ってたけど、見たら分かるわ。アレは、敵よ。確実にね」
アスカは独り言のように言う。
重羽童子は悪魔だ。シンジと縛妖鎖で繋がってる今こそ脅威ではないが、もしアレが解き放たれたら誰にも止められない。
「だが、あの鎧がこの手にあれば重羽童子も敵ではない」
「……そんなに重羽童子の着てた鎧って凄いの? そんなアーティファクトの類は聞いたことないけど」
「フッ、京都を覆う結界の妖力は、全て無名鎧により作られたものだ。無限に妖力を作り出す鎧、その意味が分かるかね。力だけのでくの坊が持てば宝の持ち腐れだが、私が使えばこの世界すら手に入れられる」
大げさに肩をすくめたアスカは、ビールジョッキに注がれた生を飲み干した。
「あー、やっぱり生ビール最高。上手い話ほど落とし穴があるもんよ」
「ならば、見せて差し上げよう」
地下牢では青葉が完全にグロッキーになっているところだ。化け狐のお姫様が何やら妖術を展開している。
「……、なに、この妖気は」
寿司とビールの乗ったテーブルがカタカタと揺れ始めた。
「地震、じゃないみたいね」
妖怪城そのものが、大きく揺れていた。
「素晴らしい、この妖力こそが無名鎧の力か。名付けることさえ禁じられた大いなる力、アトランティス人でさえ成しえなかったS2機関か」
「ねぇ、さっきの話あったじゃない。契約次第で仲間になるって」
「ふふ、キミは聡明だな。条件を言いたまえ」
すぅっと息を吸い込んで、アスカは力を抜いて笑った。
「一つ、上司がクソ野朗じゃないこと、二つ、女泣かして喜ぶ変態が上司じゃないこと、三つ、上司が悪趣味な仮面じゃないこと。全部無理みたいね」
「……愚かな」
「陰険なジジイは大嫌いだってーのよっ」
アスカは勢いよく中指を突き上げた。
西暦2015年 十月某日 夕暮れ
京都ダンジョン
風呂場を出て、浴衣に着替えたシンジと重羽童子はメインストリートで食べ歩きをしていた。
アスカがまだ風呂場にいると思っている二人は、何の肉か分からない串焼きを食べながら、露店を見て回っていた。
重羽童子は宿で針と糸を借りて、器用に傷口を縫ったのだが、もう痛くは無いらしい。
「傷大丈夫?」
『問題ない。俺はこの程度じゃ死なん』
不思議な二人連れだが、街の妖魔たちは、シンジが主人で重羽童子がボディカードだとでも思っているようだ。露店でよく声をかけられる。高価なものを買えるようなお金は持っていないというのに。
「エヴァさん、さっきの人たち妖怪城がどうとか言ってたけど」
あまり興味のあることではなかったが、シンジは律儀に口にする。
『知るか。俺は鎧なんていらねぇ』
「でも、元々エヴァさんのなんでしょ?」
『思い出せねぇ……。だけどな、あの鎧は嫌なんだ』
「そういうものなのかな。あれ、なんだろ、この感じ……」
シンジはなぜか懐かしい何かを思い出した気がした。ひどく胸が痛む、焼けた火箸でも突き刺されたような痛みに、倒れこんだ。
「う、あうぅ……なんだこれ、前にも、前にも」
『ああ、鎧だ。呼んでやがる』
重羽童子の胸板、丁度シンジが痛みを感じている個所に、血が滲んでいた。浴衣姿のミイラ男が、妖怪城を睨みつけた。
『行くぞ、敵だ』
「そうだ、行かないと」
重羽童子はシンジを小脇に抱えて走り出した。
西暦2015年 十月某日 逢魔ヶ時
妖怪城天守閣
アスカのキックを避けた冬月は、マントをはためかせて屋根へと向かった。
妖怪城の封印が解けつつあるのだ。妖気の流れは、天守閣の上、つまりは屋根の部分に集中している。
屋根瓦の上に降り立つと、屋根を囲むように四隅に配置された稲荷の像が発光を始めていたところだ。
「なるほど、どうやっても封印が解けぬわけだ。この城そのもので封じていたか」
満足げに言った瞬間、顔面を狙ったパンチが飛んでくる。
「余所見してんじゃないわよっ」
