勇気ある発言 5/19/09
山岸さんのブログが、私の周囲でも話題になっています。
A君タイプの保護者は、ニキさんご本人が講演されていることもそうですが、有名どころの先生方が皆さん、講演会などで、ニキさんの話を自閉症の代表者としてお話されるので、それらを根拠に「偽者だなんてありえない!」という意見が多いです。
B君タイプのお子さんの保護者は、「そう?うちの子はニキさんに似てるよ。本人も愛読してるし。」とか「他の当事者の○○さんのほうがうちの子には似ている。」とか「前からうちの子とは違うな〜って思ってたんだ。もしかしてうちの子ってアスペじゃないのかな〜って悩んだくらい。」などと結構意見がバラけています。
A君タイプのお子さんの保護者、B君タイプのお子さんの保護者、それぞれに反応は違いますね。
両者の間には「話せていいわね。」⇔「話せても大変なのよ」、「福祉が充実していていいわね。」⇔「福祉がなくても自立できるじゃない」などといった溝があって、普段は別々に集まるのですが、両方に属する私は、両者の考え方の違いが興味深かったりします。
もちろん、ニキさんが本物かどうかというのは、気にならないと言えば嘘になります。
けれども、それよりも気になるのは、周囲の彼女の持ち上げ方です。
なぜ、数多くいらっしゃる当事者の中で、彼女だけがあれほどクローズアップされたのでしょうか?
また、あのように持ち上げられて、彼女が周囲に誘導されたり、周囲の期待に応えるように受け答えをしたりして、本人の意図せぬところで、違った自己理解をしてしまったということは考えられないのでしょうか。
B君なんかはよく、相手に合わせて(あるいは誘導されて)深く考えもせずに受け答えをしては、そのセリフのせいで墓穴を掘りますから、同じようなことになっていたとしたら、彼女も被害者になりますね。
彼女には防げなくても、自らをモニターしにくい特徴を持っている可能性を知っている関係者なら、防げたはずですから。もしかしたら、周囲がこんなに彼女ばかりを当事者として利用しなければ、山岸さんが彼女への疑問を抱くこともなく、あるいは、早めに関係者が山岸さんの質問に真摯に答えていれば(健康保険証で診察した医師なら、「僕(私)が診断しました」と宣言されればいいだけですよね)、彼女は今、このように疑われるようなことはなかったのかもしれないと思うと、誹謗中傷だとか告訴だとか脅かされている山岸さんにしろ、ニキさんにしろ、いい迷惑だな〜と思ったりしています。
確か、山岸さんは横浜の有名なクリニックで診断されたとブログで読んだような気がするのですが(違っていたらすみません)、いきなり裁判だどうだということではなく、横浜のクリニックの先生方や、ニキさんとかかわりのある有名な先生方が本人達に代わって話し合われてはどうかと思うのですけどね。私は、積極的に理解と支援を啓発されている先生方が、なぜ、関係ある当事者に対して知らんふりされているのかがわからないでいます。
また、彼女が本物だとして、何冊も出しておられる売れに売れた本の内容が、読者のそばにいる自閉症の人に役立ったのかどうかということも気になります。
この騒動で、ニキさんの本は、B君の診断前に購入して読んだことを思い出し、最近、彼女の本を読み直してみたのですが、B君には、彼女についての記述はあてはまらないことが多かったです。
「自閉っ子、こういう風にできてます!」は、感覚に過敏や鈍感なのは、B君も同じだけれど、エピソードは全く違っていました。「俺ルール」は、エピソードは似てるんです。でも、その後の解説とか学習の仕方が、B君とは違うんですよね。
自閉症は千差万別で、個々に違うのは当たり前のことなのに、B君から自閉症というものが見えてくるまで、ニキさんとB君の違いのようなものには、気づけていなかったんです。不思議ですね。
B君がアスペルガー症候群と診断される前、しゃべらないA君の障害特性が全く理解できず、それでも「少しでも社会に適応できるように」と、なんとかスキルを身につけさせたくて、アプローチの仕方を模索し、こちらの主観で想像するしかなかった頃、ニキさんの本は、救世主という感じでした。学校の先生にも見せ、皆で「なるほど、こういうメカニズムだったのか」と喜んだものでした。
当時の私は、ティーチにもはまっていて、勉強会でカードやスケジュール、自立課題などを作成しまくっていました。そして、周囲が驚くほどにA君は学校や家庭で適応していきました。私は有頂天でした。
そのあとしばらくして、B君がADHDではなくアスペルガー症候群であったことが判明し、混乱しました。私が理解していた自閉症というものと、B君のそれは、大きく違っていたからです。
そうこうしているうちに、A君が大爆発してしまったんですよね。
ですから、私や周囲の人間がそうだったように、保護者や教師が、ニキさんの本やティーチ関連の本を妄信的に信じて、そばにいる当事者を無視して、安易にあてはめることに危険を感じています。
