■□ もう一度、シュウマツを □■




無声映画のように映像は流れる。荒いフレームでコマ撮りアニメを作るかのように。
幾つもの画面がドラマの中で見た監視室や、テレビ局の一室を思わせる。
全てが違う映像、全てが事実のみを映している。機械は嘘をつくなんて出来ない。
監視室から無線アンテナと構内LANを通じて情報がこの部屋に集まっている。
準備は整った。夕食をゆっくりと摂る時間まであったのが不思議だ。
それが妙な感じで、普段の生活のような余裕を持つくらいなら緊張しているべきだと思った。
綾波が来る時間も判っていないのに、自分達は落ち着いて過ごしていた。
運動をしたり、普段通りの食事をして歓談して、もちろん準備はしなかったわけじゃない。
けれどこの落ち着きようはなんだろう。
本当に望んでもいないこの事実を、受け入れてしまっているのだろうか。
それともただの諦めか。自分が自分で解らなくなる。違う、元々何も解っちゃいない。
これからどうしたいのか。
綾波に会ってどうするのか。
アスカをどう思っているのか。
いつも通りの日々に戻れるのか。
何一つ解らない。確実なのはこの一連の終わりに向けて時間が流れているという事。
誰にも止められることなく時間は流れ過ぎていく。未来へと向かって。
遡る事も出来ず、砂時計の下側に堆積する砂の上を生きとし生けるもの全てが歩くのだ。
ある者は被った砂の中に埋没して逝く、ある者は振り払いさらに先へと向かう。
数多くの屍を乗り越えていつかはその地平に達するのだ、いつか。
「何ぼーっとしてんのよ」
ぱちぱちっと瞬きしてアスカが僕を見つめる。怒っていないみたいだ。
戦闘の邪魔にならないよう長い髪の毛は小さく後ろにまとめられ、団子状にされている。
本来なら目出し帽にヘルメットを被ってゴーグルも着けてという所だろう。
ケブラー繊維のジャケットも羽織った上に防弾チョッキを身に着けて、肘膝急所にプロテクターの軍人並の装備をしていたい。
それでも、そんな完全武装でもひょっとすると紙くずと変わらないのかもしれない。
ATフィールドというのはそういうものだ。本体を直接攻撃されたら意味がない。
綾波はATフィールドという別の次元から攻撃を仕掛けられる。
人間をLCLに変えてしまうなんて事は、それ以外の方法では不可能なのだから。
「画面見てたら眠くなちゃってね……ふぁ……あふ」
「緊張感ないわねえ」
この笑顔をあと何回見る事が出来るのだろう。
つまらない疑問が浮かんで、消えた。



時は来たれり。
昔懐かしい映画で使いまわされたセリフ、It’s show timeなんて流行らない。
時間は来る。避けようも無く、予言されていた訳ではなく、ただありのままに。
夜遅く、玄関先の明かりも消えて久しく一人の来訪者が現れた。
表情はカメラの死角で確認できないけれど、明らかに場違いなその服装と青の濃淡画面に白っぽく映る髪の色は間違えようがない。
その人影は静かにインターホンを押した。
「……狂ってるわ」
ごく自然な動作で呼び出しを行った姿を見て、アスカがつぶやく。
何を感じ取ったのか自分には解らない。自然な動作そのものがありえないのだろうか。
別のカメラに警備員の姿が映る。管理室を出て玄関に向かっている。
そして鍵を開け、ドアを大きく開放する。女がドレスの裾をつまみ上げお辞儀をする。
管理人は道を譲るかのように横に避けてから、胸に右手を当てて一礼した。
女がつまみ上げた裾を放し、腕を下ろすと――――

――――ドクン

現実が始まった。
女の脇を駆け抜ける影、塊が狭い玄関に雪崩れ込む。
警備兵を呑み込み監視カメラに映る数を一気に増やしていく。
「チィッ、予定外だわ。ここまでの数用意しているなんて!!」
アスカがキーボードを素早く叩く。画面の幾つかで隔壁が閉じて黒い塊を押し留める。
場所によっては潰しながら強引に通路を封鎖する。通れる場所は限られる。
エレベーターの電源を落とし、下に降りれないようにする。
「外部へのアラームもダミーを流すようにしたし、これで第一段階は……バケモノめ。
 シンジ、左上」
険しいアスカの顔から促されるままに視線を動かし左上のカメラを見る。
そこにはこっちを見ている女の姿があった。
自分が見たのを確かめたかのようにふっと体の向きを変えて歩き出す。
次の瞬間に犬の牙か口かが見えて、映像は途絶えた。
「笑った……?」
「ええ。とことん人を舐めてるわ」
アスカにも顔は確認出来ていなかったはずだ。それでも笑ったと感じた。
ならば彼女は笑っていたのだろう。どんな意味が含まれているのかは知らないけど。
次々にノイズに変わる画面にアスカがまた舌打ちする。
敵は意識的にカメラを潰している。そう命じられているかのように僕等の目を奪う。
アスカが自ら設置した無線カメラにノイズ画面の映像を切り替える。
言葉を失う。
王侯貴族のパーティーに出てもおかしくないような、純白のドレスで着飾った彼女が映っていた。
胸元の少し開いた彼女の青い髪よく似合う、この場に不釣合いな絵画が映る。
階段側は道を塞がれていない。完全密閉式のドアがあるだけの唯一の脱出経路だ。
それ故にここを戦場として扱う場合、唯一の構造的欠陥とも言える。
ドア一枚では何の役にも立たない。現に彼女は階段を下りてきているのだから。
ゆっくりと。とてつもなくゆっくりと優雅で軽やかに、確かめるように彼女は近づいてくる。
カウントダウンをするかのように、彼女が通り過ぎた場所の映像が砂嵐に変わっていく。

