山内語録
山内 溥 【やまうち・ひろし】
1927年11月7日京都市生まれ。
祖父の急死を受け、当時在学していた早稲田大学を中退し22歳の若さで任天堂社長に就任。
就任後、三度倒産の危機を経験するが、持ち前の決断力とカリスマ性そして“運”で乗り切り、ゲーム&ウォッチのヒット以降、無借金・高収益体制を確立。その後、ファミコンやゲームボーイなどその対応ソフトは世界中で売れに売れ、任天堂を世界随一のエンターテインメント企業へ押し上げた。かねてから勇退する意向を示していたが、2002年5月、社長職から退任することを発表。現在は任天堂取締役相談役として、新経営陣をパックアップする。
座右の銘は「失意泰然、得意冷然」
娯楽という分野は、つねに従来と異質のものを開発しなければならないのです。つまり改良の程度ではダメです。
…このビジネスの世界は一日かかって説明しても、なかなか理解してもらえないのではないかと思うほど難しい
(『週刊ダイヤモンド』1984年12月15日号)
山内社長は事あるごとに「ゲームをわかっていない人が多い」と嘆いている。
任天堂でいえば、今の娯楽ビジネスは僕一代で十分だと思う。だから好きにやらしてもらっている。次の社長は僕の路線を引き継ぐ必要はない。次の社長の個性で会社を経営すればいいんです。その結果、会社が傾き、株が紙クズ同然になってもいいんですよ
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
この時点では、後継者問題についてまだ先の話と思っていたのではないだろうか。
わたしは、人間には持って生まれた運・不運があるということだけは固く信じる。やはり運がいいとか、悪いということは絶対あり得ると思うし、ツイている、ツイていないということもあると確信している。しかし、じゃあ、どこでどういうふうにツイていると判断するのか、なにかその物差しがあるのか、あるいは運のいい人と悪い人を見分ける方法があるのかということになると、そんなものはあるわけがないとしか言いようがない。人生は要するに向き不向きと、人知の及ばざる運・不運で決まるのではないか。そういう意味で運を信じているということなんです
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
運のいい人間、悪い人間を見分けることができるか尋ねられて。
人事を尽くして天命を待つというが、人事なんてなかなか尽くせるものではない。そのときは、やるだけやった、あとはどうなっても満足だと思うかもしれないが、しくじったら、そのとたんに、ああしておけばよかった、こうもすればよかったと、次から次に反省が生まれるものです。だから、どんなに人事を尽くしたつもりでも、人間は所詮は天命を待つ心境にはなれない。そういう意味でもわたしは、任天堂の名の由来のごとく、人事を尽くして天命を待つのではなく、単純に「運を天に任せる」という発想を積極的に取りたいと思っています
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
任天堂の社名は「人事を尽くして天命を待つ」から来ているのかと尋ねられ、社長はこれを否定した。
任天堂の急成長がよく話題にのぼるでしょ。トランプと花札の老舗が、先端技術を使ったゲーム機メーカーに様変わりしたこと自体が、不思議でしようがないことのようにいわれることもある。あるいは、外から見ると、なにか大層な戦略展開をしたように見えるかもしれない。
しかし、事実は全く違うんですよ。花札とトランプから離れていった理由は、これら伝統的な遊びの人気が落ちたからなんです。時代が変化したんです。そのため止むを得ず転換を図った。それだけのことでしかない。それ以降、幾多の苦難を経ながら、ともかく生き延びてこられたのは、本当に運がよかったからだ。もっといえば、明確な経営戦略などがあったわけではなく、文字どおり試行錯誤の連続でその失敗の積み重ねの中から、少しずつ体で覚えて勉強し、それを材料として、たまたま幸運に恵まれて、昭和55年からようやく急成長の波に乗った。要するに、任天堂は運がよかっただけなんですよ
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
外部マスコミの任天堂に対する見方は全く違うと一蹴し、社長は簡単に運が良かったからだと片付けるが、その裏には数多くの苦難と努力があったことには違いない。
世間にはよく成功した人間を尊敬する人がいるけれど、それが僕には不思議でしようがない。たまたま運が良かっただけの人を、どうして尊敬できるんでしょうかね
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
運命を唱える社長ならではの言葉。成功した人、それを尊敬する人に対する戒めから出た言葉ではないか。もちろん自身に対しても。
任天堂は大きく変身したといわれるけども、それはわたしたちが、時代の変化を予測したとか、会社を大きくしよう、もっと儲かる仕事をしようなどと思ってやったことではないんですよ。花札やトランプは、もうこれ以上伸びないことがわかった。それならばこれからどうするのか、いったいどうしていいのかがわからない。経営者にとってこれほど苦しいことはない。そういう時代が長く続きました。そうしたときにマイコン革命が始まった。いやでもその道を行くしかなかった。ひたすらその道を歩みつづけた結果、任天堂自身が変わっていかざるを得なくなった。それだけのことなんですよ
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
レーザークレー射撃場を売り出したが、オイルショックで多額の負債を抱え倒産寸前の状態に陥った。「経営者がツイていなかったなどと言えば、笑われるのがオチだが、あの時は本当にツイていなかった」と振り返っている。そんなとき始まったマイコン革命にひたすらに取り組んだ結果、ゲーム&ウォッチなどのヒット商品が生まれた。
企業においては、確かに冒険精神は必要不可欠のものだが、なにも現在、小は小なりにうまく暮らせているものを、わざわざヤケドしに行くことはないという気持ちも、私にはあります。任天堂の場合、どこへ行っていいかわからなかった。だが、現実に何かしなければ会社がなくなってしまう。そういう危機意識が非常に強かったんです
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
市場調査? そんなことしてどうするんですか?
――なるほど、その結果に基づいた商品を開発したときは、ユーザーの気持ちは離れているということですね
たしかに、そういったタイムラグという問題もある。でもね、任天堂が市場を創り出すんですよ。調査する必要などどこにもないでしょう
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
商品が売れるかどうかの判断は社長にもできない。しかし、おもしろい商品を作りさえすれば、市場調査をする必要はないと語る。
ヒットのノウハウなんて、わかれば苦労しない。たとえあったとしても、それは絶対、活字なんかになり得ないことなんだ。そんなもん、どうやったら金が儲かるか、どうして趙治勲が強いのかという質問と同じなんだ。答えなんてないです
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
ヒットのノウハウは何か問われて。ちなみに、趙治勲は1987年に囲碁の公式七大タイトル制覇、現在もタイトル獲得最多記録保持者という、囲碁界最強と呼ばれる名人のひとり。
全くの新製品を作るためには、常識的な発想では人々を納得させることはできない。新製品に必要なのは、社会通念や習慣を変えるようなものでなければならない。そのためには非常識の発想が必要なんです。
みんながこうするから自分もそうするなんていうのは論外です。我が道を行くという考え方、そのためには、他人に煩わされないで、自分の時間を多く持つことが大切だ。人と同じことをやっていたのでは、同じ考えしか出てこないんです
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
あるヒット商品が生まれ、その次に出る商品はそのヒット商品を上回るおもしろい商品で、且つ価格設定は同じでなければならない。これは「極めて普通のことで、ここまでは常識的な発想で充分」である。しかし、全くの新商品を作るには非常識の発想が必要で、これからのゲームは「人々の習慣や習性まで変えてしまうようなものでなければ駄目だ」と語る。社員が自発的に発案したものに対して、やめさせたことは一度もないという。
