気がつくと夜だった。という認識が正しい。
出掛けにネルフで充電した上に予備のバッテリーパックもトランクに積んで、準備万端での出発だった。
運転手は交代してアスカとなり、ナビもあるので全てお任せ状態。
しかし、しかしだ。
アスカはブレーキをなかなか踏まないという癖があり、外輪山を越える間はカーブでは酷い目に遭った。
アスカが車に酔わないのはきっと、こんな乗り方をいつもしてたから。
運転免許が良く取れたものだと感心する。
海外の方が免許を取り易いって噂を聞いた事があるけど、本当の事なのかもしれない。
あまりにも酷い運転で最初の1時間でへばってしまったから、その後アスカがどのようなルートを使ったのかは全く知らない。
気がついたら眠っていた。精神的な疲れが酷かったのだろうと思う。
ここ数日であの頃に逆戻りしたような気分だ。そのくらい状況が激変した。
来い、その一言に捨てきれない希望を乗せて電車に乗ったあの時とは違う。
何の変哲もない日常に旧友のそっくりさんが現れた。そのくらいの認識のつもりだった。
ホテルに迎えに行く時も、これから学校でどう過ごすかなんて考えてた。
衝撃だけで言うなら、今回の方が酷い事になってる。人間の組み合わせが最悪だ。
起きた事も最悪だった上に、今はもう、目をそむける事がもう出来ない。
また流されている。
人生には逆らえない波は幾つも溢れている事だろう。さしずめ今回は急流下りだ。
考えようによっては、いつもと変わらないのかもしれない。死と隣り合わせの所とか。
人を殺さなければ僕は生きていけないから。でも好きで殺してるわけじゃない。
殺人鬼のレッテルを貼られても仕方がないのは解ってる。
同族殺しの罪を背負うのは、蜘蛛やカマキリみたいな虫を除けば人間ぐらいだ。
でも虫には理性も無ければ知能もないに等しい。人間とはそこが違う。
だから物理的なダメージによる痛み以外の苦しみは全くない。
人間は精神構造と肉体構造を併せ持つから、痛みの最大値は単純に足し算しても二倍だ。
自分は人を殺す事に何の痛みも感じない冷徹な人間ではない。
体の痛みは肉体的な不都合がなくなれば簡単に消えるけど、心の痛みはそれほど容易じゃない。
けど、食事は楽しむ物だろう。
殺すという行為は手段や方法に該当するだけで、目的ではない。
命の栄養補給が目的であり、その過程を楽しめるのならそれに越した事はないだろう。
だから食事の時だけは割り切ってそれに没頭できる。そのあとに、沈む。
痛みを抱えてもずっと沈んでいられないのは、自分の糧になった彼等に対する礼儀だ。
例えば、例えとして適切じゃないかもしれないけど、畜産農家だ。
家族同様にして育て上げた家畜を、金、生活の糧にするために殺す手続きをする。
その行為に痛みを感じて泣き続けていたら、糧として得た物はどんどん無駄になってしまう。
殺した意味さえなくなってしまう、それこそ誰にも赦してもらえない。
でもそれは詭弁だ。
実際には罪を重ねるたびにそれに慣れて、どんどん心が擦り切れていく。
痛みもどんどん弱くなる。繰り返す事でその事に適応していくのが人間のシステムだ。
何度やっても慣れない事はあるけど、殺すという行為には慣れた。手遅れだ。
昔の痛みを思い出して、古傷に自分でナイフを突き立てる。そういう余分が必要になる。
僕の心は意外と壊れにくくしぶといけれど、弱いままだ。
「シンジ、あんたが寝てる間に追っ手を3回かわしたわよ」
人目に付かない所で良かったわ、とアスカが前を向いたまま続けた。
木々の隙間からの月明かりに照らされて、何度も淡い色を帯びてアスカの顔が浮かび上がる。
「追っ手って……全然気づかなかった」
「当ったり前よ。サイレンサー使ってたし、あんたはぐっすり寝てたじゃない」
サイレンサーを使う、その状況がどういうものか想像はつく。
片手で車を運転しつつもう片方の手で撃退した。相手は死んだのかもしれない。
ハンドル手放しで敵に集中していた時間もあったのかもしれないと思うと、ぞっとする。
そもそも追っ手とは誰だったのだろうか? 母さんなのか?
