■□call my name□■

 平安時代のことである。
 妖魔妖怪邪神に天魔、それら全てを震え上がらせた大陸帰りの大妖怪がいる。南蛮渡来の錬金術に、なんでも切り裂くその小刀、紫色のその鎧、やんごとなきお方と噂されたその鬼は、悪逆非道の限りを尽くしたが、偉い法師に調伏された。
 生き意地汚いこの鬼は、法師になんとか命乞い。
 偉い法師は鬼の力を利用してやれと考えた。鬼の名前を奪い取り、名付けた名前は重羽童子。
 重羽童子と法師は行脚の旅を始め、その敵をすべからく調伏せしめたという。






西暦2010年 五月某日 正午
京都廃墟


 内閣調査室による非存在調査書が正式に受理される。一般公開は西暦2300年予定。
 同時刻、京都地下寺院にて第一非生命封印解除。
 碇ゲンドウ僧正らにより、特務機関ネルフ正式発足。
 バチカンによる一斉掃討作戦により、狂血病駆逐される。防疫修道会の存在がローマ法皇により発表される。




西暦2015年 十月某日 夕暮れ
第三新東京市


 その日、碇シンジの元に手紙が届いた。
 彼は良くも悪くも目立たない中学生である。碇、という名字が特徴的なためか名前を間違われることはないが、その他では印象の薄い少年である。親戚であり父が懇意にしていた恩師の下で育ち、特に不満というものを持つこともなく育った。父母がいなくなった、という喪失感が精神を蝕むこともなく、彼は遠慮がちで良く言えば優しい少年に成長していた。
 秋口だというのに詰襟の学生服をしっかりと着込んだ碇シンジの評判は、真面目な子、というのが学校や近所で共通するものだ。
 そんな彼とてエロ本の一冊や二冊は持っていたし、それ相応に気になるクラスメートもいたが、今はそれより重い問題があった。
 昼休みに何度も読み返した父からの手紙だ。
 衝撃的といえば衝撃的な内容だ。「来い」とだけ書かれた手紙というのも珍しい。どうしようか、と考えたものの行くという選択肢だけしか選べないことに気づく。
 どのみち、離れは撤去されることに決まった。
 別れを惜しむほどの友人はいない。



 汚らしい身なりが周囲の視線を集めていたが、彼女は全く気にしていなかった。つい二時間前までたった二人で三十からなる妖魔を調伏したのだ。汚れも仕方ない。
 空港を出た総流・アスカ・ラングレーは、ようやく受け取れた如意金箍棒を軽く振ってその感触を確かめた。
 護衛の青葉は小さく口笛を吹いてその力に感嘆した。軽く振っただけでも、その一メートル半ほどの天秤棒から発せられる霊気は並じゃない。
 若干十四歳の小娘が、ネルフへ迎えられたのは綾波レイに続いて二度目だ。綾波レイに関しては上層部の仕込みであり、青葉も彼女がどんなポイントにいるのかは把握できていない。だが、この少女は違う。純然たる実力だ。
「さて、お嬢さん、どこに行く?」
「ネルフへ行くんじゃないの?」
「第二東京へは距離があるんでね、今日は第二で一泊さ」
 アスカは小さく笑った。
 小さな赤い髪飾りがよく似合っている。
「ま、いいけどさ。本当は別の理由があるんでしょ?」
「向こうについてから話すよ」
 青葉はハハハと乾いた笑いを漏らした。
 ドイツ支部を滅茶苦茶に破壊し、向こうの技術者たちが恐怖した化物は、しっかりとコンテナに詰め込まれている。
「近代科学の敗北ってやつでしょ」
「勘がいいね。そう、あれは重羽童子本体だよ。鎧と刀は本部にあるけど、止められるかい?」
 アスカはにやりと笑ってみせた。
「アタシを誰だと思ってんの」
「いやいや、失礼しました。さて、その格好はまずいから、とりあえず服を買おうか」
 青葉自身泥と返り血まみれのスーツでは、これ以上出歩く気になれなかった。上海空港を襲った妖魔三十、その全てはちゃんとした古い妖魔たちである。重羽童子の復活を恐れてのものだと知ったら、コンテナの中にいる化物はなんと思うだろうか。