――――

「ブービーとラップの一つでも仕掛けておくべきだったわ」
キャリーバッグの中を漁りながらアスカがまたそう言う。戦闘開始はごく近い。
黒い影の幾つかは壁に体当たりをかまし、そこを抜けようとしている。
カメラの半分は死んでいる。階段の物が死んでいくのも時間の問題だろう。
ただ良く見ていると、影の数が減ってきているような感じがする。
現状を映している画面は少なく、その分映らないのはわかる。けれど何かがおかしい。

――――

小さな音。
耳にギリギリで聞こえるあのテレビの砂嵐を見ている時の音。聞こえない音。
何かが聞こえる、しかしここにはスピーカはない。
「……何か聞こえない?」

――――

アスカが目を閉じ、僕もそれを見習って真似をする。ノイズ音とは違う。
徐々にはっきりと聞こえてくる、これはそんな音じゃない。
ばっと顔を振り上げて天井を、床を部屋の中を見渡し音源を探し回る。
何処だ、この音はどこから聞こえてくる?

――――

「エアコン……? 上から聞こえる!」
何かがぶつかるような音が二重三重に重なるような、そんな音が近づいてくる。
アスカがキーボードに向かう、続けてテーブルを両手で強く叩く。
見開いた目は明らかに状況の悪化を示していた。僕もこの音が何なのか気づく。
「エアダクト、そこから入ってくるなんて……やられた!!」
慌ててキーを叩いても音はそこまで迫ってきている。どんどん大きくなる。
エアダクトの内径がそこまで大きな物とは思っていなかったのだろう。
自分も見逃していた、アスカも言っていたじゃないか。ここはネルフに似ていると。
画面を切り替えてみれば、上層の階ではすでにそれが始まっていた。
換気口を破られる。慌てる職員がドアに殺到するが、混乱していて開けられない。
一人の喉笛にそれが喰らい付き、血を吹きながら首が落ちる。
女性の職員が腰を抜かし、首を振る。椅子を手に持って振り回す男の影。
別のカメラには死体を貪る犬の集団が映っている。中身を引きずり出して咀嚼。
隠し持っていたのだろうか、ナイフを振り回しているが逃げ腰で、役立たず。
飛び掛られて思わずナイフを手から落とす。しゃがみ込んだ先に待っていたのは、死。
腕を千切られ、ドアから出ようと開いた所に体当たりで戻される。
「もう間に合わない……この部屋から出るわよシンジ!!」
身体が動かない。それが現実に起こっている物だと。恐怖が縛り付ける。
アスカの声は聞こえるけれど、そこから目が離せない。
聞こえないはずの断末魔が木霊して、肉の引き千切れる音が素肌を駆ける。
また一人倒れて、その上を黒い影が走り抜けていく。倒れた人影は二度と動かない。
顔を押さえて床を這いずる女性、叫んでいるようだけど誰も聞いていない。
犬のようなそれが遠吠えを上げている。女性が壁に飛び退く。
ほうほうの体で体当たりを避け、落ちていたペンのような物を握り込む。
使い物にならなくなった足を噛まれ、叫び声を上げながら何かを握った拳を振り下ろす。
振り回す、振り回す、振り回す。ブザーを押している人が居る。
電話しようとしている人も居るけど、かかる前に人生そのものを終わらされている。
「このバカッ!!」
吃驚した反動で身体が動いて金縛りが解けた。
けど、アスカの方を見るよりも早く換気口が金属質の叫び声を上げた。
スローモーションに、見上げたそこには凶悪な牙が迫っていて、口の奥までが良く見えた。
犬のようなそれの眼の色は普通でなくて、牙の先から唾液の一滴が離れていく。
壊れた換気口の破片の小さな物がゆっくりと回転しながら拡散する。
どんどん視界が黒く覆われていく。
壊れたという音が広がっていて聞こえないはずのそれの呼吸音が聞こえる。
迫り来る死。今そこに、数cm、数ミリ秒後には訪れる死。認められるはずがない。
俺はこんな死に方は出来ない。殺せ。原因を消せば結果も消える。殺す。
力で否定してやればいい、思いっきり、加減なんてする必要も無く振り切る。
上半身を後ろに引きながら右の拳を糞犬の横っ面に捻り込む。
吹っ飛ぶ、悲鳴が上がる。トドメを刺しに行こうとして、銃声に足が止まる。
イヌは頭を破裂させられて死んだ。
「何やってんのよ!! あいつ等みたいに無駄死にする気!?」
犬死にと言わないのが優しさか? よく見るとイヌじゃないし狼でもない。
猟犬、引き絞られた身体はそう評するのが正しそうだ。
「悪い悪い」
「その気になるのが遅いわよ」
ドン、と胸を拳で叩かれる。少し痛かったがこっちが悪いんだ、仕方がない。
物騒な物が色々とはみ出たリュックを背負ったアスカの背中を追い、部屋を出る。
はずだったのに、きらりと輝くそれが目に入って、部屋の中央まで戻った。
「何してんのよ!!」
何かをぶつけるような鈍い音の塊が近づいている。
キャリーバッグの中に見えたナイフを奪い取るようにして回収し、閉じるドアの隙間を駆け抜けた。
部屋に鍵をかけて走る。少しでも戦い易い場所を選ばなきゃいけない。