「それって、人間だったの?」
何故こんな質問を投げかけてしまったのか。
検問を強行突破してパトカーに追われていたのかもしれないのに。どうしてそんな。
アスカが横目で自分を見た。一瞬だけど、生理的な嫌悪感が伝わってきた。
信じられない、そう言われたような気もするし、解ってるなら聞くな、と言われた気もする。
自分でも解らないけど、ぽっとそんな言葉が出てしまったのだ。しょうがないんだ。
「人間が人間の形をしている理由、話したわね」
それはありとあらゆる生物がその形をしている理由と同じだ。
物理世界に形而下された生物の体というものは、形而上のその生物の本質であるものの影響を受ける。
この影響力は小さいが絶対的であり、大きくなった場合にはそれそのものが形而下されて物理世界に影響を与える。
これはエヴァに取り込まれたシステムだ。それは同時に使徒が有する特殊能力でもある。
その力は絶対恐怖領域、ATフィールドと呼ばれていた。
何人にも犯されざる聖なる領域、心の光。誰もが持っている心の壁。
そう表現した少年も居た。これは人間に特定した表現だろう。
全ての生物がその形であるのはATフィールドのあり方がそうだからだ。
ATフィールドのあり方が、形而下の、肉体の物理的構成を決定付ける要因となる。
それにゆがみが生じ、ある一定の閾値を越えれば肉体にその影響を現す。
また逆に肉体に腕がなくなるとか、大きな変化が起こればその影響は別の伝播経路を通じてATフィールドに影響を与える。
解り易く言うなら、病は気からというような心と体の繋がりだ。
心や精神という言い方そのものが人間に特化している言い方だから、現象としてはもっとシンプルになる。
肉体からATフィールドへのフィードバックは常に行われているわけではないが、ATフィールドから肉体へのその形を成すための強制力は常に働いている。
それだけの事だ。
「あいつ等、普通の人間じゃなかった。変質させられたのよ」
ATフィールドの事だ。どう変わったのかはこの際自分からは聞かない。
人間が人間であるための形の元を変えられてしまったら、人間ではなくなってしまう。
死んだ人間の肉体が腐ってバクテリアに分解され、さらに風化し塵になってしまった時、その人間のATフィールドは変質どころか失われている。
それはもう人間じゃないという事だ。塵の塊を人間と言い切れる人は居ないだろう。
火葬して骨だけになったとしても同じ事。人間だとは言わずに人間でしたと言う。
他人のATフィールドを強制的に変更する方法は限られる。それが可能な者も。
「そこまで出来るものなの?」
「ホテルの一件から予想出来る範囲内だけど、操れるんならそのくらいわけないでしょ。
それほどの数を動かせないみたいなのが不幸中の幸いね。
おそらく操作可能な範囲も限られてる、あの時とは違って動きも単純だったし」
これはいい事、なのだろうか?
自分よりずっとアスカは賢いから、おそらく八割ぐらいは正しいと思う。
残りの二割は希望的観測だ。具体的な数値レベルで相手の状態が分析できてるわけじゃない。
ただ、恐ろしい状況である事は間違いない。
人間を一方的に操る事が可能で、化物かどうか判らないけどその人間を別物に出来る。
つまり、人の居る所に行けば彼等全てが敵だと認識すべき状況だ。
こっちから母さんの位置を厳密に特定する方法はないかもしれないけど、母さんは確実に持っている。
でなければあのホテルに、あの時間に来るわけがない。
僕がどこに居るのか常に知ってるわけじゃなさそうなのも救いだ。
「!…………あ、あれか。そうだったのか」
「何の話?」
「ちょっと前からさ、誰も居ないのに妙な視線を感じる事があってね。
その正体が母さんだったって、今気がついた」
あの視線は母さんがホテルで見せたものと同じだった。
もし、例えばの話で母さんが自分の位置を知る方法がこの視線によるものだとすれば、逃げ道はない。
けれどその千里眼のような能力が誰かの眼を介してでしか使えないとすれば、別だ。
他人の視界を借りて覗き見するのは、勝手な想像だけど操るよりも簡単だと思う。
でもどの人間の視界を見ればよいか判断するのは、覗き見する本人がしなければならない。
町に住む人の数は千や万の単位だし、場所を特定するためには幾つもの視界を経由する事になるだろう。