「ま、とりあえず行こうか」




 今日で最後の先生宅で、シンジは荷物を整理していた。本当はそんなこと前日に済ませていたのだが、やることがなく延々と荷物を整頓していただけに過ぎない。
「どうしようかな」
 と独り言をつぶやくが、何もする気はおきなかった。
 父のことには、あまり興味が無い。
 碇シンジ、という人間は生まれつき無気力なのだ。幼いころ母に精神科医へ連れていかれ、なんとかいう長い病名でそう診断された。
 無気力で無関心だが、やらねばならないことだけはすぐに覚えた。言われてやらなかったら食事を与えられない、だからやったに過ぎない。そうして、生活していく上でのことは覚えていった。
 テレビもなく本もなければ、ラジオも無い。趣味といえるものはないが、性欲はあるのでクラスメートたちの言っていた通りエロ本は何冊か買ったが、自己処理と同じ感覚しか得られなかった。
 無気力で無関心、自己の快楽への感心もなく。植物のように生きる少年は、心の底から何も無いし、それを気に病むというほどの感情も持っていなかった。
 この時、奇妙な感覚に包まれた。
 誰かに呼ばれているような、そんな初めての感覚だ。
 荷物に収めていた護身用の個人結界を取り出す。両親から貰った唯一のそれは、白い十字架のネックレスだ。十年前に父から渡されたこれを手放したことは無い。
 個人結界、夜を歩く時にこれがなかったら野良妖魔にかじられても文句が言えないからだ。言ってみれば世間の常識である。
「ああ、そうだ、買いに行かないと」
 この感覚に合理的な理由を見つけ、缶きりと携帯電話の予備バッテリーを買いにいくことにする。
 知らない感覚を否定した、というのは碇シンジが人間であることを示していた。
 夕暮れから夜に差し掛かる時間帯を歩いていると、そこらかしこに妖魔の姿があった。よく見かけられる犬っぽい牙を持つ程度のものだ。これらの野良妖魔は結界さえあれば近寄ってこない。近寄られれば、最悪食われることもあるが、走って逃げることも可能だ。中学生が三人もいればなんとかなる、それが街に現れる妖魔である。
 シンジはぼんやりと逢魔ヶ時の大通りを歩き、そろそろ閉店間際のデパートへ入った。




 領収書を貰うことを忘れずに、ブランドモノのスーツ一式を買い込んだ青葉は、アスカが着替えるのを待っていた。
 旧東京にあった六本気ヒルズと同じようなショッピングモール、経費で何か買うにはうってつけの高級店だ。吹き抜けになったエレベーター前のベンチで青葉はくつろいでいた。
 高級スーツにギターケースを持ったロンゲの男、見るからにミュージシャンな青葉は、近くの女性に微笑みかけたりして時間を潰していたが、現れたアスカに口をぽかんと開けたままになった。
「どうしたの、バカみたいな顔して?」
「いや、……キミが美少女だってことに今気づいたよ」
 呆れたように笑うアスカは、ボディラインを強調するインディゴブルーのジーンズに、何やらストリート風の刺繍の入った黒のタンクトップ、その上にスカジャンを羽織っていた。
「なによそれ?」
「誉めたのさ」
 青葉は昔懐かしい援助交際オヤジなんて言葉を思い出したが、そう見られることは我慢するしかないと考え直す。
「でもいいの、アレ放っておいてショッピングなんて」
 コンテナの中身は、専門の業者に運ばれている。
「大丈夫さ。あの棺を開けられるのは世界に一人だけなんだよ」
「へぇ……もう持ち主は決まってるってこと」
 アスカはちらりと自分の如意金箍棒を見つめた。これも、資格の無い者には操れないものだ。
「さあね、それは本部の連中が決めることさ。だけど、俺やキミには無理だよ。連中も分かってるから、強奪しないんじゃないのか?」
「強奪、ね」
 アスカは小さくため息をついた。
「帝国ホテルでゆっくり休めるはずだったんだけど、ちょっと無理っぽくなってきたみたいだ」
