■□ もう一度、シュウマツを □■




余裕をもてるなら、もって行動した方がいいに決まってる。
昨晩の雨も綺麗に上がって、さわやかな朝。街を覆う水滴に陽光が命を与え、きらめかせる。
宝石を地上の星と言う人も居るけれど、この方がよっぽどそう見える。
夜にしか見えない星のように、限られた時間しか見る事が出来ない。
4つの車輪が奏でる流れるような水音に耳を傾けながら、真っ直ぐに彼女の居るホテルを目指す。
思っていたよりも車の数は少なく、拍子抜けした。
ラッシュよりも幾分早い時間だから、これくらい少ないのはもしかすると当たり前なのかもしれない。
こんな時間に車に乗る事はほとんどないし。
速度を落とさずにずっと行けるのは気持がいい、高速乗ってる時には勝てないけど。
その角を曲がれば彼女の居るホテルに着く。大した労力も使わなかった。
駐車場のゲートを抜けて、場所を選んで停車する。珍しくいい場所が空いていたからそこにした。
ゲートに向けて一直線に出られる位置、しかもバックをしなくても大丈夫。
ペーパードライバーにならないように週末ドライブぐらいはするけど、バックは苦手だ。
エヴァみたいな一体感があれば、もう少し上手く操縦出来ると思う。
車体感覚とか言われるものの感じが今ひとつ掴めないのは、ドライバーにとって致命的だ。
自分じゃない物を自分と認識する過程はエヴァに似てるけど、エヴァはロボットというより生き物のようだったし、その差かもしれない。
何よりシステムそのものが違うか、比べる事が間違ってた。無意味だ。
時間をちらりと見る。6時31分に切り替わった。15分ほど潰してから行こう。
シートを後ろに倒しての背伸びをする。何箇所か骨の鳴る音が聞こえた。
指をぽきぽきと鳴らすような音よりも低い音が、体がこっているのを知らせてくれる。
まだ身体は本調子じゃないらしい。頭は目が覚めてるけど、身体は寝ぼけてる。
「…………でも、夢みたいだ」
昨夜の事を反芻する。あの彼女と喧嘩する事もなく楽しい時間を過ごした。
少なくとも自分はあの時間の間ずっと、幸せだったと思う。
時間が解決してくれるって事を経験できた。自分のした事を決して忘れたわけじゃない。
それでも学校で過ごす時間と同じ……ううん、それ以上に意識せずに居られた。
あのアスカが大人になったら、やっぱり彼女みたいに丸くなっていたのかもしれない。
元からの魅力を損なわない程度に精神的にも成長して、強く、美しく。
自分の欠点を魅力に変える力も備えている事だろう。自他共に認めるいい女になる。
手を出そうと思わないけど。
今になってみればあの世界で、現実がどうだったかというのは置いておくとしても、周りから見れば十分羨ましがられる生活をしていたのだ。
血の繋がっていない人間が三人一緒に住んでいて、一人は美人の保護者役で一人は美少女で、二人に囲まれて暮らすのは一人の男の子。
余計な知識が増えた今では、良く何事も無く過ごせたな、なんて赤の他人のような感想が出てしまう。
人間が五感で得る情報の中で一番のウェイトを占めるのが視覚、見た目で判断するのはしょうがない。
隣の芝生は常に青いものだ。自分にないものを人間は常に欲しがり、無い物ねだりする。
命の枷のない他人を自分が羨ましがるのも、同じ事だ。
それでも人は生きていく。
確実に手に入れられるものがあるなら、それは手に入れないと損だ。
どんな苦労をしても手に入れるだけの価値がそれにあるのなら。
そろそろ時間だ。
今からその一つを、僕は取りに行く。