しかしここにそんな場所はない。狭くて退避経路も取れて袋小路のような形の場所。
何かが近づいてくる音は廊下にも深く木霊し始める。もうはっきりと耳に聞こえる。
徐々に大きく、自分達を追いかけてくるかのように鳴り止まない。
ドラム缶を何十本のバットで叩きつけるような激しい音に包まれていく。
内側から外側へと飛び出そうとする音が、ついにはじけ飛ぶ。
前後、ほぼ同時に敵が落ちてくる。後ろの奴は軽く身震いをした。
距離は前の方が遠い。アスカに任せた方がいい。
「前の奴任せた」
そう言い駆け込んできた2匹に立ち向かう。アスカとの距離もあまり離せない。
5歩だけ進んでイヌに殴りかかる。避けられるのは目に見えていた。
左右に分かれて避けるうちの1匹に蹴りを入れ、壁とサンドイッチにする。
イヌの口から血反吐が飛び出す。思ってたよりこの壁は頑丈そうだ。
もう一匹が軸足に喰いついて来るのを、壁に突けた足を回転させながら跳んで避ける。
悲鳴もあげられない。壁のイヌを落としてもう一度飛び掛ってくるそれを殴る。
銃声がいい具合に響いている。アスカの悲鳴も聞こえない。いい事だ。
しかし開いた穴からすぐに次がすぐにやってくる。次は4匹、ここでは戦えない。
「アスカ!」
「こっちも無理!!」
ならばここで戦うしかない。覚悟を決めて短く息を強く吐く。
水泳の息継ぎと同じ、強く吐けばすっと新鮮な空気が肺に入ってくる。
壁を走り天井を蹴って近づいてくるイヌ共に飛び蹴りを放つ。
天井からのを左手で払い、避けられ、突き出した足を右に振って迎撃する。
壁からのにわざと腕を噛ませて武器代わりに振り回す。体勢が崩れて背中から落ちる。
少し床で滑ったのを利用して身体を足払いをしながら起こし、腕に噛み付いたままのそれを壁に叩きつける。
血の花火が淡い色の壁を派手に染め上げる。アスカは二丁拳銃で戦っている。
流れ弾はまだ来ない。巧くイヌを牽制しているようだ。
床に落ちている天井の破片を適当に投げつけ、避けた所でもう1匹を踏みつける。
その足を別のイヌの牙が掠める、ズボンの裾が裂ける。いざとなったら千切ろう。
上から新しい声が聞こえる。はっはっというイヌ特有の呼気が聞こえる。
生意気だ。殺ってやろうじゃないか。とことん殺す、前の時よりこいつ等は弱い。
化物じみていない分、攻撃方法が限定されいて読み易い。
「ぐっ……!」
しかし、数が多い。アスカの向こうに死骸の山が一瞬見えた。
大した再生力もないようだ。もしくは全て頭部を撃ち抜いているか。
身体に命令を下すそこを砕けば基本的に生物は死ぬ、元が哺乳類なら確実に。
だから頭を狙う。でもこいつ等は何処でもいい、俺の体の何処を攻撃してもいい。
一対多の戦いなのだから、後続が続く限りイヌ共に問題は一切ない。
噛まれていない脇腹に痛みが走る。治っていない傷が開きかけているんだろう。
糞チクショウが。回し蹴りで一匹を通路の向こうへ飛ばす。
2匹3匹とそれにぶつかって転倒し、少しだけ距離が稼げた。逃げるなら今だ。
壁を背にしてアスカの方に向く。あのバッ!! 足元の死骸を蹴り飛ばす。
床を滑ったそれがアスカの両足を払う。あとはやれると左の回し蹴りを後ろに出す。
銃声と薬莢の落ちる音、こっちは軸足の太腿を噛まれ、バランスを崩した。
痛い、睨み付けた所で痛みが引くわけじゃない。掌底で醜いイヌの頭を叩き挟む。
床に落ちる、腰を打つ、また痛い。顎は外れたが落ちたショックで下の牙が突き刺さる。
反射的に背筋が伸びるのを歯を食いしばって耐えた。
のも束の間、次が覆いかぶさる。足首を噛まれる。喉を潰すと返り血が顔にかかった。
足は振った所で外れない、が、3度細い血を吹いて吹き飛んだ。
「借り返したわよ!」
薬莢のからからと落ちる音、まだ弾を持っているのだろうか。
振り向く暇があったら立ち上がる。倒れたままではすぐ餌食になってしまう。
積み重なっていく死骸の山。数えるのも面倒くさくなってきた。
また噛み付かれる、服は裂けて下の対銃撃用の防護服が見えている。
肌着に重ねられる薄さのはこれしかなかった。銃弾を貫通させないだけの薄い物だ。
衝撃は殺せないし、イヌの牙でも裂けてしまう。しかしないよりましだ。
そんな気休めのビニールシート紛いでも脇腹の傷が開くまでは役に立ってくれた。
3匹同時、意味も無く両腕と足を振り体を回す。深い傷はまだ負っていない。
1匹弾いて1匹を牽制して、1匹が横を過ぎて行ったからそれを追いかけて蹴る。
ずる、っと血糊で靴が滑り慌てて体勢を整える。息が荒いのは俺だけじゃない。
肩で息をしているアスカに加え、死に掛けているイヌの息までが聞こえてくる。
五月蝿い。踏み潰しトドメを確実に刺す。痛い、脇腹が痛む。
貧血するほどの血は流れていないが、ビニールが張り付いた感触が気持悪い。
ベコベコに内側からへこまされたドアが廊下に倒れて音を立てた。
丁度離れた二人の間、黒い塊が新たに追加される。最悪な挟み撃ちって奴だ。