 お互いに困った顔で微笑むと、エレベーターで地下の駐車場へ向かった。
 わざわざ本部から借りてきた防弾仕様の黒塗りベンツに乗り込み、青葉はため息を吐いた。
「アスカちゃん、いつ仕掛けてくると思う?」
「コンテナと合流してからでしょ」
 青葉はとあるテレビタレントを真似て「残念」と答えた。
「どういうことよ?」
「実は、コンテナの中身はダミーでね。本当は後ろに積んでるんだよ」
 コンテナ自体はダミーで、本当は一つ前の便で運ばれ車に詰め込まれている。
「そういうことは先に言ってよ」
「敵の目を欺くにはなんとかって言うだろ。ま、それに気づいてた連中ってことは、かなりヤバい感じ?」
 青葉に聞かれて、アスカは額を押さえて息をついた。
「後ろの化物のがもっとヤバいわよ」
 それは青葉も分かっている。こいつは封印されているとはいえ、危険すぎるのだ。過去大陸からやって来た九尾の狐を殺生石に封じ込め、さらには歴史書には無いが真言立川流の教団を一匹で壊滅に追い込んだとも言われている。
「そろそろ出すよっ」
 偽六本木ヒルズから出た瞬間に、四方を車に囲まれた。
「どうする?」と青葉。
「どうもこうもないでしょ」
 囲まれたまま連れていかれたのは、広い自然公園だった。ご丁寧なことに人払いの結界まで張られている。
「やるしかないみたいだなぁ」
「嫌そうな顔されたらやる気なくすじゃない」
 ギターケースを持って青葉はドアを開けた。アスカも金箍棒を持って外に出る。
 秋を感じさせる冷たい風と、濃い瘴気に吐き気を催した。準備万端、というところらしい。
「重羽童子の棺を渡してもらおうか。ヤツが外に出ることになれば、世界が滅びかねぬ」
 と、声の方向を向くと般若の面をつけた巫女姿の女がいた。手に持った刀といい、普通じゃない。その周りから黒い山伏たちが現れる。
「……鬼道衆の般若姫か。こりゃまた大物登場だな」
「何よ、あのコスプレたち。知り合いみたいだけど?」
 緊張感に欠けるアスカが指差す。
「なっ、コスプレじゃと……赤毛猿がっ」
「あれは鬼道衆、まあアレだ。妖魔妖怪を倒して収入を得ている方々なんだけど、ちょっと過激な人たちでね。妖魔を食って力を得たり、人魚を食ってみたりと、そんなことばかりしてる社会不適合者の集まりだよ。もちろん知り合いだけど友達じゃない」
 般若姫とやらは歯ぎしりをして唸った後に、刀をこちらに突きつけた。
「重羽童子は碇めには渡さぬ。青葉家の頭領と赤毛猿、ここで死んでもらう」
 アスカは金箍棒を構えて不敵に笑んだ。
「言いたい放題言ってんじゃないわよコスプレババー」
「と、まあそういう訳だから、とりあえず反撃させてもらうよ」
 ギターケース開けた青葉は明らかにイカレてるギターを取り出した。ギターと銃の融合、というか無理にギターの内部に銃を内臓しヘッド部分に銃口がついている上、ボディには刃が取り付けられている。
「それ見る度にアンタの神経疑うわ」と、アスカ。
「死のライブってことで」
 ダサすぎる発言をした青葉シゲル26歳のギターから銃弾がばら撒かれた。
 山伏たちは突然のことにまともに食らい半数が倒れる。不意打ちに引っかかる方が悪い。
「ひ、卑怯な真似をしおって、死ねい」
 明らかに人間では出せない速さで般若姫が青葉に斬りかかる。刃を止めたのはアスカの金箍棒だ。
「こっちもいるって忘れてない?」
「ええいっ、小娘が邪魔をしおって」
 般若姫の刀を受けた感触では、間抜けなくせにこの女は強い、と判断させるに充分なものだった。
「ナイス、アスカちゃんっ」
 般若面に向けて銃を突きつけた青葉が叫ぶ。
「仕方ない、本気でやってやろうではないか」
 般若面の放った衝撃波でアスカと青葉は吹き飛ばされた。車にはねられたような衝撃だ。
「ふん、その程度で鬼道衆がやられるものか。貴様ら、本気でかかれい」