裏に当たるそこから外周の道路を通って、ホテルの正面玄関へ向かう。
朝早くにチェックアウトする人も多いのか、ガラスの向こうは優しい明かりで包まれていた。
夜間照明というほど強くもなく、朝の弱い明るさに合わせているようだ。
気まぐれに歩みを止めて上を見ると、気づかなかったホテルの大きさを改めて知らされる。
高い、値段もきっと高い。
金銭感情なんて俗物的な事を思いつつ、数m先の入り口へとまた歩き出す。
高級車が一台横を過ぎて、玄関前に止まる。タイミング良く自動ドアが開いて黒服の人が5人出てきた。
周りの四人は真ん中に居る人を警護するために居るのだとすぐに判った。
あの人、どこかで見たような気がする。護衛の一人がこっちを見ているので、また足を止めた。
ついでに両手を挙げて見せる。厄介事に巻き込まれるのはごめんだ。
要人と思わしき誰かが車に乗り込み、護衛の人もあとから素早く乗ってドアを閉めた。
手を下ろして、ため息をつく。ホテルには詳しくないけど、ここは良くない。
自分のような一般人が立ち寄っていい場所じゃない、そう感じた。
一般人でも人並み以上の稼ぎを上げる人が来る場所なのだ、きっと。
それはともかくとして、彼女を迎えに行かなければ。
急に入り難くなったような気がしてしまうのもしょうがない。一度深呼吸して気を引き締める。
自動ドアが開く。
ロビーは思った以上に広かった。それでも基本を押さえた造りだ。
正面に受付が見える。左右には待ち合わせ用のテーブルとソファーが整然と並ぶ。
まだ7時にもならない時間と言う事で、ロビーに居る人の数も少ない。
自分からすれば居る方が不思議なくらいだ。
と、彼女だ。
脇の通路から真っ直ぐに、受付に歩いていく。
けど、どうしてキャリーバッグも持ってるんだ? 昨日一晩だけここだったのだろうか。
今ぐらいの時期はそれほどホテルは忙しくないと思うけど。
他のホテルが満室でも、高級ホテルだと若干余裕があるのかもしれない。
馬鹿みたいに立ち尽くしていた事に気がついて、彼女の元へ向かう。
チェックアウトの手続きにしては少し長い気がする。彼女の笑顔が見れるならそれでいい。
本当は望んではいけないとしても、それが可能であるなら。
あと数歩、まだ手続きを終えていない彼女に朝の挨拶をする。
「おはよう、惣流さん」
彼女が振り返る。
それがスローモーションに見えて、二つじゃなくて一つにまとめられた髪の毛がゆっくりとなびく。
見える顔の輪郭が徐々に変わっていき、彼女の瞳が僕の視界に入り、目が合う。
体の向きは変えずに上半身だけ捻って彼女は言った。
「あ、早いのね。おはよう」
意外、と言う顔だった。彼女はきっと自分が来るのを待つつもりだったのだ。
迎えに来てもらうのだから、そのくらいは当たり前と。
自分は予定時間きっかりにくるような几帳面さは持ち合わせていない。
予期しないトラブルもありえるから、待ち合わせには予定よりも早く着くように行く。
「手続きまだ少しかかりそう?」
「うん。ちょっと、ね。長電話しちゃってその関係」
「荷物だけでも先に積んでおこうか?」
彼女の荷物に目が移って、もう一度彼女の顔に戻った。
その一瞬の間に何があったのだろうか。

――――ドクン

「きゃあぁあああああぁああぁぁあ!!?」
悲鳴が聞こえた。
女の悲鳴が静かなクラシックをかき消してロビーを埋め尽くした。
平穏が危険に侵食され尽くす。
「な………………?」
吃驚して体がこわばった。だから、彼女の表情が嫌な笑顔に変わっていくのを見てしまった。
ああ、この娘は普通じゃない。
まとっていた雰囲気も一変してしまった、これから学校だと言うのに。
エヴァに乗り込む前のような、戦のにおいが鼻につく。
体に染み付いた経験が、ずっと昔の事なのに、脳に思い出させようとする。
死ぬぞ、と。
振り返るとそこには、居る筈のない人…………人なのかという疑問が浮かんできた。
「あら、貴女が居るなんて聞いてないわよ」
澄んだ声、ずっと遥か遠い幼き日の記憶にしかない声。馬鹿な。
違う数年前に僕はこの声を聞いている、あの姿も見ている、それが最期だった。
普通じゃ考えられないその姿に、故意に忘れようとしていた惨事を思い出してしまう。
紫紺のスーツの似合う女は、足元に見知らぬ女を飾り付けてそこに立っていた。
「当たり前じゃない。そっちこそ、こんな朝っぱらから始めるつもり?」
アスカは母さんを知っている。
理由を考える余裕なんてなくて、挑発的な言葉の響きが僕を不安にさせていく。
懐かしすぎて、有り得ないほどに似過ぎていて、現実が崩れていく。
この状況全てが僕のちっぽけな、本当にちっぽけな幸せを簡単に奪っていく。
「すぐに終わるわ」

