■□ もう一度、シュウマツを □■




あたりはすでに薄暗く、改めてそこが山の中にある事を思い出す。
ここまで6時間半、途中休憩も入れて食糧も少しだけ買って、やっとあと少しの所まで来た。
はっきり言ってしまえばかなりの遠回りをした。理由はなんとなく解る。
彼女は例の件での検問を避けるために道を選んでいた。
それが解ったのは1時間ほど経過した頃、ずっと会話らしい会話はしていない。
だから隣で何をしているのかを見て、自分なりに推測した。
ノートパソコンを後部座席の鞄から取り出してずっと、彼女は画面とにらめっこしている。
簡単だの厄介だの遅いだの愚痴をこぼしながらひたすらにキーを叩いていた。
今は落ち着いている。長々とあくびなんかしてるし、入力音もまばらになってきている。
山道と言うのは車酔いし易く、本等を読んで周囲を見なければ余計にそうなる。
にもかかわらず、彼女は車酔いしているように見えない。平衡感覚が人並み以上と見た。
道はずっとさっきから一本道のまま、上り坂ももうすぐ終わり、下りに入る。
ふとナビに目を留めると、先の道が消えている。存在していない。
「そろそナビの道が消えると思うけど、そのまま行って」
彼女に従うのに問題はない。けれど封鎖されているだけで地図データまで消すのだろうか。
この辺りの地図をまともに見た事がないから、何とも言えない。
封鎖された後に消えたのだとすれば、古い地図を見れば載っているのかもしれない。
山をぐるりと回って、木々の隙間から黒い何かが見えた。
一面が黒い、黒い闇に包まれている。その中に向かってい薄い日の光が降り注いでいる。
今目に止まった部分は、あまりにも大きい影だった。
穴だ。
巨大なクレーターがそこにはあった。

――――思い出せ。

痛む。胸ではなく、頭が鋭く。記憶の蓋をこじ開けられそうになる。
視界と意識を正面の森の中に移して一時的な平静を取り戻す。噛み合わない。
事実と現実が噛み合っていない。少しずつずれてきている事に気づかない方がいい。
けれど心がもう無理だ限界だと言おうとする。
それでも、無理矢理に封じ込める、喉まで上がってくるたびに飲み下す。
ハンドルを放り出そうとする両手に力み過ぎるくらい力を込めて、アクセルを踏み込み過ぎないように右足を硬直させる。
ナビの映像はないに等しい。画面に出ている情報が時間経過と共に減っていく。
ヘッドライトだけが頼りの暗い道を下り、闇の底に向かう。
「顔色悪そうだけど、大丈夫?」
あっけらかんと、気遣う様子もなく彼女は聞いてきた。
ノートパソコンは閉じているから彼女のしたかった事は全てし終えたのだろう。
細工は流々あとは仕上げを御覧じろ、なんて言葉が何故か浮かんだ。
「たぶん……ま、死にはしないよ」
そこが最低レベルだ。
生きていればきっといつか、それだけが希望というものだから。



ひび割れた道路に出ると、街頭の名残がいくつか見えた。
曲がって、千切れて、捩れたそれらは何年も放置されて続けていたのだろう。
電気さえ通っておらず、周囲は車のライトを消せば真の闇だ。
この街が本当に死んでいると感じる。あの世界のような、何も無いにおいがしてくる。
感じられそうだ、と言う方が正しいかもしれない。ここには色がある。
あの世界と比べて言うなら、この世界は、目の前の暗がりさえ極彩色だと自分は言い切る。
体験した者しかあの世界の空虚さは解らない。今それを語れるのは僕だけだ。