「ふっ、若いな。魔術師に徒手空拳で挑むつもりかね」
アスカは中国拳法の構えで冬月と対峙するが、あまり状況は良くない。
「人間相手には使いたくないのよ」
ぴたりと冬月の動きが止まる。
「貴様、何を言っている。私に恥をかかせるつもりかね?」
人間相手、並みの人間と呼ばれたことは、冬月のプライドを大きく傷つけていた。
「人間は人間よ」
アスカは言うと同時に走った。
冬月のつま先を狙った蹴りと共に、その胸板に拳をきめる。少女の軽い一撃だ、冬月の対物理魔術によりその威力は半減している。
「その程度……なにぃっ」
冬月が膝をつく。立っていられなかったのだ。船酔いを起こしたかのように、体がバランス感覚を失っている。
「今のは気ってやつね。まあ拳法なんだけど、今すぐお姫様を解放しなさい。だったら殺さないわ」
「ふふ、ふははははは、見かけ通りの歳ではないようだな。だが、もう遅いよ。ゴーレムはすぐにプリンセスマヤを殺すだろう。また封印されては適わないのでね」
冬月はマントをひるがえして瞬間移動を行うと、妖気が集中する中央部分で詠唱を始めた。
「何をする気っ」
「言ったろう、無限の妖力を我が物にするのさ」
アスカが走ろうとした時、凄まじい霊気が放たれた。
神聖で澄んだ霊気は、一片の不浄も許さない威厳に満ちている。人を断罪する天使の霊気だ。
稲荷像が砕け散り、何もなかったはずの空間に、奇妙な兜が出現した。紫色で、鬼を連想させられるそれこそ、重羽童子の鎧『無名鎧』である。
「ハハハ、手に入れたぞ」
冬月が魔術を完成させた。その証拠に、空中にカバラが描き出され、無名鎧にそれは集約していく。
『やっと出れたわっ』
「な、なんだ、ぐああぁぁぁぁぁぁ」
冬月の胸に触手が突き刺さっていた。
稲荷が砕け散り、解き放たれたのは無名鎧だけではなかった。
アトランティス人でさえ制御できなかったS2機関、それを持ち得る使徒である。
「なによ、今度はイカぁっ」
アスカが言った通り、それは濃い紫色で男性器か張り形を思わせるフォルムの、しいて言うならイカに似た存在だった。
『イカって言うなっ。アタシはシャムシエル様よ。エデンの園の守護者にして真昼の天使。イヴちゃんを守ってたのにクソ狐たちに閉じ込められてたの』
「し、使徒だと……そんな馬鹿な」
『馬鹿じゃないわよっアタシは。こんな田舎にまで来た上に千年も閉じ込められて退屈してたんだから、出してくれたお礼に、一番苦しい方法で殺してあげる』
「悪いんだけど、無視しないでくれる?」
アスカが言うと、シャムシエルがこちらを向いた。イカだと思っていたが、昆虫めいた気持悪さがある。
『何よ、小娘。アタシのやることに何か文句でもあるわけ?』
「人が殺されるのは敵であっても見たくはないわ」
『へぇ、なんか神様の力持ってるみたいだけど、アタシに喧嘩売ってるんだぁ。一応さ、アタシも天使だけど、サキエルみたいに優しくないわけよ』
「ウゼーよ、ババァ」
シャムシエルが触手をぴくぴくと震わせてアスカに振り向いた。
『ぶっ殺す』
「それはこっちのセリフ」
アスカは敵との戦いで冷静さを失うまいと耐えた。斉天大聖としての自分が、こいつを殺せと猛り狂っているのだ。
西暦2015年 十月某日 逢魔ヶ時
妖怪城地下
解放された青葉は、しかめっ面でマヤが封印を解くのを見ていたのだが、突然ゴーレムが震えだしたのを見て、嫌な予感を押さえられなくなっていた。
「マヤちゃん、こいつって銀の魔術師にコントロールされてんだよな?」
「そ、そうだと思うけど」
封印は解除された。だが、冬月からの声は無い上に、ゴーレムは挙動不審だ。普通に殺されるというなら、あの性格だ、嫌味の一つでも言ってくるだろう。
「鎧が出たってことは、重羽童子が来たのか……。だったら俺たちを人質にするはずだけど、って、おいっ」