人が居ない所に自分達が行けば全く追えなくなるという欠点もある。
自分達がこの一日二日見つからなかったのも、そのためではないのだろうか。
「シンジはあの女の気配が解るんだ。気づいたらすぐ教えなさいよ」
「解ってるよ。頼りに出来るのはアスカだけだから」
本当はアスカに頼っちゃいけない。
そう解っていても、誰か一人でも味方がいる事の心強さを自ら失うなんて出来なかった。
「それはお互い様よ。最期までよろしくね、シンジ」
トランクに積んであったバッテリーを半分は使い切った。
一体何処の道をどう通ればこれだけの量を消費するのだろうか。
第3新東京市から松代まではそれほどの距離はなかったはずだから、アスカは大きく迂回をしたに違いない。
3時か4時ぐらいには出たと思うから、到着が夜になるのは覚悟してたんだけど。
現在位置はナビの電源を入れればすぐに解るのだけど今は休憩中だ。
この雰囲気を壊したくない。
長い峠の途中にある薄汚れたベンチに二人で腰をかけている。
丸い電灯の光は闇に溶け込むほど辺りを緩やかに照らし、月明かりを楽しむ余分を残す。
空を見上げれば朧月。少し歪んだ丸のそれは明後日の今頃きっと、綺麗な円を夜空に描いているだろう。
静かに月を眺めていると彼女の事を思い浮かべてしまう。
死んでも代わりが居るなんて、他の人が代わりに来るぐらいしか、いや、そこまで考えなかった。
ただその一言があまりにも彼女にとって自然なように聞こえて、それが心の隅にずっと残った。
彼女は笑い、悲しみ、怒り、感情表現は乏しかったけど人間以外の何者でもなかった。
月の良く似合う哀しい運命を背負わされた少女、それが彼女。
「生きてさえいればいつか必ず、生きてて良かったと思う時がきっとあるよ」
少年だった僕は月明かりの下、彼女にそう言った。
僕は最近まで、少しだけそう思う事があった。今はとてもじゃないけど思えない。
彼女はそう思った事が生きている間に一回でもあったのだろうか。
遠くの月に問いかけても意味はない。
熱くもなく冷たくもない生殺し状態のコーヒーを、あおるようにして飲む。
苦味が不味さに拍車をかける。まるで僕の心を表しているみたいだ。
アスカはストローで赤い紙パックの野菜ジュースを飲んでいる。
何も言わず、静かに遠くを眺めて。
ガラス玉に見えるその瞳は、意思が込められているようには全く思えない。
何も考えずにぼーっとしてる人を見るとこんな感じなのだろう。なんか後輩を思い出す。
そう言えば全然学校にも連絡をしてない。今更と思いつつ携帯電話を見ると、案の定圏外だった。
月曜日になってから考えよう。それでも十分間に合うだろう。
この状況が終わるまでは学校へなんか行けないような気もするけど、連絡ぐらいは入れておこう。
忘れなければ。
――――ドクン
警告音が鳴る。
隣のアスカが紙パックの中身を音を立てて飲みきって草むらに投げ捨て、立ち上がる。
眼の色が変わった。周囲の温度が変わらないのに一段と冷え込んだように感じる。
鼻につく戦のにおいに釣られて俺が立ち上がる。何故? 僕じゃ無理だから。
濃縮された経験からくる勘は正しい。僕だとホテルの時のように全然対応できないから。
アスカが銃を内ポケットから取り出し予備も含めて残弾確認をする。
こっちはすでに準備完了、元から無手の殺人鬼だ。武器は味付けに過ぎない。
ああ、でも、食事じゃないんだよな。無駄にエネルギーを使わねばならんとは腹立たしい。
得体の知れない物を取り込むわけにもいかないだろう。
適度に暴れてストレス発散といこうか。
2分経過。
何も会話がないのはつまらないから、現状確認で声をかける事にした。
「追っ手か?」
一瞬アスカが目を細めた。殺意にも似た見え見えの感情の上乗せが逆に気持いい。
僕ではストレスがたまるだけだろう。軽く背伸びと柔軟をしながら返事を待つ。
向けられた殺意に殺意を返すような馬鹿な事はしない。心の余裕だ。
「そうよ。今度はしっかりと手伝ってもらうわ。
服が血で汚れると後々不味いから、今のうちに裸にでもなったら?」
地獄に天使、そんな笑みを浮かべてアスカが喰えないジョークを言う。
俺がそれほど下手糞に見えているのか? 何年これを続けてきたと思ってる?