――――そう思いたいだけだ。

もう一人が五月蝿い。居もしないもう一人が嫌な事ばかり言う。
見なくてもいいものを凝視しろとわめき、束の間の平和に戦争を持ち込もうとする。
僕が何もかも悪いと言わんばかりに、そんな内罰的な心は無くしたはずなのに。
でなきゃ僕があの食事が出来るわけがない。必要悪と認める強さが無ければあれは出来ない。
どんな事を考えていても、アクセルさえ踏んでいれば車は進む。
着実に闇の中へメートル単位で車は前進している。速度を落としてるのはわざとだ。
でも彼女は何も言わずに、照らし出されている道のその先に目を向けている。
所々にある亀裂にも見える路面のひびに、車が跳ねさせられる。現場が綺麗に保存されている。
何年も経ったためかアスファルトの隙間から雑草が生えている所もあったけど。
どう見ても手付かずで、一度も修復された形跡がない。
「あと200mぐらいで右折ね。カウンター見てなさい」
彼女は突然そんな事を言った。この暗闇の中、何かしらの目印になる物があったのだろうか。
言われるままに速度メーターの下の走行距離のカウントを見る。
今日一日で凄まじい距離を走っている。これだけ一気に走ったのは初めてだ。
自分が初めて車を買った時に結構な距離乗り回してたけど、これの比較にもならない。
少し開けた。
交差点に出たらしい。カウントも彼女の言った距離程度は進んでいる。
「ここここ。ここを曲がって」
ウィンカーの音が妙に大きく聞こえた。こんな所なら出す必要もない事に、遅れて気づく。
森を完全に抜けたのか、廃墟が少し増えてきた。きっと外周だ。
あのまま真っ直ぐに行ったら奈落に落ちていたのだろう。
そろそろね、と彼女がつぶやくのが聞こえた。何かを待つような、そんな響き。



反射的に急ブレーキを踏んだ。少し遅れてごん、と鈍い痛そうな音。
「ちょ、何やってんのよこのバカ!!」
「いてっ」
ぐーで殴られた。シートベルトをしてなかったのはそっちが悪いんじゃないか。
だいたいこんな所にいきなり人間が出てきて手を振ったらブレーキを踏むだろう。
さっきまで人っ子一人すれ違わなかったんだから。しかも暗闇から出てきた。
人が居る筈のないこんな所に、しかも軍服っぽい物を着てメットを被っている。
堂々と銃を手にしてるし、異常な事態に身が縮こまるのは当然だ。
彼女を睨んでいる間に、ドアウィンドウをノックされた。
目の前の一人は消えていない。つまり別の人で二人目の登場というわけだ。
「…………」
視線で彼女に訴える、開けていいのか、と。
相手は銃を持っている、自分としては従うのが順当だ。
この状況でアクセルを踏んでもこいつは殺せないが、こいつは引き金を引けば自分を殺せる。
彼女は顎で開けろと合図した。彼女は何か知っているのだろう。
それは希望的観測に過ぎなかったけど、ドアウィンドウを半分だけ開けた。
「ここは立入禁止区域だ。一般人をこれ以上進ませる事は出来ない。
 ここで見た物をここ以外の場所で公然の物とした場合、君達は死罪扱いになる。
 また君達には監視者がつく事になる。君達の行動す「シンジ、これ見せてやって」
カードを二枚、彼女から投げ渡された。まともに見る事なくそれを宣告者に渡す。
彼は車から少し離れ、カードを何度も見ながら何処かに連絡を取っている。
ほぼ1分後、戻ってきた彼からカードを受け取る。
「失礼致しました。道が途絶えている所もあるので十分お気をつけ下さい。
 下へはカートレインが復旧していますので、それを利用して下さい」
「あ、はい……」
生返事をしてウィンドウを閉めた。敬礼をしている彼の姿は、現実だ。
彼女にカードを返しつつ、アクセルを踏み込んだ。人影が暗闇に溶け込んでいく。
大して速度も上げずに、自転車より一回り速いくらいの速度で進む。
辺りはもう完全に闇の中だ。方向一つ間違えば死に直結する転落事故を起こす。
壊れたテレフォンボックスが道路脇に見えた。支柱が折れてガラスが融けて変形していた。
ライトによってほのかに浮かび上がる物を見ていると、どれもほぼ同じ方向に曲がっている。
という事は、それらに共通の何かがその延長線上であったと推測するのが正しい。
おそらくと言わず爆発だ。N2爆弾なんて兵器を何発も打ち込んだ結果だ。
「もう少し先に行ったら標識があるから、それに従って右ね」