ゲームソフトを作れる技術屋というのはたくさんいます。しかし、本当に才能の豊かな、経験を持った有能な人は極めて少ない。優秀なゲームを作れる人が少ないということは、くだらないゲームなら作る人が大勢いるということです。そんな人に市場を荒らされたら、育つものも潰されてしまう。各メーカーが競争になればなるほど、どうしても多作に走り、ソフトの種類で勝負しようということになる。そうなると、似たようなくだらないゲームソフトが市場に氾濫する。駄作が多く出回ると、消費者は不快感を持つようになる。そうなったら、娯楽市場なんてアッという間に崩壊します。駄作で市場を崩壊させないためにも“独占”しなければならなかったんです
(高橋健ニ著『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』祥伝社、1986年)
山内社長はこのころ、一強皆弱論を唱えていた。ゲーム市場は任天堂が独占管理することによって成り立つという考え方だ。アタリショックを目の当たりにしていた山内社長は、サードパーティが発売するソフトをコントロールするようになったが、同時に任天堂に対する批判を招くことになる。
なにより大事なことは、娯楽というものは飽きられるものだということ、ここが必需品と根本的に違うところです。必需品は飽きられない。そして基本的には、安いほうが売れる。ある品物が売り出されて、それに遅れて同じような品物が売り出された場合、必需品なら二番手でも安いほうが売れます。しかし娯楽は二番煎じはダメです。たとえ安くても売れない
(『産業大転回のシナリオ』田原総一朗著、日刊工業新聞社1988年)
「娯楽屋には天国と地獄しかない、真ん中のない世界」であり、他の商品と決定的な差別感を与えることが山内社長の流儀なのだ。
お墓も京都にあるし私が住んでいる家も祖父が建てたもので、仏壇もあるし……
(『産業大転回のシナリオ』田原総一朗著、日刊工業新聞社1988年)
任天堂が京都に本拠を置く理由を尋ねたところ、要領をえない答えが返ってきた。任天堂の成功は、京都に存在することによってもたらされたのではない、ということだろうか。
僕らみたいな仕事をしていると、いろいろ迷うんです。これしようとか、あれしようとか。ところが、あれしてもだめ、これしてもだめだということになっていくと、だんだん自分のやれる範囲が絞られてくる。だから、私は何も新しいものを求めていたんでも何でもなくて、考えていくうちに、もうこのへんしかないと。任天堂の行くところは、それしかないと思わざるを得なかったんです。消去法でいけばそうなるんです
(『財界』1991年7月9日号)
それと同じことをよく聞かされるんですが、何があるんかと僕は言うんですよ。
…ユニークという企業では、東京のほうがよっぽど多いですよ。それでも京都にユニークな企業が多いといわれるのは、町のスケールに比してという意味だと思うけれどもね。しかし、京都の企業にユニークさなんてそんなにありませんよ。僕が見る限り…
(『財界』1991年7月9日号)
京都には、強烈な個性を持った経営者が独創的でユニークな技術と管理形態を用いて高い収益力を誇る企業が多く存在しているが、山内社長はそのことを意に介さない。それが逆に京都らしさを感じさせる部分でもある。山内社長は地元京都の財界とは距離を取っている。夜の宴席にもほとんど出ず、よく食事をするのは、「人に会うのが嫌い」なロームの佐藤研一郎社長。二人ともオーナー社長で、地元の財界からは異端視されているという。
64年の人生で野球を観戦したことがない。興味がないんだ
(シアトルマリナーズ買収計画発表記者会見1992年1月24日)
米国任天堂の地元ワシントン州の政治家やシアトル市民の熱烈な要請に応え、マリナーズの買収に乗り出したが、米国の世論や大リーグコミッショナーの反発もあり、買収の承認を得られるかどうかは微妙な情勢。そんな中で行われた記者会見では、「経営には口出ししない」と、米国民を刺激しない発言に終始した。しかし、上記の発言は、球団の経営に参加しないという気持ちの表現であったようだが、逆に野球が好きでなければ投資が目的なのかという不信感を一部の米国民に与えてしまった。
最初からメリットを求めてやったことではないし、期待していない。目的は球団をシアトルに留めることでそれは達成された。任天堂が球団をビジネスに使うことは一切ない
(シアトルマリナーズ買収正式決定記者会見1992年6月12日)
球団のオーナーになることで任天堂へのメリットは、と問われて。山内社長は当初の予定通り7500万ドルを負担したが、議決権のある株は4800万ドル分にあたる50%未満に抑えられた。
正直いって何とも思っていない
(シアトルマリナーズ買収正式決定記者会見1992年6月12日)
名誉あるメジャーリーグのオーナーになった感想を聞かれ、この切り返し。
ちなみに、山内社長は今まで一度もシアトルのセーフコ・フィールドに行ったことがないようだ。
世の中の景気が悪くなっており、ゲーム機業界だけに日が当たり不況知らずであり続けられるはずはない。不景気で可処分所得は減り、一般大衆が遊びに回すことのできるお金はどんどん制限されている。そうした限られたお金がどう配分されるかが、今後の市場を占うポイントになる。景気が悪い、悪いと叫ばれると、消費者心理にも影響を与え、ゲーム機業界にも及んでこないはずはない
(日経産業新聞1992年6月19日付)
これからのゲーム市場の展望を述べて。スーパーファミコン全盛のこの時期でも危機感を募らせていたようだ。
ゲームソフトについては今後、売れるものと売れないものの差が歴然としてくる。毎年、多数のソフトが出回るが、ヒット作品の種類は減るだろう。ただ、売れ筋の製品の販売本数は落ち込むことはない。一番遊びたいと思うソフトは景気が悪くなっても懐が悪くなっても消費者は購入する
(日経産業新聞1992年6月19日付)
経営の世界は流動的であり、いつまでも成長し続ける保証はどこにもない。そして、予想しなかったことが起きても、私は関係がない、と経営者は言えない。だから、体質を強化してなにが起ころうとも社員や取引先がショックを受けない会社をつくる、それが私の仕事だ
(『週刊ダイヤモンド』1993年1月30日号)
オイルショックで思わぬ倒産の危機に陥ったこともあり、余裕資金を持ち、社員が安心して働ける会社に任天堂は変貌を遂げた。
珍しく気が合ったんや
(日経産業新聞1993年9月1日付)
シリコングラフィックス社の創業者、J・クラーク会長との会談でマルチメディアに話が及び、クラーク氏とは「マルチメディアに対する考え方が見事に一致した」という。
祖父の社訓は、あくまで祖父のもの、決してぼくのものやない
(馬場宏尚『任天堂が危ない』1993年)
任天堂の二代目社長、山内積良氏は、「真面目であれ」「よく働け」「きまりよくせよ」という社訓を定めていた。しかし、山内社長は祖父の影響を一掃するためなのか祖父の社訓を用いず、社是・社訓は仕事の邪魔とまで言い切る。
皆さん、任天堂の戦略とか秘密とか、なにか特別の大層なものがあると思って、それを期待されているようですが、そんなものはない。このビジネスがいつまで続くのか、次をどうするのか、あるいは長期戦略とか、そんなもの何もない
(田原総一朗『日本が変わる、会社が変わる』プレジデント社、1993年)
アナリストやマスコミが考えているような戦略ではない、という意味合いで語っているのではないだろうか。
どうしておもしろいソフトがつくれるのかという問いに対しては、私はいつでも言っているんですが、結局はだれもがわからないんです。実はこうしてつくります、ああしてつくれますという解答が出せるとすると、だれでもそのようにすればできるわけでしてね。それは秘密でも何でもないんです。いまの時代で秘密なんていうものは隠し切れるものでもありません。
率直に言って、いまだにどうしておもしろいゲームソフトができるかということは、世界中の誰にもわかりません。だからこそソフトウェアという言葉が非常に重みを持ってきているのでしょうね。
(中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年)
任天堂では、ゲーム開発に時間を掛け、ゲームの評価組織を作りその意見を開発に反映させたり、ゲームのクオリティを向上させる様々な努力を行っているが、それで必ずおもしろいゲームが作れるわけではない。クリエイティブな才能の持ち主を集め、活躍することのできる環境を作ることが大事なのだ。
(開発部隊の処遇について)それは非常に難しい問題なんですが、変えればいいという考え方は結局、平穏な中に好んで波紋を投じるということになり、バランスを崩してしまう危険性があるんです。しかし、開発部隊の人間にはえてして「俺が」という気持ちがあるわけで、この辺をどういうふうにして、緩和させるか、これは非常に難しい問題です。たとえばボーナスにしても大きく差をつけるとか、あるいはそういう年功序列型を廃止して、本当に能率や報奨を前面に打ち出しますと、非常に難しい問題が起こってきます。
ですから、そういうことに対して、あなた方は好きなことをやれるんだし、嫌なことをやらなくていいんだから、不満もあるだろうけれども、それで何とか妥協してくださいということになるんですよ。重要なのは、そういう雰囲気を社内につくっていくということなんです