数を数える間にアスカが引き金を引いた。イヌを貫通した弾丸が肩を掠めた。
容赦なく引き金を引いたその判断は正しい、それについては文句は出ない。
その暇がない。壁の端に身を動かし、前転するかのように跳んで転がりドアを拾う。
重いそれを盾代わりにしてアスカの元に全力で走り出す。
「一気に抜けるぞ!!」
アスカの所まであと四歩、そこで見事なまでにぶっ倒れた。
こかされた、死体の下に隠れてやがった。床に付いた手が滑って顔を打つ。
背中から1匹、でもすぐに落ちる。手元の鉄くずを投げつけると短い悲鳴が響く。
借りは返す。薬莢の落ちる音が聞こえにくくなってきた。アスカはまだ撃っている。
何発撃ったかなんて、生きていればいい。邪魔な死体を開いた部屋の中に蹴って入れる。
中に風景と一体化している人間の死体が見えた。
そこに1匹降って湧く。バカの一つ覚えに着地と同時に飛び掛ってくる。
正面から殴るのをわざと失敗して、体を曲げて避けられるのを見越し拳を振り下ろす。
落ちる、踏みつける。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
何度繰り返す? 一体何回これを繰り返した?
時間が途切れない。
呼吸を整える暇がない。いつになったら終わるという疑問が湧いてくる。
イヌの死骸が折り重なり、元の淡い色は薄れて血の糸が幾つも引かれている壁が続く。
床は赤く、銃痕が壁に刻まれて歪んだドアが転がり、天井の穴からは地獄の猟犬が降ってくる。
少しだけ効率を考えて、最低2匹以上を一気に相手にする。
攻撃の方向を限定させれば、糞イヌ共の進路は自ずと重なる事になる。
蹴りと正拳を何回突き出したのだろう。また壁にそれがぶつかり、滑り落ちる。
自然と壁際には山が出来ていく。ざっと見回すだけでも2、30は超えているはずだ。
また降ってくる。
次から次へと際限が無いかのように、それがやってくる。ここは何処だ?
ファイティングポーズをとるのがだんだんと億劫になって、ノーガードに変わる。
元気なイヌ共を拳を振って追い払う。足元がふらつく。くらくらする。
あと少ししたら、もう一段階引き上げないと体を動かせなくなるだろう。
筋肉が悲鳴を上げている。それでも叩きつけ、目を潰し、首を捻り折る。
視界が赤く染まる。瞼の裏だ、無意識に行われる瞬きの間隔が長くなっているのだ。
死んでたまるか。
「うぉおおおおおぉお!!」
再び入れた気合と共に敵陣に突っ込む。蹴散らす、蹴散らされる。
ごきりと骨の砕ける音、肉の潰れるぶちぶちという感触が掌から伝わってくる。
両手が痛い。殴り過ぎで剥離骨折しているのかもしれないが、まだ使える。
2、3度開閉して強く握り込む。
壁を蹴って鋭角に切り込んできたそれを掴んで反対の壁にぶつける。
まず右を、解けた靴紐をかた結びで素早く締めた。靴は踊れと言わんばかりに赤色。
ふざけやがって。湧いてきた怒りを新たに出てきた別の敵に浴びせる。
短い悲鳴、落ちたその元へ走ってサッカーボールを蹴る要領で思いっきり。
一際大きく悲鳴。向こうでも悲鳴、銃の悲鳴。
爪先で床を蹴って少し履き具合を調整する、後ろからは唸り声、あきないな。
よくも飽きずに同じ事を繰り返す。兵糧攻めのつもりか?
それとも地獄か、地獄ならこの姿は似つかわしい。ああ鼻も利かなくなっている。
「ぐぅっ!!」
その声に反射的に振り返る。
白い喉を覗かせるアスカの姿。腹部にイヌの頭。わずかに遅れて打ち付けられる後頭部。
衝撃に開かされた口から胃液か唾か、飛沫が飛び散っていく。
もう走り出していた。投げた事もないナイフを無心で投げつけ足元の死骸を蹴り飛ばす。
1匹に刺さり、2匹を遠ざけ、ふくらはぎに走った鋭い痛みを無視して駆ける。
何かを引き摺っているが関係ない、アスカがゆっくりと崩れ落ちる。
死角から飛び掛るそれの頭を掴んで握り潰し、邪魔するそれの口の中に手刀を突き刺し引き裂く。
左足のそれを遠心力で壁に叩きつけ、腹部を靴底が床と引っ付くくらい加減無しに踏みつける。
「アスカ!!」
「……ぅ」
銃口が跳ね上がる。右頬を撫でて疾風が突き抜ける。ほぼ同時に命が散る音した。
肩で息をしているアスカの、青い瞳はまだ死んでいない。余計なお世話だったか?
体を起こして周囲を警戒すると遠くの、エレベーターのドアが開くのが見えた。
横目でアスカを見ると、腹部に注射器を突き刺していた。
「……2本、くらい……!もってかれたわね」
壁に寄りかかったままアスカが立ち上がるのを視界の視界の端に入れながら、新たに現れたそれに口笛を吹いた。
それは、破れた白衣を着ていた。元は言うまでもなく人間だろう。
前後にイヌが追加される。アスカの方を見やり、腰を曲げて死体からナイフを抜き取る。
「イヌの方、頼めるか?」
「弾はまだある、大丈夫よ」
思わず声に出して笑った。何が大丈夫だ、クスリで誤魔化しているだけのくせに。