ゴーレムのパンチが青葉に向かって放たれた。なんとよけるが、完全に殺す気の一撃だ。マヤにまで手を伸ばすが、冬月の仕掛けた結界でそれは止められる。どう見ても、ゴーレムは暴走していた。
「無名鎧と一緒に封印していたアレが出たのよ。なんとか、一矢報えたわ」
マヤは青葉に小さくごめんなさい、と付け足す。
「なんだ、鎧だけじゃなかったのかよっ」
「あそこには、千年の昔に南蛮より渡来した邪神が封じてあったの」
「そういうことは先に言ってくれっ」
痛む体に鞭打って逃げ回りながら、ゴーレムを観察する。壁を叩いたりで暴れ放題だ。冬月の制御がなくなっているのだろう。今では暴れ馬と変わらない状態である。
「マヤちゃん、耳を塞いでおいてくれ、絶対に聞いたらダメだ。いいね」
「えっ……何をっ」
「いいから、早くっ」
青葉家、それは平安の時代より続く外道の一族である。
平敦盛が愛用したと言われ、別の伝承では源義平が源氏の証になるとして娘に遺したとも言われる『青葉の笛』。
矛盾した伝承の残るそれは、元々は源義経が武蔵坊弁慶を手なずける際に使われた魔性の笛である。鞍馬の悪天狗から義経が奪い取った妖魔を操る笛、それは権力者たちの手を転々としてきた。矛盾する伝承は、一説では、この笛を所持しているがために天狗の呪いを受けることを恐れ、所有者を曖昧にしたとも言われている。
青葉シゲル、彼は現代で最後の『青葉の笛』の継承者だ。
「そこのでくの坊、聞きやがれ」
懐から取り出した横笛から奇妙な音が鳴った。
青葉の笛、その存在に冬月ですら気付かなかったのには訳がある。笛自体は何の力も無いからだ。天狗吹きと呼ばれる特殊な吹き方と、術者が霊力を使うことで、音色に魔力を持たせるのだ。
(もってくれよ、俺)
術者は音色を聞かねばいけない。妖魔を支配する音色は、術者にとっては苦痛を与える。人間にとってその音は、精神をかき乱すものでしかないからだ。
源氏の怨霊を敦盛はこれで鎮め、義経は安徳天皇の荒御霊と草薙の剣の呪いをこれで抑えたのだ。
マヤもその音色に吐き気と恐怖を覚え、耳を塞いでうずくまっている。
ゴーレムが一心不乱に笛を吹く青葉の手前で止まった。
「止まれ。それから、俺たちを守れ。いいな」
ゴーレムは青葉の命令に従い、その場に直立した。
「なんとか、上手くいったな」
笛を落とした青葉は、マヤに微笑んでその場に崩れ落ちた。
西暦2015年 十月某日 逢魔ヶ時
妖怪城天守閣
『オホホホホ、東方の猿もこの程度みたいね』
シャムシエルはその異形に似合わず強かった。
アスカが全力で向かって得たのは、体中の打撲だ。触手鞭の威力は凄まじい上に、結界が邪魔をする。サキエルのように隙だらけならなんとかなったが、シャムシエルは口だけでは無い。
「強い……わね」
『赤毛猿のお嬢ちゃん。あんたがただの人間なら許してあげたんだけど、何かの加護を得てるみたいだし死んでもらわないといけないのよね。覚悟はいい』
アスカは小さく笑った。
『何がおかしいの?』
「今さ、追い詰められて死にたくないって思ったら、大聖の声が聞こえた。もう楽になっていいなって思ってたけどそうもいかないみたい。聞こえるのよ、あんたに殺された人と妖魔の怨嗟の声が」
『……やっぱり、無支奇(むしき)の加護だったのね。地刹星のあなたは天星には至れないわ。乱を起こす前に死になさい』
アスカは倒れたまま、手を空に伸ばした。
「相棒、まだ死ねない。久しぶりに暴れるわ」
アスカは立ち上がって、首をゴキゴキ鳴らしてシャムシエルに微笑んだ。
「あんたが死ぬ前に聞くけど、その兜に無限の妖気を出す力なんてあるの?」
『違うわ、こいつはあたしの霊気を吸い取ってるだけよ、ただの鎧。エヴァに不死の力は無いわ』
「ありがと、だったら当面は殺さないでおくことにする」