(中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年)
開発部隊の処遇の仕方について、社内の他の部門と同じなのか、開発部隊の中での処遇は人によって差をつけるのか問われて。任天堂の人事処遇政策は、今西紘史氏が「英雄はつくらない」と語るように、基本的に年功序列で古い仕組みを引きずっているように見える。1950年代の労働争議で労働組合を存在せず、年功序列でありながら定年がないという独特の企業形態。開発部隊には、自由な環境とヒット商品を作るという満足感を与えて、十ニ分に創造性を発揮させている。古い仕組みを柔軟に運用していくのが任天堂のやり方なのである。
任天堂はライセンス契約を利用して、ピンハネして、そして不当利得を得て高成長を成し遂げてきて、高い利益率を誇っている――マスコミはみんなそういうような書き方をするんです。そうじゃないんですよ、任天堂の強さは、任天堂が世界最強のソフトメーカーだからなんですよ。そうでなかったら、そんなもの一年や二年続いても、十年も続きません
(中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年)
任天堂がファミコンやゲームボーイで築いてきた市場で任天堂だけが高い利益をあげている、という批判が蔓延していた。
私どもの商品でも、ハードウェアの分野は家電の下請けをしているところであれば、だれでもできることです。ただ、我々のビジネスで非常に問題なのは時間がすごくかかることなんです。一年間かけてハードの仕様を決め、ソフト開発に必要なツールを用意して、そこからソフトの開発が始まるんです。ソフト開発に一年かかるか二年かかるのかわからない上、ハードの発売日の最低二本ぐらいは必要なんです。しかも、一定の間隔でそういうものを出し続けられる開発体制ができ上がっていないと、そのハードはつぶれてしまいます。これが読めないんですよ。
たとえばCD-ROMにしても、ハードを作ることぐらいだったら、これはきわめて簡単です。しかし、ソフトメーカーが最もつくりやすいハードにしなければいけない。そのためにはツールも整備しなければいけない。それからソフトメーカーが十分理解して取り組めるようにしなければいけないと、これはそう簡単にいかないんです。だから、私はいつでもハードウェアの量産体制はいつ整うかは明言していますが、発売時期はわかりませんと言っています
(中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年)
延期することが多い任天堂ハードの発売時期。その理由はソフトの供給体制が整っていないことが要因にある。
今度の3DOを見て、いかにもハード屋だなと痛切に思うんです。バーッとアドバルーンを打ち上げて、そしてソフト屋集まれと言うわけです。日本でもやりました。そして、いまソフト会社は100社申し込みが来た、これから続々参加すると言っているわけです。冗談じゃないよと言うんです。いま世界でいったい何百社のソフト屋がゲームソフトづくりをやっているかと。そして、ソフトも1000か、2000か、3000か知りませんけれども、それだけたくさんの種類が出て、その中でいったい売れるソフトは何点なのか。売れないソフトを作っている圧倒的多数のソフトメーカーが参加すると言って、それが100社になろうと、500社になろうと、それは何なのですか。そんなものは絶対にユーザーを説得できない
(中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年)
ソフトメーカーの囲い込みを行う競合相手に対して、少数精鋭路線を取る山内社長は辛辣なコメント。
これから二年ぐらい先を展望しますと、我々のビジネスは海外では利益が上がらなくなってくるんじゃないかと思います。海外戦略はどうなるかということになりますが、結局、だれでもできるものをつくっていてはだめだということです。だれでもつくれるものは、価格意識が強ければ価格競争に巻き込まれるのは決まっているわけです。
だから、自分のところしか、出せないものがつくれたら最高です。しかも、それが大衆の懐勘定と折り合いがつき、しかも多くの人たちが初めて体験するような珍しさと楽しさとおもしろさを味わわすことができさえすれば、これは円高でも何でも戦えます。そういう新しい新製品の開発ができるかできないのかということが決め手になってきます
(中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年)
価格競争に巻き込まれない、今までにない製品の開発に意欲を見せる。96年に発売された『ポケットモンスター』はそういった新しいゲームの代表作だ。
私は内部で言っているんですが、任天堂の展望を向こう三年間を語る時に、大方のアメリカのアナリストとか、日本の一部の人が言っている観測は全部間違ってますね。これはまともな論評とはとても言えない。
任天堂は何だかんだと言いながら、CD-ROMをいまだに出さないじゃないか、スーパーファミコンの後何をするんだ、焦点は次世代ゲーム機に移っていっているじゃないか、結局、いつか任天堂の牙城は崩れてしまう、それも案外早いんじゃないか、流れに取り残されて、恐らく成長は望めないという論法なんですよ。それに対比して、たとえば3DOなどの路線の方がはるかにハイテクで進んでいる。だから、そちらの方が有望だというんです。
ところが全然違う、まったくわかっていないと私が言ってもだれも聞きませんから、あまり言わないんですけれども、ホンネはこうなんです。ハードの価格競争だとか、ソフトをおまけにつけてまで、ハードを売ったら勝ちだとか、そんな発想は通用しない。ハードウェアをいくら広げてもだめなんです。ソフトがそれにスライドして、ついてこないとだめなんです。そんな戦い方はハード体質の戦い方であって、本来のソフト化路線とは違うからだめです
(中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年)
ハードウェア主導ではゲームビジネスでは通用しない。任天堂のソフト化路線とは、ハード主導ではなく、良質で今までないおもしろさを持ったソフトを供給し、またそういったソフトが主導して市場を形成していくことである。
いま進めているのは、ゲームで遊んでいる人たちに、「一回自分でゲームをつくってみませんか」という呼びかけをやろうということです。何万人か集まってきたら、ネットワークでそれを結んで、そしてゲーム作りのいろいろなノウハウとか、情報をそこへ送っていくということですね。たとえばそういう人間が五万人か、十万人かいたとしたら、そこから才能ある人が浮かび上がってくるということも考えています
(中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年)
才能ある人材を引きつけられるのかという問いに、今となっては考えられない(?)ネットワーク構想を披露。どこかで聞いたことのあるような構想なのは禁句だろう。
後継者は育てるべきものなのか、育つものなのか。正直言って迷っている
(『会社の年齢』日経産業新聞編、日本経済新聞社1993年)
後継者問題について、いつもは明快な回答を出す山内社長もはっきりした答えが出せないでいた。当時ポスト山内の最有力候補だった荒川實氏は「私が米国でやった(合理的な)やり方は日本では通用しにくいだろう」と語っていた。
私はこれまでソフト制作をお願いしますといったことは一度もない。やるのも、やめるのも自由。むしろ(多くのソフト会社が次世代機にソフトをつくることは)やめてほしい
(日経産業新聞1995年9月28日付)
スーパーファミコンの時代から任天堂は少数精鋭路線を叫んできたが、NINTENDO64の発表以来その調子は強くなっていった。「目の肥えたユーザーを説得できるのは一握りのメーカー。ここぞと思うところと一緒にやっていく」と、少数精鋭化路線を鮮明に打ち出した。
ロールプレイングゲームの分野では世界一。次世代機の立ち上げには欠かせない
(日経産業新聞1995年9月28日付)
どこのソフトハウスについて語ったものかというと、なんとスクウェア。当時、山内社長はスクウェアやスクウェアの開発したゲームソフトを高く評価。この95年9月には、任天堂とスクウェアの共同出資で子会社の設立すると発表されていた。ファミコン時代から蜜月の関係と言われるように良好な関係を保ってきたが、翌年、スクウェアは任天堂陣営から離反してしまった。
僕個人の意見を言うとね、およそ物事に100%ということはあり得ない。人間ですから。だから「99%駄目だ」ということは言えても「100%駄目だ」ということは言えないんですよ。人間ですから。そこで僕は言っているんですけどもね、「あれは、99.99%駄目だ」と言っているんです。