――この辺りなら見覚えあるでしょ。

そんな声が聞こえた気がして、慣れない運転をしたからだと切り捨てる。
即答はしなかった。無言。
彼女はいろいろと知っている、けれど何も言わない。
それが僕に対する彼女なりの優しさなのか、必要が無いから言わないだけなのか、判らない。
逃げるチャンスは幾らでもあったのに、エヴァに乗る時の義務感のような……
そう、この状況に流されている、まただ。また流されているんだ。
納得もしていないのにほとんど意味を持たない状況を続けようとする、自分の悪い癖だ。
いや、意味はある。けれど知らない方がいい事ばかりだ。
この先にはそんな物が山ほど待っている。全ては心に痛みを残す棘となるだろう。
ほんと、痛がりのくせに。
これじゃ加持さんと同じじゃないか、そのうち死ぬ。
せっかく長い間目をつむってきた事もこれで全て水の泡、戦のにおいが頭の片隅にずっと残ってる。
「…………馬鹿だなぁ」
ほんと。背負わなくてもいいものまで背負って、何か得するわけじゃないのに。
ちょっとだけの幸せのためにその数倍の不幸を手に取る。
人間の人生の中で幸福な時間は不幸な時間の半分しかないって聞いた事があるけど、僕はもっと少ないはずだ。
「何か言った? ほら、あれよ。曲がったら少し先にトンネルがあるから」
「言われなくても解ってるよ」
何にも解ってないのに、僕は投槍にそう返事をする。
どうしようもない状況を受け入れるために、ちょっとだけ、拗ねてみた。



あの日を思い出す。
状況が似ていたからだろう、ごく自然に思い出された。
「すごい! 本物のジオフロントだ」
理由なんてそこにはなく、ただ子供のように思った事を口にした。あの日は。
そんな物があるとは思わなかったという驚きと、初めて見る近未来的な光景に目を奪われた。
思えばあれに乗ったのは一度きりで、それ以降は非常用エレベーターを使っていた。
車で回収するよりもその方が早かっただけの事だ。
荷物搬送や職員の車移動には使っていたのだろうけど、中学生の自分にそれは関係なかった。
構内が広すぎてもいける場所も行くべき場所も限られていた。
車に乗って移動したのはあとにも先にも……一度だけだ。そう、たった一度だけ。
最初の一回目だけ。
何も知らずに連れてこられて、無い物ねだりだと幼いながらも知っていたのに希望を捨てられなかった。
結果として手に入れたものはあったけど、それも掌の中の砂のように指の隙間から零れ落ちていった。
そんな手の中に何が今まで残っていたのかを知ろうとは思わない。
パンドラの箱の中には希望があった。ゼウスがわざと入れた最後のお情けだ。
出なかった災厄があったのもその先を悲観しての事だろう。
ゼウスはパンドラが開ける事を知っていたから、贖罪する機会を与えたのだ。
かくして希望は世界に解き放たれ、人々は災厄に立ち向かう力を得た。
でも僕の箱の中にそれは最初から入っていない。開ければたちまち災いだけが降りかかる。
欺瞞、自分を騙して希望という幻影を見続ける事しか赦されない。
そんな事にも気づかなかった昔は良かった。弱々しかったけど真っ直ぐで、無知で無謀で。
若さ故に強い想いがあれば何でも出来ると錯覚をしていた。
今は死ぬほど解っている、なのに。
僕はまた新たな箱を開けようとしている。
ハズレしかない宝くじに投機して、ありえない当たりを望むようなものだ。
誰かがくじの代金を払ってくれるわけでもなければ、裏工作をしてくれるような人さえ居ない。
業だ、業。そうなる運命なのだと受け入れる。
そうすれば楽になる。現実は受け入れるものだと自分は知っている。
ある人はそれを諦めと言う。またある人はそれを受容という。
自分は間違いなく前者だろう。そうする事で心を殺して何も感じないつもりになる。
余計なストレスも感じなくていいし、幸せの最低ラインを引き上げられる。
そこで維持し続けられる、という方が適切かもしれない。
下手に希望を持たないから上を見ない代わりに、下を見る事もない。
変化しない日常、年月は硫酸のように自分を傷つけるけど、可能な限り変わらない日常。
ささやかなたった一つの望みなのに、叶わない。
目の前に広がる深淵は儚い幻想さえ存在する事を許さず、飲み込んでいく。
かすかな光に反射して見えるカートレインのフードは大きく割れ、ほとんどないに等しい。
ウィンドウを開ければ即座に冷たい風が流れ込んでくるだろう。
エンジンは切った。けれど車内の明かりはつけていない。彼女は何も言わない。
暗闇の中で車が移動させられる音と、かすかな二人分の呼吸が聞こえる。
窓の外は暗い。静かに息を殺していないと恐怖に取り殺されそうなくらいに黒い。
何も知らなかったあの日の輝きは何処にもなく、人に見捨てられた痛々しい影がだけがある。
光と影。光に焼き尽くされ、光が消えてもなお残り続けるのは影のみ。
光を維持し続けるには力が要る、影には力が要らない。それだけの事だ。
「中、普通に入れるの?」
「最低限の電源だけは生きてる。あんたが心配するような事はなーんもないわよ」