 先ほど銃撃を受けた山伏たちが立ち上がる。そして、その姿を本来のものに変えていた。黒い羽毛に嘴、鴉天狗である。
「うっわ、ちょっとヤバくない?」
 アスカは言いながら、腹を押さえて立ち上がる。さっきの衝撃波、気合だけであれを発したとなるとヤバい。
「うーん、あんなに強かったとは」
 青葉も立ち上がるが、状況はあまり良くない。
 鴉天狗たちがベンツのトランクをこじ開けようとしている。
「悪いんだけど、ベンツ守るからコスプレお姉さんを頼んでいいかな」
「了解、援護はしてよ」
「善処するよ」
 すっと息を吸い込んだアスカは、般若姫を睨みつける。
 痴女まがいの馬鹿だと油断したのがいけなかった。あいつは強い。
「ほう、赤毛猿がわらわの相手をするか」
「正直舐めてたわ。今から本気よ」
 般若姫も刀をしっかりと構えた。
「お前たち、手を出すな」
 アスカの予想通り、乗ってきた。古いタイプの馬鹿は一騎打ちをしたがる。そう思って微笑んだアスカだが、彼女もその古いタイプの馬鹿だ。
「ハンニャヒメ、だったよね」
「赤毛猿、名前などどうでも良い。死ねばそこまで、後に残るもの無し」
「上等」
 上段から振り下ろされた金箍棒をかわす般若姫が、アスカの右足首を狙って横なぎに刀を振るう。
「終わりじゃ」
 足首をやられれば、動けなくなり死ぬだろう。地味だが人体の急所だ。
「だあっ」
 よく分からない気合と共に、金箍棒を軸にしての飛び蹴りを般若姫の胸にきめていた。心臓狙をしっかりと狙った蹴りをかまされ、後ろに下がる。
「ぐぅっ、なかなかやる……貴様、名は」
「斉天大聖アスカ」
「なるほど、あの噂に名高い邪神の力を得た者か」
 般若姫も噂では聞いている。古来より斉天大聖と名乗る邪神の力を受け継ぐ者がいる、と。
「だが、まだ負けてはおらぬ」
「今なら見逃してあげるわ」
 金箍棒をくるくると回して、わざとらしく構えたアスカに鴉天狗たちが六角棒で威嚇を始めた。
「ええい、よせっ。わらわに恥じをかかす気かえっ。赤毛猿、ここは貴様の顔を立てて……む、何ヤツっ」
 ベンツの所で青葉が鴉天狗たちと戦っていたのだが、突如としてそこに雷が落ちた。
「おわっ、なんだぁっ」
 ベンツから逃げた青葉が雷と共に現れた人物をようやく確認した。
「般若姫ぇっ、そこで逃げるってのはヘタレすぎだぜ」
 そいつは猿の頭と虎の体、そして蛇の尾を持つ怪物だった。二メートルほどの化物は全身にプラズマをまといながら、牙を剥いた。
「鵺、貴様使い走りの分際で何を言うかっ」
「使えねぇな、テメーわぁ。俺が手伝ってやっから安心しろ」
 防弾ベンツのトランクを爪で引き裂いた。防弾仕様のそれを簡単に引き裂く妖魔、鵺は下品な笑みを浮かべたまま、棺、というには小さすぎる木箱を取り出す。
「勝手なことすんなよっ」
 青葉がトリガーを引くが、鵺のプラズマで作られた結界には通じない。
「痒い痒い、ヘッヘッ、懐かしいぜ重羽童子。俺様の顎を割ってくれた礼をしてやらねぇとな」
「よせっ、鵺。わらわは負けたのじゃ、ここはいったん退く」
 鵺は般若姫の言葉を無視して、凶悪な笑みを口元に浮かべた。
「誰が聞くかよ。手前の面子なんざどうでもいい。お館様の命令は絶対なんでね」
 木箱を雷で叩き割ると、そこから出てきたのは赤い石で出来た長方形の物体である。表面には見たこともない文字が刻まれており、アスカや般若姫でさえ寒気を感じるほどの霊気を発していた。
「ヘヘヘ、お前の苦しむ姿を見れないのは残念だけどな、ここで焼け死にな」
「貴様、わらわの顔に泥を塗る気かっ」
 般若姫が走った。縮地の法と呼ばれる人間の到達できるものをはるかに超えた速さで、鵺に肉薄し、刀を振り下ろす。
「ちぃっ、手前っ」
 鵺が赤い棺から飛びのいてそれをかわすと、刀はそのまま棺の中ほどまで突き刺さった。
「クハ、アハハハハハ、こいつは傑作だ。手前でケリつけちまったな般若姫」