(『新・電子立国第4巻〜ビデオゲーム巨富の攻防』NHK出版、1997年)
当時の次世代機3DOについて報道したNHKの番組に、「これは由々しき問題」「あまりに物事を知らなすぎる」と徹底的にこき下ろした。そして、3DOに対する自身の見解を述べた。
――世界企業への道はなんだったんですか。
運です。運が良かったんです。それを「この結果は俺の経営がうまかったんだ」とか「俺に力があったんだ」なんて思うと、もう駄目ですね。
――墓穴を掘りますか。
そうです。だから運を認めないといけない。運を実力だと錯覚するということは、これほど愚かなことはないんです。経営者としてね。ところが、人間ですからついつい運の存在を無視して「俺の力だ。俺のやり方が良かったんだ」と言いたいんですわ、人というものはね。それは駄目。
――なるほど、運ですか。
運です。
(『新・電子立国第4巻〜ビデオゲーム巨富の攻防』NHK出版、1997年)
今、ゲーム市場を語っている人には本当にゲームを知らない人が多すぎる。シェアにしても米国のように調査機関があるわけでもなく、(NINTENDO64が売れ残っていると指摘される)秋葉原と(子供に人気の)トイザらスでは異なる。プレイステーションを買っている人はどのソフトで遊ぼうという気がなく、ムードで買っている人だろう
(日経産業新聞1997年6月30日付)
当時のマスコミの風潮は、ゲームの質的転換を訴えてきた山内社長にとって、看過することのできない事態だった。
将来の結果は誰にもわからないというしかないが、正しいと確信する道を歩んでいるだけだ。当社は市場を啓蒙しようと考えているわけではない。任天堂は任天堂を守るためにやる。照準は来年のクリスマスだ
(日経産業新聞1997年6月30日付)
国内市場は任天堂の主張するゲームの質的転換を受け入れるか、という質問に対して。山内社長の言葉どおり、98年末から流れが変わり、NINTENDO64のヒット作が次々と登場した。
ソフト作りはマンネリ化し、新規のユーザーが興味を持つような仕掛け作りが難しくなった。当のソフトメーカーにも利益も出ないところが多い。現在のようなゲームソフトとゲーム機が形成するマーケットは長く続かない。私の感覚ではマーケットはもう縮小し始めている。おそらく来年いっぱいでそれが目に見える格好になるだろう
(日経産業新聞1997年6月30日付)
これからのゲームは交換・収集・育成・追加の4つがキーワードになる
(NINTENDO SPACE WORLD'97基調講演・1997年11月)
ポケモンを例に挙げ、ゲームの未来像を提示した。
ソフトの数量を求める時代は終わった。ソフトは現在の10分の1程度でいい。RPGがなければ駄目だとか、キャラクターを使用したブランド力に頼った売り方が必要だとか、大容量を活かした映画のようなソフトが必要だとかいう時代はもう終わった
(NINTENDO SPACE WORLD'97基調講演・1997年11月)
NINTENDO64の販売不振は、ソフト数が少数でRPGが発売されておらず、大容量のCD-ROMではなくROMカセットを採用したためなどといった見方を否定した。
64DDでは、データが追加できるというのが大きなポイントです。それは明らかに今までの“一話完結型”のテレビゲームとの差別化を強調しようということにほかなりません
(NINTENDO SPACE WORLD'97基調講演・1997年11月)
書き換え可能な64DDでは、新しいデータに書き換えすることによって、何度も新鮮な気持ちで楽しめるようになる。また他のゲームとディスクを入れ替えることよって新しい楽しみ方ができる製品群構想も提示していた。
N64ソフトは容量の小さいロムカセットを使うが、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』はスクウェアが出す大容量のCD-ROMソフト『ファイナルファンタジーVIII』を圧倒するだろう。ゲームは容量が問題でない事を証明するはずだ
(日経産業新聞1998年12月3日付)
同時期に発売された両ソフト。方向性の違いはもちろん、ゲームの出来にも大きな差があった。
余裕資金は保険の意味を持つ。当社は新しい市場を作る考えだが、どれだけお金がかかるかわからない。銀行は簡単に貸してくれないし、社債を発行すればリスクを伴う。自前で資金を持ち、必要な時に自由に使えるようにしておくことが必要だ
(日経産業新聞1998年12月3日付)
当時、任天堂は5000億円以上の余裕資金を持っていたが、その使い道は「保険」だと答えた。バブル最盛期、潤沢な手元資金を財テクに回すよう周囲に勧められたが、意に介さなかったという。
2000年11月に本社の移転を計画しているが、一日でもいいから新しい建物に入り、それを区切りに引退を考えている。そのころには任天堂の戦略が正しかったかどうかもはっきりするだろう。後任についてはまったく考えていないが、2000年になったら明確にしたい
(日経産業新聞1998年12月3日付)
後継者問題を問われて。本社を移転した2000年には、竹田玄洋氏と宮本茂氏が取締役に就任するとともに、現在の任天堂社長である岩田聡氏が取締役経営企画室長に就任する人事が発表されている。この時既に山内社長の心の中では岩田氏を後継者とすることを決めていたのではないだろうか。
人間は有限でしょ。私に辞めろと言う人はいない。自分で決めるしかない。ちょうど、きりの良いのが21世紀。私は、自分が目指してきた任天堂の路線が、現実との間にどれぐらいの違いが生じるのかを、見届けたいと思っている。ぜいたくかもしれないが、思った通りになって、会心の笑みがこみあげる中で辞めることができたら、これほどありがたいことはない。その節目で、決断したい
山内社長はいったいいつ引退するんだと言われてきたが、良い時期に胸を張って引退できるのが社長として最高の花道。「会心の笑みがこみあげる中で辞めることができたら、これほどありがたいことはない」これが山内社長の本音じゃないだろうか。
携帯電話は国内の普及が5000万台に達しようとしており、若い人の娯楽になっている。ゲームはテレビの前でやるものという考えは古い。新しいゲームの分野を作るつもりだ
(任天堂・コナミ提携発表記者会見1999年9月2日)
任天堂とコナミは、ゲームボーイアドバンス向けのゲームソフトを開発する新会社『モバイル21』の設立を発表。この新会社は、ゲームボーイと携帯電話を繋ぐアダプタに対応したゲームを開発することも合わせて発表された。しかし、ゲームボーイと携帯電話の連動サービスは2001年1月にスタートしたものの、販売不振で2002年で打ち切られることになってしまった。
ゲームのソフトの質を変えるための仕掛け作りだ。最近のゲームソフトは、映像や音声にこだわり、『迫力満点』『超大作』を売り物にした“重厚長大”型を重視する傾向にある。しかし、映像や音が良くなっても、内容は従来の延長のものばかりだ。新しい機器で、製作者の発想を刺激する環境を提供したい
(読売新聞1999年11月3日付)
ゲームボーイアドバンス・ドルフィン(CN)といった次世代機を相次いで投入する狙いについて。
新機軸を打ち出さなければ、ゲームそのものがマンネリ化して飽きられる。また、“重厚長大”型のソフトは、内容が複雑で、制作に時間も人手も費用もかかる。数十億円をつぎ込み、百万本を販売するヒット作となっても、なお赤字という場合もある。それではビジネスとして成り立たない。“軽薄短小”でも完成度の高い面白いゲームはできる
(読売新聞1999年11月3日付)
ゲーム機のCPUが32ビット、64ビットと高性能化するにつれ、ゲームソフト開発にかかるコストは膨大になっていった。逆にスペックは低いがコストがかからないゲームボーイには、制作者のアイデアが詰め込まれた面白いゲームは作られるようになった。
来るものは拒まないが、任天堂と開発路線が違うのならば接点はない。いつまでもソフトの数がものを言う時代は続かない。数を増やすために手を広げるつもりはない
(読売新聞1999年11月3日付)
コナミと提携したように他のメーカーにも参加を求めるのかという問いに、どこの企業を指して言ったのかはわからないが、従来どおりの少数精鋭路線を貫く考えを示した。
大リーグのピカチュウになってほしい
(佐々木主浩投手シアトルマリナーズ入団記者会見・1999年12月)
92年にマリナーズのオーナーとなって以来、山内社長は球団の経営に口出ししなかったが、佐々木に関しても同じで球団に進言することはなかった。佐々木はメジャー一年目から大活躍しその年のオフシーズン、イチロー獲得に際しては、球団に獲得を打診。球団の経営に口出ししたのはこの一度だけ。ポスティングシステムの結果約14億円で落札し、イチロー獲得に成功。日本での注目度も大幅にアップし、任天堂に抜群の宣伝効果をもたらした。
プレイステーションでソニーが独り勝ちしていると言われてから何年たっている? 任天堂は負けたって言われるけど、業績は良くなっている。勝った負けたという情緒的な判断よりも、企業はやっぱり数字。決算の数字は、任天堂が競争に負けていないことを証明している