『……中の敵に蝕まれるのは、自分の宿命と比較した同情かしら』
「相棒っ、早く来いっ」
如意金箍棒、如意とは意のままにという意味である。シャムシエルは飛来するそれから距離を取った。浮遊しているシャムシエルの動きは、その鈍重な外見からは想像もつかないほど早い。
『破壊のアーティファクトっ、だけどそんなもんでアタシは殺せないわよっ』
「分かってるわ。だから、こうするのよぉぉぉぉぉ」
アスカは飛んできた金箍棒を手にすると、屋根瓦に突き立てた。一般人にも見えるほど強烈な赤い妖気が彼女の体から発せられた。
人間は本来妖気を放つことはできない。だが、髪を逆立てて丹田を燃やしたアスカから発せられたのは、まぎれもなく妖気である。
『へぇ、かくし芸持ってんじゃない』
シャムシエルの口調から嘲りが消えた。楽園の守護者であり、一説には堕天使ともされるシャムシエル、彼女は戦いにおいて守護を超えたものを見せる。虐殺と呼ばれようとも、主の意志であれば平然と行ってきた。
「魔猿変化っ」
アスカの体が赤く変色した。釣りあがった瞳、鋭い牙、猿の妖魔というより、鬼に近い。
シャムシエルには、その妖気がどこから発せられているのか手にとるように分かった。今までシャムシエルが手にかけた者たちの怨霊がアスカを取り巻き、それが妖力へと変換されている。
『怨嗟の炎をまとう破壊者ね、本当にそんなヤツがいたなんて、あんた最高。いくわよおっ』
シャムシエルの鞭がアスカへと振られた。神聖な霊気をまとうそれを、金箍棒で受けた瞬間、互いの気が反発し大きな衝撃波が起こる。その度に、妖怪城が揺れるほどだ。
「ハアアァァァァァ」
『ちぃっ、なんて力っ』
シャムシエルの結界は、全く意味をなさなくなっていた。霊力で作られた結界が。アスカの妖力で相殺されているのである。
お互いの力が拮抗する中で、決め手を持たないまま消耗戦が続いていく。
チャンスは巡ってきた。鞭は接近戦には向かない。
『フィールド全開ッッ』
シャムシエルは叫び、全霊力で結界を張り金箍棒の一撃を防いだ。アスカを弾くため出力を上げるが、アスカも負けてはいなかった。金箍棒でシャムシエルの頭部に張られた結界を力ずくで押し返している。
『あんた、何者……』
「斉天大聖っ、総流・アスカ・ラングレーよっ」
パキン、という音と共に結界が弾け、シャムシエルの頭部は叩き割られた。
シャムシエルが最後に見たのは、今まで自分が殺めてきた者たちの天に昇る姿だ。その後ろで、一つ目の巨大な猿が笑っている。中国で、未だ革命の神として秘密裏に祀られる邪神、無支奇の姿であった。
『オオオォォォォォォ』
消滅するシャムシエルを、アスカは見つめ続けた。
「あたしの名前よ、地獄へいっても忘れないでね」
使徒シャムシエル殲滅。
動き出す人影がいた。
シャムシエルの触手に胸を貫かれ、死んだと思われていた冬月だ。咳き込みなからも意識を取り戻し、無名鎧へと歩を進めた。
「ぐぅ、私は、なぜここに。いや、S2機関を取り戻さねばいかん。それが私に与えられた使命」
よろめきながら無名鎧、その兜に触れた瞬間、目の前が暗くなった。夕暮れの終わる時間だが、まだ太陽は沈みきっていない。
『あるじゃねぇか』
振り向くと、少年を抱えたミイラ男がいる。冬月の触れた無名鎧が振動を始める。
「貴様はっ」
『俺の名を言ってみろっ』
いつものセリフと共に、冬月は殴り飛ばされた。仮面が割れて、そのまま後ろに飛ばされる。
「エヴァさん、お年よりにひどいよ」
『あいつは妖術使いだ。あんなのじゃ死なねぇ』
アスカの雄叫びを無視して、重羽童子は兜を取るそれを被った。
『ああ、思い出してきやがった。そうだ、俺はこいつをあのクソ法師に取ってもらったんだ。そうだ、あの烏賊女を閉じ込めるために……。なんでだ、あいつの顔が見えねぇ、アイツは誰だ。知ってるぞ、あれは、誰なんだ……』