――だって、昔こんな事あったじゃない?

ありえない事だとしても。
そう明るく彼女が続けてくれれば、僕の心も少しは楽になったのだろうか。



懐かしい風景は凄惨な風景になっていた。正直な所、暗くて良かったと思う。
車は入れられるだけ奥に入れて、ゲートを抜けた。
セキュリティは生きてるから、と渡された薄汚れたカードを見た時には涙が出るかと思った。
僕のIDカードだった。
何年も昔の僕の姿がそこにあった。言葉に出来ないいろんなものが胸に一気に押し寄せた。
一つ一つを思い出せなくても、激しく上下した感情は覚えている。
カードの有効期限はとっくに切れていたけど、すんなりと認証された。
懐中電灯だけが頼りの暗い通路に、2人分の足音とキャリーバッグを引き摺る音が木霊する。
足元に散らばる壁の破片でキャリーバッグのプラスチックローラーが不規則に跳ねる。
銃痕もあれば焦げた跡も、黒ずんだ血糊も内装の完全に剥げ落ちた場所もある。
メインエントランスとも言える、ゲートを抜けてすぐのロングエスカレーターは死んでいた。
構造美と言えるお気に入りのシンメトリーは影も形も残されていない。
30分ぐらい歩いただろうか、彼女の足が部屋の前で止まった。
小脇に挟んだままのパソコンを取り出して広げ、ケーブルを差してドア横のタッチパネルに繋いだ。
キャリーバッグを椅子代わりに、彼女が何かを素早く打ち込む事数秒、エアーの抜ける音が聞こえた。
ピンッ、とプラグを壁から引き抜いて中に入る。その後を追う。
「あった……と、これね」
お目当ての物を見つけたのか、埃を払って電源を入れる。
他にもこの部屋には沢山の端末があるのに、彼女は迷わずそれを選んだ。
服についた埃を気にしながら、キーボードを叩きつつ画面とにらめっこをしている。
何をしているのか気になって覗き込む。彼女が何も話してくれないから。
ぼんやりした画面の光を反射して、自分と彼女の顔が闇の中に浮かび上がる。
ウィンドウが沢山開かれては消されて、大きな一枚が開いて彼女の手が止まった。
電源配給マップのようだ。
マウスを操作して、彼女はマップ上に道を描くようにクリックしていく。
クリックされた部分は色が反転して、ONと表示される。と、部屋の明かりがついた。
「最低限の経路はこれで確保、と。
 ドグマはMAGIからじゃないとダメね。電源経路も独立してる。
 充電率は…………けっこうたまってるじゃない。これなら明日までは余裕ね」
と。
「んがっ!?」
不意に伸ばされた彼女の拳が、見事なまでに自分の顔の真ん中を捉えた。
クリーンヒット、ちょっとだけ眩暈もした。鼻の頭がひりひりして、涙もちょっとだけこぼれる。
「あ、ごめん。照明入れたから、明かりのついてる通路だけ通って。
 それ以外の所に行っても命の保障は出来ないわ。
 さっきも言ったけど、セキュリティだけはバカみたいに生きてるんだから。
 そうだ、地図プリントアウトする?」
余った左手を振って遠慮した。行ける場所が限られているならそれ以上は行かない。
素直に人の言う事を聞くのは昔からの僕の処世術だ。今は意識してそうしている。
それに――――

――――いいのか?