――――力だ。

直感的な思考に埋め尽くされて反射的に身構えた。
そして、きらびやかな多重奏、ホテルの前面フロントを埋め尽くすガラスというガラスが全てひび割れる。
完全に割れて崩れたのではない、ひびだけが入って外の様子が一切見えなくなった。
母さんに見えるその女は何事もなかったかのように喋る。
「これでいいわ。シンジ、すぐ迎えに行くわね」
笑顔なのに、笑ってないように見えた。何かにとり憑かれているような形だけの笑顔。
何かが違うのは判る、母さんに見えて母さんの雰囲気も残しているのに、心が認めない。
決定的な何かをすでに知っているから、僕の心が思い出さない。
それはただの恐怖でしかなかった。
「バケモノ…………ッ」
苦虫を噛み潰したような声が聞こえて、小さな、何かが弾けるような音が聞こえた。
何回か聞いた事のある本物の音。
突然の銃声に、母さんからアスカに顔を向けようとして、止まった。
直後に弾丸を弾く、その音が聞こえてしまったから。
「あらあら、そんな物騒な物、良くこの日本に持ち込めたわね」
母さんはくすくす笑っていた。綺麗な笑顔なのになんて嫌悪感を呼び起こすのだろう。
アスカの顔を見る、眉毛が余裕の無さを語っているのに彼女の閉じた口は笑みを描いている。
上等じゃない、そんな言葉が聞こえてきそうで、今この場に居る僕は状況に取り残されていると実感した。
彼女の右手の銃が袖の中に消えて、反対の左手が上がる。
見た事もない銃。
銃の種類なんて全く知らないから、知らなくて当たり前なのに強くそう思った。
これは――――
ガラスが割れる音が聞こえた。母さんに弾は当たっていないみたいだ。
その背後のガラスが砕けて外から丸見えになっている。
「なんて物を………………いえ、これは」
母さんは目に見えてうろたえていた。さっきのような余裕は顔から消えている。
さっきとは何が違うのか、自分は見逃したからその理由がわからない。
アスカがわざと後ろのガラスを狙って撃った、という推測を立てるぐらいだ。
この状況ではこれ以上何かをするのは無理だろうという安堵が胸の中に沸く。
「何の策も用意せずに来たと思ったら大間違いよ。このまま死くっ!?」
あの食事をする時のように人の気配を感じて振り返ると、受付の人が銃で殴り飛ばされていた。
カウンターを乗り越えてきたその男は、またカウンターの向こうへ戻される。
「そんな事までっ……シンジ!! 裏から逃げるわよ!!!」
三回引き金を引いてアスカは奥の通路へ走り込む、黒い旅行鞄を片手で引っ張って。
まるで重さを感じさせないかのように、旅行鞄は宙に浮いている。
「早く!」
母さんの事が気になったけど、僕はアスカの声に従って走った。
さらに三回の銃声が聞こえたあとにまた、ガラスの割れる音が聞こえた。
フロント脇に延びる通路の行き止まりにある大窓から、アスカが外に出て行くのが見える。
三角形に開いた穴に彼女を見習うようにしてためらわずに飛び込む。
両手で頭を抱えて植え込みに転がる。怪我をした、痛いけどそれどころじゃない。
舗装されていないそこをアスカの後姿を追って走り抜ける。
「車は!? これね、鍵刺さってないじゃない!! 早く出すのよ!!」
「待ってよ!」
長い距離じゃないけど緊張し過ぎて息切れがする、周りに人は居ない。
走りながら鍵を出して、ロックを解除する。遠隔操作で開錠出来るのは楽だ。
アスカが荷物を乱暴に投げ入れる、その時に擦ったような傷が見えた。
やっぱり昨日のあの音は、今はそんなことどうでもいい、危機感にせかされる。
アスカが助手席に乗り込んですぐ、運転席のドアが蹴飛ばされたように開く。
そこに駆け込んでシートベルトもつけずに鍵を差す。
認証終了と同時にサイドブレーキを切りながら、エンジンを叩き起こしてアクセルを踏み込む。
タイヤの唸る音を聞いたのは初めてだ、正面に車が居なくて良かった。
加速で後ろに引っ張られるのを力で捻じ伏せて、とにかく、道路へ出て走り出した。