そういう俺も脳内麻薬で体を騙しているんだが、それはそれでよしとしよう。
戦えるんならまだ生き長らえる確率はある。左の掌をアスカに見せた。
パァンと、張りのあるいい音が廊下に遠く響いた。
「いい返事だ」
通路は血の臭いに満ちている。空調が機能していないのか、酷く濁った感じだ。
けれど心は澄んでいる、嗚呼こんなにも素晴らしい。まだ死ねない。
貴様等には死をくれてやる、苦痛に満ちた時間を与える気は毛の先ほども無い。
殺す、唯一つの事に心を躍らせる。
フランケンシュタインのように背丈が増長したそれに拳をぶつける。
鉄板を殴ったような衝撃が拳に響く。骨は砕けていない。
丸太のような腕の挟み撃ちを飛んで避け、目潰し狙いでチョキを出す。
「くっ!」
額でガードされ、一本折れた。思ったよりも知能は高い、まるで死んでない。
体を小さくまとめて後ろに回転させ、化物を両足で蹴って距離を離す。
着地を狙ってイヌが来る。体を捻って避け、蹴りで勢いを追加して巨体にぶつける。
思った通り効果は無く、天井近くまである幹のような身体は動かない。
イヌが頭を振るって駆け出す、体を後ろにそらす、真横から牙が眼前を抜けていく。
壁を蹴ってすぐにまた目の前に迫る大口の上と下とを掴んで、突進してきた奴に叩きつける。
曲げた体の上を何かが凄い勢いで通り過ぎた。
頭を上げる前に見えた後方で、壁に当たったそれが跳ね返って床に落ちる。
「バカで十分なのに……」
道具を使えるって事は猿並みの知能は最低あるのか、最悪の場合生前と変わらず。
腕も長い、足も長い、リーチの差は大きい。鈍さもフェイントかもしれない。
ずっと後ろでは銃声が続いている。まだ生きている。敵も途切れないって事だ。
「――ッ! さっさと死ね!」
このクズが。靴に噛み付いた死にぞこないを踏みにじると、口から泡が出た。
さて問題はコイツだ。右を見ると壊れた部屋、端の棚に目が留まる。
ポット、電源は抜けているが中身は使える温度のはずだ。後ろを見てから跳び込む。
簡易机を片手で転がし天井の穴に注意しながらポットの蓋を開ける。
立ち上る湯気、使える。蓋を強引に外して再度部屋を見渡していると面白い物を見つけた。
これとこれで確実に殺れる。一つをポケットに一つをもう片方の手に、待ち伏せる。
必ずここを通る、走るなら後ろから追えばいい。
ポットを床に置き、割れた鏡で廊下を見る。まだ通り過ぎていないはずだ。
アスカの悲鳴も聞こえない。と、鏡の破片が砕け散る。イヌを投げ込まれた!
同時に巨体が入ってくる音が聞こえた。ポットを抱え跳び上がる。
空中で曲げた足の下で肉が弾け飛ぶ。棍棒代わりにそんな物を使うなんて。
ポットを一度少し浮かせて底側に持ち替え、フランケンの顔に向かってぶちまける。
すかさず左手が上がり顔を覆う。それこそが狙い通りだ。
腰を捻り壁を蹴り飛ばす。体勢はこの際どうでもいい、右の一撃をかわすのが優先だ。
もう一発花火が砕けて散った破片が頬についた。運良くソファの上に落ちる。
跳ねて立ち上がり、火傷にうめき声を上げる化物の真上に狙いを定め投げつける。
酒瓶は天井にぶつかり砕け散り、高濃度のアルコールが化物の全身を覆う。
それのまたの下を抜け、振り向き様にポケットから取り出しておいたライターで火を放つ。
紅い炎が一気に燃え上がりフランケンの全身を覆う。叫び声が俺の耳を貫く。
顔を抱え悶え苦しむ間にカタをつける。腰のナイフを逆手に持ち、跳びかかる。
狙いは延髄、振り回す腕を手が焼けるのを覚悟で掴み、振り下ろ――外した!!
腕から背中の服に変えてもう一度、顎の下に化物の手が入るのを耐える。
「くそったれがぁ!!」
支えの腕が悲鳴を上げるのを無視して強引に、頭を滑らせて背中に張り付く。
抜けた一瞬、渾身の一撃を降らせる。骨の隙間を狙ったナイフは喉を反対まで貫く。
縦ではなく横、脊髄が断された身体は級激にバランスを失い無様に倒れる。
ナイフを横に引き抜くと、巻き上がった鮮血に手が赤く染まった。
服に移った火を鮮血ではたいて消しながら、銃声の残る通路に戻る。
幾らなんでももう危ないはずだ。最低限の確認をして通路に出、アスカを探す。
アスカは俺に背中を向けて立っていた。が、銃口がこっちを向いて上がる。
しゃがむ。チュィィンなんていい音が耳を刺激した。
「殺す気か!?」
「シンジ? ごめん! 後ろ!!」
鉛弾を喰らってまた1匹イヌの頭から血が噴出す。
振り向くともう一人二人、エレベーターから這い上がってきていた。クソが。
アスカも普通なのによくやる。返り血で赤に染まっているのは俺だけじゃない。
壁が、床が、この空気が全てを赤に染め上げている。
「やれやれだ……」
さらに2匹イヌがお約束とばかりに降りてきた。はは、なんだろうな。
もう狂いそうだ。狂ってるのかな、もう。
力を一段階引き上げよう、こんな馬鹿馬鹿しい状況で加減なんてしてられるか。
食事なんて上に出れば幾らでも出来る。持久戦はやめにしようじゃないか、なあ兄弟?