重羽童子は記憶の繋がらない苦しみに声をあげる。
「あっ、アスカだ。なんか変身してる」
シンジは訳の分からないことを言う重羽童子を無視して、アスカに手を振った。
「来たよー」
「遅いってぇのよ、もう死にそうなんだから……」
アスカが振り向き、シンジの隣にいる重羽童子を見つめた。いつもと変わらないシンジはこんな凄惨な風景の中で、無邪気に手を振っている。
「う、うう、恥をかかせおって。死んでもらうぞ」
立ち上がった冬月は叫ぶと共に、ステッキを掲げる。瞬時に魔法陣を発現させるとそこから光の矢を撃ち出したのだ。四方に向かってばら撒かれるそれは、疲労したアスカとただの少年に過ぎないシンジを殺すには充分なものだ。
『テメーは黙ってろっ』
重羽童子が叫んだ瞬間、頭部をすっぽり覆った兜のアギトが開いた。妖気と共に、虚数空間から召喚された鎧が瞬く間に重羽童子の体を覆った。
『うぜぇっ』
使徒の使用する結界と同種のものが、光の矢を弾いていた。広範囲に張られたそれは、全ての矢を食い止めている。
「な、なんということだ」
『手前、嫌な匂いがするぜ。南蛮の伴天連どもの匂いだ』
欠けた仮面を剥ぎ取ると、冬月の素顔が晒された。若いころは男前であったであろうロマンスグレーなハンサムだ。だが、その額に張り付いた蛭のようなものが、その容姿を台無しにしていた。
「エヴァさんも変身した。いいなぁ」
シンジは相変わらず的外れなことを言っている。アスカは重羽童子が敵であると確信し、その姿を睨みつけていた。
『なんだ、見たことあるな。たしか、こいつは美味いもんだ』
動けない冬月に、その凶暴な手を伸ばす。全身をぴったりと覆った鎧は、どこか特撮変身ヒーローモノの悪役じみていた。冬月の額に張り付いたヒルのようなものをつかむと、それを引き剥がす。
ずるり、という嫌な音とともに額から頭蓋骨、脳にまで侵入していたヒルが一気に引き抜かれる。
重羽童子は、その気持ちの悪いヒルのようなものをためらうことなく口に運んだ。ムシャムシャと美味そうに食べている。
「あれは、たしか金蚕虫。人を操るための蟲毒だわ」
『そうだ、そんな名前だったな。こいつは美味いんだ』
意に介することなく美味を楽しんだ重羽童子は、満足げにそれを飲み込んだ。
冬月は、我に返ったように辺りを見回している。
「私は……なんということを」
「これってアレでしょ、よくあるパターンの操られてた人ってこと?」
アスカの問いに、冬月は頷いた。
冬月自身は、たしかに無名鎧にも興味があり、また先ほどまでの嗜虐性も持っているのだが、それを丸出しにするほど子供ではない。金蚕虫により操られた状態で欲望全開になっていただけである。言い換えれば、本質は操られていても変わりはしない。
「う、うむ。余生を過ごすためフィリピンに別荘を買ったのだが、引越してからの記憶が曖昧だ。しかし、自分の不様な行動は覚えているよ」
冬月は痛む胸を押さえながら、声を絞り出す。
「なんかさ、ここのお姫様閉じ込めてるみたいだからそれ解放してあげよ。多分、事情を説明したら殺されることは無いと思うけど」
青葉がまだ生きていれば、なんとか丸め込むだろう。ダメな時は重羽童子がいる。最悪それでとんずらだ。
「ごめん、シンジ、とにかく疲れた。後のこと任せるわ」
アスカは粉砕した屋根瓦をどけて寝転んだ。夕日は沈みきり、夜の闇に包まれる中で月が輝いている。
疲れた、とにかく今は眠りたい。
西暦2015年 一夜明けて十月某日 正午
妖怪城宴の間
あの後、妖怪城城主である稲荷大明神、天狐の位を持つ伊吹マヤはその長い肩書きとは裏腹に、シンジと重羽童子の要領を得ない話を根気よく聞き取り、死にかけの青葉を蘇生させ、冬月から事情を聞き出していた。