何十分ぐらい走らせたのだろう。気がついたら高速道路に乗っていた。
朝のラッシュの時間帯はまだ迎えていないせいか、よどみなく流れている。
隣の彼女を見る事も出来ない。物騒な事をしていたから意識的に視界から外している。
それでも。現状を聞かなきゃいけない事に変わりはない。
「あの「そのナビテレビ放送受信できるわね。借りるわよ」
彼女の手がナビに取り付けてあるリモコンに伸びた。まもなく電源が入る。
素早く画面を次々に切り替えて、目的のものを見つけたのか音を大きくした。

――場の状況は酷く、ホテル自慢のフロントウィンドウが爆発事故でもあったかのように跡形もなく崩れ去っています。
また、数発の銃痕が確認されている事から銃撃戦が行われたとも予想されています。
現場には先日の京都の事件同様に成分不明の液体が数箇所に残されており、こちらの分析も合わせて進められています。
監視カメラの映像ですが、こちらはまだメディア公開はされていません。
え……はい、はい。ただ今第一目撃者の方からの情報が入りましたのでお伝えします。
現場に残されていた液体と同じ場所に、衣服が一式ずつ残されていたそうです。
着ていた状態で人間だけ消えてしまったような、と付け加えられています。詳細は不明です。
今、警察の捜査班、科学特捜班が到着したようです。凄い数の捜査員がこちらにやってきます。
防護服に身を包んだ方の姿も確認できます。これから本格的に捜査が始まるようです。
以上、現場からお伝え――――

映像は途中で切れてスタジオに戻った。軽い眩暈がしてハンドルが少しぶれる。
これは現実だ。
もう自分を誤魔化すなんて出来ないくらいに現実だ。見てしまった。
何か寝ぼけて夢を見ているわけじゃなくて、この隣に座る彼女を学校に送っていくのでもない。
あそこに居た母さんから逃げた結果、この流れに居るだけで、絶望が身を包んでいく。
人を殺したわけじゃなければ、誰かに襲われただけで保護してもらえばいい。
そんな普通の対処で済むわけがない。あれはあの世界のものだ。
この世界じゃ決して存在してはいけないものだ、僕の力と同じように。
「どう思う?」
現実を見せ付けた彼女が、問いかけてくる。考えたくないのが本音だ。
ただこのまま車を走らせて遠く遠く、遥か遠くへ記憶が消えてしまうぐらい遠くへ行きたい。
検問は引かれていないから、幾らでも行けるだろう。金はある。
でも、彼女はこの車の中から消えてくれない。
「どう……って」
答えられるわけがない。まともにやり取りするつもりもない。
彼女が河岸の存在だと解ってしまった。自分はこっち側の人間で関係ない。
そう思わなければ僕がまた酷い目に遭う。
「さっきの事に決まってるじゃない。あんたとあたしの現実よ、ゲ・ン・ジ・ツ。
 でもやられたわ、ここまで出来るなんて聞いてなかった。
 情報に不備、ボーナスでも出してくれないと全く割に合わないわね」
「惣流さんは………………知ってるの?」
母さんの事。アスカ自身の事。自分の事。京都の事件と今回の事。
何をとは聞けなかった。限定すればきっと嫌というほど聞かされるから。
カラカラに喉が渇いていたせいか、自分の声はかすれていた。
未だに隣を見る余裕がない。覚悟を決めたがらないのは昔と同じだ。
「色々知ってるわよ。何から話したらいいか判らないくらい。
 もしかしてまだ覚悟決まらないの?」
彼女は楽しそうに笑う。カチャリと金属の音をさせて銃があるのを自分に意識させる。
後ろのキャリーバッグの中にはもっと危険な物が詰まっているのだ。
そう確信を持ってしまった。彼女から聞いてないけど、彼女は留学のために来たんじゃない。
きっと母さんを殺すために来た。なのに。
僕は母さんをかばおうともせずに、殺そうとした彼女の声に従って逃げ出した。
十数年振りに会えた肉親を見捨てて他人について行く、それが今。
「答えてくれないならいいわ。次のサービスエリアに入って。
 バッテリーもうすぐ上がるでしょ、それじゃあと1時間も走れないわよ」