――――ドクン

心臓が熱く強く血液を送り出す。思考が最低限に整理される。
標的はこの化物共、アスカを除いた全てを殺す。殺すための思考だけでいい。
殺す。
殺す。
殺す。
ただそれだけに絞る。力が体に満ちていく、内側から外側に溢れ出るような陶酔感。
解放なんて気持ち良過ぎるから、したくないんだがこの際仕方ないだろう。
まあここまでしたんだから、
「がっかりさせるなよ」
デクノボウ。



悲鳴が響く。長い遠吠えのように徐々にかすれ消えていく。
カランカランと薬莢が硬質の床に跳ねる音がして、やっと静かになった。
俺とアスカの荒い呼吸音だけが廊下に吸い込まれていく。
互いに違う壁を背にしてアスは下に向き、俺は逆を向いて瞼を閉じる。
これで終わりか? 本当に終わりか? 答える相手は居ない。
時間感覚が完全に狂っていて、何時間経ったのか数十分に過ぎないのか判断がつかない。
最初が何時だったのか、それすらも遠い昔の事のようで思い出せない。
とにかく今は休んで呼吸を整える。それだけに集中しよう。

――――ドクン

まだ来るのか。
エレベーターのさらに向こう、ドアの開く音が聞こえた。
アスカの方を向くと、一度だけ頷いた。マガジンを落として新しい物をセットする。
しかしそれも片方だけ。あと少し長ければと思うと、ぞっとした。
ヒールの高い靴で女が歩く時のような、短い音がゆっくりと近づいてくる。
曲がり角から最初に出て来たのは、白い袖のに包まれた細い女の腕だった。
次の短音で全身が現れる。
遠近法で周囲の赤に純白のドレスが異常なほど映えていて、それは残酷な一枚の絵を成していた。
銃声が2回3回と響く。オレンジに近い色を宙に浮かせて軌道がそれる。
弾かれた弾丸は奥の壁に黒ずんだ跡を残す。はっとして我に返る。
「アス……カ」
それだけを口から搾り出し、後ろを見ようとしたが澄んだ声に止められる。
声の主は言うまでも無くこの場に居る3人目の人物のものだ。
「手が早い所は昔と全然変わらないのね。物騒だ事」
声はわずかに違うけどその姿は間違えようも無く、綾波レイそのものだった。
こうしてじっくり見ると母さんに良く似ているのが解る。でも、明らかに別人だ。
ホテルの時の黒髪は全て青い髪に変わり、瞳もあの印象的な紅に戻っている。
顔の作りまで変わっているのが衝撃だった。アスカの言った覚醒、それを意識した。
綾波が口に手を当ててくすりと笑う。あの母さんを見ているようで気持ちが悪い。
口元に浮かんだ笑みからはいやらしさが染み出している。
「物騒なのはあんたの方よ」
足を引き摺るような、ほぼ一定の間隔でアスカの気配が近づいてくる。
後ろを見る余裕がないのは、綾波の視線の先に僕が居るからだ。
僕だけを見ている。
見えるはずの無い奥の奥まで見えてしまいそうな、静かなキョウキに捕らえられる。
愛なのか、憎しみなのか、それとも悲しみなのか判らない複雑な色が僕の目には見えている。
だから綾波は普通じゃない。
アスカが言った通りの事実が胸を締め付ける。希望の火をかき消そうとする。
「生き残れると思ってたわ。あの子達を殺したんだもの。
 貴女、弐号機パイロットまで生き残るとは思っていなかったけど。
 あの時みたいに内臓出して死んでるのかと思ってたわ」
強調された言葉にアスカの右腕が上がる。止める間もなく先程の場面が繰り返される。
弾の無駄と思っていても我慢できなかったのだろう。
故意に、悪意のある言い方をした綾波を僕も睨みつけた。幾らなんでも許せない。
綾波は少し驚いたような顔をすると、キョウキの仮面をまた被り直す。
相手を下に見た笑みが、僕の心の中にヘドロを少しずつためていく。やめろ。
「どうして碇くんが怒るの? あの女の力が足りなかっただけなのに。
 そう、邪魔なのね。弐号機パイロットが居なくなれば碇くんも怒る必要がなくなるわ」
綾波の視線が僕から外れて、鋭く奥に向かう。
「アスカ!!」
叫びながら振り返る。姿を見るまでの一瞬にいろんな想いを乗せられるだけ乗せた。
アスカは無事に、すぐそこに立っていた。怖い顔で綾波を睨み返している。
あんたなんかには負けない、そう聞こえてきそうな気迫を感じた。
ほっとして綾波の方を見ると唇を噛んでいた。忌々しそうに眉をひそめている。
綾波が何かをしようとしたのは確かなのだろう、しかし何の効果も無かった。
もしかして出来なかった?
「……違うのね。いいえ、同じだけど干渉出来るほどじゃないんだわ」
それがどれほど悔しかったのか、綾波の唇から血が滲んで下に零れ落ちる。
短絡的過ぎる思考だ。原因を取り除けばそれで他はどうでもいいと思っている。
原因がなくなれば結果も消えるが、実際はそんな単純な事じゃない。
綾波はアスカを殺そうとした。少なくともその事実は僕がもう覚えているのだ。
「残念だったわね、あたしは昔から我が強いのよ。
 人形のように薄っぺらいあんたなんかに負け「私は人形じゃない!!!」
アスカの言葉を遮って綾波の怒号が鼓膜を痺れさせる。背筋が凍りついた。
夜叉、羅刹、般若、形容出来ないほどの殺意が充満していく。
鋭く肌を刺すような感触はATフィールドそのものを攻撃されているようにも感じる。
猛毒の霧のような空気を感じているのはアスカも同じはずだ。
こんな気配は並の人間が出せるものじゃない、ごく一部の限られた人だろう。
急に荒くなった呼吸を抑えることもなく綾波は肩で息をしている。
「私は人形じゃない……人形じゃない、人形なんか――――ッ!!
 黙れ!!!」
目を見開き頭を抱えたかと思うと、綾波は壁に左の拳を叩き突けた。
バズーカで撃ったかのように拳を中心に、壁面が歪んで深いしわを造る。
間違いなく僕と同じ力だ。これで、アスカが戦えるレベルの話じゃなくなってしまう。
綾波は右手で顔を隠すように頭を抱えたまま、ぶつぶつと何かを言っている。
怨恨と憎悪を練りあげた呪詛のような響きは少しずつ大きくなっていく。
「……れ偽者、貴……用済みなのよ。いい加減死んでよ…………
 嗚呼、ウルサイウルサイウルサイウルサイ……いつまで経っても馴染まない。
 消えればいいのよバーサン。誰も必要としてないのよ。消えて。
 消え………………全くしつこくて困るわ、貴女みたいにね」