 般若姫ははっとアスカを振り返るが、アスカは苦笑して肩をすくめ、鴉天狗たちは顔を背け、青葉は口を開けて固まってしまっている。
「ち、違う、わらわはこの不埒者をだな」
「カハハハハ、ご苦労さん般若姫」
 鵺はいやらしい笑みで棺を覗き込む。刀の突き刺さった時に生じた裂け目からオレンジ色の液体がどくどくと溢れ出ている。
「一応とどめってことで食らわせねぇとな」
 鵺が何度か爪を空で振った。すると、その手に大きなプラズマ球が形成される。
「念には念を入れて……、っておいなんだこりゃ」
 裂け目から包帯の撒かれた太い手が突き出て、鵺の手首を握りつぶしていた。
「え、俺の手が、おい、なんだ、これ」
 鵺は事態が飲み込めていない。いや現実を受け入れられないのだ。死神に囚われたという現実を。
「重羽童子め封じられてなおその力とは見誤っておった」
「般若姫助けてくれぇっ」
 般若姫は刀を引き抜くと、鵺の捕まれている手を斬った。肘のところですっぱりと切断される。
「ぎゃああああ」
 鵺の叫びを無視して、棺から距離を取ると刀を構えなおす。そんな般若姫の隣にアスカが駆け寄った。
「赤毛猿、何のつもりじゃ」
「ここは一時休戦ってことでどう?」
 般若姫の表情は仮面で隠されていて分からないが、アスカには確かに彼女が笑ったように見えた。
「ひぃぃ、お、俺は逃げるぜっ、畜生」
 鵺は傷口を押さえて叫んだが、誰も聞いていない。いや、一人だけ聞いている者がいた。
『俺の名を言ってみろ』
「ひいぃっ、え、え、重羽童子ぃ」
 物理的にはありえないが、その小さな棺から這い出したのは、全身を包帯で包んだ化物だった。らんらんと輝く赤い瞳、そして凶暴な口元、重羽童子数百年ぶりの出獄であった。
「アレが重羽童子か……」
 オレンジ色の血のようなものが全身にからみつき、包帯からはところどころ血が滲んでいる。
 異様なのは、両手と首に鎖がからみついていることだ。鎖は重羽童子の背中から生えていた。
『違うっ、俺の名前はそんな名前じゃねぇっ。お前、俺の名を言ってみろっ』
「か、勘弁してくれぇ」
 鵺は首を捕まれ持ち上げられている。
『お前、見たことあるぞ……。糞法師と一緒にいる時に見たな、あの時は……殺さなかったか?』
「あ、あの時はダンナが許してくれたんだよ。勘弁してくれぇ、頼むよ、殺さないで」
『畜生、昔のことも思い出せねぇ……』
 重羽童子は鵺を放すと頭をかかえる。
『俺は誰なんだ……、ぐ、ぐえぇぇ』
 重羽童子は大量の血を吐いてその場にうずくまる。
 アスカはそんな弱っていると思われる重羽童子を前にして、動けなかった。般若姫も間抜けだが実力はある。同じように動けない。
 そんな中でチャンスか、と思っている者が二人いた。青葉と鵺だ。
(昔の重羽童子じゃねぇ。ヘヘこいつくらいなら勝てる)
(案外チョロいんじゃないか)
 ここで明暗が分かれたのは運によるものだ。青葉がギター銃のトリガーを指にかけた瞬間、ジャミングを起こしたのだ。痛めつけて本部に持ち帰る、という目的はここで潰えた。
「ひゃっはぁっ、死にやがれぇっ」
 鵺は残った左手の爪と牙に雷をまとわせて重羽童子に襲い掛かった。
『おい、俺の名を言ってみろ』
「え、あれ、なんで」
 鵺の左手をつかんだ重羽童子は驚異的な腕力でその手を引き千切った。鵺の絶叫を無視して、何も映していない瞳で目線を合わせた。
『俺は誰だ、言ってみろ』
「え、え、重羽童子様ですぅ」
『違うっ、俺はそんな名前じゃねぇっ』
 鵺の頭を両手で持った重羽童子は、その叫びと共に、鵺の頭を両手で押し潰していく。
「ひいっ、や、やめ、たわぁびゃぁ」
 と、音にするならそんな悲鳴を上げて鵺は頭部を無くして崩れ落ちた。
「や、やらなくてよかった……」
 青葉は鵺の壮絶な最後を見てつぶやいた。
「……ちっ、大人しくしてくれそうにないタイプね」
 アスカのつぶやきに般若姫が答える。