(『京阪バレー―日本を変革する新・優良企業たち』日本経済新聞社編1999年)
1999年3月期の純利益は858億円。翌年は為替差損が発生し560億円にとどまったものの、2001年3月期の純利益は966億円と、過去最高益となった1993年3月期を上回った。
努力したからうまくいった、と言う人がいるのは構わない。でも自分は違う。努力したから成功するとは限らないと思っている。苦労だって経営者ならしていない人などいないから、自分が特に苦労したとは思わない。振り返ると何となくこうなっていた。運が良かっただけだ
(『京阪バレー―日本を変革する新・優良企業たち』日本経済新聞社編1999年)
山内社長は子供の頃の自分を、「経済的にかなり恵まれて育ったので、全く苦労を知らなかった。特に取りえのない、しょうもない子供でしたわ」と話すが、任天堂社長に就任した後は、様々な事業に進出したもののいずれも短命に終わり、エレクトロニクス・トイを手掛けるようになるが、オイルショックで倒産寸前の危機に陥るなど、まさに苦労の連続だった。この頃の任天堂を山内社長は振り返って、「任天堂は長い間、試行錯誤を繰り返し、苦難の道を歩んできた。鳴かず飛ばずの中小企業で、いつつぶれても不思議ではないと言われてきた」「五十歳台になっても任天堂は中小企業のまま。このままパッとしないで終ると思っていた」と語っている。
任天堂のソフトはいつも予定通りに出てこないって言われるけど、ソフト作りっていうのは、そういうもの。ゲームソフトは、期限までにやれと言われて、徹夜したり死に物狂いでやったからといって、期待通りのものにはならない。そういうふうにすると、結局、チームは妥協しなければならなくなる。妥協させられて、できたものは、粗くなってしまう。ユーザーは目が肥えていますから、受け付けてもらえない
(『京阪バレー―日本を変革する新・優良企業たち』日本経済新聞社編1999年)
開発期間が長期化し発売の時期を逸することがあっても、あくまでソフトの質にこだわるのが社長の流儀である。
ポケモンは単なるブームでは終らせない。欧州でも人気の兆しが出ており、国境を越えて多くの人たちに愛されるキャラクターに育てていくつもりだ
(産経新聞2000年1月22日付)
ポケモンをディズニーと重ねて、世界中の人の心をとらえたるキャラクターに育てていきたいと語った。
世界的なゲームソフト販売の低迷を考えれば今の日本のゲーム関連株は高すぎる。販売現場では消費者のゲーム離れが起こっている。『PS2』を見れば分かる。ソフト販売がゲーム機の販売本数を下回っている。本物そっくりで高精細な映画のようなゲームなんてナンセンスだ
(日経産業新聞2000年6月?日付)
二十一世紀のソフトに大容量はいらない。そんな人海戦術を要する仕事をしていたらソフト会社はみんな沈没する
(日経産業新聞2000年6月?日付)
任天堂は大容量を追うのではなく、GBAとGCを連動させ新しい遊びを提案する。
後継でない人は再選しなかったということだ。自分は社長としてはドルフィンが成功しても失敗してもその結果を見届けてからやめる
(日経産業新聞2000年6月?日付)
娘婿の荒川實・米国任天堂社長が取締役を退任したことについて。さらに「ソフトビジネスは難しい。社長に求められる経営力は他産業には見られない性質のもので一筋縄でいかないとだけは言える」と付け加えた。
大容量ゲームは駄目。こんなことをしていたら世界中のメーカーがつぶれてしまうだろう。重厚長大なゲームは飽きられている。ゲームは常に新しい楽しさを開発し、ひたすら完成度を高めていくことが本質である。
それにもかかわらず、ソフトメーカーはIIだのIIIだの、VII、VIII、IXと出し続けている。クリエイター達は行き詰まり、質的転換を迫られている。
欧米人がドラクエを楽しむのか? 楽しむ人がいても少数であり、所詮日本のマニア向けのゲームである。21世紀のソフトは世界で売れるソフト、支持されるソフトでなければならない。
日本だけで受けて、しかもVII、VIII、IXだと言っている会社は駄目である。このように、ゲーム業界は存亡の危機に陥っている。反論があるならいつでも受けて立つ。
しかし誰も直接反論しには来ず、陰でものを言う。こうした体質も業界の危機を象徴している
直接口に出してはいないがスクウェアに対する批判であることに間違いはない。スクウェアは直接反論する勇気がなかったのだろう。
ゲームキューブは大容量ソフトのためにあるのではない。先の幕張メッセのイベントで発表した新型据え置き型のゲームキューブは、大容量ゲーム向けであり、従来から任天堂が言っている軽薄短小こそが、ゲームの真髄であるとの論調と矛盾すると各所から指摘されている。
しかし、それは誤解であり、ここでそれを解いておきたい。
任天堂は娯楽屋に過ぎないが、世界一の娯楽屋を目指しており、かつてなかった面白さを提供していく。いろんな遊びに飽きた世界中の人が面白いと思ってくれる遊びを提供するのが任天堂である。
こうした状況に対し、クリエイターが全てのアイデアや仕掛けを簡単にスムースに実現できる最高のハードウェアを出した。それがゲームキューブである。
家庭で遊ぶことと外に持ち出して携帯機で遊ぶゲームは別個のものではなく、繋げて遊ぶものである。繋げることに抵抗感を持つようでは駄目だし、遊んで面白いと思えないようでも駄目。携帯型ゲームのゲームボーイアドバンスも据え置き型のゲームキューブもすべてこの考えに沿ったものであり、これまでの任天堂路線と何ら矛盾していない
任天堂は一度受けたからといってシリーズの2作目3作目は出さない。任天堂はゲームキューブとゲームボーイアドバンスを連動させて、2やら3ではなく新しいジャンルをつくっていく考えである
安易な続編ではなく、続編であっても質的転換を伴ったものを開発していくという姿勢を表明したのだろう。
任天堂はポケモンと心中するつもりはない。巨額の制作費をかけた映画なんか作らない。せいぜいアニメ映画である。ポケモンセンター構想は、いろいろな21世紀戦略のひとつに過ぎない
ポケモンはあくまで任天堂の数ある戦略の中のひとつの存在だ。
ソフトハウスの囲い込みによって任天堂に勝ったという意見があり、かつてそのような状況があったことは認める。しかし、今は状況が変わっており、役に立たないソフトハウスを大量に抱え込めばいいわけではない
任天堂の少数精鋭方針はゲームキューブでも変わらない。
アメリカの大きな会社が金でソフトメーカーを囲い込んで同じことをやろうとしているが、うまくいかないだろう。来年にゲーム機を発売するようだが、再来年の年明けには答えが出ているだろう
ここで言っているアメリカの大きな会社とはもちろんマイクロソフトのこと。実際には2001年にはXboxは発売されず、2002年2月に延期されたが、ある意味発売前から答えが出ていたともいえる。
たしかにネットゲームを楽しんでいる人はいるし、楽しいんだろうが、結局マニアのものである。これが倍倍ゲームで伸びていくとは考えられない。無数にあるネットゲームの一部が売れている局面が報道されているだけ。これに社運を賭けるようなことはしない
しかし、ライトユーザーが簡単に楽しめるという前提で、ネットゲーム自体は肯定する
山内社長は全面的にネットゲームを否定しているわけではない。問題なのはライトユーザーがネットゲームに取り組むための敷居の高さと、ソフトハウスがネットゲームで利潤を得るための仕組みができていないことだ。
スクウェアとは契約していないし、これからも契約を検討する余地はない。何を言っても自由だが、将来的にも可能性は低い
(ブルームバーグインタビュー・2001年1月29日)
スクウェアがゲームボーイアドバンスに参入する意向を示したことについて。「可能性はない」ではなく「可能性は低い」という言葉にスクウェアにとって光明なのかどうか。
この発言に対し、鈴木尚スクウェア社長(現会長)は、「すぐに認めてもらえるとは思っていないが関係修復の為にはなんでもする。GBAやGC向けにスクウェアで何を作ったらハードの普及に貢献できるのか、という具体的な企画を示して認めて頂けるよう努力するしかない」と述べ、改めて任天堂ハード参入への拘りをみせた。
セガの撤退はゲーム業界の人間はある程度予測していた。業界の流れは変わらない
(産経新聞・2001年2月6日)
2001年1月、セガがドリームキャストの製造中止を発表したことについて。
ソフトメーカーは、少しでもソフトを売るために一つのソフトをいろいろなハードの上で走らせることができる『マルチプラットフォーム』を目指している。セガもそうだ。この流れは理解するが、任天堂としては歓迎できない。
利用者はゲームという娯楽に対して、『今まで遊んだことのない楽しさ、面白さ』を求めるものだ。任天堂の機械の上を走るゲームは、他のゲーム機では遊べないものでないと、世界の利用者の指示を得られない。差別化に成功しなければ、競争には勝てない。だからこそ、マルチプラットホームは任天堂としては歓迎できない流れだ