綾波が右手を下ろしこっちに向いた。最後の一言はアスカへの言葉だろう。
さっきの笑顔や怖い表情とも違う能面のような感情を殺した顔を綾波はしている。
それがかえって前にも増して嫌な感情を呼び起こす。
感情表現が豊かでなかった少女の一番見慣れている表情のはずなのに、全然違う。
今は故意に殺しているのだ、解らないわけじゃない。
綾波にそれが出来てしまうのに気づかなければ良かったと、僕は思った。
「疲れてるでしょ。せっかくだから少しだけ話をしてあげる」
「それは余裕って奴かしら? ファースト」
「どうとでも受け取ればいいわ」
それこそまさに場を支配する者の余裕だった。綾波はこの場に居る誰よりも強い。
切り札の数も桁違いで、まだその全てを僕等は把握してるわけじゃない。
けれど、僕等の切り札は一撃の下に綾波を殺す事が出来る物だ。
それを綾波は……きっと知らないはずだ。知られていればもう勝ち目はない。
髪の毛を軽くかきあげてから綾波は話し始める。
「私、もう一度碇くんと話が出来るなんて夢にも思っていなかった。
 碇くんが生きる希望を失ったあの日、全てを捨ててそれだけで満足だった。
 でも意識が途絶える前に唯一つ、せめて貴方のそばに居る事を感じられたならって思ってしまった。
 そしたら急に怖くなったの。消えたくないって。もう会えないのよ?
 どんなに愛していても、どんな想いを抱いていても言葉一つ伝えられなくなる。
 貴方が何も知らずにこの先生きて、私の事を忘れてしまう。それが悲しかった。
 だから自分のした事に間違いはなかったはずなのに、悔しさの中で私は消えていった」
今目の前に居る彼女は誰なのか。
そんな疑問が心に浮かぶほど綾波は、僕の知っている綾波だった。
僕のために全てを捨ててくれた綾波。それは一回だけじゃない。
盾となり、自らの身を呈し、導こうとしてくれた。最後には魂までも費やして。
嗚呼、なんて。
この想いは何と言えばいいのだろう。
この言葉に嘘はない。だからこんなにも強く胸を打っている。
こんなに強い想いを僕に与えられるのは、後にも先にも綾波しか居ないかもしれない。
理由もなく、僕は素直にそう思った。
「でも良かった。こうしてまた会う事が出来て。
 それなりの代償は支払わされたけど、私は満足してるの。
 例えばこの女、厳密には貴方のお母さんですらないのにその振りばかりするの。
 五月蝿い事この上なかったわ。さっきの最期に消えたみたいだけど。
 偽者の癖に日記まで書いてたのよ、中身は辛い事ばかり。ストレス解消かしら。
 知らない声は聞こえるし、言葉じゃないのにそれが解るって。
 人間不信にならなかったのが不思議なくらい。刷り込みがよほど巧くいってたのね。
 でも私が出る度に意識を失うから、それが怖かったらしいわ。
 バカみたいに日記の最後はこうなってるの、タスケテタスケテタスケテ……
 笑えるでしょ? 早く消えればよかったのに。残酷な事するわ」
救えない。
きっと僕は綾波を救えないのだと、その笑顔を見て思ってしまった。
一体どこで間違ってしまったのだろう。歯車の大切な歯が一つ欠けてしまっている。
幾ら噛み合せようとしてもその一つ分のずれが、埋まらない。
代わりに付けられる歯なんて僕がどんなに考えても思いつかないだろう。
綾波は知らない。綾波自身今どんな仕草をしているのか、どんな酷い事を言ってるのか。
以前の少女だった頃のままであったなら、そんな事言えないはずだから。
優しさと悲しさ、楽しさに面白さ、全ての判断基準が知らない間に歪められてしまったのだ。
何が原因かは解らないし、知ろうとも思わない。
ただ静かに、悲しみの色一色に心がじんわりと塗り潰されていく。
「もう一つは耳鳴り。この女に聞こえていたものは私の耳にも届いてるの。
 今も耳鳴りがするくらいの雑音がずっと聞こえてる。少しだけでも黙ればいいのに」
綾波の左腕から鋭い力の波動が出たように見えた。
それを裏付けるように綾波の鋭い視線もその方向に一瞬だけ向けられた。
躊躇いなくそういう事を出来るようになっているのが悲しかった。
きっと誰かは死んだのだろう。その人には悪いけど、あなたに対して何も感じない。
「不平や不満ばかり。憎い、羨ましい、辛い、死にたくない、五月蝿い、欲しい。
 ずっと、ずっと、ずっと目が覚めてから眠って意識を失うまでそれが続くの。
 眠っていても毎日のように悪い夢ばかり見てうなされる。
 私この体になって初めて夢を見る事が出来たの。でも何の喜びもなかった」
小さな舌打ちが聞こえて、アスカの方を横目で確認する。
険しい表情の中に何か別の感情が浮かんで、すぐに消えたような気がした。
今のどこかに苛立つようなセリフがあったようには思えない。
同情を誘うような内容ではあるけど、それだけだ。それだけだと思わなきゃいけない。
思わなきゃいけない、それがこんなに辛い物とは思わなかった。
いっそ止めてしまえば楽なのに、僕がそうさせない。アスカも止めてくれない。
最期の遺言、そんなの悲し過ぎるよ。
「……私は誰よりも過酷な状況を今も我慢してるし、耐えてきたわ。
 だから御褒美の一つぐらいもらってもいいと思うの。
 碇くんもそう思うでしょ?」
うん、と思うだけで頷けなかった。話が終わりに近づいていると感じたから。
この話が終われば、全てが終わりに向けて再び動き出す。
僕が動かなくてもアスカは動くだろう。けどそうなるようにしちゃ駄目だ。
こんな話を聞かされたのだから僕がやらないといけない、俺なんかじゃなく僕が。
「声に出してくれないと解らないわ。貴方の心の声は聞こえないの。
 それは嬉しい事よ。聞いてみたいって望む事が出来るから。
 弐号機パイロットの物まで聞こえないのは少し困りものだけど。
 どうして貴女を生き返らせたのかしら? 自分のした事とはいえ腹立たしいわ」
綾波のアスカを見る目は冷ややかで、そこには僕を見る時の熱さはない。
歯軋りがここまで聞こえてきそうなほど、食いしばっているのが見える。
そこまでアスカの存在が許せないのだろうか。
以前より目に見えて仲が悪く感じるのは、気のせいなんかじゃない。
殺す側と殺される側、そこに合意はなく徹底抗戦となるだろう。そういう事なんだ。