「わらわが行こう。キャツの命を消すのは我らの悲願」
「ったく、必殺キック食らわせてやったのによく言うわ。アバラいってるのにやる気?」
 アスカは金箍棒で般若姫の後頭部を殴り倒した。
「ぐっ、貴様」
「おとなしく寝てなさい」
 般若姫が気を失うと鴉天狗たちは彼女を抱えて闇に消えていく。
「アスカちゃん、せっかくの味方を無くしてどうしたいんだ」
「なんとかなるって」
 青葉はため息をついて、ジャムった銃の使用を諦めた。ボディ部分の刃を使うためヘッドを握りしめる。
『畜生、頭がいてぇ。んぅ、赤い、赤い、畜生、血だ。ハァハァ、なんだお前、知ってるぞ、知ってるぞおぉぉぉぉ』
 叫んだ重羽童子はアスカへ向かって走る。
「くそっ、化物っ」
 金箍棒でカウンター気味に重羽童子の顔面を殴る。完全に入ったそれは、普通の妖魔なら頭が吹き飛ぶ威力だが、重羽童子は平然とアスカの両手をつかんでいた。
『あ、あ、赤い髪、……そうだ。俺は、お前を知ってる。あああ、畜生、脳みそがいてぇ、お前のこと知ってるのに思い出せねぇ、俺の名を俺の名を言ってみろ』
 アスカは重羽童子の異相と瘴気に足が震えた。今まで色々な化物と戦ってきたが、こいつはどれとも違う。だけど、悲鳴は出なかった。
「知るかっ、気持ち悪いっ」
 重羽童子はアスカの手を放し後じさると、また大量の血を吐いた。
『あ、あ、、お、お前のことを知ってるぞ。そうだ、お前は前にもそう言った。畜生、頭が割れそうだ……キモチワルイキモチワルイ、うあぁぁぁぁぁぁぁぁ』
 あまりの絶叫にアスカも耳を押さえた。
 悲痛というより、生理的嫌悪が先に走った。
 重羽童子は次の瞬間には走り出していた。叫びながら逃げていく重羽童子の後姿を確認してアスカは座り込んだ。
 青葉も青ざめた顔でそれを見つめるだけだ。
「だ、大丈夫か?」
「ちょっとちびったかも……」
「俺もだ」



 あまり意味がない買い物を終えたシンジは、とぼとぼと歩いていた。
 こんなことをしても意味が無い、ということを知っているためだ。自分の行動への疑問があった。
 答えは見つからないが、帰り道で変な集団とすれ違った。何やら山伏の一団が通り過ぎていく様に唖然とさせられたが、こんなこともあるだろうと無視する。
 ようやく家に着くというところで、それが目に入った。
 うずくまって血を吐いているミイラ男。妖魔の類、であれば個人結界で逃げていくだろう。
 近づいても反応が無い。
「救急車、呼びましょうか」
 と声をかけた時、ミイラ男と目が合った。
『お前は、俺のことを知っているか』
「初対面のはずですけど」
 目が合った時、なぜか知っている気がした。それは、何の感情も伴わない知っている、というだけの感覚である。
「あ」
『そうだ、俺はお前を知っている……』
「そんなことより救急車を」
 シンジがミイラ男に手を貸そうとした時、その手を止める者がいた。
「碇シンジくんね。私は葛城ミサト、予定が早まって、迎えに来たのよ。彼も一緒にね、彼は重羽童子」
 はっと、見上げると、月明かりに照らされた黒尽くめの女性、葛城ミサトの姿があった。紫がかって見える黒髪と、その姿はどこかで見たことがある。
 サングラスをしていて表情は分からないが、シンジは不思議な既視感に襲われた。
『俺はそんな名前じゃない』
 ミイラ男が口を開く。
「……なら、エヴァンゲリオンというのはどう?」
『う、うぐぐぐ、それも聞いたことがある。お前は、俺を知っているのか。いや、俺は知っているぞ』
「ええ、色々と知っているわ。おとなしくしていれば、こちらのことも教える」
 シンジはぼんやりとミサトを見つめた。
「先に彼を送っていくわ。明日、ちゃんとした書類と一緒に迎えにいくから」
「あの、もう一度名前を」
「ミサト、葛城ミサトよ」
 シンジは知っている気がする、という言葉を飲み込んだ。
 なぜか、今はそうした方がいいと思えた。