……良くない。僕は知らない。それでいい。危険な所には行かない。
良く似た場所だ、それだけなんだ。それ以上考える必要はない。
彼女が端末の電源を落とす。照明をつけるだけのために使ったらしい。
僕はそんなに構内を……思い出すな、考えるな。記憶は封じ込んでおけばいい。

――――でも、今更だろ?

五月蝿い。俺が気づいてるとでも言うのか? ふざけるな。
だいたいお前は誰だ? いつもいつも俺の心に問いかけて邪魔しやがる。
気まぐれな言葉を言ってばかりで俺を救いも殺しもしない。迷いを与えるだけだ。
殺せるのなら今すぐにでも殺してやりたい気分だが、殺せないのは知っている。
だから黙れ、黙っていればいい。ずっとだ。お前に用は無い。
「何してんの? 行くわよ」
「……ああ」
彼女は首を一度かしげて廊下に出た。そのあとに続く。
そして思い出した。彼女も僕自身の事を何も知らないのだと。
何とか、心が落ち着きを取り戻した。



病棟の一室をあてがわれたので、そこが自分の寝床というわけだろう。
病院独特の薬品臭は何処にも無く、シーツを剥いだ時に埃の臭いがしたくらいだった。
シーツやマットの抗菌仕様は伊達じゃないらしく、カビは生えていない。
とりあえず用意した新しい、と言っても何年も前のだけど、クリーニングの完全密閉包装をされたままのそれを開いて布く。
お日様の匂いにはかなり遠いけど、洗い立ての清潔な臭いがした。
しっかりと折り目のついたそれを広げて綺麗に布くのは手間がかかったけど、やっと落ち着けそうだった。
ベッドに倒れ込むとそのまま全部を投げ出しそうになってしまう。
気にする事の無かった適度な柔らかさを、疲れた身体は敏感時感じて眠ろうとする。
まだそれほどの時間じゃない。しかし静かに起きたままというのは暇だ。
ここには何の娯楽もない。余計な事を考える時間が増えるだけだろう、精神衛生上良くない。
「シャワー……それくらいはいいかな」
浴槽はさすがに洗わないと使えないから、湯船にゆったり浸かるのは諦める。
急にだるさを感じ始めた体を起こし、病棟の簡易バスに向かう。
その途中で、彼女にすれ違った。
「お先でーす。なんてね」
あまりにも場違いなその格好に目を奪われた。ほのかにまとった湯気が彼女を引き立てる。
生乾きの、整えられていない艶のある髪が妙に目を惹く。
こんな状況を考えなかったのか、彼女はバスローブ一枚で衣服を左の脇に抱えていた。
首にかけたタオルで髪を拭きながら、彼女は僕とすれ違う。
無意識に目で彼女を追いかける。けれど自分の足は止まらない。
「話したい事あるからあとで来て。隣の部屋だから」
「あ、うん」
そう答えながら、彼女のバスローブの右側が下がり気味なのに気がついた。
歩くたびに弾力で軽く弾むバスローブのポケットの中に、黒い物騒な物が見えた。
無防備じゃあなかったわけだ。
今こうして何も持たずに歩く僕の方が、如何に素人なのかを思い知らされる。
確かに知識の面では素人だけど、一方的な経験は素人じゃない。
だから大丈夫、なんて免罪符は与えられない。明らかに僕が悪いんだ。
たった二人しかここに居ないって言う証拠はないし、さっきの彼等が居るかもしれない。
まあそれでも、独りだけの今の状態なら負ける気はしない、全然。
だってこれを見た人で生き残った人は、今までただの一人も居ないんだから。
簡易の修飾語がつく通り、バスルームは狭い。
彼女の残り香が残っているような、そんな気がした。シャンプーの匂いがする。
あと少し早く部屋を出ていれば鉢合わせしたかもしれない。良かった。
新しいバスタオルを用意してから衣服を脱ぐ。下着は諦めよう。
「ああ……」
思わず声が出た。これほど心地よいシャワーは久し振りだ。
疲れが相当たまっていないと、ここまでの快感は感じないだろう。疲れた。
肉体的にも精神的にも疲れたけど、身の汚れと共に洗い流されていく。