(産経新聞・2001年2月6日)
マルチプラットフォーム化が進めば、どのゲーム機でも同じゲームで遊べることになってしまう。他のゲーム機との差別化を重視する任天堂にとって、マルチプラットフォームは歓迎できないのだ。
これまでの延長線上のゲームでは利用者の支持は得られない。平成14年クリスマスという大きな目標はあるが、それまでに、新しくかつ面白いゲームを出せなければ、『ゲームキューブ』は失敗する
(産経新聞・2001年2月6日)
2002年のクリスマスまでのソフト展開について、ゲームボーイアドバンス向けにはポケモンの新作出すが、「問題はゲームキューブ用のソフト」だという。ゲームボーイアドバンスとゲームキューブの連動ソフトなど、新しいソフトの開発を追及していく姿勢を見せた。
後継者には当然、私の路線を踏襲してもらわないといけない。本当は来年のクリスマスまでみて交代したいが、そこまでは長い。新型機が出る今年のクリスマス商戦をみて、辞めるつもりだ
(産経新聞・2001年2月6日)
ここで初めて引退時期を明言した。
iモードのゲームは、私から言えば、お金を取って売れるゲームではないですね
(『サンデー毎日』2001年2月11日号)
それに対して、任天堂はゲームボーイと携帯電話をリンクさせた新しい分野のゲームの開発に乗り出したが…。
ゲームビジネスで一番不足しているのは、デザイナーでもプログラマーでもなく実は才能あるディレクター。ゲームで遊んでいる人が心から満足して得心できる、それを私たちは完成度と言っているんですが、この完成度を高めるのがディレクターの才能なんです
(『サンデー毎日』2001年2月11日号)
ゲーム開発において最も不足している人材は、ゲームを設計する、まとめあげる才能の持ち主。任天堂でも宮本茂氏、手塚卓志氏に続くディレクターが出てきている。
ポケモンは、欧米でもどの国に行ってもブームになります。CGも使わないポケモンのアニメ技術はそんなに高くないんです。それなのに、あれだけ多くの人を魅了し、子供に夢を与える。まさにポケモンビジネスは、何十年に一つの奇跡だと思っているんですよ
(『サンデー毎日』2001年2月11日号)
空前絶後の大成功を収めたポケモンビジネスは奇跡のようなものだという。テレビアニメは世界68ヶ国で放映され、世界中に人々に親しまれている。
たとえばスクウェアという会社は、今年の三月決算は数十億円の利益が出ると言っていたわけですが、最近になって、数十億円の赤字になりますということを表明したわけです。つまり私の言っている通りになっているんです
(『財界』2001年2月27日号)
以前より山内社長は、本当に淘汰の時代到来が誰の目にもわかるようになってくる、ゲームビジネスを知らない人にもそれが否応なしにわかってくると語ってきた。
プレイステーション2はDVDプレーヤーでもありますから、DVDプレーヤーとしては価値があると思うんです。でも、ゲーム機としては問題がある。ソフトが作りにくいんですね。やっぱりハードは、ソフト屋がソフトを作りやすいハードを設計しないとだめなんですよ。作りにくいハードを設計したら、ソフト屋もコストアップになるし、思うことはなかなかできない状態になってきますから、それはものすごくソフト屋にとってはマイナスですね
(『財界』2001年2月27日号)
ゲームキューブでは64の反省から、ソフト屋が作りやすいハードの開発を目指した。
それはネットというたって、いろいろな考え方があるんですね。私が知る範囲では、今ネット、ネットと言っている人たちは、ゲームがわかってない人たちだと思いますね。ゲームをわかってない人たちがネットワークゲームと言うとる。これは恐らく、私個人の考えではうまくいくはずがないと思っています
(『財界』2001年2月27日号)
ゲーム業界を閉塞感をネットゲームが打開する、これからはネットゲームだと期待する声に対して、山内社長はこういった見方を否定。
ゲーム製作者も、野球選手も棋士も力士もソフト屋。天才とそうでない者の差は紙一重。そのわずかな違いが天地の差につながるのがソフトウェアの面白さ
(日本経済新聞夕刊2001年4月2日付)
前年シアトル・マリナーズが獲得したイチローとゲームビジネスを評して。
我々の感覚では2ヶ月遅れは普通。だから、延期ということは大したことではない。11月発売予定を1月に延期すればクリスマスを外すので打撃となるが、7月を9月にずらしたことは大したことではない。むしろ、ゲームキューブで失敗したら影響は大きいので5月のE3で評価して頂いてそれから価格を決めたい。場合によっては、発売の棚上げもありえる
(任天堂業績見通し発表会見・2001年4月)
山内社長のこの発言を受けて、一部では弱気じゃないかと見る向きもあったが、ゲームキューブに対する自信の裏返しとみるのが妥当ではないだろうか。
見本市(E3)では十分な評価が得られた。現地の話では、新型機を出す任天堂とマイクロソフトの展示は見る人の数こそ変わらないが、マイクロソフトのゲームは見るだけで人がスムーズに流れていた。一方、任天堂の展示は見学者が足を止めてゲームをしたがるので、人が滞っていたという。ゲームキューブのソフトが目新しく興味を引いた結果だと思っている。当然、予定通りに販売計画は進める
(日経産業新聞2001年5月24日)
このように言いたかったがために、棚上げも辞さないという発言をしたのではないかと思ってしまう。E3で注目されるのは、当たり前やがな、と考えているに違いない。
Xboxとゲームキューブは発想が根本的に違う。Xboxはハードディスクを内蔵するなどパソコンの延長線上にあるものだ。性能ばかり追求するマイクロソフトは、ゲームがソフトで遊ぶものという、ことの本質を理解していない。任天堂のゲーム機はあくまで“おもちゃ”。遊びのための最高の機械で全く別物だ。相撲取りとプロレスラーが違うルールで試合するようなもの。競合相手とは考えていない
(日経産業新聞2001年5月24日)
ゲーム機に不要な機能も取り込んだマイクロソフトを「ことの本質を理解していない」と一刀両断。
今のネットゲームはマニアのためのゲームになっている。一般に受け入れられるとは思えない。ネットゲームが利益の出る事業になるのか疑問だ。『iモード』で儲かるのはNTTドコモばかりで、コンテンツの配信業者の利益にはつながっていないではないか。事業性が確立されない限り、任天堂はネットゲームを手掛けない
(日経産業新聞2001年5月24日)
競合機がネット事業に乗り出しているが、任天堂は採算性の合う事業にならない限りネットゲームに参入しないことを明言した。
ゲームビジネスは特殊で、世界を駆け回って有力な人たちと絶えず交流を持ちながら、今後のあり方を勉強しなければならないが、残念ながらそのエネルギーがもうなくなってしまった
(山内社長退任記者会見・2002年5月24日)
退任の理由を聞かれ、体力の衰えを第一にあげた。
ネットワークゲームは次世代の主流にならない、という私の考えが正しかったと証明されるのを見ずに辞めるのは心残りだ
(山内社長退任記者会見・2002年5月24日)
ネットワークゲームは数あるゲームのジャンルの中のひとつに過ぎないとの持論を訴えてきた。
倒産の危機も経験して、借金をすることがいかに惨めなことかを痛切に感じた。借金をしないことだけは、集団指導体制なっても申し送りたい
(山内社長退任記者会見・2002年5月24日)
任天堂の社長に就任して以来、倒産の危機が三度もあった。その時の経験から、ゲーム&ウォッチの大ヒット後、任天堂は無借金経営を堅持してきた。「任天堂は娯楽ビジネスでうまくやってきた。これを逸脱して関係ない分野に行ってはいけない。」とも語る。その方針は山内社長が退任してからも変わることはない。
いまソニーが成功したと言われています。でもそれは、たまたまいま成功しているだけで、ついこの間までは失敗していました。この業界でいま、最も強いと言われているソニーでさえ、成功と失敗を繰り返しています。明日は失敗するかもしれません
(任天堂経営方針説明会・2002年6月6日)
これまでゲーム業界に参入してきた企業はたくさんあるが、ほとんど成功していない。現在トップのシェアを誇るSCEでも、PS2発売後業績が悪化しており、今後も安穏としていられるわけではない。この業界で成功を収めるは、それほど難しいというのである。
岩田なら絶対に長期にわたって、任天堂がこのビジネスで王座に居続けられるだけの手腕を発揮し、そして安定的な王国を築いていけるのかどうか、それはわかりません。しかし少なくとも、いま私が考えられる最善の人選だったと思います
(任天堂経営方針説明会・2002年6月6日)