「人は何故かお互いを理解しようと努力する。しかし覚えておけ。
 人と人とが完全に理解し合う事は決して出来ぬ。人とはそういう悲しい生き物だ」

何故こんな時に父さんの言葉が記憶の底から蘇るのだろう。諦めろというのか。
それとも僕自身が諦めているとでも言うのか。僕はここに何をしに来た?
言葉に出来ない。この、この場面に来てもその甘さだ。心底嫌になる。
自己嫌悪する余裕があれば何か言うべきなのに、言葉が口から出てくれない。

――――俺に代われ。

嫌だ、それだけは絶対に嫌だ。僕が喋れば本当に始まってしまう。それが怖いだけ。
でもこの場にある口の数は2人分ではなく、3人分なのだ。
「あたし、シンジと寝たわよ」
なっ――――
絶句する。この場に来てな、ななそんな事を言う必要などない。
アスカ頬に張り付いた髪を指先で軽く剥がしながら、余裕の笑みを見せる。
羨ましいでしょ、そう言わんばかりに綾波の事を見下す。
瞬間、凄まじい力の奔流を感じ振り向いた。が、綾波を見た時には収まっていた。
その代わりビリッと体に溜まった静電気を放電した時のように、空気が肌を刺した。
これは綾波の力、内側に怒りを押さえ込んでいるのが手に取るように解る。
アスカに対する嫉妬、憎悪がATフィールドに触れているだけで聞こえてくるような感じがする。
「嘘と思うならそこのシンジに聞いてみれば?」
アスカは相変わらず余裕ぶった表情で僕に話を振った。綾波が僕を見る。
刺し殺すかのように赤い二つの視線が僕に照準を合わせる。答えられるわけがない。
唾を飲み込むはずの喉さえも動かない。ここで僕が正直に答えれば、始まる。
かといって今の綾波に嘘が通用するとは思えない。沈黙もまた肯定となるだろう。
アスカは詰めたのだ、僕が事を先に進めないから綾波の想いを利用する事で。
最低なのはどっちなのだろうか。
「……殺すわ」
僕から視線が外れると同時に、綾波を中心に周囲の壁が球形へこまされていく。
空気が瞬くように赤色の色を持つ、来る。その殺意の向けられた先は僕じゃない。
2つの銃口が綾波に向けて上げられるのが見える。
見えない力がアスカに向けて飛び出したのを感じる。
早撃ち合戦、ほぼ同時に二2人が動き出す。でも僕はその結果を知っていた。
アスカの方が死ぬ。
許す許さないの問題じゃない、時はすでに動き出している。止めないと。
でもどっちを止めるのか。僕は馬鹿だ、まだ綾波を見捨ててない。止めるのは綾波だ。
アスカを守る方が簡単じゃないか。だったらそう動けばいい。なのに。
どうしてこう大事な場面で決断力がないのか。悔しさで一瞬瞼を閉じた。
1秒後にはカタがつく、頭はこんなに高速で回転しているのに空回りなんてっ!!


思いばかりが先走って、僕の身体は動かなかった。

でも気がつくと思いとは裏腹に、僕の身体はすでに動いていた。