――――お風呂は命の洗濯よん。

不意を突かれて思いがけず涙がこぼれた。誰にも気づかれない。その事に、救われる。
でも嗚咽を上げる事が出来ない。本気では泣けないのだ。
ひとしずく、それは何年振りかに流した心の涙だった。本当に疲れている。
こんな物必要ないと割り切っているのに、心はどうして言う事を聞かないのだろう。
また声が聞こえてきそうな気がして、シャワーを強くする。
激しい水の音が今一度沈んだ気分を押し流す。痛みに変えて忘れさせてくれる。
3分、それに耐え切ってからバスルームを出た。平静は取り戻した。
軽くドライヤーで髪の毛を乾かしてから一度部屋に戻る。上着を置いてから一息つく。
ベッドにそのまま仰向けに倒れようとして、彼女に呼ばれていたのを思い出した。
このまま眠ってしまいたかったけど、立ち上がる。
「隣って言ったけど……」
部屋を出てまた気がつく。相当思考が鈍っているらしい。
自分の部屋は角にあるのではない。だから左右に部屋がある。彼女の部屋はさあどっち?
開けば当たり、開かなければはずれで二回で確実に当たりを引く。
でも。
一発で当たりを引く自信があった。当たって欲しくはないのだけど、それは確信で。
隣のドアをノックして5秒待ってから、タッチパネルに触れた。
エアーの抜ける音がして、303の、古ぼけたナンバープレートの入ったドアが無遠慮に開く。
中には予想した通りに彼女が居た。
何故この部屋を選んだのか、質問をしたくもないし聞きたくもない。
朽ちて用をなさなくなった医療機器の類が、当時のままベッドの枕側を囲っている。
アスカはこっちを向いてベッドに腰掛けていた。
「わざとカマかけてみたんだけど、無駄に素直な所は変わらないわね」

――――ドクン

屈託のない笑顔で、けれどどことなく寂しさを匂わせて。彼女は誘っていた。
髪の毛は乾いていて濡れ羽色のような艶はないけど、退廃的な魅力を新たに備えている。
少し大きく股を広げて、大して意識はしていないのだろうけど、見えそうだ。
胸元も大きくVの字にへその辺りまで広げている。
「な……ん……で…………ありえない」
彼女は殺した、だから、ほんとは知っている。けれどその可能性は、ない、ありえない。
全力で否定しなければ壊れてしまう。
でも知ってる。
それを全部否定は、するんだ。しなければ、逃げなければ。けれどドアは閉じる。
二人だけ、僕一人だけ取り残されて、身体と心が別々になって裂けてしまいそうだ。
彼女の眼は、両の青い瞳が魔力を秘めているようで、勝手に引き寄せられる。
自分を維持するためには――――壊すしかない。けど駄目だ。
二度もアスカを殺す事なんて。
それこそ本当に自殺行為だ。壊れた僕はきっとなんのためらいもなく人を殺す。
殺される事なく欲望のままに本能のみに操られて殺し続ける。
それは夢で見るあの世界に匹敵するほど怖い。想像するだけで酷い、けれど。

――――その時に僕は居ない。

そうだ。そうなてしまえば痛みも何にも感じない。心はすでにない。
何の問題も、ある。あるんだよ、そうなる事を真に恐れているのは僕自身だ。
そんな事出来るわけがない。幸せが崩れ去る。何物にも変えがたい幸せを自らの手で壊す。
赦される事じゃない。幾つもの命を糧としてきた俺の責務だ。
彼等のように死ぬ事は赦されない。
彼等の分まで幸せにならなければならない。
彼等の命の一片たりとも無駄にしてはならない。
俺自身が決めた事だ。破ってはならないし、死ぬまで守り続けなければならない。
ならばこの状況はどう打破するのだ? 僕はこのままじゃ壊れてしまう。
アスカに近づく足は止まらない。
もうすぐ目の前だ、ちょっとした拍子に殺してしまうかもし――――
「っ……ふぅ。少しは楽にしたら? こんないいオンナ目の前にして、失礼よ」
言い返す前にもう一度唇を塞がれた。
何も言い返す事が出来ないくらいアスカの唇は火のように熱く。
熱く、熱過ぎて。
僕は全てを忘れさせられた。