「ニキさんの本は、自閉症のバイブルだ。」「このティーチの本はいいよ。」などと話題になったのは事実ですし、「お子さんとは違うかもしれないけど」「お子さんには合わないかもしれないけど」と警告することなく、これらの本を薦めた保護者や医療・療育・学校関係者は多かったですから・・・。
例え警告したとしても、保護者が社交辞令的に受け止めたり、その違いがどういうものかわかっていなければ、警告していないと同じなんですよね。
親は必死ですから、そのような情報があれば、躊躇無くとびついてしまうんです。
また、飛びつかないことが「こどもを大切に思っていない」というプレッシャーになって、仕方なく実践するという方もおられました。
私の場合は、乗り気になって頑張っていましたが。当時を思い出すだけで後悔の思いがこみ上げてきます。
A君タイプの子を持つ親は、こどものことがわからないから、わからないままに、一般的に良いとされることをしようとして、結局はこどもを追い詰めるという失敗をしがちです。
本当はわが子をよく観察して、何かしら芽生えたところを育てるときに、支援を用意してあげればいいのですが、実際は、観察の仕方(視点)がなかなかわからない、芽生えなんて見落としてしまう、時間ばかりが無駄に経過しているようで焦ってしまうなどなど、簡単なことではありません。
この観察も、「うちの子はこうだ」と思う根拠が本や講演会からということが多く、保護者はわが子を観察しているつもりでも、実は色眼鏡を通してみているということに気づけていないことが多いです。
私もそうでした。だから、こどもを観察するところを、本や講演などに頼り、「自閉症だから」という色眼鏡をかけた状態から支援がスタートしてしまい、そこから先を必死で頑張ってきました。例えば「自閉症だから、見せたらいい」と視覚的なものを提示し、「見せても意図がずれる」ということに気づけていませんでした。
ちょうど、私と同じように頑張った数人の保護者は皆、後悔を口にしています。
あるお母さんなんかは、積極的に学校関係者へお話をしにいっています。
彼女のお子さんは、A君よりもお話ができて、一人で買い物に行ったり、バスに乗れるほどのスキルを身につけました。その様子は、無理強いしているという感じではなく、写真の手順表を用意したり、ごほうびを用意したりして、本人も納得して取り組んでいたように見えていました。学校でも先生に「今日も嫌がらずに頑張っていました。」と褒められていました。
ところが、中学生になって大爆発をしました。「バスの練習したくなかった〜!」「学校、嫌だった〜!」と言い続けながら、家中の家具を壊し、破壊行為が止まらなくなったそうです。小学校時代の大人しい彼からは想像できないような変貌ぶりです。今は、フラッシュバックするたびに大暴れして、学校にも行けていません。「学校・・」と聞くだけで暴れるからです。彼は今、精神科にかかっています。「まさか、うちの子がこんな風になるなんて思わなかった。」と、後悔されています。
そろそろ、幼児期に早期療育が流行り始めた、A君の年代の子達を追跡調査してみてはどうかと思ったりします。
他の障害のお子さんや他の地域はよくわかりませんが、私の住んでいる地域の自閉症の子たちは、結構2次障害がひどいような気がします。早くから診断され、療育機関に関わっていたにもかかわらず・・。
あるお母さんは、「私、あの当時は皆についていけなくて落ち込んだけど、今はよかったって思う。」とおっしゃいました。耳が痛かったですね。
なんだか、早期療育って、いつ爆発するかわからない時限爆弾を仕込んでいるような気がします。
周囲から「これは正しい」と言われて頑張ってきたものの、その根拠のなさに気づいた瞬間に・・・、あるいは頑張ったけれど我慢の限界にきて、突然爆発するって感じでしょうか・・・。
周囲の無理解からくる爆発って、未診断だけでなく、診断後の療育にもあてはまるんだな〜と、改めて思います。
だから、何かをする前に、「はたしてこれは、本当に根拠のあるのものだろうか。」「わが子に負担をかけないだろうか。」とじっくり考えるといいのではないかと思います。
根拠については、おそらくほとんどのことが、説明できないことだったりするのではないかと思います。
「社会に適応できるために」なんて、ダントツ1位ではないでしょうか・・・。(^_^;)
反面教師がここにいます。同じような失敗をせずにすむお母さんが増えるとうれしいです。
自分では、なかなか気づけないのです。誰かが指摘してくれても、なかなか認められないのです。
とてもつらい葛藤が起こるでしょう。
そして、その葛藤から開放されて、自分の失敗に気づいた後は、より大きな後悔と懺悔の気持ちが待っています。
時には爆発に加担した人への恨みごとも言いたくなります。
それでも、立ち上がって生きていくしかないのです。
覚悟・・・できていますか?
|