解ってるはずだ、その必要がない事を。
「服が破れたなら街に着いてから買えばいいさ。それだけの事だ。
相手はどんな感じなんだ?」
足音は聞こえている。凄い勢いで近づいてくるのが解る。が、この程度の速さなら問題ない。
「さっきはサルみたいな奴を3人、イヌっぽいの2人。明らかに化物を1人、計6人」
単位からするに元が人間だという名残が良く見えていたのだろう。
車に掻き傷も残っていない所を見ると、銃弾で十分に殺せるレベルの相手だ。
それでも素手ならどうなるのか。考えるだけで背筋が恐怖と快感でぞくぞくする。
闘争本能を掻き立てられる感覚は久し振りだ。早く来い、早く。
急かされるようにして荒い呼吸が無数に近づいてくる。
林の暗がりから道路へ飛び出してきたのは、イヌの化物だった。人間ベースじゃない。
「はは、はははははははは…………こいつはいいや」
口の裂け具合がおかしい奴や、背骨が異常に湾曲した奴、二つ目が生えかかっている奴までいる。
全部で7匹。全部奇形だ。ATフィールドのゆがみも目に見えるように感じられる。
せっかくの中身入りだが動物で、しかもこれほどまでに変質させられているとは。
正直驚きを通り越して感心してしまった。
身体能力が強引に引き上げられていて、チェイサーとしての機能以外の全てを失っている。
あの棘にまみれた奴は食事なんて出来ないだろう。
明らかに骨が折れている奴もいるから、変質させる事は出来ても雑にしか出来ない。
むらがあるのが救いとなるか試練となるか。
イヌ共はじわじわと、俺達を中心に扇形の中心角を広げて囲もうとする。
体の奥底の狼の血でも目覚めたのか、馬鹿みたいに一匹で襲ってこないのが残念だ。
リーダーを探して叩く。群れを潰すにはまず頭だ。そこを砕けば指揮系統が全て死ぬ。
「囲まれる前に行くわよ」
両手にあの嫌な銃を構えてアスカが一歩踏み出した。
連続して銃が唸り、イヌが飛ぶ。ホテルの非じゃない撃ち方だ、カッコイイじゃん。
俺も動き出す、思考を切り替えて殺す事に集中する。
イヌ共の配分は3、4か4、3か。どっちでもいいか。ルールなんて必要ない。
飛び掛ってくる一匹を避けて背骨の曲がったのに蹴りを入れ――――
コイツ!! カチンと金属の刃を閉じたような音が顔の間近で聞こえた。
後ろに倒れこむ力を回転力に変え、尺取虫のように伸びた胴を加減無しで殴り飛ばす。
骨が砕ける音、遠くでぶつかる悲鳴を聞きながら反転してきた口裂けに蹴りを打つ。
振りをして踏みつける。小気味いい悲鳴が聞こえた。
俺の足を噛もうとして馬鹿みたいに開閉した口を横から踏みにじる、この快感。
頭蓋を砕いて胴を蹴り飛ばす。待ってる暇はない。
「っんどは……くっ!」
殴ろうとして拳を引いたが、袖を噛まれて思わず腕を激しく振った。口だらけかよ。
結構高い服だったのに、台無しじゃないか。殺す。こいつは殺す。
体中に開いた口から中身が見える。食べるための口じゃない、攻撃するための口だ。
小汚いヨダレで全身がてかっている。走って勢いをつけて、ヨダレの塊がまた飛び掛ってくる。
イヌ故か攻撃自体は至極単純。避ける事に問題はない。着地するまでの隙にアスカを見る。
2匹は仕留めたようだ。あとの2匹は動きが、反射神経が尋常じゃない。
ヨダレの塊へ顔を向けると着地する所、とそれが逆再生でもするかのように跳ねた。
狙いは胴、体を捻り、背骨を丸めて腹部を逃がす。避けた、と思った。
糞イヌの胴体が回転を始めるまでは。
「がぁあぁあああ!!!」
噛まれた! 腕に巻きつくように牙の腕輪が何て言ってられない、地面叩きつける。
寸前の所でイヌが離れ、着地した途端飛び離れようとする。誰が逃がすか。
力を、解放する。
――――ドクン
「……死ね」
風が唸った。
ベンチを踏み台に跳ね上がり、その奥の林の小枝を幾本も砕き、5秒以上の時間をかけてそれは地面に落ちた。
本当に加減をしなかった蹴りは久し振りだ。死ぬ間際に噛みつかれた右足から血が流れる。
裸になっておけばという思考は捨てて、アスカを援護する。
「こっちは殺ったぞ!!」
あと2匹、棘まみれのと形容しがたいのが1匹。
「シンジ!? 変な奴任せた!! 棘付きはあたしが殺るわ!!」
アスカはマガジンを落として上着の内側に入れる。チラッと見えたのはマガジンホルダー。
おそらく短時間リロード用に改造した戦闘服なのだろう。
マガジンを装填するとアスカは棘と化物の間に打ち込んで2匹を引き離した。