彼女に促されるまま、食事をして。日の当たるベンチに座っている。
あれから2、3時間は経っているような気がする。バッテリーも充電し終わっている。
進入経路が限られるこの場所は、陸の孤島のように独立して機能している。
行き来する車だけが、引き波寄せ波のようにここに来ては去っていく。
空は青く、雲がいつものように浮かんでいる。嘘みたいな天気。
このまま目を閉じて眠ってしまえば全てがゼロに戻るような気がする。
後輩には何も言わなかったのを思い出した。連絡を取るべきだろう。
でも、その気力がない。知らない方が幸せだって場合もある、彼女に迷惑はかけたくない。
だったらなおさら心配させちゃいけないんじゃないか?
そんな問いも無意味だと、頭の中ですぐに切り捨ててしまう。
今だけでも逃げてしまおう、と現実逃避が完成する前に彼女の姿が視界に入った。
「ほら、融けないうちに食べるのよ」
押し付けられるように出されたソフトクリームを受け取る。
どかっと彼女が隣に座って、自分と色違いのソフトクリームを食べ始める。
何も言わずに食べ続ける姿を見て、なんとなく舌を伸ばした。
「……こんなに美味しいのに」
爽やかな甘さが五臓六腑に染み渡る。こんな状況でも美味しいものは美味しく感じる。
まだ余裕が残されているのに気づかされた。正気を失うには早いらしい。
情けない自嘲の笑みがにじみ出る。心の苦味をソフトクリームの甘さで薄めてみた。
「一人だけ不幸なツラするんじゃないわよ、あたしも同罪じゃない」
「あれはアスカが勝手にやったんだろ!」
頭にきて思わず口にしていた。惣流さんと呼んでいたのにいきなりこれは不味い。
馬鹿、なんて馬鹿な事を。自分で自分の平和を壊してどうする?
疑いをかけるように見つめてくる彼女の視線が痛い。
後悔してばかりの人生に次々と新たな後悔が継ぎ足される。
「…………ま、いいけどね。向こうじゃその名前で呼ばれる事が多かったし。
 でも、日本じゃ失礼に当たるわよね〜」
癇に障る事ばかり言う。こっちが悪いと思っているのに図に乗るその態度が気に喰わない。
「先に呼び捨てしたのは惣流さんでしょ、ホテルで逃げる時に。
 だいたい僕の方が年上なんだから、あんたなんて呼び方しないでほしいね」
そうだ思い出した。彼女は僕の事をシンジと呼んだ。
でもそれに今頃気づくなんて、意識的に無視していたのだろう。
腹が立ってその枷が取れただけだ、怒っていながら胸の中は煮えきらずにもやもやし続ける。
年上だからって威張る気はないけれど、彼女は礼儀がなってない。
「あー……言ったわね。確かに言ったわ。
 でもとっさの時に短い呼び方する方が当たり前でしょ。時間惜しいし。
 イカリセンパイなんて七文字よ、長すぎるわ」
「ぐ、減らず口ばかり……」
ああどうしてこんなに腹が立つんだろう。右手の中の壊れ易いコーンが小さく音を立てる。
あのアスカがねちねちねちねち文句を言っているようでむかつく。
正論のように見えるところにストレスがたまる。平然とそういう態度にも。
「でも良かった。まだ元気あるじゃない」
彼女は悪戯っぽく笑った。
一瞬にして毒気を抜かれてしまったのは、男として情けない。
「怒る元気があれば先に進めるわ。先に言っておくけど、ここで降りるなんて無理だから。
 お腹も十分満足したし、そろそろ行きましょ」
「あ、と……何処へ?」
とん、とジャンプするように立ち上がった彼女につられて立ち上がる。
このまま逃げ続けるのかという安易な思考をする。が、すぐに放棄された。
彼女は何かを隠している、ならば明確な目的地があるはずだ。
後ろに手を組んだまま跳ねるように三歩進んで彼女は振り返ると、また笑った。
「ネ・ル・フ」
そのたった一言に、僕は、時間を止められてしまった。