岩田聡氏を新社長に指名した理由について、「ゲームビジネスに必要なハード、ソフトの両面で先天的な理解力、才能を持っている」ことをあげた。岩田氏はプログラマ出身でゲーム開発にも精通し、HAL研究所の経営を立て直したことについても高く評価されていた。しかし、ゲームビジネスには特殊な才能が必要で、いかに岩田氏が優秀であっても絶対に王座に居続けられるとは限らないという。今後の任天堂が正しい方向に進むためにも、集団指導体制を取り、岩田氏は経営会議の議長としての役割を担っていく。
社長を指名するにあたって、40代という岩田の年齢は意識しておりませんでした。そうかと言って、私みたいな年齢ではダメですね
(任天堂経営方針説明会・2002年6月6日)
新社長の年齢を意識したかという問いに、場内に笑いが起きたというこのコメント。退任の理由に、世界を駆け回るエネルギーが無くなってしまったと打ち明けた山内社長にとって、後継者は若くて健康であることが必要条件だった。岩田氏は任天堂入社後の3年間で日米を40往復したという。
私はいま、経営体制から離れていますし、これから先も私自身が経営に口出しすることはありません。そこで辞めるにあたって、ひとつ提案をしています。かつて人々が考えたことのないような発想の転換をして、そういうハードを作っていく。そしてそれに対応するハードを作っていくべきなのです。しかもそのソフトは、いま現在作っているソフトに比べて短い時間と低いコストで作れ、これまでのものとは明確に違うという認識をユーザーに持ってもらえるようなものです。話だけを聞いてもらえると、「そんなものが作れるのか?」と言われそうですけど、そういう挑戦をし続けるのが任天堂のビジネスですし、私が言い続けてきた「任天堂のソフト化路線」というのは、実はそういうことを志向することでありました。そんなことを、私からの提案として新経営陣に残しました。そのソフトが具体的にどんなものかは言えませんが、おそらく彼らは近い将来、少なくとも私が生きているうちに、市場に送りだしてくれるだろうと期待しています
(任天堂経営方針説明会・2002年6月6日)
退任時に、新経営陣に対して残した提案とは。
ファンドキューの第一号として、スクウェアの開発部隊が別会社を作って、『ファイナルファンタジー』シリーズの新作をゲームキューブ用にGBAとリンクするタイプのものを現在開発中です。で、これがどうなるのか。単にこれはスクウェアとか任天堂にとってどうかというんじゃなくって、すごく大きな意味があると思っています。日本では『ファイナルファンタジー』というのは圧倒的にたくさんの数が売れるソフトのひとつです。前作は240万本か250万本という実績がありますが、今回はオンラインに対応されたために、せっかくの『ファイナルファンタジー』が、まあ、まさにそのう、大変なマイナスの状況に立ち至っています。ですから、単にスクウェアだけじゃなくって、日本のゲーム業界にとっても大きなマイナスであったと、考えています。(GC・GBA連動の)『ファイナルファンタジー』というのは従来の『ファイナルファンタジー』と違わねばならないのです。同じであるはずがない。ところが今までの『ファイナルファンタジー』というのは、ずっと一貫してひとつの流れを辿ってきました。そして前々作、前作と長い時間と多大なお金を掛けて、そしてCGの威力を最も発揮したソフトに仕上げていくと。それに対して、私の考えは、ゲームソフトを2年、3年かけて作る時代は去ったんで、そういうことをやっていたんでは、ゲームビジネスは栄えない。また、ゲーム会社も利益を得られなくなっていく。ゲームの完成度を高めながら、しかも期間を短縮するという、きわめて難しい問題に挑戦する。こういうことを、ゲームクリエイターは考えていかないとダメな段階に立ち至っているというのが私の考えにあります。それに対して、スクウェアの一部の有能な技術者たちは、私の考え方に同調して、「それに挑戦したい」ということでスタートを切っています。これが日本のユーザーにどう評価されるのか? もし、新しいタイプの『ファイナルファンタジー』がいままでのシリーズと同じくらいの数が売れたとするならば、短い期間で、しかもコストをこれまでのようにかけないで、それで新しい楽しさをユーザーに認めてもらえたということなんです。開発者たちはすごく注目しています。どんなゲームができるのか、それがユーザーにどう受け入れられるのか、すごくそのことに興味がありますし、その結果によって、これからの開発の参考にしたいと興味を持っています
(任天堂経営方針説明会・2002年6月6日)
山内社長の私設ファンド「ファンドキュー」の第一弾タイトル、ゲームキューブとゲームボーイアドバンス連動の「新しいタイプのファイナルファンタジー」について。「ファンドキュー」の志は、ゲームのマーケットを変え、そして有能な開発者たちが新しいゲームジャンルを作り上げていくことにある。
このGCとGBA連動の『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル』は、発表から異例の早さで画像が公開され、2003年8月8日に発売にされた。開発期間は1年半程。当初の発売予定からは延期されたが、RPGとしては短い期間で制作された。
これまで同様、楽しさと面白さを模索し続けていくだけだ。その結果優れたゲームができれば望ましい。今後、売り上げの減少があるかもしれないが、それは仕方ないのではないか。
岩田聡社長はゲームソフトの企画者出身だから任天堂の中だけでなく、他社の有能な技術者の発想も取り入れて面白いゲームを作るだろう。すぐには難しいだろうが、一年程度経てば私の社長時代からの変化が目に見えて出ると思う
(日経産業新聞2002年8月21日付)
山内氏退任で新体制に移行し、任天堂はどうなるのかという問いに対して。
メーカーはソフトを一度売って利益を得た立場にあるわけで、それを買った人が転売しようと捨てようと、個人的にはその人の自由ではないかと思う。ソフト会社はユーザーがすぐ飽きて売らないような、長く持ってもらえるソフトを作ればよい
(日経産業新聞2002年8月21日付)
中古ゲーム訴訟でメーカー側が敗訴したことに対して。任天堂は中古販売に否定的なCESAと同調しているようにみえるが、それはあくまで表向き。中古市場に規制をかける意志はない。
コンピューターグラフィックスを教える専門学校を作れればと考えている。
採算重視のビジネスではなく、若い力からいまだかつてない創造性あるゲームを生み出すことに力を注ぎたい。
無名だが優れたゲームの発掘にも興味がある。クリエーターの登竜門として文学賞のようなものを設け、表彰作品を入札にかける。それを落札したソフトメーカーが商品化して売るというのも手だろう。ゲームビジネスは今や混沌の状況にある。経営者を引退しても、業界の発展について思いを巡らせてしまう
(日経産業新聞2002年8月21日付)
引退後、ゲーム業界にどう関わっていくかという問いに対して。自身が育て上げた任天堂、ゲーム市場には、断ち切れぬ思いがあるようだ。
(マイクロソフトがパソコンOSで築いた)その勝利の信念をゲーム機ビジネスにそのまま持ち込もうというのなら、「全く勝算はないから今のうちにやめとき」と言いたい。Xboxは日本では完敗状態だ。飛躍の可能性は限りなくゼロに近い。欧米でも敗色濃厚だ。ゲーム機ビジネスというのは、パソコンOSとは根本的に違う世界なのだ。彼らにはそれが分かっていない。ゲーム機事業の赤字が今はかすり傷程度かもしれないが、次第にそうでなくなるだろう。「勝つまでやる」と言っているようだが、まるでベトナム戦争の泥沼に突っ込んでいった米国を思わせる
(『日経ビジネス』2002年11月18日号 日経BP社)
日経ビジネスのマイクロソフト特集より。パソコンOS市場でマイクロソフトが培ってきた技術力やノウハウを、山内社長は率直に認めながらも、特異な性質を持つ家庭用ゲーム機市場でマイクロソフトは通用しないと断言。しかし、マイクロソフトは、Xboxの赤字が拡大しても撤退せず、さらに資金を投入していく意向を示している。
パソコンOSという特定の分野でたまたま成功し、独占的地位を守ることに精を出してきたマイクロソフトが、安易に手を出せるような世界ではない。このことは、マイクロソフトのような質の違う会社には絶対分からない。分かったとしたら、それこそ神様だ。
これまでのマイクロソフトは“ツキ”過ぎだった。人間も企業もツキはいつか必ず落ちるもんでしょ。ゲイツも決して神様ではなかったということが、そう遠くない将来に証明されることになるだろう
(『日経ビジネス』2002年11月18日号 日経BP社)
日経ビジネスのマイクロソフト特集の中で、家庭用ゲーム機事業に参入したマイクロソフトを「ゲームが分かっていない」と痛烈に批判。資金が尽きるのが先か、それとも山内社長が言うように、ツキが尽きるのが先になるのか…。
■番外編〜関係者は山内社長をどう語ったか〜