俺はその機を逃さずに駆ける。化物は化物だ。
人間っぽい腕が背中に生えている上に、所々に光沢のよい鱗のようなものも確認出来た。
それが走って、速い! 横に飛んだかと思うと背中の腕でハンドスプ――――
「だぁああああ!!」
足を一本掴んで勢いを殺さず投げ飛ばす。叩きつける余裕は無かった。
腹部に大きく開いた口を落下傘のように広げて、それが難なく着地する。
「ほんとに化物だな」
ため息と悪態を同時につく。もう一段階上げないとやってられないかもしれない。
糞イヌの分際で首輪なんかしてんじゃねえよ。些細な事がむかつく。
殺意の濃度を上げていく。さっき噛まれた所が脈動と同時に痛みを俺に充満させる。
早く殺さないと俺が俺でいる間に。
走り込む。真っ直ぐに飛び掛ってきた所を左に跳んで直ぐ跳ねて横っ腹に殴りつける。
化物の背中の腕が動いてそれを止めようとするのを左で払――――
天地が逆転した。
背中に衝撃、呼吸が一瞬止まる。
覆いかぶさる影。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!!」
一瞬、一瞬だけ意識を取り戻すのが攻撃よりも速かった。
両手で前足を掴んで何とかこらえ切る。本気で殺すつもりかと馬鹿な事に怒りを覚えた。
脇腹には何本か牙が刺さってる。揺らしながらギリギリと締め付けてくる。
殺す。
殺す。
殺す。
この唸ってばかりでヨダレを垂らす頭も殺す。背中のバネだけで、ありえないくらい強い。
押し切られるのは時間の問題、アスカに声をかける隙はない。
このイヌ頭が噛み付いてくるせいで首は右に左に降らされるばかりだ。
背中の腕は不幸中の幸いに、倒れた俺には届いていないがそれが届くのも時間の問題。
じわりじわりと突き刺さる歯の数が増える。痛い、痛い、痛い。
痛い痛い痛い、我慢ができなくなる。
――――ドクン、ドクン
死が近づく音が聞こえる。怖い、それは怖い事だ。
俺でも耐え切れない恐怖だ。だから、殺せ。殺せばいい。殺せば全てが終わる。
決めろ、決断しろ。俺にはその力がある。
こんなところでは死ねない。
「…………の……く、そ……イヌめぇ〜〜〜っ!!」
頭が噛み付いてきて引く瞬間、両手を離してバランスを崩す。
のしかかってくるその一瞬に頭部を両手で掴み、力任せに回転させた。
2回転、骨を砕いて脊髄を捻り切ってもまだ足りずに隣のアスファルトに思いっきり叩きつける。
砕け散る頭蓋、飛び散る脳漿。ぐらり、と垂直に立った犬の体が傾き地面と平行になる。
「……はぁ…………はぁ…………」
さすがに死んだ。
向こうの方でも最期の悲鳴が聞こえた。小五月蝿い銃声もやんだ。
やっと、静かになった。
瞼を閉じてはぁ、と息を大きく吐いて大きく吸い込む。もう一度繰り返して目を開けた。
空には満天の星が輝いている。そこに穢れは感じられない。
月はこの体勢では見えない位置にあるらしい。さっき溢れていた薄雲は消えている。
心臓がまだ五月蝿い。体中の怪我も文句を言うが、このくらいじゃ僕は死なない。
心を落ち着けようともう一度瞼を閉じたら、暗い視界が一段と暗くなった。
「こんな所で寝ると風邪引くわよ」
ぽたり、と頬に何かを感じてそれを手で拭った。
目を開けて確認したけど、すでに手は血で汚れていて何が付いたのかは判らない。
アスカが僕を見下ろしている。顔は良く見えないけど、右腕に血のきらめきが見えた。
ざっと全身を見回してため息をつく。僕よりはずっと軽傷で心の底から良かったと思う。
「そうだね……っよっと。それよりどうしようかな、この服。
まじめに忠告聞いてれば良かったよ」
上着をアスカに見せつけるようにピンと両手で張らせる。
ヨダレに血液、それに破れが酷くもう役に立たない。お気に入りだったのに残念だ。
警察に声をかけられた時にファッションだと言い切っても、強制連行されてしまうだろう。
着替えを一つでも持ってきておけばよかった。
「全くバカシンジのままなんだから。ネルフでパクッたのでよければあるわ。
血止めは手伝ってあげるから、そのあと着替えなさい」
くるっと踵を返し車へ向かうアスカの背中に、ありがとうと声をかける。
アスカは背を向けたまま歩みも止めなかったけど、右手を振って応えてくれた。
空を見上げれば高く遠く。深い水底にあるかのように瞬く星。
あと少し、あと少しで今日は終わるのだろう。
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