ドクンドクンと、心音が聞こえる。
僕の耳はその音を確かに捉えていた。
その音は僕が生きている証だった。
この静止した世界の中で、僕だけが鼓動を感じていた。
真っ赤な海が小波を寄せるこの海岸で、僕はじっと息を潜めていた。
僕は、まだ生きていた。
この奇跡的なバランスが崩れてしまうことが無いよう、僕はただじっと息を潜めていた。
静止する世界は、そんな僕をただここに存在させていた。
僕はまだ生きていた。希望は無かった。
僕は確かに生きていた。ただ、生きていた。
この瞬間、僕だけが、生きていた。
その世界は、真っ赤だった。
ただ、雲ひとつ見当たらない空はずっと赤く、風は無く、雨も降らない。
ただただ静かな、静止した世界。そこは完全に静止していた。
僕が目を覚ましたのは、そう言う世界だった。
空が赤いのは、海が赤いからだ。朝と夜が来ないのは、世界が静止しているからだ。
陽光は常に海の色を反射して、世界を赤く染め上げていた。赤く、赤く、真紅の空と真紅の海。
僕が立っているのは、そう言う世界だった。どうやら僕はまだ生きている。
それがどのような意味を持つのか、僕には一瞬理解できなかった。
ただ、どうやら生きてはいるようだ、と思い至る。ウンザリした気分になった。
砂が白いことに、僕は少しだけ安心していた。赤色にはもう充分ウンザリさせられている。
砂の感触は、自分がまだ生きていることを克明に感じさせた。
死んでも構わない。そう思ったこともある。生きたい、そう願ったことだってあった。
つまりは僕はどうにもならない自分の感情を、制御などできなかった。
がむしゃらに、夢中に、そしてこの海岸に至った。ここは後悔と失望と苦悶に満ちていた。
あらゆる事象は溶け合い、真っ赤な海に含有されて光を反射している。
真っ赤な空は反射された光を映す鏡である。
どうしようもなく赤い世界は、その赤さだけがすべてだった。
他には何も無い。ここには何も無かった。
何も、残っていなかった。
こうなることを、僕は望んでいたわけではなかった。
当然だ。そんなのは当然だった。誰が好んで、こんな居た堪れない空間で息をしたいと思うだろうか。
しかし結果として、そうなってしまった。
自分なりにがんばっては見たつもりだった。逃げてはいけないと、そう思ったのだ。
だが、すべては自分の望んだ逆の結果をもたらした。
すべては無駄な足掻きに過ぎなかったのか? 僕は自問する。
全ては手遅れだったと、そう言うのだろうか。
自分には、無理だったと。
応える者は、居ない。
近くにいた「あの子」はもう居ない。
ここには居ない。
ここは止まってしまった、「静止する世界」
嫌だ。嫌だった。
こんなのは、違う。そう思った。
僕が望んだ一切とは、全く違う。こんなものは、望んでいなかった。
こうなるなんて、思ってもみなかった。
すすり泣く声は、やがて慟哭に変わる。抑えることなんてできない。
この激情を表現する術を、僕は他に持っていない。
だが、張り裂けそうな喉は、乾ききって声を出すことすら適わなかった。
僕は泣き叫ぶことすら、ままならない。
どうして、こうなった?
どうして、僕だったんだ?
どうして、どうしてだ?
誰も応えてくれはしない。
僕の憤慨も、空虚も、悲しみも、その一切は赤い海の小波の音にかき消されて溶けて無くなってゆく。
僕の意識も、いっそ流されて消えてしまえばいい。
僕の体も、いっそ腐敗して土に返ればいい。
ここにいるより、その方がきっと何倍も良いに決まってる。
僕はそう思う。
こんな場所は、こんな静止する世界は、大嫌いだ。
誰もいない、誰も応えない、誰もが、居ないのだ。
僕は絶叫した。ただ、ひたすらに。
そうすることしか、できそうになかったから。
落ち着くのに、多分数時間は擁したと思う。喉から血が出てきた。痛みは端的に僕に冷静さを取り戻させていた。
声を出して泣いたのは、何時振りだろうか。とにかく泣いた。数年分は泣いた気がする。その甲斐あってか、涙はようやく枯れてくれたみたいだった。いつもよりも幾分、空疎な気分だ。ついに僕は涙すら失ったような気がしたのだ。強がることは不可能だった。絶望と言う名の死神の足音が聞こえている。ようやく、僕は自分が生きる気になれない、と言う事実に気付く。そう、この静止の世界において生きているという実感を得ることは難しい。本当は何時までも見果てぬ夢の中にいるのではないか・・・そんな気がしてならない。夢の中で生きる、そんなことはできはしない。それはあくまで夢であって、目が覚めると同時に消えてなくなる霞がかった幻みたいなものだ。そして僕はそんなことを連想させる世界に立っている、その事実に吐き気を感じている。