任天堂はファミコンやってる一方では百人一首とか花札などをいまだにつくりつづけているわけですが、東京に移っていたら続けられていたかどうか…。娯楽の最先端というか、もっとも新しい部分に、それも一点豪華主義で全力をあげて取り組む一方で、地味な伝統産業を続けていられる。これは、京都にいるからだと思うんです。少なくとも、みんながそう思っている。このみんなが目移りしないでそう思っていることが大事でしてね。とくにウチみたいな娯楽屋は…。そして、みんなをそう思わせる。これしかないと思わせる能力は社長は抜群で、気がついたときには、僕ら、もうムチャクチャに突っ走らされている。その連続ですわ
上村雅之(『産業大転回のシナリオ』田原総一朗著、日刊工業新聞社1988年)
上村雅之・任天堂開発第二部部長のコメント。任天堂では他の事に目移りしないで、娯楽の最先端に取り組んでいられる。みんなをそう思わせる能力を山内社長は持っている。
あとファミコンがすっごい流行っているときに、テレビなんかで、「けしからん!」みたいな風潮があったんですよ。でね、テレビの取材で「何言ってんだ」って答えたことがあるんですよ。大人がマンガ読んでるってのに怒ってた時代もあったけど、日本の文化で海外に比べて抜きんでてるのってマンガしかないじゃない。それと同じように、対米輸出できるソフトって、ゲームしかないですよね。で、ほかの人たちがものすごく苦労しているところをゲームは楽々とすり抜けて海外で評価されてる。そういうの、なんで邪魔するんだって思ってたんで、それを発言したことがあったんですよ。それをたまたま任天堂の山内社長が見てて、「この人はええこと言うやないか!!そうなんや!!」って
糸井重里(『ファミ通64+』1999年10月号、アスキー)
コピーライターの糸井重里氏が、任天堂とゲームを開発するようになった理由を聞かれて。ファミコンが流行っている時代にテレビの取材を受けていた時代に「何言ってんだ」と、ファミコンを悪玉にとる当時の風潮を批判したことがあった。そのテレビの模様をたまたま山内社長が見ていたことが、どうもあったらしい。
社長に講演の依頼とか結構多いんだけれども、あまり行かないですね。「そんなもん行って話しても誰もわからない」という考えでいますから。見せもんにされるのもいやだし
今西紘史(『任天堂大戦略』中田宏之著 JICC出版局1990年)
みなさん運っていうけど、何もないところに運はないんです。そりゃ、うちの社長は「なぜ成功したんですか」と聞かれれば、そんなことくどくど説明していられるかって「ああ、運が良かったからや」と片付けてしまう。しかし、それはもう、彼がいう運といえば、ものすごい重みがある運です。やれることはとことんやって、戦略にしろ、いろんな経営上の手を打ち尽くす。これだけ努力したんやから、後は運任せやないかと。初めから、運とか思いつきであれやれ、あれやれっていうような、そんなことじゃものは作れないですよ。だから運とか勘とか、思いつきとか、ある意味自分を楽にするための言葉として使われるけども、山内の思いつきは、それはものすごい蓄積があっての思いつきなので、私らのとは違う。言葉は単なる思いつきであっても、重みが違ってくるんです
今西紘史(『ジーエム』1999年第5号、ソフトバンク刊)
今西紘史・前任天堂広報室長が任天堂と山内社長の“運”について解説。山内社長の“運”や“思いつき”は何もないところから出てきたわけではなく、あらゆる手を尽くしたからこそ出てくるものなのである。
うーん、なんというか……。人そのもの…。ソウルを感じますね(笑)。僕にとって、会社で働く喜びって、新入社員が入ってきたらうれしいっていうのと、社長が喜んでくれたらうれしい、という2点に集約されてるんですよ。商品を作ってそれを社長が喜んでくれたら、素直にうれしかったですね。『ポケットカメラ』のときもそうでしたし。
田中宏和(『64ドリーム』2001年4月号、毎日コミュニケーションズ)
元任天堂で『テトリス』『ドクターマリオ』『MOTHER』などの作曲を手がけ、現在はクリーチャーズ代表取締役社長を務める田中宏和氏が、山内社長から受けた影響について聞かれて。「社長の喜ぶ顔が見たい」というのは、任天堂の開発部員の中でよく聞かれる言葉。
まあ、マリオやゼルダをつくるようにとは言われるけれど、それ以外は、よそがやっていないものをやれ、と言われるだけですから。
でも、あるところまで行って、「こういうものをつくってるんですよ」と言ったときに「それは……アカン!」って言われることも、あるんですよ。たまには。
ほぼ日刊イトイ新聞より、宮本茂・任天堂専務取締役情報開発本部長のコメント。山内社長に「それは……アカン」と言われても制作をやめたゲームはなかったが、他の人にはあったようだ。
尊敬する山内の後を継ぐ責任を重く受け止めるとともに、やりがいのある仕事を楽しみにしている
岩田聡(社長就任記者会見2002年5月30日)
ようやく渡されたバトン。この社長就任劇は10年前に始まっていたのかもしれない。
1992年5月、HAL研究所は多額の負債を抱え、東京地裁に和議申請した。まもなく、任天堂はHAL研の再建を全面的に支援することを表明する。ファミコン黎明期から任天堂とHAL研は共同でソフト開発を行っていたこともあり、山内社長は「開発部隊に優秀な人材が揃っていて、面白いソフトを作り上げる能力に長けている」とHAL研を高く評価していた。そして誰よりも評価されていたのは岩田氏だった。任天堂がHAL研を支援する条件は岩田氏がHAL研の社長に就任することだったといわれている。その期待に応え、HAL研の社長となった岩田氏は見事に経営再建を成し遂げる。その報告を聞いた山内社長は、後を任せられるのはこいつしかおらん、と確信したのではないか。いわば、HAL研の経営再建は岩田氏の手腕を見極めるための試練、来るべき本番のための試運転。2000年には岩田氏を任天堂の役員に招き入れ段階を踏み、2002年初頭に自らの意思を伝えた。娘婿の荒川氏を蹴ってまで選んだ後継者を、山内社長は「ハード、ソフトを共に理解する特殊な才能を持っている」と評している。
■『山内語録』について
- あとがき
- 『山内語録』は、山内社長の退任を惜しみ、52年の在任期間を名言で振り返ろうということで制作しました。各項目とも、山内社長のコメント、出典、解説文の順で掲載しています。1984年以降の資料しか提示できませんでしたが、52年間の一部ではあるにしても、山内社長を振り返るに値するものになったと自負しております。また、このページでは、本来ならば『山内相談役』とでも記すところを、感謝の意を込めて全て『山内社長』と表記、呼称させていただきました。『山内語録』を読んでいただいて、何かしら心に残るものがあれば嬉しく思います。
- 参考文献・図書
- 『山内語録』は以下の資料を参考にして制作いたしました。
■図書
『任天堂商法の秘密――いかにして“子ども心”を掴んだか』高橋健ニ著 祥伝社、1986年
『産業大転回のシナリオ』田原総一朗著 日刊工業新聞社、1988年
『日本企業復活の条件』中谷巌著 東洋経済新報社、1993年
『会社の年齢』日経産業新聞編 日本経済新聞社1993年
『新・電子立国第4巻〜ビデオゲーム巨富の攻防』NHK出版1997年
『日本のビッグビジネス21任天堂・セガ』逸見啓・大西勝明共著 大槻書店1997年
『京阪バレー―日本を変革する新・優良企業たち』日本経済新聞社編 日本経済新聞社1999年
■新聞
日本経済新聞
日経産業新聞
日刊工業新聞
読売新聞
産経新聞
京都新聞
■雑誌
『週刊ダイヤモンド』1993年1月30日号 ダイヤモンド社
『財界』2001年2月27日号 財界研究所
『サンデー毎日』2001年2月11日号 毎日新聞社
『日経ビジネス』2002年11月18日号 日経BP社
『ジーエム』1999年第5号 ソフトバンク
『ファミ通64+』1999年10月号他各号 アスキー・エンターブレイン
『64ドリーム』『Nintendoドリーム』2001年4月号、2002年8月号他各号 毎日コミュニケーションズ
『電撃NINTENDO64』各号、メディアワークス
■Web
ブルームバーグ(http://www.bloomberg.com/jp/jphome.html)
ほぼ日刊イトイ新聞(http://www.1101.com/)
MY COM PCWEB(http://pcweb.mycom.co.jp/)
ZDNet JAPAN(http://www.zdnet.co.jp/)
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- 更新履歴
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2002/08/12 初稿
2002/08/13 微修正・追加
2002/08/16 完成
2002/08/17 誤字脱字修正
2002/08/23 追加
2002/08/26 微修正
2002/11/02 書式変更
2002/12/07 微修正・追加
2003/01/10 微修正・追加
2003/05/11 追加
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