冬月はまことに申し訳ないと謝罪し、命は助けてもらえた。だが、損害賠償として数億円の負債を背負わされて途方に暮れた。
紆余曲折を経て、京都ダンジョンに張られていた結界は消滅し、その存在が白日の下にされた。だが、日本政府の見解は『京都は廃墟のまま』である。元々知っている人間は知っていたことだ。公然の秘密として放置されることになった。元のまま、とはいかないが一応は安寧を保つ結果となった。
そして、今は宴会である。
青葉は見事にマヤを口説いていた。
「マヤちゃーん、デートくらいしてくれてもいいじゃないか」
「異性交友は、清いところから始まるんです」
アホかこいつら、と言う気も失せるキモい光景からアスカは目を逸らした。狐が踊り、シンジは酒を飲まされて転がっており、重羽童子はでかすぎる盃で大量の日本酒を流し込んでいる。その傍らには、あの紫色の兜があった。
碇シンジと重羽童子、この二人が何者なのか分からない。敵ではない、というだけで味方でもないのだろう。別にそれでいい。
冬月の姿を捜すと、衛星携帯電話で何やら話しこんでいる。青葉の私物ということは、大体想像がついた。
「もしもし、久しぶりだな、碇」
『いえ、先生こそお元気そうで何よりです。青葉くんから話は聞いています。副司令の待遇で迎えますが』
「頼む、できれば七年計画で返済したいのだが」
『考慮します』
冬月は借金から逃げるという選択肢を捨てた。重羽童子を見てしまったのが原因だ。いつか、あの力をこの手に、と考えているのだ。
「うぅ、気持ち悪いよぅ」
「ほら、あんたもしっかりしなさいよ」
今にも吐き出しそうなシンジに肩を貸して、トイレまで連れていくことにした。この場で噴出させる訳にもいかない。
「あ、なんか、前にもこんなことがあったかな」
「何よ、それ」
「アスカが笑っててさ、加持さんもいて、あれ、なんだろうこれ」
酔っ払いのたわ言、でもよかったのかも知れない。アスカが同じデジャビュを感じていなければ。
ダサすぎるワンピースが頭をちらつく。こんなもの今さら着ようとは思わないのに、なぜだろう。
シンジをトイレに押し込んで、薄ら寒い気持ちを押し殺す。
総流・アスカ・ラングレー、破壊と反乱を司る邪神の申し子。
「何よ、この感じ」
知っていて知らない自分の思い出。頭のすみでキラキラと光るそれは、重羽童子を苦しめるそれと同じものだった。
西暦2015年 十月某日 正午
第三新東京
冬月との交渉を約束して通話を終了した碇ゲンドウ総司令の元に、緊急回線が開かれた。
「私だ。……そうか、分かった」
短く返事をして受話器を置くと同時に緊急警報が鳴り響いた。
司令室を出て発令所に急ぐ。
騒然としている発令所では、リツコが衛星写真とモニターを見ながら忙しく指示を出している。
「総員第一種戦闘配置、赤木博士、状況は?」
「敵、使徒と思われる巨大な浮遊物が第三新東京に向けて進行しています。到達時刻は一五○○時と想定されます」
モニターに映るそれを見て、ゲンドウは息を吐いた。
「次はそう来るか……」
そのつぶやきにリツコは訝しげにその相貌を覗くが、何一つ読み取ることは叶わなかった。
「司令、あのサイズでは方法がありませんよ。重羽童子をここまで運ぶのに時間がかりすぎますから」
と、発令所にやってきたミサトが言った。いつものように、サングラスを外そうともしない不遜な態度だ。
「……作戦は諸君らに一任する。一時間以内に報告したまえ」
「レイを使います。方法は今から考えますが、よろしいですか?」
ミサトの問いに、ゲンドウは薄い笑みで応えた。
碇ゲンドウという男にとって、立ち止まることは死そのものだ。
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