冷静になってからあたりを散策してみたが、やはり想像通りに何も発見することができなかった。どこまでも続く細かく白い砂の砂漠と、眼前にどこまでも続く赤い水の海。白と赤。コントラストの強いヴィヴィッドなその両色の対比で、少し目が痛くなってくる。目がチカチカする程空が赤いのは、鮮やかな夕焼けと言うよりもむしろ、血に満たされた鍋の底みたいに見えた。何らかを暗示するような強い不吉さを感じさせるそれは、僕を少しだけ怯えさせた。僕は怖い。このまま、誰も応えてくれなかったとしたら、正気を保つのは難しい。このふざけた世界で、狂った男が一人、白い砂の上をさまよい歩く。一体何の戯曲だ? それとも説教染みた寓話だろうか? 生き方を間違えた、小賢しい小僧に対する神様の天罰とでも? 喉の奥で笑いながら、僕は自分自身に呆れてしまった。この期に及んで自虐的。救いようが無い。
吐き戻した胃の内容物が白い砂に吸い込まれていく。砂はすぐに乾燥して、赤黒い染みを残すのみだった。少し愉快な気分になる。僕の汚らしい吐捨物が、このまま永遠に赤黒い染みとなって世界に残り続けてゆくのではないか、そんな気がしたからだ。それは僕の生きた事実を残す証となるだろうか? 僕の反吐の染みが人類の名残だなんて、宇宙人も呆れて物を言う気にもなれないだろう。声を出して笑うと、少しだけ吐き気がおさまってくれた。ありがたい、もう吐くものなんて胃液すら残ってないのだ。ならば嘔吐感は苦しいだけだった。
そろそろ限界が近いことを感じて、僕は座り込んだ。体力的に辛いわけではない。不思議と、ここではいくら歩いたところで僕は疲れたりはしなかった。いや、長い距離を歩いた、と感じているだけで本当は少ししか歩いていないのかもしれない。何も無い、と言う確信があるのに、ただひたすらに彷徨うことの無益さは僕を心底辟易させた。限界なのは、僕の心だった。罅割れ、赤い何かが付着した僕の心は徐々に徐々に磨耗している。擦り切れて消えるのは時間の問題だった。
自分の呼吸の音と、鼓動の音以外には何も聞こえず、赤と白以外の色は見えず、果てない砂漠の向こう側は霞んでいる。それらの状況は確実に僕を追い詰めつつある。誰かが僕を責めるわけではない。何かに追われるわけでもない。ただ、静寂。水を打ったような静けさ。耳鳴りがするほどの恐ろしく無為な時間。静止した世界の中で、僕だけが無為に時間を消費してゆく。そして、その時間の消費は僕の心の消費と同義だった。経過を感じる程に、僕は磨耗する。
こんな場所で生きる気にはなれない。だが、積極的に苦痛を受ける気にもなれない。どうも中途半端な僕は、この苦痛の空間に嫌気を感じている。でも、舌を噛み切る度胸なんか無ければ、赤い海に飛び込んで溺れる覚悟も無い。僕は中途半端だった。突然こんな空間に投げ出され、放置された僕はそれらの覚悟すら育てる時間が無かったのだ。今はこんなにも時間に溢れているのに。静かな苦悶は、僕に冷静さを与える代わりに耐え難い痛みを齎せている。
誰かに助けて欲しかった。こんな場所からは、一刻も早く立ち去りたかった。それが自力ではどうにもならないとわかっているからこそ、僕はそれを一心に願った。苦痛の無い死か、それともこの場所からの脱却か。それは何れにしても今のこの静かな苦悶からの救いであることに間違いは無い。どちらにせよ、この静止する世界から逃れられるのだから。
逃げちゃ駄目? そんな呪文はもはや何の効力も持たない。僕はただ、助けて欲しかった。磨耗して擦り切れてしまう前に。ここにはもう居たくない。ただ、逃げ出したい。それが現世であろうと、死であろうと、この際僕はどちらでも良い。
大の字に寝転ぶ。赤い空が視界一杯に広がってチカチカする。不愉快なので目は閉じた。このままじっと眠りについて、目を覚ました時、空が青ければいいのに。ずっと目が覚めなくてもいい。どっちでもいい。どちらかにして欲しい。いや、目が覚めないほうが、楽でいいかもしれない。このまま、ずっと。眠っている間は、吐き気を感じなくて済むだろうから。
(それでいいの?)
いいとも。僕は内なる声に応えた。再生できるとしても、またここに来るようなことになるかもしれない。その不安は恐怖だ。だからこのまま眠ってしまって、そのまま目が覚めなければいいのだ。それが幼稚な逃げであったとしても、これ以上の苦痛に耐えられる程に僕の心は強くは無かった。だから構わない。眠らせてくれ。
(本当に?)
うるさい。うるさい声め。僕は目を閉じたまま表情を歪めた。その声は不安気に、だが期待を込めてそう呟いた。僕の心が動くことに確信でもあるというのか。いや、僕はもう充分辛い目にあった。そろそろ休んだっていいじゃないか。
(本当に?)
「黙れ!」
僕は目を開けて大声で怒鳴った。視界一杯の赤い空は僕の声を吸い込んで尚、真っ赤だ。忌々しい空。もう、目なんか開けてやらないつもりだったのに。このまま眠り続けようと思ったのに。
思ったのに・・・僕はそれを撤回せざるを得なくなった。
僕の真っ赤な視界の中に、白以外の色が移る。
それが人の形をしているのだ、と気付くまでにそれほどの時間は要しなかった。
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